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「き」


2012年鑑賞作品

キクとイサム
1959年 117分 日本 モノクロ
監督:今井正 脚本:水木洋子
撮影:中尾駿一郎 音楽:大木正夫
出演:高橋エミ子 奥の山ジョージ 北林谷榮 滝沢修 宮口精二 東野英治郎 朝比奈愛子 清村耕次 織田政雄 荒木道子 三島雅夫 賀原夏子 長岡輝子 三國連太郎 高原駿雄 中村是好 殿山泰司 多々良純 三井弘次 岸輝子 松本克平


2012/2/23/木 劇場(銀座シネパトス/今井正監督特集)
なんかこのタイトルってよく聞くもんで、しかしどういう映画かなんていうのは知らず、今井正監督だというのも知らず。
なんかその、よく聞く場面ってのが教育的、文化的な場所や状況でだったような気がしていたから、文化映画的なものなのかなあ、と思っていた。

まあそうと言えなくもないけど、これがそうした場所で多く取り上げられるのも判るけど、この二人のキクとイサムのまぶしいぐらいのハツラツとしたチャーミングにすっかり釘付けになってしまって、なんか単純に、ヒドイ!カワイソウ!とか思ってしまったりして。
そしてふと我に返り、そんな単純な問題じゃないから、この映画が凄いんだし、時代を超えてもエポックメイキングな作品として、傑作として語られるんじゃないの、とも思うんだけど、でもこの二人が、二人の子供が、こんなにも魅力的じゃなかったら、やはりこの作品は残っていかなかっただろうとも思った。

戦争がらみの映画を作っているイメージも強い今井正監督が、こういう人権的社会派映画を作ってるんだ、と一瞬思ったが、考えてみればこれほどメッチャ戦争がらみの映画もないもんなのだった。
キクとイサムはハーフ、当時で言えば混血児、しかも黒色人種のお父さんがタネ(この言葉は劇中何度も使われて、しまいにはなんだか可笑しくなる)で、同級生の子供たちの悪口はクロンボ、クロンボと残酷で、子供たちのみならず、街中の大人たちもひそひそと同様のことをささやく。
でも、ささやかれるのは街中の、である。キクとイサムは合図磐梯山の山中の村で育って、言葉もメッチャズーズー弁だし、そこら辺の子供たちとわけへだてなく育ち、ハツラツと遊んでいる。

小学六年生のキクは、同じ年頃の女の子たちにくらべて人一倍大きく、しっかりとふくらんでいる乳房にもどうしても目が行ってしまう。
お腹は子供らしくせりだしているけれど、身体が大きい(というか、ふくよか)なために、かなりどすこいな印象で、胸元のボタンはおっぱいのふくらみでハジケそうなんだもの。
それを思えば、同級生の悪ガキたちがキクにちょっかいを出すのは、やっぱり、好きな子をいじめる感覚だったのかもしれないなあ。

ただ……クロンボと言い出してしまったらもうダメ。でもね。最初はそんな言葉は彼らの中にはなかった。知らなかった。キクとイサムはいつか白くなると思い込んでいるようなところがあった。
でもまず、イサムの方が友達からクロンボと言われた。「オラ、クロンボでねぇど!」たちまちケンカになった。
叱られた相手の子供は「だってオラ、本当のことを言っただけだべ」あの、正義の瞳の勝ち誇った顔!なんて憎たらしいの、しかも何度もこの台詞を繰り返す残酷さ。

教師は答えに窮してしまう。教師たちは、キクとイサムをあくまで同じ日本人の子供として遇してきたであろうことは、断片的に示される学校の様子や、キクに諄々と諭す、厳しいけれど理解ある女性教師の様から見て取れる。
そうなの、この村の中の大人たちは、キクとイサムを近くに見ている大人たちは、彼らは他の子供たちと同じ、ここで生まれ育ったいい子達だと思ってるし、でも彼らがそのままその境遇でいられないことも知っているし……。

と、こんな具合に筋を言ってると取りこぼしちゃう。キクとイサムと同じぐらい、いやひょっとしたらそれ以上に魅力的なのが、彼らを育て上げるおばあちゃん、北林谷榮である。
まさに、リアルおばあちゃん、あの完璧な腰の曲がり具合、皺だらけで歯欠けの顔、聞き取れないほどの年季の入ったズーズー弁や、腰の痛そうな様子なんかマジすぎて、どっかのおばあちゃんをホントに連れてきたんじゃないかと思うほどのリアルさ。

結構最近「喜劇 にっぽんのお婆ぁちゃん」で本作と割と同じぐらいの時期の彼女を見ていたから、ああ、そうだそうだとは思ったけど、かの作品よりも更に腰は曲がってるし、めちゃめちゃ田舎のおばあちゃんだし、北林谷榮恐るべし!
実際、今のベテランの女優さんで、こんなおばあちゃんやれる人、いないよなあ……皆とにかく若く、美魔女(爆)でいることに腐心してるんだもん。今のおばあちゃんは腰が曲がってるなんてこと自体ないしなあ……。
ていうか、当時彼女、49歳!うそうそ、うっそお!……まさに、今の女優さんでこんなのやれる人、いない!!!

この会津地方の方言があまりにしっかとしているので、特に北林谷榮のおばあちゃんの方言がプロフェッショナル過ぎて、かなりの確率で聞き取れないウラミもあるんだけどさ(爆)。
でもそれこそが、いいのかもしれない。何くれと世話を焼いてくれる隣の新婚夫婦とのやり取りなんて、ライブ感たっぷりだもん。

そう、もう順を追うどころじゃなく先走って言っちゃうけど(爆)、キクとイサムを彼らのルーツの一方であるアメリカに養子縁組させるべきではないか、という話が出る一つの山場。
おばあちゃんはとにかく他人から言われるままでしおれっきりで、新婚夫婦の妻の方はこんな貧しい村にいるより、裕福な家庭に入って大学まで出してもらえればいいわ、と言い、夫の方は、アメリカの方が黒人に対する差別はひどいんだ、ここで生まれ育ったのに、裕福なばかりが幸せと言えるのか、と憤る。
他人のことで、新婚夫婦はケンアクになっちゃうもんだから、おばあちゃんも慌てちゃうの。

どちらの言うこともナルホドと思うんだけど、この旦那さん、こんな山中にいて結構知識人な雰囲気なんだよね。よく新聞を読んでる感じがするし(それを示されるのは、野菜かなんかを包んでいた新聞紙の、そんな人種差別の記事に眉を曇らせるシーンだけなんだけど)。
奥さんの言うことも判るけど、確かにちょっと浅はかで、奥さんはきっといつもこんな風に、だんなさんから理詰めで言われてむくれているんじゃないかなあという雰囲気もあり、当事者を置き去りにした状態でケンアクになってしまうというのがさ。

でもね……そもそもここで繰り返されるタネという言葉。タネは向こうなんだから、引き取ってもらうべきだ、みたいなね。
産褥かなにかで死んでしまったらしい二人の母親は(すみません、このあたり眠くてうろ覚えで……おばあちゃんが「娘はくたばっちまったんです」と言った衝撃しか覚えてない(爆))、子供たちの父親のことを喋らなかったのか、それとも戦後のウヤムヤの中、国に帰ってしまった父親を探す手立てを失ってしまったのか……。
でも、キクとイサムはこの地で生まれ育ったのだし、あんな見事なズーズー弁で、英語なんで喋れる訳ないし、イサムがアメリカの富裕夫婦にもらわれていくことが決まった時、彼が直面するその大変さを考えてしまって……。

そう、ちょっと脱線したけど、タネね。もう、とにかく、タネなの。
あまりにみんながタネタネ言うから、あの新婚ダンナが、かぼちゃやなんかじゃないんだから……とたしなめる。
でも村人たちの言い様は、産んだ母親が日本人であることよりも、タネの父親の方が重要視されているんである。
なんか、産むために身体を貸したぐらいな感覚ですらあるのが、コワすぎて。家父長制度に異国人が入ると、こうなっちゃうのか、って。

まあ確かに、同じような外見の中に異国の血が、しかも黒色人種というインパクトが入ってしまえばそう言いたくなるのも判る気もするけど、それが図らずも女を、あるいは日本人の血を、軽んじていることに彼らが気づいていないらしいというのがなんとも皮肉である。
今だってガイコクジンを違う目で見てしまうぐらいの日本人の、同じ群れの中に収まりたがる根強い国民性は、当時だったらさぞかし、といった感じであり……つまりはかつての敵国のデッカイクロンボと通じたってことでしょ?みたいなさ。

生まれた子供は日本人ではない、ひょっとしたらアメリカ人ですらない、宇宙人に対するような目をしてじろじろと見る。
彼らが秋祭りに街に出かけると、熊女の見世物よりも、キクが好奇の目にさらされる。
日本語喋れるんだねえ、なんて言うのはまだいい方で、後々には、彼らがクロンボだからいたずらに騒ぎを起こすんだ、みたいな方向にまで行ってしまう。

更に皮肉なのはね、これは皮肉と言っていいのかどうか……キクたちは、特にヒロインであるキクは、今から思えば没個性で排他的な、日本人の同じ群れの中に、埋没したがっている、ってことなのよ。
外見は勿論、特にキクは身体能力もバツグンで、ドッチボールで次々にか弱い男子をやっつける場面なんて、その巨体(ゴメン!)がバネのように躍動する様は見ていてホレボレするしさ、ああ、やっぱり黒人さんは違うなあ、なんて、微妙に禁句めいたことも思っちゃう訳。

それだけでなく、これもキクがなんだけど、芝居に熱中しちゃってさ、見事にその模倣をやってのけるのよ。
口上は朗々とした旅芝居、しかしその動きはタップダンスを思わせる軽やかな躍動感。ろうたけた女形も座長もその女将さんも、「やっぱり、向こうの人がやると違うもんだねえ」と感心しきり。

……観客である私も、正直、そう思っちゃうのよ。これはキク、あるいはキクを演じる高橋恵美子のパーソナルな魅力なんだと思いながら、やっぱり黒人さんのエンタテインメントの血なんだとか、思っちゃうの。
それが差別的感覚なのかは、そう言ってしまうのは、難しいじゃない。キクのヒマワリのような笑顔とはじける躍動感は、彼女自身のチャームも勿論だけど、やっぱりやっぱり……一般的日本人にはないもの、なんだもの。

でもキクは英語なんか喋れる訳もない、ズーズー弁の土地っ子で、土地っ子なのに、ハブられて、こんな素敵な個性があるのに、それが彼女が生きていくことにマイナスにしか作用しない。
ここにいたいのに、弟とおばあちゃんと一緒に暮らし続けたいのに、弟はもらわれていって、自分は売れ残りと言われて、それが、その“個性”のせいだなんて。

弟のイサムはね、ことの重大さをイマイチ判らないまま、もらわれていくのね。
ことの重大さ。そう、向こうの子になってしまうこと、もう帰って来れないこと。
豊かな土地アメリカに行って、大学にまで行けるんだ、ということだけが彼の頭に入って、オラ行きてえ、と無邪気に笑って、漫画を読みながらゴロンと寝転がる。ぜんっぜん、判ってない。

彼がその事態を察知するのは、ツメエリ着せられて、同じような境遇のもらわれっこたちが乗り込んでる列車に足を踏み入れてからなの。お、遅い!!
行きたくねえ、行きたくねえ!と暴れて降りようとするイサム、泣きながら列車を追いかけるキク。
辛いよ、辛いよう、この場面。他にもいくらでも、差別的な冷たい視線を浴びる彼らに幾度となくヒヤリとし、あるいは怒りでカッと身体が熱くなったのに、こんな、いわばベタな別れの場面がいちばん、辛いなんて。

つまり、つまりこれが……彼らが混血児(つくづくイな言い方だよね、でもどう言ってもなんか、イヤだけど……)であるゆえに課せられる理不尽なことで……。
だってフツーにおばあちゃんと一緒に暮らしてるだけなのに、混血児だから、タネは向こうだから(これも先述したように、ホント、ヤだ)、責任を取ってもらうべきだ、後々彼らが苦労するのは目に見えているから(というのが言い訳なのはアリアリ。自分たちに災難が降りかかるのを恐れているのだ)、これは親心だ、と、さあ。

しまいには彼らの行く末を占う占い師まで出してくる始末で、手っ取り早くメイワクのかからない尼寺に行けとかさあ。
新婚ダンナがジョークまじりに、キクが念仏唱えてもありがたがれない、とか言うと、そもそもお釈迦様はインドからきたもんだ、それならキクにもつながってる、髪形も似てるし、って。
おいおいおいおい、確かにキクはくるくる天パだけど、キクのルーツの半分は新しい国、アメリカで、インドとは全然違うじゃん!
な、なんかこれって、ヒドすぎる。日本のルーツもアメリカのルーツも軽んじられて、アイデンティティが否定されて。……この時のキクにはそこまで判ってなかったのかもしれないけど、なんかもう、しみじみキクが可哀想で。

それが最も盛り上がった(というのもアレだが)のは、イサムがもらわれていき、一人になったキクを不憫に思ったおばあちゃんが、芝居などに行かせてすっかりとりこになり、一座に芸を見せて、ノリで酒まで飲んじゃってさ。
そのキクに悪ガキたちが「売れ残り!」と揶揄したもんだから、預かっていた近所の赤ちゃんを野菜の行商の軽トラの荷台において、キクは悪ガキたちを追いかけて行っちゃったの。

もう、この時の、ああー!!!というヒヤヒヤときたら、なかったよ。だってさだってさ、当然のごとく、トラックは行っちゃうしさ!
悪ガキたちととっくみあいになっている場面に、これも先述した、厳しそうだけれど実はとても生徒思いの女性教師が割って入る。
「いいお母さんになりたい、でもオラ、貰い手がないからナ」と言うキクに、それならまず、今は女一人でも生きていけるようにならなくちゃ、と諭す場面はとてもイイんだけど、なんたって赤ちゃんは一時行方不明になっちゃうわけだし……。

で、先述のように、わざとやったんだ、タチが悪いと言われておまわりさんまで来てキクを詰問したりして。
更にヒドいことには、混血児が問題を起こしたと聞いて新聞記者が来て、協力してくださいヨと(イヤな言い方!)ムリヤリ写真を撮ろうとまでして、キクもおばあちゃんも激昂して、あわやこの記者たちをぶっ殺そうなんて危機にまで(汗)。

そもそもこんなこじれちゃったのは、キクはね、素直に謝れないの。
今までの思いもあってだろうと思う。印象的なのはね、この時しょんぼりしたキクを、隣の新婚ダンナが招き入れてくれるのね。
野菜を包んだ新聞紙に、アメリカの人種差別の記事を読んで、しんみりした顔してる。
キクが奥さんの鏡台に置かれたクリームに女の子らしく興奮して、白塗りに塗りたくる。でも、色の黒いキクにはまるで滑稽なの……。

ラストにはね、私、救われたような、やるせないような、複雑な気分になってしまった。
ラストシーン自体は、とても爽快なのだ。この村に残ること、この村で、将来おばあちゃんがいなくなっても畑を耕して、蚕を育てて、立派な百姓として生きていく。
その手ほどきをおばあちゃんから習うために、学校も休んで、誇らしげにかごを背負って村道を行く。
それは、豊かなアメリカに渡って、大学も出られる、という希望を持ちながら、行きたくないよう!と泣き叫んだイサムとあまりにも対照的であるがゆえに、爽快、ではあるんだけど……。
でも、どちらがいいのかなんて、あの時新婚夫婦が若々しく議論したように、判らない。それこそ当事者が選択し、何より、それを理解し、応援してくれる周囲がいなければ、成立しない。

キクはこの直前、自殺未遂してるのだもの……。衝撃、だった。確かにその直前のエピソードはヒドかった。混血児というだけで犯罪者扱いだったもの。
これからも定期的に見にくるから、というおまわりさんの台詞は、それを直裁に語ってた。
もう尼寺に行くしかない、とおばあちゃんに説かれて、その夜、キクは首をくくろうとした。
朝方、寝床にキクの姿がないことに気づいたおばあちゃんがイヤな予感に駆られて探しに行くと、納屋の手前に赤い櫛が落ちていて……。

この櫛ね、街に出た時に、おばあちゃんからアイスキャンデーを買うためにもらったおこずかいで、安売り雑貨の行商から買ったものでね、今思えば、地元以外ではこの行商の男だけがキクに好奇の目線を向けなかったんだよなあ。
あっさりと、それも10円、安いだろう、お買い得だよ、と気軽な笑顔でキクに薦めるだけだった。
行商の男、だからだろうか。色んな土地に行くから、珍しくもないから。
キクはこの時、気づいてなかったかもしれないけど、実はこのふとした存在が、とても救いだったのかもしれない。

でも、そう、キクはそんなことは、気づいてないの。だって、首吊り自殺未遂、なんだもん!
でも納屋にあった縄は古くて、キクはあの通りの大きな身体だから、縄が切れちゃって、呆然と座りこんでる。
おばあちゃんが、事態を察して、バカタレ、と孫を抱きしめる。と、「キク、足を怪我したのか……?」違う、キクは大人に、大人の女になったのだ。
キクを百姓として育てることを決意し、翌朝、赤飯を弁当箱に詰めて出かけるおばあちゃんとキク。
キクはすれ違った悪ガキに得意満面に胸をそらして、オラは、お年頃だからな、もうお前らにはかまってらんねえから、と。
きょとんとする悪ガキたち。キクの得意げな笑顔と共に思わず笑っちゃう素敵なラストだけど、そう、先述のように、やっぱり色々考えちゃうよ、ね。でも、キクが、演じた恵美子嬢がとても素敵だからさ!

