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「て」


2006年鑑賞作品

手紙
2006年 121分 日本 カラー
監督:生野慈朗 脚本:安倍照雄 清水友佳子
撮影:藤石修 音楽:佐藤直紀
出演:山田孝之 玉山鉄二 沢尻エリカ 吹石一恵 尾上寛之 吹越満 風間杜夫 杉浦直樹 田中要次


2006/11/30/木 劇場(有楽町 丸の内ルーブル)
いやあ……泣いたわ。実はどうかなと思ってたんだ。この監督さんが「どっちがどっち」以来の映画だと言っていたし、それに難しい題材だし。
気になったのは二箇所だけ。被害者のお葬式のシーンでその息子が冷静に挨拶してたのに、ウッとか言ってあまりにも唐突に泣き出すトコと、ケーズデンキの会長が登場するシーンを回想する声のエコーの、一昔前の大映ドラマのよーなわざとらしさ。ってここでいきなりそんな先の展開を書いてもしょうがないのだが。
とにかくクライマックスに泣きに泣いた。それまでの積み重ねがボディーブローのように効いて、もう止まらんかった。

犯罪を加害者の家族側から描くというのは、生易しいことじゃない。傲慢になる可能性がある。それを映画という2時間枠でどう表現するのかなという興味(というより危惧)があった。
それこそ、被害者の側からなら共感も得られやすい。「太陽の傷」のように、過激なまでに徹することだって出来る。あの映画はそれこその挑戦だったんだけど。
でも、これだけ犯罪が頻発している現代、被害者だけではなく加害者の家族になる可能性だって、充分にあるのだ。
でもなぜか、それを考えない。被害者やその家族になってしまうことは恐れても。
それこそが、傲慢なことなのに、それに気づいてない。

という興味は勿論あったんだけど、この映画に足を運んだのは、山田孝之に興味があるからであった。ドラマは殆んどチェック出来てないのであまり見る機会はないんだけど、あのカルめの「電車男」を湿度たっぷりに演じて、あの中谷美紀とタイ張った彼に瞠目させられた。
ドラマのラインナップを見ても重い作品を任されてるし、実際、これほど暗い目をした役者にはそうそうおめにかかれない。ことに現代ではこの人と加瀬亮ぐらいじゃなかろうか。加瀬亮は全身から負のオーラを発する人。そして彼はその目に集中する人。

だから、この役は本当にピタリ。高校生から子供を持つ父親までという、6年間プラスアルファを演じるのは結構大変だと思うし、実際ちょっとムリもあるんだけど、その目力でこなしている。
彼が打ちひしがれている様はあまりに痛々しく、ひょっとすると傲慢になってしまうかもしれない役どころを、巧みに共感する方向へ持っていってる。彼とお兄ちゃんの玉山鉄二の兄弟で、この映画はほぼキマリだ。

一方、ちょっと沢尻エリカは出すぎだよなー。そりゃハズレはないけど、役者として上手く力を分散させられる準キャラを食い荒らしちゃってさあ。他の女優で見るチャンスを潰しまくっている気がする。
山田孝之ののめりこみっぷりを見ると、彼女もこれだけ全てをかける役の映画に絞り込んだ方がいいと思うのだが。まるでバービー人形のような母親役はさすがにムリがあったしな……。

山田孝之演じる直貴と玉山鉄二演じる剛志はたった二人の兄弟だった。親はなく、出来のいい弟の成長が何よりの生きがいだった兄は、精を出して働いた。
しかしそのために腰を痛め、仕事をクビになった。弟の進学費用を手にしたい一心で、少し、正気を失っていたのだろう、彼は人さまの家に侵入し、カネを奪った。
しかし家人に見られてしまい、剪定バサミを持って騒ぎ出そうとするその女性ともみ合っているうちに、彼女の胸にそのハサミが突き立って、絶命してしまった。
そして彼は、「身勝手な理由で人を殺した許すべからざる男」として無期懲役刑を受け、刑務所に入った……。

という、事情なのだけど、冒頭でまず示されるのは、このお兄ちゃんが家に侵入しているトコである。モノクロで、暗く描かれる。
彼は引き出しからカネを取り出し、仏壇にごめんなさい、と拝んでから逃げようとしたところで、ふとキッチンのテーブルの上の甘栗を見る。なぜかそれに目が止まり、それもまた持っていこうとしたところで、見つかった。
その時のことを、面会に行った弟と話す彼。
「直貴が甘栗好きだったからと思って……」
暗い目をした弟は、一瞬の間をおいて言う。
「兄ちゃん、それ、勘違いだよ。甘栗が好きだったのは母さんだよ。よく一緒にむいてあげたじゃない」
「……そっか。勘違いか」
それは、兄弟二人にとって、数少ない親の暖かい思い出だったのかもしれない。

お兄ちゃんは、心優しい。それが全て裏目に出てしまった。でも直貴は、裁判で、お兄ちゃんがとても優しい人間であることを上手く言えなかったらしい。その負い目もあったのかも……。チラリと描写されるだけだけれど。

でもこんな風に、加害者が、弟を思うがゆえに、いわば出来心で、その殺人も偶然に、という風に回想されるのも、都合いいっちゃ、都合いい。世間では、身勝手で残酷な強盗殺人だと報道されているわけだけれど。
実際に人格までも卑劣な犯罪者の家族が、苦しんでいるってこともあるハズだし。
ただ、被害者家族になったことはないけど、私たち一般市民が、犯罪者を100%悪人にしたいと思っているのは事実。そうすることによって、自分たちがイイ人間に定義できるから。そして彼らは勿論、その家族を遠ざける“自己防衛本能”も正当化できるから。

様々な事件の裏には、その時表面上をなぞられた報道だけでは判らない、様々な事実が隠されているに違いないのだけれど、日々の事件の頻発に忙殺されて、そこまで追うことは出来ない。
ああそうか……「カポーティ」の「冷血」はそれをこそついていたんだな。ただ人間はそうやってひとつひとつに真摯になってはいられない。哀しいけど、そうでなければとても生きてはいかれないもの。
だから、カポーティがその後死んでしまったというわけでもないけれど……。

