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「ち」


2009年鑑賞作品

チェイサー/  /THE CHASER
2008年 125分 韓国 カラー
監督:ナ・ホンジン 脚本:ナ・ホンジン
撮影:イ・ソンジェ 音楽:キム・ジュンソク/チェ・ヨンナク
出演:キム・ユンソク/ハ・ジョンウ/ソ・ヨンヒ/キム・ユジョン/チョン・インギ/チェ・ジョンウ/ミン・ギョンジン/パク・ヒョジュ/ク・ボヌ


2009/5/11/月 劇場(歌舞伎町シネマスクエアとうきゅう)
終わってしばらく、腰が立たない感じだった。外に出ても足に力が入らなくて、フラフラしていた。走ってでも早く家に帰って、ふかふかの飼い猫、野枝を抱き締めたかった。
あまたの新進気鋭の監督たちが、揃って絶賛している本作だったから、もちろん期待はしていた。予告編の壮絶な緊張感もその期待をあおってくれたし。
もちろん、期待に違わなかった。いや、そんな風に言うのもしっくりこない。これをもろ手を挙げて大絶賛するというのも、この凄惨な内容だけに言いづらいものがある。お前は残酷映画を観たいのかと言われそうな気がして。でも。

こんな圧倒的な力をスクリーンから感じたのは、いつ以来だっただろう。
役者は勿論、作り手の、まるで命がけのこの圧倒的な力。
目を背けたくなる残虐場面も、役者の、そして作り手たちの命がけの気持ちが、一部の手抜きも許さないことから起こることなのだ。
日本にだってこんな忌まわしい犯罪はいくらでもある。残念なことに、その点に関してはかの国に引けをとらない。 しかし、それをこんなにがっぷりと描けるだろうか。
不気味な犯人、見得や欲がうずまく警察内部、世間の最下層、風俗の世界でうごめく人々は、こんなに何人も殺されてようやく気付かれるほど、世間に見捨てられた人たちなのだ。
風俗先進国?の日本が、このテーマで先を越されてしまったことに、なんだか悔しく思うのも、ヘンな気がするけど……でも本当にそう思った。

予告編でドギモを抜かれたのは、そこではさすがに残虐シーンは示されていなかったから、不気味な連続殺人犯、ヨンミンの表情一発でだった。
彼は証拠不十分で一度釈放されてしまう。というのも、警察内部の見得の張り合いによるもので、そのことで最後の人質が殺されてしまうという、あまりにもあまりにもやりきれない結末が待っているんだけれど、このヨンミンが予告編で見せた、一時釈放された時の、斜め上を仰ぎ見てタバコをプカリとふかす、まるで何の罪悪も考えていない、ようやく出られたか、みたいな、不敵とさえ言えないフツーさに、ゾッとしたのだった。
演じている彼、ハ・ジョンウ、恐るべき才能。近年のギドク作品で重用されているので見覚えがあった。やはりギドク監督が目をつけている役者は違う、と思ってしまう。まさかこんな恐ろしい役をカンペキにこなすとは思っていなかったけど……。

ヨンミンのような青年は、日本にだってフツーにいる。外見は穏やかそうで文系の大学生、みたいな雰囲気。まさかそんな恐るべき猟奇的殺人に固執する異常者には見えない。でも、だからこそ彼がその表情を変えずに、恐ろしい殺人者の顔をこしらえないままに、鈍器を振り上げるのが恐ろしくてたまらないのだ。
そう、鈍器、なのだ。彼の殺しは決してスマートじゃない。恐ろしく愚直である。愚直であるが故に、とてつもなく恐ろしい。手足を麻縄で縛った女の頭にノミを当ててカナヅチで突き入れるという、信じられない方法をとるんである。彼に言わせればそれは最も苦しみが少ない方法で、家畜の屠殺を参考にしたというんだから、言葉もない。
銃や刺殺の方がよっぽどマシだと思うのもヘンかもしれないけど、彼の言いようがやっぱりヘンだと思うのは、そこに恐怖という一念が決定的に欠けているからに他ならない。手足を縛られ、頭にノミをカナヅチでブチ抜かれる恐怖を、彼が想像も出来ないという、その異常さに他ならないのだ。

それが、その指摘がまさに的確だったと思う。猟奇殺人の犯人を描く時に、単なる異常者として排除してしまうことに臆してしまって、結局は被害者側からの視点の湿っぽい話になってしまいがちなところを、鋭く切り込んだと思う。一見普通に見える彼のどこが異常かと言えば、まさにその一点だけだったのだ。
ヨンミンの足取りを追う途中、彼の故郷で一時同居をしていた姉夫婦に話を聞くくだりが出てくる。弟は数年前に出て行ったきり今はどこにいるか知らない、と応対する姉夫婦はどこか怯えている。叔父の名前を聞いただけでお漏らしをしてしまう程の恐怖のトラウマを抱えていた幼い甥っ子の様子で、一発で察せられた。彼の額には深い傷痕があった。
その現場を見たわけじゃない。しかし家に二人きり残された甥っ子の額をかち割ったのは、明らかにヨンミンに違いなかったのだ。

ヨンミンはその後、何の罪でか刑務所暮らしをし、身内とは連絡を断ち、そして……これまでも殺人事件の容疑者として捕らえられながらも、何度も証拠不十分で釈放されていた。
それは、彼があまりにもアッサリと「人を殺した」と供述するものの、その供述内容がアイマイなために、ヒヤカシだと思わされてしまうせいだった。無実の市民をとらえることに対する、世間の批判を恐れる警察の弱みをあざ笑うかのように。

今回もまた同じことだと、ヨンミンはタカをくくっていたのかもしれない。しかし彼がいつものように呼び出したデリヘル嬢の元締めが、元刑事でヘビのようにしつこい男、ジュンホだったことが運のツキだった。
いや……それまでも、ジュンホの元からヨンミンに派遣したデリヘル嬢が二人姿を消していて、彼はそれを、手付金を払った直後に逃げられたとばかり思っていた。しかし、いや、そのカネを横取りされて売り飛ばされたのだ、と考えを変え、そのデリヘル嬢を派遣していたヨンミンにアタリをつけて、次に派遣したミジンに、住所をメールで教えるように指示を出すんである。

このミジンが唯一、ヨンミンの残虐性を描写するための当て馬となるべき女性。幼い一人娘を抱える母子家庭で、身を売りながらほそぼそと生活を支えているっていう湿っぽさはなんとも韓国チックなんだけれど、でもこの設定こそが、ベタではあっても実に心に迫ってくるんである。
彼女が裕木奈江ばりの涙っぽいベビーフェイス美女であるというのも、彼女に襲い掛かる過酷過ぎる運命とあいまって、心の琴線が切れそうなぐらいに響きまくる。最初から悲劇を予感させるような湿度たっぷりの女なのだ。
彼女はあの殺人鬼に殺されかけてもかろうじて生き延びていた。必死の努力で手の麻縄を切り、ガラスを破って逃げ出し、最後の最後まで生きていたのに、助かった筈だったのに。

