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ベティの小さな秘密/JE M’APPELLE ELISABETH
2006年 90分 フランス カラー
監督:ジャン=ピエール・アメリス 脚本:ギヨーム・ローラン
撮影:ステファヌ・フォンテーヌ 音楽:フィリップ・サルド
出演:アルバ=ガイア・クラゲード・ベルージ/ステファヌ・フレイス/ヨランド・モロー/マリア・ド・メデイルシュ/バンジャマン・ラモン/ロリアヌ・シール/オリヴィエ・クリュヴェイエ/ヴィルジル・ルクレール/ダニエル・ズニク/ジャン=ポール・ルーヴレ/パトリック・ピエロン
勿論、そういう匂いは日本の少女モノにだってあった。でもそれはいい意味で、やはり奥ゆかしく、それこそ“萌え”とはそういったニュアンスをさしていたのだろうと思う。
この、フランスの少女は、萌えなんて段階はとっくに超している。いや、最初からそんな概念は、ないのかもしれないと思うほど。
この少女は、最初から女なのだ。女である自分を最初から、判ってる。
女である自分を判っていない少女が、萌えという愛らしさを獲得するのが日本的少女であるならば、その無自覚なセクシャルさが大人たちによこしまな感情を抱かせるのならば、この“本場”の少女たちが持っているのは、最初から手管として使う女の武器なのだ。
それでもやはり、ベティは特殊な環境にいたと思う。
彼女の住む豪邸と言っていい一軒家はうっそうとした森の奥にあって、しかも分厚くて高いコンクリの壁で囲まれていた。
その塀には重いドアがついていて、ある時ベティは開けっ放しになっているそこから塀の外に出てしまう。
だだっぴろい草原の中で、不自然に転々としている人たちは、何か、違和感があった。異様な雰囲気といってしまったら、言い過ぎかもしれない。ただ、何かが違った。
それは、ベティが彼らと違う種類の人間であることを、即座に嗅ぎ取ったからなのかもしれない。
まるで、異物を確かめにくるように、青年がベティに足早に近寄ってきた。
ベティはおののいて逃げる。急いでドアのこちら側に逃げ帰って、カギをかけた。
ドアの向こうは、精神病院の敷地で、ベティの父親は、その病院の院長なのだ。
その病院から、ひと言も言葉を喋らない中年の女性、ローズが、ベティの家に家事をしにきている。
何か、衝撃的に哀しい出来事があって、記憶と言葉を失ってしまった彼女は、それだけに他の感覚が研ぎ澄まされていて、この家の、特にベティの変化を敏感に察知して、時には騒ぎも起こすんである。
ローズの存在は、ちょっと気になる。いくらこの病院の院長だからとはいえ、リハビリの意味もあるとはいえ、なぜ彼女をこの家に家政婦として来させるのか。そのことに、父親が随分こだわっているような気がして。だって、妻は明らかにイヤがっているし、ベティも不安定な年頃の少女なんだもの。
この父親と彼女が、何かがあったのだろうか、なんてうがちすぎだろうか……。
少なくともローズの存在が、ひとりぼっちの少女であるベティの心にさざなみを起こすのは必至なんである。
冒頭、ベティはまだ、一人じゃない。いや、一人になる決定的なエピソードから始まると言うべきなのか。
大好きなお姉ちゃんと、廃屋となっているお城のような家に、探検よろしく侵入しようと試みたのだ。
それはほんの、遊び心に過ぎなかったと思う。持ち主が次々と死んで、幽霊屋敷と噂されている、なんて、いかにも夢見る少女が好きそうな怪奇譚。
誰もいないはずのその家のドアが、風のいたずらか、蝶番がイカれていたのか、ギギイと開いたのを見て、お姉ちゃんは妹を置いてさっさと逃げ出した。ベティも必死に後を追った。