直貴は大学に行くのを諦めて、工場で働き始めた。手紙をやりとりしている兄はそのことに心を痛めるけれども、弟の状況はもっとずっと、大変だった。
殺人者の弟だと、アパートの壁にはヒドい落書きをされ、どこに行っても追い出された。工場の寮に入って少し落ち着いたけれど、自分の兄が殺人者だということをひた隠しにするために、人とは距離をおいて、うつむいて暮らしている。
たった一人、そんな自分を判ってくれる、幼なじみがいた。子供の頃から一緒にお笑いコンビを組んで、スターになる夢を見てた。
彼は最後まで、その姿勢を崩さない。ただ、あまりにも暗い眼をした直貴は、まだその大切さに気づけないでいる。

ある日、直貴は兄の手紙が刑務所からのものだと職場の先輩にバレて、からかわれる。「こんなところにいる奴は、人間のクズだ」兄の犯罪が自分に原因があると思っている直貴はとにかく苦しんでいるから、こんなこと言われてとても黙ってられなくて、殴りかかって乱闘になってしまう。
でも田中要次演じるこの先輩もね、判ってくれる人だったんだよ。彼はその刑務所にいたことがある。だから検閲の刻印に気づいた。こんな自分で妻子が苦労したことを知っているから、いたたまれなかった。今、目の前にいる直貴が妻子と同じような目にあっていることを、他の誰より理解出来る人。

今、この先輩は大検のための勉強をしている。ケンカをした後、直貴の部屋をそっと訪ねて、勉強を教えてくれないかと言う。
スラスラと解く直貴に目を丸くし、「お前、頭いいんだな。なんで大学行かなかったんだ……そっか、兄貴のことでか」
二人して黙ってしまう。
こんな風にね、直貴のことを判ってくれる人はほんの少しだけどいる。決して彼を具体的に助けることは出来なくても、それこそが心の支えだということを、今の直貴は辛すぎて、まだ理解出来ない。

後に、具体的に助けることになる女の子と、直貴はこの職場で出会うのだよね。由美子。最初のうち彼女は直貴に片思いしてて、何かとアプローチしていたんだけど、なにせ直貴はこういう状態だから、受け入れることが出来ない。
「俺の兄貴、カネのために人殺して刑務所入ってんの。俺なんかに関わらない方がいいよ」そう突き放してしまう。
その時は呆然と立ち尽くした由美子だけど、メゲなかった。その後、お笑い芸人を目指して上京した彼を、相方の友人に聞いてバイト先へと訪ねてきた。まるで何も気にしていないような由美子に、直貴はやっぱり冷たい態度しか取れない。

でも直貴、恋をした。芸人への道も着実に進んでいる中、芸人の先輩に引っ張られて参加した合コンで、居心地悪そうにしていた朝美。
直貴のファンだという彼女は、深夜番組にちょこっと出ていた彼のことを、熱心にほめてくれた。有名企業の専務のお嬢さんだということを聞いて直貴は驚くけれども、なぜか今までのように差別される恐怖を予期しなかった。
そんなハイソな人間なら余計に差別するだろうってことぐらい、予想出来たと思うのに、目の前の朝美が、こんな自分のファンだと言ってくれるのが、思いを寄せてくれるのが嬉しかったからなのか。

でも、朝美はまだ、直貴のお兄ちゃんのこと知らないのに。二人で会っている時は、そんなことさえ彼女が理解してくれると思っていたのかなあ。後に、告白して彼女に去られるのが怖かった、とは言うけれど、由美子に対する態度と明らかに違うのだもの。やはり、恋、だからだろうか。
でも、彼女の父親は、表面上は直貴に紳士的に接するものの、朝美に対しては、あんな男はやめろと言う。それは、直貴の兄のことがまだ明らかにならないうちから。
朝美には婚約者がいて、同じように裕福な環境で育った青年だという。つまり、どこの馬の骨とも判らないような男はふさわしくないというのだ。
こんな価値観の父親だから、実際のところが判れば尚更拒否するのは目に見えていた。
だからつまり、犯罪者の身内だから、という理由だけではないのだ。自己防衛本能とか、そういうことでもなく、差別よりもっと悪い区別……見下しているのだ。

しかも、更に悪いことが起こった。せっかく芸人として軌道に乗り始めたのに、ネットの掲示板で兄のことが書き込まれたのだ。
直貴は夢を諦めることを決意する。ちょっと決断が早すぎたようにも思う。だって事務所の社長は、もっと早く言ってくれれば対処の使用があったと言ってくれた。辞めろなんて言ってない、と止めてくれた。決して、この事実に引いて異物を見るようなまなざしはしてなかった。
彼女だって判ってくれる人の一人だったと思うのに、それを直貴は自分から断ち切ってしまったのだ。
そう、この時点ではまだまだ、直貴は判ってない。

後に嫁さんとなる由美子に言われるんだよね。自分だけが不幸みたいな顔をしないで。私だって戦っている、と。
この時は実際運命を共にする家族となったわけだから、その台詞は説得力があり、彼はその言葉にうなだれるのだけれど、ここでも同じことだったと思うんだよね。殺人者の兄がいてメーワクだから追い出した大家や、クビになった会社とは違うんだもん。
確かにヒドイ差別を受けている直貴。でもここではネットという、顔の見えない人たちによる差別。一方、事務所の社長や相方や由美子は、顔の見える場所で直貴を支えようとしているのに。
まだまだまだ、直貴は気づいていないのだ。

それにさあ、直貴ってば、絶対後でバレるのに、相方には朝美と結婚して玉の輿に乗るから辞めるんだとか言うの。
まあ、ホントのことを言ったら、そんなこと気にせずに頑張ろうぜ!とか言われるだろうなと思っての、当座の処置だったんだろうけど、でもホントのことを知った時の相棒の罪悪感を考えなかったのかなあ。
つまりは、この時点でも直貴はまだ逃げている。キレイごとを言って、逃げている。
でも、家族が出来て、その嫁さんがキレイごとを喝破して毅然と立ち向かっちゃったら、もう逃げるわけにはいかないのだ。

