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「つ」


2013年鑑賞作品

月の下まで
2013年 96分 日本 カラー
監督:奥村盛人 脚本:奥村盛人
撮影:伊藤学 音楽:蓬家本舗
出演:那波隆史 松澤匠 高山真樹 富田理生 荻野みどり 下尾仁 真賀田サヤ 竹下かおり 鈴木ただし 平井千尋 川村慎二 はかたさき 大谷美香 千頭司 中山遥 酒井勲 土居重野 生田和恵 黒田チョル真 林建紀


2013/9/16/月・祝 劇場(渋谷ユーロスペース/モーニング)
台風の日ということもあったと思うけど、観客は三人。インディーズとはいえちょっと辛い。とはいえ私も、休日の朝早い時間にやってる映画を探して、偶然行き当たり、足を運んだクチ。
ただ初監督作品、というだけではどんな人かももちろん判らない。ある地域にこだわって撮り、しかもそれが過疎だの高齢化だの障害者が生きていく難しさ……特に地方は……だの、言ってしまえば地味というか真面目というか、そりゃなかなか客を呼ぶのは難しい感じ。真摯だとは思うけれど……。今話題の“高知県庁おもてなし課”もスタッフクレジットに名を連ねる正統派。

なもんで、初監督のこのお人はちょっとオジサンなのかと思った。いや、最近は結構、そういう例も多いからさ。
んでもって鑑賞後、公式サイトを眺めてみると、高知新聞記者からの転身……ますますこりゃオジサンだろうと、スタッフプロフィールに飛んだら意外に若かった(爆)。
しかも高知の人という訳じゃない……あ、大学と勤務先が高知ということなのか……。
この時に得た着想が本作と相成り、さてこの人はこれからどんな映画人として歩んでゆくのか。最初からかなりリキ入ってる感じだからなあ。

私はといえば、時間が合ったのもそうだけど、主演のお人の名前が目に飛び込んだ瞬間、これは行く、行かねば!!とキャーキャー叫んだのであった。
近頃じゃめっきり珍しくなった、寡黙なニッポン男児。彼の演じた将棋師 は無口でセクシーでカッコ良かったなあー。
もちろん役者さんだからいろんな役をこなし、その上手さは当然なんだけど、私にとっては彼は、もうあの役のカッコ良さがこびりついて離れなくて、もういそいそと足を運んだ訳なんである。

だって本作の漁師なんてさ、もうそのまんま、思いっきり私の理想の那波氏じゃん。しかも女房に去られ、一人息子はばあちゃん任せ、名うてのカツオ釣りなのに最近は振るわず、新調した船の借金をなかなか返せずにいる、そんな、苛立ちを寡黙の力で押し込んでいる、そして一人、孤独の中にいる。
決して孤独じゃないのに、孤独の中にわざわざ入りこんでいる、そんな、もう女としてはじりじりするほど構いたくなる、でも触れれば切れそうな、男。

そうなの、彼は決して孤独じゃないのさあ。それはラストにそう、示されることとなる、んだよね。
本作の宣材写真は、その息子、知的障害を抱えている息子と笑顔全開で両手をバンザイして振っている姿。一見、明るい映画かと錯覚してしまうぐらい。
でもこのシーンにたどり着くまで、実に作品の90パーセント以上は、那波氏、笑顔どころじゃない。言ってしまえば苦虫を噛み潰したような顔してる。それがまた、セクシーなんだけどさっ。

こういう男はいまどき、珍しいと思う。まあ草食系とか持ち出すまではしないけど、男は外に出て働くもの、子供の世話は女がするもの、みたいな価値観の男は。
いや、ここでの彼、明神勝雄はそこまで家父長然としている訳じゃなくて、あくまで女房が出て行ってしまったから、自分の母親に息子の面倒を見てもらっているということなんだけど、女房がいた時からそうそう関わっていなかったことは、後にその女房が訪ねてきてその時の不満をぶちまけなくても、彼の様子で充分に予測できちゃうんである。
子供のように笑ってばかりの息子。そう、まるで、子供のまま時間が止まってしまったような息子に苛立ち、それがつのってビンタをかましたり、ついには首に手を回しかけもする……。

