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「か」


2008年鑑賞作品

崖の上のポニョ
2008年 101分 日本 カラー
監督:宮崎駿 脚本:宮崎駿
撮影:音楽:久石譲
声の出演:山口智子 長嶋一茂 天海祐希 所ジョージ 奈良柚莉愛 土井洋輝 柊瑠美 矢野顕子 吉行和子 奈良岡朋子


2008/8/24/日 劇場(日比谷スカラ座)
宮崎監督自体はいつものように、世界や社会への提言のような、割と説教くさいことを考えていたみたいだけど……というのはオフィシャルサイトを見て知ったことだけど、それが意外に思えるぐらい、観た時にはまた思い切ってシンプルな世界に打って出たなあと驚いたぐらいだった。
むしろゴネゴネとそうした“裏事情”を披露せずとも、と思ったぐらい。そう、キャラの設定とか、すんごい細かく作ってあるんだよね、ポニョの父親のフジモトに関しては特に。驚いちゃった、全然そこまで判んないもん。
確かにそれらは興味深い裏話ではあるんだけど、この主題歌一発で泣かされたオトナとしては、そういうことはあまり興味がなかったのだ。

ああでも、それこそ子供たちはどうなのだろう?ネットニュースで子供たちの反応が思ったよりも良くないと、宮ア監督が落ち込んだとかいう記事を読んだけれど。
まあ、真偽の程は定かではないけれど、シンプルなだけに、山盛りなエンタメに慣れきった今の子供たちには逆に通じにくいものがあったのかもしれないと思う。
確かに今までの宮アアニメは、子供たちにも人気とはいえ、複雑で深遠な世界観は完全に大人向けのものだった。
でも案外それは、今の賢い子供たちの方にこそ、受け入れられていたのかもしれないとさえ思う。そして、それこそ“主題歌一発”で泣かされてしまうような大人たちこそ、こういうシンプルで純粋な物語に飢えていたのかもしれないと思うのだ。

そう、映画の内容は必要以上にシークレットにされていた中で、主題歌がまず世間を席巻していた今回の宣伝展開は、ちょっとあざといような気もしたけれどアッサリ引っかかってしまった。
年端のいかない少女の、まだメロディを上手くコントロール出来ていない歌声の愛しさにワレワレ大人たちはうっと涙を込み上げさせてしまうのだ。この感覚は一体、何なんだろう?
なんかふと、今回の北京オリンピックで口パク騒動が起こった二人の少女たちなぞが頭に浮かんでしまった。容姿が完璧な少女と、歌声が完璧な少女。その事実が発覚して一気に白けたのとまさに180度のところにあるのだ。
容姿も普通で歌も決して上手いとは言えないこの少女の主題歌に、だからこそ胸をつまらせてしまうのだと。それは、まだ完成されないところにいる少女こそが天使であるということなのだと。そしてこれから少女は恋を知り、オトナになっていくのだと。それこそ、ポニョ、なのだよね。

宮崎監督は普通の少女、にこだわっているように思える。「千と千尋の神隠し」からの流れで。
「千と……」は9歳の女の子、それはもう物事の複雑さを理解していける年頃だった。だからこそあんな深遠な世界を担わせることが出来た。
でも今回の主人公、ポニョはもっと遡る。5歳である。それはもっと単純、純粋。好きという一念、好きな人と一緒にいたい一念だけで動く。それはお母さんを慕う気持ちも同じ。
でもそう考えると、こんな大恋愛な気持ちはないのだ。

思えば5歳の子に、恋や愛を背負わせることはムリがあるのかもしれないとは思うけど、そういう風に考えるとバシッとつながるのかもしれない。
ポニョは宗介に会って、彼のことが好きになって、何が何でも一緒にいたいと思う。それだけ聞くとまさに恋の気持ちなんだけど、言葉もつたないようなポニョが全速力で宗介の元に駆けていく姿をみていると、ああなんか、大好きなお母さんに突進している感じだなあ、と思うのだ。
そういやあ、ポニョにはお父さんはいるけど、お母さんは最後の最後にならないと出てこない。しかもそのお母さんは月夜に現われる女神みたいな存在で、およそ現実離れしていて、いわゆる“お母さん”のイメージとはかけ離れている。

ポニョはサカナの子。しかもお父さんは元は人間だったというのだから、サカナと人間のハーフだと言えるのか。
しかし月の女神のような登場をするお母さんがサカナかというとどうしてもそうは思えず、そのあたりはちょっと不思議なのだけれど。
まあだから、ポニョがそういう、本能的な愛情への飢えを宗介に出会ったことで開花させたことは納得が出来る。
人間になりたいと願うポニョは、お父さんの魔法を失敬しつつ、自在に変化を繰り返す。鳥のような手足を生やし、それが人間の形状になり、荒れ狂う波の上を走って宗介に会いに行く。そして魔法が切れると、また元のサイズにみるみる戻っていく。
その自在な変化、気まぐれにとでも言いたいぐらいに変化していく少女は、そう、まさに少女で、恋を知って大人になっていく女性への変化も思わせるのだ。

最初はこのお父さん=フジモトというのが一体何者なのか、海の中の極悪人ぐらいにしか見えなかった。だって目の下にクマを作ったような顔からして恐ろしげだし、ざんばらの長髪にハデなスーツ姿も、悪徳人にしか見えないんだもん。
彼がなにやら意味ありげに作っている液体も、なんぞ悪いことを考えているようにしか見えなかった。でも彼はこの世界の崩壊の危機を憂いていて、それを何とか食い止めるために手立てを必死に考えていたのだ。
そんな具合にお父さんが長年かけて貯め続けていた魔法を、ポニョは宗介に会いに行くために失敬してしまうのだ。

ポニョにとっては、お父さんは自分を閉じ込めていた存在にしか見えなかったらしい。それは宗介や彼の母親のリサにそう語っていることから判る。
そしてこの時点では観客も、あの悪人はお父さんなのか!と驚くぐらいで、ポニョの言い様を信じてしまうんだけど……恐らくお父さんは汚い世界から大事な娘たちを守ろうとしていたんだよね。まさに箱入り娘さながら、水の球の中で大事に育てていたんだもの。
しかし彼女は、どうしても外の世界が見たかった。そしてそこで宗介という男の子に会ってしまった。彼は「ぼくが守ってあげるね」と言ってくれた。しかもポニョという名前までくれた。

一度は連れ戻されるポニョだけど、「宗介のとこに行く!」という一念で、無数の妹たちの力を借りて、大脱出を図るんである。
そうなの、このワラワラいる超キュートな稚魚たちは、“妹たち”なんだよね!つまりはただのひとりも弟はいないってことよ。妹たち。本当に女の子へのこだわりを感じる。
矢野顕子が何の声をやっているのかと思ったら、この妹たちの声だというのにも、ビックリしつつも大納得。優しいハーモニーのような声は確かにアッコちゃん!

ポニョにはちゃんと元の名前があったのだ。お父さんからはブリュンヒルデ姫と呼ばれている。そのお伽噺のような名前は、ワルキューレの物語からとったものだという。まあその辺のフクザツな哲学は監督の頭の中に任せておくとしても。
ポニョにとっては、お父さんが最後まで悪人で、だからお父さんからブリュンヒルデ姫と呼ばれても、宗介からもらったポニョという名前を主張し続けるのが、何となくお父さん、カワイソウかもと思わなくもない。
あの悪人のようなイメージは、ポニョ自身のそれからきているんだろうとも思うし。最終的にはポニョはお母さんにしか、ありがとうと言わないし。
でもそれは、まさに女の子がお父さんに抱える気持ちそのものなのかもしれないと思う。まあ5歳の女の子には早すぎる感情かもしれないけど、それこそ外の汚れた世界に娘を出すことをためらって閉じ込め続けたお父さん、という造形は、娘を嫁に出したくない父親そのものなんだもの。

ポニョは宗介に名付けてもらって、初めてその存在を得たのだ。
思えばね、名前を呼ぶっていうのが、この物語の中で最も印象的に響くんである。その一番は、とにかく宗介の名前を呼び続けて突進するポニョにある。
宗介が両親のことをリサ、耕一と名前で呼んでいるのも印象的なのね。それは両親がいまだ恋人同士のようにお互いを名前で呼び合っていることが、子供にもその習慣がついたというところなんだろうけれど、でもやっぱり名前の重さ、というものを感じるのだ。
名前、名前を呼ぶこと。好きな人の、大事な人の名前を呼ぶこと。それは一番の愛情表現かもしれないと思うのだもの。

耕一は、貨物船の船長をしてる。今日は帰れなくなったと連絡を受けて、はりきってご馳走を作っていたリサはぶんむくれてしまう。子供の宗介の方が聞き分けがよくて、外に食べにいこうと言う母親をいさめて、ウチで食べたいと言う。それは、父親からのライトでの通信がくるから。
崖の上にある宗介の家からのライトは、海に浮かぶ貨物船からもよく見えるのだ。
船長の帽子を誇らしげにかぶって耕一にメッセージを送る宗介の姿は、父親への尊敬を示してあまりある。そして主のいないこの家を守っているという自覚も。それは父親を嫌い、宗介のために海の世界を捨てたポニョとは実に対照的なことにも思い当たる。
……そう考えると何となく、古い家父長的な趣も感じてしまうんだよなあ。

ポニョが宗介と出会った海岸は、彼女の育った美しい海中とは全く違う、ゴミにまみれた泥だらけの海だった。
その描写には、なんか宮崎監督らしいちょっとした説教臭さを感じなくもなかったけど、でも確かにそれが、人間の犯した罪なのだ。
しかしポニョは、そうしたことには全然頓着しない。ゴミと共に掃きよせられ、ジャムの空き瓶に詰まった状態で宗介に拾い上げられるのに、海をそんな状態にした人間への悪意よりも、助けてくれた宗介という一人に対する愛情で胸を膨らませるのだ。
なんだか矛盾しているようであって、それこそが女の子の、女の強さなのかもしれないとも思う。
一方で、なんかヒヨコの刷り込みみたいだなとも。でも恋の原動力なんて、そんなものかもしれない。

宗介の通っている保育園の隣には、お年寄りたちが生活するデイケアセンターがあって、リサはそこで働いている。
崖の上の家から海にせり出してクネクネと曲がった山道を小さな車でぶっ飛ばすリサは、実に頼もしいお母さん。しかし一方で帰ってこない夫にスネて「バカバカバカ」とライトを打つところは女の可愛さ。
そしてそんな母親をなだめる術さえもう知っている宗介は、まっすぐな心の持ち主で、デイケアセンターのおばあちゃんたちにも人気者なんである。
そこのヘンクツなおばあちゃんが、宗介が連れてきたポニョを見て、「人面魚じゃないか、嵐がくるよ!」と怯えるんである。
ということは、以前もポニョのような女の子が?……いやそれは、それこそポニョのお父さんとお母さんの恋物語だったのかもしれない。

人魚姫伝説が元になっていると即座に知れるこの物語に、そういやあ、ついこの間の「ゲゲゲの鬼太郎 千年呪い歌」の濡れ女の物語もそうだったよなあと思う。人魚姫の哀しい物語に、幸せな結末を見つけたいと思うのは、誰しもが同じということか。
しかも本作の場合は、ハッキリとこんな台詞も用意されている。大事な娘が泡となって消えてしまうことを心配するお父さんに、お母さんは嫣然と微笑んで、「あら、私たちは泡から生まれたのよ」と。

ポニョが再び宗介に会いに、少女の姿を得て現われた時、土砂降りの雨で、激しい波は生き物のようにうねり、小さな町を襲っていた。
波の上を走ってきた女の子、それが宗介が拾ったサカナが姿を変えたと聞いたリサは疑いもせず、「不思議なことも起こる」と、受け止め、小さなお客様を崖の上の家に招待する。
ハチミツを落としたお茶、大好物のハムが乗ったラーメン、初めての味覚に瞳を輝かせるポニョ。

しかしポニョがハムの味を知ったことを知ったお父さんが、「どこでそんなものを覚えた!」と怒った場面があったんだよね。人間が作り出した食の加工品に、悪しき文明の象徴を担わせていたのか。“自然”であることが失われていくひとつのキーワードだったのか。
月がどんどん大きくなる。土砂降りの雨は止まらない。デイケアセンターのお年寄りたちを心配したリサは、様子を見に行くことを決意する。
僕もついていく、ポニョも連れて行けばいいんだもん!と不安で涙ぐむ宗介に、崖の上の家の明かりが船の目印になるんだからと言い含め、ここを守ってくれとリサは諭す。涙をためてケナゲに頷く宗介を、ぎゅっと抱き締める。
既にお腹いっぱいになって眠ってしまったポニョとともに、宗介も眠りに落ちてしまった。そして目覚めた朝、崖の上の家すれすれまで水がきていた。ポニョが魔法で大きくしたオモチャの船に乗って、リサを捜索に向かうんである。

ここらあたりから、最初から漂っていたファンタジーの趣がぐんと濃くなってゆく。
すっかり水に沈んだ街が、船の下に透明に現われている。古代魚が山道をゆうゆうと泳いでいる。まるで夢のような眺め。
赤ちゃんを連れた若い夫婦が、のどかにボートに乗っているところに遭遇する場面なんかは、まさに幻のようだ。
日傘をさしてボートに揺られているその夫婦の佇まいは、とても現代のそれとは思えないのだ。……なんとなく、ここに宮崎監督は亡き母の姿を写している気がする。そしてその腕に抱かれているのは、きっと自分なのだ。
お母さんの食べ物がおっぱいになるのよ、とその婦人はポニョに教えてくれる。目を見開いて聞いているポニョ。
持参したサンドイッチを「おっぱいのために」全部あげちゃって、赤ちゃんにキスして、ポニョたちは去っていく。
女の子は、いつかお母さんになるのだ。