ほおんと、このキクとイサムなんだよね。どっから見つけたの、と思うが、思えばそういう落とし子的な子供たちは日本中にいたのだろうし……。
彼らは東京と横浜の素人の子供たちで、この映画に当たって今井監督によって訓練を受けたという。へー!てっきり児童劇団とかにいるそれなりの子かと思った!
あ、でも逆か、この当時の子役芝居はもっとがっつりベタで、彼らはね、今で言うなら天才子役、めっちゃナチュラルでハツラツでチャーミングなんだもの!
本当に、魅せられてしまった。キクを演じた高橋恵美子氏は後に歌手になり、今も現役だという。あのエンタテイナーぶりならばむべなるかな、一度聴いてみたい。

彼らをがっちり受け止めるおばあちゃんの北林谷榮のプロフェッショナルとあいまって、これは確かに、傑作、なのだっ。★★★★★


聴こえてる、ふりをしただけ
2012年 99分 日本 カラー
監督:今泉かおり 脚本:今泉かおり
撮影:岩永洋 音楽:前村晴奈
出演:野中はな 郷田芽瑠 杉木隆幸 越中亜希 矢島康美 唐戸優香里 工藤睦子 木村あづき 山口しおり 芳之内優花 橋野純平 松永明日香 諸田真実

2012/9/13/木 劇場(渋谷UPLINK X)
素敵だった。ああ良かった、間に合って良かった。あの今泉監督の奥様が監督!と知り、公開終了間際に慌てて駆けつけた。
尋常じゃなく才気の光る会話劇を、おかしく切なく撮り上げるあの今泉監督の奥様までもが、映画を撮るお方とは!親子で監督同士というのは聞いたことがあるにしても、夫婦で監督なんて聞いたことない!
精神科の看護師さんであるという経歴も興味シンシンだが、果たしてどんな作品を……と思ったら、意外というか当然というべきか、今泉監督とはまた全く違った才能を持ち主で、くうぅ、と唸ってしまう。

時にヤカマシいほどの会話劇の軽妙さが魅力のひとつである夫君の作品に反して、決して芝居経験が豊かとは思えないみずみずしい子供たちを信頼した静かな心理描写に唸る。今泉監督にお子がいるのは耳にしていたけれど、もうお二人もいらっしゃるのか。
子供の有無を語る場合、殊更に母親にばかり重きを置く風潮はイヤだけれど、やっぱりなんだか、母親の目線は違う気がする。いやそれは、それこそ、看護師さんの経歴もモノを言うのだろうか。
と思ったら、彼女自身の子供時代の記憶を元にしたものなのだという!それはサチ自身が彼女なの?それとも……。

そんなことは、どうでもいいことなのだろう。これはあくまでフィクションの映画なのだし。でもフィクションの映画に、魂が宿る感触を得た時の幸福は、映画ファンにとっての最高の醍醐味と思う。
子供映画は、容易には秀作は作れない。それは、結局はそれを大人が作っているからなんだよね。子供が本当はどう思っているのか、いや、思っている、なんて明確なものがまた固まらない、あやふやな不安の中で子供時代を過ごしていたことを、こういう秀作に出会うと一気に時空を超えて思い出す。

何を考えているのか判らないとか、ちゃんと意見を言いなさいとか、そんなことをカンタンに言う大人に涙をこぼすことしか出来なかった子供時代。
そんな大人になりたくなかった筈なのに、いや、そういう確たる思考さえ、ふやふやと固まりきらなかったからか、私はまんまとそういう大人になってしまった。

勿論私は、サチのように母親を突然亡くすなんて不幸はなかったし、充分恵まれた家族環境と友達たちに恵まれていたと思う。でもそれでも、多かれ少なかれ、子供時代のこのあやふやな不安は、皆がそうだったと思い出すものだと思う。
母親を亡くしたということも勿論あるけれど、うつむき気味で着ているものも地味で、どこか引っ込み思案な感じのサチは、なあんかちょっと、私の子供時代を思わせなくも、ないんである。
明るいクラスメイトに、若干の同情をもって接されるところなんか、それこそ当時のあやふやな不安の中に、友達に対する絶対の信頼を持てなかった自分の姿を見る思いがする。

……なんてことを言ったら、サチに失礼かもしれない。でもね、サチを取り巻く友達たちが、いわゆるグループのひとかたまりであること。
そのリーダー的存在の女の子が頭ひとつ背が高くて、つまりスタイルが良くて、ちょっと垢抜けててさ、なんか髪とかも控えめに色やシャギー入れてる感じ。
サチのぼてっと顔を隠す、ただ伸びてしまったみたいな黒髪と、あくまで控えめになんだけど、対照的なんだよね。
この物語の尺を充分に使って、彼女をはじめとしたグループ女子との確執があり、最後には双方勇気を振り絞って(これが、いいの!)素晴らしい和解にたどり着くんだけど、とにかく、なんか、この感じ、判る、判ると思ってしまった。

サチは突然母親を亡くしてしまったことで、まあある意味判りやすい形で、このグループ女子たちに同情を得ることになる。そこに、転入生がやってきて、彼女たちの危うい平穏を引っかき回すことになるんである。
この図式は、フィクション映画と思えばかなりありがちなんだけど、先述したように子供たちを信頼した静謐な作りを通していくから、そんな感じは全然、しないのね。

でも、冒頭はちょっとヒヤリとしたかなあ。時間軸を少しずらして、物語の中盤、折り返し地点あたりの場面から始まる。
キーマンとなる、転入生のノンちゃんの独特の高い抑揚のある喋り方と幼さが、彼女が改めて登場してくれば、恐らく知的障害があるからだと判るんだけれど、冒頭ではまるで突然で、演技のヘタな子のように思えて(爆)ヒヤヒヤするんである。
でもそれも、監督の計算のうちだったのかもしれない。障害の有無というカテゴライズはそれこそ大人の線引きによるもので、グループ女子のあの垢抜けた子がまず真っ先に、「本当はひまわり学級なんでしょ」と投げつける。

でもそれは、サチがノンちゃんと仲良くすることでプライドが傷つけられたのかなあ、とも思う。サチだって、あるいは他のクラスメイトたちだって、先生からわざわざ言われなくてもノンちゃんがちょっと違うことは気づいてた。
それはでも、ちょっと幼い感じがある程度のことで、時折驚くほどスパッと大人の理解を示したりして、サチの心を大きく揺さぶるのだが……。

おっと、ノンちゃんのことに気をとられて、肝心の主人公はサチであるのよ。そう、いきなりお母さんが死んでしまう。呆然とするばかりのサチに、近所に住んでいる親戚のおばさんが「急だったものね。でもお母さんはいつも見守っているから」とサチを抱き寄せる。
食事を作りに来てくれたりと、何くれとなく心配してくれるこのおばさんは確かにイイ人なんだけれど、コソコソとした噂話は子供には聞こえていないとでも本気で思っているのか、思わず“偽善者”という単語が観客の頭によぎる。
でもそれも、観客が大人だから、なんである。子供のサチには、そのおばさんのコソコソ話がふやふやとした不安におおわれていても、そういう確たる単語に当てはめることが出来ないだろうと思う。
だから、不安は果てしなくむくむくと子供の小さな身体をむしばみ、息も出来なくしていくのだよね。

サチは図書館で本を借りる場面もあるし、キャラ的に言葉やあらゆることを知ってそうな感じは、あるんだよね。
でも兄弟もいなくて、友達同士の間でもキャピキャピと言葉を発するタイプではなさそうだし、自分のふやふやを、言葉という、まあ借り物の道具ではあるにしても、それに託せればある程度安心できる手法も、なかなか出来ないままな感じなのだ。
その点、ノンちゃんは確かに幼さが前面に出ているけれど、まっすぐに自分の思いを口に出す。だからこそサチの心をかき乱し、クライマックスでは衝突も生まれるんだけれど、結果的には全くウソのないノンちゃんをサチはきっと……尊敬したんだよね。認めたとか、それを超えたんだよね、と思う。

大人たちがね、ダメなの、特に判りやすく、父親がダメ。もう、あっという間に、ダメになってしまう。
保っていたのは一瞬だった。手伝いに来てくれた親戚のおばさんに、すみません、ありがとうございます、と気を使っていられたのも、おしょうゆを探している間に目玉焼きを焦がしてしまうなんていうのはお約束のご愛嬌かと思ったけれど、実は重要な場面だったのかもしれない。
いまだに男は家事でつまづくともうダメなのかもしれない。経済力なんて、クソほどあてにもならない。

お母さんの結婚指輪に赤いひもを通して、サチに持たせた。一見してそれは単なるお守りのように見えたけれど、父親はサチがそれを必ず首に下げて学校に行くこと、帰ってきたらお骨と遺影のそばに置くことを強いていた。
強いていた、という強い表現を使ってしまうのは、彼があっという間に会社に行かなくなって、スウェット上下の無精ひげで、表情もなくしてしまって、親戚のおばさんも遠ざけて、お骨と遺影の部屋から離れなくなってしまうから。

フローリングの、一見清潔そうな部屋の隅に、ほこりと髪の毛が吹き寄せられているのにサチが足元を見て気づくシーンと、そしてこれはずっと最初から観客が気になっていた、ダイニングテーブルの椅子の背もたれにずっと置かれたままのエプロン。
おばさんは手持ちのエプロンを持ってきて、椅子にかけられたエプロンにはまるで気づかないようにしてるけど、気づいていない訳がない。
ずっとずっと置かれたままのエプロンは、いかにお母さんが急に亡くなってしまったかも物語っていて胸が痛いけれど、サチが控えめながらもそのエプロンに視線を送っているのが判って、キッチンが映るたびにドキドキしてしまう。

学校では、怖い話が流行っている。怖い話を集めた本やテレビ番組。小学校ぐらいって、いつの時代でもそうなのかな、私も凄く覚えがある。怖い話の本ののっぺらぼうの挿絵が怖くて怖くて、ニコニコ笑顔を描き入れたりした覚えがある(笑)。
でも「まだそんなの信じてるの。もう5年生だよ」と言ったのは確か、あの、グループの中でもちょいと垢抜けた女の子だった。お母さんを亡くしたサチに幽霊の話だの調理実習の話だの、気がきかないよ、と友達をこっそりいさめたのもこの子。そんな場面をサチは目にしてしまう。

もちろん、他の子達だって、そしてサチだって、幽霊話がいわゆるエンタメ、フィクションだってことぐらい、判ってる。いや、“もう五年生”というのは微妙なところで、判ってても怖い、だから面白い、というあたりであろうかと思う。そんなことを殊更に言い立てるそのリーダー格の子こそ、子供っぽいのかもしれないと思う。
そこに、純粋に、純真にオバケを怖がるノンちゃんがやってきて、もう初日から一人でトイレに行くのが怖くておしっこもらすなんて場面で強烈に印象付ける。
サチが彼女に手を差し伸べたのは、優しい心の女の子というのもあっただろうけれど、一人遠ざけられているノンちゃんが、気を使われているという意味では同じく遠ざけられている自分と重なったのかなあ、やっぱり。

だからこそ、純粋な友情心じゃないからこそ、後にねじれや亀裂が入るんだけれど、でもノンちゃんはいつでもまっすぐだからさ……。
あのね、凄く気になった点があったのだ。これはきっと、勿論、絶対、確信的にやっていたことだと思うんだけど……サチの母親の遺影、そしてノンちゃんのお母さん、双方共に、その顔がハッキリと映し出されないこと。
最終的には、最後の最後には、サチのお母さんの遺影は、そのふくよかでにこやかな優しい笑顔はスクリーンにちゃんと映し出されるけれど、それまではなんだか遠く、ぼんやりとしているし、ノンちゃんのお母さんは毎日娘を迎えに来るのに、いつも遠く小さくて、サチの目の前にくるシーンが一瞬現われても、その顔は見えないのだ。
何かそれは、それこそおばけのようでふとゾッと背中をなでられるような気持ちもするけれど、でも、それでも、サチはずっと、お母さんに会いたかった。

深夜12時に合わせ鏡をするとオバケが映る、オバケってだけでそれがお母さんかどうかなんて判らないのに、彼女はそれを実行した。首から形見の指輪をぶらさげて。
お骨の前から指輪が消えていることに気づいたお父さんは「お母さんが帰ってきた!」と騒ぎ、首から指輪をさげたサチに止められて娘を怒鳴りつける。
あまりにも哀しいシーンだけれど、精神がおかしくなってしまったお父さんも、サチと同じ気持ちであることを思うと責められない。その後、お父さんは完全におかしくなってしまって、入院してしまう。娘一人、守れずに。

そう、そう、そうなの。お母さんたちは顔が見えないし、お父さんは狂っちゃうし、たったひとり寒々とした家に残されるサチ。
世話になってる親戚のおばさんに気を使って、今日は私が夕食を作ります、とけなげ。サバなんか焼いてさ、焼き音に幾度もグリルを気にする様が泣ける。
実に美味しそうにジュワジュワに焼きあがったのに、サバなんて、絶対お父さんの好物だから焼いたんだろうに、サバを置くような皿じゃない、洋皿なあたりも泣けるのに、すっかりボケラッタなお父さん、汚く身をつつくばかりで、娘の気持ちなんか汲む余裕、ゼロなんである。
美味しそうなのに、なんてもったいないの、サバ大好き、私が食べたげるよ、もうっ!!

お母さんが大事にしていたであろう植木は、お父さんが意地になってびたびたに水をやったことが恐らく悪かったのだろう、ことごとく枯れてしまった。
でも「枯れてもまたつぼみをつけるのもあるよ」と教えてくれたのがノンちゃんだったのだ。誰もが冷ややかに、バカな子だとさげすむノンちゃんは、でも植物に詳しくて、愛しそうに愛でていて、にぎやかな輪が今は辛そうだったサチも彼女といる時には、安らいだ表情に見えた。

ノンちゃんはウソやおべっかや、気を使うなんていう、子供は覚えなくていい大人の余計なワザなんて知る由もないまっすぐな子だから、オバケでもいいからお母さんに会いたいと思ってるサチに、「オバケはいない」と言っちゃう。
しかもそれが筋が通ってて、それまではノンちゃんもオバケを怖がっていたのに、授業で、人間の感情は全て脳が命令している。心ではなくて。だから脳が死んだら全てがなくなる、と解釈すると、すっきり解放されちゃうのね。
これって、凄いと思う。つまりノンちゃんは、バカでも頭が悪いんでもなく、自分が納得したことにはぶれずに確信が持てる子、人間として完璧な理想系、なんだよね。

ノンちゃんはサチが母親を亡くしたばかりだと知って「かわいそうだね」という気持ちはちゃんと持っているけれど、そこからグループ女子がするように“気をつかって”言動を控えるようなことはしない。それがサチを傷つけることもあってひと悶着あるけど、でもノンちゃんはサチを遠ざけたことは一度たりとも、ないのだ。
そしてその間、大人はまったく、役に立たない。お母さんの形見の指輪を学校に持ってきていることを告げ口され、担任教師がサチと話をする場面、誤解がとけて、担任が口にするのは親戚の叔母さんと同じ台詞「お母さん、見守ってくれてるよ」
「それならなんでこんな意地悪な告げ口されるんですか」教師は、絶句してしまう。

魂、見守ってくれてる、口から方便とは思いたくない。ノンちゃんみたいに、すっぱりと、死んだらオワリよ、と言えない。
いや、その“方便”が必要な時はある。自殺防止とかね……結局はどっちも方便なのか、子供に、どっちが真実なのかと問われて、いつからそれを言えなくなったのか。言えなくなった時が、大人の分岐点なのか。

サチもね、言えなくなりかけてた、それが、彼女が大人になった、ということだったのかも、しれなかった。
タイトルの「聴こえてる、ふりをしただけ」というのが、何に対してなのか、何かを聴きたかったのか、それとも聴きたくなかったのか、ずっと考え続けていたけれど……判りそうで……判ったら怖い気がした、なんていうのは、言い訳かな、単に、判らなかっただけかもしれない。
ノンちゃんがサチについてきてもらったトイレから、サチに一生懸命話しかけてるシーンがそうかなとも思ったけど、そうじゃないかもしれない。
サチに泣きながら謝って、サチが川に投げ捨てたお母さんの形見の指輪を差し出す友達に、何も言わずに手を出そうかどうしようかみたいな風情のサチの描写がちょっと怖くて、そのことを指していたらどうしようなんても思ったけれど……。

とにかく子供時代のモヤモヤ、フヤフヤ、モワモワとした固まらなさは凄まじくて、そのことを、その記憶を、赤裸々に思い出させた。
言葉、ボキャブラリー、それが人間の、文明というものならば、それはいいことなのだろうけれど、いいことなのだろうか。サチのような立場になったら、大人なら乗り越えられるのならば、それはそんな、二次元のかりそめの力が作用しているだけなのにさ。
今、私は、結構トンでもない年の大人になって、子供時代より乗り越えられている“大人”であるのだとしたら、それは、言葉があるからだ。
そしてそれはあまりにもはかなく、だけど判りやすく明確だから頼りやすく、サチのお父さんが最初しっかりしていたのに、カンタンに崩れたのが大人だから判るのだ。

サチは大人になった。だけどそれは、大人を見て大人になったんじゃない。
突然死んでしまった母親、周りの大人、皆ぼやけて、“言葉”という、便利だけど何も解決出来ないツールで、子供を、いわば軽く見て、懐柔しようとしている。
言っちゃえば、政治家の国民に対する態度も同じだナ、なんて言っちゃうとまた展開が変わってくるから、この辺でやめておこう。 ★★★★☆


傷跡
2011年 45分 日本 カラー
監督:冨樫森 脚本:五十嵐愛
撮影:音楽:
出演: 梨乃 牧野愛 吉田俊大

2012/3/29/木 劇場(新宿K'scinema)
映画人を育てる企画ということへの興味はさほどなく、ただただ富樫監督の作品!ということに心惹かれ観に行く。心から新作を待ち望んでいる監督さんの一人だけど、寡作の方に入るよね、なかなか……。今回は中篇ということで、なーんだと一瞬思ったが、思ったが!

