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もらとりあむタマ子
2013年 78分 日本 カラー
監督:山下敦弘 脚本:向井康介
撮影:芦澤明子 池内義浩 音楽:遠藤浩二
出演:前田敦子 康すおん 伊東清矢 鈴木慶一 中村久美 富田靖子 奈良木未羽 萩原利映 吉田亮 賀川舞亜 細江祐子 藤村聖子 伊藤沙莉 林和義 田中慎也 山内健司 服部竜三郎
ブサイクとまでは言わないけど……いやこのタマ子の、無表情と不機嫌のはざまを行ったり来たりするような表情は、かなりの確率でブサイクであり、決して決して、可愛いアイドル、前田敦子ではないのだ。
なのに映画を宣伝するポスターやサイトの中の写真が、タマ子を演じていても可愛らしい前田敦子、を集めることに腐心しているみたいで、なんだか可笑しかった。それは外野の無用な気遣いの微笑ましさというべきか。
実際、前回のタッグ「苦役列車」で、山下監督は彼女にほれ込んだんじゃないかと思う。まあこういうのはプロデューサーとかのキャスティングなのかもしれんが、やはり演出をする側の、この子にはここまで出来る、という思いは感じるものだもの。
むしろ、可愛いアイドルの女の子として絶頂までたどり着いたことが不思議なほどに、いい意味で彼女にはカリスマ性やオーラといったものが希薄で、何が彼女をそこまで押し上げていたのか純粋に謎だったりする。
誰が言ってたんだったかなあ、前田敦子の何がいいかって、頼りなさや、出来なさそうな感じ、そういうのがたまらないんだって、なんかそんなことを言ってて、ヒドいこと言うなあと思ったんだけど、でも今、イチ女優として階段を上り始めている彼女を見るにつけ、ちょっと判るような気がした。
正直、あんまりピンと来てなかったんだよね。アイドルとしての彼女も、女優としての彼女も。ただじわじわとくる感じがしてきた。あっと言わせる才能ではなくて、無色からじわじわ染まっていく感じ。
頼りなく、出来なさそうな感じというのは、ゆだね、染まり、獲得していく柔らかさでもあったのだと思う。
東京の大学卒業後、甲府の実家に戻ってきて、何をするでもなくダラダラと帰省、ならぬ寄生するタマ子。うるさい母親のいない、父親オンリーの実家。
お姉ちゃんは結婚して家を出ているし、家事の上手い父親は父親だけにそれほど口うるさくもなく、まさに食ってクソしてマンガ読んで寝るだけの生活。
そう、クソして。トイレにこもってマンガ読んでる場面までちゃあんと用意されてる。あっちゃんが、クソしてるんである!
……とこのあたりではまだ、あっちゃん=アイドルの図式が頭をかすめているんであるが、タマ子を示す一つのキーポイントになるシーンで、吹っ飛んだ。
そんな娘に業を煮やした父親が、何のために大学まで出させたんだ、就職する気はあるのか、と決死の覚悟で声を荒げると、それ以上の荒げようで「その時が来たら動く!」と叫ぶ。
その時っていつなんだよ、と押され気味の父親が何とか言い返すと、タマ子は一拍おいて、目をむいて、あごを上げ気味に父親を見下ろして言うのだ。「……少なくとも、今ではない!」
こう書くとハデな芝居のように見えるけど、じわじわな感じでここまで上り詰めるのよ。で、あの目をむいたあっちゃん、いやさタマ子に、キた!と思った。実に絶妙だった。地味にじわっと来た。
その後もタマ子はハデな弾け方をそうそうすることなく、“その時”はなかなか来ず、父親の手料理を食べながら、「日本はダメだな」とクサしている。
父親のみならず、お前がダメだろ、と突っ込みたくなるだらけっぷりは、何が彼女をそうさせたのかと思うほどの徹底ぶりで、堂々たる無表情と不機嫌のはざまのタマ子、なのだ。
こ、これは確かに、前田敦子だから出来るキャラかもしれない、と思った。言っちゃえば、大島優子では出来ない(爆)。
後に高校時代の同級生に再会する場面で何となく、いじめられていたとまでは思わないまでも、軽視されていたであろうことが、「ほらあの、坂井タマ子。甲府スポーツの」という女子同士のキャハハな雰囲気を感じる会話で、察せられちゃうんである。
これは、大島優子には出来ないであろう、前田敦子でなければ……って、いつまでもAKBに縛り付けて彼女を語るのは、良くないんだけどさ。
そうそう、甲府スポーツ。実家はスポーツ用品店をやっている。ちょっとでも地方暮らしの経験がある人なら、何とも懐かしい風情のこの店のたたずまい。