というのはまだ先の話。朝美との関係が壊れてから、更にずっと先の話である。
朝美が直貴に手料理を食べさせたいと彼の部屋を訪れている時に、この婚約者が乗り込んで、すべてをぶちまけた。
朝美は、あまりにも取り乱した。そして部屋を飛び出してしまった。
でも彼女、直貴が外に出てくるのを待っていた。呆然と、どうしていいか判らない様子だったけど、彼のことを好きな気持ちは本当だったんだもの。
でも折り悪く、バイクに乗った男が朝美のバッグを引ったくり、その拍子に彼女は地面にたたきつけられた。
病院で、今度は父親から言い渡された。札束を出された。こんなもの、と固辞する直貴に、私は娘の傷を見るたびに君のことを思い出すだろう、と。もう二度と娘には会うなと。
札束をひったくって、出て行く直貴。朝美が作ってくれたスパゲティがすっかり冷め切った部屋でひとしきり荒れて。

しっかしさ、朝美、社長令嬢ではなく、専務令嬢で、あの豪邸なの!?社長ではなく専務にしたことは何か意味があるの?専務であれだけの豪邸……私、こだわりすぎかい?
朝美はいわば、直貴の身勝手によって何も知らされてなかったのだから、突然知ってパニックに陥るのは当然の反応だったわけで。ただ、その後、外で彼のことを待っていた彼女を思うと、彼女がお嬢様じゃなくて、あんな引ったくり事件がなかったら、もしかしたら二人は結ばれていたのかもしれない。
だって、こんな境遇の彼は、そんなことを気にする家族のいない天涯孤独な由美子のような女の子としか結ばれない、と言っているようでさあ……。
由美子は殺人者の弟、というショックを通り抜けてはいるし、本当に直貴のこと、そしてお兄さんのことを心配してちょっとおせっかいなぐらいのことまでやらかしているんだけどさ。
でも、由美子は一歩間違えればストーカーだけどね。彼女があんなに可愛くなかったら、即ストーカーだよ。カワイイ子はなんでも許されてイイな……。

まあ、そんなことはどうでもいいんだけど。ところで相方である。あ、名前は祐輔。コイツがイイ奴でさ。ホントブレなく直貴を心配してくれるんだよね。直貴がいわば勝手に辞めてしまったことも、自分を巻き込みたくなくてそうした彼の気持ちを後に汲んでくれて、一人で頑張ってる。
直貴が祐輔の活躍を喜んでいる様子は、お兄ちゃんが直貴をテレビで見て、やっぱり自慢の弟だと自身が救われているのと似ているような気がする。

さて、直貴は住居も新たに、今度は秋葉原のケーズデンキで働き始める。
あらら、固有名詞出してきたわ、と思ったら、後にキーパーソンとして出てくるケーズデンキの会長が、凄いオイシイ役なんだもん。
直貴は、兄に住所を知らせていない。だから手紙も届かなくなった。それ以前から直貴は、兄に手紙を書かなくなっていた。
そのことを聞いて由美子は心配する。そして直貴の店でパソコンを買ったのは……理由があった。

ケーズデンキでの働きが認められて昇格直前、直貴の働く店で盗難事件が起こる。
内部の犯行だと、身上調査がなされ、兄の存在が明らかになり、直貴は埼玉の倉庫に配置転換になってしまう。
おいおい、ケーズデンキ、名前出しといて、こんな描写されちゃって、いいのお?と思ってたら、ここにあの会長が出てきて、さらっちゃうんである。やけにイイ言葉述べてさ。なるほど、これがなきゃ、固有名詞出してここまで協力しないよな。
ここに会長が出てくるのは、今回の措置に憤慨した由美子が、こっそり会長に手紙を出していたからだった。直貴を真に心配するその手紙に心を打たれて、会長は一人の社員のためにわざわざ足を運んだのだ。

差別されるのは当然だ。人間の自己防衛本能だから、と会長は言う。その台詞に、ヒヤッとする。でもこの会長は、全てを見据えて物を言っている。君が差別されるのが当然というんではなく、それもお兄さんの犯した罪なのだと。
つまり会長も、由美子と同じこと言ってるんだよね。逃げられないことなんだと。イチから始めるしかないんだと。もう、一本の絆は出来ている。これを二本三本と増やしていけばいいんだと。
実際、これほどの深い絆を、平穏に生きているその他大勢である私たちが得られているかといえば、疑問である。
しかも、ひとつではない。コンビの相方も、自身刑務所に入っていて今は大検の勉強をしているかつての先輩も、そして多分、あの事務所の社長だって判ってくれていたんだもの。

由美子に礼を言うために彼女の部屋を訪れた直貴は、なぜかそこに兄からの手紙が届いているのを知る。由美子が直貴のフリをして彼の近況を手紙に書いて送り続けていたのだ。あのパソコンで筆跡がバレないようにして。直貴は兄との縁は切ったのに余計なことをするなと怒る。
でも、由美子は間違ったことはしていない、と言って引かない。余計なことをしたかもしれないけど、間違ったことはしていない、と。
彼女もまた、孤独な思いを抱えて生きてきたから、離れて暮らす父親からの手紙が待ち遠しかったことを覚えていた。
「手紙って、大事やねんで。命よりも大切な時あんねんで」
弟の様子に一つ一つ丁寧に心配している兄からの手紙に目を落とした直貴は、何も言えなくなってしまう。
由美子が直貴を真に思ってくれていることを知った彼は、彼女と所帯を持つことになるんだけど、それでも直貴はまだお兄ちゃんに返事を書けないままでいた。

子供が出来て、穏やかで平和な日々を送っていると思っていた時、不穏な影が襲う。由美子が近所の奥さん連中に避けられているという。子供も遠ざけられていると。
またしても、と直貴は思う。憤って、引っ越そう、と言うと、逆に由美子が怒るのね。でも直貴のように取り乱した怒り方じゃない。冷静に、怒る。
また逃げるの、と。私たちは悪いことなんてしてない。胸を張って、真っ直ぐに生きていくんだと。私はこの子のためになら死ねる。戦えるんだと。
そんな甘いもんじゃないと言い返そうとした直貴の頭に、あの時の会長の言葉がよぎる。
あるはずのない、差別のない国、そこに逃げるんじゃなく、君はここで生きていくんだと。
だから、この回想のエコーかかったオーヴァーラップがね、古くさくて、せっかく気持ちが高まっていたのに、冷めちゃうのよー。

