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「ま」


2007年鑑賞作品

舞妓Haaaan!!!
2007年 120分 日本 カラー
監督:水田伸生 脚本:宮藤官九郎
撮影:藤石修 音楽:岩代太郎
出演:阿部サダヲ 堤真一 柴咲コウ 小出早織 京野ことみ 酒井若菜 キムラ緑子 大倉孝二 生瀬勝久 山田孝之 須賀健太 Mr.オクレ 日村勇 北村一輝 植木等 木場勝己 真矢みき 吉行和子 伊東四朗 内藤典彦 大川浩樹 森一丁


2007/7/8/日 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
予告編を観た時から、こ、これは……!とちょっとゾクゾクする期待を抱いていた。現代に甦るスラップスティックコメディ!今の時代、あらゆる技術もあまたの役者もいて何だって出来る環境にありつつ、これだけがなかったような気がする。そしてクドカンの脚本と阿部サダヲという演者だったら、そうだ、出来るじゃん!と思ったから。
クドカンって、「真夜中の弥次さん喜多さん」といい、なんか時代っぽいモノをはっちゃけて書くのが好き?いや単に偶然か。今回は監督側からのアプローチだったというし……。
その監督っていうのが、なんか見たことあるようなないような名前の人、と思ったら「花田少年史」でデビューした人だったのかあ。しかしそのデビュー作、そして二作目の本作とも凄い大看板張ってるのね、別にいいけど。

いや、よくはない。後半、「ずっと彼女のことを考えちゃうんですよね」などと、割とマトモな心理展開になってスピードが落ちた時、あ、もしかしてクドカンが自ら監督していたら、このあたりも突っ走ってくれたかもしれない、と思った。
ここに至ってフツーの映画になってしまったような気がして残念だったのは……いくら時の人クドカンが脚本を担当したとしたって、永遠の迷バイプレーヤー(決して名、ではない) だと思われた阿部サダヲ主演の、しかもこんなマニアックなネタの映画が全国展開になるなんて思いもせず、そこがトーンダウンにつながったような気もしたのだ。
だってある程度小規模公開だった「ヤジキタ」では、クドカンは思っきし突っ走ってたじゃない。彼だったら番組の大きさなんか気にせず、自分のディレクションなら思いっきりやりそうだしさ。

舞妓オタクの話なんて、ホントクドカンにしか書けないよな……監督が彼に委ねたのは、舞妓の世界をネタに書いてみないかということだけ。それをクドカンに書かせたら、舞妓にしか興味のない男になる。さすがである。
阿部サダヲ演じる鬼塚公彦が、修学旅行で出会った京都の舞妓はんにイカれまくり、その後の人生、舞妓はんのためだけに生きる。
この男がね、もう高校生(中学生じゃ……ないよね)の時点で、皆にはぶんちょにされているっていうのが笑えるんだよなー。一応7班のリーダーの筈なのに、彼だけが京都の街に置き去りにされてしまう。そしてひたすら「7はーん!」と叫びながら京都の町を走り回り、そこで彼は舞妓はんに助けられた。
もうすっかり舞妓はんに魅せられちゃって、7班に合流することも忘れ、先生方に見つけ出されて「このマセガキ!」と両腕を引きずられながら、「帰りたくない!帰りたくないのー!!」と叫び続けた。
そして彼の運命は変わった。

そして10数年、舞妓オタクを隠そうともしない現在の鬼塚もまた、周囲から冷ややかに見られているんだけれど、もう彼はそんなことにさえ頓着しないわけ。ま、つまりは大人の強さを身につけたっていうこと?
舞妓はん応援サイト、つーかオタクサイトを嬉々として主宰し、その掲示板をアラシにくる男と「電車男」をはるかに超えるビジュアル漢字バトルを繰り広げるのには大爆笑。キレた鬼塚はすべての言葉の後に殺!殺!殺!と呪いを込めてキーボードを叩きまくるも、どうやらお座敷遊びを知っているらしい相手に、「悦」と返され、悦って何だよ!ともう怒りで悶絶。
しかしそんな鬼塚にチャンスが。明らかに左遷である京都行きも、彼にとっては念願かなっての異動。すがる恋人をアッサリ捨ててまで大手を振って京都に行くんだけど、一見さんお断わりのこの街で、夢の「舞妓はんと野球拳」どころか、お座敷遊びさえ今の彼には不可能なのだ。

お座敷に上がれない哀しさを、「プロデューサーズ」を思わせるようなミュージカル場面で踊りまくる。ここだけなんだよね。もっとミュージカル風にするのかと思ったのに。もっと見たかったなあ。予想以上にキレのいい、なのに、というかだからこそなのかやけに可笑しい阿部サダヲのダンス。
通りに出張ってくる舞妓ダンサーたちを、「判ってんだよ!!」と一喝する、理不尽な彼のキレっぷりに爆笑。

しっかし阿部サダヲのような役者がこれほど世間的に知名度があがるとは、世の中のサブカル認知度は飛躍したもんだと思う。
だって、この人って、絶対ヘンだよね。いや勿論いい意味で。いい意味で……なんだろうかとちょっと悩んでしまうけれど。
喜劇役者はスクリーンなり舞台を降りると、いい人だったり常識人だったりっていうイメージがあるじゃない。それを彼には感じないんだよな。いや、悪い人だとは思わないけど、彼の中で何が常識として一本柱が立っているのか、いや彼の中には何か違う液体がゆらゆらと詰まっているんではないかという愉快な恐ろしさを感じるのだ。
劇中の台詞にも出てくるけれど、一見ただのオッサン子供。コワイことに回想シーンである修学旅行中のガクラン姿が全く違和感なく似合ってしまう恐ろしい人。案外マジで高校生にも見えてしまう(「うずまき」を思い出したり……)。
エンディング、彼の後を継ぐ形で「7はーん!」と叫びながら京都の街を走り回る山田孝之の方が、そのガクラン姿によっぽど違和感があるぐらいなもんなんである。

案外、演技に入り込む人なのかもしれない。そう言うとシリアス方向の役者をイメージするけれど、喜劇方向にそれが出来てしまう稀有な人なのかもしれない。そういう意味でもやはり彼は、愉快な恐ろしい人なのである。
だって彼、ほんっとに舞妓はんが好きで好きでたまらないように見えるんだもん。喜劇としてやっているんじゃなくて、ホントにそう見えるんだもん。彼が本気になればなるほど、喜劇の方向に行ってしまうように見えてしまうんだもの。だから彼が、恋人が京都出身ではなく三重出身だと知って、「三重、三重じゃん!嫌いになる?決まってるじゃん!」とオッソロシイ言葉を平気で吐くのも、勿論それは喜劇として用意された台詞なんだけど、確かに笑っちゃうんだけど、彼はもしかして演技に入り込んで大マジで言っているんではなかろうかという恐ろしさを感じるのだ。

こういうタイプの喜劇役者って、古今東西、私は覚えがない。まあ、彼が自分で喜劇役者だと思っているかどうかは判らないけど、でも阿部サダヲのシリアス芝居なんて想像つかないもんなあ……いや、ただ単に見たことないだけで、彼は舞台人なんだからさらりとこなしているのかもしれないけれど。
でもそれって、同じ大人計画の荒川良々にもそういう部分は感じる。彼にシリアス芝居なんて想像つかない。案外現代は、恐ろしい役者が、いまだその爆発力をもてあましている贅沢な時代なのかも。

で、である。鬼塚がお座敷遊びのチャンスを掴むのは、彼の会社の社長がお茶屋の常連さんであることが判明したからだった。社長役の伊東四朗とのやり取りは、まさに新旧の喜劇俳優の激突、いや化学変化を見る思いでひたすら楽しい。
阿部サダヲの猪突猛進も、さすがの伊東四朗によって手玉にとられている、いや自ら手玉に乗っているこのリズム。社長に連れて行ってもらえればとしつこく押しまくる鬼塚を社長は体よく追い払う。仕事で結果を出せば連れて行ってやる、と。

それまでは仕事のことなんてどーでもよかった鬼塚が急にやる気になる。そもそもこの京都支社はカップめんのかやくだけをつくる、本社からは「かやく工場」とバカにされていた部署。おっしゃ、京都発の新製品を作ったろやないかい!と。
もうそこからはなんだか「ハケンの品格」の商品開発のよう?かやくが主役のカップめん、かやく別乗せの「あんさんのラーメン」が爆発的大ヒット!
かくしていざお座敷!と思ったら、頑張りすぎて病院行き。退院した時、まさか元カノと病院ですれ違っていたとは思いもよらないのであった。

柴咲コウ扮する元カノの富士子は鬼塚がどうしても忘れられなくて、なんと舞妓になるために京都に乗り込むのであった。
……解説ではね、舞妓になって彼を見返すために、とあるけれど、見ている限りではもっと純粋な気持ちのように思えたなあ。つまり舞妓の自分なら、もう一度彼に振り返ってもらえるんじゃないか、みたいな。
でもさ、結局富士子は都合、何年鬼塚に会ってないことになるの?仕込み時代も含め、二年近くは会ってないんじゃない?あ、でも鬼塚同様あまりにも頑張りすぎて病院送りになって、それを置屋側が慮ってくれたから、その期間は大幅に短縮されていたのかなあ。
でもかなりの時間は過ぎて、その間、駒子の客として来ていた鬼塚に会える機会もあったのに、「(今の自分じゃ)まだ会いたくない」と意地と見栄でガマンしてさ、そこまでしているのに、結局彼に対してどうだ!と見せ付ける場面が用意されていないのが、気になったけど……。

それが気になるのは、やはり私が女だからだと思うんだよねー。だって、絶対、その場面を夢見て、というか執念深く思って富士子は頑張ってきた筈なんだもの。それが、自分に気づいてくれない彼に顔を歪めるだけで言わないままだなんて、なんかさ……。
しかも彼がついに自分のことに気づく場面は、駒子に彼を差し出す場面なんだもん。まあ結局ラストにはそれがひっくりかえるにしても……。

とまあ、ちょっとどころか大分話が飛んだけど、この駒子をめぐって、鬼塚と因縁の相手、内藤貴一郎との戦いが勃発。この内藤という男、ナイキというハンドルネームで鬼塚の舞妓はんサイトを荒らしまくっていた件の人物。しかも有名野球選手!彼と駒子が血のつながらない兄妹だと知るや、鬼塚のテンションは更に上がりまくる。あいつにだけは負けるわけにはいかない!と。

内藤を演じるのが堤真一。結構コミカルな映画に出てはいるけれど、ここまでそれで勝負に出た彼は初めて見る。でも阿部サダヲに比してシリアス部分を任せられることもあり、割とマトモな人物像ではあるかな。
でも阿部サダヲとの場面はひたすらおかしく、特に鬼塚が内藤に熱いお茶をぶっかける場面、時間差で熱がる内藤に、「遅えよ!我慢しちゃったよ!」という場面には大笑い。この“間”がたまらん
それより以前、二人が顔を合わせる前のネットのやりとりは、先述したように「電車男」の二番煎じと思いきや、阿部サダヲのテンションもあいまって、こっちの方が断然面白い。文字に動きを持たせる役者の存在があるからだよなあ。

どんどん内藤を追いかける鬼塚。まず同じフィールドで戦うために野球選手へ。しかし内藤はこともあろうに野球選手から映画俳優へと転身(「なんでもスポーツ新聞で済ませやがって!」と毒づく鬼塚には笑った)、これもまた追いかけてムリヤリ映画俳優になる鬼塚。更に更に、ラーメン屋経営、市長選。結局はすべてが後追いで、追いついたと思ったら内藤はもう次のフィールドに行ってる。そして市長選で敗れて、もう勝ち目はないと思われたのだが。

しっかしこの展開のハチャメチャさ!三十路を迎えた鬼塚が、いきなり野球選手として活躍してスポーツ新聞の一面を轟かせるという、アリエネーけど痛快な展開!いやいやその前に、会社で野球チームを抱えることを社長に納得させちゃうという信じられないほどのバイタリティといい、最初からそうなんだけど、このあたりが一番、アリエネーな、つまりはクドカン大全開な展開。
いわば阿部サダヲ大変化、あるいはファッションショーてな趣で、もう何にでもなれちゃう。着せ替え人形の夢を地でいくミョーな爽快感。いや、それを言えば、この映画自体が阿部サダヲ大変化だよな、高校生から、老年になって置屋の下足番までなるんだから!

だからこそ別に、シリアス=リアルな展開なんか期待してなかったんだよねー、というのは私だけかな。まあ、確かに富士子の問題はあったにしても、恋愛だけはシリアス、というのも、そこだけ女性の観客におもねってるような気がしなくもなかったしなあ。もう全てにおいてぶっ飛ばしてほしかったというのが本音。ちょっとね、一貫性が崩れちゃったから。ま、それに関しては後述。
いや、というかやはり、駒子との淡い恋愛関係のような描写がクローズアップされちゃったから、それもまた富士子とのアンバランスを呼んだということかしらん。
でも好きだったけど。だって彼女は幼い頃から舞妓になるべく育てられて、いわゆる普通の女の子としての楽しみを知らずに育ったんだもん。鬼塚と出かけたピザ屋で、「お客さんが連れて行ってくれるのは、高いバーやクラブですやろ。うち、未成年やから」と楽しそうにジュースをすすり、「こういうところで彼氏の話とか、してはるんやろな」とつぶやく駒子の女の子としての感情は、富士子よりずっと掘り下げられる。まあ当然か。なんたって舞妓はんのお話なんだから。

思えば鬼塚のサイトを荒らした内藤が、芸者遊びをホントにやっている、しかも舞妓はんを多数はべらせて夢の野球拳まで! というのが全ての始まりだった。
内藤はそれを殊更にひけらかす。やっと夢のお座敷に上った鬼塚の目の前で、「金があればなんでも出来るんじゃい!」とこともあろうに舞妓の胸元に手を差し入れるという暴挙にまで。それを目の当たりにし「乳……生乳……」と卒倒寸前の鬼塚、いや阿部サダヲはひたすら可笑しい。

いやいやその前に、このお座敷についた芸妓はんが高校生当時の彼のことを覚えていてくれたこと、そして舞妓の駒子がお店出しの時に写真を撮りまくっていた彼を覚えていたことで、「何で覚えてるんですかー!!!」ともうもう彼は卒倒寸前なんである。
いやいやいや更にその前に、念願のお座敷遊びが出来るとなって、しかし怖じ気づきまくり「帰ります。だって始まったら終わっちゃうじゃないですか!」「舞妓はんが来たら、帰っちゃうってことでしょ!」とうろたえまくるのもひたすら可笑しい。この不条理な台詞をこれだけ可笑しくするのは、やはり阿部サダヲだわよねー。

なんか思いっきり話が脱線したけど……そうそう、だからね、内藤の話だった。所詮一介のサイト管理人に押しも押されもせぬスター選手の彼がそんな陰湿なことをしたのは、彼が本当に望むものを得られなかったから、というのが後に判る。
ま、そのあたりが、ちょっとテレ臭いシリアス部分になるわけだが。そうか、ここもちょっとトーンダウンするのよね。しかも読めちゃったもんなあ……血のつながらない兄が実は父、ってかなり定番だし。

市長になった内藤は「一見さんお断わり」廃止の条例案を打ち出し、花街は大いに揺れるんである。それがあってこその京都、そんなものがまかりとおれば京都の粋は失われてしまう。
駒子を先頭に舞妓衆が市長に直談判。そこで駒子は彼が兄ではなく、実の父親であることを告げられる。血のつながらない兄ならばこの切ない思いが叶うかもしれないという、一縷の望みさえ断たれてしまう。
一方の鬼塚は内藤に完敗し、とぼとぼと東京に帰ろうというところ、そして富士子もまたしかり。しかし鬼塚は「まだ野球拳やってない!」ときびすを返してダッシュ!したところで、富士子と再会するんである。いや、再会っつーかお座敷で内藤の贔屓として会っているのに、彼が全然気づいていなかっただけで。

