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「そ」


2011年鑑賞作品

象を喰った連中
1947年 84分 日本 モノクロ
監督:吉村公三郎 脚本:斎藤良輔
撮影:生方敏夫 音楽:万城目正 仁木他喜雄
出演:笠智衆 原保美 日守新一 安部徹 村田知英子 植田曜子


2011/10/20/木 東京国立近代美術館フィルムセンター
タイトルのシュールさで即決。タイトルの下にサブタイトルみたいに、化学と生命に関する一考察とかなんとかちょっと忘れたけど、なんかもっともらしいことが書かれているからマジメな話かと思いきや、とーんでもなくシュール。
大体がタイトルクレジットのキャストが、象を喰った連中、象を喰わない連中、彼らを巡る女たち、と羅列される時点でちょっと噴き出してしまうしなあ。

そんで、これはこの時代特有のものなのかもしれないけど、物語の展開の仕方も役者の演技も、今みたいにためにためて深刻になることがないから、なにかそれが逆にシュールで可笑しくてならない。
新聞を見て博士が「死んだか」新妻「誰が死んだの、どこそこのあの先生?」「違うよ、象のシロウだよ」「まあシロウちゃん、かわいそうね」などと文字面では同情しているようにも見えるが、新妻は銀幕のスターそのまんまのキラキラの笑顔で言ってるから、なにかもう、笑いを通り越してコワい(爆)。印象としては何か全篇、そんなシュールさなんだよなあ。

タイトルどおり、象を喰う話である。科学者たちが、死んだ象の肉を喰らうんである。
それだけでかなり仰天の話なんだけど、彼らが、何かあっけらかんとしてて、こんなチャンスめったにないとばかりに、しかし特に大変なことをしているという意識もなく、ノーテンキに鉄板でじゅうじゅう焼いて、やあいい匂いだ、などと笑顔満点なのが、おいおいおいおいー!と思っちゃう。
ほおんと、最初から最後までそんな印象なんだもの。まあ厚いエレテキ(!)は確かに美味しそうだが(オイオイオイオイッ)。

ところで、キャストの最初に出てくるのは笠智衆である。製作年度からして彼が判る自信がなかったけど、やっぱり判らなかった(爆)。
正直、主人公と思える人物は、象の肉を食おうと言い出して仲間達を死の恐怖に落としいれ、血清が見つかっても彼の分だけがなくて、最後まで死ぬか生きるかとドキドキさせる科学者の一人、和田なんだけど、んー、どうも笠智衆の顔じゃない。
笠智衆は病気で瀕死の象を研究室に持ち込んで、どうか助けてくださいと泣き出さんばかりの動物園飼育係、山下の役なんであった。
それだって判らなかったなあ。何かちょびひげで、表情七変化で、モノクロということもあるけど、サイレント時代のコメディアンのような雰囲気がある。他のキャストがシュールな笑顔を振りまいているから余計印象的なんだよね。

だからさ、最初は彼らは科学者というより獣医チームみたいな雰囲気だからさ……。山下が頼りにしていたのは老博士小島なんだけど、彼は新婚旅行に出かけているという。
「だって博士はもう60は過ぎて……」「60を過ぎたって、お嫁さんをもらえば新婚旅行だろう」「はあ……」このやり取りも、笠智衆の神妙さにカラリと明るい研究員の応酬だから、なんとも脱力系の可笑しさなんである。

てか、てか!この場面、きっとシロウちゃん(象ね)は風邪をひいたんだ。だってあんなに鼻水が出ている、アスピリンをやってください。玉子酒はどうだろう、と微妙にトンチンカンなことをことを言う山下が可笑しく、それに対して冷静に「こんな分厚い皮をして、風邪なんか引くか」と研究者は一蹴。いやいや、それはあまり関係なかろう……。
しまいには鼻血まで出すシロウちゃんに研究者たちは首をひねり、山下が頼りない人たちだと嘆息するこの冒頭シーンは、既にコメディの雰囲気はあれど結構笑えないものがある。
だって象は膝をついて苦しそうにしているし、山下が、戦時中も山の中で守ってきたんだと象への愛をひたすら口にするのに彼らは全然深刻じゃないし、その後彼らが襲われる恐怖を考えれば、この冒頭って結構皮肉だったんじゃないかなあと思うのだ。

その恐怖とは、象の死肉を食らったら30時間後に死ぬ!というもの。その恐ろしい情報をもたらしたのは山下、というよりも山下の奥さんと言うべきか。
先述した、あっけらかんと象の肉をじゅうじゅうと焼いて、やあビーフでもないし、トン(豚ってことだわな)でもないし、なんだろう、象ですよ、象テキ、いやエレテキかな(アホか!)、などとノーテンキな会話をしながら舌鼓を打っているところに、山下がやってきて、知らずに可愛いシロウちゃんの肉を食ってしまい大パニック。
この衝撃の事実を告げられた場面は、ほんとチャップリンみたいでこれが笠智衆?と思ってしまう(いや、観てる時点では判ってないけど(爆))。

それだけならまだ落ち込むだけで済んだのだが、家に帰って妻から「そういう症状で死んだ象を食べた人たちが30時間後に死んだじゃないの!」と言われてウワー!と……。
考えてみればこの奥さんが余計なことを言わなければ、こんな騒動にはならなかったのだろうが……。

オチを先に言っちゃうと、確かにこの病気で死んだ象を食べたら危なかったんだけど、それは生で食べた場合。
散々大騒ぎした末に、あれ?死なない……となって、あの小島博士に電話で聞いてみると、お前らは本当に科学者か、その菌は加熱すれば死滅するのだ。えええええ!みたいな(爆)。
その場面も、この老博士と若き新妻は優雅に舞踏会なんぞを楽しんでいて、ドレス姿の新妻が、どうなさったんですの、とニコニコと寄ってくる。
てかさー、この彼女、象のシロウが死んだことを知った時も最後までニコニコしてて、あなたは長生きしてくださいね、あら、ごめんなさい縁起でもないこと言っちゃって、ってところまでずーっとニコニコ笑顔。こ、コワイわ!

まあそれはおいといて。山下の奥さんが、大変、吐いて吐いて!と筆立てから大ぶりの筆をつかんで夫の首をこちょこちょするというのも可笑しく、そんなんで吐けるか!と……。
こりゃあ大変だと研究室に急ぐ山下。青ざめる研究員たち。象の死肉を食らう言いだしっぺの和田とそれにノリノリだった若手の馬場が責任のなすりあいをしだすバカバカしさ。
家でくつろいでいた新婚の野村が「こんな遅い時間に研究所に行くんですの」というラブラブな新妻にすっかり尻の毛を抜かれていて、迎えに来た和田が彼らのいってらっしゃいのキッスにおいおいおい、と天をあおぐ。
こんな事態なのに絶妙にキャラクターの可笑しみを活写してきて、気持ちよく笑ってしまう。

まあこれはコメディだし、戦争中に動物園の象(に限らずだけど)が受けた苦しみを私ら日本人は伝統的に聞かされているし、知的好奇心なのか、単なる遊び心なのか、あるいは戦後間もないこの状況、彼らは尋常じゃなくお腹がすいていたのか(爆)なんとも言いがたいけど、何か彼らに罰を与えているような感は、あるんだよなあ。

ところでそうそう、笠智衆よりも主人公っぽい、和田を演じる日守新一は、笑った時の歯の金歯はワザとなのかなんなのか?
彼が恋する下宿屋の娘は豊満な魅力があり、ていうかもうホント若くてほっぺたなんてパンパンでさ、もういよいよダメだと観念した和田が彼女に保険証書と印鑑を預けて、これで僕の葬式と飲み屋のツケを払ってくれ。その後は君の好きにしていい、と言うのね。
そりゃあ彼女は信じない訳よ。まあ預かっとくわね、ぐらいなノリである。屋上でお布団を干しながら、いきなり側転かますって!どーゆーキャラ設定よ!凄いなあ、側転(そこか!)。若さの表現なのかなあ。

下宿のおばさんがその話を聞きつけて、こうなったら仏さんにすがるしかない、南無妙法蓮華経、とドンツクドンツクやりだして。
「僕は無宗教なんだけどな」「私も無神論者なんだけど」二人して仕方なくおばさんに従って並んでドンツクやりだすのがなんとも可笑しい!

