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「わ」


2009年鑑賞作品

わたし出すわ
2009年 110分 日本 カラー
監督:森田芳光 脚本:森田芳光
撮影:沖村志宏 音楽:大島ミチル
出演:小雪 黒谷友香 井坂俊哉 山中崇 小澤征悦 小池栄子 仲村トオル 小山田サユリ ピエール瀧 北川景子 永島敏行 袴田吉彦 加藤治子 藤田弓子 天光眞弓 原隆仁 佐藤恒治 富川一人 鈴木亮平 吉増裕士 入江雅人 武田義晴 小川岳男 一太郎 林剛史 珠木ゆかり


2009/11/19/木 劇場(銀座テアトルシネマ)
「ハル」以来13年ぶりの森田監督オリジナル作品であるということに、へえーっと思う。この個性派監督が、そんなに長いことオリジナルを手がけていなかったのかと。
もちろん、既存のものを使った作品も、彼ならではの独特な世界で描く才能があるのは確かだけれど、やはり森田監督の“独特”はオリジナルでこそ発揮されるものであろうからさ。

でも、そうか。確かに観ている最中「ハル」を思い出していた、のは偶然ではなかったのだ。
摩耶が回想する、高校時代の友達たちが彼女に話し掛けた初めての言葉が、その思い出の校舎のそれぞれの場所、静止写真にかぎかっこをつけて静かに大写しにされる。静かに大映し、という言い方はヘンな気がするけど、それこそあの「ハル」でひどく印象を深くした手法なのだった。
まだまだインターネットもメールもチャットも創成期の時、そのツールのあり方にさえ懐疑的だった時、それらの持つ言葉の力を信じて描いた森田監督の「ハル」は、心を大きく揺さぶるのに充分だった。
そしてここでも……静かに大写しにされる言葉は、内気な摩耶が友人たちにかけられた言葉は、彼女にとって忘れられない大切なものなのだ。

とはいえ、この物語は友情の物語でも言葉の物語でもないのだけれど。いや、友情の物語であり、言葉の物語である、と言った方が、ひょっとしたらこの映画の正しい見方なのかもしれない、とも思う。
この不思議なタイトルそのままに、突然故郷に帰ってきた摩耶が、友人たちに次々と大金を供していく着眼点の斬新さと、森田監督ならではの不思議な魅力は見事で。
しかしじゃあ、この映画がどういう話なのと言われたら、人によってお金の価値は変わるとか、お金で変貌してしまう人もいるとか、そんな話だなんて言ってしまったら、もう興醒めなんだもの。
確かにその通りではある……その通りであったことに、観終わって改めて気付いて驚いたぐらいで。
もちろん森田監督だって、最初からそのつもりでこの物語を紡いだに違いないんだけれど、それじゃこの映画の魅力を全然伝えてはいないのだ。

魅力、というのもいわく言い難いというか、本当に不思議な魅力に満ちているんである。
舞台は函館。この10数年、個性的な現代映画を次々に生み出し、真に映画の街となった函館だけれど、観光地としても都市としても少々寂れている現実に遠慮ナシに切り込みつつ、そして函館そのもののノスタルジックさとファンタジックな魅力を全編に満たして展開するのには、さすが森田監督と舌を巻かずにはいられなかった。
それにそれはまさしく……森田監督そのものの魅力と言ったっていいぐらいなのだ。どうして森田監督が函館をチョイスしたのかは知らないけれど、不思議なほどに、彼の世界にピタリとはまっているのであった。

日本ではもちろん、世界でも数少ない路面電車、函館を象徴するもののひとつであるそれがまず物語を牽引する。
まさしくそれは、函館の避けようのないさびれ加減、しかし何とかノスタルジックとも言え、ファンタジックにもきちんと昇華している世界を映し出しているんである。
故郷に戻ってきた摩耶がまず会うのが、この路面電車の運転手である保であるというのは象徴的である。摩耶が「世界から見ると、日本の路面電車はまだまだ遅れているのね」というのは、もちろん観光立国としての日本の貧しさを確かに指してはいるんだけれど、それを牽引できない函館の窮状も指していることは、後々じわりと明らかになってくる。
というのも、なぜこんな地味な摩耶が、友人たちに次々に大金を差し出すことが出来るのかというのが、まあ早くもネタバレだけど、彼女は株取り引きに特別な才能を示しているのであり、それはひいては世界を見る目があるということなのだから。

“こんな地味な摩耶が”というのが、友人たちのみならず、もちろん観客たちにだって不思議なんである。彼女が大金を稼ぐことが出来るカラクリが明らかになるのはかなり後になってからなので、悪いお金なんじゃないかとか、彼女が余命いくばくもないから大金を投げ出すんじゃないかとか、友人たちのみならず、その周囲だっていぶかしげなんである。
しかし“こんな地味な摩耶が”というのが、いかにもな先入観で……そう、落ち着いて考えてみれば、ハデにお金を使いたがる人が必ずしもお金持ちではないことぐらい、私たちだって知っているハズなのに、なぜだか身なりや何かで判断してしまうこのあさましさ。
しかも、摩耶は別に世間を欺く為に地味な格好や生活スタイルを築いている訳ではなく、彼女は贅沢な生活がキライで、大金を稼いでしまうのは、たまたま彼女の才能がその方向に向いていたからというだけなのだ。

このキャラの作り方は実に秀逸だと思う。摩耶のキャラがあってこそ、人によってお金の価値が変わるなんていう前提だけでは図れない物語が出来上がったのだから。
そしてそのヒロインに抜擢されたのが、小雪氏。彼女は世界的に名を知られたスター女優であることはもちろんなんだけど……私は彼女を初めて観た「Laundry」の印象がやはり強いもんだからさあ。
まず和風で、ふわりと静かで、いい意味でネガティブな古風さを持ち、異世界にいるような浮き世離れした雰囲気を持っている。この彼女をどういう物語、どういう世界で使ったら真に際立つのか、というのを、まさに森田監督がバチリと示したと思う。
しかも彼女の持つ怜悧なクレバーささえも魅力的に引き出してしまった。古風で和風な女が世界を見据えるクレバーを持ち得るバランス感覚、小雪氏であり、森田監督だからこそ出来た世界。

彼女が故郷に帰ってお金を提供する友人たちは、男三人、女二人。男たちはお金を失ったり、使わないままだったり、有効に使って未来を切り開いたりするけれども、女二人に至っては、実に対照的である。
一人は地元の玉の輿に乗ったサキ。演じるのが黒谷友香なだけに、なんとも生々しい。
しかもサキが摩耶と友達になったきっかけというのが、高校時代の美人コンテストで摩耶に負けたから、ミジメな思いになりたくないから、声をかけたというんだから堂に入っている。その事実をあっけらかんと摩耶に示し、摩耶も引くこともなく、笑って彼女の話を聞いているんである。
サキの言う、ここならば一番の美人になれる、という言い様もまた、この土地の寂れ加減を絶妙に現わしているのだ。

サキは自分の美貌に自信を持ちながらも、東京に行ったら○○番目だと勝手にランクをつけて、函館でのナンバーワンを目指した。
「摩耶は東京に向いているよ」という台詞が彼女だったのか、もう一人の女友達の方だったのかちょっとさだかじゃないんだけど……少なくともサキは、どこにいようと自分の力だけでトップになることをあきらめていた。
そう、他の力ってのは、オトコである。地元のトップ企業の社長と年の差を押して結婚したものの、ダンナは不祥事を起こした上に突然死。サキはまた元のオミズな仕事に戻って、函館に出張に来たアラブの石油会社の日本支社長をターゲットにするものの、あわれ彼女は殺されてしまうんである……。