リサの車を発見するも、その中に彼女はいない。一気に涙が込み上げる宗介だけど、必死に抑える。一方ポニョの魔法は解けかけている。船もオモチャのサイズに戻ってしまったし、眠くてしょうがないポニョは、ついにみるみる元のサイズに戻ってしまった。
ポニョのお父さんの導きに一度は抵抗しながらも、水の中の世界へ入っていく宗介たち。
そこにはおばあちゃんたち、そしてリサもいて、ポニョのお母さんもいた。
おばあちゃんたちは一様に心配してて、大丈夫よ、宗ちゃんはしっかりしてるもの、とリサを励ましたりしていて、ということは、彼女たちの運命は宗介がここに辿り着くことにかかっていたのだろうか。

そして宗介は、彼への思いで人間になりたいポニョを引き受ける。「ぼくが守ってあげる」と彼はずっとポニョに言っていた。宗介スキ、と言うポニョに、僕も好きだよ、と。
水の球に閉じ込められたポニョにキスしたら、彼女は人間になる、と寂しそうなお父さんから託されて、宗介たちは水の中から脱出する。
宗介がキスするんじゃなくて、跳ねた水球のポニョが自分から宗介にキスをした。

クレヨン画のようなのどかな背景に、CGでは出せない手描きの迫力が踊る。その色彩は単純と思えるほど懐かしい原色が跳ねて、こんな思い切った色使いは今時なかなか出来ないと思う。そのシンプルさこそが、大いなる勇気で作られたことを物語る。
隠されたメッセージをあえて押し込めて、少女の純粋な気持ちだけを抽出したのが、良かったと思う。
その気持ちはあまりにまっすぐすぎて、まぶしすぎたけれど。★★★☆☆


かけひきは、恋のはじまり/LEATHERHEADS
2008年 113分 アメリカ カラー
監督:ジョージ・クルーニー 脚本:ダンカン・ブラントリー/リック・ライリー
撮影:ニュートン・トーマス・サイジェル 音楽:ランディ・ニューマン
出演:ジョージ・クルーニー/レネー・ゼルウィガー/ジョン・クラシンスキー/ジョナサン・プライス/スティーヴン・ルート/ウェイン・デュヴァル/キース・ロネカー/マルコム・グッドウィン/マット・ブシェル/トミー・ヒンクリー

2008/12/2/火 劇場(みゆき座)
予告編での、ロマコメのクラシック映画を思わせるような雰囲気に惹かれたんだけど、よもやフットボールのルールに対する無知に苦しめられるとは思わなんだ。
いやあ、確かに予告編で醸し出した雰囲気はそのものだったし、そんな雰囲気に監督兼主演のジョージ・クルーニーも、幾つになっても愛くるしいレニー・ゼルウィガーもドンピシャで、それに関しては裏切られることはなかったんだけど、新聞記者の方こそがメインの話だとばかり思ってたからさあ。
それだとホントに、往年のロマコメ映画にありそうじゃない。鼻っ柱の強い女性記者が、お色気も武器に使いながらゴシップをモノにしてのし上がっていく、みたいなさ。

ま、そのー、それは確かに当たってはいたんだけど、その彼女が追う相手、フットボールのスター選手の、更にそのスター選手を自分のチームに駆り立てるジョージ・クルーニーこそが主役であり、彼のフットボールへの愛こそが、物語のメインだったわけで、もうそうなるとぜえんぜん、私の思ってた方向とベクトルが違うんだわなあ。
つまりそのー、言ってしまえばそのー、これって……男の子映画よね、みたいな。いやあ、レニー・ゼルウィガーだしさ、この役にピッタリだしさ、女性メインとまでは言わないまでも、男と女が対等に渡り合う話だとばかり、思ってたのだ。

なのに、それどころか……メッチャ男の世界の話だった(爆)。
確かにレニーはキュートでカッコイイけど、でも結局はマッチョな話に花を添えるボンドガール的な位置付けでしかなかったのだ。
それに気付かされるのもかなり早々だったので、なんかシートに座り続けているのも辛かったぐらい。
この邦題はさ、ズルいよね。そういう誤解をさせるんだもん。まあ無論……だからこそなんだろうけどさ。

もう、最初っから判っちゃうのだ。だってまず、土ぼこりだらけの中でフットボールの試合をしている場面から入るんだもん。
ようやくプロリーグが軌道に乗り始めた頃。とはいっても中年選手のドッジ・コネリー(ジョージ・クルーニー)のチームは、洗濯ノリのスポンサーが一社ついているだけというショボい状態で観客もゼロに等しく、対戦チームも極貧ゆえ、試合を前に次々に潰れていくという有り様。
ついにドッジの属するダルース・ブルドッグスも、そのたった一社のスポンサーが降りてしまい、解散してしまう。
せっかくガタイばかりが大きい、インパクトのある高校生プレイヤー、ビッグ・ガスをチームに入れたばかりだったのに、カワイそうにその巨体の天然クンも、呆然と駅に置き去りにされてしまうのだ。

結局はこの年までフットボールしかやってこなかったドッジは、就職もままならない。36だとウソをついても、「45ってとこね」と即座に見抜かれてしまう。
そんな中、彼はカレッジリーグの花形選手、カーターの存在を知った。大学生ながら、広告にまでバンバン起用されているドル箱スター。ビンボーしか知らなかったフットボール選手のドッジにとって、初めてフットボールで稼ぐ男というのを目の当たりにしたのだ。
そこで彼はピンとくるんである。カーターを口説き落として自分のチームにプロとして迎え入れれば、大好きなフットボールを続けられると。

もともとドッジはプレイヤーとしてよりも、そういう口八丁手八丁なプロデューサー的役割の方が似合っていたのかもしれない。カーターのマネジメントをしているC.C.フレイジャーとも、以前にそうしたカラミで顔を合わせていたらしいし。
緻密で具体的な条件を提示してくるドッジに、当のカーターよりも百戦錬磨のカネのプロであるそのフレイジャーこそが反応してくる。かくしてドッジのもくろみは大当たりし、プロになったカーターはアマ時代以上の注目を集めて、集客率もバツグン、解散したメンバーたちも喜び勇んで駆けつけ、黄金時代がスタートしたのだった。

しかし、カーターには秘密があった。彼の人気を押し上げていた要素の一つである、戦争での武勇伝、ドイツ軍の小隊を一人で降伏させたという勇ましいレジェンドに、どうやらなにがしかのカラクリがあったらしいというのね。
そのスキャンダルを売り込みに、同じ隊にいた少尉がレクシー(レニー・ゼルウィガー)が勤めるトリビューン社を訪れていた。
局長はレクシーにこのネタをモノにするように命じる。局長は彼女が実力がある記者だからだと言うけれども、女の武器を使えと暗に示しているのは明らか。
レクシーはそれを重々承知した上で、この話を飲む。副部長昇進、いやその上の部長昇進を狙って。

都会の香りのする大人の女に、純朴な青年カーターは予想以上に簡単に落ちてしまった。そしてレクシーもその純粋さにクラリときてしまって、本来の目的を忘れてしまいそうになるぐらいだった。
しかしそこに、こちらもレクシーにひと目でホレてしまったドッジが絡んでくる。彼はレクシーがカーターにインタビューを理由に接触したその場で、カーターを引き抜く目的で居合わせたのだ。そこで、勇ましい言葉をポンポン投げてくる彼女に、すっかりラブしてしまったんであった。

レクシーの目的を見抜きながらも、彼女にホレちゃってるし、自分の目的も彼女の目的(カーター)と絡んでいるもんだから、話はややこしくなってくる。
更に言うと、彼ら二人の目的にされているカーターは、そんな泥臭い思惑とは無縁の、ただただフットボールを愛し、歪曲された武勇伝に後ろめたい気持ちを持っている青年だっていうんだから、なかなかに事態はフクザツなんである。

と、こんな風に書いてみると、三角関係だし、ロマコメの要素が強そうに思えるんだけど……あにはからんや、そうはいかないんである。
だってこれ、時代が戦争中なんだもん。で、物語の中にもふんだんに戦争の匂いが撒き散らされる。若きスター選手として物語のキーマン的な役割のカーターは、誤解された武勇伝により戦争におけるヒーローに祭り上げられている、なんて設定まで出てくる訳でしょ。

しかも、その戦争ってのが、“敗戦国”の日本とは違って、やっぱり、肯定的なんだよね。戦争に従事することは名誉であり、そこで国のために貢献する動きが出来たなら、更に上々。それは、あからさまに言えば、敵を何人殺せたかってことよ。
まあ、さすがに現代の世でそれを描写するのはキツいと思ったのか、カーターの誤解された“武勇伝”は、敵を何人か降伏させたことにだけ留まっているけれど、つまりはそういうことなんだよね。
その根本的な価値観の違いにまず……やっぱりどこか、ついていけないものを感じざるを得ない。だって、戦争を背景にしながらポップなロマコメなんて、日本だったら考えられないもん。

戦友は人生でかけがえのない同志であり、彼らの立場を守るためにカーターは口をつぐまざるを得ず、その武勇伝はどんどん大きくなっていくというのが、展開を引っかき回す最大の要素になるんである。
で、レクシーはその真実を暴くためのキャラなんだけど……これってさ、もうその設定から、結局は男としての矜持、そして男同志の友情を理解せざるを得ないドッジとカーターが、カッコ良く描かれるトコをクライマックスに持ってくるっての、判り過ぎるじゃない。
で、その場合、どんなにレクシーがその立ち位置に悩んだって、結局は男同士の美しき友情を際立たせる役割しか持てないんだよね。
そう、女は友情には入り込めない。この邦題は誤解を招くというよりは、それを皮肉っているようにさえ思えちゃう。華のあるヒロインは、恋でしか男の間に割って入れないのよ。

それに、どこの時点でレクシーがドッジに恋に落ちたのかも、男二人の彼女への思いが単純に過ぎるぐらいその瞬間が見えてしまう分、かなりの物足りなさを覚えてしまう。
てゆーか、男二人、ひと目惚れしすぎだろっつーの。そこんところはレクシーは百戦錬磨の女だから、そんな単純にカワイイ男の子やらシブイ男やらにひと目で恋に落ちたりはしないけど、まあそれでもカワイイ男の子のまっすぐな瞳には案外簡単に落ちちゃったし(判る気はするけど(爆))。
ただ、そこからドッジに思いを移す経過が、ねえ、弱い気がするんだよな。つーか……なんか……雰囲気に流されただけっていう気もするし(爆爆)。

マジメなカーターが発令したと思しき外出禁止令を破ったのがドッジとレクシーで、戦時中は禁止されていたモグリの酒場で顔を合わせる。そ、禁酒法の時代なのだ。これもまたクラシック映画の雰囲気。
そこへ、ドッジは欲求不満だったんだろうか(爆)いかにもオミズ系のオネエチャンを連れており、レクシーはすぐに察知して呆れた顔をするんだけど、そこはそれ、ドッジもしたたかで、ソウイウ目的でつれてきたオネエチャンをそっちのけで、レクシーをダンスに誘う。
ちょいとイイ雰囲気になってきたところで、警察の手入れが入り、ここからはサイレント映画をほうふつとさせるような、ちょっとしたドタバタナンセンスおっかけっこ。

ドアをバン!と閉めて追って来た警官を気絶させ、その制服を拝借するなんていう、ルパン三世ばりの超お約束シーン。だけどこの場面の演出は正直あまり……お約束カットが多い割には、ねえ。なんかとんとん、といかない。螺旋階段とか、タメの場面がもったりすぎ。
そして二人、追いつめられるも、飛び降り自殺しようとしている男のために広げられたネットに飛び降りて生還。
そのギリギリのドキドキが、いわゆるつり橋の上の恋、カン違いの恋心を生み出したのか、レクシーは自分の立場も目的もカーターとの微妙な思いも何もかもををドッジにさらけだし、吸い寄せられるように彼とキス!更にキス!!