本当はね、ちょっと、この描写には時代錯誤感を感じもした。この息子、雄介は先述したように子供のまま時が止まっている、といった描写だし、ご近所の出来た女の子、恵理(富田理生嬢。ムダに超美少女(爆))も、興奮した雄介をなだめながら膝枕で眠らせ、「ねえ見て、天使みたいじゃない?」と勝雄に言ったものだった。
……ちょっとだけ、こんなんでいいのかな、という気持ちがする。知的障害を持った人に、子供だとか、何歳の知能だとか言うのは、時代にそぐわない感じがする。今、そういうことは言わないんじゃないかと思う。
彼や彼女は、その人自身の時間を生きているんであって、子供だとか大人だとかじゃないから。そしてそれは大きく見れば、健常者も何もひっくるめて同じことだから。

でも、結局、まだまだそういう目があるということなのかもしれない。特に……こんなことは言いたくないけど、地方は。だからこそ本作でこういう描写が生きるのかもしれないけれど……。
そういやあ、雄介をもてあまし気味の勝雄に、自身も引き取れない彼の妹が、全寮制の養護学校を紹介する。勝雄は難色を示す。前にも考えたことはあったが、雄介がどうしても暴れてダメだった、と……。

障害者の自立問題は、こうした施設をポジティブにとらえることも含めて必要なんだけれど、本作では、というか、この小さな漁村ではそこまでとても詰めて考えられない。
結局は、そんな問題が考えられるのも、サポートや作業所が機能するある程度の規模の都市社会だけなのだ。
ここでは、自立のためにと障害者を施設に送るのは、姥捨て山と同じ感覚なのかもしれない……。

こんな風に考えてしまうのは、本作に対してはあまりにもうがっているかもしれない。だって、その他にもいろんな問題が盛りだくさんなんだもの。
そもそもの冒頭は、雄介の面倒を見てくれていた勝雄の母がボケ気味になっていることが描かれ、ある日大量のてるてる坊主を残して失踪。
雄介が無邪気にスーパーボールを追いかけた小川のほとりで、せせらぎにうつぶせに突っ伏しているのを、学校から一緒に帰って来ていたお隣さんのお嬢さん、恵理が発見する。

皆に助けられての葬式、気ままにふるまう雄介に激昂して勝雄はビンタをくらわしてしまう。
そもそもいつかは破たんするのが見えていた。勝雄の母は老いていて認知症がもう目に見えていたのに、勝雄は手を打たなかったし、何より子育てから彼は離れてた。
母親がいなくなると雄介の食事も、ごはんにじゃこをまぶしたのをどんと出すぐらいしか出来ない、いまどき珍しいぐらいのザ・日本男児。漁師なら包丁使うことぐらい普通は出来るもんだけどねえ。

雄介は普通学校に通い、ていうかこの地域には普通学校しかないんだろう、同級生にいいように利用される。
おばあちゃんが居眠りしている駄菓子屋でまんまと万引きする同級生を咎めることさえ理解の範疇を超えている彼は、「友達からもらった」スーパーボールに無邪気に喜んじゃう。
後に万引きの疑いをかけられ、周囲の人々はそんな筈はない、同級生にハメられたんだろうと憤ってくれるんだけれど、当の父親である勝雄が、ちっとも息子を信じない。
ていうか、信じるとか信じないとかさえ範疇の外で、こんな騒ぎを起こしてくれて、とそのことに憤る。
信じるも信じないも関係ないなんて、哀しすぎる。どうでもいいのだ、判ろうとしてないってことなんだもの。

更に、恵理に手を出した疑惑さえ負わされ、恵理の父親が激怒、もうすったもんだの騒ぎになる。
この時には勝雄は恵理の父親の方に殴りかかって、ボコボコにしちゃって、警察にブチ込まれる事態にまでなったけど、果たしてこの時、勝雄が雄介を信じたからそうしたのかどうかは疑問なのよね。
ここまでに色々あったからさあ……何よりこの直前、出て行った女房が訪ねてくるという最大の事件があった。雄介を引き取りたいと言ってきた。彼もいいと言ってくれている。その方があなたも楽でしょ、と。

