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「ほ」


2006年鑑賞作品

僕の大事なコレクション/EVERYTHING IS ILLUMINATED
2005年 105分 アメリカ カラー
監督:リーブ・シュライバー 脚本:リーブ・シュライバー
撮影:マシュー・リバティーク 音楽:
出演:イライジャ・ウッド/ユージーン・ハッツ/ボリス・レスキン/ラリッサ・ローレット


2006/5/17/水 劇場(渋谷アミューズCQN)
ナチの悲劇から何十年も経って、映画の世界でもさまざまな作品が作られてて。だから、今アプローチするには変化球が必要なのかなあ、などと思った。
ウクライナなんて考えもしなかったけれど、旧ソ連の支配下であったこの地でもユダヤ人の迫害が行われ、そしてこんな風にひとつの小さな村が殲滅させられたことも、あったかもしれない。そしてこの地で暮らす青年、アレックスのように、そんな悲劇があったこと、ウクライナが反ユダヤだったことを知らない世代になってきてるのだろう。

この監督さん、何となく名前聞いたことあるなと思ったら、役者さんなのね。もともと脚本家志望だったという彼はこの原作に出会って企画を進め、脚本、監督まで深く関わるようになった。つまりは運命的な、思い入れの深い作品ということだ。でも監督のデビューでこの重層的な作品をまとめあげるのは、やはり真に才能のある人じゃないと難しい……ような気がする。
それとも邦題が悪かったかしらん。私はついつい“コレクション”の意味するところに重点を置いて見てしまった。
確かに上手いタイトルのつけ方だと思う。主人公のジョナサンが探していた老女もまたコレクションの趣味があり、そこをつなぐ糸の上に物語がのっかってるんだもの。でも、実は“コレクション”というのはほんのスパイスとしての意味づけに過ぎなかったんじゃないのかなとも思うからさあ……。
現に原題は「全てが明らかにされる」とか、そういった意味。イルミネイティド、という部分に照明がどうたらという引っ掛けをつけてやたら引っぱるけど、つまりはそういう意味。コレクションの趣味はキャラの肉づけであり、もちろんそこには深い意義があるわけだけど、主題ではないもの。

主人公のジョナサンを演じるイライジャ・ウッド。無論、彼が出ていることが鑑賞の動機ではあった。私は「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを観ていないから(最初からシリーズで作られると言われると、それだけで腰が引けてしまうのよ)それで有名になった彼だというのとは関係なく、本当に役者としての彼が凄いと思って、観たいと思ったんだけれど、無論彼自身には「ロード……」のイメージから脱却したいという気持ちがあったんだという。
あのくるくるのヘアスタイルを押し込めてキッチリと七三分けにし、メガネをかけ、まるで血の気のない顔色で登場する最初の場面、本気で彼のソックリマネキンかと思うぐらい血の気が失せていたので、私は座席に座りながら思わず三歩ぐらい引いてしまったよ……ビックリした。
ケント・デリカットのような度のきついメガネをかけた彼、ホント、仲代達矢のようなビー玉目だから、こういうメガネをかけると、余計に目のガラス玉感が強調されるよね。

そんな、気合いの入った作りこみのキャラで臨んだ彼だけれど、結局は地元?俳優に持ってかれてしまったかもしれない。
ジョナサンを案内するツアーガイドのウクライナ青年、アレックスは、ヘンな英語を堂々と操り(英語が判らないから、このあたりのオカシさが判んないのが悔しい)帽子にコダワリを持ち、ヒップホップバンザイ、アメリカバンザイ、みたいな、金歯がどーにも気になるキャラのキョーレツさ。
演技は初めてで本来はミュージシャンであるという彼だけれど、この役を生きてる。イライジャがかなり作りこんでいるだけに、余計に彼がイキイキと見える。
どちらかというと狂言まわし的立場だし、彼が全面に押し出されるわけではないんだけど、そのあたりの押し引きも上手く、戸惑うように佇むばかりのジョナサンとの対照で非常に彼が際立って見える。いや、無論そのジョナサンの造形はイライジャの計算だというのは判ってる。やはりここんところは演出の采配の問題だよね。

しかし、結局最後に全部持っていくのが、このアレックスの祖父で、最後にナゾの自殺を遂げてしまうおじいちゃんである。おじいちゃん、であって、役名さえも与えられていないあたりもまたミステリアスである。
いや、見た目は剛健なおじいちゃんなのよ。英語もまるで判らない、ガンコな、アメリカ大嫌いの彼。でもこのおじいちゃんにはヒミツがあった。でもそのヒミツというのが……私の頭が悪いせいだろうけど、あまりクリアーに判らない。彼自身の口から語られるわけではなく、何となくの回想シーンで示されるだけだから。
この、話さない、というあたりが、過去の悲劇を充分に物語っているということなんだろうけれど……そしてこのおじいちゃんの存在感はすべてをさらっていくんだから、そのオチどころはきっちり提示してほしかった気がする。

そもそも、このジョナサンの収集癖から始まった。彼が子供の頃、祖父が死んだ。そのかたわらに置かれていたバッタの入った琥珀のペンダントヘッドから彼のコレクションは始まった。家族に関するものの全てがその対象。祖母の入れ歯、兄の使ったコンドーム、弟の歯列矯正器。その全てをジップロックにひとつひとつ閉じ込めて壁にピンで留める。
ジョナサンは、いかにも人と接するのは苦手に見える。でも人間関係の基本である家族を愛してる。だけど……こんなコレクションでの彼の気持ちが家族に伝わっていたとはとても思えない。家族たちと、上手く話せていたのだろうか。
アレックスは英語を話せてもかなりアヤしいし、彼のおじいちゃんに至っては英語をまるで解さない。でも彼らとの必死のコミュニケーションが、ジョナサンにとって最も気持ちの伝わったものなんじゃないかと思ってしまう。言葉が通じることと、気持ちが伝わることは、まるで違うんだ。

家族たちの思い出の品を、恐らくは彼らは捨ててしまうものを、こうして拾い上げて、壁に止めてる。新しい人ほど、思い出は多くなる。でも、この祖父のものは、死んだ時だったから当然、ひとつだけなのだ。
祖母が亡くなる時、彼女がジョナサンに手渡した写真には、祖父とおぼしき青年と一緒に映っているのは祖母ではない女性が写っていた。まさしく琥珀色の写真の中の女性の首元に、この琥珀のペンダントがかけられていた。祖母は、何も語らなかった。語りたくない、とでもいうように背を向けた。
祖父にソックリだというジョナサンに、夫の過去、そしてルーツを辿ってほしいということだったのかもしれない。

かくして、ジョナサンはウクライナへと旅立つのである。写真には「アウグスチーネとトラキムブロドにて」と書かれていた。アウグスチーネという女性の存在と、トラキムブロドという地を探して、地元の先祖探しを手伝うガイドという、アヤシげな家族の力を借り、ウクライナの大地をポンコツ車でひた走る。
この家族たちはもともと、本気でそれを突き止めようとか思ってないあたりがいかにもイカサマだったのよね。まあテキトーに名所を案内してお茶を濁して話を聞いてやればカネが入ってくる、ぐらいなお気楽稼業である。
遊びたい盛りでモテ男(だと自分で思い込んでいる)アレックスは元々この稼業を手伝うことをメンドくさがったし、おじいちゃんはもう引退したがってた。おじいちゃんは目が見えないと言い張り、保健所で処分されそうになってた凶暴なメス犬のサミー・デイビスJr.Jr.を盲導犬として飼っているんだけど、この犬も同行させるなら、としぶしぶ承知し、孫のアレックスを強引に引き込む。

そして、ジョナサンを駅まで迎えに来るアレックス。ロマバンドを引き連れて賑やかに演奏しながら、スペルも発音も間違えて「ジョンフェン(解説ではジョナフェンと書いてるけど、こう言ってたような……韓国人みたいだよな)」と呼びかける。最初から飲まれまくって面食らうジョナサン。
かくして彼ら三人プラス一匹の旅は始まるのである。ジョナサンは犬が苦手なんだけど、この凶暴なサミー・デイビスJr.Jr.がやたらなつくのだ。勝手にドア番をかって出て見張りをしてたりとか。
ジョサナンが泊まる、ベッドだけが置いてあるムダにだだっぴろい部屋が、なぜか笑える。アレックスの「寝るだけだからな」という台詞が追い打ちをかける。だからこそなんでこんなに広いんだよと。それはこのウクライナの広い広い大地と、まだまだ判らないことが多すぎるこの先を象徴しているようにも思える。
しかし、犬恐怖症のジョナサンが、このキバがコワいビッチ犬と、旅のたった数日で、最後の別れには頬をスリスリするぐらいヘイキになるのはちょっとムリあるかなあ……。でもこのワンちゃん、窓から外を見てる風情とかやけにカワイイけど。

どこに行ってもトラキムブロドという地名を知っている人はいなかった。でもなんか旅の途中から……おじいちゃんの様子がなあんとなく、あやしくなってきた。彼は記憶の中に確かにあるはずのその地名を、本当に忘れていたのか、あるいは意識的に封じ込めていたのか。
にっちもさっちもいかない雰囲気の中、アレックスはそろそろナゲヤリ気味になってくる。途中行き遭った野卑な男たちに尋ねるのをあからさまにイヤがる。
「仕方ないから聞いてやるけど、お前は絶対口を挟むなよ」とジョナサンに言い含め、おざなりに聞いただけで引き返そうとしたから、ジョナサンはついつい口を出してしまう。
妙にキチッとした場違いなアメリカ人をこの男たちはニヤニヤしながら眺め、いかにもバカにした趣なもんだから、アレックスはだから口を挟むなと言ったろう!とキレるのだ。
でもそれはアレックスの及び腰にしか見えない。つまり彼はジョナサンや、そして秘密を胸に隠しているおじいちゃんほど真剣じゃないんだ。
この時、車から飛び出してきたおじいちゃんが、そんなアレックスをぶっ飛ばす。それがおじいちゃんの中の秘密が溢れ出したキッカケだったのかもしれない。
おじいちゃんは、この運命の輪に入っていたのだ。

