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「ほ」


2013年鑑賞作品

ホーリー・モーターズ/Holy Motors
2012年 115分 フランス=ドイツ カラー
監督:レオス・カラックス 脚本:レオス・カラックス
撮影:カロリーヌ・シャンプティエ 音楽:キム・テソン
出演:ドニ・ラヴァン/エディット・スコブ/カイリー・ミノーグ/エバ・メンデスケイ/ミシェル・ピッコリ/エリーズ・ロモーレア/ジャンヌ・ディソンアン/レオス・カラックス


2013/5/16/木 劇場(渋谷ユーロスペース)
レオス・カラックス、そしてドニ・ラヴァン!ええーっ、一体何年ぶり!?と胸を高鳴らせて足を運ぶも、あまりの難解さにだんだんと焦り始める。
難解?そういえばカラックスの映画に、私はどうやって向き合っていただろう。もう思い出せないなんて。
少なくとも、今よりはもうちょっと感覚がしなやかで、もうちょっと柔軟に受け止められていたような気がする。“これはどんな映画なのか”とか“彼は一体何者なのか”なんて焦るだなんて、ヤボすぎて自分にガックリくる。

そう、もっと柔軟に。ここが夢の世界でも、パラレルワールドでも、あるいは近未来の世界でもいいじゃないか。
若い頃の(などという言い方はしたくなかったが……)自分ならそんなことさえ気にしなかったように思うのに。
いやいやそれこそ、若い頃の自分を買いかぶり過ぎか。でも、一体私はどうやってカラックスの映画に向き合っていたのだろう。

ドニ・ラヴァンは今も昔も相変わらず、ある意味時空を超えている。彼が扮するオスカーという人物は、いくつもの人格を“アポ”を受けて演じ切り、それは立場や年齢、時には性別さえも超えている。
カラックスと共に現れた彼自身、この10数年で年を重ね、もう50の坂を超えているのだから、劇中、“センター”から「最近疲れているように見えて、クライアントから疑念が出ている」「もう年なのではないか」などと言われるのも確かにそうである年齢ではあるんだけど、彼はどこか昔から、若いんだか年くってんだか判んない雰囲気があって、それがカラックスの映画にピタリと符合していた。
どんな話なのか、彼は何者なのかと焦りながらも、いつしかそんなことがどうでもよくなりはじめるのは、やはりドニ・ラヴァンであるからこそなんだろうなあと思う。

それでも、訳判んないから、そうなるとなんか眠くもなってくるし(爆)。
パリを愛するカラックスはその美しい街中を、ドニ・ラヴァンの10数の人格と共に駆け抜けるんだけど、だからもちろん昼間もあるんだけど、ほの暗い室内も多いし、昼間もなんか曇った空気感で、太陽の光を感じない。それもまた、現実感を失わせるんである。

そもそもこれが“仕事”ってどういうことなのか。“アポ”とは誰からもたらされるのか。
これがね、架空の恋人や家族と過ごしたいとか、非現実的な物語の中で過ごしたいとかいう“アポ”なら判る。
そういうの、現代社会でいかにもありそうじゃない。日本映画でだって、レンタル家族なんて題材があったしさ。

でもそういうことでもないんだよね。それが明確に判るのは、アポ先で“共演”したのが同業者だったり、かつての恋人(妻?)だったりしたこと。
共演は、二人きり。それってつまり、それってつまり、じゃない。特に後者のかつてのパートナーに至っては、彼女はアポに従って“スチュワーデスの最期”を演じ切り、“今のパートナー”と共にモーテルの屋上から飛び降りて死んでしまうんだもの。

死んでしまう?死んでしまっている、のだろうか。その変わり果てた姿を見てオスカー(おっと、これがドニ・ラヴァンね)は慟哭するけれども、彼もいくつもの“アポ”の中で殺したり、殺されたり、いや殺されかけた筈なのにメッチャピンピンして次のメイクにとりかかってたりする。
リムジンの中でメイクアップを仕上げていく、その鏡がたくさんの電球に縁どられた、いわゆる女優ミラーで、何とも非現実感フルマークなんである。

本当に、一体この世界は、いや、彼はなんなんだろう。彼は一日の最後には報酬を受け取るけれども、朝から深夜遅くまでリムジンに運ばれて他人の人生を演じ続けていたら、そんな金を使うヒマなどないではないか。
途中ね、彼が彼自身に戻ったのかと思った“人格”があったのよ。パーティーに初めて参加した“娘”を迎えに行く。一緒にダンスをしたのは誰かとか、連絡先を交換したのかとか、父親らしく心配し、実はその“娘”がパーティーの最中、ずっとトイレにこもっていたと知って、嘆き悲しむ。
“娘”がウソをついたこと、引きこもりがちで人と打ち解けられないこと……。
アパートの前で降ろされた“娘”は「家に帰らないの」と彼に問う。「もう一回りしてから帰るよ」と彼は言う。でも、そこからまた“アポ”は続くんである。

恐らく、ここで観客を一瞬騙した確信があったからだろうな。ラストに、それまで同行してきたマネージャー的な女性に「ごくろうさま。じゃあ明日の朝も同じ時間に迎えに来ますから」とソックリな一軒家がずらりと立ち並ぶ一角で降ろされ、そりゃあ、さすがに、彼が現実の彼に戻り、現実の生活に戻ると思うよ!
しかし彼がカギを渡され(まあつまり、この時点でおかしいよね)、入っていったその家の中にいた“妻と娘”はチンパンジー、なのだもの!!
いや、百歩譲って、これが近未来の家族の形であると……思えなくもない……いやいやいや!!

ちょっと眠くなっちゃったと言ったけど、パッチリ目が覚めたのはヤハリ、ドニ・ラヴァンmeetsメルド!!
え、これって日本の観客以外でも判る?大丈夫??日本のファンにとっては大喜びなんですけど!
今思い出しても実にヴィヴィッドな企画だった、東京を舞台に世界中のクリエイターたちによって作られたオムニバス

そうか、考えてみればここでカラックス作品を観ていたんだ。10数年ぶりではなかったのだ!!
まさかこの怪人、メルドに他の大元ネタがあるとか、その後、ほかの作品でメルドを演じているとか、あるのだろうか。
自分の感想文を読み返してみたら、「この後はニューヨーク篇」だとカラックスが言っていたらしい、そしてゴジラのテーマもそのままで(忘れてた(爆)、本作のラストクレジットでアキラ・イフクベ?の文字にカンドーしちゃったよ!

赤いぼさぼさ頭と赤いひげ、片目が白濁し、緑のスーツは、上着はハダカの上にはおり、短いタバコをせわしなくスパスパ吸いながら不気味な歩き方で蛇行し、墓場に供えられた花を片っ端から貪り食う。
行きあった通行人が悲鳴を上げる、中にはアジア系、なんか日本人ぽいエキストラもいるような気がする。
グラビア撮影隊に曹禺。クールビューティーのモデルに向かって、「ビューティー、ビューティー!!」を馬鹿の一つ覚えのように連発する、巨匠そうだけどバカっぽい短パン姿(!)の老カメラマンが笑える。

このメルドに“変身”するまでの間に食事をとるのが、律儀にも日本式松花堂って感じの弁当、お箸にあの紙カップ的なやつは、お味噌汁ではないだろーか。
ここ以外で彼がマトモに食事している場面はなく、酒とたばこばかりで、マネージャー的運転手の女性が再三、食事をするようにうながしているのを思うと、カラックスが、ラヴァンが、メルドを大切に思ってくれているのが伝わって、嬉しくなっちゃう!!