ちょっと先走っちゃったけど、一応、彼らは手立てがないか顔をつき合わせて相談するのよ。まず本当に死ぬのかどうかを過去の文献から探り、山下が言っていた事例ともうひとつ別の事例も論文に残されているのを発見してもうこれはダメだと。
それを別々に発見した二人が、英語とドイツ語?(ロシア語かな)で朗読して意味なく張り合う様が可笑しいが、日本語じゃないと判らないよとか誰も突っ込まないことの方が妙に可笑しいかもしれない(爆)。
で、これは血清を打つしかないと、全国の研究所に問い合わせるんだけど、ことごとくバツ。皆、絶望して帰途に着くんである。

で、和田は下宿の娘に先述のように、死後の後始末にまぎれて、僕の愛人になってほしい(なぜ愛人!?)とかなんとか、愛の告白めいたことをかます訳だが、まあこの時点では彼女は当然信じてないし、観客の方も、どうせなんということもなく大丈夫だろ、と思ってるんだけど……。

ただ、血清があった!30時間手前で間に合う!盛岡(だったと思うが)からの列車が事故にあって遅れたり、その混雑の中で一本が破損していたりと、タイムアクション&予期せぬ事態という、王道のドキハラで、これが意外に本当にドキハラさせられるもんだからさ。
その前に、もうダメだと思って両親に別れの挨拶に行く若い研究者の馬場の描写なんぞも可笑しくもみずみずしく、なんとも良い。大体が、ガクラン、詰襟姿というのがイイ。
今で言えば十分イケメンで通る端正な顔立ちで、しかしイナカに帰ると両親をパパ、ママと呼び、おふくろさんが「お前の好物だろ」とドンと置く山盛りの超巨大なおはぎや(これは思わず噴き出した!)、思い出の子守唄(ピアノを弾きながら声が裏返りまくるママが可笑しい!)に合わせて歌い号泣する馬場君の、可愛がられまくって育った様が愛しすぎる(涙)。

この母子に対照的に“パパ”はのんびりと畑をたがやしているのがやけに引きのショットで切り取られているのも妙に可笑しく、このパパが「ちょっとおかしくなってるんだ。しばらく静養させたほうがいい。なんでもそうだと言ってやらなければいけない」とママに忠告、ママはその通り、息子が切羽詰って涙ながらに言う言葉にそうだね、お前の言うとおりだよ、と言い続けるのが切な可笑しくて(涙)。
で、電報で血清が見つかった、と知らせが来ると、狂ったように飛び上がって喜んで、裸足のまま駅に向かうもんだから、ここで東京に行かせたらもっとおかしくなってしまう、止めるんだよ!とすたこらさっさと田舎道を疾走する息子を靴を手にオーイ!!と追いかける老父が、もう可笑しくてさ!!

馬場はどうやらこのご父君を振り切ったらしく(爆)、無事上野駅につくんだけど、先述のように事故で列車が止まり、明日の朝まで動かないかも!という事態に皆は意気消沈する。
ここでじっとせずに、私たちが止まっている列車の方に行きましょう!と夫にラブラブな野村夫人が提案する。

そういやあ取りこぼしていたけど、幼い子供を三人も抱える渡辺が、もう明日には死ぬと細君に告げて、二人で涙ながらにぶどう酒を酌み交わすシーンも素敵なんだよね。ぶどう酒、まあワインだろうけど、めったにないであろうそんなお酒を、どうやらお酒自体そんなに飲まないらしい彼が「今日は酔いたいんだ」と細君にも進めて、しんみりとする様子。
細君が夫の吸うタバコを巻紙で巻いて作ってて、そんなに作っても明日までには吸いきれないよ。でも残ってもしょうがないから、そうか……という応酬が、沈黙が続いて、出来上がった巻きタバコを煙草入れに丁寧に収める細君の様子とか、なんかもう、しんみりするばかりなんだよね。
子供たちはまだ幼いから、まだまだ若い二人でさ、子供たちは翌日ハイキングに行くのを楽しみにしてる訳。その夜にはもうお父ちゃんは死んでしまうというのに!

新婚の野村も、最後の思い出とばかりに新妻とダンスの舞台を見に行っている。このシーンも興味深い。だってさ、当時の映画以外のエンタメを知る機会なんてなかなかないじゃない。
舞台で歌っているのが、象のキッス鼻をからめて象牙をぶつけ合わせて、なんていうウケネライの歌詞だとしてもさ!バックでアラビアンなダンスを踊っているダンサーたちが、妙にオバサンチックなのも気になるところなのよね(爆)。

まあ、で、どこまで行ったんだっけ(爆)。あ、そうそう、列車が遅れたけれどもなんとか着いた血清、しかし列車内でひとつ壊れて、呆然とする一同。
「これはどういうこと?」「誰か一人が死ぬということだよ」またあっさり言うなー!もうこれは文字上では表現し切れんの、このおいおい!とつっこむにもさらりと早すぎるアッサリ加減が可笑しくてたまらないんだけど、それは現代だから可笑しいのかなあ?いやこれは、絶対ワザとだと思う!
皆がそれぞれの事情をかなり未練たらしく言って、死にたくないなというのもまあコメディとしてはお約束だけど、その言い様がさ、自分勝手というよりも、それを通り越して、こんな事態なのにアッサリした言い様すぎるのが可笑しくてさ!

それでもこの場面はやはりひとつのクライマックス。言いだしっぺであることに責任を感じた和田が、クジにしようと言い出して、一見公平にする筈が、“折れたマッチ”は和田の手のひらの中にはない訳さ。
もういよいよ30時間が迫ってる。下宿屋のオバサンはどんつくどんつくやっている。もう15分しかない、ベッドに横たわる和田に死んじゃいやよと愛しき娘がやってくる。血清を打った仲間たちも駆けつける。

覚悟してベッドの中で目を硬くつぶる和田。時間が過ぎる……。「おい、この時計は進んでるぞ」
この期に及んでまだギャグでひっぱるか!だって30時間ぴったりに死ぬという訳もないじゃん!15分前で何事もなかったらふつー疑うでしょ、てめーら科学者だろ!
さあ死ぬぞ!と布団をかぶる和田に死んじゃイヤー!と泣き伏す下宿屋の娘。どっちか気づけや、このおかしさに。しばらく時が過ぎてようやく疑念を抱いたらしく、彼らの一人が新婚の老化学者、小島氏に電話する。
で、先にオチバレした、過熱すれば菌は死滅するという事実を知らされる訳。「お前らはそれでも科学者か。何もないのに血清なんぞ打って、体中がかゆくなるぞ」とまたホラふいてさ!大、大、大団円!

ホッとしながらも、冒頭の、ひざをついた象の様子がふと脳裏によみがえったりもする。遠い国から連れてこられて、生き延びて、可愛がってくれた飼育係の胃袋にもおさめられたシロウちゃんは何を思ったんだろう、なんてね。
吉村監督の戦後第一作、今の時代の私らが思う以上にいろんな意味が込められていたんじゃないかとも思うんだよなあ。★★★☆☆


ソーローなんてくだらない
2011年 102分 日本 カラー
監督:吉田浩太 脚本:吉田浩太
撮影:関将史 音楽:朝真裕稀
出演:芹澤興人 梅野渚 安田沙耶 小西平祐 千葉ペイトン

2011/8/23/火 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
初日でもない平日のレイトショーに、まさかのギチギチの満員、周囲の状況からどうやら身内や関係者だらけという状況にかなりの居心地の悪さを覚えつつ観賞。
確かに一週間限定のレイト、今後の再上映のチャンスをもくろむためには動員数を伸ばすのは欠かせないとは思うが、この状況はフラリと劇場を訪れる単なる観客にとっては非常にやりづらい……。
この面白さなら一週間でも十分口コミが広がって再上映につながると思うんだけど。実際青春Hの中でこれはと思ったものは、後に再上映されていたもんなあ。

などと思うぐらい、確かに面白かった。正直タイトルからもキワモノと思っていたんだけど(爆)、いや、つーか、青春Hシリーズの企画自体が若干キワモノであることは確かなんだけど(爆爆)、そして確かに前半はキワモノだったかもしれないんだけど(爆爆爆)。
後半はまさかの切ない恋愛物語?まさかのって、私もどんだけキワモノ期待してんの(もう爆は使えない……)。青春Hはそうやって、期待をいい意味で裏切られる佳作が登場するのが面白さではないの。

