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大江戸性盗伝 女斬り
1973年 71分 日本 カラー
監督:藤井克彦 脚本:桂千穂
撮影:前田米造 音楽:坂田晃一
出演:小川節子 江角英明 梢ひとみ 宮下順子 五條博 林美樹 高橋明 読文太 桂小かん 小森道子 宝京子 丹古母鬼馬二
しかし脚本家さんの名前におおっ、と思う。そりゃそーだ、だって私は判りやすく大林教の信者なんだもん!
つーか彼もまたフィルモグラフィーを眺めてみると、多くのピンク作品を執筆した人。その中には私の記憶にもある(これは覚えてた(汗)傑作モンも入ってた。……ヤだなあ。ほんと、私、もうちょっと覚えてろよ。
他にも助監督に長谷川和彦の名前を見つけて心躍り、キャストにはえーと、私が知ってるのは江角英明と宮下順子ぐらい、かな?
江角氏はロマポル時代は宮下順子とのコンビが有名だったということだが(今調べた(汗)。無知すぎる……)本作の宮下順子は、確かにキーパーソンだけど、ていうか、ラストにまさかの再登場で投げっぱなしのまさかの大ラストにアゼン!なんだけど。
とにかくとにかく、ヒロインは細眉がちょっと怖い小川節子(私初見かもしれない……)と、そのたおやかな人妻に溺れてしまう主人公、五條博なんである。
あら、江角英明じゃないじゃない(汗)。でもオチを明かせば江角英明が主人公、というか、影の主人公と言えなくもない。
本作の企画上映は、妄執、異形の人々傑作選、ということで、いわゆる通常の?ロマポルから外れた??(スイマセン、なんか勝手なこと言ってるけど)本作がここに登場したのは、つまりはそういうことなのかもしれない。
物語の冒頭から女たちを、そして観客を震え上がらせる般若の面をつけたレイプ殺人犯、その正体が実は、富も名誉も美しき妻をも得た、旗本、皆川頼母だということなんだから!
そう、その皆川頼母が江角英明。端正で理知的なルックスは、ヤクザからの借金取りにあえいでいるドサンピン浪人、新次郎には足下も及ばない。
まあその新次郎、演じる五條氏はどこか幼さの残る顔立ちが母性本能をくすぐる魅力があり、なんたってロマポルだからテクはバツグン(爆)それが、高貴な奥方、綾をとりこにしてしまうんだからね。
しかしこの新次郎、バクチで大借金の、女に食わせてもらってるヒモ暮らしであり、そのテクでヒモになれたようなモンなのかもしれんが(爆)、暑い夏の昼さがり、女の背中も流さないような無粋モンでよくまあヒモがつとまるわさ。
そりゃあ、このきっぷのいい女軽業師に珊瑚のかんざしをぶすりと畳に投げ刺されて、これでちょっとはいい店にあがれるよと捨て台詞を吐かれるわさ。まったくヤボな男なんだから。
あれ、でも彼は絵師の腕があるんだよね。博徒の取り立てを受けた時、版元に持っていく春画をとりあげられて往生するなんていうシーンがあった。
そこへ、美しき綾がはんなりと石段を下ってくる。釘づけになる新次郎。
その博徒は、彼女は旗本、皆川頼母の奥様。皆川様はお勤めでしょっちゅう家をあけており、彼女はさみしく一人寝。その屋敷にはお宝がたんまり眠っていると耳打ちされるんである。
で、その後に、先述の、ヒモになってる女軽業師の背中を流すか否か、なんていう昼下がりのシーンがあって、新次郎は美しき奥方の記憶をたどってモンモンと春画を描いては納得できずにゴロリと横になったり。恐らくそのモンモンを抱えて彼女と蚊帳の中でもんどりうつわけで。
しかしさあ、この春画をね、ろくすっぽ見せないんだよね。女軽業師が「こんなものを描いていたら余計暑苦しくなりやしないか」とすげなく言うぐらいでさ。
単純に考えるならここで二人がそれをネタに欲情して、というところだが、なんたって新次郎は奥方様を夢想しているんだから、まだそこまで行っていない、ということなんだろうか。
それにしてもこの春画という、オイシすぎる要素を、あまりにも捨て去り過ぎじゃないの……。ろくすっぽ見せない、せいぜい、紅を丁寧に塗っているところをクロースアップするだけ。
女軽業師が般若のレイプ犯に殺されてからは、彼は絵師であることすら放棄した趣だしさあ。なんかすんごい、もったいない気がするし、彼が絵師だという設定は一体なんだったの??って思っちゃう!!
……思うままに書いていたら、宮下順子のことをすっかり忘れてた(爆)。
彼女は物語の冒頭、般若のレイプ殺人犯をけん引する形で登場。それも、いいとこのお嬢という姿の宮下順子と、若衆姿の、つまり男装の麗人とのレズビアンカップルという大サービス(?)。
このカップルの話のまま進んでくれることを思わず期待したが、彼女たちはアッサリ殺されてしまう……と思ったのは私のカン違い?
ラストシークエンスに宮下順子=ぬいは再登場、レイプ般若である頼母は怯え、そのことで新次郎の刃に屈し、その後、新次郎と綾の前にぬいがまた現れ、改めて新次郎の刃に討たれる。
ぬいが本当に死んでいなくて再び現れたのか、実際は幽霊だかあやかしだか、そんな幻に彼らが翻弄されたのか、判然としない気持ちがしたんだよ。ていうか、そのまま投げっぱなしのラストってヒドいんだもの!!
……ってまた、あまりにラストがショーゲキだったからまたしても脱線したが。
で、そうそう、冒頭はね(そこまで戻るかっ)レズビアンカップル。若衆姿の月之丞とお嬢のぬいがあいまい宿っぽいところでレロレロエロエロ。
……本作ってね、やたら乳首クロースアップ。まあロマポルはそういうのよくあるけど、それにしても執拗にクロースアップ。とにかく乳首ナメから(あ、カメラでナメるって意味よ(汗))からな訳。
刀が切り裂くのも、汗粒をうかべたふるふるした乳首の真ん中をすーっと、クロースアップ。たまんないわー。
いやだから、脱線するなってば(爆)。でこのレズビアンカップルだが(まだそこから抜け出せない……)、月之丞は胸元をはらりと切られて女であることがバレ(まあそうでなくてもバレバレだけど……)、般若にあっさりヤラれてしまう(どっちもの意味でもね)。
で、お嬢のぬいは恐怖に駆られて逃げて逃げて……しかしつかまり、なんとまあ、そこで女の喜びを感じてしまう訳!
表情一発だけだったし、斬られていたからてっきり死んでいたと思ったけれど、ていうか問題はそこじゃないって。
いくらロマポルでもここで女の喜び……いやだからこそのロマポル……いやでも……。
彼女がレズビアンで、男に突っ込まれることが今までなくて、そしてこの状況で、とかいう展開なのだろうが、それだと余計にテキトーすぎるというか(爆)。
それならば逆に、若衆姿の月之丞が女に目覚めちゃう方がずっと萌えると思うが(爆爆)、それはそれこそ、ロマポルの需要層である殿方には萌えない訳かあ(撃沈)。
どーにもどーでもいい方向にばかり脱線するな(汗)。
だからね、新次郎が、金を強奪することを目的に、皆川の家を狙う訳。しかし、こんなことを教えてくれるあのチンピラどもも無意味に親切だけどさ(爆)。
その前に、新次郎がヒモしていた女軽業師も般若の手にかかって死んでしまう訳で。その死に様は、股を刀で切り裂かれるというエグいことこの上ないもので。
その後も、平和にアウトドアセックス(なんて言葉はこの時代ないか……森の中での明るいマグワイ(爆))していた若い二人を襲い、女は串刺し、男は首チョンパ、その画を引きで見せる妙に耽美的なカットにゾッとする。
これ以上なく、この般若が鬼畜で残忍だということを繰り返し描写するんである。
で、新次郎が押し込みしようと皆川の屋敷んとこをウロついていた時にこの般若に遭遇する訳で……。でも後からオチを思えば、皆川は自分ちに押し入ろうとした訳よね?んでもって相手は愛してやまない奥方様……ん?んん?
いや、それをストレートに考えれば、通常の夫婦生活では、妻をこれ以上なく溺愛しながらも実際には手を出していない頼母が、この姿を借りなければ妻とマグワえない、ということが導き出され、それってちょっと切ない純愛物語じゃーん、と思うトコなんだけど、そんなことは今書きながら気づいた(爆)。
いや、通常の観客さんたちはそれは当然気づいてたトコ??だとしたらゴメンなさい(汗)。私には頼母は単なるヘンタイで、仮面をかぶらなきゃセックス出来ないし、しかもそれはレイプで、その後の殺しを含めての快楽だとしか映らなかったんだもの。
その前もその後も、彼のしでかした犯罪はそれ以上でもなくそれ以下でもなく、そのものでしかなかった、じゃない?
頼母こそが般若であることはクライマックスで衝撃的に明かされるけど、それはこのシーン、妻を襲ったのも頼母、ということは全く触れられないし、彼らも全く気にしてないし、だから気づかなかったと、人のせいにしてる訳だが(爆)、それに気づいちゃったらさあ!
うーん、でも、それはそれこそ、やってもムダな深読みなんだろーか(爆)。
あのね、ここまでの流れで判ると思うけど、この高貴な奥方様、綾は新次郎に襲われるまで処女だったのだ。
綾を般若から救ったことで、頼母からも丁重な扱いを受け、それどころか屈託なく酒を酌み交わす間柄にもなった新次郎。国元の地酒だととっくりをぶら下げて来訪した彼は、その中に薬を仕込んで、夫婦を寝入らせてからコトに及ぼうとしたんである。
……それにしても、その薬入りの酒を自分にも勧められるとは考えなかったんだろうか……。
劇中では新次郎が飲むシーンはなく、さあ、飲んでください、お口に合うかどうか、とニコニコしているだけ。
普通、相手方からも返杯求められると思うのに……こんなことが気になるのは細かすぎる?いやそんなことないよな……。
えーと、どうもいちいち立ち止まってしまってゴメンナサイなんだけど、本作がカルトとしてちょこっと埋もれてたようなところがあるとすれば、こういう、ツメの甘さ、なんて言ったらあまりにもナマイキで恥かしいけど、でもそうとしか言い様がない(爆)そこかしこがあったからじゃないのかなあ、なんて気がしちゃう。
そう思ってしまうと、作品を深読みすればするほど、見当違いのハズかしさになるような気がして臆しちゃうのよ。まあ私の深読みなんて浅瀬300キロメートルってなとこだけどさっ。
それこそ深読みすれば、美しく、溺愛する奥方様を、風呂場で裸にして仔細に眺め、手と舌で味わい尽くす“だけ”の頼母は、それ“だけ”で満足、いやそれ“だけ”しか出来ない切なさ、と言えなくもない訳よ。
彼にとってセックスには愛がなく、欲望だけであり、それにはもれなく殺人欲もついてくる、てことであればさ、ちょっとカワイソーなヤツじゃない。
でもそんなうがった見方がつけ入るスキがない、本作には。ある意味緻密なほどの投げっぱなしだから(爆爆)。
恐らく本作にとっての大メインは、妻を愛でるだけの頼母が、実はレイプ殺人犯だった、という一点のみで、般若となってしまうと彼は、人間性を失うんだよね。
てゆーか、正直、妻に対する性欲のなさは、セックスしちゃったら殺しちゃうという葛藤があった訳じゃなくて、これまた彼の性癖の一つにしか見えないあたりが(爆)。
頼母は両極端なフェチを持つ、ドヘンタイ、だというのがつまるところの結末??なんて投げっぱなし……それにフェチ=ヘンタイではないぞ……一応言っとくけど。フェチは素晴らしいクリエイティビティーなんだからっ。
頼母に固執してしまうと、ちょっと違う。だって主人公は新次郎と綾なんだから。
しかしここまで散々語ってきたとおり、ツッコミどころが色々あり過ぎて……。
強姦ヤローのハズの新次郎に「女の幸福を教えられた」とゾッコンほれ込んじゃう綾にはそーゆー設定、女としてはマジ困るんですけど!!!と声を大にして言いたいが、新次郎はとにかくマヌケくさいところがちょっとカワイイから許してやろう(?)
綾は新次郎との逢瀬を重ね、すっかり彼に夢中。時に激しい雨の中、紫の頭巾で人目を忍んで、新次郎のボロ長屋に駆け込んでくることさえあった。
あの人を殺してくれれば。貞淑な美しい妻とも思えぬ大胆な計画を新次郎に耳打ちした。
しり込みをする彼に、借金の期限はあと二日よ、と悪魔的にささやいた。ついに彼は、決心してしまうんである。
ちらと見た解説では、新次郎は“慣れない博打に手を染め”て、多額の借金を作ったというけれど、完済に気を良くして誘われるがままに盆茣蓙の前に座るやにさがった表情とか、明らかに勝たせてもらっているのにニヤニヤ機嫌のいい様子とか、結局コイツ、そーゆーヤツだよね、と確信せざるを得ない。
ラストは投げっぱなしで、刃をかけてしまったぬいが「私に何かあったらお奉行様にすべてお話した手紙が行くことになっている」とつぶやいて息絶える。
後ろ暗いところありありの綾と新次郎は固まるんだけど、綾が、そんなのウソに決まってる。私たちは幸せになるんだ、幸せになるんだから、とどこかヒステリックに繰り返す。
その異様なシチュエイションにぞわぞわ来ながら、お白州に引きずり出されたらどうなるんだろう。二人が遠島になって終わりならまだしも、処刑されて終わりとか、ヤだよう!と思って(ちょっと期待して)たら、息絶えたぬいに恐怖に打ち勝つための吐き捨てるように先の台詞を投げつけ、それで終わりなの!ウッソー!