さて、いよいよ号泣のクライマックスである。祐輔から誘われていた千葉の刑務所への慰問の話、断っていた直貴だったけど、受けることにしたんである。
でもね、実はその前に、直貴は兄に、「最後の手紙」として書いていた。実に四年ぶりの手紙を。
それまでひどい差別を受けて暮らしてきたこと、由美子がずっと手紙を書いてくれていたこと、そして今、妻子を守るために、兄貴を捨てる、ごめん、本当にごめん、と繰り返し書いて。
この手紙を書いたことを、由美子は知らない。知っていたらさぞかし怒っただろう。でも今の直貴には彼女の言葉でも、会長の回想でも、まだ、その思いを覆すことは出来なかった。

直貴はその手紙を投函した後、被害者の家族に会いに行った。それまでどうしてもどうしても行けなかった。
もちろん、和やかに迎えられるわけもない。息子さんだけが、在宅していた。彼は妻子に直貴の来訪を知られたくないからと、手土産を断り、「あなたが殺したわけじゃない、だから理由がない」と言ってお焼香さえ拒否した。
ちょっと、彼の気持ちを図りかねた。加害者当人はもちろん、その家族に対してだって拒否反応を示すのは当然だ、確かに拒否反応ではあるんだけど、でも、お焼香を断る言葉に、あれっと思ったのだ。それは……ここにもずっと届き続けていた兄からの手紙にその原因があった。

何度謝られても、事実は消えないし、返事を書く気にも当然なれない。手紙は送ってくれるなと書き送っても、毎月毎月送ってきた。息子さんはその手紙を几帳面にとっておいていた。
「判ったんです。この手紙は彼にとって般若心経だったってことが」
そして、ついこの間、最後の手紙が来たという。最後の手紙……聞き覚えのある響き。
そう、直貴が兄に送った後、それを読んだお兄ちゃんは。この息子さんにも最後の手紙を書き送っていた。
「服役することで罪が償えるんじゃない。こうやって家族が苦しんでいることもお兄さんの罪のうちなんだ」と言った会長の言葉が頭をかすめる。
ひとつの罪によって、罪を犯し続けている。
被害者家族に手紙を送ることも、そのことによって傷つけ続けている。
でも、それ以外どうしようもないことも、お互いに判ってる。だから……。

「もう、終わりにしましょう。6年間、お互いに長かったね」そう、息子さんは言ってくれた。直貴は、うつむいて、嗚咽を漏らした。
許すことなんて、出来っこない。でも目の前の加害者家族が苦しんでいることも、理解出来るほどには落ち着いてきた。
だから、終わりにする、のだ。なかったことにするとまでは言わない。でも終わりにして、この苦しみの連鎖から逃れようと……。

さて、涙腺が開放される用意が整ったところで、直貴が祐輔の誘いに応じて慰問に出かけるクライマックス。
同じ囚人服に、同じ坊主頭のたくさんの男たちから兄を見つけ出そうと、舞台袖から探すんだけど、見つけられないまま舞台に出る二人。
最初のうち、囚人たちの反応は固いんだけど、気分がほぐれてくると、だんだんと笑いも大きくなってくる。二人もノッてくる。
家族のネタになった時、祐輔が「お前の兄貴だって……」と振って、直貴がふと、固まる。その時お兄ちゃんにカットバックされる。お兄ちゃん、身を縮こまらせて、手を合わせていた。

直貴、お兄ちゃんのバカ話で口が滑らかになる。爆笑を取る。そして、そして……「しょうがないですよね。血がつながっているんだから。アニキなんですから」笑顔で言う。
ああもう……号泣。

このシーンもまた、被害者家族にとってはいまいましいものになりかねない場面。しかしそれを山田孝之の真摯な演技で、ここまでこつこつ積み重ねたことによって、彼らにも判ってもらえるんじゃないかというシーンになっている。
弟から捨てられたことを受け入れたお兄ちゃんにとって、その弟が目の前に現われ、「アニキなんですから」を、何度も何度も繰り返す、涙も鼻水も全開に決まってるでしょ!
拝むように、手を合わせながら、周囲の爆笑にまぎれて、顔も上げられずに泣いているお兄ちゃん。周囲が笑っているから、ようやくその姿に気づいた祐輔が直貴をつつく。直貴、多分とっくに見つけてたと思う。お兄ちゃんに届くように、アニキなんですから、を繰り返す。
ああもう、涙。ただただ涙。タオル持ってきてて良かった……すっかりハンカチおばさんさあ。

でね、先述したけど、加害者が100パーセント悪人であってほしいという一般人の願望をエゲツないほどかなえて、皮肉にもイヤな気分にさせてくれちゃったのが、三池監督の「太陽の傷」だったんだけれども、その中にも加害者からの膨大な謝罪の手紙、って出てくるんだよね。でもそれは、監察官の心証を良くするための小細工だったとされるのよ。そして被害者家族は、その手紙を受け取ろうともしなかったと。
そう、実際は、読んでくれることさえ、稀なのかもしれない。そして加害者もそのことは判っているのかもしれない。
般若心経だと言ったのは、そういう意味か。
書くことによって、少しでも罪を犯した自分に救いを求められる……つまり相手のためじゃなくて、自分のためだってことに、お兄ちゃんは気づいて、だから手紙をやめたんだ。

お笑い(笑い)と涙のギャップが好対照で、それもまた非常に泣かされるのよね。
ラスト、待っていた妻子の元に吹っ切れた笑顔で戻ってくる直貴、三人仲良く手をつないで歩いていくのも、泣けるのだ。
そして、ラストに流れる「言葉にできない」のテーマソング。ああ、懐かしい曲なんだけど、「言葉に出来ない」ってのが、手紙と、そして気持ちを言葉に出来ない、の二重にかかってて、上手いなー、と思いつつ、その美しい旋律に更に涙ぼたぼたなんである。はあ、小田さんの透き通った声が、染み入るのだわ。

