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「み」


2012年鑑賞作品

道 白磁の人
2012年 118分 日本 カラー
監督:高橋伴明 脚本:林民夫
撮影:ナ・ヒソク 音楽:安川午朗
出演:吉沢悠 ペ・スビン 酒井若菜 石垣佑磨 塩谷瞬 黒川智花 近野成美 チョン・ダヌ チョン・スジ 市川亀治郎 堀部圭亮 田中要次 大杉漣 手塚理美


2012/6/24/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
ラストシーンで実際のお墓や、ラストクレジットの協力者や団体名を見るまで、私これが実在の人の話だと思ってなかった。 いくらサラの状態で見るタチとはいえ、随分な情報不足である。
いやだからさ、こりゃ美談過ぎるよなーっ、とか思って観てたの、マジで(爆)。こんな“美談”、韓国の人たちにはケッと思われるんじゃないかって。こんな日本人いるかよ、バッカじゃねえの、とか思われるんじゃないかって(爆爆)。
でもホントにいたんだね。ビックリした。実際にこんな信じられないような“美談”が存在したんだね。いやはや、ビックリした。

これは、韓国ではどの程度知られている人物なのだろう。というか、日本人の私は、この浅川巧という人物をちっとも存じ上げなかったけど、それは単に私が無知だからなのだろうか。だからこそ伴明監督がこれは取り上げなきゃいかん、と思ったのだろうか。
実際は、ね。こういう人物を、その日本側で取り上げて映画にしてしまうとヤハリ、それこそ美談、美談で、韓国側の感情としてケッと思われるのが怖いという気持ちは正直、ある。

どんだけ小心なの(汗)。他の国に対してはそこまでの気持ちは思わない……ていうぐらいに、日韓の感情というのは、ことに韓国側からの日本へのネガティブな感情はことあるごとにひしひしと感じるものだからさ。
まあかといって、この浅川巧の物語を韓国側で作るってこと自体、そりゃま不可能だろうが……もし作っちゃったら、それこそ劇中のチョンリムみたいに、売国奴扱いされそう(汗)。

なんていう、及び腰でばかりいたら、確かに正しい国交、正常な交流は進まないのであろう。
伴明監督は昨今、ヒューマニズムあふれる映画を数多く作ってて、ヒューマニズムあふれまくりだから、腰が引けて見逃してる作品も多いんだけど(爆)これはホント、目をつけたところも、そして勿論その内容も、チャレンジそのものだと、思う。それこそ、私が思うようなバッシングだって受けかねないもの。それどころか、日本側からだってありそうだもの。
ホント、あるからね、国益とか言い出す時代錯誤な輩がさ、朝鮮のために尽力した日本人の映画を作るとはケシカランとか言いそうだもん(爆爆)。
あー、ヤな世の中……と思いつつ、でもそれは、そんな輩も、そして私のような一般民衆も、あまりに無知だからなのだよなと、この“美談”に触れて改めて思うのであった。

私ゃー歴史がメッチャ苦手だし、ていうか歴史の授業時間寝てたし(爆)だからこんなことも知らないのかなあとも思ったけど、そうかもしれないけど(爆爆)、でもそうかなあ……。
韓国併合自体聞いたことあるような、てなレベルで、武断政治なんて言葉を初めて聞いた、なんて言ったら、殺されそう。でも、その程度のレベルだと思うよ、一般の日本人ってさ。

自分が被害者になったことを大きく記憶するのは、しょうがないことではあるとは思う。それこそ日本なら原爆が一番象徴的だけれど。
でも加害者であることを、ここまで知らないということは、そういう教育システムは、やっぱり問題だよなあと、こんな折に触れると思う。
それこそ、本作のテーマである、「日本人と朝鮮人が分かり合えるなんて見果てぬ夢なのだろうか」というのは、最低限のお互いの歴史や文化や立ち位置を知ってなければ、それこそ見果てぬ夢、なんだもの。
でもこんなにも時間が経って、浅川氏が亡くなって80年も経っても、そんな最低限のことさえ、なされないのだ……。

今、お互いの文化が激流のように交差して、それによる新たな軋轢も生まれる中、こうした作品作りこそ求められるものだと思う。それこそ、こんな美談あるの、と思っても。
で、ようやく本題に行く感じだが(爆)。後から浅川氏の、あるいはお兄さんやその周辺含めた状況をざっと知るだけでも、とてもとてもこの2時間あまりの尺の中で収まりきれないものを感じる。
観ている時も、巧が林業と白磁と両方に心惹かれてその発展に尽力する様が、かなり圧縮した描写に感じて、それが美談チックなパッケージ的に思えたのもあるかもしれない。

陶器、あるいは朝鮮の民族文化保護に尽力したのは、お兄さんや美術評論家の柳氏の方が大きく、勿論劇中のように弟の巧氏も大いに力になった訳だけれど、やはり映画の尺には限界があるというか……。
巧氏を白磁のような人だと、世の中には二束三文で売られるけれど、あたたかく、生活に根ざしていて、ていう表現がそのままタイトルになっていて、それは確かに上手い、演じる吉沢君もそれをよく体現してるけれど、ちょっと難しい。
正直、巧氏に関しては林業に没頭する描写だけで見たい気もしたけど、でも実際、陶磁器、民族文化のことにも尽力したんだから仕方ないかあ。

その描写だけで見たい、と思ったのは、冒頭から最後の、最期の、そう、彼の最期のシーンに至るまで、土に頬をつけ、緑、風、自然、それらを純粋に愛する巧氏が、それこそ美談チック、こんなおとぎばなしみたいな人いるのと思うぐらい、チャーミングだったから。
その純粋さゆえに、日本と朝鮮の溝、憎悪の中にまっすぐに飛び込んでイタイ目に遭うあたりは映画的だけど、彼の基本はそんな単純な、シンプルな、自然への愛、なんである。