この後も展開があったのに、マーケット上ぷつんと切っちゃったみたいな感じしかしない、などと考えるのは愚者の浅知恵?……。
川開きの花火か、夜の境内とか、あちこち江戸の風情は満載なのだが……。
★★★☆☆
なぜそれを今更、てかあまりにもう完成され過ぎてる、我らのイメージも完成され過ぎてる……これ以上どーせいっちゅーの、という気持ちがあって、それこそさあ、冨樫監督じゃなかったら全っ然、観に行く気してなかった(爆)。
そう、冨樫監督!なぜに大抜擢!と思ったら、監督自身のふるさとが山形なのねっ、なるほど!てか彼は子供演出がバツグンだからなあ。それもきっとあるよね、きっときっと!!
とゆーわけで、冨樫監督ということ以外は殊更に気にも留めずに足を運んだのだが、大号泣だったんであった。前の席に一人で来ていた初老のおっちゃんがしきりに目をぬぐっているのを見て、うんうん、そうだよね、と嬉しくなったりする。
もちろん私もリアルタイムだが当時まだ子供だったし、見ていたのか、あるいは社会現象となった記憶だけがあるのか判然としないんだけど、このおっちゃんぐらいならさ、絶対当時かぶりつきだったに違いなく、そんな人たちをも陥落させる、これは凄い!
この成功は、いくつかのポイントがあるように思う。実際のドラマが、おしんという一人の女の一生を、三つの年代に分けて描いていたのを、最も有名で人気のあった少女時代に絞った、というのが最も大きな要因だが、まあそれは、映画の尺として全部はムリに決まってるし、おしんといえば小林綾子が演じたあの少女時代、ってのがキマリだからさ!
当時を知らない人たちでさえ、おしんがいかだに乗せられ冬の川を下ってくところとか、繰り返し流される過去映像で知ってる訳だし……。でも、だからこそのプレッシャーは当然あっただろうと思うから、冨樫監督すげーと思うのさ!
……という話はまあさっきしたから……でもついでに言うと、同じプレッシャーは当然、役者陣にも襲ってくるものであって。
主役のここねちゃんはその点めっちゃプレーンな状態だったとは思うけど、少なくとも上戸彩嬢、稲垣吾郎氏あたりには相当な……。
特に彩嬢はね、キャスティング発表された時にかなりクソミソに言われてたじゃない。
まあ正直私だってそう思った。いくら人気女優でも、キャスティングすりゃいいってもんじゃないでしょ、とぐらいに思ってた。でもその発表された時の彩嬢の悲壮な決意を見て、ちょっと楽しみかも、とも思い始めた。
解説では彼女自身が熱望とか書いてるけど、ちらちらと聞いてる感じでは、当時、ふじを演じた泉ピン子自身が彼女を推したらしいし、ピン子氏が命じた“命を懸けた”彩嬢は本当に、素晴らしかったのだった。
私らは彼女のキュートなイメージに、ずっととらわれ過ぎていたのかもしれない。思えば彼女ももう大人の女性で、人妻となっているんだし、いつまでも元気でカワイイ女の子ではないのだ。いや、いつまでもそういうのもやっててほしいけどさっ。
でもホント、良かったなあ。肩ひじ張ってる感じもなかった。きっと彼女はそもそも、母性のある女性なのだろうと思う。こんなにキュートなのに、母親にしっくりときていた。
ここねちゃん=おしんを抱き寄せる、あるいは必死に守るように覆いかぶさるようにぎゅっと抱きしめる、そんなシーンのたびに、だーだーと流れる涙を抑えきれなかった。まさにお母ちゃん、だったのだ。
んでもってね、こんな貧しい、苦労しっぱなしのお母ちゃんなのに、凄く、きれいなの。たびたび、その美しさにハッとする思いがした。
特にラストシーンの、柔らかな陽の光が徐々に家の中をぬくめていく、その光に映し出される、朝食の用意をしている彩ちゃんの美しさときたら、なんかそれだけでうっと胸に涙がこみあげる気がするぐらいだった。
その母親を見て、ここねちゃん=おしんが、お母ちゃんはいつも働いている、女は自分のためには働かない、親や夫や子供のためにいつも働いているんだと、奉公先の大女将(泉ピン子!)から教えられたことを思い出す。実にいいラストシーンなんだよなあ!!
……脱線しすぎだろ。あーでも、このままここねちゃんのことも言いたいが、そうなると本当にどうしようもないから軌道修正っ。
そう、ポイント、ポイントの話をしていたんだったっ。少女時代に絞った構成、その中でもピンポイントに重要な部分だけをピックアップ、それぞれのエピソード同士も、そっけないほどあっさりと区切る、ちょっとびっくりするぐらいの潔さ。
いやさ、上映時間を目にして、驚いちゃったのだ。109分て!少女時代に的を絞った構成としたって、あの伝説的作品の映画化、あれもこれもと入れ込んで、感情の後引きも充分とりたくなるのが人情?ってもんじゃない??
本当に、ピンポイントだった。ストイックと思うほどに。そりゃおしんだもの、ストイックじゃなければいけない。泣かせはしても、ダラダラしてはいけないという決断なのか、とにかくこの作劇の潔さが驚きだったし、素晴らしかった。
私ら記憶がある世代にとってはさ、確かにそれで頭の中でつながるから。正直、こんなに号泣するのは、過去の記憶が呼び水になっているからなのかな、という気もしたりした。
でもきっと、当時を知らない世代にとっても、訴えかけると思う。だって昨今の感動モノって確かに、やたら冗長に、いかにも泣かせにかかってきて、ウンザリすることってよくあるんだもの。
もう名作だと判ってる作品の、名作の名作たるゆえんの部分をずばずばとピックアップして、あとは役者にゆだねる、あるいは演出に没頭する。そんな成功例だったと思うのよ。
それにしても、おしんである。おしんを、もう小林綾子のイメージで固まってしまってるあのおしんを、知らないとはいえよくもまあ(ヘンな言い方だな……)ここまで生き抜いたことだろう!
まあ大人は子供にアッサリ泣かされるものだが、それにしてもこのここねちゃんは、小林綾子のイメージがゴリゴリにこびりついている私ら世代の心をもあっさり溶かしちまったんであった。
小林綾子も凌駕するんじゃないかと思ってしまう、などと言ったらちょっとアレだろうか……。
普段はあまりプロダクションノート的なネタには飛びつかないのだが、ここねちゃんが撮影期間の2か月余りを親元から離れて臨んだというのがさ、このいたいけな7つかそこらの子がさ!
なんか確かにそんな感じがして、この張りつめた心細い、でも立ち向かっていこうと必死に頑張ってるのが本当にそんな感じがしてさ、もうオバチャン世代はうっ、と胸詰まっちゃうわけ。
凄く、素直な芝居なんだよね。上手さというんじゃなくて、ベタな言い方だけど、本当におしんを生きている、そう思った。そう思っちゃうから時々、周りの大人の役者たちが“お芝居”めいて見えるほどだった。心が震えた。
ピンポイントですくっていくエピソードの中でも、脱走兵と共に過ごす数か月とその残酷な結末は、強烈な印象を残す。
そうだそうだ、こういう話、あった!と思い出すってことは、私も見ていたのかな……うーん、おかしいな、時間的に小学生は見られないと思うんだけど(爆)。
そうかそうか、当時はこの脱走兵は中村雅俊、確かにそうだった気がする!!人殺しが名誉になる戦場を逃げ出し、トラウマに苦しみ、山の中に息をひそめて暮らす。本作でそれを演じる満島真之介が尋常じゃない悲壮な色気を発散し、釘付けにする。
オリジナルの中村雅俊もそんな雰囲気だったと思うし、つまりそういう役どころだということなんだろうが、それにしても……。
ん?満島……?と思ったら、そうなの、ひかり嬢の弟君!えーっ!知らなかった!すいません、ドラマ見ないから本当に知らなかった。
すんごくすんごくすんごく、素敵だった。素晴らしかった。本作の中で、一番立ってると言っても過言じゃないぐらい!それこそおしんよりも!って言っちゃったらヤバい??
戦争の無意味さ、どころか罪悪、人が死ぬこと、生きること、生きていくこと、を教えてくれたこのあんちゃんは、きっときっとおしんにとっての初恋だったんじゃないかと、今回改めて映画となった本作を見て、思った。
当時の子供だった私は判ってなかったなあ……いや何となく中村雅俊をうろ覚えにも覚えていたんだから、やっぱりそんな印象はあったのかな??
この脱走兵をかくまうガッツ石松がまた、彼まんまで、それが実に良くて、癒されるのよねー。
ガッツさんだからこそ、この脱走兵も心を許し、雪の中倒れていたおしんを助けるだけの心の余裕も持てたんだと、そう一目で直感しちゃう、ガッツさんのインパクトは凄い!ガッツさんを知らない外国の人だって、きっとそう思うに違いないもん!
そうそう、このあんちゃん、軍人たちに射殺されちゃうんだっけ……そうそう段々と思い出してきた。段々と思い出してきていたから、あっ、ヤバい、ヤバい、と思って……。
おしんの目の前でダーン!と撃たれるの、……なんかさ、こういうの、現代じゃ想像もつかない。やっぱりそのあたりはスゲーな、橋田寿賀子、と思う、やはりやはり。
いくらお芝居とはいえ、7歳かそこらの子の目の前で、大好きなあんちゃんが撃ち殺されちゃう。さくさくと潔く進んでいくにしても、ここは、ここぞのスローモーションを見せる。
ご丁寧に、倒れ込む彼の靴を手前に大写しにしてゆっくりと落ちていく、なんてことまでするから、さ、さすがにそれは画をネラいすぎかなと一瞬思ったんだけど、その靴にかぶさる形でおしんが顔をぐしゃぐしゃにゆがめて、あんちゃんに向かって全力疾走、の、スローモーション。
ネラってると判ってはいても大号泣。う、ううう、おしんの、ここねちゃんの全身演技が、全てを真実にしてしまうのよおおお。
で、何となくすっ飛ばしてしまったが、そもそもおしんがこのあんちゃんたちと暮らすことになったのは、最初の奉公先で盗っ人の嫌疑をかけられて、おばあちゃんからもらったお守りのお金を取り上げられたからなんであった。
いわゆる、おしん的、辛い奉公シークエンスは、この最初の奉公先のみであって、まさに馬車馬のごとく働かされる。同じ大根飯でも、おひつの下にこびりついているような状態のものを残されるだけ。
まだ何も知らない子供だったおしんだから、驚きや不満を正直に口に出すもんで、結構ハラハラしたりする、のは、現代は子供でさえ空気を読む時代になってしまったからであろう。
おしんは素直ないい子だから、教えられたことはどんどん飲み込んで、次の奉公先では目の肥えた大女将に最初から引き上げられるんだけれど、でも最後まで、自分自身の本当に大切なことは譲らない。
でも言い訳はしない。……意外に今の時代、今の子供に訴えるものがあるのかもしれないなあ。
それにしても、この最初の奉公先でおしんをこき使い、疑い、やはり卑しい貧乏人の子よと、おしんをすっぱだかにしてお守りの中のお金をとりあげ、ぶん殴る岸本加代子の恐ろしさよ!
うわー……彼女自身はそれこそキュートで可愛らしい女性なのに!おしんが金を盗んだんじゃないことが判って、一瞬だけ気まずい顔をする、その“一瞬だけ”の恐ろしさよ!!