その犯人が報道の通りケチなホストだったのか、この社長に雇われてそうしたのかは判らない。ただ……サキは実に判りやすく、お金のベタさを示してくれた。
美貌に価値を求め、地方でいいからトップこそが大事で、自分の価値ではなく、オトコの価値であるということが……。
判りやすい価値が好きなサキに摩耶は、お金ではなく、金ののべ棒5本にして彼女に渡した。サキが「友達から金塊をもらうなんて、少女マンガでもなかった」と思わずつぶやいた。……つまり彼女は、少女マンガの夢の世界を現実にしたくって、今まで生きてきたのか……。

それと対照的なのがもう一人の女の子の友人、さくらである。おっぱいは大きいけれどサッパリとした気性が魅力の小池栄子にピッタリで、彼女の女優としての資質を大いに引き出した役柄だと思う。
函館を騒がしている、ゴールドバー無差別投げ込み事件の犯人は彼女なのだ。摩耶が大金を供するだけの余裕があると知って、じゃあ、と彼女が頼むのは、ダンナが箱庭協会の会長になるためのワイロ金と、夫婦の個室に置く小さな冷蔵庫だけなんである。

まあ、ワイロ金がいくらかかったのかは知る由もないけれど、さくらが、摩耶が友人にお金を使いたがっていることを知って、ダンナの個人的なささやかな趣味のために希望を叶えてあげるというのがカワイイし、他の友人たちに比べて、特段の金額ではないんだろう。それに箱庭っていうのが象徴的。箱庭に理想を見て満足しているぐらいがちょうどいいと、さくらは達観しているのだ。
だってさくらはなんたって、商店街の福引きで当たった宝くじがさらに当たって一億という大金を手にしたのに、こんな家でそんなのどうやって使うの、とこんな大それたことをしでかしてしまったのだ。

摩耶だって、規模や方法は違えど、さくらと同じことをしたとは言えるのだけれど、知っている人に対してか、知らない人に対してかという最初の選択肢で大いに違うんである。
そう、大金を手にした人がそれをどう使うか、あぶく銭にしてしまうか、身の破滅を招くか、有効に使うか、返してしまうか……などという方法の種類の問題じゃなくって、大金を手にした時、それを自分がイラナイと思った時に(この第二段階に進むこと自体がタイヘンなんだけど)、どうするか、そのお金の行く先が知っている人か、知らない人かが、重要問題なんだということを、そんな大金を手にしたことなどもちろんないから、ナルホドーなどと思ってしまうのね。
「一億円が当たったことより、摩耶が買ってくれた一万円の冷蔵庫の方が嬉しかったよ」というさくらの台詞は、ほおんとうに、心にしみるのだ。

摩耶は、つまり、純粋なんだよね。もともとお金を儲けようと思って手にした訳ではない。難しい病気にかかった母親にはずっと大金をかけ続けていたけれど、……ひょっとしたらそのことにふっと贖罪の気持ちを抱いたのかもしれないなあ。

山の上の病院に入院させている母親の描写は、ファンタジックを超えてSFチックですらある。ここばかりは明らかに撮影スタジオと観客にさえもわざと判らせるような無機質で人工的な、というか、なーんにもない空間に、ヘルメットからいっぱいケーブルが伸びているような、なんか非現実的な延命装置をつけて、摩耶の母親が横たわっている。
意識がなく眠り続ける母親に、摩耶はしりとりを仕掛け、母親が返す答えを自分でつむぎ出す。「マ」なら摩耶と言って欲しかったな、などと言って……。
しりとりっていうのもまた、言葉のマジックというかその人そのもののセンスでさ、摩耶が母親の言葉を予想して返していくのも、母親への愛を凄く感じるのだ。

男の子たちはといえば、みんなそれぞれ個性的な事情とお金の処理の仕方はあれど、皆総じて純粋でストイックなんだよなあ。女の子二人が180度どころではない対照を示しているのに対して、男の子たちは、皆なんかマジメなんだよね。
保は、世界中の路面電車の旅をして来てと摩耶からお金を送られて、当然躊躇したけれど、長年の夢だったし、職場からも期待を寄せられ、路面電車をリポートすることで函館の、もしかしたら日本の路面電車世界を変えられるかもしれない、と夢を膨らませた。

思いがけず、大金に目がくらんだ(一度はマトモに心配したのに)奥さんがホスト狂いになってしまって、そのお金どころか大金を消費者金融から借りまくってしまって、夫婦仲は崩壊、しかし彼は再びの摩耶からの申し出を断わり、自分の力で路面電車の旅に出ると決意した……。

そして摩耶が最も穏やかでいられる相手、川上君。というか、その彼の母親が暖かくて、恐らく学生時代から入り浸っていたと思われる。
おこたに当たって三平汁やらカニシューマイやらを頬張りながら、時には“幻の焼酎”を飲みすぎて、おこたで朝を迎えちゃったことだって、あるのだ。
川上君はたぐい稀なるマラソンランナーなんだけど、そのたぐい稀なる才能のもとである心臓の強さがある意味奇形で、それが筋肉に異常を及ぼし、選手生命を脅かされていた。その手術が出来るのは世界でたった一人。膨大な手術費用を摩耶がサックリ提供したんである。

川上君が一番、摩耶の差し出したお金を素直に受け取り、そして有効に使ったんである。その手術が上手くいくか、あるいは上手くいっても選手として上手くいくかは判らない。もしもの時は、いい就職先を紹介するから、という摩耶に、川上君は、そうならないように努力するよ、と笑顔を見せる。
それが全然ヒクツでもなくプレッシャーを感じてるようでもなく、凄く自然で、摩耶からのお金の受け取り方も、生かし方も、彼が一番ステキだったんだよなあ(まあ、受け取る場面を示した訳じゃなかったけどさ)。
演じる山中君の絶妙な素朴さがステキで。摩耶が一人で突然彼の家を訪ねて、お母さんと夕飯を共にしていても全然驚かず「来てたんだ」とフツーにこたつの一角に陣取るのがイイなあーと思ってさ!
だって恋人でも元カレでもない、本当に純粋な友達、異性の友達で、うー、なんかグッときちゃってさあ。そしてしかも彼はきっとこの後、手術の効果を発揮して日本記録など出しちゃう訳でしょ!

彼と対照的……と言えそうで言えないのが小澤征悦演じる満。そう、言えないよ、だってさ、彼に対して摩耶は最初から緊張しているんだもの。
彼自身がカラカイ気味に摩耶にそう言うし、何より摩耶はこの5人の友人の中で、彼を一番後回しにしたのだ。
「オレには直接会いに来てくれればいいのに」などと電話経由なことを不満がる発言などしていたから、元カレなのかと思ったらトンでもない。単なるカルい女好きで、むしろサキの方に興味があったぐらいなんである。
でも満の存在は、むしろ摩耶が気兼ねしないですむ他の二人の男子より、印象的である。まあ、エピソードも強烈だしね……。

こんな寂れた土地で、スポンサーもないまま魚の研究を続けている彼は、しかしその研究というのが「世界の漁業水域を無にしてしまう」ようなものだから、世界中から狙われている。
つまり、満を無視しているのは日本ぐらいなんである。今も“中国人になれ”と言われている真っ最中なのだとか……。
いかにもアヤしそうな中国美女に腕をからめとられ、ホテルの部屋へ消えていきそうになるところを、摩耶が間髪いれず助けて「男を用意しておいたから」とカードマジシャンをオールナイトで満に押し付けたのは……彼を心配する気持ちはもちろんあったと思うけれど、ひょっとしてひょっとしたらヤキモチの気持ちもあったのかなあ。

などと思うのはね……。満が摩耶に最初に声をかけた高校生時代の言葉は「摩耶、俺、魚の気持ちが判る男なんだ」だった。後に摩耶が、初めて声をかけてくれた時のこと覚えてる?と言うと、満は間髪入れずにその言葉と場所さえも口にしたのだ。覚えてるよ、と。
……もしかしたら摩耶の方が彼のことを好きだったのかもしれないなあ、なんて思ってしまったもんだから。
中国人のジャマをする摩耶を、間を取り持つ日本人仲介人の男が脅しとも言える声をかける。しかし、摩耶はにべもなくはねつける。そのうち、この仲介人はターゲットを摩耶に変え、執拗にせまりだすんである。そうこのあたりから摩耶の正体が明らかになってくるのだ。