そこではなんということもなく別れた二人、富士子もまたきびすを返す。いつでも帰っておいでとは言ったけど、あまりに早い富士子の帰還に「早っ」と漏らす女将。吉行和子にそんな台詞を言わすとは……。
他の舞妓たちは市長への直談判で出払っているもんだからと、富士子が鬼塚の相手をする。ついに。そこで湿っぽい野球拳のあと、鬼塚は語り始める。夢だった野球拳をやってるのに、さっき再開した彼女のことばかり思ってしまう、と。「なんだか、イイ女になってたんですよね」と。
富士子はそんな彼を張り倒す。駒子にはあなたしかいないのに何を言っているのかと。今すぐここで、その彼女と縁を切れ、と。
鬼塚が富士子にかけた電話が、すぐ側から着信音が聞こえてきたことによって、彼はようやく全てを悟る。そして富士子に蹴り飛ばされんばかりの勢いで、駒子の元に、内藤の元に向かうんである。

このシーン、市長の元に乗り込んでいく鬼塚の、顔だけをアップにするからもしや……とは思っていたけれど、ホントにパンツいっちょとは!つーか、内藤も指摘しろよ!それとも彼の気迫に気圧されて言えなかったということか……。
地下鉄から地上に出て、「俺、ぱんついっちょじゃん!」と、キャー、ハズカシーみたいに小股で走ってく姿が、ああこれぞ阿部サダヲ……正確にはぱんついっちょじゃなく、靴下と靴もはいてる。それがもっとハズかしい。
そして彼は山に分け入る。え?何すんの?と思ったら、なんと石油を撒きだした。えええ!何するつもりなの!と思ったら、本当に火を放ちやがった!
大文字焼きならぬ、「大好き」文字焼きを、役所の窓から見た内藤は呆然。
しかしこれもまた随分唐突だが……。

獄中の人となった鬼塚に会いに行く内藤。「お前には負けたよ」と言うのに、鬼塚は全然聞いてない。また勝負を挑む。踊りの会にそれぞれ着物を贈り、駒子がどっちを着るかで勝敗をつけようと言う。「だから、お前には負けたって言ってるだろ」とあきれ返る内藤。しかししかし、ぜっんぜん、鬼塚は聞いとらんのである。このあたりのしつこさも、好きっ。
そして駒子がどっちを着るか……一応悩んでいる場面はあったけど、まあそりゃあ当然といえば当然内藤の方。やっと父親の顔としてそれを見届ける内藤は、涙をぬぐう。そして鬼塚が贈った着物は富士子がまとって舞台に上がる。「ちきしょう、似合ってるじゃねえか」と鬼塚。
おっと、ここでめでたく鬼塚は出所しているわけだが、ホントは脱獄する気マンマンだったのね。そこを、社長が保釈金を積んで出してくれた。鉄格子をゴシゴシこすっていたのを慌てて隠す阿部サダヲが(笑)。この人は何しても可笑しいな……。

ところでさ、鬼塚の信念?は、とにかく舞妓はんにしか興味がないということ。それは、その中の特定の舞妓はんという意味ではなかった筈。
確かに駒子には入れあげる。でも、結局は内藤と彼女の濃密な関係に敗れてしまうし、多分に内藤に負けたくない気持ちで張り合っていた部分はあるし。それについては否定はしてたけど。
そのあたり巧みにボカしているのは正直ちょっとズルいよな、とは思ったけど。だって駒子に本気になりそうな展開になったら投獄されて、何もかも忘れたようになって東京に帰ろうとして、でもそれじゃ駒子のことはどうなのよと思ったら富士子との邂逅があったりして、富士子に駒子にはあなたしかいないんだとか言われて、なんだか上手くかわされてしまったような。それに富士子が自分のために舞妓になったことへの葛藤は、そのかわされた中に紛れて、まるでなかったしなあ……。
しかもさ、あんな大それた、“大好き”文字焼きに気付いているのが内藤だけらしいっつーのも……え、違う?だってこれにリアクションしてるの、彼だけじゃん。まあでも、これだけのことをやらかしたら新聞沙汰にもなっただろうし、知ってるか。

ところでこれを、聾唖者向けの日本語字幕で見たんである。こういう機会に遭遇するといつも思うことだけど、これが面白い、というか、自分がいかに漫然と映画を観ていたかってことに気付かされる。
自分では拾えていない台詞や音が凄く多い。ことにこれは言葉の面白さを重視するクドカン作品だから、実際に逐一字幕で見ると、もうほおんとに、面白いの。多分、音だけで観ているのより数倍は面白いと思うわ。阿部サダヲが初めて舞妓はんと遭遇して、「ぼん、どうしたん?」と言われて、「ぼん……ぼぼんぼぼんぼん」とどもりまくる場面、字幕も合わせて見ると、もうその脱力な台詞がメッチャ可笑しいんだもん。

ところで、植木等の遺作なのよね。まさに、喜劇俳優の交代を思わせる。なんて、遺作にふさわしい幕引きだろう。まるで用意されていたような。
毛玉だらけのくたびれた着物を着たご隠居さん、スーダラ節に乗ってやってくる。でも女の子をさらりと口説く粋は失っていない。まるでこれが遺作になることを予期していたみたいなダンディズムにジンとくる。
挨拶をする駒子に、「あんな年寄りともヤるの!?」とついていた富士子は目を丸くする。
「うちら、風俗とは違います。飲んで楽しく遊んで、それだけどす。そこらへんの地べたに座っている女子高校生より、身持ちが固いんどすえ」
舞妓の立ち位置というものを一発で示す、秀逸な場面でもある。

色々言っちゃった割には、でもかなりお気に入り。アイディアと阿部サダヲだけでもう作戦勝ちだもの。★★★★☆


街のあかりLAITAKAUPUNGIN VALOT/LIGHTS IN THE DUSK
2006年 78分 フィンランド カラー
監督:アキ・カウリスマキ 脚本:アキ・カウリスマキ
撮影:ティモ・サルミネン 音楽:メルローズ
出演:ヤンネ・フーティアイネン/マリア・ヤルヴェンヘルミ/イルッカ・コイヴラ/マリア・ヘイスカネン/ヨーナス・タポラ/ペルッティ・スヴェホルム/メルローズ/カティ・オウティネン/パユ(犬)

2005/7/31/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
久しぶりにカウリスマキの映画を観たら、ああなんだか相変わらずでホッとしてしまう。変わらない人というのは、安心する。たとえその中身がいつもいつも救いようがなく、不幸であったとしても。今回も敗者三部作などという、ちょっと苦笑してしまうようなキャッチフレーズがついているけれど、それも実に彼らしい。なんだかそれが、ホッとするのだ。そんなの、おかしいのかもしれないのだけれど。
それは、今回カンヌでカウリスマキらと共に巨匠監督として選ばれ、持ち上げられた北野監督が、最初のキラメキを留めないぐらいあまりにも変わってしまったのと対照的だなあなどとも思うんである。本物の作家は、その本質はほぼ変わらないものなんじゃないだろうかなどとも思ったりする。ま、そのことに勝手にガッカリして観なくなってしまっているから言う資格もないんだけど。

筋だけ読めば、ロマンチックな映画のように思える。そんな風に描くことも可能だろうと思う。
なんたって主人公は美しい女に突然出会って恋に落ち、その女に導かれるままに、騙されてしまうのだから。
でも彼が恋に落ちる時もその表情が1ミリも変わらないままだし、彼女の言いなりになるのもやはり同じ表情のままなのだ。
ああ、カウリスマキ。

この人の、まるで人形劇のようなキャストの配置や動きを初めて観た時の戸惑いを、まるで昨日のように思い出す。その頃とちっとも変わってない。彼の映画の中で演者は演じることを封じ込められる。演じるということが台詞の節回しや表情や身体の動きに端的に示されるのだとしたら、ヘタに役者としての矜持を持っている人には、カウリスマキの映画の中に生きることは非常に困難であろうと思われる。
でもそれでも、この決められたフレームにきっちりと直角に収まり、ピクリとも笑わずに台詞を言う彼らが、なぜこうも繊細な魅力を放っているのだろうと、免疫の出来た今ならば感じ入る。

決してその封じ込められた中に、演者がコッソリと忍び込ませる“演技”などがあるわけではないのだ。彼の映画に出る演者たちは皆判っていて、そんなヤボなことはしない。きっちりと直角にフレームに収まり、表情を怒りにも笑顔にも1ミリも現さずにきっちりと台詞を言う。劇中には同僚にからかわれて殴りかかるなどという場面もあるのだけれど、そんな時でも彼らは、殴りかかる動作はしても、やはり表情は1ミリも動かないのだ。
でも、だからこそ、直角から逸脱した動きが行われた時、彼の怒りを私たちは感じることが出来る。少しでも直角から彼が動いた時、それは本気なのだと。例えば彼女の肩に手を回した時、例えば騙された相手にナイフを振りかざした時。そのどれもが、同じ顔をしているのに、彼の怒りを余計な調味料ナシにダイレクトに感じることが出来るのだ。

で、バカな私は今頃思い当たるんである。まあ、3、4作しかカウリスマキ作品を観たことがないから……などと言い訳したりして。つまりは今までは、その表情の動かないキャストに戸惑うばかりで気づかなかったのだ。メインキャストは確かに、直角で、表情は1ミリも動かない。しがない夜警の仕事に就いている主人公のコイスティネン、愛人に命じられて彼を陥れるファム・ファタルのミルヤ、そしてコイスティネンを愛している、ホットドッグ屋台を切り盛りするアイラの三人。

でもそれ以外の、コイスティネンの同僚である警備員の男たちや、彼が決死の覚悟で挑む街のゴロツキたち、そしてミルヤを使って彼を陥れる悪人たちは、いわゆるフツーの演技をしているのだよね。
あ、でもフツーといっても、それこそこれがフツーの映画ならば、もっと悪人演技をしているのかもしれない、と思う。ただナマケモノだったり悪いこと考えてたり、つまりマイナスの方向のキャラクターたちは、メインキャストが1ミリも動かないから、“普通に演技”していても、悪人に見えてしまうのだ。
それってなんか、皮肉に感じる。普通に生活していると、案外この三人のように無表情に過ごしてるのかもしれない。そして誰かを陥れようとしたり、自分勝手に楽しく過ごそうとしたりすると、ワザとらしい演技が入っちゃう。それが人間というものなのかもしれない。そう思うと、実はカウリスマキ作品とは、実にリアリスティックなのかもしれないのだ。

コイスティネンは、出会ったミルヤに「警備員で終わるつもりはない」と言う。それはカッコつけではなく、実際彼は、ささやかな起業を夢見ている。しかしもともと人と相容れない彼は、仲間となる友達もなく、皆が集まるカフェでも隅っこで孤独に酒を飲んでいるばかりで、そんな話を分かち合うこともない。
銀行に融資を相談しようとしても、職業訓練校の卒業証書しかなくて、アッサリ却下されるんである。アッサリどころか、あからさまに嘲笑される。ここでも銀行の人たちの演技はいかにも演技らしい。「君はコメディアンで私たちを慰問に来たのか?」などと、こんな条件でローンなんて組めるわけないだろ、笑わせるなということを皮肉タップリに言う銀行員は、ホンット、いかにも“演技”なんである。世間の冷たい風と、そしてコイスティネンの甘さを同時に感じさせるこの演じ方のギャップ。しかし人間としてのリアルさを感じるのは、無表情なコイスティネンの方なのだ。

銀行から追い払われてもガックリとした“演技”を見せるわけでもないコイスティネンは、その無表情もあいまってクールに見えなくもないんだけど、やっぱりそうじゃない。世間知らずって感じで、アッサリ女に引っかかるのだもの。
ミルヤとの出会いは、ガラ空きのカフェ。一人コーヒーかなんかすすってるコイスティネンの向かいに、すっとやってくるミルヤ。「寂しそうに見えた」などと言ってカフェで向かいに座る女なんて、アヤしいに決まってるのに、コイスティネンが発する次の台詞はなんと、「結婚するか?」なんである!!!

予想もしないフォール・イン・ラブ!お前、ひと目惚れにしたって早すぎだろ!思わず劇場から笑いが漏れるけれども、コイスティネンはウケ狙いでも何でもなく、本気で言ってるんである。そんな突拍子もない彼の台詞にもミルヤは殊更に驚くこともなく、「いいけど、そのためには、お互いを知り合わなくちゃ」と切り返す。
女と知り合う=恋愛の予感がある=結婚、というダイレクトな男に、まるでそれを最初から見透かしたようにかわす女。そこには人生の完璧な方程式を見るかのようである。
男の愚かな純粋さが哀しい一方で、彼女は……こんなことをしなければ生きていけない、つまり、多分だけれど、今の生活レベルを落としたくないがために、負け犬の男を陥れる役目を引き受ける女が哀しい。

ミルヤがなぜ愛人である男の言いなりになっているのか、説明されることはないのだ。本当にこの愛人を愛しているようには思えないし……まあそのあたりは、彼女の無表情からはなかなか察するのは難しいのだけれど。
あるいは彼女が何か弱みを握られているのかもしれないけど、でも……なんとなくだけど、そんな感じはない、ような気がする。そう、今の自分のレベルを落としたくないだけのように感じる。
「あの男は負け犬よ。なぜ彼を騙すの」とミルヤは愛人に問うてみる。でもそこには、彼に対する同情というよりも、なぜ自分がそんな負け犬に関わらなくてはならないんだという、プライドを傷つけられたニュアンスを感じるのだ。コイスティネンが思いがけず女に声をかけられて舞い上がってしまって、全てを自分に捧げるつもりだということ、十二分に判っているというのに……。

キレイなプラチナブロンドにきちんと化粧をして、高そうなアクセサリーをつけている彼女は、明らかに上流の女である。コイスティネンのようなしがない警備員と付き合うような女ではないことは常識で考えれば明らかなのに、彼はそれに気づこうとしない。気付かないんじゃなくて、気付こうとしないのだ。
ミルヤが手に入れなければいけないのは、コイスティネンが夜警で回っている店の鍵の束と、宝石店に入るための暗証番号。
コイスティネンの部屋を訪れた時は、ミルヤのために色々としつらえた彼から、肩に手を回されただけですぐに「用事があるから」と辞した彼女が、次の日突然「私も連れてって。ウィンドショッピングがしたいの」と夜警に回ろうとする彼に会いに来るなんて、どう考えてもアヤしすぎるけど、男は女の“突然”にヨワいってことなのかも。
「君は中に入れない。防犯カメラに映るから」とコイスティネンはミルヤをドアの外に置いていくけれども、彼が打つ暗証番号をミルヤはしっかりと記憶に刻んでいた。
あとは鍵である。

ところで、この、コイスティネンの部屋をミルヤが訪れる場面は、慣れないことするコイスティネンのドキドキがその無表情の中に押し込められてて、なんかもう凄まじく可笑しい。
彼が用意するのはちんまりと積まれたベーグルと酒、それだけである。それでも彼にとっては精一杯なんである。そしてソファに並んで座って、「焼きたてだから食べて」とミルヤに勧める。焼きたて……ホントかあ?
ミルヤは真っ直ぐ前を向いたままベーグルを一口二口かじり、肩に回された彼の手を外して、辞するんである。ミルヤはその直前まで、豪華な愛人の部屋でまったりと過ごしていたわけで、このギャップは哀しくなるほどなんだけど、なぜか可笑しい。そしてやっぱり、哀しい。

