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「い」


2012年鑑賞作品

生きてるものはいないのか
2011年 113分 日本 カラー
監督:石井岳龍 脚本:前田司郎 石井岳龍
撮影:松本ヨシユキ 音楽:石井榛
出演:染谷将太 高梨臨 白石廿日 飯田あさと 高橋真唯 田島ゆみか 池永亜美 札内幸太 長谷部恵介 師岡広明 羽染達也 青木英李 田中こなつ 渋川清彦 津田翔志朗 芹澤興人 杉浦千鶴子 村上淳


2012/3/26/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
元・石井聰亙監督である彼がこの10年間どうして映画を作らなかったのか……は本人が言うように、ただ単に最後まで企画が進まなかっただけの話なのだろうけれど、10年経って、しかも名前まで変えて、しかもしかもこんな映画を撮って現われると、ただひたすら???で。

まあそのう、ありていにいうと、そのう……つまんなかった。それじゃ身もフタもないけど。
ただ単に判らないとかいうのならまだアレなんだけど(アレってなんじゃ)、“ただ人が意味不明に死んでいく”その描写を延々と見せられるだけなんだもの。なんか、飽きちゃって。

うわ、私、サイアクだな。そこから意味を汲み取ろうという努力もせんのか。
いや、したよしたよ、結構した……と思う(爆)。劇中でも語られるように、これは世紀末……は越しちゃったけど……的な世界の終末なのかとか、人間のエゴに対してついに天からの鉄槌がくだされたのかとか、ネットや何かで全てが判ると思っていたのが、あっという間に死んでいくからそのヒマもなく人類全滅ってあたりにアイロニーを感じるだとか、ひねり出そうとすれば、なくもないのかもしれない。

でも、それって、すんごいベタだし、そう思わせるだけのものもなかった……ような気がする(とことん弱気)。
正直、石井監督突然現われてどうしちゃったのと思ったが、これは気鋭の劇作家で芥川賞候補の作品も持っている若い作家さんの戯曲なんだという。不条理劇の傑作として名高いんだという。そそそ、そうなの?

……いやさあ、もう更に弱気になっちゃうけど(爆)。もうそういう肩書きとかメッチャ弱いから(爆爆)。石井監督がこの戯曲に惚れ込んで、台詞も何もほとんど変えずに臨んだというから、さあ。
だとしたら、もしその演劇、その板に乗った芝居を見たら、私はどう思うんだろう……。
あんまり演劇自体を見る機会もないし、不条理劇自体見る機会なぞ皆無だし、不条理が判るほど頭良くないし(爆)。
んー、でも、次々人が死んでいく、その死に様も様々で実にアクティブ(というのもおかしいけど)で、ヴィヴィッドな会話がぽんぽん応酬される、ブラックなユーモアもあったり、というのは、舞台で見たら、すんなりと面白そうな気がする。

……ならばなぜ、映画では、ていうか、本作では、(少なくとも私にとっては)ダメだったのか??
あのね、その、会話、ね。私、この早口の大学生たちの会話、そう、舞台は大学で、死にゆく人々はほとんどが学生さんなんだけど、その日常生活のリアルな会話、これにひたすら重点を置いていることに、ちょっと違和感を感じたんだよね。
原作が戯曲で、中身をほとんど変えていないという経緯を知っていれば、そんなことは思わなかったかもしれないんだけど、何かこう……“大学生のリアルな会話劇”を示すために作り上げた作劇のように、思ったの。

石井監督が大学で教えているなんてことも知らなかったし、その大学や学んでいる学生さんたちが多数参加していることも、ラストクレジットにてああそうかと思ったぐらいだったんだけどね。
でも見ている時から……ゴメン、この言葉はキライなんだけど、他に適当な言葉が見つからない、ウザくて(爆)。

勿論、染谷君や高橋真唯嬢など、実績も実力も充分な役者たちも混じってるし、年かさの役者たちにもムラジュン、渋川氏、  氏、「ソーローなんてくだらない」で衝撃を受けた芹澤氏と、芸達者ぞろいではある。
でも監督の意識がまさに、現役の学生さんたちに集中しているのは見てると、判っちゃうじゃない。見てる時は彼ら学生さんたちにリサーチして、リアルな今の学生の会話を作り上げたんだと思ったの。
まあ、そう思わせるだけに確かにヴィヴィッドだったのかもしれない。リアルかどうかは、今の大学生に知り合いがいないから判んないけど(爆)。
でもそれが……そのことさらに“リアルでヴィヴィッド”な感じが、ひどくうざったく思えちゃったんだよね。

上手く説明できないんだけど、例えば「都市伝説とウソの違いが判らない」ということに関して女の子三人で応酬する会話の感じとか。うーん、上手く説明できないけど!ていうか、ウソじゃなくて、噂だったかな。それを覚えてない時点でダメじゃんと思うけど(爆爆)。
なんていうのかな、「え、なになに、それって何が違うの、判んないんだけど」と早口で繰り返される感じ。それが、アイドルの話だろうが、都市伝説……ひいては研究テーマ、つまりは勉強のことだろうが、同じ感じ。
なんか……これが今の学生だって言われたらもうそこで終わっちゃうんだけど、あまりに頭悪そうで(爆)。ヴィヴィッドとか言いつくろっちゃったけど、つまりはそういうことで(爆爆)。