そしてメルドはグラビア撮影中の美女を奪い去り、マンホールから地下世界へ。
メルドに撮影交渉をしたアシスタントの女の子の指が彼に食いちぎられたもんだからビックリするけれど、後々展開していくと、彼は首を刺されても死なないし、“銀行家を殺害”もアポの一つ(殺人依頼という意味ではなさそう)だし、何かこう、やっぱりどこか、非現実的、なのね。

拉致された美女は特に驚く様子もなく、着ていた服を破かれてアラブ風ファッションに仕立て上げたりされても、彼にクールに従う。
これが“センター”の指示なのか、それが何のメリットがあるのか、誰かにとっての娯楽なのか、まあさっぱり判らない訳で。

ただ、ひとつ、たったひとつ、ひょっとしたらこれは、オスカー自身なんではなかろうかというシーンがあった。
いや、自信はない。確信はない。ただ、メイクしてない、ドニ・ラヴァン自身、ザ・ドニ・ラヴァンの風情だったこと、のみであるとしたら、そうなんだけど。
突然、夜の町中でアコーディオンを弾き出す。大声で歌う。次々にアコーディオンの仲間が現れる。
アコーディオンだけじゃなく、打楽器やらなんやら。音楽隊が出来上がる。ワクワクするような夜のミュージカルシーンといったところである。

あの時のドニ・ラヴァンはドニ・ラヴァンだったように、思った。でもだからと言って、オスカーがどういう人物かなんて、判らない。
そもそもマネージャー的運転手の女性がオスカー様と呼びかけるだけで、それが彼の本名であるかどうかさえ、判らないではないか。

でもね、もう一つ、クライマックスともいえる、かつてのパートナーと再会する場面でも、彼女が突然、ミュージカルよろしく歌い出すからさ。もしかしたらここと符合しているのかもしれない、と思って……。
彼女が“スチュワーデスの最期”としてモーテルの屋上から飛び降りた、その死体を見て取り乱した“オスカー”の姿は、ウソのようには思えなかった。
かつて愛し合い、子供までもうけた(あの口ぶりでは、その子供は失ってしまったらしい……)二人、彼女が突然ミュージカルで歌い出すのが「私たちが私たちだったころ……」なんていうのは思わせぶりすぎじゃないの。

彼との再会でまず彼女が口にしたのは、まだこの仕事をやっていたのね、ということだった。やめたんだと思っていた、と。自分の人生を生きるのをやめたのかと思ってた、という意味にも思えた。
彼らがパートナーであった頃、「私たちは私たち」だったんだろう。そして彼女は、だからこそ、今でも彼が自分と同じように、“私たちが私たち”であることを捨てていることに、共感と同時に、同じぐらいの悲哀を感じたんだろう、と。

二人が再会する、「昔、ここで君のブラジャーを買った」という台詞から想像される、古式ゆかしいタイプの大型百貨店の廃墟だと思われる場所。
吹き抜けを取り囲む中世的なデザインの階段やぐるりの手すりが、幸せだった時代を思い起こさせる。
恐らく本作で、最も重要な台詞のひとつであろうと思われる、“行為”、それを人がしなくなった、嫌がるようになったというよりは、めんどくさがるようになった、あるいは必要としなくなった、みたいな雰囲気を、ここまでの展開で感じさせ、アポだのセンターだのという存在は、それを嘆き、懐かしむ存在なのかなあと思う。

この吹き抜けの、広大な廃墟には、マネキンがバラバラ死体のように、なにかそんなギョッとするような状態で放置されている。それはまるで……オスカーたちのよう、ということなのかなと思う。
“行為”を重視しないこの世界、やはり近未来なのだろうか。行為、というとかなり漠然としているけれど、極端に言ってしまえば生きることそのもののようにも思うし、それこそ人を殺したいほどに憎むエネルギー、実際に殺してしまうほどのエネルギーなのだろうかと思う。
“センター”は、人間にそれが失われることによって起きる、なにがしかの崩壊を危惧して彼らに“アポ”をとり、仕事してもらっている……などと考えるのはうがちすぎだろうか。

だって、死、死さえも、現実として悲しまれないことならば、さ。
首を刺されてもオスカーが死なず、オスカーが殺した相手も恐らく死んでいない、あるいは、オスカーが死なないのはこの“アポ”による何がしかのトリックがあって、その相手も同様なのかもしれないけれども。
だからこそそうしてわざわざ“アポ”によって行われることで、人に与える感情というもの……。

あー!!でも、そんな風なのって、つまんなーい!!そんな単純な道徳的なことじゃないよ、カラックスだもの!!
彼はパリを描いていても、それが現実のパリでも、現実じゃない。そうだ、なんとなく思い出してきた。彼にとってのパリは現実のパリじゃないんだ。
だってドニ・ラヴァンだし、ジュリエット・ビノシュだったんだもの、そりゃそうだよ!
彼らはパリそのものだけど、生活としてのパリじゃない。まるでそこここの場所の象徴のような、言ってしまえば亡霊のような、漠とし、なのにヴィヴィッドなアイコン。

“最後のアポ”であるチンパンジー家族のもとにオスカーを送り、明日の予定とおやすみを告げて本社に戻った“セリーヌ”(そうそう、そう呼びかけていたっけ……もう、どこからどこまでが現実とか判んないからさ(爆))。
ここで初めて、ホーリー・モーターズというタイトルが、画面に現れる。仕事を終えた無数のリムジンがネオン輝く社名を掲げた門扉の中に吸い込まれていく。
ホーリー・モーターズ。この映画のタイトル。聖なる自動車。そんな、意味合いだろうか。矛盾ともいえる表現。

オスカーがかつてのパートナーと遭遇した時、同じようなリムジンと接触したセリーヌが、どうしてそこまで強気だったのかが、つまり同僚だったからか、と判る。
定位置にリムジンを止め、家に帰ります、と律儀に報告をして、彼女は緑の仮面をぴたりと顔面に装着する。オペラ座の怪人みたいな、のっぺりと目と呼吸穴だけがあいた仮面。

彼女が去った後、車たちがヘッドライトを点滅させながら会話する、のは、それまでの破天荒ながらもクールさにかなーり反する、ディズニーチックなファンタジックでちょっとえーっと思ったけど……言ってしまえば全編ファンタジックだったし(爆)。
“行為”、つまり、生臭い欲求からくる泥臭い行動が、生身の人間からは失われているのに、その人間のそうした欲求、そして行動を満たすために開発され、いわば人間に従属させられ続けてきた“モーターズ”が、ここでこうしてグチを働いているのが、ね……。ちっともホーリーじゃない。

遠い未来には人間の作ったロボットの世界になるとか、そういうことだけなら確かにファンタジーなんだけど、もし本当にそうなるとしたら、そうなる理由がある筈。
その理由は……人間が行為を、そこにつながる感情を、たぎる恋情や欲求を、手放したから。
今そういう予兆があって、それを危惧して“モーターズ”にそれを託して描いたなんて、言ってしまったら、やはりそれはつまらない言い過ぎ、だろうか。

そんなすべてを超越した世界観が、カラックスの、そしてそれを体現するドニ・ラヴァンの素敵さなんだから、そんなことは言いたくない。
でも、そんなこと言いたくなるの、トッショリは。カラックスに、ラヴァンに、初めて出会った頃、その衝撃だけは確かに覚えているのに、今と結びつかない。だってだって、あまりにも離れすぎてるんだもん!!★★★☆☆


ボクたちの交換日記
2013年 115分 日本 カラー
監督:内村光良 脚本:内村光良
撮影:北山善弘 音楽:武部聡志
出演:伊藤淳史 小出恵介 長澤まさみ 木村文乃 川口春奈 ムロツヨシ ベッキー カンニング竹山 大倉孝二 佐藤二朗 佐々木蔵之介 谷澤恵里香

2013/3/24/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
号泣、大号泣。劇場だったからこらえたけど、これが家だったらもうおいおいと声をあげて泣きたかったぐらい。ウッチャン、あー、ウッチャンが好きでよかった、もうもうもう。