あの時が、“親友”だった筈のお姉ちゃんとの決別だったかもしれない、と思う。お姉ちゃんは寄宿学校に戻っていった。彼女にとっては妹とのお遊びよりも、都会の友達との学生生活の方が大事なのだ。
もう子供じゃないんだから、とお姉ちゃんは言った。つまり、妹のベティはまだ子供だと言っているようなものだ。
でも、果たして、そうだろうか……。
ベティはあの時、あの幽霊屋敷のドアの向こうに何があるのか、入ってみたかったんじゃないだろうか。なんたって精神病院のドアの向こうに入っていった少女である。
そこまでの覚悟があったであろうことは想像に難くない。お姉ちゃんが先にきびすを返してしまったから、後に続いてしまったけれど……。
自分の知らない、ちょっと怖いような、未知の世界に憧れるのが、お姉ちゃんの言う“子供”の世界なのだとしたら、大人は単なる臆病者だ。
お姉ちゃんは、その強さを失ってしまった。そして、“親友”を失ったベティはたった一人、孤独の試練に放り込まれるのだ。
思えばベティは、いつだって真実を見つめ続けてきた。幽霊屋敷の真実をつきとめずに、こんなことに興味を持つのは子供のすること、と逃げ帰ったお姉ちゃんの替わりに、彼女は恋した青年との終の棲家を目指したのだし、両親の不仲にも、直面せざるを得なかった。
ひょっとしたらお姉ちゃんはそれが見たくなくて、もう子供じゃないってな言い訳を口にして、この家を出たのかもしれない。その点、お姉ちゃんはベティよりも女の先輩。それを本能的に察知していたんだろうと思う。
そんな時、お父さんの病院から一人の患者が脱走する。他人に危害を加える危険はないけれども、自分をキズつける恐れがあると、病院側は必死に探し回っていたけれど、見つからなかった。
そりゃそうだ。ベティがその青年、イヴォンを庭の茂みに見つけ出し、物置同然に打ち捨てれらている納屋にかくまったのだもの。
いつもベティが一人で遊んでいた場所。ガラクタたちもどこかブキミだった。打ち捨てられた人形の目からクモが這い出したりして。
それでもベティはここが好きだった。いわばここが彼女の城。だからこそ、彼女は自信を持ってイヴォンをここにかくまえたのだ。「私が守ってあげる」と、彼女の中の母性本能が芽生えた。
そして、後にはベティではなく、エリザベスと呼んで、とまで言う。その時彼女は母親の気持ちだったのか、女の気持ちだったのか……。
ベティはもともと救い出したいと思っている犬、ナッツがいて、ナッツはなんだか恐ろしげな男の元で“保護”されている。
予防注射をするのなら、ここから連れて行ってもいいと言われて、何度も父親に談判しているんだけど、何たって離婚の危機で頭がいっぱいの父親は、娘の必死の訴えになかなか耳を貸してくれない。ベティは守りたい存在が守れないことに相当のストレスを感じてい筈。そこに現われたのがイヴォンだったのだ。
父親は、大人しい子犬を飼おうと言った。ベティがナッツがいい、ナッツじゃなければダメだと言っても、聞き分けのない子供、みたいな目で見下ろすばかりだった。
大人しい子犬だなんて。それって、感情を剥き出しに出来ない。素直な心を言えないってことなのに。そしてベティにもそれを強いているってことなのに。
ベティは元々、口数の少ない少女だったのだろうと思われる。というか、手のかからない子供、と言うべきか。
イヴォンから親の目を欺く為に、ベティが街に買い物に出かけたいと言うと、母親は目を丸くするのだ。
そんなことを、ベティは言ったことがなかったから。それでやけにはしゃいで、これからもお母さんと買い物に出かけましょうね、なんて言って。
それは、母親が、今までこの娘が手の内にいなかったことに、この期に及んで気付いたことを示しているようにも思えて切ない。そういえばこの子と一緒に買い物に来たことなんてなかったワ、みたいな。