それはね、もっと深刻な事態を抱えている女の子二人と男の子一人の場面、一人の女の子は身ごもってて、でももう一人の女の子と男の子こそが恋人同士らしくって、しかし男の子は全く緊迫感がなく、黒糖パフェの黒糖たる由来が気になっていたりして、女の子二人からイライラされる、という会話劇においても、ね、そうなの。
この設定、男の子の緊迫感のなさを不条理として見立てて、女の子二人が巻き込まれていく面白さとしての会話劇なんだろうと思う。まさに、演劇スタイルではあるんだけど……。
あ、なんか、私、ここで、ふと、やっぱり演劇(舞台)と映画は違う気がする、共通させちゃダメだって、気がした。

演劇ではね、特に会話のヴィヴィッドを大事にする、気がする。役者がナマで舞台上で演じるんだから、台詞を忘れるとかアドリブとかも、演劇の醍醐味である。演出(あるいは脚本家)の思いがテーマにあったとしても、見せる部分は役者の会話劇、だよね。
でも映画は多分、違うのだ。舞台に乗ってしまえば役者のものになってしまう演劇と、すべてが監督のものとして作り上げられる映画は、違うのだ。本作に対するつまらなさや違和感の原因を探るとすれば、そういうことなのかもしれない、と思う。
確かに、この身ごもった女の子とその相手の男の子、その彼と彼女たちの会話劇は見事だよ。養育費を払ってくれればいい、それは結局私(男の子の恋人)が払うことになるんでしょ、子供は半分は彼のものなんだから……等々と女二人がありがちに現実的なやり取りをしている最中、彼が穏やかに差し挟むのが、父親が示すのは金銭的なことではないとか、皆が幸せになるにはどうしたらいいのかとか、トンチンカンなことばかり言う訳。それもザ・草食系な風貌で。

この会話を、舞台で聞かされるのと映画ではやっぱり、違うのよ。なんで、違うんだろう……。
この会話をカットバックで見せられると、なんでこんなにイラッとするんだろうと思う。だってメインはそこじゃないじゃん、と、次々人が死んでいく不条理を見せるんでしょ、と、舞台を見ているなら思わないであろうことを、思っちゃうんだよね。
なんでだろう、なんでだろう。別に、役者の問題ではない……と思う……判んない、彼らは学生、石井監督の教え子っぽいし(あ、彼だけか)。
この、「あんたら判ってないでしょ」感をカットバックでやられるイラッと感がもう、言い様がないんだよね。

そう、そもそもなぜ突然彼らが死に出すのかは、判らない。舞台は大学のキャンパス、併設された大学病院あたりからは一歩も出ないあたりは舞台的ではあるけれど、ネットで調べれば世界中でこの現象が広まっていて、その謎を解く暇もなく死んでいく、ということらしい。
学生たちが研究している都市伝説で、大学病院の地下にて軍主導の殺人ウィルスが作られているとかいうまことしやかな展開もあるが、それも「私の友達が喫茶店で作った話」とアッサリ喝破されてしまう。

先輩の結婚式で披露するダンスを踊る途中いきなり倒れてたリ、他愛ない会話をしている途中「酢こんぶのせい」で咳き込み始めた筈が……というその先の死に様を、若い役者たちが嬉々として演じていて、確かに最初のうちはね、新鮮で、衝撃的なのよ。
まあ、戯曲にもあった死に方もあったみたいだけど、ダンスの女の子の、しきりに何かを食べるしぐさとかは。激しく痙攣したり、意外にあっさりこときれたり、まあ様々なバージョンはあるにしても……ちょっとネタ切れ気味(爆)。
とにかく、人が死んでいくのを延々と見せるから、そりゃあ相当新鮮な死に方じゃないとさ(爆)。

ふっと、思い出した。新藤兼人監督の「ふくろう」。娼婦を買いに来た男たちが毒を飲まされて、次々に死んでいくブラックコメディ。
客を演じる役者たちは、死に様の演技を任されて、これが皆、実に見事に、新鮮だった。鮮烈に、覚えてる。
まあ、ほんの数人だってことも、勿論ある。本作は死にすぎだから、そりゃあネタも尽きる(爆)。人が死ぬのは確かに芝居的には魅力的な題材だけど、限度もあるし、ワザの精度もあるさね。ひたすら見せられても、そりゃ飽きるさあ(爆爆)。

まあ、それでもそれでも、ムラジュンやら染谷君やらが出てくるんだから、やはり何となく期待はしちゃう。それでも、なあ。
ムラジュンはやけに思わせぶりに、異変が起き始めた外の世界から「具合悪い」と奇妙な相棒と共にやってくるけど、散々もったいつけた挙句に同じように死んじゃう。相棒もまた、しかりである。
そのくたびれた風貌と、魚大好きなアフロヘアの相棒とびったりくっついている様子はヘンなラブリーで面白いけど、数少ない外からの人間が、これだけ散々もったいつけて、色んな学生と関わらせて死んじゃうのって、さあ。

いやさ、確かに映画は時に説明過多よ。キーマンとなる人はキーマンとして活躍しなきゃいけないというベタな先入観は、時としてつまらないとは思う、けど……。
本作はそもそもそういう展開は微塵もないからさ。一体何が見せたいの、会話劇が見せたいの、死に様のバリエーションを見せたいの、無意味に(ってオバサンは思っちゃう!)うるさくかぶせてくる音楽を聴かせたいのなんてイラッとしちゃうの!
このアフロな男の子はちょいと魅力的だったけど、彼は学生さんなんだね。年の離れたプロの役者であるムラジュンの存在感に全く臆することない、作らない、ぼーっとした魅力が良かった。役者になればいいのに。
ムラジュンが彼の知らない友人に嫉妬するのも自然に思えて、彼らの場面はちょっと、ほっこりしたかも。

