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「ひ」


2007年鑑賞作品

眉山
2007年 120分 日本 カラー
監督:犬童一心 脚本:山室有紀子
撮影:蔦井孝洋 音楽:大島ミチル
出演:松嶋菜々子 大沢たかお 宮本信子 山田辰夫 永島敏行 金子賢 本田博太郎 夏八木勲


2007/5/24/木 劇場(有楽町日劇2)
主演の松嶋菜々子に関しては、ファーストインプレッションの違和感をあまりにもひきずっていて、苦手な女優さんだった。
私ってホント単純だと思うんだけど、彼女のデビュー作である朝ドラの役柄の単純さがどうしても許せなくて、それが演じる彼女自身の印象の悪さにまで発展してしまったのだった。
しかもその後、その役柄同様にすんなりとスター街道にのって売れっ子になってしまったのも、私のひねくれた思いをそのまま持ち越させる結果になってしまった。
もともとドラマは見ないたちなので、めったに映画に出てこない彼女の女優としての資質を見直すこともなかった。

それが、香川照之が自身の本でベタ褒めしているのを読んだだけで、そんなガンコな長年の気持ちが懐柔されるんだから、私もなんとゆー、イイカゲンで単純な性格であろうか。
今回彼女を起用した理由を犬童監督は、演技力があることと、映画を当てるために人気のある女優を登用することという理由だと語っていたけれど、撮影現場、毎日毎日きっちりといつでも美しい松嶋菜々子でいることに、「ああ、やっぱり松嶋菜々子、キレイだな」と毎日見とれていたという。なるほど、それも香川照之が絶賛していたことと重なる。ブレることなくいつも調子をマックスに持っていけるというプロ意識の高さ、というものだろうか。

そして宮本信子。10年ぶりの映画出演だという。
10年たってようやく、あの衝撃の伊丹監督の最期から、伊丹ヒロインとしての彼女に話を聞けたりアプローチできたりするようになった。あの時以来、映画には出ずとも彼女は女優の活動は一切休止せずにやってきたし、一見して落ち込んでいる風には見えなかったけど、やはり映画に出る気は起こらなかったんだ、ということを今更ながら知り、心が痛む。
これまで、多くの映画人がアプローチしたのかもしれない。それが今回、犬童監督作品によって叶えられた。監督が言っていた、たくさんの映画人が宮本さんに出てほしいと思っているという言葉を口にすることは、それを突き破った者による、ある種の特権である。
でも、本当にそう思う。久しぶりってこともあるけど、そしてそんな彼女を演じたいと思わせた役柄ってこともあるけど、凄い。まだ前半戦終わったばかりだけど、今年の女優賞は彼女ではないかと思う。

低く、ゆるやかな、丘の様な山、眉山。それがタイトルであり、宮本信子演じる龍子が生きていこうと選んだ土地でもあった。
それは、愛する人との思い出の場所。愛する人の故郷。決して結ばれない人。
つまり、家庭のある人と恋に落ちた。彼は真剣に愛してくれたけれども、結局、というか、やはり、というべきか、奥さんの元へ戻っていった。
物語はその娘、咲子が東京の旅行代理店でバリバリ働いている場面から始まる。
女一人生きていくための東京という場所で、何も怖いことなんかない、とばかりに後輩の男の子にビッシビシ厳しい指示を飛ばし、そして誰よりも遅くまで残業して、その背中を見せる。
そんな彼女の携帯に、ふるさとから電話がかかってきた。
母が入院したのだと。

咲子は、母の龍子が店をたたんでケアハウスに入った時も、何ひとつ相談されなかったことを憤っていた。そしてまた今回も、である。
しかも医者から告げられたのは、もはや手術も出来ない状態の、末期ガンだというんである。
母の身内は、私一人……。自分ひとりで受け止めなければいけない、悲しさのみならず、ある種の苛立たしさ。
ずっと母一人子一人、しかも女同士、女としてどこか反発する気持ちも抱きながら育ってきた。そして今、たった一人になってしまう心細さを感じたこともあるだろう、どこか八つ当たり気味にこんな言葉を口走ってしまう。
「お母さん、私なんか必要ないんでしょ」

と、思わせるぐらい、たしかにこの神田のお龍さん、あまりにもビシッとしっかりしているのだ。
劇中医者が何度も、「気丈な方ですからそうは見えませんが、相当辛いはずです」と言う。本当は個室でなければいけない病状なのに、「公平にしてくれ」と四人部屋に留まり、同室の中年女性たちにはすっかり慕われている。いや、街でも相当の有名人らしいし、もう街中の人に慕われていると言ってもいいかもしれない。
彼女がナマイキな看護婦や失言をした医者にビシッとタンカを切る場面の、緩急のつけたカッコよさときたら、ないんである。
咲子は、「ベッドが空くまでガマンするってどういうことですか」とただ憤りのままにくってかかるしか出来ないんだけど、そんな娘を冷静に制して、私たち患者はここに命を預けるしかない、どうかこの年寄りを平等に扱っておくんなさい、と頭を下げるのだ。

