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「お」


2009年鑑賞作品

大洗にも星はふるなり
2009年 103分 日本 カラー
監督:福田雄一 脚本:福田雄一
撮影:中村光一 音楽:
出演:山田孝之 山本裕典 ムロツヨシ 小柳友 白石隼也 安田顕 佐藤二朗 戸田恵梨香


2009/11/10/火 劇場(シネセゾン渋谷)
たまたま私が足を運んだ回だけがそうだったのか……公開4日目だというのに、あまりの客の入りの悪さにかなり驚いてしまった。
だって山田孝之、山本裕典、戸田恵梨香等々、結構人気俳優を揃えているし、面白そうな風情は湛えているのに。
そう、面白そうな風情……だけだったからなのかもしれない。いや、こんなこと言うとアレなんだけど、このところ散々「これが劇場作品第一作」というモノにハズされまくっている気がしてならない。「これが」ということはつまり、メディア業界ではそれなりの功績を挙げた人たちが多く、つまりは満を持してとばかりに乗り込んで来るんだろうけれど……まあ単に、私の相性に合わないのか。

夏の大洗、海の家でアルバイトをした青年たちが、バイト仲間のヒロインだった女の子からの手紙をそれぞれ手にして、クリスマスイブの日に終結する。
彼らはそれぞれ、自分だけが呼び出されたと思っていて、しかも肝心の彼女は待てど暮らせど現われない。
これは誰が本命かを決めかねている彼女の最後のテストだ、とばかりに男たちは色めきたち、自分こそが本命だと、妄想やストーカーばりのエピソードを披露し始める……。

そもそもね、こういう密室のラショーモナイズ的映画は、それこそ最近散々っぱらあって、少々食傷気味の感があるんだよなあ。
こういうの、クリエイターは確かにやりたいんだろうと思う。ひとつの事象を様々な角度から見ると、全然違って見える、そうしてあぶり出していくうちに真実が浮かび上がる、ってつまり、それって高みの見物、もっと言ってしまえば神の目線なんだもの。
全てを把握して作り上げる監督という職業にとって、こんなオイシイ立ち位置はなく、これ以上キモチイイ作業はないだろうと思う。
でもそれは、最初から全てが見えている時点から作り始めるから、当たり前っちゃ当たり前で、得意満面にひとつずつ提示される側の観客にとっては、演出の仕様によって、イライラさせられることも多いんだよな。

そう……こういう映画はホント最近多いんだけど……密室じゃなくてもね、多いんだけど、それを面白く見せる作り手って、ホント、上手いんだよね。
ホラ、面白いだろう、ビックリしたろう、って態度をミジンも見せないの。そしてこっちが驚くほどサクサクと進んでいって、ヤラれたー!となる訳。
例えて言えばやはり内田けんじ監督。そういう人はネタの出し方も上手いんだよなあ。

でね、同じエンタメ業界でも、映画以外のところから参入してくる人って……自分のいたところこそが最上だ、と心のどこかで考えているような気もしてさ……舞台から来た人なら舞台、コントから来た人ならコント。
この監督がね、これは順撮りじゃなければ役者のテンションが続かないと考えていたり、一つの場面を一気に撮ることにこだわったりしているらしいことを知るにつけ、ああ、このつまらなさはそのせいも大いにあるかもしれない……などと思ってしまうんである。

だってさ、「こういう話だから、こういう役だから、順撮りじゃなきゃテンションが保てない」なんて断じるの、プロの役者に対してあまりに信頼がないんじゃないだろうか。そりゃやりやすいっていうのはあるだろうけれど、それこそずっと映画畑で仕事をしてきた役者さんに対しては特に……。
笑いのテンションはカットを割って撮ると途切れてしまう、というのも、いかにも舞台でのコントやテレビバラエティをやったりしている人の発想だよなと思っちゃう。
そりゃ私は、舞台もテレビも映画の現場なども知る由もないけどさ。でも、そんなことないと思うもん……数々残されてきた喜劇の傑作を見てみれば、その全てが長まわしで撮ってる筈がないんだもの。

だってその笑いの部分、ボケやツッコミやオチやらの部分こそが、エラく冗長な感じがしたんだもの。
それは、演じる役者さんたちが決して芸人さんでもなく、そして人によっては練れた役者でさえない(爆)であることを、この監督さんがウッカリ(!)忘れていたような気さえしちゃうんだよなあ。
正直、見ててツライ人は何人かいるのだ。もう基本的な部分でカツゼツが悪くて、長台詞を聞くだけでキツイ男の子とか、ボケをいちいち拾わずにはいられないツッコミ病の男の子は、しかしそのツッコミがちっとも絶妙じゃなくて、何度も繰り返されるたびにツラくなったりとかさ、もう、もう……見てて、ツラいんだよー!!!

しかしそれを役者のせいにするのは、酷というもんである。それこそ、一見どんな大根役者に見えても、実は名優かもしれない(ヘンな言い方だが)のが映画の魅力。舞台演技やテレビ演技やコント技術に頼った撮り方をしては、その人本人の魅力は掬い取れないのだ!!!
いや……ただ単にね、なんかホンット、どのシーンもどのカットも、締まらない感じがしたんである。ダラーっとしてて、ちっとも笑えない。緊張感がない。この密室で緊張感がないっていうのは、致命的。

で、監督が、テンションが途切れないためにとシーンを長く撮ることを心がけている、なんて話が聞こえてきたもんだから、そのせいかと思っちゃったんだよね。
映画は時間のマジック。時間軸がごちゃごちゃになろうが、ズタズタにカットが割られようが、つなげてしまえば、そう、つなぎようで、名作にも駄作にもなってしまうのだ。
その一瞬の役者のテンションを信じなければ、映画なんて成立しない、というのが、頭でっかちなばかりの愚かな映画ファンの気持ちなのだ……。

しかも、恋のさや当てをする男たちが多すぎる……7人は多すぎるわな。一人はいきなり入り込んできた部外者とはいえ、しかし彼を客引きよろしく、予告編でも思わせぶりにフューチャーしてるしなあ。
その七人目こそは、クリスマスイブまで残された海の家を撤去させるために現われ、自分こそが彼女の本命だという男たちのカワイイ妄想を理論的にウチくだく弁護士関口、我らがヤスケンである。
そう、予告編でヤスケンが「僕も好きだな、江里子さん」と宣言し、男たちが口アングリになる場面が象徴的に描かれるから期待したら、正直、その台詞だけで彼の江里子へのアプローチは終わってしまうというんだから、アンマリなんである。
これって結局、「ちょっと言わせてみただけ」に過ぎないのに、まるでクライマックスみたいに予告編のみならず、宣伝展開でもそうしちゃってるんだもの。

ただ、ヤスケンはその意味で、他の男たちとは違ってエリコとは面識がなく、男たちの妄想やカン違いやストーカーっぷりや卑怯な作戦なんかを次々と明らかにしていく、という役柄で、かなりオイシイ。舞台挨拶には是非来るべきだったよなあ……。
舞台挨拶の時サインが書き込まれたと思しき劇場のポスターに「ヤスケンさんは、来れなかったの……」と寂しい筆致で誰かが書き込んでたよ!

彼女と過ごした一夜が自分の中で膨れ上がり、我こそが本命と思い込む、ギットリした杉本を演じる山田孝之が、やはり頭ひとつ抜きん出ていた印象。関口によってそれが欲望がギラつく妄想だったことを明らかにされるのを待たずとも、他のバイト仲間よりはぐっと年上で、なのにこんな海の家のバイトをいまだにしていて、このクリスマスイブに彼女からの手紙に舞い上がって髪をべったりオールバックにして花束携えて現われるなんて、キモチ悪すぎなんである。
しかも一向に彼女が現われないうちに、ドロボウヒゲが生え出してすっかり憔悴していく……これが監督は順撮りじゃなきゃダメだと思ったっていうトコらしいんだけど、それぐらい、コマギレ撮りでも山田孝之なら全然出来るだろー。

江里子から水族館デートに誘われ、一歩リードした印象を残した松山(山本裕典)は、大学でサメの研究に没頭しているという設定。
魚好きの江里子にとっては、サカナ君に等しい存在だと関口に言われて、衝撃を受ける。サカナ君は確かに素晴らしいが……こういう、この時、この時代にしか判らないネタを織り交ぜるあたりは、やはり舞台的、テレビ的な感じがするんだよなあ。
それを言ったら映画が古くさいって言ってるようなもんだけど……でも、半永久的に残り、作り手の知らない間に日本から飛び出す可能性もある映画というメディアは、そう、とくに今の時代は、そういうグローバルなことも考えて作ってほしいという気持ちがある。

この海の家のマスター、佐藤二朗が、そういった全てを飲み込んで、結局は一番面白かったんだよなあ。彼、思ったより若いのね(と思うのは、自分の年を基準にするせいだろうが……(爆))。
彼の面白さは、ホンット、言葉でなんて全然説明出来ないのだ。いや、それを言ったら、映画も役者さんも全てが言葉でなんて説明できないんだけどさ(爆)。
彼が一番「こうしたら面白くなるんじゃないか」という提案が通った人だと思う。彼の魅力、というか特徴は、その独特のエロキューションなのよね。つまり、芝居の上手さとかそういうのを論じても始まらない魅力があるっていうのがね。
それを言えば……また最初に戻ってしまうけれど、順撮りだの長回しだのっていうことに価値を見い出そうとするのはやはり、ナンセンスだと思うんだよなあ。