そう、染谷君が出てるのよね。ポスターにも使われているのは、ここ最近の有名度によってかなあ。まあでも、最後に、ひょっとしたら地球上最後に生き残る人間なんだから、当然かな。
彼は学生たちと同じような年頃なのに、学生役ではない。あの、女の子二人と男の子とで、身ごもった赤ちゃんをめぐって実りのない議論を続けているカフェテリアのウェイターさんである。
注文を取り、「こんな話し合いなのに浮かれた飲み物」キャラメルなんとかにアイスクリームのトッピングとか、黒ごま豆乳ラテとかを繰り返す。

大学病院に入院していた女の子、一番最初にこの異変に気づいた女の子がカフェテリアにやってきて、先に死んだ男の子のそばで死にたいと言っていた恋人の女の子をそれなら、と首絞める。驚くウェイターさん。
この女の子、海を見たいという。一人で行きたいと言う彼女に、彼は口説き落として一緒に行くことを承諾させた。どれぐらい離れていたら一人と思えるか、と検証するシーンは、ここはちょっと、良かったな。

そうそう、私の好きな渋川氏は、大学病院に勤める義妹(腹違い)のところに押しかけてくる問題アリの兄役。しかし彼がどのよーに問題ありな兄貴なのかは、そのほかの人間関係と同様、全く判らずに終わってしまう。
すんごい、存在感タップリだし、この大学に入学してきた有名人であるアイドルグループ、“東方見聞ロック”の彼とのやりとりも面白いのにさ。

このアイドルの彼、お尻を抑え続けているから下痢かと思ったら、「お尻から何か出てきている!」下痢じゃないの?どうやら違うらしい……。
「見てくれませんか?」と必死に請い続けて誰からもそれを叶えられず、せめて死ぬところを見守ってほしいと望みながら渋川氏につきまとい、ソデにされるシークエンスはちょっと面白かった。
しかも、結局しつこくつきまとった彼の方が長く生き延びてしまうというのもね。

で、その渋川氏の美人な妹に懸想する同僚医師も、なんたってあの芹澤氏が演じているんだから、もうアク度アリアリなんだけど、それは死んだ後に彼女に渡されたカセットテープの音痴まるだしのギター弾き語りぐらいにしか反映されてないしなあ。まあつまり全篇、そんな感じなんだけど……。

最後の言葉を何にするか。クリームシチューと叫んで死んだ男の子に対して「最後にそんな、ドロドロしたもの食べたいと思うかなあ。もっとさらっとしたものを食べたいと思うんじゃないのかなあ」……これは、いかにもなボケで最も笑えず。いくら原作戯曲を大事にしているからといっても、映像にした時のユーモアのリアリティはもうちょっと考えてほしい。
「ありがとう、世界!」最期に選んだ台詞がカブッちゃった!というのも、なあ。こんなとこでそんなギャグやられても……。

最後のシーンは、染谷君がついていった入院していた女の子も死んでしまって、周りも死体だらけで、一人夕暮れの高台に残される。
不治の病らしかった女の子は、自分が死んで世界がなくなるのも、周りが死んで世界がなくなるのも一緒、とこの事態を喜んでいる風。新井素子氏の「ひとめあなたに……」がまさにそういうメインテーマから始まったことを思う。
つまり、新鮮に言い放ったこのテーマも、それほどオリジナリティがある訳じゃなくって、今のこのまさに世界が崩れかけている状況での新鮮な説得力は、旬の染谷君をラストに残してもなかなか、難しい。

それにね……人間だけが、人類だけが死に絶えるのかと思いきや、夕暮れの空、家路に帰る鳥たちのシルエットが瞬間、力を失って落ちていく。魚を愛するサカナ博士が、他の生き物は大丈夫じゃないのと聞いて安堵していたのに。
こうなると、ますます本作の言わんとしたいことが判らなくなる。もともとそんなものはないの?不条理とはそういうこと?
鳥の群れのシルエットが落ちていく映像、あるいは飛行機雲をたなびきながら飛んでいた飛行機が、突然軌道を落下させていく映像に、ほおお、今の映像技術は大したもんやとか感心してちゃ、そこが要点じゃないよなあ。

ていうか、単純に、シンプルに。どこがいいのか、全然判らないよ。★☆☆☆☆


愛しきソナ
2009年 82分 韓国=日本 カラー
監督:ヤン・ヨンヒ 脚本:ヤン・ヨンヒ
撮影:ヤン・ヨンヒ 音楽:Marco
出演:ヤン・ヨンヒ 

2012/7/24/火 劇場(テアトル新宿)
「ディア・ピョンヤン」の時にも書いたんだけれど、同じシチュエイションの時に撮られた別素材が使われていることもあって、そして何より続けて観てしまったせいもあって、この二本で一本、みたいな感じで見てしまう。
本作は姪っ子のソナに焦点を当てて描いてはいるけれど、勿論ソナだけではなく彼女の親兄弟も出てくるし、何より監督のお父さんの闘病にもかなりの尺が割かれているので、余計にそんな感覚を起こさせるんである。