それを思えば、なんかすっかり器の大きいいい人キャラの泉ピン子は、オリジナルの功労者ならではってとこなのかもしれんが、それにしてもいい人すぎないー(爆)。いやついついピン子さんだからついつい……。
この大店での奉公は、一人娘のワガママ娘、加代が、おばあちゃんがおしんを贔屓にすることのヤキモチから、それなりに物語を引っ掻き回すものの、結果的には「私と対等にケンカしてくれた」から、おしんを他にやらないでくれろ、と訴え、それ以降は本格的に、おしんはこの奉公先で実にいいポジションを得られる訳でさ。
もうこっちとしては、おしんは頭からケツまで虐げられ、血のにじむような奉公の生活に耐えてるとか、思い込んじゃってるからさ、おしんが幸福そうにしてると、うっ、大丈夫?すぐそこにはきっと不幸が待っている、とか思っちゃうんだよね。てか、期待してる??人でなしだな、もう、イヤー。
このワガママ娘との友情は、先述したような尺だから詳細に描かれることはなく、それはちょっと残念だったかなあ、とも思う。女子の友情に弱いの、見たいの、女子の友情(爆)。
普段着もきらびやかなお嬢様は、お顔立ちも端正で、いかにも恵まれたお嬢様。ほっぺが真っ赤、小柄なおしんと並ぶと、雰囲気から何から、ほおんとに、身分っつーか、育ちっつーか、違うんだな、と思わせる哀しさがある。
だけど、それを、少なくとも、お嬢様の方は、あの事件ですっかりとっぱらってる気持ちが伝わるのが、な、泣けるのよー。……つまりあらゆる理由を見つけて泣こうとしている……。
恵まれた奉公生活の中で、思いがけず、母親がオミズな仕事で出稼ぎに出ているところに遭遇する。
そうかそうか、こんなエピソードもあったかなあ、と思う。ハッキリとは言わないし、きっと当時もハッキリとは言ってなかっただろうけれど、きっと、春を売る的な……。
絶対にそんなことはしていない、お父ちゃんやおしんたちを裏切るようなことは絶対にしてない、信じて、とお母ちゃんは言うけれど、わざわざそれを言うためだけに、訪ねてくるだろうかと。
もちろんおしんを見かけて会いに行きたいという“言い訳”はあれど、これはやっぱり、そういうことなのだろうと、まだまだいたいけな子供であるおしんにも判っちゃって。
そう口には出さないけれど、こっそり帰って上がり框でむせびなくおしんに大女将が、どんなことがあってもお母ちゃんを信じてあげなきゃいけない、という言葉で、判っちゃう。
わざわざ言うな、そんなこと。判ってる。判ってるから、切ない、苦しい、悔しい、んだ……。
この少女時代を、どう決着させて終わるのかなと思っていたら、おばあちゃんの死で一幕終了。
おしんが最初の奉公に出る時からもう充分に年老いていたし(やっぱり当時は今の年齢の尺度と全然違うよな……)、予測できなくもないラスト。
でも、先述したけど、彩嬢が素晴らしく美しいシーンが待つラストシークエンスだし、おしんが、女の価値を知る重要なシーンであるから、ね。
おばあちゃんの死という世代交代と、その死に目に、自分で仕事入れてあえて間に合わせなくしたおしんという図式、女の価値観がこんな年齢の違いに見え隠れして、スリリングだなあと思う。
とにかくコンセプトがはっきりしているのが、良かった!何より、舞台こそが主人公。雪に閉ざされた山間、地吹雪で外界から完全に閉ざされる過酷さ、リアルな自然環境は、CG時代になっても作れない。
正直なこと言うと、稲垣氏はちょっとイマイチというか……ヅラが判り過ぎる(爆)てか、女たちが役を生き抜いているからかなあ、浮いちゃうの、なんか……まあこれは女の物語だから、男の身の置き所は難しいか……。
★★★★☆
そんならなんで足を運んだのかなあ。イライラするたび、こんなの違うと思うたび、自分の気持を、結論を、まっすぐ出せないことにこそ苛立ちを感じていたから、もうそんな思いをするのは、イヤだと思っていたのに。
でもやっぱりどこかでそんな自分を許せないとも思ってたし、イライラしてしまう自分がたまらなく大嫌いだった。
本作に関しては、今まで感じた“震災後映画”に感じたような、イライラはなぜだか感じなかった。息苦しいし、重苦しいし、ヒロインに共感できないし、ヒロインに共感できない自分に呆然として、またしてもヤダヤダ自分!と思いながらも、あのイライラはなかった。
これが、“被災地映画”じゃなかったからかもしれない。
今までイライラしていた“震災後映画”は、とにかく被災地を映すことに腐心していた。腐心していたというか、……こんな言い方をするのはイヤだけど、“酔っていた”。
正直、映像クリエイターとしたら、こんな“オイシイ”ネタはないだろう。こんな映像を“簡単に”撮れるチャンスを見過ごす訳にはいかないだろう。
そんな風に、思ってしまった。実際はきっと、みんな、真摯に作っていただろうと思うけれど、どうしても、そう思ってしまった。
本作は、“震災後映画”ではあるけれど、“被災地映画”じゃないんだよね。ここがどこを舞台としているんだろうと、しばらく悩んでしまった。
いわゆる“被災地”でないことは確か……なんて言ってしまったら、しばらく続いた断水や、本作の大きなテーマとなる、境界のない放射能の恐怖があるんだからそんなことは言えないんだけど、でも、そう、映像クリエイターたちがこぞって映したがった“目で見て判りやすい被災地”ではない。
あの日の一瞬の恐慌ではなく、これから何年も、何十年も続く“被災”なんである。
……でね、ヒロインに共感できない、って言っちゃったでしょ。ヒロインは幼い子供を持つ若き母親。放射能は境界なく飛んでくる。保育園の放射線量はどうなっているのか、無防備に外で遊ばせていいのか、給食の材料は汚染されていないのか。行政の数値が安全だとなぜ言えるのか。
マスクをさせ、自分の子供には外で遊ばせないでくれ、食事は弁当を持たせるからと言うこの母親、サエコに他の母親は冷たい目線を向ける。ちょっと大げさなんじゃないの。そういう態度が不安を煽るんだからやめてよ。
サエコは声を荒げる。あなたたちは自分の子供が大事じゃないんですかと。他の母親たちの怒りをまさに煽ってしまう。そんなに言うなら家から外に出さなきゃいいのよ。来ないでよ、アンタ、ノイローゼじゃないの、と。
……サエコの言うことは正論だ。子供を持つ母親なら当然の反応だ。私は実家が福島で、両親からいろんな話を聞いていた。
まさに、福島の子供たちは外で遊ぶことを禁じられたから、周囲から子供の声が一切消えた。本当に、死んだ町のようになった。
保育園、幼稚園、学校の敷地内の放射線量を測るのは当然、除染が終わるまで草むしりやどぶさらいも出来ず、住宅地でさえ荒れ果てた。
本当に最近、除染が終わった学校や公園にようやく子供たちが戻ってきた。そしてそこには放射線量を逐一表示するマシンが立っている。
そんなことを知っているから、なんていうのは、なんかそれこそ、聞きかじりの知ったかぶりみたいでイヤだけど、そういう事態があるから、そんな中で身を潜めている親御さんたちのことを思ってしまうから、なんともいえない気持ちになってしまう。
そう、本作の舞台は、そういうことをやらなければいけないほどに近い場所じゃない、ってあたりがキモなんである。段々と判ってくる。
東京、ではない。放射線量の多い、いわゆるホットスポットと呼ばれる場所がそこここで見つかるような場所。段々と町の中の看板なども見え隠れしてくる。埼玉の某都市。つまりは、東京近郊、ベッドタウン、埼玉都民と言われるような場所。
私はね、子供を持っていないから、そういう点でもなんとも弱いのだ。母親の本当に心配する気持なんて、結局は判らない。でも友人が赤ちゃんを抱えてて、震災の時にはやっぱり水を得ることに必死になっていたし、チェルノブイリの頃に白血病を得てしまった友人(今は全快!)がいたりもしたし、それなりに、それなりに、考えるところはある、あるもの。
あ、今、母親、と限定してしまった……親なんだから父親だって同じな筈なんだけど、でも本作でも、父親は見事にそこから排除されている。サエコの夫は震災によって“大切な存在”に気付いて、つまりそれは浮気相手で、こんな時に妻と娘を置いて出て行った。
そしてもう一人のヒロイン、ユカコは夫と二人暮しなんだけど、なんであんなに放射能を、特に幼い子供の影響を心配して、マスクを配ろうと幼稚園への不法侵入で捕まるまでになったのか、後に明かされるところによると、彼女は流産した経験があったんである。
……正直、双方共に、ズルい設定だとも思う。
父親、ていうか男性が女性ほどに子供の健康、命に関心を寄せてないことも、それこそが、女はヒステリックみたいな印象を強くしてしまうし。
サエコの言うことはとても正論だし、彼女がバッシングされるのは皆の不安を、見たくない不安をあからさまにしてしまったことへの反発に他ならないのに、サエコが“そんな風になってしまった”のは、“ダンナに捨てられたから”と陰口を叩かれるような設定にされちゃってて、実際そう見えなくもなかったり、するんだもの。
でも、そうかもしれない。もしサエコが夫に捨てられてなかったら、ここまで“ヒステリック”な態度はとらなかったかもしれない。
サエコのようにハッキリは言えないながらも不安を抱えている主婦のように、風邪だと偽ってマスクをさせたり、それこそ、不安なら、子供を家から外に出さないことだって出来た……今までのように、専業主婦ならば。
そう、サエコに真っ向から対抗するグループの中にも、実際はサエコのように子供を危ないものから遠ざけたいと思っている母親はいて、彼女は仲間を刺激させずに、つまり輪を乱さずに、自分の子供だけは守りたいと、「風邪ひいちゃって。私ももらっちゃって」とマスクをしだす、のね。
確かにそれは、誠実ではないかもしれない。本当に危険と思うなら、サエコのように皆に説くべきかも知れない。でも実は皆、判ってるのだ。危険だってことぐらい、マスクだってすべきだし、給食だって不安なら拒否してもいいように選択できるとか、すべきなのだ。
それは“被災地”に近ければ近いほど、“行政”(本作の中では忌み嫌われている)がそう指針を出すし、疎外感も薄くなる。でもそこから離れれば離れるほど……。
サエコに、あるいはユカコにイラッとするのは、共感しきれないのは、“皆判ってる”ってことを、まるで察してないこと、なのだ。母親たちが本当にイラッとしているのは、“自分だけ”の形容詞がかぶさる先は、ちょっと違う。「自分だけ良ければいいと思ってる」ってことではなくって、「自分だけ判ってると思ってる」ということへの、苛立ちなのだ、と思う。
私はズルいと思ってしまったサエコの、あるいはユカコの設定は、本作を作る上では、問題をあぶりだすためには、そうするしかなかった、のか。
震災後、褒め称えられた日本人の冷静な行動、団結力に、なんだか私たちは酔っちゃって、ヘンな方向へ行ってしまった。いや、震災後だからという訳じゃなく、日本は、そういうところが、ある、昔から、ずっと、あった。
劇中でも、知らないふりをしている、見ないふりをしている、という言い方があったけれど、それも確かにそうなんだけど、でもちょっと、違う気がする。
皆が、お互い、知っている、見ている、そのことを暗黙の了解として、その上で、冷静や団結という美徳を壊さないようにしているのだと。
それは、通常の日常生活でならば、優しさとか、それこそ絆なんて言葉で充分咀嚼できるものだった。だから、震災後のニュースで日本人たちが褒められた時、私たちは酔ってしまって、これでいいんだと思ってしまったように思う。日常生活で、そうした暗黙の了解を、どこかでヘンだと思っていたのに、世界中から肯定されてしまったから。
日本じゃなかったら、他の国なら、サエコのように、ユカコのように、声を上げることの方が当然だ。たとえそれまで言えない空気だったとしても、正論を突き上げてくれた人が出てくれば、途端に同調する空気が、仲間が現われて、事態を変えようと努力する筈だ。
本作が世界に出された時、きっとそう思われるだろう。なぜサエコは、ユカコは、こんな風につまはじきにされるのだろうと。日本というのは、コミュニティに同調することでしか生きていけない恐ろしい国だと。
今落ち着いて考えればそう冷静に考えれられるのに。なのに、なぜ、私はこんなに、サエコやユカコに共感できないのだろう。
それは先述のように、彼女たちの設定が少々ズルい感じがしてしまう部分もあり、でもそうでなきゃ、結局は今の日本はあぶりだせないということなのかとも思う。
サエコは郵便受けにゴミや嫌がらせの手紙を押し込まれ、無言電話や留守電への死ね、出て行けのメッセージを吹き込まれ、追い詰められてガス自殺を図る。……今の住宅事情なら、ガスコンロは自動的に止まると思うが、そんな野暮なことを言っちゃいけないか(爆)。
一方のユカコは、この場所の不安から、夫に異動を申し出るように促す。社員の親睦会のバーベキューさえも、「こんな時に、外でバーベキューやるなんて信じられない。断ってよ」とにべもない。
夫としては、それこそ自分だけが逃げるようなことは出来ないということもあるし、この不況でつまはじきにされるような行動もとりたくない。
今ここで踏ん張らなければ、とまで強い気持があったというよりは、彼自身としてはあまり震災自体を強くとらえてなくて、今は不況だし、リストラされたら困るし、仲間と連携をとらなければ、……ぐらいなスタンス。だからこそ、妻の強い拒否反応に戸惑っている。
まあそのう……今の時点で彼らには子供もいないし、私みたいな独身女は、まあ私は別に、もういい年ぶっこいてるから、放射能にやられてもいいやね、なんてテキトーなことを思ってるサイテーなヤツでさ。
だから、ユカコの気持がイマイチわからず、だから後に示される“設定”にちょっとズルいな……と感じちゃったんだよね……いや、夫のことを純粋に心配していたと思えばいいんだろうけれど……。
それこそ自然に子供が授かることを彼女が考えていたのならば、自然とも言えるんだけどね。それこそノイローゼ的に見えたから……。
でもさ、結果的にはユカコ夫婦はこの地を離れたのだろうか。いろいろ、いろいろ、あったからさ、サエコのガス心中未遂があって、それをマンションの隣の部屋のユカコがベランダを乗り越えて助けて。
でもサエコはそれゆえに娘を夫の両親にとられちゃう。まあ夫自身は娘に興味がないらしいけど、両親にとっては愛しい孫。しかも元ヨメはこの愛しい孫と心中未遂しようとしたんだから、とてもほっておけない、と思うのは当然。
サエコはユカコに、一緒に死ぬつもりだったのに、あんたのせいだとつかみかかる。……ちなみにサエコの実家はザ・被災地で、だから娘を預ける訳にもいかず、慌てて駆けつけた両親にそう言われて、狂ったように号泣するサエコは……それは、自分の浅はかさを反省したということなんだろうか、いやそんな単純に割り切れることじゃない……。
でも、サエコの実家が被災地、という設定は、私がさ、実家が福島で、ある意味それを言い訳にして“震災後映画”になんやかんやとナンクセをつけていたことを突きつけられる気がして、ヒヤリと背中に汗が流れる思いがする。何にも判っていないのは、私、私なんだと。
本作の舞台が、被災地ではなく、関東であっても、東京ではなく、人々が生活する、閑静な住宅地、埼玉の一角というのが、憎たらしいほど上手いと思った。
それこそ東京ならば、なんか多分ね、それこそ喧騒にかまけて(紛れて、じゃなく)、おざなりにしてしまう気がする。あるいは人から外れたことを言っても、こんなにも排除されない気がする……いやあの時は確かに、これは言えない、あれは言えないって雰囲気はあったけど、言ってる人は結構、言ってた。
まあ、それもあるよね、とあの群集の中ならば、言える雰囲気があった。ある意味それが、いつもなら、日常なら、通常なら、冷たいと言われる“大都会”のふところなのかもしれない、と思った。
あの時には、本当に見事に、皆が、冷静の美徳を強いられてた。そのことに窮屈に思っていたのは本当なのに、そこからはみ出すひとをウザく思う気持ちを、抑えられなかったのは、つまりそれを褒められる甘美に勝てなかったから、なのか。
鼻水たらして姑に頭を下げるサエコ、それに付き添うユカコ、正直“孫と無理心中しようとした嫁”にこれだけで孫を返しちゃう姑ってのはあまりに甘すぎる気がするが……だって“鼻水たらして号泣”じゃあ、冷静じゃないことこの上ないじゃん……。うう、そーゆーこと言ってはいけないの?
