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「た」


2009年鑑賞作品

代行のススメ
2009年 83分 日本 カラー
監督:山口智 脚本:山口智
撮影:三本木久城 音楽:侘美秀俊
出演:藤真美穂 山田辰夫 円城寺あや 山中崇 志賀廣太郎 矢柴俊博 佐藤貴広 高橋かすみ 千葉ペイトン こいけけいこ 鳥居しのぶ 矢木初季 所里沙子 松田章 原田賢人 森本73子 諌山幸治 辰巳智秋 扇田拓也 馬田幹子 小笠原宏 中原知南 北田弥恵子 福田公雄 沢渡正行


2009/9/1/火 試写
「おくりびと」の山田辰夫最後の主演作、という触れ込みが充分に吸引力があるほど、かの作品の彼には本当に心を打たれた。そのコワモテの印象を生かしたようなバイプレーヤーだったからこそ、余計に彼の中の優しさ清らかさに涙を流した。
この触れ込みは……残念ながら彼が思いがけなくも早すぎる死を迎えたことによって、より強いものになってしまった。
しかも私、山田氏の主演作って、初めて見るような気がする。デビューは主演でも、彼はずっと印象の強いバイプレーヤーとしての存在感を発揮し続けていたから。
そういう意味でもなんだかひどく感傷的になるのだ。遺作の手前で最後の主演作を撮って、まさに最初と最後を締めて、さらりといなくなってしまった、なんて。
とはいえ、本作は彼がピンの主演というより、彼の娘役である藤真美穂の方が先に立っていて、せいぜいがとこ両主演といった趣なんだけれど、でもやっぱり……山田辰夫という役者の大きな存在を感じずにはいられなかった。

それにしても代行、である。代行、そうだ、東京では代行って聞かないよなあ。
地方には必ずあった気がする。転々とした子供時代の記憶だけど。東京みたいに電車が網羅してなくて、車がなければどこにもいけないような地方では、飲み屋に歩いていくなんてことは、確かに現実的ではないんだもの。
冒頭は、横行する飲酒運転の現状に地元テレビが切り込む、ワイドショー的な場面から始まる。あら、ちょっと予想外……と思っていると、その番組の初老の解説者が「こういう時は代行を呼べばいいんですよ」のどかに言った途端に、作品の空気は一変してゆるやかに流れてゆく。
そして、予想外なことはもっと……お酒を飲んだ時の代行運転から広がる物語かと思いきや、言ってしまえばそれは冒頭の扇情的なVTRだけであり、主題は代行運転、じゃないんだよね。
代行そのもの。もっと言ってしまえば、誰かの代わりという存在にもがく娘や父親や、全ての人の物語。

だってね、冒頭の次の……ホントの物語の始まりはね、主演の一翼、木村カヨが、まさに“誰かの代わり”に過ぎない自分に直面する場面なんだもの。
産休教師の代打として臨時担任で頑張ってきた彼女、子供たちにも信頼されている手ごたえがあった。
最後の日、子供たちの用意してくれた花束と色紙、そして拍手にぐっと感動したかと思いきや……そこに休んでいた元の担任が現われ、子供たちは感動半ばのカヨなんてそっちのけで、その担任のもとへうわーっと集まってしまうんである。
冗談ぽくではあるけれど、産休の先生が戻ってくるから、とカヨが言った時生徒たちは、えーっなんて残念そうな声をあげていたのに……。
女の子が一人だけ、呆然と立ち尽くすカヨを見つめて笑顔を見せる。思わず笑みを返したカヨだけれど……その子もまた、まるでそのやりとりで承諾を得たかのように、元の担任のところへ駆け寄ってしまった。
カヨの手元に残された色紙には、「木村先生が代わりで良かった」

これだけでもキツイと思ったのに、カヨは新婚の夫とはや離婚が決まってるんである。しかも彼は、離婚成立後、カヨが鍵を返しに行った時に早くも女を引き入れていて、しかもその女はカヨの前に彼がつきあっていた女で……「私の代わりだって言ってたじゃん!」と言い放ったその女の言葉に、カヨは深く傷ついたのだった。
もう誰かの代わりなんて、絶対にイヤだ、と。
その後、実家に帰った彼女は、また産休の代打の臨時教師になれるつてもあったのに、「もう誰かの代わりはイヤなんです」と、頑なに拒否した。
その時の彼女は表情も硬くって……まあ、失業して離婚したばかりでムリはなかったけど、でも何より、“誰かの代わり”のミジメさが彼女を打ちのめしていたのだ。

で、カヨの実家で両親が代行運転、のみならずさまざまな代行業務をしているのね。ボケ気味のおじいちゃんの替わりに延滞料金のたっぷりついたエッチ系DVDを返却したり、小学生の夏休みの宿題を肩代わりしたり、お墓参りを替わりに行ったり……つまり、本来は本人がやるべきことを、“代行”する業務。
自分がやるべきでしょ、という軽蔑の姿勢をカヨは隠せなかった。彼女が実家に帰って友人と痛飲した時母親の代行運転を依頼したのは、そんな自嘲の気持ちがまず働いたに違いなくて。

物語が進行するに従って、“代行”にも様々な事情があり、例えば足の悪いおばあさんの代わりのお墓参りなんて、“代行”という以上の重さややりがいがあることがカヨにも判ってくるんだけれど……でもやっぱり容易にはその頑なな心は解けなくて。
一番大きいのは、父親がウワキをしていることを、知ってしまったから。
しかもそれを知ったのは、母親が死んでから。母親が生きていた時から、ずっと続いていた関係。そのことを母親は知っていたのか……。
知っていたような気がする。何となく。そんな描写があるわけじゃないんだけど。