それにしても条件である“H”をソーローやそれを治さんとするオナニー、同居人の女の子による手コキによって表現するというのはある意味発想の転換?(イヤイヤ!)と思ったが。
しかし最後の最後の最後には、あまりに切ないこの時限りのセックス。
これはエッチなどと軽く言いたくないなあ、最高のエロは最高の切なさ。だってこの一度きりの永遠なのだもの。

まあそのー、またしてもよく判らないまま書き進めてますが(爆)。この監督さん、ああ、「ユリ子のアロマ」の。ということは私は彼の作品は二度目かあ。
劇場公開作品があるのなら、何もこんなに関係者で固めなくても観客は来てると思うが、ってまだ言ってる(だって、あの雰囲気、耐えられなかったんだもおん)。

「ユリ子のアロマ」のと知って、このヒロインのチョイスにああ、なるほど、と思う。
主人公、晴生とルームシェアをしているヒロイン、ノンを演じる梅野渚のさっぱり感は実に江口のりこを彷彿とさせる。監督さんはこういう女優さんが好きなのかなあ、と思う。
それでいてちゃんと脱ぐ時は脱ぐところもね。いや、この企画では脱がなきゃしょうがないんだけれども(爆)。

主人公の晴生を演じる芹澤興人氏は、私どっかで絶対見たことあると思ったんだけど、どう探しても判らない。気のせいだったかなあ(爆)。それともあまりにもインパクトのあるお顔だから、見たことあると勘違いしてるのかなあ。
ほおんとに、インパクトのある顔立ち。それこそこんなお顔は一度見たら忘れない筈だが、予告編で見てそんな気になっているんだろうか?

ちまたにはイマイチ見分けのつかない“イケメン”俳優が横行しているが、役者というものは、基本こうでなければいけないと思う。
しかして、美男美女が役者の基本だと世間では思われているもんだから、なかなかそうもいかない。劇中の晴生のように、自称役者の輩はゴロゴロいることであろう。
まあ晴生に関しては、自身に切り開く努力も、撤退する勇気もなかったということなのだろうが。

晴生は、見るからにボロの長屋でノンとルームシェアをしている。かつては何人もとシェアをしていたらしいが、彼はここに8年いるが、今は3年いるノンと二人だけ。
冒頭はそのルームシェア希望者が見に来るシーンだが、あまりのボロっぷりに、最初から腰が引けているのは丸分かりである。
晴生はレンタルビデオ屋でバイトし、ノンは資格の勉強をしている。

晴生の目下の悩みは、尋常じゃないソーローであること。ズリネタにオナニーしようとしてモノを出す前に暴発。
バイト先の可愛い女の子が酔いに任せてカマかけてくるなんていう絶好の機会にも、やはり出す前に暴発。
これじゃオレの人生どうにもならん!と彼はソーロー治療に熱を入れだすんである。

まあ正直、本気で治したいなら病院行けよと思うし、そもそもソーローを治さなければ先がないとか考えている彼に、いやいやそれ以前にそういう生活しているあんたはもう先がないよとツッコミを入れたくなるのだが。
前者はともかく、後者に関してはまさにこの映画のテーマ、なんだよね。

彼だって判っていた筈、役者だなんて言ってももうずっとそんな活動はしていない、お声もかからない、そりゃあ役者は売れるまでは食えないっていっても、もうそうした筋とのつながりさえない。
田舎に帰る筈だったのにずるずると東京にいて、俺は役者だから、ここはメインじゃないからという態度でバイトに入って、責任者然としてダラダラシフトを考えたりしている。

それを周囲が先刻承知だってことを、彼が判っていなかったというのが後に示されるのがあまりに辛くて……。
つまり、自分自身がもう役者なんかではないことは判ってるということで彼は納得してたと思うんだけど、周囲がそれを哀れんでいると突きつけられたツラさときたらなくってさ……。

おっと、なんかまた先走っちゃったんだけど(爆)。まあそんなシリアスなテーマは後段なんでね。前半はひたすら彼がソーローを治そうと必死になっている、いわばコミカルパートなのよ。
ほおんとに、くだらなくて笑っちゃう。確かに同居人のノンが「くっだらない」と吐き捨てるように言うのが判る。
まずは15分持たせるのがステップ1だと、スマホでタイマーセットしてシコシコやりだすのには爆笑!
てか、こんなうだつのあがらない生活してるのに、早速スマホはゲットしてるのが見栄っ張りとか思うのは、私がアナクロニズムすぎ?(かも……)。

まあこんなタイトルだしテーマだから、彼が汗水たらしてタイムを伸ばそうと努力している様がかなり丁寧に描かれ、それを隣の部屋で試験勉強しているノンが呆れ顔で壁を蹴ったりし、とにかくくだらない可笑しさ、なのよね。
それは、ステップ2、パートナーによる協力が不可欠という段に至って、晴生がこともあろうにノンにその協力を頼む展開に至っても継続される。

だって二人は確かに一緒に暮らしてはいるけれど、そんな雰囲気は皆無である。ノンがバーカ!とその願いをつっぱねるのも、照れも躊躇もなく、ホントにバーカ!と思ってるのが判る。
でもつまり、それだけ二人は判り合ってるっつーことでもあってさ……。本作が最終的にやたら切ない結末を迎えるのは、まさにこの点にあるんである。

彼らは恋愛感情を発展させる前に、熟年期の夫婦のような関係を築いてしまっている訳なのよね。
とても理想的な関係だけど、でも“恋愛感情を発展させる前に”というのがやはりいけない。何ごとも手続きをすっ飛ばしてはいけない。
どんなに理想的な関係で、何も隠しごともない、信頼しあっていると感じても、彼らが恋人同士になれなかったのはやはり、その点にあったと思うんだよなあ。

あら、私、またフライング気味かも?えーとね、だからさ、ノンが晴生に請われてステップ2に参画したことが、唐突にも思えた後半の恋愛模様に確かな橋渡しをするんだよね。
とは言いつつ、この時点ではまったきコメディである。家賃は全部自分が払う、掃除もするからという条件につられて、ノンは協力を了承するんだけど、この時の晴生の、とんでもないお願いをしたことをひたすら謝りつつもこれ見よがしに掃除機かけたり、これはいるの?捨てていいの?とか下手に出まくりながらも明らかに諦めていない様には爆笑!
ノンも思わず噴き出して、了承しちゃうぐらいなんだから、これって結構有効な手段だった?イヤイヤ!

てかさ、てかさ……やっぱり後から考えれば、お互い憎からず思っていたからに他ならないんだけど、あまりにも近い場所にいたから、だよね。
でもさ、それこそ理想の家族になれる関係だけど、でもやっぱり段階をすっ飛ばしちゃダメなんだよね。

てな訳で、ノンが協力することになる。いきなりお尻丸出しで、お願いします!という晴生にも噴き出すが、思いっきりイヤな顔をして、手袋とかないの?と言うノンにも爆笑!
しかも晴生が探し出して、これでいいだろと差し出したのはなんと靴下!
しょうがないかとそれを手にはめて顔を、ていうか体自体を晴生から背けてこしこし手コキするノンと、アウアウ言う晴生にもう爆笑!
晴生がタイマーセットを忘れないところも泣かせる(泣かせる?)。
その後、手袋から綿の白手袋、ゴム手袋、更に使い捨てビニール手袋と昇格?していくのがなんともはや。
それも「次のステップに行くには、すべすべした素材がいい」とかいうネットの情報を晴生がうんうんと取り入れた結果なんだもの!