そんなお竜さんの最後の願いは、最後であろう阿波踊りをこの目に焼き付けること。
そしてそれは、もう20数年会っていない、恋しい人も同じ思いだった。

神田のお龍さんと呼ばれているぐらいだし、生っ粋の江戸っ子としてみんなに認められもしている。弟分が語る数々の武勇伝も印象的である。ヒットを飛ばして天狗になった新人歌手を一喝して店から追い出したエピソードとか、爽快である。
でもそうなるまでには、一体どれだけの苦労があったことか。誰も知った人のいなかったはずの土地によそ者として入ってきて。
それは、この病室でのお竜さんの様子だけで、もういろいろと伺われる部分があるんだよね。
お龍さんの世話をしているのは賢一の嫁さん。山田辰夫演じる賢一は龍子姉さん、と呼んでいるから最初のうち本当に弟かと思ったけど、思えばお龍さんは江戸っ子で、単身恋人のふるさとに乗り込んできたわけだし、誰も知己はいないはずなんだよね。つまり、弟分、そしてその嫁さんがお龍さんの身の回りの世話をしているんだけど、まるで屈託のない間柄で、まるで姉妹のようである。
そんな、いわば遠い関係の人にもこれだけ慕われて、逆に言えばこれだけ身体を預けられるだけの信頼関係があるって、凄い。

好きな男のふるさとを、自分のふるさとにすること。
でも、その心のうちには、彼がふるさとに、つまり自分に帰ってくるんじゃないかという一縷の望みがあった、かもしれない。
でも男は30年、ふるさとに帰らなかった。阿波踊りをも30年以上観ていません、と彼は言ったもの。
なんだかそれも不自然な気もするけれど。だって彼のふるさとってことは、彼の家族やなんかもいるんじゃないの。
だとしたら、やはり完全なる敗北だったのか。そうしたものも全て捨てて、彼は自分に尽くしてくれる奥さんを選んだのだとしたら。
それを思い知って、阿波踊りを踊りながらお龍さんが涙を流したのだとしたら。

咲子が阿波踊りの記憶とともに思い出すのは、中学生の時、隣で踊っていた母が泣いていたこと。それが映画の冒頭近くで示される。彼女にとって、とても鮮烈な記憶。
もちろんこの時の咲子に、父と母の間にどんな事情があったかなど知る由もない。ただ、父親は死んだと聞かされていた。それだけ。

お龍さんが阿波踊りの最中に涙を流した理由は、結局明かされないのだけれど、それだけに想像力がふくらんでしまう。
だって、もう娘が中学生ぐらいになってて、つまり、彼と会わなくなって10数年がたっている、その阿波踊りで彼女が泣いたっていうのは、その時点で思い知った、何かがあったに違いない。
お龍さんは、自分が死んだら咲子に渡してくれ、と弟分の賢一に彼の思い出をつめた箱を託していた。
その中には、彼からの書簡と共に、現金書留の束があった。つまり、養育費をもらっていたということ、だよね。
ひょっとしたらその仕送りが終わった時だったのかもしれない。それをこっちからもういいと突っぱねたのか……。
もう死を目前にして、最後の阿波踊りをこの目にして、そしてかつて愛した人が目の前にいても、それだけで満足して言葉も交わさずに帰ったのは、だからじゃないのか。
もう、終わってるのだ。彼を目の前にして思うのは、懐かしさばかり。それがどんなに、胸焦がすばかりの思いだとしても。原作を読んでいないから色々と想像がふくらんでしまう。
だって、母親は江戸っ子ならではの威勢のいいタンカに象徴されるように東京言葉しか話さないけど、娘は地元言葉に戻ったりもするし、つまりは母親は、一人孤独だとも言えるんだよね。一人、よそ者だと。自分が産んだ娘でさえ、この地元の育んだ子供なのだ。

と、ちょっと先走ってしまったけれど、咲子はその書留の住所を元に、父親を訪ねてみるんだよね。
一度東京に帰る、と突然言い出した咲子に、お龍さんはそれをうすうす感じていたかもしれない。
探し当てた閑静な住宅街の小さな医院。ここが、お龍さんではなく、咲子でもなく、彼が守ってきた場所。
咲子は結局、自分が娘だと言い出せない。でも問診表を見た彼は、「こうのさんと、お読みするんですよね」と、そして生年月日、さらに出身は徳島だと駄目押しして聞いたから、咲子は彼が了解したことを、見てとった。
忘れていなかったことを、咲子は安堵しただろうか。
母は今体調を崩していますが、いい先生に診てもらっているので……という咲子の言葉もまた、それがせいいっぱいだった。
阿波踊りの季節ですね、もう30年も観ていません、と言う彼に、咲子はぜひ遊びにいらしてください、と返した。
本当に、それがお互い、せいいっぱいだった。

自分のそばについていようとする咲子に、お龍さんは再三、仕事はいいのかと気にするんである。「仕事は女の舞台だよ」そう言って。
娘が、彼のいる東京で働いている、ということは、お龍さんにとってはどんな意味を持っていたんだろうか。
自分を託せる仕事があったからこそ、これまで生きてこられたこと……。
そしてそれを全うするかのように、お龍さんは献体を申し込んでいた。それもまた咲子の了解をとらずに勝手にやっていた。
献体。それを題材にした塚本映画、「ヴィタール」を思い出す。そこにはなにがしかの強い思いが宿っていること。そして、いかにヒドイ状態で切り刻まれるのかも判る。
献体の一切を説明した寺澤医師は、こう結んだ。
「お龍さんは、医学の発展に理解のある方なんじゃないかと思います」
そりゃそうだ……自分の愛した人が、医者だったのだから。

この寺澤医師というのは、お龍さんが叱りつけた看護士をかばってウッカリ失言してしまったことで咲子に責められ、お龍さんにタンカを切られた小児科の先生である。
演じるのは、さだまさしの原作映画に、これで二度目の重用である大沢たかお。妙に縁がある。
この件が縁で咲子とイイ仲になるんだけど、この役って、落ち着いて考えてみると、もう死にそうな患者さんの娘、つまりマトモな精神状態でない彼女とそういう関係になるのって、割とヤバいんじゃないかと思ったりもするんだけどねえ……。