川上君のお母さんが株をやっていると知って「まさか彼のお金に手を出して……」と摩耶が控えめに牽制すると、お母さんは「そんなこと出来る訳ない。私のヘソクリで、おこづかい程度」と笑う。
ほっとした摩耶がいい株を教えてあげようとすると、これまた笑って「選ぶのもね、好きな会社なの。スポーツを支援しているとか、社長さんがいい男とかさ」と言うもんだから、摩耶も一緒になって笑ってしまう。
ある意味摩耶だって、そういう会社……つまり、人を支援して、いい技術を開発して伸びていく会社の株を買って、その会社を成長させる形で利を得ていたのだろうことは、満がヘッドハンティングされた水産会社に「あそこは技術開発に熱心だから」とサラリと言うあたりに現われているのだ。
そして、サキが落とそうとしたアラブの会社に懸念を示したのは、あの時、サキに対してその男が言っていた「石油には限りがある。その限りがあるうちに稼げるだけ稼ぐ」という台詞にダイレクトに理由が現われていたんだよなあ……。

そしてね、また終わり方もイイんだよね。二つのお葬式が劇中で行なわれ、その時だけ友人が勢ぞろい出来て、そして二つ目のお葬式の時には、一つ目を取り仕切ったその友人が欠けていた……。
今あるお金をすべて友人たちに吐き出して、そして摩耶はまた東京に戻ることにする。なんと母親も意識を取り戻した。
満がヘッドハンティングされた会社は東京で、なんだかこれから、摩耶をとりまく環境が変わるような予感がする中、摩耶の元に引っ越しの見積もりにきたのは、ここに引っ越し荷物を運び込んでくれた業者の男性だった。

あの時、摩耶が過分な「気持ち」を弾んだ二人のうちの一人。あの時ね、一人は一万円、一人は十万円で、十万をもらった方は、まさか自分が十万だったともう一人には言えず、そして摩耶からも「自分の思い出を作ってください」と返却を拒まれて困惑していたのだ。
なぜあの時、摩耶はお金に差をつけたんだろうか。それが人の運命だと思ったのかな……。そして再び摩耶の前に現われた十万の方の男性は、彼女にお礼を言いたのだと言った。
その通り、思い出を作りにタイに旅行に行き、そこで運命の女性に出会ったのだと。そして結婚し、今や所長になったのだと!
摩耶が友人たちに渡した大金に比べれば、“たった十万”がまさに彼の人生を変えたのだ。

なんとも粋な終わり方で、ふっと心が温かくなる。
お金って確かに人間を変えるし、人間関係を変えるし、友情も親子関係も変えてしまうけれど。単なる紙切れで、そして単なる紙切れではないんだけど。
そのさまざまを、泥臭くなく、ふんわりといざなわれてしまったことに大いに驚嘆してしまったのだった。

トラピストクッキーや白い恋人の缶が、日常生活に当然のように紛れ込んでいることに、ああ、北海道の日常って感じと大いに嬉しくなってしまう。確かにウチにもトラピストクッキーの缶が普通に積み上げられてたもの。★★★★☆


私の中のあなた/MY SISTER’S KEEPER
2009年 110分 アメリカ カラー
監督:ニック・カサベテス 脚本:ジェレミー・レベン/ニック・カサベテス
撮影:キャレブ・デシャネル 音楽:アーロン・ジグマン
出演:キャメロン・ディアス/アビゲイル・ブレスリン/アレック・ボールドウィン/ジェイソン・パトリック/ソフィア・バジリーバ/トーマス・デッカー/ヘザー・ウォールクィスト/ジョーン・キューザック/エバン・エリングソン/デビッド・ソーントン

2009/10/30/金 劇場(渋東シネタワー)
うーん、ちょっと悩んじゃう。こういうね、病気モノ、ことにもはやジャンルとさえなっていると言ってもいい白血病モノってのはさ、もうお涙頂戴になるのが前提になっているっていうのは判っているし、私だって涙腺緩める準備をして臨んでいるのは正直なところなのだ。
でもねでもね……それだけ数多くの映画が作られ、そして一方ではその病気と闘っている人が当然いて、更に言えば医学は進歩しているんであり……お涙頂戴ってだけでは済まなくなっているんだよね、実情としてさ。
そりゃだからこそ、本作のようなネタを仕込んでくる映画がぞくぞくと登場してくる訳なんだけど、ネタを仕込まれれば仕込まれるほどなんだか逆に……気持ちが離れてしまう気がするのだ。いや、そんな風にくだらないことをぐちゃぐちゃと考えないで、単純に涙を流せば気持ち良かったのかもしれないけれど。

まあつまりは……、たまには病気を克服して生き延びる人を描いてもいいんじゃないかって気がしたんだよね。それこそ白血病は合致するドナーさえ見つかればほぼ完治できる病気なのだし。そういう映画をそろそろ観たい気がしていたのかもしれない。
そう、“合致するドナーさえ見つかれば完治できる”病気にも関わらず、完璧なドナーがいる本作のケイトは結局天国に旅立ってしまう。それは彼女のボーイフレンドで同じく白血病を患っていたテイラーが「レア種だね」と言う、難しいタイプの白血病だったからなんだけど、それこそネタの一つで……そこまでして若い女の子を死なせる物語を作り上げていることに、何となく引いてしまう気持ちが否めなかったのは事実かなあ。

いや、確かにそんなことを言ってしまえば、この映画に足を運んだ私自身が成立しなくなってしまうのだが……何となくね、最後に彼女が助かってしまえばそんな気持ちも氷解したのかもしれないんだけど、そこだけはやけに現実的に、人一人の死は何も変えることなく、ただ時の流れの中に位置しただけ、みたいに、本当にそこだけ現実的にとらえるのもちょっとなあ、という気がしたというか……。
でもそれもまた、わざわざそんな風に言っちゃうところが過剰にポエティックだったかもしれない、と思うと、結局は最後までアメリカ的だったなあ、などと思ってしまうのだ。

ああ、なんか思いっきりオチまで言っちゃって、しかもワケ判らんままで、もう、私は相変わらず。
そう、この作品の最大の“ネタ”は、姉のドナーとして生きてきた妹が、もう身体を切り刻まれるのはイヤッ!と、瀕死の姉を尻目に親を提訴しちゃうっていう部分なんである。
いや、もしかしたら更に最大のネタは、さかのぼること11年前、その妹、アナがこの世に生を受けたことだったかもしれない。
映画の冒頭、幸せそうな家族の写真がしゃぼん玉のきらめきと揺らめきの中に、お伽噺のように描かれる。それは一方でファンタジックな幸せのようにも見え、他方では……ぐにゃりと歪む写真が否応のない不安感を示してもいるのだ。

というか、そのオープニングにかぶさる本作の主人公であるアナのナレーションによって、もうそれはアッサリと明らかにされてしまう。両親は私が愛の結晶であると言うけれど、大抵の妊娠は避妊の失敗だったり、酔った勢いのセックスという偶然であると。家族計画なんていうのは、不妊に苦しむカップルにしか存在しないんだと。そして……私は偶然ではなく、必然で生まれてきたのだと。
幼い女の子の声であられもない言葉がぽんぽん飛び出すことに衝撃を受ける。思えば……この最初が一番衝撃で、全てを物語ってしまっていたのだとも思う。
この冒頭を思えば、ラストシークエンスは、もったいぶったネタ明かしみたいに思えてしまうんだもの。