でも、母親のそんな喜びとはウラハラに、ベティ自身は買い物に来たかった訳じゃなかったのに。
でも思いがけず、今まではいたこともないような女の子らしいスカートを買ってもらった。ベティはそれを身につけてくるくるとバレエダンサーのように回って、彼女こそがやけにはしゃいでイヴォンに見せるのだ。
オシャレした姿を男性に見せるなんてこと、見せたいなんてこと、ベティにとって初めてのことだったに違いない。それがセクシャルな意味を持つってこと、勿論ベティは気付いていない。
珍しくここにはそうした“無意識の萌え”があるけれども、誰にも知られない、じめっとした暗い納屋の中で青年と二人きり、というシチュエイションは、そうしたピュアをなぎ倒すほどのセクシュアリティがあって、胸がざわめくのだ。
一方でベティは、同級の男の子にヒドく傷つけられもするんである。
ベティは学校でも孤独である。いや、別にいじめられているとか、殊更に教室で一人でいるとかいう感じではないんだけど、自分と真に価値観を共有する友にめぐり合えていない感じなんである。
まあ彼女の深い闇を考えれば、無理からぬことでもあるのだけれど……。
そんな中、転入生がやってくる。頬から首にかけて真っ赤なアザのある男の子、カンタン。
その異様さに教室中がざわめき、当然のようにクラスメイトは彼に近づかないんである。
一人、ベティだけが彼に接触を図る。それは、彼の、ほかの子供たちとは違うゆえの孤独に共感を得たのか、それともそのアザに惹かれたのか。
アザに惹かれた、と感じたのは、それは子供が感じる純粋な好奇心っていうのもあるんだけど……やっぱりアザっていうのも、セクシャルなんだもの。
気になる、目が行く、触れたくなるというだけでも充分に魅力があるってこどだし、白磁器のような白い肌にくっきりと赤い、炎のような形のアザっていうのが、なんかやっぱり……セクシャルな魅力を感じてしまうのだ。
それがまだ、そんな世界には遠い、無頓着な少年であることが逆に、“超萌え”な感じで、ビンビンきちゃうのだ。
だけど、ベティは、半分は無意識だったかもしれないけど、そうしたセクシャルを感じた上で彼に惹かれたんじゃないかと思うのは……やっぱり女の子の方が成長が早いし、両親の問題もあったから。
ベティは両親のケンカの会話で、母親がウワキ相手に関して言った、「新しい関係を最後まで見届けたい」という言葉が、焼きついていたのだ。それってつまり、それってつまり……。
父親はひたすらに復縁を希望していたけれど、母親は愛人との関係の“経過”こそを大事にしていたのだ。“恋愛の経過”っていのは、つまり大きなウエイトを占めるのはつまり、セックスってことなのだ。
ベティは、判っていたと思う。その意味するところを、深いところまで。だって、フランスの女の子なんだもの。
判っているっていうことは、それは成長しているってことじゃなくて、子供の心にとってとてもキツイことなのに。親がそのことに気付いてあげられないなんて。
この、常に人がいない、闇の部分が多い屋敷が、孤独をいやがおうにも盛り上げる。
開かずの間もあるのだ。それこそドアの蝶番が壊れて、半開きでギイギイいってる。そのドアの闇に、ベティはいつも吸い寄せられていた。
ベティは闇の魅力にとりつかれていたのだ。それだけ同級生たちよりお姉ちゃんより、もしかしたら両親よりも、成熟していたのかもしれない。だから、幽霊屋敷にも、怖さよりも蠱惑的な魅力に惹きつけられていたのかもしれない。
そう、あのアザのあるカンタンね。彼はベティのことを判ってくれると思っていたのに。彼もそのアザのせいで、孤独の闇にさいなまれていると思ったのに。