そう思うと、北朝鮮という国を、朝鮮総連幹部の両親を導入部として観客に解説する形で入っていった「ディア・ピョンヤン」に比べて、本作はまずは家族の物語、といった感は大きいかもしれない。
ランボーに言ってしまえば、北朝鮮はおいといてもひとつの家族の物語として大いに成立する……というのはやはりランボーだな。北朝鮮というファクターがなければ、この家族の分断はありえないんだから。

でもふとそんなことを思ってしまうほど、このあたたかな家族たちが魅力的で。
次兄の二番目の奥さんも三番目の奥さんもメッチャいい人で、いい人だらけで、二時間しかガスや電気が通ってないのに(!!)その中でもてなしのごちそうをあんなに作っちゃう。もうそれだけでじーんと来ちゃう。

おっとっと。なんか思いっきりすっ飛ばしてしまった。すっ飛ばしてしまったと言っても……そう、電気が一日二時間は衝撃であった。北朝鮮はいちいち衝撃ではあるんだけれど……。
でもいきなりそこからではない。でもどこから。えーと、どこから。もう満載、ありすぎて……。

そう、でも、ソナだ。ソナ。本作のもともとのタイトルは「ソナ、もう一人の私」であったらしい。映画祭に出品してた頃の記事を見るとどうやらそうらしい。
劇中も監督は、ソナにもう一人の自分を見る。でもソナと監督はあまりにも環境が違う。愛国教育を受けながらも自由を謳歌した、と「ディア……」で監督が自身の生い立ちを語っていたことを思うと、実はちょっと??とも思っていた。

でも、まず何よりただ一人の姪っ子、他は全員男の子、その誰もが素直で可愛いけど、でもただ一人のおしゃまな女の子のソナは確かになんとも愛くるしくて。
それこそお兄ちゃんたちに可愛がられ、慈しまれてスクスクと育ってて(腹違いなんてことを微塵も感じさせないあたりが泣かせるんである)、監督もまた他の甥っ子たちのように、ソナを特別な存在として感じるのも無理はない、単純にね、と思う。

監督はお父さんから再三、結婚はしないのかとせっつかれて、まあその点に関しては、日本人もアメリカ人も韓国人もダメだ、朝鮮人でなきゃ、という点で衝突してたりするんだけど、でもとりあえず、この時点で監督は独身である。
なあんとなく、そこんとこは同じ立場として(爆)、かわゆい姪っ子にメロメロになるのは判る気がするんである。自分の子供になるなら男の子を溺愛もするんだろうけれど、親未満の時には(爆)、姪っ子って可愛いんだよなあ。そうか、それは自分の分身として見ているからなのかなあ。

監督が、ソナを自分の分身として見ていることに今ひとつピンとこなかったけど、お兄ちゃんたち、あるいは従兄弟のお兄ちゃんに可愛がられて育っているという点では二人は共通しているのかもしれない。
監督はでも、6歳で愛する三人の兄と引き裂かれた。ソナはその点、愛されるままにずっと育っていく訳だけど、ただ、アノ国である。激しく自由、のみならず、あらゆるものを制限される国。
でも、ソナの愛くるしさ、無邪気にアイスクリームを食べたり、好きな男の子の名前を言ってキャッと口元をおおったり、ホントに陰がなくて、ああ、どんな国で育っても、家族に愛され、慈しまれて育てば、こんなに愛らしくスクスクと育つんだなあ、って。

監督がソナと二人きりで話す場面は、実は一箇所だけなんだよね。その他の場面では常に他の人物がいる。そしてソナは愛くるしさを振りまく。
だからこそ、監督とソナがツーショットで話す場面で、ソナが「撮影を止めて」と言うことにドキリとする。いや、それまでもテレて、撮らないでよー、みたいに言うことはあったけど、でもこの時には、冷静だった。
場所が外の、いわゆる公的な場所、ピョンヤン唯一ではなかろうかと思われる大きな劇場の外だったからかもしれない。

ソナはここに入ったことはあっても、公演などは見たことがないと言う。だから、監督が話すお芝居というものが、どういうものかすら判らない風なのだ。
ブロードウェイだの野田秀樹だの、判る筈がない。「ゴメンね、私、バカなこと言ってるね」と監督が恐縮すると「いいの、そのまま話して。聞いているだけで楽しいから。」
あるいはうがった見方をすれば、実はお芝居のなんたるかも何もかも判ってて、監督の話を聞きたいから、聞いていたのかもしれない、なんて。どこに目があるか判らないから撮影を切らせたのか。

だってソナの新しいお母さんもギターを鳴らして素敵な歌声を聞かせるし(それは、北朝鮮の軍国チックな固いイメージではない、郷愁を誘う甘美なメロディーなの)、おじさんに当たる長兄のコノ兄さんはクラシックをこよなく愛し、監督が送り続けたCDを聴かせて育った一人息子のウンシン、つまり従兄弟どのはこりゃプロになるだろ、てな素晴らしいピアノの腕前だしさ。
そんなソナが、演劇のことを何一つ知らない訳が、ないよ。このシークエンスはちょっと、もしかしたら、監督の仕込があったかも??とちと疑っちゃう気持ちもなくはないんだけど……。

でも例えそれでも、監督の分身としての立ち位置であるソナが、この大劇場の前で、オフ映像で、黒バックに白字のクレジットの声だけで、叔母さんとそんなやり取りをするのは、大きな意味がある。
だって確かに、演劇のことはもしかして知っていたとしても、確かに彼女は、それを(少なくとも生では)見たことはないだろうと思うもの。

