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横道世之介
2012年 160分 日本 カラー
監督:沖田修一 脚本:沖田修一 前田司郎
撮影:近藤龍人 音楽:高田漣
出演:高良健吾 吉高由里子 池松壮亮 伊藤歩 綾野剛 井浦新 國村隼 堀内敬子 きたろう 余貴美子 朝倉あき 黒川芽以 柄本佑 佐津川愛美 江口のりこ 眞島秀和 ムロツヨシ 広岡由里子 渋川清彦 大水洋介 田中こなつ
ブレイクの大きなきっかけとなった朝ドラで、今はすっかり好青年のイメージがあるのかもしれんが、今までは決してそうじゃなかった、じゃない?
「南極料理人」での、それまで見たことない高良君で大いに驚いたから、そんな起用の仕方をする監督さんにも大いに驚いたから、それを貫いた本作で高良君がほのぼのと主演を張っていることに、なんとも嬉しく感じたのであった。
それでも、原作ファンならこの世之介に高良君というのは、結構意外と思うのかもしれない、と思う。だって基本、高良君はとても美青年だし、こんなダサ目のぽーっとした青年には似合わなそうじゃない。
それこそ彼と友人になる池松君の方が、人懐っこくて純情そうな風貌がそれっぽいから、いわば逆転したようなキャスティングに驚くんだけど、でもこれが、妙にハマってるんだよね……。
こういうイメージと思うキャスティングって、結局は素人考えなんだろうなと今更ながら思う。もちろん芝居力というのもあるけれど、世之介が高良君で、倉持が池松君だからこそ絶妙なのだ。
それを言ったら天真爛漫、ハッピー全開のお嬢様、吉高嬢はようやくここに辿り着いたか!とフル満足するほどにピッタリだけど。
ここでは何度も言ってたけど、彼女を最初に見た(厳密には最初じゃなかったみたいなんだけど、どうもおぼえが悪くて(爆))、「蛇にピアス」があまりに似合わなかったからさあ。
尺を見た時は、えっ、160分!?と正直腰が引けたが、80年代の時間軸と現在とをゆるゆると行き来する構成に、リラックスして臨める。
原作は当然未読だが(もうちょっと小説読まなきゃな……)、いくつかパターンが組まれた予告編の一バージョンで、あ、世之介、後年死んでしまうんだ……皆に好かれた世之介を、皆が懐かしく、いとおしく、笑顔で振り返る物語なんだと、もう判ってしまう、のは、良かったのかなあ……と最初からなんか身構えて臨んだんだけど、頭の片隅にそんな思いを残しながらも、それだけに、本当に、いとおしく、見てしまった。
でもこの設定、ビックリした。カメラマンとなった世之介が死んでしまったその理由は、線路に転落した女性を助けようとしたから。そして一緒に助けようとしたのは韓国人留学生。その事故は、記憶にあったから。
外国から留学してきて、こんな優しさで亡くなってしまって、申し訳ない、なんと人として尊い人なんだと、まあ日本人らしく思ってしまう一方で、それはつまり、もう一人いた優しき日本人の死を少し薄めさせるような気はしていた。
で、この事故の、そのもう一人の優しき人、え、これって、ひょっとして事実を基にした話なの?原作者がもう一人の優しき人を取材して小説に仕立て上げたの?