そして、鍵を奪うためにミルヤは、夜回りから戻ってきたコンスティネンとカフェに入る。で、まるでコントみたいにわっかりやすく、カフェで飲み物に眠り薬を入れられちゃうんである。
ミルヤが「お水持ってきて」とコイスティネンに取りに行かせた隙に、彼女は持っていた薬を彼のマグカップに入れるのだけれど、バッグから取り出して、包み紙をあけて、振り入れるという一連の動作にはフツーに時間がかかってる。そのことにスクリーンから見切れた彼が気づいていないということ自体が不自然なんである。
水を持って戻ってきた彼は、まるで義務みたいにマグカップに口をつける。一口、二口、三口……何も示されるわけではないんだけれど、なんか、彼が、どこかの時点で彼女が自分を陥れていると、気づいていたんじゃないかと、思ってしまうのだ。それは彼の単純さ、愚かさが、あまりに見てられないからなんだけれど……。

そして、鍵を奪われ、その鍵で宝石店から強奪され、当然のごとくコイスティネンは捕まってしまう。一度は証拠不十分で釈放されるものの、「事情を説明させて」と再び彼のアパートを訪れたミルヤが、鍵と盗品の一部を置いていったことで、いよいよ犯人として捕らえられてしまうのだ。
当然その前に、警備会社の仕事はクビになり、コイスティネンはたった一人世間に放り出される。裁判になっても、彼に抗う気力はまるでない。それどころかこの期に及んでも自分が陥れられたこと、ミルヤのことを一切口に出そうとしない。
ハメられただけなのに、執行猶予もつかない実刑をくらってしまう。

そんなコイスティネンをずっと見つめ続けていたのがアイラ。彼がいつも立ち寄るホットドッグ屋の女。ミルヤと比べればスッピンでジーパン姿の彼女はいかにも地味で、それなりにトウも立っているし、彼にどう言い寄る訳でもない。
でも、コイスティネンがミルヤとデートする話にはかすかに嫉妬の色を見せて、「早く帰って。もう今日は終わり」などとさっさと店を閉めてしまったり、その闇の中見せる後ろ姿は、彼への思いに溢れているんである。そしてコイスティネンの裁判を傍聴に来ていたアイラは、ホットドッグ屋では見たことのないようなフェミニンな装いをしている。初めて見る女のカッコとでもいうような。
獄中のコイスティネンに届いた手紙は、アイラからのものだけだった。でも彼はそれを読まずに破り捨てた。
なぜ……?こんなことになってしまった原因の女、ミルヤに入れあげてしまった自分を戒めていたから?
もう女自体がイヤになったから?
アイラこそがあなたを愛しているのに。

ちょっと時間が戻るけれど、コイスティネンがまだミルヤと出会う前、こんな場面があるのね。
彼が行き過ぎる往来にいつもいる痩せた犬。どうやらもう、10日間水も飲ませてもらえていないらしい。
この犬の登場シーン、通りを行くコイスティネンをまるで哀れむように、首をゆっくりと動かして見送っているんである。
ただ、通りを行くだけの彼を。この犬の演技には舌を巻く。画面の両端に犬と彼、この完璧な構図に完璧なコメディが宿る。
哀しきコメディだけど。だって彼と犬とは、言ってしまえば似たような境遇ってことなのだもの。

で、この犬の側に座り込んでいた少年が悲しげにコイスティネンを見上げるもんだから、彼はつい聞いてみるんである。
「この犬の飼い主か?」「ううん。中にいる」「そうか」「でも、強そうだよ」
この会話も実に、コイスティネンの負け犬っぷりを示しているよなあ……だってそれを、少年が一発で見抜いているんだもの。
店に入ると、屈強な男三人がビールを酌み交わしている。別部屋に連れて行かれるコイスティネン。コイスティネンが話をつけに行っているハズなのに、まるで立場が逆に見えるんである。
そして音もなく戻ってくる三人は満足そうに笑い合って、またビールを酌み交わし始める。
裏口から出てきたコイスティネンは、実に判りやすく片方の鼻の穴から鼻血をたらしている。そしてそのまま行き過ぎる。痩せた犬と少年はそんな彼を黙って見送るのだ……。

で、その犬と少年が、コイスティネンの最後に関わってくるのね。
最後……最期、なんだろうか。いや、そんな風には考えたくないけれど。
出所したコイスティネンがまず見たものは、今まで住んでいたアパートが新しく建て直されてしまっている工事現場、この時も彼の驚きや失望などは映し出されず、ただ引いたカメラで工事を見上げる彼がそこにいるだけ。
コイスティネンは簡易宿泊所で寝泊まりし、レストランで働き始める。
往来で偶然再会したアイラは、「いつ出所したの。手紙を出したんだけど返事がないから、面会に行こうと思ってたのよ」と言う。そして宿泊所まで会いに来る。

前半はミルヤ、そして後半はこのアイラとのツーショットが描かれていくんだけれど、ミルヤにはただただ主導されて騙されていたコイスティネンが、ここでも彼が何を主導するわけでもないんだけれど、彼に好意を寄せようとするアイラにかすかな抵抗を見せている、ような気がする。
いや、アイラも好意を寄せようだなんて積極的な態度に出るわけではない、ただ、女人禁制の宿泊所を訪ねて、彼と一緒にタバコをふかす程度なのだけれど……。
コイスティネンは、このままでは終わらない、と彼女に言う。もう仕事も見つけた。金をためて車の修理屋(だったかな?)をやるんだ、とか言うんである。アイラは「希望を捨てていないのね」と返す。
コイスティネンの語る、この叶うはずもない夢は、ミルヤに語っていたのと相似系のように見えてなんだか違って見えるのは、彼自身がそれがムリだということをどこかで判っているんじゃないかと思われる節があるからだろうか。それにアイラの台詞も、いかにもそれがムリだという前提で言っているのが透けて見える。そして、そのニュアンスに彼も気づいているのだ。

ある日コイスティネンの働くレストランに、ミルヤと愛人ご一行様が現われる。給仕にきたコイスティネンは目を見張る。しかしミルヤは、まるで彼など知らない人のようにふるまうし、コイスティネンを陥れた彼女の愛人は、彼が前科持ちだということをオーナーに告げ口しやがるんである。
黙々とマジメに働いて何の問題もなかったのに、「強盗の前科があるって、黙っていたのね」とオーナーは言い、それまでの給料を渡して彼を解雇してしまう。コイスティネンはあの無表情のまま激昂して、店を出たかの愛人に襲いかかる。しかし反対に取り巻きにボコボコにされてしまう。
「処分しましょうか」という取り巻きに、「私は殺人者じゃない。ビジネスマンだ」と愛人は鷹揚に笑い、ま、テキトーに痛めつけてやれ、と指示して、ミルヤと共に去ってしまう。

でも、コイスティネン、死にそうなのだ。絶対、きっと、死んでしまうのだ。あの少年が、アイラを訪ねてくる。「あの警備員の人の友達?」「まあね」「彼が大変なんだ」息も絶え絶えで口からひと筋の血を流したコイスティネン、その傍らにはあの犬が寄り添っていた。
アイラは彼の横にひざまずいて、顔を寄せる。「お願い。死なないで」こんなシチュエイションでのそんな台詞も、今までどおり、表情を変えずに差し出すように言う。一方のコイスティネンも、きっと死にそうなのに、まるでいつもと同じ顔で、「こんなところでは死なない」と返す。
こんなところでは、ってどういう意味なの。それは、本当に物理的にこの場所ではって意味なのか、それとも人生このままで終わってたまるかという意味なのか。
でも病院に運ぶというのを彼は拒否するし、なんだかこのままここで死んでしまいそうなのだ。だってだって、これは敗者三部作の完結編なんでしょ?
そして、ブラックアウト、ラストクレジット。
ここに光明を見ることは難しい。でも……。

カウリスマキの映画にまだ少々の戸惑いを感じながらも、そして未熟な人生を歩む私は全然判っていないんだろうなと思いつつも、でもこの人の映画が好きだと思う。★★★☆☆


待つ女7ANS/7YEARS
2006年 86分 フランス カラー
監督:ジャン=パスカル・アトゥ 脚本:ジャン=パスカル・アトゥ/ギョーム・ダポルタ/ジル・トラン
撮影:パスカル・プセ 音楽:フランク・ドゥラブル
出演:ヴァレリー・ドンゼッリ/ブリュノ・トデスキーニ/シリル・トロレイ/パブロ・ドゥ・ラ・トーレ/ナディア・カシ

2005/10/16/火 劇場(渋谷シアター・イメージフォーラム)
7年の刑を受けて獄中の身の夫。その夫に毎週会いに行く妻。ほんの5分だけの面会は、まだお互いを求める若い二人にとってはあまりに短すぎた。
ある日、一人の男が面会時間を待って並んでいる妻に声をかけた。車で送っていくと行った。つい、関係を持ってしまった。その男は看守だった。
ズルズルと関係が進むうちに、看守が彼女を抱いているのを、夫も知っていることが明らかになる。それどころか、夫からの指示で、二人の声が録音までされていた。
お互いの思惑が判っていながらそ知らぬふりをして、次第に傷ついていく三人。
思いつめた夫は、ついに自殺未遂を図ってしまう……。

なんかピンク映画にありそうな設定だな、などと思うのはちょっとヘンケン入っているのか、あるいは今の日本には大人の恋愛、つまり大人の生理をちゃんと踏まえた上での恋愛映画があまりないせいなのかも。それこそ、愛ルケぐらいで騒いでいるんだもの、ってワケなんだろうと思う。
だってつまりは同じだもの。愛ルケの夫は牢獄には入っていなくても、妻の身体を愛してやってない状況は同じなんだもの。その場合、やはりそこにはひとつの必然が待っているんであって、しかも本作の設定の場合、それが夫によってお膳立てされたことであり、愛ルケよりもきちんとした愛がそこにはある。
抗えない生理的な(判りやすく言えば不倫の……まさに倫理に反した)愛と、その生理的な愛を自分が満たしてやれないから、与えようとする精神的な愛。
そして人間は精神的な愛にこそ苦しむ。勿論倫理に反した愛にも良心の苦しみはあるけど、のぼりつめているほんのわずかな時間でも、それを忘れていられるんだもの。

だからやはり、昔からフランスは大人の国であり、最近知らず知らずフランス映画をチョイスしてしまうのは、なんとなく日本映画の状態に物足りない部分を感じているのかもしれないな、と思う。
そういえば一時期、フランスもソフィー・マルソーから始まって、シャルロットゲンズブールやロマーヌ・ボーランジェ(彼女はどうしてるの?)が出た頃、少女映画が騒がれた時代もあったけれど、結局ソフィーだってシャルロットだって、大人の女優になってからの方が断然光り輝いているんだし、かの国には大人の女に対する尊敬の念が伝統的にあるのを感じて、なんか、うらやましい。
だって日本は、女の子は若ければ若いほどいいって感じじゃない。少女映画が数多く作られるのは嬉しいけど、その少女女優の大半があっさりと廃棄されてゆく。育てる土壌があまりにも痩せていて。

ま、そんな話はここではどうでもいいんだけれども。ところで本作。夫、ヴァンサンは、どの時点からこの愛のゲームに加担していたんだろう。本当に最初から?
そう思えなくもない。大人しげな看守ジャンに、セクシーな自慢の妻メイテの写真を見せたのは、この男なら自分の手の内に置いておいて、妻を満足させるために利用できる、そう最初から考えていたのかもしれない。
「お前は制服を着たペニスだ」なんていうののしりを後に口走る夫は、あくまで彼を通して自分が妻を満足させているんだ、いや、抱いているんだとまで思っていた……思いたかったのかもしれない。

もしそうならば、本当にウソみたいに上手くいった。見るからに内気なこの看守は彼の妻に本気で恋してしまって、「7年間、一緒に過ごせるんだ」などという台詞までも口にした。
この台詞を予告編で聞いた時、衝撃で、それがこの作品に足を運ぶ動機にもなったんだけれども、この台詞はここだけで吹き飛んでしまって、結局はひと夏ならぬひと冬の情事、って感じで終わってしまったのが残念だったけど。
残念……?一体私は何を期待していたの?泥沼を期待していたわけではないんだけど、でも、なんか思ったよりもスマートに終わったような気はした。

つまり、メイテの夫への愛という基本線は、最後まで崩れることはないんである。その意味では、貞淑な妻とさえ言える。不倫の方に溺れる愛ルケよりも、やはり大人のように思う。
声をかけてきたジャンに身体を許したとしても、あくまでそれは一時の火照りを静めるためだけで、結局最後まで彼女が彼に心を許した、と思える場面はなかった。本当に、一瞬もなかった。
それが物足りない、と言ってしまったら、それこそベタな昼メロ状態になってしまうんだから、別にそれを望んでいるんじゃないんだけど。実にメイテはクールで、夫への愛に揺らぎがなくて、カッコよかったんだけど、このあたりは日本人の浪花節なのかなあ。身体を重ねた男には情も重ねてしまうんじゃないかと思うなんて。なんかホント、演歌の世界よね、そんなイメージ。

メイテは、毎週刑務所に赴いては、汚れ物を預かり、洗濯し、アイロンをかけ、それをまた届ける。そんな日常だった。
洗濯機に入れる前に、夫の洗濯物の匂いをかいだ。ゆっくりと、身体に行き渡るように吸い込んだ。なんとも官能的な描写。
替わりに、夫からプレゼントされた香水を、アイロンの際にふりかける。自分を感じてもらうために。
この香水は、ジャンとの関係にも影響を及ぼしている。ジャンと会う時にその香水をつけようと取り出した時、後ろめたさからか、ビンを流しに落として割ってしまう。
ハッとするメイテだけど、その破片に残った香水を指につけて、首筋にすっと塗るシーンに更にハッとする。この瞬間は夫への操よりも、これから抱かれることだけを彼女が考えていた気がして。

結局は、ジャンの切ない片思いの話だったんじゃないかと思うぐらいなんだよね。演じるシリル・トロレイのいつも今にも泣き出しそうな表情や、女慣れしてそうにない雰囲気にそれを強く感じる。大体、看守が獄中の罪人と友達になるなんていう、言ってしまえば心の弱さや、写真だけで恋に落ちてしまう純粋さはあまりに愚直すぎるよね。
しかも彼は、メイテとヴァンサン両方に、どちらとも決められないほどの愛情と友情を感じていて、彼女との不倫に苦しんでいるというよりも、どっちへの気持ちを優先すべきかって感じなんだもの。
だってメイテへの愛だけを感じていたら、ヴァンサンの指示どおりセックスの時の声を録音しようなんてバカな行為はしないでしょ。「喘がないな」なんて焦ったように言って墓穴を掘ったりして。
実際は、この夫婦の橋渡しをしているだけなのに。それによって二人は、愛の再確認をしてるだけなのに。

シャワー室で一人残っているヴァンサンに、ジャンがもう時間だ、と声をかけるシーンがある。この後、メイテと待ち合わせをしているのだ。
ヴァンサンは、「ヌくまで待てよ。(お前が)フェラしてくれれば、助かるんだけどな」と返す。もちろんジョーク。自分の妻を抱いているであろう(この時点では、少なくとも観客には彼がそれを知っているかどうか判然としない)ジャンに対しての皮肉ともとれるけど、一方で、こんな状況下で友人関係を結べる優しい彼に対しての、お前、オレが好きなんじゃないの?というカラカイにもとれる。そしてそれは、案外外れてもないんじゃないの、と思わせるトコが、コワイんである。
だってそれを言われたジャンの表情が絶妙というか、微妙というか、なんかやりかねない雰囲気があったんだもん。

なんでヴァンサンが牢獄にブチ込まれたのか、明らかにはされないんだよね。ただ、いわゆるウラ社会に手を出していたらしいってことは何となく示される。眠れないという夫のために、もう足を洗ったという昔の仲間からドラッグを調達する妻。そういう、いわゆる闇組織に関わっていたことなんじゃないかと思われるわけ。

それにしてもフランスの刑務所っていうのは、日本のそれに比べて随分と自由なのね。
まあ、日本の刑務所にしても、それこそ映画や何かで見せられるのを鵜呑みにしているだけなんだけどさ。
でも、妻から差し入れられる衣服で生活していて服装は自由みたいだし、いわゆる勤労に従事しているみたいなことも(描かれないだけかもしれないけど)全然なくて、印象としてはただひたすら部屋でウダウダしているだけって感じ。
部屋中に写真がいっぱい飾ってあって、普通に自分の部屋って感じだし、タバコは吸い放題だし(日本の刑務所モノで、こういうの、見たことないけど、タバコってOKなの?)なんか、こんなんで更生出来るのかしらん、と思うぐらい。
看守のジャンがとりあげるのは、妻が差し入れたドラッグぐらいだし。まあそれは当然なんだけど……「取り上げられるよ」とヴァンサンが躊躇した、妻が面会室で生脱ぎした下着はどうだったんだろうか。

メイテとヴァンサンは見た限り30代いったぐらいだし、まだまだ心より身体の結びつきが強いぐらいの夫婦なんである。それは悲しいことなのか、幸せなことなのか、まだ人生に未熟な私には判りようもないことなんだけど。
二人には子供もいないし、というか、彼は7年もの刑期があるから、その刑期をつとめあげるまで子供を作るチャンスがないというのは、この夫婦にとって絶望的な雰囲気を漂わせるのだ。
それをハッキリと示す訳ではない。子供を作る前に捕まってしまった、という台詞は一瞬示されるけれど、一瞬である。

それも、夫の方にだけ、その切実さがある気がしている。妻をつなぎとめるための子供がいないことが、牢獄にいて、彼女を満足させられない彼にとって、本当に本当に不安なことなのだ。二人の愛の証しがないということよりも、妻をつなぎとめる子供という手段がないということこそが、彼にとって辛いことなのだ。
凄い皮肉だな、それって。夫婦の身体の関係が不可能になると、その心をつなぎとめるのが、子供しかないなんて。それって、もし子供がいたとしても、子供にとっても、随分とヒドい話のように思える。
自分の存在価値は、両親のセックスの不満を鎮めるためだけにあるなんてさ!

