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「て」


2012年鑑賞作品

Dear Pyongyang ディア・ピョンヤン
2005年 107分 日本 カラー
監督:ヤン・ヨンヒ 脚本:ヤン・ヨンヒ
撮影:ヤン・ヨンヒ 音楽:
出演:ヤン・ヨンヒ 


2012/7/24/火 劇場(テアトル新宿)
本作が公開された時、興味はありつつ、こういう映画の持つ政治性、国際問題への自分の無知さから恐れをなして、結局足を運べないままだった。去年公開の「愛しきソナ」は、本作を観ていないことから更に臆して、やっぱりスルーしてしまった。
そのことがずっと何となく心に引っかかっていて、その彼女が今度は劇映画を作るというから飛び上がった。それはやはり、その二作、逃れようのない彼女自身、彼女の家族、彼女の、いや……両親の祖国の問題を色濃く反映したものと知り、こ、これは前作二作を観てないとシャレにならんぞ……と思っていたら、ありがたいことにその二作の二本立て!ありがたい!!!

その二作は同じ時に撮った映像素材であることが状況や服装などから判るものもあるから、こうやって二本続けて観てしまうとどっちで見た素材だっけ……とごっちゃになるというウラミもあるんだけど、そこんところはごっちゃにして書いてしまったら、カンベンしてね。
それにしても、率直に言って、もし語弊があったらゴメンなんだけど、そう、率直に言って、凄く、面白かった。

続く「愛しきソナ」に至ると、監督自身の状況も本作を撮ったことによって変化しているし、何より拉致事件が明らかになった後の状況ともなるから、やはり本作との違いは大きい。
ずっとずっと、金日成への、というか祖国への忠誠を崩そうとしなかった父親が、これはやっちゃいけないことだと、初めて認めた部分は大きい……っと、こんな風に書き進めてしまったら、本当にごっちゃになってしまう。それは後にしておかないと。

率直に言って面白かったというのはヤハリ、ここが大阪だからというのはあるだろう。生まれも育ちも大阪の監督さんが、たとえ教育は愛国心たっぷりに受けたとはいえ、ヤハリ大阪っ子。
それは判るけど、両親の方がね、生まれは韓国、すっかり大人になってから日本にやってきた彼らの父母がずっぱり大阪のおっちゃん、おばちゃんであるからこそ、面白いんである。

朝鮮総連の元幹部であるというバリバリの金日成信奉者なのに、その教えを広める活動、在日の権利獲得運動に没頭した過去の写真もゾクゾク出てくるのに、なのに、アッケラカンと明るい、ステテコで自転車でぷらーっと走っていくオッチャンなんである。
オバチャンの方ももうホントに大阪のオバチャン、ケラケラとよく笑い、オッチャンに開けっぴろげな愛を捧げる。もうそれこそチューでもしかねない勢いである。実際「愛しきソナ」では……おっと、だから、それはよそうって(爆)。

映画の冒頭、基礎的な知識をきちんと授けてくれる。私のような無知者にはありがたいし、実際多くの日本人にとって、知らない事実も多いに違いない。
大戦後にロシアとアメリカの介入によって分断……あたりはなーんとなく習ったような気がしないでもない、って程度、なんて言ったらホント、怒られるよな(爆)。

大戦後に日本に渡っていたコリアンたちも、どっちを祖国とするかの選択を迫られ、今日本にいる、いわゆる“在日”と呼ばれる人たちの9割以上は韓国の方を選んでいるという。
つまり、監督家族は数少ない、北朝鮮を選んだ人たち。そして、客観的にあんなにもアノ国はヒドいのに、なぜか、なぜだか、愛国心というものを非常に大事に、もうそれだけは手放せないッ!とばかりに信奉している。

と、いう事情を、知らなかったにしても、金日成信奉(現指導者(当時)の金正日の名前はちょこっとしか出てこないあたりが、金日成のカリスマ性を如実に示しているのも面白い)というのは普通に日本に暮らしていても何となく感じられて、それが正直、ちょっと怖いなと思ってたんだよね。それこそ洗脳ぽいというか……。

監督が朝鮮学校で学んできたことは、詳しくは明かされなくても、監督自身が“模範的な愛国少女”というぐらいだからそうだったんだろうし、だからこそ、そんな模範的な優秀な彼女が、親の期待を裏切る形でニュートラルな表現者となっていることこそがビックリだし、彼女のたぐいまれなる強さであると思うんだけどさ。
でもその、私らが勝手に思っていた、洗脳ぽいとか、そういう風に思っていた彼らが、こんなコテコテの大阪のおっちゃん、おばちゃんで、魅力的で、チャーミングで、言ってしまえばそう、普通の人間であることが、なんか衝撃で、そして、たまらなく、面白かったのだった。

朝鮮訛りも何もなく、大阪弁コテコテで喋る、だけどその中に朝鮮語がチャンポンで入る面白さ。大阪で生まれ育っている監督もまた、そんな感じの会話をするのも面白い。
そして何より呼称は譲らない。お父ちゃんお母ちゃんじゃなくて、アボジ、オモニ、である。監督が朝鮮と日本の文化を自由に行き来し、“祖国”に対する違和感や疑問を持ち続けてはいても、そこを譲らないのは、父親とは違う監督の選択するアイデンティティであると思う。
両親への呼称は、大事だよね。そこに一番アイデンティティが感じられると思うもの。

そして大きなこの作品のキモ。監督には三人のお兄さんがいて、帰還事業で、当時地上の楽園と歌われた北朝鮮に渡った。
よもやこんなに自由に行き来できないとも思わなかっただろうし、何より、当時は韓国よりも大国ソ連の下にいる北朝鮮の方が経済発展への可能性を感じられたという。
民族統一も近い将来なされると思える機運があった。そもそも韓国のチェジュ島出身だったお父さんだったのに、北朝鮮にいわば“鞍替え”したのはそういう理由だった。そういう理由だったのに、なぜあんなに頑なに、いや、純粋にあの国を信じられたのだろう。