確かにこれは、富樫作品、その演出の手腕としての素晴らしさもあるだろうが、まさにこの企画、それが成功した証だろうと思う。
中篇だから、複雑な話ではない。10数年ぶりに故郷に帰ってきた女の子の話。女の子、という年でもないか、もう20代後半から30ぐらいにかけての感じの年頃。
でも女の子、と言ってしまうのは、彼女が中学時代に受けたいじめの記憶、そこから軌道修正できないまま来たことに苦しみ続けているから。
彼女の心情を中心に深く掘り下げた脚本の素晴らしさが勿論、あるだろうし、正直聞いたことのない名前ばかりの役者さんたち、メイン以外はそれこそ素人さんと思しき彼らの芝居がしんしんと、時に熱がこもり、素晴らしいのね。

ふっと、この間観た「生きてるものはいないのか」を思い出してしまう。全然関係ないけど。
本作が映画ワークショップによる作品なら、「生きてる……」は映画制作を学ぶ学生たちを巻き込んだ作品。関係ないけど、何となく共通点も感じる。
如実に感じる芝居への方向性。「生きてる……」で探られたリアルな会話は、“若者のリアルさ”を追及するがゆえに、その軽々しさばかりが耳うるさくて、内容に入っていけない感じがした。

本作は、まあそりゃあ年恰好も違う、つまり、大人、でも若い方の大人、心弱い方の大人……そのナイーブさが凄く、良かったんだよね。
明確に弱い心を引きずり続けているヒロインのみならず、強さを持っていると思われた、ヒロインにとってのヒーローだった筈の男の子の弱さ、いじめっこ側だった女の子の弱さ……。
それは、同情を持って描くんじゃないの。誰しも事情があったとか、そんなんじゃないの。むしろ、残酷なまでに行き詰まり、出口が見えないまま映画は終わるし、観客はぽんと放り出されるぐらいなの。それが凄く、深くてさあ。

ヒロインの喜美が長距離バスに乗って故郷、鶴岡に帰ってくるところから始まる。着いてもなかなかバスから降りない彼女を、運転手が「もう車庫に入りますから」と促す。
ゴロゴロとキャリーバッグを転がして、緑深い水田風景をゆく。

薄暗い納屋の中にぼんやりいたところを弟に発見されてマジびっくりされ、ただいま……と気まずげに入った実家。「あんた、ずっと連絡しないで!」と母は驚き、お腹の大きい弟の嫁は「はじめまして〜」と屈託がない。弟は「俺たちの結婚式にも出ないで、な」とチクリと皮肉を言って嫁につっつかれる。
喜美の部屋は産まれ来る孫のための用意であふれかえり、「おふくろ、初孫だから張り切ってんだよ」と言う弟の台詞は、喜美が言うように気を使っているつもりでも、ズバリと彼女を刺している。
だって、喜美が上なんだもの、お姉ちゃんなんだもの。まあ、田舎にとっては長男の子供の方が価値があるのかもしれないけど、やっぱりこの台詞は、特にこの年頃の女子に、しかもしかも田舎に舞い戻ってきた女子に、あまりにも、突き刺さる。

と、思ったのは、実を言うと後々になってからである。いやね、私、この弟の無神経な台詞を聞いて、ひょっとしたら喜美は東京で不倫とか堕胎とか、そんなことに傷ついて帰ってきたのかなあ、と思った。それこそベタに(爆)。
いやさ、その後の同窓会のシーンで、美人の同級生、桜庭さんがシングルマザーだと聞いて「子供いるんだ……」とつぶやいた後、動悸を覚えてトイレに駆け込んだからさ。
でももっともっと、深く、辛い記憶だったのだ。でもこの子供というのも、後々きっちり効いてくるあたりも上手い。上手いなんて言うには、心情痛すぎて辛いんだけど。

正直、喜美がいじめを受けていたということが明らかになった時、このトイレに駆け込んだ時に、ドアの内側に書かれた「死ね」の文字が喜美の、観客の目に飛び込んできて鮮やかに時間を飛んで、中学生時代、トイレに閉じこもっている喜美をクローズアップした時、そんな経験をしてて、同窓会になんて来るだろうか?と単純に疑問に思った。
中学校のかつての教室で開かれた同窓会は、当時の担任の先生も挨拶して、手作り感いっぱいのあたたかな雰囲気だった。農家をやってる子の有機野菜サラダなんかふるまわれたりしてさ。

でも、ヒヤリとしたのだ。担任の先生が「加藤さん、元気そうで先生嬉しいわ」と声をかけたから。先生の挨拶で、初めて来る人もいますね、と言った、それが彼女なのは明らかで恐らく……彼女だけだろう。
先生は先生らしくそんな風に声をかけて、でもそれだけ、なんだよね。後は、同窓会に屈託なくいつでも出席するほかのメンバーとにこやかに話している。

なあんか、さあ。凄く、判るというか、身に覚え……は同窓会に出席したことがないから判らないけど、判る、判る、んだよなあ。
喜美のような陰湿ないじめに遭った経験は幸いながらない。でも、まあ転校を何度か繰り返しゃ、それなりの経験は、ある。
だから喜美が同窓会に出たこと自体、私にはいまいち理解できない思いが、最初はしてたのね。私だったら絶対出ない、ていうか、出らんない。一生彼らと顔を合わさずに生きていく、と思う。
でも、そう思った時にハッとしたのだ。私には、帰るべきふるさとというものがないことを。

そのことをずっと不幸だと思っていたし、今でもちょっとは思ってる。生まれ育った故郷がなくて、帰る場所といったらここ、という場所がないことが。
両親が暮らしている場所が“実家”で、つまりそれは常に流動していて、今は一応最終的な場所になったけど、それはその流浪の人生の中で数年暮らした場所に過ぎず、思い出の場所ではあるけど、帰る場所といったらここ、というところでは、ないんだよね……。
そうした場所がないことを、ずっと不幸だと思っていたけれど、ひょっとしたらそうでもないのかも……などと思った。すっごい、ネガティブな感じ方だけど。

喜美はいじめの記憶に苦しみ、東京で就職をするけれど、何があったのか、それとも特に何もないけれどその記憶が苦しめることで身体的にも変調をきたし続けていたのか、とにかく13年経って、きっと帰りたくもなかった故郷に舞い戻ることになる。
もうすぐ初孫が生まれる長男夫婦が幸せに暮らしていて、もはや居場所もない実家、働き先を母親が探してくれても、吐き気が収まらず(あれは正しくパニック障害だよな……)行けない。戻ってきたって、ちっとも安住の場所じゃない。

私ね、引越し、転校の苦しみのたびに、住めば都、住めば都と呪文のように唱え続けていたけど、実際、そうだったの。いつでも今住んでいるところが最高。そこでの生活、住み心地、人間関係、それに満足することが出来た。
でも、親がかりの、10代の頃には、必ずしもそうではない時もあった。そういう意味では、住めば都という呪文は、新しい土地への希望でもあったように思う。

でも、大方の、生まれ育った土地を持っている人たちにとっては、そうじゃないんだね。私ね……あの震災が起こった時、こんなことが起こったって生まれ育った故郷を離れられる訳がない人たちに、ああ、私なら、どこに移っても住めば都と思っちゃうなあ、と何か複雑な思いに駆られたのだ。きっとあっさり移って、その先での生活に慣れようとするだろう、って。
その価値観しかなく育ってきたことに、今までだってずっと、どうなのと思ってきたけれど、なんか凄く……考え込んでしまった。

震災というのは極端な例だとは思う。喜美のようなケースは少なからずあると思う。東京はあらゆる地方からの“移民”をあっさりと受け入れる土地だし、地方から来た人がわだかまりなく住みやすい土地だと思う。
でもそれは、地方に遺恨を残していない人なら、なんだよね、むしろ。逆のように思えるけれど。遺恨を残しているから東京に“逃げて”くるのに。
でもいかにあっさりと受け入れる土地でも、“逃げて”きた人間には敏感に冷たい反応を示すのかもしれない、と思った。お前には故郷があるだろ、と。

でね、喜美と対照的に、故郷に“残れる”人ってのは……スター、なのだ。同窓会で話しかけてきたかつての同級生、彼女は喜美のいじめには関わりなかった(知ってただろうけど)みたいだけど、「私も東京に出たかったなー」と憧れのような表現ながらも、アッケラカンと言う。
「東京だって同じだよ」という喜美の台詞を待たずとも、東京に“出て行ける”人間は、故郷に残ることを望まれなかった人間である、つまり、東京の雑踏に紛れ込んでいく人間だってことぐらい、とっくの昔に、判ってた。

喜美をいじめていた女子はかなりの複数にのぼるみたいなのは、過去のフラッシュバックにトイレに駆け込んだ喜美を、「暗いオーラだから話しかけられないよね」だの「あの時のこと、覚えてないよね、だから来たんでしょ」だのと話す女子たちの会話で判る。
しかし……忘れる訳ないだろ、そんなの!喜美はトイレの中で身を縮こまらせ、ふと“何か”を落としてしまう。慌ててトイレから出ると、そこに鉢合わせたのが、「子供もいるのに相変わらずキレイ」な桜庭さんだった。

その“何か”というのが後に騒動を巻き起こすことになるんだけど……猛毒の農薬。それを桜庭さんは拾ってしまう。
喜美は自分がいじめられていた時いつでもかばってくれた男の子、山本君とささやかな会話を交わす。山本君はヒーローだったんだよ、と。
喜美は当時、二階の窓から飛び降りて足に大怪我をした。その跡が生々しく残っている。たわむれのように用具小屋から飛び降りる喜美を山本君が慌てて受け止める。
山本君は結婚を控えているし、当時、桜庭さんとの仲もウワサされていた。冗談にまぎらしていたけれど、ヒーローだった山本君のこと、きっと喜美は……もしかしたら今だって……それなのに……。

一番ヒドいのは、山本君だったという気がする。彼自身には悪気などなかっただろうし、それどころか確かに正義、だったんだろう。
それでもいじめっこの筆頭であった桜庭さんと当時からナニだったんだろうし、今でも、片やシングルマザー、片や結婚が決まった農業に情熱を燃やす青年が、やけぼっくいがくすぶり続けて、桜庭さんが丘の畑を訪ねりゃ、ちょいとズコバコやっちゃうような仲なんである。

私、ヒドイ言い方してるな(爆)。そのシークエンスはかなり重要なのに。つまりね、そう、喜美が落とした小瓶の中身が猛毒である農薬、パラコートだと知った桜庭さんが(その調べを依頼した相手がかなりヤバそうな男で、桜庭さんがザ・水商売ってあたりがアレだけど(汗))、それを山本君に相談したというシークエンス。つまり喜美が同窓会で皆を、ていうかウラミのある自分を殺そうとしたんじゃないか、と。

まさかと言いつつ、桜庭さんが上着を脱いで流し目しただけで欲情する山本君(この時点で、彼の本来の薄っぺらさにちょっとずつ気づき始める)は更にサイアクなことにそれを喜美にストレートに確かめに行く。
「お前、ヘンなこと考えてないよな?」この時点でオイオイと思ったけど、その後“事件”が起こった時に彼が言った台詞が、更に更にサイアクで。……まあそれは後述。

桜庭さんが女手ひとつで育てている幼い娘がいじめに遭っている、のは、ほんのりほのめかされる程度である。
同窓会を一次会で切り上げて娘を迎えに行った、祭りの踊りの練習をしてた公民館、練習から離れて廊下で、同年代の子達に取り囲まれていた一瞬の画。
後にきっかり、彼女の祭り半纏に「死ね」と、まさに喜美が閉じこもったトイレのドアの内側に書かれていたのと同じようにくっきりと太い黒のマーカーで書かれているのを示されなくても、そのほんのりのほのめかしで、充分判っちゃうのだ。

コンビニチャーハン弁当を娘に食わせて、自分はビールを飲み、「飲まなきゃやってらんないのよ」と言う“シングルマザー”の描写は、同窓会で語られた、頑張ってるシングルマザーの描写からは遠いしかなりベタだけど、この幼い娘がいじめられていることと、そのことにちっとも気づかないということこそが、やはり重要なんだよね。
祭りの喧騒の中で娘が姿を消したことと、喜美が山本君からパラコートのことを問い詰められたことが時を同じくしたから、桜庭さんは、喜美が娘を誘拐したと思い込み、取り乱す。

えええ!ええええ!!そもそもパラコートの使用目的だって、あんたらが勝手に思っているだけやんか!……てか、“あんたら”なんだよね。山本君もそう思っていたことを知った喜美は絶望を覚え、飛び出す。
その心情を彼が正しく理解していれば、喜美が桜庭さんの娘を誘拐するなんてことある訳ないことぐらい判るのに。
なのに山本君は、狂ったように喜美を糾弾する桜庭さんをヒーローよろしく止めながらも喜美に向って「お前、誘拐とかしてないよな?」と言いやがるのだ!!!

なんてこと、なんてこと!これが“普通の人”の考えなのかと、思う!確かに扇情的なワイドショー的な話ではよくある。いじめられたウラミから云々みたいな。でもそんなの、冷静に考えて、自分がそうならそうするのか、考えれば判るよ。やる訳ないじゃん!!
一番判りやすいのは、桜庭さんの娘を考えれば判る。桜庭さんは、娘がいじめられていたことにようやく気づいたって、よもやその娘がそのウラミからいじめっこに対して殺そうだの、その子供を誘拐しようだの思うことを危惧するだろうか?

桜庭さんはただただ、ただただ、いじめられていた娘を、気づかなかった自分を、守ってあげられなかった母親としてのふがいなさを悔いて、ただただ娘を抱きしめて、ごめんね、ごめんね、と言っていたじゃないの。
その一瞬前まで、桜庭さんが言っていた台詞、「私だって(喜美が自殺未遂したことで)充分傷ついたわよ!今更何なの!」それを、娘に向かっても言えるのだろうか??

……おっと、いけない。冒頭で、誰かに肩入れすることない作品と言っておきながら、自分が肩入れしてどうする(爆)。
でもこの、喜美が「さすが桜庭さん、全然変わってないね」と苦笑気味に言うほど、猪突猛進に思い込む桜庭さん、喜美にお見舞いする見事なビンタといい、凄かったからさあ。
でもだから、だから……桜庭さんは、判ってくれた、よね?確かに彼女の言うとおり、桜庭さんは桜庭さんなりに、傷ついて、この年月を過ごしてきたんだろう。でも、でも……喜美は、喜美は。

喜美が卒業アルバムを焚き火で燃やしている描写も衝撃的だったけど、それを見ても特に驚かず「東京に戻った方がいいよ。自分で何とかするべきなんじゃないの」と冷たく言い放つ弟が!うう、ううう……。ごめんねと謝る喜美が可哀想で可哀想で……。
東京も居場所がなくて、決して戻ってきたい場所じゃなかったけど、ここしかなかったから、戻ってきたのに!!

……いや。“決して戻ってきたい場所じゃなかった”かどうかは、それこそ私のような育ち方をした人間には判んないの。
故郷に憧れ続けてきた。でも、次第にそれも大変なことであることまでは判ってきた。けれども、それでも、戻りたいと思う気持ちまでは判らないことが、私は自分が不幸だと思う。
でも、まるで放り出されたような喜美が、可哀想でたまらないんだもの。誘拐の嫌疑までかけられて、自分と同じようにいじめられている幼い女の子を目の前にして、その子の母親である桜庭さんに、「どうして、私だったの?……昔のことで、忘れちゃった?」と顔をゆがめて涙を流して搾り出す喜美がたまらなくてさあ……。
だって、だって、その答えさえ、得られない。聞こえているのかどうかさえ。ラストシーンは喜美が取り残されたように緑の中座っている引きの画だけなんて!