ブタ箱にぶち込まれた勝雄は夢を見る。笑ってばかりで言葉一つ言わない雄介が、夢の中では、健常者の姿で、きちんと学ランを着て(いつもジャージ姿なのだ)、去りゆきながら勝雄に言う。僕を愛してくれる人のところへ行くよ、と。
行くなと叫んで目が覚める。そこは留置所で、いつも寛容に勝雄を見守ってくれている同僚が迎えに来てくれている。
家に着くと、女房に連れていかれたかと思っていた雄介はちゃんといて、妹が彼の帰りを待っていた。
「ダンナさんまで来ていたんだけれど、行かないって、暴れたのよ」

その後の、子供が出来ないからって雄ちゃんを引き取りたいなんて、自分勝手よ、私もお母さんも前からあの女が嫌いだったのよ、とかいう台詞はちょっとやり過ぎかなあ。
人によって誰かの評価は変わるというのはまあ当然だけど、この場合、雄介がお父さんを選んだこと、それはお母さんが出ていく時からそうだった訳で、もうそれだけで充分じゃん。
いくらヒドい母親でも、雄介に暴力をふるっちゃったことがあっても、それだって勝雄とあいこといえばあいこだしさ。

……私は女で、で、親になった経験がない分、自分に自信がないから、ついつい甘くなっちゃうのかもしれない。
なんかね、この、出て行った奥さんに対する総じて冷たい視線って、ちょっと男性的な気がしちゃう。女の身内を味方につけるあたりも、なんか好きじゃない。
勝雄の母親が、ヨメからの手紙を封も切らずに、なのにご丁寧にとっといてるとか、ゾッとしちゃう。こんな風に男は女を見てるのかって、こういうことする生きものとして見てるのかって、思っちゃう。

あれ、なんかだんだんイジワルな見方になってきちゃった(爆)。でもこの雄介役の彼、松澤匠は素晴らしかった。確かにこのお名前は見た覚えがある。多分何度も、見ていると思うんだけど、「甦りの血」とか……でも今回が初瞠目。スマン(汗)。
こういう役はね、まあ確かにもうけ役だとは思うし、アプローチの方向も明確なのだろうとは思う。役者じゃないのにカンタンに言ってるけど(爆)。
でもそれが魅力的に(この場合は特に、誤解を恐れずに言えばね)見えるには、やはりその人自身のパーソナリティーが重要になってくるんだと思うんだよなあ。

年齢的にはもう充分に大人、なんたって幼馴染であるお隣の美少女過ぎる恵理ちゃんに、密室キッスを仕掛けられるぐらいなんだからっ。
正直この時、彼の中の本能が目覚めたらどうしようとハラハラしたし、そういう問題だってきっとあると思うから、またイジワルな見方が復活しそうにもなるんだけれども(爆)、でもこの時の彼は、まだギリギリ天使の線上に立っていた。
フラフラ揺らぎながらも。お父さんと一緒に恵理の上京の列車を笑顔で手を振って見送ったこの時からが、きっと勝負なのだろう……かな……。

それにしても恵理ちゃんはホント、ムダに(爆)美少女だった。この役どころに、ここまで美少女である必要があるのだろーかと思うぐらい(爆爆)。
彼女はみこしを担ぐ屈強な青年に恋をしているのだが、祭りの日、彼とイチャイチャしている恋人を目撃して玉砕、それが雄介への密室キッスとあいなる訳なんである。
雄介と登下校を共にする様子を見かけて「いつもえらいね」と声をかけてくる青年に頬を赤らめる彼女な訳だが、この台詞はね、ダメだよね。だって彼女にとって雄介は幼馴染のご近所さんなんだもの。
この台詞が機能してしまうということは、ボランティア的な目線を彼女が肯定してしまうことになる。