オモニはそこまでじゃなかった……かもしれない……などと思うのは単なる推測。オモニはアボジにべったり、ラブラブ、もうそこなの。
結婚のきっかけを娘にインタビューされて、大テレでアボジは一目惚れを明かすけれど、実際若い頃のオモニの美女っぷりはナカナカだけど、でもオモニも負けじとアボジにホレていたからこそ、運動にも積極的に参加していたと思うしさ。
あのね、帰還事業で北朝鮮に渡らせた三人の息子から最初に送られてきた写真が、あまりにもやせ細っていたからアボジに見せられなかった、というエピソードがあるのね。

もうその時点でいち早く彼女は、あの国が地上の楽園などではないことが判っていた。それから30年以上、彼女は兄家族のみならず、親戚各位に至るまで、物資を送り続けた。
実にダンボールで何箱も何箱も。業者もかくやというほどの、専門工具を使った完璧な荷造りで、さすが幹部の妻と審査官の間で有名になるほどに。
時にはその大荷物と共に、あの有名な読みづらい船、マンボンギョン号に乗って家族に会いに行く。大阪からだと新潟へ飛行機、バス、そして船と三日がかり。「近くて遠い国」と監督がつぶやくようにナレーションする。

そう、本作、そして「愛しきソナ」も、監督のナレーションによって進んでいくのね。監督は愛国少女として教育されて育ったけれども、日本文化との間を自由に行き来したし、子供の頃はその両方を矛盾なく受け入れていたけれど、多感な時期を迎えると、“祖国”への違和感を抱えるようになる。
ムリはない。だってそれは、あの“模範的な愛国妻”のオモニだってさ。「地上の楽園」に送り出した筈なのに、「孫が凍傷になった」と聞くとそれ以来毎年、親戚の分まで大量の使い捨てカイロを送る、それどころか「あっちでポポンS飲んでる子供なんか、あの子だけよ」と笑い話になるような、日本の市販薬もたっぷり入れて送る。地上の楽園なのに、こんな矛盾はないよね。

オモニは最初からその矛盾を矛盾として受け入れていた、だって母親だから、というのはあったけど、アボジは、後に、行かせなければ良かったという言葉を……そのまんまの言葉ではないけど、そんなことをもらしながらも、でもそれでも、選んだ祖国への愛国心を否定することはついになかった。意地、というには、さみしすぎた。

ただ一人の娘の監督が、韓国籍に変えたいという話が本格化するのは、本作だったか「愛しきソナ」の方だったか、ほら、やっぱりごっちゃになってる(爆)。
でも少なくとも本作の最初の方のアボジは、とてもそんな話を切り出せたモンじゃなかった。結婚するならとにかく日本人とアメリカ人はダメだ。誰でもいいって言ったやんか、と娘から突っ込まれて苦笑いするも、朝鮮語喋れなくてキムチも食べれない朝鮮人と、朝鮮語喋れてキムチ大好きな日本人でも?などと具体的に詰められても、でもそれでも、朝鮮人だと。韓国人でもダメ、だと。

こうして、日本に暮らして、大阪弁コテコテなのに、まず日本人はダメと言われるショックは、恐らく、監督自身より見てる日本人観客の方が大きい。えーっ、こんなに大阪のオッチャンなのに、それでもなの、と。
そう思っている時点で、いかに認識が甘いかがアリアリでハズかしいけどさ。でも……。この要素に突っ込むと、それこそ私の超無知な分野に突入するからズルくも避けて通る(爆)。ゴメン(爆爆)。

でもそれこそ、監督さんが、本作でも「愛しきソナ」でも再三言及している、どんなに支援物資を何箱も送ろうと、支援金を送金しようと、それはアボジとオモニの功績ではなく、祖国のおかげと言われてしまう。でもそのことを二人はなんら気にすることなく、安っぽい勲章をジャラジャラもらって嬉しそうである。
……これまた「愛しきソナ」の方の描写だったかもしれない。ホント、ごっちゃになる(爆)。でもそれは、でもそれは、彼らが物資を送るだけの裕福さを獲得していて、勿論それは彼らの努力によってだけれども、そのことによって、いわば贖罪の形で息子たち、その家族、親戚に物資を送り続けてさ、恐らく一般的な北朝鮮人に比すればきっと、彼らは豊かで、うらやまれる存在なんだと思うよ。
それこそ「愛しきソナ」のランドセル……おっとだからそれは、ここではよそうっての(爆)。

拉致問題の前後で、ハヤリのように報道された北朝鮮の貧しさの実態と、彼らは重ならない。そりゃ勿論、豊かな国日本と比べればさ、船で訪ねるたび監督が、「20年前から時が止まったよう」だとつぶやくほどに、殺風景に建てられた(一応当時の)近代建築物がただたださびついていくばかりだけれど、少なくともその中でカラフルな洋服を着て、おもちゃで遊んで、そうそう、アプライトピアノまであるんだもの!!

監督の長兄で、クラシック音楽とコーヒーがなければ生きていけないような人だったと述懐される、その若い頃の、細い指でたばこを挟んでいるモノクロ写真のハンサムっぷり思わずクギ付けになるコノ兄。
まさに彼の繊細な感性を受け継いだ、素晴らしいピアノの腕前を披露する息子、ウンシン。本作では本当にまだまだごくごく幼いのに素晴らしく、「愛しきソナ」で長じた彼の演奏もまた、素直に成長してて素晴らしい!!
彼が亡き父の思いを叶えて素晴らしいピアニストになれれば……あわわ、また次作にカブってしまった!!