いじめの過去がよみがえるシーンでの、パンプスをはいた足元のクローズアップや、上履きにマーカーで書かれた名前、ひさしぶりのいじめっこ、いじめられっこの再会に、目配せしてすれ違うスリリング。
桜庭さんと山本君が絡み合った昼日中の緑の丘のシーンで、目にまぶしい桜庭さんの生足のエロさと対比される、生々しい傷跡が残る(そう、タイトルである、傷跡、だ)喜美の太もも。それも生々しく、同窓会の時に着ていたドレッシーなワンピースから、けだるげにストッキングを脱いだ、薄暗い部屋で現われる、別種の生々しさ。
そして、最後のシークエンスの桜庭さんとのバトルの時にまた現われる。そんな画的な、映画的な魅力を存分に発揮してひきつけながらも、でもやっぱり一番大事なことは……。

いじめをテーマにした映画は数々あるし、いじめそのものの描写を使えばそれこそ画的、映画的に見せがいが出ちゃう。
でも実は、こんなに、何年も何十年も経っても逃れられない苦しみだということを、これが案外言及されていなかったんじゃないかってことに気づく。
そのことを、映画的魅力を失わず、センシティブに、ナイーブに、そして意味深く描いた本作は、かなり、かなり、見逃せない作品だと、思う!★★★★☆


北のカナリアたち
2012年 130分 日本 カラー
監督:阪本順治 脚本:那須真知子
撮影:木村大作 音楽:川井郁子
出演:吉永小百合 柴田恭兵 仲村トオル 里見浩太朗 森山未來 満島ひかり 勝地涼 宮崎あおい 小池栄子 松田龍平 小笠原弘晃 渡辺真帆 相良飛鷹 飯田汐音 佐藤純美音 菊池銀河

2012/11/13/火 劇場(錦糸町楽天地)
いやあー、久々に、映画を観ること自体の達成感を感じた。都会の殺伐とした風景や、大がかりな時代劇じゃなくって、(ある程度)現代の、圧倒的に凍える吹雪の中の風景、こういうのって、それこそ大がかりなCGの時代劇よりも、映画の醍醐味だと思う。
最近はね、もうCS放送で映画観ても同じかな、なんて思うこともあるんだけど、こういう画に出会うと、ああスクリーンで観てよかったと心躍る。

正直いつまでも優等生女優さんである吉永小百合サマにはあまり食指は動かないんだけど、かといって見てしまえば彼女はここまで生き残っているだけある女優だともヤハリ、毎回思うんである。
この文学的なタイトルと吹きすさぶ北の大地の画、その中を歩く吉永小百合、という予告編で出会った雰囲気は、それこそ食指の動かぬ文芸映画のような感じで、正直言って、んー、つまらなそう、とか思って(爆)。それこそ、阪本監督じゃなければ観に行かなかったかもしれない。

湊かなえ原作というのを知っていればそんな風には思わなかったんだろうが……いや、予告で既にその名前は目にしてたけどそこまで考えなかったな。だって湊氏はそれこそ「告白」しか知らんのだもの。
あの原作も読んだけど、不勉強ながら彼女がそういったタイプを書くストーリーテラーであるかどうかも判らなかったから、それこそ文芸チックなものも書くのかなとか思って。

でもこれ、湊かなえの名前は原案として、なんだよね。原作、ではない。元になった小説のタイトルも違うし、これは映画化において結構ニュアンスから世界観まで違うのかもしれない。結果的にはいい意味での大メロドラマとして感動の嵐が押し寄せる本作に、まあ気持ちよく泣かされてしまった訳で、あの「告白」を思えば、それは生ぬるい展開なのかもしれない。
でも、この壮絶な厳冬の描写の中で、子供たちの純粋な気持が塗りつぶされていく展開は、最後に大きな感動の嵐がなければとてもやってられないツラさなのだった。

優等生女優さんである吉永小百合だからこその、本作の成功なのだろうと思う。年齢から考えれば、いくら気を使っている女優さんであっても、こんな大スクリーンのドアップは、それこそ極妻の岩下志麻のハレーションでもなければありえなさそうだが、彼女は奇跡のように美しい。
勿論年相応に年をとってはいるんだけれど、20年の時を挟んだ物語で、ひとりだけ時をかける少女……じゃなくて女性である彼女は、現在の時間軸の方に自身の年齢を合わせているでしょ。でも、20年前の、分校の先生、まぶしい清楚さの先生が、おっそろしく違和感ない。初めて彼女のこと、やっぱり女優なんだ……とちょっと恐ろしく感じた。

だってさ、老けメイクの方がカンタンじゃない。ていうか、どっちに時間軸を合わせるかを考えたらそっちの方が普通じゃない。彼女、そのまんまで40前後の女教師になっちゃうんだもん。
女教師っていうとエロっぽいが(爆)。でもそれも当たらずとも遠からず。まさかのまさかの、仲村トオルとのハグ&チュー!!!仲村トオルはそのまんまの年齢であり、吉永小百合が時を駆けた。このシーンは思わずコーフンしてしまった(爆)。だって、こんな画、思いつかないよ!

で、なぜそんな画がという話になり、吉永小百合演じるはる先生にはちゃんと夫がいるんであり、つまり不倫なんであり。それが仲村トオルなんであり!!
優等生女優の吉永小百合が不倫ってだけでもえーっと思うぐらいなのに、その相手が最近枯れた色気ムンムンの仲村トオルで、そのチュー場面は、これがフツーの、と言っちゃナンだが、つまり優等生ではない女優だったら、そんな衝撃はないのだ。吉永小百合が仲村トオルと不倫してチューだから、衝撃、なのだよっ。

……うーむ、どうも、どうでもいいところで完全に止まっちゃってるし(爆)。そもそもこれがどういう話かっていうとね、最初、はるは勤めていた図書館で定年を迎える。東京、だよね。後からの展開を見れば。
「北海道に帰られるんですか」と上司に聞かれてはるは、言葉を濁した。家に帰ったはるの元に刑事がやってくる。かつての教え子、信人が殺人事件を起こした、と。彼の元にははるの連絡先が残されていた、と。

信人に自分の連絡先を教えたのはどの生徒なのか。心優しい信人が殺人を犯した事情も知りたくて、はる先生はかつての教え子たちを一人一人訪ね歩く。
後に、実は彼女の元に信人からの連絡があったことが示唆される場面があるんだけど、それがどの時点でだったのか、刑事が訪ねて来た時にはもう既に連絡があったのか、あるいは全ての生徒たちに会った後だったのか、何せ、20年前の過去回想が頻繁に挟まれるもんだからどーにも判りづらい(爆)、のは、私だけかなあ。

とにかく、かつての分校の6人の生徒、なんである。現在成長した姿を見せる6人として登場するのが、信人の森山未來を始め、満島ひかり、勝地涼、宮アあおい、小池栄子、松田龍平、とまさに今の日本映画界を牽引する魅力的な顔ぶれ。
彼らが次々に登場して、まさに、湊かなえ的ミステリ(いや、判らんけど、なんとなくそうかなと(爆))な、「私はこう思ってた」な苦しい胸のうちを披露するんである。二重三重どころじゃない、六重の、ラショーモナイズ。

それはひとつの事故だった。みんなでバーベキューをしていた。生徒の一人、結花が足を滑らせて崖から海に転落した。それを助けたはるの夫が死んでしまった。
そもそも結花が転落したのは自殺しようとしていたのか、そしてなぜその時、はるがいなかったのか。最初いたのに、途中からいなくなった。
「あの時先生、途中でいなくなりましたよね」予告編でも使われている、最初に訪ねた生徒、真奈美の台詞がミステリ感をあおる。先生が途中でいなくなった理由、それが、次々に訪ね歩く生徒たちとの再会で、彼らがそれぞれ知る事実によって、少しずつ明らかにされるドキドキ感。

ホントにね、あの吉永小百合が、こんなミステリの中心人物だなんてと思ったよ。でも先述したけど、彼女だからこそオドロキがあるし、でもその思いは夫も彼女の父親も知っている、不倫だけど純愛だと言ってしまえる様な、苦しい苦しい恋だった、というあたりが、また吉永小百合だからこそピタリとくるんである。まあそこにまた戻ってしまうとまた止まっちゃうから先に進まなくちゃ。

タイトルである「北のカナリアたち」は、この6人の生徒たちの歌の才能をはる先生が引き出し、引き出したからこそ起こった悲劇であり、しかし最後の大団円を見れば、やはりそれが幸福だったのだと思いたい、んである。
最初はその信人、吃音君の彼がパニックを起こした時に叫ぶ声に合わせてはる先生がオルガンを弾き、ロシア民謡のカリンカを歌わせたのがキッカケだった。喋る時にはどもるのに、天使のようなハイトーンで歌う彼に、劇中の生徒たちと同時に、観客もドギモを抜かれた。

合唱に夢中になった子供たちはその才能を開花させて、大きな大会に出場がかなう。しかしなんたって6人だから、独唱が決まった子とそうじゃない子の間で確執が起こる。いや、確執だなんて大人のような感じじゃなくて、判りやすく、嫉妬。
そしてこんな小さな町の中では、のんだくれの父親が入り浸るスナックのママ、それが生徒たちの親同士だったりして、更に気持がこんがらがる。
そのスナックのママを母親に持つ結花は両親が離婚していて、自分の独唱を聞いてほしいと、母親より慕っていた父親の方に連絡を入れたこともまた、ややこしさに拍車をかけた。はる先生の不倫なんて問題がなくっても、子供同士の嫉妬、親の意図的なイジワルで充分、はる先生は追われてしまったのかも知れない。

ちなみに、はる先生の夫役は柴田恭平である。結花を助けて死んでしまったけれど、実は脳腫瘍であと半年の命だった、なんてことを最初に明かされた時は、そりゃあ結花同様、彼女の心の負担を小さくするためのベタなウソだろと思ったけれど、どうやらホントなんである。
確かに、はる先生がこの小さな分校に赴任してきた時、だんなさんは大学教授だと言っていたのに、なぜ一緒についてこれたのか、ふっと疑問には思っていたのだ。なのになぜ、それをさっぱり忘れてしまうのか(爆)。
柴田恭平と仲村トオルが一人女性をめぐってバトルなんて、あらあら、あぶデカだわなどと思うのは世代だわねー。まあ私は観てはいなかったけどさ。

仲村トオルの登場はかなり、唐突である。白い雪原に点々と血がある。脱ぎ捨てた上着が残されている。バイクが乗り捨てられた跡なのか、転倒してフラフラと歩いていったのか。それこそミステリ、事件のような匂いがするけれども、言ってしまえば単純に、はる先生と彼、阿部との出会いである。
彼の心の傷、人質を目の前で犯人に殺されてしまった回想が差し挟まれた時は、なんか突然、サスペンスか刑事ドラマチックな画にうろたえたが(爆)、その後は傷ついた彼を助けたい気持から愛に発展していくはる先生との純愛物語である。
別にカラミな場面がある訳ではなく(あったら凄いが)、二人がひっそりと出会うばかりなんだけど、その逢瀬を純粋無垢な生徒たちが目撃しちゃってるからタイヘンなんである。

実際、大人たちがそれを目撃して噂をばらまいたんでは、なかったのかなあ、という気がしてる。生徒たちに順繰りに話を聞いていく過程では、結花が、私の母親が根も葉もないことを言いふらしたんだとかいうシークエンスも出てくるんだけど、それをはる先生は即座に否定した。それは本当のことだから。あなたのお母さんはウソをついてない、と。
その時点では仲村トオルとの恋話は見え隠れしている程度で明確じゃなかったから、あの吉永小百合サマの口からそんなこと言われて、結構オドロいたんである。

結花を演じるのはあおい嬢。彼女の母親のことを非難して結花の自殺未遂、はる先生の夫の死を招いたんじゃないかと苦悩する直樹が勝地君。
二人はずっと気まずい思いを抱いたまま、進学も就職も札幌で、ずっと近くにいたのに、お互いの存在を強く感じながら言葉を交わさないまま来て、はる先生の出現でまさに雪が溶けて、いきなり恋人同士になった。
「はる先生が、ただ黙って手を差し出せばいいと言ったから」という結花の手、直樹はその手袋を外して握手し、そのまま抱き寄せる。「……好き」と結花。おいおい、おいおいおいおいー、そういう伏線はなかったぞ、オイ!
……うーむ、気まずいまますれ違うだけの数年間、お互いに恋愛の気持をはぐくんでいたってか??まあいいけど、いいけどね、こーゆー唐突感は好きだけど、でも、この展開の中で、それって、いいのかなーっ。

それぞれに、それぞれの思いが沢山、あるんである。小池栄子嬢扮する七重は先生の、まさにチュー現場を目撃してショックを受け、彼女がウワサをばらまいたんである。
でもその自分自身が不倫関係に陥り、長年の親友を失ってしまう。「どうしようもなかったんです、先生……」言葉を失う教え子に黙って寄り添うはる先生。
彼女が、信人にはる先生の連絡先を教えたのだ。信人の年上の恋人の存在を知っていた唯一の人物。かつての同級生が口をそろえて、信人が殺人を犯したなんて信じられないと言ったけれど、それに加えて「あんなに幸せそうだったのに」と言ったのが、七重だった。

信人が殺したのは、事件的には元の職場の社長ということだったけど、その恋人の元ダンナであり、彼女は夫からの執拗な暴力を受けていて、ようやく別れることが出来て、信人と結婚直前になっても追いかけてきて、恐怖に駆られた彼女が逃げ出して道路に飛び出し、車にはねられて死んでしまった。
信人は彼に謝罪を迫ったけれど、逆にひどいことを言われた。「あんな女、死んで当然だ」と。その一言で、信人は我を忘れた。社長を、殺してしまった。

予測してはいたけれど、超、情状酌量の余地があるケース。愛する人と出会ったのに、サイアクのケースでその相手を失った信人が、仲間たちの思いを支えに出頭した後、もう一度そんな出会いがあるのかと、なんか最初から心配になっちゃうんである。
はる先生の“不倫逢瀬”を目にしてしまった幼き頃の信人が、先生に石をぶつけるシーンから本作は始まるからさ。それ自体すんごく不穏なミステリを感じさせる始まりなんだけど、最終的に信人が、本当にどうしようもなく人を好きになってしまったら、どうしようもないんだと、七重と再会した時に言ったというエピソードが、この冒頭があるからこそ、メッチャしみるんだよね……。

ラスト、はる先生に「歌を忘れたカナリアの気持ち」を考えてきて、という20年来の宿題を抱えて、島に戻ってきた信人を同級生たちが迎える。
松田龍平演じる勇が警官になって島に赴任してきていて、彼はホント、顔の鋭さとギャップのあるほんわか天然が、イイよね。かつて信人をからかいといじめの中間ぐらいな感じで絡んでた、まあちょっとした問題児。
それでも信人が彼にまとわりついていたというんだから、そして勇も信人のことを「好きだったんですよ」とはる先生に言い、彼女も「知ってた」と言うんだから、そんな関係もあるんだろう。今、そんな幸せな関係があるだろうかとふと思ってしまうけど……。

そして、大団円、大メロドラマの結末。吹雪がふきすさぶ分校は、マジに雪に埋もれてる。学校の名前が刻まれた門が、半分以上埋まってる。
もう化石のように森閑とした様子が示されてから、その教室にかつての仲間が集まってるんだから、そんでもって、皆であの頃のように歌うんだから、もう、そらー、涙、涙、涙、なんである。
うー、こういうベタなの、ちょっとキライだけど、好きな時もある!町中に響いていた子供たちの歌声に、大人たちが癒されていた。死を目前にしたはるの夫も、傷ついた心を抱いた阿部も。

歌を忘れたカナリアの気持、を宿題に出された信人が、自分は頭が悪いから……とおずおずと前置きをした後で、でも自分は生きていかなけりゃいけない、生きていていいんですね、と言う。大きくうなずくはる先生。
それまで生徒たちが抱えていたいろんな過去の記憶が明らかにされて、はる先生と共に観客も心揺さぶられていたけれど、最後に信人が明かすこの記憶が!
結花が助かって、それを見ていた先生の御主人、沖に流されてしまっていた彼が、安心したような顔で、サヨナラのように手を上げたんだと。
ドクンと胸を突かれる。はる先生の目が見る見る潤み、たまらずに両手で顔を覆う。その様がいかにも吉永小百合の清楚さで、ああ、やはり彼女だったなあと思う。なんだかサワヤカに、感動しちゃうんである。★★★★☆


キツツキと雨
2011年 127分 日本 カラー
監督:沖田修一 脚本:沖田修一 守屋文雄
撮影:月永雄太 音楽:omu−tone
出演:役所広司 小栗旬 高良健吾 臼田あさ美 古舘寛治 黒田大輔 嶋田久作 森下能幸 高橋努 平田満 伊武雅刀 山崎努

2012/2/17/金 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
ああ、やっぱり、やっぱり、やっぱり、やっぱり、イイよね!やっぱり、などと言ってしまったのは、一回目に観た時ちょっと私的なことで心が晴れなくて、凄くいいなとは思いながらも、心のもやもやがジャマして、それが凄く悔しかった。
もう一度心を晴れやかにして観たい、そう思って問題を解決して、二日後に再び足を運んだ。結構モヤモヤした状態で映画を観てそのままスルーすることなんてざらにあるのに、今回はそうしたいと思わせるだけの魅力がやっぱりあった。心からこの映画を観たいと思った。

だって、なんたって「南極料理人」、あの年の私のベスト作品、初めて聞いたこの新鋭監督さんの次の作品を、あの時から心待ちにしていたんだもの。
「南極料理人」が長編デビューだとばかり思っていたら、短編、最初の長編、と認められての抜擢だったんだね。そりゃ、そうかあ。それなりのバジェットだったもの。
それにしても「南極料理人」にはヤラれてしまった反面、次の作品がどうなるのかは期待いっぱい、不安が少しといったこともやはり、思った。一作目でかっ飛ばしてくれて二作目からトーンダウンする若い監督さんはまあその……色々覚えがあるから。
でも、でも、でもでもでも!この才能はホンモノだったんだなあ!

何よりこれが、オリジナル脚本だというのも嬉しい。「南極料理人」の良さは、ひょっとしたら原作の面白さだったのかもしれない、という思いもあった。それでも、あの独特のリズム、緩急というか、間というか。それが凄く魅力的だったから、きっと監督の才能なんだとは思ってた。
だってさ、やたら思わせぶりな間を持たせてイライラする映画だって結構、あるんだもの。間って、凄く難しいと思う。やっぱりこれはセンス、才覚の問題だと思う。
で、オリジナル脚本である本作でそれが、まさにそれが、バツグンだったから、ああ、やっぱり、やっぱり、やっぱり才能だったんだ、と思って嬉しかったなあ。

共同脚本の守屋氏って、「ヒモのひろし」を書いた人なんだね!それもテンション上がったなあ!
「ヒモのひろし」本当に大好きな作品、ウッカリ?DVDまで買ってしまった。DVDのタイトルはピンクのそれよりさらにヒドくて、アマゾンとはいえ手を出すのにかなり躊躇したが(爆)。
沖田監督とどこでつながるのかと思ったら、あらら日大芸術学部って、めっちゃエリートコースなのね、あなたたち(爆)。うう、でも、とにかく、とにかく!

