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「き」


2009年鑑賞作品

喜劇 駅前旅館
1958年 109分 日本 カラー
監督:豊田四郎 脚本:八住利雄
撮影:安本淳 音楽:團伊玖磨
出演:森繁久彌 森川信 草笛光子 藤木悠 三井美奈 都家かつ江 伴淳三郎 多々良純 若宮忠三郎 フランキー堺 淡島千景 淡路恵子 左卜全 藤村有弘 浪花千栄子 若水ヤエ子 山茶花究 大村千吉 西条悦朗 水島真哉 石原玲子 大和家幸子 谷晃 三田照子 北野八代子 沢村いき雄 堺左千夫 野村昭子 磯村みどり 武智豊子 市原悦子


2009/12/19/土 劇場(銀座シネパトス/森繁久彌特集)
森繁ラブとか言っておきながら、私ひょっとしたら、これほど有名な駅前シリーズは初見かもしれない!危ない、危ない。しかしこれからもこんな楽しみがタップリ待っているかと思うと、なんかちょっと嬉しくもなるんである。
森繁のスゴいところは、名作と言われる作品で滋味あふれる名演を残す一方で、人気シリーズを次々に生み出すフットワークの軽さも併せ持つところだと思うんだよなあ。
そしてそのどちらもで、変わらぬ助平っぷりを発揮しているところも(笑)。本作でもその期待に違わず、目も止まらぬ早ワザで女中のスカートをまくり、ちょちょいと可愛い耳をいじくり、そして本命にはかなりドキドキのキスシーン……までたどりつかないところがお約束!あーもう、ドキドキする!

舞台はタイトル通り駅前旅館。それも上野で、エネルギーを持て余した修学旅行生たちがひっきりなしに押し寄せるかまびすしさには、劇中の旅館の従業員ならずとも圧倒される。
カメラワークも巧みに展開し、上野駅から吐き出される活力大爆発の学生たちの群れは、もうそれだけでスペクタクル映画のような迫力さえ感じるんである。

森繁演じる次平は、駅前の老舗旅館、柊元旅館のベテランお帳場さんである。今日も今日とて金ヅル……いやいや、お得意さまをお迎えに上野駅に来ていたところを、悪質な客引きだと駅員にカン違いされてとっつかまってしまったところだった。
いまや時代も変わり、それこそメインの客は客引きなんかせずとも、電話一つで回してくれる修学旅行の団体さんなのであり、彼のような古株の、店頭で客を巧みに引き、お得意さんをお迎えしてご祝儀の一つも懐に入れるような存在は時代遅れなのだ……ということが後半の展開のメインになる。
そして彼が悪質な客引きだと間違われたのも、そういう存在が跋扈する時代の変化、なんである。

既に主人公の存在が時代遅れだとされるのは、見ていてなかなかツライものがあるんだけれど、でもそれこそが消してはいけない日本の伝統の良さだというのもしっかり踏まえていると思うし、そして一方で新時代の若者のエネルギーを、地方から押し寄せてきた若い力に託しているとも思えるんである。
いや実際、この学生たちのエネルギーたるや!一階の男子学生たちは、二階の女子学生たちが着替えをしているのを庭の木によじのぼって覗き込み、女子学生たちももうこの時代になると慎み深くも何ともなくて、気に入った添乗員の小山(フランキー堺。なんともカワイくて、女子学生たちに気に入られるのも判っちゃう)の寝室にウイスキー片手に乱入するという勇ましさ。しかも彼が「恋人が来るのを待ってる」と聞くと、ブンむくれながらも、その場面をキャッチしようとウキウキなんである(爆)。

さらに、学生服のまま小粋な小料理屋で酒を飲んでおだをあげたり(このカッコの客を入れるなよ……)、さらにそれで警察に通報されてみれば、「京都から二宮金次郎を盗んだ」と予想外の自白をしたり??二宮金次郎って、そう、あの学校に銅像とかであるあれよ!結構な大きさで、どうやって気付かれずに持ってきたんだって!
しかもその事実を知った引率の先生は「この二宮金次郎が基本となって比べられるから、学生たちは可哀想なんですよ」と言い出すという、これまた新時代ならではの展開!
いや、実際もはや現代では、二宮金次郎ってちょっとネガティブなとらえられかただと思うし、その感覚がこの当時からあったんだなあと思うと、感慨深いものを感じるんだよなあ。

で、そう、そんなエネルギーにあふれた学生たちはでもあくまでサブである。サブだけど……だからこそ主人公の侘びしさが対照的に炙り出されるのかもしれない。
ベテランお帳場さん、次平は、物語中、この学生たちにはあまり絡まないんだよね。その引率の先生には袖の下よろしく、帳場で隠し飲んでいる急須の中のお酒やスルメなどを供するけれど(先生が、「いや、私はゲソの方を」と指定してくるのが笑えるんだよねー)学生たちとはほとんど交わらない。
そこんところは、ひと世代若い?フランキー堺が、先述のエピソードや、あるいは彼女たちからロカビリーを教えてもらって、東京見物のおじいちゃんおばあちゃんたちにノリノリで披露し、ありがたやーと拝まれるという、こういうエンタメ映画ならではの楽しい場面も目白押しなんだよね。
しかして森繁が登場する場面は、行きつけの小料理屋か、仲間の番頭さんたちとの慰安旅行先の江ノ島だとか、あるいは昔馴染みの女とシケ込む神社の境内だとか、そんな感じでさ、この対照が鮮やかなんだよなあ。

しっかし森繁は、そんな地味さを受け持たされながらも、さすが森繁である。
実はね、彼、次平のバックグラウンドというのは、女中部屋で産み落とされた、てて無し子、という訳でさ、だからといってここに彼の母親の影もないし、ひょっとしたら産み落とした母親からも捨てられた……かもしれないんだよね。
何にせよ彼は、30年のベテランとしてこの旅館を采配してきた。慰安旅行先の江ノ島は、彼が番頭としての腕を磨いた場所で、そこで一緒だった女中とイイ仲になったんだけれど、それが第一の女、於菊なんである。

紡績工場の社長に帯同してきた女三人のうちの一人、浴槽の中で眠り込んでいた次平の二の腕をつねったのが彼女で、朦朧とした彼の記憶の中で、裸の女三人がキャイキャイ言いながらシャワーを浴びつつ、彼のことを見ていた……。
てな艶っぽい話を次平は他の旅館の番頭についつい漏らしたもんだから、まったくお前はうらやましいヤツだな!てな具合で、番頭たちの慰安旅行の幹事に抜擢され、その先の江ノ島……彼らが番頭としての腕を競った(実際、旅行先でも客引きの腕前合戦をするんである。ワザとらしくハンカチ落としてみたりとか(爆))場所で、あ、ここでイイ仲になった、あの女中だ!と思い出すんである。

このエピソードはいかにも森繁らしい艶っぽさだよねー。この時代だから想像に任せる部分は多いんだけど、その想像に任せる部分がめっちゃ大胆なんだもん。
だってお風呂場って、もう全然全部、見えてるじゃん(爆)。しかもその中で、彼女は余裕で笑いながらシャワーを浴びつつ、驚いた彼を見ているんでしょ。なんとまあ、あけすけなこと!
確かにこの時点で彼女のキャラは決定されていたのかもしれない。そりゃね、次平だって彼女とは遊びとまでは言わないまでも、ちょっとイイ女だったってな記憶に過ぎなかったとは思うよ。
でもね、その幸せな記憶を残してた彼女が再び現われ、しかも社長夫人として現われ、そりゃ彼だって久々の再会に心ときめいたけれども、ちょっと、どころではない下心も働いたに違いないけれども、彼女の方から積極的に出てこられて、しかも「旅の恥はかきすて、って感じ」と、いかにもいいじゃん、この一夜、気持ちよくヤッちゃうんだけなんだからさ、という態度を示されて、次平は興醒めしてしまうんである。

ちょっと意外だったんだよなあ。いかにも女好きで、そういう、後腐れのない関係を重ねている感じがしたんだもの。
いや、確かにそれはそうなんだけれど、彼はハッキリ、「ダンナ持ちと素人女は相手にしない」と言ったんだよね。
確かにこれまで見て来た森繁映画で、彼は確かに女好きで、数々の女遍歴を重ねてきたけれど、ほとんどが玄人女で、お互い了承した上での関係だったんだよなあ。
そして本命はきっちりいて、その本命に女好きを責められて平身低頭しながらも、でも自分の中の仁義は通しているんだ、みたいなさ。
それは確かに男のズルさではあるんだけれど、別に素人でも、ダンナ持ちでも、こっちが割り切っているんだからいいじゃん、という女に対して引いちゃうっていうのがいかにも古風な感じがして意外だったし、それに、加えてそれが、そんな女も現われるってことが新時代の到来って気も、したんだよなあ。
まあそりゃあ、それによってあらたな修羅場が生まれるってことでも、あるんだけどさ。

そういう意味では次平、あるいは森繁は、男女の平和というものを、その欲望を前提にしながらも古風に守ってきたというのかもしれない。
しっかしそれにしてもさすが森繁、手慣れ過ぎだけどね!そう、先述したように女中のスカートを何気なくまくるわ、そしてこの元恋人の女中は、耳のカワイさで覚えていたんだけれど、そう、この耳、と実にさりげなくいじくるその手つきがさ、もうもうもう……慣れ過ぎだって0の!

しかしなんといっても彼の本命は、森繁の相手といえばこの人、淡島千景演じる小料理屋の女将、お辰なんである。
小粋で自立している美人なのに、こーゆー女好きの、どうしようもない男に困ったことにホレてしまう、という女、というのは、名コンビであるこの人でしか見せられないよねー。
お互いなんとなく気が会ってイイ感じだっていうのは感じてるんだけれど、お互いもういい年で、女将とお客だから、なんか踏み出せなくて、みたいなさ。
でも次平が先述の様な昔の女にガックリきたところで立ち寄るのがここで、それ自体ズルイ気がするけど……でも彼女にしては、キター!て感じでさ。
さりげなく店じまいし、「らっきょうは食べないで。私がキライなの……」おお、おうおう、なんと色っぽい誘いかけなのだっ。だって、そ、そ、それは……キスしてよと言ってるようなもんじゃないかッ!もちろんその意味を汲み取った次平は、彼女のあごに手をかけ、イイ雰囲気になるものの……。

なんかさあ、最後までさあ、キスははぐらかされちゃうんだもの!もー、小山がいちいちジャマしすぎなんだって!
ガラス戸にあの扁平な顔を押し付けて、入れてよーっ!ていうあたりももう、お約束過ぎて笑っちゃう。このあたりはさすがのフランキー堺で、お約束と判ってても、もー!!とか笑いながら心の中で地団駄踏んじゃう!

この後ね、さらにひと展開あるのよ。それまでもすったもんだあった悪質な客引きとのバトルが、修学旅行生を巻き込んでケガさせてしまったことで火がついてしまう。
次平はこの連中を上野から一掃するための運動を展開するものの、それによって騒動に巻き込まれた柊元旅館は、元から主人夫婦は古くさい旅館システムから脱却したいと思っていたもんだから、いい機会だとばかりに次平をアッサリクビにしてしまうのだ。
自分が旅館の窮地を救ったとばかりに思っていた次平は愕然とし、この地に自分はもはや時代遅れなのだと知る。悔し紛れに、最後に自分の客引きの手腕を見せつけ、この地を後にする……。

この時にね、普段はいかにも時代っぽい、なんか作業服が崩れたようなカッコでさ、ちょっときちんとしてもせいぜいがスーツだったんだけど(そのネクタイをお辰さんに預けてるあたりが!!!)ここではね、行李の中からきちんとした和服を取り出すのよ。
そしていつも次平を心配していてくれた、どっちかっつーとおへちゃな感じの女中さんに(だからこそ次平も遠慮なく軽口を叩けてたんだけど)手伝わせて、きちんと番頭さんの風情を漂わせた着物を着ると、「いい姿だねえ!」という女中さんの言葉に、ほおんと!とホレボレ眺めてしまう。いやー、最初からこのカッコしててくれたら、ホレちゃってたなー!などと……。
でもね、そのカッコしてこそ、なんだよね。彼が時代遅れの存在だと思い知らされちゃうのは……。

そして彼は新天地を目指して、この上野を後にする決心をする。彼が辞めたのを知って小山は、自分もここにいる必要はなくなった、とイイ仲になっていた美人女中を連れて、「大坂の本社に帰る」と言っていたよね。本社て、何!?実はボンボン?
いやね、小山は皆から万年サンと呼ばれているのよ。万年大学生。つまり、万年留年していると思いきや、実はここでバイトめいた仕事をしていたのは社会勉強だったってか?うそお!

