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日本残侠伝
1969年 95分 日本 カラー
監督:マキノ雅弘 脚本:マキノ雅弘 永田俊夫
撮影:横山実 音楽:小杉太一郎
出演:高橋英樹 川地民夫 郷英治 津川雅彦 水島道太郎 南田洋子 岩井友見 梶芽衣子 田中春男 三島雅夫 伴淳三郎 山本陽子 須賀不二男 深江章喜 杉江広太郎 長門裕之 葉山良二
まあそんなことはどうでもいい。梶芽衣子もこうなるとどうでもよくはないが、どうでもいい。
高橋英樹、てのがねえ。そりゃまあ彼が映画スターとしてデビューしたのは知ってたけど、桃太郎侍の印象のせいか、今もバラエティを含めてテレビなお人だから、スクリーンで観るというのがなんだか不思議な気がした。
若い時のせいもあるだろうけど、そしてタイトルから往年の仁侠映画の名作の数々が頭をよぎるせいか、子分たちに頭(かしら)と慕われるほどのカリスマ性もないなあ、などとヒドいことを思ったりもして(爆)。
てか、頭どころか小頭だし、そのあたりが確かに順当かも(爆爆)。
今はすっかり御大てな雰囲気だけど、当時は何か、青臭いような端正な美青年で、仁侠映画より青春映画のほうが似合いそう。
後に桃太郎侍で時代劇スターの名を獲得することを考えると、それも不思議な気がするけれど。
冒頭、彼、秀次郎は人買いにひどい目に合わされている一人の娘を助ける。助ける、ていうか結局は正当な?手続きによって買われた娘が今は女郎屋に勤めているのだから、秀次郎の男気あふれるふるまいは結局空回りだった感じがする。
つまりは最後まで、彼はそういうスタンスなのかもしれないなあ。若さと正義を信じて突っ走るけど、結局は世の中の仕組みが判ってない、と。
そういう意味では確かに、ちょいとオーラが少ない(爆)高橋英樹で正解だったのかもしれない。正直、脇の長門、津川兄弟やその男たちの大事な女たちである山本陽子や梶芽衣子たちが世界観を作っている気がしてしまう。
いや彼らもまた高橋英樹に準ずるような、若さと正義と青さの人たちでありのよね。
長門氏演じるすし屋の大将、銀次は、その中では酸いも甘いもかみ分けた、渡世人の厳しさを知る人ではあるのだが、でも彼にしたって、女房をたたっ切ったのは、親分に寝取られたからであり、その親分の小指を切らせてカタをつけさせた。
詳しく語られはしないけれども、きっと彼は女房を心から愛していて、彼女を斬ったのも彼女の女としての名誉を守るためだったんであろうなどと、こういう任侠の世界でしか通用しない設定であるとしても、ふと心が熱くなるんである。
だってさ、彼がたった一人の妹(どうやらここにも色々事情があるらしく、本当の妹ではないらしいんだけどさ)に向ける優しい視線はたまらなく慈愛に満ちているんだもの。
……ていう具合にまあ脱線するのはいつものことだが、えーと、何だっけ。そもそも何だっけ(爆)。
えーと、そうだ、高橋英樹扮する秀次郎が梶芽衣子扮する春代を助ける冒頭シーン。
てか、秀次郎て、「昭和残侠伝」の高倉健の役名と一緒やんなあ。やっぱりそのあたりは同じマキノ監督だし、そーゆーのあるんだろうなあ。でも格が違いすぎるけど……だからそれはおいといて(爆)。
そっから高橋英樹が再登場してくるまでにはちょっと間がある。
その間、木曽なまり丸出しの人懐っこさで江戸常に入り込んでしまう吾作(津川雅彦)やら、江戸常の親分にカタギにしてもらったすし屋の大将、銀次(長門裕之)やらといった脇のメインたちが次々とやってきて、銀次の妹のキミといい仲である梅吉(川地民夫)やその周辺の若い衆などが彩りよく出てくる。
クレジットで高橋英樹が主演として出てきたから、おお、高橋英樹、高橋英樹と思っていたので、冒頭、春代を助けているのが高橋英樹と思っても、何か顔がぼんやりとしていて、同じように端正な濃い顔の津川雅彦と見間違えたりするアホな私(爆)。