ただ、この家族を一人一人の視点から丁寧に描いていくのは好感が持てる。持てるけれども……弟のジェシーが持つ失読症という障害が、姉のケイトの深刻な病に比してどうしても軽く扱われてしまうことに対して、映画の上でもアッサリと通過してしまったりするのは、それなら最初からそのことに触れなければいいのに、といった中途半端さを随所に感じてしまうのは否めないところだったりもするんである。
家族全ての視点からくまなく丁寧に、と思うあまりに、とりあえず押さえて実は大事な部分が抜け落ちている、みたいな。この弟はクライマックスの裁判所で非常に重要な役柄を担うだけに、このテキトーさは残念なんだよなあ。

アナが主人公とはいえ、やはり最も尺が割かれるのが病気の当事者であるケイトであるのは、致し方ないといったところだろうか。
いまやスッカリ髪の毛も眉毛も抜け落ちて、実年齢よりずっと幼く見えてしまう彼女は、ずっと下の年齢のアナと同じぐらい、弟であるハズのジェシーよりずっと若く見えてしまうんである。それだけ、神様に近づいているのかもしれない、などと思う。
ケイトのエピソードでグッと来たのはやはり、同じ病気を持つテイラーとの出会い。病院で治療を受けながらカーテン越しに隣同士になった彼に、彼女の方から話しかけた。
そばに母親がいるのに、大胆にも携帯番号まで教える。手に番号を書きとめた彼は、連絡する、と言って病室を出た。かけてくるかしら、と頬を上気させるケイトに、果たしてその直後に、呼び出し音が鳴った。「イタズラじゃないかと思って」そうして二人の交際が始まったのだ。

もう、出会いからして親公認。治療で付き添っていた看護師も「イイ子よ」と太鼓判を押すテイラーは、母親の印象も良かった。年相応の照れ屋的なアイソの薄さはあったにしても、きちんと挨拶や仁義を通す、正しく育ってきた男の子の風情を漂わせていた。
しかも髪の毛が抜けてスキンヘッド状態で眉毛もなくなっちゃってても、ケイトの叔母(つまり母親の妹)が「カッコイイ子じゃない!やったわね、ケイト!」と興奮するぐらい、かなり見た目もイケてる男の子なんである。
“レア種”(とテイラーが最初の出会いで言ったんである)であるケイトは医療効果はなかなか上がらなかったけれど、彼との時間を過ごすことによる効果はミラクルだった。そりゃそうだ。恋は、しかも初めての恋は、人生の中で最大のエネルギーを生み出す出来事なんだもの。

実際、同じ病気、しかも白血病同士の恋人同士、というのは、この映画に数々仕込まれているネタの中でも、最も印象的で、斬新で(確かにあるハズなのに、なぜ今までなかったんだろうという感慨)、彼女を“可哀相な女の子”にさせない、秀逸な設定だったと思う。
今までいろんな白血病映画を観てきたけど、そのカップルのどちらかだけで、涙ながらに恋人の最期を見送る、てな展開でさ、それこそお涙頂戴で、まあ本作だって先にテイラーが天国に旅立ってしまうんだけど、でも“見送る”ことも出来ない訳だしさ……違うんだよね。

何たって、テイラーが抗がん剤治療を受け始めたケイトを見舞って「賭けよう。3時までに君は吐く」なんてあからさまに言ってさ、ヤな人、と言った途端にケイトが吐いちゃって、しかしテイラーはさすが慣れた手つきで、さっと彼女の吐瀉物をバケツで受け止めるんである。
そして、ガムを差し出し「ダメだ、2枚噛むんだ」と彼女の肩をしっかりと抱き締めながら介抱する様が、悲壮や同情が全然なくって、凄くステキなんだよね!
掛け金の100ドル(初めからジョークが前提の、法外な金額だわね)を払えないケイトが、ならセックスで、などと言ったりして、母親の前でそんなこと言うのか?などと更にジョークで返し、娘の窮地を安心して任せていた母親が「次は骨髄穿刺かしらね」と更なるキツめのジョークで返すのが、理解の上で成り立っているっていうのが判って、とても心温まるのよね。

その後、ケイトとテイラーは、患者たちが参加するダンスパーティーに出かける。ウィッグをかぶってドレスを身につけたケイトは父親が思わず絶句して目を潤ませる美しさで、そしてそれが……テイラーとの最期の思い出になってしまったのだ。
そのパーティーを抜け出して、病院の空きベッドで“愛を確かめ合う”ってのは、そこまでやらせないと恋人同士として成立しない、みたいな感覚があってちょっとヤだけどなあー。

で、そんな感じにスッカリケイトに比重が置かれちゃうんだけど……そう、アナなのよね、本作の主人公は。
姉のドナーとして生まれてきた自分の人生、未成年だから親の言うままにドナーとなってきたけれど、今度は腎臓を片方とられてしまう。そうしたらスポーツとかも思うように出来ないし、何より長生きも出来ないかもしれない……そう言ってアナは、CMでも有名な敏腕弁護士、アレグザンダーに依頼するんである。
そりゃ、アナのこれまで受けた仕打ちは……。たった5歳から注射針を刺されまくり、当然腰から骨髄液も取られたし、合併症を起こして入院を余儀なくされたことも一度ならずあった。
だけど母親のサラにしてみれば、ケイトはアナの姉であり、二人は仲もいいし、何より……ケイトの命を救うためにアナを産んだのだから、この次女の反撃は寝耳に水、予想外の出来事だったのだけれど……“ケイトの命を救うためにアナを生んだ”時点で、こういう事態は予測しておくべきだったかもしれないんだよね。

ただ、そう……“姉妹二人は仲がいい”のだ。それはアナが両親(というか母)を訴えてからも変わらないのだ。アナはケイトの目の前で、もう身体を切り刻まれるのはイヤ!と宣言するし(ていうか、アナからの訴状をケイトの前で広げて、娘を叱責する母親がちょっとおかしいんだけど)、それを目の前に見ていても、ケイトは哀しそうな顔をするものの、姉妹の仲がギクシャクするとかはなくて……むしろ、いつものように、いつも以上に寄り添っている感があるのだ。
ケイトの弟でありアナの兄であるジェシーも、戸惑いつつもアナに手を貸している様子だし、なにか“オチ”があるんじゃないかと思われてはいたんだけれど……。

とか言いつつもね、観客である私はそのことに気付かなかったし、予測も出来なかったというのがホントのところなんだよね。
なんで妹がこんなヒドいことを言い出したのに、ケイトは平静でいられるのか。病気が進行してて、抗う気力もないのか、みたいなね。
それに……そこまでにアナとケイトの“仲の良い姉妹”っぷりが、実はそれほど提示されていた訳でもなくて、家族それぞれの視点が描かれていたに過ぎないから、アナは本心では本気で姉を疎ましがっているんじゃないのと疑ったぐらいだったのだ。

そうなの、時間軸が前後するとはいえ……そしてオチ的なネタを最後に用意しているとはいえ、アナとケイトの姉妹の絆をオフレコ気味にしているのは、戦略的なズルさはもとより、もったいなかった感が否めないんだよなあ。
ネタが明かされてからなんだもん。幼いアナがケイトを献身的に介護していたり(恐らく下的な処理とかキツイこともこなしていた様子なのよね)、ケイトがテイラーと初めてのキスを妹に明かしたり(それに対してアナが「舌は使った?」と言うあたり、アメリカはやっぱり早熟だなーって気がするけど。10歳かそこらの女の子が、お姉ちゃんのキス体験に「舌は使った?」て言うかよ!!)。
そして何より、ケイトがこの妹にこそ全ての心を開いて、驚くべき依頼をしていたんだもの。

その驚くべき依頼、とは……つまり、ケイトは安らかに死にたかったんであった。たった16歳かそこらの女の子、髪が抜けたためにさらに幼く見える女の子が、運命を受け入れて、安らかに死にたいなどと考えること自体衝撃なんだけれど、そのためにコトを起こすことも衝撃なのであった。
ただ……これはあくまでフィクションでさ、長年病気と闘ってきたとはいえ、死に瀕した少女がここまでの諦念を持てるのかというのは、そこまで示していいのかっていう疑問はどうしても残るんだけれど。なんか、物語を感動的に収束させるためって気も、しちゃうんだけれど。
いや、それは、ここ最近やたらと実話流行りで、実話ならマアいっか、的な風潮が横行しているところで、フィクションでここまで提言してしまうという決意をこそ、重要視すべきなのかもしれないのだけれど。