実は、そんな子供的存在は出てくるんである。しかもさすがフランス映画、子供までもが、性的束縛を匂わせてくる。いや、別にこの子供自体がそこまで自覚している訳ではないんだろうけれど、やはりフランスの本能的な血なんじゃないかと思わせてしまう。
メイテが忙しい隣人夫婦のために、ベビーシッター的なことを引き受けている幼い少年なのね。でもこのジュリアンというコ、この年ながら欲求不満の未亡人……いやいや(でも、状況としてはまさしくそうよね。それこそピンク映画じゃないけど)、夫が牢獄にブチこまれた妻の本能をかぎつけたか、彼女がベビーシッターを辞めてサロンで働こうとすると明らかに不機嫌になり、家に帰りたくない、メイテと一緒に暮らしたいと言い出す。

それは、共働きで、特に遠隔地への出張が多い父親はまるで他人のような状態の彼にとって、いつも側にいてくれるメイテこそが母親のように感じて、つまりはマザー・コンプレックスなのかもしれないんだけど。
なんかね、やっぱりフランス映画のせいなのかもしれないけど(って、私、フランス映画にこだわりすぎなんだけど)こんな幼い男の子なのに、全てを判ってそう言っているんじゃないかっていう雰囲気があるんだよね。メイテとジャンの関係を、たった一度、彼に会っただけで敏感に察知したし。

この爛れた関係に疲れたメイテが、ジュリアンを連れてスキー場にやってくる。そこへジャンが追いかけてくる。異動になった。ヴァンサンが自殺未遂をした。お別れを言いにきた、と言って。
それを横目で見ているジュリアン。ロッヂの一室で二人が何をしているのか、絶対に判っている筈。
何度注意されても止めなかったマッチの火遊び、ロッヂを遠くに見ながら何度もマッチに火をつけ、風にふき消されるシーンが、そのはかないマッチの火に、この少年の大人の女性へのはかない恋心と、まさに火遊びの不倫の関係の終焉を感じずにいられないのだ。これはやっぱり、日本の少年じゃ出来ない芸当なんだよなあ。

しかもこの少年の母親ジャミラも、つまりメイテのこの状態をつぶさに見てきて親身になってきた隣人である彼女も、やっぱりアムールの国の女なんだよね。
ジャミラは、7年も夫が帰ってこない事態になってしまったメイテのことを心配してる。つまり、その間のカラダをどうやって鎮めるのかと心配しているんである。恋人や愛人はいないの、と心配げにメイテに聞いてきたりするんである。
こんなの、日本じゃ青年コミックかそれこそピンク映画でしか成立しない描写なんだけど、そんな場でしか成立しない状況こそ、おかしいんだよな。ああ、フランス映画、いや、フランスみたいに、それこそが自然で正しいことなんだと(正しいなんて言ったら語弊があるけどさ)語れたらいいのに。
いや、その奥ゆかしさの伝統こそ、日本の良さなのだけれど……だからこそ、それが限定的に爆発させる場所が用意されて、独特のカルチャーが生まれる良さがあるんだろうけれど。

と、またまた話が脱線したけれど。隣人のジャミラは、この状況の、牢獄の夫に同情するのではなく、それによって女として日照りを迎えたメイテに同情するんである。
一瞬、いかにもフランスと思うんだけど、考えてみれば当然だよな、と思う。同じ女同士なんだし、女同士だからこそ、いくら愛していても7年の日照りがいかに辛いだろうことが想像出来るってなもんなのだ。
イヤな言い方だけど、7年の日照りの辛さと、7年愛を貫くというのは別問題であり、前者が満たされれば、後者は案外いけちゃうわけなんだよね。それが判っているから、隣人はアッケラカンとそれを彼女に勧めるのだ。夫が帰ってきた時には、すべてが終わって、フツーに幸せが取り戻せると思ってるから。
その点、女はクールで、それをフランスは判ってるからフツーに映画に出来るわけであり、日本は判ってないから、例え映画にしてもピンクになり、妻は夫がいなければ生きていけないと思いたがるのだ。
微妙に間違ってる。女は確かに、愛する人がいなければ生きていけないのかもしれない。でもそれは、あくまで心の問題なんだもの。

でも、結局メイテは、夫が捕まる前の幸せを取り戻すことが出来るのだろうか?それはもしかしたらちょっと……微妙なのかもしれないと思う。思った以上に、“制服を着たペニス”(これもヒドい言い方だけど、夫がそう言ったんだもん)のジャンが彼女の中に入り込んでしまったもんだから。
そりゃあ、あんな泣きそうな顔で迫られたら、ちょっとルール違反だよなあ。それに、ペニス(性器)にこそ心が宿ってほしいと思うのが、女の非現実的なロマンティシズムなんだもの。
メイテは夫とのセックスを妄想(夢想?)しながら、その夫が鏡を覗くと後ろにジャンが立っている、なんていうオソロシイ夢を見たりする。
夫とジャンは本当に対照的。野性的でヤンチャな香りの漂う夫と、頼りなげで母性本能をかきたてるようなジャン。メイテに恋してしまったジャンが、「僕は看守なんだ。やっと言えた」と中学生のような告白をする、その思いつめた表情にグッとこない方が難しい。しかもこの破滅的な状況が彼女の官能に火をつけたことは、否定できないんだもの。

誰からも疑われないように、ジャンとはいつも人気のない路肩に止めた車の中でセックスした。性急に、ロマンチックな雰囲気もなく。
一度、メイテはジャンのアパートメントを突然訪れた。驚くジャンの前で勝手に服を脱ぎ出した。抱いてほしい、と。ジャンは、「やめてくれ。君らしくない。娼婦みたいだ」とおどおどしながらも、キッパリと言う。
ああ、判ってない。こんな小動物のような顔をしながら、結局はコイツも男なのだ。女はその欲望を抑えながら、男がそれを鎮めてくれるのを大人しく待っていなきゃいけないとでも思ってるのか。女が男の部屋を訪ねて抱いてほしいと言うのが、どこが、娼婦みたいなのか。ワッケ判んない。

いや、最後にはこのドンカン男もさすがに判っていたと思うけれど。ヴァンサンが自殺未遂し、紙のような顔色でベッドに横たわっている彼を見舞った後、最後の別れをしに向かったロッヂで、今までにない精神的で官能的なセックスをする。
コトの後、メイテはジャンに、ありがとう、と言うんだもの。そのひと言で全てが収束したんだよなあ。

貞淑さと官能の間を紙一重で揺れるヴァレリー・ドンゼッリの、それが最終的には一人の女の強さに転化して行く女の変化が見事だった。★★★☆☆


松ヶ根乱射事件
2006年 112分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:山下敦弘
撮影:鳶井孝洋 音楽:パスカルズ
出演:新井浩文 山中崇 木村祐一 川越美和 三浦友和 キムラ緑子 烏丸せつこ 西尾まり 安藤玉恵 康すおん 光石研 でんでん

2007/3/20/火 劇場(テアトル新宿)
オフビートの帝王、山下監督。しかし「20代最後の作品」って、まだ20代かよー、若ぇーなー……と嘆息しつつ、しかし今回、ううむ、なんかよく、判んない。オフビートといいつつ、山下監督の作品に判んないと思ったことはついぞなかったんだけど。
冒頭、まことしやかなクレジットが現われる。“職業柄脚色する悪癖はあるけれども、これは実際に聞いた、つまり基本的には実話なのだ”と。少し、緊張する。だってこんなタイトルだし、ひょっとして山下監督らしからぬ、血みどろが繰り広げられるのでは?などと……。

しかし、んなわけないんであった。このクレジットはオチへの加担、というか、伏線、というか。タイトル自体がオチになっているとは!
そりゃ、誰だって「乱射事件」と聞けば、狂人や狂信者による無差別殺人を思い起こすでしょー?でも、乱射、に殺人の意味はないのだよね、確かに。そして、狂人や狂信者がするという定義もないのよね、確かに。
それに思い当たると、この乾いたオチに、なるほどとも思う一方、してやられたとも、どこか皮肉にも、あるいは怖いとも思えてくる。

この松ヶ根、というのは、実際の町なのだろうか。架空の町のような気もする。時代がバブルも真っ只中の90年代初め。出てくる女がソバージュの髪(この響き自体が懐かしい)に、同色同模様の中途半端な丈のタイトスカートのスーツという、いかにも時代ないでたちなんだけど、この町自体はなんかもう、疲れ切っていて、いや、寂れきっていて、既にバブル崩壊を獲得しているような感じ。
冒頭は、見渡す限り真っ白な雪原の上に、この女が仰向けに倒れている場面である。そこへ、小さな男の子が近づく。その身体をゆすってみる。反応がない。胸元から手を差し入れたり、スカートの下から手を入れてみたりする。 その掌にはアイスピックの傷。

主人公、光太郎に電話がかかってくる。母親に起こされて眠い目をこすりながら“現場”へと向かう。まさか、この何も起こる筈のない田舎町で殺人事件が起ころうとは、などと彼が考えていたらしいことは、後に、「死体が目を覚ましたところまでは面白かったんですけどね」などと交番の先輩おまわりさんと話している場面で判る。
そう、この女性、スッカリ死体だと思い込まれて、素っ裸で金属の器具の上に乗せられてる。アンダーヘアーもバッチリ。横から見るとその部分の骨格って盛り上がってるのね、などと妙に感心したりする(何見てんだ)。いやいや、さすがは川越美和である。さすがって、なんだ。

ろくに検死もしないで素っ裸にしちゃうトコからもうオフビートだけど、光太郎がくしゃみしてしまったり、なんか笑いが止まらなくなったり、震えるまぶたを覗き込んで、鼻の下に糸くずを持っていってみたりと、軽い脱力を細かく仕掛けてくる。
それに、これはもう全編そうなんだけど、ワンカットごとじーっと押さえるこの長さは、いかにも山下監督らしい。それが、思わず、あ、まだ続いてる……とか心の中でカウントしちゃうんだけど、その切れ方も絶妙で、そののんびりした間に段々可笑しくなってくるところで、ふっと切れる。これは独特のセンスなんだよなあ。

ところでこの女、どうやら轢き逃げされたらしいんだけど、目覚めた彼女はその時の記憶を全然、語ろうとしないんである。
しかも、持っているものがアヤしすぎる。アイスピックにジッポライターのガスオイル。しかもこの辺の住人ではない。だけど彼女は、詳しい事情を聞こうとする刑事に、「アタシは被害者なんですよお」と逆ギレする始末。
この、甲高いですます調が、ミョーにバブルないでたちと似合ってて、やけにカンに触るんである。あ、この時は病院のベッドの上だから寝巻き姿だけどさ。

結局何も語らないまま彼女が帰っていったのは、男の待つ安宿。宿だったのか。フツーにアパートかと思った。だから二人がその後、行くところがないと言っているのが、なんでかしらんと思っちゃった。理解力がないのは私だけか。
轢き逃げされて、帰ってきた、としれっと言う彼女に、なんじゃそりゃと言いながら意味もなく押し倒す男。「そこじゃない!そうじゃないです、強すぎます」などと、拒否するのかと思ったら、そこで訂正してくるんかい、みたいな、なんか、女の性が微妙に生々しくて、ちょっと笑っちゃう。
でも、このネチネチとしたですます調は、刑事やこの彼に対してだけじゃなく、誰に対してもそうで、かなり滅入る。なぜ恋人の彼に対してですます調を使うんだろー。……なんかこの女も、ちょっと頭弱いんではと思っちゃう。
も、というのは、頭弱い、と思しき人間が次々と出てくるからなんである。
キム兄が演じるこの男は、頭弱い、というよりは頭悪い、という感じだけど。

まあ、その話は後述。主人公の光太郎である。
演じるのは新井浩文。はー、まさか新井浩文が警官のカッコをするとは夢にも思わなんだ。一見、似合うけど、どうにもこうにも違和感。この違和感こそが、キモよね。
彼には双子の兄がいる。しかしこれが、見事なまでに全然似てない。警察官というカタい職業につき、身体つきも大きく、シッカリしている光太郎に対し、兄の光は、実家の畜産を手伝っているとは表向きで、フラフラしてて、実家をついでいる姉夫婦に、というか姉だけに、ぐちぐちと言われているんである。
しかも、光の様子がおかしい。ただでさえフラフラしているヤツだが、店の金に手をつけるわ、友達を騙してカネを借りるわで、何か問題を抱えているようである。
しかも、その騙したモノというのは、金の延べ棒!?
金の延べ棒っつーのも、いかにもアヤしいアイテム。

実は光こそが、あの女を轢き逃げしてしまった犯人だったのよね。
喫茶店で偶然、二人に遭遇してしまう光。女とばっちり目が合ってしまう。女も光の顔を思い出したようである。うろたえてこそこそ逃げ出そうとする光を追って、男、西岡が脅しをかけてくる。公衆トイレで全裸の写真を撮られ、もう、光はその後ずーっとこの二人の言いなりになってしまうんである。
光は、頭が悪くもなく、弱くもないのに。だって、アイスピックとガスオイルで厚い氷を突破しようとしたこのバカップルに比べれば、電動ノコできっちり仕事をする彼が、普通の常識を持っていることは明らか。