結局、散々思わせぶりに提示された江里子だけれど、この男たちの中に本命はいない。そもそも彼女からの手紙と思われたのは、映画も後半になって現われた線の細い青年、林の手によるものだった。自分が呼びかけても皆は来てはくれないからと。
ずっとみそっかすで、ヘマばっかりやっていた自分に、初めて怒ってくれたのがこの海の家のバイト仲間だった。それが嬉しくて、楽しくて、もう一度会いたくて……こんなことをしたというのだ。
それは、自分がもう余命いくばくもない、手術の成功率もほとんどない脳腫瘍を患っているからだというのだ。

その“脳腫瘍”が、医者の言った「どうしようかな」を聞き間違えていたというオチは、確かに彼のそれまで提示された天然っぷりをなぞるものではあるけれど、しかし、ならば手術の成功率の話やらはどうなのよ……ツメが甘くないか?
いや、こういうボケは嫌いじゃないけれども……ならばさ、もう、その誤解で目いっぱい泣かせてくれなければキツいんだよなあ。こんな大事な場面をジュノンボーイ君に……いやジュノンボーイにも素晴らしい才能は一杯いるからそれを言ったらいけないけど。
でもいわば彼の独白で、全てがひっくり返るんだから。、それまでは、サメラブの大学生、松山が、留学のためにアメリカに渡ってしまうというんで、彼女への挑戦権を獲得していたのにさ。まあそれも……口の軽いマスターをダシに使ってのあざとい作戦だったりしたのだが。

佐藤二朗のキョーレツさにはさすがに負けるけど、このイケメンたちの中で独特の存在感を放つのがムロツヨシ。彼ってさ、その天パといい、口が立つ感じといい、テキトーさ加減といい、何ともよーちゃんを思い出させるのよね。身長だけは対照的だけど(爆)。
彼演じる猫田は、美少女だった江里子とは対照的だったもう一人の女の子バイトと交際していて、しかしそれまでモテた経験がないことから、ウワキをしてみたい!と参戦したという設定。
猫田の彼女のブスっぷりを、これ以上ない最上(じゃなくて最悪だな)の形容詞でこきおろしまくる場面は、これがコメディだと判っていても胸が冷える気持ち。

しかも猫田の彼女、そこまで、壊滅的なほどの、思い出すだけで爆笑せずにはいられないほどの“ブス”である彼女を、回想場面ですら登場させないんだもの。
つまり既存の役者では描写できないほどのブス、あるいは、画面に映せないほどのブス、とまでの思いがあるのかもしれないが……そんな風に過剰に予測してしまうのよね、そして、過剰に反応してしまう訳。それってないんじゃない、と。
凄く……なんか、哀しかったなあ。そりゃ結局は、猫田は彼女の元へ戻るにしても、その場面はもちろん、彼女そのもののがまるでタブーみたいに、想像上の怪物かのように登場さえしないし。
次のシーズンの夏、同じようにカワイイマドンナと、メガネっ子ポッチャリさんとがバイトとして登場するシーンが挿入されるだけにさ、これを出すのに散々展開に登場した彼女は出さないってことが、却ってヒドい気がして……ブスな女は画面に出しちゃいけないぐらいに言われてる気がしてさあ……(メッチャネガティブだな……)。

そしてもうひとつ。これが一番大きいかもしれない。タイトルであり、その地名の知名度(シャレじゃないのよ)が絶妙のアイマイさをもたらす“大洗”が、ちょっとした名前ネタとしてしか使われてなくて、まさに舞台劇そのままでしかないのがもったいなくってしょうがなかった。
江里子が松山とデートする鴨川シーワールドなんかはきっちりと描かれているだけに、なんで?と言う気持ち。逆に、なんでこんなベタな鴨川をきっちり描く?いや、それがベタさのギャグというネライなのかもしれないが……。
でも、せっかく大洗という絶妙な地をピックアップしたのに、ほぼ深夜の海の家だけで終わってしまうとは、もったいなさすぎる!! ★★☆☆☆


大阪ハムレット
2008年 107分 日本 カラー
監督:光石富士朗 脚本:伊藤秀裕 江良至
撮影:猪本雅三 音楽:遠藤浩二
出演:松坂慶子 岸部一徳 森田直幸 久野雅弘 大塚智哉 加藤夏希 白川和子 本上まなみ 間寛平

2009/1/26/月 劇場(シネスイッチ銀座)
オオサカにはかなわんわーっ、ていうひと言。この大阪の言葉のあけっぴろげのニュアンスにはどうしようもかなわない。そして、確かにこの大阪に生まれ育った人たちが、東京を冷たく思うのもしょうがないのかもしれないと思う。
「(東京は)イイよ。ベタベタしてなくて」という台詞、当然それは、イイという意味では響かないんだけど……それを言った彼女はその時点ではそのことに気づいていないんだけど……なんかそれが、東京に住んでいて本当にそれがラクだと感じているこっちにチクリと刺さるものを感じてしまうよね。
「こんなことしてもヘイキなのは、この街のいいトコだよね」と男の子におんぶされた彼女がつぶやいた時、きっとそれを彼女は気づいたんだと思う。でもそれだけ、よそから入ってきた人にはつらい土地なのではないかとも思うけど。だから地方人には東京の冷たさがラクに感じるんだろうなあ。

……などと、かなりナナメから入ってしまった。この彼女のエピソードは長男に展開される物語であって、ある一家のそれぞれの物語が並行して描かれる、一種オムニバスのような雰囲気を持ちながら、それがラストには見事に一つの家族の形成として収斂されていく。
原作はコミックスだということだけど、マンガでこうした優れた家族物語を描いている点はいかにも日本、他の国では考えられないことだろうな。もはや今は、マンガ原作がネガティブな響きでなぞないのだ。

にしても、確かにマンガ的なぶっとんだ設定ではある。冒頭、父親がいきなり死んでしまう、のはまあ引き付ける導入部としてはいいとしても、すぐに彼の弟が家に入り込んできて、しかも三人の兄弟は誰も死んだお父ちゃんには似ても似つかないし、かといってこの弟に似ているかといえばなんとも言いがたいし。
そしてお母ちゃんは50にして妊娠してしまい、それだってこのおっちゃんの子かどうか別に明らかにされるわけでもなくて……それでも最後には、「誰の子でもいいやん。みんなの子や!」という結末になる、とザクっと言ってしまえばかなりランボーな話かもしれない。
でも、この最後の言葉にグッときちゃうんだよね。今、家族ってのが凄く希薄な時代だし、血のつながりにしがみつくには複雑な家族構成も多いし。
その中で、「誰の子でもいいやん、みんなの子や!」ってこの言葉は、そうした今の時代の家族に対して凄くポジティブに投げかけている言葉で、言葉以上に深い意味や意義を感じたんだよなあ。

冒頭に死んでしまうお父ちゃんっていうのが、いきなり葬式の写真一発で現われる寛平さんなもんだから、こりゃルール違反だよなーっ、と噴き出してしまう。干しネズミと呼ばれていたなんてエピソードが披露され、「お母ちゃん、干したネズミなんて見たことないけど、なるほどなあって思ったわ」と松坂慶子がしみじみ言うもんだからさらに爆笑。
彼は相当、放蕩親父だったらしく、葬儀に集まった人たちは、これで房子さんもラクになったんちゃうん、とやけに明るく酒宴に興じていて、沈んでいた彼女も「そうや、未亡人できたてホヤホヤや!」(オイ!)などと殊更に明るく振る舞う。
彼女がこの死んでしまった夫に対してどう思っていたのか……すぐに彼の弟(かどうかもアヤしいのだが)である“オッチャン”が入り込んできて仲睦まじくやっていくので、判りにくいトコはある。まあ明らかにするまでもないとは思うけど……。
ただ、子供たちにとって、そこは当然悩ましい点であり、次男に至っては死んだ父親の幽霊が現われては彼の悩みを引っかき回すのだから。

この次男がタイトルロールにも引っかかるし、メインと言えるのかなあ。でも最も印象的で感動的なのは三男だし、長男の年上の女性への初々しい恋愛物語もステキなので、次男の、まあ言っちゃえば自分のアホさに振り回されて悩んでいるという図式は、この二人を引き立てる狂言回しっぽい部分はあるんだけどね。
次男は担任を怒鳴りつけるのだ。オレのことをハムスターに似てるってどないなことや!と。え?それ何?と思ってたら、おどおどした担任が言ったのは、ハムスターではなくてハムレットだということだった。
ていうかこの次男、担任のことをどっかで飼われている犬に似ているからって、その犬の名前、リュウタロウって呼んでるんだから、このカン違いに怒る資格はないと思うんだけどなあ……。