だってそれぐらい間が経たなきゃ、出てこないんだもん(言い訳にもほどがあるが……)。
秀次郎が出てくるのは、江戸常の親分が黒い陰謀によって、不慮の事故を装って殺されて後。
あの春代の事件でとっ捕まっていた彼は、仮釈放を得て戻ってきたのが、親分の葬式の日だったのだった。
仮釈、てあたりが、なんとも新しさを感じるな、と思ったのは確かにその通りで、時は大正、大きな戦争が終わって東京の繁華街が復興を遂げようとしている時である。
なんてことを言ったら、それこそ先述した「昭和残侠伝」などは昭和なんだからもっと新しい筈なんだけど、第二次世界大戦後ってのは、その後の大きな立ち直りまでにはまだまだ時間がかかって、未来への明るい展望は、この大正モダニズムの時の方が積極的にあったんじゃないのかなあ、などと思う。
だってさ、浅草で、百貨店を建てるための地上げで、だから長屋の人たちに出て行ってほしい、という本作の展開は、その後の発展を考えれば、まあ仕方ないかなというか、ここに長屋がい続けることこそが非現実的だ、などと思ってしまうから、長屋の人たちの安寧のために奔走する彼らが、なにか悲しく見えてしまったりもするんである。
つーか、まあ多かれ少なかれそういうことが起こっていたということなんだろうなあ。
それで言ったら先述の高倉健のシリーズとか、昭和におけるそれだって似たような設定はあったように思うし、それこそ第二次大戦後、今の日本につながることを考えれば、そっちの方がリアリティがあるだろうに、なぜか、どうしてか、昭和、の方が任侠的な価値観を感じるのは、まあ東映のそうした、任侠、ヤクザ映画路線を観てしまっているせいもあるだろうけれど……。
でもね、ホント、明るい未来を見てる感じがするのよ。標的になっている長屋から見えているのは、のっぽなタワー。ネオンがイカ二十、何?思ったら、あれは十二カイ、十二階、なのね(爆)。右から読むのか(爆爆)。
そんな具合に、モダニズム、そりゃまあ、百貨店と組んで地上げに取り組む政治家や悪徳ヤクザは憎いが、でももし正義のヤクザがこの地の発展に寄与するためにこのプロジェクトに関わったのならどうだったのか、などと思ってしまう。
冒頭早々に殺されてしまった秀次郎が身を寄せる江戸常の親分は、確かに長屋の住人にとっては自分たちを守るために命を落とした正義の人、なんだろうけれど……。
でもそのアタリはさすが、マキノ監督であって、政治家の岩田、悪徳ヤクザの大場とがいて、江戸常がいて、間に挟まる形で同じ木場を仕切る角芳がいるのね。
角芳のお嬢さんと秀次郎は恋仲である。秀次郎は亡き江戸常の親分から後の跡継ぎとして大事に育てられていたからそこらへんは複雑な事情なのだが、江戸常の親分の後添えであるおせいも、おそらく江戸常の親分も、そのあたりはくんでくれていた感じがある。
結局悪徳たちの囲い込みににっちもさっちもいかなくなって、おせいさんが江戸常を解散することになるんだけど、そのことがなくても、親分だって、秀次郎さんを角芳の婿養子にするのがいいと思っていた、みたいなニュアンスがあるんだよね。
なにかね、本当に皆優しくて、それに応えられない秀次郎が、自身の歯がゆさに苦しむ、みたいなのが全編の印象であり、それは彼が仮釈の身だから、ちょっと暴れるとすぐつかまってしまって、台無しになるから、皆に迷惑をかけるから……。
確かにそれがゆえに彼は、たくさんの、多くの人たちを死なせてしまった、といえばそうなのかもしれんよなあ……。
自分を気にかけてくれたお礼を言いたい、と言う、梶芽衣子扮する春代が足抜きだと疑われて追われ、悪徳ヤクザ、大場に格好の理由をつけさせたことに関しては、そのために春代を連れ出した吾作のムチャもあり……まあそれは、吾作が春代に惚れきっていて、ていう切ない理由があってさ。