で、まあ……小山は次平が叩き返した「餞別」(退職金にもならないショボさで、次平は愕然とするのだが)を代わりに受け取り、それをお辰さんに預けにくるのね。次平さんは絶対にここに寄るだろうからと。
それは……当たってなくもなかった。でも、寄らなかったんだよね。次平は直接上野の駅にいる。でもその手には二枚の切符が握り締められてて。お辰さんの店に電話して、自分がクビになったことをそこに居合わせた仲間たちに冗談めかして喋るものの……お辰さんに一緒に来てくれ、なんて言えないのだ。しかも「もういいでしょ」と電話待ちしていた旅行者に強引に電話をぶんどられちゃってさ、話半ばに切られちゃうし。

次平は、一枚の切符を破り捨て、ホームに向かう。そこに、歩いてきた足元は、そう足元だけしか映さないんだけど、あのそそとした和服の足元は……絶対、お辰さん!
次平が長い長いレールの先まで電車に乗って、上野とは似ても似つかぬ緑深い場所に行き着いて馬車に乗ってさ、そして後ろからも同じように馬車が追ってきているのよ。女物の日傘をさして!
そして追いついて、次平の馬車に隣合わせになると……その日傘の中の人物がお辰さんだと知るとさ、次平は、驚いたような顔をするかと思ったら、「なんだ、お辰さんか」とね、照れたような顔をするのだ。
これがグッときちゃってさー!だって……ひょっとして、どこからか、気付いてた?でも確信が持てなくて、照れくさくて後ろを振り向けなかったのかなあ。

かくして二人は仲良く馬車の隣り同士、後ろからは都会からきた観光客が車で渋滞をなしていて、前の馬車に早く行けよとせかす。
その車の客たちを、客引きよろしく次平は威勢のいいたんかを切って、そしてゆっくりと馬車は動き出すのを引きの場面で映し出し、そしてエンド。
なんか色々皮肉な色を感じさせつつも、やけに幸せに感じるこのエンディング。和服同士の二人のお似合いなこと!

やっぱ森繁は、素晴らしくもー、素敵素敵素敵っ!★★★★☆


岸辺のふたり
2000年 8分 イギリス=オランダ カラー
監督:マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット 脚本:
撮影:音楽:ノルマン・ロジェ/ドゥニ・シャルラン
出演:

2008/5/17/日 劇場(新宿武蔵野館)
たった8分間のアニメーション作品である。
8分間!
それが、今、私はあの奇跡のラストを思い出すと、涙がどわっと溢れそうになる。
神様が用意してくれた結末。そうとしか思えない。
お父さんはずっとずっとあそこで、愛する娘を待っていたのだ……。

色合いはまるでセピア色。胸を締め付けられそうな 遠い記憶のあたたかいブラウン。夕暮れとも朝焼けともつかないその中を、半ばシルエットのような黒くて細い影の大小の二つの自転車が走って行く。
前を行くのは大きな男の人。後ろについてくるのは小さな女の子。
一見して、親子と知れる。
急傾斜の土手の上、大きな一本の木のたもとで、自転車を止めた父親は、愛娘を高く抱き上げ、ぎゅっと抱きしめ、土手を降りていく。
一度、降りかけたものの、また戻ってきて、そこに立たずんだままお父さんを見送っていた娘をまたぎゅうっと抱き締める。

二人の表情が見える訳ではないのだ。シルエットに近い絵だし、ずっとストイックに引きの画を保っているから。
でもその繰り返しで、父親は娘を深く愛しているのが判るし、娘もお父さんが大好きなのが判る。
お父さんは小船をこいで、水平線のかなたに消えていく。そこが川なのか海原なのか。土手なんだから川なんだろうけれど、水平線が大きく横たわるそれは、まるで海のように広大に見えた、のは、彼女が小さな娘だったからなのかもしれない。
だって、それ以来、お父さんはいくら待っても帰ってこなかったのだ……。

そもそもお父さんは、何をしに小船に乗って行ってしまったのだろう。
いや、いつもそんな風にして仕事に出かけていたのかもしれない。だって娘はお父さんを迎えに、一気にこぎきれない坂の土手を一生懸命ペダルをこいでこいで、お迎えに来たのに……お父さんの自転車は変わらずにそこに残されていたのに、お父さんは帰ってこなかったんだもの。
そして季節は巡る。幼い少女だった娘はだんだんと大きくなり、自転車も友人と連れ立って走ってきたり、もっと成長すると、恋人の自転車の後ろに乗っていたりする。
それでも彼女は決まってあの土手の上にくると、お父さんが戻ってくることを思って立ち止まり、水平線の向こうを見やるのだ。
お父さんはなぜ戻ってこないの?どこかでその答えを見ている方は薄々感じながらも、その秘密を彼女が知りようもないと思っていた。 それが……!!

季節が巡っても、その切ないセピアの色は同じ。枯れ葉の季節が一番、その切なさをかきたてる。彼女にとっては大好きなお父さんに会えない日々は、ずっと寂しい季節だったのかもしれない。
やがて彼女は大きなお腹を抱えて土手の上で水平線を見やる。家庭を持ったのだ。幸せになったのだ。そう思っても、それでも水平線の向こうのお父さんを待ち続ける彼女に胸がふさがれる。
だって……そこまで帰ってこないのはやっぱり……。
台詞もないし、ハッキリした登場人物はこの父と娘しかいないからあくまで推測だけど……というか、推測をさせるような余地が凄くたくさんあるってことなんだけど、もしかしたらいたかもしれない彼女の母親、周囲の人たち、ひょっとしたら友達たちだって、そして本人だって、お父さんが死んでしまったかもしれない、って、恐らくそうだろう、って思っていたんじゃないかと思うもの。

最後、彼女は、すっかりおばあさんになった姿で現われる。
もう、ムリだよ。彼女自身がそんな姿になってしまったら、万が一お父さんが生きていたって……でもそれでも、あの幼い頃と同じように土手に佇む彼女に胸がつまるのだ。
しかも同じように自転車である。あの小さな頃から乗っている自転車なのかもしれない。もうストッパーがイカれてしまって、なんど立てかけても倒れてしまう。
彼女はしずしずと、土手を降りて行く。葦が生えている。あれ、と思った。水のある筈のところも、ずんずん彼女は歩いてゆくのだもの。
老女である彼女がこの土手に佇んだ時から、もうそうだったのかもしれないと思う。彼女はいつものようにここに来ている、のではなく……そこはここではない場所だったのだ、きっと。
恐らく川の中腹まで来て、彼女は埋もれかけた小船を見つける。それは大好きなお父さんが乗っていた船に他ならない。彼女はそっと、その中に身を横たえた……まるで愛しい人と添い寝するみたいに。
ふと、彼女は目をあげる。その視線の先には……その視線の先には!

お父さん、あの時幼い彼女が見送ったのと同じ姿で、帰ってきたよ、とお父さんが立っている!老女の彼女は立ち上がり、駆け寄る……うちに、どんどん姿が若返る。あの頃の幼い姿に戻るのかと思いきや、いわゆる思春期の頃の姿で、お父さんの首っ玉にかじりつくのだ。
それは、お父さんを最も恋しく思っていた時かもしれないし、お父さんが帰ってくる、と何とか信じていられた最後の時なのかもしれない。
そんなシニカルな切なさを感じさせながらも、お父さんに駆け寄る彼女の姿がどんどん若返っていくことに、その奇蹟に、永の年月が神様のはからいで一気に報われる幸福に、信じられない、信じられない、信じられない!と動悸を抑えることが出来なかった。
ただただ口が呆然と開いて、この一瞬で彼女の哀しさ切なさ恋しさの年月が一気に昇華される幸福に、呆然とするしかなかった。

恐らく彼女もまた、この時もう、天に召されているのだろう。つまり、この父親と同じように。
父親はあの時から、ずっと愛しい娘に会いたくて、死んでしまったその場所で、対岸に佇む彼女を見守り続けていたのかもしれない。日本的に言えば、それ故その場所に留まり続けた、地縛霊的な存在だったのかもしれない。
でもそれでも、どうでもいいのだ。この幸福がありさえすれば。
何百、何千往復した父親への思いが、この一瞬に昇華するこの幸福がありさえすれば。

映画は長さでも、脚本の緻密さでもないっていうのは、判っていたつもりだったし、エラそうに言いもしていたけれど、でもそれをこんなに真の意味で、見せてくれたものがあっただろうか。
私はあの土手で、お父さんを待ち続けた彼女ほど、真の幸福を得た人はないと、思った。
8分で、人生観が変わることもある。それこそがまさに、奇蹟なのだ。★★★★☆


キッチン 〜3人のレシピ〜/THE NAKED KITCHEN/  
2009年 102分 韓国 カラー
監督:ホン・ジヨン 脚本:ホン・ジヨン
撮影:チェ・サンムク 音楽:キム・ジュンスン
出演:チュ・ジフン/シン・ミナ/キム・テウ

2009/10/6/火 劇場(シネカノン有楽町1丁目)
ほら、チュ・ジフンがとっつかまっちゃった影響で、当初の予定より公開が伸びちゃったからさあ。
それまでもシャレた予告編でかなり楽しみにしていたのが伸びて、予告編に遭遇することもいったんなくなり、そして改めて公開日が決まって、またあの予告編を何度も見ることになっちゃったもんで……もうイメージががっつり自分の中で固まっちゃったんだよ。
だってあんなやわらかな女性のナレーションで「天使のように純粋なモレと、幼なじみの優しい夫、サンイン……」てな感じでやられたら、そこにいかにイケメンシェフが三角関係として入ってきたとしても、そのイケメンシェフ=チュ・ジフンがまたやわらかーな感じの男の子だから余計にさ、なんかこう、若く美しい男の出現でカワイイ若妻は心揺れるんだけれども、やはり優しい旦那様の真実の愛に気付いて、その第三の男も笑顔で去っていく、みたいなラインを想像するじゃない。

まあ、確かにその想像のラインは、それ通りと言えばそうとも言えるのかもしれんが……でもでもでもッ!
まさかそれが、その若く美しいシェフ、ドゥレと日傘ショップをおままごとみたいに経営している永遠の女の子みたいなモレが、出会ったその時にいきなりヤッちゃう(!)なんて、思わないじゃない!ナァニが“天使のように純粋なモレ”だ、バカヤロッ。
しかもなんだ、思いっきり人がいるトコ(陶芸展やっていたギャラリー)で、スタッフから隠れた物陰で欲情したままにヤッちゃうって、どーゆーことよッ!
いくらやわらかな光に差し込まれた中で、狭い物陰でちょっと唇が当たっちゃったりする偶然から来てて(でもぜえったい、あれは偶然なんかではナイッ)、つまりは少女マンガを愛好してきた新旧の女の子にとってドキドキな展開だとしてもッ(……くそお)、許さんぞ。

いや、いや、ね。だからね、そりゃ、こーゆー運命の出会い、みたいなのは大好きさ(爆)。でも、でもね、ここでヤッちゃうことはないでしょーが!
偶然のキスがメッチャ欲情のキスになって、もー、ブラのヒモも肩から外れ、たくし上げられたスカートの下の丸いお尻を掴まれちゃうなんてトコまで見せることないでしょ!
……うーんとね、つまりね……まあ実は、モレはダンナに「最後までヤッちゃった」とまでは言っていない、というか、そう言ったところを観客に示してはいないから、ひょっとしてひょっとしたら、あの、尻を掴まれたあたりで終わっているのかもしれない……いやいやいや!ぜえったいあそこで終わる筈はない、絶対最後までヤッちゃったに決まってる!

……って、何、私熱くなってんの(恥)。でもさあ、つまりはあくまで少女マンガ的な頭では、こーゆーフワフワした女の子が行きずりの男に、いくらその男がイイ男で心揺れたとしても、いくらなんでもその場でヤッちゃうなんて考えられないのよ。
つまりはね、私が予想していたのは、せいぜいちょっとしたフレンチキス程度。それだけでこの“天使のように純粋なモレ”がおぼこよろしくドギマギして、だけど三人の生活はなんだか楽しくて、心揺れ動いて……みたいな世界を勝手に想像していた訳。ホント、勝手にね。
待っていた期間が長いだけに、もうそれで固まっちゃってたのよ。

……まあモレは、幼なじみでずっと慕ってきたこのダンナしか男は知らないとはいえ結婚しているんだし、冒頭、“初めての結婚記念日”(イヤんなるぐらい新婚だな)で用意した料理と共に「今すぐ兄貴(こう呼んでいるあたりが妹系で萌え萌えなのもズルい)」に食べられたい」などと誘ってくるあたり、決しておぼこ少女などではないことは判っているんだけれど……。
つまりは、女がズルいと言われるのはこのあたりなんだろーな。別に彼女自身に自覚はないだろうけれど、確かにモレは“天使のように純粋な”女の子に見えるんだもん。

ちょっと手入れしなさすぎの眉毛に象徴されるスッピン(かどうかは判らんが)、ウェーブのかかった肩に届かない程度のおかっぱ頭、森ガール的なワンピースが主体のふわふわファッション、何より自分のオトメチックなデザインで作った日傘ショップを、客なんてほとんど来ないのにのんびり続けちゃってるあたり、もう完璧なオトメ。彼女に雨の降る日なんて必要ない、想像の範疇にないのだ。
でもそれは、オンナとしてどうこうっていうこととは確かに関係ないのだけれど……勝手にそういうイメージを植え付けるあたり、私も世のオトコと一緒かもしれない……。