でも違った。逆だったのだ。彼はベティのお姉ちゃんと同じ方向で、人生の舵取りをしていたということなのだ。
でもそれは、致し方ないことなのかもしれない。あのアザは、子供にとっては辛すぎる。世間渡りが上手になった彼の、血反吐の出るような努力を思うと胸が痛むほどだ。
でも、カンタンのアザに魔力を感じてしまったベティは、傷ついてしまった。彼の囁いた、満月の深夜に採取したオシッコが、魔法の呪いをといてアザを消すというウソを信じてしまって、クラス中から嘲笑されてしまった。
確かにそんなウソを信じたベティが、愚かだったのかもしれない、幼かったのかもしれない。
幼かった?でも、お伽噺を信じなくなることが、大人になることなのだろうか。だってお伽噺は時として、基本的に、人間社会の恐ろしさ、残酷さを突いているではないか。
私には、ベティをあざ笑ったカンタンやクラスメイトたちの方が、哀れに思えた。
確かにこの場面、ベティと心を分かち合えたと思ったカンタンに裏切られたショックが大きかったけど、ああ、ようやく同志が見つかったのにと思ったショックの方が大きかった。
それを救ったのが、ベティがかくまっていた精神病院の患者である青年、イヴォンだったのだ。
確かに造形的に、見るからに、精神病院に収監されていそうな青年ではある。言葉は喋らないし、おびえているし、しぐさが幼くて、危なっかしい。
でも、それが患者だとか、子供だとかいうことなのだろうか。
イヴォンはベティと心を通わせる。心配していたような、青年の身体を持っているから生じるかもしれないなんて危惧していた修羅場もない。彼はベティに対して本当に純粋な信頼を寄せるのだ。奇跡的な程に。
危惧するなんてことが、愚かで浅はかで恥ずかしいことなのだということを思い知る。
判らない、でも、そのあたりの微妙なことは。人間がいわゆる“常識的な概念”を覚えて、自分の本能に気づくのか、あるいは、本当に、ただただ、本能に任せて異性に襲いかかるのか。
そんな風に考えるのは、人間に対して過大な期待や信頼を寄せすぎているのかもしれない。ただ、イヴォンが、明らかに好意を寄せているベティに対して、そうした態度を示さなかったから……そりゃベティはそういう対象になるには幼すぎるのかもしれないけど、その目は明らかに恋を知った女の目だったし。
それに多分イヴォンは、こんな風に心を病む以前は、普通に青年としての生活を送っていたんじゃないかと思うし。
でも彼の目は、まるでベティに全てを託しているような子犬のような目は、そんな邪心はまるで感じなかったんだよね……。
イヴォンをかくまっていた納屋を片付けられることになって、ベティは彼を外に出すことを決心する。
なんかね、ちょっと、おままごとのような感じも正直、あったかもしれないんだよね。食事を運んで、トイレの心配を忘れていたことに直面したりして。温かいコーヒーを運ぶことに腐心したり、嵐の夜に心配しながらも駆けつけられなかったり。
でも、おままごとっていうのはつまり、家族を世話することをしたい、っていう欲望の遊びなんだもん。
それが、たった一人の伴侶に向けられているっていうのが、すっごい、生々しい気がする。
月のきれいな晩、イヴォンを港に通じるバスの出る三叉路まで送っていく場面は、本当に真の闇で、月だけが出ていて、真っ暗なのが現実味を失わせて、だから二人の純粋さがすんごいあぶりだされてて、たまらないのね。
ここが永久の別れかと思いきや、やはりと言うべきか、彼はベティの元に舞い戻ってくる。
それは、刷り込みをされたヒヨコのようでもあり、もう大人なのに外で生きていけなかったことを示唆しているようでもあり。どっちにしろ、哀しいのだ。
でもベティは、彼が自分の元に戻ってきたことに素直に喜ぶ。それは、あのカンタンの非道な仕打ちもあったからだけれど。