秀次郎を怒らせるために、ただそれだけのために吾作はいい理由付けが出来たとばかり無残に殺され、秀次郎を想いながらも吾作の優しさに、何より同郷の安心感に甘えていた春代は悲痛の叫びをあげて……。
しかも、大場は更に非情なことに、春代を北海道に更に売り飛ばすというんだもの!北海道がこの当時、それだけ遠く秘境の場であったというのも切ないが……。
クライマックスであるラストはね、秀次郎が大場と岩田をたたっ斬るんだけど、そこまでにも色々あってね。
銀次が妹のおキミを梅吉に託し、自分が死ぬつもりであるのを妹が察してしまう場面もひどく切なく、やはり殺されてしまう場面はもうひとつのクライマックスといってもよく……。
だって大場は汚いの、飛び道具を使うんだもん!鉄砲を飛び道具と言ってしまう、そしてそれが卑怯だと言ってしまうのは、ヤハリ、極道がサムライの精神をどこかで引き継いでて、刀一本、いや、ドス一本で戦うという、そのきらりと光る刃物に神聖さを見出しているからなのだろうと思う。
ばきゅんと放たれ、ドスも繰り出せない銀次。その場に、彼の相棒チックな風来坊が食客として居合わせて、彼をかばって先に銃弾を浴びてしまうあたりが、銃弾、という新しさの前に立ちはだかる、しかしいつまでも消えうせない”兄弟”という絆を感じさせて、おお、なんだかんだいって、やっぱりこれぁ、任侠だ!とじーんとくる。
だって彼はホント、ワキもワキで、この場面と、その前に銀次が談判に来る場面だけしか出てこないんだもん。
でも、その最初の場面で、銀次を送っていくほんの短い場面が、二人の絆を感じさせて、おお、おお、これぞ仁侠映画さっ!とじじーんとくるのよね!!!
……ついつい盛り上がってしまった。だから、クライマックスである。江戸常を解散して、その跡地に長屋を建て直し、秀次郎は角芳の婿養子にする。
確かにそれで大団円。女将さんの想いを汲めば、否と言う訳には行かない。
しかしどうしても大場と岩田が許せない秀次郎は、角芳の婿養子の話は受けつつ、つまりおかみさんの顔はつぶさず、一花咲かせることにするんである。
恋仲の、こんな形ではあっても添い遂げることが出来る手はずが整ったお嬢さんに、決意を告げる。
彼女は涙し、でも彼の決意をのみ、でもお願いだから死なないで、と言う。
いいお婿さんとして行動して、と言いつつのその台詞は、彼が皆まで言っていないのに、さすが判るあたりが……。
確かに彼は死なない。死ぬために斬り込むんじゃないと、賛同してくれた若い衆三人にも言っていた。
その中には、確かに死なせる訳には行かない、銀次の妹、おキミのいい人、梅吉もいたから。
祭りの喧騒に乗じて、神輿を威勢良くもぐりこませて相手の注意を引き、もろ肌脱ぎになった秀次郎たちは大場たちに斬り込む。
お祭りの臨場感、神輿の臨場感、任侠の、江戸の、浅草の鉄火な感じが出て最高。
その中で、見事な連獅子の刺青を背中全面にほどこした高橋英樹が親分の形見の刀を手に斬り込む場面は、さすがマキノ監督って感じで、見事。
すべてが終わり、愛しいお嬢さんの元に戻ってくるラストは、確かに死なないでという祈りは通じたけど、この後、一体何年の間収監され、離れ離れになるのか。
袖で涙をぬぐい、背中を見せる奥ゆかしいお嬢さんと対照的に、勇ましい刺青姿とは対照的に男泣きに泣いて太い腕で涙をぬぐう秀次郎、いや高橋英樹の、少年が野球の試合で負けた時みたいに、純粋極まりない泣き顔のどアップでカットアウトでエンド!
いやー、ビックリした!なんとまあ、斬新な幕切れなことか!ええ!このカットでかい!いや確かに物語は全部収束してるけど……と、のけぞる!
主演の高橋英樹に対して、ぼんやりしたイメージやなあ、などと思っていたこっちのドギモを抜き、確かに彼のイメージを鮮烈に残してしまうラスト!!