監督がね、ピョンヤンを訪れる度、つまり歓迎行事として、子供たちの公演を見させられるのね。20年前から変わってない公演。
ステージのバックには金日成、あるいは金正日が庶民と触れ合ってる巨大な幕が掲げられていて、その前で小さな男の子は小さな軍隊になって足を振り上げ行進し、小さな女の子たちはどぎつい色の衣装と白塗りで甲高い声で唄い踊る。

ナレーションで監督は、そのたびに感じるいたたまれなさを語っている。ただ、両親は、彼らだって豊かな国、日本で長年暮らしていたのに、特にそんな違和感を感じることなく、何回もビデオ観たわ、外地での公演(どこだったかな……香港かニューヨークか)でもあの子とあの子、出てたわ、と誇らしげなんである。監督は、あの子は確かに上手やったな、と返すぐらいしか出来ない。

でもそれでも、監督や両親たちは見ることが出来る公演なんである。ソナたちは……。
でもね、ソナは小さな頃の映像で志村けん!なんて言ってる場面もあるし、恐らく日本のテレビ番組とかのビデオやDVDも送ってもらってるんだと思うんだよな。
だってあれだけ、日用品をくまなく、隅々まで送ってて、おもちゃを送ったという会話もあるし、それなら絶対、そういうソフトものも送ってるだろうなと思うんだよな。
だからソナが演劇を知らない筈はない、でもだからこそ、この国でそれが得られない渇望をあおる残酷さがあるのかもしれないと勝手に思ったり……。

ソナがね、ミッキーマウスの靴下をはいて学校に行くの。ぴかぴか光る赤いランドセル背負ってね。ミッキーマウスはアメリカでしょ、大丈夫なの、と問うと、彼女はあっけらかんと答えた。だって皆、知らないもん、と。
皆が知らないってことを知っているソナに、ふと、大丈夫だろうか……などと思ったりする。
ビデオカメラを構えて、次兄と手をつなぐソナについて小学校に向かう監督。ビデオカメラなんてものを見たことがなさそうな同級生たちは、なんとなくソナより垢抜けてなさそうに見える。背負っているのもランドセルではなく、せいぜいがナップザックである。
監督はソナの後姿を見ながら「私は訪問者に過ぎず、ソナはここで暮らしているのだ」と痛切に語るけれども、ここで感じたのは、やはりソナは、この厳しい環境の中でも、恵まれている子なんだ、ということなのだった。

でもその中でこそ屈託のないソナが素晴らしいのだろうとも思う。本当に本当に可愛いソナ。日本からのおじいちゃんおばあちゃん、おばちゃんが来る時には、外貨ショップでアイスクリームを食べるのが楽しみな彼らが、ガラスケースの中の高い日本製品をねだれずにいるのはやはり、切なかった。やっぱり彼らにとって日本製品は憧れなんだ、と。

本作が本作ゆえである特徴的なことはやはり……あのね、なんかさ、やたらと人が死ぬのさ。本作の最後にクレジットでその死が伝えられる、愛さずにはいられないアボジと、本作の冒頭で、子宮外妊娠によって急死が伝えられるソナの母。
そして、その死の原因が明かされないけれど、もしかして……と推測してしまう、長兄の死。クラシックとコーヒーをこよなく愛し、北朝鮮に渡ってからしばらくは西洋音楽を禁止されていたが故、相当苦しい期間もあっただろう彼は躁うつ病をわずらい、そして亡くなったと、ただその事実だけを記される。
なぜ亡くなったのか。どうやって亡くなったのか。明かされないし、知りたい……知りたいけど、知りたくない、ような。
ソナの母親の死因だって、日本ならば、助けられたかもしれない、なんて思うのはおこがましいだろうか。でも、でも……。

父親が死んだ後、特にそのことには触れずにいるけど、彼の一人息子で、皆がその才能を愛し、期待していたウンシンが弾くピアノの哀しきしらべが、本当に彼は素晴らしいピアニストだから、だから、……たまらないの。
ウンシン、本当、なんとかして、この国から、こんな国からでも、ピアニストになってほしい。積み上げられた楽譜は皆、日本のもの。あのオモニがせっせと送ったものなんだろう。
恵まれている、そう言ってしまえば簡単だけど、こんなことが恵まれているだなんて、日本じゃ、日本じゃ、さあ。

監督がソナの母の墓参りに訪れた時には、ソナたち子供たちは無邪気に見えたけれど。でもなんだかお父さんに甘えているようにも見えた。
だからこそだったのか、次兄は実に三度目の結婚をする。若くて美しい後妻は、これまたすんなりと子供たちの母親になるのが、なんだか凄いと思っちゃう。
この厳しい環境の国で育ってきた人間の強さか。思わず豊かゆえに弱い自分をかえりみるが、しかし、だからといって、やっぱりやっぱり!……それ以上をどう言っていいのやら。

アボジは監督の国籍変更を、まるで照れたように了承するんである。それまでの頑なな態度を翻し……というのは監督の口から語られるだけだったから、観客側にはそれほど切実には伝わってこないのがツライところなんだけど。
ただ、本作でしんねりと描写される、アボジの喜寿のお祝いに、全国から集まってくる親類縁者、そこでアボジが、自分の子供、孫たちに、金日成信奉を教育しなきゃ、と語ってね、監督は戦慄する訳さ。私はアボジの思う生き方は出来ない、と。
でもその後、アボジがふと口にした言葉に気づいた監督、「息子たち、だけで、娘は入ってなかったよね?」照れたようにカメラから顔をそむけるアボジ。
ニューヨークに行くのにも大変だろというアボジ。この時には前作の評価もあって世界的な映像作家になっていた娘のことを誇りに思っていたということもあるだろうけれど、ほんのちょっぴりの寂しさと、大きな愛をアボジに感じる。