そう、そうなんだよね。北朝鮮で暮らす人々の様子をリアルに見られるという点で、本作も次作もとても貴重だし、だからこそ気持ちも感情もナマに切り込める訳で、ちっとも進展しない北朝鮮問題は、そういう部分が足りないからなのかもしれない、と思うほどに、この肉薄した切迫感、リアリティは衝撃と共に、こう言っちゃうとナンだけど、魅力的なんだよね。

世界で唯一社会主義国を実現している国と豪語し(社会主義国は一応他にもあるけど、まあその……それに頑なになってるのは確かにココだけかも)、よく訓練されたマスゲームや子供たちの演劇、その後ろにはいつも金日成や金正日の大きな肖像が鎮座ましまし、監督の心を冷え冷えとさせる。
報道される北朝鮮は、まあ要素としては、その異様な前時代的風景は同じなんだけど、それを日本の朝鮮学校で経験した監督の感慨や、日本の自由な文化を謳歌している筈のアボジやオモニがそれをありがたく受け止めていることへの監督の思いや……。
北朝鮮は怪物、異様、そういう報道では見えてこない、解決していかないものがこの中にはあって……なんて、なんて言っていいのか。

そう、それこそ、こんな風に、ある意味恵まれている状況ではない、都市部に住んでなくて、日本とつながりもなく、貧しく追い詰められるばかりの住民たちはどうなのか。
都市部の現状でコレではさぞかしと、それこそワイドショー的な話になってしまうし、本作でも次作でもそれはテーマじゃないから言及することでもないんだけれど、でもその思いへの橋渡しも含めて、監督は闘っていると思うしさ。
とにかく、何より何より、こんなに魅力的な家族たちなのに、家族、人間はどこに行ってもその愛しさは一緒でさ、なのになのに……と。

三人の兄と別れ、いわば自分だけが自由な国で育った監督が、十数年後の再会から、使命のように、表現者、報道者の側に立ったことがね、ああ、なんて、素晴らしいのだと。
もし私がそんな立場でも、出来ない。アボジが最終的に彼女の国籍移動を認めたのも、勿論、娘可愛さはあるにしてもさ、その可愛い娘が、自分の力で、道を切り開いた、そのことが誇りだったからに他ならないよね。
特に次作で何度も言われる、監督のニューヨーク行き、世界中で取材活動をし、本作や次作が認められる彼女のこと、さぞかし自慢だったと思うんだよな。
それが、アボジのアイデンティティを否定することでも。そのことによって、娘が北朝鮮入国禁止になっても。

おっとっと。だからそれは、また次の作品の話なんだってば。なんかねえ、なんかなんか……日本は豊かだけど、日本はダメだなあとも思ったし。
アボジやオモニに、日本人と結婚しても全然オッケーと言われるような日本では、確かにないんだもの。ただ豊かなだけ、なんだもの。
アボジやオモニが没頭した“在日”の人たちの権利獲得もいまだなされないまま。もうすっかりオバチャンになってから、ようやく、選挙権の大事さ、尊さ、ありがたさが判った。それが認められない屈辱をようやく、想像出来るようになった。
日本の非グローバルさは頻繁に感じるけれども、それが、そう、拉致問題の解決の遅れから始まり、民族統一の遅れや国交正常化の遅れにも影響していると思うと、もう、もう、あまりにも歯がゆい!!!★★★★☆


テルマエ・ロマエ
2012年 108分 日本 カラー
監督:武内英樹 脚本:武藤将吾
撮影:川越一成 音楽:住友紀人
出演:阿部寛 上戸彩 北村一輝 竹内力 宍戸開 笹野高史 市村正親 キムラ緑子 勝矢 外波山文明  飯沼慧 岩手太郎 木下貴夫 神戸浩 内田春菊 松尾諭 森下能幸 蛭子能収

2012/6/7/木 劇場(新宿ピカデリー)
上映終了後聞こえてきた、「原作はあんな風にドラマチックじゃなくて、一話完結で今も続いてて、上戸彩のキャラクターは映画オリジナル」という話に思わず耳をそばだててしまった。まあ大抵の人にとっては先刻承知のことなのかもしれないけど、いつも情報入れないまま飛び込んでしまう私にとって、へえー、という感じ。
まあ、風呂ネタ、風呂ギャグで一話完結で、今も脈々と続いているというのはなんとなく想像も出来るし、その意味では、本作のラスト、どうやらこの“平たい顔族”の国に永住するのかしらん、と思わせるような収束が彼にとってはどうなのかなあ、とも思うけど。
まあそりゃ、ルシウスと真実ちゃんのロマンス成就としては素敵だけど、これ以上ルシウスの物語は続きようがないもんなあ。

まあ、しょうがない、これが、どこまでも続いてゆける出版物の表現を、映画として収めなければいけないジレンマであろうと思う。
それでもそれでも、充分本作は魅力的であったと思う。予想より抱腹絶倒という訳ではなかったけど、それは“あんな風にドラマチック”だったが故であろうと思われる。
前半部分カッとばしていたギャグが、これぞ阿部ちゃん大得意の、シリアスになればなるほど可笑しいというのがバッチリはまってかなり好感触だっただけに、ちょっと消化不良の気持ちがなくはない、けれど、でも爽快感は確かにあった。最後までナンセンスに笑っていたかった気持ちもあるけどね。

でもまあ、でもまあ!原作は読んでないけど、これを映画化しようなんていうのは狂気の沙汰であろうと思われる。だって主人公、どころか大多数が古代ローマ人、なのだから!
古代ローマの公衆浴場だのなんだのを思っても、これが大いなるウソをいくらでも描ける漫画世界の独壇場であることは間違いなく、そう、日本の漫画であっても登場人物はいくらでも、外国人でも宇宙人にでも出来るんだからさ。時空だってなんだって越えられる漫画の大いなるウソの世界。活字とも違って、それを絵というリアリティで表現できる世界。
“映像化は困難”という言葉は聞き飽きたが、そりゃあこの原作に対してはそう言われたであろう。何かね、それに対する発奮、挑戦状的な気持ちを、本作には感じたんだよね。おっしゃ、やってやろうじゃねえかと。しかも古代ローマ人だって、日本人でやっちゃうぜ!てな、さ。