二人は手に手をとって、あの廃屋のお城に向かう。
その前にね、ベティは自殺を試みていたのだ。でも、死にきれなかった時にイヴォンが帰ってきた。まさに、運命だった。
少女の自殺というのも、(誤解を恐れずに言えば)萌えなんだけど、なぜそれが萌えなのかといえば、少女が自身の強さに無自覚だから、なんだよね。
ベティが間一髪、死に切れなかったのは、彼女が自身の強さにそれこそ間一髪、気付いたから。ベタな言い方だけど、彼女が愛する、彼女だけが理解して愛せる青年の存在に気付いたからなのだ。
でも、ベティが彼と添い遂げられるのかどうかは……。
ベティはイヴォンとあの廃屋に向かう。少女らしいつましい準備をして、まるで世界中からの逃避行のように。
でも、アッサリ家族に見つかってしまう。お姉ちゃんと探検した廃屋だったし、そのあたりは確かに浅はかなのだ。
でも、フラフラと屋根に登ったイヴォンを追いかけて、助けようとして、逆に自分が足を滑らせて彼に助けられて。
この時家族はこの“危険な青年”からベティを引き離そうと駆けつけていた訳で。こんな事態を招いたけれど、恐らく“常識的”な家族は、ベティをこの“患者”である青年から引き離すに違いなくて。
なんか、なんか、なんか、とてつもなく、切ないのだ。
どこに、人生の幸福を見つければいいの。
ベティがこの後成長して、イヴォンのことも遠い思い出にして、それなりに恋愛してそれなりに結婚をするなんてことを予測しちゃうと、じゃあ、少女期の、何ものにも替えがたいあの想いは、なんだったのと、どうすべきなのと。
大人になるって、全てを単純化することなのかと。
「デルフィーヌの場合」といい、この監督は少女を撮らせたら一種の天才だと思う。なんだか危険なぐらいに。
それこそベティが成長して、デルフィーヌのような別種の強さを持つ可能性があるということなのだろうか……。★★★★☆
でもそれをハズして考えても……なぜ彼女だったんだろうと思ってしまう。度胸のよさ?でも今時脱げることぐらいが問題じゃないでしょ。あるいは監督に自分のオッパイを見せてあげたことなのだろうか。いやいくらなんでもそんな程度でなんてあり得ない。もしそうならば、本気で監督を軽蔑する。
むしろそういう脱ぎそうな雰囲気が、最初からない女の子の方が良かった気がする。大体、稲川淳二と間違えたりって、それ藤原竜也のオーディションの逸話と同じじゃん。よもやパクったわけではなかろうが……。
なんかね、同じく赤裸々な(ヘア)ヌードで映画デビューを鮮烈に飾った鈴木砂羽姐さんなんかを思い出してしまったんだよね。彼女はまさに、その度胸で話題をさらい、しかしそのイメージに溺れず、その後の女優生活も実に堅実に歩んでいる。
でもあの登場は単にハダカのショックではなく、こんなふてぶてしい存在感の新人が突如出てきたというショックだったのだ。演技もあの時は荒削りだったかもしれないけど、有無を言わせぬオーラがあった。
で、果たしてこの吉高嬢にそれがあるかというと……まあ今後の彼女がどういう道を歩んでいくかは判んないけど……なんか、それを感じなかったんだよね。
しかしこの役自体は、それこそ鈴木砂羽が演じたSMの女王様と比べれば、ある意味フツーの女の子、と言ってしまってもいいのかもしれない。
いや、この時代だからこれがフツーになるんであって、私のような古いアタマのオバチャンの目からしたら充分にセンセーショナルではあるけど、でもこの物語が最終的に純愛ともいえる感情をクライマックスに持って来ることを思えば、やはりそうなのだろうと思う。
でもだからといって、存在感がなくていいということではないと思うし、何よりそう、純愛がクライマックスになるなら、その泣きのシーンがこんなとってつけたようにお寒いものじゃ、観客は引き潮のように遠のいていくばかりだ。なんか心の中で声にならない不満をブツブツとつぶやくばかりだったのだ。