検索してもどうも出てこないのよね……気になるー気になるー。だってそう言われれば、カメラマンの人だったような気もするし……。
この決着点がどうにもモヤモヤするけど判らないので先に行こう(爆)。物語の冒頭、世之介が降り立つ新宿の、大型看板が若き日の斉藤 由貴なのを見て、そうか、これはその当時の物語なんだと、まあ前情報はいつものように入れてないからさ、そうかそうかと。
斉藤由貴に気がついて、ならば!と通行人に目を凝らしてみると、見事なまでに当時の人々。大きなフレームのメガネ、妙に丈の短いボディコンスーツ、チェックのシャツをパンツにイン(は世之介がまさにそう!)。
まるでゲリラ撮影のようにナチュラルな駅の雑踏なのに、こーゆーあたりは商業映画はさすがだなーっ。
そう、電車も優先席ではなく、シルバーシートと当時は言っていたしな……と思いつつ見進めると、世之介はザ・貧乏アパートに辿りつき、隣は目覚ましがリンリン鳴り続ける「中で人が死んでいる」というウワサの部屋。
その隣はスッピンの江口のりこが台所の小窓から顔を出すという、もうそのシチュエイションを思い浮かべるだけでインパクト大!結局世之介は、彼女の作ったシチューを「え、ホントに食べるの?」と言われつつ、お呼ばれしたんだろうか……。
後に江口のりこに「なんか、隙がなくなった。いや、あるんだけど、前よりなくなった」とやはり小窓から顔をのぞかせて言われる世之介は「成長したんですかね」と笑顔をほころばせる。
今思えば、それは観客に見せる世之介の、最後の顔だったように思う。……違ったかな?(テキトー)。とにかく、それを思うと、切ないの。
世之介は長崎の港町から出てきて、東京なんていう大都会で、大きな大学で、いろんな人との出会いがあって、それは世之介にとって東京っていうキラキラがあって、決して世之介は汚れないんだけど、でもそれでも、“成長”してしまった世之介がほんのちょっとだけ、切なくて。
世之介が進学したのは法政大学。武道館での入学式から彼の大学生活は始まる。入学式での学長?の長々としたあいさつに居眠りこきかけていた倉持が、ぽーっとした顔ながらじっと聞いていた隣の世之介に声をかける。
この法政は第一志望じゃなかった、早稲田を受けたけれど落ちたというのが「俺と同じだ」と世之介にシンパシイを感じたらしい彼は、来年にはまた早稲田にトライしようと思う、と言う。
……法政みたいな凄い大学に進学できて、だけど早稲田に落ちたからここに来た、みたいなこと言うなんて、でもこのハイレベルで受験する人たちにはそーゆーもんなんだろーなーと、記念受験(という言葉も懐かしい……)さえ恐れ多かった私はついつい苦々しく思ってしまったり……。
うー、でも私のねーちゃんは出来が良くって、それこそ法政大学ですっ。武道館で入学式なんて話をまぶしく聞きましたですよっ。
……ちょっと私情を挟んでしまったが。80年代に大学生というのは私の世代よりはちょこっと上になるけれど、今まではなかなか描かれなかった、いわば中途半端な世代、だと思うのよね。
なんか、ゆるっとしてて、言ってしまえば大きな目的意識がないというか(爆)、それでもゆるゆる行ってしまえるというか(爆爆)。
その前の70年代、その大学生たち、というのが、学生運動という大きなムーブメントがあったせいが大きいように思う。80年代は大学進学がステイタスではなくなった、珍しいことではなく、容易になってきた時代で、大学進学したという誇りが失われていった年代だったんじゃないかと思う……。
いや、私が大学生だったのは一応90年代だし(ギリギリ(笑))またそこからは大学は出たけれど、なんていう古い言葉がもっと厳しい現実にさらされることになるんだけれども、80年代の大学生はね、少し違ったのかもしれない、なんて思った。
世之介は長崎訛りが抜けないような男の子で純朴そのものだし、流されていろんなところに巻き込まれるんだけれど、結構押し出しも強く、流されて失敗して落ち込む、なんてことはないの。さらりと見てしまうんだけど、この世之介の性格は、実はかなり特筆すべきなのかもしれない、と思う。
いや、冒頭がね、倉持君と、彼と後に出来ちゃった結婚する阿久津唯に巻き込まれる形で、よりにもよってラテンアメリカ研究会(てか、サンバサークル)に入っちゃうじゃない。
正直世之介ってば、気の優しい、流されやすい、田舎育ちの純朴青年なだけじゃんと思ってたの。しかもそれが、劇的にイメージチェンジする訳ではない。それこそ先述したように、「いや、今でも隙はあるんだけど、以前よりなくなった」という程度なのかもしれない。
でも、世之助のことを、彼と知り合った誰もが後に思い出した時に、懐かしさよりも、なんだかフフフと笑ってしまう微笑ましさがあるのは、やっぱり最初から彼は、強い人だったのだ。言ってしまえば、ちょっと図々しい位の(爆)。
学食で足りない小銭を貸してくれた誰かとカン違いしたまま、ムリヤリ友達になった加藤(綾野剛。今まで見た彼の中で、一番良かったな!)が、後に彼を思い出して「(大学には面白いヤツなんていなかったと言われ)そんなこと言った?いたわ、面白いヤツ。お前は知らないんだっけ。横道を知ってるってだけで、得した気分だわ」と思い出し笑いが止まらない。
確かに加藤にとっては、やたら懐かれ、彼がゲイだと知っても特に驚かず、ハッテン場の公園で「だったらここで待ってるから楽しんできてよ」なんてスイカかじりながら言う世之介は“面白いヤツ”なんだろう。
でもね、描写としては世之介は、そういうフレキシブルな魅力はあるけど、そこまでとっぴな面白さじゃないの。だからこそこの尺が必要だったんだろうと思う。小説でも、じわじわと来る魅力があったんだろうと思う。
出会って得。面白いヤツ。こんな風に思われたい。そうしたら、死んでしまっても、こんな風に思い出してくれるじゃない?