身体の調子が悪い母親の補佐として、男性のスタッフが一人入っているんだけど、彼と仕事をする時いつも父親は、そのウワキ相手であるスナックのママを送りがてら彼女の部屋にシケこみ、「2時間ほど時間を潰してきてくれ」というのが常だった。
ウラギリの片棒を担がされているスタッフは、毎回難色を示したけれども、奥さんが死んでまでもそれをやめようとしないことにガマンがならなくなって、ついに娘のカヨを呼んだ。
しかもその日は2時間どころか、まんじりともせず車で待っていたカヨが父親の姿を見たのは、白々と朝も明ける頃だったのだ。

このね、父親のウワキの描写は、結構……キビしいんだよね。
だってそれが成敗される訳じゃないんだもの。娘がそれを知った時には母親はもう病に倒れて亡くなってしまっているし。
「母さんが亡くなったばかりなのに」とさすがに父親を咎めたカヨだけれど、父親は「それならいつまで待てばいいんだ」と返す。
カヨは……言葉をなくしてしまう。抗議も言葉では出来なくて、ただ悔しくて哀しくて、弱々しく父親をパンチするしか出来ない、のだもの。

娘にとって父親って、昔ほどではないと思うけど、厳格で、近寄り難くて、何より理解し難くて……それはまさにこのコワモテで、何を考えているか判らない山田辰夫のたたずまいにピタリなんである。
ただ、確かに“昔ほど”じゃないんだよね。カヨのように出戻り娘ぐらいになってしまえば、母親が入院したからって、それだけで“主婦の代わり”をやろうなんて古い女の価値感など持ち合わせている訳もない。
それこそカヨは“代わり”を毛嫌いしているんだから。そして父親に対して「何にも出来ない」と毒づくぐらいのことはしちゃう。
私は彼女よりひとまわりは年食っているから、もうちょっと父親に対して畏怖があるし、こういう事態になったら“主婦の代わり”をやってしまうかもしれない。
でもそれに対する理不尽は、カヨのようにやはり感じるだろうと思う。判るんだよなあ、カヨの苛立ちが。なんで娘の私がお父さんの奥さんをやらなきゃいけないの、って。

でもそんなカヨも実家に帰ってしまえばお母さんにべったりで、それこそ疲れて帰って来たお母さんに、お茶を淹れてくれと当然のように注文した父親に連なって「私はコーヒー」なんぞとこれまた当然のように注文して……。
それまた私も思い当たる節があり過ぎるほどだから、その直後母親は倒れてしまうという描写の皮肉が、ひどく胸に突き刺さってしまう。
庇護されるだけの子供から脱却し、大人になってくると、ただ厳格だった父親や、理解ある母親の、男と女の生理も見えてきてしまう。
それが、同性である自分が本能的に判る母親ならまだいいけれども、自分が傷つけられてきた男のその生理を判ってしまった上で父親に改めて対峙するっていうのは、ホント、キツい。
でも、どうなんだろ。これが逆なら。男の子が母親に女を見てしまうことの方がキツいような気もする。まあここでは……また別の話だけど。いやでも、どうかなあ。正直私自身は……考えられないんだもの(父上、信じてるよ!!)

……でも、この昔気質に見えた父親が、最初はお茶さえ淹れなかった父親が、次第に変わっていって、最後の最後には、彼自らエプロンをかけて、“主夫”と化して仕事に出かける娘に朝食を供しているんだから!

父親の浮気相手のスナックのママは、彼とのやり取りが示される訳でもないし、それどころか常に引きの画面で、彼女の顔さえハッキリと見えないぐらいなんだよね。まあ、父親がこの浮気相手のことで何を語る訳でもないというのもあるんだけど……妻の代わり、にさえなっていない、としか思えないんだよなあ。
“代わり”っていうのは確かに軽いけど……代わりになれるってことは、本命への延長線上でもある訳で。
カヨはね、当然父親の浮気に対してショックを受けるけど、それでもいつまでも一人でいろとは言わない。そんな風に理解を示すものの、何も人生最後の相手が本命とは限らない。
正直、スナックのママは、彼が妻の病気を知る前から、代わりにさえならない存在だったと思う。……などと思うのは、女としての希望的観測のような気もする、のだけれど。
でもやはり、あの常に引きの画っていうのが、そんな風に思わせたんだよなあ……でもそれはやはり、希望的観測、かなあ……。

カヨは新しい恋を見つける。教員採用試験場で出会った年下っぽい男の子。臨時教員の話を彼女が断わったことで、彼にチャンスが回ったもんで、彼はカヨに感謝して、電話番号を渡すんである。自然な流れで交際がスタートする。
しかし、ほどなくしてカヨの元夫がヨリを戻した彼女が、この彼の元カノだということが発覚する。もう誰かの代わりはイヤだとカヨは彼との連絡を断ってしまう。
もう結婚して子供もいる友人は、そんなカヨのケッペキさに半ば呆れてしまう。とはいえ、カヨの目から見たらこの友人はもう幸せを獲得している訳だし、しかも物語の冒頭、「カヨも代わりの男を見つけたらいいじゃん」とアッサリ言ってのけたこともあって、“代わり”に拒否反応を示していたカヨにとっては、頑なにならざるを得なかったんだよね。
業を煮やした友人は、「つまりはセックスでしょ。他の女とセックスした男の後に、自分がセックスするのはイヤなんでしょ」とまあ、赤裸々なことを口にし、思わず口をつぐむカヨに、「だったら童貞と付き合えばいいじゃん!」と言い放つのだ。
おおお、なんとまあ、たくましい友人である。でも確かに一理あるというか。まさかこの台詞がオチ(?)に幸福をもたらすとは思わなかったけど!