でもそれは、お母さんのかなえられなかった恋を、娘が受け継ぐという形なのだろうか。
まあ、確かに自然な形で恋愛に発展はしている。最初に最大限にぶつかりあったから、その壁を突破してしまえば、彼は彼女の支えになりたいと思うし、彼女も彼に弱い部分を全て知られているという思いがあるから寄りかかれるし。
寺澤医師が咲子に謝りにきたシーンはちょっと、良かった。自分が間違っていた、と真っ直ぐに頭を下げる彼をやや呆然と見詰めた咲子が思わずクスッと笑う。「気が抜けちゃいました。今度先生に会ったら、どんな顔しようと思っていたから……。」
その後、子供たちとハンカチ落としに興じる彼を見かけて微笑ましく立ち止まった咲子が、その代打に入って本気で遊んでいるシーンも良かったし、母親の思い出の地である眉山に登るロープウェイでの初デートも良かった。そして自然な流れでキスをした。
いったん東京に帰る彼女に、「お龍さんのことは気をつけています。何かあったら電話しますから……何もなくても電話するよ」と、医者から恋人に替わった口調に彼女はハイ、とニッコリし、コノヤローと思っちゃうのよね。

ただ、ちょっとだけ気になるのは、「仕事は女の舞台なんでしょ」と母親の台詞を返した咲子が、二年後、献体からお骨が帰ってきたシーンではアッサリと苗字が変わって、この地に住んでいるらしいことなんである。
彼女の仕事がどうなったのかは、触れられないんだよね……。
それじゃ東京で彼女がバリバリ働いていた描写の意味が、なくなっちゃうような気がして。母親と娘の物語ならそれでいい。でも娘が東京で働いてて、しかもそういう台詞まで用意されているなら、なにがしかの決着がほしかった気がするのだ。
恋が成就してアッサリ結婚するだけでいいんだろうか……なんて、思っちゃうのだ。

母一人娘一人、しかもガンコな性格は似ちゃったもんだから、こんな事態でも、いやこんな事態だからこそ衝突してしまう二人。
ことに、お龍さんを外に連れ出した咲子、その料理屋での、宮本信子vs松嶋菜々子の一騎打ちは見応えがある。
娘は、母親が、父親が死んだとウソをついていたことを糾弾する。一方のお龍さんは、さっき見てきた人形浄瑠璃の一節をかまして娘の怒りをかわし、自分の病気のことを知っていながら黙っていたと喝破し、「だからおあいこだよ」と言うんである。
でもこの時、咲子にやりこめられて、怖じ気づいてしまったんだ、とお龍さんは後に、寺澤医師に打ち明ける。
その時、守らなければいけない、心配をかけてはいけないとばかり思っていた娘が、立派な大人であることに気付いたのかもしれない。
寺澤医師は、咲子もお母さんにひどいことを言ってしまったと落ち込んでいたことを告げる。その時、どこか意味ありげな笑みを浮かべたお龍さん、ひょっとしたらこの時、二人がイイ仲になっていることを察知したのかもしれない。

「私に似てガンコで。一度言ったことは絶対曲げない。でもイイ子だろ」なんて直球投げられて、寺澤医師はドギマギと笑うしかないんだけど、「あの子のこと、よろしくお願いします」と頭を下げられ、はい、と誠実に頭をさげかえすのだ。
集中治療室から帰ってきたお龍さんは、咲子の右手の薬指に真っ赤なルビーの指輪をはめてやった。ぞれは大事に大事にとっておいた、唯一の愛する人とのツーショット写真でもはめている指輪。
「ルビーは身を守るんだよ。お父さんからもらったものだ」そして、いたずらっぽく笑って、「左手はとっておいてやったからね」

手術も出来ないほどの状態とか、もう余命何ヶ月であるとか、いつ急変してもおかしくないとか。
それってそれだけでお涙頂戴に出来る、ある種のご都合主義っていう部分があるだけに、それだけで押してっちゃうと「天国は待ってくれる」みたいにボロがボロボロ出ちゃうんだけど、それもやっぱり演出&演者の違いかなあ。
気丈だからしゃんとして見える、と思えちゃうし、それが判っているからしゃんとしている母親にハラハラする娘の気持ちも判るし、あるいはそんなお龍さんの見得の気持ちをくんでいつものように明るく振る舞っている、彼女を慕う周囲の人間たちの気持ちも判るのだ。
こんな状態で阿波踊りを観に行くなんてとんでもないと言う医師に、「阿波踊りを観に行かなければ、母は良くなるんですか」と言い返す咲子、ここなんて最大の、ヘタしたらクサくなりますよの関門的場面。
しかし静かに、まるで何かお医者さんに質問でもするように問い掛ける松嶋菜々子の抑えた演技が、そうはさせないんである。たとえその後、彼女のその台詞に医者がぐっとつまる、というお約束の返しカットが用意されていたとしても、である。危ない危ない、こういうちょっとした返しのカットでしらけてしまうものなのよ。

そして、阿波踊りである。いわばこのシーンのためにこの映画があると言ってもいいぐらい。お龍さんがその目に焼き付ける最後の阿波踊り。
あっさりと、泣いてしまった。ご都合主義なんて、この時には頭にも浮かばなかった。
存分に見せる阿波踊り。それだけで涙があふれてしまうのはナゼだろう……。
父親に会いに行った咲子は、「ぜひいらしてください」そう言っただけで、何の約束もしなかった。連絡先はおろか、どこで見ているとか、落ち合おうとかも。そりゃそうだ。表面上はお互いの正体は知らないって名目なのだから……奥さんの手前。
そう、会えるわけもないのに、会えちゃうのだ。これはちょっと少女マンガ的な奇蹟。でもそのご都合主義を補うのが演出であり、何より役者なのね。