まっすぐに、おじいちゃんは目的の場所に向かう。迷いもなく。広い広いヒマワリ畑。その一本道の向こうにぽつんと忘れ去られている家。
なぜ、この家をおじいちゃんは知っているのか。写真の手がかりがそこにあると確信しているのか。そしてそこに、世界から取り残されて住んでいる老女は、この写真の女性……ではなく、その姉だった。
彼女は彼らを家の中へと案内する。そこには山と積まれた数々の箱。彼女もまた、思い出コレクターだったのだ。
でも、彼女のそれは、もっともっと、辛い辛い、出来事の集積だった。

彼女の名前はリスタ。写真の女性は妹のアウグスチーネ。アウグスチーネはジョナサンの祖父のイイ人で、先にアメリカに渡った祖父は彼女を呼び寄せるつもりだった。つまり、この地の危機を彼は察知していた。でも間に合わなくて……アウグスチーネは彼の子を宿したその命もろともに、ナチに殺されてしまう。
それどころか、この小さな村はリスタを除いて全員、殲滅されてしまった。
いや、もう一人いた。……多分。
リスタと二人で話がしたいと、ジョナサンとアレックスを追い出してしまったおじいちゃん。彼女とどんな話をしたのか映されないから、ハッキリこうだと確信は出来ないんだけど、でもその後のサイレントの回想シーンや細々と語られる台詞から推測すると、おじいちゃんもまた、この村の住人だった、んだよね?それともこの村にスパイとして入り込んでいたナチだったとか、ってこともあるかなあ。

リスタはおじいちゃんのことを、いつも図書館の前に突っ立っている青年、として覚えていて、写真もとっておいてた。多分……リスタのことを彼は好きだったんじゃないかな。
回想される短い映像は、リスタの目の前で銃殺される村人たちである。そして彼女が彼らの形見を拾い集めようとそこに戻った時、むごたらしく積み重なった死体の中から、彼はむくりと起き出した。
どういうことだったのかちょっと判然としないんだけど……あんな至近距離で一人ずつ撃たれて、運良く外れて死んだフリしてたなんて考えにくいし……つまり彼は、この村の人たちを裏切って、生きる道を手に入れていたとか?こっそりと起き上がって、誰にも知られず逃げるつもりだったのかなあ。
しかし、皆殺しのはずが、彼女が生きていた。そして彼女と目と目があった。彼の秘密を見てしまったのだ。
でも、うろたえて逃げ出した彼は、その後、数十年後の今まで、彼女と会うことはなかった。きっと一生、会うことはないと思っていた。目が見えないと主張していたのは、見たくない、ってことだったのかな……過去も今も。

しかし、まさに運命の輪である。この時にリスタのコレクションは始まったのだし、その裏切りを見たこともあり、戦争のむごたらしさ、消えてしまった村や人々の命、その記憶を留めていこうという彼女の気持ちはジョナサンのそれよりずっとずっと、切実である。
リスタとおじいちゃんが話し合っている時、ジョナサンはアレックスと共に手持ち無沙汰気味にソワソワとしていた。ふと、ジョナサンはひまわり畑にいるバッタを捕まえてバッグからメガネケースを取り出して閉じ込め、更にジップロックに入れた。「そんなものまでとっておくのか」とアレックスが呆れ気味に言うと、「気が済まないんだ」と。ジップロックの中じゃ死んじゃうだろ……。

ジップロック。密閉。「その時」を封じ込める。それで思い出をとっておけると錯覚しそうになるけど、密閉したバッタは死んでしまうし、その外の時間は前へ、前へと進んでいるんだ。思いさえも、受けとめる誰かがいなければ、消えてしまう。
ここは受けとめる誰かがいない、殲滅した村の跡地だ。歴史にも地図にもその名前はない。最初からなかったかのように。たった二人の生き残り、お互いが受け止めなければいけないのに、おじいちゃんは彼女を戦争の時間の中に置き去りにした。
血を分けるはずだったジョナサンとは、同じコレクター同士という運命の絆で血を越えて結ばれた。収集とは、忘れることを拒否すること、その元は、忘れることを恐れること。その先には、自分が忘れられることに対する恐れがあるんだろうと思う。

おじいちゃんは、それを捨てて生きてきた。でもここに、自分の捨ててきたものを積み上げているリスタをまざまざと見た……彼が好きだった女性。
別れの時、リスタはおじいちゃんにこう言うのだ。
「戦争はもう終わったのですか?」
それが真に知らなかったのか、彼女の中での戦争は終わっていなかったけれどあなたはどうなの?という意味だったのかは……判らないけれど、おじいちゃんは静かに頷くのだ。
そしてその夜、ホテルの浴槽で、おじいちゃんは血で染まった湯の中でこときれていた。
孫世代に託して、その責任を自らに託して人生に幕をおろしてしまった。……ということなのだろうか。そんな簡単に割り切って理解していいんだろうか。

おじいちゃんの自殺の原因をアレックスは推測できなかったけど、おじいちゃんが後ろめたい思いをしていることは何となく感じとっていた。だからジョサナンに、「何があったのか知らないけど、いい人なんだ」と訴え、死に顔が穏やかだったことを、せめてものなぐさめにしていた。
そんなつもりなんて全然なかったのに、アレックスこそが全てを飲み込んで生きていかなけりゃいけないんだ。

テーマとしては「自分探しの旅」であり、その中には、国は忘れたがっているけれど個人は忘れられない記憶がいまだ厳然と横たわっている。
というあたりを、“コレクション”にこだわらずに、そしてキャラの強烈さをもうちょっと手綱をさばいてくれればなあ、なんて、それに勝手にこだわってたのは私だけだわね。★★★☆☆


僕のニューヨークライフ/ANYTHING ELSE
2003年 112分 アメリカ カラー
監督:ウディ・アレン 脚本:ウディ・アレン
撮影:ダリウス・コンジ 音楽:ステファン・ニルソン
出演:ジェイソン・ビッグス/クリスティーナ・リッチ/ダニー・デヴィート/ウディ・アレン/ストッカード・チャニング/ジミー・ファロン

2006/3/10/金 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
えー!アレンってば、ニューヨークを離れるの!と、今更ながら驚いてしまう。そうだったんだ……次回作はロンドンで、というのは聞いてたけど、一回きりじゃなくて、離れちゃったんだ……。
アメリカの、撮影所主導の制作システムに見切りをつけて、というあたりがいかにもアレンらしいけど、あれほどニューヨークを愛してやまず、ニューヨークで映画を、そして生活を続けてきたアレンがニューヨークを離れるなんて、本当に信じられない。なんか、哀しいなあ。
でも、これだけの大ベテランになっても、まだまだやる気マンマンなところがさっすがアレン!なんだけど。

さて、というわけで、これはアレンのニューヨーク最後の作品。と考えると主人公のジェリーが慣れ親しんだニューヨークを離れ、カリフォルニアで再出発する、というこの物語自体が、アレンのそうした決断を重ね合わせてるんだ……とかなりの感慨があるんである。アレン演じるドーベルは、アラスカにでも身を隠さなきゃ、と言ってるあたりがまた自虐な彼らしいんけど。
でもまっ、そんな湿っぽい感慨があるにせよ、そこはアレンだから、とにかく洒落っ気あふれたコメディに仕上がってるんだけどね。というか、今回はちょっと悪ノリしすぎ!?
アレンが「ずっと前からファンだった」というクリスティーナ・リッチ(そりゃアレンは映画を愛してる人だけど、他の人の映画を見てるイメージってわかないな……)をヒロインに迎え、もー、彼女をエロエロに撮ってくれるもんだから、こっちとしては鼻血を抑えるのに大変?いやいや!でも「ずっと前からファン」と言うだけあって(「アダムス・ファミリー」からかっ!?)クリスティーナ・リッチがこういう役を演じたらピタリだろうなあ、というキャラを持ってくる。
とゆーか、本来は主人公であるハズの、若きコメディ作家、ジェリー(ジェイソン・ピッグス)なんかどーでもよくなる。実際、彼はキャラが凡庸なせいか、このキョーレツな彼女と、キョーレツなアレンに食われまくってるし。

んでっ。そう、話はね、このジェリーが、仕事とプライベートにおいて、恋人やらその母親やら、マネージャーやらに振り回されまくり、次の一歩をなかなか踏み出せない、という物語。
で、彼に役に立つんだか立たないんだかよー判らんアドヴァイスをくれるのが、年上の友人のドーベル(ウディ・アレン)というわけ。年上っつーか、もはや孫とおじいちゃんの年の差だけど、ドーベルもまた、高校教師をしながらも、コメディ作家への道を模索しているのだ。
もうこのドーベル、いやさ演じるアレンがね、もう彼にピッタリのパラノイアっぷりで、このアドヴァイスというのがほとんど小ネタなんだけど、どこか人生の滋味が含まれている、よーな気がする、ってあたりの微妙なシャレ加減がさすがアレンなのさあ。