この地域の学生スポーツを一手に引き受け、きっと体操服とかユニフォームとかも引き受けてて、ヒマな大人たちはパターゴルフをしながら世間話をしにやってくる。
そう、あの住職のパターゴルフの場面がもう、一発で示してて、住職ってあたりも地元っぽくて、ニヤニヤしちゃう!タレントオーディションに応募したタマ子が、この辺唯一の神社にお参りしちゃってバレバレになっちゃうあたりも、地方感がアリアリでなんとも愛しい。
何より、この洋品店にバッシュを注文しにやってきた中学生、仁君がタマ子と親しくなるんだけど、彼の意向を無視して母親がぱっぱと決めちゃうあたりとか、なんかもう、判る判る!
母親、それでも表面上、どう?とか聞くんだけど、その答えを全然待ってないあたり、メッチャオカンやもん!
で、まあ、そう、甲府スポーツ。この絶妙な、東京に近そうで遠い、遠そうで近い感じも、いいのよね。“東京の大学”が割と身近だけど、舞い戻ってきちゃう率も高い、みたいな。
タマ子が同級生の女の子と再会するシークエンス、いつものダラダラしたカッコで買い物に出ていたタマ子は、この再会を心底嫌がってる。その女の子はそれなりに垢抜けたカッコして、遊ぼうよ、連絡するね!と手を振る。「携帯知らないじゃん」と白けてつぶやくタマ子。
これだけでタマ子の地元時代が知れる訳なんだけど、その女の子と次に遭遇する時、東京方面行のホームで、キャリーバックを支えながら、声もなく泣きじゃくっているのだ。線路外のタマ子と目があい、小さく手を振る。タマ子も、小さく手を振る。
この感じ、東京に手が届く地方の、だけど届かない地方の感じが、絶妙でさ!
東京方面、と書かれているさびついたプレートには、でも、この土地の人にしか判らない途中経過の駅名が書かれててさ、そしてそのホームは、とても小さいの。いつ“東京行き”の列車が来るのか、一時間に何本あるのか、そんな感じなの。でも確かに、東京には手が届く場所でさ……。
そこにタマ子が、東京の大学に行っていた、“行かせてもらって”いたタマ子が帰って来て、何をすることもなくダラダラしている。一方、一時帰省していた垢抜けた同級生が、涙を流しながら、東京への“帰路”のホームに立ってる、……何とも言えなくてさあ。
この場合、どちらが辛いのか。どちらが負けたと思っているのか。そもそも対東京、に対する勝ち負けって、なんなのか……。
それを考えると、就職活動を促されたタマ子が、オーディションに応募したというのも、うがって考えれば意味深い気がする。就職だけなら、この地元や周辺でもいいんだもの。タレントオーディションとなると、そりゃあ東京だよね。東京に打って出る感じ。
それまでは父親の家庭料理を黙々と食べるばかりだったタマ子が、お手製の野菜ジュースと、タッパにレンジで作る温野菜を食べだす。
タレントの美ボディを作るためだろうが、ヒミツにしていたその計画が、あのバッシュを買いに来た中坊、舎弟の(ていうのはアレだが、そんな感じ……)の仁君のリークによってアッサリバレてしまう。
恐らく、この町唯一の写真館。彼が撮ったタマ子のブリブリ写真を、ショーウインドーに飾るのは、確かに彼女にとっては“イヤがらせかよ”てなところだけれど、ひょっとしたら彼にとって初めての仕事としての写真。
バスケ部の彼はテニス部の女の子と可愛らしい恋を楽しんでいたけど、写真館の中で一眼レフを首から下げている姿の方が、サマになっていたもんなあ。
本作は、一年を通してるんだよね。春夏秋冬の文字に重なる美しい季節のワンカット(桜とか雪とか)にはカンケーなく、いつでもタマ子がぶーたれているのが面白いんだけど、その都度ちゃんと季節の行事をしているのが愛しかったりするんである。
いつも食っちゃ寝で全然動かないタマ子も、年末にはカレンダーのかけ替えをする。まあ、言っちゃえばそれだけだけど(爆)、家じゅうのそこここに、去年と同じところから来たカレンダーをかけ替えるいうのもあるあるな感じでキュンとくるし。
実際、なんであんなに家中、あるいは会社中にカレンダーなくてもいいのにね、と思う……日本人ぽい義理だよねえ。
んで、その中のアクセントとして、セクシーカレンダー、てかまんま外タレのヌードカレンダーが紛れ込んでて、あっちゃん(ここばかりは、あっちゃんと言いたい!)おっぱいぺろーんにまじまじと固まる、てのが何とも可愛くてヨイ!