冒頭、木こり(という言葉は今、通用するのだろうか……)つーか、林業に携わっている役所さん扮する岸さんが、チェーンソーで木を切り倒す、その倒れる先に遠くから駆けてきた男が腰を抜かす、というファーストシーン一発のインパクト、ホントあれは一発勝負で物凄くいい画。
しかもその後、その男、映画の助監督である鳥居が「本番なんで」「映画の撮影やってるんで」「一瞬、音止めてもらっていいですか、いや一瞬っていうか……しばらくの間」と言葉を繰り出すたびに、何がなんだか判らない岸さんが、「……はい?」「……はい?」「……はい??」と繰り返すのがメッチャおかしくて、もうまさに、ツカミはOKとはまさにこのことだッ。
私ね、この時の役所さんに、「KAMIKAZE TAXI」での彼を思い出しちゃったなあ。今でこそ重厚な役の多い役所さんだけど、コメディをやらせたら実はバツグンなんだよね。もっと面白い役所さんを見てみたい!

彼と両主演の形で相対するのが、実に頼りない新人映画監督、田辺幸一である。演じる小栗君の、ぼっさーとして弱気で、めちゃくちゃ頼りない男子っぷりが素晴らしくて、勿論このキャラの造形もあるだろうけれど、そうだよね、彼はこういうのやれる人なんだよね!と思う。
なんか世間は小栗君をイケメンイケメンと盛り上げすぎよ。実際はそんな言うほどイケメンタイプじゃないんじゃないのとちょっと思う(爆)。
いや、いい意味でよ。イケメンと言った途端に、なんか役者としてのレベルが一段落とされるような感じがしちゃうんだもん。

この山の中の撮影騒動に巻き込まれる岸さんが、幸一こそが監督だとまだ判ってない状態の時に、「君、彼(助監督)より若いだろ、動けよ!」とか「(そんなことも出来ないのなら)辞めさせた方がいいよ!」と苛立つのが、観客は何となく前情報もあるから、判ってるからさ、可笑しくもなんとも幸一が気の毒で、でも、可笑しくてさあ。
だって、ホントにホントに幸一は、何にも出来ない頼りない使えないワカモンそのものなんだもの。小栗君、まさにそのものになってるんだもの。
まあ後段、岸さんと温泉に入るくだりで見せる出来上がった身体は、このキャラにはらしくないほどにやたらセクシーなのは問題かもしれんが(爆)。

そうそう、この“使えない”、おい、そこの使えないヤツ!って言われて振り向いちゃうんだから、幸一の苦悩はあまりにも推してしかるべきで(爆)。
それを言ったのは当然、岸さん。幸一と助監督の鳥居が乗ったワゴンがぬかるみにはまって、往生しているところに行き合わせたのが運のツキ。
「10人ジャブジャブ入れる川」のロケーション探しに付き合わされることになって、果てはエキストラ出演まで頼み込まれてこの日、岸さんの仕事はパー。

これもツカミはOK第二段とでも思しき秀逸なシークエンスでさ、いい川の場所を探していると聞いて張り切って岸さんが連れて行った、“10人ジャブジャブ入れる川”、岸さんはそこが一番きれいな川だという誇りから連れて行ったから、清流、渓谷といった感じでさ、「10人、入れるだろ、縦に並べば」爆笑!鳥居が「いや、横に、まばらに」と言う台詞を待たずしても、可笑しくてたまらん!
「これ以上、きれいな川はない!」と憤然として言う岸さんに、「いや、きれいじゃなくてもいいんで」ますます憮然とする岸さんがか、可愛すぎる。

で、岸さんが次に連れて行った場所、「10人!ジャブジャブ!」と怒ったように言う、確かにそこはクリアなんだけど、川岸にそびえたつピンク色のナンタラ貴族館とかいう、ケバいラブホテルに鳥居も幸一もあぜんとして見上げてる。
ああーもうもうー、ここまでもゆったりとした緩急で進んでいくんだけど、可笑しさの提示が絶妙でさ!幸一を演じる小栗君が、後から思えばめっちゃ追い詰められてて、ぼーぜんとした顔のままいるのもなんか可笑しくてさ!ホンットにツカミはOKOK!なのよね。
しかもこのラブホ、そのまんまの体裁と名前で本当にあるのね、ラストクレジットの協力のトコに快哉を上げたくなってしまったっ。

結局、鳥居が目当ての川を地図から探し出し、その場所にロケ隊を誘導し、流れでゾンビとしてのエキストラ出演まで頼み込まれる岸さん。
憮然として撮影の準備を眺めていた彼が、ジャマだから逃げて(ハケて)!と言われて猛然と逃げるなんていうちょっとしたユニークを間断なく入れてくるから、むう、油断ならぬ。
そしてカットが替わると突然ゾンビメイクで、更に憮然と立ち尽くす岸さん!ていうか、役所さん!もう可笑しすぎる!
共演?のゾンビ仲間にガンバリマショウの合図を送られてもただただ憮然、呆然。ああ、役所さんは実はコメディの国の人だったのだよ!

で、撮影が終わり、あの「そこの使えないの!」と呼び止められるのが幸一=小栗君。
「すみません、メイクさんも次の現場行っちゃって……そのまま帰ってもらえますか」と言う彼に、岸さんも観客もオイオイオイオイ!
ゾンビメイクのまま黙ーって幸一にゆっくりにじり歩いて、幸一が弱々しく笑いながら後ずさりしてのブラックフェイドアウト、もう、愛しく可笑しすぎる!

この愛しく可笑しすぎる感じ、まさに「南極料理人」で愛したテイストでさ、これがこの監督の味わいなのだと思うと、ホントに嬉しいよね。
この監督さんが若いということもあって、この新人監督の造形は自身に反映されているんだろうなあと思っていたらやはりそうで、小栗君のキャスティングも思ったとおり、彼が監督を経験したということがあったからだという。
まあそのう、小栗君が監督した「シュアリー・サムデイ」はサイアクだったが(爆)、それがこの作品につながっているんだと思うと、そうむげにも言えない(爆)。てか、やっぱり、こんな風に一本の映画が出来上がる苦労を観てしまうと、ホント、言えないよね……いや、言っちゃうけどさ(爆)。
でも、ホント、こんな風にさ、ロケーション先でエキストラなり、撮影の手伝いをすることになったりすると、作品の出来不出来とか、評価とか、そんなこと関係なく、愛しいのだろう。そしてそんなことも知らずに外野でいいの悪いの言うだけの私らは、不幸なのかもしれんよなあ。

ちょっと、グチめいた脱線してしまった(爆)。でね、ああそう、この時、ロケ場所に決まった川への誘導でひと悶着する小さな雑貨屋の店先、岸さんが仕事先に連絡するために電話を借りてる。
今の時代、携帯も持っていない岸さん、なんかそれが頑なに思えてね。だって仕事場の若いモンは自分の幼い子供の写真を「ちょっと前より大きくなってるんスよ!」iPhoneで見せたがるなんていう場面もあり、あのスワイプさせる指の動きがさ、いかにも現代って感じなんだよね。

そういやあ、幸一も、携帯は朝のアラームのみで、それで誰かと連絡をとったりする場面、なかったよね。ラッシュ上映の後に岸さんと温泉で出くわした後、駅に送ってもらって、東京に逃げ帰ろうとしていた彼は、いつも孤独で、温泉旅館の一室に脚本を前に追い詰められてて、ついにこんな事態にまで陥ってしまって。
誰かと気安くコンタクトをとることも、コミュニケーションを図ることも出来ず、スタッフたちも皆自分よりプロフェッショナルで大人で、監督の筈なのに、自分の存在意義が失われそうになっててさ……。

そう、ラッシュ上映。最初は助監督鳥居からの誘いをはねつけた岸さんだったけど、電話を借りた雑貨屋のヨシオ、演じる神戸浩がまたもう良いの!
しつこく岸さんに、映画のこと詳しくないのに、映画の手伝いなんかするのと迫って、岸さんから一喝されて、ぐはっという顔をするとことか、ほおんとに神戸さんっぽくって、可笑しくてさ!
まあそれはいいとして、ヨシオがね、岸さんの仕事仲間にエキストラ出演してたことまで言っちゃうのよ。あの、子供の写真を得意げに見せていたワカイモンが「そういえば、岸さん、よく見たらカッコイイスもんねえ!」と言う台詞に爆笑!役所さんはよく見なくたってカッコイイハズなのに、確かにこの、作業着地下足袋無骨なキャラがそれをなんとなく隠しちゃってる。後の、法事の喪服姿なんて、いきなりカッコ良くなるからさあ!

おっと、ちょっと脱線しちゃった。でも、そう、ついでだからそれは言っとこう。岸さんは奥さんを亡くしてて、その三回忌がもうすぐである。息子の浩一と二人暮しなんだけど、仕事の見つからない、ニート状態の彼とはなかなか上手くいってない。
そう、浩一、なのよね。音が同じ、年恰好も似てる。息子のために作った切り株のような立派な将棋盤に刻まれた「浩一十才」。
後に幸一に作って持っていく総檜に“監督”!!と筆書き大書されたディレクターズチェア、「これなら恥ずかしくないやろ!」とディレクターズチェアになんて恥ずかしくて座れないと言った幸一の真意が判ってない上に、こっちの方がもっと恥ずかしいし(爆)。
それに刻まれた「幸一二十五才」の文字。

撮影も進んでいく中で、幸一に岸さんが聞く場面がある。なんで映画なんかやろうと思ったのかと。
幸一は父親が運動会とか撮影するために買ったビデオカメラを遊びで使ううちに……と言い、きっと親父は後悔してる、山形で旅館やってて、俺長男だから、と自嘲するのね。
岸さんはふと考え込み、言うのだ。喜んでいるに決まっている。自分が買ってきたビデオカメラが息子の人生を変えたんだから。嬉しくてしょうがないやろ、と。
このシーン、撮影が上手くいくためにとずっと甘いもの断ちしていた幸一と、血糖値が高いために医者から止められている岸さんが、うんめえ、と、サービスされたあんみつを黒蜜をたっぷりかけて競い合うように食べるのがなんか、なんともいいシーンなのよね!

なんか脱線しまくっちゃったけど、えーと本筋はどこまで行ったんだっけ……。そうそう、ラッシュ上映の話だ。かなり脱線したな(爆)。
仲間にエキストラ出演の様子を語る岸さんが、「立って、倒れて、また立って歩いて、鉄砲で撃たれもした。で、また歩いて、また撃たれた」と言うたびに、おー、すっげー!!と仲間たちが盛り上がるもんだから、彼ったら嬉しくなっちゃったのかしらん(爆)、ちゃっかりラッシュ上映に姿を見せてる。
で、ほんの少し映っている自分を不思議な気持ちで眺めてる。後に温泉で幸一と会った時、自分の姿が映っていることへのハズカシさと、あんなちょっとの撮影の準備やらなんやらで大変なんだなあ、と話しかける。この時、幸一はすっかり追い詰められてて、もう逃げ出そうと思っている訳だけど、ね。
湯船の中で、すすすすす、と横移動していく岸さんと、にじ、にじ、と逃げる幸一のカットが可愛くて可笑しくて、幸一は湯船の岩の陰に隠れちゃうしさ。
しかもこれ、逆バージョンで後に繰り返されるのも良くてさ、こういう伏線的なことも、上手いんだよなあ。

逃げ出そうとした幸一は、結局駅まで追いかけてきた鳥居たちに捕まってしまう。しかしそこに来た列車には、もうひとりの助監督にケツキックを散々お見舞いされていた若いスタッフが乗っていて、驚いた鳥居が無理やりドアを開けて降ろそうとするも(ムチャな!)そのまま彼は、そのトレードマークの黄色いニットの帽子だけを鳥居の手に残して、窓からゆるゆると手を振って小さくなっていく。
このゆっくりとしたショットがまた、たまらない(爆)。こういう間と緩急とリズムが、ホンットにたまらないんだよなあ!

その次のシークエンスでは、幸一が岸さんの家を訪ねている。もう逃げ出すつもりだった幸一は自分の台本を岸さんにもらってください、と押し付けていたんだけど、連れ戻されることになって……ていうか、あの若いスタッフが逃げ出したことも、大きなことだったんだろうなあ、彼の中では……。台本を取り戻すために、夜更けに訪ねるんである。
くしくも息子の浩一が出て行った直後で、浩一か、と問う岸さんに、え、はい……幸一です、と答えるちょっとした笑いがあった後に、東京行きはなくなりました、あのう、それで……台本……台本……とつぶやくように言う幸一=小栗君の気弱な可笑しさ!

その前のカットでね、岸さんが路肩に軽トラを止めて台本を読んで、ティッシュで目頭を押さえる、なんて場面が挿入されててさ、「こういうの、初めて読んだけど、面白かったなあ、それに、……ちょっと泣いた」と照れたように、しかしまっすぐに言う岸さんに、幸一のほうはまだかしこまったままなんだけど、観客の方がうっと胸を詰まらせてしまう。
「オンシが書いたんやろ、オンシ、あれやろ、親方やろ」と、どの時点から岸さんはようやっと気づいていたのか、ええ、まあ……とあいまいに、気弱げにつぶやく幸一のこと、もうすっかり後押しする気になっていたんだろうなあ。

その後岸さんが撮影に関わるのは、決して巻き込まれじゃないんだもの。幸一が、周囲からの矢継ぎ早の質問や要求やジャマ扱いに翻弄されまくり、肝心の、テイクのOKを出すべきか否かでめまいまで起こしている撮影現場。一体いつからいたのか、「あの女優さん、ええ匂いやなあ。OKや」とトンチンカンなことを言う岸さん(笑)。
そしてあのディレクターズチェアを作り、予算やらつてのなさからかエキストラを充分確保できないことを知って、何よりあの脚本にカンドーしちゃった岸さん。
竹ヤリ隊(ゾンビに愛するものを殺された女たちの集団)はもっと大勢いるんやと思った……呼ぶ?……呼ぶ?と半ばボーゼンとしたままの幸一を尻目に、地元の連絡網を夜中にたたき起こして、見事おばちゃんたち20名からなる迫力の竹ヤリ隊を作り上げちゃう!

あのね、やっぱり、作りたい画、迫力のある画が出来るとなると、幸一は勿論、スタッフたちのやる気も変わってくるのよ。顔つきが、変わってくるんだもの。
カメラマンの嶋田久作がね、メッチャ良かったなあ。もうその顔つき、たたずまい、プロとして数々の現場を経験してきた百戦錬磨の感じ、ピッタリなんだもん!
スタッフたちの中で幸一が一番若い感じで、それはあの、ケツキックされて逃げ出した若い子がもっと若い感じだったから、余計にでさ。
幸一がビクビクするのもむべなるかなという感じ、このカメラマンから「やるの、やらないの!」と厳しく言葉を飛ばされるたびに、おずおずとスタートをかけていた幸一だった。

実際、カメラマンもなんか、こんなオソマツなゾンビ映画、みたいな気持ちが出ててさ、でも充分な数のエキストラが集まり、数が集まるとリーダーを決めるとか構成によって厚みも生まれ、スタッフ全員がその画に満足の笑みを浮かべて、カメラマンが言うのね「監督、レールしきましょう。その方が絶対いい」
……これ、泣けたなあ。だって、だってさ、幸一は、台本に、竹ヤリ隊の数もそうだけど、レール撮影も希望として書き加えていて、でも叶わないだろうと、頭をかきむしっていたんだもの!
実際、レール撮影している様子を、こっち側からレール撮影で追う、体育館?の夕暮れチックな画は、本当に、凄く、イイの!レール撮影にゆっくりとついていきながら、幸一がなんて幸せそうな顔をするの!

ゾンビ撮影でも、しっかり数を集め、それどころかきちっと先導し、指示を出し、声の小さい監督に変わって合図をトラメガで送る岸さん、助監督以上の存在(爆)。
この頃になると、スタッフの数が足りない代わりを補って、仕事を風邪だと偽って休んでまで働き始めてる。
車止めをしたのが仲間たちのワゴンで、「風邪はどうしたんですか、風邪。風邪、寝てなきゃダメですよ」「何か巻き込まれているんなら、言ってください。俺、岸さんのためなら何でもしますから」親方から、若い部下にまで問い詰められて万事休すの岸さんが、か、可愛い。
そこへ無線で「子役が逃げました。代わりを探してますので……」という撮影隊からの連絡に、急ぎ現場に戻ろうとした岸さんがふと気づいたように土手を上がって、あの子供自慢の若いもんに迫ってくる、な、なんスか、という彼。そうか、そうか!

期待通り、次のシーンでは、彼の目に入れても痛くないであろう幼い子が、あわれ灰色のゾンビメイクをほどこされ、木箱に入れられ川に流されるシーンの撮り。見るもカワイソーな不安げな顔で、流されるわが子に駆け寄ろうとせんばかりの彼を、岸さんが抑えているそこはかとない可笑しさ。
カットがかかると脱兎のごとく駆け寄って、あんたら何しとんじゃ!と、その引きの俯瞰の静かな画がなんともなんとも可笑しくって、むしろプロフェッショナル顔負けにきちんと仕事をなしたこの幼子に、取り乱す父親の画がさ!