都会の喧騒の中、駐車している車に次々とピンクビラを差し込むチンピラ風の男、携帯で待ち合わせの男と行き遭い、車に乗り込む女、そして……閑静な住宅街で男の家に入り込んだまま、その駐車された車がそのまま落ち葉にさらされて放置されている……そんな、都会の喧騒と対照的に、入り組んだ住宅街の闇が印象的に示されるオープニング。
ヨンミンが潜んでいたのは決して狭くもない住宅街だったのに、彼の居所を突き止めるまでにこんなにも時間がかかったというのが、彼が定住を放棄していたことが一番とはいうものの、せいぜいが近所の雑貨屋にタバコを買いに行く程度の近所づきあいのなさと(これが、ラストの悲劇を引き寄せる……)、何より彼がのっとった屋敷が半地下の風呂場を備えていて、携帯の電波が届かなかったことにあるんである。

このあたりがいかにも現代的。ジュンホに指示されたミジンは、メールが送信できないことでパニックに陥った。彼女がシャワーを浴びる名目で入ったシャワールームは、赤黒い血で髪の毛がこびりついていたから。
まるで「悪魔のいけにえ」さながらに、“遺体を吊り下げる”鉤まで登場して、観客をゾッとさせる。そして……ミジンは哀れ捕らえられ、ノミとカナヅチで殺されそうになるという、想像を絶する恐怖を味わうのだ……。

最初、ジュンホは、ヨンミンは単なる風俗嬢の手付金横取りヤローで、連続猟奇殺人なんてそんな、大それたことが出来る訳がないと思っていた。
元の職場の警察の先輩にヨンミンの捜査を依頼した時も、そんな大それたことだとは思っていなかったから、ヨンミンを連続殺人犯の容疑者として捕まえた警察に、「コイツがそんなことする訳ないだろ」と、あくまで個人的遺恨でヨンミンに当たり散らすんだよね。
もし彼が、最初からヨンミンがイカレヤローで、捕らわれているミジンが死の危機にあるかもしれないと、ちゃんとそう思っていたら、もっと事態は違っていたかもしれない……。
勿論彼は、ヨンミンの足取りを追っていくうちに、どうやら最初に自分が思っていたのとは違う、トンでもない殺人鬼なんだと次第に気付いていくんだけれど。

ヨンミンを尋問する場面で、彼のバックグラウンド、というか、なぜこんな犯罪をするに至ったのかに迫る。それまでも、ヨンミンの客となったデリヘル嬢に対する聞き取りで、彼がセックスが出来ない青年であるということは若干示されてはいたけれど、それが実にセキララに示されるのだ。
尋問室で彼に対峙するのは恐らく、相当老練な刑事だと思われる。恐らく彼の図星だろうと思われることをズバリと指摘する。
自分が勃たないから、ノミを性器に見立てて女に突き立てようとしたのだろうと。それはある意味かなりカウンセラー的解釈ではあるけれども……でもヨンミンのうろたえぶりから見ると、それは図星を得ていた部分がかなりあるんじゃないかと思われるのだ。でもそれでヨンミンを追いつめたのかもしれないと思うと……。

そういう意味からでいうと、この猟奇殺人犯、ヨンミンのバックグラウンドはまだまだ不明な点だらけではある。
でも本作において、それは決して重要ではないのだ。むしろ今までのこうした映画作品が、そのことに固執しすぎていたような気がする。悼むべきは当然、被害者であり、その想像を絶する恐怖、突然断たれてしまったささやかな人生なのだ。
ジュンホは、女の子が足りないが故に風邪気味で休みを申し出ていたミジンをムリに派遣したことで気後れを感じていた部分もあったに違いない……まさかそれが、こんな凄まじい事態に発展するとは思っていなかっただろうけれど。

ミジンは母子家庭で、ブラジルにいる父親との間の娘がいる。どういう事情なのか……でも恐らく、彼女の客だったんだろうと思われる。
「バカなヤツ。サウジの男にしておけばよかったのに」というジュンホの言葉の意味はイマイチ判んないけど……石油王を捕まえておけば良かったってことなのかなあ……。
どっちにしろ、彼女のいたいけな娘は、ひとり、残されてしまった。いじらしいほどに、しっかりモノの娘。母親の髪の毛を採取されただけで、DND鑑定だと、何か大変な事態に巻き込まれたのだと察してしまう娘……。

ヨンミンが潜んでいたのは、世話になった教会の工事の指揮をとったパク執事の豪邸だった。
彼も、彼を心配して訪れた教会の関係者もブチ殺した。
9人殺した、と言っていたヨンミンが、いや12人だった、とアッサリひるがえしたのは、それを忘れていたからなのだろう。アッサリと、本当にアッサリと。
ヨンミンが車の後部座席に落としていた多数の鍵を元に、ミジンの行方を求めて  町の一軒一軒をしらみつぶしに調べるジュンホとその部下。
ようやく合ったと思ったあばら家はしかしヨンミンのかつてのムショ仲間で、一時身を寄せていただけの場所だった。
その壁には異様な画が一面に描かれている。ヨンミンが描いたという、残酷極まりない絵が。所狭しと。
恐らくジュンホは、この時ようやく、ヨンミンが人殺しを平気でする男なのだと、理解したに違いない。

本当に、もうちょっとだったのに。
ミジンは想像を絶する恐怖の中、必死に必死に縄を切って、ガラスを破って逃げ出すのだ。一体何時間かかったんだろう。血だらけで、体力もない筈なのに。周囲に放り出された凄惨な死体に悲鳴をあげながら、必死に、必死に。
ようやく外に出た彼女が最初に目にしたのは、犬が掘り出していた地面から覗いていた、だらりとした手!
必死に、必死に、外へ駆け出す。坂の下の雑貨屋に飛び込む。驚く女主人に、「警察に電話して!」と叫ぶ。
この時には、ああ良かった、助かったと思ったのに……。

ヨンミンが釈放されたことを知って、ジュンホは必死にミジンの行方を追っているのね。
その時、彼女は彼に電話をかけている……なのに、なのに必死に走っている彼は気づかないのだ!
そして……あの女主人は、殺人者が近所にいるということにおびえて、タバコを買いにきたヨンミンこそがその恐るべき殺人者であることにちっとも思い及ばず、彼を用心棒として招きいれてしまうのだ!
バカ!バカ!バカヤロー!!!
もうその後は……もう、言いたくない。
アッサリ撲殺された女主人、奥の部屋に、ヨンミンが来たことに気づいているのかいないのか、もはや疲労困憊の体で座り込むミジンをヨンミンは仔細に眺め、爪の間にびっしりと入った血と汚れに、目を止めた。