てなわけで次男はハムレットを読み出す訳だけど、図書室の子に「この本とアンタの読んでる本、どっちが賢い?」と意気揚揚と問いかけ、「……そっちかな」と彼女が答えると得意満面、読み始めるも……漢字が全然読めなくて、辞書と首っ引き。
それでも構成が見えてくると、またも担任に(銭湯に乗り込むあたりが、ノスタルジー)、オレんちに弟が乗り込んでお母ちゃんとイイ仲になっているからハムレットってことか!と怒るわけ。そして、オレはハムレットみたいにグチャグチャなやむヤツじゃないわ!と。
彼はね、そりゃー、漢字も読めないアホなんだけど、このハムレットを投げ出さず結局最後まで読みとおして、なんか悟ったというか達観して、担任から「久保君、賢(かしこ)なった?」とおずおずと感心されるまでになるのよね。
この次男を演じているのが森田君で、あの「転校生」で一夫を演じた彼が、こんなヤンキー顔がメッチャ板につくとは(爆)。まるでヤンキーのままに生まれてきたような顔してるんですけど(笑)。
でも素直で、凄くイイ子なんだよね。この兄弟は三者三様、全然違うんだけど、根っこの部分は共通してるかもしれない。だから結束も強いのよね。

思えば“母親の彼氏”という闖入者であるオッチャンに対して、この兄弟三人はさしたる反発を示さないあたり、スゴいと思うんだよなあ。まあ、いきなりで、しかもあまりに自然にオッチャンがするりと入り込んできて、しかもそんな反発するような相手でもない穏やかで家事が上手くて面倒見のいいオッチャンなもんだからさ。
それでも、中で一番反発を見せたのはこの次男だったかなあ。オッチャンが「家族はお揃いがいい」と買ってきた色違いのTシャツを、「オッチャン、これ、パチモンやわ」と斬って捨てる。
でもオッチャンの好意を無げにした次男を母親がバシリと殴りつけるのが、ああ、これが正解、まさに正しい答えだよなあ、と思って。
オッチャンはしょげかえってて実に哀しいんだけど(そのパチモンのTシャツのダサさも哀しい(爆))このお母ちゃんがね、常に見事に正しいんだよね。確かに突拍子のないお母ちゃんなんだけど、迷いもなく正しい答えを即座に出すのが凄いと思って。

夫が亡くなってから彼女は、病院勤めの他にスナックでホステスのバイトも始めて、病院でもスナックでもイイ女っぷりで大人気。当然、息子たちは同級生たちからからかわれもする訳で……。
でもそこでもそんな憂き目に遭うのは次男のみ。彼の同級生の父親が彼女にゾッコンで、「お前の母ちゃん、巨乳らしいな」とかからわかれてブチ切れる。
でもそれでも彼は、バイトに出る母親を諌めたりしないし、自分たちのために働いている母親を誇りに思っているんだろうって感じられるのがね、いい息子たちだよなーっと思うのだ。
そしてそれは、このお母ちゃんが常に“正しい”からだろうなって。

長男は、年上の女性に恋をする。それは、教育実習のために地元に帰って来た由加。もともとフケて見える彼は同級生たちから「お前なら大学生に見えるだろ」とイケナイことを依頼されてクールな顔で引き受けるような、優等生だった。で、彼女にも自分は大学生だと言ってしまって……まさに背伸びの恋。
でもこの彼女がね、父親に対する憧憬の思いをトラウマのように抱えて悩んでいるんである。母と再婚した血のつながらない父親で、母親のヤキモチから出たトンでもない言葉、「あんたはお父ちゃんの子供を産めるんやで」に深く傷ついて、それ以来、家族の中で浮いた存在になってしまった、と彼に告白する。
由加の中では父親に甘えたい気持ちしかないのに、その子供として当然の気持ちをバッサリと封じられて、彼女は大人になりきれない自分を持て余している。
だから年下だけど、落ち着いていて大人びた長男にその影を求めるんだよね。特別に思っているから、お父さんになってほしい!と、言われた長男は目をシロクロ。

で、彼女は彼を高校生だと思ってるんだけど実は……中学生なのよね、彼!
えーっ、中学生なの!?長男!私なんとなく、高校生かと思って見てた……そりゃないか。だって次男がお兄ちゃんの教室を訪ねてきてたりしたもんなあ(そこで気付かないあたり……)。
で、その長男のコ!「ごめん」のあの男の子なんだ!この子は天才かもしれんと思ったあのコ!
そりゃー、コドモから青年になって顔も変わったし、気付かなかったけど、そう言われれば、納得!
あの天才かもしれんと思った繊細な魅力が全く失われてない。うわー、感動したわー!!!

……ワレを忘れてしまいました。で、えーとね、そりゃー彼だっていくらフケてても思春期男子なんだし、彼女と二人っきりの旅行に出かけたりしたら、ソウイウ欲望で一杯だったに違いないのに、そう牽制されて……いや、由加の中では牽制ではなく、本気でそう思っていたんだろうけど……布団の中で彼女を優しく抱いて子守唄を歌ってやる。え、エライ(涙)。
しかもその子守唄は、お母ちゃんオリジナルの、シンプルな短いフレーズが延々と繰り返されるというもので、なんかそれが泣けちゃって、彼女は彼の胸に顔をうずめるのだ。
この時点では決して恋愛が成立しているとは思わないけど、でも、女の子って理想の男性に自分の父親を投影するっていうし、その父親が血のつながっていない相手だったとしたら、確かに尚更なんだよなあ。

結局彼が中学三年生だということがバレて……しかもかなりベタな展開で、彼の教室に彼女が教育実習生として現われて、一時はダメになりかける。
でもね、長男は由加に恋してから凄く成長したと思う。年の差夫婦に話を聞く場面なんか、イイのよね。老妻は、「私が15年上で、最初は恥ずかしかったけど、年をとったらおんなじ」と隣の老夫に寄り添って笑った。15の年の差なんて、もはや全然感じられない仲睦まじさを目の当たりにし、長男は大きな決心をしたのだ。
三男の学芸会の日、「オレは愛する人を取り戻す!」と次男に宣言した彼、駅に向かってひた走る!
それがあの先述の場面なのだ。彼女をおんぶして、「オレは由加ちゃんのあーたんになるって決めたんだ」と。「三倍の早さで大人になるから、待っててくれるか」と……。
言われてみてえ!

で、その三男である。思えば冒頭、父親が死んだ場面から、彼のアップナメで始まるんだから、彼がメインだと言っていいのかもしれない。
その冒頭、彼は鏡を見ながら熱心に前髪を切っている。その鏡がキラキラにデコレーションされていたし、小学生の男の子にしてはマッシュルームカットよりも更に長髪だし、もうこの時点で何となく察せられるのよね。
そう、彼は「女の子になりたい!」んであった。将来の夢を語る授業で、彼は意を決してそれを宣言する。それでもクラスの皆に笑われて意気消沈してしまう。
でもそれでも、彼がそれを宣言するほどの勇気を得ていたのは、その強さを最後まで貫いていたアコガレの存在がいたからなのだった。
この物語の中で非常に強い印象を残す亜紀。おかあちゃんの年の離れた妹、つまり彼の叔母さんなんだけど、小さな頃から気が合ってて、まるで姉弟のように仲が良かった。

彼女は劇中、重い病を得て、入院中である。それでも「通信販売で買っちゃった」と赤いフリフリのドレスを披露し最終的には……それを着て、金髪のウィッグにレースの帽子、白いタイツを身にまとって、お人形さんのように美しく死んでしまう。
そんな彼女を姉であるお母ちゃんや老母は「あんたはホンマにお人形さんやな」「キレイなものが好きだった、夢見がちな子やった」と表現するんだけど、そんな弱々しい印象とは、三男が彼女から受けていたものは違っていたのだ。
他人から、家族からでさえ、そんな風に現実逃避のように、弱者のように受け取られていた亜紀、でも違ったのだ。それは同じ価値観を持っていた三男だから判ってた。それがどんなに勇気がいり、強い意志が必要なのかということが。
女の子になりたいと言った三男を、「そうなんだ」と亜紀は輝く笑顔で受け止めた。決して驚いたり、非難したりしなかった。「好きなことをすればいいよ」そう彼女は言った。そのためにはつらいことがたくさんあるけれど、「宏基なら出来るよ」そう言ってくれた。
それは、彼女自身が自分の好きな道を、自分自身であるための道を貫くために、家族にさえ判ってもらえずに、孤独であったことを即座に示していて。

三男だって、家族に理解されているように見えても、亜紀と同じかもしれないと思う。心の底では、なんでこんなことにと思われているのかもしれない、って。
でもそれでも、家族は家族だ。理解出来ないと思ってても、家族だから、愛しているから、受け止め、応援してやりたいと思う。理解するなんて言うことは、たとえ家族であっても不遜なことなのかもしれないと思う。受け入れること、応援すること。そのことが、理解することよりもカンタンなように見えて実は難しくて、尊いことなのかもしれないと思う。
彼が亜紀のドレスを身にまとって学芸会でシンデレラを演じる場面は、ベタだけど涙、涙。心ないいじめっ子たちや父兄たちの、「男の子がシンデレラをやってる!」「キショイ!」というひやかしやざわめきに、一度は涙を流して舞台を中断するも、最後までやり遂げるのだ。
ラストは見事なダンスで拍手喝采をもらう三男に、泣きながら立ち上がって頭を下げるお母ちゃんとオッチャンに、後ろで見守る長男、次男同様、「親バカやな」とは思うけど、涙が止まらない。