正直、この映画の製作を聞いた時には企画ぽい気がして、そんなに期待度は高くなかった。世情に疎い私はこの原作がベストセラーだってことも知らなかったし……。
勿論初監督作品の「ピーナッツ」のウッチャンらしいあたたかい出来には満足してたけど、あれから何年も経つし、あれはまさしくウッチャンの作った一作、というだけで終わってしまうような“出来具合”であったことも事実だった。
最近やたらと芸人さんが映画を作る向きにもイラッとしてたけど、それこそ突出した才能がなければ二作品目って難しいのかなあ、と思ってた。

もう、これはね、これはねこれはこれは……ウッチャンだからこそだよ。いやいや、内村監督だからこそだよ。こんなことを言うと不遜だけど、演出力、カッティング、ここだというところでグッと引き寄せてくれて、恥ずかしながら涙腺の蛇口をすっかり決壊させられてしまった。
今更ながら、やっぱり彼は才能があると思った。芸人さんと映画監督の才能は別物だと言われるかもしれないけど、でも彼の場合はその間がすんなりとつながれている。それは昔から、ずっとそう思ってきたんだもの。

企画段階からウッチャンの名前が挙がり、原作者の鈴木おさむ氏も内村さんならと諸手を上げたいう幸福な出会い。
とはいえ原作では漫才で、ウッチャンがコントに設定を変えることを提案したという。そりゃそうだ。ウッチャンならば、コントでなければならない。そしてそれは、ウンナンがコント芸人であるということ以上に、この映画の成功をもたらしたと思う。

いや、そんなことを言ってしまえば漫才にナンクセつけるみたいでアレだけど、コントは芝居に通じるもの、動きと躍動感があるんだもの。
ウンナンが漫才ではなくコントのコンビだったのだってやっぱり、映画がやりたくてアクション映画大好きのウッチャンと、映画は無論、ダンスに情熱を傾けていたナンチャンだからこそだったんだもの。

身体表現。本作の中のコントは勿論ウッチャンが全てを手がけ、厳しいダメ出しを行ったという。
房総スイマーズとしてがけっぷちコンビを演じる伊藤君とこいでんは本当に素晴らしくて、これは相当、相当相当、役者とは違う筋肉を使って、苦労したんだろうと思わせる。
初日の舞台挨拶でウッチャン監督の手紙にこいでんが涙したというニュースに、しみじみ実感した。

これはあくまで小説だけれども、何たってあまたの芸人さんたちを目の当たりにしてきた鈴木氏だもの、ひょっとしてノンフィクション、モデルになるコンビがいたのかも??と思わせる。そのあたりはちょいと調べたら出てくるのかもしれないけれど、それもつまんないからやめておく(いや単に、メンドくさいだけ……)。
クライマックス、若手芸人による勝ち抜き大会があり、それ以外でも実在の若手芸人を多数出演させているあたり、後輩大好きなウッチャンの優しさを感じるけれど、そのどの組にも、勿論ここには出ていない芸人さんたちにも、そのほかにも沢山沢山、数え切れないほどの、夢を追いかけて、追いかけていた筈のことさえ疲れちゃって忘れかけているような芸人さんたちの数だけ、こんなこうした物語があるんだよねと思うと……。

もう30歳、芸歴12年。高校の文化祭で結成した当時の熱も冷め、今はぽつぽつ営業をこなす程度。無論生計はバイトで、いやコンビの片方の甲本は、人付き合いの良さからか借金がかさみ、彼女のマンションに転がり込んでいる有様である。
その甲本から、相方の田中のボロアパートのポストに一冊の大学ノートが投げ込まれる。オレたちが売れないのはコミュニケーションが足りないからだ。交換日記しようぜ!てな訳である。

舞台上以外は会話をすることもなく、言いたいことを面と向かっても言えなくなってしまった、メールではなく手書きってトコが、本音が出るんだと一人突っ走る甲本に田中はクールに「嫌です」のひと言を生真面目な文字で書いて投げ入れる。
冒頭のその繰り返しが、まさにツカミはOK!で、観客の心をぐぐっとつかむ。生真面目なボケ&ネタ作り担当の田中と、奔放なツッコミの甲本、演じる伊藤君、こいでんのキャラが冒頭ではや、バチッと決まる。

本当に、彼ら二人は良かったなあ。伊藤君の上手さは言わずもがななんだよね。後半、ベテラン芸人となって番組MCを多く担当するようになる“17年後”を、その年相応のスーツとたたずまいだけで表現しきった伊藤君に、キャリアがあるし、上手いことは知ってたけど、さ、さすが……と驚嘆してしまった。
それに対するこいでんは、私、正直、彼のことは買ってなかったし(爆)、まあそれなりな可愛さを持つ若手俳優ぐらいにしか思ってなかった。いい作品もいくつかあったけど、あんまりピンと来てなかったんだよなあ。

でも初日舞台挨拶で、彼がウッチャン監督の手紙に男泣きしたのも判るぐらい、彼は甲本を生きてた。
芸人になろうと誘ったのも彼の方だし、舞台に上がった時、ツッコミ役となってネタをまとめ、視線を集めるのも彼の方。判りやすく男ぶりがいいのも彼の方だし、“人間観察”と称して合コンやらを繰り返したせいなんだか、トンでもない借金を抱えている、売れてないくせにザ・芸人を王道で行く男。
彼の人懐っこい笑顔と、根っこにある頑なさが観客に、勿論相方の田中にもほっとけない気持を起こさせて、交換日記がイキイキと躍動し始める。

正直、ね。最初のうちは、交換日記がメインの語り部となることに、不安を感じていた。どうしても、モノローグになるじゃない。それで全う出来るのかなって。
それが、まあ、まあまあ、見事に全うしちゃった。本当に彼らは、会話しない、それこそ、甲本が解散を言い出してからようやくまともに会話するぐらいなモンである。
交換日記にはセキララな言葉を綴るのに、例えば大きな大会に出るかどうかさえ、ノートのやり取りで決めるぐらいなのに。モノローグのやりとりのバックで、その時の彼らの様子が、これまたイキイキと、これぞ会話劇の魅力で描かれている絶妙さ。そこには勿論、それぞれにヒロインがいるからこそなんだけれど……。

特に甲本側、彼の彼女となるまさみ嬢のキラキラ!「昼は薬局、夜はキャバクラで働くがんばりやさんだ」という甲本のモノローグに、それ自体もなんじゃそりゃ!とツッコミさせる台詞な上、なんかそれってつまりどっちもコスプレ!と叫びたくなる。
……両極端の“コスプレ”まさみちゃんは超絶可愛くて、このキャラの設定が彼氏を支えるためなのか、いやでも、彼の借金を清算して転がり込ませる前からこのキャリアだったんだから、つまりこれは長澤まさみに白衣とキャバ嬢のカッコをさせたいだけだったのか……後者の方が正しいような気がしてならない(爆)。

甲本が熱を出して彼女に看病されるシーンが用意されているんだけど、そのシチュエイションだけでも激烈萌えなのに、ベッドに腰掛けるまさみちゃんはなぜかホットパンツで、ダイナマイトな太ももがっ。
介抱する彼女に欲情してキスを再三試みるこいでんに、平手打ちを二発、三発くらわせる描写は、勿論コント的要素があるんだけど、ウッチャンっぽい照れを感じたなあ。

若い頃にはチャンスめいたこともあった。やり手のプロデューサーから目を掛けてもらえて、レギュラーをとれそうになった。でも、世間というものは色々あって……。
その出来事で甲本は、そのプロデューサー……演じているのが佐々木蔵之介ってのがまた、超良くてね!……をウラギリモノだと憎み、田中の方は、構成作家の道を提示されたりしたこともあって、複雑な思いを抱えている。
房総スイマーズでやっていきたいからと、その話を断った田中。でも自分の才能を認めてくれていること、それには甲本をいらないと思っているらしいことを、早い段階から田中は気付いていて……。

この中盤のエピソードが凄く効いててさ、なんかズルいぐらいなんだよね。本作はちょっと、オチバレしたらNGというか、実はこうだった、それを知ったら号泣必至、てトコがあるのよ。まあこーゆーサイトだからそこんところもあっさり言っちゃうことになる訳だけど(爆)。
その伏線としての中盤、あるいは最初からかもしれない、甲本は田中の才能に比して自分が使えない人間であることを凄く自覚してて、だから、だからだから、後にオチバレしちゃう時に、回想の形でこいでんが、いやもとい、甲本がぼろぼろぼろぼろ涙をこぼすのに100パーセントシンクロしてもらい泣きしちゃうんだよ!!