この深く難しい題材を、きっちり納得させて、迷いなく涙を流させたのは、凄い!★★★★☆


天使の卵
2006年 114分 日本 カラー
監督:冨樫森 脚本:今井雅子
撮影:中澤正行 音楽:大友良英
出演:市原隼人 小西真奈美 沢尻エリカ 戸田恵子 北村想 鈴木一真 甲本雅裕 キムラ緑子 マギー司郎 諏訪太朗 田窪一世 森下能幸 斉藤歩 飯島順子 森田直幸 京俵聖 涼川智恵子 親里嘉次 三浦友和

2006/11/9/月 劇場(東銀座 東劇)
そうよこれよ、恋愛映画はこうでなくっちゃ!もうねー、こないだ観た「ただ、君を愛してる」が不満だったので、快哉をあげたい気分。カットのメリハリ、作った感のない人物の作り込み、バックグラウンドを支える大人の脇役、何より、感情があふれ出る役者の演技。これなのよっ。
それらすべてが、演出の手腕にかかっているんだと思う。富樫監督はハズさないんだもの。今回が初の恋愛映画だけど、まるで以前からその名手であるかのよう。胸をかきむしられて、止まんない!

8つも年上の女性に恋をする。しかもそこには様々な哀しい秘密が隠されていて、様々な哀しい出来事も起こって、幸せな時間はほんの一瞬に過ぎない。いや、ほんの一瞬もなかったかもしれない。
今の時間軸で、彼女はもういないことが告げられている。だから回想していっても、哀しい結果が来ることは判ってる。その上で、彼らの間には決して幸せになれない様々な障壁がある。でもそれらが、切なく美しく、胸を締めつける。

8歳差の恋愛。どの時点の8歳差が、本当の恋愛が出来て、その年齢差も感じずにはいられないかとなると、19と27、一番それがドンピシャにくる。それがどちらにスライドしても、違う意味でのムリが来るだろう。小西真奈美だったら、世の19歳の男子は、誰もが恋しちゃうでしょ。
原作は未読だけど、実際、ヒロインの春妃は、演じる小西真奈美とイメージがピタリなんだという。
んでもって彼女が上手いのは当然なので、この映画の成功の秘訣は、彼女が好きになってしまうほどのピュアな男の子、に誰をキャスティングするか。これにかかってる。

その重責を担った市原君。彼は、台詞回しという点においては決して上手い役者じゃない。だから観ていてハラハラもする。
でも、彼はリリイで見いだされた時から変わらない、得難い純粋さをキープしている。そしてスクリーンとの相性がいい。美男というわけじゃないんだけど、とても絵になる男の子なのだ。
「決して上手いわけではない」という点も、大いにこのキャスティングに成功をもたらした。でも実は彼は凄く上手いんだと思う。ラスト、彼女の絵を描いている時の表情ときたら!ちょっと、鳥肌が立ったもの。

春妃の妹、夏姫は中学校の先生になっている。その彼女が、今はまだ大学に通っているはずの歩太が、道路工事しているのを見つけるところから物語は始まる。彼女は遠慮がちに声をかける。もう随分と長いこと会っていなかった二人。
それが、春妃が死んでしまった時からだ、というのが明らかになるのはもっとずっとずっと後。
夏姫のナレーションがかぶさる。「私に恋をしたあと、歩太君はひとつだけ恋をしました。今も続いているような、たった一つの恋を」
エンピツを研ぐ音がひそやかに重ねられる……。
そして時間が、歩太と夏姫が付き合っていた時まで巻き戻される。

歩太と夏姫は同じ年だし、何の違和感もないさわやかなカップルだった。夏姫はストレートで大学に合格していたけど、美大を目指している歩太は一浪中。そんなコンプレックスを少々感じながらも、二人は上手くいってた、はず。
歩太の母親が切り盛りしている小料理屋でデートしたりもする。店の終わりに母親の恋人がいつものように訪れたりと、少しずつ歩太の家の事情が明らかになる。少々……いやかなり複雑な。
まだ何も知らない夏姫は、「お母さんの恋人?結婚しちゃえばいいのに」と言うと、歩太はちょっと憮然として応える。「今はまだふたまたかけてるからな」

歩太の父親は、精神病院に入院している。もう、10年になる。歩太は頻繁に顔を出している。もうまともな会話も出来ない父親に、今日の出来事を話しかける。出来るだけ普通に、話しかけようとしているように見える。
そんな歩太に、「10年同じ状態が続いたら、もうこの先変わらないですよ」と主治医は残酷な態度をとる。
でも、その主治医が替わった。そのことを知る前に、彼は偶然電車で彼女と乗り合わせた。彼女、歩太が恋する春妃。

言ってみれば、ひと目惚れ。そして運命の恋。だってまさか電車で乗り合わせた相手が父親の主治医だなんて。そして、恋人のお姉さんなんて。
でも、この電車でのシーンは、なんたってここが恋に落ちる場面なんだから、ちょっと過剰なぐらいに歩太の感情と表情に寄り添っているのだけど、また市原君が恋に落ちちゃった少年の顔をバツグンのセンシティブで見せてくれるので、ああ、人が恋に落ちる瞬間をまさしく観てしまったとハチクロじゃないけど)思ってしまうのだ。

ギュウギュウの満員電車の不快感のはずが、あふれる光が差し込む天上の様な雰囲気に変わる。
その光に包まれる春妃の横顔は、歩太が見とれるのもナットクするぐらい、美しい。
帰宅した歩太は、夢中になって彼女のスケッチをする。それぐらい、目に焼きつけていた。夏姫からかかってきた電話に、まるで浮気を見つかった男のようにうろたえるぐらい集中していた。
そしてそのスケッチを見た絵の先生は、「浪人生、恋に走ったか」とズバリと当てた。
彼女が父親の新しい主治医だと判ったのは、そのすぐ後。喜ぶ歩太だけど、哀しい運命が待ち受けていた。