脳梗塞で倒れて、オモニのラブラブな献身的介護を受け、もう一度息子たち、孫たちに会いに行こうと言っていたのに、物語の最後に、このチャーミングなアボジの死が告げられる。
墓は故郷のチェジュ島なのか、それとも子供たちの居るピョンヤンなのか。日本ではないのがふと、やはりふと、寂しく思う。

前作が睨まれて入国禁止をくらった監督は、あの愛しいソナをはじめ、家族たちにずっと会えずにいる。
他の情報を探ると、どうやら謝罪文だけでオッケーらしかったのだけれど、監督はそれを受け入れなかった。
そのまま、あの可愛いソナ、おばちゃん、帰らないで、とたまらなく可愛いことを言ってくれたソナは、レストランで何を頼むか散々悩み、ピザはともかくトッポギすら食べたことのなかったソナは、それ以来、実に10数年の長きに渡って、会うことが叶わずにいるんである。
さすが監督の分身的存在のソナは、金日成総合大学の英文科に見事合格、英文で手紙を書き送ってくる。写真に写るソナは、あの愛くるしい面影はそのままに、ふんわりとチャーミングな大人の女性になっていて、何かそれが胸をしめつける。
宣材写真のね、バスターミナルで別れを惜しんで監督と口チューした可愛い写真がやっぱり、忘れられないから。

もうひとつ、忘れられないこと。拉致問題が起こり、あれだけ祖国信奉を崩さなかったアボジが、最初こそは口ごもりながら、いやあ、一度帰国させても戻ってこさせるという約束を反故にしたからなあ、と言ったら、監督から矢のような責め立て「もしヨンヒだったらどうするの?」と責められて、屈服せざるを得なかった場面。
あれは、日本で生まれ育ち、日本で作品を作って発表している監督自身としては、どうしても入れざるを得ない要素だったとは思う。入れてくれなければとは思った。
でもなんか、あの場面からアボジが急速に小さくなって、病気になって、死んでしまった、みたいな風にも見えて、辛くなった。
アボジだって判ってた筈なのに。どんなに崇拝の姿勢を崩さなくても、それでも、あの国が、息子たちを行かせるべきじゃない国だったってこと……。

本当にね、なんでこんなに、時間がかかるのだろう。アボジとオモニが、すぐに解決するだろうと思った民族統一も、すべてが、何もかも。
ソナ、愛しきソナ、あなたは判ってるよね。ヨンヒ監督の血を引く姪っ子ちゃんだもの。叔母ちゃんの世界的評価の情報さえ、彼女には届いていないのかもしれないけれど、そう思いたいよ。★★★★☆


色恋沙汰貞子の冒険 私の愛した性具たちよ…
2010年 分 日本 カラー
監督:山内大輔 脚本:山内大輔
撮影:創優和 音楽:
出演:北谷静香 里見瑤子 佐々木基子 柳東史 佐々木恭輔 サーモン鮭山 世志男

2012/5/13/日 劇場(銀座シネパトス/第24回ピンク大賞)
なんたってこの日は6本もの映画を観たので、書くのにも一週間かかったが、よりにもよって、最後にこの作品を残してしまった。栄えある2011年ピンクベストテン第一位作品。
これが一位ということに、まず監督自身が驚いたというほどの、ある意味極まれりの作品。

とにかく忘れっぽい私は、6本の映画を書き終えるまでに、最後の方で記憶が薄れているんじゃないかなあというのが一番不安に思うことで。
だからこのしんどい映画を、最後に書くのはしんどいと判っていながらも、最後まで残ってしまったのは、きっと6日めに書いても、忘れるところなどないだろうと、思ったから。
いややっぱり、今日はどれを書こうと思うたびに、やっぱり怖気づいて、躊躇してしまった部分は、あったかもしれない。

まあ、言ってしまえばスプラッター、かなりのグロ、サイコホラー、というジャンルをピンクでずっぱりやってしまったという驚きで。 私だってそういう映画は嫌いじゃない、ていうか、ホラー映画が流行った頃はかなりハマってよく観ていた。
若い頃、というか子供の頃だったから、今よりずーっと感受性も強かったから(爆)、その頃観た映画っていうのは、今どんなに歴史的名画を見ても、それよりずっと強い印象で心に残ってるもので。トラウマのようにね。きっと監督もそうした世代で育っているんだと思う。

書くのにすぐ影響されちゃうんであまりインタビューとか読まない方がいいとか思いつつ、ちらと読んだ限りでは、やっぱりそんな感じを受けたし、何より印象的だったのは、ピンク映画がR指定だというのは、何もエロだけでなくてもいいと、暴力だってR指定を受けるものなんだと。本当だ、そうだよね。

勿論、ピンク映画というジャンルは、その客層はエロを、女の子のおっぱいを見たくて足を運ぶ訳なんだけど、だからこの作品が一位をとったことに監督も驚いたし、「ホラーが観たくてピンク映画館に行く訳じゃない」と憤った観客のコメントも見た。
それもそうなんだけど、勿論そうなんだけど、ピンク映画が、私のような邪道のファンを惹きつけるのは、なんでもありの驚きと、その一方でプログラムピクチャーシステムの中でしっかりと完成度を保っているということで、本作はまさにその両方を押さえまくっているんだよなあ。