サエコはこの地で、精一杯出来る限りの防御を我が子にほどこしながら育てる決心をしたんだろうか。そしてユカコは、あの引越し準備のラストは、つまり、この地を夫婦して離れる決心をしたんだろうか。
ユカコに夫が、もう一度子供を作ろうと電話し、それに涙する彼女、というのは実に感動的だが、その決意のためにこの地を離れるのか……というのは、少々苦い気持を覚えなくも、なかった。
それは、それこそ、勝手な言い様なのだけど。でもサエコが他の母親たちに糾弾されたように、この地は原発からは“微妙に”離れている。放射能が境界がない以上、どこまで遠くに離れたって、“ここ”が安全だという保障は、ないのだ。
ユカコが、まるでサエコの不安を代弁するかのように夫に言って聞かせる安全の基準の危うさ、行政によって、国によって違う、安全ってなんなの?ということは、“ここ”が“どこ”であったって、どうしようもないって、ことになる。
つい最近読んだ小説で、ここ、なんて規定出来ないんだと。ここ、を規定するから、宇宙の果てなんていう規定が生まれる。ここの果てが宇宙の果て。でも、ならば、“ここ”はどこまでが“ここ”なのだと。手のひらの上なのか、経っている足の裏の距離なのか、宇宙から見れば、日本の“ここ”もイルクーツクも一緒ぐらいだと。
……ユカコがこだわった、行政の基準、国の基準、安全ってなんなの、どういうことなの、ってことを、ここに当てはめるのは乱暴だろうか。
フランス人のダンナを持つ友人が、慌てふためいて出て行くだんなをなだめながら、ごめんね、ごめんね、またいつか戻ってくるから、と、まるでここが、一刻も早く抜け出さなければいけない地獄であるかのように駆けていく様が心にキツく残る。
そうだ、あの時、我先に逃げていくガイコクジンたちにイラッとしながら、でも一方で、彼らの国の基準が日本の基準と比べて“大げさ”だとなぜ言えるのかとモヤリとした不安がもたげたのは……否めない、のだ。
観たのは本当に小さな劇場、なんでも世界で一番小さな映画館と紹介されたこともある場所だったんだけれどね、観客も10人ぐらいしかいなかったんだけど、……後ろから、一人だったけど、時々笑い声が聞こえて、うろたえたのだ。どこが可笑しいの、笑えるの、と、うろたえた。
確かにサエコの頑なさは滑稽なのかもしれない。彼女が放射線量を測定できる機械を買ったり、それで幼稚園の敷地を図ったり、あるいは母親同士の熾烈な口げんかや、それにまあまあと割って入る先生たちの場面に挟まれる笑いに、めちゃくちゃ動揺してしまった……。
それこそ、“冷静の美徳”のありやなしやをテーマにすえて構えていた自分を突風のように揺るがせた。でもそれを、私はどう受け取ればいいの。どうすれば……。
本作の絶妙なドキュメンタリーのような生々しさ、なんか覚えがあると思ったら、「ふゆの獣」の監督さんかあ!本作はプロデューサーで類稀なる女優の才女、杉野希妃嬢こそが前面に立ってるから気付かなかったわあ。 ★★★☆☆
とはいえ、やはり寅さんだもの。やはりやはり。私、あんまり観てないんだよね。せいぜいい5、6本だろうか。
なんか山田監督の一方の作品群での説教臭さがカンに触った時期があって(若かったのよー)、寅さんにも手を出していなかった。それを猛烈に後悔している年食ってからの私(爆)。
このあたりは、まさに黄金期ではなかろうかと思われる。ろくに観てない私でも知ってる、ヒロインといえばこの人が一番にあげられるリリーさん。
彼女が最後に出た、そして最後の作品になった「寅次郎紅の花」でしか観てないんだからダメダメである。だってこの頃にはもうすっかり寅さんはちっとも喋らなくなっていて、甥っ子の満男の話になっていたからさあ。だから非常に感慨深いものがある。
そう、このリリーさんがきらきらのマドンナだった本作、の、前に“鮨職人と結婚した”というくだりが、本作で“そのダンナと離婚した”になっている訳で、あー、もう、この基本をすっ飛ばして観ちゃっていいのかしらとも思うけど、寅さんはどこから観たっていいの、いいの!
うー、でもやはり気になる。数少ない複数登場のマドンナの中でも、リリーさんと寅さんの関係はヤハリ、いくつかの段階や盛り上がりを経ている訳だからさあ。
初見だから、もうここでの印象を言うしかないんだけど、ここでのリリーさんはね、浅丘ルリ子自身がそうした味わいを醸しだす年齢とキャリアを積み重ねてきたということもあるかもしれないけど、寅さんとの結ばれないやりとりがあって、でもいいダンナを見つけて結婚して、でも上手くいかなくて別れて、やっぱり寅さんが忘れられなくてとらやへやってきた……そんな、ひと山もふた山も越えた女の深みがあるからさあ。
でも、この物語の最後、寅さんとリリーさん、すわ結婚するかというところまで盛り上がったのがやはり寅さんの弱腰でオジャンになって、でもそれを盛り上げて推し進めちゃった妹のさくらが後悔して言う台詞、二人は大の仲良しの友達。その仲をさいちゃったんじゃないかって……、ていうのは、確かにそうかもしれない、と思うのね。
かつて、私が青臭いティーンエイじゃーだった頃に流行った映画「恋人たちの予感」、親友から生涯のパートナーになるという映画で、私、この邦題にメッチャ怒ったのね。男と女は友達になれないと言ってるようなもんだと。このハリーとサリーは親友だからこそパートナーになったのだと。親友を捨てて恋人になったんじゃないのだと、メッチャ憤ってた。
まあいまだに青臭い気持が抜けずにオバチャンになった私は、ちょっとはそんな気分を持ってる(爆)。そんなきれいごとじゃ済まないと判っててもね。
でもこの寅さんとリリーさんに、そんなかつての若い自分を思い出して、彼らはサリーとハリーよりはちょっと弱くて、恋人になっちゃうと親友であることを失っちゃうとお互い思ってて、そうなるとその先の壊れることの方を怖がってしまう、みたいなさ、そういうことは、そういうことは……大人になって、判る気がしたのだった。
だから、やっぱり寅さんとリリーさんは、最後まで、親友であり続けたのかなあ、って。
どうも相変わらずワケ判らんままだが(爆)。あのね、リリーさんの他にもう一人、メインゲストがいるのね。テキヤ稼業の旅先で相棒となったエリートサラリーマンの兵頭。演じるは船越英二。おお!この人こんな顔だっけ!(いや……ホンット私、ちゃんと役者さん認識しながら映画を観てないんだもんなあ)
エリートサラリーマンと言いつつ、まあ大企業に勤めているのは確かなんだけど、寅さんと旅先で知り合うなんていうんだから、まあ今でいう窓際族ってトコに追いやられている雰囲気。
あのね、彼自身は会社からも家庭からも逃亡してきたこの時も、無事帰ってからも、家族は白い目で見ている、冷たいもんですと言うけれど、そんなまでには見えないんだよなあ。
確かに寅さんたち下町の暮らしとは比べようもないゴージャスなウチで、プードルなんかいて(いやまあ、今はともかく、当時はこういうのだけでゴージャスな訳よ)「宅の主人は……」みたいなさ、上品なハンカチで目頭を押さえるなんてさ、そんな具合な訳だけど……。
でも、どうにも暗い雰囲気の兵頭を心配した寅さんが、さくらに頼んで電話をかけさせた時の奥さんや娘の様子も、その後とらやに訪れた奥さんも、帰ってきた兵頭に接する彼女たちの様子も、決して決して、冷たくなんて感じられなかったんだよね。
生きていることが判っただけでも良かったと涙を流す奥さん、パパ、電話よ、とプードルを抱きながら促す娘、確かに裕福な感じはベタに受けるけど、それゆえの冷たさは感じなかったなあ。
これは意図的なのかどうなのか。意図的に冷たい家族を描写するならいくらでも出来るじゃん。つまり兵頭自身があまちゃんだったということなのかなあ。
リリーさんは最初、とらやを訪れるんだよね。でも寅さんは旅の空で会えない。その後、リリーさんも以前のような旅回りの生活に戻り、函館のラーメン屋台で寅さんと再会することになる訳だけど……まあ、さくらもそうなるといいわネと言ってたけど、こんな偶然って、あるかよ!
……まあ、こういう旅がらすたちが立ち寄る場所ってのは決まっているのかもしれんが……そこを突っ込んじゃ、まさにヤボってもんなのだろうが……。
寅さんだけでも兵頭にとってはカルチャーショックだっただろうに、リリーさんである。「私、冷え性なの」とすげなくされた寅さんの替わりに兵頭の布団にもぐりこむリリーさんに兵頭はドギマギ。でもこの程度の描写で終わるあたりが、寅さんぽいというか。兵頭がリリーさんとナニするなんて、そんなことにはならないもんねえ。
ていうか、兵頭が小樽にかつての恋人を訪ねるというシークエンスがあって、兵頭はここでも、あまりに純情すぎるの。
相手はもうダンナを亡くしている。それを知った寅さんは彼をたきつけるけれど、兵頭は「今の自分に何が出来るんですか」と、ただ挨拶を交わすのみで終わってしまうのだ。
まあそりゃあ、正解なんだけどね。だって結局、奥さんも娘も兵頭のことを心配して愛している。何の問題もない家族なんだもの。寅さんがたきつけること自体が、間違ってる。
ただ……自分のことを覚えていてくれて、もう少し話をしようと言ってくれたその元カノを、もう汽車の時間があるからとかベタなウソついて勝手にたそがれてるのは、確かにリリーさんならずともイラッとしたかもなあ。
そこから派生したリリーさんと寅さんのケンカは、すっごくすっごく、気持判るんだよなあ……。男が女を幸せに“してやる”それに反発するリリーさん、売り言葉に買い言葉でついつい言ってはいけないことを言ってしまった寅さん「寿司職人に、捨てられたんだろ!」
リリーさんは“おっきな目に涙をいっぱいためて”(後に寅さんが言った言葉ね)、憤然と立ち去った。
もちろん、二人は後に仲直りするし、さくらと博が、二人は結婚したらいいんじゃないかと話し合い、リリーさんもそれに真摯にうなづき、すわこりゃ!と思わせるんだけど、成就しない、のは、この決定的な価値観の違いがあるからじゃないかと、ちょっと思っちゃうんだよね。二人はホントに最高のカップルだけど、お互いを思い、好き合ってるけど……。
あのね、本作には二人に関したいいシーンがいっぱいあるんだけど、その中の筆頭、リリーさんが場末の小さな店で歌っているのを目にした寅さんが、俺にカネがあったら……と、大きな劇場を借り切って、真っ白いドレスを着させて、皆がリリーの美しさに、歌に感動して……と、さくらや博やおいちゃんやおばちゃんに、まるでそれを目の前に見ているかのように語るシーン、ね。
さくらが「リリーさんに聞かせたいわ」と言い、おばちゃんが「泣けちゃったよ」と涙をぬぐう。残業だったのか、博だけが遅い食卓についていて、リリーさんお手製のギョウザを「美味い。意外だな、リリーさん」と、舌鼓をうった後だった。
リリーさんと寅さんは好きあってるし、リリーさんは寅さんのいい伴侶になると、この場の誰もがそう思った。からこその、さくらと博の思いだったんだけど……。
寅さんの弱腰もあったけど、リリーさんと腕を組んで歩く寅さんにご近所さんたちが口さがなく言うウワサも、二人の耳に届いていなかったとしても、やっぱり世間ってものがあるとサ、と思う。
それでも、どうでも、二人には、最後まで親友でいてほしいんだ。親友でいたと思うし……。
なんかこんな風に書いていると、しんみりとばかりしているみたいだけど、寅さんだもの、当然そんなことはない!一番の出色は、兵頭が持ってきたメロンを、うっかり寅さんの分を勘定に入れずに切り分けてしまった場面。
寅さんがいじましく、子供っぽく、つまりは実に寅さんらしく見事なダダのこねっぷりをする、それに対するとらやのメンメンの、恐らく相当笑いをこらえての、何とか寅さんをなだめようとする可笑しさ。
特に寅さんが皆の言い回しを真似て、こんな風に言ったんだろうと、言うんだろうというのがね、特に特にね、博の、つまり前田吟の、寅さんにとっては妙に真面目くさった風が気に入らないんだろう、って感じを実に上手く再現した「義兄さん、それは……」っていうシリアス声音に爆笑!
よく、よくまあ、前田吟、噴き出さなかったわ!いや、これ、テイク重ねたんじゃないかなあ、これは悶絶必至だもん!!