そんな具合に映画撮影にのめりこんでいた岸さんのところに、親戚ご一行が現われる。村中ゾンビメイクの異様さに戸惑いながら行き着いた先は、岸さんが立ち働いている撮影現場。
「あんた、まさか忘れてる訳じゃないでしょうね」まさに忘れていた奥さんの三回忌。慌てて家に戻ると、東京に出て行ったはずの息子が居間をすっかり掃除して法事の体裁をととのえ、父親と二人分のフォーマルスーツもきちんと用意して、すっかり疲れて部屋の隅に押しやったソファでいびきを立てていた。

この息子に扮しているのが高良君でさ、「南極料理人」からの連投。いろいろクールな役柄を振られる高良君だけど、「南極料理人」のフツーの青年役の彼が、私一番好きだったのね。だからこの連投はなんとも、嬉しかったなあ。
仕事の決まらない彼に親戚たちから、オヤジさんの後を継げばいいじゃん、と気楽に言われて、彼ではなく、岸さんの方が激昂するのよ。本人がやりたいかどうかやろが!って。
浩一は突然の父親のケンマクに驚くんだけど、勿論岸さんは、今まさに孤軍奮闘している幸一のことを思い浮かべたに違いなくってさ……。

岸さんが戦線を離れた撮影現場、大御所を迎えての撮影に、スタッフ一同ぴりぴりしている。地元民たちがサイン色紙を携えて押しかけてくるほどの大御所。
しかし“羽場さんの尻、限界です”という状態、つ、つまり痔が限界である大御所俳優に、もう、もう、もうー、これぞピッタリ山崎努っ。
言ってしまえばね、同程度のベテラン、同じ大御所でもさ、これをたとえば高倉健には振れないでしょ。山崎勉ってのがさ、ピッタリだよねー。
重厚な大御所感アリアリな上で、バッチリコミカルをやれる人。過去作品ばかり思い出すのもアレなんだけど、「刑務所の中」の山崎氏を思い出しちゃったなあ。

大御所だし、こんな状態だし、早く終わらせなければいけない、テストもナシで本番行きましょう!と助監督から言われるような切羽詰った中。
それまでの幸一だったら、それこそこれにOKを出していいのか、若い女優に簡単に台詞を変えられてさえ苦悩していた彼が、台詞の微妙な、しかし大切な違いから、トーンの違いが生み出すシーンの意味合いの重さにまでこだわって、でもそれも髪の毛をかきむしって苦悩して。
時にはヘリコプターの音にさえぎられて更に髪の毛をかきむしり、祈るように手をぎゅっと組んで見つめている。

ここ、クライマックスと言っても、いいと思う。皮肉にもこの場には岸さんは法事で立ち会えず、つまり幸一に全面的な支えがない状態。
でも岸さんの力によって、今までは四面楚歌状態だった幸一に、スタッフたちが真の相棒になってきていて、この時幸一はすんごい、正念場を、図らずも用意されたってことなんだろうなあ。
物凄い緊張感と、笑ってはいけないんだけど笑ってしまう山崎努の、いや大御所俳優、羽場敬二郎のギリギリ痔の可笑しさ。
合間にすかさず横になって、息も絶え絶えにマネージャーから水をもらう山崎努の可笑しさときたら、ないの!

でもそれ以上に重要なのは、撮影が終わり、この田舎町の場末のスナックに幸一が羽場氏から呼び出される場面。
「あの……僕、なんか……」と緊張で口ごもる幸一に、横になりながらさっとたくましい右手を差し出す羽場氏。何のことやら判らない幸一が固まっていると、その右手を更に繰り出す羽場氏。
幸一が恐る恐る右手を出すと、がっちりと握手し、「また呼んでよ。素晴らしかった。監督。」こ、こ、こ、これは、キター!!小栗君がぐすぐす泣き出す場面を待たなくても、泣いちゃうよ!
遠くに聞こえる年老いた(爆)ホステスたちの、あら、どうしたの、泣いてるの、どうしたの、可愛いじゃないの、若いっていいわネなんていうかすかな声と、ホラ、この子に何か飲み物、みたいに、横たわりながら目顔で指示する山崎氏のなんか妙な可笑しさと、とにかく、なんかもう、ジーンとしちゃうのよ!

しかし、やはりクライマックスはやはりやはり、この後だろう。クランクイン、しかしどうやら雨雲が迫ってる。これまでも仕事を犠牲にしてきた岸さんに、更にメイワクだろうけれど、明日はクランクインだから、岸さんがそこにいないのは自分としてもなんとも……だから来てくれませんか、と鳥居が法事の最中の岸さんを訪ねてくる。この場面の喪服姿の役所さんはなんともイイ男で、やっぱりなあ、という感じである。
こちらも喪服姿が水も滴るイイ男である高良君が、あの将棋盤を引っ張り出してる。「なんか駒がぺたぺたしてる」あの時、台本を取り返しに着た幸一と味海苔をつまみにしながら一局はさんでいたから。
この後、父親のあとを継ぐことにしたらしい息子が、同じ作業着姿で、父親と同じように人差し指で味海苔をくっつけてはごはんをはさんで食べる朝食シーン、ひじをついて食べてるあたりがいかにもワカモンで、でもこのシーンと次の新作を撮っている幸一が海岸に置かれたディレクターズチェアに座って台本を一心不乱にチェックしている様子とカットバックされて、凄く、印象的で。

じゃなくて、じゃなくて!それはラストだけど、クライマックス、よ!
雨がね、やっぱり降ってきちゃうの。もうラストシーンを残すだけ。あまりにもやみそうもない強い雨に、雨は案外映らないからやっちゃいましょうという助監督たちに、カメラマンはぼそっと「映るよ」。
エキストラたちも寒さもあいまって帰りたがる。現場での監督の最大の仕事、選択を迫られて往生し、安いコンビニレインコート姿で、なすすべもなく雨の中歩き出す幸一。

と、その耳に、幻聴のような声が聞こえる。「晴れるぞ」
幸一はね、毎朝靴下をはくときに、黒はやめとけ、青もやめとけとか、どこからの声なのか、何かそんな声が聞こえててさ、甘いものを断っていたのも、ひょっとしたらその声だったのかなあ。
このシーンは、観てる時にはどういう意味なのかなあと思っていたけど、沖田監督自身が「南極料理人」の撮影時にどの靴下をはいていいのか判らなくなるほどに、何かを選ぶのが怖くなったという経験からきていたということで、ああ、なるほどなあ、と思った。何かを選ぶ、それが仕事なのに、と。
現場で決定を下すことが仕事であること、それが幸一を苦悩に追い込んでいることはきちんと示されているけれど、決定を下すこと=何かの選択をすることという頭がなかったから、ピンときてなかった。私、頭悪いな(爆)。
でも、このシークエンスがあるから「晴れるぞ」の言葉が靴下選びの時と同じく耳の奥に聞こえてきて、そして岸さんが遠くから走ってくるから、うわーっ!!って思うのだ!

岸さんの本業の場面でね、もうすぐ雨が降る、って親方に急いで知らせに来るシーンがあるのね。そのシーンの時は、家に帰ると洗濯物もほっぽらかしてのんきにメシを食ってる息子ととっくみあいのけんかになったりするから、上手いことまぎれちゃうんだけど、ホント、上手いこと、伏線だったんだなあ。
岸さんは、もうちょっとするとびたっとやむ、と言う。半信半疑のスタッフたちだけど、幸一は岸さんが言うことに確信を得て、準備しましょう!と言う。その一言でスタッフたちがワッと動き出す!
ゾンビはこっち、人間はこっちと指示するのがそこはかとなく可笑しいが、傘をさして、合羽を着込んで、スタッフたちは撮影の定位置に入り、本当に晴れるのかと、じっと待ち続けて……もうドキドキなの!

すると、本当に、ぽつぽつと雨脚がやんできて、雲が分かれて光がさしてきて……まじかよ、と空を仰ぐセカンドの助監督。急ぎエキストラたちの傘をかき集め、スタンバイするドキドキ感。
いつものように、いやいつものようにじゃなく、「やるの!やらないの!」と監督にスタートをどやすカメラマン。「やるに決まってンでしょー!」幸一もまた、初めてそんな声を張り上げる。
本番!の声を、監督も、助監督も、岸さんも張り上げる!その緊張感もあってか、ヒロインとその父親が肉親の情愛に負けて哀れゾンビに食われて次々と折り重なるラストシーンは、本当に緊迫感があって、凄くイイのよ!
ヒロイン役のあさ美ちゃん、彼女は鼻が利くかのように、いい作品にきちんと出てる。父親役の平田満は言わずもがなのドンピシャさ。

カットがかかり、キャストもスタッフも息をつめて監督の“選択”を待ってる。大きく丸を作る監督に歓声があがる!そしてそれを待っていたかのようにドシャー!!!とまた振り出す大雨!
撤収、撤収!助監督が叫び、エキストラたちが急いでテントに駆け出す俯瞰の画。幸一が雨の中座り込んで、何か呆然と感慨にふけっているところに、ぽんとかぶせられる青いヘルメット。
岸さんが差し出した手をぱん、と叩く幸一。笑いあう二人。テントに向って駆け出す。ああ、なんて、なんて、これぞ、幸福な収斂。見事な、収斂!

二人はそれぞれに生きる場所に戻っていくし、もしかしたらもう二度と会うこともないのかもしれない。
岸さんの息子がこの映画撮影に関して何も関与しないのも何か印象的だったし、それぞれのラストシーンが、本当にそれぞれの仕事現場で終わるのが、切ないような気分ももたらした。
でも、あのディレクターズチェア、重くて持ち運びが大変だから、とりあえずそのまま置き去りにされちゃうディレクターズチェア、その見切れた画面の外でスタートをかける幸一の声というのがね。
海岸を横切って運ばれてくるのがジョーズさながらのサメの頭のハリボテだというのも、あ、パニック映画連投だと思って、愛しくてね。
このディレクターズチェアが二人を遠く近くつなげているんだと思うと、グッとくるんだよなあ。

岸さんと幸一が何度となく顔をあわせる温泉で、タオルいっちょの二人が読み合わせをしながら撮影位置など確認して、そこにおじいちゃんが入ってきてリハーサルに巻き込まれるとか、そんなちょっとしたユーモラスがなんとも冴えててね!
「お兄ちゃん!」と呼びかけられて、ええ?と戸惑い、「こいつはもうゾンビなんだ!」と言われてえええ?と驚くおじいちゃんに爆笑!
てか、おじいちゃんに対してゾンビって、ヒドい!もうとにかく、大好き、やっぱり見直して良かった。凄く凄く、凄く好きだなあ! ★★★★★


希望の国
2012年 133分 日本 カラー
監督:園子温 脚本:園子温
撮影:御木茂則 音楽:
出演:夏八木勲 大谷直子 村上淳 神楽坂恵 清水優 梶原ひかり 筒井真理子 でんでん 菅原大吉 山中崇 河原崎建三 浜田晃 大鶴義丹 松尾諭 吉田祐健 並樹史朗 米村亮太朗 吹越満 伊勢谷友介 手塚とおる 田中壮太郎 本城丸裕 深水元基 大森博史 占部房子 井上肇 堀部圭亮 田中哲司

2012/12/2/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
正直あんまり観る気がしなくって、かなり重い腰をあげたのは、それは私も劇中の“周囲の人々”のように、それに慣れたふりして、見ないふりして、日常を取り戻したふりをして、いるからなのかもしれない。そうは思っても、そう判ってはいても、何か苦々しいような思いをどうしても感じずにはいられなかった。
のは、上手く、説明できない。いや、説明すればするほど自分の愚かさ、ミジメさ、弱さが露呈されるのがわかっているからなのかもしれない。そう、きっと私はどこかでもう、考えたくないと思っているのだ。あの惨状と、今も漂っている筈のホーシャノーを。

そう、判っていても。……ああ、どう言ったらいいのか、この気持ち。こういう映画は、作られるべきだとは思う。誰かが、作らなければいけないとは思う。でもそれは園子温監督だったのだろうか……なんて、不遜極まりないことを思う。
あの「ヒミズ」で、フィルムにあの光景を焼き付けるために、言ってしまえば物語上関係のない設定をムリヤリ作ったようであったとしても、あの即時性は、凡百のジャーナリズムを吹っ飛ばす、クリエイターとしての強烈な矜持を見た。

今思っても紙一重だったと思う。傑作になるか、糾弾されて終わるか。運命の細い線の上にギリギリで立っている様な、稀有な傑作だった。だから私は、心のどこかで、まさかまたしても、被災地を映し出すことを園監督はしないだろうと、思っていたのだと思う。
その後、時間が経って、つまり落ち着いて準備の上で撮影できるだけの余裕が出来ると、我も我もと被災地を題材にする映画が現われ、その多くが、そのゆるい心持がゆえに、まさに凡百であった。ヒミズが、そのトップに君臨し続けていたのに。

もちろん、園監督は、取材を重ねて、かの地の人たちの気持を代弁する映画を作ったのだろうと思う。彼らの言いたいことを、ぶち上げたのだろうと思う。あの時、災害時にも取り乱さず、礼儀を忘れない日本人を褒め称えられた影で、不安、恐怖、焦燥、裏切り、落胆、そんな言葉に置き換えられない様々などす黒い感情が渦巻いていたのだろうと思う。
でも……それをフィクションの形でこうして提示されると、ひどく形骸化されたように感じてしまう。“過剰な”防護服に身を包むいずみを冷笑する住人たちに、私は自分の心を見てヒヤリとした訳だけど、あんな風にあからさまにバカにしたように笑った人たちがいただろうかと思ってしまう。
いや、いたのだろう、いたのだろうけれど、これがフィクションとして提示されると、それこそ凡百の“人間はこういう時、こんな態度をとる”みたいな風に見えてしまうのだ。

そう、フィクション。もちろん、劇映画なんだからそれはいいんだけど、フィクションを際立たせるために取った設定なのか、そこは福島ですら、ないんである。
長島県。もちろんそんな県はない、架空の地名。最初予告編で見た時、福島をモティーフにしたフィクションなのだと思い、その時点でも、なぜ福島そのものにしないのだろうと、思っていた。何かその時で既に違和感があった。フィクションなのだからと逃げているような気がした。
実際見てみたら、設定は“フクシマの数年後”だった。福島のことを忘れたか。国が言うことはウソなんだと、夏八木さん扮する主人公、泰彦は吠え、避難指示にもいっかな動こうとしない。

福島でないなら、なぜ長島県などという、福島を連想させる地名を持ってきたのか。もともとは、福島そのものをモティーフにするつもりだったんじゃないのか。作劇上の説得力とかがあったのかもしれないけれども、なんだかたまらなく違和感があった。
フィクションというだけでも離れるのに、福島そのものでさえない。福島の数年後に福島の教訓が生かされていないことを示す本作は、それは確かに警鐘なのだろう、日本人は先述したようにあっという間に忘れてしまい、いや忘れたフリして日常を取り戻してしまう人種だから。

でも、東日本大震災は、これまでとは明らかに違った。津波を始め、映像として数々の惨状がリアルに人々の心に植えつけられた、初めてのケース。
原発だって、そうでしょ。チェルノブイリも見えない恐怖だったけど、放射能は確かに見えない恐怖だけど、どんなに国がウソを言っていたとしても、連日中継される遠くに映し出されるひしゃげた原発工場はリアルな恐怖だった。
それを、どうせ忘れてしまうんだろうという前提の元に作られたこのフィクションに、しかもその前提なのに“長島県”だし、なんか、なんかどうにもこうにも苦々しい思いを覚えてしまって仕方なくて。

しかもまたしても監督、奥さん使ってるし。いや別にいいんだけど……本作はさ、題材的にも国際的に、真っ向から打って出るテーマ性があるじゃない。彼女でダメだという訳じゃないし、ヘタだという訳でも無論ないけど……正直ここには本気モードの女優を使ってほしかったなあ。
だってそれ以外はメッチャ本気モードのキャスト陣じゃん。夏八木勲、大谷直子、ムラジュンの家族の布陣に彼女かぁ、と思うと……しかも彼女はキーマンでしょ。皆が放射能など忘れたフリして、自分を守るために他人を嘲笑うことに、子供を守るという本能を得て立ち向かうというキーマン。
……正直彼女がやると、そのまんま、イタい女にしか見えないんだよなあ。協調だの空気読むだのといったものを蹴散らすほどの強い女の意思を感じられないと、キツいんだもん。

まあそれは、彼女もまた母親となって、しかも他の母親からの情報がもたらされなければそうならなかった、つまり自分からの積極的意思ではないという弱さがあるってことなんだけど。
でもその、ひとつの愚かさを感じさせるのも、難しいし……。……なんか、ダメだ!軌道修正。どんな話か、軌道修正。

どんな話も何も、なんだけどね。でも設定としては、福島ではなく、福島からの数年後。のどかな地方が舞台。夏八木さん扮する泰彦は酪農を営み、認知症を抱えた妻と息子夫婦とささやかながら穏やかで幸福な日々を送っている。
お隣さんはいつまでもフラフラしている息子に手を焼いているようだが、「ウチも似た様なもんだった。そのうち落ち着くさ」と、いかにも平和な会話。
そんな中、大地震が起きる。泰彦は真っ先に原発を心配する。この時点では私、福島自体をモティーフにした物語だと思い込んでいたから、ちょっとした違和感を感じる。

……いや、こんなことを言うと語弊があるんだけど、子供時代福島にいた私は、原発は絶対安全神話を植えつけられていたの。地元の人たちはそう思っていたと思う。もちろん、彼のように常に危機感を持っていた人もいたと思うけど、この物語の中で、認知症の奥さんと繰り返し、「原発出来たの?残念ね。爆発しちゃったの?お父さん、それを心配してたのにね」という会話がなんども繰り返されるのが、なんだか……。
それはもちろん、今は皆が原発=危険と思ってるけど、そう思うべきだったんだけど、大震災以前は、決して、そうじゃなかった。そうじゃなかったことが、愚かだった。
でもここで、それが当然のように繰り返されて、そう思っていなかった人たちが何度も何度もこき下ろされているように感じて、なんかもう、いたたまれなくて……。