演舞場に入ってきた父親に気付く。その時圧倒的な総踊りが始まっている。それをかきわけかきわけ、お父さん!と叫ぶ咲子。それに気付くお龍さん。目と目をあわす、かつての恋人同士……。
物語を語ることを考えれば、ちょっとありえないぐらいの尺を阿波踊りだけに割く。でもこれがなければ、この作品はありえない。決まった振りなのに、統制が取れているのに、ねぶたの節操のない弾けっぷりなんかとは全然違うのに、なぜこんなに、熱いのだろう。
振りや列の統制に押さえ込まれているからこその、アンビバレンツな熱。それがお竜さんの恋に通じるからなのかもしれない。

このクライマックスが終わり、咲子は母親の散歩につきそっている。
お龍さんは、いくら気丈な彼女でもしゃんとすることさえままならないような状態。皮肉だけどそんな風になったからこそ、ゆっくりと母娘の思い出話も出来るのだ。
授業参観にただ一人和服で来たお龍さんのこと、あの時はイヤだったけど、今なら自慢できる、と咲子は言った。そして、
「私、お母さんがだあいすきよ」
これはもちろん、お龍さんが咲子に父親のことを問われて、「お父さんがだあいすきだったから、お前を産んだんだ」という台詞と呼応している。
だあいすき、と、伸ばすところが同じだけで、そう思ってしまうのは勘ぐりすぎなのだろうか。

そして、最後の阿波踊りを観るために、お龍さんと合わせて咲子も着物を着たこととも、この場面は呼応している。
柔らかな白の着物を粋にビシッと着こなしたお龍さんのカッコよさ、そして若草色の淡色の小袖が、滴るほどの美しさでしっとりと似合っていた咲子=松嶋菜々子の美しさには、劇中の皆のみならず、こちらもただただ呆然となるばかりだった。
往年の龍子姉さんの女っぷりが戻ったことにまず感動していた賢一は、その娘、咲子の美しさにも呆然とし、テレかくしのように、「今日は両手に花だな」なんて言った。
そして、お竜さんはしみじみと言ったものだ。
「いい女っぷりになったね」
すこし、寂しい気分もあったかもしれない。でも、きっとこれで安心できた、とも思った、と思う。

そして二年後、寺澤の苗字になった咲子は、献体患者の合同慰霊祭に臨み、医学生たちに残した母親のメッセージを読むことになる。

「娘、咲子は私の全てです」

ただ、そのひと言が、真ん中に大きく、書かれていた。

やっぱりこの台詞が、何よりこの作品のキモだと思われる。
「お母さんは、お父さんがだあいすきだった。だからお前を産んだんだよ」
確かにお龍さんはお父さんが死んだとウソをついたけれど、この台詞以上の事実など、実際彼女には意味がなかったのかもしれない、と思う。
お龍さんの中ではやはり彼は死んでしまったのかもしれない、とも思う。
それは、親に会う権利のある子供にとってはやっちゃいけないことではあるんだけど。
でも、娘の中に愛する彼はすべて入っているんだし、それ以上のものはいらないのだ。それ以上のものは……結局は他人の、しかも彼を所有する奥さんやその家族のものなんだもの。彼が守ろうと選択したのはそっちだったんだもの。
だからこそお龍さんは、娘を全力で守らなければならなかったし、全力で愛さなければならなかった。
「娘、咲子は私の全てです」この、遺言とも言えるお龍さんの最後の言葉に咲子と一緒に涙を流しながらも、どこかでそんなわだかまりと感じてしまうのは、咲子を通して愛する男を見ているお龍さんの“女”を感じてしまうから。
いや、もちろん咲子はそんなことも全部含めて、判っているに違いないんだけど。

松嶋菜々子は、自分がもう母親だから、母親の気持ちが判ってしまうから、それを見ないように、娘の厳しい気持ちを失わないように気をつけたという。
その言葉を聞くと、やはり女は母親になってナンボなのだろうか……などという気分になってしまうんである。
でも、きっと、そうなんだろう。それこそが女であることの特権であり誇りなんであろう。
自分が持てなくても、それを男に渡したくないと思うのは、数少ない女の特権であるからなのだろうか。★★★☆☆


秒速5センチメートル
2007年 63分 日本 カラー
監督:新海誠 脚本:新海誠
撮影: 音楽:天門
声の出演:水橋研二 近藤好美 尾上綾華 花村怜美

2007/3/27/火 劇場(渋谷シネマライズ)
全く、とんでもない才能が現われたもんだ。この人は、アニメーションのあり方というものを変えてしまった。アニメの傑作を語る時、実写と遜色ないとか、アニメーションにしか出来ない世界とか表現とか言われるわけだけど、そんな既存の言葉が何ひとつ当てはまらない。
誰もが経験している日常に、こぼれ落ちそうな些細なことに、胸が打たれる時がこんなにもあることを、他のどこでこんなにも感じさせてくれるというのだろうか。この洪水のようにあふれ出る圧倒的なリリシズムを、アニメというんじゃなく、新海監督の手でしか表現できない。それが彼にとってはアニメという手法が最も適切であるだけなんだ。
情景は、いつでも日常。
桜が咲き乱れている道を歩いているシーンでさえ、工事の盛り土にフェンスが設置されていたり、ホント、日常なのだ。