しかしその“事故”をダンナに報告しちゃうあたりが、そこだけがまんま少女でイラッときちゃうトコなんだけど。
そーなんだよなー。自分が外に発信しているイメージと、自分の中のオンナとのギャップを彼女自身が自覚していないところに、観客のみならず、モレから“先輩”と呼ばれて慕われている写真家の女性もイラッとくるのよ。
先輩はね、最初はサンインひと筋で他の男を知らなかったモレが、思いがけず大胆な行動に身をゆだねたことを無責任にも喜ぶんだけど、それをモレがダンナに正直に言っちゃったことを知ると、アホかアンタ!と激怒する訳。

まー、判るなー。そうだよ、確かにね、人生いろいろあるし、いわゆる“浮気”があったとしたって、それが本命の相手に知られず、そして自分の人生にとって有益なものをもたらすなら、ことにモレのように子供の頃からサンインだけを見つめ続けた天然記念物のような女の子にとっては、彼女を知る先輩がそれはいいことだったのよ、と言うのも判る気がするんだよな。
でもそれは、彼女が激怒したように、本命のカレに告白するなんて言語道断!不思議少女もイイカゲンにしろ!てなワケでさ。

てゆーかさー、ゆーかさー。そもそもこれってさ、わざわざ邦題のサブタイトルとして“三人のレシピ”なんてつけられてたりしたしさ、予告編のイメージからも、料理が作品のウラの主人公みたいなのを想像してたんだよね。
第三の男は、フランス在住の若き天才シェフであるドゥレ。脱サラして、夢だったレストラン経営を始めるサンインの師匠。三人メインのように展開するとはいえ、イケメンスターであるチュ・ジフンが客寄せであることは間違いなく、つまりはドゥレこそが本作の主人公であるといっても過言ではない訳でさ。

しかも、日本って料理モノに結構需要があるというか……おいしい料理は一つの重要なキャラぐらいだみたいなトコがあるのを、「かもめ食堂」で改めて認識させられたことは記憶に新しい。
そういう期待もあっただけに、料理はほとんど印象に残らず、昼メロかってぐらいなドロドロの三角関係の展開の方に重きが置かれることに正直、期待外れな感があったんだよなあ。

……まあそりゃ、勝手な期待なんだけどさ。でもさ……期待するじゃん、そりゃあさ。
まあ、全くないとは言わないよ。チュ・ジフンが披露する華麗な包丁さばき、芸術品のようなフレンチの数々の美しさ。
モダンな韓国料理レストランを目指すサンインが、ドゥレから教え込まれたオシャレなレシピの数々でうるさ方の料理評論家たちを黙らせようとするも、そうは上手くいかない。色々とナンクセつけられたあげく、サンイン自身の力量にギモンを投げかけられてヘコんだりしちゃうあたりは、料理モノとしては、まあ、ベタだけど、きっちり押さえているとは思う。

だけどね、サンインがエリート証券マンを辞してまでやりたかった料理、レストラン。年下のイケメンシェフに教えを請う葛藤。
そして、料理が好きな筈の自分自身を表現できないもどかしさが、先述の三角関係のドロドロが優先されちゃってさ、サンインの苦悩が三角関係の方のそれに優先されちゃってさ、結局料理という魅力的な要素がおざなりにされちゃっているのがもったいないことこの上ないのよ。

サンイン自身のルーツを生かしたレシピを前面に出すことで、評論家たちを唸らせる決着が用意されているとしても、そこまでの試行錯誤もまったく描かれず、とにかくサンインは愛する妻がイケメンシェフに奪われることだけに忙殺されててさ、彼がその妻にまで黙って準備を進めていた長年の夢が、三角関係ドロドロドラマの脇役以下に蹴落とされている感じなんだよなあ。
なもんだから、料理そのものの持つあたたかな魅力も当然そっちのけで……片端に料理が映っているって印象しかないのが……もうとにかく歯がゆくて。

そうなんだよね、サンインは、モレに黙って準備を進めて、会社も辞めてしまった。
「理解してほしいとは言わない。ただ許してほしい」とサンインは請う。その告白する場面はオシャレなレストランである。
後々考えると、それは皮肉だったのかなあ。
だってさ、サンインがモレを本当に信頼しているのなら、そこまで決意するまでに相談の一つもしていた筈だし、しかもそれを告白したのがこんないかにもなレストランで、それは後に師匠として迎えるドゥレを想起させるじゃない。
しかもこの時点でモレはドゥレとナニをヤッちゃってるわけだしさあ(爆)。

フランス帰りで、故郷に対してアンビバレンツを抱えているドゥレ、というのも、結局はオシャレなキャラづけに過ぎなかった気もするんだよね……。
フランスでずっと育ったために、故郷に対して距離を感じているとか、ご丁寧にもキムチとか辛いのも苦手でさ。
そんな要素を用意していながらも、結局は“イケメンシェフ”でしかなく、幸せな夫婦の仲を引っかき回すことに対する罪悪感もまるでなくて、臆面もなく「モレを好きになってしまって、忘れられなかった」「兄貴のことが好きだから」などと言い募る。
更に腹部に痛々しく残る手術跡が、最初はケンカの跡だとか言いながら実はガンの手術跡(しかもフランスの養夫婦にもらわれたために受けることが出来た手術だというのがご丁寧にもメロドラマすぎる)だというのもやりすぎでさあ。
それこそ“天使のように純粋なモレ”が彼に愛と同情を混同してしまうのも無理からぬ、みたいなさあ。

モレは揺れ動きながらも、一度はダンナに対する愛をドゥレに宣言したりもする。
しかしその一方で、記念に写真を撮りましょうなどと言って証明写真のボックスにいざなったりするのは、いくら“天使のように純粋なモレ”(もうこの前提、ヤだ)だとしても、“誘ってる”としか思われないでしょー。
ドゥレがたまらず彼女にキスする写真がサンインに発見されてしまうのが、もう最初からそれありきであざといんだよなあ。

でさ、モレは妊娠を機に、サンインに対する愛をしかと決めたハズなんだけど……そもそもそれを報告するやり方が、ドゥレも同席した朝食で、思わせぶりに結果が出た妊娠検査薬のスティックを食卓に乗せたりしてさ(……よく考えるとキタナイ……)。
しかも、更によくよく考えてみると、ドゥレとの出会いで最後までヤッちゃったとしたならば、ひょっとしてひょっとしたら、お腹の子がサンインとの間の子とは限らない訳で。
だからこそサンインは冴えない顔をしていたんだと思うし、なのにモレは全然疑いもないあたりが、“天使のように純粋”なのもイーカゲンにしろよ、と思っちゃう訳。

結局、二人は離婚してしまう。そうした屈託を我慢しきれなくなったサンインが原因かと思いきやそうではなく、むしろ彼は妻を愛する気持ちを優先して、揺れ動く彼女を尊重して、二人のうちどちらかに決めてくれと言う。
モレは、サンインが仕事を辞めて料理人になりたいと打明けた時の台詞と同じように、「理解してほしいとは言わない」と言った。でも許してほしい、とまでは言わなかった、というか、そこまでは場面では追わなかった。

モレは、ドゥレへの思いも隠さなかった。このまま三人で暮らせればいいのにと言った。
……実はこの台詞はドゥレも言っていて、なんかそれが軸になっているような趣なんだけど、そりゃ、ムリだよ。
ドゥレは家族や同胞の愛に飢えているような設定で、それで観客や、いや何よりモレの同情(と言い切ってしまうのもアレなんだけど)を買っているところがあるんだけど、モレがどちらの男も選べない、というのはナイよなー。
いや……つまりはね、私はもう最初から(てか、観客全てがそうだと思うが……)サンインに対して同情的でさ、いや、モレのみならず女なら、最終的にはサンインの方を選ぶだろうと思っていたから、モレがこんな都合のいいコト言って、しかも二人の前から去るなんてことが理解出来なかったんだよなあ。

そして時は過ぎ、モレの先輩の写真家の女性とサンインの共同経営者でプロデューサーの役割りを果たしている男性が結婚に至る。
双方ツッパッた感じで、特に彼女はキャリアウーマン的なツッパリを感じていたけど、二人が出会った場面で「(足りないのは)焼酎!」と声を揃えた時点で、もうこうなるのが予測出来たわな。

でね、アウトドアの会場に飾られている思い出の写真の中に、ドゥレもいるんだけど……彼単体の写真が、モノクロなんだよね。
あらま、彼死んじゃったんじゃないの、もしかして……と思っていると、その結婚式のシェフとして腕をふるっていたらしいサンイン。新郎新婦に挨拶をした後向かったのは、一人の女性の元。
あれ、彼女……と一瞬思っても、あまりにも印象が違うからちょっと一瞬その思いを消し去りかけ……いや、でも彼女!モレ!
オトメ風ウェイビーなボブを封印して、髪を後ろでキッチリまとめてメイクもオトナの女風のモレは、スッキリとした風情。
そこにはサンインを兄貴と呼んで、まさに妹キャラだった彼女の面影はない。
まさにこれが、演じるシン・ミナそのものなのだと思う。

離婚届は出したのかと問うサンインに、兄貴がサインした後すぐに出した、と答えるモレ。
妊婦なのにフットワークが軽いな、と言うサンインに、ママだもの、と微笑むモレ。明らかに少女から抜けきれないままだったモレとは違う。

サンインは、ドゥレを探しに行こうと言う。驚くモレに、あいつに会いたいんだ、とサンインは笑った。それは皮肉など感じない、本当に純粋に彼の思いを感じさせる笑顔だった。
そしてサンインはモレの両手を取って彼女の目を見つめ、戻ってきてほしいと請う。
まだ離婚して数ヶ月よ、と戸惑うモレに、妊婦にプロポーズする男なんてそうはいないぞ、とまたサンインは、あの“兄貴”の笑顔で言った。モレは、考えてみるわ、と。しかし、恐らくその先の幸せの復活を感じさせるラスト。

それって、それって、それってー!!!都合良過ぎないかー!! こうやって優しい“兄貴”から意を決して離れたのなら、女ひとり子供を育てるぐらいの覚悟持てよ!
いや、別にそこまで厳しく思っている訳では実はないんだけど……モレがサンインの愛に戻っていくことを望んでいた筈なのになあ。こんなイイ男をダンナに迎えていたのに、ゼータクな寄り道しやがって!って思っちゃったのかなあ……。

とにかくイメージと外れまくってしまったことで、心が追いついていかなかった思いが最後まで引きずってしまった感じ。 ★★☆☆☆


希望ヶ丘夫婦戦争
2009年 88分 日本 カラー
監督:高橋巖 脚本:松本恭佳
撮影:八巻恒存 音楽:松永宏紀
出演:さとう珠緒 宮川一朗太 伊藤克信 イジリー岡田 桐島優介 古屋暢一 小川はるみ 伊藤聖子 川村亜紀 紫とも 桜金造 範田紗々

2009/6/23/火 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
私、個人的に、さとう珠緒嬢は作品に恵まれれば、凄いイイ映画女優になると思ってたりする。まー、まさに個人的に彼女のことが好きだということでもあるんだけど、あれだけセルフプロデュース出来る人が、演技が達者じゃない訳がないという理由もあるし(同じ理由で、ゆうこりんも好きだったりする)、それだけセルフプロデュースしているということは、その裏側の素の部分のギャップ、あるいは素との間の距離にあるサムシングの部分の可能性がすんごく大きいってことだからさ。

彼女を映画で見かけたのはほんの数えるほど、そのうちの一つ「ピカレスク 人間失格」は作品はアレだったけれど、彼女だけが、しかも決して多くはない出演の彼女だけが、強い印象を残した。 太宰役の河村隆一よりも100倍影を感じ、100倍濡れた色香を放っていた。
あの時、彼女の今後を実に楽しみにしたのに、さっぱり映画に起用されてくれないどころか、最近メディアでもあまり見かけなくなったもんだから……。

本作についても正直、作品に恵まれたとは決して言えないし、あの時感じたサムシングはなかなか感じとれない。けれど、全く感じとれない訳ではない。
役柄的にはまさに世の人々が見慣れている、さとう珠緒のキャピキャピっぷりを色濃く反映した“カワイイ奥様”なのだけれど、何たって彼女はインポの夫を勃たせようと奮闘する“カワイイ奥様”なのであり、そして最後には、超リアルなダッチワイフ相手にズッコンバッコンやっている夫を目撃して正気を失ってしまって、本当に“カワイイ(幼い)奥様”になってしまうという振れ幅の大きさなのだから。

正直観ている時には、私が抱いていた珠緒嬢への映画女優の確信は、ひょっとしてカン違いだったのかと自信がなくなりかけたけれど、ラスト、切ない夕日の中、すっかり幼い少女に戻ってしまって無邪気に遊ぶ彼女が、愛する夫のことも判らず、女性らしい華奢なサンダルをはかせてもらって「ありがと」とニッコリ笑うのには、ああ、やはり玉緒嬢だ!と胸が締め付けられた。
せっかくの主演だからと期待した分、失望も大きかったけど、このラストシーンの彼女だけでも救われた気がした。