「笑わせるぜ」

何がよ、何がだよ!!
ここまで、ようやく、ようやく逃げてきたのに。
何度も振り下ろされるカナヅチ、まるで思い出のようにゆっくりと、噴水のように血が噴き出す。何度も、何度も……。 なんでだよー、もうヤダよー。

しかも、この時ミジンはここに警察を呼んでいたのに、またしてもヨンミンは逃げてしまうのだよ。
目を覆う凄惨な現場に、言葉もないジュンホ。 携帯の着信にようやく気付いた。
「怒るかもしれないけど、もう私、この仕事辞めます。怖くて怖くて……」
どうして、どうして、彼女を助けてあげることが出来なかったんだ……。

そしてようやくヨンミンが潜んでいる豪邸に辿り着くジュンホ。こともあろうに水槽の中にミジンの頭部が……てことは、ヨンミンは彼女を容赦なく殺した後、ここまで運んできたの?それともまさか、頭部を切り落として?やめて、やめて、本当にやめて……。
ここでの二人のバトルは、ここまで何人も平気で殺してきたヨンミンの不敵な笑いと、コイツなんかブチ殺してやりたいと思っているジュンホとが容赦なくぶちのめしあって、凄まじいったらないのだ。
本当に、あと少しのところで、ジュンホはヨンミンを殺してしまうところだった。こんなヤツ一人殺したところで、返ってこない女たちの命。社会の最下層で必死に暮らしてきた女たちの、ささやかな命。
ようやく乗り込んできた刑事たちが、ジュンホを必死に羽交い絞めにする。そうだ、彼の気持ちは判るけど……こんなヤツのために人生を棒に振ることはないのだ。
でも……でも!

ジュンホはミジンの娘が眠る病院へと向かう。
一体彼女にどう母親の死を伝えたら言いのだろう。
すやすやと眠る娘、窓の外には無限に広がる都会の夜の摩天楼。

監督が、組織の中の人間は一体化してしまう、と語っていた。それがヨンミンを暴走させ続けた。その視点は、ズバリだった。
犯罪者に人格を認めるかで描き方が決定的に違ってくると思う。
でも意外だったのは、監督にとってはジュンホもヨンミンと変わらない「理解したくもない男」だということ。
だからか、正義をふりかざしているようなイヤミがないのは。
ジュンホだって、どんなバックグラウンドがあるのか判らない、女たちは単に彼の仕事のコマだった筈の男だもの。

ヨンミンが潜んでいる住宅には多くの協会が点在していて、夜景に十字架がぽつぽつと浮かんでいる。
韓国はホント、キリスト教徒が多いんだよね。監督自身もそうだと言う。その十字架の元での殺人。まさに神をも恐れぬ残虐さ。

それにしても緊迫感がもの凄かった。殺人的な撮影が生み出す緊張感だったという。役者が突発的に繰り出すチェイスもそのまま採用されたのだと。
それにしても凄かったハ・ジョンウ。彼が加護ちゃん風の女刑事(しかし彼女の非情さがまた、カッコイイのだ)に「生理かい?なまぐさいニオイがする」とニヤリと笑った血まみれの顔にはゾッとした。コイツは女をそもそもブタのような家畜程度にしか思っていないのだと思った。
どうしてそんな殺人者が生まれてしまうのか、その謎は永遠に解けない。彼もまた神の元に産まれてきた筈なのに。そう思うとやりきれない。★★★★★


チェンジリング/CHANGELING
2008年 142分 アメリカ カラー
監督:クリント・イーストウッド 脚本:J・マイケル・ストラジンスキー
撮影:トム・スターン 音楽:クリント・イーストウッド
出演:アンジェリーナ・ジョリー/ジョン・マルコヴィッチ/ジェフリー・ドノヴァン/コルム・フィオール/ジェイソン・バトラー・ハーナー/エイミー・ライアン/マイケル・ケリー/ジェフ・ピアソン/デニス・オヘア

2009/3/24/火 劇場(渋東シネタワー)
恐るべきイーストウッドの厳しさ。彼の厳かとさえ言える厳しさには(あ、同じ字だ!)、いつもいつもただこうべを垂れるしかない気持ちになってしまう。
演技派とはいえ、このゴージャスなセレブ女優に、くすんだおしろいも痛々しい女を演じさせるとは、と。これが「ミリオンダラー・ベイビー」ヒラリー・スワンクだったら判るんだけど、今をときめくアンジェリーナ・ジョリーにそれを当てたというのは驚いた。
彼女ならヒットに導けるという当て込んだ気持ちは……いやいや、製作陣ならともかく、彼自身にはあるまい。彼はその厳かな目で、彼女にその役を生きる資質を見い出したのだ。
そのめくれあがったセクシーな唇も、この物語には通用などしない。彼女は心身ともに傷だらけになり、何リットルもの涙を流し、それでも諦めずに何度も立ち上がるのだ。

……そういう意味では、ザ・タフな女のジョリーがこの役を与えられたのはなるほど、必然だったのかもしれない、と思う。
彼女の強さは、物語の最後にはなかば病的とも思える執念にさえ感じるほどなのだけれど、それでもそれを、彼女の強さと感じさせるのが凄いんであり、もちろんそう導いたイーストウッドの凄さでもあるのだと思い至る。
舞台は1928年、ロサンゼルス。クリスティンは女手ひとつで最愛の息子、ウォルターを育てている。電話会社につとめる彼女はローラースケートをはいて交換手の間を行き来し、指示を出し、トラブルを解決するキャリアウーマン。
ローラースケートというのは時代考証の上で採択されたというけれど、この画は実に新鮮でスリリングである。

でもこの段階から彼女の、その白っちゃけたメイクが気になったんだよね。なんか鈴木その子ばりに浮き上がってるようで……。
で、その白っちゃけ加減は、彼女が追いつめられるほどにどんどん程度を増してくる。彼女が最大に追いつめられる時には、目の下のクマやら涙で流れたアイメイクやらで、オバケみたいになってきちゃう(爆)。こ、これって、セレブ女優に対して、い、いいの?と思っちゃうほどの崩れようなんである。
でもね、ラストに、“病的と思えるほどの執念”で息子を探し続けることを決意する彼女は、イキイキとした肌の輝きを取り戻しているんだよね……なんていうか、その時に、女の新時代の幕開けが示されたようにも思った。