その才能は前作でも感じていたけれど、あまりにも声優くさい声と、少々のファンタジー味が、他のアニメーションとの差異を少なくさせていて、打ちのめされるという感じではなかった。
しかし、今回はそこもバッチリとクリアされている。中学生から青年までをナチュラルに演じ切る水橋研二の内に入り込む密やかな声が素晴らしく、その世界は、何ひとつ奇をてらったものがない。大人に変わる時に特に声を変えるわけではないのに、何故なんだろうこれは。
水橋研二はホント、内に入り込みすぎて、思いつめて死んでしまうんじゃないかと心配しちゃうような役者だから、13歳の時の思いをしまい込んで生きる、この貴樹という役に、本当に、まさに適任なんだよね。

「連作短篇アニメーション」という形をとっている。連作、というのは、貴樹という男の子を見つめているから。
第一話は中学生である貴樹の第一人称、明里という同級生との再会を描いてる。そして第二話は、高校生になった貴樹に恋する花苗という女の子の彼を見つめた第一人称、そして第三話は、これを三話、話と言い切ってしまう手法に驚くんだけど、大人になった貴樹と明里の、決してもう出会うことのない二人の、無数のコラージュなんである。
第一話で第一人称で語っていた彼が、第二話での第一人称の彼女によって対象として語られ、そして第三話では、彼と彼女を、神の目線とも言える俯瞰と、コラージュによってつむいでいく。しかもその全てを包括するタイトルは、その第三話のタイトルなのだ。
かといって、タイトルそのものが第三話によって提示されるわけではない。その台詞は、全てが決まる第一話によって提示される。

全ては第一話に集約されている。ひたすら貴樹のモノローグで進められる、この第一話の切なさの凄まじさときたら!胸が苦しくて苦しくて苦しくて、死ぬかと思った。
特に、何が起こるわけでもない。しかし、これ以上ないことが起こっているとも言える。あらすじを書いてしまえば数行で終わってしまうようなことが、呆然とするほどのリリシズムで細やかに描かれる。
映画の中では、何かが起こらなければいけない、スリリングなエピソードや、意外などんでん返しがなければいけない、そんな強迫観念にとらわれていた心を、なんと鮮やかに溶かしてしまうことか。
男の子が、女の子に会いに行く。それだけなのだ。勿論、それに至る、二人が離れ離れになった過程は描かれるけれど、言ってしまえば、ただそれだけなのだ。

転校生同士で気の合った貴樹と明里。いつも一緒だった。魂が、響きあっている気がした。同級生からからかわれることもあったけど、それ以上に二人の関係は大切だった。
お互い転校生なんだから、これからずっと一緒にいられる保証はないのに、なぜか一緒の中学に行って、ずっとずっと、一緒にいられる気がしてた。しかし明里の親の転勤が決まって、栃木に引っ越していくことになった。
明里が貴樹に夕闇の中、公衆電話からそれを告げるシーンが忘れ難い。「おばさんの家から通うって言ったんだけど、まだ早いって、ダメだって……」そう途切れ途切れにつぶやくうつむいた明里の心もとなさと、そんな彼女を慰めることも包み込むことも出来ずに、突き放すしか出来ない貴樹のやるせなさ。

半年後、彼女からの手紙で、二人の関係は再開した。「私のことを、覚えていますか」そんな書き出しだった。忘れるわけがない。魂を分け合った相手だったのだ。
最後に別れたのは、小学校の卒業式。そして、中学生。心も体も、最も成長を遂げる時期だ。
それを本能的に察知したからこそ、彼女の書き出しはそんな風に不安に満ちたものだったのだろう。
どんな風に変わったのか、背は伸びたのか、声は?制服を着たところだって、見たことがない。見えない相手に対して送られる手紙は、彼女のものだけが読みあげられる。彼がそれに返事を書いているのは、それにまた返される彼女の手紙の文面で明らかではあるんだけど、彼の手紙の内容は一度も明かされることはない。
それが、男の子のぎこちなさのようにも、彼女の声しか聞こえない彼の純粋さのようにも思える。

桜の花びらが降りしきる帰り道、明里は言った。
「秒速5センチなんだって」
「え?」聞き返す貴樹。
「桜の花びらの落ちる速度」
「篠原って、そういうこと、よく知ってるよな」
「ねえ、なんだか、雪みたいじゃない?」
「そうかな」
この会話が本当に素晴らしい伏線なのだ。

東京と栃木。それだけだって遠く遠く離れていたのに、貴樹の転校が決まってしまう。鹿児島。こんなに離れてしまえば、もう会えるチャンスはなくなってしまう。
貴樹は、明里に会いに行く決心をする。

親の転勤というものは、子供にとって北朝鮮の核兵器並みに、自分の力ではどうしようもないものなのだ。ただ泣いて、従うしかない。リセットすることに、慣れなんかない。まあ、私は二回しか経験がないからかもしれないけど。でも、ただ、必死なだけだ。大人になった今では、それも今の自分になるための大きな経験だと思うけれど。
しかも、こんなに魂を響き合わせる相手にめぐり合っていたら。
二人はこの時、恋という感情にまでは達していなかった。いや、達するという言葉は合っているのだろうか。それ以上の高みに二人はいて、恋なんて感情の方こそが、ちっぽけなものなんじゃないかとさえ思う。

「僕たちは、似た者同士だった」そう、貴樹はモノローグする。
魂が純粋なうちは、余計な雑味が入らないうちは、境遇や好みや性質が似ていればいるほど、シンクロするのだ。だからこそ、恋以前であり、恋以上である。色んなことを知っていくうちに、そのシンクロの度合いは薄れていく。
それを、大人になってしまった私たちは判るのだけれど、だからこそ、この季節の彼らが、たまらなく懐かしく、切なく、美しく、そして愛しいのだ。
しかし、こんなに転校経験者の胸を騒がせるというのに、監督が転校経験がないというのが驚いちゃったけど。