原作のテンションが、素晴らしかったせいもあると思う。展開はシンプルで、それが映画化に際して物足りないと言われることもあるかもしれないけど、それは筋違いだし、それを映画化の失敗の原因みたいに言われるのはもっと筋違いだと思う。
シンプルなだけに、ごまかしようのないものがある。登場人物に共感が出来るとか出来ないとか、そんな瑣末なことではないのだ。
それこそ、生身の役者が演じ、生身の監督が演出する映画には、カンタンにそんなことが言われてしまうけれど、この映画にそれが言われるのは、原作者の責任は微塵もある筈がないのだ。
現代のトップを疾走する作家に、こんなことを言うのは失礼かもしれないけど、やはり刺青や肉体的痛みがつなぐ肉欲、それが生み出す以上とも言えるほどの純粋なる愛という要素は、即座にわが敬愛する作家、谷崎潤一郎を思い出してしまうんである。
この小説の、改行の殆んどない息詰まる様な体裁も、更に言っちゃえば作家自身のふてぶてしいほどの自信満々なキャラでさえ、谷崎を想起させるんである。
ふてぶてしいのは原作のヒロインではなく、作家自身だったんだと思わせる。彼女が蜷川監督を指名し、そして主題歌の作詞にまで顔を出している。思い入れはあったんだろうと思うけど、このヒロイン選定に関しては彼女の意見は介在したんだろうか?
もちろん、映画は原作とは別物。そのことは常にアタマにおいておかなければならない。
蜷川監督も、むしろそのことを一番念頭に置いて臨んだんではないかと思われるほど、原作のぴんと張った糸が切れそうになっているようなテンションとは全く違う、静謐な世界観を生み出している。
それを最も体現しているのが声だけでイッちゃいそうな静の俳優、ARATAであり、このシバさんという超ヤバいドSなキャラに彼がキャスティングされるのは驚きなのだけれど、まず形から入っていった彼の姿があまりに異様だったんで、もうそんなことも頭からすっ飛んでしまった。
何か痛々しさを感じさせるほどつるつるに剃りあげたスキンヘッドの後頭部には鮮やかな龍のイレズミが浮かび、眉もそり落とされ、顔じゅうにまるで原住民族のような象牙チックなものやら石様のものやら針様のものやらで、痛々しくピアッシングされている。ことに耳たぶを大きな穴で貫いたピアスは目を引く。
彼は、こんな様であっても、でもルイの憧れるスプリットタンには難色を示す。
「人間の形を変えていいのは、神だけだと思っているから」
その言葉にルイは大きく頷いた。最初の出会いから、ルイは彼が、その神であることを、嗅ぎ取っていたに違いない。
ARATAは、蜷川監督が原作から一変して怖いぐらいの静かな世界観にした、その主導権を握っている。静かなだけに、シバさんの秘められた恐ろしさ、そしてラストに暗示される恐るべき謎はよりインパクトが強くなる。
この物語にはちょっとした脇役を除いては、三人しかメインの登場人物はいなくって、あともう一人はルイを盲目的に愛しているアマである。
彼こそはちょっとバカッぽいキャラであり、だからこそ純粋で、アマのことを心のどこかでバカにしていたルイが、彼がいなくなって初めて彼のことを“愛していたかもしれない”と思い当たる人物である。
そう、バカに見えるのは、アマだけでいいのだ。そんなアマを高良健吾は非常に的確に演じている。彼自身は決してこんなバカっぽいキャラではないだろうことは、他の映画で見せた演技で判るし、むしろ堅実な役者だと思う。今後が楽しみな若手俳優。