世之介は二人の女性に出会うのよね。最初に大学で出会った女の子はちょっといい雰囲気になりそうだったけれど、倉持とデキた。最初に現在の時間軸に持って行くのが倉持夫妻で、“大学時代に出来た娘”が今中学生で、その恋愛事情にヤキモキしている。
彼らが最初にこの構成を提示してくれるというのが、後から考えるとヤハリと思わせる。彼らからこの場所での世之介は始まった。倉持は「あいつが俺たちを出会わせてくれた」と言う。
なんと、唯は覚えてないんである。あんなに印象的だったのに。後の数々の例でも、覚えているのは男の子の方、なんだよね。思い出した時に、ああ、アイツ、面白いヤツだったと笑う。そして後半に行くに従って、ようやく、忘れていた女の子たちも思い出す。
でもそれは、そろいもそろって、何か、涙に暮れている。愛しく思っても、涙、なんである。……これって、ちょっと、結構、キツいかもしれないと、思った。
女は、忘れているのだ。何かキッカケがあるまで、忘れているのだ。でも思い出すと涙する。涙することで、美化されちゃう。まあ確かに男たちも忘れてはいたんだろうけれど、アイツ、面白いヤツだったよな、と笑ってくれるのとは、やっぱり、やっぱり、全然違うと思う。
女はザンコクかもしれない、勝手かもしれない、やっぱりやっぱり。
だって、世之介と祥子の時間はあまりにも幸福だったんだもの。ほっぺたが赤くなってしまうほど純情で、ビックリしちゃうぐらい、純愛だった。
お嬢様の祥子はいとこに呼び出されて運転手つきの黒塗りの車で、繁華街の狭い路地に現れた時から浮世離れしていたけれど、違うベクトルで浮世離れしている世之介に最初から恋に落ちちゃった模様だった。
よろしくてよ、なんて言葉を使い、レースのソックスをはき、白い日よけのお帽子をかぶるなんてお嬢様、エアコンもないボロアパートで、たらいに水を張って足を突っ込み、インスタントラーメンをすすっているような世之介とは正反対もいいとこなんだけど、真逆だからこそか、お互いに素直に興味を持ち合ったのか。
本作のクライマックスといってもいい、祥子が世之介の田舎に、彼の帰省に合わせて遊びに行くシーン。祥子は彼の家族や友人に合わせている風もないのに、だからこそ、気を使っていないからこそ、彼らにすんなりと受け入れられる。とてもいいお嬢さんじゃないの、結婚するのと両親には膝詰め談判されるぐらいなんである。
まあ祥子としては、世之介のかつての恋人がまざっている友人グループの中に入るに当たって、気を使った部分があったらしいんだけど、それもまた、なんとも可愛いんだよね。
しかし驚くのは、この帰省シーンでベトナムからのボートピープルが拘束される場面に二人が遭遇することなんである。しかも、「こんなこと聞いていいのか判らないけど……キスしていい?」と、あの世之介が決死の覚悟で彼女の肩に手を掛けた時なんである。
でもこのシークエンスが、後に大きく効いて来る。必死に赤ん坊を助けてくれと差し出した女性に、世之介が止めるのを振り切って駆け出した祥子、自分は何も出来ないんだと落ち込み、後にこの親子が無事だったことを知って世之介に無邪気に抱きつく。
現在の時間軸で、NPO活動で海外を飛び回っている祥子は、当然この時の経験が彼女をその道に進ませたに違いない。
あの時ダブルデートに付き合わされたイトコと幼い娘と食事をする。どうやらませた年齢になったらしいこの子から、初めて好きになった人のことを聞かれる。
「普通の人だったよ。笑っちゃうぐらい、普通の人。」この段に至って、彼女の台詞に至って、そうだ、世之介は、普通の男の子だったんじゃん、と思う。
“笑っちゃうぐらい”ってところが、加藤が思い出すような「面白いヤツ、いたよ」という部分で、笑っちゃうぐらい普通の人、って、つまりそうそういないのだ……。
キスしていいかと聞いていいかどうか、聞くこともどうかと聞いてしまうほど。流されて入ってしまったサンバサークルに、日射病で倒れてしまうぐらい熱中しちゃうほど。
ゲイだと聞いて「え、じゃあ俺が好きなの?」とそこはカン違いしてうろたえても、そのカン違いが解消されると全く気にしない……あたりから、これが普通だったらいいのに、そうは出来ない私らに突きつけられる世之介ならではの魅力が出てくるんである。