正直、本作の遊び心にはフジテレビ的商売っ気をプンプン感じたけど(爆)、でもそれがこんな風にいい方向に向くのならナイス!と思う。
“顔の濃い役者たち”を集めて古代ローマ人キャストに当てることを、早くからキャスティングや撮影状況を公開することによって、原作を知らない私のような観客の興味も充分すぎるほどに喚起していた。
顔の濃い役者たちを古代ローマ人!!この時点ではくだらないナンセンスだと正直思ってたけど、興味津々は押さえ切れなかった。ちょっと悔しい、ズルいと思ったけど、まさにそれが当たった訳だ。
ちょいと先述したように、イチ映画としてどうかと言われれば諸手をあげて絶賛するのはちょっと難しいけど、映画は興行、ミズモノ、キワモノ(爆)それを考えると、悔しいぐらいに大成功なのだ!

そこんところ、阿部ちゃん以下、“濃い顔の役者たち”は充分判っている。見事にシリアス映画と同等の大マジ演技を繰り広げている。
ことに主演、ルシウス、古代ローマの風呂と日本の風呂がタイムスリップでつながっているなんて事態を大マジに演じきっちゃう阿部ちゃん、マジに古代ローマ人!である!!

彼が演じるルシウスは建築家。古き良き建築を重んじ、斬新さばかりを追い求める風潮に憂慮している。ゆえに、仕事も干されている。子供を作りたがるセクシーな妻の求めにも応えられず、悶々としている。
そんな彼がうっかりタイムスリップしてしまったのが、日本の古き良き銭湯、ってさらりと書いてしまったけど、そして本作の大前提になる設定なれど、えーーーっ!である。
このアイディア、一体どこから浮かんできたの!このアイディアありき、このアイディアだけで充分と言ってもいいぐらいのキテレツさ、しかしこのアイディアを活かしきることによって、本作はバツグンに面白くなるんである。

ルシウスは何度も古代ローマと現代日本を行き来するし、彼だけじゃなく、“平たい顔族”の日本人のオッチャンたちも古代ローマへ流されていく訳なんだけど、そのたびに、人形が洗濯機の渦に巻かれているような確信犯なチャチ映像で笑わせるんだもの!いや、洗濯機っぽいのは、オッチャンたちだけで、ルシウスはもうちょっとゴージャスな洗濯機……いやいや!
どっちにしてもこの設定、だよね。最初にルシウスが銭湯からガバア!と出てきた時には大笑い。その描写のみならず、“平たい顔族”のおじいちゃんたちの、勿論一糸まとわぬ姿、その貧相さ(爆)、アゼンとした顔の可笑しさ。
富士山がのどかに描かれ、カラーンと広がる平和な銭湯の洗い場の情景、何もかもが、なんとも言えず可笑しいんだよなあ!

この最初のインパクトが何より、良かった。神戸ちゃんの独特のエロキューションでフルーツ牛乳を勧めるくだりも。ただ牛乳ではなく、コーヒー牛乳でもなく、フルーツ牛乳ってところが絶妙なんである。
それまでもケロリンの洗面器やら、脱衣所の籐のかごやらに衝撃を受けていたルシウスが、何より衝撃を受けたのが、このフルーツ牛乳。「牛の乳なのに、果実の味がする!」
自分の世界に帰った後、それらを真っ先に真似するんだけど、完成度に満足いかずに悔しさを噛み締めるのがこのフルーツ牛乳。瓶や冷やす技術に費やす努力を考えれば、ルシウスの方がメッチャ頑張っているのにね!!

この時既に、ヒロインの真実ちゃんには出会っている。銭湯の常連という設定、脱衣所で居眠りこいている彼女は、唐突に迷い込んできたルシウスを見て目を見開く。「ケンシロウ……」(爆笑!)た、確かにメッチャ、ケンシロウだわ!もちろんその濃い顔も、そして見事な肉体美は、それこそまさしく古代彫刻のそれだもの!
阿部ちゃんがその見事な全裸のまま、古き良き日本の町並みの中に飛び出しかけるシュールかつドキドキ感、そのまま女風呂の脱衣所に迷い込んで、オバチャンたちがキャーキャー言う中、ヒロインと出会う運命感、そして、「ケンシロウ……」うーん、たまらんのお!

原作にはないキャラクターということだけど、上戸彩嬢はメッチャイイ、メッチャ可愛い。本作の中で、彼女が一番イイと思うぐらいである。
田舎から出てきて漫画家志望で、「絵だけ上手くてもダメ!」と、ベテラン漫画家からも持ち込んだ編集部からも斬って捨てられる。
田舎に帰ればと言われ、実際、一時悄然と帰っちゃう。雪に埋もれた古い温泉旅館である実家を遠めに見やり、「……ひでぶ」とつぶやくのも、メチャメチャ可愛い。

彼女はここまでに至るまでに既に、ルシウスに三度も出会っている。一度目はその銭湯、二度目は彼女が漫画家師匠に持ち込んだ先。
そこはいかにも日本的な狭いお風呂で、ルシウスが、なんたって古代ローマ人だから、その狭いお風呂の狭い隙間に奴隷が入り込んでお風呂をたきつけていると想像するのも可笑しいんだけど、それがなくったってね。
この狭い空間にムリヤリと思うぐらいちっちゃな浴槽をはめこむ執念のような技術や、それでもシャワーをしつらえ、ネコちゃんなんていう可愛いデザインのシャンプーボトルやらが彼を大いに驚かせる。

何よりあの、シャンプー(シャワー?)ハット!あれ、今でもあるの!ていうか、シャンプーハットを使うのって子供というイメージがあったから、はげ頭のおじいちゃんが使っている姿に衝撃!!
でも確かに、ヘルパーさんを待っているようなおじいちゃん、身体が思うように動かず、シャンプーが目に入っちゃったら困るようなおじいちゃんには最適かも!
そう、このおじいちゃん、そろそろヘルパーさんが来ると言われて先に風呂に入り、居合わせたルシウスに「今日のヘルパーさんは、外国の方なのかのう」と彼に背中を流させる。
いろんなカルチャーショックに片膝を立てて悩む姿が、確かにメチャメチャ古代ローマ人な阿部ちゃん!いい身体過ぎる!!