代わりってさ、でも……代わりになれるんだったらいいじゃん、と思うところもあるんだよなあ。
勿論、カヨの気持ちは痛いほど判る。自分は本命じゃない。単なる穴埋めで、本命が来たらお払い箱なんだって。
でも……代わりにさえなれないことの方が多分、多いんだよね。世の中の誰にも必要とされていないのかと絶望することだって、あるんだよね。代わりになれるもんならなりたいって……。
それに、誰だって最初は代わりなんだもの。代わりがホンモノになっていくんだもの。本当の一番最初なんて、アダムとイブでしかありえない。自分がこの世に存在しているのだって、いくつもの未分割のタマゴの代わりだなんて言ったら……さすがに話が違ってきちゃうかなあ。

一生かかって、誰かの、何かの、あるいは自分自身のためだけでもいい、本命になれたら、オッケーだと思う。
誰かの代わりって、誰かのための代わりっていう意味であって、それって誰かに必要とされたいっていう気持ちであって……それが主軸になっちゃうと、凄く、寂しい。
だってそこには、誰かに必要とされるための自分、という存在意義しかないんだもの。ただ大切な自分自身、自分のためだけの自分自身、ではないんだもの。

勿論、それを、最終的にカヨは見つけたと思う。というか、見つけつつある余韻を残して終わる。
あの彼と、臨時教員の職を得た小学校で再会するのだ。ということはカヨは様々な出会いや経験を経て、“代わり”であることだけを嫌うことをやめたんだろうなあ。
しかも素敵なサプライズが!自分がバツイチだということを告げたカヨに彼は「僕も言っていないことがあるんです」と。何かと思ったら、「僕、童貞なんです」と!
思わず噴き出してしまうカヨに、「別に恥ずかしいことじゃないと思うんですけど……」という彼は、確かにそれを恥じている様子もなくニコニコしてて、勿論カヨも思いがけない偶然に驚いただけで、というか喜んだだけであって……。
なんかついこの間観た「童貞放浪記」との符号と違いを思うと、しみじみ興味深い。ま、年齢の違いはあれど、童貞を恥じない彼のさわやかさ初々しさ可愛らしさが、かなーり胸ズキュンときちゃったもん。女子が好きなのは決して、テクニシャンの男などではないのよ(何の話だ……)。

そしてカヨは、父親が迎えに来ると言っていたのも忘れて?彼の車に乗っていくんだよね。
父親は買い物も済ませて(レジ袋から覗いている長ネギ!)、校門で娘を待っている。その脇を、スローモーションで通り過ぎる車、父親の姿を見つけて、しまった!という顔をするカヨ、そんな娘を憮然と見つめる父親!
ああもう、なあんか、たまらなく幸せを感じちゃったなあ。
家路に着く児童たちに次々と挨拶を投げかけられる父親、てのもほんわりしたけど、そんな具合に娘が青年の助手席に乗って去って行ってさ、一人残された父親、そんな様子を眺めていた女子児童に「パパのこと、好きか?」なんて聞いちゃうの、可愛くて、噴き出しちゃったなあ。

一番グッときたのは、代行スタッフの男性のエピソードだった。 彼は奥さんと別れて、一粒種の娘がいる。ひっきりなしに携帯メールでやりとりするような、溺愛していた娘との別れが突然やってくる。
そりゃあ、今までだって自由に会えた訳じゃなかっただろう。だからこそメールのやりとりに没頭していたんだろうし。
しかし前妻が再婚した相手と遠くの地に引っ越すことになって、新しい環境に身を置く娘を混乱させないためにも、これから会うことも、メールすることもやめてほしいと言い渡しに来たのだ。
最後に一度だけ会わせてほしいと必死にねじこみ、その場面に……彼はカヨに“代行”を頼むのだ。しかも細かい設定つきで。いわく、一年ぐらい付き合っていてラブラブで、結婚を前提にしてて……みたいな。

ファミレスで彼の娘と対峙して、カヨは何を言う訳でもないんだけど、利発そうな娘は、「この人がお母さんの代わり?」「カヨさん、早く私の代わりになる赤ちゃん産んでね」とカヨの気持ちも知らずに“代わり”を連発するのだ。
いや……知らずに、だなんて、そんなことない。だって図らずも娘、女の子なんだもの。
この痛々しいぐらいに利発な娘は、幼いながらも女ゆえの勘働きを発揮して、そんな突っ込んだことまで言い……それはまんま自分自身にダイレクトに返ってくるのだもの。
本当は、お母さんの代わりになんてなってほしくない。それ以上に、自分の代わりなんて……。
あんなに聞き分けが良さそうに、自分ひとりで帰れるからとバス停まで見送りに来たパパとカヨに笑顔を見せていた娘。
バスが到着して、乗り込んだと思いきや、カットが切り替わってバスが通り過ぎると……彼女はお父さんの胸に顔をうずめているのだ。彼は愛する娘をギュッと抱きしめて、娘もお父さんにギュッと抱きついて。

……ここは、ヤラれたなあ。

ここばかりはね、代わりになれるならそれでいい、なんて言えなかった。
そして、うらやましかったし、何より辛くて、可哀想で、でもやっぱり、うらやましかった。
だってここには、本当に代わりになれない愛があるんだもの。愛なんて言葉を気恥ずかしく使える愛が、あるんだもの。

やっぱり私も、代わりになれない愛や信頼や人間関係を、理想として求めているのかもしれない。
それが例えあったとして、こんな風に切なく哀しくやるせなく、破れてしまうとしても。
いや、破れてはいない。ただ……永遠にその手の中に出来ないだけで。
でもだからこそ、代わりになれない愛や、代わりが本命になる愛を、それが奇蹟かもしれなくても、求めてるのだ。