そんな一方で晴生はバイト先に入ってきた可愛い女の子、百瀬に夢中になる。
相談したいことがあると言われて有頂天になり、デートへ。それが原宿でクレープって……。デートのために情報番組に釘付けになり、約束の掃除もしないままの晴生にノンはケッという顔をしながらも上手くいくといいねと送り出す。
そういやあノンは晴生のバイト先に可愛い女の子が入ってきたことも知っていたし、晴生が自覚する前から彼のことが……?どうなんだろう……。

デートの最中、自主映画の撮影隊からどいてくれないかと言われて、「許可取ってる訳じゃないだろ」と彼女の手前カッコ良く突っぱねる晴生。
しかし自分も世話になったまさかの有名監督の登場であっさりヘコヘコしてしまい、そのカッコ良さもあえなく撃沈。
“自主映画の撮影隊”だと彼が勝手に解釈して、それは自分も知っている世界だからと見栄を張ったのもイタいが、出てきたのが「割と有名な、ホラー映画とかも撮っている監督」、そう、あの清水崇!
という、正直この日の観客状況を示唆するようなゲスト出演というのがね、ちょっと微妙でちょっとイタい(爆)。

このバイト先の可愛い女の子、皆にモモちゃんと呼ばれている百瀬が晴生に近づいたのは、彼が役者だと自称していたから。
芸能界に入りたいんだという相談を持ちかけた彼女は、晴生が今はすっかりそんな世界とは疎遠になっていることをこの場面で察知し、あからさまに冷たくなる。

女のしたたかさを実に判りやすく示しているけど、正直このモモちゃんはそんな言うほど可愛くなく(爆)、いや確かに巨乳だし、今風のメイクやファッションではあるが(今風とか言う時点で私、ダメかも……)ふと振り向いた顔は渡辺直美って感じで(いやいや!渡辺直美が可愛くないという訳では……ないが……)。
でもそれもひょっとしたら計算なのかなあ。可愛い可愛いと言われている女の子が、芸能界に興味があるなんて言ってる女の子が、実はそれほどのものではないと。なんて、それはいくらなんでもヒドい言い様だったかな……。

でもさ、この百瀬が芸能界に入りたいなんてことを翻して就職を決めて、その理由が「晴生さんみたいになりたくなかったからです。私と晴生さんって似てるんですよ。何もないところが」と言うのが実に辛らつだけど、確かにその通りでさ。
彼女は多分、“何もない自分”が判ってたからこそ、芸能界という選択肢も掲げてたんだと思う。それぐらいの“分別”が彼女にはあったんだけど……晴生にはなかったんだよなあ。

シフトなどの事務処理業務をまかせた店長も、それを立てた若いバイトたちも、晴生が何も出来ないことを判ってた。
晴生がノンに去られてすっかりふぬけになり、バイトにも出なくなるともう途端に晴生の居場所がなくなるのが、なんとも身につまされるというか……。いや、晴生のようであるという訳じゃないけど(爆)。
それなりに年をとると、いくら同じ職場でキャリアを重ねていても、そのキャリアが単なる年数でしかないんじゃないかと不安になることはやっぱりあるもの。

いやでも、晴生は不安にさえならなかったのか。自分は役者だからという気持ちが、虚飾だと自分で判っててもやっぱりあったからなのか。
不思議に確かにそれは、このソーローであるという“くだらない”テーマにつながる気もするんだよなあ。
イクことを出来るだけ長く持たそうとすること、それはあまりに意味もなく空虚なこと。でも確かに“イク”ってことは、そこでオワリだってことだもの。それを認めることだもの。
ソーローである自分を嘆く、つまり認めなかった晴生は、自分のオワリを認めたくなかったのかなあ、なんて……。

そこまで言うのはあまりにもうがちすぎだろうか。でも、百瀬からそんな決定的なことを言われ、更に「ヤリますか?ヤらないなら別にいいですけど」とかバカにされて激昂、トイレでレイプさながらに突っ込むも、彼女は最初こそイタイイタイと抵抗しつつもよがってイき、いつまでもイカない晴生にイラついて、もういいって言ってるでしょ!と突き飛ばす。
あれだけソーローに悩んでいたのに、確かにノンの協力によって驚異的な改善は見せていたけど、でもノンに去られる恐怖ってそんなにも彼をしおらせていたのか。

ところでソーローっていうのは、自分に対する不満足なのか、相手を満足させられない(と思い込む)不満足なのか。
そのあたりにも男と女の考えの差異があると思うのは、このシーン、いつまでもイカない晴生に苛立つ百瀬、という図式に妙に皮肉に現れてる気がする。

百瀬とのデートが破綻した後、ノンがいつものようにトレーニングの手コキをしてくれた時、初めて彼女は胸を触られるのを拒否せず、たまらず晴生はイくのを我慢できずにそのまま発射、彼女の顔に白濁液が飛んじゃったんである。
あの時が、堰を切ってしまったんだと思うけど、でもノンは資格試験に合格し、晴生は相変わらず何もないまま。
ノンは何度か晴生に、何でここに住んでるの、と聞いた。それは、他の人は出て行っているのに、ということを暗に含んだ問いだった。
でもそれを、晴生は汲まなかった。別に……ここは安いから……と。ただそれだけ。
あの問いってさ、つまり間接的な、遠まわしな、女からのプロポーズと言ってもいいぐらいの重さがあったと思う。
そう、したたかで、それ以上に後のないほど決意のある、駆け引き。でも晴生はそれが判らなかった。

ノンは資格試験に合格したことで、出て行くことを決意する。このあたりで晴生はノンへの思いを自覚し、彼女が出て行くことを知って狼狽、さっぱり部屋に帰ってこない彼女を待ち続けてバイトにも行けず苦悩する。
そうなると、彼がいかに無能な人間で、周囲から哀れまれていたかが判ってきて、見てるこっちも辛くなるんである。
ノンが最終的に引越しの準備をするために帰ってきて、好きなだけでは一緒にいられない、と晴生に告げ、あれだけちゃんと話がしたいと留守電に入れまくっていた晴生がそれを悄然と受け入れちゃう。

ノンが苛立たしげにバッグを投げつけ、それが爆発したかのように晴生が彼女を抱きしめてむしゃぶりつくように求めあい、最後まで行くのが……。
もうね、セックスってさ、ベッドでしんねりとより、台所で性急になんていう、こういうのが一番エロでドキドキするなと即物的なことを思いつつ(爆)。
でもなんでこんなにドキドキするかっていうのは、その後には永遠の別れが待っていることが判っているからであり、心も身体もその奥の奥までジンジンしてしまうこのシーンがたまらないんだよね。
それまでのコミカルやくだらなさがあるから、余計にさあ……。

この日トークショーに来ていた篠原監督がさ、凄くこの作品を買ってて、もう熱烈に弁を振るって、吉田監督にもゲストで来てた主演の芹澤氏にも口を挟ませないぐらいでさ。
彼が言う、彼女は戻ってくるんじゃないかと、それがカタルシスじゃないかというのも確かに判り、それはこれがキワモノなどではなく優れた恋愛映画だと評価してのことだと思うのだけれど、でもやっぱり、この結末で私は納得出来た。
彼らは確かにとても微妙絶妙な関係、ルームシェアで3年間一緒にいて、家族のようなきょうだいのような友達のような、でも決して恋人じゃなかった。
女と男の考え方の違いはあると思う。でも、これは彼らが出会った時点、そういう関係から始まった運命だった、なんて言ってしまったら大げさだろうか。★★★★★


曽根崎心中
1978年 112分 日本 カラー
監督:増村保造 脚本:白坂依志夫 増村保造
撮影:小林節雄 音楽:宇崎竜童
出演:梶芽衣子 宇崎竜童 井川比佐志 左幸子 橋本功 木村元 灰地順 目黒幸子 青木和代 大西加代子 渡部真美子 野崎明美 千葉裕子 大島久美子 加藤茂雄 伊庭隆 山本廉 伊藤正博 麻生亮 鹿島信哉 弾忠司 飯塚和紀

2011/8/4/木 劇場(銀座シネパトス/梶芽衣子特集)
曽根崎心中などという、歌舞伎の超有名な演目なので正直腰が引けたが、開けてみたらビックリATG。
えーっ!あのアヴァンギャルドなATGで曽根崎心中、しかもそれを大巨匠増村保造というのもビックリ!
いや、増村保造という名前にもなんとなく先入観があるんだけど、私が何本か観ている増村作品も、実験精神に満ちたヴィヴィッドな作品がいっぱいあったもんなあ。なんか名前のクラシカルさと有名さで、毎回そのことを忘れているもよう(爆)。