吉沢君、似合うんだよなあ。吉沢君、などと言ってしまったが、もう彼もそれなりにいい年。ふっとキャリアを中断してから復帰してしばらく経つけれど、復帰してからは私はなかなか彼を見る機会がなく、今回主演ということもあって、久々にずっぱり見た気がするんである。
こういう骨太の作品、配給とかだって色々難しそうな作品に、単純に名を売るキラ星スターではなく、どちらかと言えば地味系の……まあそりゃ、キャリア中断前は働き通しだったにしても、でもその時だってやっぱりほんわり癒し系だった彼を実在の人物というだけでも難しい役に抜擢したのは、伴明監督の大いなる意志を感じたんであった。

確かに吉沢君は、こういう役を中庸に演じるのに、こんな適した人はいないと感じる。ある意味私レベルに無知で、それだけに様々な場面で傷つく。
日本人支配の残酷さ、民族独立の気炎を上げる人々を、二本の軍人たちが至近距離で撃ち殺す場面に、吉沢君、もとい、巧氏が遭遇する場面。
これが本当に本当の巧氏自身が経験したことかどうかは判らないけど、コレは判明監督が、これは入れなきゃと、入れた場面だと(まあ全てがそうなんだけど)思った。吉沢君だからこそ、その衝撃がダイレクトに伝わってくる。

それは吉沢君以外の日本人キャスト、ことに堀部氏と手塚理美のコッワイ蔑視の態度があるから余計に際立つ。
堀部氏は軍人役だからまあ判るとして……とはいえ、こんなにハマる堀部氏はなかったんじゃないか(爆)。彼の妙に彫りの深い印象の残る顔立ち、ことにその据わった目が、そうか、残虐な軍人にハマるのか!なんでそれに今まで気づかなかったんだろう!
ホンットに、メインキャラと言っていい役で、巧とチョンリムの運命の出会いの場面から彼の超ムカつく軍人が関わってくる訳だしさ。
こんなんやったら彼、韓国行ったら殺されそうだけど(爆)、メッチャイイ役だよなあ。

そして、手塚理美は巧の母親役。ええ!もうそんな年……かもしれない。
巧氏は40歳で死んでしまったというから、吉沢君はさほど老けメイクもせずに演じられたと思ったが、でも手塚理美ももうそんな年なんだよねえ……。まあ息子が死んだあたりではそれなりに老けメイクもしていたけれど。

それにしてもコワかった。手塚理美。理由なく、容赦なく、朝鮮人に対して蔑視、というか、それさえ超えた氷のような冷たさ。
日本人が虐殺したのに、葬儀に参列しながら泣き叫ぶ彼らに、「朝鮮人はなんでああ大げさなんだろうねえ」めっちゃ冷たい顔で!!
泣き女の文化とか、そういうのがあることを踏まえてのことなんだろうけど、それにしてもこの場面で言うとは!!

でもそう、判りやすくなキャラなの。だって息子が死んだ時、真っ青な顔で葬儀に参列していた彼女、ふいと列を離れて物陰に隠れて号泣したんだもの。
そんな彼女を、野菜売りのおばさんが優しく抱きかかえて、思いっきり泣けばいい、と言う。この場面、結構ヒヤリとする判りやすさで、大丈夫かなあと思ったけど、あっさりもらい泣きしてる私はどうなの(爆)。
日本人の奥ゆかしさという面を、懐疑的に示してもいて上手いけど、ちょっとヒヤヒヤした。

なんかここまで、実にここまで、そもそもの話を書いてない、ヤバい(爆)。
そもそも巧氏は、日本人によって激しく伐採された山々を緑に戻す熱い使命を持って、朝鮮に渡ってきた。日本人によって、ということは、彼が渡ってきて初めて知ったことだし、そういう「実は……」話は、それこそ今の世の中でもありすぎるぐらいにあることなんである。
林業試験所に勤めるチョンリムと親しくなり、日本文化を強制されているがゆえに日本語が流暢な彼に接し、朝鮮語を習い始めたことが始まりだった。

巧氏は相当、想定外の、予想外の、珍しい人物だったと思う。後には理解ある人として描写される上司たちも、ことに直属の上司の町田(田中要次)のあからさまな蔑視的発言に巧は憤るしさ。
でもそれでも、そう町田だってチョンリムの真面目な人柄は判ってたのに、買ってたのに、でもそれでも、時代と刷り込みと立場の、意志の弱さは……。きっときっと、私だって、確実に、そうだ。

で、なんかここまで書かずにいたあたりがダメダメだけど(爆)。
チョンリムですよ。本作は吉沢君と、チョンリムを演じるペ・スビン氏の両主演な訳なんですよ。ドラマで日本でもおなじみらしいが、そう、私はドラマほとんど見ないもんで、すみません……。
可愛らしい顔立ちではあるが、いわゆるイケメンというんじゃなくて、この土くさいチョンリムによく似合う。それこそ吉沢君と仲良くなるのも判る気がする。

彼は、同胞の同僚から吐き捨てるように売国奴と言われても、独立運動に誘われても、巧の側につき、最終的には自分の息子をかばう形とはいえ、巧側、つまり日本人側についたがゆえに、投獄され、何年もとらわれの身になってしまうんである。
このチョンリムの描写が最もヒヤリとした。彼が韓国の観客から糾弾されないだろうかと、心配になった。
ちょっとね、チョンリムがそこまで巧に肩入れするだけの材料が、この尺の中ではなかなか難しい気がしたのだ。

勿論二人は、人間の、戦争によって、禿山になってしまった自然を緑に戻すという共通の使命に燃えている。時間のかかる養苗に根気よく取り組み、まさに、同志ではある。
でも、独立運動に関わった友人を日本軍人に至近距離で銃殺され、深く傷つき、それでも巧を、日本人の巧を気遣うのは、そう、この尺では難しい、と……。

いや勿論チョンリムは(彼から見れば)安易に同情して、理解ある態度で、チョゴリなぞ着て沈痛な表情で現れた巧に、憤っただろう。そんなカッコしても、朝鮮人になれない。自分だけが朝鮮人の味方のつもりか、と。そりゃそうだ、そりゃそうだ!
巧はメッチャ純粋だから、そうありたいと思ってるよ、と真摯に訴えるけれど、その吉沢君も悲痛だけど、でも結局、そうなんだ。
映画として観てるだけでもヒヤリとしたもの。ムリだもの。そんなそんな……。
でもチョンリムが判りやすく巧に憤ったのはこの場面ぐらいで、基本的には、ある意味同胞を裏切るような立場にい続けるのがね、そう、この尺では、納得させきるのは難しい気がして。哀しいけど、友情ってだけじゃ、難しいから……。