そう、ホント、子供の頃に恐怖に震えたホラー映画を思い出した。悪魔のいけにえとか、ルチオ・フルチとかのじゃんじゃん血が出るヤツとか。怖いのに、凄く好きだったし、怖いのに、夜、一人の部屋でビデオで観たりとか(爆)したなあ、と。
本作は阿部定と貞子という、日本人なら誰でも知ってるコワーイヒロイン。確かに「リング」で貞子が出てきた時に、サダ、という名前の音がアベサダを即思い出させ、やっぱり意識してのネーミングなのかなあ、と思ってた。
その後、貞子の方がホラーヒロインとして有名になったが、まあ阿部定はホラーヒロインというよりも、愛と悲しみのヒロインと言った方が正しかったからなあ。

本作のサダコが、貞子、であることが意外なのは、彼女が行う行為自体は、阿部定を想起させるものだからである。しかも本家本元?の阿部定もビックリの、三人もの男の局部を切り取っちまう。しかもしかも、その二人の局部を大事に肌身離さず持ち歩いている。
そう、切り取った局部を持ち歩くというのもまさに阿部定だが、阿部定が心底惚れ抜いて、離れたくないからこそ殺して愛が凝縮したムスコを切り取って持ち歩いたのと微妙に違って……だってそれなら、二人分はいらない訳で……彼女から主体的に愛したんじゃなくて、愛してくれていた、いや、愛してくれていたと思い込んでいた相手がそうじゃなかったことに絶望して、自分だけを愛してほしいと思って、切り取った、のだよ、ね。

でもそれも、どこまで本当なのか……というのも、監督曰く「ユージュアル・サスペクツみたいに出来ないかと言われて」思いついたというどんでん返しによって、ここまでヒロインとして悲劇の人生を語っていた貞子が、そのヒロインの座を明け渡すだけでなく、明け渡された相手に無残に殺されてしまうから。
つまり、これまでの語りは全て、その相手によるテキトーな創作と思えなくもないところが凄く怖くって、その衝撃ゆえに、後半までこの難しい役を好演していた女の子ではなく、とって替わった里見瑤子嬢の方が、女優賞をとってしまった。
なんかちょっと、ヒロインの子がカワイソウな気もするけど(爆)、やはりここまでキャリアを重ねた里見瑤子のインパクトにはかなわないんだから、仕方ない。でもホント、後半からのほんの短い尺なのによ。

そう、ヒロインの女の子、つまり貞子はかなりイイ感じだった。このスプラッターヒロインをいい意味でてらいなく演じてた。
母親の恋人、勤め先の社長、それぞれに身体をもてあそばれ、しかし彼らにはそれぞれに本命……彼女の母親であり、社長の妻であり、がいる訳で、それを突きつけられるたび、貞子は相手を惨殺し、局部をその手に落とした。

ことに、就職先の社長とのシークエンスは、その後、その社長の奥さんが里見瑤子で、驚きのどんでん返しがあるからというのがあったとしても、強烈である。
何よりこの社長のビジュアルが強烈過ぎる(爆)。目張りを入れていたのは判ったけど、その目張りが充分すぎるほどの威力を持つ、あのマンガチックな目力!

不動産会社と思しき彼の会社が所有するモデルルームの中で貞子とよろしくやろうと、素っ裸になってポーズを決めて彼女を待っている姿は、可笑しすぎる!全ての登場人物の中で、彼のインパクトが一番、スゴかったなあ。
「会津生まれなんだけど、それじゃナメられると妻に言われて。だから関西弁を喋ってるけど、福島訛りの関西弁」と、妙に自信たっぷりに可笑しなことを言うのには笑っちゃうけど、後から思えば、しっかり夫を指導するこの妻こそが、大きなカギ、どころか、本作の行く末を握っているんである。

そう、なにげに、そこはかとなく、可笑しいんだよね。「社長はケチで、いつも会社所有のモデルルームの中で私を抱いた」という貞子のモノローグは、先述したとおり、彼の奥さんがどこまで脚色したものか知らんけど。
ただ……避妊しないコイツの赤ちゃんを三度も堕ろした後に、奥さんの妊娠が発覚、逆上した貞子が社長の局部を切り取り、廃人になるまでメッタ刺しにしたこのシーンは、その後も続くスプラッタ描写があるにしても、ひとつのクライマックス。

そうそう、最初のね、貞子がまだ女子高生の時に、特に説明をされないまま(多分(爆))、彼女が眼帯姿だったことがあったんだよね。それが妙に印象に残って。
後に彼女はこの社長の奥さんのワナにはまって、顔をピーラーで(!)剥かれ、ミイラのような無残なぐるぐる包帯姿になり、その姿で冒頭、自らの人生を振り返り、そして驚愕のラストにいたる訳なんだけど。なんかこの眼帯姿が、なんともフェティシズムに心に残ったのだ。