そうか、ATGか、いやあ、ビックリした。最初に提示してくる、心中する二人であるお初と徳兵衛の道行きの画からして、超目力の強い梶芽衣子と、反対に実に気の弱そうな宇崎竜童が腰をかがめて死に場所に向かっているというショットがなんとも異様な緊迫感を漂わせる。
バックに流れる音楽は、これはもう全篇キュインキュインとヒップな音を聞かせるエレクトリックサウンド(こんな懐かしい言い方もしたくなるが、しかしカッコイイの!)、やはりか、音楽担当は宇崎竜童。
当時ブイブイ言わせていたダウンタウンブギウギバンドが演奏を務め、それがこの超有名な歌舞伎(人形浄瑠璃)の世界に響き渡るなんて、アヴァンギャルド以外の何ものでもないじゃないの。
なんとゆー、実験的精神!これぞATGって感じ!いわゆるワイドなスクリーンサイズじゃなくて、狭い正四角のようなサイズもなんかそれっぽいわー!て、そこには何の根拠もないが……。
でもこのスクリーンサイズのどこか息詰まるような感じも、なんとも鬼気迫るものがあるのよね。

本作はなんたって梶芽衣子特集の一本として観たからさ。本作で梶芽衣子はこの年の女優賞を総なめにしたんだという。
判るなー。いや、確かに誰もが持っている梶芽衣子のイメージ、あの吊り上った猫目と一本すっと引かれた美しい眉からなる、カミソリのような目力の印象、一歩も引かない気の強い女、という雰囲気は裏切らない訳よ。
それは、この日同時上映だった「無宿」の、男二人に頼りきっている女(まあその女も、その中には驚くほどの芯の強さがあるんだけどね)とはまさに好対照で、今回の二本立ては、梶芽衣子という強力なファクターをベースとしながらまったく違っててほおんと面白いんだよね。

本作の梶芽衣子は、そう、だから、裏切らない部分もありつつ、でもなんたって時代設定、囲われの女郎、手練手管で男から金を巻き上げなければならないその女郎が心底恋をしてしまって、金を取らずに揚がらせてしまう弱さ。いや、店の主人ややり手婆にきつく言われてもそれを押し通す強さと言った方がいい。
梶芽衣子的気の強さと、それが恋を100パーセントのエネルギーにするそれだというのがなんとも凄くて。彼女はもう全篇頭の先から足の先までキリキリに神経を張り巡らせてて、カッと見開いた目は常に怒りや悲しみや絶望の涙でたたえられていて、もう見ててこっちが死にそうになるぐらいなテンションなの!

一方の宇崎竜童。彼女がこんなにも恋焦がれる徳兵衛という男。最初登場してきた時、ああ、誰だっけ、この顔……と、凄く判ってる顔なのに、なかなか思い出せなかった。
ややして、あるいはバックに流れるエレクトリックサウンドもあいまって、ああそうか、宇崎竜童か!と……。
彼は、特にこの時期の、ダウンタウンブギウギバンドの時は、真っ黒いサングラスにレザーファッションでいかにもコワそうなんだけど、そのコスチュームを脱ぎ捨て、特にその優しい離れ気味の目(爆)があらわになると、ホンットに、印象が変わる。
優しくて、気が弱くて、確かに梶芽衣子みたいな女が逆にホレちゃうような男、なんだよね。
でも考えてみれば、惚れて惚れられてという間柄になってからはカネをとらなかった、だからしょっちゅう居続けて、お初は客を他にとらないし、店にとってはカネにならないし、お初の借金も膨らむばかりだし、なのにそんな具合にヘーキで店に何度も来ていると考えると、案外神経がずぶとい男なのかもと思わなくもない?

まあとにかく。徳兵衛は、もちろん勤め先の店からもそのことを咎められている。ていうか、それをけん制するように縁談が持ち込まれる。
そもそも徳兵衛が勤めているのは叔父の店であり、この店で手代にまで育て上げてくれた叔父に徳兵衛は頭が上がらないんだけど、それでもお初のことがあるからこの縁談はきっぱりと断る。

というのも叔父が、ことを性急に進めて、徳兵衛の強欲な継母に支度金の銀二貫目を先に渡してしまっており、自分の意志を無視されたことにも怒ったから。
でも叔父はそんな徳兵衛の態度に、やはり噂は本当だったのか、女郎に入れあげたのかと怒り、店から出て行けと感情的になってしまう。しかも、銀二貫目はきっちり返せ、と。

継母から金を取り返すくだりもかなり凄まじく、何かぽよぽよとした雰囲気の宇崎竜童(ゴメン!)が左幸子演じる強欲な母親に押されまくっているのもなんだか微笑ましい。
その後、メインとなる更に非道鬼畜な友人に騙されるくだりに至っても、彼はほんっとボンボンで、確かにお初に惚れたのが運の尽きだったのかなあ、なんてそんなことを言っては可哀想だけれども……。

そう、可哀想よね。だって全てが露見した暁には、あの感情的になった叔父だって、金の取れない客だとののしっていた店の主人だって、徳兵衛の温厚で誠実な人柄を惜しみ、なんとか死なないように、その前に見つけ出すようにと奔走するんだもん。
なんかこの時には、みんないい人じゃん、と涙が出そうに……っと、おっと!そこまでいくには早すぎる!いっちゃん大事なシークエンスをすっ飛ばしては話にならぬ!

あのね、本作で一番のもうけ役だろうなあ、ていうかちっと悪乗りしすぎじゃねーの、というほどに憎ッたらしいキャラがいるのよ。
演じる橋本功がスゴ過ぎる。え?てゆーか、私彼は結構見てると思うけど、こんなヒドい男!?
いやいや、この九平次はさ、徳兵衛を待ち構えていた登場シーンから、もうこいつは絶対ヒドイ奴!と判りやすすぎるぐらいでさ。
実際判りやすいんだよ。必死の思いで継母から銀二貫目を取り戻し、それを叔父に叩き返そうとした直前、彼を待ち構えていた九平次に銀二貫目を貸してくれないか、なんてさ。
金額までもあまりに一致していたもんだから、徳兵衛の叔父と加担しているのかと疑ったぐらいなんだけど、そこは偶然だったらしい(偶然過ぎる気もしないでもないが……)。

九平次は掛け取り金が集まらなくて面目が立たない、と泣きごとを言い、あてのある集金先があるからきっと返すと言う。
でもこの九平次の顔、その調子のいい物言い、もう明らかに徳兵衛が騙されると判っちゃう。
なんでそれで貸しちゃうの、徳兵衛!長年の付き合いの友人?なんという甘い男!金の切れ目が縁の切れ目、友情も金で壊れるんだよ。
てゆーか、そもそもこの男と友情なんてなかったであろうことは、少なくとも九平次の方はそんなこと思ってなかったことは、あの邪悪な表情一発で明らかだもん!!!

……判りやすいと言いつつ、つい熱くなってしまった。だあってえ、あまりにこの九平次がさ!
思ったとおり彼は期日までに返さず、それどころか催促した徳兵衛を騙り扱いして、カネずくではべらせているお町衆もけしかけて殴る蹴るの暴行。
いやさ、確かにこういうシチュエイションはありがちかもしれんよ。でもさでもさ、九平次があまりに憎たらしいんだもん!
なにあの、さびついた金属をこすったような憎々しげな声と耳に障る高笑い!
いや……橋本功氏になんのウラミも何もある訳もないのだが(爆)。やられる宇崎竜童があまりに愚直に人を信じて痛い目にあうのが歯がゆいせいもあるけどさあ……。

徳兵衛こそが騙りを行った、浅ましい男だと、聞くに堪えない噂が町中を駆け巡り、もう徳兵衛は進退窮まってしまうんである。
もう徳兵衛の男が立たないと、九平次に叩きのめされた時も、愛しいお初に迎えられた時も繰り返し言い募る徳兵衛。
男が立たない、というその価値観こそが、この舞台設定である時代背景では確かに有効だったんだろうけれど、こんなアヴァンギャルドなATGの実験映画的手法の中では、そしてそんなヴィヴィッドでクリエイティブな世界で生きてきた梶芽衣子の前では、そんな男の古臭い価値観は何ほどもなく、のめされてしまうのだよね。