思えば、ベタベタの白塗りで、キャリアウーマンのさきがけを行く彼女は、大いに武装していたんだろうと思う。恐らく彼女のことを憎からず思っている上司から認められての昇進の話も、息子第一の彼女にとっては「その話は明日に」とすげなくしてしまうほど。
でもその“武装した強さ”は、かりそめのものに過ぎず、彼女の真の強さは、根本の強さは、もっと別のところにあったんだよね。それが息子を失ったことで獲得されるというのが何とも皮肉で……痛々しいんだけれど。

その日、息子と楽しい一日を過ごす約束をしていたクリスティンは、しかし人手が足りないという職場からの要請に従わざるを得なかった。約束は一日順延、暗くなる前に帰るからとウォルターに約束して家を出たけれど、結局家に戻ってこれたのは、あたりがぐっと暗くなってからだった。
家に戻ってみると、ウォルターの姿がない。冷蔵庫に入れていたランチも手つかずのまま。

胸騒ぎを抱えて探し回るクリスティン。しかしどこにもいない。近所の子供に訊ねても、手がかりは得られない。まさに息子は忽然と消えてしまった。
警察に捜索の要請をするも、いなくなってから24時間は動けないと冷たく言い渡される。「朝になったら帰ってきますよ。そういったケースが殆んどです」まるで、危機感がなかった。
ウォルターは遊びに出たまま帰ってこないような子じゃない、と涙ながらにクリスティンが訴えても、「親御さんは皆、そうおっしゃいます」とにべもなかった。
しかし朝になってもウォルターは帰ってこず、ようやく動き出した警察だけれど、その警察こそが、クリスティンにとって大いなる敵になるのだ……。

最初にクリスティンが警察に電話をした時の相手の応対には、これだからお役所仕事は、とムカついたけど、それこそ“お役所仕事”程度にしか思ってなかった。まさか、こんなヒドイ対応をされ続けるとは思ってもみなかった。
パッケージとしては、アンジェリーナ・ジョリーが体現する、闘う母親の強さ、みたいな感じだったから。
勿論それはそうなんだけど、それだけに敵が強力な訳で……恐らくイーストウッドはそっちこそを、絶対的権力の横暴さこそを、描きたかったのだ。

実話に基づいた話ということだし、確かに当時、ロス警察は汚名高き組織だったのだろう。それに対するダイレクトな厳しさに、いくら昔の話とはいえ……とイーストウッドの覚悟を思って身が縮こまる思いがする。
いや、恐らく、それに留まらないのだろう。そこに題材をおきながら、イーストウッドは権力への強い憤りをストレートに示している。
それに対する市民という題材として、母親というキャラは、一見弱い女、あるいは確かに弱いところから出発する女が、愛する存在のためならどんどん強くなるという点で、“最強の市民”なのだろう。
彼がヒロインを仕立てて映画を撮るのは、フェミニストなのではなく、女こそが市民を代弁できる存在であると思うからなのではないか。

息子が帰ってこないまま数ヶ月が経ち、思いつく限りの活動を続ける日々、すっかり憔悴したクリスティンの元に届いた朗報、ホームレスの男に連れ回されていたウォルターが保護された、というものだった。
その直前に、ホームレスが無銭飲食をしたまま少年を置き去りにするシーンがあり、その子がウォルターとしてクリスティンの前に現われる訳だが……そう、まったくの別人なのだ。
彼はそれでもしれっと僕はウォルターだと主張し、アゼンとしたクリスティンに、ママ、と抱きつく。感動的な母子の再会にマスコミは大挙して集まり、「この子は息子じゃない」とつぶやくクリスティンの言葉は、警察当局の「何ヶ月も息子に会っていないことで混乱している」という決め付けで一蹴され、こわばった顔のクリスティンと謎の男の子のツーショットが新聞に掲載された。

この時には「本当に息子じゃないと言うのなら、何でも力になる」とか味方めいたことを言っていた警察は、しかし実際にクリスティンがそう訴え出ると豹変した。
あなたは母親としての義務を放棄するのかと。息子がいなくなって独身生活を謳歌できて、邪魔になったのだろうと。
身長が低かったり、割礼されていたことさえ、まるで彼女自身が証拠作りに虐待したみたいな、蔑んだ視線を向けたのだ。

後半になってくると、ウォルターが巻き込まれた恐るべき連続殺人鬼の存在が明らかになり、物語は“息子探し”から転換しそうにもなるんだけど、そうした大きな要素が提示されても、やはりメインはクリスティンの息子への愛と、その消息を探す部分からブレないのが凄いんである。
だって、この殺人鬼のエピソードは、ちょっとしたホラー映画になりそうなぐらい恐ろしく、恐らく少年を偏愛したためにそんな凶行に至った犯人の造形も生理的に受け付けないキモさで、生ぬるい母子愛ならば、かき消されてしまう程に違いないんだもの。

でも、生ぬるいなんて次元じゃなかった、ってことなんだよね。クリスティンの強さは並み大抵じゃなかった。
母子家庭なんて他にいくらだっているだろうに、彼女の息子への尋常じゃない愛の強さは一体どこからくるんだろうと思う。もちろん、自分が留守の間にいなくなってしまったという罪悪感もあるとは思うけれど。
こういうのを見せられると、母親という道を避けて安楽な人生を送っている自分がなんかハズかしくもなるのは事実なんだけど……それこそだから、母親の強さを獲得できない女が増えているから、今の世は脆弱になっているのかなあ。

クリスティンに最初の手を差し伸べたのは、ロス警察の汚職と怠慢に警鐘を鳴らしている正教会だった。世間への周知活動、精神病院にブチこまれたクリスティンを救出、訴えと弁護と、最後まで彼女を支え続けた。
ことに、世間の同情を集め始めた矢先に、クリスティンを疎ましく思った警察によって容赦なくぶち込まれた精神病院という名の拷問牢獄から救い出してくれたのは、本当に溜飲が下がった。
けれども、やっぱりそこでも、彼女は自身の強さを曲げないんだよね。
クリスティンが救い出されたのは、彼女自身の強さで心が折れずにいられたからだし、しかもその上彼女は、そこに収容された、男たち、ことにロス警察の男たちのくだらないプライドによってぶちこまれた女たちを全員解放したんである。このエピソードは、ここだけは、なんかハリウッドらしい出来すぎた爽快さのようにも感じたけれど、なんたって実話だというんだから、余計な口は挟むまい。