何気に、長い長い物語なんだよね。お互い結婚し、子供が生まれ、なんて時間が描かれる。
チョンリムの方に、先に子供が生まれた。その男の子が、独立運動に参加して、その息子の“罪”をかぶって、チョンリムは日本側に長々と捕らえられた。
巧の方は、恋女房を故郷から呼び寄せ、女の子を授かるも、身体の弱い彼女は亡くなってしまう。
柳氏の紹介でしっかり者の後妻をもらい、腹違いの娘とも上手くいっていたものの、彼女との子供は残念な結果となり、そして巧は若くして亡くなってしまう。

余命いくばくもなくなった巧と牢獄のチョンリムが相対する場面はそれこそ“美談”だが、チョンリム、演じるペ君は躊躇なく、それこそ“朝鮮文化”のように号泣してくれることに救われるんである。
そう、きっと、理美さん演じる母親もそう感じたように、おおっぴらに泣くことがみっともないとされる日本人にとっての、そんな苦しい美学にとっての、この救い。

大戦が終わり、韓国の独立が成立して、日本人狩りが行われる場面、巧の家を襲撃しようとした民衆に、すっかり年老いたチョンリムがここを誰の家だと思ってる!と一喝する。
家を守っていたあの気の強い奥さんと、そして娘さん、奥さんが、ここは浅川巧の家です!と朝鮮語で言い、民衆は頭を下げて立ち去る。
この場面がいっちばん、うわあ、こんなの、ホントにあったの、出していいの、ワザとらしくない???とヒヤリとした場面で……。

いやさあ、巧氏は実際の人物だけど、チョンリムに関しては、どうなんだろうという気持ちがあったからさあ。巧氏が上司に一目置かれ、同僚に敬われ、民衆に慕われていたとしても、チョンリムという具体的な人物が実在していなければ、それこそ“美談”的に強調してしまう気がして……どんだけ小心なの、私(爆)。
チョンリムに関しては、恐らくだけど、巧氏に対する多くの人の思いを集約し、そして朝鮮の壮烈な歴史を絡めて集約させた、ひとつの象徴としてのキャラクターだと思うからさ……。その点、ちょっと立場的に弱い感じもするんだよね。
巧氏は実在の人物、チョンリムは朝鮮のその当時……のみならずな思いを集約した人物。二人の友情にウソはないと思っても、ふと寂しさ、空虚感、リアルな人間同士の間ではないと感じてしまうのは、そのせいかもしれない。

でもそれでも。吉沢君とペ氏が語られるように本当に仲良しになってくれたのだとしたら、プロモーション的な話だとしても、それなりに、本当ならば、それだけでも、それだけでも、成功なのだろうと思う。
一番、感じたのは、国同士なんていうアイマイなことでは、いつまでたってもただただ憎しみあうばかりだということ。人同士ではなくっちゃ、いけないということ。

それでも、人同士でも、こんな具合に、国同士のことに巻き込まれてあっさり、いともあっさり、崩壊しそうになるけど、崩壊しそうになっても、崩壊は、しないんだ。
国よりも、人の方が、ほんのちょっとかもしれないけど、強い。ほんのちょっと。
もっと強ければ、巧氏、浅川兄弟、その周辺の物語はもっと広く喧伝され、国はとりあえず人のつながりは、もっともっと強固になっていたかもしれないのに。 ★★★☆☆


ミツコ感覚
2011年 106分 日本 カラー
監督:山内ケンジ 脚本:山内ケンジ
撮影:橋本清明 音楽:
出演:初音映莉子 石橋けい 古舘寛治 三浦俊輔 山本裕子 永井若葉 金谷真由美 岡部たかし 金子岳憲 本村壮平 端田新菜 木之内頼仁 安澤千草 ふじきみつ彦 菅原直樹

2012/1/14/土 劇場(テアトル新宿/レイト)
あの白戸家のCMを作ったお人の初監督作品というのも興味はあったけど、やはり決め手は初音映莉子嬢。
私にとって彼女は「うずまき」で明日美嬢と共にその揺れる美少女っぷりに瞠目させられ、その後ふっつりと姿を見かけなくなったら、突然あの「ノルウェイの森」で姿を現した!という印象だったから。

ドラマや舞台には出ていたのだろうけれど、すみません、知らなくて、本当に突然大人の女優になって現われた、という驚きだった。
お気に入りの女優が生き残っていた(失礼な言い方だったらゴメンナサイ)ことも嬉しかったし、その揺れる感じが変わってないことも嬉しかった。大抵の女優さんは最初の揺れる魅力がこなれて、適度に上手くなっていってしまうから。

本作のミツコはまだ大人になりきれていない感じで、写真の専門学校に在籍中というのも、彼女の実際の年齢より若めのように感じる。
その駄々っ子のような子供っぽさ、女くさい語調(これはヘンケンかな。なんかね、そうよ、とか、語尾にわをつける女言葉って、意外と女子って使わない気がして)にちょっと引く感じもしたけど、まあそれはいかにも男性の考える女性の言葉、って気も、したかなあ。

ミツコに対するちょっとした拒否反応は、彼女のような過酷な家庭環境を私が経験していないから、なだけかもしれない。
父親が若い女と不倫して、それを苦にして母親が自殺、という地獄のような思いを幼い頃に経験した彼女が、父親を嫌い、不倫をしている姉を軽蔑するのは確かに頷けるんだけど、それもせいぜい10代ぐらいまでかな、という気もする……などと思うのも甘いだろうか?