春妃は夏姫から歩太のことを聞いていたこともあり、歩太に親しく接する。「威厳のない医者でごめんね」と言ったりして。
そして春妃が主治医になってから、まるで変化のなかった歩太の父親も反応を見せるようになった。「先生のおかげです」と喜び、そのことで彼女と話せることこそがひどく嬉しそうな、素直な歩太。
ある日歩太は、春妃を遠くからコッソリスケッチして、それを彼女に渡す。「あなたも絵を描くんだ……驚いた。とても上手だわ」あなた“も”というその意味を、歩太はまだ、知らない。
ある雨の日、春妃は外で話せないかと歩太を誘う。待ち合わせをしていた店が閉まっていて、やむなく春妃のマンションへと急ぎ足で向かう二人。春妃が結婚していることを聞かされていた歩太は、「いいんですか、だんなさん」と問うてみると、「今は一人なの」と彼女。
そこに深い深い事情があることを、歩太はまだ、知らない……。

こともあろうに、春妃は夏姫と歩太のことを心配して呼び出したんである。夏姫が歩太の様子がおかしいと思ってる、他に好きな人が出来たんじゃないかと感じている、と。
思わず正直に顔に出た歩太に、「そうなんだ……どんなコ?」と問われ、歩太は思わず絶叫。
「あなた以外に誰がいるんですか!」
思いがけない言葉を言われて、ひどく戸惑う春妃。歩太の方は、壁にかけられている金魚の絵を見つけた。ゴドウとサインされたその絵は、たった一枚春妃の元に残して自殺してしまった、彼女の夫の絵だった。

少しずつ秘密が明らかになる一方で、少しずつ哀しい出来事が増えてくる……。

春妃の勧めで一時帰宅する歩太の父親。主治医が替わったことで、彼は確かに驚異的な回復を見せていた。だって、病院での父親を見てたら、一時帰宅した時の、家族とある程度普通に会話している状態なんて、信じられないじゃない。
豪華にしつらえられた食卓。父親の好物を並べる母親だけど、その顔は複雑な感情のために奇妙に歪んでいる。
「ところで、歩太はいくつになった」そんな台詞が、なんかあまりにも痛くて……。だってそれって、彼が正気を失っていたことを、自分で判ってしまったってことじゃない。
思わず台所に走り込んで、声をあげて泣く母親。
そのすぐ後、父親は飛び降り自殺をしてしまった。

その葬儀に、呆然自失の状態で、春妃が姿を見せた。歩太と母親の前で「すみませんでした!」と手をついた。追って来た病院の同僚が、彼女をムリヤリ引っ立てていく。
病院にとって、自ら過失を認めることは、あり得ないことなのだ。
歩太はもちろん、母親だって、春妃に責任があるなんて思っていない。春妃はでも医者としてだけではなく、こうした事態にヒドイトラウマがあったのだ。
彼女の夫もまた、精神を追いつめられて、自殺していたから。
俺が狂っているんじゃないのなら、世界が狂っているのか、そう言い残して飛び降りたから。彼女の元に、あの金魚の絵だけを残して。

喪服で、呆然とした顔で、長い髪をばさばさに乱してふらついた足取りで入って来る小西真奈美にはハッとさせられる。もちろん美しいのだけど、彼女がこの役に魂から入り込んでいるのが見えた気がして。
実際、この作品の成功は、彼女が春妃に100パーセント身をゆだねたからに他ならない。

病院を無断で休んでいるという春妃の居所を、夏姫に聞き出す歩太。夏姫は久しぶりに呼び出されて、どうやって元気づけようかと思っていたのにと怒りながらも、ここにいるだろうと思われる場所を教えてくれた。それは、春妃の夫が死んだ時にもしばらく身を寄せていたお寺。
ここでの春妃と歩太の邂逅は、その後も激しく感情をぶつけ合う二人の、その幕開けとも言える。
ここでは歩太は彼女の心を開くまでは出来ない。ただ、ぶつかって、彼女を揺さぶるには充分な場面。
自分には何も変えられない、とガッチリと心を閉ざす彼女を必死に追って、腕を掴んでゆすぶって、反動で落ち葉の中に倒れこんで、彼女を押し倒すような形で、
「今のままの俺でいいって言ってくれたじゃないですか!そんなことを言ってくれたのは先生だけだった!」
ああ、なんて真っ直ぐな男の子なんだろう!市原君にピタリで、それだけで胸が熱くなる。

でも彼、それ以上は言うことが出来ないんだけど、落ち葉を背中にいっぱいくっつけて、黒髪をぐしゃぐしゃにして呆然と立ち去っていく春妃は、いや小西真奈美は、凄くきれいなの。
それでなくても彼女、この役にすんごく入り込んでて、この中盤あたりからもう手がつけられないほど(!?)、美しい。
春妃が激しく罪の意識を感じたのは、夫、ゴドウの記憶が甦ったから。

この、残された金魚の絵のみに痕跡を残す、写真すら現われない、名前だけのゴドウという男が強い印象を残す。
妹の夏姫が小学生の時だというんだから、春妃だって20そこそこだったはず。本当に若い時の、激情の恋。
それから何年もたっているのに、彼女は亡き夫の籍から抜けることさえ出来ずにいる。
画家だったからだけど、こんな風に夫のことを苗字で呼ぶ、というのも印象的である。才能ある人としても尊敬していたに違いない。そして一方で、そんな風に距離も感じていたのかもしれない。まだ若かった彼女の苦しいほどの大恋愛、だったことは容易に想像がつく。

ふと思ったけど、そのゴドウに重ねあわされる歩太の父親が、少しだけ正気を取り戻して、すぐに自殺してしまった、というのは、なにがしかの意味を感じるのだ。
父親は家族を愛していたことを思い出した。でも帰ってきたこの家は、もう何年ぶりかで……自分の居場所がないことに本能的に気付いたんじゃないかって。
妻には恋人がいる。もちろんそんなこと言いはしないけど、そういうのって、ちょっと……感じちゃうものじゃないのかなあ。