あれれれ?これって、飲酒運転にならないための、代行運転の物語の筈が……なんか、泣いちゃってた。 ★★★★☆


タイム・アバンチュール 絶頂5秒前
1986年 76分 日本 カラー
監督:滝田洋二郎 脚本:高木功
撮影:志賀葉一 音楽:藤野浩一
出演:田中こずえ 螢雪次朗 杉田かおり 若菜忍 木築沙絵子 荒木太郎 上田耕一 野上祐二

2009/4/7/火(銀座シネパトス/レイト/滝田洋二郎監督特集)
滝田監督のピンク時代の傑作選のうちの一本。ひょっとしたら滝田監督のピンク時代の作品を観るのって初めてかなあ?と思っていたらいやいやいや!あの大ケッ作、「痴漢電車 下着検札」は観てたのだったよね!滝田監督の痴漢電車シリーズは傑作揃いというから、チェック出来てないのが悔しいなあー。
今回はオスカーの快挙があったからこその特集上映だったけど、結局この一本しか観られなかった。
今でもピンクの第一線で活躍しているメンメンが顔を揃えているのも嬉しいし、ピンクだからとかカラミだからというんじゃなくて、ここで一発面白いことやったろう、という気持ちが凄く伝わってきて、なんか嬉しくなっちゃったんだなあ。

しっかしこれってやっぱり「時をかける少女」あたりをおちょくっているの、かしらね?時代的にそうかもしれない……。この80年代の、おっそろしく太い眉毛がなんとも時代を感じさせる(笑)。確かに美少女なんだけどね。
冒頭からいきなりピンクらしく、カラミから始まる。アコガレの上司から“給料3か月分”の指輪とともにプロポーズを受けたヒロイン、悦子は、幸せいっぱいに抱かれるものの、枕もとのラジオから「月見が丘3丁目に住む 田中悦子さんは、今日も失恋しました」の速報ニュースが。
ハッとして目を覚ますと……まあ、夢だった訳。夢オチかよ!と思うのだけれど、このラジオがこの後、結構な(というか、キテレツな?)役割を果たすんである。

会社に行ってみると、その憧れの上司は残業する彼女を尻目に「お疲れさん」とさっさと帰っちゃって、脈は全くナシ。それどころか悦子は、同僚とその上司との熱烈なキスシーンを見てしまう。しかしそれは、この二人が会社の金を横領して逃亡を図る寸前の出来事だったのだ。
その夜、悦子はラジオを聞きながらオナニーをしていると……視界が真っ白に飛んだかと思ったら、2001年にタイムスリップしていたんである!?

スゲー設定だよな……このタイムスリップの謎が後に明らかに?されるんだけど、「オナニーでイク時の周波とラジオの周波が合ったんだ。それが僕のタイムマシンには足りなかったんだ!」と若き研究者(実は悦子の息子)が叫ぶんだよね。……な、なんとゆー、くだらない……。
悦子がハッと気付くと、ハダカのまま、そして彼女が飼っている子猫を抱いたまま、彼女は死体が乗ったストレッチャーの上に乗ってて(!)慌てて飛び降りるんである。
そしてまあ、紆余曲折あって(てのも、兜をかぶったの軍団に追い掛け回されるとか、かなりバカバカしい(褒めてるのよん)展開なのだけど)、助けを求めたしがない探偵が、実は悦子の未来のだんなさんだった、という訳なのだ。

ところでさ、カラミ要員として、悦子に憧れていた当時小学生の男の子というのが出てくるんだけど……ま、カラミ要員とはいえ、悦子とカラむ訳ではないんだけど、この子がコメディリリーフというか(いや、つーか、全編コメディなんだけどさ!)すっごいキョーレツなんだよね。
まー、お父さんはヤクザ屋さんなのだろう、「彫ってもらったんだ!」と誇らしげに見せる背中一面のイレズミはなんと、「おにゃんこ命」でカワイイ茶トラの招き猫ポーズ!
えー、いやまさか、これマジなスミじゃないよね、と思ったら、2001年に青年となった彼が登場してみたら、その茶トラが成長とともにそのまま大きくなって、青年の背中に鮮やかに張り付いているんである(爆笑!)。

しかも、彼のお相手がその子供時代からの女の子で(頭に乗せてるレースがおんなじ)、悦子に見とれる彼をウワキしないでよ、とばかりに引き戻すオマセな女の子が、その甘えたさんそのままに成長して彼のパートナーとなっているのが、ちょっと感動かも??
まあそこまで言わんでも、カラミ要員なのにこのパートナーとのセックスシーンしかなくて、アコガレの悦子には結局手ぇ出さないし、案外イイヤツなんだよね。
ま、悦子が過去に帰るためにオナニーしてるのを覗き見て、こいちまう場面はあれど……そのせいで、彼もまた1986年に飛ばされちゃうというオチもあれど!