その次は、真実ちゃんが派遣社員として行くショールーム。居眠りぶっこいてる彼女を上司が叱責、その途端、泡風呂にルシウスがザバーン!と登場!!
浴槽にもたれかかって居眠りしている上戸彩嬢の可愛さにうっとりとしている間もつかの間、怒涛の展開にアゼンとしまくる。この状況で「男を連れ込んでいるのか!」と上司が怒るのも意外に冷静だが、まあ……。
そしてルシウスは豪華な泡風呂やアロマキャンドルに衝撃を受け、しかし彼の第一の衝撃は「この限られた空間を最大限に生かす」ことであって、狭い土地にギュウギュウに暮らしている日本人としては、褒められているのやら、なんやら(爆)。

そして何より、シャワートイレにルシウスが受ける衝撃が、本作の中で最も抱腹絶倒の場面であろうと思われる。その他の風呂文化はそれなりに他の国でもあろうかと思うけど、シャワートイレ、つまり先鞭をつけたウォシュレットは、現代日本を代表する文化のひとつだもんね。
「トイレット」で、「これぞ、グレートジャパニーズテクノロジー!」とこれまた笑い含みで描かれたことも記憶に新しい。
やはりトイレということで、尻を水、いや、温水!で洗うということで、ビロウな話が最先端テクノロジー&日本的おもてなし文化!言えば言うほど照れ笑い、みたいな(爆)。

そう、本作の最も抱腹絶倒場面、そうしつらえたのは、日本人としてのそんな照れもおおいに感じるんだよなあ。
お尻を洗われちゃったルシウスが、ズワッと広がる花畑のイメージの中で涙をつつっと流す、大マジな阿部ちゃんに笑ってはしまうけど、やっぱりやっぱり照れを感じてしまい、日本人だなあ、と思う。

泡風呂も、アロマキャンドルも、そしてこのシャワートイレも、ルシウスは時の“暴君”ハドリアヌスに献上する。泡風呂はもちろん、奴隷たちが必死こいてふーふー吹いているんである(爆)。
暴君と呼ばれてはいるけれど、実は賢人。後の歴史に名を残すお方。演じるのはこれまた古代ローマ人に全く違和感ナシの市村正親。
ルシウスを気に入って召抱えるけれども、ハドリアヌスが後継者と考えている、これぞ本作の中で最も顔の濃い、とても日本人とは思えない(爆)北村一輝演じるケイオニウスがたちはだかる。

北村一輝、今まで日本映画、あるいはドラマの中で、その尋常じゃない濃さで浮きまくってたけど(いや、それでこその存在感なんだけどね!)まさに本作は、問題なさ過ぎだよなあー!
女好きという設定も、阿部ちゃんの濃さと北村一輝の濃さは、そこんところが違って(いや、見た目のイメージよ、あくまで!!)めくれあがった唇といい、北村一輝はいかにも女好きそう(に見えるだけだけど!)なんだもの。
女の子を、勿論当地の女の子を抱え込んでチューしまくっている場面なんて、相手が日本の女優さんの時よりしっくりきまくってる……エロエロー(爆)。

ハドリアヌスがなぜケイオニウスを後継者として考えていたのか、つまり買っていたのかが見えにくく、というか全然判らず、それはちょっとツラいところだったかなあ、と思う。原作ではどうだったのか、それともこれも原作ではないのか、判んないけど。
ハドリアヌスはどうやら男色家で、ローマを良くするための見聞の旅の途中で愛する伴侶を亡くしてしまって、すっかり意気消沈するという重要なエピソードが登場するのね。
その伴侶は、これはバッチリローマの美青年、まさにギリシャ彫刻さながらの……あれ?ギリシャじゃなくてイタリア……いや古代ローマは……世界史の話に行くと弱いからやめとこう(爆)。

いや、そんな描写があるから、ケイオニウスはハドリアヌスのなにがしなのかとも思ったが、特にそんな描写もなく、ハドリアヌスはその紅顔の美青年の思い出に浸っているわけだし。
しかしそのナイルの川から思い出のワニを連れてくるって、凄いなあ。ルシウスがしつらえた風呂の中をワニがほわーんと浮いている画が、衝撃的過ぎる。
でも市村さんだから、ありえるとか思っちゃう。風呂の周りにバナナがなっているのもね!これもルシウスが、日本の温室技術を持ち帰った成果な訳さあ。

大きな展開は、真実ちゃんがルシウスと共に古代ローマに迷い込んでからである。つまり、そこからがドラマティック場面である。
歴史上、ハドリアヌスの後を継いで穏健政治によってローマの安寧を築くアントニヌス(宍戸開。これまた絶妙な濃い顔♪)を、ルシウスも買っているし、真実ちゃんが史実を知っていることから、彼が遠方に飛ばされることを阻止しようと、動き出す。
ケイオニウスのために作る豪奢なテルマエ(風呂)ではなく、傷病兵を癒すテルマエを作ろう、それがアントニヌス様の提案だとハドリアヌスに進言し、動き始める。