年末にはきちんとお出汁をとった年越しそば、おせちを届けに来るおばちゃん、石油ストーブの給油をジャンケンで決めたり、夏にはおばちゃんちでスイカをほおばったり。
あるいは夏にクーラーキンキンに入れてタオルケットにくるまってるのが最高なんだから、とタマ子が父親に主張する場面とか、寄生女子、めっちゃ引きこもりの物語なのに、季節感があるのがいいんだよなあ。
クーラーキンキンでタオルケットってのも、現代の季節感だよ、それに文句を垂れる父親、ってのがいいじゃないの。
ここが離婚家庭で、家事上手の父親にべったりながら、母親と密に連絡を取っているタマ子。
父親はホント、家事上手なの。大体、ファーストシーンで、寝ぼけ眼で起きてきたタマ子がいただく、朝食だか昼食だか判んない食事、ラップをかけられたおかずがいきなりのロールキャベツ!
せ、せめて、レンジであっためてあげて!!タマ子、何も考えず、ラップも半分だけはがして皿にくっつけたまま、テレビを眺めながらむさぼるだけなんだものっ。
いや、一人暮らしの女子なら、こういう光景はありがちだが、お父さんの作ってくれたロールキャベツーー!!このツカミは見事にオッケーだったわ……。昆布と鰹節のおだしをきちんととって年越しそば作るお父さん……うらやましすぎる……。
それでもやっぱりタマ子にとってはお母さん、だったのかなあ。年末の描写では、お母さん、電話するって言ってたけどね、と言い、父親の再婚話にはまるで少女のようにうろたえる。
あの舎弟の中坊を仁君を使って、アクセサリーショップ経営&講師の富田靖子をさぐる場面は、何ともドキドキした!
この話を推す伯母さんの「とにかくいい人」仁君の言う「どちらかというと美人」という感じがピッタリの富田靖子っ(ちょっと失礼?)。
テキトーな中傷を父親に吹き込んだら思いがけず反駁され、恐る恐る自ら乗り込んで、思わず自分の思いを吐露しちゃう女子同士場面が何とも繊細だったなあ……。富田靖子の柔らかな雰囲気に思わず吐露しちゃう、って感じが何とも繊細だったんだもの。
父親は、料理は好きみたい。パスタを作るのはいいんだけど、パセリとか乗せるんですよ、お店じゃないんだから!と、お店、ってのもかなり庶民派のお店だよな、というあたりは微妙に突っ込まないあたりが微妙に可愛い父親への反発。
それを父親の恋人になるかもしれない相手に聞かせるってのが、何とも何とも可愛くて、タマ子、もう、負けたな、と思う。
それ以前に、地方の商店街のアクセサリー屋、アクセサリー作りの講師をしている妙齢の女子、そのスクールは殺風景な雑居ビルの一角。もう、もう、何とも絶妙な地方感、なんだわー!!!