だからこその、数年後の設定なんだけど、だからこそ、なんだか卑怯だと、思ってしまう。本作の最大のキモ、原発から20キロ圏内のこちらとあちら、本当に隣同士なのに、ご近所さんなのに、テーープが張巡らされたあちらでは避難指示が出され、こちらではなされない。そのナンセンスに食ってかかる息子夫婦。
これは、あの時、何キロ圏内は警戒区域、何キロ圏内は避難区域とか報道された時に誰もが思ったことで、実際にそういうナンセンスな場面もあったのかもしれない。あったのかもしれないけど、でも、この描写はなんかあまりに、あまりだと思う。
そりゃまあお役所仕事ってのはあると思う。でも、じゃあ、何キロ圏内は何区域っていうことで区切る以外に、どうしたらいいの。おしなべて、テキトーに、そこら辺の人は、逃げなさいと言えばいいの。

あの大震災後、福島という地名がまさに一人歩きして、あんなに大きな県なのに、福島というだけで、逃げなきゃいけないとか、子供を育てられないとか、そこに両親を置いたままなんてあり得ないとか、色々な声が浴びせられて、凄く、……打ちのめされた。まさに、福島という区域のテープが貼られた気がした。あの時、実際は隣接したナニナニ県の方が近いんだとか思うことさえ、罪悪なのかと感じた。
今、良かれ悪かれ落ち着いて、何キロ圏内のテープで区切られたこっちとあっちなんてナンセンスなことは、誰も言わない、だろう。あの時には誰もが思ったことではあっても。

そして、劇中でもどんどんその境界線はアイマイになっていって、一度は避難しなくても良かった泰彦たちも強制避難になる訳だけど、だからそんなに、あの描写に神経とがらせなくてもいいのかもしれないけど、でも……。
確かにテープで区切られたあっちとこっちって、まさに映画的魅力に満ちてるからさ。それが何か、ズルい気がして。だってお役所さんだって大変っていうか、お役所さんが一番あの時は大変だったじゃん……。

そんな風に思うことこそ、私はマスメディアに毒されているんだろうか(爆)。そうかもしれない(爆爆)。
ところで、泰彦の息子、洋一はムラジュン。ムラジュンだよなとは思って見てたけど、近年の枯れた魅力の彼とちょっと趣が違ってて、何かちょいと甘ちゃん息子のような雰囲気で、あれ、ムラジュン……よね、と何度も思った。
まあ言ってしまえば家付き息子。奥さんを迎えて、母親が認知症ということはあれど、穏やかな生活を送っていた。あとは妻との間に子を授かるだけというところに起きた大地震。
テープで貼られたこっち側ではあったけれど、父親は、お前たちは若い。これから子供を産み育てていくのだから、ここから出て行くんだという。
子供のように抵抗する洋一。父親の思いを受け入れて出て行きはするものの、その後何度となく父親の顔を見に戻ってきては、抱きつき、一緒に住もうといい、何度も涙を流す。

この洋一との対照で、強い女房、いずみなのかもしれないが、先述の通りそれはちょっと描写として弱い(爆)。いずみが妊娠して、同じ病院に来ていた妊婦から「母乳からセシウムが出たの。気をつけていたのに……」と囁かれてから、いずみは防護服に窓に目張りの生活をしだす。
そんなことをするぐらいなら、もっともっと、心配がないぐらい遠くに行けばいいものを、と思っていたら、すぐに彼女はそのことも口にする。仕事も見つけて軌道に乗り始めていたのにと、困惑する洋一。

でも医者から「テレビに出ている医者がウソをついているんだ」と言われ、つまり、内部被爆に妥協しながら生きていかなければいけないことを突きつけられた洋一は、困惑から、妻への共感へと徐々に変化する。
同僚から、奥さんのやっていることは俺ら住民に対する侮辱だとも言われ、あんたらだって、ついこの間までマスクして、水道水は飲まずにいたじゃないかよと、吠えてきびすを返してしまう。呆れた笑いをもらす同僚たち。

……だから、ここがね。先述したようにね、その妥協の弱さ愚かさは、言われなくたって、彼らは判ってることで、こんな風に、それを冷笑したりする描写をされると、そのことの方がもっともっと、侮辱だと、思うんだよね……。本当にそんな態度、とるだろうかと。
被災地ナンバーの車がガソリンスタンドで差別されたりとかいうのは、割と周知の話で、ここでそれを出すのかとも思ったけど、まあそれは世界マーケットに出す映画として使ったのかなとも思ったけど、それとは、違うじゃん。違うじゃん……。

そりゃ、“テレビに出ている医者がウソをついている”というのは、そうかもしれないと思っていただけにショックだったけど、でもそれを告げる医者が、それに対してどう思っているのか、この場合それはここで子供を育てていく住民たちに対して、仕方ない選択だったのか、医者として仲間を糾弾すべきなのか、態度が全く明確じゃなくて、ただ、したり顔で、正義を伝える使者みたいな顔して、告げるのが、私は、私は、許せないんだよ!!

国からの強制退去が間近に迫っているのだから、その前に納得して出て行った方がいいと、なんども説得に訪れる役所の二人組。
若い方の山中崇扮する加藤の、「ジイさんのせいで、こんな危険なところに何度も来てるんスよ」というあからさまな態度は判りやすくムカつき、その判りやすさ、単純さの人物造形こそがそれ以上にムカっ腹が立つんである。判りやすすぎ、それも若い方ってのが、判りやすい、それこそ侮辱!

彼は実際は割と話が判るというかチャーミングなところがあって、認知症の奥さん、智恵子が話す、夫とのプロポーズ秘話に爆笑し、持ち出してきた浴衣に「可愛いじゃないッスか」と褒めて喜ばせる。今はもうおいそれと足を踏み入れることも出来なくなった雑木林に降り立って「懐かしいな。ここでよくカブトムシをとったんスよ」と木漏れ日を見上げる。
そこまでは単なるムカつく若手公務員だったのに、まるで埋め合わせをするかのようなこの描写に若干のイラッと感を感じる。……そのあたりも、取材の故なんだろうか……??

泰彦をここにとどまらせているのは、もちろん奥さんのこともあるけれど、牛たち、であった。あの震災の時、数多く報道された、置き去りにされ、飢え死にするしかない牛たちを始めとした家畜たちの様、あの“フクシマ”からは数年後の設定だからか、“殺処分”の通達が冷たくぺらっと一枚の文書で届けられる。
泰彦は、牛たちを猟銃で、自らの手によって、始末した。猟銃を持って、ゆっくりと牛舎に入っていく泰彦=夏八木さんに、どこまで映すのかと、気が気でなかった。

しかし、銃弾の音の替わりに、轟音のような風の音が重なる。最後の日々、まさに最後の日々、妄想の盆踊りにとっときの浴衣を着て智恵子は出かけ、突然いなくなった妻を捜しに、立ち入り禁止区域を強引に突破して探しに出かける泰彦。
白銀が津波で流された惨状を隠した街で、無邪気に盆踊りを踊っていた。いつもいつも「うちに帰ろう」と繰り返していた智恵子。それは単なる口癖のようなものなのだと泰彦は説明していたし、実際そうなんだろうとは思うけれど、もちろん、本作の中でそれがイミシンに響くことが計算上なのは明らかであり、それもアザとい感じがして好きじゃない(爆)。

牛を始末した猟銃を奥さんにも向けた泰彦だけど、無邪気な笑顔を見せた智恵子に銃を降ろし、抱きしめ、キスをする。奥さんも驚くけど、観客の方が驚く。しかも一度ならず二度までも。
いくら「おとうちゃんとなら死ねるよ」というロマンチックな台詞を返されたとしても、夏八木さんがガバチョとキッス!ある意味ショックー!!
……まあ、つーか、リアリティないよなと思うのは、それこそ単純に、この年頃の夫婦はこんな感じと決め付けているのだろうが、それは判ってるけど、なんたって園子温フィルム、海外にバンバン出ちゃうんだから、これが日本のこの年頃の夫婦のスタンダードだと思われるのもどーかなーっ。
いや別にいいのかもしれんが……でも、何かこう、この画って、おとぎばなしチックでしょ。その後、彼らの思い出、いや、歴史が刻まれた木が、恐らく彼らとともに炎に包まれるんだもの。キスして、炎に包まれて、永遠の眠りにつく、なんてさ……。

ここまでうっかり書きもれてたけど、かなりメインのシークエンス。お隣さんの、息子とその恋人。
でんでん扮するお隣さんのおとーちゃんは息子のことをいつまでもフラフラしてと呆れていたが、震災が起き、津波にやられた沿岸に住む恋人の、恐らくは流されてしまった彼女の両親を「あいつが納得いくまで付き合う」と言う息子に「イイ男だな」と父親、苦く照れ笑いする息子。
その後、息子とその恋人が出会う、“子供の頃聴いたビートルズのレコード”を探す子供たちのシークエンスはちょっと……ちょっと過ぎてアレだったが、避難所の早朝のあの父と子の会話は、良かった。

ひとつだけ、そしておおいに気になったこと、避難させられ、恐らくもう戻って来れない隣家のかわゆい柴犬を境界線を越えて抱きかかえて連れてきていたのが、妻との心中の前に、ノープランで放り出しちゃう。
彼?は自分の家である隣にトコトコ戻っていくんだけど、こんな風に単純に放り出すなら、最初から面倒見るなと、言うのは、さすがに、ヒドイかな……でも、これはあんまりだと思った。 ★☆☆☆☆


ギリギリの女たち
2011年 101分 日本 カラー
監督:小林政広 脚本:小林政広
撮影:西久保弘一 音楽:
出演:渡辺真起子 中村優子 藤真美穂

2012/8/5/日 劇場(渋谷ユーロスペース/レイト)
うーん、なんか心に響かない、などと言ったら、すんごい非難されるのかしら、人間性に問題あるかしら。
被災地、そこで再会する三姉妹、ぶつかりあい、女は前を向いて生きていく生き物と、高らかに宣言していく。そんな崇高な作品を、そんな風に言ってしまったら。

……ていうか、そもそもの、本作のウリというか、ね。冒頭35分のワンカットを象徴的に、全体で28カットしかないという長回しだらけ。いかにも玄人好きそうな作り方。
そもそも私はもう、ホントに、ここで何度も言ってるけど長回しが苦手で、長回しやってるよ!って感じに見えてしんどくて(爆)、ホント、ダメなの。
時には長回しだってことを気づかないぐらい、スリリングに、緊張感で引き込まれる作品もあるけど、本当に、それは数少ない。あ、長回しだったんだ、って後から気づいてゾゾッとなるような、そんなのは、本当に、数少ない。

本作、そのウリの冒頭の35分は、まさに、長回しやってるよ!って感じだった。正直、この場面をカット割らない理由が判んなかった。
がらんとした高台の一軒家を訪ねてくる長女、出ない水道をひねってみたり、からっぽの冷蔵庫をのぞいてみたり、あちこち窓を開けてるうちに、次女が来て、三女が来て……。その間の会話も固定カメラで延々と映し出す。
こうなるとね、なんかホントに舞台の上のお芝居を観ているような気がしだすのね。映画という、ここで生身の人間がリアルにぶつかっている感じが薄れだしてきてしまう。

特にヒステリックな長女が「座んなさいよ!」と絶叫するように繰り返すに至っては、そもそもなんで彼女がそんなに座ることにこだわってるのかも判んないし(次女がなんでそこまで、座んないことにこだわってるのかもよく判んないけど)、会話劇、板の上の芝居を見ているようで。それは悪い意味でね……作られた、フィクションの芝居を見ているようで。
そりゃ作られた、フィクションの芝居に違いないんだけど、ここは被災地で、舞台は監督の持ち家が使われ、がれきの山が生々しく残るロケーションを映し出すのに、この冒頭でそんな思いを植えつけられるのって、キツい。

本当に、なぜこの35分をカット割らない必要があったのかなあ。それが判らない私がバカなのかなあ。
あのね、長女がニューヨークから帰ってきたダンサーで、宣材写真に使われている、三姉妹が倒れこむような画は、踊り続けて倒れる長女に駆け寄る二人の妹、みたいなことだということはなんかちらと耳にしていたから、それ絡みの、なんかセンシティブな、心がぶつかり合う場面で35分なのかと、思ったの。

まあ冒頭からそんな訳もないのかもしれないけど、でも三人が再会する、ぎこちなさばかりが残る35分をカットなしに見せたい理由が判らなくて。なんか見てて台詞の舞台くささにヒヤヒヤするし、何気に噛むし、つき合わされてる感アリアリな気がして、滅入ってしまう。
その後の展開は、長回しとは言ってもそりゃまあ冒頭ほどではないから見てられるんだけど、でもこの冒頭で、彼女たちを好きになる、共感できる、という気持ちがチラとも思い浮かばない、いわば拒否感が強烈に植えつけられるから、その後がなかなかキビしい。

時々、あるんだけど。こういう女くさい言い回しの多さ。“わね”“よね”“かしら”etc……私が思うだけかもしれないけど、なんか、男の人が考える女の言い回しのような気がしてしまう。
特にこの三人はそれぞれに、一匹狼のようにトンがって生きてきていて、長女は単身ニューヨークに飛び、次女はお姉ちゃんのぶんどった父親の保険金をぶんどり返し、三女は姉たちに捨てられて野良猫のように生きてきた。
三女なんかは見た目もボーイッシュなのに、かしら、とか、わね、とかいう語尾がなんとも違和感で、そんな瑣末なこと気にすることの方がおかしい??でもこれって結構、重要なことな気がするんだよなあ……。

それこそそれなりにカットが割られていれば、それほど台詞に気をとられることもなく、スルーしていたかもしれない。でもがっつり会話の応酬を聞かされると……凄く、気になるのだ。
今の女の子(って年でもないけど)、こんな言い回し、するかなあ、って。なんか昭和の女学生なんだよな、なんとも。

三女はこの地に残って震災の惨状を目の当たりにしたけれど、長女はニューヨーク、次女は東京、という遠い土地にいた。
母親は浮気をして家を出て行った後死に、父親もその後、倒れて闘病した後に、死んだ。
父親の闘病に青春を奪われたと長女は言い、次女はお姉ちゃんが保険金をとっていったと言い、三女は訳も判らぬまま家の管理を任され、ひとりぼっちになったと訴えた。

こうして見れば、三女がお姉ちゃん二人に噛みつくのも判るし、私が妹だから思うのかもしれないけど(爆)、結構ヒドいお姉ちゃん二人である。
まあそれぞれに事情があったんだろうとは思うけれど……でも少なくとも、二人とも、自分が進みたい道、あるいは逃げたい道だったかもしれないけど、それは出来たのだもの。

長女はひどい頭痛に悩まされて、劇中眠ったきりで、次女と三女のやりとりが主に繰り広げられていく。
自身も“頭の病気”で夫と子供から引き離され、死のうと思いつめていた次女が、でも被災者の人たちに申し訳なくて、死ねなかったとか、言うのね。
長女も、ニューヨークで「日本人は絆を大事にするんじゃないのか、帰らなくていいのか」と散々言われてイラついたとか言いつつ、次女と似たような思いを抱えて帰ってきたんだと思う。まあ、情婦をやってた“チビでハゲ”の舞踏家が死んでしまったこともあったにしても。
そして三女は、避難所を転々として、家があるからと避難所を追い出され、今まで野良猫のように生きてきた、と。

でね、この、被災地とか、避難所とか、復興してるとか、不謹慎とか、申し訳ないとか、……あの震災からニュースだのなんだので散々聞いた言葉たちが、ここで改めて繰り返されると、ひどく色あせて聞こえてしまう。
そんな風に思う私がキチクなのかもしれないけど、でも、一人の、トンがった、一匹狼の、あるいは野良猫の女たちが口にするには、あまりに使われすぎて、擦り切れてしまって、彼女たち女の貪欲な生きていく欲望の中で交わされる言葉とはどうしても思えないのだ。

いや、確かに、彼女たちが“貪欲に生きていく欲望”を、その決意を固める前の時点ではある。確かに彼女たちは、そうした擦り切れた言葉でしか、今の現状をとらえられないという皮肉を示しているのかもしれない。
でも、それを感じとれるかっていったら、うーん……どうなんだろう。女三人、三人きり、もっともっと、生々しい言葉のぶつかり合いが聞きたかった。

確かに画的には生々しいぶつかりあい。ずっとクールさを崩さずにいた次女が、自分の事情をさらけ出し、だけど三女から、「死にたきゃ死ねば。とっとと死ね!」と言われるシーンなんか、それこそ次女が持ち出す被災地の人たちの苦しみだのなんだのって言葉の空々しさに三女が反発する気持ちがよく判って良かったけど、でもそれもやっぱり弱い気がしたなあ。
被災地の人たちへの申し訳なさ、という次女の言葉の生っちょろさに、この地で野良猫のように生き延びてきたという三女が、もっともっと、えぐるほどに突っ込んでほしかった。

三人きり、なんだもの。ホントに。女三人きりしか出てこない芝居は、ホント、“芝居”よ。冒頭の35分がなくても、芝居感がただよいまくってる。“衣装”もそのまんまだしね……。
物語を切り込む長女が、ダンサー風?のキャミっぽいロングワンピースで、だけどその上に、明らかに冬物なコートをまとって現われるのがさ、なんか、いかにもお芝居チックで、言っちゃえば異様、なんだよなあ。

彼女はそれを次女に「これが成功者のいでたちだと思う?」と自嘲気味に問いかけ、次女は「充分成功者のいでたちよ」と返す。そのわざとらしいファッションが“成功者のいでたち”だという次女の皮肉なのか、そのあたりが微妙なのもキビしい。
渡辺真起子は大好きな女優さんだけど、こんなヒステリックな芝居を意図的な引きの画で見せられ、かと思えば超ドアップでスッピン(別にいいけど)の、ちょいと押し付けがましい迫力で独白を聞かされ、しかもその後はほとんど失神状態、若年性アルツハイマー?みたいな??
これじゃやり逃げじゃないのお、とふと思ってしまうのは、よくないのかしらん??

