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恋に至る病
2011年 116分 日本 カラー
監督:木村承子 脚本:木村承子
撮影:月永雄太 音楽:アーバンギャルド
出演:我妻三輪子 斉藤陽一郎 佐津川愛美 染谷将太
うぅ、そう言ってるあたりが実にトッショリだが。でもさでもさ、やっぱり映画は、その始まりは、基本は、ボーイミーツガールであると思いたい、私は思いたい。
いや本作の場合、彼をボーイと言うのは難しいが、でも呼びたいぐらいチャーミング。斉藤陽一郎、彼のことはずっと見てきているのに、えーっ、こんなにカワイイ彼、初めて見た!まるで初めて見る人みたいだ!
ずっと若きバイプレーヤーで来て、こんなにがっつり主演級はひょっとしたら初めて見るかもと思うけど、そこで弾け飛んだのが最高に嬉しい。それもこんな若い才能の元でさ!
ひょっとして彼の魅力を今までのクリエイターは判ってらっしゃらなかったんじゃないの??と思うぐらい!
いやいやいや、でもやはり、やはりやはりやはり、彼とツイン主演という形ではあるが、やはり主演の第一、メインはこちら、ヒロイン、女の子こそがこの世の最高の存在、ツブラを演じる我妻三輪子嬢のなんと可愛いことよ。いや、可愛いとか、キュートとか、魅力的とか、素晴らしいとか、どんな言葉も彼女を言い表すことが出来ない。
こんなカワイイ子、どこで見つけてきたのっ、と思ったが、フィルモグラフィーを見ると、私彼女のこと結構見てるハズなんだよね。うーむ、自分の記憶力のなさに改めてうんざりするが、でもヒロインで弾ける才能というのは、やっぱり違うのよ。
ああ、私ね、久しぶりに恋に落ちたわ、ひと目で陥落した。「20世紀ノスタルジア」の涼子ちゃん、「大阪物語」のちーちゃん、「うずまき」の映莉子ちゃん、明日美ちゃんといった、数々の美少女女優列伝が脳裏を駆け巡る。
その中で最も躍動感に満ち、コケティッシュで、でもそのプチエロさに自分自身でドンカンなあたりの愛しさがたまらない。このマッシュルームカットもヤバいなあ。確かに佐津川愛美嬢が恋するのも判る判る。
うー、そうなの、もう一組の若き男女、カップルにまではまだ至っていない青い二人もまた、めっちゃ私の琴線をふるわせまくるんだよなあ!
愛美嬢はもうすっかりキャリア積んでるのに、まだ高校生役やれるの?一体いくつよ!という落ち着きっぷり。相手はブレイクなんて言葉で言われるのは心外であろう、こちらもキャリア十分の染谷君だが、でもホント、ブレイクな存在を相手にしても安心感を持って見ていられるのは愛美嬢ならではである。
そうなの、このドライな女子高生、エンが、親友であるツブラに実は恋している、というこの設定、もうこういうのメッチャ好き!そんでもって、そのエンに恋してる染谷君が童貞君で、モヤモヤしてて、でもエンのこと大切に思ってるとかもメッチャ好き!ああどうしよー!!!
……もうどっから話を持っていったらいいか判らない。仕切りなおしせねば。
なんかさー、ちょっと覗いたらユーザーレビュー低くてさ、だからネット評価って信頼できないっ。そう思ってはいても、自分の理解力に自信がないからついつい覗いたりする自分が許せないっ(爆)。私は、素直に本作にときめいたと言いたい。大好きだと言いたいのっ。
でもね、正直なところを言うと、その気持ちが加速したのは、後半になってから、かもしれない。確かにツブラ=三輪子嬢の超絶キュートさにはうっわ、ヤラれた!と思ったけど、設定上、物語が夏休みに入って、マドカ先生に“拉致”された彼女は私服姿じゃない?確かにその姿だって充分可愛いんだけど……冒頭の、制服姿にヤラれちゃったんだもん!!
昨今の今風の制服とか、せっかくキレーな肌なのにメイクしたりとかの女子高生にケッと思うオバチャンの私を久々に陥落してくれた三輪子嬢、夏服だからさ。
冬服は今風なのかもしれんが、夏服の彼女はシンプルな白シャツに紺サージのプリーツスカート、スカート丈も、まあ私らの時代よりはずっと短いけど、短すぎない適度さがいいのっ。
彼女が恋をしているのは、生物教師のマドカ先生。生物教師、白衣という時点でもう充分私的には陥落だが、授業などちっとも聞いていないこのクラスには彼の魅力に気づいている生徒はいない。
……いや、たった一人、ツブラ一人が先生を見つめ、そのクセをノートに書き込んで、私だけが先生のことを判ってる!と、恋の王道。
確かに白衣のクールな先生というんじゃなくて、くせっ毛をぐしゃぐしゃかき回して、私語しまくりの生徒に注意も出来ないマドカ先生に恋するなんて、ツブラは変わり者、なのかもしれない。
ツブラはひとり生物教室にこもってるマドカ先生に積極的に迫り、ついに逆ナンならぬ逆レイプ!……そんなことが可能なのかと字面だけでは思うが、それを納得させてしまうツブラの迫りっぷり。
これは、見せ方、演出力も相当だと思うなあ。男女の構造的に(爆)、逆レイプってのは不可能的だしさ、でもそれを納得させちゃう。
この時にね、三輪子嬢、一瞬だったけど上気した桜色の顔が、うっわ、と思ってさ。この時に、もう、決定!だったかも。何がって、全てがよ!