あーあーあー、もうこうなっちゃったら泥沼は決定。しかし思ったよりもドロドロにはならない。
そらー、カーターはレクシーの口紅をべったりつけたドッジを見て頭に血が昇ったけど、お互い殴り合いしてすっきりするあたりが、いかにも男の子映画。
実際はそんな美しく解決するかっつーの。久しぶりに見たよ、女を巡って男二人が殴りあい、それで逆に友情を勝ち得る、なんて超ウソくさいシーンをさあ。

で、まあ、この時点でカーターは、名門のシカゴチームに移籍が決まってて、それはもはやドッジの預かり知らぬところで、あのフレイジャーが金儲けのために画策したことだったのよね。
カーター自身は、レクシーから、私のような女なんてシカゴにたくさんいる、と言われて移籍を決意した、なんて言ってるけど。ああでもそれって、どこかでレクシーは手に入らないと思っていたから、なのかなあ……。
で、次の試合までの間に、カーターの武勇伝の真実がレクシーの暴露記事によって明るみに出たり、その記事が捏造だと、タヌキのフレイジャーから逆に訴えられたり、それがプロリーグの理事会を巻き込んでおおごとになったり……まあ、この物語の一番のクライマックスに発展していくんだけど、なんかこの辺になると疲れちゃって(爆)。
ドッジが仕掛けた、カーターから真実を告白させるためにニセの戦友たちを押しかけさせる、てな場面なんかはもっとスリリングに感じてもいいんだろうと思うけど、なんかもう、ホント、疲れちゃってさあ(笑)。

いや恐らく、やっぱりね、このラストシークエンスが一番の見どころだったに違いない。ドッジのブルドックスチームとカーターが移籍したシカゴチームの試合。
でもね、だから先述したように、フットボールのルールが判ってないから、そのスリリングを感じることが出来なかったのよ。てのはね、私だけかもしれないけどね(笑)。
まあ、この場面では、雨上がりで泥だらけのフィールドで敵か味方か区別がつかないってトコが一番だったと思うし、上から押しつぶされて、一番下で潰されている人がすっかり泥の中に埋まってそこから起き上がってくるところなんか、確かに笑えたんだけどさ。
つまりはそういう、判りやすい部分でだけで、ドッジがそれまで彼のウリにしてきた汚いプレー(トリッキーなプレーと、公式には解説されてる(笑))を封印して、タイクツな試合運びになっているとか言われても、その汚いプレー自体が、どういうものなのかが見ててもイマイチピンときてなかったのが、もう致命的だよね。
これって、フットボールを判っているアメリカの観客たちには通じてたのかなあ……。

で、ラスト、私にはイマイチ判んない、なんか、敵と見せかけて味方だったみたいな?あ?逆?とにかくそういうどんでん返しがあって、ブルドッグスが劇的な勝利を収める。
で、ドッジはレクシーとタンデムして(サイドカーつきなのに、なんで後ろに乗るんだろう……)、幸せな未来に向かって突っ走る。
途中さ、捏造記事だと決め付けられて追いつめられたレクシーに、ドッジがプロポーズする場面があるでしょ。レクシーは最初本気にせず自嘲気味に、女はそうなると結婚するしかないのか、みたいに言うシーンが、凄く心に突き刺さってさ……。

最終的にレクシーは名誉回復されて辞めずに済んだし、仕事を続けつつドッジと幸せになるみたいな余韻を感じるけれど、結局はドッジの“男同士”の配慮で(あの、“皆が幸福になるために、必要とされるウソ”的な発言は、やたら感動的に仕立ててるけど、正直寒気がする)カーターは不名誉をかぶることはないんだろう。
そう考えると、一人屈辱を負ったのはレクシーだけであり、それを男の大きな愛で救ってもらうみたいな決着は、かなりムッときちゃうんだよなあ。
そりゃあ、そんなことには負けないレクシーだからこそ、女の強さを感じもするけど、だったらそこに、理解ある顔してドッジが現われるっつーのも、ちょいとムカつくんである。

これがそれこそ、かの往年時代ならすんなり見られたかもしれない?そうかもしれない……判らない。
でも少なくとも現代でそれを作る以上は、そんな単純にはいかないと思う。今はそんな、幸福な時代ではないのだ。過去の時代に舞台を設定していたって、作っているのは、今の時代、なのだから。

寝台列車のシーンで、ドッジとレクシーが上と下で艶っぽい口喧嘩をしながら、カーテンを引き合うトコなんて、いかにもクラシック映画っぽい。
しかし、ぽい、と思うだけで、私、密かにオマージュを捧げられている往年の作品、全然観てないしな……。★★☆☆☆


片腕マシンガール
2008年 96分 アメリカ カラー
監督:井口昇 脚本:井口昇
撮影:長野泰隆 音楽:中川孝
出演:八代みなせ 亜紗美 島津健太郎 穂花 西原信裕 川村亮介 諏訪太朗 秀平 石川ゆうや 菜葉菜 岸建太朗 岡本良司 デモ田中 木嶋のりこ
 
2008/8/26/火 劇場(シアターN渋谷/レイト)
井口監督の新作が、残酷スプラッター!?えーっ!という気がしたけれど、もともと妖気系漂う作品を作り続けてきた人だから、ちょっとシフトしてこのジャンルに挑戦したのならばそれはそれで楽しみ!と思った。
タイトルからも美少女バトルものっぽく、そそられるものがあったし。

つーか、もう、本編前からヤラれる。ここで、ああ!井口監督だよ!と思う。いや、井口監督の作品でこういうスタイルは見たことはないけど(爆)、グロやホラーの味の中に漂うとぼけたユーモアこそが、井口作品の魅力だからさ!
これは何?何て言えばいいの、この映画を観る前の心構え、みたいな導入部。
劇場内に劇中のヒロイン(と思ったら違った(指摘された(爆)))じゃなくて女優さん二人が観客として登場し、こうした残酷系映画に対する心構えをレクチャーするという画。
それは、映画の前に必ず流れる、上映中の携帯電話は……みたいな、マナーを警告するアレとそっくりで、その段階で充分パロディとしての面白さがあるんだけど、その、やや自虐的で、観客にこびまくっている姿勢が最高面白いんだもん!

こういう残酷映画に引いてしまってはソンですよ、血が吹き出すたびに拍手喝采、盛り上がりましょう、とか、気持ち悪くなったらトイレで吐きましょう、とナレーションしながら、ポップコーンの箱の中にゲー!(おーい!)
時にはコスプレも、と勧め、劇中の片腕マシンガンやドリルブラジャーを装着して盛り上がる様は、まるでロッキー・ホラー・ショーの劇場のようで。しかしそれは、本編を観なきゃ、コスプレの面白さが判らないってあたりも(笑)。
しかも、「しかし、あまりにも倫理的にどうかと思われる描写に対しては、拍手を自主規制しましょう」「作品に文句があっても、監督に直接文句を言うのはやめましょう」ってまで言う押しの弱さは、なんなの(笑)。ふんどし姿の監督が、女の子に詰め寄られている姿が(笑笑)。

いや、それより何より、そうよ、ふんどしよ。拍手の仕方を練習しましょう!と登場した男二人はなぜふんどし姿!?
そのうちのひとりは井口監督!(もうひとりは撮影スタッフ)し、しかも井口監督、コアラのように愛らしい風貌はいいけど、そのメタボなお腹が……いや、愛らしいデス。
しかし、それでなぜ白ふんどしなの!もうノリノリでお腹パチンパチン叩いて腰をフリフリして拍手を伝授する井口監督、あなたって一体ナニ!……もうこの時点でお腹いっぱいなんですけど。
しかも、その最後の最後、劇中で明滅する表現に気分が悪くなるかもしれないことを示唆した上で「この作品が歴史的価値があることを考慮して(爆笑!)そのまま残しました」って、それまでのあの腰の低い態度はなんだったの!これが歴史的に残る作品かどうかは……いや残るかもしれないかもしれない??

で、すっかり本編前でヤラれてしまったのだが……でも、この本編前は、確かに重要だったのだ。本編前と言いながらこれがなかったら、それこそこの残酷描写に引きまくって、その中のとぼけたユーモアを堪能出来ないまま終わってしまったかもしれない。
ほんっと、容赦ないのよ、スプラッターに関しては。腕や足はガンガン切り落とされるわ、切り落とした指を軍艦巻きに乗せてその板前に食べさせるわ、顔は三段に切り裂かれるわ、腹に大穴があくわ、その中にマシンガンを突っ込んで敵を倒すわ、顔に釘を何本も打ち込むわ(何本目かで、「こりゃキツいわ!」って、遅いわ!我慢強すぎだろ!!)ドリルになったブラジャーで抱きついておっぱいをかき回すわ、もう枚挙に暇がないどころじゃない。
切り落とされた首がしゃぶしゃぶの鍋の中に浮かび、それを見て絶叫した母親の後頭部から差し込まれた包丁が口から出て、血より先になんかワカラン、黄色い液体とヨーグルトみたいな白いブヨブヨが出てきて鍋の生首と血に混じった画はさすがにげええ、と思っちゃった。
その度にシャワーのように血がブシャーッ!と撒き散らされ、これぞスプラッターなのよ。なんたって惹句が「何も、そこまで」だもんねー。

でも、そう。ドリルブラでおっぱいかき回されて血だらけになって、その時はヒロインが絶叫しても、その痛みをまったく引きずらないで彼女が闘い続けるもんだから、多分そこが、そのあり得なさが、見ていられる大きな要因になっていると思う。
まあ女の子の絶叫はしっかり聞かせてくれるけど、その後はセーラー服の前を真っ赤にしながら、闘い続けちゃうんだもん。あのドリルでかきまわされて、それは出来ねーだろ……。

やっぱこういう、これはフィクションだから、というのを明確に打ち出しているのが井口監督の上手さであり、魅力だよね、と思う。リアルさばかりを追及して、それこそ“引いちゃう”ホラー映画が最近頻出しているのに対して、容赦ないスプラッターながら、ある意味安心して見ていられる部分をきちんと確保してる。
だって、切り落とされた腕から出る血の吹き出し方だって、それ、シャワーですか?みたいな、あり得なさなんだもの。そのくせその切り口の骨や肉の感じは妙にリアルだったりして、スプラッターの魅力は充分に兼ね備えてあるあたりは心憎い。

んでね、どういう物語かって話だよね。そう、物語に関して言えば、これが案外、リアルさを追求しているのよ。いや、あくまで根幹の部分のみだけど。
ヒロイン、アミの復讐のエスカレートのあり得なさや、それを迎え撃つ、服部半蔵の血を引く(そんなこと言っちゃっていいの?)忍者の流れを汲むヤクザ(この時点でもう、あり得ないっつーの)の、気に入らない人間は殺すだけみたいなあり得なさ、その用意する刺客の特撮ヒーローみたいなあり得なさはあるにしても、って、あり得なさばかりじゃん!(笑)
そう、つまり、スプラッターに突入してくると、途端にあり得ない要素を必ず入れてくるっていうのは、逆に井口監督の常識人としての姿勢を感じるんだよね。
つまりこれはリアルじゃない、リアルにこんなことはあり得ない、やるべきじゃないんだと。ご本人と作風は、とてもそうは見えないけど(爆)。
それを、弱腰だと自嘲しているように見えるあたりを含めてさえ、なんともいえない彼の魅力なんだよなあ。
そして常に白日のもと。そのクリアさは、暗くてなあんにも見えないスプラッターだった「屋敷女」をついつい思い出し、この明るさが爽快にすら見えてくるんである?

で、そう、根幹の部分のリアルさっていうのは、アミの弟、ユウがイジメにあっていた、という部分。
そのことを知り、死んだ弟の復讐に燃える姉、更に、この姉弟の亡くなった両親が殺人疑惑をかけられて自殺してしまったというバックグラウンドは、非常に悲しいリアリティをもって迫ってくる。
むしろそれが、そんなシリアスな設定が、井口作品においてリアリティを持って迫ってくるなんて、意外に思われるぐらいなんである。
世界にたった二人の姉弟、その設定はちょっと萌えるんである。実際、アミの親友、ヨシエは放課後迎えに来た弟君に、あんなカワイイ弟に慕われてイイナア、とうらやましげ。
アミが無敵のマシンガールになる前から、バスケでならす身体能力の高い、つまり同性にモテるタイプの女の子だったから、ヨシエは親友と言いつつ、どこかちょいレズ気分でこの友達を見ていた感じもうかがえて、更に萌えるのよね。

見るからに姉思いの優しげな弟であるユウは、もうひとりの友達と共に同級生からイジめられていた。姉に無心したゲームのお金も、そのイジメっ子に渡すためのものだった。
しかもそのイジメっ子のリーダー、翔はヤクザの木村の息子で、カネが欲しいんじゃない、お前たちが苦しむのが見たいんだとほざき、彼らがようやく調達したなけなしの一万円札を目の前で燃やしてしまうんである。
このリーダーはほんっと、最後までムカつくヤツでさ。なんかちょっと顔が織田君に似ているのが哀しいんだけど(爆)。
親の威光をカサにして、人を奴隷にするのなんてなんとも思わないの。そして、いたぶったあげくに、必死の抵抗を見せた彼らをいなすように高所から投げ落として殺してしまうことぐらい、全然、なんとも感じないのだ。

突然の弟の死に、張り裂けんばかりの慟哭を響かせるアミ。警察は自殺で片づけてしまった。しかし彼女は、ユウの部屋から日記を見つけ出す。そこには「殺したい奴ら」とメモが残されていた。
どうして、気付いてあげられなかったんだろう。アミは自分を責めた。
で、彼女は復讐の一歩を踏み出すんである。

このリーダーの翔が、そういうムカつくヤツだったとしても、その親バカな両親があまりに親バカで、残酷系だけど、ナンセンスなぐらいで、だからやっぱりそういう部分、うまーく緩和されているのよね。
息子を愛してやまない父親、朝の稽古をつけ、力を伝授するために、俺の血を飲め、飲め!と腕に刀で傷をつけ、どくどくと息子に飲ませる。顔中血だらけになりながら、父親の血を受け止める息子……うう、なんだこの親子は……。
その“神聖な儀式”をうっかりジャマしてしまった新入りのメイドは、それだけで殺されてしまう。同様に息子の膝にうっかり蕎麦を落としてしまった板前も指を五本切り落とされて、スシに乗せられ、食わされるんである。
更に恐ろしいのが母親の方で、常に夫のやり方に甘い!を連発、板前の指は一本ではなく五本と決めたのは彼女だしさ。

それはね、同じように息子に甘い二人だけど、やっぱり男親と女親の息子に対する姿勢の違いが出ているように思うのね。
共に壮絶に親バカだけど、自分を継いでくれる分身として見ている父親に対して、母親は、息子を傷つける相手はただただ許さない。息子がこの先どう行こうと、友達にどう思われようと、そんなの関係ない。つまり、溺愛、なんだよね。
残酷系ナンセンスに見えながら、そして妻の尻に敷かれている夫という図式に見せかけながら、このあたりは案外シビアなところをついているんだよなあ。
だって、この妻、夫がアミにぶっ殺されても、眉ひとつ動かさないんだもん。目的はアミを倒すことと言いながら、その実は、息子に手を出すヤツは誰であっても許さない、というところがホントでさ。
武器である鋼鉄のドリルブラだって、そう、ブラよ。まさに女、そして乳を与える母を象徴しててさ、なんか、ゾゾ気を感じるんだよなあ。
しかし鋼鉄ドリル!なんか「鉄男」へのオマージュを感じなくもない?しかも男の性器から女の乳房への転換なんて、ちょっと意味深かも。

と、そんな段階に至るのはまだ先で。この最終的な敵に至るまでに、まずアミは周辺の下っ端たちを倒していくんである。
それが、先に行った、しゃぶしゃぶ鍋に生首が浮かんだコね。
このコの両親にしても、やっぱり同様に親バカなんだよね。最初からアミに、言いがかりをつけるなと噛みつきまくる威圧的な父親。一方、落ち着いて見える母親も、豹変するのがコワい。しかもそのバトルで、ヒロインの腕をテンプラにしちゃうんだから!?
てゆーか、そもそも朝に訪ねた時から「朝からテンプラなんてごめんなさいね」ていう時点で不自然だろ!朝から訪ねるアミもアミだが……。最初からこのシチュエイションがミエミエなのが、大好きっ。
しかも衣の入ったボウルにうっかり(うっかりが多い(笑))手を突っ込んじゃったアミ、衣は手首のあたりまでしかついてなかった筈なのに、肘まで見事なテンプラにしあがっているつーのが(大笑)
しかも、その後、その腕はかすかに赤くなっているだけで、フツーに闘い続けるっていうのが、もー、そのテキトーさが好きすぎる!