そして、タマ子はこの町を、というか、実家を出ていく。父親から「夏が終わるまでに、この家を出ろ」と言われて。
それはこの言葉から感じる冷たく厳しい感じじゃなくって、まあとにかくな、そういう感じにしろや、みたいな、命令と促しと愛がまじりあったような、感覚だった。
でもタマ子はそれを重く受け止めて、「合格」とつぶやいた。父親は、なんだそれと笑ったけれども、絶対絶対、判ってて、さらりと演出したに違いない。
タマ子が、反発と戸惑いを感じながらも、この人ならと思ったからこそ愚痴った父親への思い、「私に、ちゃんと就職して出ていけ、って言えないんですよ」とこぼしたあの思い。
そしてタマ子は、「どっかに行くでしょ」と」仁君にいつものように特に重きをおかずに口にしたけれど、どこに行くのか、ひょっとしたら、こういう子こそ、うっかり遠くに遠くに、行くのかもしれない。
中坊の仁君が最後まで可愛く印象を残したよなあ。素朴な彼女と仲良く帰ってて「恋に部活に忙しいんですよ」なんて甘酸っぱいにもほどがあること言ってたくせに、「別れたんです。自然消滅……?」とアイスバーをなめながら言う。
神妙な顔して聞いてたタマ子だけど、彼が去ると、溶けてしたたるアイスをウザそうにテキトーになめとりながら、「自然消滅て(失笑)久しぶりに聞いたわ」と言い捨ててブラックアウト。
し、しびれたわー!!確かに自然消滅って表現、久しぶりに聞いたわ。まあつまり、きちんとそれなりの恋愛ならば、自然消滅なんて現象はありえない訳で、懐かしいほどの、恋愛未満にもほどがある淡い恋の可愛らしさ。
それ自体、経験するのも難しい(爆)。それっていいのか悪いのか。自然消滅な恋、経験したいよ、マジで!(不毛)。
ところで、本作は山下監督にとって久しぶり、6年ぶりのオリジナル作品だという。
そうかー。そもそも山下監督と言えばオリジナルの個性の強さの方が印象的だったけれど、そんなに間が空いたのか。そう言われてみれば、何か、山下監督らしさという意味での懐かしさを感じてしまう。
「松ヶ根乱射事件」以来だと言われると、余計にその感を感じる。絶妙な地方、そのしんと静まり返った世界観、ハデな芝居じゃないのに、じわじわと強い印象を残す役者陣。
ああ、これが山下監督の世界なのだと、思う。そしてきっと、それを体現できると監督が思ったのが、女優、前田敦子、だったんじゃないかなあ!
なんか最近やたら、ラストソングな星野源。いや、いいけど、好きだから。でもやたらラストソング。いいけど、気になるー!!★★★★☆
まあさ、そりゃあさ、不細工女優さんに実際に美容整形を施して演じてもらうという訳にはいかないさ。
いかないけれども、物語自体がそこんところをメインに据えて、人の心模様の残酷さを描いているとすると、その真逆のルートをたどって、つまり実際はつけられたものを脱ぎ捨てるほどに美人になっていくことをこうもまざまざと見せられると、なんか腑に落ちないものを感じるんだよなあ……。
映像化に魅力を感じる題材なのは判るけど、こうした根本的な落とし穴は、だからこそどうしようもないというか。
だって実際、高岡早紀に、和子の気持ちなんて判りっこない、などと思うじゃない。
いやいやいやいや、ここでは高岡早紀は女優として和子→未帆を演じているんであって、高岡早紀自身ではない、ことは判ってる、んだけど、どうしてもどうしても、そう思っちゃうじゃない。
いやいやこれはさ、ものすっごいフィクションでさ、不細工なんて簡単に言っちゃえないほど、なんというか……畸形的なまでに、と解説されているほどの、骨の異常とか、なんかどう言っても差別的になりそうで、言葉を選びようがないんだけど。
でも、こういう“不細工”だとさ、それこそ具体的にこうして映像で示されるとさ、これはひとつの“障害”であり、“治療”としての形成手術を受けてしかるべき、みたいに冷静に思っちゃう。
それがいいのか悪いのか……こうした、形としてハッキリと異常(……って言っていいのかどうか……どうも言い辛いな)ならば、そういう方向に考えてしかるべきなのが、現代というもの、じゃない?