悦子が辿り着いた2001年は、何もかもが様変わりしていた。まず、彼女が目にしたのは“西川きよし首相がクリント・イーストウッド米大統領と会談”!!“清原選手が早くも800本ホームラン達成”!!!
……ひょっとしたらあの頃夢見ていたかもしれない未来??……確かに、西川きよしが総理大臣だったら、日本の世の中もっと平和だったかも……ブッシュじゃなくてイーストウッドが大統領だったら……などとついついありもしないことを夢想してしまう。世の中とは民がこうなってほしいと思う方向には決して動かないのよね。

しかも、東京もまた様変わりしている。歌舞伎町は寂しげなネオンがぽつぽつと光っているだけで、荒涼とした様子である。ルンペンのような流しに聞いてみると「第二次関東大震災で、全部なくなってしまった」というんである。彼もそれで片足を失っていた。
夜空に寂しげに遊覧し続ける“ヨドバシカメラ”の飛行船は、あ、あれってやっぱりタイアップ?……しかしこれで販促効果があるとはあまり思わないけど……このヨドバシカメラの飛行船、最後の最後まで何度となく闇夜を飛び続けるのよね。

さて、悦子が出会った探偵さん、探偵さんってあたりが、80年代ぽいんだけど。実は彼女の後のだんなさんになる人であり、この出会いでセックスした時の子供が、荒木太郎扮するタイムマシンの発明者、って、タイムパラドックスがあるようなないような、ないようなあるような?なんにしてもムチャクチャな設定。
悦子のことを、自分の奥さんに似ていると思いながらも、当人から宣言されるまでそのことに気付かないってのもねー。そりゃ2001年の悦子は、すっかり亭主を尻に敷いた、たくましい奥さんになっちゃって、ダンナより長年飼っているデブ猫のマイケルを可愛がっている有り様だし。ダンナとのエッチよりも日々のエクササイズに夢中、てな訳なのよね。
勿論このデブ猫マイケルは、1986年から来た悦子が連れている子猫のマイケルと同じであり、まあそれが明かされるのはもちょと先になるんだけれども……。

それにしても、息子役の荒木太郎氏である。彼はいまだに童顔ではあるけれど、それにしてもこうまで変わっていないことに驚きの念を禁じえない(笑)。まあ、当時の方が、容貌と実際年齢が一致していたかもしれない。
かなりナンチャッテ発明家である彼は、恋人を実験台に試験をしようとするのだがあえなく失敗(そりゃ、あんなポンコツなハンドルじゃねえ……)、その後、流れでグダグダにカラミに入る(笑)。

荒木氏は、あのとっちゃんボーヤのような容貌と雰囲気だから、何ともこう、カラミも癒されるのよね(笑)。
しかもタイムカプセルの中で、というアイディアは、カラミシーンとしてはかなり秀逸かも。狭い空間の中で、限られた動きしか出来ない閉塞感があるけど、透明だから開放感があり、ガラスに押し付けられるオッパイというのがまたスバラシイわけで(笑)。
そんなお取り込み中のところへ訪ねてきたのが「タイムマシン乗員募集」のチラシを見て来た悦子で、当然、この時点で彼女と彼が親子関係なんて知る由もなかったのだ。

妻との関係が冷え切っている探偵さんは、もう女なんてコリゴリ、と思っていた筈なんだけど、行くところがないと訴える悦子をズルズルと雇い続けてしまう……。
途中ね、「電話連絡が基本」と言っていたのに無断で外泊した悦子を解雇にしかけるんだけど、結局は雇いなおしてしまう。このシークエンスでは、悦子がかつてのアコガレの上司、そしてこの上司とともに金を持ち逃げして逃亡した同僚と再会するというくだりがあって、結構なエピソードが盛り沢山なんである。
この二人共、久しぶりに会った悦子が昔と変わらず若いことに、ちっとも気にする風がないあたりがかなりテキトーだよなーと(笑)。
ま、でも好意的に考えれば、逃亡生活で15年間苦労してきた二人、もはや昭和枯れすすき状態でさ、ヨレヨレの和服に障子がガタピシ言う侘び住まいで、(1986年の時点で考えても、確信犯的にアナクロ過ぎ(笑))、そんな判断能力ももはや失われていたってことかなあ……って、好意的に考え過ぎかも(笑)。
しかもシッカリカラミシーンは用意されてるし(ま、それはピンクだからね)。

探偵さんが乗っている座席の狭苦しい車が、しょっちゅうエンスト起こすっていうのも、なんか懐かしい香りがする。1986年じゃなくても、懐かしい、古きよき時代の雰囲気なんだよね。
小さな車に片寄せ合って乗っている感じもそうだし、エンストした車を二人してよいしょ、よいしょと押しながら、ふと顔を見合わせた瞬間にキスしてしまう、なんて流れも、ううー、こんなロマンティック、今じゃ望めないわ、と思っちゃう。
これは、当時全盛のトレンディドラマでさえ採用されないんじゃないかと思うほどのロマンティックで、もっとクラシックなそれを思わせる。
探偵っていうのはそれだけで、男のロマン、男が望む恋愛のロマンを感じさせるからなあ。

しばらくはラブラブだったものの、まあ当然?奥さんに勘付かれちゃう訳で。
「じゃあこれ(と首筋を指す)は何?」と言われて「ヒッ!」と飛び上がるダンナ、「何もないわよ!やっぱり、ウワキしてたのね!」……王道だ……トレンディだ……。
何とかその場をとりつくろうも、奥さんは当然納得せず、ダンナの素行調査を依頼するんである。ダンナは悦子とともに別の浮気の素行調査を行ってて、だから、追う者、追われる者が二重、三重になってる。こういう描写もなあんか、懐かしいんだよなあ。しかも、それぞれが、全然尾行がヘタクソなあたりも(笑)。

奥さんが雇った探偵は、ダンナはシロだと断定する。エッチ場面まで撮影してたのに。って、つまりは、この探偵は、“ウワキ相手”は依頼した奥さん自身だと断定した、ってことなんだろうなあ。うーん、でも、その点に関してはあまり明らかにされず、奥さんは提出された資料を見ようともしないのはちょっと気になるけど。
すっかりゴキゲンになった奥さん、久しぶりにダンナとエッチでもしようと、もうノリノリで食材なんぞ買い込んで事務所へ向かうけれども、そこには悦子、つまりかつての若い自分がいるんである。
このシーンはいかにもドタバタコメディなのよねー。悦子を隠し、奥さんを何とか早く帰そうとしていると、窓の外で悦子が落ちそうにプラーンとぶら下がってる(笑)うう、なんて懐かしい感じなんだ。