ユウと一緒にいじめられていたタケシの両親に、これは自殺なんかじゃないと、共に闘うことを提案しにいったアミだっただけど、冷たく追い払われてしまうのね。
その前から、ユウが友達であるこのコを訪ねた時から、殺人一家と唾を吐き捨てるように追い払われていた。そしてこんなことになって、殺人一家に巻き込まれたんだと、被害者ヅラするなと、唾どころかゲロでも吐き捨てるように言われた。
絶望し、もう一人で闘うしかないと思いを定めてヤクザ木村の元に乗り込んで行ったアミは、しかし捕まり、片腕を切り落とされてしまう。
ほうほうの体で逃げ出し、タケシの両親が営む自動車修理工場の前で倒れた。夫は妻のミキをいさめて、この子を憎む必要はないだろうと言った。
共にヤンキーで若くして結婚した二人、夫はケガを治療する術に長けていた。そしてアミの無くした左腕にぴったり合うマシンガンを作り始める。

この、最初は敵対していたミキとの友情、そして二人で敵に立ち向かう様が、後半のメインになっていく。
タンクトップに作業ツナギ姿、日に焼けたような無造作な薄茶色の髪、車の修理をバリバリこなす、男言葉で威勢のいいミキ。
そんなマニッシュな魅力を存分に漂わせながら、息子の死の悲しみを紛らわせるために徹夜で仕事をしてたり、愛する夫の死にこの世の終わりのような悲壮を見せたり、もう子供が出来ない身体であることに深い絶望を抱えていることが明らかにされたり、……そう、マニッシュで攻撃的な外見が、恐らくそんな女である弱さを隠すためであろうことが判るのだ。
でも、“女である弱さ”っていうのは、恐らくミキ自身が思い込んでいたことで、“女である強さ”を、アミとの出会いによって覚醒されていくんである。

なんかね、もう最終的にはこの、最高の同志、戦友である女二人の信頼が萌え萌えで、たまらんのだ。二人がお互いの意志を確認し合うためにまずケンカし合うシーン、なぜか突然腕相撲に持ち込むナンセンスに笑わせつつ、しかしそれで二人が腹を割り合う様についつい納得してしまうのは、それこそ腕相撲以上の力ワザ?
そしてミキの夫が、友達もいない、子供が出来ない身体のことで落ち込んでいる妻のことを頼みますとアミに託していたのが、ひょっとしたら自分の死の運命を予感していたのかもしれないんだけど、更に萌えな感情を炸裂させるんである。
そう彼は、木村が差し向けた刺客によって、無残な死を遂げてしまうのだ。彼が三段に頭を切られてしまうのよ、まるでだるま落としみたいに!

二人が木村の元に乗り込む最後のバトルは、本当に壮絶で。まあ、そこまでに至るにはジャージ姿の特撮系三人組やら、その親である三人組もまた恨み系のユニットを組んで立ちはだかったり、ナンセンスさが漂ってるんだけどさ。
しかしこの恨み系、息子を殺された怨みは判るが、しかしその前にあんたらの息子がユウたちをなぶり殺しているんだからね。
うっ、なんて言っちゃえば、それこそ身もフタもないっつーか、復讐が復讐を呼ぶ、哀しい連鎖になる訳だが……。

このあたりのバランスは絶妙、というよりは微妙かな。絶妙のラインには踏みとどまっていると思うけど。
これはあくまでフィクション、そしてナンセンス。アミの、弟への愛の強さは全面的に押し出しながらも、いやだからこそ、その強さこそが、強すぎることがフィクションであると、ここに至っては解釈するしかないのが、絶妙ではなくて、微妙と言わざるを得ないライン。
その相手となる親三人組が、それまで以上にコミカルさをかもし出しているのもそうなんだけど、その胸に貼られた息子の遺影が、どちらのラインに踏み出すのかもまた微妙で。
一見した画はコミカルに見えたし、その写真の下は防弾になっているとかいうスカシも笑えたんだけど、でも、この三人の親が、死に行く時に、あり得ないスプラッターな血しぶきを吹き上げながら、三人が三人とも息子の名前をつぶやきながら死んでいったのがね……絶妙と微妙のラインを踏み越えることを承知で、井口監督が最もリアルに踏み込んだ場面のように思えてさ。

数ある武器の中でも、木村が繰り出す、敵の頭にカパッと装着して、そのまま首からもげるっていうのが一番グロかった……。
その武器から必死に逃げ回るアミ。ミキがその魔の手にかかってしまった。彼女の足に喰らいついたそれは、そのまま足をもぎとってしまった。悶絶するミキ。それでなくても、その前の闘いで負った腹の傷が膿んで危険な状態だった。
アミにその後を託すミキ。その後、アミは無事敵を倒し、ミキの元に向かうんだけど、もう絶命していて、その見開いた目をそっと閉じさせるのが哀しくて、そしてちょっと、萌えるものがあるのよねー。

翔の盾に使われていたいじめられっ子たちが、アミに解放された時、お姉さんみたいに強くなりたい、と言って、笑顔で手を振る。
アミは亡き弟に話しかける。お姉ちゃん、どうしようもないよね、と。するとそこで、ユウが微笑んでいる。そして拍手を送っている。お姉ちゃん、ありがとうと、そんな風情で。
青空を仰ぎ見て、ふと笑顔を見せたアミ、しかし物陰でガサリと物音がして、さっと身構える。そこでカットアウト。
誰が潜んでいたんだーい!

ヒロインのみならず、敵のヤクザも、これだけ人を殺してて、警察の追っ手が全くかからないところが(笑)。
劇中では一応、弟の死に警察が自殺だと下したっていうのも出てくるのに。
それでも、復讐の部分からは、その“イイカゲンさの線引き”はきちっとしてるんだよね。だから、こんな復讐してえ!と思ってる世の弱者の内なる心を正当に叶えてくれて、残酷なのに胸がすっとするのだ。リアルだけど、リアルじゃない。リアルじゃないけど、リアル、という、この“イイカゲンさ”が。
今の世の中、つまりはこういう映画が必要だと思う。
実際に、オレも実行してやろうと思わせるリアルさよりも、自分の苦しさを代弁してくれたと、爽快にさせるものが。
その線引きは本当に微妙で絶妙で、ナンセンスに見えながら、そのあたりの腕前は、プロフェッショナルでなければ出来ないのだ。

大林監督からのコメントがオフィシャルサイトに載ってたのには、ちょっとビックリ。
でも、両極のように見えて、案外つながる部分があるように思う。
それは勿論、少女の部分。そして大林監督が柔らかそうに見えても、案外残酷な部分を持ってて、少女にとっての残酷なこと、それこそが映画だと、少女の映画だと、少女が残酷さに苦しむのが画になるのだと、判っていることがね。
それに、ちらっとエロい要素もあるんだもん。翔がお前の姉ちゃん、巨乳らしいな、と興味を示したり。アミが天井で足を踏ん張る場面では、清楚な白のパンチラが拝めちゃったりするし、街のチンピラな男どもに襲われるシーンもある。セーラーの胸元を切られちゃうのよ。でもアミは強いから、そいつらをのしちゃうんだけどさ。

なぜ英語字幕がついているのかと思ったら、海外資本で作られているって!あっ、アメリカ映画のカテゴリになってる!
この異才、海外から目をつけられているのか!!★★★★☆


微風(かすかぜ)(誘惑 あたしを食べて)
2007年 分 日本 カラー
監督:佐藤吏 脚本:佐藤吏
撮影:長谷川卓也 音楽:大場一魅
出演:吉沢明歩 西岡秀記 大沢佑香 千葉尚之 日高ゆりあ

2008/3/4/火 劇場(ポレポレ東中野/R18 LOVE CINEMA SHOWCASE Vol.4/レイト)
「悩殺若女将 色っぽい腰つき」のぶっとびキャラで初めてその存在を知ったアッキーもまた、AVアイドルよりもピンクの、つまり“女優”としての水が合っていた女の子だったと思われる。正直勢いだけに見えたかの作品(まー、その勢いがスゴかったんだけど)の時から、二度目に見る機会を得た本作品ではすっかり役を演じる顔になって、自分の気持ちに向き合えない、恋の気持ちが何なのかに揺れ動く女の子をリリカルに好演してて、ちょっと、驚いたぐらいで。
驚いたといやー、これが初見となる佐藤監督が、本作のリリカルさと二本目に観たドライなドキュメントタッチをさらりと演出し分けていることにもなんだけど。恐るべき新進監督と新進女優。驚きの二乗。

様々な要素が上手く効いている。アッキー演じるアキ(なんか妙に彼女自身がダブる名前だな)はフリーター。でも別に、人生に対する意欲がないという訳でもないらしい。
フルタイムで入っている小さなイタメシ屋の店長に、「ニートよりはマシっすよ」と言い、久しぶりに会った短大時代の友人、リカとの会話で、実家が東京であることも知れる。フリーターをやるにしたってこんな小さな海沿いの街よりも、家賃もかからない東京の実家がいいに違いない。

彼女がここを離れられないのは店長、川野への思いと、その川野が亡き妻を忘れられないことにあるんだけど、でもそのことにも彼女は真正面から向き合おうとしない。
一応付き合っている、マサルという男はいる。でも彼とのセックスは見るからに熱が入ってないし、会う=セックスするって感じのドライさ。
アキが川野に思いを寄せているんじゃないかということを、マサルじゃなくても観客にも感じとれるのに、彼女自身はモノローグでさえも、そのことを認めようとしないのだ。

だからマサルとの付き合いも、熱が入る訳もないのだけれど、彼との仲を川野から聞かれたアキは、「相手が好きって言ってくれるから」それが嬉しいのだと言う。じゃあ、マサルの気持ちが冷めたら終わりなんだと苦笑気味に彼が言うと、「当然っすよ。でもそれはないです」とキッパリ。「もしウワキなんかしてたら半殺しっすよ」と笑う。
アッキーにこんな風に「っすよ」という言い方をさせるのは、いかにもワカモンという感じがする一方、どこか自分の気持ちをごまかし気味にしているんであろうこともにじみ出ている。アキはこんなことを言いつつ、実際マサルにウワキされると動揺し、思った以上のショックを受ける。この時に「お前、店長のことが好きなんだろ。態度で判るんだよ」とズバリ言われてしまうのだ。

川野の妻、恭子のことを、アキも好きだった。夫婦共通の趣味であるサーフィンに、アキは泳げないけれどついて行って、ラブラブな二人を砂浜から眺めていた。
恭子のデザートは評判で、彼女が海で死んでしまった後も、もう随分と経つのに「もうデザートやらないんですか」という客は絶えなかった。
アキは「まだ恭子さんのこと、忘れられないって感じっすか」と川野に聞いてみる。「そりゃ……忘れられる訳ないよ」と彼はつぶやく。アキとはあくまで店長とウエイトレスというだけの関係。アキのことを心配し、可愛がってはくれるけど、それ以上には決してならない。それは川野の側だけではなく、アキの側に壁があるから。

冒頭、アキが部屋で目覚めるシーンから、彼女の枕もとには常にお菓子入門の本が置いてあるし、店が休みの月曜日には、厨房に入り込んでこっそりデザート作りの 練習をしていた。
でもそんなこと川野には言えないし、恭子さんのように美味しいデザートなんて、そうそう作れるようになれなかった。

リカがね、これがもう見るからにイケイケ積極的な女の子で、川野を一目見たとたん気に入っちゃって、ゴーゴーにアタックかけるのよね。
アキに頼んで電話番号を渡しても川野から全然連絡が来ないことに業を煮やした彼女は、再び店に現われる。……という前に、リカは往来で一人の男にぶつかり、同じ鳩サブレの紙袋を取り違えてしまう。
リカはそれを「これ、アキにプレゼント。欲求不満は身体に良くないよ」と渡すのだが、同じ頃リカとぶつかったチンピラが、深刻な顔でヤクザと思しき男に手渡した紙袋から出てきたのは……振動の唸りをあげる大人のオモチャ!?ということは、アキに手渡された中身は……。

まあ、それは後述。で、リカに押される形で川野は彼女とのデートを了承。それを聞いたアキは顔色を変え、「恭子さんのこと、忘れちゃったんっすか」と詰め寄る。
そんなこと、今まで言わなかったのに。妻を忘れられない川野を切なく見つめていた筈が、それが逆に安心材料になって、自分の気持ちをぶつけることもなかった。
川野はアキの気持ちを図りかねるものの、リカとデートに出かける。で、まあこの辺がピンクだなーとは思うんだけど、その一回のデートでリカの誘惑に押し切られる形で、彼女と寝てしまうのね。
やけに露出度の高い胸のデカそうなカッコでも、脱いでみると案外小さいのねとミョーなところに感心してしまう。一貫してカジュアルなカッコに身を包んでいるアッキーの方が、マシュマロのような、寝ても崩れない美乳をしている。って、何比べてんの。