思い返してみるに、南田洋子が高橋英樹の義母と言うのは凄い設定だったと思う。いくら後妻とはいえ年齢的にもねえ、ちょっと若すぎるんだけど。
でも彼女が、自分は守りきれなかったけど、でもこの江戸常のおかみであり、そして秀次郎を本当の息子と思っていた、と親分の遺影の前で言い、秀次郎もぐぅっと涙して、やっとおっかあ、と言うのね。
かなりじっくりと撮っていることからも、監督も大事に思っていることもが感じられるシーン。血がつながっていなくても、大事な絆、というのは、確かに任侠の大テーマであるしさあ。
彼女が若いこともあいまって、なんとも萌える場面だが、しかし若い後妻とはいえ、女将さん、素晴らしい貫禄で、イイ女なの!★★★☆☆
この映画が映画史に残る傑作なのは、そんな部分じゃないのだ。人間の、日本人の、アイデンティティであり、潔く散るサムライ精神であり、一方でどんなにみっともなくあがいても、尊い命なのだと、生き抜くんだという気持ちであり、そして人を、いや人間を信頼する心であり……。
こんな風に言うとひどく道徳的で平凡に感じもするんだけれど、それをこんなに真の意味で、心に直球でズバンと入ってくる映画は実は意外に、意外じゃないかもしれない、ホントに、なかったかもしれない。
私は私はただただ……胸が熱くなるのを抑え切れなかった。
いや、もちろん、スペクタクルの部分も、凄いんだよね。それもね、本当に本当に、圧倒された。
いや、ね。そりゃあきっと、現代の方がずっと技術も発達しているし、リアルさで言ったらどちらに軍配が上がるのかは明らかではあるんだよね。
でも、よりリアルであればより迫力が増すのかと言ったらそうじゃないんだということを、本当の意味で本作で実感したのだ。
そう、2006年版は観ていないけれども、なんたって監督が樋口真嗣氏だから、その点で迎え入れられたのは想像に難くなく、さぞかしリアルで迫力のある“日本沈没”っぷりが描かれたんだろうと思う。
でも、その点で迎え入れられた、って時点で、実は間違っているんだよね。いや、観ていないんだから無責任なことを言うべきではないんだけれど……本作が胸に迫るのはそこじゃないんだもの。
まあ、そうリメイクを観ていないからなあ。その点もしっかりと踏襲されていたのかもしれないけれど。
でも昨今の“リアルなスペクタクル”に、過去映画のそれほどに恐怖や圧倒を感じないのは、リアル過ぎるからなんじゃないかとも思うからさ……。見事にその街そのものを再現して、その街そのものが壊れているとしか思えない、本当に見事な再現力。
そうなるとね……ほおーっと、感心こそすれ、それが本当に失われていく恐怖を感じるのは二の次になってしまうのだ。ていうか、あまりに見事すぎて、それが現実味として感じられない。
パソコンやらなんやらで、それに近いことを私たち末端の人間も出来てしまうから、どんなに見事に作られてもあんまり驚かないっていうのも、ある。
しかも、見事に作れば作るほど、なんか執拗に、見事だろーって、見せ方をする気がするんだよなあ……。だから間延びするっていうか……。
リアルに見せきれない時代の映画は、ひょっとしたらそのへんの理由で、ボロが出ないうちにとカットを短く割っていたのかもしれないけれども、そのリズム感、畳み掛ける感が見事なんだよね。
それにね……そりゃあ明らかにミニチュア使っているとは判るんだけど、判るのに、なんであんなに迫力があるんだろう!
それは、逆にミニチュアだからという気もする。ものすごく、あっけなく壊れるのだ。あっけなく、木っ端みじんになる。それは、その時代の、耐震だの免震だの考えていない住宅だから、かえってリアルである。
いや、今と変わらぬ大都会のビル群だって、あっけなく木っ端微塵になるからこそ、ひどく恐ろしいのだ。炎や洪水に、ズシャアッ!と一瞬で飲み込まれてしまう。
これはね、実はミニチュアゆえの迫力なんだよね。んでもって、先述のように実にリズミカルに畳み掛けるから、逃げようがなくて、もう本当に恐ろしいのだ。
関東大震災を経験しているおやっさんが「火さえ出さなければ大丈夫だ!外に逃げ出すほうが危険だ!」とグラグラ揺れる家の中で、バッコンバッコンモノが落ちてくる家の中で必死に耐えている様子は、一瞬コントのように思えてクスリとさせられるところで……まさにそんな観客の気持ちを読んだように、間髪いれずに、決壊した大洪水が襲ってくるのだ!