アマのスプリットタンに魅せられたことが、ルイの人生を大きく転換していく。スプリットタンとは、ヘビやトカゲのような先端が分かれた舌のこと。舌の先にあけたピアスの穴を徐々に“拡張”していくことで、最終的には先端を切り離して完成する、究極の肉体改造。
思えば“アマのスプリットタン”だったんである。なぜこんなに血が騒ぐのか、とルイは述懐する。まあ劇中の吉高嬢演じるルイが、そこまでの説明のつかない執着をどうにも感じさせないのが致命的だとしても(爆)ルイはアマのスプリットタンにこそ惹かれたことを、恐らく彼が死んだ時に気づいたんじゃないかと思う。
それが証拠に、アマが死んでしまってからは、その執着からは離れてしまった。一度はデンタルフロスで切り離そうとも試みたけれども、やめた。ブザマに大きな穴がそこにぽっかりとあくばかりだった。
ルイに舌ピをほどこしてくれたのが、アマの信頼も篤いシバさんだった。その代金代わりにルイをサディスティックに抱き、その後もずっと関係を持ち続ける、冷たい目をした男である。
自分がSでありことを公言し、会ったその日にルイに「首にニードル刺してえ」と言った男であり、ルイとセックスする時はいつもベルトで彼女の手首を縛り、首を締めて、その苦しそうな顔で勃ってイく男。
そして、「こんなに殺意を持った人間は初めてだ」とルイに言い、「お前が死にたくなったら、俺に殺させて」という人間。一歩間違えれば、犯罪者に容易に転落する危険な男。
いや、とっくの昔に、犯罪者だったのかもしれない。ルイに「シバさん、人殺したことある?」と聞かれて、「そうだな……気持ち良かった」とあっさりと言うような男である。それになにより、アマを壮絶にリンチして殺したのは、シバさんなのだ。
原作の中でもなかなか窺い知れない、アマとシバさんの本当の関係。
いや、本当の関係なんて、本当にはなかったのかもしれないけれど、ただルイは、シバさんが両刀使いだと聞いた時から、アマとシバさんの濡れ場を夢想し、美しいかもしれない、と思っていた。
ただおかしいんだけれど、何たってシバさんはドSなんだし、ルイが夢想するような美しいセックスなんぞで留まる訳はなくて、案外ルイに対するそれは、紳士的だったかもしれないのだ。
シバさんがアマを殺した(とすればだが。……状況証拠が揃っていたとしても、いわば重要参考人である彼が全く容疑者にあがっていないのだから)方法は、あまりにも凄惨だった。身体中につけられた無数のタバコのあとや、両手両足はがされた爪も、全て生きている間にやられたもので、結果的に首を締められて死に至った。
その間、シバさんは何を考えてそんな行為に及んだんだろう。そしてその間、アマはどんな顔をしていたんだろう。
思えばこのスプリットタンだって、アマのキャラからはこんな恐ろしいことを彼自身の強い意志で出来るとも思えない。アマはバカッぽい単純さでそれを子供のように自慢して見せたけれど……でもそれを施したのはシバさんであり、シバさんは、人間の形を変えるのは神だけだと、言っていたではないか。
シバさんは、アマにとっての神だったのか。だから、神が作り出した人間を消し去るのも自由なように、ルイを独占したくなった“神”によって、最上の愛をもって消されてしまったのか。
ならば、ルイだって、そんな気まぐれな神によって消される日が、いつか来るんじゃないか。
ルイはシバさんがアマを殺したのかもしれないと思い当たっても、それでも、「大丈夫」と心の中でつぶやいた。
何が大丈夫なのか、にわかには共感できかねるけれど、でもどこか、彼女の気持ちも判るような気がしたのは、必死に彼女の年頃に確かに持っていたアンテナを思い出そうとしたからだろうか。勿論、こんな壮絶な青春時代を送った訳ではないけれども……。
ビールが主食のルイが、「お前、気持ち悪いぐらい痩せてるぞ」と言われる時点で、ちっともそんな風には見えないのも問題なんだよね。