例えばこうよ。医者に、こうすると痛いんだ、と訴えたら、医者は、じゃあそうしなければいいと言ったとか、カーネギーホールの舞台の上でゲロをはいても、それが芸術だというヤツが必ずいる、とかね。
うーん、奥の深いものを感じる、とか思いながらも、どんな具合に奥が深いのかよく判らない、みたいな(笑)。
で、ジェリーは何をどう間違えたか、このドーベルに尊敬の念を抱いているのね。その気持ち、判るような判らんような。
時としてドーベルは突然防御グッズに目覚め、ジェリーにライフルを買うように執拗に勧めたりもする。ついでに羅針盤とか浄水剤とかね。このライフルのくだりは、え、アレンってそういう主義の持ち主?と思ってちょっと笑えなかったんだけど、アレンがそんな無粋な人なわけもなく、それはちゃあんとオチになってる(後述)から、そうよね、とホッとする。
一方で、ユダヤ人排斥ネタにやたらと敏感(というか、思い込み)なのは、かなり自虐ネタで、こういうのをサラリアと入れてくるあたりが高度なテクニックなんだよなあ。

おっと、アレンのことばかり言っちまったが。この物語は何よりクリスティーナ・リッチのスッバラシさが重要なのだった。
だって彼女、もうエロエロなんだもん!ぴたっとした薄いシャツとショーツだけの姿、巨乳と乳首がスケスケだよ!じゃなくて!いやー、だってあれはヤバいよー、アレンってばちょっとやりたい放題やらせすぎー、いや嬉しいけど(なぜ私が嬉しがる!)
しっかし彼女、背は低いし、ロリ顔だし、ナマ足とか割と幼児体形なのに、胸だけボンとでかくて、そのアンバランスがたまらなくエロチックなのよねー。

いやだからね。そう、この彼女をひと目見て、ジェリーがゾッコン参っちまったってのも、そりゃ判るのよね。
出会いでは、二人ともつき合っている相手がいた。ジェリーはその恋人から結婚を迫られてて、ちょっとウンザリしかけてた時だってこともあったんだけど、この小悪魔的な魅力を持つアマンダにひと目で恋に落ちてしまう。
その日はまあ、いわゆるダブルデートみたいな感じ、しかしジェリーは恋人をほっぽってアマンダの話にノリノリで合わせるわけ。恋人は呆れるの。だって、ジェリーが苦手なことやキライなことも実は好きなんだとか言って、いいカッコしまくりなんだもん。つまりはアマンダに気に入られようとしている……ってこと、さしもの恋人だって気づくよね。

その後、アマンダの好きな古いレコードの店を案内し、そこで「これを君にプレゼントしたい」と言うと、アマンダ、彼の目をじっと見つめて、「私にコール・ポーターをプレゼントするの?私に恋してるのね」うっわ、シビれる台詞!ジェリー、やもたてもたまらず彼女にキスをする。「ごめん」「いいの。私もあなたとキスしたかった」
なーんて具合に二人はソウイウ仲になるんだけど、ジェリーはなかなかそのことを恋人に言い出せず、でも浮気を確信した恋人が、決然と出て行く段に至っても、誤解なんだよ!とか追いかける始末で。ホント、しょーもないよねー。結局自分が嫌われるのが怖いだけなんだもん。

その点、アマンダはそーいうところがぜんっぜんない。それもここまで極端だと、どっちがいいのかなかなかにビミョーである。
あのね、現時点でアマンダとジェリーは半年間もセックスレスなのね。女優を目指すアマンダは、精神的にスランプなんだとか言って、ジェリーに触られるだけで過呼吸を起こしてしまうような状態なの。で病院に行ってみると医者の触診には全然ヘイキだったりするから、ジェリーはむくれちゃう。「僕は彼女に触れられないのに、医者は触り放題だ」思わず吹き出しちゃう。だって、“触り放題”て!
このアマンダとほんのちょっと会っただけで、ドーベルはこう断言する。「彼女は浮気してる。目を見れば判る」って。

半信半疑ながらジェリーはアマンダをつけてみる。演技のクラスが終わってもなかなか出てこないアマンダ。これは……と思って彼女を問い詰めると、あにはからんや、浮気が発覚!
しかし彼女、そんな具合にアッサリ浮気を白状しちゃうし、しかも「あなたとセックス出来ないことで悩んで、不感症なんじゃないかと確かめたかったの」と言い(どーゆー理屈だ!)しかもそれだけなら何とか言い訳ですむ……かどうかはかなりキツいが、更に、「不感症じゃなくて良かった。何度もオルガスムスに達したわ」と、まー、そのセックスのことを赤裸々に描写してくれちゃうもんだから、ジェリーは降参して彼女を許すしかないのだ。

結局はホレっぽいだけなんだよね、アマンダってば。ジェリーと最初に出会った時も、身を焦がす恋をすることが夢だと語ってた。いやそうなるとホレっぽいというのも違うかな。ホレる段階まで行ってないってことかな。
ジェリーに触れられるのがコワいのは、彼があまりに真剣に愛してくれたからかも……つまり、彼をちゃんと愛することが出来てれば彼女もその方が幸せだったんだろうね。
口では、あなたがいなければダメ、愛してる、と言ってはいたけど、クリスティーナ・リッチ自身が語っているように、愛しているということ自体が判ってなかったのかもしれない。

しかもジェリーを悩ませているのはアマンダばかりではなかった。押しかけてきたアマンダの母親がまた、彼女に輪をかけたキョーレツっぷりで、彼をアゼンとさせるんである。
苗字で呼ばれることを嫌い、「ポーラって呼んでよ!」と、女の匂いをプンプンさせている母親。この年で歌手になることを夢見ている、というか、自分は歌手だと思い込んでいて、それでなくてもアマンダとの生活で手狭なジェリーの部屋に、アプライトピアノをどーん!と持ち込み、ジェリーの執筆活動などおかまいナシにヘタな発声練習をおっぱじめる。
し、しかも親子ほど年の違う若い男を酔っ払って連れ込み、ジェリーのノートパソコンの上にコカインをぶちまけて吸引し始めるし!(これは笑った)

しかし、ジェリーを最も困らせているのは、やはりあの男だったかもしれない。
いや、これがアレンじゃないのよ。ハーヴィである。ジェリーのマネージャー。業界でも笑い者にされている無能なマネージャーなんである。彼が無能だということはジェリーも判っちゃいるんだけど、ただ一人のクライアントである自分が見捨てたら、彼は路頭に迷ってしまう、とクビにすることが出来ない。しかも法外なパーセンテージで手数料をふんだくられているのによ!
ドーベルは、あんな男とはさっさと手を切れと言う。でもジェリーは出来ない。
でもさでもさ、これも、ジェリーが優しいんじゃなくて、元カノと別れられなかったあの時と同じ、ええかっこしいなだけなんだよね。イヤなヤツになりたくないだけ、嫌われたくないだけ。自分が必要としていないのにずるずると関係を続ける方がイヤなヤツであり、嫌われるのに、そのことをジェリーは判ってない。
ついにジェリーが決断した、のは、ドーベルからテレビの放送作家の仕事を、二人でチームを組んでやらないかという提案が持ち込まれたからだった。しかもカリフォルニア。愛しているけれど振り回されっぱなしの彼女も、マネージャーに縛られているニューヨークでの仕事もすべて断ち切っての新生活。

ジェリーが意を決してハーヴィに決別を言い渡す場面はかなり見ものである。何がってさ、ハーヴィに扮するダニー・デビートの素晴らしきオーバーアクトがよ!
彼は、このたった一人のクライアントを離すまい、と通常3年の契約期間を勝手に7年に設定して、契約更新を迫ってた。それにサインしたら、ジェリーの今後はない、とドーベルはそれを独断で破っちまう。
あとがないジェリー、もうハーヴィに断わるしかない。レストランでドーベルが見守る中、何とか柔らかい言い方で(どー言ったって決別は決別なのにね)この関係を終わらせたいと伝えるジェリーに、ハーヴィはこの世の終わりってな絶望に打ちひしがれ、「裏切られた!長年築き上げた信頼関係はなんだったんだ」と天も裂けよとばかりに絶叫するもんだからジェリーは大慌て。

しかもハーヴィ、フラフラと階段を降りていって、レストランの一階フロアの最も目立つ場所で昏倒する。彼が死んでしまう!と取り乱すジェリーにドーベルが、大丈夫、死にゃしない、と。
そう、こんなことで死ぬわけがない。コイツは殺したって死なないだろう。ジェリーは、自意識過剰なのよ。そういやあ最初から自分がクビにしたら彼は死んでしまう、なんて言ってた。たった一人の、しかもワカゾーが人を死なせるだけの力があるわけがない。でも人間はそんな風に思いたいんだよね。自分がそれだけ人に必要とされてるんだって。

そうそう、ジェリーは分析医にかかってる。もう3年も。しかしその医者はジェリーの悩みにはまったく答えてくれず、ただジェリーの見た夢について、もっともらしい解釈を与えるばかりなのね。
ジェリーが真剣に恋人の悩みを打ち明けてみると、医者は見事にダンマリを決め込み、時計を見て「あとは次回の診療で」なんて言うんだから、さすがに吹き出しちゃう。
ドーベルはこの分析医というのを毛嫌いしていて、皆、昔は占い師に頼ってた、今は分析医だ、と言う。3年もこの医者にかかっても悩みなんか全然解決されないなら、ホント意味ないんだけど、ジェリーはこの無能な医者でさえ、関係を断ち切ることが出来ないのよ。
しっかしこの分析医というの、ニューヨーク、というかアメリカではこんなにポピュラーで、皆かかっているのかなあ。日本じゃ考えられないけど……そんな医者にかかってると、キ印だって思われそうじゃない?