そして悦子は、彼が引き出しに隠していた、若かりし頃の夫婦の写真の片方が、自分であることに気づいて呆然とする。
そしてテレビ電話がかかってきた奥さんに、その事実をぶちまけるのだ。初めてのオナニー体験やら、エッチ経験をこと細かに並べ立て、ついには、「あなたと私しか判らないこと、性感帯はココよ!」とおっぱいをぺろんと出して、右チクビの下を指し示すと、奥さん、もうただただビックリで。ダンナもビックリで。ひょっとしたらダンナ、奥さんの性感帯、知らなかった?(笑)

でね、息子が登場な訳。僕が産まれるためには、お母さんに1986年に戻ってもらわなきゃいけないって。
しっかし既にこの時点で、悦子のお腹の中には彼がいる訳だけど……うう、この時点で言っちゃいけないほどのタイムパラドックスの嵐なんだけどー。でもそれを言っちゃったら全てが成立しなくなるから、ま、いっかー……。
来た時と同じ状況を作ればいい、ということで、オナニーを促がす息子、祈る思いで見守る両親、そして息子の恋人。
「もっと指を使った方がいいんじゃないの」とエールを送る母親に「母さん、そうなんだ……」という視線を送る息子、その息子にドツキをかます母親(笑)。もー最後までノリは失われないのよね。

無事1986年に戻り、まだ警察に勤めている時代の、そしてまだ髪がフサフサしている時代の(笑)ダンナに出会う悦子。そう、彼女が2001年に飛ばされる直前、アコガレの上司と同僚が横領して逃げたその直後、参考人として聞かれたのね。その時はそのまま何事もなく別れた。
その後、二人は再会する。それは、彼らが「とてもロマンチックな出会いだった」と言っていたけど、なんのこともない。でも一般的な生活をしていたら、それって結構、ロマンティックな出会い、なのかもしれないと思う。

名画座での再会、なんだよね。遅れて席についた彼、一つおいた席の彼女と同じタイミングでクシャミする。あ、さっきの……と二人はお互いに立ち上がって頭を下げ、お互いにハンカチを差し出す。そこから以降は、幸せを再確認する2001年に向かうのだ。
あ、ちなみに、オナニーする彼女を覗き見てコーフンしたイレズミ青年が一緒にマスこいて、この1986年に来ちゃってるんだけどね(笑)。

いやー、見事なエンタメ、だったなあ!★★★☆☆


ダウト−あるカトリック学校で−/DOUBT
2008年 105分 アメリカ カラー
監督:ジョン・パトリック・シャンリィ 脚本:ジョン・パトリック・シャンリィ
撮影:ロジャー・ディーキンス 音楽:ハワード・ショア
出演:メリル・ストリープ/フィリップ・シーモア・ホフマン/エイミー・アダムス/ヴィオラ・デイヴィス/アリス・ドラモンド/オードリー・ニーナン/スーザン・ブロンマート/キャリー・プレストン/ジョン・コステロー/ロイド・クレイ・ブラウン

2009/3/30/月 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
疑わしきは罰せず、という言葉は、逆に疑わしきを罰した歴史から生まれたんではないかと、ふと思った。
まさに、疑わしきを罰する話。疑いだけで、なんの確証もない。それどころか、その確証を持っているのは、この鬼のようなシスター、ただ一人なんである。
観客である私たちは、それをスクリーンの外側から困惑の体で見守ることになる。やってないでしょ、この神父さんは、と思うんである。
でも……。
彼女に詰め寄られて、それまで断固否定していた神父は、最後の最後、弱気を見せた。その弱気は、一瞬だったけれど、それがあまりに密度が濃かったので、え、もしかして……とヒヤリとした。「全ては言えない」と泣きそうな顔で訴えた彼の言おうとしていたことは何だったのか。

舞台は1964年、厳格なカトリックスクール。敬虔な人々があつまる教会で、ざっくばらんに聞かせる説教を行うフリン神父は、信者や学校の生徒にとても人気がある。なんたって神父でありながらバスケットボールの指導だってやっちゃうぐらいなんだから。
対照的なのが、このスクールの校長であるシスター・アロイシス。彼女はまさに“鉄の女”で、少しでもぬるい態度を見せた生徒は校長室に呼び出しをくらうもんだから、生徒たちは戦々恐々なんである。

一方で、美しい新任教師、シスター・ジェイムズは生徒たちのアコガレの的である。若いながらも生徒たちを愛し、真摯な教育への情熱に燃えるシスター・ジェイムズはしかし、シスター・アロイシスの目から見れば甘ちゃんでしかなかった。
「人手が足りないから、あなたのような若い人に最高学年を受け持ってもらうことになったんです」などと、侮辱的なことを平気で言う、シスター・アロイシス。

彼女の指揮下におかれるシスターたちは、毎日質素な食事を会話もないまま寒々しく頂き、神に祈りを捧げる日々を送っていた。
ジェイムズ以外は老シスターばかりで、アロイシスは彼女たちが用済みになって追い払われるのを懸念して、守っているのだと口にはするけれど、それも本音なのか……ただ単に自分の支配が及ぶメンバーを減らしたくないようにも思える。だからこそ、若いシスター・ジェイムズを殊更に牽制したようにも。
いや、それこそ“疑わしき”である。全編通して異常なぐらいのガンコな女でしかないシスター・アロイシスだけれど、ラストもラスト、それまでの信念に対してふと見せた弱気が、ひょっとしたら彼女の素であったのかもしれないと思うと……全てがひっくり返ってしまう。
彼女は弱き老シスター達を守り、そして悪の芽を、芽のうちに摘み取ったのかもしれない、と。