ちょっと訳判んないまま書いてるけど、ちょっとそのまま続けさせてもらうと……ウッチャンが、そして恐らく原作も、どうしても避けようのないものとして描こうとしているのが、コンビにおける強弱関係、絶対に存在してしまうもの。
それは芸人としての実力差というのが最も残酷な例であって、本作はそこをこそ描いているからこそあまりに辛く、痛く、哀しいんだけど、そんな顕著じゃなくても、キャラの強弱、世渡りの上手さの強弱、人に好かれるか否かの強弱、運の強弱、色々あって……。

それでも甲本も田中も、二人でやりたいと思った。でもそれは、甲本の提案した交換日記によって、かつて感じていた熱を再燃させられたからこそである。
でもいざ、大きな大会にチャレンジしようということになると、甲本はしり込みした。かつてそこで自分が犯したミスで先に進めなかった。そのトラウマがあった。
でもこれが最後のチャンス、その怖さを充分承知しながら、賭けてみようと思った。田中が甲本をヒントにして「売れない芸人」をネタに書いた新作に大きく心を動かされたこともあった。
自分たちだけのずっと忘れかけていた、田中と一緒に人を笑わせる楽しさを思い出したから。

正直、さあ……まさかまさか、甲本がまたしても壇上で真っ白になるなんて、思わなかった訳。単純な私は、二人が見事優勝して、歓喜の涙を流すと、思っていた。
ならば最初から判っていた、この物語のクライマックスであるコンビの解散が何故なのかなんて、もう見ている時には盛り上がっちゃってるからさ、全然考えてなかったの。
この準決勝のシーン、真っ白になっちゃった甲本、何とかフォローしようとするけれど空回りする田中、そのアップのカットバックに、息が止まりそうだった。
これはやっぱり、やっぱりやっぱり、その世界を知っているウッチャンだから描けると思った。それまでにもお笑いや芸人たちへの愛にあふれていて、胸が詰まりそうなぐらいだったから、この残酷なシーンにこそあふれる愛に、もう死んじゃいそうになっちゃって……。

敗退はしたけれど、房総スイマーズとしての未来が見えた、と前向きな田中は、これが最後のチャンスだと言って臨んだことを、忘れていた……訳ではあるまいが。
いや、甲本だって、自分のミスとはいえ、改めて人を笑わせる楽しさを知って、辞める気なんてなかった。いや、いやいや……その後“オチ”を示されると、やっぱり、やっぱりやっぱり甲本は、田中のために、辞める決意を固めていたのかと、思う。

田中にとっては、そして観客にとっても、あまりにも唐突に思えた甲本の辞意。それもまた交換日記の中でだけで、直接会って話し合える機会がなかなか持てず慌てた田中は、甲本のバイト先にまで押しかける。
それは、冒頭、交換日記をしようぜと押し付けるために田中のバイト先にストーカーよろしく押しかけた甲本の、コミカルに示されたシーンと見事に対比されていて、きゅんと胸が痛くなる。
一緒にやっていても辛い。ピンで海外ロケに出るオーディションに受かった。もう解散するしかない、とにべもない甲本に、田中は何も言えず、帰り道、まるで冒頭に交換日記を拒まれた甲本みたいに、フェンスにガシガシ当り散らす。
冒頭のシーンはあくまで、どこまでも、コミカルなリズムだったのに……。見事に計算されていて、ウッチャン監督素晴らしい!ともう、贔屓目アリアリ。

甲本が解散を言い出したのは、敏腕プロデューサーと事務所の社長から諭されたから。この大会で決勝で敗れた実力派コンビ、BBのかたわれが失踪、実力者が宙ぶらりんになったことに作り手が“もったいない”と思っちゃって……。
双方のコンビの実力者どうしが“タナフク”として新コンビを組んだところを観客に示されるのは、一年間の海外ロケという美味しい仕事のハズが、行っている間に途中で打ち切りになって、帰国の出迎えは事務所の社長だけというシーンが示されて、である。
薬剤師とキャバ嬢で彼を甲本を支えた彼女が妊娠したことからこの仕事を受け、つまり解散を切り出した、筈だった。でもライバルの片割れとコンビを組んでブレイクした相方が映し出されていていて、それを見ながら甲本は言う。お笑い辞めるよ、と。奥さんは涙をこらえながら、お疲れ様でした、と言う。

この時にはさ、社長とプロデューサーに説得されたシークエンスなんてまだだから、判んない訳さ。
で、居酒屋で働き始めて、元芸人さん、面白いこと出来ないの?面白くないから辞めたんだよねとか飲みの席で言われてガマンも限界超えて激怒するなんてシーンもある訳。そして17年後なんていっきなり飛ぶから、おいおいおいと思う訳。

あの日、海外から一年ぶりに帰ってきて、タナフクを目にして、お笑いを辞める決意をした夜、甲本は途切れたままだった交換日記の続きを書いた。決して相方に読まれることのない、自分の気持を清算するために書いた日記。
なぜ解散を言い出したか。あの日の場面が鮮やかによみがえり、田中と一緒にやっていて辛いだろと優しく声をかけられた甲本がぼたぼたと涙を流す。

私はこんなに、こんなにこんなに、相手のことを好きなのに、尊敬しているのに、離れたくないのに、愛しているのに、だからこそ自分がいちゃダメなんだと思い知らされる残酷さを、初めて目にした。恋愛なんかより、ずっとずっと純粋で、だからこそ地獄のように残酷だった。
ウッチャンも、そして勿論原作者の鈴木氏も、こういう場面をあまた目にしてきたんだろう。だから、だから……。

甲本の娘が美しく成長した17年後、相方に見せるつもりもなかった交換日記を携えて、大物になった田中の元に現われるシーンは、正直かなーりベタだと思ったし、お父さんは肝臓ガンで入院してるとか言うもんだからヤメてくれよと思ったけど、思ったけど……。
このシーン、ね。さっきも言ったけど17年後、つまり47かそこらの設定の伊藤君が、特に老けメイクもせずに、それ相応のスーツとしぐさというかたたずまいだけで、その年齢の、大物芸人を体現していることに、驚嘆しちゃってさ。凄い!と思って。
……病院つーかホスピスっぽいところにいる甲本を田中が訪ねていくんだけど、まあ病人ってこともあって、それなりのメイクをされているこいでんは年くってんだかくってないんだかよく判んないところもあるし……やっぱ伊藤君のさすがの芝居にヤラれてしまった。

ついついすっ飛ばしたけど、甲本の娘が日記を携えて来た時に田中は、大人の反応しか示さないし、知ってたよ、バカヤロー、オレはお前に怒ってんだよ、その怒りでこれまでやってきたんだ、とモノローグ、日記を楽屋のゴミ箱に捨てちゃうの!
だけど収録が終わって家に帰ってきて、まあこれまた売れっ子大物芸人よろしい大豪邸よ、で、迎えた御夫人、だけどアルバイト時代から彼に寄り添い続けた連れ合いに言われるの。「(甲本の娘に会って)良かった。だってあなた、ずっと意地を張り続けていたから」

ほんの、こんな、ひと言だったのに。しかもその場はさ、シャレたダイニングテーブルでの洋食ディナーにワインなんて様相よ。でもその奥さんのひと言で、ハッとする、ていうか、明らかに顔色を変えるの。
そして飛び出す。テレビ局のスタジオを駆け抜け、スタッフを驚かせる。楽屋のゴミ箱に捨てたノートを探すために、集積所で荒らしまくる。ボーゼンとしている清掃スタッフと追いかけてきたスタッフ。

探して探して探して、シュレッダー屑を散らしてまで探し当てたノートを抱きしめて号泣、そこに、本当の、思いを、書き綴る田中。
……あのね、この一連のシークエンス、さ。解散の理由をまず甲本が回想、そこでも号泣必至だったのに、てか号泣だったのに、それを田中が知ってたと、だからお前に怒ってたと。ライバルの相手とムリヤリ組まされて、お前への怒りで今までやってきたと。だから彼はノートを楽屋のゴミ箱に投げ捨てた。
でも奥さんから言われたひと言で、パンと弾けて、本当は甲本とやりたかったんだと、少年のような言葉で吐露するもんだから、ああ、もう、ああ、もう、もうもうもう、誰か涙を止めてくれー!!!