そして、アマンダと別れる場面がまたケッサクである。
マジメな話があるんだ、と彼が切り出すと、彼女もまたマジな顔で、私も、と言う。ありゃりゃもしかして、と思ったらやはり、彼女の方も別れ話を切り出してきたのだ。好きな人が出来たのだと。
ジェリーは呆れて、もうソイツと寝たんじゃないかと言うと彼女は否定し、軽い会話を交わしただけだとか言ってるんだけど、更に問い詰めると、彼との相性を確かめるために大急ぎで一回だけ、と白状。
しかもね、相性を確かめるためだから浮気じゃなかったとか言うわけ!もの凄いリクツだなー、しかも“大急ぎで一回だけ”って言い方も凄い。
しかしクリスティーナ・リッチだから、もうそのあたりは玄人芸で、彼を怒らせるヒマもなく言いくるめちゃうあたりが更に凄い。

しかもね、カリフォルニアで再出発をすると言うジェリーに、言うにことかいてこうよ。「良かったじゃない。ニューヨークでは負け犬でも、カリフォルニアでは大金持ちよ」オイー!
しかもしかも、もう別れも決まって気持ちがスッキリしたから、今ならあなたとセックス出来るわ、きっと燃えるわヨ、などと色目を使い、彼もさすがに呆れるんだけど、彼女からの誘惑に抗えずにヤッちゃう。もう完全に彼の負けである。別れの場面でさえ、彼は彼女の優位に立てなかった。

で、ドーベルとチームでの再出発、のはずが、直前に彼から電話が。身を隠すように彼、実は昨夜、スピード違反で捕まった警官と口論になって撃ってしまった、と言う!
実はその前に、ドーベルが駐車スペースを横取りされた事件があり……そうそう、これがまたケッサクなの。
あるレストランに入ろうとドーベルの車でジェリーと連れだって出かけ、ちょうど出て行きそうな車があったからあそこに駐車しようと、待ってる。んで、出て行ったから、バックで入ろうとしてるところに、キュキュン!と猛スピードでそのスペースに駐車しちゃった車が!この絶妙なタイミングの間には爆笑しちゃったんだけど、ドーベルが文句をつけようとしたその相手はプロレスラーか、ってな大男二人で、結局脅されてドーベルは車に戻っちゃう。
ジェリーが、仕方ない、それが人生だって君も言ってるじゃないか、僕らは腕力では勝てない、このネタをコメディにして笑い飛ばせばいいんだ、と言うんだけど、諦めたかと思ったドーベル、車をUターンさせ、あの男たちの車のガラスというガラス、ライトまで全部ガンガンとぶっ壊しちゃう!ア、アレンー!

その一件で、彼を、決して屈しない人だと尊敬するジェリーもジェリーだが、まあ、そんなことがあったから、カッとなったドーベルが警官を撃ってしまったなんて話をすんなり信じてしまうんだけど、果たしてそれが本当だったかはね、判らないよね。
撃った相手がケガだけですんだのか死んでしまったのかも判らない、とドーベルは言い、僕はアラスカにでも身を潜めなきゃいけないかもしれない、とにかくカリフォルニアには行けない、君はもう大人だ、一人で行け、全て準備は整っているから、と送り出す。
ジェリーの将来を切り開くためのウソだったのかもなあ、と思う。防御オタクになってライフルを執拗にジェリーに勧めたドーベルが、防御どころかそれによって身の破滅を招くなんて、さすがアレン、皮肉が利いたオチだよなあ、と思い、銃礼賛者じゃなかったんだとホッともする。
これって、今のアメリカの、テロに対する過剰防御とか、それによって相手を傷つけている現状を的確に、ズバリとついていると言えるじゃない?さっすがアレン、なんだよなあ。

原題のエニシングエルス、人生はそんなもんさ、で締めくくられるラスト。ドーベルが話してた、なぜかタクシー運転手に自分の人生の悩みを話してしまう、そうするとエニシングエルスだけで片付けられるんだ、という、それをジェリーは知らず知らず実践してしまった。
だって空港へと向かうタクシーの中から、アマンダが新しい恋人と歩いているのを目撃しちゃうんだもん。それはあの、“触り放題”の医者だったんだから。
運転手から、人生はそんなもんサ、と言われて、ジェリーは、はたとそのことを思い出す。どんな哀しい出来事も、そうやってリセットして次に行ける。ちょっと笑って、肩をすくめて、エニシングエルス、そう言いさえすればね。

それにしても、最初から最後までしゃべくりまくりのウディ・アレン、まさに彼の真骨頂!若くてヘンなヤツは映画によく登場するけど、こんな大ベテランでヘンなヤツは、もう演技を超えて人間としてホンモノよねえ。★★★☆☆


ぼくを葬(おく)る/LE TEMPS QUI/TIME TO LEAVE
2005年 85分 フランス カラー
監督:フランソワ・オゾン 脚本:フランソワ・オゾン
撮影:ジャンヌ・ラポワリー 音楽:ブリジット・タヤンディ
出演:メルヴィル・プポー/ジャンヌ・モロー/ヴァレリア・ブルーニ=テデスキ/ダニエル・デュヴァル/マリー・リヴィエール/クリスチャン・センゲワルト/ルイーズ=アン・ヒッポー/アンリ・ド・ロルム/ウォルター・パガノ/ウゴ・スーザン・トラベルシ

2006/6/2/金 劇場(日比谷シャンテ・シネ)
オゾン監督作品を観るのはほんっとうに久しぶり。私この人、「焼け石に水」ともう一本ぐらいでアッサリ挫折しちゃったんだもの。ファースト・インプレッションが良くないとどうしてもその後、観に行く根性なくて続かない。今回はなんとなく時間が合って観に行った感じだったんだけど。
あ、なんとなくマトモになってる……という印象。私でも判る、みたいな(笑)。でもやっぱりあんまりピンとこないんだよなあ。ジャンヌ・モローはカッコ良かったけど。

そう、ジャンヌ・モローはカッコ良かった。主人公の話もせんで、いきなり彼女のことから書いていいのかしらん。ま、いいや。
モローは主人公の青年、ロマンの祖母役。ハッキリ言ってちょっとツラいぐらいの老醜にさしかかってきた彼女なのだが、だからこそ意味があるし、監督が彼女のために書いた役だというのも頷けるんである。
「なぜ私に会いに来たの」と彼女は言う。ロマンは他の誰にも言っていない秘密、自分が末期のガンでもうすぐ死ぬということを、遠くに住む祖母にわざわざ会いに来てまで彼女にだけ告げたのだ。
「僕と似てるから。もうすぐ死ぬ」
そんな言葉に彼女はクスリと笑う。

そしてこんなシーンもいい。彼が眠れない、一緒に寝てほしいと祖母の部屋に入ってゆく。
「私はハダカで寝るのよ」という彼女の肩は確かにお布団からあらわに出ている。「いいよ、見ないから」とロマン。
それにしてもさすがモローだから、もうすぐ死ぬなんて言われるおばあちゃんになってもしっかりと女、なんだよね。
それは、彼女がこんなところで寂しく暮らしている理由にも反映されている。

ロマンの父親、つまりこの祖母の息子は、決して彼女を許さないだろうという。彼女は夫が死んだ時絶望にうちひしがれ、息子を捨てたから。
夫の面影を残す息子を見ていられなかった。そして愛人を作ったのも、その絶望から逃れるためだった。
でも子供の頃の息子にそんなことを言ったって理解されるわけないし、今更言い訳をする気もない。
なぜ僕にそんな話をするの、とロマンは聞く。すると祖母はふと微笑んで、
「あなたと私は似てるから」

で、話を戻すと、そう、このロマンが末期のガンを宣告されるところから物語は始まるんである。彼は売れっ子のカメラマンで、仕事は順調。なんとなく倦怠期気味ではあるけれどゲイの恋人もいて、それなりに充実した生活を送っていた……と多分彼は思っていたに違いない。
でも、この病気を宣告されたことで、彼の中で背を向けていた部分があぶりだされてゆく。
彼は、家族、特に姉に対してわだかまりを感じていた。その理由は明確に判然とはしないんだけど……でも、家族が久しぶりに集まり、ロマンがどこか義務的に姉の子供をあやしていると、ロマンの子供の顔も見たい、などと親の言葉が出るんである。
「もう二人もいるから十分でしょ」とフォローを入れたのが、母だったか姉だったか忘れたが……ゲイであるロマンに子供など出来るはずもなく、そのことをロマンはずっと重荷に思っていたのかもしれない。
そのヤツ当たりの矛先を姉に向ける。「姉さんは何でも男のせいにする。一人で子供を産んだような顔をして」

この台詞でそうかなと思ったんだけど、これはゲイが自分の分身を残したいと思う、そのことがひっそりとテーマになっているのかなあ。
それを女性を主人公に絡め手で描いたのが「ハッシュ!」だったなあと思い出したりして。
一方で本人だけがそのことを思い悩む時、もう、自分が死ぬ、と思うこんな段階までいかないと、それを思っちゃいけないぐらい逆説的に切実なのか。
実際はこれは死の三部作のうちの二作目で(そうだったのか……だったらやっぱりヤメときゃよかった。シリーズ苦手)、自分の死に直面する青年、を題材にしているというけれど、それがわざわざゲイだというのはやはり意味があると思うし。