しかし源泉はあるものの、広大すぎる土地を整備するには人の力が足りない、ルシウスと真実ちゃんが絶望しかけたその時、そこに平たい顔族のオッチャンたちがターイムスリップ!
とりあえずの策として、地熱を利用してのオンドルならば、小屋をしつらえればすぐに出来ると動き始める。無償の働きなのに嬉々として動くオッチャンたちにルシウスは驚く。
でもその驚き方は、常に彼らは集団で動くということに関してで、まあ最終的には、同じ目的、同じ喜びのために、という結論付けはされるにしても、そのイタすぎる指摘に思わず…………と黙り込んでしまう気持ち。褒められているのか、どうなのか……。

まあ、ヒクツになるのはやめよう。日本の風呂だって、狭いばかりじゃない。真実ちゃんの実家は見事な露天風呂をしつらえていて、ルシウスも気持ちよくつかり、温泉玉子の美味しさに目を見開き、しかし腐ったどぶろくでゲーゲーし、しかししかし、毒消し効果を持つ炭酸温泉であっさり治癒してしまう(早すぎ!)。
オンドル小屋を作り続け、傷病兵を癒す一方で、狭いながらも炭酸温泉も堀り、温泉玉子を作りながら、食べながら、和気あいあい風呂につかる。

その結果、蛮族に劣勢を強いられていたローマ軍は勝利、この風呂計画はアントニヌスのアイディアだと進言していたルシウス、ハドリアヌスはそれを汲んでアントニヌスを後継者に指名し、ルシウスをも称える。
広場に集まった大勢のローマ人から称えられるルシウスが、私の力ではない、と言い、作業に従事してくれたローマ人たちを称えるけれども、その一番の根源はもちろん、“平たい顔族”であり。
でもそれでも、この広場のシーンは、なんとも壮大で、気分が高揚する、いいシーンだったなあ。エンタメ映画、って感じだった。

ハドリアヌス皇帝、後継者のアントニヌス、敗れたケイオニヌスのその後が、史実を元に解説される。
ルシウスもホントに実在、なの?その後の詳細が不明っていうのを逆手にとって使われたのだろうか……どうなんだろ、漫画の創作としてのキャラのような気もするけど。
何にしても爽快、イタリア人に見せたい映画!と思ったら、日本公開より先に、ワールドプレミアでイタリア人に大ウケだったとか!本当にそうなら、ホント、嬉しいなあ。 ★★★☆☆


天地明察
2012年 141分 日本 カラー
監督:滝田洋二郎 脚本:加藤正人 滝田洋二郎
撮影:浜田毅 音楽:久石譲
出演:岡田准一 宮アあおい 佐藤隆太 市川猿之助 笹野高史 岸部一徳 渡辺大 白井晃 横山裕 市川染五郎 笠原秀幸 染谷将太 きたろう 尾藤イサオ 徳井優 武藤敬司 中井貴一 松本幸四郎

2012/10/5/金 劇場(錦糸町楽天地)
天文に特に興味もなく数学が大の苦手で、囲碁はルールをいくら聞いても全く判らない世界一ナゾのゲーム、……という私にとって、この算哲さんの人生は言っちゃえば興味の対象外といったところなのだが(爆)。
「バッテリー」「おくりびと」と連打した後に、釣りキチ三平はないよなーっとそれはスルーし(いや、単なるヘンケンだ)、ちょこっと久々な滝田監督作品への対峙。
そしてこうして観てみるとああやはり、釣りキチも観ときゃよかったかしらんとちょいと後悔。どんな題材だって見事にエンタメに昇華させる手腕はずっと彼は変わらないんだものなあ。

まあ、とにかくそんな具合なんで、彼が挑む壮大な天(=暦)への挑戦、子供のように瞳を輝かせる算術への興味、親友と共に情熱を傾ける囲碁、等々、その描写は私にとっては??で、何もこんなに色々手を出さないでよ、算哲さん、ひとつに絞って描いてくれてたら、判らぬながらもついていけたのかもしれないのに……と勝手なグチをこぼしたくもなるのだが。
実在の人物なんだから仕方ないか……しかし判らないながらも、ついていけないながらも、もう有無を言わさず見せきってしまう手腕は、ベストセラーであるという原作がきっといいのだろうが(こういう題材だといくらベストセラーでも、私はきっと手を出さないもんなあ)やはりやはり、エンタメ監督、滝田監督の手腕であろうと思われる。

惹句としてはね、“暦を作った男と、彼を支えた妻との愛と感動の……”なんてことを書かれてるけど、算哲さん一人の魅力で充分だと思う。あるいは、算哲さんと彼の情熱と才を見抜き、敬い、後押しした周りの男たちの友情の物語だ、と。
ネームバリュー、あるいは客引きのように主演の岡田君と共にあおいちゃんがばーんとツートップで写真には出ているが、実際に観てみるとそんな印象。ぶっちゃけて言っちゃえば、そんなに彼女は彼をサポートしていたかなあ、と(爆)。
いや確かに、一度全てを失って以降に算哲さんと結婚し、たった一人で奮闘するようになってからの彼を支えたのだから、確かに確かに重要な内助の功には違いないのだが、だとしたらどうもね、いいとこどりのような気もして(爆爆)。

それというのも、こういう役、あおいちゃんちょっと続きすぎだよね。頼りない、ふがいない、落ち込む、子供っぽい、世間知らず、人から理解されない、等々……な夫を暖かく見守り支え、叱咤する奥さんの役。彼女が名を上げた大河のヒロインだって言ってみればそうだしさあ。
なんか、いつも無難なところにいる、同じような印象で、最近の彼女からチャレンジが感じられなくて凄く残念。本作の役だってとてもイイ役だとは思うけど、なんかハジけないよね。汗を感じないというか……どうしてこんなに守りに入るようになっちゃったんだろう?