失望が大きかったのは、うーん、まず画があまりに安っぽかったことで、冒頭から気がそがれちゃったからなあ。
なんかこういうの、深夜ドラマとかでよくある感じというかさ……なんかいかにも撮影しやすい郊外の閑静な(と言ってしまえば聞こえがいいけど、つまり日中は閑散としている)住宅街で、すんごく、照明がベタっとしてるの。画に陰影も奥行きもないというか……何かが起こる気がまるでしないんだよね。

ま、実際はちゃんと(というのもヘンだが)大変なコトが起こるんだけど、その経過もあまりに安っぽいんだもん……役者が安っぽいとは言いたくないけど(爆)、正直若干……安っぽかったかなあ。
勿論珠緒嬢と、彼女の夫役でやけに久しぶりに見た(ちょっとビックリしたぐらい(爆))宮川一郎太以外はかなりキビしいキャスト陣。
夫の務める会社の専務役である桜金造なんてその最たるもので(スミマセン……失礼は承知なんだけど)、彼がいかにもエッチのみ担当の巨乳秘書相手にセックスだけしに会社に来ているような無能っぷりには……うーん、なんか、ただの深夜ドラマじゃなくて、出来の悪い深夜ドラマみたい、などと思ってしまうんである(爆)。

彼ら夫婦がこの郊外に引っ越してきて、カワイイ奥さんと働き盛りの旦那さんだし、そりゃあ前途洋々に周囲には見えたのだ。朝、寝坊したことに絶叫する彼らの声に「朝からお盛んね」と思われるほど仲睦まじく見えていた。いや、実際仲睦まじいハズだった。
しかし実際は夫はEDで長いこと夫婦間はセックスレス、それより以前に、転職というよりは前の会社をセクハラ容疑でリストラされていた夫と妻の間には、何となくビミョーな空気が流れていたのだ。
それを決定的にしたのは、彼女が見つけた壁のカビ、そのことをご近所の奥さん仲間でテニス仲間でもあるお隣さんに相談すると、同じテニス仲間に風水に詳しい人がいるから、という話から、ガンガンこじれていってしまうわけよね。

でも、後から考えるとどうだったんだろうか……このままEDの夫が、治療をする気もなく、というか、男としてのプライドがジャマして「病気だから仕方ない」という理由で(なら余計治療すべきなのに!)彼女の欲求不満と、何よりかすがいである子供をさずかって幸せな家庭を作りたいという彼女の願いを無視したまま、夫婦関係が冷え込んだ方が良かったのか。
そりゃ、ラストの正気を失った彼女は哀しいけど、その彼女をきっと今までの中で一番慈しんで、愛を今更ながら確信してそばにい続ける彼、という夫婦の姿は……嗜虐的かもしれないけど、なんかこれも幸福なのかもしれない、なんて思ってしまったしさ。

彼ら夫婦の物語に関して言うと、そう意外性がある訳じゃないんだよね。この奥さん、弘子は、夫がこういう状況のせいか、やたら流されやすくて、風水グッズを結果的に150万円分も買い集めちゃうわ、ベタなセクシーコスプレでダンナを誘惑しようとするわ、なんか、夕方のワイドショーまがいのニュース番組で良く見るような、まあ浅はかな奥さんな訳さ。
ただ、周囲がフツウじゃないというか……「風水に詳しい」というよりは、風水オタクってな感じの魔女的なご近所さんに、結局は彼女はホンロウされてしまう訳だし。

仲間の一人、ぐっと年下のダンナをセックスマシンのヒモ的に扱う若作りの奥様は、若いダンナを自慢しながらも、だからこそ自分が若くないことに常にコンプレックスがあるらしい。若くてカワイイ弘子を学歴がないだの、東大出の夫と出会った職場でも弘子が派遣社員だったことを知るや冷笑を浮かべたり、とにかくヤーな女なんだよね。
弘子がこのコミュニティの中で一生を過ごさなければならないことを思うと、なんとも不憫だったんだけどさ。でも、図らずも究極に追いつめられてしまって正気を失った弘子が、終の棲家の筈だった家を売って夫と共に田舎に帰ることを知ったお隣の奥さんは、凄く心配して、悲しそうなんだよね。

そもそもこのお隣さんが風水の奥さんを紹介したりして全ての元凶だった訳なんだけど、でもね、なんか、そういう余計なおせっかいが本当に親身な性格ゆえだったってことが劇中、じわじわ明らかになってさ。イヤミな若作り奥様にはキョーレツなイヤミを言い返して弘子をかばってたし。
女の友達って、ことに大人になるとなかなか真に腹を割って打ち明けられる相手っていなくなる寂しさがあるんだけど……外見は超平凡な奥様であるお隣さんが、弘子が正気を失ってからも唯一心配し続けてくれる“本当の友達”であることに、グッとくるのだ。

だから、なんで弘子が正気を失っちゃったかっていう話なんだけど……そもそも彼女は、ご近所のテニス仲間である主婦友たちとともに、風水によってダンナのソノ気を呼び込み、更には夫婦の幸せを呼び込もうと盛り上がるんである。
風水に魔術をブレンドして独自のやり方を編み出したという時点でアヤシサ満点なんだけど、もうとにかくこの風水奥さん、説得力があって……というよりは、目が据わってて(アブないわな……)、結局弘子は信奉しちゃうんだよね。

でも後から思えば、っていうか、見てる時から思ってたけど、性感帯の感度を高めるために観葉植物の場所を変えたり、この部屋は子宮に当たる場所だからカギをかけちゃダメとか、なんつーか、エロネタばかりなんだよな。
まあ、さ「ダンナに妻をお母さんと思わせちゃダメ。妻はいつまでも女でなくちゃ」という台詞は昼メロみたいだけど、確かに正論だと思ったし、会社という外とのつながりに無限の世界がある夫に対して、専業主婦である弘子が我知れず不安になっちゃうのは、仕方ないことなんだもん。
風水に頼って大金を使ってしまった弘子が我にかえって、パートに出ることを決意するのは、愛する夫にそのことを知られないうちに穴埋めをしようという思惑があったんだろうとは思うけど、でもやっぱり……誰にも依存しない、自分だけの世界を持ちたいと思ったに違いない。

女の目から見ているせいだろうなあ、女にばかり肩入れするのは。そりゃさ、扶養家族を養わなくてはいけない、という意識を持つダンナの千吉はタイヘンだと思うし、だからこそあんなカワイイ奥さんがいて、その奥さんがあんなヤル気マンマンで迫っているのに勃起できなくて、わっかりやすいエロ秘書にビンビンに勃ってしまうのは……なんとも皮肉なんだよなあ。
しかも千吉は、このエロい秘書のエッチな顔が頭に焼きついているもんだから、ご近所の“ヒモ夫”特殊メイクプロで精密なフィギュア人形を作ることを得意とする彼が究極のダッチワイフを作りたい、という提案に目を輝かせ、その顔はコレにしてほしい、とエロ秘書の写真を差し出すのだ。

このダッチワイフのくだりは、物語も終盤になってから本格的に展開される。あのエロ秘書とクリソツのダッチワイフが出来上がったことに興奮した千吉は……先述した悲劇に襲われるんだけれど、“精密なダッチワイフをパートナーにする”ってのが、今年度、早い時期で既に今年のマイベストシネマ入りは確実!と思っている愛しい映画「ラースと、その彼女」を即座に思い起こさせるんだよなあ。そう、もうネタを先取りされちゃってるの。
夫がダッチワイフ相手にヤろうと、というかヤる間では、ダッチワイフのモデルになった、秘書が人形に扮してる、よね?そうとはにわかに信じ難いほど、カンペキに固まってシリコン人形になりきっているからホントの人形かと思って、うっわ凄い、今の技術ってここまで来てるんだと一瞬思ったけど……違うよね。
“ダッチワイフ”相手に“ファック”するまでは、相手の人形は恐らくそのモデルそのものを使っている。だってさ、オッパイをもむ場面で判るって(爆)。

でも、妻に見つけられて、ベッドに投げ出された人形が刺されて……人形なのに血が噴き出した時、というか、人形が映し出されていることに気づいた時、もう“彼女”は人工シリコンのボディになっていた。
なんかそれって、凄くシンラツな気がして。
緻密に詳細に設計すれば、ホンモノの人間だって作れるかもしれない。でも、本当の、ホンモノの感情を持った人間は、そう簡単に作れるモンじゃない。刃物で刺して血が流れたとしても、それは人間じゃないのだ……バケのカワがはがれてしまうのだ。

ピンクのフリフリで夫にエッチを迫る珠緒嬢ってば、鼻血が吹き出すほどにコケティッシュセクシー。ああ、ならばそれをも武器にしたベビーフェイスコケティッシュセクシー女優を目指せるのに、と思う。それって、それって、最強じゃないの!!!★★★☆☆


牛乳屋フランキー
1956年 84分 日本 モノクロ
監督:中平康 脚本:柳沢類寿 西河克己 中平康
撮影:姫田真佐久 音楽:馬渡誠一
出演:フランキー堺 坪内美詠子 毛利充宏 小沢昭一 市村俊幸 利根はる恵 柳谷寛 中原早苗 澤村國太郎 南寿美子 宍戸錠 小園蓉子 キノトオル ドクトル・チエ子 小野田勇 杉幸彦 小泉郁之助 青木富夫 竹内洋子 原恵子 田中筆子 潮けい子 黒田剛 紀原耕 宮路正美 丹下キヨ子 水の江滝子 岡田眞澄 市村俊幸 織田政雄 西村晃

2009/7/16/木 劇場(銀座シネパトス/日本映画レトロスペクティブ)
「幕末太陽傳」でスッカリホレこんでしまったフランキー堺、しかしあまり出演作品を観る機会が得られず、今回これでようやく何本目かなあ?
これはねえ、フランキー堺が、なんともカワイイ。何がカワイイって、その九州弁の、「……ですの」という語尾の“の”が、なまりの“の”なんだけど、まるでおませな女の子みたいに聞こえてミョーにカワイイのだ。
しかも彼の役柄が、親戚の窮地を救わんと決死の覚悟で花のお江戸に乗り込んできた、心優しき九州男児であり、人に騙されても、ヒドい目に遭っても、ただただ正しき道を進もうとする。
その平べったい童顔のお顔が、「……ですの」とあいまって、なんともはやまあ、カワイイんである。

ところでさ、この牛乳屋ってえのが、ビン牛乳を配達する牛乳配達店名訳だけど、もう森永乳業全面協力、っていうか、もはやこれは森永乳業の宣伝映画と言っていいんじゃないかと思うぐらいの、とにかく“森永牛乳”!の商品名が大プッシュ。
フランキー堺演じる堺六平太の親戚の杉香苗が営んでいるのが、森永牛乳を配達する小さな牛乳販売店で、彼らの販路を汚い手を使ってつぶそうとするライバル牛乳店の存在が、展開の要となるのね。

ライバル牛乳店なんていうから、雪印か明治かと思いきや、さすがにそんな訳にもいかないだろう、てんで、“ブルドッグ牛乳”。
確かにブルドッグは獰猛なイメージはあれど、でもブルドッグの第一のイメージったら、ソースだよなとか思い……これってブルドッグソースからクレームはなかったのかしらん、などといらん心配をしてしまうんである。
そのブルドッグ牛乳店に配達員たちを次々に引き抜かれて、足が元手の杉牛乳店は青息吐息。
しかも50万円の借金まで抱えて、生活もかつかつ。そんな窮地を見かねて、遠い九州の地から六平太が送り込まれてきたのだ。

冒頭は、六平太が地元からバンザイの嵐で東京へと送り込まれる場面なのね。この冒頭が既に、六平太の育った環境を示しているんだよなあ。六平太の爺さまをフランキー堺が二役で演じている。いや、正確には三役で、三役目は杉花苗の亡くなったダンナの遺影(笑)。
いやあ、合成で演じているとは思えない間の素晴らしさ。これは喜劇役者だから上手いのか、それとも自分を相手にしているから上手いのか?(笑)。
後に詐欺まがいの50万の借金を、今すぐ耳をそろえて返せとブルドッグ牛乳側がねじ込んできて、にっちもさっちもいかなくなった六平太はついに爺さまに助けを求めると、彼は全財産を抱えてやってくるのだ。
でもその全財産ってのが……子供の貯金箱を崩したような、細かいばっかりで全然届かない切なさなの。お金の数が多いだけで大金だろうと胸を張った爺さまが、100円札で5000枚だと言われてひっくり返って気を失っちゃうのがなんとも……可笑しくも切ないのだよなあ。

ま、そんな展開に行くまでにはまだまだいろんなことがあるのだが。
唯一の先輩配達員も六平太が来た翌日にドロンしてブルドッグに寝返り、六平太と女将さんの二人で配達をこなさなくてはならなくなる。行く先々で個性の強いお客さんに出会いながら、その誠実な人柄で着実に信頼を得、注文を増やしていく六平太。

その中に、ムービースターかというぐらいの尊大な態度の美女がいる。六平太が牛乳を届けに行くと、牛乳を火にかけてだの、砂糖を入れてだの、しかもそのガスは一回10円で、六平太はそのカネを自腹でまかなわなくてはいけないのだ。
「サービス、サービス」とつぶやきながら、そして砂糖と間違えて塩をなめちゃって悶絶しながら(つまり、どさくさにまぎれて砂糖をなめちゃおうってのが、ホント子供みたいでカワイイんである)、彼女の要望に応えて呼ばれた果てが……アメリカ映画さながらに泡風呂を楽しんでいる彼女の、その浴槽に、牛乳5本入れてくれってんである。
しかも六平太が10円のガス代を払ってまであたためたホットミルクは、彼女が飲むんじゃなくて、猫用だってんだから!