でもこのメロンシーンでこそ、寅さんとリリーさんとのある意味での齟齬がより明確になるんだけどね。リリーさんは、いじましいことを言う寅さんをピシャリと切り捨て、ブンむくれた寅さんは出て行ってしまう。
余計なことをしてしまった、と恐縮するリリーさんに、とらやのメンメンは、いやあ、スッとした、そんな風に言ってみたかったんだ、と口々にいうもんだからそれもメッチャ可笑しい。そういう意味でもリリーさんは寅さんの最良のパートナーと思えたんだけど……そう上手くはいかない、んだよね。
結婚って、難しいんだなあ、ホント……。寅さんって、「男はつらいよ」って、結婚に対する懐疑を示してるように思っちゃう。
まあそりゃ、一方でさくらと博の築く家庭の良さや、すぐ隣の勤務先、タコ社長や同僚たちの隣近所の絆、さくらや寅さんに親はなく、おいちゃんおばちゃんが親代わりという人情味といい、まさに完璧なんだけど、だけど、主人公の寅さんが、あんなに女たちに愛され、最良のパートナーだっていたのに……ていうのがさ、何かさ……。
寿司職人と結婚してそれこそが幸せだったのに、みたいな前提だったリリーさんが、でも、とらやのメンメンの前でオンチの博の替わりに見事な「悲しい酒」を披露するしんみりシーンも忘れられない。
「やっぱりいい声だねえ」というリリーさん=浅丘ルリ子の繊細なハイトーンがグッと来てさあ……。★★★★☆
吉岡秀隆が満男を演じるようになったのは、何歳の時からなんだろう。少なくとも今回の特集で観た数本、満男の小学校入学なんて時もあったけど、まだ彼ではなかった。案外登場は遅かったのか、と思う。
彼は私と二つしか違わないんで、彼の成長と共にちゃんと寅さんを観ていたら、自分と投影して面白く見られたかもしれない、なんて今更ながらに思う。
本作の満男は就職活動に苦戦している。私の年が初めて就職氷河期と言われた年だと思っていたが、もう1、2年前だったのかもしれない。満男が言う「100枚葉書出して、40枚身上書書いて……」と疲れ果てる気持、判る、判るわー。でも私はもっと受けたし、それにも関わらず最終面接までいけた会社なんてひとつもなかったけど(爆)。
でも今こうして働くことが出来て、悪くない人生を送れているんだから、就活で全てが決まるなんて筈もないのだよ。受験で全てが決まると思っている受験生から、就活で全てが決まると思っている大学四年生まで範囲が広がってしまっている今の世の中……いやそれ以降も、それ以降も。
ちょっと、脱線してしまった。そう、だから、なんかいろんな身につまされや、懐かしさを覚えながら見てしまった。
劇中、もう登場はしてこない御前様の娘、寅さんがかつて恋した冬子が自分の娘さんを連れてとらやを訪れる。その女子高生の女の子の制服が、そう、ちょうど、私らの高校時代と入れ替わるように、現代とおんなじ感じの、ベストにチェックのプリーツミニスカ、って感じになったんだよね。
そう、私らの時代はまだ紺サージの重たい制服、我が母校も今や今風の(て、言い方自体、オバサンやね)制服。愛するガクランもブレザーになってしまった!!
またしても脱線したが(爆)。そう、満男の就職活動。あまりにも上手く行かなくて、両親に八つ当たりして、満男は家を飛び出してしまう。
吉岡秀隆自身の独特のキャラクターが、いかにも悩める青年……以上の、一人っ子のダダッ子に見える青臭さに、もぞもぞと居心地の悪い感じ。いや、彼が同世代だから余計に(爆)。
父親の博が、女親は甘やかしすぎだと、さくらをこれまた八つ当たり気味に責めるんだけど、確かにそういうところはあると思う。ていうか、ありあり。なんか見ててモゾモゾするのは、いい年してメッチャ過保護受けてるよなと思ってしまうからかも(爆爆)。
大学生にもなって「朝食食べないの?ちょっとは食べていきなさい」「何時に帰るの?遅くなるの?」「ちゃんと挨拶なさい」
……うう、せいぜい中学生に対する対応だよなーっ。なんか満男が気の毒になってしまう……いや、大学に行っても実家に暮らせるのはうらやましいし、と思っていたけれど、こうなるとちょっと微妙かも……。
さくら、そう、さくら!何かね、ずーっと“ノリノリの頃の寅さん”を見ていたから、当然さくら=倍賞千恵子も若い訳。この日同時上映だったもう一本の「愛の讃歌」はもう花も恥らうって感じの若さ可愛らしさで、なんか宮アあおいちゃんのようで、あ、そう、ちょっと似てるかも、感じも、スタンスも。
で、そう、ずっと若いさくらばかり見てきたから、ああ、白いハイソックスじゃないさくらだ、とか思って。やっぱりおばさんくさいファッションだとか思って(爆)。
いやね、白いハイソックスのさくらを見るにつけ、どのタイミングで彼女はこれを脱ぐのかなあと思ってたから(爆爆)。
なんか脱線しまくりだが(汗)。とにかく、そう、満男が就活から逃げ出して家出し、寝台列車に飛び乗って、香川の小さな島にたどり着く。
寅さんが偶然その地で行き会う……という訳ではさすがになく(でもそういうありえない偶然、寅さんでは散々あるけどねえ)、心配するとらやのメンメン……ていうか、とにかくさくらがほっとけば飛び出していきそうだったので、寅さんが代わりにと、買って出たんである。
「俺のツラをじっと見ろ。これが就職しないまま来た男だ。お前はこうなりたいのか?」と説得すると言うと、メンメンは深く納得(爆笑!)。
深く納得することに、寅さん自身がそうだろう、そうだろうと大満足することが更に可笑しい。自覚があるにもほどがあるだろ!
正直、そう、先述したように名画座的な寅さんはエネルギッシュノリノリな頃の寅さんばかりだったから、登場シーンから、寅さん、年取ったなあ……とつい思ってしまう。お約束の夢のシーンもなくて、秋空の下、花嫁行列にしみじみするなんて、なんかメッチャ、メッチャ年とっちゃったなあ、と。
なんか、だから、寅さんは今回のヒロインともやはり、というかもちろん成就しないけど、お互いの想いが同じだということさえお互いで確認できないもどかしさが、年とっちゃったなあ感をあおりたてて寂しくてさ……。
そう、そこは、やはり甥っ子が「おじさんは、お姉さんのことが好きなんだよ!」と余計なことを言っちゃう訳!でもう、その後はどうも発展のしようもない訳!
……おっと、ちょっと先走りすぎたか。満男もね、寅さんに負けず劣らず恋をする。彼が流れ着いた小さな島は高齢化が進んでて、彼の若い労働力は単純に喜ばれ、就活で自分自身を見失いかけていた満男は、自分が必要とされている喜びを感じ、ズルズルとい続けになっている。
いや、それだけじゃない。その島に本土から通ってきている若い看護婦、亜矢とちょいといい雰囲気になっているのも、大きな要因である。
中盤、見晴らしのいい高台でお昼ご飯を一緒し、手編みのセーターをプレゼントされ、満男の汗臭いトレーナーを替りにとむしりとられ、キャイキャイ戯れながら空き家でいい雰囲気になりキッス!なんて、これ以上ない甘酸っぱい場面さえ用意されている!
このシークエンスはもうお約束にかなり気合入っていて、彼らが空き家に飛び込んでキャーキャー言ってる声が聞こえ、バタンと戸口から埃立てて何か倒れて、その途端にシンとする、その引きの画とか、なんかもう、青春過ぎてハズカシーッ!
でも、さすが満男は寅さんの甥っ子、亜矢からもそれを見抜かれていたし、想いを告げられても、それに応えることも出来ず、逃げるように島を去ってしまう。
本当に彼女が好きで、この島で必要とされていることに嬉しく思っているなら、就職活動に苦戦していることもあるんだから、考える道はあった筈なのに。
……まあ、そこでマジに路線考えちゃったら、寅さん自体が続かないから(爆)。まさしくそれこそが、寅さんを続けてきたんだから(爆爆)。
しかしこの亜矢、メッチャイイ役、もう一人のヒロインなのに、知らない顔……その後のフィルモグラフィも一本だけ。も、もったいない!超大抜擢なのに!……寅さんに出ても続かない役者もいるんだなあ……。
もう一人のヒロイン、そう、どちらがメインのヒロインかは、流れ的にはなかなか難しいところだが、貫禄も、キャリアも、全く太刀打ちできる筈もない松坂慶子っ。
あれ、こんな髪の短い彼女、初めて見た気がする。寅さんが恋してきた女性は皆美人ばかりで、満男が亜矢に「美人に弱いんだ。すぐ恋しちゃうんだ」と嘆息気味に語るのが可笑しいんだけど、この松坂慶子の美しさはまた格別!
満男が世話になっている家の娘、急な坂道、石段にぜいぜい言いながら、文句たれながら登っていた寅さんが、上から日傘を傾けながら降りてきた彼女、葉子(洋子としているデータベースもあるけど、こっちでいいのかな?)にひと目で魅せられるのは、判る!
だって観客だって、それまで彼女は登場していたのに、わっと目を奪われるもの!涼やかな和服の美女。本当にキレイ!
この葉子は身体を壊してこの島から神戸に帰れないでいた。父と言っている老人は、父には違いないんだけれど、彼女は愛人の子であった。
後に寅さんが参入して、このジェントルな老人が、娘は自分を憎んでしかるべきなのに、他の子供たちはとるものだけとって去って行ってしまったのに、と相談すると、寅さんは「俺も妾の子だったから判る。父親が欲しいんだよ。不幸な生い立ちな人ほど、優しいもんだよ」と。
……ああ、そうだった、寅さんとさくらには、そういう設定があったんだよなと、今更ながら思い出す。さくらが一人息子の満男に甘くなるのも仕方ないのかな、などと……。
そういやあ、物語の冒頭で、とらやにバイトの女の子が入ってくるのね。満男の家出を心配してくれる彼女に、あなたは家出したことある?とさくらは聞く。
「ありますよ。北海道まで行っちゃった」「まあ……ご両親心配したでしょう」「……父親はいないし、母親は水商売で帰ったり帰らなかったりだから」絶句するさくら。
さくらだって“普通”に両親が揃った境遇じゃなかったのに、それが“普通”で“良いこと”だと思うばかりに、心ないことを言ってしまったと、……そこまで細かく想像するのはうがちすぎかもしれないけど、でもそうだよね。
現代に近づくにつれ、その“普通”の尺度はどんどん離れていくばかりなんだもの。
山田監督が吉岡秀隆を起用し、重用し、寅さんではなく満男の物語になっていったのも、彼が醸しだす現代の複雑さがあったからじゃないかと思う。
ひとり部屋に閉じこもる満男は一人ガンガンに曲を聴いている。あれって……ひょっとして尾崎豊あたり?いや、吉岡秀隆が尾崎を好きなのは有名だから……。
満男が亜矢への気持ちを振り切り、ていうか彼女の気持ちに応えられるだけのカイショがなくて島を離れるシーンで流れるのは。ナント徳永英明である!確かに満男の切なさやりきれなさを象徴してはいるけれど、と、寅さんぽくなーい!
普遍的じゃない……と言いかけて、いやいやいやいや、寅さんはいつでも世相を反映していたじゃないのと思い直す。いつも寅さんに古き良き日本を見たがっていたから、自分と同じ世代の満男=吉岡秀隆に自分の時代を見ちゃって、なんかうろたえちゃったのかなあ。
やっぱり満男に食われるせいか、寅さんと葉子の印象は、通常の?寅さんとヒロインよりは、薄いかなあ。
寅さんの魅力を満男に語る葉子が、あなたはまだ若いから判らない。男は顔やお金じゃないの。あたたかさ、それも電気ストーブのようなそれじゃなくて、寒い冬にお母さんがかじかんだ手を包んで暖めてくれるような、芯からあったまる感じ、と説く。
結局それ止まりで、二人はお互いの気持を意識しあってドキドキなんてことすらなく、二人で香川本土めぐりで楽しい時間は過ごすけれども、それだけ。
この時の、お礼をしたいという葉子に、シャツは着ない、ネクタイは締めない、靴ははかない(ぞうりだから)、困った葉子がある意味切り札のように、決心したように、温泉旅行を切り出すと、風呂には入らない、とオチ中のオチ!イジワル!と寅さんをつねる葉子。結局これが、寅さんなんだよなあ……。
お互い恋する女に一歩を踏み出せず島を出て、高松で二人は別れる。満男は寅さんが帰らない理由を「いつものパターンだよ」と言い、さくらと博は顔を見合わせる。
その後、満男は就職試験に見事合格したらしい。東京へ帰ってきてから出かける最終面接に博は「お前のありのままを見せればいいんだ。ウソなんかつく必要はない。それで不合格なら後悔しない」と声をかけた。就活で同じルーティン、同じ質問を受け、自分を偽り続けて疲れ果てて逃げ出した息子への、はなむけだった。
時間は飛んで、年が開け、タコ社長が春からは新社会人だなと祝いに来ることで、無事就職が決まったことが判る。
そこへ、葉子が訪ねてくる。寅さんはそのまま香川にとどまっていて不在。残念だわあ、と言いながら、楽しげに忙しいとらやを割ぽう着姿で手伝う葉子。
一方、寅さんは屋台を広げているところに、振袖姿の亜矢に行きあう。その隣にはサワヤカな青年が一緒である。「新しいボーイフレンドか?」「ヤダ!新しいなんて!」女はしぶとし強したくまし、である。
寅さんがプレゼントする干支の犬のぬいぐるみは、当時流行っていたシベリアンハスキーだよなと思い、寅さんと道行きを一緒しているテキヤのおっちゃんが扱っているのが「“スピルパーク”監督“ジェラシックパーク”直輸入」の、正式なエセ商品のビニールフィギュア!
冒頭で寅さんが占いの棒を恐竜の口から突っ込んで、焼き鳥よろしくかじる真似をするのには爆笑!
遊び心はそこここに満載で、ことにキャア!と思ったのは、とらやの前の往来を、どしゃぶりにも関わらず釣りバッチリのカッコで行き過ぎるハマちゃん=西田敏行!