リカはアキの気持ちに気づいていたからなのか、あるいは元々そんなサバサバした性格だからなのか、川野との関係は一回きりで満足、というのも、「パパの転勤でイタリアに行くの。だからイタメシでも食べておこうかなって思って。いい思い出が出来たわ」とアッサリサヨナラを言うのね。
アキはリカからもらった紙袋の中身が拳銃だったことに驚き、部屋に置いておくことも出来ずに、バッグに無造作に入れて外に出る。

すると、マサルが他の女とデートしている場面に遭遇、彼から川野への思いをすっぱぬかれて、呆然とマサルの背中を見送る。
ふと気づいて拳銃を手にする。ブルブル震える手で、マサルの背中に向かって構える。引き金に指をかける。そのショットと、川野がリカとのデートで温泉街の射的場で構えているショットとが交互に挿入される。お決まりのグッチだのシャネルだのといった箱だけとしか思えない景品が並んでいる射的場、その隣の、黄土色した粘土のようにしか見えない「純金」とマジックで書かれた景品に思わず笑ってしまう。

そして再びアキ、引き金を引く。しかし弾は出てこなかった。なんだ、とばかりに座り込む。しばらく悄然と海を見ている。川野とリカの場面とカットバックしながら、アキの表情が微細に捕らえられる。
海に向かってもう一回引き金を引いてみる。ドン、と今度は大きな暴発音。驚いて尻もちをつくアキ。

リカと別れた帰り道、川野がふと店に寄ってみると、そこにはデザート作りの練習をしているアキがいた。目を見張る川野。顔を粉だらけにして首を傾げながら作っているアキに、思わず笑みを漏らす。
次の日、店が終わり、疲れきった表情でビールを一杯所望するアキ。川野と並んで、飲み交わす。川野はアキに言ってみる。アキちゃんのデザートを出してみないかと。
そして差し出したぼろぼろのノートは、恭子がずっとつけていたレシピメモだった。「あいつも最初は下手だった。いつも味見させられていたから、すっかり太っちゃったよ」と。
私も恭子さんが好きだった。恭子さんの作るデザートが好きだった……。すっかり酔ってしまったアキ。「アキちゃん」ふと川野が呼びかける。横を向くアキ。ぶつりとスクリーンがブラックアウトされる。えっ?

カットが変わると、店のテーブルに突っ伏しているアキ。二日酔いで頭が痛い。
川野が入ってくる。「おはようございます。……すみません私、店に泊まってしまったみたい……恭子さんのノートをもらった時から記憶がなくて」
えっ、という顔をする川野は、伸びをする彼女のシャツの下の素肌を見つめ、苦笑に似た微笑みをもらす。
当然!あの後にはそーいうことになったのだよね!でもその示し方がなんともリリカルというか、粋というか。
カットアウトされたところから、もう一度繰り返される。横を向いたアキに突然のキス。あれは参ったなー!まあ、その前のリカとのセックスがなかったらもっと良かったけど……まあそれはピンクだから仕方ないか。

でもさ、ずっと店長とウエイトレスって立場、よく働いてくれるアキのことをまるで妹のように見つめてきた川野が、本当にそういう距離感だった二人が、とん、とぶつかるように横を向いた彼女に彼が突然キスするのが、もー、これが女子が求めてるキスシーンなのよ!と年甲斐もなく胸がきゅんきゅんいってしまうんである。その後、そっと抱き会うシーンもいい。

まー、その後は当然そんなことになるんだけど、それを紗のかかった夢の中みたいな白い光の中のショットと、通常のベタ撮りのショットとで交互に構成していくのが上手い。
紗のかかったショットは夢見心地なアキの視点であり、本作のリリカルさを最後まで壊さない手法。
ピンクだから、それだけで通す訳にもいかずってのもあるだろうけど、でもベタ撮りのショットとのある種のカットバックが、メリハリと、現実と夢をゆらゆらと行き来している感じも思わせて、センシティブなのよねー。
いやー、女の子はこういうセックスシーン、夢見るよなー。小さなイタメシ屋、やさ男の店長、女の子の理想が全て整ってるもん。

しかし、アキは本当に、何も覚えていなかったのだろうか?
「今日からアキちゃんのデザートを出そう。最初は無料サービスで」そう声をかける川野に、とっても嬉しそうなアキ。
店をオープンする。カメラが店の外に回り、二人の姿がラフスケッチのような色合いに変わる。ラストまでリリカルさを失わない。

少女マンガのような甘やかさと、揺れる年頃の女の子のリアルさを兼ね備えた秀作。アッキーもとっても可愛い。★★★☆☆


ガチ☆ボーイ
2008年 120分 日本 カラー
監督:小泉徳宏 脚本:西田征史
撮影:葛西誉仁 音楽:佐藤直紀
出演:佐藤隆太 サエコ 向井理 仲里依紗 泉谷しげる 宮川大輔 川岡大次郎 瀬川亮 西田征史 中谷竜 小椋毅 久保麻衣子 フジタ"Jr"ハヤト 野橋真実 ヘラクレスオオ千賀

2008/4/1/火 劇場(渋谷シネ・アミューズ)
「タイヨウのうた」でデビューしたまだ27歳(!)の若い監督さん。「タイヨウ……」は、かなりぎこちない感じだったけど、今回は大分昇華されている。
しかし、またしても難病モノなのよね。しかもそれを、若干の軽さが気になる感じで描いているのも似ているし。

新しく記憶を積み重ねられない、この障害をテーマにした映画で即座に思い出すのは、「50回目のファースト・キス」そして本作もそうだけど、いわゆる他の病気モノ、障害モノと違って、どちらかというとハッピー方向な映画になるっていうのは、やはり過去と未来がこれほどハッキリと分かれていて、その未来はいつもたった一日しかない、毎日新しくなるという、こんなことを言ったらいけないんだろうけれど……どこかにロマンチックな感覚を含んでいるからじゃないかなあ、と思われる。
あ、でも「博士の愛した数式」も同じテーマか……あれはちょっと違ったね。持つ時間や感覚も違ったから、それはとりあえずおいといて。

もちろん、そんなノンキなことを言うことが許される訳もない。劇中、主人公の五十嵐が日記に書き記すように、こんな毎日が一生続くのか、ゾッとする、死にたい、という、非常に残酷で辛い障害に違いない。
でもこの日記の言葉だって、そういう障害を具体的にイメージ出来ない書き手が書いた言葉であることはやっぱり明らかなんだよね。死にたいと思うまでに人が追いつめられるのに、果たしてたった一日だけでこと足りるのか。“こんな毎日”という感覚が、たった一日の記憶で浮かぶものなのか。

こんな辛い思いが毎日続く、その記憶の積み重ねが感じられたならば、そりゃ死にたいとかも思うかもしれない。けれど、彼にとってはいつも、この障害に新しく対面するのだもの。果たしてそんな風に思うのか。彼にとってはいつも新しい毎日を、オドロキと戸惑いのまま過ぎ去ってしまうのではないか……本当に想像するしかなくて。
それを端的に、ハッピーに示して“しまった”のが、ドリュー嬢の「50回目の……」だったと思うのよね。

実際、大号泣して観終わって、あー感動したとは思いつつも、病名がハッキリと出てきている本作を、そうした一種のファンタジーとしてとらえることはどうしても出来ずに、やっぱりちょっと色々と気になっちゃうのは否めないのね。
実際はこんな風に、一晩寝て覚めたらパンと記憶がリセットされる、といった具合に、つまり映画に都合のいいようにはならないみたいだし……。
失語症とか集中力の低下とか子供返りとか様々に絡み合って、記憶だってもっとモザイク状に複雑に障害が残ることの方が多いみたい。当事者の方々のブログを回って見ると、この映画に単純に感動していいのか、と思わざるを得ないのは正直なところ。

うーん、でもそんな風に構えてしまったら、それこそ映画なんて出来ないか。それに、“記憶”を身体に刻み付けることによって、その障害をよりイメージのしやすいものにしようというアイディアは、確かに秀逸だったかもしれない。
もともとはお芝居の題目。大学プロレスという見た目にもハデな題材を絡めて、頭では記憶できなくても、身体で覚えていく。
その痛み、きしみ、そして技の習得、最終的に彼は、何もかもが判らなくなった状態で放り出されても、「今日が特別な日」であることを、「そんな気がする」と感じ取ることが出来る。
そしてまさにその日は、新しい一日一日で積み重ねた彼の集大成、一年前に見て憧れた学園祭の、リングの上だったのだ。

大学プロレスってね、私のねーちゃんがサークルのマネージャーをしていてさ、その大学の学園祭に遊びに行ったのを、すっごい強烈に覚えているんだよね。そう、まさにガチンコなんぞあるわけなしの、とにかく笑わせるコミックプロレス。
ガフガフのブリーフいっちょの痩せぎすのレスラーに(自慰系の、かなりハズかしいリングネームがついていた覚えがある……)花束を渡す役目をおおせつかったのだった(爆)。いやー、東京ってスゴイところだなーっ、と思ったかどうかは定かではないが。
しかしこの舞台ってば、「北海道学院大学」そんな大学あったっけ?いかにもありそうだけど……いや、ないよな。と、ともかく、北海道が舞台なの?なんで?なんでってこともないか……。

その大学の法学部で、在学中に司法試験の一次を通過したことで学内ではちょっとした有名人だった五十嵐が、ある日プロ研のドアを叩くんである。
どこかおどおどとした態度と、どんなことでも詳細にメモを取ること、何かといえばポラ写真を撮ること、いつまでたっても仲間を名前ではなくてリングネームで呼ぶこと、そして……頭がいいはずなのに、何度練習してもリング上の段取りが覚えられないこと等々、なんだかヘンではあったのだ。
場が盛り上がっても決して酒を飲まないことだって、実は同じ理由からだった。

商店街のイベントで五十嵐がマリリン仮面としてデビューした時、リング場で段取りを忘れた彼は、しかしギブアップすることをせずに、ガチンコ勝負にもつれこんだ。
折りしもこのサークル、スター選手がいなくなったことで集客率ががた落ちし、他の大学の人気サークルと提携することを模索していたんだけど、鼻にもひっかけられてなかった。
しかしこの試合を見た彼らがマリリン仮面のガッツを気に入り、連合を承諾してきたのだ。

そういえばね、学生プロレスがガチンコではないと五十嵐が知った時、彼は明らかに戸惑いの表情を見せたんだよね。それをメンバーは、真剣勝負じゃないことに失望したのかと心配するんだけど、五十嵐は気を取り直すように、「面白そうです!」と笑顔を見せる。彼らはそれで安心するんだけど……。
たった一日の記憶である五十嵐とはいえ、その日の彼は、明日の自分、明後日の自分は大丈夫だろうかと思ったに違いない。ガチンコだと思ったからこそ、その日その日をぶつかっていければ、その日その日を燃焼出来るかもしれないと思ったに違いないんだもの。
でもそれって、まさに人生の理想と現実のギャップそのもので、いつもガチンコでいける潔い人生はそりゃ理想だけど、実際の人生は段取りと根回し、まあいい言い方をすれば、努力と積み重ねが必要なんだもの。
それを彼は、奪われてしまっているんだ……。

ガチンコではないんだと知ったこの日の彼は、その時点で諦めてしまっても良かったんだと思う。あるいはこの日の彼は、諦めるのは明日の自分、あるいは明後日の自分にゆだねようと思ったのかもしれない。
新しい一日が始まる朝、「机の上の日記を読め!」と部屋中に張られた張り紙を目にして、分厚い日記を読むことから五十嵐の一日は始まる。そして最後のページ、昨日の出来事と今日どこに行って何をするべきかを読んでも、今日の彼が何をどうするのかは自由なのだ。

それでも五十嵐はいつでも昨日の自分、見知らぬ昨日の自分に従った。それって、記憶が積み重ねられなくても、いつでも昨日の自分を知らなくても、やっぱり昨日までの自分も五十嵐自身だってことなんじゃないかなあ。
なんていうかね、そういう意味では楽観的な物語運びなのかもしれないとは思うんだけど、物語中に結構ムリだって感じるんだけど、そこはそれ、佐藤君の屈託のない、時に泣いているようにさえ見えるあの笑顔で持ってかれちゃうのだ。

なんか最近、父親役だのサポート役で、やけにいい顔を見せている泉谷しげる。ここでも、自慢の優秀な息子に突然見舞われた不幸に戸惑いを隠せない父親を、実に、父親の不器用さってこうだよなーっていうグッとくる演技で示してる。
もう流行らない銭湯を、細々と続けている。汗みどろになって、火をたいている。息子がこんなことになったなんてこと、周囲にも言えなくて、なじみの寿司屋に入り浸っては酔っぱらって、ウチの息子はいずれは弁護士になって、エライ人たちを連れてきたりしたら、その日の客はみんなタダにしちゃうな……なんて、もうかなうわけのないことを、幸せそうに語るのだ。

記憶が積み重ねられない、だからプロレスで直接身体で覚えさせて、生きている実感を得たい。でも五十嵐は心の痛みを、記憶ではない積み重ねで、やはり得ていたように思う。
そんな風に思うのは、やっぱりこういう、身体的ではない障害に対して若干のロマンティシズムを持ち込んでしまう悪い癖なのかもしれない。
でも、五十嵐が、父親にとって自慢の息子でなくなったことにいたたまれなく思っていること、父親と会話がはずまないこと、家族がぎくしゃくしていることを、例え毎日新しい一日であっても、その気まずさを心の記憶で積み重ねているように思えてならないのだ。
それこそファンタジーなのだろうけれど。