ホントにね、なぜお姉さんのことをキライになったのか、どうもよく判らなかったんだ。でもあの台詞にはチクリとくるものがあった。子供を産めるクセに相手の男にガタガタ言うからだとか、姉に辛く当たって。嫉妬していたんだろうか。
お姉さんの方はツンケンする弟に戸惑うばかりなのだ。その理由が判らない。小さな頃はあんなに一体感があったのに……と。

彼はプロのカメラマンなのに、決して家族の写真を撮らない、というあたりにもネックを感じる。家族は血のつながりの象徴。でも彼は自分のルーツを自分自身で残せないことがコンプレクッスだったのかな、と思う。
でも意外なところでチャンスがやってくる。ダイナーで声をかけてきたウェイトレス。彼女と街で偶然再会した時、思いも寄らぬ申し出を受けたのだ。
彼女の夫が原因で、この夫婦には子供が出来ない。そして「あなたはステキだわ」と遠慮がちに前置きして、私たち夫婦に協力してくれないかと。つまり……彼女とセックスして子供を授けてくれないかというのだ。

初めてダイナーで会った時、彼女はロマンに独身かどうか質していたから、テッキリ自分に気があるんだと思っていたんであろうロマン。彼女が人妻だという事実にまず苦笑いするんだけど、この申し出に……いわば自分の分身を残すチャンスなんだけど、こう言い放って断わる。「僕は子供がキライだから」
それにしても……彼女がロマンとの偶然の再会に運命を感じたにしても、夫に耳打ちするだけで即決でこの話を持ちかけているあたり、案外手当たり次第に声をかけてるのかなあ、などと思ったりして……別にいいけど。ま、こっちも切実だしね。

ロマンは同居していたサシャを追い出す形で別れた。当然、彼にも何の事実も告げず、彼が出て行った後「すまない」とそっとつぶやいた。
その後しばらくして、ロマンはサシャと再会する。日がな一日家にいてゲームばかりやっていたヒモのようだったサシャが、ロマンの口利きで就職し、パリッと立派な青年になっていた。ロマンの後押しがあったこと、サシャは知っていて礼を言う。自分が立ち直れたのはロマンのおかげだと。
サシャを久しぶりに部屋に招きいれ、ロマンはおずおずと頼むのである。最後に僕とセックスしてくれないかと。

ロマンにとってこの「最後」というのは「人生の最後」に他ならないのだが、当然、そのことをサシャは知らない。就職の口利きの礼で寝るなんて娼婦みたいでイヤなんだ、と言い、そういう意味じゃない、最後に肌のぬくもりを感じたいと言っても、どうしてもその気になれないんだ、とやはり断わる。
そう言われても、ロマンは真実を打ち明けられない。いやそう言われたからこそかな。哀れまれたくないから。
サシャにとってロマンは終わった男であり、彼の前途には未来が見えている。そういうことなのかもしれないけど、この期に及んでもサシャに本当のことを言えない、言う気のないロマンというのもねえ……。
サシャのことを本当は愛していたから、自分の死に巻き込みたくなかったんだろうと思うけれど、もっと大きな理由は、彼には何も残して上げられないから、なのかな。普通の夫婦が子供をその証しとして残すように。
でも彼自身にとって大きな問題は、自分のために何を残すのかということなのだ。そしてそれこそがテーマ。

まあ私はでも、正直そこんところがピンとこなかったんだけどね。あれほど自分がルーツを残せないことに対してとんがったコンプレックスを持っていた彼が、最終的には自分の分身を残すことを決め、その産まれくる赤ちゃんに自分の財産を残すことを決めることがね。
ゲイだということもあるけど、自分が愛する人との間では決して分身を授かれないということが重要だったんじゃないの?
それでもこれは確かに運命の出会いであるには違いない。ロマンはダイナーの彼女に走って会いに行き、もう遅いかな、あの申し出を受けようと思うんだけど、と急いて言う。彼女は驚きながらも、さっそく場をセッティングする。

彼女の夫が直前まで手を握っている。いや、夫は直前までと思っていたんだろうけれど、ロマンが彼女にそっと耳打ちすると、彼女はそれを夫に耳打ち、つまりロマンがゲイで、夫の手助けがなければ彼女とセックスは出来ないということを言ったのだろう。
なもんで、いわば3P状態で夫は彼女とロマンを愛撫してやり、二人をサポート、ロマンは見事、彼女の中に放出するんである。
このシーンはだから三人とも必死だし、神聖なシーンともいえるんだけど、なんかそんなあれやこれやを考えると、ちょっとクスリと笑えるようなところもあるような……で、この時点で彼らもまたロマンの病気を知らない。

だから彼が、二人を立会人にして自分の財産を産まれくる彼女の子供に残すと決めた時、少々フクザツな顔をしている。
「大丈夫なのかしら、あなたの病気。つまり……子供に」
「大丈夫だ。ガンだ。普通のガン」
なんか凄い会話だけど、彼女は最初出会った時からエイズかどうかと聞いていたし、ロマンが同性愛者だと知ったから更に不安になったのだろう。
今はゲイに特有の病気ではなくなったけど。それに彼、髪を駆ったせいもあるけど顔色もみるみる真っ白になって痩せて、いかにもそんな末期を感じさせたしなあ。
でも彼が、赤ちゃんがおなかを蹴ったら教えて、と言い残して車道の向こうに去って行った時、夫婦は小声でささやきあってて、ちょっと微妙な感じなんだよね。この夫婦が彼に真に感謝したかどうかが、微妙。それはキツい。

ロマンはことあるごとに子供の頃の記憶を、そこここの風景に重ね合わせて思い出してた。
姉とのひそやかな大人ごっこも、友達と教会でのイケナイ遊びも、その時は無邪気だった。でもその中に、自分の嗜好をだんだんと自覚し始めたのも事実だろう。
だからその時のことは、今までは封印していたのかもしれない。でもそんな子供時代は、一番いい季節だった。自分の本当をわざわざさらさずとも、わだかまりなく皆と打ち解けたから。
きっと彼は、家族の中でずっと孤独だった。

家族の写真を、結局は彼は残すのだ。いや、家族の写真というより、愛する人たちの写真、かな。あなたと仲直りをしたい、と慈愛に満ちた手紙をくれた姉が、公園で子供をあやしている姿、別れの前のサシャの寝顔、ただ一人秘密を打ち明けた祖母……でもその写真を誰かがいつか見ることがあるのだろうか。誰にも何も告げずに死んでいくのに。
ロマンは海岸に来ていた。たった一人で、死に場所を見つけるために。
にぎやかな海水浴場で、痩せさらばえた肉体をさらして横たわる。
小さな男の子の投げたボールが飛んできた。その男の子は子供の頃の自分の顔をしていた。それが幻覚だったとしても、ここが彼の死に場所であると確信した瞬間だったかもしれない。
そして陽が落ちてゆく。海水客たちは次々と帰り支度をし、砂浜は人がいなくなってゆく。夕闇があたりを照らし、やがて闇が支配する頃になると、そこには彼一人がそのまま横たわり、闇の中に最期の身体を沈めてゆく。

やたら黒のビキニパンツ姿が出てくるのはヤだけど、ロマンを演じるメルヴィル・プポーは美しい俳優。この名前を見るたび思うけど、面白い苗字だ……。
髪を刈り込んで、みるみるみすぼらしく痩せていく、真に鬼気迫る演技である。
しかしその、髪を刈り込むシーン、白のブリーフの間に落ちる黒い髪の毛という対照を映したいんだろうけど、思いっきり股間ドアップで、形がまるみえなのには困った。って、そんなところに注目する方がおかしいか……でもそうなの、パンツ一丁姿がやたら多いんだもん。

彼が残したのは子供だってことなのかなあ、結局は。なんとなく解せないような……。
私だったらと思うからかな。何を残せるかなんて思わないもの。何も残す気はない。ただ無駄死にする。それが私の夢だ。誰にも気にされずに、煙のように死んでいくんだ。そう思ってるから。★★★☆☆


ホッテントットエプロン―スケッチ
2006年 70分 日本 カラー
監督:七里圭 脚本:
撮影:七里圭 高橋哲也 音楽:侘美秀俊
出演:阿久根裕子 ただてっぺい 大川高広 井川耕一郎

2006/11/16/木 秋葉原UDX アキバ3Dシアター
「眠り姫」同様、生演奏つきの上映に出かけられる機会をいただけた。これがたまらなくスリリングだということに前回で味をしめた私は、いそいそと出かけるんである。
名画が隙間なく並べられている美術館の、その真ん中に一人立たされているみたいだった。あまりにも豊かなイマージュの洪水の中で溺れそうだった。
これをいわゆる、公開のルーティンにかけられる筋モノ映画と同列に語るべきではないのかもしれない。
ホンにこだわる映画というものの概念を、覆す。

愛知芸術文化センターの委嘱作品として存在する本作、物語は語れないことはないけど、それはこの作品に対しては無意味なように思えてならない。
でもこれぞ映画なんだよなあ!何でか判んないけど、そう思う。
少女がそこにいるだけで、この不思議な世界を納得させてしまう。その少女の絶対性が、たまらなく映画なんだもの。

元々は、壮大な物語世界の、その一部分を抽出する形で、この作品が生まれたのだという。
作品化するのはムリではないかと言われたその原作、作者の語ってるプロットは、あまりに彼女の言葉であり過ぎて、難解で、私のような単純な人間の中ではとうてい組み立てられない。自分を牛の娘だと思い込んでいる!?そういう設定なの??
それを、映像というツールを使って、有無を言わさずナットクさせてしまう。そこが映画の凄さであり、監督の手腕なのだろうなあ……。