もうあの、もうあの、恐ろしさときたらない……本当に、クスリとしてしまった矢先だったから、背筋からゾオッと凍り付いてしまった。
本格的な日本沈没が起こる前の予兆のように、いわばツカミで首都が大地震に襲われて未曾有の被害をこうむるんだけれど、つい最近、NHKの特集番組でゲリラ豪雨が起こると川の多い首都圏は簡単に決壊してあっという間に水が流れ込んで水没する、なんてのを見てしまったせいもあって、ひどくひどく、恐ろしかったのだ……。
勿論この場面は、消しようのないほどあちこちから火の手が上がって、自衛隊の消化弾も底をついて、手の施しようがなくなってしまうほどに燃え尽くすという恐怖が第一義で、これも、もう気持ちの持っていきようもないほどの恐ろしさなのだが(無線でその報告を聞く隊員のボーゼンとする表情がね!!)、突然襲ってくる水の恐怖はえもいわれぬものだった。
そして、これは伏線で、本格的に日本沈没が起こってくると、焦って小さな漁船で逃げようとした民衆をグワッと巨大な津波が襲うシーンも恐ろしいのだよ……。
これもカットバックの妙で、飲み込まれるシーンがリアルに再現される訳じゃないんだけど、うわあっ、と凍りつく船の上の人たち、グワアと襲ってくる大波がカットバックで畳み掛けられる。その、恐ろしさ。これこそが映画のマジックだよなあ、と思う。
なんかね、時が経って色とか劣化しているせいかもしれないんだけど(爆)、煙やらなんやらも効果的に使ってるし、あんまり細部のことなんか気にならないんだよね。ていうか、細部のことを気にしないからこその、迫力なんだと思うなあ。
今は細部を気にし過ぎる。実は「ALWAYS 三丁目の夕日」が言うほど胸に迫らないのもそのせいのような気がする。
……なんか、スペクタクルが本質じゃないとかいいながら、スペクタクルのことばかり言っちゃったけど(爆)、でもそれも素晴らしいからこその、傑作なんだよなあ、と思う。
でもね、でもでもでもっ。そう、本質はそこじゃないのだ。人間が、私たち日本人が、国土を失うということはどういうことなのか。国土を失って、世界全土に散り散りになっても、日本人としてのアイデンティティを保っていけるのか。
いやそもそも、日本人はこの島国にしがみついて生きてきすぎた、外に出なさ過ぎて、その問題に直面したことがなかった。四つの島に抱かれてぬくぬく生きてきた、なんて台詞が(あ、でもこれじゃ沖縄が入ってない……)グサッと突き刺さる。
日本人だから日本にいるのが当たり前という考えを当然のように持っていて、そもそもアイデンティティというものは国土などという、単なる地面の問題なのかということを考えることすらなかった。
だから外から入ってくる外国人にも冷たく、守られていることにノウノウとしていたのだ、ということを、本作は残酷なまでに、まっすぐに、描いているんである。
考えてみれば、あの小松左京なんだものなー。スペクタクルだけで終わる筈はないのだ。しかしこんなにも、こんなにも、深い哲学、思想をはらんでいるとも思わなかった。
あのね、本作の主人公は若くて血気溢れる小野寺という青年なんだよね。潜水艇の操艇者であり、この物語の中で、政略結婚の相手として紹介されたセレブなお嬢様と出会い、しかしこんな事態になってそんな大人の事情も崩壊して、真に運命の相手として燃える様な恋をする。いわば青春映画としての側面は彼と、その相手となる彼女が一手に担っている。
小野寺を演じるのが、若くて野性的な美しさをプンプンと撒き散らしている藤岡弘であり(顔はまんまなのに、う、美しい!て、失礼か……(爆))、そのセレブなお嬢様がいしだあゆみという豪華な布陣。
瀟洒な別荘でシャンパングラスを傾け、海岸の岩場で濡れた水着姿で抱き合う二人は、ほどよくエロも感じさせて実に萌えるが、そう、それはある意味、本作を商業映画たらしめている部分なんだよね。