でもさ、その作業をする彼を、まるでエサを待つ子犬みたいにじっと見つめているこのカップルってのもね、彼らに光は脅されているハズなのに、しかもこの状況、光は武器も持ってるし全然逃げられるのに、言いなりになって、氷の下にダイビングまでしちゃうんだもん。
引き上げられたバッグの中に入っていたのは大量の金の延べ棒と、スーパーの袋に入った男の生首!
しっかし、カネを出せと脅されてたって、轢いた女はピンピンしてて、彼を訴えるつもりもなく警察を出てきたんだし、全裸の写真がどれほどの恥かってなもんだし、普通に警察に出頭すれば、普通にコイツらが捕まるだけの話だと、落ち着いて考えれば判るのに、つまり光は頭が悪くもなく弱くもないけど、臆病なんだよね。
でもそれは、普通の人間の臆病さなのかもしれない。というのは、一見しっかりした常識人の光太郎との対照が徐々に明らかになってゆき、壊れていくのは光太郎の方だから。

問題はまだある。光と光太郎の父親である。「国吉さんのところに、また戻ってるらしい」ということは、今まで行方不明だったということで、しかも戻ってくるのが家ではないんである。国吉というのは女手ひとつで営んでいる理容店、つまりお父さんはそこのカミさんといい仲、っつーかヒモ状態。まさに髪結いの亭主。
母親よりも娘(光や光太郎の姉ね)の方が、この父親に対してすっごい反発心を持ってて、私はあの人を絶対、許さないから、という意気満々なんである。母親の方はまだちょっと、未練があるらしい感じもする。彼の父親であるボケた義父を、手荒ながらもちゃんと看ているところにもそんな感じが伺われるんである。
しかし、あろうことかこのお父さん、国吉のカミさんの一人娘、春子をはらませてしまった。
鬼畜にも劣る手合いってなもんだが、黙って認知した形になったこのお父さんも、……まあかなりの非常識な人間ではあったけど、この点に関してだけは、ある意味懐の大きな人だったのかもしれない。
それもまた、一見常識人である光太郎との対照が、後に明らかになる形になって、判ることなのだけれど。

ところで、あのバカップルの話に戻ると、首尾よく金の延べ棒を見つけて、光は無罪放免とあいなるのだが、この金の延べ棒がなぜ湖の底にあったのかとか、なぜ一緒に生首が入っていたのかは、一切、明かされない。
あまりにもシュールに投げ出されるばかりである。
この湖の氷を壊すために、アイスピックとライターのガスを用意するってのが、そのあまりにもムチャでアホな発想に呆然とする。
警察は、轢き逃げされた女がアイスピックを持っていたことを不審には思ってたけど、まさかこんなバカな理由だとは思うはずもなく……。

しかもこの延べ棒を、フツーに銀行で換金しようとしちゃう!
身分証明書を、と言われて、西岡は泌尿器科の診察券を差し出し、「入手した時の領収書を」と言われたって、そんなもんあるわけもなく、カウンターに延べ棒の山を乗せて二人、ただただ黙り込むしかないんである。
「やっぱ、あかんの?じゃ、いいや」延べ棒をしまいこむ西岡。あ、アホすぎる……。
銀行のカウンターに座り込むサングラスの女と、コワモテでムチャばかり言う男って、コワすぎるだろー。
しかしそれはただ単に、特に西岡の方は、ホントにアホなだけなんだけど。それに気づいてさえいれば、光だってそんなに怯えずにすんだのに。

二人に提供していた、祖父が以前住んでいた空き家の後片付けをしていた光、そこに換金できずに戻ってきた二人と鉢合わせしてしまう。なんという間の悪い……かくして光はまたしても二人に脅される生活に舞い戻るんである。
それが、ただただ「金の延べ棒を換金できない」ためだなんて、なんとバカな……。
しかもその金を何とかしようと、薪を集めて炉まで作ろうとしちゃう。
で、金を溶かしてどうするのさ……何かもう、考えがとことんアホやな。
アヤしい二人が空き家に住んでいることがこんな狭い町だからバレちゃって、光は家族に、というか姉に詰問される。光太郎も、光と二人が空き家で何かしているのに遭遇してて、様子がおかしいことに気づいてはいた。

光太郎は光にそれとなく聞いてみるんだけど……っていう、兄弟の会話のシーン、このロングカットだけは可笑しさではなく、緊迫感に満ちた長回しである。
ここでの会話から、光が一度、東京に出たことがあることが判る。西岡のことを、その時の友達だと光は説明していたんだけど、「一ヶ月で帰ってきただろ」と光太郎は言う。
……なんかその台詞で、光がこの状況からなんとかもがいて脱出しようとしていたことと、そんな兄を「たった一ヶ月で戻ってきた」という理由だけで軽視している弟、というのが見え隠れするんである。
実際、光は光太郎に対してコンプレックスを持っていた。光太郎の縁談話なぞもあるんだけど、その時、父親が言っていた会話……「コイツ(母親)は、絶対生まれてきたのは光太郎の方が先で、この子が兄なんだ、と言い張っているんですよ」というのを聞いてしまって顔をゆがめているのでも判る。

あ、そうか。この話の方を先にしておこうか。
父親が春子をはらませたことを、息子の責任として、といった具合に光太郎は責めた。
お父さんは国吉のカミさんから、「私が留守の間にしたでしょ!」と言われた時、ただその言葉を飲み込んだだけだった。それを否定せず、言われた春子もまた否定せず、その事実がいわば認定された時は、確かになんてヤツだと思ったけど、息子である光太郎がそんなトンデモお父さんを問い詰めるのも、後から思えばあまりに一方的過ぎたかもしれない。
つまり、光太郎の一方的な責め具合は、なんか、どこか、不自然だったってことなのだ。

そのことを、お父さんは光太郎に問いつめられた時には黙って受け止めていただけだった。
でも、光太郎の彼女とそのお父さんが挨拶に見えた時、いつもは家にいないくせに、つまりは父親面して実に調子よく喋り捲っちゃって、こともあろうに早くに母親を亡くしたこの彼女に、「こう言っちゃなんですけど、お母さんを早くに亡くして、良かったのかもしれませんねえ」なんて暴言を吐いて(それは、だから家事が上手になったってことではあったんだけど)相手家族を呆然とさせ、彼女から「もっとよく、話し合ったほうがいいね」と光太郎は言われちゃったもんだから、光太郎は当然、父親に向かって爆発してしまったのだ。
んだけど……ここで情勢は意外な方向にいくんである。
お父さんは、お前がオレを責められるのかと、お前だって春子とヤッただろうと言うのだ。ええっ!?
いやそれは……何となく予測はついてた。ゲームセンターで春子と遭遇した光太郎は、ホントにお腹の父親はウチのオヤジなのかと問うてみたら、春子はニッコリとして光太郎を指差すもんだから、光太郎は思わずうろたえたのだ。

「誰の子かなんて、判るもんか。あいつが二階で春子に客とらせてるの、知ってたろ」という台詞も、既に裏づけのシーンが示されてる。
そもそも、この春子という女の子、なんか頭が弱そうな雰囲気なんだよね。
ハッキリそうとは言わないけど、まともな受け答えできないし、おじいちゃんに頼まれればすぐアソコ見せちゃうし。しかもその理由が、「アラタマミチヨに似てるっていうから」
理容店に来た客が、「今日、大丈夫?」と国吉のカミさんに聞くと、「じゃ、あと5千円。でも今ああいう状態だから、あんまりムリなことはしないでね」と客を二階に促す。
母親が娘に客をとらせるなんて(しかも5千円で!)、ちょっと判んない娘だから言うこと聞くだろうみたいな感じ?それは更にサイテーだけどさ。
そりゃ、この状況じゃ誰が父親だか判ったもんじゃないだろう。それを光太郎の父親に押しつけたこの国吉のカミさんこそが、最低だったのだ。

父親は、「やっぱりお前は弟だよ」と言う。しっかりしてそうに見えて、常識があるように見えて、そのウラにいくつもの卑劣なことを隠したままの息子に。
全く似てない双子の兄弟。顔も身体つきも性格も。二卵性双生児ということなのだろうけれど。
大柄で考えもしっかりしていると思われていた弟の光太郎、でも、「確かに弟だよ」と喝破されるように、彼は確かにそんなフリをしていたのかもしれない。
警官の制服は、それを隠して武装するには、あまりにも格好のアイテムだ。

で、光太郎が光から話を聞いている場面に戻るけれど、ここは本当にスリリング。カメラは二人の姿が見える少し引いた位置からびたと動かない。ベッドに足を投げ出している光と、その横の椅子に座っている光太郎。その身体の大きさの違いもよく判るから、余計に不安で小さくなっている光の焦りが手にとるように判る。
「コウちゃん、足、出してみて」その足を合わせてみる。そこからしてもう大きさが違う。光は靴のサイズをちょっと、サバ読んでみる。サバ読んだって、明らかに光太郎より小さい。
光太郎の足をダダッ子のように押し返し、暴れる光が光太郎に押さえ込まれるシーン、二人ともホントの本気に見えて、蛍光灯からぶら下がっている紐がその弾みで1回引かれて薄暗くなったりして、それでもカメラはただただ見つめ続ける。
それまでの、カットが長くなればなるほど、ふっと可笑しくなってしまったようなワンシーン・ワンカットと違って、ここはその緊張感を見せる王道のワンシーン・ワンカット。二人の役者が、まさに火花を散らす。
押さえ込まれて、泣き崩れて、光はもうどうしようもなくなって、光太郎に全てを打ち明けることになる。

でも、掘り出された生首に、まあ当然といえば当然なんだけど、光太郎は、これはダメだ、警察に行こう、自首した方がいい、と光にすすめるしかないのね。
光は、そんなのイヤだとうろたえて、あいつらがどんなヤツか知ってるだろうって八つ当たりして、そして、吐く台詞がこうである。
「コウちゃんなら何とかしてくれると思ったのに!」
この兄の台詞は凄く勝手に聞こえるけど、実はその、しっかり見える弟が実はそんな具合に、しっかり見えているだけだ、ということを、父親とは違う角度から喝破しているとも言える。

光はフラフラしてるし、ヘンなカップルに巻き込まれたまま力づくで言うこと聞かされてるし、人に頼った上に責任転嫁するし、ハッキリ言ってどーしよーもないヤツなんだけど、ある意味自分の弱さに真っ直ぐに向きあって、苦悩しているともとれる。かなり、ひいき目に見てあげるとだけど。
あまりにまっすぐにヘタレだから、だんだん可哀想になってきちゃうのだ。そして、自分の中にもそういう部分が、カッコつけて隠しているけどあることも、判ってるから。
でも、人間社会では、光太郎のように自分の弱さや卑怯を隠して生きているヤツの方が評価される。多分、大部分の人間がそうだろう。
それは確かに、他人には迷惑をかけないけど、他人を見下しているのだ。これもまた……大部分の人間がそうかもしれない。
父親や弟はそのことを知っている。感じ取っている。
お前は本当は、最低の人間なのだと。

ある夜更け、派出所に詰めている光太郎は、外に止まったバイクに気づいた。
光だった。
「コウちゃん、オレ、自分で頑張ることにする。今日までありがとな」まるで、死にに行くような台詞。去って行くバイク。
光は、西岡たちがいまだに住み続けている空き家に、バイクのまま突っ込む。今まで言いたかった、胸の中にたまっていたことを吐き出す……けど、しどろもどろで全然、伝わんない。
西岡はゆっくりと立ち上がって、光を容赦なくボコボコにする……が、一瞬、西岡の動きが止まる。ゆっくりと立ち上がる。その胸に、アイスピックが突き立っている。抜こうとする西岡に、「抜いちゃダメ!死んじゃう!」と女が言い、そのまま、じゃあどうすればいいんだ、と手をだらりと両側にぶらさげて立ち尽くすばかりの西岡。
このシークエンスもワンシーン・ワンカットで、なんたってオチがこれだから、あ、またしてもキッチリオフビートに戻ってきた、と脱力しながらも、ふっと緊張感がやわらいでしまう。光のカタルシスは相変わらず解消されないままだけど。

でもこれで、光は吹っ切れた感じがするけどね。逆に光太郎はなんかちょっと……壊れてきちゃうのだ。なんかね、確かに徐々に、おかしくなってはいた。派出所の天井裏を走るネズミにイライラして。何度も仕掛けをかけるけど、捕まらない。イライラがつのる。
ただ、同僚にはその音は聞こえないから、ふと「お前だけに聞こえるんじゃないのか」と彼に言ってみると、もの凄い目で睨まれるのね。絶対にいる、一匹ずつ捕まえてもダメなんだ、元から断たなきゃ、と。

ある日、光太郎はフラリと水道局に現われる。警官のカッコのままだから、何ごとかと思わず焦る職員たち。光太郎はカウンターの上にネズミ駆除用の薬品のタンクをどん、とおいて、これを全ての水道に流したいんだけど、ダムに入れるのならどこからかとか、下水道だったらどこかとか、やけにやけに、よどみなく話すんである。
呆然とする職員。光太郎はやけに落ち着いて見える。饒舌な口調もやけに冷静である。しかし、言っていることがおかしすぎる。水道に薬品を流してしまったら、自分も始め、人間がまず死んでしまうではないか。そんな当たり前のことさえ、頭にのぼらない。ただただ、元から断たなきゃダメなんですよ、とばかり繰り返す。

ただ……この時、ネズミ、という言葉は発しない。だからその台詞が、ネズミのことではなく、本当に、人間そのもののことを言っているようにも確かに聞こえるのだ。自分以外は全員ムダなネズミ。だから、「元から断たなきゃ、ダメ」だと。
そういえば、春子がそろそろ子供が生まれる、という時、光太郎は光の部屋で兄弟二人でベッドに横たわり、天井を見つめながら、ネズミは増える一方だとか、そんなことをつぶやいてた。
結局はそれが、人間の本音なのかもしれない。自分以外は全部ネズミ。オフビートの可笑しさの中に恐ろしい本質が見え隠れする。

でも、そのふと見せた不気味さを振り払うかのように、駅の売店に売られている「本物の金を使っています」とポップが書かれた1個五千円のキーホルダーと、西岡が力任せに必死に金を細かく砕いている後ろ姿とが描かれるんである。
なんというバカバカしさ!あれだけの金の延べ棒の山を換金する方法が、最終的にはこれしかないなんて!
それこそ映画の世界なら、裏の世界で取り引きするとか、闇の業者が引き受けるとかあるだろうけど、結局はこれが現実。ことにこんな田舎町では。いや、こんな田舎町で金の延べ棒と生首が氷の下から出てくること自体が、ギャグだったのかもしれないとさえ思う。

ラスト、光太郎は、静かな派出所の外に出て、誰もいない、静かな冬空に向かって銃を発砲する。一発、二発、三発。
彼の後ろで同僚が、その行為というよりは音の凄さに驚いて、耳をふさいで目を見開いている。撃ち切って、引き金がカチャカチャとカラの音を響かせる。
それを光太郎は、あれ、とばかりにぼんやりと手元を見つめる。そして、ブラックアウト、これが「松ヶ根乱射事件」。

これかよ!と思わず心の中で叫んだまま、呆然とラストクレジットを眺める。
……しかし、正直なトコ、なんかよく判らなくて、その脱力の可笑しさも、今までみたいにスッと入ってきてくれなかった。判りやすさが完成度や面白さではないとは思うけど……。★★★☆☆


祭りの準備
1975年 117分 日本 カラー
監督:黒木和雄 脚本:中島丈博
撮影:鈴木達夫 音楽:松村禎三
出演:江藤潤 馬渕晴子 ハナ肇 浜村純 竹下景子 原田芳雄 石山雄大 杉本美樹 桂木梨江 三戸部スエ 湯沢勉 原知佐子 絵沢萠子 真山知子 阿藤海 森本レオ 斉藤真 芹明香 犬塚弘