いや、重要視すべきは16歳の女の子の諦念ではなく、最後まで闘うことこそが義務なのだと縛られた母親を、そうじゃないんだと解放したところなのかもしれない。
ケイトが妹のアナを使って、母親の闘い、つまり、過剰なまでの延命(と母親は思っていないんだろうな……最後まで、自分に言い聞かせる形で、ケイトの治癒を信じていたから)を止めさせたことにあるんだよね。

母親を演じたキャメロン・ディアスが、病気の子供を持つ母親を取材してさ、その母親たちは皆闘う戦士だと感じてこの役に挑んだこと、それは確かに正しく、美しく、母親の素晴らしい姿なんだけれど……実はソレが、病気の子供を苦しめているかもしれないんだ、という部分に切り込んだのは、凄く勇気がいって、斬新だったのかもしれないと思う。
もちろん議論を巻き起こす要素ではあって、それを避けるように甘美な終結に持ち込んだのが、もったいない感じがしたんだよなあ。
でもね、彼女が本当に最後の最後、愛娘から「(遠足の時、母親が手を振ってくれた姿が見えていたことを踏まえて)「またバスの左側の席に乗るわ」と言われて、もうたまらず号泣、ベッドの我が子を抱き締めていた筈が、娘から背中越しに優しく抱き締められて、幼子のように号泣するのは、さすがに泣いちゃったなあ。

「姉さんは、ケイトの命を救うために闘うことだけに気持ちが行っていて、その他が見えていない」と進言したのは、彼女の妹、ケリーだけれど、この叔母さんのキャラは逆にジャマだったぐらいに(こーゆー解説役を登場させずにはいられないあたりが、アメリカぽいのよねー)闘い続ける母親、キャメロン・ディアスは熱演だった。
彼女、私と同じ年だからさあ(うう……なんだこの違い)、ああ、私もそういう年齢なんだよな、ダメだな、いまだおこちゃまだよなあ、なんて思っちゃってさ(爆)。

主人公、アナを演じるアビゲイル・ブレスリンは、「リトル・ミス・サンシャイン」の彼女だったのね!あくまで普通の女の子である魅力っていうのはホント重要でさ、彼女のような女優がちゃんと残っていくことを熱望する。実際、このナチュラルな愛らしさ、ナチュラルな演技力(つまりは、ナチュラルに見えて、彼女自身の資質なのだろうが)は得難い魅力なんである。
そして……弁護士役のアレック・ボールドウィンは……太っちゃって、まあ。見た顔だと思いながら思い出せなかったのは、パーツが中央に寄りながらも、あまりに横に広がっちゃったからでしょ。哀しいなあ(泣)。

アナが、自分はドナーとして作られたことを認識しながらも、今、私の役目は終わった。私には素晴らしい姉がいたのだ、という結論で終わるのは、キレイ過ぎる感じがしたけど、“私の役目が終わった”という結論はステキだと思った。
母親は弁護士の職に戻り、消防士だった父親は早期退職して悩める若者たちの相談役の活動に従事し、ジェシーはというと、言葉を上手く紡げなかったのはつまり絵画の才能に分配していたからかもしれず(実際、ケイトに自作の絵をプレゼントしたりする場面もあるんである)、奨学金を得てアートスクールに進学しているんである。
ううう、出来過ぎの感はやっぱり否めないけれど……映画として収束するには仕方ないのかなあ。

日本製の映画やドラマを観慣れているせいかもしれないけど……“免疫力がもう全くない”と医者から言われているのに、クリーンルームと思しき部屋で、しかもケイトはもう唇も真っ白に乾燥してて今にも死にそうなのに、見舞いの親族たちが大勢押し寄せて、土足で(というあたりも日本的感覚なんだろうな……母親なんて、靴のままベッドに入り込んで娘を抱き締めていたもんなあ)、中学生の昼休みかってな具合に爆笑して、しまいにはピザなんぞ頼んで食い散らかすってのが、どーにも解せなくてさあ。
ケイトの最後の願いをかなえてビーチに連れ出すのは、まあ感涙ポイントとして見逃すにしても……いやそれも、やっぱり出来過ぎだったかもしれない。

裁判を決する判事を演じるジョーン・キューザック。飲酒運転の事故で愛娘を失ったという設定もまたベタだけど、彼女はさすがベテラン。
アナから「娘さんが死んだ時どういう気持ちだった?」と直截な質問をされて、絶句し、溢れる涙を落とさないことで精一杯って演技でグサリと射抜かれてしまった。
この場面一発で、他の全てがかき消されてしまう程だったかも。

なんか…臓器のみでつながってて、姉妹同士で、一人を生かすためのもうひとりとか、そんな葛藤が、ピノコのエピソードを思い出したりしたのは……ヘン、かしらん。 ★★★☆☆


私は猫ストーカー
2009年 103分 日本 カラー
監督:鈴木卓爾 脚本:黒沢久子
撮影:たむらまさき 音楽:蓮実重臣
出演:星野真里 江口のりこ 宮崎将 徳井優 坂井真紀 品川徹 諏訪太朗 寺十吾 岡部尚 麻生美代子

2009/7/13/月 劇場(シネマート新宿)
ついに猫を飼い始めて、猫べったりな生活を送っている私なんだけど、野良猫さんには嫌われっぱなしだった。もんじゃやもつ焼きを食べて帰った時だけ、めちゃめちゃ擦り寄ってくれる猫さんはいたけれど、数年の後、その猫さんは姿を消した。
私はこの映画を観て思い当たった。そうかそうか、私はちっとも猫さんの気持ちを汲んでなかったんだなあ。猫さんの目線、猫さんが気持ちいいところ、怖いこと、嬉しいこと、ジャマしてほしくないこと……。
私はただただ猫さんに触りたいばかりに「あっ、猫っ!」と近づいては、サーッと逃げられ、シャーッと威嚇され、すごすごと引き下がっていたのであった……(ひょっとして今、愛猫、野枝にもたまにそうされているかもしれない……)。

愛らしいイラストになんともほっこりする、同名エッセイが原作。未読なので、この原作自体がこのような物語を構築しているかどうかは判らない……ただ猫を追いかける日々の楽しさを伝えている内容なんではないだろうか。
しかし本作の主人公、ハルは古本屋に勤めながらイラストレーターを目指している女の子。イラストレーターという部分が作者と共通してはいるものの、恐らくこうした“物語”は原作にはないと思われる。
ただ……原作の解説をちらっと覗き見した時、原作者自らが解説した一文が、映画にもそのまま使われていて、そしてそれは図らずも私が映画の中で最も心に残った、というか、突き刺さった、というか、忘れられない言葉だったのだった。

「なにかと引き換えに猫に愛情を注いでいるのでは?」と。
原作者はそれを、三十路を過ぎた女が猫に夢中だと……と前置きしているけれど、本作のハルは20代前半の女の子であるし、劇中では猫をストーカーする彼女をストーカーする青年なんぞも現われる。
そして、ハルの元カレとして、かつてミュージシャンを目指していて、今はりんご農家の後継ぎになってりんごに愛情を注いでいる男の子が登場したりもする。その元カレから、りんごと共に結婚の報告なんぞが届き、ハルはちょっとセンチメンタルになったりもするんである。
そんなハルに、バイトの後輩の女の子から浴びせられるのがくだんの台詞であり、「猫がいれば幸せとか言わないでくださいよ」と呆れ気味の口調でたしなめられたりするんである。