入院している甲本を訪ねて、田中がノートを放り出し、また始めるのかと病人ぽい弱々しい笑顔を見せた彼に、「嫌です」と、あのはじめの言葉を、田中はしかめつらしく返す。ニヤリとニコリが混じったような笑顔を返す甲本に、これまた唇をゆがめたような笑みを返す田中。
ささやかな一本桜の下の車いすの甲本を、美しく成長した娘が付き添っている。これまた美しい奥さんが涙をぬぐっている。まーまーまーっ、出来すぎ出来すぎ。でもいいの、泣ける時には泣いちゃうんだもん!!

水泳部同士という設定が、コンビとしてのすれ違いや別れを絶妙に示すために使われる。バシャンとすがすがしく飛び込む、隣り合ったコースをまっすぐに泳ぐ二人、時に同じ方向に競うように、時に右と左に別れた方向に別れて、しなやかに泳いでいく。
すんごく、美しくて、印象的なんだよね。部活の気分を引きずりつつ、でもその余裕の泳ぎが、凄く美しくて、これが、とても、良いの!★★★★★


母情
1950年 83分 日本 モノクロ
監督:清水宏 脚本:清水宏 岸松雄
撮影:横山実 音楽:古関裕而
出演:清川虹子 徳川夢声 黒川弥太郎 坪内美子 宮川玲子 清川玉枝 浦辺粂子 飯田蝶子 伊達里子 明美京子 白木純子 加藤欣子 徳大寺君枝 花岡菊子 杉寛 坪井哲 若月輝夫 尾上桃華 石沢健二 小島昭治 浅田歌子 山田五十鈴 古川緑波

2013/6/21/金 京橋国立近代美術館フィルムセンター
清水監督特集、一週間後にようやく二本目。最近魅力的な新作が続々で、なかなかこっちに時間が割けない……と早くも言い訳(一本目で既に言っていたか……)。
時間が上手く合っただけで飛び込んだんだけど、面白くて、あー、良かった良かったとデータを探すも、古い時代であり、超有名な監督さんという訳でもないせいか、データが少なくて……。
個人ブログの類はあるんだけど、それ見ちゃうと私、無意識にパクるといけないから(こういうの、ホント自信ないの(汗))、ものすごく不安だけど記憶だけを頼りに。

この特集に足を運びたいと思ったのは何といっても清水監督の「小原庄助さん」があるからで。
劇中、主人公の清川虹子が最初に訪ねるお兄さん夫婦(確か……(汗汗))の、そのお兄さん、果樹園でノンキに昼寝などしてて、娘が呼びに行くと「昼間から寝てて。小原庄助さんね。」「あっちは朝寝で、こっちは昼寝か。」なあんてやりとりがあるもんだから、もう私、メッチャ喜んじゃった!
製作年度を見てみると、「小原庄助さん」の次の年である。なるほどなるほどなあるほど!

ところで、清川虹子、なのよね!この時彼女、いくつだったんだろう。もう既に後年のふてぶてしいおばさんっぷり(失礼!)が、その特徴的な頬の形に現れていて、うおお、清川虹子―!!と思う。
思えば主演作品どころか、彼女の若い頃の作品自体、私、ほとんど観てないんじゃないかしらん。いや、記憶力に自信ゼロだから何とも言えんが(爆)。

とにかくこの、若かりし頃の清川虹子、年齢的には40手前だったんだね、しかしこのふてぶてしさっぷりは、とても今の私より下には見えない!
当然時代だからモノクロなんだけど、彼女が三人の幼子を連れて田舎の野の道を歩くシーン、手前のカメラでずーっと、歩いていく彼らを遠く映してるんだけど、彼女がふかしているタバコの煙が白く吹き上がるのが凄く印象的で。

後のシーンで何度も喫煙シーンは出てくるし、それが彼女の俗世にまみれたというか、はすっぱというか、ふてぶてしくしたたかな戦後の女、という感じをその都度強く印象付けるんだけど、この一発目がまず、強烈でね!
恐らく喫煙してる場面としては最初だったと思うけど(多分(汗)。もう私、こればっかやなー)、それが、吸ってる場面そのものじゃなくて遠―くの、煙がぼわーんって立ち上るだけで、彼女のキャラクターを示すのが、凄いと思ったの!

冒頭シーンから清川虹子は強烈である。冒頭シーンは、寝てるのに(爆)。
列車で、彼女の三人の子供たちが“絵描きのおじさん”にまとわりついている。この絵描きのおじさんは後に偶然、旅館で一緒になって、すわロマンスがうまれるかと俗で単純なことを思ってしまうが、そんなことにはならない、ただ通りすがりの、でもとても親切なおじさんなんである。

おじさんなんて失礼、演じる黒川弥太郎は大変イケメンさんである。彼がささっとスケッチする清川虹子=とし子に、なぜか三人の子供の長子が顔にハンカチをかけてしまう。思わず噴き出しちゃうが、しかしなぜこの子、こんなことする訳(笑)。
「お母ちゃんなんだけど、外ではおばさんって呼びなさいって言われてるの」というこの子らの境遇は、それはつまり、彼女は独身を装って、男あさりをしてるんじゃないかと想像されるが、後の展開を見ていくと、まあそう単純に言うのもアレかなとも思う。

この三人の子供たちは皆父親が違う(!)。最初に訪ねた兄には、結婚するから当座子供たちを預かってほしい、ということであり、兄には「お前が結婚するのは大賛成だけれども……」とその過去のことをそこでつまびらかにされる。
だからね、最初は、この母親、たばこをぷかぷか吸うとし子はなんてヒドい女だと思ったのね。
つまりこれ、子捨てじゃんと。男が出来たから、子供がジャマだから、引き取ってくれる先を訪ね歩いているんだと。
子供たちには外でおばさんと呼ばせていたのは、きっとその男の前でもそうで、コブつきだと相手に言っていないんだと、そういう事情なんだと、思っていたからさあ。

実際は、違うんだよね。まあ三人父親が違うんだから、これまではそうだったのかもしれないけど(爆。だって、外でおばさんと呼ばせてるって、そういうことじゃない?)、少なくとも今回は(汗)、違う。
三人の子供をいっぺんに預かってくれるのが理想だったんだけど、なかなかそうもいかず、転々と訪ね歩く先の旅館で、とし子は疲れからか熱を出して寝込んでしまう。
そこに、「食事を作ってくれたりする隣のおばさん」がやってくる。そこで、彼女と共にバーを経営するために、だったことが明らかになるのね。

しかしこの共同経営者も信用できるのか……。窮地のとし子は金を持ってきてくれるように頼んだのに、彼女は「大工や酒屋につかませたから」と、そうするしかなかったと、言ってのけるのね。
そんでもって、病身のとし子に部屋を提供してくれたあの絵描きのおじさんに、「モデルになる約束していたんだった」と、ウキウキと部屋を訪ねる。
その後二人は登場せず、とし子が子供に聞かれて「隣のおばさんと、一緒に東京に帰っちゃったのかもよ」と言うあたり、何か、ドロドロしたものを感じるんだよなあ。