と、こんな風に、全てに確信が持てないのだ。シスター・アロイシスが疑惑の目を向けるフリン神父は、彼女よりずっと信頼のおける人物に見えるけれども、結局それが本当だったのか、最後まで明かされることはない。
という絶妙なバランスは、怪優、フィリップ・シーモア・ホフマンによって、完璧な不透明さで演じられる。彼が演るからこそ、自分勝手で頑迷なシスター・アロイシスを単純に悪と決め付けられないのだ。
どこか腹話術人形のような独特の風貌をもつホフマンは、それだけで独特の怪しさを持っているけれど、それがこの役……表向きは、というか、最初から最後まで“生徒思いの、理解ある神父”を演じると、そう、つまり、根本的な部分で彼の風貌と齟齬が生じるがゆえに、微かに歪んだ“疑惑”が既に生まれてしまうんである。

このキャスティングはあまりに絶妙で、もうそれだけでキマっちゃうぐらい。メリル・ストリープと彼との顔合わせだけでもゾクゾクしたのにさあ!
実際、本作はメリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの一騎打ちと言っていい構成。
そりゃ、これだけの個性派演技派を揃えたんだから当然ではあるものの、二人ともクセの強い、というかアクの強い俳優だから、二人がやりあう場面だけでもう、スゴいんだよね。既に事件というか。

その疑惑は、純粋でマジメなシスター・ジェイムズからもたらされた。
後から思えば彼女がそんなネタを持ち込んできたのは、常日頃シスター・アロイシスに自分の無力さを示唆され続けていたからではないだろうかという思いを、強く持ってしまう。だってそもそもシスター・ジェイムズは、人に疑いを持つような性質ではないし、フリン神父に対しては、決して悪い印象を持ってはいなかったんだもの。
それどころか、頑迷なシスター・アロイシスに比して、フリン神父の生徒への接し方は、シスター・ジェイムズの理想に近いものであったに違いない。

彼女の疑いは、フリン神父が転校生のドナルドに向ける特別扱いだった。授業中、突然彼を呼び出して二人きりでいた時間、そこから戻ってきた時のドナルドの怯えた様子、そしてフリン神父が彼のロッカーにこっそりしまいこんだ下着……。
それはでも、いくらでも説明がつくことのように思えた。実際、フリン神父の“説明”(アロイシスにとっては“言い訳”か“釈明”にすぎないのだろうが)は整合性のあるもののように思えたし、実際、当のドナルドは、フリン神父を慕っているのだ。

……いや、その“慕って”いることこそが、彼女たちの疑惑を深くしたといえばそうである。
それでなくてもドナルドは目立った。この学校初の黒人生徒、しかも最終学年ギリギリで入ってきた彼。この小さな疑惑を見逃せば、彼はあと半年で卒業して、大学進学という夢だって果たせるかもしれないのだ。
見るからに異端者の彼は友達も出来ずにいたし、それならば、神父としてほっとけないというのは当然のことだったと思う。そんな神父の好意に彼も甘えた。ミサの従者を勤めることを何よりの誇りにしていた。

彼がフリン神父に呼び出された理由は、ミサ用のワインをコッソリ飲んでしまったことだった。彼からお酒の匂いがしたことで、シスター・ジェイムズは二人の“不適切な関係”、ことにフリン神父が強要しているんじゃないかという疑惑の目を持ってしまったのだ。
でも、呼び出しから戻ってきた時には怯えた様子を見せていたドナルドが、しかしその後はフリン神父に実になついている……。
シスター・ジェイムズから話を聞いたシスター・アロイシスは、これは不適切な関係に違いないと“確証”を得て(証拠じゃなくて、自分の中だけのイメージである確証、である)、この汚らわしい神父を追い出すことだけにやっきになる。
証拠なんてなくていい、本人に自白させればコトは済むのだ。そう強引に考えて、彼女はコトを進めるのだけれど……。

シスター・アロイシスを演じるメリル・ストリープは、さすがの鋼鉄の女が完璧である。その白い肌に、赤くふちどられた充血気味の目で、彼女の“確証”に向かって突っ走られると、もう邪魔立てなんて出来っこないのだ。
彼女の疑惑にかかると、無から有なんて、カンタンに生み出されるんじゃないかと思うぐらい。
……でも、彼女の執念が生み出したんじゃないけど、そう思えるぐらい、えっ?という要素が次々と現われるんである。そもそも渦中の生徒、黒人生徒のドナルド・ミラーが、ひょっとしたら一番謎の多いキャラかもしれないんである。だってつまり、彼が全ての真実を握っているんだもの。

シスター・アロイシスがドナルドの母親を呼び出した。それは、あなたの息子が神父の汚れた手によって汚されていると忠告しようとしていたのに……この母親は予想外の反応を示す。
いや、半分は、予想通りであったのかもしれない。現代でもそうだろうけれどこの時代は特に、黒人への差別意識は厳しかった筈。
ここはカトリックスクールだから、神の元で全ての人は正しいから、表面上はそうではないと、肌の色なんか関係ないという立場だけれど……でも実際、これまでスクールには白人しかいなかったのだし、ドナルドを迎え入れたことは、神の元に平等であるという教会の自尊心を満たしたとはいえ、本音のところはヤッカイモノに過ぎなかったに違いないのだ。
それが証拠にシスター・アロイシスは、懸念を率直に口にする。あの子は近いうちに他の生徒に殴られますよ、と。
何にもしてなくても、ってことである。ヒドい言い草だと思いつつ、ある意味ではシスター・アロイシスは現実を冷静に見ているのかもしれない、とも思う。でもその“冷静”は……クルリとカンタンに“差別意識”に裏返るのだ。