ミツコは20代前半といった感じで、先述したように映莉子嬢との実際の年齢とのギャップがあるので、そんなミツコに対する拒否反応もなんとも微妙に揺れ動く。
姉のエミだってミツコと同じように思っているに違いないけれど、なんたってお姉ちゃんなのと、自分自身も不倫という、父親と同じ轍を踏んでしまっているから、過去を割り切って大人にならざるを得ない。
ミツコだけが取り残されて、大人になるべき年齢なのに、駄々っ子のように子供のフィールドにい続けている、それがなんか見てて、イライラするのだろうか。

それもひょっとしたら計算のうち、かなあ。途中からそれが気にならなくなって、ていうか、不思議要素が多すぎてそんなことにこだわっていられなくなるというのがホントなんだけど。
そもそもエミも父親と同じ轍、というよりも、父親の不倫相手と同じ轍と言った方が正しくて、ミツコのそんな指摘どおり、不倫相手の奥さんは自殺未遂騒動を犯してしまうし。
ミツコにとって家族は皆、不義を働く、尊敬できない、信頼できない存在で、でも家族で、どうしようもなくて。

あ、なんかビミョーに脱線してしまった。てか、本作、謎が多いのよ。
実際、ミツコとエミ姉妹のそれまでの物語に絞れば、そんな不倫騒動の家族ドラマで、まあドロドロではあるけれどある意味ベタな話が出来上がっただろうと思う。
ミツコは正義感側の人間で、そんなの許せない!と吠えるばかりの、ね。

でもなんたってタイトルが“ミツコ感覚”。これって随分意味深なタイトルかもしれないと、今思い返して思う。
彼女のまわりには謎、不思議、ウソが充満していて、何がホントか判らない。
だとすると、潔癖に見えるミツコだって、彼女の見ている世界だってひょっとしたら、ウソかもしれない。

ミツコが毛嫌いしている父親も、一度も登場することなく電話の向こうで、声すら聞こえてこない。
今度その、お相手と家に来るという話になって、すわ来た!という緊張感が漂っても、まるでヒザカックンのように別の人たちの来訪だったりする。

一体、本当に彼女たちの父親やその(かつての不倫)相手や、死んでしまった母親というのは存在するのか、という気になってくる。
いやいくらなんでもそれがうがちすぎであったとしたって、この一軒家に姉妹二人で暮らしている状況自体、妙に非現実的で、なんかマンガチックで、どこまでホントか判らない雰囲気があって。

この家は、その、ちっとも出てこない父親の持ち物であり、つまりその悲惨な過去があった場所であろうし、ひょっとしたらエミの不倫相手の奥さんが自殺未遂したのは、彼女の母親も同じ場所で……などと夢想してしまう。
ある意味その場所に姉妹が住み続けているというのは、シュールな気がしてしまう。だから非現実的に感じるのかなあ。

てか、てか。もう冒頭からして怪しすぎる。この姉妹の、というよりミツコに深く関わってくる三浦という青年が、もうファーストインプレッションで怪しすぎるだろ!という雰囲気満点で、ミツコの前に現われる。
ミツコは写真学生よろしくバシャバシャと風景写真なぞ撮っていてね、三浦は彼女にプロですか、と話しかけてくる。

写真雑誌の編集をやっているなんてことまで言うんだけど、もう見るからに怪しいし、創刊したばかりの雑誌だからとか、岩波書店から出てるとか、当然名刺は「今日は休日だから」持ってないし、どう考えても不審人物、ストーカー。
ただ、逃げ出そうとしたミツコが助けを求めたエミが、なんだか見たことがあると、ひょっとして中学の同級生?なんて、言っちゃったもんだから、彼は巧みに彼女たちの家に入り込み、ミツコに狼藉を働きそうにさえ、なるんである。

知りもしない先生の物まねに爆笑したり、同級生だという三浦を疑わないエミ。
しかし彼はミツコにキスしようとしてなぜか下半身パンツいっちょになったり!
これは、エミと不倫相手の松原が外に出ている間の出来事で、一体どういう経過を辿ったらパンツいっちょになるのか判らず、そのあたり非常にブキミで。

何より、なぜエミが結局はただのストーカーである三浦を中学の同級生だと思い込んだのかが不思議で。
「どこかで会ったことがある」のは確かに、ミツコが言うように、ストーキングしていたからなのかもしれないけれど、ミツコの「それは、アレでしょ。この辺ウロウロしてたからでしょ」という、いかにもな決め付けような台詞と口調が、いや違う、何かがある、三浦には何かがあると思わせるというか……。

パンツいっちょになった事実だけでも充分ヘンタイで危ないヤツで、ミツコが敬遠するのは正解なんだけど、その後、弟の愚行を謝りに共に現われたお姉さんが、一見マトモそうに見えるだけに更に事態を引っかき回し、一体何が本当なのか、判らなくなってしまう。

“弟”の三浦自身が、(両親が死んだという話は)姉はウソばかりつく。それが悪いクセなんです。というぐらいだしさ。

エミはこの姉弟と、不倫相手の松原と昼休みに訪れたラブホで遭遇する。
「あの二人、姉弟じゃないわよ!それじゃなければ、普通の姉弟じゃないわよ!」という、どちらが真相なのかすら、明らかにされない。

本当にこの二人のことは謎のままで、しかし最終的にはミツコにとって彼ら、あるいは彼の存在が少しは癒しになっている、の、かも、しれない、というのが更に不思議である。
いや、そこまでは言い過ぎかな。ラストにはこの姉弟、ミツコとエミ姉妹から「パーティーはしませんから」とにべもなく追い払われる訳だし。

パーティー、っていうのは、ミツコが写真雑誌の賞を、三浦の写真によって獲ったこと。
その写真は、無礼な振る舞いをした弟を姉が謝りに来て、布団叩きでバシバシ叩いている様子を、ミツコが激写した写真。

それ自体どうにもシュールなシチュエイションだけど、この時ミツコはこの姉弟、というよりお姉さんにのまれたのかもしれないけど、何か、信じたかったのかもしれない、などと思う。
最初に信じたのはエミだけど、ミツコも気味悪がりながらも何となく受け入れてしまうこの二人のこと。
ミツコには何か、信じるよりどころのようなものがなかったのかもしれないなあ。父親のこともそうだけど、何より決定的なエピソードは、恋人のソエジマが内紛の続く取材先で死んでしまっていたことを、彼女が知らなかったこと。