なんてまで言うのはヒドいか。彼らが日本脱出する前に彼女の方が噴火に巻き込まれて離れ離れになり、その後、お互いを捜し求めてボロボロになりながらさまようシークエンスはズーンと胸に迫るのだけれど、でもやっぱり、本作の凄さはそこじゃ、ないんだもの。
あのね、本作の真の主人公は、首相だと思うんだよね。演じる丹波哲郎氏が素晴らしすぎる。私、初めて彼を、役者として素晴らしいと思った(爆)。ひどいな、私(爆)。
いや、丹波哲郎は丹波哲郎でしかない素晴らしさは得がたいものだとはそりゃあ思っていたよ。でも、彼は役者だったんだなあ(当たり前だ。あまり見てもないくせに、ヒドい言い草だな、私)。
彼はね、奥さんに言われるまでもなく、史上最も地味な首相で終わる筈だった。そんなタイプの総理大臣だった。でも、その治める日本そのものが失われることが確実になる。1億以上の民を諸外国に受け入れてもらわなければならなくなる。
それでなくても外交下手の日本が。ていうか、そもそもそんなことは可能なのか。散り散りになった日本人は、日本人ではなくなってしまうのではないか。それとも外国のどこかに小さくてもいいから日本の国家を再建し、日本そのものを守り抜くべきなのか、それとも……。彼は苦悩に苦悩を重ねるんである。
その間にも、前哨戦となる首都をほとんど壊滅してしまうような大地震も発生するし、自らの命さえ脅かされる中で、そんなことを考えなければならない。一番地味だったはずの、首相が。
でも、この“一番地味だった筈”ていうのは、実は常に現時点での総理大臣がそうだったらいいなと思っていることなんじゃないかという皮肉も感じたりするんである。
自分が首相の間は、あまりメンドーな問題は起こってほしくない、と。そして大抵の場合はそういう訳にもいかず(常に何かが起こるのが、国家というものよね)、その難題にアッサリ屈して退陣していく総理大臣を、現代の私たちはあまた見すぎているもんだから……。
外国から攻撃されるとかどころじゃない、日本の国土そのものが一気に沈んでしまうという、考えもつかない事態に立ち向かわなければならない彼、丹波哲郎氏がとにかくとにかく、素晴らしいのだ!
あ、そうか、考えてみればこれって小林桂樹特集の一本だし、主人公は藤岡弘とか言っちゃったけどクレジットの最初に出るのは小林桂樹だし、なんたって最初に日本が沈没することを示唆したのは彼が演じる田所博士なんだから、田所博士が主人公なのかなあ。
確かに田所博士も非常にユニークで魅力的なキャラなんだよね。一晩で小さな島が水没してしまった事件から、海底調査に乗り出した彼は、ただならぬ事態を察知する。
これまでに前例がないから確固たることは言えないけれど、でも彼は科学者としてのカンを信じて、日本沈没を予言する。
荒唐無稽を冷笑する、事なかれ主義で生ぬるい日本の学者たち、政治家たちに、敢然と立ち向かう。テレビに招かれて大暴れしたりするのもご愛嬌である(純粋すぎる小林桂樹、ちょっと、カワイイのだ)。
後に、海外の有力な機関や科学者がその説を、こちらが先に発見したのだとばかりに高らかにうたいあげ、日本全土が、博士が先に予言していたことなど忘れてパニックに陥った時には、彼はもう姿を消しているのだ……。
最終的に日本と心中することを選ぶ博士は、できうる限りの日本人を救って、自らも生き延びる首相とは対照的な位置にいる。日本人的美意識で言えば、確かに博士の潔さこそがサムライなのかもしれない。
でも、やっぱり、総理大臣を演じる丹波哲郎なんだよなあ!あのね、田所博士も懇意にしている、もう100歳にもなる伝説の老人がいてね、なんかとにかく、力のある人物なのよ。で、この老人に教えを請うのだ。突如国土を失う、日本の、日本人のありかたを。
もちろん総理大臣の立場として、彼は早くから動く。彼は最初から田所博士を高く買っていて、秘密裏に調査チームを設立させていたし。