あのね、後に歩太に春妃は聞くのよ。自分のことを好きだっていうにしても、落ち込んだ彼女を励まそうと凄く献身的なもんだから。父親を亡くしたのは歩太君の方なのに、って。
それに返して歩太がね、「父親のことは、10年間考えましたから」って、明るく言うのだ。だからこの自殺が先生の責任じゃないことも判るし、その死を納得することも出来ると。
でも、彼は人知れず泣いているんだよ。誰も知らないところで、父親が飛び降りた屋上に、火のついたタバコを供えて、泣いているんだよ。
でもね、強いんだ、だから歩太は。
今の時間軸で、春妃を亡くして4年間も絵を描くことが出来なくなっていても、彼が強いことは、ちゃんともう、明らかになっているんだ。

とりあえずマンションには戻ってきた春妃の元に、歩太は両手いっぱいの食材を用意して乗り込む。
彼が小料理屋を営む母親を手伝って料理が得意なのは、もう事前に示されているから、彼がしようとしていることが判る。単純なことだけど、おいしい料理は心を溶かすんだもの。
膝を抱えて部屋の隅にうずくまっていた春妃だけれど、あまりにも楽しそうに料理を作っている彼、美味しそうな香りも気になったのか、そろそろと出てくる。
小さな丸テーブルが、まるでクリスマスか誕生日みたいな華やかな食卓になっている。

「どうぞ!」満面の笑顔で、椅子をすすめる歩太。彼女は言われるがまま座り、目の前のスープをひと口すする。
「おいしい……」眉の間にシワが出来る。なぜ、悲しい時に美味しいものを食べて心が溶かされると、泣いてしまうんだろう。ホッとしてしまう。迷子になったところをお母さんに見つけてもらった子供みたいに。
そんな春妃に、凄く凄く嬉しそうな歩太の笑顔がたまらないの。ああ、こういうところが、この市原君の素晴らしいところなのだ。こんな笑顔、ちょっと作れないよ。
「美味しいものを食べれば、元気が出る」なんてあまりに単純な考えで、でもストレートなてらいのなさが、全然シャレてもいないけど、だからこそ響くのだ。それが彼の中から出てきたっていうのが、ひどく納得するんだよなあ。
しかも彼女がちょっと目を離したすきに、スッと去ってしまうあたりもイイのよね。小鳥の巣のスケッチの上に、小さな擬卵を載せて、ささやかなメッセージを残して。
もう、このあたりでは彼女は既に、歩太を好きになりかけている。
そして次のシークエンスでそれが決定的になる。

歩太はある日、母親と恋人のラブシーンを見てしまって、いたたまれなくなって、春妃の元に駆け込むのね。まるで捨てられた子犬のような顔をして。
母親は自分にとって、どこまでも母親、そう思ってしまうのがどうしようもない、と肩を落とす歩太を、この時ばかりは年上らしくアドヴァイスしてやる春妃。
そこへ、春妃にしつこく言い寄っている同僚の医者が、酔っ払って訪ねてきた。エリート意識をハナにかけてて、春妃が嫌がっているのも気づかずに、傲慢な態度をとるイヤなヤツで、歩太とも面識があった。というか、歩太の春妃に対する気持ちにも気づいていた。
酔った勢いで春妃に暴力的に言い寄るコイツに、たまらず歩太は飛び出し、後ろ手で春妃をかばう。
「またお前か」驚きと侮蔑の表情を入り混じらせて、汚い言葉を吐く男を殴りつける歩太。
その後ろで震えている春妃。

男が去った後、大事な右手をケガした歩太の手当てをしながら、春妃はずっとうつむいている。何かを我慢しているように、かみしめているように。そして、ついに、搾り出すように言うのだ!

「夏姫が歩太君を好きになったの、判っちゃった」

この時の、もう言わずにはいられない、という春妃、いや小西真奈美の表情ときたら、ザワザワザワッ!と鳥肌が頭のてっぺんまで上がってきてしまう。
それが完全に決壊を呼んでしまった。せきを切ったように、二人かき抱き合い、性急に求め合うキス!
ああ、これなのよ、恋愛映画とは、この目に見えるほどの感情の激流がなくちゃ、ダメなのよっ!もう胸が締めつけられて動悸が激しくなって、ここで死んじゃいそう。
この、どんなにきつく相手を抱きしめ、お互い抱きしめ合っても、その隙間が埋まらないよ、ってほどの、腕を何度も組み直すのが、思い合っていると判ったのに、二人を阻む色んなことがよぎって、やるせなくて、そんな想いを凄い感じるのね。
想い、なんだなあ。恋愛映画のキモは言葉じゃなく、説明じゃなく、それをどこまで見てるだけで感じさせるかなんだ。

歩太は、生まれたままの春妃が描きたい、と言った。一度見たら絶対に忘れない、と。そして二人は結ばれる。
もう歩太にとって、全てが春妃で満たされている。絵も、彼自身も。
歩太は見せたい場所がある、と言って春妃を連れて行く。そこは街が一望できる小さな建物の屋上。うわあ、と彼女は声をあげる。二人、天上に浮かんでいるみたいなんだ。
春妃はポケットから、歩太がくれたあの小さな卵を取り出す。
「それ、擬卵なんだ。ニセモノの卵。でも春妃が温めたら、何か別のものが生まれそう」
「何が?」
「んー……天使!」
「歩太君、そういうこと言うんだ」
幸せな二人の時間、でも……。

「私たち、もう会わない方がいいと思う」春妃がそう口にする。無理もない。だって夏姫のことがある。現実的に考えても、これから未来が開ける歩太に8つも年上の自分が、という思いもあっただろうと思う。
当然、歩太は激しく抵抗するのね。「もう絶対に離さない!」そう言って、彼女を後ろから抱きしめる。
ああ……これは女子の永遠の憧れなのよね。後ろから抱きしめられる、これがさ。彼は、さして背が高くないんだけど、それが返って、彼の吐息を耳のすぐそこで感じそうで、グッとくるんだ。
もう一度チャンスをくれ、と歩太は言った。今はまだ浪人生の自分には、確かに何の展望もない。美大を合格したら、もう一度申し込みに来る、と。