いや、それを言ったら、宇崎竜童だって新世代の旗手だったに違いなく、それはこのヒップな音楽に十分現れているんだけれど、徳兵衛を演じる宇崎竜童は……なんかその優しげでぽよぽよしてる感じ、ちょっと佐藤隆太みたいな感じ?
なんかね、ちょっとズルいのよ。弱くて可愛くて(爆)。だって心中の道行きだって、結局お初の先導なんだもん。
九平次に痛めつけられて、もう死ぬしかないと思いつめたけど、それはつまり、お初と一緒に死ねる喜びじゃなくて、なんだもん。まあ最終的にはそういう形にはなったけれども……。

徳兵衛がニセ証文を作って騙ろうとした、という九平次の言い分が、隠しておいた筈のその印判が店のすずり箱から見つかってしまったことで、九平次の悪事が露見してしまう。
まー、その時の九平次の醜いうろたえぶりと開き直りときたら、これまたほんっとにもう、ほんっとにもう、浅ましいことこの上なく、お前、死んでしまえ!と単純に心で思ってしまう私(爆)。
そんな自分も情けねえなあと思うが、しかし救われるのは、行方知れずになった徳兵衛を、きっとお初の元に来るだろうと待ち構えていた叔父の久右衛門。
それまでは目にかけた甥が女郎に入れあげてと、その女郎こそが甥をたぶらかしたんだと、まあお決まりの感じだったんだけど、毅然としたお初と相対し、そして九平次の悪事が露見すると潔く自分の非を認める。

まあ、都合が良すぎる感じもしないでもないが(爆)。でもさ、その前に、九平次が徳兵衛に対する悪態をつきまくっていた時、この女郎宿の主人が「徳兵衛さんもウチのお客さんなんですから……」とたしなめた場面には、い、イイ人じゃん、とほろりと来たし、そして久右衛門が、自分こそ悪かった。惚れた相手と沿わせてやれば良かった。あの娘なら、店の切り回しもそつなくやることだろう、と言い、主人夫婦が思わず涙をぬぐったりするのも、実に浪花節なのよねー!
いや、このアヴァンギャルドな造形に、浪花節が必要なのかということもなきにしもあらずだが……。

まあでも、やっぱり曽根崎心中だからさ。どんなに、ちょっと待っときなよ、大団円が待ってるって!と思っても、やはり最後は、心中シーンなんであった。
マジで痛そうなんだもん。根が一緒から生えている、二つの大木に乱れないようにお互いの体を縛りつけ、躊躇する徳兵衛を何度となくお初が叱咤し、斬り付けさせる。
お前の愛しい身体を傷つけたくない、と逡巡する徳兵衛に、胸元をガッと開いておっぱいを見せたりするあたり。

そういやあ、二人が逃げ出すスリリングな場面において、下働きの女中が主人に叱られながら消された常夜灯のろうそくの火をつけるんだけど、トップレスで、ずーっとおっぱい出しっぱなしなの。
それがいかにも気にしてなくて、野性的な感じの構わなさでさ、それもなんともATGって感じ?って、全部ATGな感じにしようとしているかも……。

で、まあとにかく、徳兵衛はお初ののどに刀を突き刺し、彼女は嬉しい、と切れ切れに言って、白装束を血で染めて、こときれる。
その様子を確かめ、徳兵衛はお初のかみそりで喉を突く。ううう、うう、うう、痛そう、痛そう……。
白々と夜が明けて、二人額をくっつけあうように真紅の血にまみれて動かなくなっているのはひどく美しく、そして朝の勤行の僧侶の念仏が響き渡る。
この勤行のシーンこそが冒頭で、その時にはすがすがしい美しさだったけれど……いや、このラストも確かにすがすがしい美しさには違いないのかもしれないな。

徳兵衛がお初の店にボロボロになって逃げてきて、そこに九平次やら久右衛門が集まってて、お初が床下に徳兵衛を隠し、憎たらしい九平次にタンカを切るシーンが良かったなあ。
九平次にのあまりの言い様に何度も徳兵衛が身を乗り出すんだけど、それを素足で制して、九平次の腐った性根を言い募るのさ。
涙をたたえてはいるけど、ホンットにかっこよく、男前で、美しかった。
床下で、そんなお初の素足を愛しさと感謝でなでさする徳兵衛の、いい意味での女々しさも、ぐっとくるんである。 ★★★★☆


その街のこども 劇場版
2010年 83分 日本 カラー
監督:井上剛 脚本:渡辺あや
撮影:松宮拓 音楽:大友良英
出演:森山未來 佐藤江梨子 津田寛治 白木利周 中川光子

2011/2/8/火 劇場(恵比寿 東京都写真美術館)
いつもならば「〜劇場版」っていうのは、つまりテレビドラマの劇場用っていうのはなんか違う気がして。
違う気がしてというか……多分、映画ファンであることのくだらない矜持(見得とも言う……)がジャマをしているんだと思うけど、まあそのドラマ自体を観ていなくて劇場版だけ行くっていうのこそが違う気がして。
つまり愛着が沸かないこともあって足を運ぶことが殆んどないんだけれど、本作は元になっているものを観ていなくても、題材と役者だけで充分に観に行きたいと思わせる魅力があった。

いや、魅力、だなんて言うのは軽すぎる理由だろうか。これは阪神淡路大震災から15年たって作られたメモリアル映画。いやいや、メモリアルなどと言うのも軽すぎる。
でも、あの甚大な被害を出した大災害を思えば、やっとこうした軽やかな(というのも語弊があるかもしれないけれど)視点から見つめることの出来る作品が作られたことに、なにがしかの感慨を覚えなくもない。

劇場版がどうこうと言ってしまったけれど、通常のドラマの劇場版のように、劇場版のために作られた別作品ではなく、そのオリジナルのドラマが核になって劇場用に多少尺を膨らませた、という趣であるらしい。
確かに、これを、たった一回こっきりのテレビ放映のままにしてしまうのはあまりにも惜しい。劇場版などというヤボなタイトルをつけてでも、映画作品として残した方がいい、残さなければならない、という、気持ちをひしひしと感じる。
実際、放映時に好評でなければ、このような形になる訳もない。

先述のように、あれだけの大災害を描く時、それはやっぱり、いかにひどい災害だったか、いかに沢山の人が亡くなって、いかに人の心が疲弊し、傷を負ったか、という部分ばかりを執拗に掘り下げる。
結果、スペクタクルモノやお涙頂戴なキワモノと紙一重になってしまうような危険性は常に感じている。実際、そういう映像作品はたくさん、覚えがある。

それは、そもそもにおいて、それが起こった時のマスコミの対応、ニュースの作り方からしてそうなんだから、ある意味当然ではないかとも思う。
殊更に悲惨な部分ばかりをハイエナのようにかぎまわる。沈痛な顔をしながら、もっともっとヒドイ目に遭った人を、遭った場所をとかぎまわる。そんないやらしさを感じる。
だからこそ、当事者の視点が必要なのだ。そして時間も必要なのだ。あの時感じたこと、時間が経ってから改めて感じること。大事なことはなんだったのかを。

当事者、そう、当事者なんだよね、二人とも。未来君とサトエリちゃん。
私は正直、この二人が関西出身だという時点でビックリした。いや、どこかで知っていたけれど忘れていたのかな。
でも、彼らがネイティブの関西弁を喋るのを聞くのは初めてだと思う……多分。関西弁などとおおまかなことを言うとひょっとしたら怒られてしまうのだろうか。神戸弁、と言うのだろうか。

そう、当事者……彼らは子供の頃、実際に震災を体験しているのだ。そのことも、ビックリした。
これは厳然たるドラマだし、渡辺あやという気鋭の脚本家が書いているのだし、彼らはあくまで役を生きているに過ぎないといえばそうなのだけれど。
ただ、この構成、二人が当時震災を経験したこと、そしてそのことによって崩れゆく人間関係を経験したことこそが大きな出来事であって……というのを、長い夜、ひたすら歩きながらひたすら喋る中で明かしていく、その感じがすんごくリアルで、これアドリブで喋ってんちゃうのと思うぐらいでね。
いや勿論、それこそが、この二人の演技力ということなのだろう。でも、そう、この二人の関西弁を聞いたのが初めてだったこともあって、それがやけに新鮮で、余計にリアルに聞こえたのかもしれないなあ。