いや、ね、彼女自身はそう考えてはおらず、ただ応ずる挨拶としてだけ返しているというんならいいのよ。実際、勝雄から同じ台詞をかけられて返す彼女の気持ちは、そんなところだと思うし。
でもこの青年からかけられた時の気持ちは、そうじゃないよね。よくやってる、えらいね、と言われて喜んでいる、それと知らず無邪気な雄介……。
うがちすぎかなー、でも、うがちすぎなのだとしたら、それはそれで問題な気がする。だって、やっぱりそこには、繊細だけれども大胆に取り組まなければならない、障害者と健常者が等分に生きていくという問題があるんだもの。

このタイトルは、月の下にはおばあちゃんも恵理ちゃんもいる世界がある、という(多分、そんなこと言ってたと思う(爆))、ラストの勝雄の台詞によって示されるんだけど、ちょっと???
おばあちゃんというなら死後の世界だから、おいおい、死にに行くのかと思ったが、恵理ちゃんが行くのは東京であり、なんだかよく判らない。全てが平等な世界に行くということなのかしらん?どうなんだろう……。

勝雄は、この先どうするんだろう。最後にテーブルの上に乗せられていたのは、拒否し続けていた二つの書類。船の売買契約書と、全寮制の養護学校のパンフレット。
この海の男が、それを捨てて生きて行けるのか。一匹狼で、イケイケの若い漁師たちに鼻で笑われて、ケンカしたのが場末のスナックというのが哀しすぎる。
しかもその後、その場末のスナックの場末のホステスを連れ込んでエッチしかかって、しかし息子からニコニコ覗かれてホステスに逃げられて、情けなくすがる様が惨めすぎる。ついエロを期待しちゃった自分も惨めすぎる(爆)。
恵理ちゃんの門出を雄介と二人で笑顔で大きく手を振って見送ったラストは一見ポジティブハッピーエンドに見えなくもないけど、よどんだ不安が残るのだ。これでいいの、本当にいいの、って。★★★☆☆


つやのよる ある愛に関わった、女たちの物語
2012年 138分 日本 カラー
監督:行定勲 脚本:伊藤ちひろ 行定勲
撮影:福本淳 音楽:coba
出演:阿部寛 小泉今日子 野波麻帆 風吹ジュン 真木よう子 忽那汐里 大竹しのぶ 羽場裕一 荻野目慶子 岸谷五朗 渡辺いっけい 永山絢斗 奥田瑛二 田畑智子

2013/2/6/水 劇場 (楽天地シネマズ錦糸町)
ようやく終わって「……ながっ」とつぶやいてしまった。長い、長い。言っちゃ悪いけど……タイクツ。眠くなってしまった。実際はそれほど長い尺の映画でもないのに。
まー私が大人の恋愛の機微になんぞ感じ入ることが出来ないっつーことかもしれんと自嘲気味に思うが、しかしこれは原作である小説ならば、滋味深く、味わい深く、それこそ長い時を慈しんで楽しんで、しみじみと、ドキドキと、読めるんじゃないかという気がした。

どーも、ダメだ、私。映画化のネタの宝庫である現代小説に全くもって疎くって、この井上荒野さんも一冊は読んだことがあるような気がする……それもあんまり覚えてない……って、程度なんだもの。
本作はね、未読ではあるけどこうして映画化された作品を見れば、映画にしたくなる気持は判る。こんな風に様々な年代の豪華な女優陣でキャストを埋め尽くすことを考えるだけでワクワクするし、その中心にいる、いや中心にいるのに誰からも通り過ぎられてしまうような艶のダンナ、松生にどんな男優を持ってくるかを考えるのも楽しいし。
そして何より、タイトルロールであるのに劇中ではずっと昏睡状態の、現われざる主人公とでもいった趣の艶の存在がスリリングで、ミステリアスで、そして名前どおり艶やかで、実に深い想像をかきたてるんだもの。