2007/6/9/土 東京国立近代美術館フィルムセンター
今ではこういう青春映画が作ることが出来ない要素が、いっぱい詰まってる。
地方と都会の差は現代でも厳然とありはするけれど、やはりネットの普及が情報化社会を一気に拡大させて、ふた昔前ほどには地方であるということにここまでの格差感はなかった。そしてこんな小さな国なのに交通網がまるで迷路のように緻密に張り巡らされて、どこに行くにも格段にスピードアップされたことも大きい。
政治運動によって社会が変わると信じられる時代は恐らくもう二度と現われないだろうし、憧れの聖少女がセックスしたからといって、ゲンメツを感じてこの街から出ようと思うほどの純な男の子が果たして今でもいるだろうか。
そして、東京で騙されてヒロポンを打たれまくって風俗で使われまくって発狂した女の子、などというキャラ設定、しかも彼女が田舎に帰ってきてさながら無邪気な天使のごとく男の慰みものになるだなんて。その間、彼女はまるで幸せそうに笑い続けているだなんて。

そんな、ある意味幸福な映画は、きっともう作れない。それに今の役者の肉体でそれを体現できるとも思えない。
ってことばかり、この今村&黒木監督追悼特集の映画の感想では言っているような気がするけど。でも、その身体自体がコンプレックスやアンビバレンツを持っている力っていうのは、やはり今の役者では絶望的な気がしてならないのだ。

主人公の沖楯男を演じるのは、クレジットで(新人)と記されているのでちょっとビックリした江藤潤。青春映画の秀作と名高いこの作品で抜擢されての役者デビュー。知らなかった。
そして黒木作品の屋台骨、原田芳雄はここでも実に軽妙かつ、野性的で、セクシーで、ちゃらんぽらんで、豪快で、ユーモラスで、もう、原田芳雄!ってな存在感を見せつける。江藤潤を食っちまいそうな勢いなんだけど、他にも印象的な豪華キャストがずらりと揃っているので、江藤潤の青春の悶々が、その強烈な彼らによってかわるがわるあぶり出されるという構図になってる。

その中でも、ちょっと意外でおおっ、と思ったのが竹下景子。いかにも彼女らしい、知的で潔癖で理想に燃えた、セックスには眉をひそめるような優等生な役柄、かと思いきや、後半大バケする。楯男は彼女にホレているのだけれど、それは聖少女としての彼女だったからだろうな、というのは大いに皮肉である。彼女が政治運動をしているリーダーの男とセックスし、その後に楯男に身体を預けたことが、最終的には彼を東京へと押し出す原動力の一つとなるわけである。
竹下景子が脱ぐのか!と目を見開いたが、大映しのおっぱいの後カットが切り替わるし、彼女の顔が映っているシーンでは、見えそで見えないショットなので、あのどアップのおっぱいは吹き替えの疑惑大。うーん、やはりそこは竹下景子だからなのか、と少々ガッカリする。まあ、いいけど。

しかし楯男を縛りつけているのは、なんといってもその母親である。彼女の夫があまりの女好きでちっとも家に帰ってこないもんだから、彼女にとっては楯男だけが生きがいなんである。
しかし息子を溺愛するばかりではない。愛人の所に入り浸り、その愛人が死んでしまうと「他に行くところはないだろ」とチャッカリ帰ってくる夫を、その前の愛人の所に連れて行くという、女の意地を通す強さもあるんである。でもそれは、ここで夫を受け入れてもまた外に女を作って捨てられてしまった時、もうこれ以上はないぐらいミジメな思いをするだろうという、先をつい読んでしまう女の弱さと言った方がいいのかもしれない。

確かに楯男は、表向きは信用金庫に勤めているお堅いサラリーマンなんだけれども、彼の夢はシナリオライターであり、竹下景子扮する涼子にはその夢を打ち明けている。涼子は楯男のシナリオの話を聞きたがるけれど、若者がたくましく生きていく話だとかそんなものばかりを理想的に追い求めるもんだから、この報われない青春に悶々とするばかりの楯男にはどうにもピンとこないんである。だって楯男の周囲には、そんな理想的な若者なんていないんだもん。
「立派な脚本家の、シンドウという人が」という台詞があるのが、オオッと思うわけよね。コレって絶対、新藤兼人のことだよね!と思うと、心躍るわけなんである。
でもその新藤監督が言った言葉「誰でも一本は傑作が書ける」というのがね、今その一本に賭けるべきなのか、シナリオライターとして生きていく一生の方に賭けるべきなのか、みたいに感じて、結構ザンコクな言葉だな、と思うわけ。
だって、傑作が一本だけならば、シナリオライターとしての人生の、せめてクライマックスか後半かにそれを持っていきたいじゃない。その台詞は、どんなに優れたシナリオライターでも、その一生の中にそう何本も傑作を書くことは出来ない、ということを言っているように思うんだもの。

で、話が脱線したけど、愛人が死んで、夫がちゃっかり家に帰ってくるシーン、ケッサクなのは、いや、このシーンというか、その存在自体がケッサクなのが、そのどーしよーもない父親に扮するハナ肇なんである。もう本当にサイッコー。
彼がまだスクリーンに登場する前、彼をめぐって二人の愛人がおっぱいもあらわの(私もおっぱいにこだわりすぎだが)取っ組み合いのケンカして、ノシ子という女の方が勝つのね。とにかく家に留まっていたことがないという、女好きの父親として紹介されるからどんな色男が出てくるのかと思ったら、楯男が負けた愛人から預かった父親の荷物を新しい愛人の元に届けるべく訪ねた先に現われたのが、ウシシと笑ってすき焼きをつつくハナ肇なんだもん!

彼をめぐって二人の愛人があんなおっぱい丸出しの(しつこいって)ケンカしたわけえ?いやまあ……判る気もするようなしないような、するような……。
ホントにこの父親は無神経だからさ、いつでも来いよとばかりに鷹揚に構えてて、ノシ子も気楽に楯男に接するんだけど、当然、楯男の母親にしてみれば面白くないわけで。ノシ子はいつでも来てねと言ったくせに、次に楯男が訪ねると「あんたの母さんが息子に気安くしないでって言うから、もう来ないでね」と掌を返すんである。
なんかまさしく、中間管理職の板ばさみって感じ。楯男はすべからくこんな感じで、町の娼婦と化したタマミに夜這いをかけてもじいちゃんに横取りされて未遂に終わるし、どうにもこうにもナサケナイのよね。

あっ、そうそう、このじいちゃんもキョーレツだったんだよなあ。一見、ザ・じいちゃんって感じで、穏やかに余生を過ごしているように見えたのが、ヒロポンで頭がおかしくなって戻ってきたタマミにいれあげちゃってね。深夜の砂浜、忍んだ楯男が彼女にいざ挑まんとした時、こともあろうに孫を突き飛ばして、タマミに突っ込んじゃうわけ。
おいおいおい!ジーサン!なんかもう……衝撃だよな。こういうのを見ると、ああ、やっぱり男はいくつになっても若い女とセックスしたいんだなって。
楯男の母親が、夫が戻ってきてくれて嬉しい心があったとしても、彼を突き放すしか方法がなく、息子だけを頼りにするのもそりゃムリはないって思う。しかも女房から元愛人に、この人を引き取ってくれないかと言われて、当の本人は、そう言われちゃあなあ、なんてヘラヘラして、しかも元愛人に「まっすぐお前のところに来ようと思ったんだけど、やっぱりそういう訳にもいかないだろ」なんてチョー都合のいいことを抜かす始末なんである。この場面のハナ肇のあまりの軽さには口アングリも通り越して、もうただ苦笑、いや爆笑するしかないんだけど。でも息子にとっては、なぜ母親がせっかく帰ってきた父親にそんな仕打ちをするのか、判らないわけね。

ああっ!じいちゃんの話をしてた筈がいつの間にか脱線しちゃった!いやだから、じいちゃんは、タマミが孕んだ赤ちゃんが自分の子だと主張して彼女の世話を申し出るのだけれど、こんな状態じゃ誰の子か判ったもんじゃない。しかしタマミの母親もチャッカリしたもんで、ヤッカイもんがうまく片付いた、とでもいった風で、体よく押しつけるんである。
しかしタマミは子を産んだ途端正気に戻って(彼女の母親曰く、赤ちゃんとともに毒が出た、ってそんなバカな!)こんなジーサンに付きまとわれることを心底嫌悪するのだ。まあ、タマミの言いようは判らなくはないけど、ヒドいのはチャッカリも度が過ぎるだろってな彼女の母親で、アッサリじいちゃんを遠ざけ、しかもイイとこどりで、あんたの子供なんだからと、じいちゃんに金まで所望するんである。
うー、コワイコワイ。人間っつーのはコワイわなー。そのショックでじいちゃん、首を吊って死んでしまう。じいさんがぶらーりと吊り下がったところを、楯男はその目で見てしまった。

楯男の母親は、この親にしてこの息子だ、と彼ら親子を罵倒するのだけれど、しかしそう言われてはたまらないのが楯男。そりゃそうだ。その流れの末尾には自分自身がいるんだもの。でもそう反駁する楯男に、母親は、アンタはあたしの息子なんだから、そんなことを言ってくれるな!とばかりに迫るのよね。
これがね……何の根拠もなく父親の血を否定して、自分だけの息子なんだから、てな勢いのこの台詞は、ちょっと危ない血の独占欲で、楯男が引くのもそりゃムリないってなもんだわよ。
楯男は前々から東京に出て行きたい夢を母親に言っていたんだけれど、じいちゃんが死に、父親を第二の愛人の元に届け、いよいよ母子二人になってしまうと、母親は以前よりもっと盲目的に、楯男を離そうとしなくなる。一時恋人同士のようになった涼子のことも、「あんなおしゃべりそうな女は好かん」ともう、すっかり姑状態だし。

楯男は涼子のこと、ずっとずっと夢見続けて、マスをかくところを母親に見られてしまうなんていうハズかしい経験さえしてた。しかし突然飛び込んできた涼子は、彼の抱いていたイメージとまるで違って、宿直の彼の元にしのんでくるような、もうすっかりセックスのとりこになってて、しかも彼女の最初のセックスは楯男ではないわけで……。その宿直の日、ボヤをおこしてしまうのだ。宿直室に女を引き入れてそんな事態を招いたことで、楯男は追いつめられる。

で、ここで楯男を大きく後押しするのが、原田芳雄扮する利広“としちゃん”なわけである。彼はタマミの兄であり、もう一人いる兄はいま刑務所に入っている。家の中にある電化製品は全て盗品、といった有り様の、トンでもない泥棒兄弟。
しかも兄が刑務所に入っている間、兄嫁を、その兄の了解の元に弟が抱いているという、奇妙な絆に結ばれたキテレツ兄弟なんである。エロシーンはおっぱいも存分に出して(しつこいな……私の基準はこれだけなのか?)結構ガッツリいってるし、ちょっとしたロマンポルノな雰囲気もあったりして。そういやあ、この叙情的なタイトルの割には、扇情的な音楽をバックにした乱れた筆文字のタイトルバックは、ロマポルっぽさがあったしなあ。

で、その利広、アホなことにウッカリ人を殺しちゃったみたいで、行方不明になってるのね。んで、楯男は東京に出る決心を固めて家を出る。駅で、もうボロボロに汚れた利広に出会う。金を貸してくれ、と言う利広に、戸惑い、心配しながらなけなしの金を差し出す楯男。
なんかね、この時、ちょっとカツアゲされてるみたいな雰囲気を感じたわけ。だって楯男は利広に心酔するあまり、割と彼の言いなりだったところがあるから。でも、楯男が東京に出ると知った利広は、その金を受け取らない。自分はこの土地から出ることが出来ない。こんなことをしでかして追われていても、である。楯男が利広に憧れていたと思っていたのに、実際は逆だったのかもしれないってことが、余計に青春の切なさをかきたてる。

利広は、楯男をホームで見送る。指名手配が出回っているお尋ね者なのに、そんなことはもう忘れてしまったかのように。大量に買ったアンパンをかじりながら、紙袋に入った残りを楯男に差し出す。がんばれ、と。ドアが閉まり、動き出す電車を追いかけながら、利広はバンザイ!を繰り返す。
これがね、旅立つ男の子を女の子がとか、あるいはその逆でも、あると思うのよ。でも男の子、というか、もう成人した、夢を見るにはギリギリの年齢の男の子を、彼が心酔していた年上の大人の男が、でもその男には絶対に出来ないことを、彼がギリギリ叶えてくれるかもしれない、という、その希望と切なさに満ちたホームの、列車を追いかけてのバンザイが、とにかくとにかく、グッとこずにはいられないのよ。

違法の売春宿で女を買ったり、足の悪い障害者の男の子がそんな女たちに蔑まれたりなんていう、結構際どいシーンも満載である。この男の子が仕立て屋さんで、“勝負背広”を楯男に作ってあげてるっていうのが、ホロ苦いんだよなあ。

タイトルの意味を常に考えながら観ていた。祭りは、実際の祭りであるわけではない。そして、東京に旅立つ楯男に、“祭り”が訪れるかどうかも判らないのだ。でも、青春はすべて、訪れるかもしれない、いや、訪れるべきである祭りに向かって、準備している。祭りそのものではなく、その準備がきっと、青春そのもの。そういうことだったのかな、って思う。★★★☆☆


Mayu −ココロの星−
2007年 123分 日本 カラー
監督:松浦雅子 脚本:松浦雅子
撮影:柴主高秀 音楽:西村由紀江
出演:平山あや 塩谷瞬 池内博之 京野ことみ 浅田美代子 三浦友和 若葉竜也 於保佐代子 芦名星 Wooh 安田顕

2007/10/24/水 劇場(新宿バルト9)
難病モノで単純に泣くのはキライだし、と思ってムダにガマンしてたんだけど、やっぱり、ダメだわ、こういうの、涙が止まんなくて。いや、こういうものにはキチンと涙を流しておかなくちゃ。そして考えなくちゃって、色んなこと。
それに、原作者の大原まゆさんが言うように、「主人公の“死”を描かなくても、伝えられることはいっぱいあるということと、今、私が生きている意味のある映画にしてほしい」ってことが、私のこの思いを、言い当ててくれていると思うし、この映画を観て、私が真に思ったことでもあるし、勇気付けられ、生きる素晴らしさを感じたことでもあった。
乳がんじゃないけど、病魔に冒されて突然亡くなってしまった友達のことや、今まさに闘っている父親のことや、色んなことが頭をよぎって、もしかしたらこの物語自体に集中は出来てなかったかもしれない。
でもきっと、そういう作品との出会いは重要だと思う。きちんと向き合うきっかけって、なかなかない。自分は生きたいと、大好きな人に生きてほしいと思うから、そう思う。

乳がんに関しては、最近ようやくその危険性が叫ばれてきたような気がするのはなぜだろうと思っていた。ピンクリボンというのが登場したのもここ数年だし。
乳がんは、習ってるピアノの先生がなってしまったり(幸い初期で場所もよく、ひと月で復帰してきた)私自身がひどい乳腺症持ちで、まりも羊羹のように張ったおっぱいの激痛に歩くのも苦痛だったりして、乳がんではないかと不安だったりした時期もあったもんだから(それ以降、半年に一度は専門外来の検診受けてます)、劇中に出てくるマンモグラフィーの凄まじい痛さも知ってるし、なんか色々と近しい思いを持っている一方で、発症し、闘う凄絶さはホントには知らないし、とも思ってて。