「こういう日が釣れる魚があるんだよ!」この時はまだ、寅さんと釣りバカの幸福なカップリングの時代だったんだよなあ……。
当然、香川全面協力。寅さんが葉子とデートするお遍路さんのルート、そして香川のお祭り、しなやかな女踊り手と神輿の、日本伝統の美しさ。
この祭りのシーンから時間と空間がパンして、彼らの小さな島で、小さく神輿がかつがれているのを、俯瞰で慎ましく映すのが、これもまた美しいんだけど、いろんな気持が胸の中にたまってため息。
さよならだけが人生さ。なんかふっと、そんな台詞がよぎっちゃった。寅さんは、寅さんも、最終的にはそうだったんじゃないかって、思って……。
あ!それとこれも忘れちゃならない!寅さんがラスト、香川からとらやに赤電話からかける電話(思えば、携帯電話の時代に寅さんが存在するのは難しかっただろうなあ……)。
「お兄ちゃん、島で何があったの?満男は何も喋ってくれないのよ」とこぼすさくらに、「俺はあいつのそういうところが好きなんだ(信頼しているだったかな)、就職祝いに叔父として背広の一着も作ってやらなきゃな」と寅さん。
キャラは違えど、大事なとこは口下手で、基本信頼を重んずる寅さんと満男は、一見全く違って見えて、確かに血のつながってる、良く似た二人かもなあ。★★★★☆
で、その太地喜和子にヤラれまくる本作なのであった。大口開けてガハハと笑うサバサバした芸者さんなのに、不思議な艶があって、でもとにかく開けっぴろげで明るくてチャーミング。
クライマックスに見せる、汚い男にお金を騙し取られたことを告白する悔し涙と、それにすっかり憤慨して飛び出していってしまう寅さんに「男の人にこんなに大切に思ってもらったの初めて!」とむせぶ嬉し涙。
その双方が、こんな強そうなアッケラカンとした女の子にかよわさしおらしさを垣間見させて、まさにこれこそツンデレ、すっかり腰砕けになってしまうのであった。
つい女の子なんて言ってしまった。もうすっかり大人の女、いい女なのに。でもなんかそう言ってしまいたくなる可愛らしさがあるんだよね……なんかそこが、数少ないながらもこれまで見てきたヒロインとひと味違うような気がした。
それに彼女、ぼたんは確かに寅さんと意気投合して幾夜も飲み明かすけれど、そしていつか所帯を持とうやなんて言い合ったりするけれど、恋の雰囲気というよりは、同志、親友、マブダチって感じなんだよなあ。
まあ、彼女が登場するのは中盤も過ぎてからだし、もう一人大きなメインゲストこそが物語を引っ張る。
これまたなかなか観る機会がなく、写真で拝見すると、息子の寺尾聰がますます似てきたなあと思っていた宇野重吉。なんと本作は、その息子との共演である!
キャストクレジットで続けて名前を見た時には、おおーっ!なんという遊び心!と思い、でもこの時にはきっと宇野重吉は押しも押されもせぬ名優、寺尾聰はきっとまだまだワカゾー(「ルビーの指輪」の大ヒットはそのずっと後だよね)だしさ、世間的、観客的にはどういう感じだったんだろうなあと思って!
でも、寺尾聰のおとぼけっぷりが何とも愛しいの。宇野重吉は日本画壇の重鎮、至宝の池ノ内青観。彼が故郷の竜野に招待されてやって来る。
迎える観光協会の職員が寺尾聰なんだけど、車の送り迎えでもボーッとして要領を得ず、料亭の宴会でも酒も飲まずにひたすらメシを食って、上司に「良く食うなあ」と呆れられる。
青観は騒々しい宴席がキライだから早々に辞してしまい、その後は寅さんが職員たちを引き回す(ていうか、寅さんが引き回される)訳だから、親子がカラむという感じではないんだけど、この何ともトボけたキャラがすんごく愛しいの!
もちろんそこにはお約束で、あわてふためく上司という存在があるんだけど、こういう親子共演って、凄いなあ!
……で、こんな具合だと物語がちっとも判らないが。そもそも寅さんがこんな重鎮となぜ出会ったかというと、それは珍しく冒頭で早々に寅さんがとらやに帰ってきたところから始まる。
偶然にもその日は甥の満男の小学校入学の日。そうか、まだ吉岡秀隆にバトンタッチしてないんだな。それにしてもそんな偶然ってあるかよと、後にも思うし、それは寅さんシリーズ通してそうなのだが、そこはお約束の人情喜劇なんだから、そこを面白がらなくてはいけない、か。
たまには叔父さんらしいことをしてやりたいと、御祝儀袋に寅、と書いたところにさくらと満男が帰ってくる。さくらはこんなおめでたい日なのにうかない顔。
聞くと、寅さんの甥だと知った父兄や児童たちが大笑いしたと。私、悔しい、と。それを聞いて寅さんも大激昂。談判してやる、そんな学校は転校しちまえ、と始まって、お約束のおいちゃんおばちゃんタコ社長含めた大乱闘。
この場面では、そんな風に笑われた寅が悪いんだとおいちゃんは言うけれども、でもさでもさ、観客の誰もが思うよね。それは寅さんがご近所に愛されてるからじゃん、と。
タコ社長が、そりゃあそうだよ、総理大臣がおじさんだと聞いて笑うか?と言ったのは言い得て妙で、萎縮したり恐れたり嫌ったりする相手じゃないから、だよね。
そう思えばさくらが「悔しい」などと言うこと自体が解釈の違いがあったと思うけど、まあこれが物語の突破口だから。
そして寅さんは、飛び出した先からもう旅に出るからと電話をかけたところで妹の必死の説得にあいまんざらでもなく、じゃあ後で帰るから、と返事。判ってるから電話をかけるんだよな、と、このあたりはまさに寅さんのお約束。
しかし帰ってきた時には一人ではなかった。呑み屋でツケで帰ろうとしたところを店員からとがめられ、往生していたいかにもカネのなさそうな薄汚いじいさんを連れてきた。
いや、ヒドイ言い方だけど……ホントそんな感じなんだもん。寅さんはテキヤ稼業でおなじみのあのカッコはカジュアルと言うのもはばかられるけど、でも薄汚くはない、こざっぱりと清潔。
でもこのじいさんは、……なんかホント、薄汚い、って印象だったんだよね。なんかヨイヨイの感じさえした。だからまさか、そんな大人物だとはさ……。
翌朝目覚めたこのじいさんは、隣の(タコ社長の経営する)工場の音がうるさいの、風呂を立ててくれの、その前に茶をいっぱいくれの、あげくの果てには外で食べてきたうなぎの高額領収書を持たせてきて、とらやのメンメンはすっかりおかんむりになってしまう。
でも後に、ここが旅館だと思っていたという彼のひと言で、なるほどなあと全ての誤解が解けるあたりが悔しくも上手いのだ。
つまり彼は、市井を知りたくてあんな風に居酒屋をフラフラしていたんだろうけど、寅さんのような人はこれまで現われなかったということだろうし、そしてそんな市井の生活も知らなかったということ、なんだろうと思う。
別にゲージュツカだからセレブだというわけじゃないけど(ていうか、むしろ逆の場合の方があるよね)、彼はなんだか浮世離れしていて……後に故郷の竜野で再会する、どうやら初恋の相手もいかにも歴史のありそうな豪華な家に女中つきで一人暮らしているしさ。
て、いうのはまた後の話。で、寅さんから一喝されてそれは悪かったと、このじいさん、満男のスケッチ画用紙にさらさらと“落書き”をしたため、これを神田のナニガシ古書店に持っていけばなにがしか都合してくれるから、と持たせる。
半信半疑とゆすりたかりに思われやしないかと及び腰の寅さんだったけど、なんとビックリ、7万円の大金を、しり込みする寅さんをしたたかな交渉とカン違いした相手が値を勝手に吊り上げてくれて渡してくれたのだっ。
その後、じいさん……もとい青観が辞した後のとらやは、後悔、恥ずかしさ、思いがけず満男に描いてくれた“落書き”をめぐってまたしても大乱闘と、市井の平和さが繰り広げられる。きっと青観さんは、こんな場面など見たこともない、見せてあげたかったなと思う。
後にね、先述したぼたんの失ったお金を、どうしても戻してあげられそうにないと悟った寅さんがね、青観さんの元を訪れて、絵を描いてくれないかと言うのね。あんなちょろちょろっと描いて7万円なんだから、またちょろちょろっと描いてくれないかと。
寅さんの気持は純粋だし、決して悪気はなかったと思う、けど、でも寅さんはやっぱり市井の人(この場合は、まあつまり、悪い意味での)。芸術家の(ここではゲージュツカなどとは言わないさ)大変さや苦悩など、知るよしもなく、ちょろちょろっと描いて大金を手に出来る、ラクな商売だと思っている訳で。だって竜野で青観さんの替わりに受けた歓待を思えば、確かにそうだよね。ラクな商売だと思ったに違いなくて。
で、金儲けのために絵を描いているんじゃない、と青観さんに断られ、寅さんも引っ込みがつかなくて売り言葉に買い言葉で憤然と出て行ってしまう。
と、なんか流れでまたすっ飛ばしちゃったけど(爆)。そう、そうそうそう、竜野での再会よ。こんな偶然あるかいなと、まあ先述したけど思う訳さ。それはだから、おいとかなきゃいけない(爆)。
こういう歓待とか宴会とか苦手な青観さんは、これ幸いとばかりに寅さんを引きずり込んで相手させちゃう。寅さんも堅苦しい宴席なんかじゃ酒がマズいと言いながらも、そこは寅さんだから、オエライさんの長々スピーチをおちょくるところから始まって、あっという間に芸者さんたち、すぐにそのオエライさんも巻き込んじまう。
青観さんの替わりに大あくびしながら名所旧跡をめぐり、車寅次郎先生、なんて言われちゃう。
で、そんな中で出会ったきっぷのいい芸者、ぼたんとすっかり意気投合している間、青観先生は一人の女性を訪れている。青観先生と同じ年頃と思われる、すっかり落ち着いた女性。女中さんを使っているあたり、そして家の構えも良さそうな家柄の雰囲気。
「カズオさん?でしょ?ちっとも変わらないのね。」にこやかに迎え入れた彼女と、ゆっくり茶をかわしながら、特にやけぼっくいという雰囲気でもないのね。
解説には“初恋の人”とあったし、その程度かなとも思うんだけど、ただ青観先生が、僕の絵を今でも見ることがありますかと問い、彼女が展覧会に観に行って、私がモデルの絵だとすぐに判りましたと言う。
そこまではにこやかで甘酸っぱい青春の思い出を共有する間柄かなと思うんだけど、「僕は謝らなければいけない。あなたの人生を狂わせてしまった」なんて言い方をするもんだからさ、もっと重い、それ以上の過去があったのかなと思わせる。
初恋なんて軽いもんじゃなかった、と。いや、初恋はとても大事な、捨て置けないアイテムだけど、そうじゃない気がして。
竜野から戻った寅さんは、すっかりその甘い記憶から抜け出せなくなって、とらやのメンメンを呆れさせている。でも後から思えば、さくらの言うように、ぼたんさんへの恋心だったのかなと思う。
いや、さくらが言ったのは、確かにそんなフヌケのお兄ちゃんのことを御前様にグチったりはしたけど、彼女が言ったのは、ぼたんが寅さんのことを好きなんじゃないかということ。
……ていう結論に至ったのは、ぼたんがその後、とらやを訪ねて数日逗留し、先述の、金を騙し取られた男との交渉がありつつ、とらやのメンメン、そしてタコ社長やその職工たちともすっかり仲良くなって、なんてあれやこれやがあった後なのであった。
あ、ちなみにタコ社長と職工たちと、ていうのは、タコ社長が、コイツら芸者なんて見たことないから呑み席にちょっと来てくれないかと無粋なお願いをしたからで。
それに気さくに応じたぼたんさんはこれぞプロの芸者さんであり、とらやの面々はいたく感銘を受け、同情も感じるんだけど、このことが発端でタコ社長がぼたんの交渉についていくことになり、“法の目をかいくぐって卑怯な金儲けをする男”をナマで目の当たりにするという役割を果たすんだから、さっすが上手いなあ、と思う。
私ね、これをどう決着果たすのかと思ったのよ。こんなイケスカナイ奴をケチョンケチョンにやっつけるための方策なんてあるのかなと。
なかったのだ。なかったことに半ばボーゼンとしたけど、そうだよなとも思った。今でもこういう問題はあると思う。当時よりは今は、やり方はあると思う(と、思いたい)し、頼めば弁護士さんも頑張ってくれると思う。
でも当時はまだまだ……まだまだ高度経済成長の延長線上で、そうなるとこういうこすからいヤツも横行する。その世情こそを、監督は描きたかったんじゃないかと思うし、泣き寝入りせざるをえない市井の人々や、でもその人情に気持だけでも助けられる人たちをこそ、描きたかったんじゃないかと思うし。
ラストはね、寅さんがぼたんの元を訪れる。所帯を持とうと言ったじゃないかと、あのニッカリ笑顔にぼたんもイーヤー!と返す。
あんたに見せたいものがあるんだと寅さんの手を引っ張っていったぼたんは、壁にかけられた見事な牡丹の花の絵を見せる。牡丹、だよね?あの花、そうじゃなかったら、つまんないじゃん(爆。花の知識もないのに、テキトーなこと言ってる……)。
青観さんから、世話になったからとそれだけのメッセージでぽんと送られてきたんだという。市長さんが200万円で買うから(ぼたんがクズ男に貸した額だ!)って言うんだけど、私、いくら出されても売らない。ずっとずっと大切にするんだ!と。
寅さんは感銘を受けて、東京の方向に向かって拍手を打つ。東京の方向はどっちだ、あっちだ、こっちだ、と右往左往するラストはいかにも寅さん的!
この絵を借金の埋め合わせにしないのも、寅さんが自分の浅慮を語らないのも、これぞ粋。江戸っ子寅さんの粋なんだなあ!
さくらがね、いつもの膝上スカートにエプロン、白いハイソックスという、まあ今ではかなり萌えポイントも高いカッコがほとんどなんだけど、満男の入学式のための茶色のカッチリとしたワンピース、過分なお金を返すために青観さんの豪邸を訪れた時の、夏らしい淡いワンピース、いやあ、ワンピース萌え、普段さくら、そんな格好しないからさあ!