そう、小説ならば、その艶もまた、様々な人物が彼女の人となりを思い起こすことによって、まさに七変化に、七色に、躍動する。基本色ボケの問題女ではあるけれど、それだけ男を翻弄し、女たちを悩ませる魅力を持つ女が読者の中で鮮やかによみがえるのだろうと思う。
でも、映像となると、そうした“ラショーモナイズ”な艶は、キャスティングすることすら不可能になって、顔も見せずにまさに寝たきりになるしかない。
もちろん彼女のダンナで彼女を深く愛した松生をはじめとして、艶の人生を、というか艶の女としての人生を最初から振り返るがごとく構築していくんだけれど、本を読んで頭のによみがえらせるのと、映像を見ながら同じ作業をするのでは、後者の艶は明らかに色あせてしまう。

だから……いっそのこと、艶をキャスティングしちゃうのも手だったんじゃないかなあとも思うけど、でもやはりそれはムリだろうか。そうなると七変化の、七色の艶にはならないのだから。
でも正直、散りばめられた女優陣たちに手一杯で、肝心の艶の描写はおざなりになっているような気がした……しかもその女優陣は、そろいもそろって、脱がない。まー、何てことさ。
いや、私、ヘンなこと、言ってる?だってさ、この話の展開、設定、ほぼ全ての女優にカラミの場面があるのに、ビックリするぐらいおっぱいガードである。……そりゃ原作は未読だが、これじゃ意味ないんじゃないの、と思う。

まあやたらおっぱいに執着する私もヘンかもしれないが、大人の恋愛模様で、しかもその色恋のドロドロこそが主眼で、狂った愛人に「あの人に何度も犯されたのよ!」と乱入されたり、男のナニに真珠を入れてるとか、とにかく、極論しちゃえばセックスの物語なのに、しかもこれだけ女優が出ていてがっちりおっぱいガードして、この物語を語る必要があるの??

……私、ヘンなこと、言ってるかなあ。でもさでもさ、私、あれが一番イヤなの。いわゆるベッドシーンでさ、まあ抱き合ってやいやいやってる時は、抱き合ってるからおっぱいが隠されてる訳さ(爆)。
で、事後、男が女に何か話しかける。女が身体を起こす、時に、掛け布やシーツとかでおっぱいをおさえて起き上がるでしょ。あんなこと、リアルに、やらないじゃん(爆)。さっきまでセックスしてた相手に対してさ、シーツでおっぱい隠して起き上がるかよ(爆爆)。
それに比べれば、男に背中を向けてブラジャーをつけるとかいう、これまた腐るほど見飽きたおっぱい隠しのシーンもまだカワイイもんだと思うが、でもその場合、パンツはずりさげてお尻は見せてるのに、……そんなにおっぱいは隠さなくちゃ、いけないの?……女のとても美しい場所じゃないの。

……なんか言えば言うほど自分がヘンタイのように思えてきたが(爆)。でも、これだけ女優陣がいると、それこそ一人か二人出しちゃうと返ってバランスが取れなくなるってことなのかなあ。
でも野波麻帆とか、パンツ脱いでのお尻出しは結構セキララだったし、あそこまでやったんならおっぱい出しちゃったらポイント高かったのに。それこそ忽那汐里嬢にそれを望むのは出来ない訳だからさあ……などと、もうそのループにはまると出てこれない。もうこの辺にしなくっちゃ。

しかし、こういう設定の物語だと、それこそオムニバス並にかなり語るのがタイヘンなんだよなあ。途中くじけるかもしれないけど、一応最初から行こう(ここまでで体力使いすぎ……)。
そう、まず、艶、である。艶が、死にかけている。その艶が、どんな女かも判らないうちから、憔悴しきったダンナが病室にフラフラと入っていって、包丁を突き立てようとする。しかし出来ずに、崩れ落ちる。
本作のために相当落としたんじゃないかと思われる阿部寛の、幽霊のようなやつれっぷりにゾッとする。正直観終わった後には、この作品にそこまで入れ込まなくても、などとも思うのだが(爆)。だってそんなアナタと違って、女優陣はおっぱいひとつ……しつこい(爆爆)。