あー、そうそう、彼をシンデレラに抜擢してくれた、相手役の王子を演じる女の子がまた良くってさ!彼女は宝塚の男役を夢見るボーイッシュな女の子。そのあたりが大阪ならではの絶妙な設定だよねー。
三男のように異性になりたいナヤミを抱えている訳ではないんだけど、自分の夢に対してまっすぐで、それが性別が絡んでいることだから彼の気持ちが判っちゃったりなんかして。
それに何よりそのドライでサバサバしたカッチョイイ、オトコマエな性格がじっつにステキなのよねー。くじけそうになった彼に、「あんなに踊る練習したじゃない!」と叱咤するカッコ良さは格別。いやー、ホレそうになってしまうわ。
子供時代、理解してくれる友人に出会えることは後の人生を左右すると思う、ホントに。でもそれは、彼が、イイ子だから(長男も次男もね!)引き寄せるんだよね、きっと。

謎のオッチャンもまた、イイんだよねー。本当に彼は謎のオッチャン。三兄弟の父親としてこのままここにい続けてくれるんだろうとは思うものの、それもどこか危惧されるようなジプシー感に満ちている。
それは勿論、最初からフラリと現われたっていうのもあるし、途中、仕事がクビになって消沈している彼に「このままいなくなるってのはナシやで」とお母ちゃんがクギを指す場面があったりするもんだから、ああ、この人はそういうフラフラ系の人なのかなあと。ま、でもそれは、あの夫にしてこの弟ありと思ってのことなのかもしれないんだけど……。で、何で仕事がクビになったかっていうと、三男の学芸会を見に行くために我を張ったからなんだけどね……。

それにしても、お母ちゃんを演じる松坂慶子である。この体形はお母ちゃんを演じるためなのかどうかは微妙だが……。「(太ったんじゃなくて)妊娠してるんだわ。そうじゃないかと思ってたけど、アタリだったわ」とアッケラカンと言うが、でもパンツスタイルの後ろ姿、そのお尻といい、パッツンパッツンの太ももといい、完全に太ってるよね……でもまあ、それはこの役にドンピシャだけどさ。
でも確かに、大らかな関西のお母ちゃんは、この体形だからこそのピタリなんだよね。しかも何たって松坂慶子だから、その色っぽさで病院の患者にもスナックの客に大モテってのもね。
病院の寝たきりのおじいちゃんは彼女だけに身体を拭かせて(それってかなりのエロジジイだよな……)、スキあらば手を握ろうとするわけだし。でも彼女が妊娠したそのお腹を“スキあらば”さすったのはなかなか感動的だったけど。

そして、無事出産した四人目のコドモ、「みんなのコドモや!」とあの名台詞を次男が吐いての、ハッピーエンド。
そうそう、彼はもうひとついいコトを言っていた。「生きるべきか死ぬべきか。生きとったらそれでええやん」ホント、そうだね。そんなことで悩む必要はないのだ!★★★☆☆


おっぱいバレー
2009年 102分 日本 カラー
監督:羽住英一郎 脚本:岡田惠和
撮影:西村博光 音楽:佐藤直紀
出演:綾瀬はるか 青木崇高 仲村トオル 石田卓也 大後寿々花 福士誠治 光石研 田口浩正 市毛良枝 木村遼希 高橋賢人 橘義尋 本庄正季 恵隆一郎 吉原拓弥

2009/5/8/金 劇場(丸の内TOEI@)
正直これはないなあ、と思って、ネットユーザーレビューなどを覗いてみたらめっちゃ高評価なんでビックリして、一気に書き辛くなってしまった(爆)。
えー、えー、えーっ……そんなに評判いいの……私もう、最初の5分でダメだったけどなあ。最初の5分で、これはもうダメだと思ってしまった。それ自体いけないことではあるんだけど。

最初の5分でだから、物語の面白さとかは別に関係ない部分で、なんだよね。むしろ高評価に支えられている大きな部分は、インパクトのあるタイトルやアイディアとは違って、ウェルメイドな感動物語である点みたいだし。
そして「ALWAYS」ブームの流れを汲む昭和の懐かしさもポイントであるらしい。しかしこれが若い人も巻き込んで“懐かしい”気分になっているのも不思議というか、踊らされている感がなきにしもあらずって気がする。
まあでも、今は決して味わえない、手に入らないものが多いからこその豊かさ、ということに、魅力を感じているのかもしれないと思う。……なんかそんなことに憧憬を感じる今の時代のお寒さを感じもするけれども。

ま、それはどうでもいいんだけど……あのね、むしろ、本作はその“ヒット間違いナシ”の要素にあまりにも頼り切ってしまった気がしたんだよね。最初の5分で、その姿勢がもう丸見えになってる気がして、なんか対峙する気が失せてしまった。
この監督さんは私、今回が初見なんだけど……今までは扱うテーマに興味が持てなくて観てなかったんだけど……だから彼が今までもこういう撮り方をしていたのかどうかは判んないんだけど……初見でこうだと、次に行く気はなくしちゃうんだよなあ。
あのね、ユーザーレビューで低い点を出していた人たちは、綾瀬はるか嬢に任せたのが間違いだ、と一様に言っていたんだよね。つまり、高評価しているヤツらは、彼女のファンなのだと。綾瀬はるかは大根で、こんな女優に任せたから原作がいいのにダメにしたんだと。

私はそうは思わないんだよなあ。彼女は確かに独特の演技スタイルを持つ女優さんだけど、決して下手だとは思わない。
てゆーか、演技の良し悪しの定義なんてものはないじゃない。特に、映像においてはそんな“技術”はむしろ、センスのなさを露呈するようなもんでさ。
彼女はコメディエンヌとして稀有な才能の持ち主だと思うし、実際「ハッピーフライト」なんてサイコーだった。つまり、彼女が真に才能を活かせる場が、ここでは与えられなかっただけだと思う。
舞台での芝居とかその時間を役者に完全に委ねられる場と違って、映像はやっぱり、監督がいかに役者をはじめ脚本、ロケーション、カット割り等々をどうするかで、全てが決まってしまう。どんなにいい演技をしようったって、ダラけたカット割だけで、一気に駄作に成り下がってしまうのだ。本作はまさにその見本をバッチリ示しちゃったと、私は思ってしまったのだ。

そうなの、物語は言ってしまば愚直なまでにウェルメイド。おっぱいを持ち出さなければ、男子中学生が目的に邁進するフツーの青春ストーリーよ。
そう、だからねむしろ、おっぱいというアイディアが光ったんだよね。おっぱいで惹きつけながらウェルメイドな良作だという姿勢を出したかったのかもしれないけど、むしろおっぱいがなければ、これってすんごくよくある話なんだもん。おっぱいというアイディアこそが、この物語の素晴らしい個性だということを、落としてしまった気がしてならない。

とある田舎の、弱小男子バレー部のメンメンが、赴任してきた美人女性教師が顧問になったことで狂喜乱舞、試合に一勝したらおっぱいを見せてくれますねとムリヤリ約束させて、ガゼンやる気を出すんである。
時代は1979年、北九州の片田舎、それも中学生男子にとっては、未知のエロな妄想で頭がいっぱい。しかも彼らは男子バレー部なんて名ばかりの、お遊び集団なんだから尚更である。この美人教師が赴任の挨拶で高村光太郎の「道程」を紹介しただけで、“ドウテイ”に興奮しちゃって、鼻血出してぶっ倒れるようなアホなコたちなんだから。

……と、こうして物語の要素を並べて見るとさ、決して悪くない、どころか、甘酸っぱくて、一生懸命で、そのアホなまでの純粋さにホロリとしてしまう要素が満載なのにさ、なんでこんなにタイクツに感じちゃうんだろう?と思うのだ。
さっき、演技の良し悪しに定義なんてないとか言っちゃったけど……こと子役たちに関しては、あまりに絶望的過ぎる気がした。一人ぐらいちょっと出来る子がいればまだ締まったのかもしれないけど、あまりに……絶望的なんだもん。
プロフィールを見てビックリしたけど、皆演技経験者じゃん。それで何であんなにヘタに感じたんだろ、それも演出?だとしたら、ただただダレた空気感ばかりを感じてしまったなあ。

でもそれも、大して問題ではなかったのかもしれない。その点について言えば、綾瀬はるかのいわば“大根”さも、本作において言えばあまりに際立ってしまっていたから。
これってね……もんのすごく基本的な部分だったんじゃないかと思う。展開というか、場面転換というか、とにかく……メリハリがなさすぎるんだもん。
とにかく、羅列、足し算しかしてない感じ。このアイディア、このウェルメイド、だからそのまま出せばいいだろみたいな姿勢を感じちゃって、だから最初の5分で、ああ、もうだめだと思ったんだよね。
つないでナンボだと言った大林監督の言葉を、久々に思い出した。最近はハリウッドの影響でか、とにかく脚本が良ければいい作品が出来るとか言いたがるけど、本作は恐らく、脚本の出来はそれほど悪くない、と思う。逆にに脚本の出来が悪くたって、いい映画は出来ると思う。
だって当然だけど、映画は脚本だけで出来てるんじゃない、役者がいて、ロケーションがあって、カメラがあって、つなぎがあって……その全ての責任が監督に委ねられているんだもん。