考えてみればとし子だって恩のある人だし、憎からず思っていたかもしれないのに。
集団客が訪れて、彼の好意で相部屋となってから、息子はなついているけれども、修学旅行と思しき女学生の騒々しさ(これは今も昔も変わらないね!)やら、慰安旅行と思しき老年男女の騒々しさ(これも今も昔も変わらないかも(笑))に閉口する様が可笑しく、やはりそんな色っぽい風にはならない。
のが、実はこのとし子の、はすっぱには見えるけれども、それで武装しているストイックさを示していたのかなあ、とも思う訳。

そうそう、、この画家先生が冒頭に、列車の中で寝てる彼女をスケッチしていたシーン、開襟のブラウスを着ているだけで、何かこう、新時代の、洋装で闊歩する、しかもちょっと水っぽい匂いがするというか、そんな女っていうのを一発で示しているのが、スゲーなーと思ったんである。
長めのスカートとシャレたデザインのサンダルで、足を組んでタバコをふかす。そのいでたちだけで、堅気じゃないな、と思わせ、堅気の、まあつまんない女たちは(爆)、軽い侮蔑と好奇心ありありの目で覗き込む。

そうしたシーンの時には、私だって、そんな風に思って見ていた。子供を一人一人、捨てていくような女なんだもの。
子供たちはきょうだいだから、ひとりひとり引き離されることを辛がって、泣いて泣いて、だから辛いんだもの。
だから、なんてヒドいヤツ!と、まあ思うわな、普通。

だけどね、一軒一軒訪ねていく先のエピソードで、クスリとした笑いをもたらす上手さがあって、なんか見せちゃうんだよなあ。
長らく子供が出来ない夫婦が、いい子がいたらと欲しがってる、と訪ねていったら身重の奥さんが出てきて、うろたえる先生、とか可笑しかった!

二軒目にこの先生を訪ねたとし子、先生はとし子を待たせて将棋かなんかに興じていて、待たせまくって、しびれを切らしたとし子が教員室に姿を見せると、ああ君か……とか言った後も、この一番が終わったら、と向き直る。
のにも爆笑だが、その時状況を察した相手はすでにいなくて、引いた画面の窓ガラスの外にしれっと帰っていく、それをとし子と先生とが見送る後ろ頭、その絶妙の間が最高に可笑しい!
こういうユーモラスなリズム感は「小原庄助さん」で熱狂したところでもあって、もうますます通いたくなっちゃうんだなあ!(でもどれぐらい通えるだろう(汗))。

でね、この先生の家に投宿、無心に寝入る子供たちに奥さんが、可愛いわ、と引き取ってくれそうな気配、しかし長子の方がねしょんべんしちゃって、「この地図は、いかんな。いかんかったな」とし子も「一緒に引き取ってくれそうだったのに」と愚痴り、お兄ちゃんは首を垂れるばかり。
そもそも一軒目のお兄さんトコでも、子だくさんの中で喧嘩っ早い様をさっそく露呈して、普通は長子から、というところが、一番下の女の子だけを引き取るという形になってしまったんであった。
でも、この長子が最後まで残ったことが、このタイトルにつながってくるんである。

そう、このタイトル、こんなふてぶて母、全然母情じゃないじゃん、と思ってた。あまりに清川虹子が圧倒的だったもんだから、これが覆されることが想像つかなくてさ(爆)。
でも結局、長子一人が残され、旅館で画家のおじさんに再会、彼に懐きまくるこの長男、様相が、変わってくるんである。

この長男君は最初から、お母さんの顔にハンカチを乗せた時から、コメディリリーフでさ、コメディリリーフだからこそ、最後に泣かせると効果絶大だってこと、予想できたはずなのに、私も不覚で(爆)。
そうそう、一軒目でさ、きっとおやつを出してくれるからと、大人しくしてなさいと言われて。
でも期待した「夏みかんか干し芋」が、なかなか出てこないもんだから母親のとし子がそれとなく、作物の出来具合とか聞いて探りを入れるのも可笑しいんだけど、結局、不作だの失敗だのでどちらもないと判った時に、長男君がうわーん!と泣き出すのにはもう爆笑!これはまさにツカミはOKってヤツ!

で、なんだっけ、どこまで行ったんだっけ(爆)。そうだ、えーとね、このふてぶて母が改心するきっかけになったのは、この旅館周辺で、旅一座に遭遇したからなんであった。
花形役者と思しき、美しい花魁姿の若き娘があやしているまだ生後間もないような幼子。この、明らかに若き娘、を持ってくるあたり、絶対、とし子の、清川虹子の年恰好との比較対象だよなあ、と思う。
実際面倒を見ているのは、年老いた母親だったりして、この母親にとし子は話しかけ、手助けし、その後、峠越えをする道中で再会する時にも同様に親しく口をきくのね。

最初に遭遇した時のとし子=清川虹子の表情が何とも絶妙で訴えかけるものがあって。
こんなにずっぱり清川虹子を見たのは初めてで、なんとまあ、役者!なのだろうと、女優、というより、芝居巧者、役者!って感じ!!と思ったんだけど、この場面のこの表情はまさにまさに!って感じでさ。

「父親がいれば、苦労はしない」とこの母親が語るということは、まあ捨てられたか、最初からあてにしていないのか。でもこの若き母親が手放したがらないからと、この旅の一座に加えられていて、無邪気な寝顔をみせている赤ちゃん。
この老いた母親が言う「あの子が手放したがらないから」の、このほんの一言が重く響くし、何よりその台詞を聞いた時のとし子=清川虹子の表情がずーんとくるのね。

本作が、「父親の権威が失われた戦後期を代表するジャンル」である母もの、である、と解説されていたのが、すんごい興味深くてさ。
戦後すぐに既に、こんなに徹底的に、完膚なきまでに父親の権威って失墜するかとも思い、だったら母親はどうするか、っていったら、さすが女は強し、思い切っている、と。
それぞれ父親が違う子供たち、っていうのは、自堕落な女ということじゃなくって、それぞれの男たちを見限ったのかもと。

最終的にはバーを経営するために、今度は子供たちを(一時的とはいえ)見限ろうとする彼女に、強くたくましく、でも実は内面必死でいっぱいいっぱいの戦後の女、を思う。
あのたばこぷかぷかや、開襟ブラウスに足を組んだオシャレサンダルスタイルが武装だったのかもしれないと思うのは、このあたりから。

峠を越え、かつての乳母を訪ね、その用件をなかなか切り出せないとし子の先を制するように、ひたひたと感じていた、自分たちが捨てられていく感覚を、一番上の、それを表現する言葉を持っている長男君が、いい子にするから、お仕事の邪魔しないから、お母ちゃんと一緒にいさせてほしいと泣きながら言うのには、とし子と共に涙涙。
ようやく、タイトル通りの展開になり、老いた乳母と共にしみじみとした時間空間を過ごすのが、何か、戦前戦後を生き抜いた、それぞれの時代の女同士という感じがして、ね。

この時から男は置いてかれてるし、ひょっとしたらいまだに……。
それぞれ父親の違うコブつきのバーのママが、逆にカッコイイ時代に、突入しているのだ、きっともう、ね。

最終的には母物しっとり泣かせる展開、で収束するけれども、実際は、時代の文化、男と女の価値観や時代の立ち位置、そうしたものを明確に示している、一つの文化資料と言えるぐらいの重要性があるんじゃないかとも思う。
旅一座なんてのも、ねえ。あの若く美しい母親が子を得た父親はきっと、旅先のいっときのロマンス?
雨に濡れて踏みにじられた興行のチラシが、旅一座の滅びを示していたのか、それともこの母親を文字通り踏みにじっていたのか……。
この時代だと、作り手側もどんな考えでいたのか、なかなか微妙だから……。★★★★☆


ぼっちゃん
2012年 130分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:大森立嗣 土屋豪護
撮影:深谷敦彦 音楽:大友良英
出演:水澤紳吾 宇野祥平  淵上泰史  田村愛

2013/4/8/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
もっとずっとブサイクな人はもっとずっと沢山いるのにナァなどと、つまんないことを一番最初に考えてしまった自分にガックリきてしまった。そんなことじゃないことぐらいは判っているのに、じゃあどんなことなのか。
あの秋葉原無差別殺傷事件の犯人にモチーフを得て作られたこの問題作、まさかあの彼が自分がブサイクだからと思っていた訳ではないだろうし、ブサイクだったかどうかもよく覚えてないし……。
いや、監督は掲示板に大量に書き込まれた彼の言葉を読んで衝撃を受け、この作品を作ったというのだから、その中でそんな風に彼は言っていたのだろうか?