最終的には若い男のストーカーまでした色ボケ女として嫌われ者だった艶だけれど、その女としてのスタートは哀れだった。
まだ12歳の少女の時、イトコに犯された。そのイトコ、石田行彦はいまや有名な文学賞をとって、意気揚々。12歳の少女を犯すだけあって(爆)、今もアブない女を愛人にしてズッコンバッコン。
その愛人、教育評論家の伝馬愛子と石田の妻のバトルが冒頭、そして全体を見渡してもかなりの見どころ。なんたって小泉今日子と荻野目慶子、なんだもの。
荻野目慶子が狂気の愛人っていうのがハマり過ぎてて(爆)、それこそなんで荻野目慶子、脱がないのと思っちゃう(爆爆)。荻野目慶子って、脱いだことなかったっけ?あったような気がするけどなあ……彼女ほどの女優キャラとこのキャスティングで脱がない方が不自然じゃないのお。

……どうもどうしてもそっちに話が行ってしまう。いやでも、キョンキョンに脱げとは言ってないから(爆)。
先述した、多くの女優陣の中でもかなり尺を割かれている野波麻帆(東映の映画で、彼女の所属は東宝なのに、などと思ったり)は、艶の最初の夫の恋人という設定。
最初の夫ってのが岸谷五朗。ちょいと言った、ナニに真珠を入れたというヤツである。しかし野波麻帆=湊に言わせれば引きこもりの中年男。見た目も鬼太郎みたいなワンレンに着流しで、時代錯誤の小説家のようでかなりヤバい。

彼の持ってるアパートがいっかな売れないことに、不動産会社の湊もてこずっている、という図式。でも彼と艶とのつながりや関係や、どんな間柄だったかというのは……うーん。
これは映画という尺の限界の問題なのか、原作自体がこの程度のサワリなのか判らないけど、そんな消化不良が、少しずつ、あるんだよね。後半、それこそかなり艶や艶のダンナの松生のキモに迫る、松生の元妻なんて存在さえあるのに。しかもそれが大竹しのぶなんてゴーカさなのに。

彼女も、岸谷氏演じる太田も、艶に関して妙に消極的、いや怯えている訳でもないんだけど。確かにそんなもんなのかなあ、とも思うのね。それこそ伝馬愛子あたりみたいに、激情をギャーと高ぶらせるなんて、……特に日本人はなかなか出来ない。
松生の元妻が、松生と艶のツーショット写真(大島で開いたレストランを紹介した記事)をボンヤリと眺めている。それを娘が見咎めていつもやりきれなく思っている。
娘の気持ちこそが当然の感覚、とつい観客は思ってしまうんだけど、でも実際は、きっと、そうではない。憎悪と愛情を完璧に表現するなんてきっと出来なくて、自分の夫を奪った女が瀕死の状態である、その場所に足を運んでみたとしても、昏睡している彼女にはもちろん、元夫にさえ恨み言のひとつも言えないのが、“そんなもん”なのかもしれない。

でも、というか、だからこそ、それを映画で描くのは難しいんだと思うんだよなあ……。この元妻の娘なんて、それこそメッチャ複雑な立ち位置でさ、この役に抜擢された若手女優なんて、やりようによっちゃかなり名を上げるような役どころだよ。だって大学教授とヤッちゃうんだもん(爆)。
しかもその相手が奥田瑛二っ。これを“やりように”やらずして、どうするのさっ。あー、もったいないっ。そらー、忽那汐里嬢じゃしないだろうなとは思ったが、しちゃったらこれほどの意外性はないよ!!それこそ、名を上げたよ!奥田瑛二とヤッちゃう役だよ!?あー、あー、もう、もったいない。脱げる女優もってこーい!!