まあ、この子たちの演技がどうこう言うのは、確かに酷かも知れない。恐らく、ヘタに演技が出来ないことを逆に条件にして、その素朴さこそを重視したにちがいないんだもの。
やりようはあったと思うんだよなあ。こういう子たちを起用したなら、それこそ演出の力、場面の間のとり方、カット割がモノを言ったと思う。
ボコられている後輩を取り戻すためにコワい先輩に立ち向かう場面、殴っていないのが丸判りなまでにベタ撮りするのには、そりゃないだろと思ってしまった。ここは彼らが男になる見せ所でしょ、ここぐらいはちゃんと考えて撮ってあげるべきだったんじゃないのかなあ。
ここと、彼らの晴れ舞台、竜王中学との試合の場面ぐらいはさあ。どんなに脚本が良くったって、こんなにダラダラで、決められた台詞を言ってるとしか思えない描写じゃ、とても感情移入する気にはなれないよ。

まあ、ケンカの場面は百歩譲るとしても……やはり一番のバレーボールのシーンがねえ……彼らが実際に切磋琢磨して驚くべき成長を遂げたとは到底思えないなあ。なんでも、上手くなり過ぎない程度に特訓したということだけど、そんな手加減が果たして必要だったのだろうか……。
逆にここだけは、やたらにカットを割ったことで興醒めしてしまったというのが、皮肉である。こういう時にカット割の魔力を使うなんて間違ってるよ。こここそ、彼らの成長を見せるためにカットを割らずに、感動させる場面なんじゃないの。
それをやらないってことは、つまりはバレーボールの特訓なんて意味なかったんじゃないかと思っちゃう。それこそ、ちょっとウマく見える、頑張っているように見える形を学んだだけなんじゃないかと思っちゃう。
そう見えてしまったのは私だけだったのかなあ……それじゃそれこそサイアクなんだけど。

この女性教師には、苦い過去がある。生徒たちに慕われていた前任の学校、当時ハヤリのシーナ&ロケッツがライヴに来ると言うので、皆で行こうと盛り上がっていた。
しかしそれを、学校に止め立てされてしまった。先生自らが言い出したんですか、と問い詰められ、彼女はつい……違いますと言ってしまったのだ。そのひと言で彼女の信頼は失墜してしまった。
失意を抱えて赴任したこの地で、だから彼女はどうしてもウソをつきたくなかった。だからおっぱいを見せることを条件に生徒たちを指導したのかと問い詰められて、そうだと認めてしまう。この時には生徒たちがフザけて言っただけだとかばってくれたのにも関わらず。
そして彼女はバレー部顧問の任を解かれ、もう解雇を待つばかりになってしまった。

その間、彼女の、もっと昔の過去が明らかになる。彼女が教師になろうと思ったきっかけ、中学生時代に遡る。
タチの悪い友達にそそのかされて、なんとなくやってしまった万引きで停学処分、しかしその処分とはウラハラに、彼女はその間、教室でたった一人、一人の先生と時を過ごしていた。
先生は「生徒の忘れ物だ」と言って、一日一冊の本を彼女に手渡し、感想文を書けと言った。反抗期もあったんだろう彼女は、それほどやる気もなく、ページの片隅にパラパラマンガの落書きなど書くぐらいだったんだけど、その中で出会ったのが高村光太郎の「道程」だったのだ。
その時だけは、彼女の落書きもちょっと、違ってた。一人孤独に歩いている、ささやかな落書きだった。
そしてその感想文で彼女はコンクールで賞をとったのだ。それも金賞。先生が出品してくれた。嬉しくて、市役所に掲示されているのを毎日のように見に行った。
ある日、先生と遭遇した。「お前、教師に向いているかもしれないな。国語の先生になったらどうだ」そのひと言が、彼女に道を作ったのだ。

この先生のエピソードも、かなりベタだよね。「一人前の教師になったら報告に行きたい」と言っていたのが、もう亡くなっているというのも。そして、その先生の本棚に、“生徒の忘れ物”のハズだった、あの時の本がズラリと並んでいるのもさ。
正直、この場合先生が亡くなっているのはかなりズルイと思う。今の立場の彼女に何を言うのか、たったひとことの重みが、この物語を決定付けたんじゃないかと思う。
この先生が死んでて、当時の落書きを見つけて涙するなんて、お涙頂戴を狙っているとしか思えなくて、引いちゃうんだもん。

それと同様にね、彼女がこの学校でも責任を全う出来ずに、試合にだけは駆けつけてあのキメ台詞「私のおっぱいを見るために頑張りなさい!」と、いわばいいトコ取りで去ってしまってさ、でも私は教師を続ける!とか言って、生徒たちに見送られながら泣きながら手を振り、(駅じゃなくて、電車が走っている途中ってのも、ベタベタだよねー)人生が続いていくってのもさー。
……なんか、ズルい気がする……。
まあそれも、それまでのイライラする要素がなければそうは思わなかったのかもしれないけど。

なんかね、そう、せっかくのこのアイディア、“おっぱい”をむしろ、もっともっと利用しちゃった方が良かった気がするんだよな。ハジけた演技をやらせればピカイチのはるか嬢にとって、これ以上ない題材だったのにさあ。
私は、彼女がスクリーンに見せなくても、生徒だけに「ご褒美♪」とか言って、バックショットでもバッと見せちゃう場面を妄想してたんだけど(爆)。そんなんで、いいのよ。むしろ、それこそが、“あの時代”の萌えを象徴しているんじゃないのかなあ。

当時の男子中学生がモンモンとしていた描写として、11PMや、プレイボーイといったエロ要素は登場するけど、その扱いもさらりと流しすぎだよ。
学校に泊まり込みの合宿で、視聴覚室かなんかにコッソリ11PMを見に行く場面、「大人の楽しみ」とあおった末に出て来たのが「釣り特集」だというオチは、もっと大げさなぐらいにタメて、ドーンと落としてくれて良かったと思う。
それぐらい、当時の情報の少ない(というより、傍目を気にして情報を取り入れられなかった)男子中学生にとって、大きな波だったにちがいないもの、誰にもジャマされずに11PMを見られるってことはさあ。

先生の恋愛事情もさあ、中途半端だよね。せっかく稀代のハンサム、福士君がお相手として起用されているのに、一体彼の登場の意味は何だったの。
これが同僚の教師で彼女の苦悩を間近に見ていたというのならまだ判るけど、そういう訳でもなさそうだし、久しぶりに会って、「僕達、嫌いあって別れた訳じゃないよね」とか、昼メロかってな台詞を吐いて。
「出張のついでなんてウソなんだ」と、これはトレンディドラマの路線だよな、ってなホテルの一室が登場!あまりにありがちなじゃれあいが繰り広げられ、しかし彼の手が彼女の胸元に伸びた瞬間、「このおっぱいは私だけのものじゃないの!」そして、「ごめん……私、帰るね」で、この場面だけで、福士君の登場終了って、えええ、何それ!
しかも、彼女に思いを寄せている同僚教師とのやり取りも中途半端なまま終わっちゃうし、そんなどっちつかずにするんだったら、両方スパッと切って、“おっぱいバレー”の主題に集中させてよ!

彼女の中学生時代を演じた大後寿々花嬢は、期待に違わず素晴らしかった。彼女は「グーグーだって猫である」といい、チョイ出だけどとっても重要、の役があまりに素晴らしくて、だからこそ逆にもったいないような気がして(爆)。
確かに決して華やかな感じのコじゃないけど(でもかなり私好みの美少女♪)、そろそろ彼女主演の作品が見たいよなあ。いや、主演じゃなくても、せめてメインで。
……だってさ、主演にこだわると(て訳でもないだろうけど)、せっかくのステキな少女女優たちが、姿を消していくような気がしてならないからさあ……。

70年代のヒット曲をただただ垂れ流し的に流し続けるだけなのも、うるさくてさあ……せめて意味のある使い方をしてほしいし。
そして、せっかく北九州、なんだから、方言を使ってくれたら良かったのにね。「青春デンデケデケデケ」みたいにさ、その台詞の響きだけで雰囲気が全然違ったのに、もったいないなあ。★★☆☆☆


おと な り
2009年 119分 日本 カラー
監督:熊澤尚人 脚本:まなべゆきこ
撮影:藤井昌之 音楽:安川午朗
出演:岡田准一 麻生久美子 谷村美月 岡田義徳 池内博之 市川実日子 郭智博 清水優 とよた真帆 平田満 森本レオ

2009/6/7/日 劇場(新宿ピカデリー)
そっかこれ、イルミナシオン映画祭で受賞した脚本なんだ。あの映画祭は確実に良心的な小品を産み出してくるからとても信頼性がある。ちょっと思い出してみただけでも「月とキャベツ」「パコダテ人」「狼少女」など、大好きな作品が並ぶ。
不思議とそのどれもがちょっと甘やかすぎるほどのファンタジックな要素を持っているのは、函館の映画祭という個性が生み出したものかもしれないし、それを職人としての映画監督がきちんと演出すれば、もとはあったかもしれないそんな欠点も、映画のマジックによって包み隠してくれる。

しかしラストクレジットまでは、そのことは知らなかった。本作に足を運んだのはこの映画のアイディアに心惹かれたせいもあるけど、熊澤監督作品だったから、かもしれない。
なんだかんだ言いつつ、彼の映画は観続けている。正直、大ホームランをカッ飛ばしてくれたことはないんだけど(爆。いや、あくまで私にとってという意味よ)、“良心的な佳作”をいつも提供してくれる作家さんだから……って、私ひょっとして、とっても失礼なこと、言ってる?いや、決して他意はないのよ(汗)。