ぼたんさんがとらやを訪れた時、彼女の色香に博が赤面したりなんて場面もあって楽しいけど、この時にはさくらはまさにその、いつもの奥さん&だんご屋で立ち働くカッコなんだけど、このツンデレ、ぼたんとはまた違うツンデレが何ともたまらんですのなあ!★★★★☆
それは単に、私がバカだからなだけとは思うが、“劣化した俺”たちあたりから、“俺”の見分けがつかなくなってきて……。
いやそれは同じ“俺”の顔だから、ではない。むしろ逆。私ね、ホント顔の認識力がなくって、だから役者さんの見分けとか、過去何に出てたと聞いてウッソーと思ったりとか、もうそんなんばかりで。
そんなもんだから、ちょっと髪型代わったり、服装代わったり、それこそ雰囲気代わるだけで単純に見分けがつかなくなっちゃう。
それは役者さんの芝居力であるということも言えるけど、この場合は……この“俺”だらけの世界の場合は、“俺”だけど別人、別人だけど“俺”ってあたりが面白さであり、重要な訳でさ。
そうなると私みたいなアホ観客は、え?同じ顔だっけ?そう?別の人じゃなかった??みたいな見当違いな混乱をきたして、もうダメなの。うー、そんなアホは私だけかなあ。
それはきっと、この亀梨君が端正なお顔の男の子だからかもしれない……。端正というのはバランスが取れているということで、誤解を恐れずに言えば、ある意味没個性の部分があるということ。
私ね、彼が、“七三ならぬ九一”の髪型のイヤミな上司、加瀬亮の顔とスイッチングした時も、二人の顔は全然違うのに、その髪型だけで見事にコンランした(爆)。
でももしこれが逆ならば……。加瀬亮が“俺”側になってスイッチングしたのなら、ここまで混乱しなかったんじゃないか、って思ったのね。加瀬亮の顔は、やっぱり加瀬亮なんだもの。
いや、亀梨君だって亀梨君に他ならないんだけど(爆)、何て言ったらいいのかなあ、化けられるほどに整ってると言うべきか。
そもそも本作は、映像化が不可能と言われていたという。その惹句は若干聞き飽きた感もあるけれど、念押しするように“ホントに映像化不可能”な原作、と本作の惹句につかわれているのは、まあ確かに頷けるものはある。
でもそれって、皮肉にとられちゃわないかなあ、と思う。頷けると思う私は先述のように、「だって“俺”の見分けつかないもん」とアホづらかまして言う訳だからさ(爆)。
この作品が、誰もが想像するようにオレオレ詐欺が物語の起点となり(恐らく、作者の発想のきっかけでもあると思われ)……ということを考えると、これは文字上の遊び心、そこから展開する文字上のシュールさ、俺、俺、俺……と連なり絡まる面白さにあるんじゃないかと、思ったんだよね。
相変わらず未読だからホント単なる勝手な憶測に過ぎないんだけどさ(爆)。でも文学って、文学だけでしかなし得ないワザがあるし、魅力があるし、映像化不可能だということが、それを乗り越えて映像化することが必ずしもスバラシイことであるのかという疑問を時々感じたりもし……。
住み分けっていうかさ。まあ映画もオリジナルは企画も通りにくく、ネタ切れってこともあるのかもしれないけど……。
なんてことはもちろん、映画としての本作には関係のない話なんだけども。
でまあ、話を戻すと……えーとどこまで戻せばいいんだ(爆)、そうそう、メインは三人、の話。
その中でも最初に“俺”と“俺”として観客に提示される、本人の“俺”と、本人が成り行きでオレオレ詐欺を働いてしまった、そのなりすました先の大樹が“俺”となる。
この二人がごっちゃになってしまったんだよ(爆)。いや、見分けがつかないっていうんじゃなくて、見分けはついてるんだけど(亀梨君はすべてを見事に演じ分けているんで……だから先述のような私のアホ混乱が起こる訳(爆))、オレオレ詐欺を起こしちゃった、どうしようと思っている本人が家に帰ってみたら、成りすました相手が自分の顔をして出てくる。
……ていう流れをすんなり信じていれば混乱しなかったと思うんだけど、その相手がすんなり「じゃあ俺は便宜上大樹ってことで」と言う。あれ?とコンランしちゃったんだよね。
だってメインの俺は大樹に間違われたことで困って実家に帰ったら、自分と同じ顔した男が“俺”として収まっていた訳で、だったら、その、実家にいた彼こそが“俺本人”って流れの方が自然では?と……。
という段に至って、あれ、ひょっとして私、どっかで何かの展開を見落としていたか、読み違えていたかと……。そうだった?そうだった??なんかもう、それで混乱しきっちゃって……。
第三の“俺”、チャラい大学生のナオが、茶髪で伊達めがねといういでたちと、喋り方もはっきり違うことも相まって判りやすかったのが、余計にこの、“俺本人”と大樹の混乱に拍車をかけたかも……。
いや、違うんだけどね。大樹である俺は、いつもスーツかワイシャツにネクタイをびしっとしてて、口調もマジメ一本やりで。
家電量販店に勤めている“俺本人”は、上司の加瀬亮に、さっさとケイヤクに戻ればと疎まれ、理不尽に罵倒されているのが、……なんか判るような気がする、覇気がないようなあるような、意志があるようなないような、で、物も言わずにいきなり反撃してくるような、そんなイマドキの青年(という言い方自体古い……)。
そう、タイプは全然違うんだけど、最終的にこのマジメ人間の大樹が牙をむき、違う“俺”にすり替わることを思うと、この二人を取り違えて混乱したのも無理なかったかなあ……とか思って。
勿論それは、私の言い訳(爆)。てゆーか、そもそもこの物語が一体何なのか、全然書き進めてなかったけど、何なのかもまあ、判らないけど(爆)。
先述したように、文字上の遊び心から始まって、その極みこそを目指した、文学としての表現こそが大事で、どういう物語か、なんて言いようがないような気もする。
それよりも……ちょっと意外だったんだよね。予告編の印象も手伝っていたけれど、私はてっきり、俺が増殖するシュールさをとことん追って、そのシュールな面白さを感覚的に示す、そんな作品だと思っていたの。
まさかこんな、現代社会を風刺するような、あるいはアイデンティティとはなんぞやと問題提起するような、あるいはあるいは、禅問答のような、哲学のような、そんなシリアスな空気を出してくるとは、まさかまさか、思ってなかったの!!
というのは、監督が三木聡だったからに他ならない。私、なんか彼は苦手意識があって、ちょこちょこととしか作品を観てない。
ただ今回あれっと思ったのは……ひょっとして私、何人かの監督と彼を混同していたかも(爆)。テレビ出身、脱力系、そして何となく同じ世代……そこらあたりで軒並み、“なんかピンとこない……”と思ってしまった数人の監督さんと混同している感大アリ(爆爆)。
でもとにかく“脱力系”“オフビート”の印象はあって、そのリズムにノロくさい私は上手くノレなかった印象があった。
でも本作に対するノレなさは、ここまでぐちぐち言ってきたようなところであって……。そう、シリアスな展開、クライマックス、サスペンスじゃん!という空気にしてきたから、ビックリしたの!!
“俺”が増殖した果てに“削除”がはじまる。
削除というのは普通に昔から存在する日本語の言葉ではあるけれど、パソコン、インターネットが一般化し、仕事もプライベートもその世界がなくては成立しなくなった現代社会において、その言葉が純粋に生まれ、使われていた時とはくらべようもないぐらい、多用され、意味合いの重さが軽くなってしまった言葉の一つだと思われる。
いらなければ削除してしまえばいい。ごみ箱行きだ。
“俺”同士の世界のみならず、一般社会、ニュース、記事などにも削除が頻繁に現れ出す。
そのとっぱじめが、三人以外の俺、劣化した俺以降に現れた、次々と俺の顔になる俺、の始まりだった。
家電量販店の同僚で、税理士になるための学校に通い始めた、つまり違う人生を歩み始めた青年、ヤソキチ。削除され、新聞に載った彼の顔写真は、くりくりパーマは彼そのものだったけど、顔は“俺”だったのだ。
ここではない場所、ここにはいない自分を求めて、“リセット”して人生を歩み始めたヤソキチが最初に削除されたというのは、非常に意味ありげに思われる。
俺は俺だろ、違う人生なんて歩めるはずない、というネガティブなアイデンティティと、俺は違う俺になれる、いつだってリスタートできるという、ポジティブなアイデンティティと。
このきっかけからつながるサスペンスは、人間がとりがちなネガティブの方を無意識に選択してしまったがゆえのことだろうか。
そして自分自身の死の動画が送り付けられて、自分は本当に“俺”なのか。こうして削除されているのに、今ここにいる俺はなんなんだと、激しく動揺する“俺”少なくとも、この時点では……。
だあって最初に言ったように、俺と大樹の区分けで頭の中大混乱だったんだもん(爆)。
結果的にはハメられて、その死の動画に身代わりとなって殺されてしまったのがナオであり、“俺本人”と、最後の二人になってから考えようと約束した大樹が、“俺本人”を削除しようとした張本人だったんである。
なんか、ドッペルゲンガーみたいだよね。ドッペルゲンガー好きなんで、ついそんなこと、思っちゃう。
でも考えてみれば真逆かな。いろんな“俺”が出てきたけれど、全てが整理され、“俺本人”だけになってしまえば、息子と取り違えていた大樹の母親は「どなた様……?」と首をかしげる。
つまり、同じ顔だと思っていたのが、当たり前だけど全然違う、赤の他人であり、……じゃあ今までの展開は一体……?
名前も住所も全く違うはずの“息子”のみすぼらしい、マンションではない、アパートというのもさしつかえる、コーポ……文化住宅……んー……。
そう、多重人格はちょっと、考えちゃう。正直、こうして展開を語っていく中にはちっとも出てこないけど、紅一点であり、ミステリアス、不条理度満点の演じる美女=サヤカは気になる。内田有紀にピッタリだもの。
意味ありげに電気屋でデジカメを物色しにあらわれたサヤカは、最初、万引きするそぶりを見せて“俺本人”の気を引きつけた。
“俺本人”の腕を買って怪しげな一軒家の撮影をさせたりして、大金を払う。
奇妙なだだっぴろい、工場のような場所で彼と相対するサヤカは、どんな存在なのか、この撮影の仕事は何なのか、結局最後まで全く判らない。
彼女の“夫”たる渋川清彦もナゾ。やたら小さな声の男、という部分でしつこく笑わせるものの(でもあんまり笑えないけど)、彼らが一体どんな存在だったのか……ただ単に、謎を振りまくだけ、それだけのような。
サヤカの夫は腕っ節の強い男を携えて、“俺本人”はボッコボコにされる。ありえない状況が次々彼を襲う。
サヤカはすまなそうにするけれども、相変わらずの妖艶さで“俺本人”を誘う。あなたはあなた。自分は自分。信じることが大切と、耳元でささやいてイイコトしちゃったサヤカ。
朝になり、シャワールームで倒れていた彼女は、豊かなおっぱいを携えた女の身体のまま、“俺”の顔になっていた!!
最終的に、俺は俺本人だけになる、削除という名の殺し合いを繰り返して。
……リアルに物語を考えてしまえば残酷極まりないけど、アイデンティティをめぐる哲学と思えば、意味深いのかなあ。
途中にさしはさまれる、火葬場のシーンとか、まったく唐突で、俺本人のお姉さん家族の遺影を抱えていたりとかして、つまり“俺”の削除に巻き込まれたというような含み、そして見知らぬ遺影を抱えた“俺”がニヤリと笑って立っている……悪夢のようなシークエンス。
いや、こんな悪夢は見たくない、ホント、見そう、こんな悪夢……。妄想の中に巧みにさしはさまれるから、このあたりになるとホントに脳みそかき回される感覚。
元に戻ることが大事、全てを元に戻す、“俺本人”は成り行きでオレオレ詐欺をしてしまった、その金を元に戻すところまでほうほうの体で戻った。
“本当の俺”をめぐってナオに成りすました大樹と殺し合いの対決をし、かりそめの親子として関係をつむいだ大樹の母親の元を訪ねた。
ずっとずっと大樹と彼を呼び続けていた彼女が“俺本人”を見てもいぶかしげな顔を作る。
戻った。俺は俺を取り戻した。90万円の入った封筒を差し出し、全ては終わる。本当の母親の元に戻る。自分のことをマサエさんと呼ばせたがる天然な母親の元に。
そう、この母親たち。大樹の母親の高橋惠子、“俺本人”の母親のキムラ緑子。
セレブっぽい高橋惠子と、庶民の母なキムラ緑子は対照的ながら、その天然ぽいおっとりさ、おかしさが妙に共通していて、“俺本人”と大樹の、まったく別人物ながら袖すり合うも大きな縁をつないでしまった不思議さを思う。
この二人の女優が何より良かったかもしれない。さすがというかね。
俺同士に居心地の良さを覚え、猿山ならぬ俺山、俺帝国を作ろうとする、無邪気なうちが良かった。
好みもタイミングもすべて同じの、冒頭近くの三人のシーンはそのシンクロ度合いの可笑しく、奇妙な心地よさが、ふとした共感を覚えさせる上手さ。
それだけで終わるシュールさならば、この物語が存在する価値はなかったのだ、そういうことなのだよね。でも……コンランしたよーっ。
★★★☆☆
なんかね、ピンと来ないというか、私はダメだったの、あれ。で、彼がテレビドラマから来た人だと知って、それでなくてもそこに隔たりをヒガミ的に感じてしまうもんで(ただの受け手なのに(爆))、やっぱりテレビドラマの人はとか、ちょっと思っちゃって(爆爆)。
今から思えばもったいなかった、私、バカだったなあ。今更ながらヨシヒコとかメグたんとか、コドモ警察とか、見ときゃよかった。
と、思うほど、本作はチョクに放り投げられる面白さだった。画面に人物の年齢を手書きで書きこんで対比させたりとか、黒バックの自分のみ登場(一人多数役)の夢妄想シーンとか、バラエティかドラマか、てな確信的チープささえも、面白かった。
ホント、なんか素直に面白くて、それも強引に笑え笑えじゃなくて、思わぬところをこちょこちょっ!とやられるような笑いで、何度も噴き出しちゃって、楽しくて、リラックスしちゃった。
ちょっとお疲れ気味だったこともあって、ちょっと元気出たなあ、なんて思った。コメディ作品って笑え笑えなものが多いし、あるいはオフビートを気取っててケッと思ったり、リズムが合わないとズレまくってしまうような感性タイプの作家さんも多いし、改めてコメディって、本当に難しいと思う。
「大洗……」が私にとってダメだったのは、どっか謎解き部分があった物語がアホな私には咀嚼しきれなかったのかもしれないし(爆)。
本作の、ダメダメ親父ミーツ堤真一という化学反応と、福田チームとも言うべき、彼の作品世界を絶妙に描写する役者たちの安心感が、笑え笑えではない、リラックスした笑いを生み出してくれたのかなと思う。
なんて、つまんない分析なんてすることなく、面白いんだけど!