そういやあ、この会社社長を半死半生の目に合わせて逃走、「おい、貞子!」なる犯人探しの警察のポスターが街中に貼られ(こういうの、凄く映画チック)、金髪ショートボブのウィッグと浜崎あゆみのような大きなサングラスで姿を隠す彼女もまた、実にフェティッシュ。それは、彼女自身のアイデンティティを隠すものであり、期せずしてラストのどんでん返しにつながるとも言えるんだけれども、やけに、魅力的で。
声をかけられたドラッグ売人のキーチと出会い、彼とのセックスの最中に金髪のウィッグを外す、まあベタかもしれないけど、彼に心を許した瞬間を端的に示してた。
彼の裏切りに対して、それまでの二人の男に対する残酷さを、冷静な残酷さを、示せなかったのは、まあ、真のヒロイン、里見瑤子嬢がさっそうと割って入ったことがあるにしても、なんか、察せられる気がして……。

キーチはいわゆる、ツンデレDVヤローよ。ドラッグや酒のせいもあるだろうけど、貞子をボコボコにするのは、気質的なモンが大きいと思う。
だってコイツ、口では「見つかったら一緒に逃げよう」とか言いながら、アッサリ貞子を売り払うんだもの。でも、殴られた後に、泣きながらゴメンねと言われることは、情けないけど、ホレてればホレてるほど、効果は大きいだろうなというのは、女としてちょっと想像出来るというか……(爆)。まさに、究極のツンデレ、だよね。
でもね、キーチの借金のカタに「好きなようにしちゃってください」と言われて、顔をピーラーで剥かれた貞子が、ミイラ同然になって帰ってきて、その姿でキーチと、まるで逆レイプさながらにセックスするシーンは……。

血だらけの包帯で顔を覆われた貞子と、息も絶え絶えのキーチという、セックスシーンなのに、コワすぎてちっともエロな気分になんてなれないって画が、もうそれこそ、子供の頃に見た悪魔のいけにえ並に頭にこびりついて、離れなくてさあ……。
顔が隠れてる、つまり、表情が見えない、生きている感覚がない、幽霊のようであり、ゾンビのようであり……顔が隠れているだけで、それが血だらけの包帯じゃなくっても、それだけで、こんなに怖い、人間はウソだらけで生きてるのに、表情だってウソばかりかもしれないのに、こんなにそんな頼りないことに頼って生きているのか、と思う。

でもさ、でもでも、このシーンは、こんなに強烈な印象のこのシーンは、きっと現実にはなかったことなのよ。それまでの貞子のモノローグだって、ひょっとしたら最初からウソかもしれない。
だって、全てを告白して自ら命を断つ、というビデオメッセージを作り上げたのは社長の奥さんであり、ビデオの前で演じているのも彼女自身であり、貞子本人は、同じ包帯ぐるぐるのソックリのいでたちながらも、恐怖に震えながら……かどうかも判らない、顔の表情が見えないんだから!その状態で、ニセ自分の告白をしている彼女を見守らされているのよ!!

執拗なセックスの果てに弱りきったキーチを貞子が絞殺したシーンも、これはいかにもキーチを愛して愛してやまなかった貞子の純愛のシーンのように見えるけど、それも現実じゃなかった。
確かにキーチは貞子を売ったけど、それは借金の相手にじゃなくて、この社長の奥さんにだった。奥さんが、にっくき貞子はまずおいといて、このキーチをいたぶるあたりの屈折は、明確な説明はなされないけど、そんなのはヤボなのかもしれない。

監督が「目がヤバい」と語っていた里見瑤子、確かにこんな彼女は初めて見た!勿論、安定した芝居力、ムダにグラマラスじゃなく、普通の女の身体をさらせる意味合いは大きく、清楚にも狂気にも転べるニュートラルさは、不世出のピンク女優だと思う。
彼女、女優賞を獲得した舞台で、「緊張すると泣いてしまう」と言っていたけど、緊張だけの涙じゃなかった気がするなあ、その繊細な情感が、ふと裏返るとこんな怖さになるのか。

ハダカに透明なレインコート姿という、これまたフェティッシュなコスプレで、嬉々としてキーチの局部を切り取る、そう、三人目は、貞子が切り取ったんじゃ、なかったんだよね。
それもおっきな植木用と思しきはさみを取り出し、こんなぐらいでガタガタ言うな!とドスの聞いた脅しをかまし、だけど私は男じゃないから、その痛さは判んないけどね!と楽しそうに言って、ジョッキン!ブッシャー!!!キーチ、ギャー!!!
里見瑤子嬢、返り血浴びて凄惨な美しさ、凄い、美しさ!い、イッてる!!ひ、ひ、ひ、ひえええええ!

“貞子の告白”をビデオの前でかまし、本物の貞子の首をかき切って、彼女は夫の元へと向う。もはや廃人で、何が起こっているかも判らない彼に、まるで犬にやるエサみたいに、「取り返してきたわよ」とポイと、ラップにくるんだ局部を放り出す(!!)。
車椅子から這いずり回る夫を尻目に、貞子を陥れるのに使ったボディガード、もっちゃり体形がここでは妙にコワかったサーモン鮭山氏ととまぐわいまくる。
首をギリギリ絞めて、「クセになるでしょ」と……。その車の外では、夫がまさに犬のごとくはいずって、自分の大切な“ムスコ”を取り返す。うっ、ううう、グロ……。

シナリオタイトルにもなってるサブタイトルが、妙にポップなのも効いてて、何とも忘れがたい。
里見瑤子嬢、確かにさらったけど、ヒロインをきっちり務めた北谷静香嬢がやっぱりちょっと、気の毒かも(爆)。可愛かったし、上手かったしね。★★★☆☆


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