そのメンバーに小野寺が引き抜かれ、小野寺のパートナーだった結城(夏八木さん、わっけー!なんか、杉本哲太に似てる!)も後に参加し、メンバーの一人の二谷英明氏のニヒルな美しさがまぶしかったりして(爆。彼の美しさにはヤラれたなあ)、これって、ホンット、オールスター映画なのねと思う。
で、なんか脱線したけど(爆)。そうそうそう、その老人がね、懇意の専門家にこれからの日本人の行く先を考えさせて、丹波氏演じる総理大臣に示すのよ。
それは、散り散りになって、つまり移民となった日本人の場合、どこかに国家の体裁を作らせてもらった場合、そして……。
3人の専門家が考えて考えて考えた結果、三人の個人的な意見なれど、でも三人一致した意見は……このまま何もしないこと、このまま日本人は沈み行く国土ともに滅びるのがいいということ、だったのだ。
あのね、この論を聞いた時にはもちろんビックリしたし、そして、あ、これはやっぱり原作小説の思想があるから……とも思ったんだよね。
でもね、これを聞いた総理大臣の丹波氏がね、見開いた瞳をみるみるうちに充血させたのだ。涙がこぼれるまでは、そこからしばらく間があったんだけど、そのみるみるうちの充血に、うわっと思ってしまった。
最終的に彼が、血の涙かと思うほどの涙をこぼす時にもグワッと思ったけど、このみるみる充血には、本当に……心臓を、つかまれた。
だってきっとね、彼はね、心のどこかでそう思っていたに違いないから、だから、そんな反応を示したに違いないんだもの。
そうでなければ、総理大臣として、国民を救い出す義務があるんだから、こんなサムライ精神にもほどがある思想を聞かされたら、怒ったって、鼻で笑ったって、良かった筈じゃない。
自分の中で思っていたことを、ふいにつかれたからこその、この反応としか思えないんだもの。
だってやっぱり、日本人の中には、今の時代だって細々と、いや脈々と、そんなプライドが存在する。それは先述のように囲われて、外の世界を見ないが故の矮小なプライドかもしれない。
でも諸外国から、消え行く日本を現代のアトランティスか、と言われた時にね、何も知らずに滅びるしかなかった伝説の大陸を、ふとうらやむ気持ちが芽生えたのは事実かもしれない。そんなこと言ったら、古代から時空を越えて激怒されそうだけど……。
そして、そう、科学技術が発達したこの時代には、判ってしまった以上は、どんなにそれがひとつの思想として美しくても、逃げて、生き延びなくてはならないのだ。
今でもあの丹波氏のあのシーンを思い出すとゾウッと総毛立ち、頭がカッと熱くなり、ぼろぼろぼろぼろ際限がなく涙がこぼれそうになる。
自体が科学的にもハッキリして、諸外国に助けを求める段階になる。このシークエンスが非常にきちんと描かれているのが、本作の強みであるように思う。
国連会議で、移民を受け入れた実績のある国が、それとは全く規模が違う膨大な流入に懸念する発言、そもそも事態が切迫していないために半信半疑で、移民受け入れが遅々として進まないイライラといい、すんごいリアルなんだよね。じりじりと沈没が迫っているだけに……。
そう、まだこの危機が世間的に受け入れられていなかった時から、首相の肝いりで作られていた特命チーム。専門知識に詳しくない首相をいわば観客(つまりは国民)の代弁者として、彼に対して火山活動や大陸移動、そしてそれが史上かつてないパワーとスピードで日本を襲っていることを説明するんだけど、これが本当に、まるで授業を受けているみたいに丁寧で、判りやすくて、微に入り細をうがち、なんだよね。
示す資料も凄く判りやすいし、なんかホント、授業をうけているみたい。食い入るように見つめている総理大臣の丹波氏がちょっと可愛く見えたりしてさ(爆)。
もう、本当に、国土がほんのちょっとしか海からのぞいていなくって、外国の助けも近寄れなくなって、総理大臣が救助打ち切りを宣言する。辛すぎる……。
総理大臣は、老人の進言も重く受け止め、それでも、日本人としてみっともないかもしれなくても、愚かかもしれなくても、なりふり構わず、一人でも多くの国民を助けようと思った。