そう、堤真一。彼はその芝居力の高さから重責のある役柄を任されることも多いけど、ふっと素が暴露されるようなことがあると典型的な関西系気さくでオチャメなお兄ちゃんで(もうお兄ちゃんという年でもないが(爆))、コメディこそが真骨頂なのかもしれない、と思う。
まあ私が見てないだけなんだろうけれど、彼の喜劇役者っぷりはお見事で、そうだよなー、彼、改めてみると別にイイ男って訳でもないし(爆)、こういう役の方がめちゃめちゃチャーミングだよなーっ、と思うんである。
もちろん役柄でだけど、もしゃもしゃくりくり頭が何ともチャーミングで、まあそれは言い年した大人の男がと、老いた父親(終始ステテコ姿の石橋蓮司!)や、幼馴染のサラリーマン、宮田(生瀬さん、枯れたサラリーマンがメッチャ良かったわー)や、バイト先の若い同僚たちや、そして何より彼、大黒シズオ自身の妄想(というか、夢というか)の中で、“カミ”とTシャツに大書された、まあ神様なんだろうな……、これもまた堤氏自身が演じる神様に、お前、そのままじゃマズいだろ、と再三心配されるわけだけれど。
本人はいたって無邪気、あっはっはとマンガの吹き出しそのままに笑い飛ばし、俺、本気だしていいっすか、みたいな、言ってるヒマあったらさっさと本気出せよ!と観客も巻き込んで思っちまうような、お気楽さ、なんである。
お気楽、でもお気楽だったんだろうか……。劇中では明確にされなかったけど、シズオ、老父、シズオの高校生の娘、という構成の家族は、普通に考えればバツイチ、でも今の日本の古い価値観では、離婚後は大抵母親側に子供が取られることが多く、そして養育費を入れるの入れてこないの、というところでモメるのが定石である。
実際、シズオの幼馴染である宮田は、月に一度しか会えない愛息と気まずい時間をしかし大切にしていて、きちんと養育費も払っていた……のは、元妻から、再婚するから縁を切ってほしい、もう養育費も入れなくていいから、ということで知れるんである。
この“優しすぎる”ゆえに“私たち家族に興味がない”とされてしまった宮田と、観客に事情も分からんまま父子家庭、しかし老父付き、理由もわからずいきなり会社を辞めてパンいち(パンツいっちょ)で朝からテレビゲーム三昧、なのに一人娘はグレもせず、家事をこなしている、というシズオはあまりにも対照的で……。
で、一般的、平凡な価値観しか持っていない多くの観客にとって、シズオの状況は実にナゾに満ちているんである。これは原作を読めば解決するのかなあ。
この出来た娘が、なぜグレないのかということを、老父、石橋蓮司が解説するところによると、親父としての彼をあきらめているから、というんである。
確かにシズオは何の計画性もなく会社辞めるし、漫画家になるとか突然言い出すし、何回かボツくらってスランプだとかエラソーなこと言ってテレビゲーム生活に戻るし、娘に金は借りるわ、情けないことこの上ない、確かに。
“常識的”に考えれば、この石橋蓮司の父親の言うとおりであって、私もそんな風に考える時代に生きた一人なんだけど、娘がグレなかったのは、どうやらそんなんじゃなくて、単純に、父親のことが好きだから(愛してるから、というのは日本文化的じゃないかなあ)からなのかなあ、と。
というのは、正直判定しづらいところでもある。この妙にデキた娘を演じる橋本愛嬢は、ただただ完璧に可愛らしくって、本作は堤真一のテキトーな面白さと、娘である橋本愛嬢の完璧な美少女さを比較対照するために作られたんじゃないかと思うぐらいの完璧さだから。
ボブカットの内側にカールした加減も完璧で、父親と秘密のバイト先で出くわす、性感マッサージの廊下での姿ですら、キャミソール姿があまりにも可憐で、シズオの相手をしていた手慣れたマッサージ嬢と同じことをしているようにはとても思えないように、そんな風に意図的に見せているとしか思えないんである。
彼女は父親が突然「ついにやりたいことを見つけちゃったぜ」と余裕しゃくしゃくで漫画家を目指すことを宣言しても快く受け入れる一方、「本当にやってたんだ」……と夜通し原稿に向かう父親を見てつぶやいたりと、決して父親を信頼している訳ではなさそうなんだけどね。
でも、この風俗のバイトを始めた時期が「お父さんが中村パーソン(ペンネーム)になるちょっと前」つまりシズオの本気度を認め始めた頃、お父さんのために家のお金に困らないようにしたい、という動機ってあたりがさ、単純に父親のことが好き、というのが見え隠れしていて。そういうのって、今までの家族ドラマにはなかったなあ、って。
生瀬さんが演じるバツイチ男の宮田が、いわゆる典型的な、いろんなドラマや映画で見る男であるのと対照的、意図的に対照的にしている、んだろうなと思う。
妄想の中で神様にせっつかれて焦りながらも、自由人であることを無責任に誇っているシズオ(このまま終わればホント、ただの無責任男だが)に最終的には感化されて、宮田までもが会社を辞めていきなりパン屋になる決意をするのが最後のクライマックスに持ってこられているってのがね。
シズオそのものじゃなくて、日本の成年男子の生き方に一石を投じたように思えて、まあそれはホメすぎかもしれないけど(爆)、でも思うんだよなあ。
だって、シズオは会社を辞める時、通り一遍の引き留めはされたけど、それだけだった。つまり、会社組織においては、そこに在籍してどんなに身を粉にして働いても、休んだら周囲に迷惑がかかるとか思っても、実際休んだり辞めてしまっても、替わりなんていくらだっているのだということを、そのことに気づかず、プライドばかりがピラミッドのように高々とそびえていた猛烈サラリーマンの頃は、気づかないのだ。
で、気づいた時には家族を養うという枷に縛られて、抜け出せなくなってる。シズオのような感性人間はともかく(爆)、宮田がそこから抜け出せたのは、元妻から再婚話と愛息にももう会わないでほしい、養育費もいらない、あなたとつながっていたくない、と言い渡されたからに他ならない。
まさに自由になったからこそ宮田はパン屋になる決意を得た訳だけれど、そこに「お父さんにシズオのような大人になってほしくない」と心配した幼い息子と、その息子の思いに負けた元妻が、恐らく再婚話さえもナシにして戻ってきたというのは、ちょーっとそれは、男の理想過ぎるような気はしたけど、まあ、男は色々、大変だから、それぐらいは許してやろう(?)
個人的には、山田孝之演じるダルそうな青年、市野沢が好きだったかなあ。シズオのバイト先のファーストキッチンに入ってくる金髪青年。
同僚青年が、「店長(とシズオは呼ばれてるが、あくまで店の中だけの呼称)、アイツ新人のくせに、ダルいとかいって、全然ダメなんすよ!」と言うし、実際、それじゃオレがガツンと言ってやる、とシズオが行ってみるとリアルにダルそうなんで、「風邪なんじゃないの?」とまるめこまれてしまうダメシズオ(爆)。
こういう男の子って、いるし、実際こんな風に、どうしようもない、使えない、何考えてるんだか判らない、と、現代の若者はコレだから、と判りやすい烙印を押されがちなんだけど、そうじゃない、んだよね……。
彼をダメだと、言ってやってくださいよ、と言う同僚青年や、あるいは時々来て高圧的に接する“本当の店長”であるこれまた若い青年の方が、表面的には、常識があって、使える、んだけど、そうじゃない、のだ……。
この市野沢、見事に最後までダルそうだし、なのにケンカっぱやくて、腕っ節も強くって、理不尽だと思うことがあるとスイッチが入って、で、クビになっちゃう。
つまり彼には、今んところやりたいことも見つからなくて、そのことが彼に、自分はダメな人間だ、気力もないし、朝も起きれないし、と思わせているんだけど、理不尽さに計算度外視でアツくなっちゃう部分が、判る人には判ってもらえる。
でも、それを見ていた人間はそんなにいないんだけど(シズオは見てたけど、彼はそういう論理的なこと、考えないよな)、実際、シズオにメシをたかられるツレとして引き合わされたに過ぎない宮田や、市野沢が改めて入ったバイト先の、リストラ再就職組のおじさん、プライドばかりが高いホストにアゴでこき使われる村松利史なんかは、その見た目のいかにもな現代風ワカモンに頓着せずに、最初から、この青年は信頼できると、何か彼らオジサンには直観的なものがあるのか、いきなり懐に入る感じが、印象的でさあ。
それは無論、演じる山田孝之の上手さもあるんだろうけれど……。福田監督とは当然、「勇者ヨシヒコ」いや、その前にあの「大洗」があるのか(汗)、とにかく、絶大な信頼関係をひしひしと感じるんである。
しかもね、確かに本作はコメディとしての要素の方が大きいけど、本作の彼のキャラに関しては、シリアス、よね。シリアスだから、ハジけた堤氏をより可笑しく見せる部分もあるし……。
そうそう、酔いつぶれたシズオを送って帰って、シズオが老父の寝ている部屋のふすまをわざわざ開けてエレエレエレ!しかも二度にわたってエレエレエレ!石橋蓮司が「しかも二度!」と絶叫するのが可笑しくて爆笑!
その時にも市野沢はそのダルそうな表情を崩さず、ノンキに寝入ってしまったシズオを壁に寄りかかりながら見つめて、寝ッ屁に「くせーよ」と言いつつ、机の上の描きかけの原稿に目を止め、正社員として就職することを決意するんである。泣けるじゃないの。
でも、結局は宮田に請われてパン屋の立ち上げに参加する訳だが。
市野沢が、サラリーマンの宮田がカッコイイと言い、宮田は夜の街のガラス窓に自分の姿を映し、カッコイイか?と自嘲気味に呟いた。
サラリーマン、楽しいですか、と市野沢にぽつりと問われたことに、楽しい……と言い淀んでしまった思いもあったと思われた。
でもそれでも、市野沢は宮田がサラリーマンとして奮闘していることをカッコイイと思ったし、その気持ちもメッチャ判る。
市野沢の就職活動が上手くいかなかったのは、サラリーマン社会に彼の良さを判ってくれるところがなかったからであって、シズオは感覚的に(家から追い出されたら、無邪気に彼のところに押しかけて風呂使ってビール飲んじゃうし)、宮田はこれまでの経験からくるカン、かな、彼が性根のいい青年だと、判るんだよね。
もし宮田がシズオのバイト先の同僚や“本物の店長”に引き合わされても、決してパン屋の立ち上げに協力を請うたりしなかったと思うのはそこんところで、40も超えると、判るんだよなあ、こういうの……。
判りやすく使える、アイソのいい若い子っているけど、そうじゃない子が切り捨てられたりするけど、実際は、素直な資質が見つけられれば、辛抱強く、腐らず、続けられるのは、後者なのだ。
就職面接技術じゃ決して見えてこない、本当に採りたい人材。いますよ、ウチにもこういう、良さが判るのに三年ぐらいかかる子(笑)。
シズオがデビューを迎えないまま終わるってのが、凄くてね!担当者が途中でトンズラこいてしまって、のらりくらりとボツ連発だったけれども、佳作を取って淡いデビューの光が見え始めた頃だったのに。
この担当者を演じる濱田岳君はさすがの達者さで、ホメながらものらりくらりとボツを言い渡し続けるあたりは編集者としての厳しさを感じるのに、これはイイですよ!と言ってくれた作品が見事佳作に引っかかる、更にこれは傑作!と言ってくれた作品を勢い込んで手直しして持って行ったらまさかのトンズラ。
濱田君演じるこの担当者、村上が、置手紙で連ねた言葉、シズオさんの自由さに勇気づけられたというのがどこまでホントなのか、社交辞令と本音の境がないというか、つまりは本気でシズオの漫画家デビューを考えてくれてなかったというしたたかさも感じるし。
だから、その後編集部がしぶしぶつけてくれた、つまりしょーがねーなとついた若い女性編集者が判りやすくシンラツで、つまりウラオモテがなくて、「(デビューまでの道に付き合うのなら)私、生意気ですよ」と言い放つのが逆に信頼が持てて、人間の見極めってホント難しいと思う。この女性編集者を仏頂面で演じるさしこ嬢はナカナカ。
キャバクラのおじさん社員、村松氏をいじめたおす、根拠なく自信満々なちょび髭ホストが、え、ええ!あれ尾上君!めっちゃイヤなやつで、しかもちょび髭に妙に日焼けして、黒髪はいいけどそれをべったりポマードでなでつけてるあたりとか、メッチャ気持ち悪いーっ。
いつまでも大人になれないシズオが、本気出しちゃっていい?とか言いながら、本当の本気が自分でも判ってないシズオが、最後の最後、お父さんのために娘が風俗のバイトしていたことについに目覚め……。
っていうのも、見た目ではよく判らないが(爆)、でも見た目では判らなくても、というのは前項の山田孝之=市野沢君論で散々述べたので言わないことにして(爆)、でも「今度こそ本気出しちゃっていいですかー!」という台詞を何度でも言える、今度こそが本当の今度こそだと思える限り、人生は明るい。
夢妄想の中で、10代、20代、30代の彼自身に罵倒されながらも、8歳の自分に親指を立ててもらったこと、そんな頃、忘れてたし、そんな頃の自分を信じられる力、持ってるだろうかとも思う。
8歳以外はすべて自分で演じ切った堤氏に賛辞を送りつつ……私も8歳の自分を探してみたい、かな?
ヘタウマ系漫画家の先駆者、蛭子氏が“マズいし、ビールもたまにしか冷えてない居酒屋の店主”で、そのことに気づいたシズオ氏が、要は運だ!と飛び出すシークエンス。
それには人との出会いというのも、その店でシズオが宮田氏に紹介した市野沢、ということもあって大きな要素になっているのもあって、そういうあたりもなんともウマい!
でも基本、ちゃんと美味しくなければ、何よりビールが冷えてなきゃ、繁盛しないと思うけどねっ。★★★★☆