そんな勝手な言い草を思ってしまうのは、岡田君が予想外に良かったせいもあるだろうと思う。いわゆるイケメンジャニーズである彼が、しかし役者として各方面に評価が高いのは知ってはいたけど、ドラマを観る機会もなかなかないんで、私はあまり経験していなかった。 「おと な り」ぐらいかなあ。あれも軽めのラブストーリーだったから。
今まで誰も演じたことのない実際の人物を演じる、つまりそれでイメージがついてしまうことへの恐れを彼が語っていたのを聞いて、ああ役者やなあ、と思った。思えばそれが、本作に足を運ぶキッカケになったかもしれない。おーし、その恐れの上でチャレンジした結果を見てやろうやないかと。

そう、まさに、汗をかき、年をとり、強気になり、弱気になり、無邪気で、でも臆病で、縦横無尽。
年をとり、そう、年をとる。特に老けメイクをしている訳じゃないんだけど、劇中、10数年の歳月を、彼のたたずまいからは確実に感じとることが出来る。

そこが、あおいちゃんと違うところだったんだよね。なんかこんな言うとホントクサしてるみたいだけど(クサしてるんだな、実際(爆))、あおいちゃんは全然、年をとらないの。算哲さんと淡い思いをやりとりして、一年、三年、待ち続けて、そして一緒になってから更に数年、算哲さんがその間、風雪にさらされ、屈辱にまみれてボロボロになっていっても、彼女はつるりと若いまま。
算哲さんを待ち続けて、一度は仕方なく他に嫁入りして、何が理由なのか離縁されて出戻り、なんて女としてはかなりキツい経緯があっても、つるりとして、いつまでも少女然としている。
それがおえんさんの強さと言っちゃえばそれまでだけど、なんか、解せない。あるいはこれは算哲さんの物語で、彼を支える奥さんの人生を語るまでの余裕がないってことなのか?それなら演出の問題だけど(爆)。

……ちょっとクサしすぎなのでやめておこう。軌道修正。先述したように、算哲、そして彼を支える男たちは確かに素晴らしいんだもの。
一番特筆したいのは、囲碁の盟友として御前試合に真剣勝負しようという若き碁打ち、道策を演じる横山君である。まあジャニーズの先輩後輩のタッグであるが、当然私はジャニオタでもないのだが(爆)。
ジャニーズを積極的に起用する蜷川氏が、アイドルだからとバカにするなと、鍛えられ、もまれている彼らを重用する理由をアツく語っていたことをふと思い出したのだった。確かにそうかもしれないと。
横山君の道策の印象深さは、「ラスト サムライ」で若き天皇を演じた七之助氏の高貴さをパッと思い出した。若さがなければ出来ない、そして若さだけではない奇跡の一瞬のきらめきがなければいけない。算哲さんと絡む男たちは皆魅力的だけど、彼と、猿之助さんが特に出色だった。

猿之助さんは、算哲さんが憧れる天才和算家、難題の出題と解明でやりとりする算額絵馬にて間接的に出会い、実際に相対するのはずっと後になってからという、まさに魂のやりとりをする相手である。
算額絵馬、小説なんかで知ってはいたけれど、映像で示されるのは初めてでワクワクする。それで言ったら、算木が映画で登場するのも初めてだという。
へーっ!確かに見たことない。数学苦手じゃなくったってあれはワケ判らんと思うが(爆)、だけどやっぱり見せ方の手腕と、何より岡田君の作り上げた天衣無縫な算哲さんの魅力が、楽しくて楽しくて仕方なさそうな様子が、惹きつけちゃうんだよなあ。

でまあ、ちょっと脱線したけど、猿之助さん演じる関孝和は、算哲さんとずっと相対することがない分、その存在が及ぼす力量をひしひしと感じて、実際に相対した時に爆発する感じも、凄まじかった。
その天才的な考えは、暦に造詣があるに違いないと読み取った算哲さんが、幕府から任ぜられた改暦の大仕事に、関氏の算術を大いに参考にしそして……失敗してしまう。
初めての相対の席で、自分たち和算家のみならず、多くの研究者の面目をつぶしたんだ、お前は!と激怒してぶっ飛ばし、だけどお前に嫉妬した奴らが情けない!とも吠える関氏の、明快なキャラなのに混沌とした胸のうちというギャップが、猿之助さんのぶっとんだ人物像ともあいまって、なんとも好印象、なんである。

でもやっぱり、ベテラン勢がやっぱりやっぱり、凄かったかな。算哲さんがまず暦の世界にいわば巻き込まれる第一歩、北極星の位置を日本中で観測するという任務、北極出地で観測のイロハを教えてくれた、いわば星オタクの先輩、笹野高史氏と岸部一徳氏。
もうすっかりオジサンなのにメッチャ無邪気で、オイッチニ、と歩測で距離を測り、星の位置を正確に測る賭けを繰り広げる。負けると地団駄踏んで悔しがるのに、算哲さんがピタリと初挑戦で当てると、諸手を上げて賞賛し、それ一発で彼が天文の申し子であると信じるのだ。

信じる、なんて言い方はそれこそ無邪気すぎるかもしれない。でも、その無邪気さこそが、算哲さん自身を筆頭に彼を取り巻く男たちの唯一無二の魅力であり、強さなのだと思う。
しつこく戻ってきちゃうと、それがあおいちゃんにはないのよ。大人すぎるの、彼女は。そんな妹を見守る算塾塾長の隆太君でさえ、無邪気さをたたえているのに(ま、それは彼のキャラ的なことなのかもしれんが)さあ。