ああでも、彼の柔らかな画の世界は好きかもしれない。映画の好き嫌い云々を別として、彼の作る画は好きだと思う。柔らかな光に満ちていて、優しくて、心が落ち着く。だから足を運び続けているのかもしれないなあ、とも思う。
本作でもそれは変わらなかった。オシャレな花屋、レトロなアパート、イケメンのカメラマン、フラワーデザイナーを夢見る女の子……そんな、その要素だけで満足しちゃって陳腐な映画を提供しちゃう監督も、いると思う(何となく、頭に浮かんでる……)。
でも熊澤監督は、きっと画作りのセンスがあるんだろうな。なんかね、画を見てるだけで心が休まるんだよね。

麻生久美子演じる七緒と岡田准一演じる聡は、古いアパートの隣同士に住んでいる。
七緒はフラワーデザイナーを目指して、花屋でアルバイトしている。聡は人気モデル、シンゴ(池内博之)専属のカメラマンとして名を売った、新進気鋭のカメラマン。
何度もニアミスを繰り返しながらも、二人はお互いに顔を合わせることがない。そう、最後の最後の最後のシーンに至るまで。とても幸せな……涙がでるような幸福なラストシーンに至るまで。

でも二人はずっと、お互いのことを良く知っていた。なんたって古いボロアパート。壁が薄くて音が筒抜けなのだ。
七緒が帰ってくるとドアに吊り下げた火箸風鈴がさわやかに鳴り響いたし、彼女が部屋に入ると必ず一発かますクシャミも、おなじみの“音”だった。
聡が毎朝淹れるコーヒーをひく音に七緒は耳を済ませていたし、ドアでカギを取り出すときにジャラジャラと鳴るチェーンの音に、彼の出勤や帰宅を知った。七緒がフランスに留学するために毎夜繰り返しているフランス語の発音の練習も、聡の心を和ませた。
しかし二人それぞれに、思いがけない闖入者の存在で、心を乱され、自分を見つめなおすことになる。

聡の部屋に転がり込んできた、シンゴの恋人の茜(谷村美月)は妊娠三ヶ月だという。シンゴが聡のせいで姿をくらましてしまったというのである。聡が風景写真を撮りたい夢をかなえるために、カナダに行くことを黙っていたからだというのである。
そして、七緒はいつも行くコンビニの店員、氷室(岡田義徳)から突然愛の告白をされる。
七緒の勤める花屋にやってきた彼は、あなたの好きな色で花束を作ってください、と言い「一度も話したことのない女の人に花束を渡したらストーカーだと思われるでしょうか?」などとおどおどとしながら、七緒に花束を差し出した。

どうなるのかな、と思ったんだよね。七緒と聡があまりにニアミスばかりで、二人それぞれの話がどんどん進行していくから。
ことに七緒に関しては、なんだかロマンティックな展開にさえなって、氷室を演じるのが好感度の高い岡田君だったりするもんだから、このまま二人が初々しい恋愛関係を展開しちゃうのかと思ったぐらいなんだもん。
しかし彼は後半、予想外の正体を現わす。七緒に目をつけたのは、小説のネタにするためだったんである。以前彼の不倫小説のネタにされた女が、七緒に小説の原稿を届けにくるんである。「孤独な30代女性」をネタにしたその小説には、勝手に七緒の心情を推測した言葉が羅列されていた。恋に臆病だとか、判ったようなことを書いて。
七緒がショックだったのは彼にだまされたことだったのか、それとも自分の心を言い当てられたことだったのか。

ただね、私としては……このくだりはあまり、好きじゃなかった。イイ人と思わせて実は……みたいな豹変っぷりがちょっとあざとい感じもしたし、それに「孤独な30代女性」っていうネタも、もう聞き飽きたというか……そんなことに七緒がショックを受けてほしくなどなかったというか。
彼女は夢に向かって邁進しているんだし、それに彼女の過去に、恋に臆病になる何らかの要素が提示されている訳でもない。
唯一あるかもしれないのは、花屋の後輩アルバイトの男の子、山賀から「七緒さんって、本当に彼氏いないんですね」と言われる場面ぐらいで、それだって何となく私は好きになれなかった。
なんていうかね、女ばかりに「人生には恋が必要」みたいに言われている気がして。百歩譲ってそうなのかもしれないけど、でもそうなのだとしたら、なんて女の人生は安っぽいんだろうと思っちゃう。

だって一方の聡の方は、そんな要素は感じさせないじゃない。彼が悩んでいるのは仕事と友情。……うーん、でも、それも確かにかなり、陳腐かもしれない。
男には仕事と友情、そして女には恋。……うーん、うーん、かなり古びた定義かもしれない。そりゃそれを明言して話を進めている訳じゃないんだけどさ、なんかやっぱりちょっとそれは、ヤかもしれない。
でも皮肉なのは、聡が友情だと思って、自分が友達を裏切ったと思っていたことが、実は思い上がりとでも言える結果が待っているタネ明かしである。つまり七緒にしろ聡にしろ、そういうステロタイプな男と女の定義を一度提示しながら、突き崩していると言えるのかもしれない。

聡がカナダ行きを一番にシンゴに告げなかったことで、ショックを受けて姿をくらましていたと思っていたシンゴは実は、モデルをやめて実家のボート屋を継ぎ、子供が出来たカノジョを嫁さんにすることを父親に説得しに行ったためだった。
シンゴは楽しげに聡に言った。「夢だったからさ。家族持つの。オヤジ、ウザイ!とか言われてさ、でも食事はいつも家族一緒、みたいな。つまんねえだろ」聡はどこかまぶしげにシンゴを見て「つまんないな」と笑った。
聡はこのカノジョ、茜の存在だって知らなかったし、どっかでシンゴが、自分がいなきゃダメだぐらいに思っていた。
逆に自分はシンゴの仕事で世に出て、その肩書きがなければ先に進めないというジレンマを抱えてて……このまま二人がお互いに寄りかかったまま仕事を続けていたら、いつか二人の友情も、そして仕事も破綻していた、だろう。そう、男が常に大事にし続ける仕事と友情を一気に失うことになっていた、だろう。
七緒も聡も、男と女が最も拠り所にしている(女に関しては……私は納得いかないけど、って、まだ言ってる(爆))ことが破綻する寸前に、お互いの存在の愛しさに、ようやく気づいた。
ずっとずっと、隣同士の音でつながっていた二人……。

あのね、七緒の後輩の山賀はね、メールでしか知らない、いわゆる“メル友”の女の子に恋をして、で、七緒に告白しに来た氷室の姿に感動して、僕も運命の恋を信じる!と息巻くのね。
その女の子が病気で入院してて、退院してからじゃないと会えないというんで、彼は自分の思いが成就するように願掛けでボーズにまでしてしまう。
メールだけで恋してしまう現代っ子の彼に、七緒も女店主もどっか呆れ気味なんだけど……でも七緒は少なくとも氷室の存在に動揺していたから、ちょっと心が揺れちゃうんだよね。
でも山賀はメル友の女の子の言っていたことがすべてウソだったこと……病気だってことも、入院していたことも……を知って「運命の恋なんて、ないんですよ」とすっかり意気消沈してしまう。そしてほどなくして七緒も、氷室が自分に恋していたなんてこと大ウソだってことを知る。

七緒と女店主は、メールだけで恋しちゃう彼のことを呆れ気味に見ていたけれど、メールって言っちゃうからそういう世代にどっぷりじゃない30代以降はなんか、引いちゃうけど、その昔はね、ペンフレンドなんてこともあったんだし(うわ、口にするのも恥ずかしい言葉だ……)、それに、実際に会ったことがなければ恋にならないなんてことは、決してないと思う。
結局はウソだった氷室のシチュエイション、“マトモに話をしたこともない、コンビニの客と店員の関係”だって、それが恋に発展する可能性はゼロじゃない、と思う、思いたい。
だってそうじゃなければ、それこそメインの七緒と聡のつながりなんて、恋に発展する可能性なんてゼロじゃない。奇跡じゃない。そりゃ二人だけが、二人の関係だけが奇蹟だという展開だから、この物語がロマンティックなのだろうとは思うけどさ。

音だけでつながっているっていうのは、でもホントにツボだった。それはメル友よりももっとこの先が望めない関係の筈なのに、凄く、惹かれたんだよね。
あのね、メル友がダメっていう根拠は、実際に会ってないから、っていうことだと思うんだけど……なら実際は会っている、でも目にしていないならそれはどうなの、とふと思ったのだ。
それはこの二人にはちょっと当てはまらないんだけど……私はありがたいことに五体満足で今、生きているけど、耳が聞こえないとか、目が見えないとかいうことになったならどうなっちゃうんだろうと考えることがよくある……のは、やはり映画が好きだからだと思う。
音と映像が一緒になっているのが映画。どちらも欠かせない。そのどちらも享受できる私は本当に幸せで……ならば、もしどちらかが欠けたなら、私は映画と心を通わすことが出来ないのだろうか、そんなのヤだし、そんなことないと思いたいし、そしてそれは……人間関係とも通じるんじゃないかと思ったんだよね。