むしろその後のシーンで、アマが死んだ後の方が、痩せてきているように見える。恐らく役を演じるに当たってダイエットは試みたと思うんだけど、タイミングを過ったとしか思えない。
ここもこの物語ではとても重要な部分で、刺青を完成させた後、どうしようもない無気力に陥るという、いわば第一段階のクライマックスをまるで伝えてはこない。
第二段階のクライマックスがアマが死んでしまうところであり、彼が行方不明になって取り乱すのも、なんか、なーんとなくそのことに気付いて、って感じでさ。
自分でも驚くぐらいのパニックに襲われることで、アマへの愛情に気付く、っていう原作の良さを、即殺しちゃってるんだよね。そりゃまあ、先述したように原作と映画は違うんだって言ったってさ……まあなーんとなくから気持ちが徐々に膨れ上がっていくのを見せてくれるならまだいいけど、彼女にそこまでの力量なんて、だって、ないんだもん。
葬式で警察に毒づきまくるなんて、原作で読んだ時にもちょっとベタになりそうな雰囲気を感じたんだよね。
でも小説では、ヒロイン自体がこんな時にこんなベタな言葉しか出ないボキャブラリーのなさを自己嫌悪して、でも気持ちが抑えられない、そんな相反した感情が鮮烈だった訳なんだけど、ここじゃまんま、ベタなわけ。まんま、バカな女でさ……本当に見てられなくて、もう昼メロ状態でさ。
首を締めても苦しそうな顔をしなくなったルイは、彼女を手に入れるためにアマを殺したかもしれないシバさんに、いつか殺されるかもしれない。
でも一方で、アマがそうした虐待に苦しそうな顔を見せていたからこそ興奮したシバさんが“うっかり”殺してしまったんだとするなら、ルイに対してはどんなに彼女がシバさんを勃たせなくても、アマへの贖罪の気持ちで、彼女を殺すことはしないんだろうか……。
それこそ、ちょっと浪花節な世界かもしれない。ハードな浪花節。
吉高嬢は「紀子の食卓」、「転々」で見てるし、双方重要な役だったけど、名前を覚えるまでには印象に残ってなかった。
それに、そんな声は気になってなかったし、良くも悪くも無難にこなしていた印象だったんだよなあ。
いや、いい意味でだったと思う。双方共に、物語を引っかき回す少女で、それは本作でもある意味通じるのかもしれないけど、サブで引っかき回すのとメインとは、やっぱり全然違うんだもん。
いやそれは、勿論、いい意味で。いわば今の時点での彼女には、メインで引っかき回すほどの力量はないと思うんだよなあ。
むしろ、希望の多かった海外に渡した方が良かった?そんなこと、私が思うなんてさ。
でも、「薬指の標本」とか、海外での映画化に、ぜんぜん日本国内からのやられた!みたいな声なかったじゃない。それは密やかな映画だったけど、でもあれは、日本映画界が嫉妬して思しき、世界観を完璧に表現した映画だった。
それはとりもなおさず、文学の成熟した世界観を、日本の映画作家で表現出来る人がいなかったってことじゃないんだろうか。そしてそれに悔しい意義を唱える人もいなくてさ。
で、今回、これを例えば、フランスなりイギリスなりの若く先鋭な作家が作っていたらどうだったろうと思えてならないのよ。
パッと見のショッキングな描写に目を奪われてしまうけれど、この物語には家族の喪失という重いテーマも隠されていて、だからこそ彼らは哀しく、美しく、時には純粋なのだと思う。それを、それこそを映画で掘り出してほしかったのもある。
蛇のようにくねる電車の繰り返しは、そんな、温かな居場所のないルイたちの、終着点のなさを示しているように見えて、印象的に、美しい繰り返しではあるけれど、でも漠然とした象徴にしか見えない。
金原ひとみが、この完成作品に本当の意味でどう思っているのか、知りたい。★★☆☆☆