しかしここで一騒動。猫にあげるはずの鍋をひっくり返し、泡風呂までもひっくり返り、部屋は大惨事。そこに美人局よろしく飛び込んできたコワモテの男ともみ合いになって、もうメチャクチャ。このあたりはさすが、スラップスティック映画の真骨頂だよなあ。
んでもってここはただそんな、ドタバタで終わる訳じゃないのだ。このコワモテの男はブルドッグ牛乳の男であり、この女はこの男を手玉にとって、杉牛乳店の立ち退き後にバーを持ちたいと画策しているんである。

この時代の映画に出てくる女は大抵、バーが持ちたい設定なのね、とか思って……。いやこの日同時上映だった「ニッポン無責任時代」でも、そういう女が出てきたからさあ。
まあ……当時はフツーに会社員の女性の方が難しかったということなんだろうか。女が自立するには、水商売の店を持つ、みたいなさ。
でもね、一方で深窓の令嬢みたいな女の子も出てくるんだよね。この物語のメインの一方を担うエピソード。牛乳屋が運ぶのは牛乳だけではなく、時には恋文の配達も頼まれる。まあ時には、酔っ払いのダンナの配達も頼まれるわけだけど(爆)。
ああ、そうそう、この酔っ払いのダンナが配達(笑)される先は、ドクトルチエコなる女医さんの病院で、しかもこの人、役者名もドクトルチエコ!ってつまり、本当に有名な女医さんで、しかもダンナと一緒に出ている(じゃあ、あの夫はホントにダンナさん?)で、原作がダンナ!(劇作家キノトール)
それが珍しい存在として(そしてイコールダンナの立場が弱い存在として)描かれるってのが、やはり時代、なんだよなあ。

それを言ったら、水の江滝子が本人役で登場しているのも見逃せない。何が見逃せないって、彼女が配達員の六平太のみならず、使用人の山形弁丸出しの女の子からも「男だか女だか判らない」と不思議そうに見られていることなんである。
どこか宝塚の男役のような雰囲気で、何匹ものワンちゃんに囲まれた姿は、確かにこの映画に登場するどの男よりも男らしい、かも。……なんていうか、男と女の価値感が大きく揺らいだ時代の映画なんだなあ、という思いを強くする。

それでも、先述の深窓の令嬢と美男子の恋は非常に美しい、王道の恋物語、なんだよなあ。
だけどこれも、女の子の方はお嬢様、青年はしがないカツドウの助監督というあたり、やはりどこまでも女性上位の時代感覚を反映しているのかもしれない。
このしがない助監督、松原君を演じているのが宍戸錠なんだけど……判らんて。だってホッペに詰め物する前なんだもん!ビックリ!
詰め物前の宍戸錠がこんな水際立った美青年だったとは……全然面影ない(爆)。
いやでも、息子の宍戸開の顔のバタ臭さを思えば、確かにホッペが膨らむ前の宍戸錠は、岡田真澄もマッツァオの美青年になりえるんだわ、と思う(いや、宍戸開はそこまでの美青年では……ないかもしれないけど(爆))。
今もそうかもしれないけど、当時は特に、カツドウの、しかも助監督なんて、名門の家庭に言わせれば、ウマの骨もいいところだったんだろう。
タイヘンなことばかりが重なって、ぼーっと配達をしていた六平太は、コッソリ牛乳箱に入れなきゃいけない恋文を、あからさまに突っ込んでしまって、彼女の父親に知れるところとなってしまう。

店が抱える50万の借金は、かつては配達員で今は小説家志望の学生、石村が介したものだったんだけど、彼自身そのカラクリに気づいていないあたりがねー。
この巨漢の男は、オレは金を貸してるんだという態度でふんぞり返ってて、ロマンチックな小説を書いている割には、世間知らずというかウブというか、妄想さんというか……(爆)。
自分がブルドッグ牛乳に操られているとは知らなかった彼は、突然の事態にうろたえるばかりなんだけど、ここにバーを作りたいというあの美女の色香にクラッときちゃって、彼女とナニする場面を妄想するんである。
……つーか、レイプだよな、あの妄想は。ゴーカなベッドに運んで、一枚一枚はがしていって、ブラを手に取った時は……さすがに若干間が長かった気がしたなあ。

しっかしさ、なんでフツーに彼の部屋に“強力ネムリ薬”があるんだよ!その時点で爆笑なもんだから、ここから妄想かと思いきや、彼の部屋に“強力ネムリ薬”があることは事実だってあたりが(爆)。
しかもお約束に、彼の方がそのネムリ薬入り牛乳を飲んじゃうってあたりが(爆爆)。

後半は一気にそれぞれの解決になだれ込む。まずは50万の借金は、秘密の恋のお嬢の父親と六平太の爺さまが、故郷で窮地の間柄だったことで意気投合、アッサリ都合してくれちゃうし。
六平太がお嬢にラブレターを送っていたとカン違いした父親とバトルになりそうになり、誤解を解いても、助監督なんてそんな馬の骨!と認めようとしない。
恋する二人のために六平太が一肌脱いで、松原青年とともに故郷の舞を披露する。当然、映画会社の衣装部からコスチュームを拝借してである。
この映画会社が「頓活映画」なるトンマな名前の会社で、撮ってる映画もインディアン(アメリカンインディアンね)がホーホー言ってるような実にチープなシロモノで笑わせる。
しかしね、この映画のラスト、そんなトンカツ映画をたしなめるように、道路を横切っていくのが、日活映画の撮影車!森永乳業のみならず、そこまでタイコ持っちゃうか!いやー、ある意味徹底してて気持ちいいかもしれんわ。

マシンガンの弾みたいに、牛乳ビンを全身に巻きつけて合理的に配達する遊び心。ブルドッグ牛乳に寝返った先輩(小沢昭一。若すぎて面影ない……)と張り合う自転車バトルの末に、巧妙にかわされて浦和まで走っていっちゃう六平太の猪突猛進の愛しさ。
アパートの階段を何階も上り下りし、その彼の走りに合わせて、オーケストラが段々へたっていく彼に合わせてゆっくりになっていくのには、なんか和んだなあ。しかもその次に訪れたのは高級マンションで、首が痛くなるほど見上げても、頂点が見えなくてさ(笑)。

自転車に激突して火がついたように泣き出した女の子に、牛乳をあげるとぴたりと泣き止んで一心不乱に飲みだす場面なんてのもあった。……なんていうか、ね。古き良き時代ってこういうことを言うのかなあ、なんて思っちゃう。
小学校の運動会を当て込んで仕入れた牛乳が雨でムダになっちゃって、でもそれを、保育園や老人施設に寄付することで杉牛乳店の評判が上がる。
人生、上手くいかないことばかりじゃないし、その間、誠実に努めていれば、きっと神様は見ていてくれる。そんなことを素直に感じさせてくれたなあ。
いや、ね。ブルドッグ牛乳店がアコギな高利貸しのみならず、脱税までしていたと国税局から摘発されて、まさに勧善懲悪でメデタシメデタシみたいなラストなんだけど、正直そこまでしなくても、充分幸せな気分になれたなあと思ったなあ。★★★☆☆


キラー・ヴァージンロード
2009年 97分 カラー
監督:岸谷五朗 脚本:岸谷五朗 川崎いづみ
撮影:江原祥二 音楽:大崎聖二
出演:上野樹里 木村佳乃 寺脇康文 眞木大輔 小出恵介 田中圭 中尾明慶 高島礼子 北村一輝 北村総一朗

2009/9/15/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
正直この企画を聞いた時から当然面白いだろうと思っていたので、意外というか……。まあつまんないと思ってしまったのは私だけかもしれない、ただ単に私の生理に合わなかっただけかもしれない。
でも、あ、これダメ、っていう映画って、もう最初の一場面、最初の5分で判っちゃう……というのは、今まで私にとってダメだった映画でもよく言ってきたことだけれど……本当に、その通りだった。
冒頭、寿退社するひろ子をこめかみに青筋立てて見送る、恐らく独身であろうと思われる女上司の高島礼子のアップを見た途端に、あ、これ、もうダメ、と思っちゃったのだ……。
いや別に、高島礼子がナニとか言うんじゃないけど、こういう始まり方、こういう女上司と部下の関係性、こういうアングル、すべてがひどく陳腐で古くさく思えてブルッと背筋が震えてしまったのだ。なんか、正視出来ない、そんな感じだった。
しかもしかも、パンクメイクのお姉ちゃんたちが歌い踊る中にひろ子が加わり、ミュージカル仕立てでタイトルクレジットに突入するというのも同様に相当サムかった。何だろう……こういう楽しさはキライじゃないはずなのに、チョイスするもの全てが、なんか見てられない感じに映っちゃったのだ。

この時は幸せいっぱいにしか見えないひろ子だけれど、次第に彼女の暗い少女時代が回想されていく。
おじいちゃんと二人で慎ましく暮らしていたひろ子は、沼尻ひろ子という名前をもじってドン尻ビリ子と呼ばれていたみそっかすっ子。
ようやくイケメンとの結婚で幸せをつかみかけたと思いきや、彼女に執着する大家さんをうっかり殺してしまったことで急降下。
せめて明日の結婚式で花嫁姿をおじいちゃんに見せてから自首しようと、しかし思いとは反対に富士の樹海に遺体を隠してしまおうという考えに捕らわれ、森の奥へ、奥へと進んでいく。
そこで出会ったのが、惚れっぽくて男に尽くすのに、男運がないのか人間性に問題があるのか、男にソデにされてばかりの小林福子。
自殺してもしても死ねない、やたら強靭な運と肉体の彼女は、私がこの遺体を何とかするから、そのかわり私を殺しなさい、とムチャな交換条件。こうして女二人のハチャメチャな逃避行がスタートするのだが……。

まず、この回想シーンもかなりサムいんだよなあ。懐かしい感じをイメージしているんだろうけれど、商店街の人たち皆が「あ、ドン尻ビリ子!」と囁き合い、幼稚園の子供たちが一列になってひろ子を指差して同様に呼びつける、という、なんつーか……どっかで見たような。
それ以上に、こういう描写って安っぽさの方を感じずにはいられないんだよなあ。なんか……何度も言うけど、正視出来ないのよ。

んでもってね、このあらたに現われた小林という女、ひろ子役の樹里ちゃんと共に両主演となる木村佳乃。ここから本格的に女二人のハチャメチャロードムービーが始まるんだけど、その始まりからしてなんともお寒いっつーかさ。
小林がね、いかに自分が男運がないか、誰にも必要とされていないかと、かつての男たちをバックダンサーに引き連れて歌い踊るのよね。
そこは誰もいないはずの樹海。ひろ子は目をパチクリさせる。その中には小倉久寛のようなサエない中年男さえいる……宝塚もどき(てか、そのまんま)のきらびやかな男?さえも登場し、ネオンつきの階段までしつらえられて、ひとしきり歌った後、男たちは粛々と退場、そこから小林とひろ子は女二人の旅行きとなる。
確かにね、この冒頭から始まって、彼女たちの道行きはハチャメチャの連続なのよ。まあ、彼女たちの道行きのみならず、最初からアリエネーの連続だったけど、凶暴なイノシシに追いかけられるわ、「逃げるから」という理由だけで時代錯誤な暴走族に追いかけられるわ。
スーツケースに二人乗りして険しい山道を滑り降りたり、巨大なゴリラのぬいぐるみを背負って川でバタフライしたり。ひろ子は小林に引きずられながらも、次第に友情とも信頼ともつかない絆を結んでいくのだが……。

なんかね、この辺で気付いたんだけど、ちょっとチャウ・シンチー風というか、それをネラっているのかなあ、って。バカバカしいほどのナンセンス、アリエネーっていう展開。
それが実はたぐい稀なるセンスが必要だってことに、本作を見て大いに感じた。チャウ・シンチーは大好きで、才能のある人だとは勿論思っていたけれど、それが本当にたぐい稀なるもの、容易にはマネ出来ないんだってことを、深く感じ入ったのよ。
バカバカしいとか、アリエネーっていうナンセンスって、ナンセンスなだけに、軽く見える、簡単に出来そうに見えるけど、シリアスで感動させるよりずっと難しいと思う。
ていうのは以前から感じていたけれど、今回本当に、本当の意味でそう思った。見え方だけ見ればチャウ・シンチー的。でも……一つも笑えないんだもの。
なんだろう、これは……もうね、センスとしか言いようがないの。それこそ単なるそのセンスの好き嫌い、ツボにはまるか否か、の問題かもしれないけど、本作に関しては、センスをハズしまくっているとしか私は思えないんだよなあ。