だって両親も特にどうということはないし、妹は普通にキレイな子だし、彼女だけがまさに鬼っ子状態で、こういう場合、浪花節的伝統的日本の母親ならば、本作の母親のように残酷に隠して虐げるよりも、自分自身を責めそうなもんだが、「この子は父親の方に似た」とでも思っているのかなあ……。
確かに森下氏は個性的な顔立ちの役者さんだが……確かにそういう残酷さは女にはあるかもしれんが……。
そういう意味でも、活字上だけで想像力を喚起させるものと、やっぱり問題や論点が微妙に、そして結果的には決定的に違ってきてしまうように思っちゃう。
モンスターと呼ばれることになったのは、和子が恋した男の子を思いつめた結果起こした事件ゆえでもあったんだけど、その容貌を映像化に際して、モンスターな容貌をね、まさしく作り上げたに違いないんだもの。
ごつごつと骨がたわんだような頬、常に見えている大きな前歯とセリ出た歯茎、一重まぶたは日本人にはよくあるけれど、ことさらに日本人は二重まぶた信仰が強いからなあ。
正直、ね、このパーツでも、何もあんな風にいつも歯を見せずに口を閉じて、あんな貞子みたいなザンバラロングヘアにせず、せめて櫛を入れてれば(それさえしてない乱れ具合なのが、モンスターとしての作りこみ過ぎてさ……)、そこまで言うほどの異様さじゃ、ないんだよね。
まあ結果的には、この和子ちゃんは性格にも少々問題があって、思い込みが強いというか、結構惚れっぽいし、「春琴抄」を読んで入り込んじゃって、不細工な私を彼に見えなくさせればいいと、カラオケにムリヤリ参加して親の店(薬局をやってるのね)から劇薬を持ち出して、ドリンクに混ぜて飲ませようとする恐ろしさ。
……しかしあんな判りやすくバレることするかね。まあそういう単純さが、よーく贔屓目に見れば可愛らしいのかもしれんが。
うーん、でも谷崎好きとしては、「春琴抄」をあんなネガティブに引き合いに出されちゃうのは、なかなかキビしいなあ(爆)。
たまにこういう、コンプレックス女子の物語っていうのがあって。本作はそれがかなり極端な例だとは思うけど、でも世間の認識自体が極端なんだよね、という気もしている。
こういうマイナス女子がメインに据えられる場合、それ以外の女子はみーんなプラス女子なんだよね。
みんなそれなりに可愛くて、不細工女子を(どころか、自分たち以外の女子を)下に見てる。憐みならまだしも(それもヤだけど、)明らかに侮蔑の目で見てる。
いやいや、いやいやいや、そんなプラスとマイナスハッキリ別れてないし、ほとんどがプラスよりはマイナスの方に自分を考えてる女子だと思うよ!
……と思うのは自分がそうだったからだろうか(爆)。でもなんかね、高校を舞台にした映画、近年では「桐島、部活やめるってよ」とかもそうだったしさ、なんかそういう、極端なプラスかマイナス、しかもなんでそんなにプラスキャラが多いかよ、という違和感があって……。
まあそんなことを言ってると話が進まないから(それにしても進まなすぎだ……)。
しかしね、高岡早紀嬢はちょっとかなり大げさ演技過ぎない?彼女、もっと繊細な演技が出来る人なのに、これはキャラとしての演技プラン?それとも演出??