自転車で転んでこの障害を得てしまった。だからプロレスをやってるなんて知ったら、父親は反対するに決まってる。だから昨日の彼も今日の彼も、父親にそれを隠していた。
でもいよいよそれがバレた時、今日の彼は、必死に言うのだ。「今、こうして父さんと話していることも、忘れてしまうんだ」それが、どんなにたまらないことか。でもプロレスは、自分の身体が覚えている、と。

でもそれも、ある日の彼は、挫折することだってあるのだ。体育館使用の申請を頼まれていたのに、そのメモをなくしてしまってそのままスルーしてしまった五十嵐。後日、責められて、ついに彼の障害が発覚することになり、黙っていたことに怒った部長のレッドタイフーンから、「これまでの試合は、ガチンコなんかじゃない、オレたちがワザと負けていたんだ。お前は全然、強くなっていないんだよ!」と言われてしまうのだ……。

実はその前、商店街のイベントの時に妹が駆けつけて、一部の部員はその事実を知っていた。だけど、五十嵐の懇願に負けて口をつぐんでた。
この時それを知ったのは、五十嵐が想いを寄せているあさこと、もともと寡黙なマッチョレスラーデビルドクロ。このデビルドクロ君が誠実に黙っていながらも、常に五十嵐のことを心配しているのが、泣かせるのよねー。最後の五十嵐の晴れ舞台の時も、一番最初に涙目になっているのは彼なんだもん。
おっと、それはちょっと先走ってしまったけれど。あさこが、五十嵐の秘密も、プロ研に来たきっかけも、さまざまなことを一番背負っているわけね。だって、五十嵐はずっとずっと、記憶障害を負うまでの間、彼女のことが好きだったんだもん。

五十嵐の決死の告白を何度も受けて、彼女の好きな人はサークルの中に別にいることを、彼女もまた彼に複数回言うことになるのが、哀しい。
そう、五十嵐自身がごちるように、なぜそんな大事なことを、彼はメモしていなかったんだろう。
知りたくなかったことだと、封印してしまったんだろうか。
だって結局は、失恋したって、その日で記憶は失われてしまうんだからと、そんな悲しい記憶を、明日の自分に残しておきたくなかったのかもしれない。

ついに学園祭になった。マリリン仮面の晴れ舞台。緊張して眠れなかった五十嵐は、奇跡的に前日の記憶を持ち越したまま、学校へ向かった。
しかしバスの中で不覚にも寝入ってしまい、記憶が失われてしまう。訳の判らない状態にうろたえた彼は、ざっくりと記述したメモが入ったバッグもバスの中においたまま、呆然と降りてしまった。
会場に五十嵐が現われないことに焦るメンバーたち。五十嵐は戸惑ったまま妹に電話をかける。妹は「眠っちゃったの!?」と呆然。急ぎ兄の忘れ物を回収し、自転車で兄の元に急行する。その時に彼は言ったのだ。「ねえ、今日って何か、特別な日?」と。

で、会場に遅れ遅れに到着して、試合になってからは、もう言葉でなんか言うことも出来ないんだけどね!
こういうのは、それこそガチの力、映画の、役者の力なんだもん。
五十嵐は覚えている、その体で、覚えているのだ。相手は学生プロレスのスターコンビ、身体の出来上がり具合も違い過ぎるシーラカンズ。でもそんな相手にも、今日だけの人生という強みを持つ五十嵐は、ガンガン突き刺さっていけちゃうのだ(号泣)。
死んでもいいぐらいに、思っているんだろう。だってどっちにしろ、今死んだって、明日の死んでしまった自分はそれを覚えていないんだから!!そんな感覚、ホント判らないよな、と思いつつ、そんな感覚を持ちながらの人生こそ究極の理想だと思うからこそ、ついついこの障害にロマンを見てしまうのかもしれない、と思う。

レッドタイフーンと二人で一人の相手を床に叩き落とす技も、そして五十嵐憧れのドロップキックも、五十嵐は覚えているのだっ!(大号泣)。
そう、今は辞めてしまったプロ研のスター、佐田からじきじきに教えてもらったドロップキックが鮮やかに決まる場面が、最大のクライマックス。
それを教えてもらった時は、笑っちゃうほど足が上がらなくて、佐田ともう一人の先輩が口をそろえて「低っ!」と叫んだほどだったのに(ここは爆笑!それまでのスローモーションとのギャップがいい)。一日一日地道に練習した五十嵐の身体に、ワザが見事にしみこんでいたのだ!

感動の五十嵐コール。本当はシーラカンズには倒されたのに、会場は皆、何度倒れても倒れても諦めない、ボロボロになってもスリーカウント目には跳ね除け、立ち上がる五十嵐に引き込まれていた。
シーラカンズが勝ち名乗りを拒否し、リングを去っていった後、右手の人差し指を大きく天に突き上げて振り返るマリリン仮面のポーズ。それも、五十嵐は、こんなボロボロの試合をした後にも覚えていたのだっ(大、大号泣)。

安全第一をとにかく大事にしていた部長のレッドタイフーンが、しかし五十嵐の熱意に押される形で、この試合もハラハラしながら、しかしギリギリまで手を出さないでいるのもイイのよねー。
その前日、彼は五十嵐の実家の銭湯を訪ね、二人で風呂に入った。二人で入ると広くていいな、と言う部長に、五十嵐は「そうか。合宿で皆で入ったんだっけ」と今朝日記で読んだばかりのことを思い出す。思わず黙り込む部長。
「自分の記憶に残らなくても、皆の記憶に刻んでやれよ」そう言ってくれる部長にニッコリ笑って「ハイ!」と頷く五十嵐。
すると部長はテレたように、「これ、カッコよくない?昨日、考えたんだ」
この会話も、五十嵐からは失われるとしたって。たとえそれだって、やっぱり彼らは仲間なんだ。毎日、ドキドキしながらプロ研のシャッターをくぐる五十嵐を、いつものように迎えてくれる。

佐田を演じる大ちゃんがねー。彼はカノジョからこんなダサいことやってるんなら別れる、と言われてプロ研を脱退、今の部長のレッドタイフーンとケンアクな関係にある。
しかし、カッコイイことといったらロックだろ!とベタベタなヘビーメタルなメイクとコスチュームで、しかも超ヘタクソなギターをかき鳴らしてって、うわー、全然大ちゃんのイメージと違うっ!驚いてしまった。
大体、プロ研の部室に貼ってある筋肉ムキムキの写真からして、のけぞってしまう。でも、この年でいまだに大学生役ってのが、童顔の彼らしい?
でもでも、それ言ったら、佐藤君だってかなりキビしいものが……でもでも、彼も違和感ないけど。

仲間達はそれぞれに個性的なキャラを振られているんだけど、みんな若干、滑り気味だったかなあ。OBでバーを経営する傍ら、メンバーのマスクを作ったり実況を担当する君島はさすが宮川大輔、面白かったけど。

私がこういう障害に陥ったら、どうするだろうか。日記に何を書くだろうか。毎日を、新しいその日だけの一日を、どう過ごすだろうか。
五十嵐のように、いつも明日へつながる一日を、意識できるだろうか。★★★☆☆


神様のパズル
2008年 134分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:NAKA雅MURA
撮影:柳島克己 音楽:鳥山雄司
出演:市原隼人 谷村美月 若村麻由美 松本莉緒 田中幸太朗 岩尾望 黄川田将也 石田ゆり子 國村隼 笹野高史 李麗仙 六平直政 遠藤憲一 小島よしお 塩見三省 平山祐介 蜷川みほ 諏訪太朗 野村祐人

2008/6/10/火 劇場(有楽町丸の内TOEI@)
正直前半は???ようやく話が見えてきたのは、殆んどアクションと化する後半からであった。いやいやそれでも根本的には多分きっと、判ってないのよねー。
いやいやいや、判ってなくてもいいのかもしれない。だって宇宙がどうやって作られるとか、そもそも宇宙はどうやって出来たのか、今どうやって成り立っているのかとかだなんてぜえんぜん、判んないんだもん。このアタマのいい方たちの議論に正直に頭を悩ませていてはいけないんだわ。あっというまに思考回路が停止してしまう。
つまり孤独な天才少女と、物理なんてものにはまあったく関係なかったフツーの青年が出会った時、専門的なことを勉強している人なら逆に考え付くはずもなかった「宇宙の作り方」というテーマに、この二人が挑むことによって起こる壮大なアドベンチャーであり、根底には孤独な魂の触れ合いというヒューマンドラマが隠されている、と実に映画の基本に乗っ取って単純に理解すればよかったのよね。

でもやっぱり私は文系な人間なもんだから、やはり理解の範疇を超える専門議論にいちいちアタマが停滞してしまうんである。
ことにね、いかにもアタマの良さそうな男の子、大学院出の助手、相理(黄川田将也)が言うじゃない。「そんなナントカ論(聞いた時にはドンピシャと思っていたのに、忘れた(爆))を言ってどうなる。文系じゃあるまいし」って。グサリときたんだよねー。

確かに文系、文学系ってさ、もうそれありきで、だから研究なんていっても、正確性や確信性なんて殆んどないといっても過言じゃないようなもんじゃない。作品論に関する部分なんて特に。それぞれが自己満足的に作品を媒体として自分の内側に入っていくだけでさ。
それを自覚していて、それが文系のウィークポイントであり、ホントに頭がいいのはやっぱり理系なんだよなと思っていたからグッサリときたんだよね。
だって今こうして私のやってることだって、モロそうなんだもん。たとえヒロインのサラカが、それに対して実に冷静に反撃して彼が絶句してしまうにしたって、そんな畳み掛けるような反証さえ、自己に陥る文系人間には出来ないんだもん。なんかこの時点で、脱落したような気がしたんだよなあ……。

とはいえ、監督だって(多分)理系な人ではないと思うからさ!というか、この監督が何を手がけてももはや驚かないけど、やっぱり驚いたかなあ。物理がテーマで、三池的には実にとっつきの悪そうなこの主演コンビというのはさあ。
いや、どこをどうとってとっつきが悪そうだと聞かれたらアレなんだけど……なんとなく。美月嬢はなんでもクールに受け流しそうに見えながらもガンコで譲らない芯がありそうだし、市原君に関しては、そもそも三池監督とのタッグ自体が信じられなかった(爆)。
ただ二人とも、ミョーに個性は強いと言うか……ヘンな言い方だけど、融通がきかなそうなところとか、ちょっと似てる気もする。市原君は特にその独特の台詞回しとか、もっとどっぷり三池ワールドにはまったら面白そうな気がする。今度はピンでね。

美月嬢演じる天才少女、穂瑞沙羅華(ホミズサラカ)が実に印象的に登場する。そっけないジャージを着て、そっけない表情で。
郊外に忽然と現われた、見るからにSFチックな無限大のマークそのままの施設「むげん」は、クライマックスで、人間が神になるのかどうかという舞台になる。
いや、逆か。彼女が、人間が宇宙を作れるのか、というテーマに乗り気になったのは、それを証明出来れば、この世を作った神という説が成り立たなくなる、つまり、神の不在を証明する唯一の手段だってことだから。

サラカがそういう、いわばロマンティックなテーマに、そんな風に刹那的で哀しい理由で立ち向かうのは、彼女が神様に祝福されて生まれた子供ではなかったから。
子供がどうして自分が今ここにいるのかを思う時、両親が愛しあったからっていうのが普通の答えでしょ、とサラカは言う。でも彼女は違うのだ。
人工授精。サラカの母親は天才児を欲しがった。どうやらIQの高い男の精子をもらったらしい。
精子を注入する注射針がぶすりと卵子に差し込まれる拡大鏡映像が何度も、執拗なぐらいに描かれる。恐らくサラカの頭の中で何度も繰り返されている画なのだろう。

自分の生に愛は介在しない。恐らく、両親に愛された記憶もない。現状で、母親は予想通り天才児に育った娘に対してどこかビクビクとしているし、マスコミにもてはやされ、周りは常に冷たい大人たちばかりのサラカは、なんだかすっかりヒネくれたご様子なのだ。
そんなクールさや、そして美少女だということ、更に自分のことをボクと言い、ジャージを着ながらもその胸元がやけに巨乳の谷間バッチリなあたり、そしてテーマが言ってしまえば物理というよりはSFと言ってしまった方が近いあたり、もうすっかり、萌え方向のアニメチックヒロインなんである。
アニメの巨乳は普通に見ていられるけど、リアルな巨乳は、しかも谷村美月がこんな巨乳だなんて、巨乳に成長しているだなんて!という意外度爆発なもんだから、正直本作を見ている間中、彼女の胸元にしか目が行かない。あやややや、困ったもんだ。

まあ、このあたりが、どんな題材も自分のものにねじ伏せてしまう三池節の真骨頂なのかもしれない。一体あのクールな美少女をどうやって説き伏せて、全編あんな萌え萌え大爆発にしたんだか、作品自体より、むしろそっちの方が気になるんである。
まあそれはともかく、双子の弟、喜一が傷心旅行に出かけるかわりに、大学の代返を頼まれた兄、綿貫基一(ワタヌキモトカズ)が市原君。
それでもノリノリでアインシュタインのTシャツを着て、ゼミにまで参加しようとした基一に、二人の共通の友人は「I LOVE NYって書いたTシャツでニューヨークに行くようなものだぞ」といさめ、ロック野郎でカッコよさ第一の基一はその恥ずかしさに気づいてボーゼンとするんである。

この双子は実に対照的で、理系大学に通っている弟は実に優秀で親からも期待されてる。弟の替わりに親からの電話に出た基一が、自分は逆に親から恥だぐらいに思われていることにひどくショックを受ける。なんていう場面もあり、このあたりは自分の出生の孤独にさいなまれてトンでもない事件を起こすサラカと通じるところではあるんだけれど……。
でも正直、彼とサラカとがそこに通じるには、凡人と天才という遠すぎる乖離があって、彼女は最後の最後に至らないと基一に心を許さないし、この設定の共通性は活かされているとは思い辛い。

それに、いわば文系人口が多いと思われる観客の側の視点である市原君、いやさ基一が、一念発起して宇宙の成り立ちを理解しちゃうのがねー。いや、確かに彼は汗水たらして必死になって勉強したんだろう。その描写は一瞬だけど。しかもサラカの助力さえ請うてるけど。
でも、宇宙の成り立ちの概論をまず説明する、彼の唯一の晴れ舞台、力強く書きなぐった黒板の前を行ったりきたりのアクションはハデで、やたらハアハア呼吸も荒く、ミョーに映画的動きは見せるけど、やっぱり文系観客にはその内容はチンプンカンプンで、頭のいい人同士の議論に入ると、もうスッカリついていけなくなるわけ。もうここから、「宇宙の作り方」の提案者である彼は、存在意義を失ってしまうのだ。

まあ、ちょっとだけ、意義は保っているのかな。かなり、ナサケナイ意義だけど。宇宙を作り出すための膨大なエネルギーを得るための、よりアクセスが多そうなエロサイトを、「男のツボは私には判らないから」とサラカから頼まれるシーン。うーん、あまりにも哀しいではないか……。
しかも、そんなエロサイトの中に、更衣室でのサラカの着替えが盗撮されたものがあった。複数の大学で合同のむげん見学会があった時、サラカをデジカメで撮影していた不審な学生を覚えていた基一は、さっそくシメあげる。しかしサラカはそのことさえ、知っていて、自分の全裸映像をエサにアクセスを釣っていたのだ。
美月嬢の巨乳っぷりが再三示されていたのは、この前提があったからなのかとも思ったけど、この盗撮映像は、フツーの映画っぽくギリギリですらなく、アッサリ足の方に逃げていたりする。ここまであんなヤバい谷間を見せていた意味ないじゃん!(って、なんで私がイカるのだ!)