まあ、そりゃまあ、死んでしまった本人から連絡がある訳もないし、ニュースにもなっていることを彼女が知らなかったのは単なるアンテナ不足だったのかもしれないけれど。
ただ、周囲が知っているのに自分が知らなかった、恋人である自分が知らなかった、というのは、周囲から自分がソエジマの恋人、大切な人であるということが認識されていなかったということ、そのことこそが彼女にとっての大きな痛手だったのかもしれない、と思って。

……いや、ミツコがそこまで判っているのかは、正直疑問でもある。そりゃ、彼女は今、恋人が死んだことでうちひしがれているだけだもの。
でも、自分の存在価値、アイデンティティって、自分自身であることより、他者との関わり、まあ昨今使い古されるぐらい連呼されるところによれば、絆、というところにあるからさあ。
どれだけ他者に認識されているか。誰も自分のことを知らない、気にしないなら、それは死んでるも同じ、それが人間社会の厄介なところであってさ。

しかも、写真学校を出てもそう簡単に就職がままならず、父親の残した家に姉とともにおんぶに抱っこで暮らす彼女にとって、余計にその感は強いと思う。
しかも今、父親の借金によって、住み慣れたこの家を出なくてはならない。口では「一人暮らしもしたいし」なんて言ってるけど、父親を糾弾し続けてきたけど、一人で暮らしたことのない自分という存在が、どれほど心もとないか。

一方のエミの方は、妹からクソミソに言われようと、不倫相手の松原が奥さんに決着をつけてくれたことで、結婚という幸せに向けて走り出している。
だけどこの松原という男が、もう見るからに、なんとも心もとなく、ハッキリした言葉を言わないから、ミツコからも信用されないし、エミもまた、話があるとか言いながら昼休憩でラブホでセックスだけの彼に不信を抱くばかりである。

実際コイツが信用ならん男だというのは、エミのみならず、職場のほかの若い女の子に手を出していたのがしんねりと示されるから。
それも、こちらはエミのように結婚を迫る、つまり男にとってメンドクサイ相手ではなく(爆。だって多分、こーゆータイプの男の人って、そう思ってんでしょ)、いつでもエッチさせてあげるのにぃ。ついでにランチおごってネ♪的な、もっちりしたエロ系女の子だったりするから、ああもう、こんな男やめときなよと観客は思うのだけれどさあ。

それでもエミは彼と結婚すると決めてるし、もうその約束もとりつけてるけど、イマイチハッキリしないコイツ。
そんな松原を糾弾するのに「ちゃんと話さないなら、もうセックスしないから!」と、ど、どうなの、という理由で脅しつけ、それに屈する松原もど、どうなの、だけど、とにかく奥さんを交えたケジメの場を用意させるまでになるんである。

そのことにこだわるエミにちょっとヒヤリとしたけど、そのヒヤリが現実になってしまった……。
不倫の末に別れ、再婚までに至るなら、その相手同士が顔をあわせたりするべきじゃ、ないのかもしれない。
ひょっとしたらエミの母親も、単純に夫の浮気にショックを受けたんじゃなくって、そんな生真面目なケジメに自分を追い込んだのかもしれない。

松原を交えてではなく、一対一で会いたかったと乗り込んでくる奥さんは、しかしその行動とは裏腹に親しみやすい笑顔と柔らかな態度で、固くなっていたエミも安心し、“夫の引継ぎ”を素直に受け入れようという段になっていた。
ただ、子供の話が出たあたりから、奥さんの態度が急変、泣き出し、まあそれも無理ないだろうと思っていたら、トイレに行ったはずの奥さんは台所で、包丁で手首を切って倒れていた……。

この場面、後から思うと奥さんとエミとは妙にどアップのカットバックで、見てるこっちがヘンに緊張したのは、そのせいだったか、と思う。
いや、観ている時はさ、そのハラハラは、単純に、不倫相手に奥さんが対峙するという、シチュエイションのせいかと思っていたのよ。それもあったとは思うけど、違ったのだな……。

もう何のわだかまりもないように見えた奥さんの、大きな歯の大きな笑顔が親しげな印象を与える奥さんが、そのクロースアップが緊張感を与えていたのは、その飛び切りの笑顔は、飛び切りの……ムリクリだったからなんだよね、つまり。
そのことにどこかでエミだって気づいてたのかもしれないのに、自分が安心したかったから、だから……。

血だらけで倒れている奥さんに、まさにこれが、絹を引き裂く叫び声だろう、ってな叫び声をあげるエミ。
まさに映画的なクライマックスだけど、後にミツコに、呆然とした面持ちで告白する。このまま、あんたが帰ってくるまでほっておこうかと思った、と。

奥さんをバラバラに切り刻んで、川の上流にまで捨てに行くなんていう妄想にまで入り込み、ミツコもその妄想に入り込みそうになってハッとする。
そうならなくて良かったじゃない、死ななくて良かった、お姉ちゃんはミキさんにならなかった、と。
ミキさんっつーのは、父親の相手の女性ね。このあたりはいかにも子供としての、子供としての女の子の潔癖さで、そのことをエミは乗り越えた筈だったのに、大人の女になった筈なのに、そりゃあ妹からそう来られたら、茫然自失になっているエミは何にも言えなくてさあ……。

なんか不倫を擁護するような向きに聞こえるような(汗)。いや、決して、そうじゃないのよ(汗汗)。
ただ、不倫って、まあ大概は妻(子)持ちの男と若い女のパターンじゃん。逆もないとは言わないけど、パーセンテージとしては圧倒的に、じゃん。いろんな意味で割を食うのは女の方、なんだよな……。

親権を持たされやすい母親のプレッシャー、年を食うと女度を下げられるプレッシャー。
若い方も、同じ要素は年々のしかかる上に、妻子持ちの男を寝取った淫乱な女(なぜか、男にはそういうレッテルは貼られないんだよな)、平和な過程を乱した常識のない女、という世間の目が加わる。
なんか、なんか、なんか!!女ってソン、なんだよな!!