それはね、例えばこういう場面……とにかく猪突猛進で突っ走る小林が、「他人の不幸を見れば幸せになれるのよ。あんたが私を殺せば、あんたは不幸になる。そのあんたを見て、私は幸せになる。だからさっさと殺しなさいよ」と言う。その、明らかに矛盾する小林の言い様にひろ子は、え?と考え込み、それって小林さんは幸せになれないと思うんですけど……と遠慮がちに返す。
それがね、もう何度も問答を繰り返して、小林が「もう!判んない子ね!あんた、頭悪いの?」とかって地団駄踏んで、しつこいのよ。
第一そのネタ自体がそんな引っ張るほどの強さがないのに、まるで観客も小林みたいに判ってないかのように、噛んで含めるように繰り返されるのが、うっとうしい、いや、ウザイ(この言葉はよっぽどでなければ使いたくないのだが……)んだよなあ。
あるいは、スーツケースで山肌を滑り降りる場面、トンネルになっている土管状の上を走り抜けて、そしてまたスーツケースにドシンと戻る場面なんてさ、ハチャメチャの度合いで言えば……中途半端なんだもん。
チャップリン的と言えなくもないけど、それならば間合いがまた全然違ってくるしさ。それで二人、悟ったような顔して「私たち、今何かやった?」なんてありがちなオチを用意されても、笑えないよ。

二人を何度もジャマしまくるものの、最後には助ける暴走族ヤローたちは、その陳腐さの極まれりにもういいよと心の中でつぶやくほどだった……。
いや、これが陳腐が承知だっていうのは判るのよ。だって実際、台詞でも「ああいう人たちって、今でもいるんですね」とひろ子がまるで天然記念物でも見るかのような調子で言ってる訳だしさ、そこをネラっているのは判ってるんだけど……。
ああ、それこそ好き嫌いの問題かなあ!もう彼らが出てきたとたん、ふ、古ッ!と拒絶反応し召しちゃってたもんなあ。
しかも彼らは展開上でも重要なもんで、最終的には族のリーダーが、小林のようやく見つけた運命のオトコになる訳なもんで、欠かせない役割ではあるんだけど……。
顔中にコワそうなピアスを施して、挑発的に車の窓をベロンとなめあげるものの、追いかける理由が「逃げるから!」の一点であるバカ丸出しの男、バイクの轟音で彼女たちの訴えが聞こえず、エンジンを切って「え?」と聞き返すリーダー、そんな描写が何度も繰り返されて、それが面白くない(私はね)から、もういいよー、と思っちゃう。

脇役にもゴーカな布陣が揃ってる。ひろ子に執着する大屋(=大家)さんは岸谷監督の盟友、寺脇氏。そのキモチ悪くも恐るべきストーカーっぷりはアイディア満載。
ベランダの仕切りがぐるりと回転して自由に隣に侵入出来たり、そんな努力?の積み重ねで彼が撮った、隠し撮りツーショットが隠し扉の奥に記念館よろしく飾られてるのを見てひろ子は絶叫。訴えようと自分の部屋に戻った時には既に彼は死んでいるのだが……(これも、後にオチが用意されている、のがやっぱりどうにも陳腐な気がしてさあ……)。

ひろ子が呆然としたまま遺体を運んでいる途中に出会う、こいでん扮するティッシュ配りが、最終的にアコガレのグラドルのスタッフになって幸せを勝ち取る、ってのはどうなのかなあ。あのキャラは最もいらなかったと思うが……。
ひろ子が、自分がミジメな思いをするがゆえに、つまり人の不幸の上に人の幸せは成り立っている、という図式をおじいちゃんが「ひろ子のおかげで、みんな幸せになるんだよ。ひろ子は幸せを運ぶ天使だ」と表現してるのね。それがひろ子を救う一方で、じゃあ自分が幸せになったら他人が不幸になる、という刷り込みを生み出した訳で。
でもね、その図式があったとしても、こいでんのキャラと展開は……まあ、こういうアソビはそれこそ必要なのかもしれないけど、それこそ“必要”が重要なキーワードの本作で、本当に“必要”だったんだろうか……。
富士の樹海で二人に遭遇して追いかけまくる、いかにも田舎のおまわりさんてな風情が似合ってる田中圭は唯一、萌えたかなあ。
二人を一時休ませ、小林が岡惚れするペンションのオーナー、北村一輝は、これまたテキトーに親子再生のエピソードなんぞ担わされちゃって、それが幻の蝶に託されてる、だって?ケッ!と言いたくもなるじゃん……。

彼女たちの逃避行に、非情な外国人指名手配者二人組が絡んでくるんだけど、この造形もなあ……。
なんかいかにもなね、長身と短身のデコボココンビ、黒スーツに黒サングラス。ブルース・ブラザースかってね。何にでもタバスコを振り掛けるっていうアイディアもなんかありがちな気がしてさあ、笑えないんだもん。

そんな風につらつら考えていくと、自分のやりたい映画の要素を入れていったのかなあ?って感じもするんだよなあ。
ハイライトシーンであり、予告や宣伝でも頻出する、樹里ちゃんがウェディング姿で爆走する場面だって、大前提の「卒業」から始まって、思いっきりお約束だよね。
なんかそれがひとつひとつ……一言で言えば、幼稚、な感じがしたというのが正直なところ。物語じゃなく、展開じゃなく、その場その場で選択する画、アングル、台詞、間合い、もっとあいまいな空気感といってもいいかもしれない……その全てが、一秒、一間、遅い感じがしてならなかった。

樹里ちゃんは可愛かったし、木村佳乃との姉妹的な雰囲気は悪くなかった。二人の信頼関係を感じたし、だからこそこの作品でなければ……とも思った。
クレジット後に用意した「エヘッ」てな樹里ちゃんの画も実にありがちなんだよなあ。ならばその先に何があるのかって示さなければ、この画を示すだけの意味はないと思う。

それと、そうそう、こんな場面。愛する孫娘の花嫁姿を見ようと、車椅子を必死に押して教会に駆けつけたおじいちゃん。
しかし、その他の参列者は全然来てないしさ、今にも死にそうな彼にテキトーに医者や看護師の描写は添えられているけれど、リアルさには程遠い。
そりゃ、この展開でリアルさを求めている訳じゃないけど、それにしても、ガランとしたチャペルに車椅子のおじいちゃんが一人、医者も看護師も付き添わない状態で孫娘を待っているなんて、そりゃ画的には魅力的だけど……それこそ舞台ならアリかもしれないけど……映画じゃ、ええッ?って思っちゃうよ。

そんでね、なんとかひろ子が結婚式にこぎつけて、イケメンダンナと新婚旅行に出かけるでしょ。んでね、そこで彼のオタク、っていうか、幼児嗜好的なヤバいシュミが明らかにされるのね。
でもねこれって……冒頭で確かに、リカちゃん人形のパンツを引きずりおろし、そのパンツのコレクションを集めている場面なぞが示されていたりはした、けれども……ヘンに扇情的に先述のパンク姉ちゃんたちのミュージカルに乗って示されるだけでさ、ラストに示されるまで、そんなこと忘れてる訳。
なんか、間があきすぎたから、下着オタクっていうインパクトが改めて示されても印象が薄れちゃってるし、そもそもこの展開自体が不要な気さあ……思わせぶりすぎで、意味がなくなっちゃってるよね、正直。観客としては、はぁ?何それ、って感じでさあ。

岸谷氏は演劇世界で長年もまれてきたベテランだし、だからこそ映画初監督でも間違いないでしょ!と思ってたんだけど……。
演劇と映画ってね、やっぱり違うよ。それぞれお互いに譲れない矜持を持っているだけに……才能ある人でも、才能ある人だけに、こんな結果になってしまうのだと思う。
違うんだよ、板の上のナマの芝居と、いくらでも切り刻める映画はさあ……。
こんなこと言うと、映画に対して否定的に聞こえるかもしれないけど、だからこそ映画は作品の精度は勿論、役者の出来、そして何より、演出のセンスが問われるのだと思う。そう、ナマモノじゃないだけ、逆に、もっともっと、キビシイのだと思う。★★☆☆☆


斬る
1962年 71分 日本 カラー
監督:三隅研次 脚本:新藤兼人
撮影:本多省三 音楽:斎藤一郎
出演:市川雷蔵 藤村志保 渚まゆみ 万里昌代 成田純一郎 丹羽又三郎 友田輝 柳永二郎 天知茂 稲葉義男 千葉敏郎 毛利郁子 伊達三郎 浜田雄史 南部彰三 浅野進治郎 細川俊夫 玉置一恵 原聖四郎 藤川準 岩田正 菊野昌代士 加賀美健一 木村玄 細谷新吾 佐山竜一郎 山岡鋭二郎

2009/8/25/火 東京国立近代美術館フィルムセンター
しんと静まり返ったスクリーンに、張り詰めた表情でスクリーンを横切る女の顔。そのただならぬ決意の緊張感に圧倒される。いきなりタイトルバックもなしに、静寂の中に、女の顔一発でぐいと惹きつける意表をついた、そして圧倒的な画の力に。
あれ、これは市川雷蔵の剣客モノではなかったのか、と思いつつ息を詰めて見つめていると、女はある部屋にするりと忍び込む。横たわる純白の寝間着姿の女を座して見つめ、やや後、「国のため、お覚悟!」と脇差しを振り上げる。

危険を察して必死に逃げ回るお歯黒の女。お歯黒が高貴な女のものだと判っていても、顔をゆがめて逃げ回るお歯黒の女は奇ッ怪で、そして決然とした覚悟を持ってその女を仕留めにかかる刺客の彼女は、悲壮なまでに美しい。
そして濡れ縁から玉砂利の庭に降りてまで追いつめ、これを仕留めた彼女は、何事かとわらわらと窓を開けて騒然とする女たちに言い放った。「乱心などではありませぬぞ!」

……と言ったのは、後にこの場面が彼女の息子、信吾の養父である高倉信右衛門から回想された時だっただろうか。
刺客の女は山口藤子。殿が愛妾に溺れて国が傾くことを憂いた家老から命を受けて、この愛妾を仕留めたのであった。
そして、このオープニング、愛妾を仕留めて彼女が振り仰ぐところで監督の名前がクレジットされる。三隅研次。

あっ!三隅監督!私の生涯のベスト映画に確実に入る「座頭市物語」の三隅監督!私、そう言いつつ彼の監督作品、あまり見ていなかったのだ……。
そしてかの「座頭市物語」ですっかりホレこんだ天知茂が、またしてもあの静謐で崇高な雰囲気でこの物語のカギを握る役柄として出ていることにも感動した。
というか……座頭市物語で感じた震えるほどの崇高な静謐さがここにもあって、それはオープニングで示される斬新で実験的な様式美に溢れた場面でドギモを抜いてさえも崩れなくて、なんかもう……ただただ打たれてしまったのだ。

だってね、主人公の高倉信吾、まさにこの、非業の出生の秘密を持つ市川雷蔵は、人生の節目節目に大切な女に出会うけれども、その全てが、惚れた腫れたのそれではなく、神聖な愛というものを教える存在になっているのだもの。
そう、ここに出てくる三人の重要な女たちは総じて美しく、崇高で、しかし色恋の空気は一切発しないのだ。二人目の、行きずりで赤の他人の女なぞ、彼の前にハダカをさらすのに、その透き通るような白磁のような肌は息を飲む美しさなのに……そこに尊い犠牲の鮮血が走り、それが例えようもなく美しいのだ。

ついに信吾はいわば俗世界の愛を知らずに果ててしまった。崇高な世界だけに生きてしまった。
そのラストを迎えた時、うっそお、悲しすぎるよ、こんな!とあんぐりと口をあけてしまった。崇高な完璧さを得ても、人間はきっと、俗世間の愛を得てこそ、ベタだけど……きっと幸せに違いないのに。

……なんてつらつらと、またワケ判んない感じで書き進めちゃったけど。それにしてもこの山口藤子役の藤村志保、冒頭から切り込み、物語の最後まで強烈な印象を与える彼女の突き抜けた美しさときたら、どうだろう!
決して美女タイプではない。それでいったら、二人目の女、信吾の妹の渚まゆみの中山エミリみたいな愛くるしさや、刺客に追われて若侍から預けられたその姉、万里昌代の、弟を逃がすため、敵をひるませる作戦で全裸になった、その悲壮な官能美こそが、男にアピールするオンナの魅力、なんだろうけれど……本作はとにかく、山口藤子、それを演じる藤村志保の強烈な印象に尽きるんだよね。

彼女は当然、上からの命とはいえ、こんなことをしでかしたんだから極刑に処される決が下される。しかし何とか彼女を救いたいと、一計を案じて、護送される彼女を襲撃して奪ったのが多田草司だった。
彼は彼女に懐妊させる命を受けていた。彼女に子供を産ませれば、せめてもの慈悲が下されるんではないかという、まあこれもかなりムチャクチャな考えだけど……だってそれって、ヘタしたらレイプ的なことになるんじゃないかと思ったしさ……。
しかし彼女を駕籠から奪った多田草司は、彼女を宝物のように馬に乗せ、そしてそこから信吾が生まれるまでの1年間、それがきっと宝石のような奇跡の日々であったことは、幸せそうな顔で刀を振るう彼の顔を仰ぎ見る藤子の笑顔で知れるのだ。