私はなんたって三十路過ぎた女で猫を飼い始めた身だし、実際、「猫がいれば幸せ」なんだから、この台詞にはぐさっとくるものがあるんだけど、でも決して「何かと引き換えに猫に愛情を注いでいる」んじゃなくて、猫に直球で愛情を注いでいるんだし。
原作者が言うように、こんな台詞は殊更に女に対して発せられ、三十路を過ぎてれば妙に哀切に語られたりもしちゃう。
しかしそれを若いヒロインに置き換えることで、そして恋愛の影も見え隠れさせることで、そう見えるけど、そうじゃないと主張している、のかな?いやでも……いやいや、猫がいれば幸せなのは事実だもの!などと、力なく反芻したりしているのであった。

しかしハルは、猫ストーカーだけど、猫に対してはハッキリとした距離をとっている。彼女自身が猫を飼っていないというのもあるけど……あれだけ猫が好きで、なぜ飼っていないのか、ただ単に飼えない環境にあるという以上のものを、彼女からは感じるのだ。
ハルは街中の猫をストーカーして回るけれど、せいぜいちょっと撫でたり、スリスリしてくれるのを嬉しがるだけで、必要以上に接触したりはしない。
バイト先の古本屋の看板猫、チビトムに対しても、実に嬉しそうに顔を近づけて挨拶したり、ほっぺを撫でたりはしているけれど、だっこしたりといったベタベタはやらないんだよね。
それは飼い主である奥さんに遠慮しているのかと思っていたんだけど(実際、奥さんはベタベタ)、見ていくうちにそうではないんじゃないかという思いを強くする。

宣材写真では猫を抱きしめて幸せそうな顔をしているハルのショットがあったりするけれど、本編の中ではそんな場面は一度もないんである。
彼女に淡い思いを寄せているアメリカ文学オタクの青年に、猫ストーカーの極意を伝える場面で、それはよりハッキリする。
「そう簡単に触らせてくれませんよ」と、ハルはまずは猫の目線まで下がること、目を見つめ続けるのは敵意を持っていると思われるから、時々目線を避けること、などを伝授し、とにかく猫自身のアイデンティティを大切にする姿勢を打ち出す。
それは明らかに“猫っ可愛がりする”人間主体の価値感の正反対のところにあって、むしろ私も猫になりたかった、ぐらいにまで発展していると思われる。
……そう考えると私は、まだまだ人間として愛猫を猫っ可愛がりしている訳で、未熟者ってことなんだろうなあ。

猫を追いかけ続けるのを見てるだけでも楽しいけど、さすがにそれでは映画にならない(爆)。ので、ハッキリと物語を主導するパートが存在する。
ハルがバイトしている先の主人夫婦で、猫の飼い主は奥さんの方。スナックで働いていた奥さんの客だったご主人が、失恋してじくじくしていたのを見かねて結婚した、と彼女は言うけれど、恐らく彼女の方がご主人にべったりと思われる。表面上はクールを装って、そんな強がりを言ったりするけれど。
その、ご主人のかつての想い人に、奥さんはいまだに悋気を起こして、彼がいまだに捨てられない思い出の本に目くじら立てたりするんである。そしてその時にはワザとらしく、愛猫のチビトムを殊更にナデナデして、何も聞こえないフリをする……。

でね、チビトムはその後、姿を消してしまう。半狂乱になった奥さんは、あなたは心配じゃないの!とご主人に逆ギレして、彼女もまでも姿を消してしまう……。
ハルはなんたって猫ストーカーだから、チビトムの行きそうな場所を、尊敬する猫仙人とともに捜索するんだけど、チビトムの行く先はようとして知れないんである。
チビトムの行方だけが知れなくなった時点では「猫って、死ぬ時、姿を消すって言いますよね」と気楽にささやいていたバイトの後輩だったけど、奥さんまでもがいなくなってしまうと大慌て。ハルからチビトラの写真を借りて、チラシを作り、(「傲岸不遜、だけどカワイイ」という台詞が、彼女も実はチビトムを好きだったことを感じさせて微笑ましい)大捜索を始めるものの、結局チビトムは帰ってこないんだよね。

半狂乱になった奥さんは勿論、その奥さんに対処しようのないご主人、そしてバイトの後輩たちも、いつものテンションを保てないんだけど、ハルだけは、そんな時も落ち着いているんだよなあ。
ハルは、外にいる猫、つまりは、猫の普段の姿を見慣れている、というか、その姿こそを愛しいと思っているから、なのかもしれない。
猫ストーカーのハルが見かける猫は、いつでも移動の途中、スタートでもゴールでもなく、放浪の途中なのだ。そしてそれは……ひょっとしたらいつでも人生の途中である私たちそのものなのかもしれない。

などと思うのは、ハル以外の、猫好きだったりそうじゃなかったりする人たちも、彼らが接している猫は、ある意味スタートかゴールかに到達している猫、なんだよね。
飼い猫としてのチビトムに接している奥さんや、ご主人や、バイトの後輩は勿論、ハルが遭遇する猫仙人や、公園で猫にごはんをあげている女性、ハルを猫素人扱いして「猫のいるところを教えてやる!」とか言って引き回したあげく、見つからずに悄然としていた僧侶(というのも確認出来ないままのアヤしい男)も、彼らが見ているのは、ごはんのある場所、とか、昼寝が出来る場所、とか、ある種のスタートやゴール、あるいは中継地点である場所。
ハルが追いかけているのは常に“移動の途中”の猫であって、それは原作者の求める猫の姿でもあるんだと思う。

ヒロインを原作者のように三十路すぎた女性ではなく、まだまだ恋愛も花盛りのお年頃の20代の女の子に設定したのは(……いや……三十路過ぎてたって、恋愛花盛りだと思うけどね!)、そんな道行途中の猫たちの見せる、人生いつでも途中、というポジティブな感覚をより示せるからなのかな、と思う。
どんな年でも、いつでも人生の途中ではある筈なんだけど……確かに正直、三十路過ぎると、取りこぼしたものはもう取り返せないよ、みたいな雰囲気になってくるからさあ……。
だから、その取りこぼした“何か”と引き換えに猫に愛情を注いでいる、などと言われちゃうんであり、それに対して、何それ、とか憤りつつも……そうかも、と弱気になっちゃうんであり……そしてそのなぐさめを、猫に求めている……かもしれない……んであり………………なんか、どんどん、落ちちゃうなあ。

今は猫エイズとかもあるし、飼い猫を自由に外に出したりすることが推奨されていない向きもあって、こんな平和な情景は、失われつつある。
それこそ昔は野良犬だって平和に闊歩していたけれど、今はいない。社会から排除されてしまっているのだ。
猫は犬ほど危険じゃないこととしたたかな繁殖力で、いまだ野良猫という平和な存在がかろうじて保たれている。
一方で、いくらでも猫がいそうな魚市場でも、“不衛生”だという理由で、エサやりが禁止されている。子猫を海に捨てに行くなんてゾッとする話も聞く。
でも“不衛生”なのはエサを与える立場の人間の方の問題であり、猫の方がよっぽどきれい好きなんであり、したたかな繁殖力は、むしろ人間が学ぶべき部分でさえあると思われ……それに何より、やっぱり無条件にカワイイったら、ないんだもの。

役者猫は一匹だけで、ほかはホントにその土地の猫さんたちだという。それだけに、追いかけるカメラの揺れが激しく、ちょっと酔いそうになる時もあれど、野良猫特有の目つきの鋭い猫さんたちのリアリティが、何よりこの作品を引っ張る。
しかし、その土地猫さんたち、そしてチビトム役の役者猫も皆、まるまると太っていて、目つき以外はまるで野良猫のハングリーなイメージがなくってちょっとビックリだった。ウチの猫の方がよっぽどスリムなんだもの。
ああ、でも、この町ではきっと、猫が街中で愛されているんだろうな、猫仙人、猫神社、人間よりも猫がのんびりと暮らせる街、猫好きがたくさんいて、街中で猫がまったりしているのが日常、こんな幸せなことってないな、って思った。
そんなリアルさを狙って同録なのかもしれないけど、かなりの確率で、騒音で台詞が描き消されるのがちょっとツラかったけど。