正直ね、基一とサラカの恋愛的な意味合いは薄いんだよね。二人が孤独な魂を媒介に響き合うとか、自分の好きな女の子のハダカが他の男に見られる葛藤は、あまり感じられない。
基一にはもともとゼミの中に好きな女の子がいるし、サラカのことは、風変わりでほっとけない、妹みたいに心配な女の子、という位置が最後まで変わらない気がする。
サラカの方の気持ちの方が見えにくい気がするんだけど……でも見えにくいのは、思春期の女の子の突っ張った思いゆえで、彼女はこのバカ男に確かに恋をしていたのかもしれない。それが恋だということにさえ、多分気づいていないんだろうけれど。

そもそもね、彼には双子の弟がいるわけじゃない。寿司職人を目指す兄に勝手に代返を頼んで姿を消してしまった喜一。両親も自慢の弟である、どうやらかなり優秀らしいんだけど、二役を演じている市原君は、特に演じ分けをする感じもなくて、双方イイカゲンさは大して変わんないし、ロケーションが違わなければ、見分けがつかないぐらいである。
基一のバイト先のご主人が「寿司を器用に握るセンスはあるけど、弟の方が良かったな。凄く礼儀正しくて」とかいうんだけど、劇中そんな違いもよく判らず、双方まんま市原君なんだもんなあ。

でもまあ、わざわざインドまで行ってのロケーションが、意味があったのかもしれない。雄大な土地。流しの老人。全てを受け入れるガンジス川。喜一に声をかける日本人観光客に、彼は「パスポートを盗まれて大使館に行ったけど、そこでもパスポートを見せろと言われたから」大乱闘を演じたと言うんである。それを聞いて引いた観光客は、さっさとその場を去っていく。
ここにこそ、グローバルな空気があるかもしれない。ひょっとしたら、宇宙を作る議論よりも大きな空気が。それこそ、文系チックだと嫌われるのかもしれないけど。

パスポートという大前提がなければ、悠久の土地さえ旅出来ないなんて、考えてみればおかしいんだよね。
誰でもないほんのつまらない存在として、ガンジス川の悠久を感じることさえ許されないなんて、そんなの本当の旅じゃ、そして“個”じゃ、ないんだよね。
そうか、そう考えると、この双子の兄弟、人工授精で生まれた天才児、という設定は確かに生きてくるんだ。
正直、今こうして思い返してそう気づいただけで、観ている時はなあんにも感じなかったんだけどさ(爆)。

どんな境遇で生まれようと、一個の個には変わりないのだ。両親が愛しあっての結晶だろうと、人工授精だろうと、愛しあってはいたけどその後別れたとか、酔った勢いでの見知らぬ相手とか、あるいは究極に……レイプされての子供だろうと。
愛は素晴らしいし、生きていく上で最小限には必要なものだけど、でもその、結合の瞬間にまで、それほどに愛を求めるべきなのだろうか?
それは、どんなに愛し合っている夫婦や恋人だって、その瞬間にはきっと快楽しかないんじゃないのか?
なんてことを、恐らく出生の秘密に悩む彼らは、思いをはせる余裕はないんだろうけれど。

その後が大切なんだよね。あんな風に母親が言っていたって、恐らく基一は親に愛されてるし、サラカの方だって、彼女が拒絶しているからなかなか言いづらいだけで、絶対母親は彼女を愛しているんだもん。
それが証拠に、こんなトンでもないことを引き起こしてしまった娘のことを、泣きながらマスコミの前に姿をさらして謝罪してる。
恐らくそれまでは、望んだとおりに天才児になったとはいえ、ハレモノに触るかのように接していたわが子。その描写は一瞬だけど、さすがベテラン女優若村麻由美、一瞬の表情で醸しているんである。

理論上は宇宙は作れる。問題の莫大なエネルギーも、不正なハッキングや、都内全域の電気エネルギーやらを押さえてしまえば賄えてしまう。本気になった天才少女に、そんなことぐらい、お手のものなのだ。
でも、宇宙を実際作ってしまったらどうなるのか、誰も知らない。実際、宇宙は無数に存在しているという仮定は信じられている。ただひとつの宇宙ではないならば、人間の手で作ってもいいのではないか。
ただ予測されることはある。サボテンの子株のように、外側に新しい宇宙が発生されるという仮説にあてはまるのならいい。でも、人工的に作られる宇宙が、今ある宇宙の内側に生まれてしまったら?
そうしたら、今私たちが生きている宇宙は、内部から崩壊してしまうのだ……。
むげんの施設がムダだと叫ばれ、ヤリ玉に上げられているサラカが、自分の存在価値を示す、唯一の方法だった。
でもそれが、唯一の方法だなんて。

正直、そんな風に暴走したサラカを基一が救い出す場面は、アッサリ受け入れてしまえる訳でもなかった。
そもそも、ロックに傾倒している彼の、そうした描写も特にないままに、小林旭よろしくギターを背負って彼女を救いに行き(しかもそれが、台風の晩で、ジャッキー・チェンかってな、目もくらむ外階段を上ったりしてさ!)、最後の決断を迷っていた彼女の前に、突然天井を破って着地しちゃったりしてさ!
あらゆるアクション映画でみたよーな、もんのすごくデジャブを感じる画に、しかしメッチャマジな美月嬢がマジ演技で涙をながされちゃうと、困惑しちゃうんだな。

だって、その場面、そんな涙流せないでしょ。だって、こんな場所にある筈もないスタンドマイクが突然現われて、それでなくたってギターを背負ってきたこと自体がアホらしいのに、なんかメッチャ自己陶酔チックに彼、歌い始め、それに対して彼女が感動の涙を流すんだもん!
いや、それは、絶対、ヘンだって判ってて、ギャグ的な意味合いだってことぐらいは、ヤボな私だって判るけどさ……いくら確信犯的にハチャメチャな三池監督でも、それはないだろ……。どーしろっていうのよ、ムリだっての。
役者も納得しているとは到底思えないんだけどなあ。それともそこまで突っ込んで考えること自体、ヤボなのかな?

いやいや更に理解不可能なのはむしろその後、それでももう私は死ぬしかない!と外に飛び出して、豪雨の中、はるか上空の渡り廊下のような場所から身を投げようとするサラカを基一が止めるのが、自分が作ってきた寿司だっつーんだから。
「寿司食いねえ。それぐらいの時間あるだろ」と絶叫し、豪雨の中コハダの寿司を差し出す。「コハダ食いねえ!」、そこで危機一髪、身を投げようとしていたサラカを自分の腕に引き寄せ、彼女は必死に基一に抱きつく。
涙を浮かべながらビショビショのコハダの寿司を頬張り、美味しいと涙ぐむという描写は、どー感動に持っていけばいいのやら、全くもって意味が判らない……。美味しくないだろ……雨に濡れたコハダの寿司は。
まあ、あのう、コハダの寿司ってのは、アインシュタインが来日した時に食べたという前提があって、同じ人間が、同じ寿司を食べて考えた脳みそだろってなことに、基一が思いを馳せるっていうんだけど、別にそれをサラカが受け止めている訳でもないしなあ……。

あのディベートの時、文系な気分も受け入れて喝破したサラカに破れた相理は、この騒動の中、自殺した。どうやらサラカに言い寄っていたふしもあったらしいんだけど、正直、どこまでの思いがあったかは判らない。
宇宙への理解度で、サラカに負けたと思ったのか、あるいは、物理学者として到達できない屈辱を感じたのか。
彼がクビを吊ったその足の下にも、宇宙があったことを、意識していたのか、と基一は述懐する。
でも正直、この物語の中で基一がそこまでの意識を判っていたとは思えないけど……。

基一が天賦を示していたのは寿司だった。刑事責任が問われた二人、全てが終わり、彼も服役し、寿司職人に戻って数日が経った頃、刑期を終えたサラカが彼の寿司屋を訪ねてくる。
寿司食いにきてやったぞ、と。相変わらずのジャージ姿で。めったに見せない笑顔で。
一貫に込められた寿司の世界。それこそが、宇宙、なのかもしれない。

「前半は学園ラブコメ、後半はパニックムービー」と監督自らも言ってた。やっぱり前半と後半でくっきりカラーが別れるよね。でもラブコメとすら思わなかったけど……。
ところでこの基一のロック野郎なキャラは原作にはないんだという。脚本を読んでサッパリ判らなかった監督が、物理とは全く関係のない、寿司屋でバイトしていてロックにエネルギーを注ぐキャラクターを紛れ込ませた。んんー、これぞ三池流ゴーインさ。

やっぱりそもそもこの原作、映画化には向かなかったんじゃないかなあ……。角川さんのシュミで映画を企画されたって感じ。三池監督のハチャメチャさもさすがにやりづらそうだし。映画に動きを与えるために、別場面へクリックとかさ、すぐ古くなりそうな描写に思えてハラハラする。
しかも、角川側のオーディションでヒロインを決める予定があったという。まだ美月嬢でなんとか持っているこの作品、そんな当初の予定が通ってたら、もっとヒドいことになっていただろう。

いかにもとってつけたような主題歌もお寒いしなあ……。★★☆☆☆


歓喜の歌
2007年 112分 日本 カラー
監督:松岡錠司 脚本:松岡錠司 真辺克彦
撮影:岡林昭宏 音楽:岩代太郎
出演:小林薫 安田成美 伊藤淳史 由紀さおり 浅田美代子 田中哲司 藤田弓子 根岸季衣 光石研

2008/2/26/火 劇場(渋谷アミューズCQN)
実際の落語と映画のシーンをとんとんと照らし合わせながら紡いでいた予告編でもんのすごくワクワクしていたので、楽しみに足を運ぶ。
いやー、あの予告編はこの映画の成り立ちと共に、作品自体の魅力もぎゅっと凝縮されていて素晴らしかったよね。それだけ落語というものがぎゅっと凝縮された、エンタテインメントだということも同時に示してて。

実際、落語のネタが映画化されるなんてホント驚いたけど、でも考えてみれば古典落語はその昔からよっく映画になっていたんだし、ちっとも不思議なことじゃないんだよね。
でも新作落語が、というのは初めてのこと(だよね?)だからやっぱり驚き。でもそれでも、現代を映し出している新作落語が現代映画となるのは確かにちっとも不思議じゃないのだ。そんな着眼点に今までなぜ気づかなかったんだろう、というか、気づいた人がまず勝ち!

それと同時に、え?これが落語なの!?という驚きもある。だってこの映画の白眉はやっぱり圧倒的なコーラスシーンでしょ。
と思っていたら、えっ!この落語自体にも、コーラスが実際に登場するの!うっそ!パルコ劇場で上演したというから、いわゆる高座というよりショー的な落語を目指したのか。
そうかそうか、だからか!だから、成立するのか!!パルコ劇場。エンタメとしての、舞台としての、落語ならではだなあ!
でもそれは、耳で聞く落語ではなく、目で「聞く」落語。ステージでありながら、音でしかない落語を、その矛盾を師匠が解決してしまったんだ!スゲー!