まあ、それはおいといて。ああそうか、隆太君。おえんのお兄さんで、算塾の塾長。特に算哲さんに影響を及ぼす人物ではなく、おえんのお兄さん、関孝和とつながる人物というだけの位置づけは、いわばソンな役回りなのに、さすがのひとなつっこいキャラで大いに位置を占めてしまうのはさすが。主役ももちろん出来る人ではあるけれど、ワキで活躍してほしい魅力のある俳優さんだなあ、と思う。
算哲さんと相対する男たちはそれぞれホントに一対一、ガチバトルがほとんどなのに、そうではない彼がふんわりと印象を残してしまうのは、ホント、得がたい人だよね、と思う。

そう、ホント、ガチバトルなんだよね。若き将軍の後見人である保科を演じる松本幸四郎、水戸黄門のイメージをぶっとばす壮年のエネルギーと好奇心旺盛っぷりを発揮する中井貴一。
特に中井氏の水戸光圀はサイコーで、ほらやっぱり日本人には♪じーんせい、ラクありゃ……、のイメージがあるじゃない。ラーメンを初めて食べた日本人とか、知識として光圀公の好奇心は知っていても、映像で見ると、新鮮!
諸外国の珍味を食卓に並べ、“ぶどう酒”を注ぎ、ムリヤリかぶりついて美味しいデスという算哲に「ウソつけ」と間髪いれず突っ込むそのリズム感に思わず噴き出す!貴一さんもコメディ好きそうだもんなあ。がっつりコメディやる貴一さん、もっと見たいわぁ。

で、まあ色々横っちょに脱線したが、最終的には、改暦できるか否か、幕府と京の朝廷とのバトルなんである。
そりゃあ長い歴史、みやびな伝統を持った京にとって、江戸のナンクセはさぞかしウザイものだっただろうと思われる。それが現代にも続いているような……などという話にしてしまったらまた長くなるから(爆)。

そう、それこそそこを掘り下げてしまったらかなりキビしいことになるのを承知で、おー、おー、おーー……滝田監督、かなーり、思い切った策に出ましたなあ!
そらまあ“お公家さん”って、まず絶対その眉とか、白塗りとか、おじゃる言葉とか、現代においてはツッコミどころ満載だけど、当時それがツッコミどころかどうかは、ねえ。
いや、チャキチャキの江戸っ子にとってみれば絶対ツッコミどころだったと思うけど、思うけど……でもさあ。

それを、ツッコんじゃったもんね!ツッコんだよね!マロな眉毛と白塗りとおじゃる、それを市川染五郎にバッチリやらせる、それ自体ツッコまずにはいられないだろ!という絶妙さに、唸る!
だってさだってさ、そりゃまあ、歌舞伎役者だから白塗りはまあね、あるさ、こういう役も舞台ではやったことあるかもしれない。
でも、でも、江戸の芸術、歌舞伎、かぶくもの、シャレ者である歌舞伎役者に、あの眉毛とおじゃるは!!!権威と権力を話そうとせず、オホホと笑って算哲をさげすむ憎まれ役だけど、ツッコまざるを得ないから、とても憎めない!!

算哲さんは、改暦の大仕事に抜擢されて、大規模な施設を用意され、観測を入念に行って、中国の歴史ある暦を比較検討する。でも結果的に、つまりどんなに優れていても過去の暦だから、新しい発見がないから、誤差が生じて、朝廷に挑んだ戦いに負けてしまうんである。
多くの信頼してくれる配下を従えての大プロジェクトから転げ落ちて、たった一人になって。それまでは成功したらおえんさんを迎えに行く、とカッコイイこと言っていたのにかなわなくなって、これ以上待てるか、という感じでおえんさんがそばについて、たった一人、いや夫婦二人で暦への、いや、天への闘いが再スタートする訳なんである。

そう思えば、確かにおえんさんの存在は大きいのだが…………まあこれ以上言うとアレだからやめとこう。
とにかく、配下を従えての大プロジェクトと、夫婦でこつこつ観測を続けるこの差は大きいよね。でもそれは、あの大プロジェクトの経験があったからこそ出来たことだし、それに何より、算哲さんが支持していた中国の授時暦を関氏から捨てろ!と言われたところからの再出発だった。

でも、ずっと算哲さんは授時暦を捨てなかったからさあ。見てるほうがヤキモキしたのよ。捨ててないじゃん、いつまでも、それに基づいた観測に縛られて、外れてはキレて、なんて、関氏のアドヴァイスはどこに??ってね。
でもまあそれだけ、新しい、全く新しい暦、いわば時間そのものを作り出す難しさ、っていうこと、なんだろうなあ……数学苦手な私は、もう想像するしかない訳。

それを、クライマックスでは象徴しているんだと思う。最後の最後の朝廷との闘い、数十年に一度の日食が当たるか否か、民衆に暦の大事さを説く時、吉兆、方角の正しさを、訴えてた。
今ではそれがどれだけ通じるか……暦、時間のズレの重要さを、数学的見地から民衆に判ってもらうのは、そういう意味で現代の方が難しい気がする。
お祝い事、旅の方角、そんなこと、あんまり気にしないもん。仏滅には式場が安くなるなんてウリに乗っかるカップルがいるぐらいだもん。

個人的には、算哲さんの業績より、おえんさんとの不器用な恋模様にドキドキした。そういう意味ではあおいちゃんとのコラボはもちょっと掘り下げてほしかった気も。
刀を持つ習慣がなくてまごつく算哲さんに、ひざまづいて直してくれる絶妙の接写カットはドキドキ!あー、いいですよ、つまり女子は単純にラブが好きなんですよっ。

それにしても算哲という名前、まるで運命のよう。これって、生まれた時にもらった名前なの?ホントに?ちょっと信じられないなあ。
算哲を生きた岡田君、本当に素晴らしかった。賞にからんでほしいと思う。ちょっとね、ホントにビックリしたよ。
天地明察、明察という言葉のクリアさ自体、晴れ渡る空のように素敵だけど、天地明察と組み合わさると、更にすっきりと澄み渡る清浄さ。まさにそんな、印象の映画だったと思う。★★★☆☆


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