……おっとー。かなーりアツくなって、脱線してしまった。まあそろそろ、終わりにしようか(爆)。
あ、そうだ、女のそうした、年々のしかかるプレッシャーって、ミツコがバイトしているスナックでも端的に示されているんだよね。
彼女はなんたって若くて可愛い女の子だからチヤホヤされるし、ママが着ていたハデなワンピースもミツコが着ると「中身が違うと、違うな」なんて、常連客の鼻の下をのばさせる。
ママはなんたって老練だから、そんなことを言われても表面上はすねてみせたりもするけど、本気じゃない。本気だったらイタイもん(爆)。

でも本気だったらイタイって、それこそが、女に課せられた理不尽な枷である気がしてさあ。
だってこれって、エミと奥さんの場面にぴったりと当てはまるじゃん。奥さんは、若い女の子に嫉妬する年かさの女というのがイタイという“一般常識”をママ同様判っていたから、けじめをつけようとしたけど、耐え切れなかった。
エミもまた、若い女の子だから許されるということがプレッシャーなだけだと判っていたから、身構えていた。
そして二人とも破綻した。

でもミツコは、ミツコだけが、この時点でそれが判ってなくて、ママのサービストークも、若い女の子である自分への当然の特権だと思ってて、思ってるってさえもなく、無自覚で、なんかそれが、なんともなんとも、痛々しいんだよなあ。
この私でさえ、そんな時があったんだろうか。いや……。あんなミニスカートはける状況もなかったし(って、違うか……)。

なんか、女ということに特化して見すぎかも?でもここに出てくる女の立場や世代やシチュエイションが、これまで、そしてこれから遭遇するかもしれない女の痛々しさを感じさせて、なんとも、キツかったんだもの……。

そういう意味では、あの三浦君のお姉さん?が一番、そんな女の枷から解放されて、最っ高に、自由だったかもしれない。
ナニモノなのか、本当にお姉さんなのかさえ判らないけど、あんな風になりたいと、思った、かもしれない。

暗い心情の時でも、カラリと明るいクラシックを印象的にかけるのは、確かにソフトバンクCMを作った人だなあという気がするかも。
あのCMで印象的だったのは、犬がお父さんになっちゃうようなキャラ造形の奇抜さももちろんそうだけど、そんなクラシック曲の選曲の新鮮さでもあったから。
暗い気持ちでも普通に日常は続くし、逆もまたあり。このギャップが逆に日常のリアリティのようにも感じたりしてね。★★★☆☆


ミッドナイト・イン・パリ/Midnight in Paris
2011年 94分 スペイン=アメリカ カラー
監督:ウディ・アレン 脚本:ウディ・アレン
撮影:ダリウス・コンジ 音楽:
出演:キャシー・ベイツ/エイドリアン・ブロディ/カーラ・ブルーニ/マリオン・コティヤール/レイチェル・マクアダムス/マイケル・シーン ポール/オーウェン・ウィルソン/ニーナ・アリアンダ/カート・フラー ジョン/トム・ヒドルストン/ミミ・ケネディ/アリソン・ピル/レア・セドゥー/コリー・ストール

2012/6/28/木 劇場(東銀座 東劇)
アレン作品を観るのは久しぶり。以前はまめに追いかけてたんだけど、一年に必ず一作の“多作”に次第に追いつけなくなった、だなんて、それを多作というのもナンなのかもしれんが、つまりそれだけ私の方が年老いてしまったのだろーか。
ウディ・アレンは不思議なほど変わらず、風貌もある時からまるで人形のように(!)ピタリと止まっている感じ。ある意味恐ろしい(爆)。

何にしても久しぶりに足を運んだのは、やたらデカい看板だったから。アレン作品がこんな大きな劇場に、しかも複数かかるなんて珍しいなあ、なんて単純に不思議がってたら、オスカー脚本賞受賞だったのね。無知すぎる、私(爆)。いやだって、オスカーの話題作といえばもう、「アーティスト」一本かぶりのようなところがあったからさ……。
それにしてもアレン作品といえばミニシアター御用達だったのに、オスカーとった途端、大メジャー公開規模になるってあたりが、何となく寂しい気もする、なんて、それこそ勝手すぎるだろうか?それで観に来たのに(爆)。

というか、まあ私だって彼の才能が最初にもてはやされた頃はまだ田舎の子供で、その頃はこんな風にきっと、大メジャー公開規模だったのかもしれんのだから、単に私にとってのアレンのイメージが、アーティスティック、インディーズ、ミニシアター、みたいな??
今やミニシアターも一時のオシャレファッション的な盛り上がりからすっかり衰退して、シネコンの波に飲み込まれているしなあ……。

おっとっと、またしても関係ない話で一人盛り上がってちゃいけない、いけない。まあでも、アレン自身はそんなことはどーでもよく、いつもどおり一年に一作の作品を撮ったに過ぎないのだろう。
それにしてもそれにしても、オスカー受賞に彼は出席したのだろうか??いやまさか、なんてまたしてもどーでもいいことが気になるっ。

とにかくそれはおいといて。いつものように、とか言いつつ、やはりここ数年のアレンの変遷は何となく気になるところではある。つーか、久しぶりに観たんだから変遷も何も判らんが(爆)。
でもやはり、あのアレンがニューヨークを離れた時の驚きは今でも覚えてるし、それこそここ数年のアレン作品は判んないけど、本作でどっぷりパリロケーションで撮っていることには、やはりザ・ニューヨーク時代のアレンにハマっていた若き日の私(爆)としては、驚きを禁じえないんである。

でもやっぱり、皮肉屋のアレンらしさをそこここに感じはするけれど……主人公のギルは売れっ子シナリオライターだけど、同じようなつまらない、くだらない、ハリウッド映画のシナリオ書きに嫌気がさしているとかさ。
ハリウッドを毛嫌いしてニューヨークから動かず、更にアメリカを毛嫌いするに至ってそこさえも出て行ってしまったアレンの、大いなる皮肉がどっぷり含まれているじゃない。