宣材写真にもなってるシークエンス。こんこんと眠り続けていた長女が突然姿を消し、防波堤で憑かれたように踊っているところに、彼女を探していた妹たちが駆けてくる。
何きっかけ?というぐらい唐突に、次女がガマンならんという感じで悲痛な絶叫をかまし、三女は、これまでにも幾度も繰り返した、私は捨てられたんだという苦情を言い募る。

……三女の言い様はまだ判るけど、次女の発狂じみた反応がよく判らん……。
次女が三女に、自身の“頭の病気”や、それがゆえに夫や愛する子供から引き離されたことを告白するシーンって、この場面の前だっけ、後だっけ?
次女と三女が被災地ロケーションで二人話し込むシーンが多いんで、どれが後先だか判んなくなっちゃう(爆)。

次女が言う、被災地の人たちのことを思うと申し訳なくなるから……というのをうがって考えれば確かに、彼女たちの言い様、言動は、単なるワガママと斬って捨てられる、かもしれない。
でも、彼女たちがこの被災地出身で、こんな震災があるなんて思わずに田舎を捨て、個人的な哀しみでいっぱいいっぱいになっている自分を愚かで情けなく思い、っていうの、大なり小なり、被災地を出身としてたり、住んだ経験があったりすると、判るんだよな。
普通の生活を送っていたら、充分悲しみ、苦しんでオッケーな要素が、“被災者に比べれば”という条件の下に却下される苦しみ。
いや、彼女たちのような立場の人たちのみならず、あの震災以降、大なり小なり、全ての日本人が、そんな思いにとらわれたと思う。そう、そのことを、感じさせてくれれば、良かったのだけれど。

庭に出したテーブル。何日分かで作ったカレーもなくなり、その間ずっと長女は眠り続けている。息をしてれば死んではいない、そんなクールな言い様の次女と三女はけんかをする。
しかしそのまま時は過ぎ、目覚めた長女は塩にぎりを両手に持ってほお張り、三女は次女に最後のおにぎりをとられてしまう。
次女は「ここで働き、また男を作り、また子供を産む、女は前を向いて生きる生き物、昔からそう!」と高らかに宣言。三女は呆れてそんなお姉ちゃんを見ている。「私たちが持ってる総額、700円で、町までのバス代にもならないよ」と。

画面見切れた方向から、煙が漂ってくる。長女が妹たちを呼ぶ声がする。「火が消えそうだから」彼女がくべようとしているのはなんと100ドル札の無造作な束!
止める妹たちを振り切ってイヤイヤをするようにくべ終わった後、彼女が妹たちに訴えるのは、「ねえ、いつになったら朝ごはんにありつけるの?もう私、お腹ぺこぺこ!」今さっきまで両手に塩むすびを持ってかぶりついてたのに!
妹二人は腹を抱えて笑い出す。ただただ笑い、止まることがない。
……これって、笑えることなんだろうか。お姉ちゃんすっかり、アルツハイマーになっちゃったのに。それとも辛い過去すべて忘れられるお姉ちゃんへの祝福の笑い、なんだろうか。

私は正直、好きになれない映画だった。古いストーブ、ランプ、避難所となっていた校庭のブランコ、「プールがないから」と、海まではだしで駆けていった幼い頃の思い出、「黒潮だから暖かい」と父親に言われた“ウソ”、明け切らぬ深夜から早朝の色合いの中で、泣きながら姉妹二人で語った場面……。
いくつもいくつも、ノスタルジックな魅力はあるけれど、それらが皆“震災”が生み出した、擦り切れ、ありふれた言葉やイメージに簡単に飲み込まれてしまう。

あの震災の後、勇気を持って被災地をロケーションする映画は、数少ないながらもいくつか、あった。本作はそのいくつかのうちのひとつで……その、クリエイターとしての使命感はとても素晴らしいと思うけど、それだけで、全ての作品に対して諸手をあげてスバラシイと言ってしまうのは、それは、してはいけないことだと思うんだ。

それにね、子供を産む、ということを言わせて終わりなのは、特にこの微妙な年頃の女に対して、凄く危険なことだと思うよ。やっちゃ、いけない。★★☆☆☆


桐島、部活やめるってよ
2012年 103分 日本 カラー
監督:吉田大八 脚本:喜安浩平 吉田大八
撮影:近藤龍人 音楽:近藤達郎
出演:神木隆之介 橋本愛 大後寿々花 前野朋哉 岩井秀人清水くるみ 藤井武美 山本美月 松岡茉優 落合モトキ 浅香航大 太賀風助 鈴木伸之 榎本功 東出昌大

2012/8/22/水 劇場(TOHOシネマズ西新井)
困ったことに風邪を挟んでしまって、映画を観っ放しのまま書けずに10日も経ってしまった。もうこうなったらこのまま書かずにスルーしようかとも思ったが、10日経って、記憶が薄れがちになったまま書くというのもなかなか出来ないことなので面白いかなと思った。映画の内容からはいつも以上に離れていくかもしれないけど……。

でも正直観ている時にも、この作品のどこに力点を置いて見ていたらいいのか、判らなかった。というか、もっとありていに言ってしまえば、つまりなんなの、という気持ちがしないでもなかった。
だらっとした今どきの高校生の日常を揺り動かす桐島というスター生徒が、まるで失踪よろしく名前ばかりが登るだけでいっかな登場しないというのが、最後まで登場しないというのが、そういう構成なんだろうなと思いつつもなんだか思わせぶり過ぎるというか、これって上手い構成ダロ、なんて言われている気がしてちょっと気に入らなかったし(爆)。
それを言っちゃったらこの物語自体が成り立たなくなるのは判っているのだが、なんとなく、こういう、上手い構成だろ、と見せつける感じの作品って、時々あるけど(割と若い人にあるけど(爆爆))、あんまり好きじゃない。ひがみかしら。

でも多分、もっと深い部分で……この桐島がスター生徒だから、だから生徒たちを揺り動かすというのが単純に、底辺学生だった私には気に入らなかったという、実につまんない理由なのかもしれない。
実際、これぐらいのスター生徒、全校生徒の誰もが知っているようなスター生徒、バレー部のエースで全国選抜に選ばれるような男の子でなければ、これほどまでに影響を与えないだろう。
まあ言ってしまえば桐島君は波紋を起こすために池に投げられた石に過ぎず、スター生徒の桐島君、という文字面だけが必要な存在なのだから、そのことにイラッときても仕方ないんだけど、でも、なんだか、そう思ってしまった。

その中に惹句よろしく「この中にあなたがいる」とかなんとか、そんなんがあってね、ご丁寧にも運動部か文化部か帰宅部か、そして男子か女子かで分けてページに入らせる。そこで、そーゆーことか、と思った。
そういう力点で見るのなら、実に判りやすい。全ての青春物語(と言ってしまっては言い過ぎかもしれんが)が、つまりはそこに力点を置いている。
ことに、こんな風に全ての学生に影響を与えるほどのスター生徒が投げた波紋が生み出す様々な物語は、そのどこかにあなたがいるでしょ、という共感を得やすいとは思う。
でも、どうだろう……。果たしてこの中に、“私”はいるんだろうか??

波紋を投げかけるのは桐島君だけど、主人公は、少なくとも映画においては、スター俳優である神木君であることは間違いない。
あの美しいお顔をわざとらしい黒ぶちメガネに隠して、判りやすくサエない風貌の親友と共に(でも前野君!彼、堂々と高校生やってるけどオイ!)映画部で男ばっかり肩寄せ合ってる。
自作の脚本すら通らず、先生の自己マンな青春映画を撮らされて周囲から失笑されている有様。
彼が撮りたいのはかつて黄金期があったホラー映画、リビング・オブ・ザ・デッドならぬ、生徒会・オブ・ザ・デッドの脚本をリキ入れて書き上げているんである。

あらゆる部活の、あるいは帰宅部の生徒たちが出てくるけど、まあその中でなんとか共感、というか共通部分が得られるのは神木君たちかなあ、と思う。
でもそれでも、映画部であって映画研究会ではない、剣道部の隅っこではあっても部室もちゃんとあり、映画といえば映研でしょ、という私らの時代は遠く過ぎ去ったのか……などと思ったりする。

しかもしかも、オフィシャルページの時点で、いや観ている時点で思っていたけど、文化部は華の吹奏楽部だけで、クラめの文化部、あるいは帰宅部の女子など皆無である。
吹奏楽部の女子に武文(前野君ね)が引け目をバリバリ感じるのは凄くよく判る。文化部の中でトップの華やかさだし、実際、劇中でも吹奏楽部がいい成績を取っていると朝礼で発表されて、誇らしげにしている様子が描かれるんだもの。
つまり……少なくとも本作の中では、文化部で取り上げるべきなのは吹奏楽部のみ、そして全ての対象の最下層としての映画部、それでも部、充分じゃないのお、と思う。

……私ゃー、何をひがんでいるのだろーか。ううむ。つまり、私はこの中に私を発見出来なかったから、ひがんでいるのだろーか。
まあとりあえず、文化部街道まっしぐら、しかもヘタレな私は“人間関係”とやらで、そんな大したことでもなかったのにすべて一年ともたず、感覚としては大体帰宅部。つまり、このヒエラルキーの中にさえ、入れてもらえない部類、だったんである。
私がこの中にいても、桐島君が部活をやめようと、影響を受けない生徒だっただろうと思われる。神木君たちの映画“部”が影響を受けるギリギリライン、つまりそこぐらいまでは、まあ人間扱いされるということだ。
ひがみすぎかな……でも正直、これを書いたお方こそ、どのラインにいたのだろうという気がしてる。現代高校生の描写は巧みだけど、見えてない部分も結構ある気がしている。そりゃまあ、全てが見えている訳にはいかないけれども……。

メインとなるのは、勿論桐島君の周辺の人物。カノジョであり、友達であり、である。カノジョの友達、とか、部活の仲間、とかになると、微妙に関係性が離れていく。その面白さこそであり、私がひがみっぽく思うことはまあ、つまんないタワゴトなのであろう(爆)。
スター桐島のカノジョはさすが、見た目からして芸能人みたいな、もう完璧、AKBにいそう、くるくるヘアーにメイクもバッチリの美女。冒頭でカワイイ下級生から告白めいたことをされて余裕の返しである。
その友達、つーか、取り巻きって感じのコも、わかりやすくワンランク下なあたりがアレだけど(爆)、ヘアスタイルもメイクも、それ風である。
イケてないクラスメイトやマジになることを鼻で笑う風の彼女に、とりあえず友達しているそのまた周りの女の子たちが、それこそとりあえず合わせてはいるけどしっかり距離をおいているあたりはリアルである。

でももっとリアルなのは、その距離をおいているラインの中でも、更にラインが引かれていること。地味目のバドミントン部の女子二人、片方は才能のある亡き姉にコンプレックスを持ち、片方はそれなりに出来るプレイヤー。
ハデ目の女の子たちと友達しながらも距離をおくことを明確にしているのが、それなりに出来るプレイヤー、かすみで、亡き姉のみならず、かすみにも、ハデめの友達にもコンプレックスを持っている実果はそこまで出来ない。
それはかすみほどに自信がないからに他ならない。かすみほどに、ハデめの友達と距離をおくことにも、自信が持てないんだよね。
そういう意味では文化部じゃないけど、実果にはちょっと、共感が持てるなあ。それにかすみはあちこちに判った顔ふりまいて、一番ズルいんだもん。実はコイツが一番、イラッとくるヤツなのかも……。

そういう意味では、かすみは誰にもナイショでお気楽帰宅部の男の子と付き合っていたりするし、何より映画部に情熱を燃やす涼也(神木君ね)に理解を示す風をしながら実はバカにしてるし……とまでは言いたくない、つまり重きを置いていないし(でもその方がヒドイかも……)やっぱり一番ヒドイヤツかもしれない、と思う。
一番、安全地帯に身を置いているヤツ。見た目も地味目な女の子に落ち着かせて、実は割と美少女で、本気出せばトップ人気の女子にも劣らなそうなのにさ。
バド部で一緒の実果はその点、その地味目レベルが彼女のナチュラルさなんだけど、彼女自身も友人が“地味目に落ち着かせている”のを何となく感じているんじゃないかという気がしている。
原作でどう描かれているかは判んないけど、こうして映像として、ビジュアルで見ると、残酷なまでにそれをハッキリと感じる。

この物語の中に自分自身を見つけるのは難しいけど、一番距離をおきたいヤツが誰かって言われたら、このかすみかもしれないと思う。
ハデ目女子はもともと世界が違うし近づけないし。クライマックスのビンタがあっても、でもやっぱり、だなあ。あのビンタはとってつけたように、感じた。

それこそとってつけたように書いてしまったが、まあそういう前提で書き進めているんだから、許して(爆)。
まあね、まあ、色々、あるのよ。桐島君は波紋を投げかけるだけで最後まで登場しないからさ、つまりは高校生のあらゆる、なのよ。
桐島君の影響を最も受けるのは、彼の代わりにリベロを任された小柄で地味なバレー部員、風助。わっかりやすく多部員たちに能力不足を暴力的に当たられる。
このバレー部員たちの横暴はそれこそわっかりやすく映画部員たちも蹴散らし、クライマックスとなるんだけど、いかにもここ、実力も華もある運動部員と、全てがない文化部員のあまりにも見たくないぶつかり合いでさ。
……こういうのがあるから、一体本作が何を言いたいのか、つまりなんなのかと、観終わってもうーむ、うーむと思うばかりなのよ。

文化部の代表は、先述した文化部の華である吹奏楽部、その部長を演じる大後寿々花嬢である。クラスに好きな男の子がいて、その子、宏樹は帰宅部なんだけど、なんか何でも出来る子で、野球部の先輩から日曜日ごとに試合の勧誘を受けている。
放課後は帰宅部仲間でテキトーにバスケを楽しみ、帰る。寿々花嬢演じる亜矢はその姿を眺められる屋上で、サックスの自主練を行うのが日常である。ちなみに、それは後輩にバレバレなんである。

後輩だけでなく、宏樹のカノジョにもバレバレである。宏樹のカノジョ……あのハデ目の女の子2、である。桐島のカノジョの友達、ね。 亜矢の気持ちに気づいて、見せ付けるために彼との待ち合わせ場所で長―いキッスをかましたりする。
でもね、なんかね、彼の気持ちは薄くて……薄いように見えるんだよね。ていうか、彼女自身だって、どこまで彼への気持ちがあるのか。
この物語自体がそういう部分を掘り下げないというのもあるけど、彼らにしても、桐島とそのカノジョにしても、どこかプレートとしての恋人関係のようで、トキメキなんぞは全然、感じなくて。

それにそう、文化部の代表であり、唯一の文化部、だ。映画部はもはや、文化部として認識すらされていないのは、屋上で撮影したい涼也から、ちょっとずれて練習してくれないかと言われて、私は趣味や遊びでやってるんじゃないんだと応酬するところ。
ちょっと遠い記憶でアイマイだけど、とにかく遊び、という言葉は入ってた。涼也はまるで予想外の言葉を言われたように衝撃を受ける。
実際問題、好きな男の子を見たいだけの理由で屋上の定位置で練習という名のサボリを敢行している、しかも部長の彼女の方が真剣じゃないと言われたっていいぐらいなのに。

ヒエラルキーの最下層からは、全ての人間が良く見える。頂点の人間は全てが見渡せそうに見えて、実は一番狭い世界しか知らない。頂点の桐島君が最後まで出てこないのは、そんな皮肉さえ込められているのかもしれない、と思う。
涼也たち映画部の男の子たちは全校生徒から失笑と冷笑の下に置かれているけれど、実に全ての人間がよく見えている。
でもここが最下層ではないことは、世の中の学校に起こっている悲惨な事件を知っている私らにはよくよく承知されていることであり、ここで示されるヒエラルキーは何か、今更というか、ひどく楽観的にさえ見えてくる気がするんである。

ほんの数日間の出来事で、しつこいぐらい何曜日、というのが示される。駆け戻り、違う人物からの違うアングルでまた、示される。最終的にはすべてが収斂されている、の、かなあ?
体育館、屋上、狭い部室、落ち葉の積もった校舎の裏、大人になるほどに得がたいものと感じる数々のアイテム。特にヤハリ映画部の手作り感たっぷりの撮影風景が愛しいと思うのは、それはヤハリ、映画ファンであり、華のない文化部経験者だからなのだろうか?

でもそれよりも、涼也がかすみとショッピングモール内の映画館で偶然行き会うシーンが最もグッと来た。何せかかってる映画が「鉄男」
それだけで彼が彼女とシンパシィを感じてしまって舞い上がるのが判るのに、その時の、ドリンクをささやかにおごったり、タランティーノで何が好きとかいう会話とか、映画ファンの大人には身もだえするほどのハズかしテレ判る判るー!
なのに、なのになのに、彼女ったら、後にカレシに「ケンカした時に時間あって飛び込んだだけで、なんかマニアックな映画」と言うのだ!!!か、か、か、哀しすぎるー!!!
涼也が「鉄男」のハリウッドリメイク裏話を披露するトコとかさ、鉄男世代、塚本世代の私らには判りすぎるほど判るだけに、もう、もう、すっごい身もだえ!!……これって、原作にはどうかしらんが、なんか監督のシュミ入ってそうだけど、どうなんだろうか……。

なんかとりこぼし大アリだけど、10日も経ってるからカンベンしてくれ(爆)。★★★☆☆


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