劇中、ハルが編集担当者に「猫は描かないで下さいね!」と念押しされる場面が好き。よほどどんなテーマにもついつい猫を描き込んでしまうんだろう。あれは猫じゃありません、と彼女が反論すると、ひげがありましたよ、と担当。ひげは描いてません、とさらに食い下がるハル。映してみると……確かにひげはないんだけど、耳といい何といい、明らかに猫、というのが笑ってしまう。

本の表紙にもなっていて、そしてラストクレジットも飾る、振り返ったお尻をこちらに向けて振り返った猫のイラストが、なんともイイのよね。菊のご紋のお尻♪
そんでもって、振り返ったその顔は鈴木監督にソックリなんである。★★★☆☆


ワンダーラスト/FILTH AND WISDOM
2008年 84分 イギリス カラー
監督:マドンナ 脚本:マドンナ/ダン・ケイダン
撮影:ティム・モーリス=ジョーンズ 音楽:
出演:ユージン・ハッツ/ホリー・ウェストン/ヴィッキー・マクルア/リチャード・E・グラント/インダー・マノチャ/エリオット・レヴィ/フランチェスカ・キングドン/スティーブン・グラハム/ハンナ・ウォルターズ/ショーブ・カプール/エイド

2009/2/17/火 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
洋楽はほとんど聴かないので、このスーパースターであるマドンナという人自体に興味がわいてという訳ではないんだけどね。でも映画女優としてもインパクトのある役を演じているし、なんたって彼女はショーン・ペン、ガイ・リッチーという映画界の異才、鬼才をパートナーにしたという経歴の持ち主なのだから、その彼女が映画を撮ったと聞けば、やはり何となく心が惹かれるんである。
これは舞台がロンドンだから、その二番目のパートナー、リッチーとの破綻の前に作られた作品かな?

マドンナ自身をそれほど知らなくても、やはりなんとなく彼女から想起される、カラフルでセクシーなイメージがコラージュのように散りばめられている。
誰も知らない役者たち、スターを使わないのが潔くもあり、したたかでもあり。全てをマドンナの指揮下に置き、光り輝かせる。
それら数多くの人物全てがメイン級で、それぞれのエピソードがパズルのようにジグザグなので時にコンランしそうにもなるんだけど、その中を網目のようにウクライナ人のAKが、祖国の格言と哲学を縦横無尽にナレーションして突っ切っていく趣。
彼は常に哲学的言葉をモノローグし、時には誰かに対して喋り続け、私はこのマドンナという人がこんなにも内側に入っていることにちょっと驚いたんだけれど、思えば彼女は言葉を歌にして世の中に発信している“詩人”であり、“哲学者”であるといえば、不思議ではないのかもしれない。

しかもこのAK、本名はアンドレという、世の中をナナメに見ているSM調教師である彼は、本来やりたいこと、彼の命は音楽であり、それはロマのリズムを思わせるジプシーバンドなのであった。
思わせる、などと思ったらホントにロマだった。演じるユージン・ハッツはまんま、ロマ。ジプシー音楽じゃなく、ロマ音楽。この役には彼のキャラ自身が色濃く投影されている。出身も哲学も音楽も。
と、思ったら、「僕の大事なコレクション」で観てるんだわ、そうだ。目当てのイライジャ・ウッドより心惹かれた彼、思い出した!狂言回し的な役柄も、誰よりもイキイキとして惹きつけるのも同じだ!!
で、劇中何度もその音楽が、彼の言葉と同様に物語を縦横無尽に突き抜けるけれども、圧巻はクライマックス、彼が尊敬してやまない盲目の詩人、フリン教授の言葉を情熱的で刺激的なロックにしてライブする場面。この場面を撮りたくてマドンナはこの物語を構築したんじゃないかと思うぐらい。

ウクライナ人でジプシーバンドで詩人で哲学者で、というAK。
彼が崇拝する“盲目の詩人”フリン教授。
AKのルームメイトの二人、夢はロイヤルバレエ団のダンサーであるホリーは、ストリップクラブのポールダンサーの仕事を得る。
もう一人のジュリエットは、アフリカに渡って子供たちを救う活動をするのが夢。どうやら親元は裕福な医者の家系らしく、医大に行けとうるさく言われているんだけど、それに背を向けて薬局でのアルバイトにいそしむ毎日。
しかも彼女は、来たるべきアフリカ渡航に向けて、子供たちを救うための薬を日常的に万引きしている有り様なんである。

彼らは皆、生業とか、自分自身をどう自己紹介するのかとか、本当にやりたいこととか、誇りを持っていることは何かとか……そういうことが判らなくなりそうなぐらい、望むと望まないとに関わらず、あるいは意識的、無意識的に関わらず、あまりに矛盾の中で生きている。
カンタンに言ってしまえば、AKは自分のやりたいジプシーバンドに邁進すればいいんだし、ホリーは選ばれるのをただ待つんじゃなくてオーディションでもガンガン受ければいいんだし、ジュリエットだって、自分の親を利用でも騙すでもなんでもして、アフリカ行きの夢を叶えればいいのだ。
でも彼らは、それをしない。本当の自分はここにはないのだとうそぶいて、いつのまにか、やりたくないことが生活のメインになってしまっている。
だから、彼らの生活はジグザグに、パズルのように見えてしまうのだ……というのを、意図的に示しているんだろうな、この構成は。
AKがやたらとつぶやく、一見深遠に聞こえて咀嚼するのが難しい哲学的言葉の羅列も、結局は同じことなのだ。

ただね、やはりこの辺は、ビジュアルが不可欠なショウビズとしての音楽業界のトップを走ってきたマドンナならではで、どの画をとっても非常に鮮烈でポップで、目を飽きさせないのだ。
ことに、Mのお客を満足させる、優秀なサドをサービスする仕事をしているAKの、様々な七変化は見ものである。
それでなくてもちょっとワザとらしいぐらいの口ひげをたくわえた彼は、一見してMを喜ばせそうなドイツ将校を思わせ、軍服に編み上げブーツで蹴り倒す様が実に似合うのだもの。

時には女装までもやってのけ、更にルームメイトの二人に日本の女子高生風の、ネクタイにチェックのミニスカといういでたちをさせて、“女子生徒の前で、教師に叱責される男子学生”なんていうシチュエイションまでサービスするんだから恐れ入る。
この女子高生スタイル、こんなエロ文化として遠い海の向こうに到達しているのが……間違ってないだけに(爆)ツライものがあってさあ。
しかも、ホリーが勤めるストリップクラブの上客は、日本からのエリートサラリーマン軍団だっていうのも、ツライ。「チップを一番気前よくくれるのは日本人」だなんて、うう、ツラすぎるよう。

ちなみにAKはホリーにホレていて、彼女に「その宝箱のような身体を使わない手はない」と言ってストリップダンサーを勧めた訳なんだけど、実はそれって密かなる告白だったのかもしれない?
ウンチク好きの喋くりキングのくせに、自分の気持ちは素直に言えないヤツ、周囲の方が、彼の気持ちに気づいているというのにさあ。
でも一方で彼は、崇拝するフリン教授には、実に素直に気持ちをぶつけることが出来るんだよね。文学にかぶれた青年だって、こんなにストレートに言わないだろうという言葉、あなたの才能をこのままにしておくなんてもったいない、みたいな。
このフリン教授が、いつから目の光を失ったのかは定かではないんだけど、かつて物書きとして名声を得ていた頃は、普通に見えていたんだろう。