美しくなって、別人になって、生まれ故郷に復讐のように帰ってくる、その、つまり美女キャラ、わっかりやすく女優帽などかぶって、ヒールをかつかつ言わせて登場。
かつてこの地を逃げるように追われた彼女を冷ややかに切符切って送り出した駅員も、トマトを投げつけた八百屋の同級生も、皆ぽおっと見とれちゃって、彼女だなんて、気づかない。
物腰とか、やりすぎってほどセレブ風で、見ててヒヤヒヤするぐらい、なんていうか、ワザとらしいの。それがね、計算としてのそれって感じじゃなくって、単に、単純にワザとらしくて、見ててモジモジしちゃう(爆)。
それは醜かった時代とのギャップを表してるのかもしれんけど、醜かった時代(という言い方もナンだが)も彼女はやたら高飛車で(まあそれは、美容整形という武器を得たせいでもあるんだけどさ。それにしても……)、実際のキャラとしてはあまり変わってないかも(爆)。
つまり彼女は結局は、破滅の道をたどるゆがんだ人格を形成していたという示し方なのだろうか。それが、理不尽な環境がそうさせたんであり、ゆがんだ人格でも美しくなれば幸福になれる、みたいな含みなのかもしれないけれど……。
そう、美しければ。実はここんところが、原作においてはもちろん、映画だって大いに描こうとしてきたところであったろうと思う。
美容整形のための金を稼ぎたくても、女の武器のセックスさえも、この容貌ではどこもかしこも冷笑と共に門前払いを受ける。
しかし顔を隠してのマゾ風俗に拾われてから、どんなことでもやる彼女に客がつきはじめ、整形によって美しくなってからは高級娼婦にまでのぼりつめる。
ホレこまれた客と結婚をするものの、子供を望まずこっそり避妊ピルを服用していた彼女にアイソをつかした旦那は浮気をして、隠し子を作って別れを告げる。
彼女にとっては、自分のDNAが受け継がれた子供が生まれ出ずることへの恐怖に他ならなかっただろうけれど、当然そんなことは知らないダンナは、自分のDNAがほしくないんだろうと思い込んだ。そらそうだ……。
そうして彼女は故郷に帰る。稼いだ金を元手にオシャレなレストランのオーナーとして。
従業員の可愛い女の子たちが、「絶対に20代後半にしか見えないですよ!」と言うのには、そ、それは言い過ぎだろ……と思う。
ていうか、高岡早紀は年相応に美しいからこその素敵さじゃないの。それともアレかね、この台詞は伏線で、若くて美しいこと、まず若さの前提が重要であることを、この若い女の子二人は、無意識的、いや有意識的かもしれない、そっちかもしれない!に判ってて、しれっとお世辞を言ってただけなのかもしれない。
美しいオーナーの未帆としてここにいる彼女に「あのお客さん、気があるんじゃないんですか」「あなたが目当てかもしれないじゃないの」「まさか!趣味じゃないですもん」「……あなたの趣味じゃないから、私が目当てだというの?」
それまでは大味な演技にヒヤヒヤしていたけれど、この台詞の応酬は震え上がった。若さを盲目的に誇ってる女の子に、氷のように冷たく鉄槌を下す彼女。
その、彼女目当てで来ていたのが、春琴抄のお相手である。
加藤雅也。同級生として過去時間軸を演じている高岡早紀も、彼の友達の遠藤要も彼ら自身なのに、加藤雅也だけ若い頃は若い男の子使ってズルいと一瞬思うが、高岡早紀は特殊メイクモンスターで年齢も何も超越しちゃってるし、遠藤君は彼らよりひとまわりほど若いし、さすがに加藤雅也の妙齢色気で高校生やらすのはムリがあるわなあ。
その前段階の、和子が手編みのマフラーを渡したのを犬の首に巻かれちゃって、こっぴどくフられた同級生、斉藤陽一郎の高校生スタイルも見たかった気がする。彼なら似合いそうだよな。
和子からその復讐として、あらぬセクハラの疑惑を浴びせられて教頭昇格を解かれてしまった哀れなヤツ。
加藤雅也演じる高木は、美しきレストランオーナーの彼女が、かつて自分を失明に陥れようとした和子だとも知らず、すっかりのめりこんでしまう。
和子が高木に恋をしたのにはひとつの純粋物語があって……幼い頃、暴風雨と夜の闇の中、灯台まで一緒に冒険したこと。二人にとっての、お互いが初恋だった。
彼女の妹は、そんな小さい頃は、どんな顔でも可愛いとか思うだの、ヒドいことを言っていた。ヒドイけれども、ある程度真実かもしれないというか……。