ことに、サトエリちゃんのナチュラルな魅力にはかなりヤラれた。いや、未来君だってそうなんだけど、彼がもともと芝居が上手いのは判ってるし、彼の魅力はそのナチュラルさにある訳だしさ。
でも、サトエリちゃんは……。いや、私、彼女は凄い好きなのだ。もう「キューティーハニー」で単純にヤラれたクチだから。
でもその「キューティーハニー」も、女優開眼したであろう「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」でも、つまりはそういうテンションの高さばかりが強烈な印象を植え付けていて、彼女のこんなナチュラルな芝居を私は初めて見たからさあ。
いや、ドラマや舞台も数々経験しているらしいし、私が知らないだけでこんなテキトーなことを言うのはアレなんだけど、でもホントに、知らないだけに、凄く新鮮で、凄くチャーミングで、改めて惚れなおしてしまったのだ。
いやー……こんな女の子に関西弁で喋られたら、もう一発KOだわね!って、問題はソコじゃないんだが……。

しかし、私だけがそう思っているワケでは当然ないらしく、サトエリ、もとい美夏を最初に目にした男は「あんな足の長い女、日本人にいるかよ!」と釘付けなんである。
その男は、未来君扮する勇治の上司。扮するはツダカン。そこは新幹線の中で、彼らは建築会社の建築士として、広島までプレゼンにいく出張の途中なんである。

勇治は美夏が降りた神戸で、はじかれたように降りてしまった。広島に前乗りしてオネエチャンのいる店で楽しもうと勇治と話していた上司はオカンムリで、ならばあの足の長い女の写メを送れ、でもってスリーサイズか携帯番号を聞き出せ!とムチャブリをするんである。
しかし思いがけず、この美夏の方から勇治に話し掛けてくる。神戸の人ですか、と……。
ともに10数年ぶりに神戸を訪れた元地元民。子供の頃に震災を経験して、色々、色々傷ついて、東京に逃げるように出てきて、そして……ずっと帰れずにいた同士だったのだった。

そんな訳で、本作は二人の会話劇がメインになるんである。彼女の目的地は追悼集会が行なわれる公園。出張の途中で飛び降りてしまった勇治は当然、その集会に出るつもりもなかったのだが、というかそのあたりにはかなり複雑な思いがあるのだが……。
「出たくなくて避けてた。でもどうしても出なあかんのです」という美夏に引きずられるような形で、その公園まで夜の道をひたすら歩くことになるんである。
勇治と居酒屋でお酒なぞのんで、もう電車もなくなって、お金がないからと美夏はそこまで歩くことを提案する。というか、最初からそのつもりだったような気もする。
この15年の思いを吹っ切るために。15年かかった上に、そんな時間も必要だったのだ。

この、飲む場面でね、二人はちょっと衝突するのだ。震災の経験をぽつりぽつりと語り出した最初。後から思えばこの時にはお互い全然手の内を見せてなくて、まあ出会ったばかりだから当然とも言えるけれども、すごくガードを固くしていて、それゆえに誤解というか行き違いがあって、美夏は怒って店を出てしまうのね。
というのは勇治が、屋根職人だった自分の父が震災による需要に便乗してえげつないほどに値を吊り上げ、ボロ儲けしたことを、それが社会だ、人間の成功なのだと言い放ったから。
客観的に見れば、勇治がこの時点で既に自嘲的にそれを語っているのが判るのに、やはり当時同じく震災にあった美夏は似たような人間関係を見てきたこともあるのだろう、もうアッサリ頭にきちゃって、自分の飲み代をおいて飛び出してしまう。

その前に「スリーサイズか携帯番号か」という上司の指示に渋々従って美夏にそれを聞いた勇治、ゲットしたと思われた携帯番号にかけてもつながらない。
結局、同じコインロッカーに荷物を入れていたから、そこで勇治が待っていると慌てた様子の美夏が飛び込んでくる。
携帯の件を問い詰めると「それ、私のスリーサイズだから。0をとってみて」現われたのはミネフジコばりのスリーサイズ。
思わず。凄いっすね、とアホな反応をする勇治に冷ややかな美夏。こういう事態には何度となく遭遇しているらしい。

ただ、後に判ることなのだけれど、震災で大切な人を失った美夏は、結婚願望があり、子供を持ちたいと思っている。だから逆ナンをしていると言い、勇治に「違う気がする……」とツッコまれる。
そうだよねえ、と今度は美夏の方が自嘲気味である。すべてをぶっちゃけたこのあたりから、二人の距離が縮まってきた気がする。

いやいやいや、まだまだ、全てをぶっちゃけてなどいない。美夏は再三言い出しては口ごもる、中学時代の親友の話をどうしても明かせないし、勇治もアコギな稼ぎをした父親のその稼いだカネで、あの震災の地から抜け出して育ててもらったという気持ちがあって、父親のことを悪く言えない。
そう、双方ともに子供だったから、言いたいことも言えないまま、15年の時を迎えてしまったのだ。
美夏の方が勇治より3つ年上でね、今、この時点での3つ違いなんて大したことないけれど、子供時代の3つ違いは、まるで世界が違っていた。
10歳の小学四年生と、13歳の中学一年生。たった三つでも、こうして学年で書き出してみると、まるで違うことを実感する。

そしてそれぞれ……それぞれの子供の時間でそれぞれの傷つき方をする。勇治は、父親のあこぎな稼ぎのせいで、しかもそれがその時点では需要が思いっきり勝っていたから完全な勝ち組で、子供でもそうしたことは嗅ぎ取って、次第に友人たちが離れていった。
彼が語る、少年野球でサヨナラアーチを放ったのに、メンバーはおろか、コーチまでもシーンとしていたというエピソードは、この年頃の少年に対して死ぬぐらいの落ち込みをもたらしたことは想像に難くないんである。

そして美夏の方はというと、この震災で親友とその母親が亡くなった。
美夏は「私の100倍いい子だった。私は都合のいい時だけ利用していたような、悪い友達だったのに」と言うけれども、その強烈な自嘲っぷりは、友達を突然失ったことのショックと、一人残されたその友達の父親のひどい憔悴に恐怖まで覚えたことに端を発しているんである。
そしてそうした苦悩に比べると、勇治のそれはやっぱりちょっと幼いようにも思える、なんて言ってはいけないのだけれど、でもどの時点でどんな心の傷を負ったのか、それをケアすることを社会、いや国家で考えなければいけないんじゃないかという問題提起にも思えるのだ……。

だってね、この時点では、共に20代の半ばから後半で、3つ違いなんて大したことないような雰囲気の二人では判らないけど、でも28歳の美夏はこの年、過去を否定し続けた自分に15年かけて向きあって、追悼集会に、今参加しなければ、きっとまた逆戻りだと感じて、意を決してやってきた。
3つ違いの勇治は……そんな気持ちは意識下でずっと持ち続けていただろうけれど、今ここにいるのはあくまで偶発的なんだと自分に言い聞かせてていて、新幹線の電光掲示板のニュースで追悼集会のことを知って飛び降りたくせに、向き合う覚悟がまだ出来てなくてさ。
美香と歩く夜の街の中で、父親が手がけた修復工事を施した、当時仲が良かった友達。つまり、そんな事情で避けられてしまった友達の家を見つけて狼狽する。
でもそこにはベビーカーなど置かれていて、どうやら結婚したらしいことを知り……。

美夏が、亡くなった親友の父親が一人暮らすマンションに、意を決して訪ねるシークエンスが本作のクライマックスになるんだけれど、それを思えば勇治の友達の家を発見するエピソードは明らかにそこに対比しているわけで。
つまり勇治はいくら美夏が、今はきっと幸せなんだよ、それでいいじゃないと言っても、素直に受け入れられないんだよね。
まあ美夏も親友のお父さんを訪ねるには本当に本当に逡巡して、勇治がいくら後押ししても尻込みしていて、ようよう決心をつけたんだからなあ……。

そう、このクライマックス。私ね、私……もう、ぼろぼろ泣いてしまった。当然震災を経験している訳でもなく、ある意味こんな判りやすいシークエンスで涙腺決壊なんて、なんか私お手軽すぎて卑怯だなと思っちゃうぐらいだったんだけど……でもそこは作品の力に負けたんだと、素直に言いたい。
いや、サトエリちゃんの力に違いない。この場面の彼女、ほんっとうに良かった。それまでも、かなり奔放に勇治を振り回して、送ってくれないのとすねてみたり、ジャンケンしてどちらかがバッグをまとめて持とうとか子供っぽい提案したりとか、無邪気だなあとは思っていたけども。けども、けどもよ!