メル友だけで恋することはちっともヘンじゃないと思うし、顔を知ることなく声だけを知っているだけで恋することだって、ちっとも、ちっともヘンじゃない。
ま、聡と七緒の場合はもっと極端で……会話もなく、お互いの意志を通じることもなく、生活音だけで気持ちを通じ合っていたんだから、ホントファンタジックなんだけど、でも、だからこそ、そういうことがあってほしい、と思った。
隣人の騒音が気になってクレームをつけるような現代社会へのアンチテーゼ、ととるのが正解なのかもしれないけど、確かに実際の私は、そんな世知辛い価値観で生活しているけれど、音って、生活音って、ホント素で、何の気取りもなくて、全てをさらけだしているから、二人がそれを分け合って通じているのが、凄くステキだと思ったんだよなあ。

東京の片隅のボロアパートの隣同士の二人が、実は同郷で、しかも同じ中学の同級生であるという偶然は、運命的というにはいくらなんでもの超ファンタジーで、正直ちょっと引く気持ちもなきにしもあらずだったんだけど……ただ、あえてそれを強調する描き方をしていないから、なんか素直にキュンときちゃっている私って、いまだに少女マンガ体質かもしれない(爆)。
フランス留学の前に帰省した七緒は、父親が病気していた(ちょっと台詞がちゃんと聞き取れなかったんだけど……足?)に呆然とする。いつもいつも忙しぶって、ろくに家族と連絡もとらなかったことを後悔する。
花卉栽培をなりわいとする実家で育って、今の自分があるハズだってことを、忘れていたのだ。

父親から、花を大事にしろと言われる。「判ってる」と小さくつぶやく七緒。
今まで、ちょっとしおれた花はバンバン捨ててた。花の見極めがプロだと思ってた。後輩の山賀が、そんな見捨てられた花を見かねて持ち帰るのを、困惑気味に眺めてた。
あのムカつく氷室から「フラワーデザイナーの夢をかなえるために、何本の花を犠牲にしたんですか。それと同じですよ」と言われた。あなたと私は同じじゃない、と叫んだけれど、いつものように無造作に花をゴミ袋に押し込む自分に、涙を流した。

聡の方はね、全然、家族が出て来ないんだよね。これ、脚本家は女性かなあ。女にだけ家族の要素を持ち込むのも、なんかベタな気がする。男は仕事と友情、女は恋、と家族、恋だけで終わられるのもシャクだけど、それに家族をつけられるともっとシャクかも……だって、もんのすごく、閉じ込められるじゃん。
しかも七緒の方には、友達の影はほぼ、見えないしさ。花屋の女店長は尊敬してるけど、恋を拒否しているような七緒を心配した店長が「私みたいになっちゃうよ」と言うと七緒「店長みたいになれれば本望です」とか言うでしょ、すると店長「私も若い頃はそう思ってたな」と言う訳よね。
七緒の気持ちも店長の気持ちも判る(ような年頃なのよね、私……)んだけど、それだけになんか凄く凄く、悔しい気がするんだよね。
だって多分、この感覚って、男性には判ってもらえないじゃん。
まあ、逆に男性の方も、そう思っている感覚があるんだとは思うけどさ……。

帰省していた七緒の元に、高校時代の連絡網が回ってくる。恩師の定年退職を祝う謝恩会。それを連絡してきたのが、聡だった。
なんという偶然。偶然過ぎるだろって、偶然。だってそれって、同級生どころか、同じクラスだったってことじゃないの?違うのかなあ?いや、そうでしょ……それでお互い(少なくとも七緒の方は)覚えてないだなんて……ここで運命の再会(ではないんだけど)を果たすと思いきや、聡が写真係を頼まれていたこともあって、ここでは二人、お互いに気になりながらも言葉を交わすことが出来ないまま終わる。

少なくとも聡はこの時点で、彼女が隣人の女の子だってこと、薄々感じてるんだよね。でも東京に戻ってきて隣の部屋を訪ねようとした時には、もう彼女は部屋を引き払っていた。
一方の七緒、日本を離れる前に、得意先でもありお気に入りのコーヒーを飲ませてくれる喫茶店で、最後の一服を楽しむ。
マスターが餞別にくれた、彼女がいつもながめていた宵闇の水辺の写真の裏には、聡のサインがあった。ハッとする七緒。しかも同じアパートに住んでいたと知り、全てに合点がいった彼女は急ぎアパートへ。そして……。

留守の聡を待ちながら、引き払った元部屋で彼の写真をながめ、いつもの鼻歌を歌ってゴロゴロしている七緒。
その鼻歌「風をあつめて」は、彼らの中学時代、合唱で歌った思い出の曲なのだ。
聡が、その鼻歌を聞きつけて、ドアを叩く。
その前に、もう七緒は、彼のキーチェーンのジャラジャラ言う音で、そう、毎日聞き慣れていた音で、彼が帰ってきたのを察知している。
お互い、顔を合わせていないのに、本当に、全てを知っているんだよね。
そして、彼はドアを開ける。立ち尽くす彼女。照れたように、ふっと笑う彼に、彼女も笑う。ああ!

そしてブラックアウトした後のラストクレジットでは、何ヵ月後か何年後か判んないけど、帰国したあとに同居(結婚!?)していると思しき二人の、料理しながら仲睦まじく会話している声(音)だけが聞こえてくるのだ。
なんとまあ、幸福なラスト!

印象的だったのは意外に氷室……メチャクチャムカつく男ではあったけど、彼が七緒に聞かせる基調音の話が、凄くこのテーマに大切なことだったから。人間がなごむ音の大切さを教えてくれたのが彼だっていうのが皮肉だけど、でも人間関係って、例え出会いたくないと思うぐらいイヤなヤツでも、確かに自分に影響を与えるもんなんだものなあ。
カン違いでまとわりつく関西弁がうるさい谷村美月は……かなりウザかったかも(爆)。★★★☆☆


女の子ものがたり
2009年 110分 カラー
監督:森岡利行 脚本:森岡利行
撮影:清久素延 音楽:おおはた雄一
出演:深津絵里 大後寿々花 福士誠治 波瑠 高山侑子 森迫永依 三吉彩花 佐藤初 大東俊介 佐野和真 賀来賢人 落合恭子 黒沢あすか 上島竜兵 西原理恵子 板尾創路 奥貫薫 風吹ジュン

2009/9/8/火 劇場(渋谷シネクイント)
同じかつての女の子だからといって、全ての女子が共感出来る訳でもないし、実際自分の友達経験とは重ならない印象の方が強かったんだけど、ただ、なんかここは端的だなあ、と思ったのは、女の子が、“友達”、という言葉や価値感に執着するところ、なんである。
ここに出てくる三人は、間違いなく親友同士であったと思うけれど、お互いにそうは言わないんだよね。
それどころか、「どこかに私のことを全部好きでいてくれる親友がいるに違いない」と信じて、ガラス瓶に入った手紙にその運命を託して海へと投げ入れる。それはお遊びの延長線上とはいえ、小学生の彼女たちはかなり本気でそれを信じてた。いや……もしかしたら、中学生だって高校生だって、どこかでそんな気分はずっと持っているかもしれない。
お互いに親友、と言えなかったのは、「親友だよね」と言ってみて、「違うよ」と言われるのが怖かったんじゃないのか。

私は、結局この年になるまで、「親友だよね」と言い合える友達に出会わずに来た。それは……少なくとも自分から「親友だよね」だなんて言えなかったのだ、怖くて。「えぇ?親友?」なんて驚かれたり、笑われたりされるんじゃないかと、怖くて。
勿論、お互いに親友だと言い合える女の子たちだってたくさんいると思うけど、私は正直、敢えてそう確かめ合う関係も危ういような気がしてしまう。いや……うらやましいのかもしれないけれど。
でも、親友って、彼女たちが思うように「私のことを全部好きでいてくれる人」であり、同じように自分も相手を全部好きでなければいけない訳で……それって、もんのすごい枷だから。そんなこと勿論相手に強いたり出来ないし、自分だって縛られたくない。
それはまさしく、理想でありながら、とんでもないファンタジーなのだ。
でもこの三人は、お互い口に出して確かめ合わなかったけど、確かにその条件に照らし合わせても、親友だった。
同じような条件の元に成立する恋人が、少なくとも確認し合わなければいけないのと違って、そしてその時点で縛られてしまうのと違って、友達は、親友は、永遠の絆、なのだ。

ざっくりしたギャグ絵からは予想もつかない感動物語を紡ぎ出して、原作として採用された映画作品でも良作を生み出している西原理恵子氏だけれど、このテーマはやや、意外だった。
いや勿論、その原作の存在を知らなかったということもあるけれど……人を感動させる作品を生み出しながらも、ドライな立ち位置を崩さない人だから、ノスタルジックな過去の友情物語、っていうのが意外だったというか。
恐らく、ほとんど事実に即しているんだろうと思う。そうじゃなかったら、さすがに詐欺だよっ!て思っちゃう。流した涙を返してよ!って。
ラスト、(この時点では)うだつのあがらない漫画家の彼女が、売れセンの恋愛漫画から脱却して、「私、友達の話、描いてもいいかな」と言った時にボロボロ流れた涙を返して、って。

現在の時間軸で、まるでやる気のない中堅どころの少女漫画家が、原稿を催促にくる若い青年編集者とのやり取りの中で、故郷の少女時代を思い出す……という趣である。
現在軸の漫画家、つまり西原氏を演じるのが深津絵里。縁側つきののんびりした一軒家にカワイイ柴犬の子犬と住みながら、原稿なんぞいっこも進まず、朝からビールをかっくらってだーらだーら過ごしている。
かつては珠玉の名作も送り出した彼女だけれど、それが“売れない”ことでもうやる気を失っている風で、今の若い子の恋愛なんてこんなもんでしょ、とあまりにもベタな話をひねり出している現状なのだ。
しかし、やたらアツくて純粋な編集者の財前君によって、彼女は思い出すのだ。自分がそんな風に純粋だったころのことを。