しかしなんといっても、中盤のテンションをさらう、少年連続誘拐殺人鬼である。よもや、ウォルターが行方不明になった時には、こんなすさまじいエピソードが隠されているとは思ってもみなかった。
どこかヒマつぶし気味に不法滞在者の捕獲に向かった刑事が、思ってもみない事態に遭遇するんである。その不法滞在者とともに暮らしていた、彼のいとこであるという少年が、保護されてからずっと怯え続けていた。幻覚さえ見ていた。
そして少年は、告白した。地獄には行きたくない。僕はやりたくなかったんだ、と。
少年が告白したのは、恐るべき偏執残虐犯罪の全容。
巧みな言葉で男の子たちを誘い出して車に乗せ、監禁した上に惨殺する。その武器に使われた何丁もの刃物が、これ見よがしにファームのあちこちに置かれていた。

このエピソードに、……いわゆる性的暴力はなかったんだろうかなどと考えてしまうのは、実にヤボなんだけど、やっぱりどうしても、考えてしまう。
あったのかもしれない、それをあえて監督が描写しなかったのかもしれない。もしそうだとしたら、それはそれでイーストウッドらしいとも思う。
ここで示されるのは、ウォルターが、そう、クリスティンの最愛の息子が、勇敢な行動をとり、それによって命を落とした(かもしれない)ということ。
“かもしれない”というのは、クリスティンがそう思いたい、ということなんだけれど。
犯人は結局最後まで、ウォルターを殺したと名言はしなかった。それを告白するために処刑前日、クリスティンを呼び出したにも関わらず、彼女の真摯な瞳の前に、言えなかった。そしてクリスティンが冷静に見守る前で、彼はブザマにうろたえたまま、13階段の上で露と消えた……。

この場面は、衝撃なんだよね……これまで幾多の、死刑執行場面を映画で見てきたけど、床板が外れて、ぶら下がって、四肢が痙攣してそれが静まるまでって……それを冷静にカメラが見つめてるって、見た覚えないんだもん。
いや、「ダンサー・イン・ザ・ダーク」はやってたかな……でもあれは、思い出しくない、希望も何も皆無な、痛々すぎる、激痛映画だったからなあ……。

その後、もう何年も経ってからね、この犯人の手から逃れた一人の少年が現われて、ウォルターに逃がしてもらったと告白するんだよね。
それを聞いて、クリスティンは「息子だってまだどこかで怯えながら生きている」と信じて、そう、死ぬまで探し続けることをやめないのだ。
この少年の登場は、しかしリアルに痛々しくて。彼は犯人の手から逃れ、事情を聞いて保護してくれた家庭で暮らしてきた。怯え続けながらも、幸せだったと思う。
それでも、その怯える気持ち、外に出たら犯人に見つかってしまうという気持ちを抱えながらも彼が戻ってきたのは……「ママに会いたかった」からだと言うのだ。
最後に別れた幼い頃から、もう大人びた少年になって、それでも、「ママに会いたかった」というのが、もうホントにホントに、胸に突き刺さるんだよね。
パパの立場がないとも思うんだけど……(爆)。
でも、それを聞いてしまったからこそ、そして、この少年を逃がしたというウォルターの、誇るべき息子の話を聞けたからこそ、クリスティンは決意するのだ。
「まだどこかに怯えて隠れている。私に会いたいと思っている」と。探し続ける、ことを。

クリスティンが、精神病院という名の地獄に押し込まれた場面が一番キツくて、いわば見せ場だったと思う。必死な主張は思い込むあまりの精神的病と見なされ、ここから出る術はただ、「警察の言うことに従うこと」の誓約書にサインすることだけなんである。
ここには横暴な男によって理不尽に地獄に突き落とされた女たちが、もう諦めて、狂うしかなくなって、ただただ日々を過ごしている……と見えながらも、諦めていない数少ない女性が、クリスティンをひと目で見抜くんだよね。自分たちをこの地獄から救い出してくれるかもしれない、あるいは彼女だけは、この地獄から抜け出せるかもしれない、って。
これはいわば、女のカンというヤツかもしれない。で、それが見事に当たるんである。そのために彼女はスタッフに憎まれ口を叩き、みるもおぞましい電気ショックの拷問にかけられるんである。……それもこれも、史実を忠実に再現しているんだろうと思うと、本当に身の毛がよだつばかりで……。

本当はね、最初、クリスティンがなぜ、もっと近所の人々に助けを求めないんだろう、って思ったんだよね。あのムカつくJ.J.ジョーンズ警部(もー、マジでぶっ殺したい!)によって、“息子を受け入れようとしない母親”の烙印を押されたクリスティンだけど、近所の人ならニセ息子だって判るはずだし、学校だって……。
後に、歯医者さんや学校のセンセが、この“ウォルター”はホンモノではないと証言を約束してくれはするけど、なんか遅い気がして。
でもそれは、やはり女ひとりで生きてきたクリスティンだったから、なのかなあ、などとも思う。しかもそれが先進だった時代だから、風当たりも強かったのかもしれない。

そういやあ冒頭、ウォルターが同級生とケンカしたっていうエピソードが出てきて、「パパがぼくを嫌いになったから出て行った、って言ったから殴った」と、うつむく息子に、「パパはあなたが生まれた時に届いた、箱の中から出てきた責任というものを恐れて、出ていっちゃったのよ」とクリスティンが言うとね、彼はママを見上げて、「バカみたいだね」と言う。するとクリスティンは救われたように笑って「ママもそう思うわ」と言うのね。
パパがいない理由を、この時点まで言ってなかった、言えなかったことを思うと、ただただ女ひとり、頑張るしかなかった彼女のこれまでに胸が詰まる思いがするのだ。

個人的には、やっぱりクリスティンに、女としての幸せを獲得してほしいとも思うのだが……。
というのも、数少ない理解者の一人、会社の上司は彼女を物語の冒頭から憎からず思っててさ、で、ある程度事態が収拾した後、アカデミー賞発表の夜、クリスティンをデートに誘うじゃない。でも彼女は、残業を理由に断わる。
それでも「私の予想してる『ある夜の出来事』が受賞したら電話をちょうだい」と言う。評判の高い『クレオパトラ』より、絶対『ある夜の出来事』なんだから、と。そのあたりにイーストウッドの映画愛も垣間見見られて嬉しいし、そのエピソードに見守り続けた上司の思いも絡められているのも、クリスティンの今後の幸せを思わせて嬉しい。
ただその後、生き延びたあの少年の登場で、クリスティンが息子を探し続けることを改めて決意するから、女の幸せを獲得したかどうかはキビしいところなのだが……。

でもね、ラスト、高らかに「私を待ってどこかで怯えている」と信じ続けてこれからの探索を決意するクリスティンが、それまでの痛々しさとは全然違って、凛とイキイキと美しかったから。
でもそれは、複雑な気分ももたらして、だからこその、この作品の深さを感じもしたのだけれど。★★★★☆