最終学年とはいえ、同い年の子供たちの中でもドナルドは飛びぬけて大人びて見えた。
彼だけが肌の色が違うことがそう思わせたのかもしれないけど……でもそれだけじゃない。彼が中途半端な時期にカトリックスクールに入ったのには、理由があったのだ。
シスター・アロイシスに呼び出されたドナルドの母親は、あなたの息子が神父と不適切な関係を強いられているかもしれない、と聞いても、それに対してはちっとも動揺しないのだ。
ただ、半年後の卒業を望んでいるだけ。それをとにかく優先してくれと言ってやまない彼女は、ヒドイ母親のようにも映り、そう思ったからこそシスター・アロイシスも思わず声を荒げた。
でも母親から返ってきたのは意外な言葉だった。どんな形であれ、息子のことを思っている人を私は支持する、と。加えてこうも言った。その“不適切な関係”を、受ける側も望んでいたらどうなのかと。涙と共に鼻水もたらしながら、彼女は訴えたのだ。

驚くべき台詞である。一人異端者であるドナルドは、それ以上に異端者であったんである。いや、そんな風に言ってしまうのはそれこそ、ヒドイ差別的感覚だけれど、ことこの時代に照らし合わせれば、そう言わざるを得ない。
でもそういう意味で言えば、ある意味、ドナルドはそれを表に出した、勇敢な少年であったのかもしれないと思う。あるいは彼こそが最も純粋で……少年的純粋さで、自分を偽ることが出来なかった、のだ。

ドナルドはゲイなのだと、母親は明かした。いや、そう明言はしなかった。ただそう受け取れる示唆をした。このあたりはさすが、絶妙である。
ここに至ってキャスティングの妙は、ドナルドが最も素晴らしかったとも思う。
年齢よりずっと大人びた、つまり諦念をたっぷり含んだ雰囲気、孤独をまとった空気、端正な顔立ち。それま見事に“少年の色気”を構成していたのだ。

この時代だから当然と言えば当然と思うけれど、ドナルドの父親は息子の“性癖”に嫌悪感を隠そうとせず、ひどく暴力もふるったんだという。当然、学校でも一人きりだった。
神の元に平等であるカトリックスクールでの彼は、さすがにそんなイジメには遭わなかったけど、でもやっぱり一人、だったのだ。
一人と言うのはそれだけで、たまらない色気を構成するもんなんである。手を差し伸べたくなる、孤独の色気。
でも、だからと言って、ドナルドとフリン神父の間に本当に何ごとかがあったのか。

シスター・アロイシスから問い詰められたフリン神父が「全ては言えない」と言った、その言えない部分は何なのか。
アロイシスが「前歴を突き止めた」と言った時には、それは鉄壁の証拠だ、と思ったけれども、それは彼女が一世一代ついたウソだったのだ。
純真なジェイムズは、「ウソをついたのですか」と非難する。と、アロイシスは、「神から遠ざかる。でもそれは、神のため」と言った。
……まるでそれは、新興宗教の頼りない神様を溺愛する信者の言い分のように思えた。
絶対的支配ではないのだ。でもそれは、ある意味健全なようにも思えてしまう。神に絶対服従するのではなく、神のために神に背くこともする愛。
でも、でもやっぱりそれは……。
ふと、神様の苦笑いが見えたような気がした。「それは、今風に言えば、ストーカーだよ」みたいな。

果たして本当に、フリン神父は“不適切な関係”に及んだのだろうか?
アロイシスの進言は、結局全面的には受け入れられなかった。彼は学校からは去って、ドナルドと母親は涙を流したけれども、沙汰は実質的に昇進の内容だったのだ。
ネタを提供したとはいえ、フリン神父の言い分を信じ続けたシスター・ジェイムズにシスター・アロイシスは常に冷淡だったけれど、全てが終わった後、シスター・ジェイムズの前で今までの彼女とはとても思えない弱々しい姿をさらすのだ。
「疑惑の念をぬぐえなかった」と。
それはつまり、神に仕えるものとしては、失格なんだよね。
彼女はそれを判っているからこそ、神のためなら神から遠ざかるとか逃げていたけれど、違うんだ。
神はただ、そこにいるもの。享受するもの。不変のもの。
そう、不変、なのだ。信者の解釈など許さない。そういう意味では、ヒトラーよりよほど独裁者だ。だけどヒトラーと違うのは……神の意志に背いても、おとがめがないこと。ただ、哀しそうな目で見守られるだけ。
でもそれが、信者にとっては何より辛いことなのだ。
シスター・アロイシスはその辛い視線を浴びてしまったのだろうと思う。

フリン神父が皮肉めいて説いた説教、「切り裂いた枕から飛び散った羽根を拾い集めることなど出来ない」という話が強い印象を残した。
無論、羽根は噂を意味する。どこまでも軽々と無数に飛び散る羽根など、拾い集めることは出来ない。一度撒き散らされた噂を回収することなど出来ないのだ。
そして、「人間は確信を持つことなど出来ない」とも。
それは、人が理解しあうことなど所詮出来ないとも言い換えられそうで、辛かった。

もともとは舞台劇というのは判る気がする。舞台の上で火花を散らす役者二人。
これほどやりがいのある作品はないだろうな。
日本版があったとしたら誰が合うだろうか、なんて想像してしまった。★★★☆☆


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