いくばくかの時が流れる。春妃は笑顔で病院に復帰している。ふと気配を感じる。歩太が立っている。満面の笑みで。
「ということは……」春妃は駆け寄る。まるで彼女こそがその結果を待っていたかのように、いや、そうなんだ、もう何の邪気もなく、二人抱きあい、いや歩太が彼女を抱きしめ上げ、くるくると回る。
そして、結ばれる二人。彼女の小さなホクロにニッコリと笑って、キスを繰り返す歩太。そういえば、彼にも似たような場所にチャーミングなホクロがある。なんだかちょっとドキドキ。エロくなる手前で、しかしイイ感じにキッチリとそのシーンを描く。このあたりのセンスとバランスもバツグン。

でも、夏姫の問題は、まだ解決されていなかった。夏姫はまだ、歩太が春妃のことを好きだということを知らなかった。ある日、夏姫は歩太に手編みのセーターをプレゼントした。久しぶりに彼に会う理由のために、懸命に編んだに違いない。
夏姫が請うキスに、つい唇を重ねてしまった歩太だけど、一瞬で身を離し、セーターを脱ぎ、もらえない、と言う。他に好きな人が出来たんだ、と。
「好きな相手じゃなくても、キスできるんだ」夏姫は泣き顔になる。「このセーターが似合うのは、歩太君だけだよ!」そう言って泣きながら走り去る……。

更に!歩太が春妃の部屋にいるところに、夏姫が、訪ねてきちゃうのだ。ううー、何ということだ。春妃の部屋に歩太がいるのみならず、彼ったら上半身ハダカなんだもん。この事態は言いつくろいようがない。
「ウソツキ!」そう言って、飛び出して行ってしまう夏姫。春妃は力なくへたり込む。歩太に抱きすくめられても、もうその呆然とした表情が、……いやー……小西真奈美はすばらしい女優だね。
夏姫にはいつか言わなくちゃいけなかった。でも二人が幸せになることだけを考えよう、と上半身ハダカの歩太に、またしても後ろから抱きしめられるのじゃー!
まだ年若い男の子のハダカの、ちょっとなまっちろい頼りなさが切なくて……いくらいくら、ぎゅっとすがりついても、なんだか不安で……。

ここから、ウソみたいに事態が急展開する。
苦しげに下腹部を抑えて倒れる春妃。あわただしく病院へと運び込まれる。ショック状態で一刻を争そうと言われる。母体と赤ちゃんの両方がキケンだと。……えっ!?
うわごとで、夏姫を呼ぶ春妃。許しを請うて……夏姫は、「絶対に歩太君を連れてくるから!」そう言って飛び出していく。
探し回る夏姫。見つからない。そして彼女の携帯が鳴る。イヤな予感がする。出たとたん、静寂が包む。ああ、やっぱりだ……そして歩太を見つけた彼女、すがりつくなり、「今、お姉ちゃんが、死んじゃった!」
慌てて病院に駆けつける歩太。もう息をしていない春妃を、呆然と抱きしめ、ただ、泣き続けた……。

この時から歩太の時は止まっていて、そして冒頭へと帰ってくるんである。
四年もの間、歩太は絵を描けずにいた。だってたった一人の人しか描けないから。
夏姫は歩太に描いてほしいと思った。歩太との恋の後、恋をいくつかしたけど、薄っぺらなものばかりだった。彼女にとって歩太は、やっぱり大事な人に違いない。何より、大好きなお姉ちゃんが共に、その中に生きている人なんだもの。
歩太が春妃を追いかけていったあの時みたいに、山の中のお寺にこもっている歩太を見つけ出す夏姫。

「私、あの数日前おねえちゃんを見たんだ。桜色の毛糸を選んでた。今まで見たことないぐらい、穏やかで、幸せそうだった。天使みたいだった」

歩太は、思い出す。死んでしまった春妃の手に握られていた擬卵が、桜色の毛糸で編んだ小さな靴下に守られていたこと。
彼の頭の中に、夏姫の話してくれた春妃のイメージが浮かんでくる。
「ようやく描きたい春妃をつかまえた!」
突然衝動に突き動かされるように、四年ぶりに筆を握る歩太。
これがね、この時の、愛する春妃を再びこの手にした、歩太の、いや市原君の顔が、もうさあ……出来上がる絵を見るまでもなく、涙がこぼれる。なんという表情をするの、市原君!
カメラに吸い付くように彼に肉薄するのも判るよ。この表情をとらえただけで、もうこの映画の全てが成功したかのような、春妃への思いを完璧に表わす素晴らしい横顔をするんだもん!
こんなに、人を好きになった幸福を思わせてくれる横顔は、今まで観た覚えがない。

そして、歩太のおかげで夏姫もまた、再び大好きなお姉ちゃんに出会えた。その手の中にきっと桜色の毛糸を持っている、穏やかで柔らかな光に満ちた春妃の絵、「天使の卵」と名付けられたその絵がしずしずとラストに掲げられると、切ないけど、哀しさではなく、幸福な涙がただただ止まらない。

それにしても最近、登場人物が死ぬことを感動のキーポイントにしている日本映画の多いこと。まるでそれが純愛映画の条件みたいに。
ただ、本作の死は、もう最初から提示されている。つまり、死がオチになっているのではなく、そこから派生する喪失感を前提として、彼らの恋を語っていく。
しかもその回想型の中にも、更に違う死がいくつも用意されている。見える死、見えない死、残された者たちの複雑な思い。

死がただ単にそれだけの意味ではなく、非常に重層的に語られ、彼らの恋がそれらの上に成り立っていることが、非常に深いのね。
歩太の父親がいなければ、二人は出会わなかった。そしてその父親が死ななければ、春妃は自分の伴侶の死を思い出すこともなかったし、恐らく、彼と恋に落ちることもなかったかもしれない。
そして彼女自身とその中の「天使」が去ることが、更に重要な意味を持つ。
それは失われたのではなく、生きている人間によって永遠の命へと昇華するのだということが、提示されるから。
それまでいくつも用意されている死もそうだということが、これまで積み重ねてきたことによって、説得力を持つから。

それは、決して過去にとらわれることではない。愛した人と向きあうことによって、初めて前へ歩いてゆける。
それがきっと、人生のきらめきだから。★★★★☆</font>


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