……あーもう、どうしてもこの方向に行っちゃう自分がホントヤだ(爆)。そういやさ、本作の“豪華女優陣”の中で、一人ちょっと関係ない位置にいる女優、艶の入院している病院のナースで、担当であるというだけにしてはやたら松生を気にかけている田畑智子。
そういう役どころだからカラミなんてない、脱ぐだの脱がないだのといったところから離れているんだけど、田畑智子は他の映画でつい最近、それは必要だから(これ重要)さらりと脱いでくれて、さっすが!と嬉しくなったこれぞ女優。
そう、必要なところで脱いでくれなければ、何のための女優よ。その田畑智子が、脱ぐ必要のない役でいるのがなんか皮肉というか(爆)。
だってさだってさ、同じ年代ならそれこそ真木よう子とかエロいし脱ぎそうなのに、脱がないよね……。艶がストーカーしていた若い色男、バーテンダーの恋人役。

そのバーテンダーは永山君で、田畑智子と、そうその映画でしっぽりずっぽりカラミを見せてくれて目を見張った男の子。男はまあ脱ぐハードルは低いにしても、Tシャツを無造作に脱いであらわる、薄い脂肪と、ヘンに鍛えてない若い男の子らしいそれなりの筋肉に、自分でもビックリするぐらい萌える(爆)。その萌え色気に自覚があるのかないのか、いや、なければこの役は演じられまい。
年上の女を恋人にしながら「結婚?……考えたことないなあ」とボンヤリ言い、それなのに外にウッカリ子供を作ってて、その事態にも大して動じず、「自分の子供だから可愛いのか、子供だから可愛いのか、よく判んない」と言い放つ。

な、な、な、永山君、こんな役をその萌え身体でサラリとやってしまうなんて、アンタはスゴいかもしれない。これって、いかにも現代のワカモンのように見えて、だからこそ、難しいと思うよ。ヘタすればメッチャ鼻について、女に、女性観客に嫌われて、しかるべき。
でもなんだかそうはならないの。アラサー女の焦りも、子供が出来ちゃった女の復讐めいた突撃も、さらりと受け流しちゃう。受け止めないの、受け流しちゃうの。マトモに考えればサイアクなんだけど、こんな男を女は許してしまう。永山君、恐るべし!!

てな具合に、まあ様々に、艶の波乱万丈な人生をいろどった数々の人々が入れ替わりたちかわり現われ、艶は死に瀕していく。ここで人物相関図とか改めて見てみると、かなり大きな取りこぼしもあるんだけど、もう疲れちゃったから(爆)スルーしちゃう。
こんなにも艶の人生を振り返って見せたのは、彼女の死に際して、呼んでおくべき人がいるんじゃないかという、田畑智子扮するナースの思いやりだったんだけど。
ダンナの松生も血のにじむ思いで、艶の過去の男に連絡をつけてきたんだけれど、でも、結局、艶の通夜(このシャレは絶対、ネラいだよね)に訪れた“過去の男”は、いなかった。

松生は、自分こそ今にも死にそうな、死神のように痩せこけて、艶の過去の男に、意地のようになって連絡をつけた。しかし、艶の通夜に、誰も、こなかった。
冗談みたいに、椅子だけが並んで、経をあげてくれた坊さんを見送った。結局、過去の男は誰も来なかったんだ、俺だけがお前を愛していたんだ、ざまあみろ、と、棺の中の艶に、幽霊のような顔で松生は言った。
そこに思いがけず訪れた遅い弔問客。それが、田畑智子と、松生にやたらまとわりついていた男の子。この男の子の存在はまるで天使のよう、妖精のよう。松生にパソコン、メールのやり方を教えて、艶の過去を引き出すことが出来た。ほわほわしたパーマ頭の、妙に世間ずれした子。

最後の最後に田畑智子との親子関係が明らかにされるから、母子家庭なのだろうが、ソコに至るまでの何たるかとかまるで判らず、ただ……。
やっぱりやっぱり、田畑智子、そしてもしかしたらこの男の子も、オリジナルにはなかったんじゃないかなあ。だって、優しすぎるもの、希望が持てちゃうもの。
田畑智子の愛くるしさには、いつだってキュンとくる。リアルな、愛くるしさ、なの。ツクリモノじゃないの。なんか、上手く言えないけど。

哀愁漂うテーマ旋律のリフレイン。アコーディオン音は、そうか、コバか。こんな何度ものリフレインで贅沢に使うなんて、それこそ映画の醍醐味! ★★☆☆☆


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