明里に会いに行く。貴樹は学校が終わって、列車に乗り込み、待ち合わせの7時に到着するタイムテーブルを、路線地図と時刻表できっちりと作ったはずだった。
しかし、雪で列車が遅延する。そのハプニングだって、言ってしまえば陳腐なものかもしれない。それはたかだか4時間足らずのことなのに、なぜこんなにも胸を締めつけるのだろう。
列車が遅れるなんて考えてもみなかった、という、タイムテーブルを作っただけで、完璧な作戦のように思えて心が躍ったのであろう彼の幼さが、こんなにカンタンに叩き潰されてしまうことに胸がつぶれる。

そして、待って、待って、待たされる。彼にとっての永遠のように長い時間を、観客もまた、完全にシンクロして体験してしまう。駅で快速列車の待ち合わせのために止まっている時間、何もない雪原に放置されるように止まってしまう時間、その1秒1秒が、じりじりと、焦がされるように焦りと不安を募らせる、このたまらなさ。雪で遅れることは判るんだから、彼女は待っているに違いないと思っても、待ち合わせの時間を過ぎてから、見てもしょうがないのに、何度となく時計を見やってしまうこの時間がたまらなくて、しかも列車からは一人、二人と乗客が減っていって、ついには、彼のためだけにのろのろと列車が走っているようにさえ思える。

ある駅で、雪の混じった寒風が吹き込んだまま停車していて、座っているおじさんが、ドアの開閉ボタンを押して閉じる場面がある。そんなことを知らなかった彼はハッとして謝る。おじさんは手をヒラヒラとふって、いいんだよという意思表示をするけれど、そんなちょっとした場面でも、知らない土地に来た彼の心細さが一層協調されてしまう。
列車の中の描写は、新海監督は本当にピカイチだよね。光の差し込み方によって、どんどん日が暮れて、ついには光さえも差し込まなくなって、吹雪で、真っ暗になって、不安になる。それを列車の中という独特の狭い密室状況、しかも見知らぬ土地へと連れて行かれる不安なタイムマシンの中に、これ以上なく表現してる。

この監督は、ローカルを非常に丁寧に描写するのも特異な点。それを特異と思うことこそが、アニメーションというカテゴリにまだこだわってしまうせいかもしれないけど。
でも彼が独特なのは、それを、列車や駅という定点で示していくということなのだ。交通機関というのは、有無を言わさず時間と距離を遠く離してしまう。車よりも切ないタイムマシンだ。
それが、この細やかなローカルの描写で一層強調される。前作で、青森の懐かしい地名が出てきてその細やかさに驚いたけど、今回は東京から栃木を結ぶ路線を丁寧に描写する。
それほど離れていないけど、彼ら中学生にとって、どこにあるのか、どうやって行けばいいのか、ただ遠いということしか判らない。ただ、彼が熊本に転校、と聞いた時には呆然とする。いくらなんでも栃木よりは遠いことが判る。栃木なら、頑張れば行けるかもしれない。そう思って、貴樹は明里に会いに行こうと思ったのかもしれない。

新宿で武蔵野線に乗り換えて、大宮で更に乗り換えて、久喜、小山、なんか私は見知っている駅名だけに、彼にとってはこれがどんどん、とてつもなく遠い距離で、どんどん得体の知れない不安がその胸に侵入していっているのが判って、たまらなくなる。
大人なら、当然、すっと新幹線に乗っただろう。新幹線にしていたら、雪による遅延なんて、ヘでもない。でも中学生である彼にとって、ローカル線を乗り継いで会いに行くのが精一杯の方法で、しかも電車が遅れるなんてことさえ、考えもしなかったんだから!

貴樹は、明里にあてて手紙を書いていた。これまでの思いを綴った手紙。ポケットに入れたそれを、何度も確かめていた。
しかし、乗り継ぎを待つ、吹きすさぶ雪の駅で、あっという間もなくその手紙が風にさらわれてしまう。呆然と目を見開き、その手紙の行方が虚しく追われ、そして彼は、泣くのをガマンするかのようにうつむく。その引きのショットに、またしても胸がぐしゃりと音を立ててつぶれてしまう。
2週間かけて書いた手紙なんだよ?彼のショックを考えたらたまらなくて……もう、引き返してしまうのかと心配した。

しかし、向かうしかなかった。もう待っていてくれるな、家に帰っていてくれ、などとつぶやくのは、そこに彼女がいないショックを自分の中で消化しようという気持ちが感じられた。
いないわけがない、と観客は思ってる。雪で遅れるのは判るはずだから絶対にいると。でも彼が、この地獄のような時間にむしばまれていくのが判ってるから、祈るような気持ちで待つ、待つしかない。
そう、予想は充分に出来たのに、ようやく到着した彼が、待合室の方向に恐る恐る顔をあげて、泣きそうに顔をゆがめて、そしてカットバックされて、旧式のストーブの前でうつむいて座っている明里を見た時、もう胸がいっぱいになって、パンクしそうだった。
そして、彼女は彼を見、抱きつくわけでもなく、手を握るわけでもなく、ただそのコートの裾を掴んで、震えて、カットが彼女の足元に切り替わって、その靴の上に、涙が落ちるのだ。
ああ、神様……。



二人は並んで、明里の手作りのお弁当を食べる。今まで食べた中で一番美味しい、と貴樹は言い、明里はお腹がすいているからだよ、と笑う。今までの数時間が一気に氷解する幸せなとき。
駅が閉まり、二人は何もない雪原を歩いていく。
二人だけがつける足跡が雪の上を飾っていく。明里がホラ、と指差す。いつも言っていた木?と貴樹は言う。くねった枝の大樹の下、二人は向かい合って立ち尽くす。ふと、時間が止まったような気がして……どちらからともなく、そっと、キスをした。