それは、そんなムズカシイことを考えずに、恋人に会えることを信じて同じことをやっている小野寺氏と重なるのも、もの凄い感慨深いのだが。
でもねでもね、最も感慨深いのはやっぱりね、総理大臣が、人を信じる、人間を信じるから、そうするのだと、言うことなのだ。
このまま何もせずに日本人は滅びるべき、その言葉にも、サムライ精神、滅びの美学がどうしようもなく息づく日本人である彼は大きく揺さぶられる。
でもね、例えこんなギリギリになっても、日本が沈むと判ってからでも、諸外国は動いてくれた。
恐竜は隆盛しすぎて滅びた。でも恐竜は爬虫類、冷たい血の持ち主だ。人間の血のあたたかさを信じたい。信じるしかない。そう、彼は言ったのだ。
私ねえ、こんな、ある意味、単純で平凡で陳腐にさえ聞こえそうな言葉に、こんなに、雷に打たれたみたいに揺さぶられるなんて、思いもしなかった。
それもこれも、これをスペクタクルをメインにせずに、人間がどう生きるかを、アイデンティティとは何かを、真摯に、真摯に、見つめて、ギリギリに追いつめて作ったからに他ならないと、思うんだ。
そして、総理大臣があの老人から託された、年若い姪っ子。
いつも地味な和服をきちんと着て、言葉少なに老人に付き添っていた女の子が、人生の終焉を日本と重ね合わせてここに留まる老人に、世界のどこかで、誰か日本人、いや、日本人でなくてもいい、とにかく、元気なややを産めよと言われて、黙って頷いて静かに涙を流すのが、側に控える、彼女を責任を持って脱出させる丹波氏の決意の姿もあいまって、もう、もう、たまらんのだ!
ほんっとにね、この姪っ子に、作品のテーマが託されていたと思う。
老人は最初、誰か日本人の相手を、と言った。それは、国土がなくなって、アイデンティティの危機に瀕しても、日本人であることを失わないでほしいという気持ちから出たのだと思われた。
でも、即座に、日本人でなくても、誰でもいいから、と、言うんだよね。本作でここまで、じわじわと示されてきた重いテーマ。この島国の中でぬるま湯のように生きてきた日本人が、傲慢と言ってもいいほどにそのアイデンティティを振りかざしてきたこと。そして、だからこそ、世間知らずの日本人を、本当の危機に接するまでには諸外国がなかなか助けてくれないこと……。
日本人であることは確かに大事だけれど、でもそれ以上に、生きていくこと。いや、自分自身として、生きていくことなのだよね。
その自分自身が世界のどこかに生きている、誰を愛するのか、それは、もはや国土を失った日本人が日本に固執することは無意味だし、ていうか、失ったからこそそれが判る。国土があろうとなかろうと、それは無意味なことなのだ。
女が子供を産む、そのアイデンティティに言及した老人は、数十年経った今の時代には哀しくもなかなか通じない部分もあるんだけれど、でもそれが素直に通じた時代がうらやましいと思ってしまった。
ラストは小野寺が、愛する人を探し出すまでは日本を離れない!と救助活動を続けているのがアメリカのマスコミに取り上げられ、日本のサムライとしてほめそやされる。
しかし彼が逃げ延びた先と、レイコが逃げ延びた先は違っていて、お互いが無事かどうかも判らないまま終わる。ここでカットアウトなんだから、実際やっぱり、藤岡弘といしだあゆみが主人公だったのかも、なあ。
でもでも!とにかく予想外の大傑作。こんなに圧倒と興奮と感動と……言い切れない感情に満たされて、椅子に沈み込んだまま動けなくなるなんて、なかなかないよ、ホント!
しかしこうなると気になってしまう2006年のリメイク。オリジナルが非常に鬼気迫っていただけに、全てに恵まれて“しまって”いる現代のリメイクがどうなのか……。
観てガッカリするのヤだから、観るべきかどうか、誰か教えてください(爆)。
韓国、北朝鮮に上陸すると不法入国になってあげてもらえないとか、まあ、北朝鮮はいまだにきっとそうだろうけれど、なんかそういうところにもふと時代を感じてしまったなあ。★★★★★