そもそも、彼女が故郷として思い出す土地に生まれ育った訳ではなかった。母親が再婚した新しいお父さんと共に移り住んだ。そこで出会ったのがみさちゃんときいちゃん。
「ここはうちらのはらっぱだから」と新参者の菜都美は遠ざけられた。思えばその最初から二人との距離はあったのかもしれない。
というか、その記憶があるから、菜都美も、そしてみさちゃんときいちゃんも、菜都美は外から来て、外に出て行ける人間、ウチらとは違うと思っていたのかもしれない。

実際、菜都美は新しいお父さんから「ナツミは普通とちょっと違うで。違う人生が送れる」と言い続けられて来た。バクチな人生のお父さんで、菜都美が中学生の時タバコを買いに行ったっきり行方不明になり、亡くなって戻ってきたようなあやしげなお父さんだったけど、それでも菜都美とはホントの親子みたいに仲良くやれていた。菜都美の秘められた才能を、一番に気付いてくれた人だったのだ。
ある意味その視点が最初から貫かれているから、みさちゃんときいちゃんの“普通さ”ゆえの残酷な結末が、妙に皮肉に思えるのかもしれない。
勿論、西原氏自身はそんな風には描いていないとは思うんだけど……未読だから何とも言えないんだけど……特別な才能のないまま、生まれた環境に負ける形で、結局は男運で人生が決まってしまったような二人と菜都美とは、明らかに違ったんだもの。
そりゃ、今の菜都美は、こんな年若い男の子から「先生、彼氏いないでしょう。それで恋愛漫画なんか描けるんですか」と言われたりしてるけど、彼氏なんかいなくたって生きていけるから、その点で二人の友達とは違ったんだから。
それで幸せだった筈、なんだから……。

その友達の一人、きいちゃんは、高校生の頃からチンピラ風な男に憧れて、菜都美やみさちゃんの心配もよそに、その道に足を突っ込んでヤバい橋も渡りかけた。
男に暴力をふるわれても笑って「私だから彼を操縦出来る」と思い込んで、というか、言い聞かせて。高校卒業後、早々に結婚した相手もその延長線上な男。
もともと父親のいないビンボーな家で育ち、風呂もろくに使えないような彼女は、小学生の頃からイジめられていて、クラスメイトからはきいちゃんの家に行くのはNGだと言われてた。
いつも行動を共にしている友達のはずのみさちゃんでさえ、きいちゃんの家には「靴下が汚れるとお母さんに怒られるから」と土足で上がりこむ始末。菜都美もどこか、彼女よりは自分は恵まれている、と思っていたかもしれない。

そしてみさちゃん。団地暮らしの彼女もまた、決して裕福とは言えない。しかも中学生の頃に親が警察に捕まり、幼い弟妹を抱えた彼女はいきなりすべてを抱える身になってしまう。
もともと、やたらと早く大人になりたがっていた。不良に憧れるきいちゃんですら、アコガレのお姉さんのエッチ場面を見てみさちゃんや菜都美と共に悲鳴を上げて飛び出したのに、みさちゃんはなかばゴーインに処女を捨ててしまうんである。
ある日突然、二人の前に鼻血を流しながら表れて、「今、ヤッてきた!ナンパされた男とホテルに行った!」!!!
鼻血が男によるものではなく、帰りが遅いことに怒った親からの鉄拳だったのはまだ幸いというものか……。
この時にはあまりに唐突だったからビックリするばかりだったんだけど、なんか後から思えばね、やっぱり彼女は……どこか本能的に察知して、自分は早く大人にならなきゃ、全ての面で大人にならなきゃ、って焦ってた気がするんだよなあ。

みさちゃんはその後、先述の様に弟妹を抱える身となり、ケーキ屋のアルバイトなど大人しいことをしていたのも束の間、だったんだろうなあ。
次のシーンで、きいちゃんの新婚生活を菜都美と共に訪ねている時にはね、稼ぎが足りないとダンナにキックされて頭蓋骨にヒビが入ったと、頭にネットをかぶせてる始末。
ファッションはいかにもオミズな感じの安っぽいタイトスカートのスーツでさ、センスのかけらもない。ただパーマ当てましたってなヘアスタイルもイタくて、なんかもう……見てられないんだよね。
その中で菜都美だけはある意味まだ完成されてなくて、ゆるいジーンズにオーバーワンピース姿が純朴でキュートでさ、カワイイ人妻や、水商売の女をベタベタに表現している二人の痛々しさとは全然違うんだよね……。
そんなみさちゃんも、きいちゃんのピンク色の暮らしっぷりに、きいちゃんは夫婦生活を知らないから、とつぶやくけれど、自分だって充分フィクションたっぷりな演出を施した生活をしている、のだ……。

なんて過去を、現在の時間軸と共につらつらと思い出す菜都美。
でもね正直、このかわりばんこの挿入は、ちょっとうっとうしかったなあ。だって結局現在の菜都美はダラダラしながら思い出すだけで、特に進展はないんだもん。まあ、最後はちょっと泣かされたけど……。
菜都美が二人に最初に出会う場面で、三人を結びつけた捨てられた黒い子猫が、結局満足な世話が出来なかったがために、翌日には死んでしまっていた、というエピソードがね……さすがに死んだ子猫の姿を映すことなんぞはしなかったにしてもね、やっぱり猫好きのこちらとしてはね、なんか必要以上の意味合いを感じて……ヒヤリとしたのだ。
今から思えばこの時点で既に、三人には不穏な運命が流れてたのかもなあ、と思う。しかも、女の子三人もいたのに、小さな子猫の母親役を一日もなせなかった、なんて。
そりゃあ、そりゃあね、女だから母親とか、世話係とか、そんなの差別的でナンセンスだと思うよ。でもね、なんか……この時点ではまだ家族を持っていない西原氏が回想するのが、妙に自虐的に思えたんだよなあ。

勿論、それはその後の展開によって、味わいは変わってゆく。何より西原氏はその後波乱万丈な運命を辿りつつも母親になったのだし(というところまでは行かないけど)、そして……みさちゃんの行方は知れないまでも、きいちゃんは母親となり、その娘は“なっちゃん”なのだもの。
暴力夫に嫁ぎながら、私、幸せだよ、と言うきいちゃんに、菜都美は憤りを隠せなかった。思いがけずきいちゃんは、菜都美に怒りをぶつけ返した。
なっちゃんは、私たちとは違うと思ってるんでしょ、と。泥水の中を取っ組み合って、菜都美はついに言ってしまった。そうだよ、そう思ってるよ、と。
きいちゃんは、あんたなんか友達でも何でもない、言い放った。慌てて駆けつけたみさちゃんにも強い調子でそれを促がした。実際、同じく暴力夫に悩まされているみさちゃんも否定が出来なくて……。
きいちゃんから、この街から出て行ってよ、と言われて、菜都美はひと言も返す言葉を持たなかった。そして菜都美は出て行ったのだ。それから20年近く、帰らなかった。

菜都美が帰ったのは、あの熱血編集青年に追っかけられまくって、先生には恋人も友達もいないでしょう、そんなんで心を揺さぶる作品を描けるんですか、と言われて……唐突に思い立って故郷に発った、のだった。
いや、唐突ではなかった。ずっと気になっていた、のは、あのきいちゃんが亡くなったことを知らされた一周忌に、締め切りが重なって行けなかったから。
自分のことを嫌っていると思っていたきいちゃんが、しかし自分の著作を大事に持ち、なっちゃんは忙しいから自分の病気のことは知らせないで、と母親に告げていて、しかもしかも……自分の娘に、ナツコと名づけていたことを知って!
あの時、それぞれ違う高校に行きながらも、違う制服を着ながらも、ずっとつながってた。ウチら、いつかバラバラになるんだろうなあ、と言いながら、その先が、“この街から出て行く”ことぐらいしか想像できなかった。
この街から出て行く男の子はヤクザになってエラそうに帰ってくるけれど、女の子は帰ってこない。そんなことを言って、もうその時点で永遠の別れを予測してた。
そうなんだ、女の子は男の子よりも、ティーンエイジャーの友情が、そのまま永遠の別れになる確率が高いんだもん。
それはいまだ、男によって人生が決定されることもそうだし、先述の様に、きっと男よりも故郷への帰還率が低い。それだけ覚悟して外に出て行くのだ。その先で人生の伴侶に出会ってしまえば、その男の故郷についていってしまうのだもの。

だから、男の方が、友情物語が多いのかなあ。だって、故郷への帰還率は、友情率ときっと比例するんだもの……。だからね、だからやっぱり女の方が友情、親友というコトバや具体的な価値感に執着するんだと思うよ。

何より何より、大後寿々花嬢の素晴らしさ。正直、看板となっている深津嬢よりも、彼女の学生時代を演じた寿々花嬢の繊細なインパクトに尽きる。彼女には千鶴嬢に感じたトキメキを感じるんだよなあ。いつかくる筈の主演作が楽しみでならない! ★★★☆☆


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