なんかね、乳がんが他のガンと比べて軽視ってわけじゃないけど、そうと受け取られかねないような、世間的にはね、そういう感じがしてたんだよね。それこそピンクリボンが出てくるまでは。たかが乳がん、とまでは言わないけど、そう言いかねない感じっていうか。
以前購読していた映画雑誌で「学校V」の映評を書いてた某ライター(♂)が、「たかが乳がんぐらいで、この母親がこんなに取り乱すのはおかしい」とか書いてて、その時には乳がんのことを特別考えたこともなかったんだけど、もうすっごくムッとして、というかショックで、何、その言い草!?って思って……だってガンだよ!?
ていうか、そんな無神経な原稿をそのまま載せちゃう雑誌側にも失望して、それまで何年も読み続けてきたのに、それ以来やめてしまって、なんか情報誌自体読まなくなってしまった。結局は他人の思想に攻撃を受けるだけなんて意味があるの?とまで思って。それにやっぱりライターは男性が圧倒的に多いし……。

まあそれはここではあまり関係ない話なんだけど……なんかね、思い込みすぎかもしれないけど、その“たかが乳がん”っていう言い方が、本人はそんな意識はないのかもしれないけど、潜在的な“女だけがかかるガンなんか”みたいな気持ちがあるような気がして凄くイヤな気分になったんだよね。それに中年女性が多くかかる病気ということもあって、若い頃にかかるガンが進行が早くて大変になるのと比べられて軽視されているって感じもあったし。
本作のように、ケースは少なくても若い女性がかかるケースもあるし(ことに食生活などの生活習慣が変わってきた現代では、それは凄く多くなってきていると思うし)、ガンなんだから亡くなってしまう人だってたくさんいるのだ。それがなぜか今までは他のがんと差別されてきたような気がする。
だから本作は、闘病生活とか、難病モノで泣かせるとかいうんじゃなくて、その病気と向き合って、世間にひろめた、このまゆという女性を知るべき映画なんだと思ったから、安易に泣いちゃうのが無責任のような気がして何となくガマンしちゃってたのだ。結局号泣したけど。

だからやっぱり、監督、そして脚本までも女性に任せられたことは大きかったと思う。
主人公のまゆがそのしこりに気付いたのは、21歳になったばかりの時。母親が10数年前から卵巣がんに侵されていることもあって、10代のころから婦人科系の病気には神経を払ってきた。しかし乳がんは「20歳前後の患者は統計上0パーセント(劇中の医者曰く)」ということもあり、ノーマークだった。だからまゆはもとより、母親も激しいショックを受ける。
まゆは母親の闘病を見て育ってきて、医者になりたいと思ってたんだけど、医大受験に三度までも阻まれ、諦めたばかりだった。今は広告会社に勤務して数ヶ月がたち、恋人も出来た頃。つい先ごろ、自身の誕生日を中学時代の「星を観る会“ポーラスター(=北極星)”」のメンバー、シンガーを目指すケイ、引きこもりがちのアユミ、豆腐屋のしっかり娘、ミスズに祝ってもらったばかり。その中にはもはや腐れ縁ともいえる元カレのマサキもいた。
壮絶な闘病生活、気持ちがかみ合わなくなる恋人との別れ、そして一方で同じ苦しみを分かち合う患者同士の出会いもあった。そのことが、後にブログを立ち上げ、患者会の発足、運動をしてゆく原動力になる。

やはり映画でその存在を知った、骨髄バンクを立ち上げる力となった神山清子しかり、病気に対して戦う女性(神山清子は息子の病気に対してだが)には、本当に勇気付けられる。この大原まゆ(劇中は竹中まゆ)という女性をこの映画によって知ることが出来たのが嬉しい。北海道の人だったんだね。
そう、乳がんは、あるいはがんは、決してイコール死の病気ではない。決定的な治療法は確立してないにしても、絶対に違うのだ。
まゆの母親が、卵巣がんで余命数ヶ月という宣告を下されてから10数年を生き抜いたという設定が実に効いている。しかもその母親は実にエネルギッシュで、見た目からはとても病人には見えない。それが彼女のこだわりなんだと、娘のまゆは友達に言うんである。

この母親を演じる浅田美代子が最高にカッコいい。彼女がカッコイイなんて意外なんだけど、そこは女優、イメージからガラリと変われるんである。カッコイイっていうのは、突っ張ってるって意味じゃなくて、あくまでそう感じさせないナチュラルさ。
それでも彼女はがんと闘う闘病生活の辛さを誰より判ってるから、娘にその宣告がなされたことに激しく苦しむ。自分があまりにがんにへこたれないから、私の一番大切なものを襲ったんだと、あまりに理不尽に苦しむのだ。
実際、がん治療の描写は壮絶。これまでも映画やドラマでそれを見てきはしたけれど、乳がんという病気を徹底的に知る、という前提での本作でそれに向き合うのと、今まではやはりぜんぜん違う。母親いわく、「赤いアクマ」がまゆに終わりなき嘔吐を繰り返させる。

この赤い抗がん剤の辛さを伝えてくれた人物がもう一人いた。病院で出会った尾崎たまみ(京野ことみ)。病気への不安と、中年以上の患者が多い中での孤独に苦しんでいたまゆを救ってくれた存在。そう、周囲の元気のいいオバチャン患者たちは、「見つけたのはやっぱり彼氏?」などと胸をつかもうとしてくるんだもん。……気分をほぐそうとしてくれているんだろうけれど、まだ強がっている段階だったまゆには辛かった。
たまみさんは、数少ない若い女性患者。夜の待合室で泣いていたまゆに声をかけてくれた。「私と年の近い患者さんがいるって、ずっと気になってたんだ」と。
年が近いといっても、彼女には夫と子供がいるし、割と年上だと思われる。それでも乳がん発症率としては珍しい若さだろうけど、彼女は多分、若くして乳がんになってしまったまゆのショックを思い、声をかけてくれたんだろうな。

思いっきり明るい彼女だけれど、その明るい会話の途中で「泣きたい時は泣いた方がいいよ。泣く材料は売るほどあるんだから」と突然泣き出したりする。ことあるごとにまゆと抱きあって泣いた。誰も見ていない夜の待合室、まるで修学旅行の夜みたいに、警備員から隠れたりして、なんだか楽しかった。
たまみさんは、絶対生還して、この胸に子供を抱くんだ、と言っていた。見舞いにきていた赤ちゃんと優しそうなダンナさんを、まゆも見ていた。赤ちゃんはママとの別れをむずかって、激しく泣いていた。まゆの願いは、がんに冒されてもいつか好きな人の子供を産むことだったから、まぶしくそれを見ていた。

でもね、たまみさんが登場してきた時からイヤな予感がしてたんだよね。なんでか判んないんだけど……彼女は死ぬような、気がしたの。明るいしカワイイし、愛する夫と子供のために生還するんだ、そして患者会を作ってネットワークを広げるんだという意欲に溢れていたのに、死相があったわけじゃないのに、なんか彼女がまゆの前に現われた途端、彼女はきっと死ぬんじゃないかって、思ってた。
だから、まゆが一足早く退院して、赤いアクマの治療に心が折れそうになって、同志である彼女にメールしてすぐに返事がこなかった時……ああ、きた、と思ったのだ。読めたとか、そういう言い方はしたくないけど、翌朝、メールの着信音でまゆが目覚め、「……やった」と言った時、これは絶対、悪い知らせだと思った。案の定だった。彼女の夫からのメール。妻は昨日、永眠しましたと。
こんな辛いことはない。
そして同時に、ほら、乳がんは、決して“たかが”なんかじゃないんだよ!と叫びたい気持ちだった。

この後もまゆは、一緒に患者会の活動をしていた気のいいおばちゃんの死にも直面する。
病院で手術後弱っていたまゆに、リハビリ体操をしようと声をかけてくれた最初の人だった。
その後、まゆは母親も亡くすし、恐らくこれ以降も数々の近しい人たちを亡くしていくんだろう。その度に涙を流し、不安に打ちのめされるんだろう。
普通、若いうちにはなかなか直面することのない、辛い辛い、近しい人との別れ。

そんなもの、一生経験することなく終われれば、どんなにラクだろうと思う。でもそれは、どこかの時点から絶対に経験していかなければいけないことだし、それを経験しないということは、愛する人や親しい人や信じている人や近しい人たちを持たない、持てないということなのだ。そうした人たちの死によって、哀しい思いをする数が多ければ多いほど、ひょっとしたらその人自身の人生は幸せだったのかもしれない、のは、不条理なのかもしれないけど、これぞ人生の滋味というものなんだろうと思う。
だからこそ、若くして死んでしまって、親の死に哀しむことも出来なかった人は、そういう意味でも不幸なのかもしれないと思うのだ。
だから、若くしてかかってしまう病気でも治療法がどんどん見つかってほしい。ガンでもなんでも、科学者や医者たちは治療法を見つけてノーベル賞でも狙って頑張ってほしい。
死ぬなんて考えてもなかったはずの、私の友達を殺した病気を治す方法を見つけてほしい。

まゆは若いから、この先なんでもあると思っていた筈だから、たとえその前に夢だった医大合格を二浪の末に諦めたという経緯があるとはいえ、未来に希望は持っていた筈だから、その視点でもあらゆる苦い思いが、あるいは若い友達との友情が、心に染みるんである。
なんかね、寂しいんだけど、ある程度年を経てしまうと、友達という存在や優先順位はどんどん薄れてしまうんだよ。それは自分自身はそうじゃなくても、相手が仕事についたり夢を追いかけてたり恋人を持ったり家族を持ったりすると、やっぱり何となく、距離が出来てしまうのだ。
それは、仕方のないこと。そしてこっちもそうしたものを抱えてしまえば、相手の事情も判って、そういう条件付き同士での付き合い方というのも生まれてくる。

まゆの場合、その狭間に位置しているから、あつい友情に感動する一方でホロ苦い経験もする。たまみさんみたいに結婚していないから、なんの確約もない恋人の新堂と、今の状態を共有できなくて別れてしまったりする。
最初こそ彼は、「がんになったからといって、何も変わらない。まゆはまゆだ」と言ってくれた。それが嬉しかったし、信じたかった。でも、見舞いに来ても、「思ったより元気そうだ」と言って、それ以外は自分の仕事の話をするぐらいしか出来ない彼との距離は離れてゆく。
彼にしてみれば、“何も変わらない”ことを貫いたともいえるけど、同じ仕事場にいたまゆに、それはただ辛かった。

彼との関係が破綻するのを、両親が最初から見抜いているのも切ない。まゆは病気になったからといって、恋人と別れるなんてそんなカンタンなこと出来ないと言った。見ているこっちも彼女の気持ちは痛いほど判った。ただ……かすかに、両親の言うことも判った。両親の言うとおりになった時、なんだかすごく、心が痛んだ。
ただ、最初から登場してきていたまゆの元カレが、いずれは彼女の側に戻ってくるだろうことは容易に予測できたのだ。それは若干、物語の構成としては安易過ぎる気はしたけれど、でも、長い間そばにいる家族や友人こそが、何があってもまゆのことを判ってくれるように、ずっとまゆを支え続けた元カレが、社会人になってから数ヶ月付き合っただけの恋人より彼女のことを理解していることは自明の理だったのだ。

ま、それでもやっぱり、この元カレとのシークエンスは若干、ありがちな気もしたけれど、表面上カルさを装いながら、常にまゆのそばにいようとする彼=塩谷瞬の絶妙なバランスに泣かされる。ことに彼女のために22歳の誕生日、北極星の一番キレイに見える場所へと友達たちとナビゲートする場面がいい。
帰り道、後部座席で他の友達たちが眠りこけている時、まゆの、「いつか好きな人の子供を産むんだ」という夢を聞いて思わず涙を流す彼に、何泣いてんだよとまゆに突っ込まれても、うるせえよと言うことしか出来ない彼に、なんだか泣いてしまうんだ。
別にまゆは死ぬわけじゃない。この後もしっかとたくましく生きていく、きっとそんなに長生きするのかよ!?ってまで生きていくって信じてるのに、なんか、泣いてしまうんだ……。

でも、この場面、まゆは確かにたくましいけど、でもやっぱり抗がん剤治療の直後の病人だし、「一年後なんて、私にとって本当に未知の世界だよ」という言葉はリアルだし、本当に、判らないんだよ。
それでも、彼の存在がありがたいし、彼は確かにまゆのことをずっと異性の存在として好きだけど、同時に親友と言ってもいいほどの存在で、そういうの、凄くなんかグッとくるんだよね。
何があっても、たとえ彼やまゆがお互い違うパートナーを見つけても、この信頼関係はきっと壊れないんじゃないかと信じられるような。

脇の友人関係もかなりディープである。ことに引きこもり気味で劇中で自殺未遂を二度も繰り返すアユミは、二度目はまゆの闘病中ということもあって、まゆは彼女を張り倒すんだけど、だからといって、がんに比べりゃ引きこもりなんて、という描き方はしていない。
いや、二度目の描写だけならそう感じたかもしれないけど、一度目に、アユミがまゆをまぶしくてうらやましいと言った場面が、そのまゆが病魔というどん底に突き落とされることによって、まゆがあの時アユミに感じていたもどかしさがあぶりだされるのがイイんだよね。
健康だって苦しみは感じているし、健康じゃなくなってそのことに改めて気づくこともあるっていうのが。こっちがガンになったんだ、何甘いこと言ってんだ、っていうんじゃなくてね。

そして、まゆが医者になりたいと思ったのは、お母さんを治したいと思う子供心であって。
今、自分は生還して、母は亡くなってしまって、それは叶わなかったけれど、自身の病を経て彼女は、今度は看護士を目指すんであって!(涙)。
ああ、たくましく生きて行くまゆよ。

入院している方が保険がきくからと、家にいたいに決まっているまゆを病院に戻すしか出来ない家庭事情の辛い選択や、ミスズがまゆに気兼ねしながらもお母さんとなることを報告して喜び合う場面など、心に残るエピソードが数々ある。若者たちの頑張りや夢や苦悩を優しく見守り続けるバーのマスター、ヤスケンの優しげな存在感もイイ。
そして、ラストクレジットを飾るのは、ドリカムの「何度でも」なのだ。
あら、救命の主題歌、ここでも使うの、と思ったら、この曲は、原作者のまゆさんの闘病生活を支えたんだという。
そして今、吉田さんの最愛の人が、病魔によって若い命を散らしたことを思うと、運命の切なさを感じずにはいられないけれど……。
でもきっとこうやって、支え合う絆がリンクしていくんだよね。★★★☆☆


マリッジリング
2007年 99分 日本 カラー
監督:七里圭 脚本:西田直子 七里圭
撮影:高橋哲也 音楽:侘美秀俊
出演:小橋めぐみ 保阪尚希 高橋一生 中村麻美 矢沢心 森絹恵 川瀬陽太 宮田はるな 西尾まり 田口浩正

2007/12/20/木 劇場(銀座シネパトス)
不倫文学の第一人者?渡辺淳一原作の映画化がやけに続いているけど、何だかようやく、現実的な方向に追いついてきたような気がする……なんて言うのは不遜だけれど、でも今の不倫は、誤解を恐れずに言えば、これぐらいの、ある種の“軽さ”があるように思っていたから。

だって、過去二作は不倫の果てに男女、もしくは片一方が死んでしまうほどの重さがあったんだもの。
それは不倫の中に決して相容れないはずの純愛というファクターを持ち込もうとすると、どうしても避けては通れない結末であったように思う。不倫は勿論、そもそも恋愛の中に“純愛”などというものが存在するのだろうかという疑問がわくし、それは双方の、あるいはどちらかの死によってしか完結しないのではないかという、結末。
それでも人は恋愛に美しいものを求めたくて、ファンタジーにするために、結末に死を選ぶ。セカチューが純愛足りえたのは、女の子が死んでしまったからなんだもの。