ちゃんと伝える
2009年 108分 日本 カラー
監督:園子温 脚本:園子温
撮影:上野彰吾 音楽:原田智英
出演:AKIRA 伊藤歩 吹越満 綾田俊樹 諏訪太朗 佐藤二朗 でんでん 高岡蒼甫 高橋恵子 奥田瑛二

2009/8/28/金 劇場(シネカノン有楽町1丁目)
園子温監督にはいつも驚かされるけれど、今回は、こんなまっとうな、王道な作品を園監督が撮るなんて、という部分でのオドロキだった。
いや、そんなことを言ってしまったら、いつもまっとうではないみたいな言い方だけど……しかもまっとうって何なの?とも思うし。
でもやはり、オドロキだった。あの園監督が、死を介して向き合う父と息子の物語を撮るなんて。
しかもそのテーマだけじゃなく、何の奇をてらった画や演出もなくて、更に驚く。誤解を恐れずに言うならば……こういう“普通の”映画を園監督が撮るなんて、というオドロキだった。

しかし、やはり普通ではない部分が、しかもしかもクライマックスに現われるあたりはやはり園監督の“らしい”ところか。
一度棺に入った死体を背負っていくなんて、よもや思わない。しかしそのドギモを抜かれる画がまさに感動のクラマックスなんだから恐れ入る。
これは園監督が、亡き父親に捧げて作った映画なのだという。まさか彼がその通りにしたわけではなかろうし(園監督がガンな訳でもないんだから)、あくまでフィクション。それは判っているんだけれど。
でも、だとしたら、ひょっとしたら園監督は……、そう、したかったんじゃないだろうか。

私は幸いにして、まだ親を亡くした経験はない。でもきっと、その時を迎えたら必ずこう思うだろう、と思うことはある。生きている間に、こうしてあげればよかった、こんな話もすればよかった、いくつも出来ることがあったハズなのに、って。
それを、本作の主人公にして、確実にその監督自身が投影されている筈の史郎は、しかしやはり生きている間にはそれを叶えられないのだ。時間もチャンスもきっとあった筈、なのに。
彼が、父親の死体を背負ってまで、つまりはもう死んでいるのに、交わした約束を叶えようとするのは……結局子供はその程度でしか、親にしてあげられることはない、という自嘲であり……その程度でもいいからしてあげたい、という、してあげたかったという、ギリギリの叫び、なのかもしれない。

……と、またやたら先走ってしまったけれども。そう、ホント、驚いたのだ。園監督がこんなまっすぐな映画を撮るだなんて。
正直、こういう映画は筋だけ見ちゃえばいくらだってありそうなんだけど……目新しいとしたら、病魔に冒された父親と同じ病気に、しかも父親を追い越しそうな悪性のものにかかっちゃって、病気の父親が自分の死を看取るかもしれない、というギリギリの状況におかれる、という部分だと思うんだけど……別に殊更にそれを強調して、どっちが先だ、みたいな展開になる訳じゃないんだよね。
結局は最後まで、父親は息子の病気を知らずに逝ってしまうし、母親にも勿論、自分の病気のことは告げていないままラストを迎えるし。

ただ、恋人にだけは、伝える。ずっと言えなかった。高校時代からの、長い付き合いの彼女。勿論結婚するつもりで、でも父親の病気でその予定がのびのびになっていた。もう家族公認の仲だから、自分の病気のせいでと、父親は二人の結婚が延期されているのを心配していたんだよね。
もし、そんなブランクがなく、二人がもう結婚していて父親が病気になり、彼の病気が発覚したら、どうなっていただろう。
もしその時点で子供なども授かっていたら……。
でもその、タラレバばないからこその、この物語、なのだ。そしてまさにそれは、晩婚化が進み、結婚のキッカケを失っている現代のカップルの一つの形であり、そこで二人の、というより彼女の出す結論が、胸に迫るのだ。

そう、そのタラレバがもしあったならば。たとえばもう結婚していたなら、もう子供が授かっていたなら、やはり出す答えは同じだったにしても、その理由は違ったと思うんだよね。
それは多分……そういう条件に縛られたそれだったと思う。
彼女、陽子は、恋人の父親であり、高校時代の厳しい先生であった史郎のお父さんの死に際して、もう身内であるかのように深く悲しむし、史郎の行動に対して、もう女房であるかのようにその非を周囲に詫びたりもする。
もう結婚しているも同然といっていい間柄、だけど、でもやはりまだ、結婚はしていない二人なのだ。

だからこそ史郎は陽子に、自分はガンだから、もうかなり悪くて、先の時間もない、自分と結婚すべきじゃないと告げ“られる”。
これが結婚していたり、子供を授かっていたりしたら……離婚という決断を持ち出すのは双方にとって重すぎて、でも、お互いに気を使ったまま、悪いと思ったまま、最期まで過ごしてしまうのかもしれない。
だからこれは……ある意味、とても辛いけど、幸せな蜜月なのかもしれない、のだ。

陽子は、恋人の余命いくばくもない運命を知って、当然ひどく動揺したけれど、でも彼女ももう大人だから、涙を流した後は、時間をかけて飲み込んで、そして言った。
「私は、結婚するよ。たとえ史郎の人生が明日で終わっちゃうんだとしても、史郎の人生に最後まで付き合う。それが夫婦ってもんでしょ?」
途中何度もつっかえて、涙を飲み込みながらも凛として言い放つ陽子=伊藤歩の美しき決意に、涙がボロボロこぼれてしまう。
父と息子のクライマックスよりも、むしろここが、……監督の理想、だったのかもしれない。
彼女は彼の両親を見ていたからこそ、この結論に到達したに違いないんだもの。そしてそれこそが、人としての、夫婦としての、親としての、生き方を伝えていくことなんだろうと思う。

園監督の作品に、奥田瑛二が出るっていうのがスリリングだった。彼もまた、鋭敏な役者人生を送ってきた人だし、そして鋭敏な監督人生を歩み続けている人でもある。
いわゆる“スパルタな父親”役なら、他にいくらでもいそうなところを、奥田瑛二、というのが、園監督のチョイスらしい気がした。
そして母親が高橋惠子というのも。彼女もまた、これまで鋭敏な女優人生を送ってきた人だから。それこそ、穏やかな母親役ならいくらでもいそうなところを高橋惠子、というのはかなりグッときた。

冒頭は、高橋惠子がいつも隣に寝ている筈の夫のカラッポのベッド、その空虚なシーツをなぜるシーンから始まるのね。
なんたって奥田瑛二と高橋惠子だから、もうこんないい年であっても、ちょっとそんな、ラブっぽい気分を違和感なく感じさせるのよね。それを裏付けるように、入院中の夫が「あっためておきました」と布団をめくって、ぽんぽんと空いたシーツを叩く場面ナゾも用意されている。妻は「失礼しまーす」とちょっとおどけて彼に頬ずりをし「久しぶり……」とつぶやくのだ。
勿論それは、ナマな想像ばかりじゃなくて、むしろ二人のそれまでの穏やかな夫婦人生を想起させるものなんだけど、でもやはり奥田瑛二と高橋惠子だからさあ、何ともこう、ドキドキしちゃうのよね。