映画の中には三つの時間軸がある。いや、時間軸ですらないのかもしれないと思う。ここに登場する少女の中で、矛盾なくそれが同時進行しているようにも感じる。少女というのはそういうものだもの。
少女が恋人(恐らく)と過ごす部屋での時間がある。その彼女がさまよい歩いて、クラリネットを吹く男に出会う時間がある。そして、まるで山奥に取り残された廃屋のような場所で、一人過ごしている時間がある。
この三番目の、廃屋での時間が最も多く割かれ、そこで彼女は何をするでもないんだけど、本作の全てがそこにあるように思う。少女が羽化してさなぎから蝶になるのを、ゆっくりと、ゆっくりと、見ているような時間が横たわっていて。

この廃屋は、何なんだろう。まるで、彼女が夢でたどり着いたような感じもする。彼女が幻想で作り上げた家と解説されていた。しかもお菓子の箱で作られた。そうだ……彼女はいつでもお菓子ばかりを食べていた。まるでそれだけで生きているみたいだった。なんて少女的!
恋人といる部屋に、袋いっぱいにお菓子を買ってきて、順番に箱を開けてゆく。恋人にも勧める。彼がコーヒーでも入れてくれたのか、マグカップを笑顔で受け取る。無言だけれど、楽しそうな恋人の時間。少なくとも彼女にとっては。
そう、彼女にとっては、なのだよね。……彼は顔さえ見せないのに、声さえ発しないのに、彼の方はそう感じていないように思えてしまうのはなぜ?
彼との間には、なにがしかの距離を感じる。それは後に示される、彼女のお腹にあるアザが原因なのだろうか。

この廃屋の中は最初、ボール紙で覆われている。その暗い、息詰まる空間から逃げ出すように、少女はそのボール紙をめちゃくちゃに引き裂いて外に出る。
ボール紙……ダンボールは、クラリネットを吹く男の、ホームレスハウスを想起させているのだろうか。
そうだとしたら、このクラリネット男についていった彼女は、彼の世界にからめとられてしまったのだろうか。
クラリネット男と彼女が出会う場面は、ちょっとゾクッとくるものがある。最後まで顔を見せず、ネズミ男のようにグレーのフードつきマントに身を包んでいる彼だけど、その後ろ頭がスクリーンのこちらがわに向けられ、彼女が彼に魅入られたように一瞬、ストップモーションするんである。
そのフードの中に、どんな顔が包まれているのか……、頭の後ろだけを見せる彼と、少女とのスクリーンの端と端の距離感が、なぜだか凄く、怖い。

少女はファミレスでバイトをしていて、深夜なのか客はこの男しかいなかった。
店の隅っこで、やはり顔を見せず、じっと座っていた。
彼女はひとり、しんとした店内で片づけをしていた。そしてそのかわいい制服のエプロンに、ケチャップのしみをつけてしまった。
ふいてもふいても取れないしみ。
執拗に乱暴に拭き続ける少女。なんだか泣きそうになりながら。

少女にはアザがあるらしいのだ。お腹に。
廃屋には少女ソックリの、ちょっとグロテスクでエロティックな人形が置かれていて、その人形のお腹に大きなアザがあり、少女はそれを見てうろたえるもんだから、そうであろうと推測されるのね。
エプロンのしみに過剰に反応していたのもそういう意味だったのかと思い、更に、アザから連想される、白黒のブチのホルスタイン牛が草原の中で少女と邂逅する場面が何度もインサートされ、脳裏にこびりつく強烈な印象を残す。

ところで本作には、わずかなモノローグが字幕で現われる時、同時に英語字幕もつけられているのだけれど、アザって、バースマークっていうんだね。なんか、思わずモウコハンを思い出しちゃう。
でもそのイメージも、不思議に作用している気がする。この廃屋で彼女はあどけない少女から女への変貌をとげるのだし、大人になると消えてしまうモウコハンと、少女から女への変遷が不思議に重なる。
しかも、彼女自身のアザは決して現われることはないんだもの。
赤い毛糸で巧みに隠される。観ているこっちは懸命にそれを探し出そうと目が追うのだけれど、柔らかな乳房やなまめかしい乱れ髪にジャマされて、ドギマギとするばかり。

そうなのね、この少女、阿久根嬢は凄く見せてくれるのだ。それもまた、これぞ少女映画としてすっごく嬉しかった部分。
本当に、呆然とするほど美しい、一部の隙もない、細胞までギュッと詰まった、完全なる少女の肢体の美しさ。奇蹟と言いたいぐらい!
ヌードが最も美しいこの年頃に、女優はそれをスクリーンに刻みつけるべきなのかもしれない。あるいは刻みつけることの出来る一握りの女優は、とても幸運なのかもしれない。
だってさ、この時に恋人もいなかったら、この奇蹟を世界の誰にも見せることなく過ぎてしまうのだよ。なんてもったいない!(何言ってんだ、私)
しかもこの美しい体は、それ一個として成立している。ラヴシーンとしての男を必要としていない。セックスとして存在しているんじゃなくて、少女として存在しているのが、素晴らしいんだよね。
少女が少女であることが重要である意味が、そこにあるのだもの。

ああ、それにしても、少女のこの裸の唇は、なぜこんなに生まれたてのように柔らかそうなんだろう。
若い時からメイクなんかしちゃダメだよね、ホントに。この柔らかな唇にルージュなんて塗っちゃ、ホントダメよ。それ自体が無敵の武器なのに!オバサンがもう到底得られないもの。ガビガビのシワシワの唇のオバサンはさー。
豊かな乳房も、柔らかすぎて、無防備すぎる。経験を積んだ乳房じゃないだけに、まぶしすぎる。神々しくて、手も出せない。

少女ソックリの人形というのが、強烈な印象を残す。一人の登場人物と言ってもいいほどの。
少女は最初、その人形とムジャキに戯れている。でも、段々感情が高ぶってきて、怒ったようになってメチャクチャに人形の関節を曲げまくり、赤い毛糸で縛りまくる。
ありえない格好で縛られ、放置される人形は、当然、少女がそうなった時を思わせる。まさに陵辱の緊縛そのもので、ひどくエロティックなのだ。
この赤い毛糸、「少女と赤い毛糸」というのがね、本当に偶然なんだけど、この間観たばっかりの「ウール100%」にもあったから、非常に興味深かった。それは、同じ要素を含んでいても、与える印象があまりに違ったから。

作品のカラー自体全然違うんだけど、「少女と赤い毛糸」から作り出される一瞬のカットに、やけにソックリなものもあったりする。「ウール」でも本作でも、同じような年頃の無防備な少女が、無造作に赤い毛糸をその身にまとっていたから。
「ウール」では、かつて少女であった老女を媒介に、処女や女や胎児のイメージをそこに付していた。本作にもそういうイメージを感じ取ることが出来る。でも大きな違いは、本作は彼女一人で、それを強烈に匂わすことが出来るということなのだ。
「ウール」の少女もかなり動き回っていたけれど、本作での少女はまるでダンスの舞台を見ているかのように、自由奔放に舞う。媚態を見せているかのような肢体とまなざしは、セックスさえ思わせる。その肢体に真っ赤な毛糸がまとってゆく。

本当に、この廃屋でどんどん彼女は変わってゆくのだよね。
絹なのかなあ、白い光沢のあるワンピースを着ているのよ。最初はその丈はとても短いの。廃屋の二階に上がっていく少女の、ハイジの白パンのような足はかなりヤバイのさあ!もう、ギリギリ!
そんな風に少女フェチを喜ばせた彼女のいでたちは、目を凝らしていないと見逃してしまうほど、ゆるゆると変わってゆくんである。
そもそもその最初、彼女がクラリネット男を追っている時は、どこともしれない草原をそのままイメージするような、草と花のコラージュされたシックなワンピース姿だった。可愛いけど、地味な現実感があった。
そして、その現実感を突然排除する、純白のワンピースのいでたちで現われた。

んで、この白ワンピが徐々に変化してゆくんである。
最初、少女らしい膝上丈がなまめかしい白い足を強調して、しかも淡いピンクのバレエシューズがその足先を包んでいるものだから、もうキャー!ってぐらいな、禁断の美しさを感じさせた。
そして、少女は徐々に女へと変化していく。ワンピースのデザインの微妙な変化が、それを後押ししていく。
ワンピースのセパレートされた部分から素肌が見え隠れした時、ドキッとした。え……ひょっとしたら、本当にその一枚きり?と思わせる危なっかしいシーンが続いた後、戸外でのシーンで少女の胸に寒さを強調するように、ぽつんと二つの点が立っていることにショックを受ける。
更に、土砂降りの雨に濡れたワンピースが、ぴったりと少女のカラダを舐めるように浮かび上がらせるのには、このあどけない顔をした少女女優が全てをさらけ出すことを了解していることを予告させて、これはトンでもないことになった!とソワソワと身の置き所がなくなってしまうのだ。

彼女のその美しい肢体に、絶妙にまとわりつく赤い毛糸。当然、少女の生理の血や、処女が破れる血をイメージさせる。
しかもこの赤い毛糸が、廃屋の二階を埋め尽くしている。まるで“少女”を失う悲哀を訴えるかのように、降りしきる雨のように、部屋を覆い尽くしている。
少女はこの毛糸と、喜怒哀楽を共にする。無邪気に戯れもするし、分身と思しき人形をがんじがらめにもする。人形よりも、この赤い毛糸こそが彼女の分身のように思う。彼女の身体を満たす、少女であり処女としての血。