「あんないいおっちゃんがなんで苦しまなあかんねん」

ボロボロになっていく“おっちゃん”がなんだか怖くて、ろくに挨拶もせずに引っ越してしまったことを気にやんでいた美夏が、意を決して訪ねる場面。
散々尻込みして、マンションが見える場所で勇治に待っていてくれるようにしつこく頼んで、美夏は出かけていった。
インターホンでおっちゃんに「大村美夏です」と言ったところでカットが変わった。

大泣きしながら、勇治の待っているグラウンドへつながる階段を降りてくる美夏。もうね、もうもうもう……まず、大泣きしてるサトエリちゃんが可愛すぎて、可愛すぎて、抱きしめたくなる!
もちろんそれは、これまでの15年間の思いが爆発して、まさにその時の子供に戻って、子供の時の気持ちのままおっちゃんと接して、だからこそだと思うのだけど……。
でもね、もちろん、そりゃあそれだけじゃない。15年経って、いいだけ大人になって、だからこそどんどん、ますます、子供の頃を後悔したからに違いない。

あのね……私も、子供の頃の友達関係を大人になってから考えると、多々後悔したり、恥ずかしかったりする記憶はある。きっと皆、そうだと思う。
でもまさか、こんな形で、それを取り戻したり挽回したりするチャンスが失われるなんて、思わないじゃない。いつか再会することがあったら、笑って、あの頃は子供だったよね、って許しあえると、思うじゃない。
いや、再会すること自体を考えないかもしれないけれど、それならば余計に……余計に、なんだよね。
再会するかもしれない、と、二度と再会することはない、は全然、全ッ然違うんだもの。

親友だと思ってはいたけれど、二度と本人の気持ちを確認することは出来ない。あんなにいい子だったのに。その記憶ばかりが彼女を苦しめて。
でも、そのお父さんが。優しいおっちゃんが、なんのわだかまりもなく(という描写は示されないけど、示されないだけに、絶対にそうだと確信してしまう)彼女を受け入れ、いや、もう、本当に、きっと、15年、待っていてくれたんだと思う。
そうしたあたたかい態度で受け入れ、在りし日の愛娘の写真を、家族の写真を、その二枚を美夏に渡してくれたってのがさ……待っていた勇治にその写真を泣きながら手渡し、もう泣きじゃくって言葉にならない美夏。

ベランダから手を振って見送ってくれるオッチャンに、こんな顔を見せられない、と背中を向けるもんだから、勇治がかわりに手を振ると、なんであんたが!と泣きじゃくりながらオッチャンに手を振る。
寒いから、もう、中入ってください、と、聞こえる筈もないのに泣きじゃくりながら言って手を振る。
サトエリちゃんが余りに可愛くて、いじらしくて、そしてその思いの深さをしんしんと感じて、ぼろぼろぼろぼろ泣いてしまう。

勇治にもね、すんごい思うところはあるんだよ。彼が設計士になったのは、当然子供の頃の記憶があったからに他ならないけれども、彼はそれを素直に認めないんだよね。
でも、回想シーンがあるのだ。いや、回想、ではないな。だって勇治が回想しているという形はとられないし、今の勇治は“そんなこと”を回想するなんてこと事態、否定するだろう。

耐震建築をウリにした会社、しかし、万一の地震の時に割れた窓ガラスが地上に落ちることを防ぐルーフを、コストの問題で施工主がカットする。
模型を作っていた勇治が、上司のツダカンからアッサリそれを取り去られた時、そのルーフに歩いていた人の模型が地上に撒き散らされたのを見て、何とも言い様のない表情をする。
上司は施工主の言葉を借りて、100年に一度起こるかもしれない災害、仮にこの設計が機能してホメられても、オレもお前も生きてねえよ、と言うけれど、そういう問題じゃないってことを、リアルに感じているのは勇治なのだ。

少し、ほんの少しだけれど、当時の映像も挿入される。大都会のビル群から炎が上がる様子をヘリからの映像で映し出す。覚えがあるようでないようで、こんなに凄かったかと思う自分に嫌気がさす。
それだけ……人は忘れっぽいのだ。あれだけ、衝撃を受けた筈なのに、自分で体験していないと、これだけ容易に忘れてしまう。
それ以上に、見たかもしれない映像以上に衝撃なのは、ほんの、プレゼン用に用意された映像としてほんのちょっと、チラ見せで流されるような、建物やら信号機やら諸々、こんなものが倒れるのかと思うぐらいに、オモチャみたいに、アッサリと倒壊している街を、その道筋を、普通に歩きながら撮ったであろう映像である。

危険の無いヘリからの映像は確かに全容が見えて恐ろしいけれど、でも、妙に乾いたこの、日常目線の、まるで当たり前みたいに倒れて動かない、死んだような情景の方がよほど恐ろしいのだ。
そうだ、マスコミの映像はいつも、ムダに、時に虚構に動いているのを撮りたがる。でも本当に恐ろしく、ここから始まるのは、全てが一度死んでからなのだ。人も、物質も、街も、全ての機能が。
そう、人も……亡くなってしまった人のみならず、美夏のように勇治のように、きっと誰もが、あの時居合わせた誰もが、一度“死んで”しまったのだ。そうでなければ、そうでなければ……。

美夏がね、久しぶりに訪れた、中学生以来の街が、新しい……と口にするのね。そりゃそうだ。全てが壊れてしまった。本来は古い歴史があった筈の街。全てが壊れ、全てが新しくなってた。
その時点では美夏は取り乱したりはしなかった。そう、むしろ……見覚えのあるところにきてから、なんだよね。いわゆるトラウマというヤツだろうか。
それは勇治も同じで、彼の方がそれが先にきて、友人の家を見つけて、そこから動けなくなった。その時には美夏の方が叱咤していたのに。
助け、助けられ、叱咤し、叱咤され、二人は夜の街を歩く。ジャンケンでバッグを交互に持ちながら、屋台のたこ焼きを食べながら、疲れたからタクシーに乗ろうと弱音を吐く一方をなだめながら。そんなじゃれあいはまるで子供のようで、子供の遠足のようで。

二人の関係はね、きっとこの時だけなんだよね。途中でネを上げそうになりながら、それでも会場にたどり着く。お互い万感の思いがこみ上げる。
美夏は殊更に軽い言い様で、追悼集会に勇治を誘ってみるけれど、勇治はやはり、この時点ではその勇気が出ない。
でも、来年来ると言う。そう、きっぱりと言う。そうか、と美夏はつぶやく。お互い、握手しようとする。もう信号が変わりかけている。
おずおずと勇治が手を出そうとした時、美夏はふいに勇治を抱きしめた。ありがとう。来年会おう。勇治の言葉を信じて、言った。

でもね、二人は連絡先を交わした訳ではない。携帯番号と思ったのはスリーサイズだったしさ。まあ美夏が途中実家に立ち寄ったから全く糸口が無い訳じゃないけれど……でも、余計に同志感を感じさせるんだよね。
途中連絡をとったりとか、色恋沙汰の感じとか、しない。不思議なぐらい、しない。ゾクっぽい上司のツダカンの存在が上手く機能していることもあるだろうけれど。
二人が出会うとしたら一年後のこの追悼集会、どんな人ごみの中でもきっと出会うと信じたい。いや、出会わなくてもいいとも思う。この時を過ごし、来年、同じ場所にきっといるんだという実感さえ得られればそれでいいんだという気もしてる。

二人が襟をかき合わせて歩く様が、冬の神戸のしんしんとした寒さを感じさせる。キンと冷えた空気がスクリーンの外まで充満しているよう。
15年前、この寒さの中で、と自然と考えさせられるぐらい、しんしんと、しんしんと、伝わってくる。
ほぼ二人だけの、二人の会話劇だけの構成を、見事な集中力と驚嘆すべき繊細さと緻密さで成立させた未来君とサトエリちゃんに、心からの感嘆を伝えたい。★★★★☆


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