でも、そう、そんなことじゃないことぐらいは判っているし、確かに実際彼らはそんな言うほどブサイクじゃないし、ブサイクだなんだというのも価値観の問題だし、ていうか勿論ブサイクだからどうだこうだという訳でもないし……。
と考えているうちにどんどん、キレイゴトの方向に進んでいってしまってウンザリしてしまう。そうじゃない、そうじゃないんだ。でもそうじゃないなら、何なのか。

あるいはもうひとつのキーワード、派遣労働者ということなのか。確かにあの事件は、派遣労働者の受ける差別ともいえる社会状況が生み出した事件だった。
まさにそれを、浮き彫りにした。勿論罪を犯した彼自身の問題ではあるけれど、社会のタラレバをこれほど考えた事件もなかった。

ただね、私はあの時、そのことはあんまり考えなかった。実はこの犯人の出身校に衝撃を受けていたからだった。
ある地方のトップの進学校。そのある地方に私はいたことがあった。県内トップの、超、頭のいい学校。雲の上にも等しい学校。私の大好きな小説家も出ている学校。憧れ中の憧れの学校。
他の地方、特に東京の人にとっては彼の出身校など興味の外なのかもしれないけれど、私にとってはそれが何より衝撃で、派遣だのなんだのというのは、全く考えてなかった。
あの学校を出ても、こうなってしまうのかと。あの学校を出た人たちは誰もがエリート方向に進むと信じて疑ってなかったから。

だから、本作を見ながら、色々と複雑な思いを噛み締めてた。もちろんこれはフィクションで、大いにフィクション、多分……と思う。
作業服が隠されたという話は手記(この存在自体、本作を観た後色々さまよって、初めて知った)に記されているというし“そのことで友達を失った”とまで書いているというのだから、友達、が大きなファクターである本作を作り上げる、彼自身のパーソナリティーを作り上げる点でも、真摯に作り上げた作品であるのだろうけれど。

でも、物語の最後、秋葉原の歩行者天国に突っ込む前に、その車の助手席に誰かいたなんて話は聞いたことないし、その誰かがそれこそオニのような殺人者だったなんて本当だったら皆が知らぬ訳がない。
だからこれは大いなるフィクションであり、ラストがホコテンに突っ込む前に終わっている、ブラックアウトしていることを考えると、これはもう一人の彼、突っ込まなかった彼、凶行を起こさなかった彼とも考えられるのだよねと思い……。
そう考えると、そうか、あの彼と違って、この彼、本作の梶には“トモダチ”がいたんだもの、と思った。

トモダチ、だなんてカタカナで書いちゃうと、なんか20世紀ナンタラみたいな怪しげな気分にもなってくるが。
その彼は時代錯誤もはなはだしい大きなフレームのメガネをかけ、何度目かの転職に臨んでいる。働くことは嫌いじゃない。好きでもないけど。時間をつぶせて金を稼げる。
……こんな具合のうそぶきは、彼がトイレで小用を足す時でさえ片手に離さずにいる携帯に切れ目なく打ち続けられる。

画面にエヴァンゲリオンよろしく明朝体で「トモダチ。裏切ったら殺していいですよね」などと挑発的に書かれる前半のシークエンスに、これがずーっと続くのか……と思わずげんなりしたが、この手法はほんの数えるほどで、梶が掲示板に吐露する言葉も予期したほどには多くない。
それよりも、上手く社会の仕組みに乗れなかった自分をあからさまに見下す現実世界にさらされる描写こそが、丁寧に描かれる。

しかしその見下している相手だって、同じく派遣として工場に勤めている同僚やちょこっと先輩程度、あるいは、採用する側の上司、工場側の人間であったとしたって、この小さな工場の社員の上には果てしなくピラミッドが連なっていることが容易に見えてしまう。
主人公である梶、同期として入ってきたのにやけに余裕ぶっこいている岡田(いや黒岩と言うべきなのか……)、ちょこっと先輩だけどリストラされちゃう田中、その周辺の同僚、先輩たち、大して変わらないのに、明日は我が身は変わらないのに、その中でなんでまあこんなにピラミッドが出来上がる。その恐ろしさ。

そんなにブサイクじゃないのに、などと書いてしまったけど、ブサイクとして登場させられる梶と、お互い初めての友達同士といった感じでぎこちなく友情をはぐくんでいく田中は、そういう演出だから、確かに見てるのがツラくなるブサイクっぷりなんである。
こういうのは、やはり演出力だと思う。だってフィルモグラフィーを見るとかなり見ている役者さんだし、そう言われれば見覚えもあるような。
でも“ブサイクな”“負け組の二人”という設定と演出力で見せられると、見たことないような、どうしようもない二人に見えてしまう。カンタンに騙されちゃう私のような観客もアホだと思うけど。

梶はこれまでどういう人生を歩んできたのか、ひがみっぽくて尊大で、なのに気弱で長いものに巻かれちゃう。友達になる田中は、同じように気弱そうなんだけど、実際気弱なんだけど、恐らく梶と友達になったことが彼を変えたんじゃないかと思う。
食堂で一番美味しいのはカレーだと梶にすすめ、それに梶も賛同したのに、岡田に「このカレー、マズいよな」と言われればうなずいてしまう梶。
そんな“トモダチ”に失望し、喫茶店に呼び出し(!)、クリームソーダなんか飲みながら(!!)「どっちが本当の気持なの。僕にウソをついているんなら、これから梶君を信じられない」と思いつめた表情で田中は問い詰める。

こんなささいなことで、と思わず微笑んでしまうし、田中の、緊張すると突然眠ってしまうナルコレプシー(映画好きなら当然、リバー・フェニックスを思い出すでしょ!)が、ここではそれほどことを深刻にしないでしまうのだけれど、その双方ともが後に大きく効いてくるのは、上手いと思う。
梶曰く、「イケメソだから、何でも許されると思ってる」と嫌悪する同期の岡田は、実は岡田なんて名前じゃなくて、それは彼がぶっ殺したスピードスケートを共にやっていた友人の名前。

この“岡田”はトンでもないヤツで、登場シークエンスで既に、出会い系サイトか何かで呼び出したらしい女の子と行方をくらまし、しかしその子を全裸にして半死半生の目にあわせていたぶり、山ん中でレイプし、そしてそのまま恐らく……殺してしまう。
この“キチガイ”はこのテで一体何人手にかけてきたのか。その一人になる筈だったのが、彼が名乗っていた岡田、スピードスケートで高校一だった青年の妹、“岡田”が殺した岡田の妹、ユリだったんである。

“岡田”の猟奇的人格を目の当たりにして、命からがら逃げ出してきたユリは、休日のドライブを楽しんでいた梶と田中に助けを求める。
そうそう、この梶と田中のまるで、というかまんまデートのような休日ドライブはあまりにも可愛くて、田中は昆虫博物館とか梶を連れてっちゃうし、お手製のお弁当は持参するし、オネエ座りだし(笑)。
思わず「まさか田中君って、モーホー……?」と怯えた梶に「梶君、好きだよ」と流し目する田中は、その後「冗談だよ」と笑うけど、とても冗談に思えなーい!!