でも、まず解決するべきものは、あのアザだったんだよね。アザ。トラウマの暗喩のようにも思う。それがある限り、人生の一歩を踏み出せない、ココロの暗闇。でも、少女のアザは、なんだか……過剰な想像も引き出してしまう。
だって、それを代理で示される人形のお腹のアザは、黒々としていて、そこにポッカリとあいている穴のように見えるんだもの。まるでそこから……赤ちゃんが取り出されたかのような。その結果空虚になって、ただそこにぼんやりと横たわっているかのような。

少女は百合を携えている。純潔の白い百合。それが、血のように赤い筋の入った百合に変わる。
廃屋の一階に、草原をさまようホルスタイン牛のブチのように、土くれが現われるんである。しかもそこに、雑草みたいに無造作に植物が生え出す。
不可思議で、不条理だけど、どうしようもない、少女の成長を感じさせる。ティーンエイジの成長は、それこそ雑草のようにたくましい生命力がある。
そして、男と違って、少女から女への成長は、成長というプラスのイメージだけじゃなくて、失われるイメージが、どうしてもつきまとう。
それが、白い百合から、赤い百合への変化に、どうしても感じてしまうんだよなあ……。
失われることが、幸福だと、そんな矛盾を、少女から女になる時、受け入れなければならない。
それが、赤い毛糸に託されているように思う。

幻想であるはずのこの廃屋に、クラリネット男が現われる。少女を追ってきたかのように。
彼は人形に何かを施した。彼が去った後、恐る恐る少女がそれを確認すると、お腹にあったアザがなくなっていた。だけど、死体のように顔に布がかぶせられていた。とってみると、顔が真っ黒に塗りつぶされている。
本当に、この場面は怖かった。心臓が飛び出しそうだった。不意打ちの衝撃以上に、……何かを見透かされたような恐怖があった。

少女は、破り捨てたボール紙に火をつける。自分を解放した証拠のように、放置していたボール紙。でもふかふかに柔らかくて、その上にボン!と飛び乗ったりして、なんだかね、ちょっとした安心感を感じていた気がするんだよね。
自分を閉じ込めていたものを征服した証拠を側に置くことで、やれば出来るコなんだと自分に思わせる、お守りみたいなもの。
本当は忘れたい筈の記憶を、自慢話みたいに酒の席でルーティンする大人(私か?)みたいだ。それでようやく自分を支えてる。

少女であることだけで強力だったのに、やっぱり弱さはあったんだ……でも、それに火をつけた。少女の最後のギリギリの強さ。
そして、この人形にならって、顔を真っ黒に塗りたくる。人形のようにアザを消したいと思ってのことなのかと一瞬、思ったけど、違うような。
だって、アザを消しても顔が黒くなっちゃどうしようもない。生まれたままの、そう、バースマークのある自分自身を受け入れなきゃどうしようもないってことのように思えるんだ。
バースマークって語感のイメージって、凄い深いなあ……。

天上から降り注いでいるかのような赤い毛糸を最後、少女がハサミで、前髪でも切るように粛々と切っていく場面が、心打たれるんである。
がんじがらめの少女という器から、自ら解き放たれる強いイマージュを感じるから。
更にその毛糸は粉々になるまでに細かくなって、暗い廃屋から外へと飛び出した少女の上に降り注ぐ。
絶望的な、どしゃぶりの雨のようだった部屋の中の毛糸が、春の桜吹雪のように少女に降り注ぐ対比は、すべてのスイッチがオフになったような、幸福な開放感にひたってしまう。
そして最後に、少女は、いやもう少女ではない彼女は、膝下まで届くワンピースを着ているのだ。デザインは大して変わっていないのに、何かを通り抜けた、確実に大人の女になってて、もう少女ではないことが、ちょっとだけ、いや……正直大いに、寂しくて残念な思いがする。

でもさ、アザってエロだよね。ホクロとかもそうだし。バースマークの持つエロって、強力だと思う。
生まれた時からある、それはつまり、この命が誕生した行為を思い起こさせるから?エロに考えすぎか。
でも、エロは愛の要素だから。そこが気になるがゆえに、触りたくなる。触ることから始まるのがセックスで、触ることから始まる情があるから。
柔らかで無防備な少女には、誰もが触りたくなる。何の打算もない、全てがそこにあるから、失い始めている大人が、欲してしまうのだと思う。

映画の最後、クラリネット男の小さなダンボールハウスから彼女は這い出してくる。
しんとした土手、仰ぎ見る男、無機質なコンクリート建物がぽつんと浮かび上がる。
こんな寂しい建物が、「眠り姫」にもあったような気がする。
それが、今の、人の心を、そのまま映しているように思う。★★★★★


本能
1966年 103分 日本 モノクロ
監督:新藤兼人 脚本:新藤兼人
撮影:黒田清巳 音楽:林光
出演:観世栄夫 乙羽信子 東野英治郎 小川吉信 島かおり 西内紀幸 伊藤くにえ 殿山泰司 江角英明 草野大悟 大木正司 宇野重吉 窪田英世 松井孝之 吉成洋子 関戸純方 宮本信子

2006/5/18/金 東京国立近代美術館フィルムセンター(シナリオ作家新藤兼人特集)
フィルムセンターの上映予定のチェックを怠っていたら、この特集がもうとっくに始まっていて既に後半戦。慌てて観に行くも、その面白さに激しい後悔に襲われるのだった。あー、もー、最初からちゃんと追いかけたかったよー。
リアルタイムで観ている新藤作品は当然のことながらほんのわずかなんだけど、このお年になって撮った「ふくろう」でのあぜんとするほどのあけっぴろげなセクシャリティ、平然と同時に共存している深い社会性、そして爆笑必至のユーモアに本当に驚いて、今更ながら新藤作品をきちんと観たいと思っていたのに、思っていたのに、チャンスを逸したー!

で、その「ふくろう」で感じたものがこの40年も前の作品において、既にすべて詰まっていることには本当に驚かされる。監督夫人で彼のミューズである乙羽信子の、生命力あふれる“おばさん”に圧倒されまくり。これまた今更だけど、この監督と主演女優の素晴らしき運命の絆、同志としての信頼に胸が熱くなるんである。
ほおんとにね、乙羽さんの素晴らしいことといったらないの。まず、カワイイ。豊田作品などで若い頃の彼女のチャームは知っていたけど、もうそんな比じゃないもん!
ここではただ“おばさん”と呼ばれる、確かにおばさんの年齢であり、割烹着に長靴姿も似合ってるし、ちょっとやそっとのことでは驚かないどっしりした存在感もまさに“おばさん”なんだけど、でもそんな風に呼ぶのははばかられるほど、とてもチャーミングでカワイイのだ。
そのふっくらした頬は最晩年まで変わらなかったけど、ここではそれが少女のように輝いている。この時彼女は42歳、しかも“おばさん”という役柄で、チラリとヌードさえ見せてしまうあたりも、監督ー、ヤルじゃないの!しかもそのチラリズムがまた、エロティックなんだよなあ。見つめる“先生”の視線がそうさせているわけだけど。

そして、主人公である“先生”である。フィルモグラフィを見ると何本も映画に出ているから、私も観たことがあるはずなんだけど、名前と顔が一致するのは初めてである。
劇中にも能のシーンが出てくるし、素晴らしいノドだし、彼は本来は能楽師ということなんだよね?(……と書くのを中断し、彼のプロフィールを検索。ふんふん、ナルホド……めんどくさいから割愛)
“先生”と呼ばれてるけど、何の先生なんだか、作家か脚本家か映画監督か……劇中、有名なテレビ脚本家の話なんかもしているし、そっち方面なのかもしれないけど、詳しくは語られない。“おばさん”同様、役名さえもなく、ただ“先生”である。しかも夏と冬、蓼科高原の別荘に長期滞在するヒマなお人である。別にそこで仕事をするというわけでさえなく、おばさんの作ってくれる三度の食事の他は散歩したり釣りに行ったり、同様に避暑や避寒に来ている若い恋人たちをつらつらと眺めたりしている。

そう、恋人たちの“愛の営み”に、もー彼は釘づけなのだ。冒頭シーン、雪がしんしんと降る中を彼が外にぼーっとつっ立って道の向こうを見ている。おばさんが「先生、カゼひくだで」と何度たしなめても、何度も外に出る。誰か来るのを待っているのかと思ったらそうではなく、「男が三人、女が二人。一人あまるな。どうするんだろう」などとつぶやいている。どうするんだろうって、どういう想像だよ!(爆笑)
はたまた、“隣の先生”(これまた先生だ)の息子が新婚で来ていると知るやお茶におよばれし、その新妻の尻をじっと眺め回したりする。ついにはその尻が裸の尻に見えてくるんである(またもや爆笑)。戻ってきた先生、今度はおばさんの尻も眺め回す(オイー!)。スクリーンに大写しにされた乙羽さんのお尻と、それをやけに真剣に見つめる先生のドアップがやたらと可笑しく、もう笑い転げちゃうのよ。