友達が彼女の妊娠で学校をやめ、「俺に出来ることなら何でも言ってよ。金?いいよ、貸すよ、どうせ俺あんま使わないし」と、友人がうろたえるほどあっさり言ってしまう、これが普通のことだったら、こんなに皆、世之介を笑顔で振り返ったりしない。
それぞれがほんのちょっとのことなのに、それは相手が、これ以上なく望んでいることを、世之介はあっさりとやってのけるのだもの。
祥子と過ごしたクリスマスイブ。三角帽子とクラッカー、キラキラモールの飾りつけをあっさりやっちゃうあたりも、まさにそう。
雪が降り始める、なんて、さ。あまりに出来すぎじゃないの。祥子とは彼女がスキーでケガした後に二人で過ごす、つまり、世之介が彼女と愛し合いたい気持をストレートにぶつけるシーンもメッチャ印象的なんだけど、でもやっぱり、このクリスマスシーンだよなあ。クレーン撮影も気合入ってるし(爆)。
まあ正直、この雪は粉雪にしても固まらなすぎて(それに東京の雪じゃ、粉雪はないよなー)、ツクリモノすぎてガッカリだったけど、ガッカリしてしまうほどに、つまり、いいシーンだったのよ、ね。
後に、すっかり大人の女になった祥子に届けられる、ピンボケやらハレーション気味やら、知らない女性の自転車の後姿やら、不機嫌そうなおまわりさんやら、産まれたばかりの赤ちゃん、その名前も覚えがなかったり、なんていう写真が、そのままソックリ手渡される、のが、その理由が、遺品というにはザックリしすぎてて、なんじゃこりゃと思ったら、ラストに大きな愛しさを爆弾のようにしかけてくるんである。
ズルい、ズルい、ズルい!!恐らくこれが二人の最後の邂逅。祥子がフランス留学に行くのを見送る世之介。しかしほんの二週間の短期留学である。本人たちも、観客も、まさかこれが最後になるとは、思わない別れである。
祥子はカメラを持ち始めた世之介(それをもたらした隣人、井浦新がまた全然違うイメージで良い!!)に、これが最初のフィルムなら、それを見る最初の女になりたい、と頼み込む。そんな大げさなモンじゃないと笑いながらも、世之介は、祥子が帰ってくるまで押入れに閉まっておくよ、と約束する。
見送られるのは苦手だからと、空港まで行くつもりだった世之介を制し、路線バスの窓から手を出して大きく振って、「世之介、大好きー!!!」と絶叫するのには、ヤラれた。この時、ハッキリと、明確に判った訳じゃないけど、なんか、説明のつかない切なさが胸に迫り、つまりそれは、彼らの別れ、最後の別れだと、予感してしまったからなのだろうと、思った。
あのフィルムを最初に見る女になりたい、その願いが叶えられるのがそんなにも後になるなんて、世之介が不慮の事故で死んでから、彼のお母さんから送られてくることになるなんて、なぜ予想し得ただろう。
ていうか一体何故、そんなに時間がかかったのか。つまりそれは、この時から二人は会っていない、って、ことだよ、ね?
たった二週間、こんなにお互い好きだったのに、何があったという訳でも、なかったのかもしれない、と思う。二人は若くて、世之介はもうカメラに出会ってしまっていたし、後にNPO活動に没頭する祥子が、フランスで決定的な何かに出会ったのかもしれない。
この時が最後だと思うことが、世之介が後に命を落としたことより歯がゆく思うなんて、よくないことだろうか……。
「南極料理人」で超絶可愛かったきたろう氏、その奥さんがこれまた可愛い余さん、加藤にホレるソバージュと重たいフレアスカートがなんとも時代を象徴してる佐津川愛美嬢、高良君とやたら仲良しなんだという、彼のイトコ役の柄本佑君の、当時のバブリーなマスコミバリバリの胡散臭さにハマるのとか、反対にやたら厭世的になりながらもねるとんに出て有名になるとか、メッチャ判ると思ってなんとも面白いし。
世之介が憧れる年上のカッコイイお姉さん、伊藤歩といい、ガソリンスタンド店長としてほんのチョイだけど、いい人オーラ全開のだーいすきな渋川氏だし……とにかくとにかく、上手すぎない役者たち(誤解を恐れずに言ってます!つまり、上手いってことだから!!)のほんわり感がなんとも絶妙なんだよなあ。いや、そう見せるこの監督の、作品の、雰囲気かしら。 ★★★☆☆