その瞬間、世界が全て変わった、と彼のモノローグが入る。今、僕たちの前には、いまだ茫漠とした人生が横たわっていた、と。
人生なんて、過ぎてしまえば、チンケなものなのに、と大人になった私たちは思うけど、でも確かにこの年頃には、そう感じていたことも思い出す。人生を自分で切り開くなんて、どうやったらいいのか判らなかった。
もう会えないことをハッキリと感じ、彼女を守りたいと思ったけれど、その力がないことも判った。けれど、それが今、悔しかったり哀しかったりするわけじゃなくて、ただ彼女の柔らかく暖かな唇が、そこにあるだけなのだ。
二人はその晩、廃屋で過ごした。古い毛布に包まって、語り明かした。これはちょっと、不自然かも……普通に彼女の家に泊まっても問題なかったんじゃない。

翌朝、別れ際、明里は、「あなたは、きっとこの先も大丈夫だよ」そう言った。
監督が語るとおり、それは、「私がいなくても」という言葉を間に挟んでいるんだろう。
でもこの時、貴樹はそのことにまで気づいていただろうか。ただ、ありがとうとしか言えない彼は、この後二話で高校生になっても多分、まだ明里のことが好きなまま、大学進学を東京に決めたのも、明里にもう一度会いたい、この関係を再開したいと思ったからではなかったのか。
もちろんそれは、また先の話になるんだけれども……。
貴樹は、明里に手紙を書いたことを言わなかった。明里もまた、貴樹に手紙を書いていたけれど、渡さなかった。
双方共に、どういう内容かは明かされない。そしてその若く青い手紙を大人になって見返すことが出来るのは、彼女の方だけである。第三話まで、待たなくてはいけないけれど。
だから彼女はスッキリとした顔をして、他の人との結婚を決意できたのかもしれない。

そして第二話。貴樹に恋する花苗のモノローグで展開される。
だから、この中で貴樹の気持ちは判らない。花苗の視線を通して見る、どうしようもなく大好きな男の子という貴樹は、恋する女の子の視線の中とはいえ、周囲とはハッキリと違って見える。
中学の時、東京からの転校生として彼女の前に立った貴樹を見た時から好きだった。頑張って一緒の高校にも行った。ずっとずっと好きなのに、まだ思いを告げられない。
ハタから見れば、二人は仲がいいように見える。というのも、花苗が偶然のフリして、いつも貴樹の帰りを待って、一緒に帰ったりしてるから。
それを彼は拒まない。二人、カブに乗って走り、いつも途中のコンビニに寄って飲み物を買って、ベンチで座って飲みながら軽いおしゃべり。それが日課だった。何にしようかといつも悩む花苗と、お気に入りのコーヒー牛乳を迷わずに買う貴樹。それもいつも同じだった。

花苗はサーフィンをやっている。そのことも、貴樹は知ってくれてる。「頑張ってるよね」と言ってくれる。それも花苗は嬉しかった。自分のことを見てくれている気がしていた。
この波に乗れたら告白しよう、ずっとそう思って頑張ってきた。逆に、この波に乗れなければ、という焦りも感じていた。進路も決めなければいけない時期。何だかどんどん追いつめられる。
貴樹は、東京の大学に行くと言った。同級生たちは、東京にカノジョがいるんだよ、とまことしやかに囁いた。そんなこと……と花苗は口ごもるけれども、第一話を見ている観客にとっては、ドキリとする。高校生となった貴樹が今でも明里と連絡をとっているのか、貴樹のモノローグは入ってこないから判らないんだけど、連絡が途絶えているんじゃないか……という気が、不思議としてしまう。
それは貴樹の、どこか遠くを見つめている、一人だけ大人びたような孤独なオーラがそう感じさせる。貴樹は弓道部なんだけど、静かに集中して的を狙う、その張り詰めた孤独も、一層そんな気を起こさせる。

ところで、ここは鹿児島でも、種子島なのだ。この場所もひどく特異性がある。日本の中でただ一箇所、宇宙へとつながっている場所。日常の中に、宇宙ロケットが打ち上げられるという非日常がある場所。何年も闇の中を、真理だけを求めて飛ぶ。その、絶望的な孤独と、強靭な精神力。そしてそれを支える、「島」という孤独。
二人の宵闇の帰り道、その行く手を、宇宙事業開発団と書かれたコンテナがゆっくりと運ばれていくシーン、これもひどく印象的な非日常の風景だ。
誰も通らないような、田舎道に、突如として現われる宇宙への旅支度。
「時速5キロなんだって」
そう言う花苗に、ハッとしたように彼女を見る貴樹。
ゆっくりとした速度、そして届かない距離。桜、宇宙、東京と栃木と熊本、いやそれ以上の、長い長い線路は、まるで銀河鉄道のようにさえ、永遠に感じたことを、彼は思い出したのだろうか。

花苗は結局、告白できなかった。波に乗れて、よし、積年の思いを伝えよう!と思った時、でもカブで前を走る彼に何にも言えないままいつものコンビニにつき、その時ばかりは迷わず彼と同じコーヒー牛乳を買って、でも、やっぱり、言えなかった。
花苗のカブが壊れ、今日はここに置いていこう、と一緒に歩いて帰ってくれる彼。そう、いつだって貴樹は優しいのだ。でも、花苗はそれがたまらなくなる。歩きながら、湧き上がった涙が止まらなくなる。その理由を聞かれても、なんと言えばいいのか。「遠野君は優しい。優しいけど……」
「これ以上、優しくしないで」
そんな言葉をかき消す様に、空を突き刺してロケットが飛んでいった。