……そう、1年後、まだ信吾が生まれたばかりの赤ちゃんだった時に彼女は捕らえられ、非情の刑を下された。彼女は斬首の役に頑として草司を望んだ。
……このシーンは、まだそんな事情が信右衛門から明らかにされる前に、既に前半で示されているんだよね。だから彼女がなぜあんな幸せそうな顔で死んでいったのか、その時には判らなかったのだ。

水際立った美しい、何の悩みもない若侍の市川雷蔵は、そもそも彼のイメージがそんなんじゃなかったので(まあ私の勝手なイメージだけど)最初にわかに彼だと判らないぐらいなんである。
不憫な生い立ちで殿からの寵愛も篤い彼は、旅に出たい、というワガママもあっさり受け入れられ、3年の間放浪する。
その間身につけた、信吾いわく邪剣である“三絃の構え"、相手の喉笛を突きで狙う構えは、一分の隙もなく、名のある剣豪さえも一手も繰り出せなかった。

その御前試合で息子を売り出そうと思っていた高倉家隣家の池辺は、息子が到底歯の立たなかった相手に、そもそも名乗りも上げていなかった信吾が殿からの命で立ち合って勝ってしまったことで、ひどい嫉妬に駆られてしまう。
この息子は信吾の妹の芳尾にホレていて、嫁に迎えたいと思ってて……しかし池辺は、息子がこの御前試合で名を上げれば、もっと逆タマが狙えると思っていた訳よね。
そんな目論見があったから余計に、信吾がチヤホヤされることに嫉妬した因業ジジイの池辺が、信吾が高倉の本当の息子ではない、ひょっとすると不義密通の子かもしれない、などとあることないこと吹聴するもんだから、父の高倉は激昂。信吾を目にかけている殿からもお叱りを受けた池辺は進退極まって、息子をもけしかけて芳尾と信右衛門を襲撃して殺し、逐電してしまうんである。

正直、芳尾に純粋に岡惚れしていた息子の義十郎は可哀想だったんだけどね。まあ、芳尾から「ウチを覗き込んだりしてキモチワルイ」などと言われ、今でいうストーカーとも言える様なヤツだったんだけど、それだけお前が好きなんだろう、と父や兄から軽んじられるのも彼女にとっては災難だったかもしれないけど(実際、殺されちゃうし……)。
でもね、息子は父親が望んでいたような逆タマは望んでなくて、そんなことは頭にもなくて、ただただ芳尾が好きだっただけなのに、分不相応に上を見すぎた父親の暴走で、恥をかかされた、お前も道連れだ、なんて、好きな女を殺さなければならなかった、なんてさ……。

なんて思うのは、彼が芳尾への思いを吐露するシーンが、高倉家の食事シーンと交錯して描かれてて、それが同じようにほのぼのとしているからなんだよね……。
意味合いは大きく違えど、結局信吾だって親たちの作った運命に翻弄されていた訳だし、なんかそんな風に情けをかけているのが、凄くグッとくる感じがしてさあ……。

池辺親子を討った信吾は、そのまま流浪の旅に出る。信吾の気持ちを汲んだ殿は、彼を追うなと命じた。そして……あの見慣れた市川雷蔵の長い髪をひとつに結い上げた姿になって、彼は小船に揺られている。
その途中で、先述した若侍とその姉の事件に遭遇するんである。
弟が追っ手に斬られるのを危惧する姉を、布団の中にかくまって抑える信吾。いわば同衾シーンであり、状況が状況と言えど、このストイックな作品の中で唯一ちょっと色っぽいシーンと言える。
しかも彼女は信吾の腕をすり抜け、弟を逃がすために一糸まとわぬ姿で敵の前に踊り出て、それも虚しく無残に斬りつけられるのだから……。

そんなこんなもあり、ある日ある道場に勝負を挑んだ信吾は、その道場の若き主から腕を買われて、幕府大目付松平大炊頭に推挙される。
この松平を演じる柳永二郎はちょっと因業ジジイめいた外見なんだけど(爆)実際はとても穏やかで見る目のある人物で、信吾を側に置き、絶対の信頼を寄せ、そして……最後の最後、“最期”までをともにするんである。

そんな流浪の旅の中でね、あれは確か……池辺親子を討った後だったなあ、信吾はまぶたの父、草司を訪ねるんである。
このシーンは……全てに置いて静謐な魅力に貫かれている本作の中においても、もうなんか……宗教的な美しさを感じるシーンだったなあ。
愛する妻を自分の手で斬り、そして葬った彼は、世捨て人として生きていた。
マントのような黒衣に身を包んで短髪の天知茂は、ゾクリとするほどの枯れた美しさを放ってた。ああ、ああ、私の好きな、ストイックな天知茂、「座頭市物語」といい、私の大好きな天知茂は、三隅監督作品が最高だなあ、と思う。

お寂しいでしょう、と声をかける息子に彼は言った。寂しいことなどない。私は二人だから、と。そなたの母親である愛する女と二人だから、と。
いつか私も同じ墓に入る。その時こそ、真に生きる時なのだと。それはつまり……彼が今生きていないと言っているようなものだとも思うんだけど(そんなことも言っていたような気がする……)、でもそう語る天知茂は本当に美しくて、一分も俗さがなくて……そんな父の姿に覚えず涙を流す信吾のみならず……こみ上げるものを抑えずにはいられなかった。
信吾は言った。「父上、お幸せですね」と。
それは皮肉でも何でもない。信吾の真珠のような涙を見れば判る。彼は……父親が、その人生の尊さが、うらやましかったのだ。

そういう意味で言えば、信吾は……いや、彼も心に留めた愛しい三人の女たちもいたし。そして、その捧げた死は女のためにではなくて、心から敬い慕う“雇い主”であったけれども、それこそ、信吾らしかった、かもしれない。
ただその“雇い主”も、そんなストイックな信吾を心配して、彼を可愛がる気持ちもあって、自分の娘の婿にどうかと考えていた矢先だった。
その途中にも、危ない場面はあった。もともと危険な攘夷派を抑える目的の旅自体、危険きわまりない。最初から死の覚悟をしていた。

しかし思いがけず、道中一番手ごわかったのは、信吾が名をあげた御前試合の相手、評判の剣豪、庄司嘉兵衛だったのだが……。
このシーンは、正直キャラ的な重要度でいえば、そうでもないような感じなんだけど(爆)、でもすんごい、ゾクゾクする美しさだったなあ。
まっ昼間の筈なのだ。空は青いし、白い雲が浮かんでるし。だけど不思議に……暗いんだよ。漆黒の感じさえするの。あれは……なんなんだろ。全然、光を感じない。
あの……べたりと風も吹かないような、凪いだ、油絵のような画、……凄かった。

河原での一騎打ち、じりじりと追いつめている筈の庄司がしかし、焦ってて、じりじりと後ずさっている筈の信吾が余裕の表情で。
そして、閃光の様な一瞬の交錯、バッとカメラが引くと、まるで紙人形みたいに、縦に真っ二つに割られた庄司がゆっくりと二つに倒れてゆく。
あまりに鮮やかで血も出ないぐらいで、ギャグになりそうなぐらいなんだけど、もう息詰まるのだ。庄司の黒づくめの手下たちもクモの子を散らすように逃げるしかなくて。

しかしラストの、悲しすぎるほどの禁欲的な美しさにはかなわない、だろう。
この敵地に着いた時から、松平は死を覚悟していた。むしろ信吾はその切迫感をひしとは判っていなかった、かもしれない。
狭い茶室の中、しかしのどかにうぐいすが鳴き、静かで穏やかな時間が流れる。「私には生きていれば、そなたと同じ年ぐらいの息子がいた」「私にも生きていれば……」そうして信吾と松平はこれ以上ない幸福な時間を楽しむけれども……。
ホントここは、日本的な和の、穏やかな、わびさびの時間で、ふっと何もかも忘れてしまう程の恒久を感じてしまうのだけれど。

この場面は、もう、この場面だけで、日本映画の、日本の宝だと思うほど、たまらなく、美しかった。
勿論他にもね、梅の枝に積もる雪を眺めながら、愛娘に酌をしてもらって楽しむ雪見酒や、河辺の草原に舞う、血脂を拭き取った懐紙とか、いろいろあるんだけど、このシーンは……もうこの時点で悲劇の結末がなぜかおのずと予想されてしまうだけに、たまらなく、美しかったのだ。

なぜ、予想されてしまったんだろう。でもあの茶室のシーンでもう、確信してしまった。ハッピーエンドなど、待ってはいないって。
今日はいい日だ、とその運命の日、梅にうぐいすを眺めて松平は言った。この時もう、もう……いい日などにならないことは判ってしまった。
先方に、今日はご先祖のなにがしの命日だから、お腰のものをお預かりします、と言われた時もう、確信するしかなかった。
そして……。

主人の危機を感じても、武器を持たずにはどうにも出来ない信吾の悔しさ情けなさ。
かつてあいまみえた若侍と再び対峙し、信吾が梅の枝で彼を倒したのは……はかない命の象徴だったのかもしれない。
松平を探して、次々と襖を開けていく。次々と。笑っちゃうぐらい広くて広くて広くて……どんなに開けても開けても松平は見つからなくて。
そして……虚しく廊下に投げ出された無力な手を見つけて走り寄るも、もはや間に合う筈もなかった。

父のように慕った松平の変わり果てた姿にただ言葉をなくし、詫びる言葉もなく、迷うことなく切腹の儀式を自分だけで粛々と進める信吾。
そのあまりの迷いのない潔さに呆然としつつも、もうそれしか……ないのだと思う。
松平の亡き骸に覆いかぶさるように信吾は果てる。あまりにあまりに悲しすぎる結末に言葉もない。

日本は、日本映画は、滅びの美学であり、主従の美学であり、一瞬の、生き様の美学であることを、改めて、思い知る。 ★★★★★


銀色の雨
2009年 113分 日本 カラー
監督:鈴井貴之 脚本:宇山圭子 鈴井貴之
撮影:喜久村徳章 音楽:坂本昌之
出演:賀来賢人 中村獅童 前田亜季 濱田マリ 音尾琢真 大島優子 富澤たけし 伊達みきお 柳憂怜 眞島秀和 品川徹 佐々木すみ江

2009/12/15/火 劇場(ヒューマントラストシネマ有楽町)
普段映画を観る前にはあまり情報を入れない(ようにしている訳ではなくて、単に横着なだけ)のだけれど、本作に関しては、ミスターこと鈴井氏が監督ということで、入れようとしていなくてもどうしても情報が入ってきてしまう。
その中で……本作に対しては期待というよりは逆の感情の方が勝っていたのは、まあ浅田次郎というストーリーテラーを、若干私は苦手としているということが一つあった。

「鉄道員(ぽっぽや)」ではアッサリ泣いたくせに、なぜそう思うのか自分でも不思議なのだけれど……逆に、「鉄道員」で、彼のテイストがすっかり提示されてしまった気がして、後にどんなものが来ようと、なんだかメロドラマのワナが仕掛けられている感に拒否反応を示してしまうというか。
いや、でもそう言うのもおかしいんだけどね。だって私はかの氏の小説を読んでそう思っている訳じゃないんだもの。あくまで映画化作品を観て、なんだかなあ、と思ってしまっていただけ。単に、「鉄道員」以降の浅田氏原作の映画が、私と相性が良くなかっただけなのかもしれない。

それは本当に理由にもならない。むしろなんだか気になっていたのは……穿ちすぎだというのは重々承知で、なんだかこの映画に対するミスター本人のコメントに、なんとなく歯切れの悪さを感じていたからなのかもしれない。もちろん、それは私の単なる勝手な印象に過ぎないのだけれど……。
ミスターがそれまで、北海道での映画作りにこだわっていたこと、それはつまり北海道のクリエイター(つまり仲間)たちと作り上げること、だったのだけれど、そこから離れ、しかも今までのオリジナルストーリーではなく有名作家の原作であり……。

つまりはこれは“商業映画”としての成り立ち、なんだよね。こう言っちゃ言い過ぎかもしれないけど、今まで個人的満足で作っていたインディーズ作家が、商業映画としての企画を与えられた、みたいな。
もちろん、これまでのミスターの映画だって、自分の作りたいものから離れてしまう葛藤があったことぐらい、知ってる。でもやっぱり……やっぱり今までは、彼の手によるものだったからさ。やっぱり、全然、本作は今までのミスター作品とは違うんだよね。

もちろんそれは、彼のステップアップであり、悪い要素なんかどこにもない。だけど……ミスターがことさらに「地味な映画」と連発していたのが気になっていたのだ。
だって正直、彼が今まで撮ってきた映画だって、決してハデな映画ではなかったではないか。更にミスターは、故に日本映画らしいとも言える作品になった、とまで言った。
なんだか私は首を傾げてしまった。地味な映画、と言うからには、何かと比べて、ということになる。即座に頭に浮かぶのは、ハリウッド映画か、いや、今ならそれこそ、ミスターが留学してきた韓国映画だってそうかもしれない。
ミスターのこれまでの映画のみならず、日本映画という大きな括りの中に、この程度の“地味な映画”なんて吐いて捨てるほどあるではないか。
日本映画らしい映画って、何?私はそれが否定的な言葉に思えて仕方がなかった。あるいは自分主導で撮った映画は別なのか。商業映画としては地味で気になるのか。そんな風に……ヘンに噛み付きたくなってしまって。