あくまで女側からのヘンケンだけど、男性の方が相手の女に対するメンクイ度は高いと思う。
それは恐らく、女の顔かたち、容貌とはこういうもの、という幅が、化粧という文化もあいまって、狭まっているせいではないかと、女の化粧文化を嫌っている(いや、強要されるのがイヤなだけで、美しくなるのは素敵なことだとは思うけれどさ)私なんぞは思うんである。
よく男子は、女はイケメン好きだとか、韓流だジャニーズだって言うけれど、実際の恋愛に関してそれを優先にはしない、よね。
しないからこその幻想の楽しみ。正直、男性の方が、メンクイ、つーか、平均以上を厳しく規定すると思う。女の子、女は、どっちかっつーと、野獣好きだよ(爆)。
だからね、だから、本作の設定の逆バージョンは、成り立たない訳。かつて焦がれるほどに恋した高木君から、もう妻子もある高木君から炎のようにアプローチされて、でも彼は彼女が和子であることは知らず、さぐりを入れても、ぼんやりとした思い出が帰ってくるだけ。
あんなにインパクトのある風貌、インパクトのある事件を起こされたのに、彼にとっては「不細工な女の子だった」程度の印象なのだ。それって、疎まれて排除されるより、キツい、かもしれない。
この小さな町では、和子は出奔した三年後に交通事故死したことになっていて、失明の標的にされた高木さえ、そんなテキトーな噂の標的にされている。
彼女があの和子だと知って、知る前は、どんな過去を持ってても的なスウィートなこと言ってたくせに、知った直後も、それでも大丈夫的な態度だったくせに、いや段々と、観客に判るぐらいに、動揺し始めていた。
そして彼は、ゴメンと部屋を出ていった。バタリと閉められたドアにしつらえられたミラーに、出ていく彼の非情な足元が映る。
そして、シルクのドレスでぼんやりと横たわった、もはやセクシーもなく抜け殻の、未帆、いや和子だけが残された。
翌日彼女は、従業員の女の子にその変わり果てた姿を発見される。
和子の面倒をずっと見てきた風俗店経営のムラジュンによって、その骨が(恐らく)彼の故郷へと運ばれて、エンド。
ムラジュンは変身前と後の両方の彼女の人格、心と深く関わり合った数少ない、いや唯一の人物。
だからこそ彼が、金もたまったから老親のためにも田舎に帰ると、なんだったら一緒に来ないかと、和子のもとを訪ねてきた時、これが彼女の幸せになれる最初で最後のチャンスだと、後から思い返してもそう思うんだけど。
でも、和子が元の和子のまま、モンスターのままなら彼だってそうは言いださなかった、だろう。それが容貌のせいだけとは思いたくないけど、それも大いに関係していた、だろう。
この設定よりは軽い、太りメイクってのは、あるじゃない。最近の新作でも聞くしさ。あれもね、なんかイラッときていたのが、その理由が、本作で判った、と、思った。
太りメイクは本作よりずっと簡単に出来る。つまり、簡単に、“私はホントはこういう人間じゃない”“これは言ってしまえば、ギャグ”“こうなったらオシマイ”みたいなさ、もう、なんか、いたたまれないのよ。
どんなにリアルにやったって、それこそコントの肉襦袢ぐらいのわざとらしさよ。なんでこんなに、女の、女の子の価値観は狭められるのか。
しかもね、本作の彼女は、和子時代から、太ってはいない。スタイルは高岡早紀のスレンダーな手足のままさ。
そうだ、豊胸施術もしたっぽい台詞もあったけど、重要事項は顔に集中してたよね。
“出来上がった高岡早紀”は、そのおっぱいは、昔々、彼女が脱いでくれた時があまりに若かったから、巨乳すぎたからなのか。
比すると現在のサイズと形が完璧すぎて、おっぱいがその美貌の完璧さよりもウソっぽくシリコンぽく感じたのは、なんて意味ない誤解要素……。
実は一番イラッとしたのは、こうした判りやすい造形よりも、「未帆さん、絶対20代後半にしか見えないですよ」というあの台詞だった。
つまり女の限界値、男性にとっての数値は、そこなのだよ。
アホかーっ!今や平均寿命80超え、どころか、90、100も珍しくない時代に、そこに価値観おいたら、もう死ねって言ってるようなもんだろ!
……いいよね、男は、精子の生存率、卵子より全然高いし長いもん。そりゃ強気にもなるさ(……なんか投げやりにもほどがあるな……)。★★☆☆☆