しかし、彼は切実であった。だって彼は、決して欲望で見ているんじゃなかったんだもの。エロ本を見ているシーンもあるけど、その巨乳のページをイラ立ったように炎の中に捨ててしまう。奮い立たないのだ。つーか、勃たないのだ。不能なのだ。それも……原爆が原因で。
その深刻な告白をおばさんに唐突にぶちまける、雪で埋もれた林の中でのシーンは、事情が深刻なだけに笑っていいものやらすっごく困るんだけど、聞いているおばさん=乙羽信子があっかるく笑い飛ばしちゃうから、こっちも安心して笑いながら見つつ……でもそこには本当に、深い深い問題が横たわっているのであった。
「おばさんの尻を見ていたことを謝る」なんて珍妙なことを、ものすごい真剣な顔して言う先生にまず吹き出しちゃうんだけど、でも、彼は本当に真剣に深刻なんだもの。

彼は被爆者だった。最初は生殖機能さえ失われたと思ったけれど、白衣の天使である看護婦さんの必死の“摩擦”で(ここでまず、おばさん大爆笑)無事、復活したんである。
だから結婚もしたけれど、その後、ビキニの第五福竜丸事件の衝撃で再び不能になってしまった。そして、離婚した。それ以来、彼はずっと一人だった。
戦争で夫を失ってからずっと一人で、夫に操を立てているというおばさんが、「私は女だからガマンできるけど、男の人は大変だら」と先生に言う。先生はその台詞にもじっと考え込むばかりなんである。

この作品、全編に水のシーンがちりばめられていてとても印象的なんだけど、その清冽な、時にしんと澄み渡り、時に激しく流れるその様子は、まさに生命の力強さと美しさを感じさせる。
そしてその源(みなもと)にあるのが性の営みである。夏になると若い男女はあちこちで燃え盛り、もう野外セックスしまくりで、先生ったらあちこちでデバガメ状態なんだけど(こういう描写をアッサリ映し出すのが素晴らしいのね)、でも、ダメなんである。どんなにそんな“特訓”したって、先生のモノは反応しないのだ。

そんな先生をおばさんは助けたいと思う。秘密を打ち明けてくれた先生に報いたいと思う気持ちもあっただろうけれど、きっといつからか、先生のことが好きだったに違いないんだもの。
おばさんは、この村にいまだに残っているという夜這いの伝統を話す。カタブツで有名なおばさんのところにさえ、夏のこの時期は男たちが夜這いをかけてくるんだという。
夜這いは文化であり、夜這いをかけられない女はその程度だと思われる。でもおばさんは死んだ夫に操を立てているから、受け入れたことはない。受け入れるのも文化だけれど、それもまた女としてのすべきことなんだという。

おばさんは先生に、夜這いを見に来ないかと誘う。それを見たら、先生の不能もきっと治るだで、と。
先生は緊張しながらおばさんの家についてくる。藁葺きの立派な家である。泊まることを躊躇する先生に、「不能がナマイキ言うでねえだ」とのおばさんの言いっぷりにも笑うけれど、「そうか、不能だから安心というわけだね」と納得する先生も先生で、この奇妙な会話のやりとりには始終吹き出せられるんである。
で、ここで先生はおばさんの入浴をちらりと覗き見するんだけど……それは今までの“自主特訓”とは違った感じがする。彼の本当のドキドキを感じたし、おばさんも見られることを当然判ってただろうし……というこのせめぎあいに、スリリングな予感を感じてこっちまでドキドキしてくる。“不能”の会話も、逆説的な意味が急激に立ちのぼってくるのだ。
そしていよいよ夜這いが始まり、ほっかむりした男三人が、猫の鳴き声を発して家の周りをうろつきはじめるんである。
そうそう、この“ほっかむり”に関しては、なぜほっかむりをするのかと問う先生に「夜這いはほっかむりと決まってるだ」と平然と返すおばさんには思わず吹き出しちゃうんだけど、これはねー、あとでもっと爆笑シーンが待っているのよ。あー、早く書きたい。

で、この夜這いにもおばさんはじっと仰向けになったまま応じず、動かない。息をひそめて様子を覗っている先生の気持ちの高ぶりが、手にとるように感じられる。
だってね、彼、この夜這いが始まる直前、真っ暗な中でたばこを吸って、灰皿がないからおばさんに台所から茶碗か何かを持ってきてもらうんだけど、真っ暗な中で手探りでおばさんの手から受け取る時に、一瞬、手と手が触れて、なんだかそれが見逃せない気がしたんだ。
おばさんはいつものおばさんくさいカッコじゃなくて浴衣姿が可憐だし、夕食の時に「一杯だけ」と彼のお酌でビールを飲んだ様も、なんだかちょっと色っぽかったような気がするし。先生も、もうこの時からおばさんにドキドキし始めていたのかもしれない。

で、次の晩、先生はおばさんに夜這いをかけるんである!ほっかむりして(爆笑!)猫の鳴き声立てて(大爆笑!!)。この猫の鳴き声がやったらめったら腹から出されたドスの聞いたドラ猫声なのよ。
つっかい棒はアッサリ外れて、彼は中に入ることが出来る。おばさんにしのびよる。おばさんは寝ぼけ声で「ハチベエ、また来たのかい」と両手をさしのべる……先生は驚愕の表情になりながらも、おばさんにのしかかり……えーと、つまり、ヤっちゃったのだ、というか、不能だったのに出来ちゃったのだ!

翌日、彼はご機嫌で顔の色ツヤも良く、おばさんから「夜這いを見て復活したんだら」と見抜かれる……んだけど、おばさんは先生との一夜は覚えてないらしいのね。先生が探りを入れても、昨日は夜這いは来なかったと言うし。
で、この時先生は、縁側で能の立ち回りとそのノドを披露するんである。この圧倒的なパフォーマンスには、おばさんならずとも口をあんぐり開けっ放しにして見惚れるしかない。んだけど、この素晴らしいシーンが、その後の、また性懲りもなくおばさんに夜這いをかける彼の猫の鳴き声にそのまま通じ、だってあの能の声のまま、素晴らしく響き渡る発声でニャーオ!とやるもんだから、もうおっかしくて、吹き出しちゃうんだもん!いやー、油断してると突かれまくりだよ。

でも、おばさんは決して目を覚まさないし、いつも「また来たのか、ハチベエ」と寝言を言うし、先生は嫉妬にかられちゃうんだ。
先生は、「おばさんは(夫に操を立てていたと言うから)潔白だと信じていたのに」と自分がしたこともタナにあげて……というかそのことは話せないまま、おばさんを罵倒する。ハチベエを探し出そうとするも、おばさんの住む部落には13人ものハチベエがいて突き止められない。
先生はカンシャクを起こして、明日東京に帰る!と息巻く。そうすると先生の罵倒を黙って聞いていた(この「黙って聞いていた」ていうのがね……それまでは必ず先生の言うことをまぜっかえしてたのに)おばさん、「東京でいい嫁さんもらうんだな」とぽつりと言って去ってゆくの。

先生が帰る直前、若い男女の心中事件が発生したのね。草むらに半裸の状態で、男は女のおっぱいをひっつかみ、なおかつ彼女の顔をぐいっと押しのけるようにして、女はその男の手によって顔が醜くひん曲がって白目で、凄まじい状態の死体だった。
それをおばさんは、先生が現場に駆けつける前に二人の目を閉じさせ、更に二人抱き合って穏やかに死んでいる状態にしてやるの。それがね……おばさんの女心を感じちゃってすんごいグッとくるんだよなあ。
だっておばさんは先生に、愛の美しさを見せてやりたいと思ったに違いなく、そしてそれは、おばさん自身の心だったんだもの。それにしてもこの死のシーンは強烈で、それは驚愕のラストへとつながっていくのだ。

そして次の冬、先生はまた蓼科にやってきた。電報を打った筈なのに、おばさんは先生の別荘を準備してくれてなかった。いぶかしがりながら雨戸を開けたりしている先生に、いつも薪を運んでくれている権八が、おばさんは一週間前に死んだと告げる。一体何が起こったのか。
先生はおばさんの家を訪ねる、そうすると、あの夜這いの三人組を見つける……そこで全てが判るの。
夜這いの伝統なんて今時ない。三人はおばさんに頼まれて芝居をしただけ。村でも有名なカタブツのおばさんに夜這いをかける男なんていないだら、と三人は笑い飛ばす。
おばさんは真に潔白だったのだ。そして判ってて先生に抱かれていたのだ。村に13人もいるハチベエという名前を口に出して、それなら探し出せないし、そして……先生に嫉妬してもらいたかったんじゃないかと思うんだ。

しかもおばさんがなぜ急に死んだかって、その理由が驚愕なの。子宮外妊娠。それって、それって、先生の子じゃん!何ということだ……。
真相を知りたくて訪ねた医師から「この年で妊娠なさるとは珍しいですね」と言われ、先生は呆然とする。だってそれって……先生の不能を治して、先生のために死んでしまったのよ、おばさんは。
おばさんの息子が先生に手紙を届けに来る。そこには無学だったおばさんのひらがなだけの文字で、
「先生、ふのうがなおってよかった。わたしもたのしかった」
と書かれてて……先生はもう、号泣するしかないの。
あまりの幕切れに、観客も呆然とするしかないの。

思えばおばさん、最後に先生に「もう原爆なんかに負けんじゃねえぞ」って、声をかけて去って行ったんだ。自分が命を賭して先生の不能を治したんだから、つまり先生を生き返らせたんだから。
原爆という悲惨な過去の歴史が前提になっている筈が、こんな風におおらかな性のユーモアで笑わせられっぱなし。生命力の強さと恋のエネルギーで、生と死をぐるりとめぐるパワーにとにかく圧倒されるばかりなのよ。

あー、もう!なんでこの特集上映に気づかなかったの!★★★★★


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