それに、何たって泣かせの浅田次郎だもの、地味であるハズはない。いや、ミスターが言いたいのは、画が地味だということなのかもしれないけど、展開自体は超メロドラマな盛り上がりを見せる。
むしろミスターは、そのベタなまでの泣かせを、地味な画に押し込めようと必死になっているようにさえ思えたのは……ことさらに地味な映画、地味な映画と連呼していたからに他ならない。舞台を米子にし、淡々とカットを切って進める構成は、確かに地味とも言えるかもしれない。

しかもミスターは、原作のヤクザの設定を“非日常”だと断じて、変えてしまった。つまり、自ら“地味”にしたのだよね。それがリアルになると思ってのことだよね。
でも、リアルだから地味なのかな。そしてむしろ、ヤクザよりボクサーの方が、現代社会では日常的にはいないんじゃないのかな……。
ヤクザ設定を捨てたことで、不自然になった部分は沢山ある。いや、原作を未読だからそう言い切れないところはあるけど、ボクサーの章次を恨みまくって、部下を使って殴るけるの暴行を加える不動産会社の男はさ、明らかにフツーのサラリーマンの男で、部下ももちろんサラリーマンで、それが理不尽な暴力行為を疑いもせずに出来るもんなんだろうか?作業服なのに、明らかにヤクザな顔して暴力働いてるんですけど……。

ボクサーの設定っていうのは、ストイックなミスターらしいなと思ったけど、“ヤクザが非日常”断定してしまったことが、私は逆に残念に思えてしまった。喧騒の街大阪で、“非日常”のヤクザの設定のままで、ミスターが撮ろうと決断したら、どうなるんだろうということの方が見たかった。
正直、“地味”は設定と舞台の変更によって起こったことで、ならばそうしてしまったミスターはそんなこと言っちゃいけないよね。しかもボクサーなんて華やかな設定を持ってきたんだからさ。

とはいえ、主人公はボクサーではない。母子家庭で母親の故郷の米子に暮らす高校生の少年である。……実は、彼がね、彼を演じる男の子が私、相容れなくってさ、それが一番、本作に入り込めなかった原因だと思うんだよなあ。
もう、一見した途端にえ?と思った。だって……なんか全然、繊細な顔してないんだもん。いや、顔で繊細かどうかなんて判断しちゃいけないと思って見続けたけど……ごめんなさい、やはり繊細からは程遠い。
いや、まずね、やっぱり外見って、重要よ。ことにこういう、顔の売れていない若い役者さんが主人公を張る場合はさ。見た途端に印象でグッと惹きつけるものが必要だもん。

彼は……なんか古いタイプの美形。あんまり悩んでいる風情がないんだよね。もちろんそういう設定なり台詞なりは用意されてはいるんだけれど、順番にこなしている印象。
こういう役ってさ……風貌的に柄本佑とか森山未來君的な(年は違うけど)役者が頭にのぼっていたんだよね。もちろんそれは単なる個人的印象なんだけど……。
いや、ね。彼がものすごっく演技力があってさ、もうねじ伏せるだけの説得力があるってんなら別なんだけど……ことさらそういう訳でもなく(爆)、後半「周りが悪いんだとばかり思ってた。イライラしてた」とか「家出してる時、母さんや小島さん(母さんの恋人)」のことを考えていた」なんて言うけどさ、そんな葛藤があった風情なんて、正直カケラも感じられないんだよなあ。

ていうか、そう、そもそもこれがどういう話かっていうと……。母子家庭の和也、母親の故郷で新聞配達の住み込みで暮らしている。陸上の推薦入学で入った高校だけれど、思うように記録が伸びない。恋人が出来てしまった母親とは上手く行っていないもんだから、住み込みのバイトでムリヤリ家を出た形。
その恋人である魚屋さん(サンドウィッチマンの富沢氏)は和也と何とか仲良くなりたいと思っているんだけれど、和也はそんな気はさらさらないのだ。しかし、住み込み先でも集金の金が合わなかったことでトラブり、従業員を殴って飛び出してしまう。

東京に行こうと深夜バス(このあたりがミスターっぽい)乗り場で待っていたところに、二人の人物と行き遭った。
一人は母親の水商売時代の後輩ホステスで、和也と姉弟のように親しい菊枝。そしてその菊枝が客に絡まれているところを、和也が助けようとするも更にこじれたところを圧倒的な存在感で割って入ってくれたのが、もはや落ちぶれ寸前のボクサー、岩井章次だったんである。
そしてこの章次は実は、和也の父親を試合で死に至らしめてしまった人物だった。
そこから章次も人生が転落したし、無論、和也とその母親もそうである。会っちゃいけない二人だったのだ。

……えーとですね、ここでついつい気になって、映画と原作の相違なんぞをネットを泳いで探ってしまった……。ミスター……これはやっちゃいけないほどの改変じゃないの。これじゃ既に、タイトルを踏襲することすらやっちゃいけないんじゃないの。
だってさ、この映画におけるキモって、和也の父親が章次によって“殺された”ところだったんだもの。まさかそれが原作にないネタだとは思わなかった。
こんなネタを持って来るなら、それをオリジナル映画で作ればいいじゃん……。
その割に、このネタに付随するいろんなことに、違和感を覚えていたから、それは映画版にするに当たっての副作用なのかと思っていたら、……違うんだもん。

父親の死の理由を、母親が息子に一切語っていなかったこと。そしてそれは母親が、夫を殺した章次を恨んでいるかららしいこと。
この設定をボクサーにした時点で、ボクサーの妻はそういう事態も覚悟している筈と、思う私が甘いのだろうか?でもさでもさ、絶対そうじゃないの。そうでなければ、ボクサーの妻なんかつとまらないんじゃないの。百歩譲って、心の中では納得いかなくても、表面上は毅然とするんじゃないの。
しかも相手は夫が可愛がっていた後輩ボクサーであり、悪気なんてある筈もなかった。……彼女の気持ちは当然だけど、でもこの描写って……侮辱じゃないかと思っちゃったんだよね。

だってね、だって、仲間のボクサーは苦しんだあげく、“吹っ切れた”と章次に言ったのよ。なのに彼女は回想の病院でのシーンから眉を逆立て、それが今になってもまったく変わってないんだもん。
……私ね、これは原作にもあるエピソードなのかと思って、ケッ、やっぱり浅田次郎はさ、などと勝手に憤っていたのだが……うう、ミスター、それはないよう。
いや、それが子供に対する矜持だったというならまだしも、しかも彼女はその後、恋人を作っちゃう訳だからさ、その時点で死んだ夫のことに眉を逆立てるんじゃ、グダグダじゃん。……女にだって、いや女にこそプライドがあるんだからさあ。

それにね、この情報化社会に、“母親に聞かされなかったから”というだけで、なのに“結構いいところまで行ったボクサー”だってことは聞かされているのに、試合中に死んだ父親の詳細を調べもしないでさ。
父親の記憶も、3歳の時の、呼びかけても呼びかけても答えてくれなかったそのワンシーンしかないのにさ。だからこそ章次のことも知らなかったのに、知った途端に、父親を殺した相手だ、許せない!みたいに豹変しちゃってさ……おめー、全然気にしてなかったじゃん、って思わずにはいられないんだよなあ。
いや、恐らくね、そういう明確な説明的場面がなくても、彼が少年特有の鬱々とした空気をまとった中で、そういう鬱屈を抱えている、という描写を示していたんだろうとは思うんだけれど……えーと、恐らく彼にはそういうウラを感じさせる繊細さがないし(爆)、ないだけに、ラスト、章次に肩を抱かれて泣かれても、えーって感じしか起こらないんだよなあ。

繊細さ、っていうのは、それこそ“地味”な描写の中に静かに積み重ねられるものだと思うんだけど……地味、地味、とミスターが言っている割には、音楽の感じと挿入の仕方がやたら……(言い辛いな)クサかったよね(爆)。
確かにカッティングだけ見たら“地味”なのかもしれないけど、やけにベタ甘なメロディーが盛り上げ気味に入ってくるのには、ええ?ミスターってこんなダサいセンス?と思わずにはいられず……地味さを気にしすぎたのか、あるいは単に音楽のセンスの問題か?(爆爆)。

なんか久しぶりに前田亜季ちゃんを見た。かなり印象が変わってて……それこそなんか、フツーになってた(爆)。 顔の印象が、ありがちなメイクのせいなのかフツーすぎて、見極めがつかない(爆)。
青少年の和也が淡い思いを抱く、ちょっと年上の、水商売のおねえさん。しかし水商売っつーのも田舎町のスナックで、カウンターの奥でママの補佐をしている程度の描写しかないしさ、なのに「お前にいくらつぎ込んだと思ってる」ってしつこい客がいたり、アフターでお寿司を食べちゃったとかいう台詞が出てきたり、なあんか噛み合わないんだよなあ。まあ、作品中に彼女の全てを示す必要はないってことなのかもしれないけど……。

一番、それはないだろ……と思ったのは、菊枝が飼っている猫に関するエピソードである。
これが浅田次郎が実際に書いてることなら、彼に対して怒ろうと思ったのに、そうじゃないっていうんだもん……。
一人でいるのが寂しいから猫を飼ってるとかさ、その猫を閉じ込めていた私が悪いんだとかさ、ベランダから逃げ出した(閉じ込めてないじゃん!)猫が往来で車に轢かれてしまったんだろう、血を流して死んじゃっててさ。
そんなのを見るのもヤメテ!て感じなのに、彼女は……まあ、私のせいだと自分を責めるのはまだしも、猫の行方を捜してくれた和也と章次に八つ当たりし、まあ、そこまでもまだしも、こともあろうに愛猫の遺体をそのままほっぽりだして自室に閉じこもってしまう。

ありえない!

和也と章次が彼女の替わりに公園の木の根元に猫を埋葬するのだが……そして菊枝はそのことを後にありがとうと感謝の意を示すのだが……どちらもありえない。
そりゃ、こんな事態に遭遇したことはないけど、パートナーだった猫が死んでしまったのを、往来にそのまま放り出したままにするなんて、考えられない!
……ねこねこ生活なもんだから、過剰に反応しすぎ?……そうかもしれない。猫が死んでる姿なんて、いくらフィクションでも、見たくなかった。

それにさ、閉じ込めているのがダメだなんて、今、責任を持って猫(やいろんな動物)を飼っている人たちに対して、絶対に言っちゃいけないことだよ。それにその猫は車に轢かれて死んでしまったのに、そんな言い方、おかしいじゃん。
……うう、こんな映画にぜんぜん関係ないことに噛み付きたくないんだけどさ、だってあんまりにも、納得できなかったからさあ。
だから、彼女が物語の最後、草原の中の子猫を見かけた時、ついてきちゃダメだよ、で終わるのが更に、ナイでしょ!と思った……だってあんな場所(車ビュンビュン)に放置したまま、あの場所ならごはんをもらえるとも思えず、あの子猫はのたれ死ぬでしょ。そしてそれは多分、いや絶対、人間のせいだよ……。

うう、実はまだあるのだ。陸上に打ち込んでいる和也の、その基本的な設定が、正直胸に迫らないこと(爆)。
新聞配達は走れるから、という理由はストイックだが、母親の恋人や、その恋人の友達の絡みがうるさくて、彼の走りに集中できない。
それに、ラスト、大会で見せる彼の走りも、正直そんな、美しくない(爆)。まあ、短距離じゃないからかもしれないが……走りの美しさはね、近年、林遣都君のそれがあまりに強い印象を残しているもんだからさ……。
まあ、フォームも違うしとも思うけれど……ヤハリその辺は、多少現実と違っても映画のマジックを使ってほしいとも思うし(ここまで散々ナンクセつけといて、矛盾しているのは判ってるのよ)。

章次がティーンエイジャーの頃、意味もなく散々暴れまわった不良という回想が、まるで金八先生チックなベタさなのもキビしいものがあったし、それこそ“意味もなく”ってあたりに、ツメの甘さを感じてしまったのも事実。
章次が認知症の母親と、その母を介護している父親に邂逅する場面も……重いテーマだけに、この程度しか描けないなら、入れるべきじゃないと、思ってしまう。美しく、収束させすぎた。
和也の死んでしまった父親、章次の先輩ボクサー、音尾さんはやたらイイ役でボクサーの風貌もハマってるけど、それも……甘々な感じは否めないんだよなあ。もちろん全てが回想シーンというのもあるけど、結果的には形見となってしまった腕時計をプレゼントしたり、先輩だからって遠慮すんなよ、と試合前に章次を笑顔で励ましたりさ。

どう言ったらいいのか……こういう時って、作り手の経験もないのに、言う権利もないと言われたら本当オシマイだと思うのだけれど。

それにしても、「地球が泣いてる」て……ナイよなあ。 ★★☆☆☆


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