でもそれは自嘲もありそうなあたりもアレンらしいけれど……いや、アレンはそんなハリウッドには毛ほども従事しない人ではあったけど、でもそれでも、自身がアメリカ人であるということ自体のアンビバレンツが、あんなに愛していたニューヨークを離れて以来特に、彼自身に感じるところがあって。
それこそ本作なんてさ、パリという文化華やかな街、古い伝統もあり、世界中からパリを憧れて集まってくる芸術家たちがいて、それこそその歴史は、どんなにエンタテインメントの街、ニューヨークであってもかないっこない、という……。

勿論ニューヨークは最先端のエンタメの街、種類が違うんだから比べる方がおかしいんだけど、そのニューヨークをアレンは愛して、そこから出ようとしなかったぐらいなんだから。
でもそのアレンがニューヨークから出て、つまり外の世界を、この年齢になってから見渡し始めて、含羞を抱えながらもまるで少年のように外の世界に喜び震えているように思えてさあ。

でもそのパリだって、現代なんである、というところが、本作の本作たるゆえんである。
主人公のギルはハリウッドに嫌気がさして小説家を目指し、それも多くの文豪のみならず、芸術家たちが集ったパリに憧れ、出来ることならここに住みたいと願っている。
婚約者のイネズの父親の出張に便乗してついてきたのも、彼女との甘い時間を過ごしたいと思った訳じゃなくて……いや、そういう気持ちもあったと、彼自身思っていたかもしれないけど、それは自分自身に対する言い訳だったのかもしれない。

一体なんでこんな薄っぺらい女と恋に落ち、結婚まで決意したのかと思うほど、どーみてもギルとイネズの相性が合っているとは思えない、のは、ここ、パリに来たから判ったことなのかもしれない。
まあ、イネズに言わせればせっかく生活も安定、どころかリッチな生活を送れる売れっ子脚本家の地位を投げ打って小説家になろうとするギルの気持ちは理解しがたい、というのは判らなくもない。これから結婚する相手と思えばそらそーである。
ただ、イネズはそのリッチな生活のみを重視し、結婚したらマリブのリゾートに住んで、などと、わっかりやすく夫の魅力はカネカネカネ。

でもそれを言えばギルだってわっかりやすく夢見がちな男。この夢見がちでよくぞ売れっ子脚本家として忙しく働いていたと思うほど……いや、夢見がちな才能が、わっかりやすく単純な脚本を書ける才能だったのかも(爆)。そこらあたりもアレンの皮肉か。
そう思うと、その地位も美人でセクシーな婚約者も捨てて、ここパリに移り住もうと考える彼の行く先はとことん不安だが(爆爆)、人の幸せはその人自身にしか判らないとゆーことなのだろう。

と、と、またしても先走ってしまった(爆)。この物語のキモを言わんでどーする。
そう、キモ。ギルはね、この夢の街パリで、まさしく夢を見るのよ。シンデレラよろしく深夜0時の鐘がなると、かぼちゃの馬車ならぬ時代物のプジョーがプシューとやってきて(シャレじゃないのよ)、彼を黄金の20年代へ連れて行く。

フィッツジェラルドだのヘミングウェイだのジャン・コクトーだのコール・ポーターだのピカソだのダリだのブニュエルだのマン・レイだの!!!しんっじられないメンツが次から次へと出てくる!!!舞い上がりまくるギル。
しかも自分の未発表の、つまりデビューとなる筈の原稿を、ヘミングウェイの紹介でガートルート女史に見てもらえることになり狂喜乱舞。
この“夢”に、最初こそ婚約者のイネズを連れて行こうと思ったギルだが、シンデレラの鐘を待ちくたびれて待ちきれなかったイネズはアイソをつかしてさっさと帰ってしまった。
ついでにその後、うすっぺらいインテリ男と浮気してギルと破局するのだが、まあそれは別の話。

別の話と言ってしまったが、ギルも結構紙一重よね、と思う。というか、全ての人間が紙一重、なのかな。
パリで偶然出会うイネズの大学時代の友人、ポールは彼女に言わせれば“博識”なのだが、知識、つーかウンチクなんてものは調べればいくらだって得られるもので、本当の博識とゆーものは、そこから自分の解釈をどれだけ成熟させられるかということにかかっているんである。
間違ったウンチクを得々と披露するポールを穏やかにたしなめるツアーガイドの女性が、後にポールのことをギルに結構シンラツな表現をするのを聞くにつけても、まさにこのパリの知識人たちは判ってるんである。
ギルはそこんとこ、危ないトコだったな。ポールのことを苦々しく思いながらも対抗しようとしてハッタリかましたりするしさ。

まあギルは最初から危なっかしかった……最初、彼は議論好きなキャラに見えた。政治に熱心なイネズの義父にキツい言葉をもってくってかかりつつ「違う意見を持っていても尊重し合えるのが民主主義だ」なんてそれこそ得々と語ってさ。ポールの50歩100歩って感じがしてた。
でもこの感じは最初だけで、まあギルがタイムスリップの世界にのめりこむせいもあるけど、あの最初のキャラづけはかなりとってつけたような感じもする……ひょっとしたらアレンの、知識人への苦々しさ、あるいはちょっと自嘲するような思いもあるのかな。

ギルはそれでなくても懐古主義。処女作として準備している小説のテーマはノスタルジーショップの男を題材にしているし。
ノスタルジーショップ……まあ言ってみれば骨董店?でも、聞くにつけやはり新しい国アメリカ、ノスタルジーショップという言い方が最も正しい気がするかな。そのあたりも確かに絶妙。
新しい国アメリカでは、骨董品文化はまだ定着せず、せいぜいがノスタルジーショップでシャーリー・テンプル人形を売るぐらいが関の山なのだ。

つまり、文化としての骨董ではなく、思い出としてのノスタルジー。そりゃー、現実が大事な婚約者から呆れられても仕方ないわな。
このあたりにもアレンのアンビバレンツな思いが見え隠れしている、なんて言ったらうがちすぎだろうか、ヤハリ?でもやっぱりそうだと思うなあ……ギルがパリに憧れているのは、やっぱりそこに、伝統と歴史があるからだと思うもの。だからこそ芸術家が集まって伝統と歴史が作られたのだ。