この厳格な父親は、高校の名門サッカー部の有名な鬼コーチだった。息子も強制的にサッカー部に入れられ、学校で父さんと呼ぶだけで罰金をとられるような、一歩間違えればグレかねない過酷な学生生活を送ったんである。
でもその高校生活で、生涯の友人や恋人も見つけた。タウン紙の編集部に勤める史郎にとって、サッカーの経験が特に仕事の役に立っているという訳ではないけれど、学生時代の延長のようにジョギングしながら仕事に向かい、ストイックな生活を送っていた。充実していた。
しかしそんな中、あの厳しい父親が倒れた。
史郎はそれ以来、毎日父親の病室を訪ねることを日課にした。これまではただ怖いばかりだった父親と、不思議と友達のように打ち解けられた。
父親から、お前と一緒に湖に釣りに行きたいと打ち明けられた。そのために釣竿も買ってあるんだと。
そんなことがなかったら、こんな風に父親と打ち解けられることもなかったのだとしたら……それは皮肉なのだろうか。

史郎にとってはずっと、ただただ厳しいだけの父親だったから。
けれど……そんな高校時代の彼の記憶の中で、ただ一つ、意外な父親の姿があった。
ちょっとだけ解放感を得たくって、ちょっとだけ……悪い仲間と遊んだ。アッサリボコボコにされて……そこに警察が介入してしまって、史郎だけが取り残された。
迎えに来た父親にひどく叱られるとばかり思っていたら……父親は、何も言わなかったのだ。
その時の記憶が、大人になってからの彼にオーヴァーラップするのだ。
今まで見たことがなかった、黙って自分のために頭を下げる父親の姿。そして、帰るぞ、と促して先に歩き出した、寂しげな背中。
それは、その小さな父親の姿は、……今の優しく打ち解けた、だからこそ哀しいほどに頼りない父親の姿に重なるのかもしれない。

やはり何といっても、史郎を演じるAKIRA氏である。彼をスクリーンで見るのは二回目。「山形スクリーム」の訛りまくった純朴な青年がやたら可愛くって、ええ!?この彼がエグザイル?とか、ワケの判らないコンランをきたしてしまった訳で。
まああの作品はとにかくテンションまくりだったから、これじゃあワカランわと思ってた矢先に、なんと単独主演。
正直演技的には多少のぎこちなさは否めないながらも、竹中直人、園子温というトンガッたクリエイターにたて続けに起用されるのが判る気がする柔軟さ。

メッチャフツーのお兄ちゃん、そして驚異的な素直さ柔らかさ、なんか心を掴んじゃう無垢さ、何ともいいがたいチャームがあって、エグザイルに興味はないけど(爆)、彼のこれから先の役者人生には、すこぶる興味がわいちゃったなあ。
それに、キメの場面ではグッとくる表情を見せるんだもん。
父親の遺体を背負って湖へ向かった場面、追ってきた参列者に振り向いて、もう少しだけ!と頭を下げた時の、とり憑かれたような鬼気迫る表情には……ここ一発を押さえておけば、少々のことは許せちゃう?

結構、時間が交錯しているんだよね。倒れた時父親が握っていた蝉の抜け殻。その抜け殻をトロフィーやら賞状やらの父親の功績がつまった書斎に隠された釣竿に、史郎がそっと乗せておく。
陽子を書斎に案内した時には、史郎自身のガンはまだ観客に明かされておらず、ぽとりと落ちた蝉の抜け殻をただ彼はじっと見つめているのだ。
蝉の抜け殻、それは何を示しているんだろう。もう肉体のない抜け殻、とカンタンに想起は出来るけれど、でも作品のラスト、父親はそれを握って「ちゃんと伝えなきゃな」とつぶやいた後……倒れるのだ。

つまり、ラストから全てが始まっていて、そしてその時の台詞がタイトルになっていて、でもその父親の「ちゃんと伝えなきゃ」ということが何のことだったかは、結局は明かされない。
勿論彼が、そこまでハッキリとした何かを思って、その言葉を発したのではないと考えた方が自然ではあるんだけれど。
あくまで彼は、蝉の刹那な生涯に思いを馳せて、ふと自分の運命を察知して、伝えていくべきことはちゃんと伝えていかなければ、という意味でつぶやいたに過ぎず、それが、息子と二人、静かな湖で釣り糸を垂れたい、ということだったのかもしれず。
……でもやっぱり、伝えきれない何かがあったような気がしてならない、のだ。

きっと父親は、いや人間は、誰もが“ちゃんと”伝えられずに人生を終えていく。
“ちゃんと伝えよう”と思うのは、そのせっぱつまったキッカケがなければ思わないから……その時は大抵、もう遅いのだ。
だから、この年若い息子にもせっぱつまったキッカケを与えたんじゃないだろうか。そう、監督は喚起したかったんじゃないんだろうか。

本当に、本当にベタだけど、“ちゃんと伝える”ことは、たったそれだけのことが、とても難しいんだと。
あっさり、タイミングを逃がしてしまうんだと。
それを悔いるあまり、約束を果たしに父親の死体を背負って湖へと向かうような“暴挙”に出るしかないんだと。 ……これは、シュールに見えながら、かなりナマな人間像なのかもしれないって。 ★★★☆☆


超いんらん やればやるほどいい気持ち
2008年 分 日本 カラー
監督:池島ゆたか 脚本:後藤大輔
撮影:清水正二 音楽:大場一魅
出演:牧村耕次 千葉尚之 倖田李梨 青山えりな 川瀬陽太 なかみつせいじ 日高ゆりあ ジミー土田 野村貴浩 大場一魅

2009/6/21/日 劇場(テアトル新宿/第21回ピンク大賞AN)
2008年度ピンク大賞第一位作品であり、監督賞、脚本賞、女優賞などなどを総なめにした作品。

池島監督は「81/2」をやりたかったのだと言う。脚本の後藤氏にそう依頼したのだと。私は遠い昔、確かに観た筈のフェリーニのかの作品を思い出そうとしたけれど、当時の自分には難しすぎて困惑した感覚しか思い出せなかった。
いやそれは、今の私でもそうじゃないかと思う……すこぶる自信がない。やはり映画の作り手である人にとってあの名作は、特別な感慨をもたらすものなのだろうと思う。でも少なくとも池島監督の81/2は、大きく私の心を跳ね回った。