好きだから、誰より彼を見つめ続けてきたから、だから判るのだ。自分のことなど、見てやしないこと。
彼は、優しい。優しいけれど、それが一番残酷。なぜそう思うのか、彼女自身、自分の中でうまく説明できていなかった。でも、彼のことが好きだから、ずっと見てきたから、判っちゃったのだ。告白しようとした時、その張り詰めた精神状態だったのも手伝ったんだと思う。彼が、いつだって優しくしてくれるけれど、その彼が……自分のことなど決して見てはいないこと。
この第二エピソードでは、もっぱら彼に片思いしている花苗の目線からだけなので、彼自身の気持ちは判らない。彼のモノローグだけで進行していた第一話とは非常に対照的である。

だけど、第一話でも、貴樹が明里に当てた手紙は一切、披露されなかった。そして中学生という弱い立場では、大切な明里になんらの約束が出来るわけでもなかった。好きだという単純な言葉さえ、言えなかった。手紙も風にさらわれてしまった。
すでに第一話で、貴樹の寡黙なキャラと、その中に抱えた孤独と深い思いが、確立されている。だから、二話で彼に恋する花苗が、彼だけが他の誰とも違うこと、違う高みを見つめていること、自分など見ていないことを悟って泣き出す切なさが、判ってしまうのだ。
これは、第一話がなければ成立しないし、それにしたって、観客にここまで了解させるのは、それだけ第一話の、監督の演出の凄さってことなんである。

そして、第三話。全てを包括するタイトルである、「秒速5センチメートル」がふいをついたように大きく示され、そして、主題歌である「One more time, One more chance」に乗せて、大人となった貴樹と明里のそれぞれを、その一瞬一瞬を、加速のようにコラージュしていく。
その速度は、子供の時にはあんなにも永遠のように感じた時間が、大人になっていくほどに、ただただ早く、無意味なほどに流れていくことを、その虚しさを感じさせる。
経験を積んだから、動揺しなくなったから、ふいの待ち時間もあんなに長く感じなくなった。ただ舌打ちして、ついてないな、と思う程度になったから……でもそれは、不幸なことなんじゃないだろうか。

毎日の繰り返しに疲れ、会社を辞めた貴樹の元に、3年付き合った女性からメールが届く。
「1000回はメールしたけれど、あなたに1センチも近づけなかった」
示されるのがコラージュのように一瞬一瞬で、大人となった貴樹と明里を追っていくから、え?これは明里じゃないよね?などと思わず考えてしまったりして。違う違う。髪の色も違うし、メガネかけてるし。
思えば明里とは、メールなどしたことはなかった。ずっと手紙をやりとりしてた。高校生になった彼が携帯を持つようになった時に、もうそれが途切れていたことが推測された。
だって、彼が打っているメールは、誰に送るあてもなく綴られた、第一話で聞かせたような孤独なモノローグであることが明かされるし、楽しみにポストを覗く二人のコラージュが、次第に彼だけになり、からっぽのポストに嘆息するようになるから。

つまり、貴樹の方だけが、ずっと明里を引きずっていたということなのか。

二人は、昔の夢を見た。あの、最高に幸せだったけど、最高に切なくて哀しかった、真夜中、雪が秒速5センチメートルで降りしきる中での、キス。
それを、明里はどこか、思い出のひとつとして消化していたような気がする。彼女の手元には、貴樹に渡すはずだった手紙が残されていたから。でも貴樹には、彼女への思いは永遠に風の向こうにさらわれたままなのだもの。
だから、夢を見て思い出して、踏み切りですれ違った女性が彼女かもしれない、と「きっと振り向く」と直感しても、それが彼女であろうとなかろうと、もう終わったことなのだ。
明里は、結婚式を控えてる。そして彼は、日々の単調な繰り返しに追いつめられて、会社を辞めた。
彼は何だか悲壮な状態のようにも思えるけど、でも、これでリセットして、桜は秒速5センチメートルで降り注いでいるし、切ないけど、これから全てが始まるっていう、暗示なのかもしれない。

最初は、「One more time, One more chance」がテーマソングとして使われることが、「月とキャベツ」ファンの自分としてはちょっとフクザツなところでもあった。山崎まさよし、何でこの曲を提供しちゃうのよ!って。
しかし、悔しいかな、この曲のPVのように作られた、コラージュのような第三話に、それまでの思いがグワッと込められて、まるでこの映画のために誕生した曲のように思ってしまうのだ。月キャベの時だってそう思ったのに!
しかし、山崎氏と監督の対談で、監督も月キャベは印象に残っている映画だったみたいで、月キャベの話にかなり割かれているので、そんな気持ちも静まる。

確かに、一度テーマソングとして、それも映画の中身に深く切り込んだものとして使われた曲が、やはり同じように内容に深くシンクロする形でもう一度使われるなんて、ないことだもの。
ただ意味のないテーマソングが氾濫する中、これは幸福な出会いが二度もあった、奇跡的なことなのだ。そして月キャベを見ても、本作を見ても、双方をきっと思い出す相乗効果もあるし。

上映終了後、劇場を出る高校生と思しきイマ風の男の子が、イマ風の喋り方で、「もう、ダメだ。今年、一番の切なさだ。絶対、これ以上は出てこねぇって!」と熱っぽく語っているのを、クスリと心のうちで微笑みつつ、なんか、やけに嬉しい。
主人公が社会人となるまでを見つめているとはいえ、小学生から中学生を描く第一話にそのほとんどが集約されているから、その季節を通り越した人なら誰も、心を焦がさずにはいられないに違いないもの。★★★★★


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