で、そうそう、合唱。そこにこそ着目して、クライマックスを目指して映画は作られた。私ね、こういうのヨワいのよ。練習を積み重ねてきた皆が、力を合わせてその成果を見せるという場面って。もうその場面に突入する前から、勝手に脳内で先走りして、泣いちゃう。
ことに合唱なんて一番ヤバいって!中学一年の時、一学期だけ部に入ってたこともあったしなあ(転校しちゃったのよ)、好きなんだよね、合唱ってさ。そういやあ合唱の面白さって、中学がピークで、その時から離れちゃったなあ、って気がする。そして今回、久しぶりに思い出した。

劇中示される、ママさんコーラスに対するある種の偏見や軽い侮蔑のこもった先入観は、確かに世の中にあるんだよね。ここんところがまず落語の導入部としてシニカルに笑わせるところだと思うんだけど。
ダブルブッキングしちゃったしがない文化会館の主任が、よく似た名前のママさんコーラスに、「6月に予約したガールズが今になってレディースになっちゃったんじゃないの」などと、自分の言い様にぷぷぷと吹き出すあたり、そして、このダブルブッキングにさして責任を感じていない主任にイカったメンバーの一人が「3分クッキングとは訳が違うんですからね」と怒った台詞に余計に彼が吹き出しちゃって、気まずい雰囲気になったり。

あるいは彼の奥さんが約束をドタキャンされて、「何がママさんバレーよ」とプンスカ怒ったら娘が「ママ、違う、ママさんコーラスだよ」とたしなめるシーンも、実にうまく言い当ててるんだよね。
もはや離婚寸前の、敵対する二人でさえ、ママさんコーラスに対するイメージは一緒。おばちゃん連中がヒマ潰しにやってる趣味ってだけでしょ、と。
だから当の主任は、このダブルブッキングにも最初はさしたる危機感もなく、どうせ趣味の発表会程度なんだからと、経験の浅い方に引き下がらせればいいだろうぐらいの気持ちで、それどころかどっか自分の方が被害者だぐらいの傲慢な気持ちでいたんだけれど、当然、おばちゃんたちにコテンパンにやられてしまうのだ。

彼の前にまず顔をそろえたのは、キャリア十分の「みたまレディースコーラス」のリーダー、松尾みすず(由紀さおり)と、仕事のために抜けられないリーダーの替わりにやってきた、“ミニスカおばさん”塚田真由美(根岸季衣)。
彼女のことをミニスカおばさんと陰で呼ぶこと自体、オバサンに対する揶揄が込められているけれど、当然、彼女が好きでこんなカッコをしている訳もない。ファミレスで若い子達に混じって、こんなハズかしい制服を着て働いているんだもの。しかしそれをコワモテの(失礼!)根岸女史がやってのけるあたりがスバラシイんだけどさ!

そう、彼女たちは決してヒマ潰しにやっているんじゃ、ないのだ。確かに古巣のレディース、結成1年のガールズと、キャリアも実力も違う。でもその双方とも、ことに、よりメインとして描かれるガールズの面々は、それぞれが日々忙しく働いている。
しがない夫を助けるためとか、ニートの息子を抱えた母子家庭とか、入院した夫が帰ってきた時のためにと、さまざまな理由はあれど、皆決してヒマな主婦なんかではない。
それどころか、こんなに走り回ってどうやってコーラスの練習時間なんか捻出するんだっていう忙しさなんである。

むしろヒマなのは、この文化会館の主任、飯塚の方。演じる小林薫は最後の最後まで、そう、心を入れ替えて彼女たちのために奔走するに至ってさえ、のんびりとした情けない、時々かなりムカつく男を演じ切る。
彼はもともと市役所勤務のエリートだったのに、こんなショボい、普段は年寄りのカラオケの貸し出しぐらいにしかスケジュールが埋まらない文化会館の主任になったのは、フィリピンパブのホステスに入れ揚げて、多額の借金を負ってしまったからなのだ。
それが原因で家庭も崩壊、離婚寸前の別居中なんである。でも彼はどこまでものらりくらりとしてて、何より自分に原因があるんだってことをどーにも判っていない様子なのだ。

ダブルブッキングをどう解決するかっていう問題と並行して、彼の借金問題も大きな障壁。そのホステスのダンナから美人局よろしく凄まれて、飯塚主任は夜逃げの決意まで固める。
金も用意出来ないけど、替わりに高価な金魚、ランチュウでもいいと言われたものの、市役所の市長室に大事に飼われているそれをおいそれと盗み出すわけにもいかない……と思っていた。
しかし彼はここで、恐るべきおばちゃんパワーを知るんである。コーラスガールズのリーダーである五十嵐純子(安田成美)に助けられたのだ。

いや、安田成美に対しておばちゃんなどと言っちゃあ、失礼千万!結婚以来引退状態とはいえ、CMでその変わらぬ美しさを見せ続けていた彼女、ほおんと変わらぬ、どころか独身時代以上、いや、独身時代とは違う突き抜けた余裕のある美しさに見惚れるしかないんである。
なんていうのかな、容貌の美しさにあぐらをかいているだけじゃないっていうか……やっぱり妻や母といった違う役割を人生という劇場で演じてきた自信が、このスクリーンにしっかりと焼きついていて。
ああ、やっぱり女は妻や母となって一人前なのかなあ、などとちょっとヘコんじゃう。男は結婚しようがしまいがあんまり変わんない気がするんだけど、女の成長の階段がやっぱりここに用意されている気がするんだよなあ……と半人前にも届かないこっちは思っちゃう。
しかも彼女の場合、それがちっともイヤミじゃないのが、イヤミじゃなく美しいのが、なんか、もう、クヤしいっ!

でね、かなり話が脱線したけど、この五十嵐女史が飯塚主任を助けるのだ。落ち込む主任から事情を聞きだした彼女、よく判んないけど、市長室に忍び込んで、金魚を盗み出せばいいのよね?としれっと言うんである。
私、市役所の警備員と仲良しなんです。とってもいい人なんですヨ、と五十嵐女史は自信ありありに笑い、私が彼の目をそらしている間に、忍び込めばいいわ、とこともなげに言ってのける。
こんなイイカゲンな男でも一応罪の意識があったか、飯塚主任が尻込みすると、主任さんが愛人さんと丸く別れることが出来、私たちがコンサートを無事敢行出来る、「これは、人助けです。」と彼女はニッコリと笑うのだっ。
そこには、ヤバいことをするという臆した気持ちが、一切ない、本当に爽やかな、確信や自信に満ちた笑い!いやー、安田成美、あなたってかなり凄い女優だったのね!

実際忍び込む段になると、ドジな飯塚主任が携帯の電源を切っていなかったりして、そのメロディに合わせて五十嵐女史、警備員さんととっさに踊りだしたり、もうヒヤヒヤと滑稽がないまぜになって、このあたりはさすが新作落語の真骨頂。
落語の間と可笑しさをこんな風にきっちりと体現できるのは、演出はもちろんだけど、やはりキャリアや人生を重ねてきた役者の真骨頂だよなあ、と思うんである。

数あるそれぞれの人生の中で一番染みたのは、入院した夫が帰ってきた時にいつものように回転しているようにと、つまり夫を気落ちさせないようにと、夫がやっていたラーメン屋と自分がやっていたつくろい屋をフル稼働させる主婦、大田登紀子のエピソード。
それを演じているのが、もー、こういうのピッタリの、藤田弓子ってのが泣かせるよなあ。しかしこうして彼女が頑張りつづけてきたことがある種アダになって、最高の晴れ舞台にあわや間に合わない!という事態になりかけるのだが……。

ここで落語の粋さが大発揮!このラーメン屋は、文化会館がお得意さんだったんだよね。でもこの忙しさでラーメンとタンメンを間違えて配達してしまう。ただでさえイライラしているところに、こんな間違いをされて怒り爆発の飯塚主任。しかし後に、おわびのギョーザが届けられるんである。
落語作品ではここが、合唱のクライマックスよりもこここそがキモだったと思うなあ。
「30分前の注文の間違いでこんななんですから、半年前の予約のダブルブッキングはかなりですよね」と言った部下の青年、加藤の言葉は皮肉だったのか無意識だったのか……台詞だけ聞いたら皮肉そのものだけど、やはりそのあたりは素直な魅力の伊藤君だから、なんか素直に聞き入れちゃうのよね。考え込む主任。
そして、ギョーザを加藤に任せて、彼はママさんたちのために、ある手段を考え出すのだ。

時は大晦日。もう皆バカンス気分な訳。二つのコーラスグループが合同でコンサートを行うことは、五十嵐リーダーの奔走と、レディースのリーダー、松尾女史の度量で決定した。松尾女史率いるレディースの面々が、ガールズの合唱を聞いてその大決定を下したのだ。
レディースの前でまだまだ未熟ながらも自分たちの成果を必死にアピールするガールズのコーラス、ことにレディーズのリーダーが経営するスーパーでパートをしているきっぷのいい女性が聞かせるソウルフルなソロにドギモを抜かれる松尾女史。
「いつ、練習してるの」「パートの合い間とかに……あ、でも仕事の手は抜いてないですよ!」そんなこと言われなくても、これまたソウルフルにタイムサービスを切りまわしている彼女を松尾女史は見ていたから、判ってた。
「あなたたち、「歓喜の歌」は歌えるの?」「もちろん!ドイツ語で特訓してました!」もうこうなったら二つのグループは同志、一気に合同コンサートへと気持ちが盛り上がっていく。

しかし、まだまだ問題が。それは双方で売ってしまったチケット。つまり、既存の座席以上のチケットがさばかれてしまっているのだ。それが最初からネックになってて、双方共に譲らなかった理由。どちらかが時間をずらすという案も、万難を排して遠方から来てくださるお客様に、そこまでのことは強いられない、と特にレディースが強硬に主張して、飯塚主任を悩ましていたのね。
そのことがあったから、どちらかのグループがどうにか辞退してくれないかと苦慮していたんだけれど、ラーメン屋の注文取り違え事件で、代わりのギョーザに主任は感動しちゃったんだよね。

座席を増やすために大工事を、小さな工場に年末年始の社員旅行を返上させて頼み込む。えー!こんなことしていいの!後に彼の妻が心配するように、こんなこと勝手にしちゃったら、ホント、クビが飛びかねないよ!しかしギョーザなのだ。なんたってギョーザなのだ。
しかし工務店の社長、レディースの聴かせた赤とんぼに一瞬感動しかけるも、ハワイに行くんだからわりいなと振り切りかける(このあたりはいかにも落語!)。しかし、それを留まらせたのはまたしても五十嵐女史。この工務店の社長の母親に、彼女が介護スタッフとしてついていたのだ。声高らかに社員旅行の中止を言い渡す母親。「こう言えばいいの?」とニッコリと目配せをする彼女に、ハイ、と五十嵐女史ニッコリ。
ああ、やはり、強きは、手に職を持ち、誇り高く生きている女かな!

そんなこんなで、嵐の一日は過ぎていく。遅くまでリハーサルを行い、帰ってきた五十嵐女史、子供の書いた「ママのために、流しの大掃除はとっておいたよ」というメモにニッコリする。
五十嵐女史はもともと小学校の音楽の先生。加藤青年が憧れていた美しい先生だったのだ。で、彼女のダンナは、最初こそ郵便局に勤めていたのに、イリュージョニストになりたいだのと夢を追い続けて挫折を繰り返し、今はしがないタクシー運転手。しかし演じる光石研の屈託のなさが、この家庭にまるでしんどさを感じさせないのだ。
彼は劇中、本作の原作である志の輔師匠を客として乗せる(!)。感激した彼は、師匠の前で一席ぶち始めて、先を急ぐ彼を彼を困惑させるという粋なエピソードが用意されていたりして。
で、感激したまま帰ってきた彼、落語の稽古を始めたまま寝ちゃって、正座したまま頭を床にくっつけた状態で動かなくなっているという愛しさ(笑)。妙にカワイイ光石氏なんである。

いざステージが始まったら、もうただただその素晴らしきコーラスに感激するしかないのだが、まあ「ギョーザ」な物語はもうひとつ残されていたりして。
先の大田女史、お客の和服の袖の丈が違うまま仕上げてしまうという、考えられない失態を犯してしまって店に足止めを喰らってしまうのだ。
晴れ舞台である「歓喜の歌」までなんとか時間を引き延ばし、主任は急ぎ彼女の店に急行。めんくらう客を尻目に彼女を加藤に送らせ、自身はノンビリとその客の応対をする。
「同じ長さに揃えればいいんでしょ」とジョキジョキ袖を切って終わらせようとするもんだから、慌てる客は「まつり縫いとかしてくださいよ」「まつり縫いって、なんだよ。そんなのしたことないよ」おいおいおいおいー!

そこへ登場したのは、離婚寸前(だったハズ)の主任の奥さん。「あなたのせいで、最後の歌聞き逃しちゃったわよ」と言いながら、針に糸を通すことさえ苦慮していた彼からぶんどって縫い始める。
演じる浅田美代子が、すごくイイんだよね。このナサケナイ、カイショのない、ウワキモンの、もー、この場面なんて復縁を言い出して泣き出しちゃうような(小林薫の、あまりといえばあまりのカッチョ悪い泣き顔!)情けなさ千万の夫に、ずっと離婚を突きつけていた一見コワイ奥さんなんだけど、こういう泣かせを見せつつもやっぱり真の強さは変わらなくて。いやー、浅田美代子は女優さんだけやってれば、ホントカッコイイのに!?

それにしてもこれ、たった一日の物語なんだよね!ということに今更気づいて驚き!
それだけの深さになったのは、一日のエピソードでは終わらせない、彼女たちの人生の奥行きがあるのは勿論、こんなエピソードも効いてるんだよね。
レディースの元に、一人の女性が訪ねてくる。ふっくらとした彼女のお腹に新しい命が宿っていることを知り、松尾女史たちは一様に感慨深げになる。

というのも、彼女の最初の子供が病気で亡くなっているのを知っているから。その病室でレディースたちは、子供のために竹田の子守唄を歌ってあげたのだ。
今回、レディースのコンサートに旦那さんと共にやってきた彼女は、あの時の感謝の気持ち、そして赤ちゃんを授かったことをぜひ知らせたいと遠方からやってきたのだった。
ほんの短いエピソードなんだけど、この病室での回想シーン、「竹田の子守唄」の一節だけで泣ける。しかもこのエピソードは、演じる由紀さおりが実際に経験したことなんだというんだから、そりゃあ、深いんだよなあ。

いやー、やっぱり松岡監督なんだよね。確かにこういうコメディっぽいのはどうなのかなとも思ったけど、挑戦なんだろうけど、いやー、やっぱり松岡監督なんだよね!★★★☆☆


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