……と、脱線するほどこのシークエンスはチャーミングだし、そもそも梶と田中の友情の育み方が、中学生の男子より純情すぎて。河川のススキでヤメロヨーとたわむれたりするんだもの!
あまりにも遅い、遅い遅い、友情。こんなの、遠い記憶過ぎて、今更出来ない。だって、酒さえ飲まないんだよ?まずは酒でしょ。信じられない!!

……いやそれはアレなんだけど。で、思わぬ形でユリと邂逅した二人は、それまであまりにも不毛な日々を送っていたもんだから、いっぺんで彼女に恋をしちゃう。
……女から言わせると……“ブサイク”サイドの女から言わせると、おめーら(ていうか梶)が言ってた、ブサイクかイケメソかの人生論はなんなんだよ!と思わなくもないが……まあつまり、確かに、そのまんま当てはめてもいる訳だ。女もまた、ブサイクは範疇に入らん、とこーゆー訳だ(自嘲)。

でもそのユリがブサイクの片方、田中をムリヤリ選ばされる形からではあっても思いを通じ、愛し合うようになるのは、女としては溜飲が下がる。ブサイクとか女は別に思ってないって!と。
……でもこれは、男側からの物語だし、ある意味男側からの幻想も入っていると言えると思うし、つまり逆は、ブサイクな女は、ブサイクな男以上に救われないんじゃねーのと思っちゃう。

……どうもそういう方向に行くと、主旨が脱線してしまうから、納得できない気持ちはありつつ、軌道修正。
この日ね、“イケメソ”岡田(実は黒岩)役の渕上氏がちらりと挨拶に来てたのね。劇中では梶に「イケメソは傲慢だからキライだ」と呪詛され、呪詛されるだけのヒッデー男でさ、クライマックス、ユリと田中が逃亡した先のさびれた旅館で、彼女を鬼畜のごとくレイプする場面なんて、マジで梶、殺してやれよ、なんでそんな中途半端なんだよー!!と本気でイカったぐらいだったんだけど……。

何がイケメソだよ、イケメン以下のイケメソというモンだけど、別にイケメンでもないよ、鬼畜の顔は吐きたくなるほどイヤな顔だしさ!と思っていたら……。
当然、さ、普通の、通常の、穏やかな、彼は、普通に“イケメン”で、穏やかな好青年で、こ、こ、こ、これはズルいよーっ!!と心の中で絶叫してしまった。
……そして、役者さんの芝居って、そして監督の演出って、そしてそして映画って、凄いんだな、と思った……。主人公である梶、そして田中、そして岡田、そしてそして……。

ユリと田中が襲われることを判ってて、鬼畜岡田に彼らの逃亡先を教えてしまう梶に、やっぱり大森監督だから、結構今までも容赦ないから、リアリスティック主義だから、とハラハラとしていたんだけれど、それこそ今までも、微かではあるけれど、美しい救いが用意されていたことを思い出す
緊張すると昏倒してしまう田中、愛する人が鬼畜にレイプされようとしているのに、これはあまりにもキツい状況。

ユリに「起きろ、田中!!!」と何度も叫ばれ、動かない身体を必死に起こそうとし、それはもう、見ていられない悲惨な状況で、もうダメか、彼は愛する彼女を救えないまま、梶が「ヘンな動き」と大爆笑したあの昏倒のままなのか、とゾッと震えていると、梶が登場。
しかししばらく、田中が「梶君、助けて」と懇願しても冷たく傍観しているから、うわ、これは更に悲惨な状況、と思っていたら、彼は昏倒から覚めかけて、でもロクに身体を動かせない状況にある“トモダチ”に電気ショック器を差し出すのだ。自分でやらなきゃ意味ないだろ、と。

梶、判ってるじゃん。自分でやらなきゃ意味ないんだ。でもそうついつい思ってしまったことを、次のシークエンスで後悔することになる。
田中に手渡した電気ショックで岡田が昏倒、梶が妙に落ち着いた表情で、しかし上半身を脱いで、武器を装備したランボーみたいなカッコでナイフを振り下ろそうとするのを、田中が止める。
「梶君、ダメだよ!!」でも結局梶は岡田を刺す、けれど、明らかに急所はズレていて、先述した秋葉原ホコテン前の瞬間のトコに、腹から血をにじませた岡田を助手席に、梶が無差別の標的を見据えている。

このエンディングを心待ちにして……と言うとちょっと語弊があるというか……この場面が最終だと思って見続けていたから。それまでの展開、彼にトモダチが、そして最終的にそばに相棒がいること、に、戸惑ったからさ……。
これはフィクション、実際の彼がどうだったか、ずっと一人だったのか、時々には誰かいたのか、いたからこそ絶望したのか、知らないから、知ろうとしなかったから、そんな無責任無慈悲無関心だから、でも、つまりはそんなもんだから。

でも、なんかね、救われたというよりは、この経過、この設定は、ズルいような気がした。実際の彼に救いを与えたのかもしれない、でもそれは、あるべき救いだったの?
いや、実際の書き込みを読み込み、事件自体も読み込んだであろう監督が作り上げた世界なのだから、私ら外野がつい考えてしまう完全な孤独とは違うものが、彼に、そして投影された梶に、あったのかもしれない、あったのだろう。

でも、このラスト。そして梶と田中の中学生の純愛のような友情。そしてそして、鬼畜岡田がユリと田中を追う深刻なクライマックスでさえ、おんなじドアとおんなじマドリの独身寮を舞台に、まるでバスター・キートンのような出たり入ったりのアクションのユーモラス。
その過程で梶がボコボコに殴られて血だらけになっても、その岡田がまさにオニのようなゾッとする笑みを見せても、でもそれでも……あのラストに、救いがあると思いたいんだ。

あんなバカにされて、ボコボコにされて、ブサイクは不幸だなと嘲笑されて、それでも最後の最後に岡田が梶と一緒にいたのは、殺されるようなケガを負わされて一緒にいたのは、星降る夜空を見上げて一夜を明かしてまで一緒にいたのは……岡田こそが、友達も、愛してくれる人も、いなかったから、だよ、ね、きっと。
……今、こう書くの、凄く勇気がいった。こんなヤツ、死んでしまえばいいと、本気で思っていたから、言いたくなかった、から……。

梶がずっと恋していた相手、卒業アルバムを拡大したと思しき、つまりすっかりモザイク状態になっている女の子の写真を、独身寮の寂しい壁に貼っているってのが、凄く、来るものがある。
卒業アルバムの写真って、こんな風に、そんな写真しか恋する相手の写真を手に入れられない切なさもあり、ここでは田中がそれにちょっと突っ込んで、梶が慌てて、なんていう友情と絡めた甘酸っぱさもあるからさ。

でも、卒業写真が示すものは、加害者か被害者か、だよね、やっぱり。ニュースで手っ取り早く手に入れられる写真、ブルーバックで制服でニッコリ、その事件の時点からはあまりにも遠い過去の、不自然な若さと笑顔の写真。
拡大するとモザイク状態になるってあたりも、そういう事情を表現していて上手い、あたりが、悔しい。そしてこの事件、本当に起こった事件でまず出てきた写真もまた……。
ああ、そうか、この時、最初のこの写真で植えつけられたイメージなのか、この大きなフレームのめがね。

これがフィクションであると判っていながら、つらつらとネットをさまよって、本当の事件の彼が、手記を出版していることを知る。解説やレビューをさらりと読み、それだけじゃ何も判らない、曲解する方が大きいと判ってはいても、何か本作が、優しい、同情する立場で描いたように思えてしまって、それは……そんな風に思うのは、それこそありがちなバッシング立場で、……どうしていいか判らなくなっちゃった。
あの事件が大きすぎるから、だから、本作が真摯で衝撃的なのはわかってるけれど、あの大きさを相殺する為の鬼畜岡田のキャラなのかとか、つい思っちゃうし、難しいよ。どうしていいか、判らない。 ★★★☆☆


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