こういう作品を作れてしまうことが、ピンク映画の恐るべき自由さ、恐るべき懐の深さだと思う。そしてこれを1位に選ぶピンク映画ファンたちは、まさに映画ファンとしての矜持をしっかと持っている。そのことに、感動した。
私はこうして一般劇場にかかるチャンスを狙ってしか足を運べてないけど、それさえ、この日壇上に上がった池島監督が肯定してくれたのが嬉しかった。

老監督がいまわの際で回想する映画人生。先の見えない舞台役者だった時代から、お前なんかに才能がないと言われる度に、自分は映画監督になりたいのだと彼は思っていた。
確かに大根役者だった彼は、当時の恋人から見限られても仕方がなかった。何が映画監督よ、とひどい言葉をなげつけられて、彼女がエリート警官と結婚してしまっても、言うべき言葉など持てる訳もなかった。
役者、そして映画監督、成功すれば華やかなれど、夢見ているうちはこれほど悲惨な状態はない幻のような職業。役者時代の彼は、彼女にアイソをつかされても仕方なかった。
女には幸せになる期限が限られている。こんなこと言いたくないけど、確かにそうなんだもの。だから女はこんな風に俗な悪役になりさがらずを得ないのだ。女に子供を産む機能なんてなければ良かったのに。

……私はきっと、この作品を正しい観点から観ていないんだろうと思う。ひょっとしたら、フェリーニの「81/2」に拒否反応を示したのも、そんな感覚があったかもしれない。
男は一生夢見ていられる存在。だからこそ愛しいけれど、だからこそ憎たらしい。男が夢見る女はいつだって若くて美しいのだ。
いまわの際の彼の枕もとには波乱万丈の運命を共にした女がいるけれども、それでも彼が夢の中で両手の親指と人差し指で画角を作ってフィルムに切り取る女は、彼女ではないのだ。

それは、まるで夢のような女だった。冒頭の場面から、強烈な印象を残した。
年老いて、もう足元もおぼつかなくなった彼が、砂浜を走っている。足をとられて転ぶ。ふと目を上げると、純白のワンピースをまとった美しい少女が立っていた。

「私は君のことを知っているような気がする……君の名は?」
「映画」

……なんという、美しいやりとりだろう。そして、なんと官能的なのだろう。

そりゃーピンクだから、この夢の少女に導かれた彼と彼女が愛し合う場面がこってりと描かれたりもするけれど、でもそれはまさに必然。ピンクだからって言っちゃったけど、“映画”と寝る、だなんて、映画青年にとって、奇跡のような夢だ。
……“映画”がこんな完璧な夢の美少女にされた時点で、現実の女はもう太刀打ちできないじゃない。だって、“映画”は夢のように死んでしまって、結婚だの子供を持つだのといった現実の幸せを願うしかない女にとって、卑怯ともいえる存在なんだもの。

……やはり女にとっては「81/2」はそういう存在なのかもしれない。だからフェリーニのそれも、若き日の私は受け入れられなかったのかもしれない。
でも年を食ってしまった今は、素直にうらやましいと思う。一生、少年でいられる男が。いや、そんなことを言っちゃったらホント怒られちゃうとは思うけれど、でも殆んどの女は、いや全ての女は、“映画”にはなれないんだもの。

この“映画”を、まさに夢のように演じた日高ゆりあは、見事女優賞を獲得した。実際に見るとお豆のように背のちっちゃい、可憐な愛らしい少女。でもスクリーンでの存在感はハンパなかった。
寒々しい海岸、寄せては返す波、老監督と少女が波打ち際に立っている画を、ストイックな引きの画面でとらえる。
海にせり出した道に、彼が必死に駆けていく。
「僕の映画に出てくれ!芝居なんか、映画には必要ない。君が走る。それが映画なんだ」
「ハイ!」
波打ち際を走る“映画”、それを親指と人差し指の“カメラ”で撮る監督。それは回想なのか夢なのか、とにかく幸福な記憶だった……。

「俺のアンナ・カリーナになってくれないか」彼は付き合った女性二人に、同じ台詞を言う。
その二人目の女性、AVの現場で役者同士として出会い、その時から身体の相性が良くって、腐れ縁的関係を長く続けた彼女もまた、結婚など考えようともしない彼にアイソをつかしかけて、若い監督志望の青年とウワキしたりした。
そのまま3Pにもつれこむあたりはこれぞピンクだと思いきや、しかしここはかなりイイシーン。憧れの女優さんと深い関係になって、その場面を監督に見つかってウッカリ自分のザーメンを浴びせちゃって(!!!)スンゲー修羅場なんだけど。
3Pを提案したのは彼だったのに「賛成!これでケジメつけようよ」という若干意味不明に乗ってきた彼女が、若くて前途洋々なハズの自分よりも、監督と愛しげに交わるのを、なんともいえない表情で眺めているのだ。そして静かに、彼は部屋を出て行った。

そんな彼女は、老いた監督がいまわの際となったベッドの横にも、涙をたたえながらつきそっている。確かに彼にとって彼女こそが人生の同志に違いないのに、彼が夢の中で思い出しているのは、ほんの一時彼の前に現われて、風のように去っていった“映画”なのだ。
もし自分に生涯かけて愛する人が出来て、結婚なんぞしたりして、でも最後にその人が思い出すのが自分ではないと思ったら正直、耐えられない。

そんな風に思いながら見ていたけれど……でも女だってそういうことはあるかもしれない。ただ、女は“そんなことがあるかもしれない”ことを、決して口にしないよね。
つまりそれだけしたたかで、こんな幻想があるんだってことを言っちゃう男は、……つまりフェリーニもそうだったってことなんだけど、愚かで、だからこそ女は男を愛しいと思うんだと思う。
正直、男が女を愛しいと思う感覚と恐らくズレがありすぎて、だから不幸も呼ぶし、そしてこんな切なさも呼ぶのかな……。

多分、こんな見方は間違いまくっているんだろうと思う。アラフォー女のヘンケンが満ち満ちているんだろう。
でもそれでも、私はこの映画が愛しいと思う。フェリーニの「81/2」では判らなかったことが、ここに来て、この年になって、ようやく判った気がする。

理由は判らないけれども、若くして死んでしまった“映画”に、夢の中で監督が呼びかけると、彼女は「皆死ぬんだよ。でも映画は生き続ける!」と叫ぶのだ。
そう、叫んだのだ。私はこの時、ふと“映画”は現実の少女としてではなく、彼自身の映画そのものの一つの答えとして、そこに存在していたのではないかと思った。彼女が彼とカラむエロさえ、同じ理由だったんじゃないかと思った。

誰かのアンナ・カリーナになれることが、幸せなのか、あるいはそうじゃないのか、ぼんやり、そんなことを思った。★★★★☆


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