本棚にはギッシリと書籍が詰め込まれていて、その中からAKは彼の著作、「ワンダーラスト・オブ・キング」を見い出し、感銘を受けるんである。欲望の王、とでもいった意味であるこの本を、彼は憑かれたように読みふける。そらんじる。その入れ込み方は、ホリーへの思いとはまた別のもので、このあたりにアーティスト、マドンナとしての矜持を見るようにも思う。
教授にだけは、本名のアンドレを呼ぶことを、なんとなく許してるし。てか、多分、他の人たちは彼の本名など知らない。
しかし一方で、ホリーが自分の先行きの相談をするのもこのフリン教授だっていうのが、結局はAKと感覚がつながってると感じさせるんだけどね。
教授は自分の目が見えないことで凄く自身を蔑んでるんだけど、AKもホリーも、だからこそ彼の感覚を信頼しているというか……この物語の中で、フリン教授こそが実は最も複雑で重要なキャラだと思うのはそこで、言葉というのはこうして目に見える形で刻印されるものだけど、でも決して目に見えなければいけないものではなく、形すらないものであって、そのことを、見えていることがフツーだと思っている私たちは、忘れてるんだよね。

で、今までは見えていたフリン教授も忘れていたんだと思う。それだけでもう、自分は詩人としてダメだと。でもAKはなんたって、音楽が自分の最もやりたいことな訳だから……音楽は目にも見えなければ手で触れることも出来ない。紙に刻印された言葉が賞とかとったりするのをありがたがるなんて、クソなのだ。
教授の同期のライバルが著名な文学賞の候補になったとか言って、自慢しくさる場面が用意されてて、それで教授は一度どん底に落ちる。それを指してクソだと言っているんだろうってことがね、音楽をやってるマドンナらしいと思うんだよなあ。
紙に書かれた言葉は、形のあるものだと錯覚しがちで、でもそうじゃないんだと。人の心を打つ言葉は、音楽は、形がなくて、紙なんかなくても、目が見えなくても、伝わるんだって。それがクライマックスのライブ場面へとつながっていくんだよね。

ホリーが、憧れていたアカデミックなバレエの世界から、いわば俗世界のストリップクラブダンサーへと開眼していくのも、同じことかもしれない。
最初はガチガチの優等生だったホリーは、しかしその品の良さを買われて、彼女自身も生真面目なもんだから、重宝されるんだよね。
ポールダンスはバレエとは違う筋力を必要とされるし、客を意識した色香を出さなきゃいけない難しさがあって、それこそ生真面目なもんだから、ホリーは泣き出したりもしちゃう。

でも、あの女子高生スタイルでハジけちゃうのがイイのよね。いわばベタなセクシーコスチュームをまとったダンサーしかこのクラブにはいなかった。ホリーがチェックのミニスカで酒をかっくらっているのをマスターが見い出し、ステージに引き上げる。
正直コイツは、エロボスなだけだと思ったけど、こういう店を経営するだけあって、そういうタイミングというかチャンスは逃がさないのよね。
そりゃまあ、ロイヤルバレエ団を夢見ていたホリーにとってはアレかもしれないけど、でも、そここそが、まさにマドンナの視点なのだと思う。
だって、例えば、オペラ座に立つ声楽家と比したら、マドンナは俗世間の人なのかもしれない。でもオペラ座の声楽家よりはるかに、彼女の方が天上のスターだ。あれだけ誰もが認めるスーパースターであるマドンナが、あえてその言い換えを自身の監督作品でしているのって、スゴイかもしれない。

そうしたメインのキャストたちは勿論、脇役たちもかなり面白い。
最も尺を割かれているのは、ジュリエットが勤める薬局の経営者であるインド人、サーディープ。彼女の上着をこっそりスーハー嗅いじゃうような、まあちょっとヘンタイ入った恋する男なんだけど、でも結局はそれが現実逃避だったってことが次第に明らかにされるのが、上手いんだよなあ。
だってね、最初は、ギャーギャーうるさい奥さんと手のつけようがないほどに暴れまわる無数の(爆)子供たちっていう描写は、そりゃあ彼が疲れ果てるのもムリなかろう……って思わせるんだもん。
でもね、それはちょっとズルくてさ、だって奥さんが喋ってるのは祖国の言葉で、この日本版でも字幕にはされないし、ホントにただただガーガーうるさいだけにしか映らないのだ。

でもねでもね、彼女は暴れ盛りの子供たちの面倒を見つつ、そんな生活じみてしまったせいもあって、女としての自分から離れてしまった夫のことを凄く感じててさ……。
子供たちにギャー!とヒスおこして、バタン!と夫婦の寝室に閉じこもり、若い頃の写真を胸に、「サーディープ……あなた」とつぶやいて泣き崩れるんだもん。ちょっと虚を突かれてグッときてしまった。
その後もサーディープは、ジュリエットのアフリカ渡航に尽力したりして、なかなか奥さんをかえりみないもんだからハラハラしたけど、最終的にはちゃんと、夫婦ラブラブに抱擁する場面が用意されている。このあたりはマドンナったら、意外にベタに平和主義ね、なんて(笑)。

でも、一番好きだったのは、AKの客であるマゾ男とその妻、だったかなあ。この奥さん、ガタイも良くてニラミもきつく、いかにも恐妻って感じで、朝食の時、彼は奥さんに目を合わせることが出来ず、新聞に顔を隠しどおしなのよ。
でも考えてみれば彼はMなんだから、だからこそこのコワイ奥さんと別れることもなく、暮らし続けている訳でさ。
しかも、この場面では観客の誰もが彼に同情したというのに、結果的には奥さんに拍手喝采しちゃうんだから!
結局は全て、女性讃歌なんだよね、この物語。女性監督の映画にはありがちではあるけど、男性優位の世界で闘って来たマドンナがそれをやるのは、ちょっと意外だったかもしれない。

何よりこのコワイ奥さんがステキだったのは、ダンナがSMクラブの常連客だと知って、そのシチュエイションを夫のために再現すべく、その巨体を女子高生ルックに包んで、おしおきよ、なんて台詞と武器(ムチ)もカンペキに仕込んじゃうトコなのよ!
か、カワイイ……しかも、巨体で首が太いから、ネクタイがやたら短くなってるのが切なくもカワイイ(爆)。
その奥さんの仕込みに、驚きながらもやったら嬉しそうに、イソイソとムチに打たれちゃうダンナがサイコーだよね!いやー……人の幸せって、ホント、どこにあるかわかんないよなあ……。
たぶんこの場面の先にはメイクラブ??なーんて、浮かれ妄想しすぎだっての。でも彼ら夫婦には子供がいない雰囲気だったから、なんかそんな、それこそベタな幸せも想像しちゃう。

つまりは、人それぞれの幸せって、どこにあるのか判らないってことなんだよね……単純な視点からは、見えないっていう。

だってさ、それこそフリン教授なんて、ハタから見れば、目が見えなくなって、同期が著名な賞をとっちゃったりして、ただミジメにしか見えないかもしれない。でも彼は、自分の言葉を音に乗せて聴衆を熱狂させたAKに、彼の歌に涙を流して……それは、こんな幸福が世の中にあるのかと、彼は思ったに違いないし。それは、世間的に判りやすい名声という名のソレではないのだ。
ラスト、AKとホリーはアフリカに出発するジュリエットを送り出す。お互いに思いあっていた気持ちを伝えられなかったのを、お互いに気がかりだったそれを、まるで誰かが指摘したかのようにね、AKが“いつものように”ホリーのお尻を冗談めかしてサワリと触って、“いつものように”ホリーはそれをかわしたけれど、その一瞬後、彼の首筋をつかまえてふと唇を触れさせる。………………もう、そうなったら、アレもアレもアレしちゃうっつーの!

うっ、やっぱり、案外ベタなんだよな。宣伝惹句の「これがマドンナの堕落論」などではないのよね。でも、そう感じさせない手腕はさすがというか。
ところでこれ、原題は邦題と全然違うんだよなあ……。“filth=堕落”と“wisdom=賢明” それは数々の登場人物たちが、あらゆる選択肢や矛盾の中で悩み続けている様を思わせる。
でも彼らが選択したのが客観的に見れば“堕落”に見えても、彼ら自身にとっては“賢明”だという、不思議なパラドックス。★★★☆☆


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