コール・ポーターという、映画音楽も手がけたアメリカの大衆音楽家が入れられるのはちょっとした意地にも感じられたけれど、それがラストシークエンスでは彼のパリでの未来、展望につながっていくんだから、あまりイジワルなことを言うべきではないのかもしれない。
そう、コール・ポーターの古いレコードを扱っているアンティークショップの女の子と出会い、雨のパリこそ最も美しい、と意気投合してのラストだから。
つーか、異国で「英語、喋れる?」って質問が成立すること、かなりのパーセンテージでそれが有効になってコミュニケーション出来るから、英語圏の人はいいよねー(自嘲)。

……なんて自嘲ともどもまたしても先走ってはいけない!メインは、その20年代の黄金期のタイムスリップ、芸術家たちと次々に出会う夢のようなシークエンスにあるのだから!
まあそんなことを言っても、私はあまり詳しくない世界なので(爆)アレなんだけど、でもダリとかは、写真で見た感じとよく似てたしなあ……。
あ、ダリはエイドリアン・ブロディなのか!!カメレオーン!!ブニュエルにギルがアイディアを授けるシーンなんて、アレン自身の夢も入ってそうとか夢想したり。

映画的遊び心としてこのアイディアは、それこそ映画人なら誰もがやってみたいと思うであろう。ある意味、とても無邪気すぎる“夢”で、そうそう手出しが出来ないようなさ。それをアレンが手出ししたのが意外というか、あの皮肉屋のアレンも年をとったということなんだろうか(爆)。
勿論、その中にも先述したように皮肉はたっぷりと含まれてはいるんだけど、でも、このアイディア、そしてその先にあるメインテーマは、ええ、これをアレンがまっすぐ言っちゃう!?と思うほどに、ど・まっすぐだったからさ……。

そう、常に、過去は美しく見える、ってこと。ギルは彼にとっての黄金時代の20年代にタイムスリップして狂喜、いわばその中でだからこそ、夢のような美女、アドリアナに恋をする。
彼女の美しさ、神秘的な魅力に一目ぼれした訳だけど、でも後に付け加えられる、アドリアナがピカソやらモディリアニやらの愛人を渡り歩いたという、彼にとってはこれ以上ない武勇伝がその想いを更に燃え上がらせたことは否定できない、よね?ギルは否定するかもしれないけど……。少なくとも、ギルの時代にはいない、確実にいない女性なのだ。

でもそのアドリアナはその20年代よりさらに昔の、彼女にとっての黄金時代、ベルエポックの時代に恋焦がれている。ギルとイイ感じになった夜、ギルにプジョーが迎えに来たように、馬車が、まさにシンデレラを迎えるように馬車が横付けされる。
そしてベルエポックの時代にギルと共に飛んだ彼女は、もう夢見るよう!マキシムドパリ、フレンチ・カンカン、彼女はこの時代に留まるとギルに宣言する。
でもギルは判ったのだ。それは、この時代の芸術家たち……ドガやなんかも更にそこから昔のルネサンスの時代こそが黄金期だと語ったこともあるけれど、でもそれより先に、なんとなくもう、気づいていたんだと思う、のだ。

あのアレンが。それこそ最先端文化を毛嫌いし、彼自体が懐古趣味っぽいイメージのあるあのアレンが、オールドムービーとか超好きそうなアレンが、こんなことをまっすぐに言うなんて、シンジラレナーイ!
いや、だからこそ、かなあ。今を生きている自分には、その時代に行くことなんて出来やしないってこと、好きだからこそ、それを夢想するからこそ、判りすぎるぐらい判ってるから、かなあ……。

それこそアレンなら、そんな自嘲気味な感じで描きそうな感じがしたから、だから驚いたのかもしれない。このアイディアを、それこそオスカーとれるぐらい、彼が嫌ったハリウッドが愛しちゃうぐらい、まっすぐに、チャーミングに、言い切っちゃうなんてさ。
だからといってアレンも年をとったのネ、なんて単純には思わないのは、なんといってもここがパリであり、ニューヨークでもハリウッドでもないこと、そしてタイムスリップするのが常に真夜中で、これは夢の世界なんだと、ここから新しく始まる朝は来ないのだということにクギを刺しているように思えるから、かな。皮肉屋のアレンはやはり、きちんと?皮肉屋なのだ。

でも真夜中のパリはとても魅力的で、あながちそれこそが理由だったのかもという気もする。ミッドナイトインパリ。ニューヨークこそ眠らない街だろうけれど、パリのネオンの艶やめかしさは、漆黒の闇もきちんと強調して、実に色っぽい。
それこそまさに眠らない街、ネオンと白熱灯こうこうの、人工的で子供っぽいトーキョーじゃ、こんな物語はとてもとても成立しない、よなあ。いや、下町の路地あたりならなんとか可能か……。

それを思うと、イネズと別れることを決意したアドリアナとの恋、彼女が残した古い日記を露店の骨董品屋(それこそ!ノスタルジーショップではないのだ)で見つけて、その中に自分の名前を見つけるなんていう超ロマンティックなシークエンスがあってさ、まさしく映画的で心ときめくんだけど。
でもベル・エポックの時代に残りたいと言う彼女と決別、つまりそこに置き去りにしてしまったというのもかなりシンラツかも。新しく朝はこない場所に、運命的に恋した女を置いてきてしまったのだもの。

置き去りにされた人物は他にもいる。イネズの父親がギルの素行調査に依頼した探偵が、更に古そうな時代、ゴテゴテコスチュームの時代に迷い込むなんていうコミカルなシークエンスでウッカリ騙されちゃうけど、なんか、アドリアナのことを思うとなんかなんか、胸が締め付けられてしまう。
でも彼女にとっては幸せだったんだろうか。ピカソやモディリアニの愛人なんて言いつつ、本作のために創作されたキャラだろうから(多分(汗))、まさに、この物語に閉じ込められた女、なのだろうから。

久しぶりのアレン作品だったけど、変わらず饒舌、変わらず皮肉屋、そして変わらずチャーミングで、嬉しかった。もうアレンは自作主演ではやらないのかな。まあだからこそのオスカーだったのかもしれんが(爆)。★★★☆☆


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