で、「失楽園」「愛ルケ」はその点、まったきファンタジーだった。まさにありえない、美しきファンタジーだった。大体男女の位置、美しき人妻だの、スランプに陥った作家だのという設定からしてもう、ファンタジーと宣言しているようなものだった。
セックスの絶頂に、まさに愛し合っていると感じている時に死ぬ、不倫の中にかろうじて見つけ出した、純粋の結晶のような純愛の要素は、まさに不倫の純愛のファンタジーを決定付けた「愛のコリーダ」を引きずっているかのようだった。
確かに、あの衝撃の名作はその後の不倫映画に強い影響を及ぼしていると思う……たとえ先に原作があったとしたって。

でも、本作はようやく現実の不倫に戻ってきた、と思った。セックスは絶頂の幸福などではなく、手を出さずにはいられない果実だけどそれを重ねるごとに不安を増していく、禁断の麻薬のようなものだという現実に。
現実の不倫は多分、これぐらいの軽さとこの程度の心の痛みでしかないと思う。なんていったら、真剣に不倫(ヘンな言い回しだな)している人たちに怒られちゃうかもしれないけど、でもそうでなければ、世にそうした例がいくつも見られる説明がつかない。皆が皆、命をかけて不倫しているなんて思えないし。

確かにここには恋愛に特有なときめきもあるし、なんたって不倫なんだから不安も通常の恋愛より少し異質なものは加味されるかもしれない。でもこの現代の不倫の特有の軽さ、浮遊感が、何よりも今までのファンタジー不倫と一線を隔している気がした。
正直、渡辺淳一原作を七里監督が手がけるなんてあまりにも予測の範囲外だったんだけれど、観てみればその点で凄く納得がいく。
常に低く流れ続けている不安感、相手の気持ちも自分の気持ちも掴みきれない浮遊感、現実味のなさ。決して生々しくないセックスシーンが、しかし繰り返し畳み掛けられることによって、セックスで得られる筈の生々しい肉体の感覚が、逆にどんどん失われていく焦燥感。

不倫関係に陥る舞台は、とある会社のとある部署。転任してきたちょっとイイ男の上司と、最近恋人に冷たくされている部下の女性社員。
あまりにもあまりにもありがちな設定。あまりにもありがちだと思うってことは、それだけ世にそうした“ありがちな不倫”がはびこってるってことなのだ。

彼、桑原がこの総務部に転任してきたのは、本部の営業で企画した商品がコケたからだと、口さがない女子社員たちがウワサをしている。実際、彼が妻に「ムリしなくていいわよ」と言われる台詞で、彼が失望をもってこの部署に転任してきたことは一目瞭然なのだ。
その妻というのは、彼と同じ会社で優秀な手腕を発揮した後、独学で税理士の資格をとり、バリバリ働いている女性。だから「あなたが辞めても私の稼ぎでしばらくはやっていけるし」てな台詞が出るんである。彼はさすがに閉口して「そういうこと言うなよ」とポツリと言う。

そして一方、桑原と不倫関係に陥る千波は、冒頭、妥協しまくりとしか思えない友人の結婚話と、「ズルズルと続いている」不倫しているもう一人の友人の話とで、いささかウンザリ気味である。
ことにこの不倫している友人が、その相手が突然「女房と別れたい」と彼女に持ちかけたことで大ゲンカになった話を聞かされると、不快感とギモンをあらわにする。それがなんで嬉しくないの、と。
この友人は、それは奥さんと何かあったからそんなこと言ってくるだけだもの、と憤慨しているんである。そんな友人の気持ちがこの時点の千波には判らない。
そして彼女はそれでも、彼が自分の元に戻ってくるのを待つと言うのだ。それは奥さんと別れて、という意味ではなく、元通りになるということ。彼女は「好きな人と一緒にいたいって思うだけだよ」と言うけれど、千波には理解できない。しかし、そんな千波が、恐らく不倫を軽蔑していた自身が、自分から誘い込む形で上司と関係を持ってしまった。

最初から、気になっていた。いつも目で追っていた。電車の中で、隣の車両に奥さんと思しき女性と一緒にいるところを見かけたりもした。この不思議な距離感。彼女は桑原の左手の薬指に輝くマリッジリングをいつもじっと見つめていた。桑原自身よりも、その指輪が気になってでもいるように。
何よりその時の千波には、心の支えどころがなかった。恋人の佳介は仕事が忙しく会える時間がめっきり減っていて、仕方ないことだと判ってても、彼がそれをフォローしないことが千波のフラストレーションを大きくしていた。それに……単調なデスクワークでしかない仕事にイマイチ情熱を傾けられないのも、原因のひとつだったように思う。
多分その点は、桑原と同じだったというのが、キツイというか。だって佳介は千波にプロポーズすることを目標にしているとはいえ、恐らく仕事にやりがいを持っているからこそ頑張れるんだもの。でも桑原と千波は、ある意味その点で人生から取り残されている。だからこそ響きあったみたいで、なんかそれが、見ていて辛かった。

「好きな人と一緒にいたいって思うだけだよ」千波の友人が発するこの台詞は一見、純愛の切り札のように思えるけれど、それが不倫において成立してしまうのは、やはり今の世だからだと思われる。
私ね、小さい頃、女は結婚しなければいけないものなのかっていうのが、イヤでイヤでしょうがなかった。そりゃ一生一緒にいたい人が現われて結婚するのはステキなことだけど、そういう人が現われることを前提に、そうでなければ生きていけないのか、というのが凄くイヤだったのね。でも親元から離れて生きていく年になったら、世は女が一人で生きていっても差し支えない時代になっていて、心底ホッとした。
私のように考えている女性って、結構いるんじゃないかと思うんだよね。だから世に不倫が横行しているってわけじゃないけど、でも千波の友人が、彼女の目から見たら“ズルズルと続いている不倫”をいわばしれっと続けていられるのは、自分自身のこれからの生活にさして不安がないからじゃないかと思うのだ。

今までの二作はそうじゃなかったから……いわばダブル不倫で、女性の方にはもう夫による生活の基盤があったから、「ズルズル続く不倫」が出来なくて、死による結末を急がなければならなかった。
女性の方に負うものがなければ、多分ズルズルと続いちゃうものなのだと思う。そして千波は、その狭間にいる。確かに恋人はいる。でも彼は今仕事に忙しくて、彼女にかまっていられない。
その寂しさの隙間に入り込んだのが桑原だった。元気のない彼女に声をかけてきたのは彼の方だけれど、バーで酔ったフリして(フリだよなー、あれは)「課長って、いい匂いしますね」なんて言ってカマかけたのは、千波の方だった。

まあ、つーか、いくら元気のない部下を気にかけてても、それだけじゃ二人っきりの食事になんて誘わないよね。しかもあんなオシャレなレストランだのバーだのでさ。
だからこの時点で、彼にだってそういう気持ちはあったのは当然なんだけど。しかも「本当はこういう(オシャレな)場所は苦手」と言ったりして、気を引く気マンマンなんだもん。
で、次のシーンでは勿論?ホテルの一室。「私が、課長とこうなりたかったんです」という台詞は、謝られてミジメになることを恐れる気持ちも含んでただろうけれど、でも本心だと思う。彼女は長らくトキメキから離れていたのだ。

千波が恋人の佳介にゲンメツするシーンで特に印象に残っているのが、彼が寝不足のあまりセックスの途中で力尽きてしまう場面だってのが、生々しいというか、切実というか、ある意味哀しいというか。
佳介とのシーンでは、いつも千波はおいてきぼりにされてはいる。彼女が話した筈の話題も彼は忘れているし、待ち合わせにようやく現われたかと思ったら、仕事の呼び出しがかかって飛んでいっちゃうし。

でもね、それって、恋人の気持ちが離れる原因として、ある意味ほんっとに、陳腐な要素だよね。でも陳腐だということは、それだけ普遍的だってことなのだよね。
気持ちが離れはじめると、肉体の結びつきが途絶えてしまうだけで、更に一気に距離が遠のいてしまう。セックスって実に、気持ちをつなぎとめるのに重要な要素なのだということを……ことに女性にとってはそうなのだということを、千波が桑原へと傾いていく流れではっきりと示す。
浅ましいかもしれないけど、でもそれこそ女性はセックスにこそ恋愛のファンタジーを見い出すんだと思うもの。それを男性が判ってくれていれば、世の不倫は減るかもしれない?

だからつまり、まさに千波はこんな時期にイイ男の課長と出会って、とりあえずセックスしたいと思った訳よね。うう、身もフタもない言い方だけど、でもそうだと思うんだもの。それは身体以上に気持ちが満たされていないのを、ダイレクトに同時に満たしたいと思ったから……疲れている時に、炭水化物が糖になるのを待てず、手っ取り早く甘いものを摂取するみたいに?
でもそれには当然、代償が待っているのだ。気持ちが肉体の飢えより先行してしまうという代償が。もともと女は感情のイキモノ、セックスの飢えさえ、感情の飢えと混同してしまうイキモノなんだもの。

タイトルが示すとおり、桑原のしているマリッジリングが二人の、というか、彼女の気持ちの揺れを鮮やかに表わしている。ことにそれを的確に示しているのが、桑原との(いったんの)別れ、「どうして指輪、外したの。外してほしくなかった。外してほしいって、いつも思ってたけど……」という、まさに矛盾、アンビバレンツ、の場面にあるのだ。
桑原は勿論、千波に本気になったから、彼女がいつも指輪を気にするのを逆に気になっていたから、外したら喜んでくれると単純に考えたんだろうけれど、長年つけ続けている皮膚には指輪の後が白くくっきりと残っていて、指輪をしている時以上に千波を惨めな思いに突き落とす。彼女自身にもそれは予想外だったかもしれない。

ここには、人のものだから奪いたいなどという、通俗的で単純な感情とは全く別のものがある。いやでも……突き詰めて言えばそういうことなのかな。そう思ってしまったことが生じた、ツケなのかな。
だってね、女って、男の人の左手の薬指に指輪を認めると、キャーキャー思う性質って、あるわよ。あれって、何なんだろうね。永遠の愛を奥さんに捧げたんだなあって思うことにキャーと思うことはあると思うんだけど、そんなキャーがステキと思うキャーに……つまり恋愛感情のキャーにつながってしまうのが、女心のヤッカイなところでさ。
劇中、千波が電車の隣の車両に乗っている桑原の左手薬指の指輪、のみならず隣に仲睦まじく並んでいる奥さんを、決して嫉妬ではなく、ほのぼのと眺めている場面なんて、そういう勝手で矛盾した女心を象徴していると思うのよね。ああなりたいと思う気持ちが、彼への恋心になってしまうという。
ということは、不倫の原因って、今まで男のスケベ心だと思っていたけれど(爆)、結局は女の勝手なミーハー心だったのかもしれないよなあ。

千波が桑原との別れを決意する、それは彼が出張から戻ってきて彼女とバーで会う約束をしていた筈が、来れなかった場面に集約している。
彼は、交通事故にあったのだ。その時携帯電話が壊れて、千波に連絡できなかった。
当然といえば当然だけど、彼の奥さんには連絡が行って、千波には連絡が出来ないまま、彼はその日、奥さんに伴われて自宅に帰る。
千波はその後、彼に別れを告げる際、「事故に遭っても、一番に連絡が来ないじゃない」と言った。まさにそれが、恋愛における別れの要因のトップだった。自分が優先順位の一位じゃないってこと。

でもそれは、おかしいんだよね。そもそも不倫なんだから、奥さん、子供、場合によっては奥さんの親戚関係とかも挟まってきて、不倫相手の順位はずっとずっと後の方になる。
そんなの、不倫している友人がいたんだから判ってた筈なのに、でもこの時彼女には別れ切れない恋人がいて、その恋人とは……彼がプロポーズしてきただけあるから、結婚も考えていただろうから、やっぱり優先順位っていうの、気になっていたと思うんだよなあ……。

千波はこの友人にだけは、桑原との関係を打ち明ける。「してみれば案外普通でしょ」と言う友人に思わず苦笑いする。彼女は千波に「なんか、変わった。しっとりした」と言い、ちなみは「何それ」と笑いながらも、ちょっと嬉しそうにも見える。
「してみれば案外普通」だというのは、してみれば、案外と相手の奥さんのことなど考えないものだ、という気持ちが見え隠れする。案外罪悪感がないでしょ、と。実際千波は普通に恋愛しているように見える。いつもと違うスタイリッシュなファッションをしてみたりする。彼に新しい自分を見せたくて。
でもそんな彼女のカッコに、「いつもの森谷さんの方が好きかな」と桑原は言う。森谷さんという呼び方を変えなかったのもそうだけど、こんなところにも破綻を恐れる男の気持ちが見え隠れしていた。

でもやっぱり、普通であるわけではない。桑原との関係は常にセックスでつながってる。いやそれが普通ってことなのだろうか……。
ホテルから千波の部屋へと“昇格”する。残業中の千波に桑原がいきなりキスする場面からもセックスへと発展する。いつでも二人きりになれる場所を探してる。これこそが“罪悪感”ということではなかったのか。

そう、佳介からのプロポーズを、千波は断わってしまうのだ。この場面、ああ、やっちまった……と思わずにはいられなかった。でもそう思う自分に、ちょっといぶかしさも感じちゃった。だって私、女の結婚への義務感に疑問を持っていたんじゃなかったっけ?
でも、この断わった原因が当然桑原の存在にある訳だからと思うと、やっぱりああ、やっちまった……と思ってしまう。

断わられた佳介は呆然として、「千波なら、判ってくれると思ってた。バカだな俺」とつぶやく。立ち去る彼に思わず待ってと声をかける千波に、今更なんだよ、と冷たく突き放す。そりゃそうだよな……。
ホント、バカだよ。女はそれほど懐が深くないし、それに判ってくれるために何の努力もしないなんて、ホントバカだよ。
いつも彼の仕事に帯同している先輩は、それを判ってて心配してた。そう思ってるお前の気持ちを、相手は本当に判ってんのかって。だから彼を仕事の途中で帰らせたりしてくれたのに。
でもあの時、佳介が本当に千波の部屋を訪ねていたら、桑原と同衾している場面に遭遇したんだよな……。そういう修羅場は避けているあたりも、妙にリアリスティック。

奥さんが何も気づかずにっていうのも、ご都合主義にも思えるけど、案外あるのかもしれないと思う。
そのことが、単なるぬるい恋愛関係として成立してしまっている不倫関係の皮肉さを、増幅させているようにも思うのだ。
階段の手すりから下を覗き込むシーンや、長い長いエスカレーターが頻出するのが、この先も続く無間地獄を思わせて、ちょっとゾッとしたりする。

千波を演じる小橋めぐみ嬢は、恐らく近眼気味の猫目が、清廉な中に不思議な色香を漂わせて、萌える。そういうアンビバレンツこそが、不倫のリアリティを漂わせている。
実際、彼らのセックスは、まるで夢の中のように浮遊感のある美しさ。湿っぽさがないというか。
オーヴァーラップを多用した画はファンタジー味を際立たせているし、セックスの手順も、まっとうというか、いや、他人のセックスを見たことあるわけじゃないけど(爆)日常の延長線上にあるって感じが、この主題をより鮮明にしている感じがある。
狭いユニットバスの中で、彼が彼女を後ろから抱き抱える形で一緒にバスタブに入って、とりとめない会話をしているシーンとかさ。

そして保阪尚希は、……彼最近、ストレスのせいか?妙に肌が荒れてる印象があったんでちょっと構えて見ちゃったんだけど、「転任してきたイイ男の課長」に、さすが不可分ない。彼と対比させる形で、田口浩正を配しているのがちょっとした息抜き部分。いや、私は彼とこそ不倫したいけど(爆)。

ホントのホントのラストシーンでは、桑原に別れを告げた筈の千波が、屋上でボールと戯れている桑原の元にやってくるんだよね。
軌道を外れたボールを拾い上げて、彼(カメラ)に向かって意味ありげにニッコリと笑う。
あれは、“ズルズルと続ける”暗示だったのだろうか……。★★★☆☆


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