でもね、先述したように、彼女が制服を脱いでしまうと、ちょっと私は興味が薄れてしまって(爆)サイアクだな……。しかしそんな中だるみ感は、もう一組のカップル、愛美嬢と染谷君がきっちりと補ってくれる。
同じ団地の隣同士に住み、お互いの部屋がベランダに面している彼らは、ベランダ伝いに行き来が出来る。
エンは男性経験も豊富なんだけど、恋愛に真剣になれないドライな女の子。そんなことではダメだと、マルが“ケイハツ”してやる、と申し出る。
実はエンに恋しているマルが、つまり欲望モンモンなのに、彼女が自分に恋してそうしてくれなきゃダメだと思っている純真さが愛しく、染谷君の色白の半裸身がやたらまぶしいんである。
ヤッバイなあ、ヤバいなあ、ちょっと前までくりくりボーズを江口のりこにぺろぺろされてたのにっ。
まあとにかく、彼はそんな風に、性の初期衝動を喚起させるようなウブなエロを持った子なのよね。実際の彼自身は知らんが(爆)。
マドカ先生とヤッちゃったツブラは、動揺した彼によって、今は誰も住んでいない彼の実家に“拉致”されてくる。拉致、という状況なのに、ツブラはワックワクで、自ら携帯電話も車の窓から投げ捨てる。
しかしそこに後からエンもマルもあっさり居所を探し当ててやってくるあたり、全然秘密の場所でもなんでもないじゃん(爆)。うーん、でも、二人がどうやってこの場所を探し当てたのかなあとは思うけど、そんなことをわざわざ思うのはやっぱヤボなのかな?
おっと、最も大事な要素を忘れてた。マドカ先生とツブラは、お互いの性器が入れ替わっちゃう。そのことにツブラはそんなに驚かず、つんつんとつついてみたりして、どうやらボッキしたところをマドカ先生に見られて彼の方がギャー!みたいなところがあるぐらいで。
だってツブラはこのことをずっとずっと夢見ていた。先生と交わって交わって、ひとつになりたいと思って、だから逆レイプみたいにしてセックスした。
でも性器だけが入れ替わるなんてことは、勿論想定外だっただろうし、それでもツブラは幸せそうだったけど、マドカ先生の方が、もうオエッとなるぐらいの拒否反応示しまくっちゃって。
せっかくの“拉致監禁”つまりツブラにとっては二人っきりのラブラブ生活も中途半端でさ、ちゃんと縛って、監視してよ!一晩もがいたらほどけるって、どうなの!と叱りつけるぐらいで。このシーンの不条理なチャーミングも良かったなあ。
そう、チャーミングさはずっと絶えずに続くんだけど、荒唐無稽だし、キッチュでポップな話ではあるんだけど、でも実は、結構深い哲学に基づいているのかもしれない……とも思う。
それは、男の子に対して恋愛感情が持てず、ツブラに対する恋心をずっと言えずにいるエンの存在も、エンのことが好きでたまらないし、セックスしたいとも思っているのに、恋の、好きだという感情を純粋に信じるがゆえに触れられないマルの存在も、後押ししていると思う。
マルなんて、エンの洗濯物の匂いをふがふがかいだだけでテンション上がっちゃって、ベッドをバンバン飛び跳ねちゃうぐらいなのにさ(微笑。男の子だよなー)。
そして勿論、マドカ先生も。彼は恋愛以前に人として、教師として、生徒にマトモな授業も出来てないし、他の教師とのやりとりも出てこずに生物教室にこもりっきり。
まあありていに言えば、そんな描写を入れ込む尺やコストがないだけかもなとも思うが(爆)、でもやっぱり大きな意味があるよね。
それに、だって、生物教師、だもの。後から押しかけてきたエンやマルを欺くために、ここで受験勉強の合宿をしているんだと、いつわりの講義をする場面で、共生、寄生の定義をツブラに講義する場面が、さらりとしているけれど、実はかなり、かなーり重要だったんじゃないかと思う。
恋愛の定義、いやそれだけじゃなく、人間関係全てにおいての定義かもしれない。共に生きる共生、相手に頼りっきりの寄生。
先生と溶け合いたいと思ったツブラの思いは、やはり寄生だった、よね。その思いが性器の交換という中途半端な形で叶えられることになって、苦悩することになるのだ。
ツブラがね、マトモな食事をせずに、ビタミン剤やら栄養ドリンクやらばかりを摂っているっていう設定も、凄く印象的なんだよね。
ツブラに恋するエンはちゃんと食べなよと進言するけど、彼女に恋するがゆえに、強く言えない。ツブラがこんな食生活をしているのは、死んだ後に腐らない身体を作りたい、という理由だというんである。
そういえば、聞いたことがある。最近の死体はなかなか腐らないって。防腐剤たっぷりの食生活してるからだ、って。それを哀しいことだと思って聞いていたのに、それを目指して自らそうする、だなんて、なんて哀しいの。
とはいえ、別にツブラの家庭環境が示される訳じゃないし、それはマドカ先生もエンもマルも、まるでただひとり生きているみたいに示されはしないんだけどさ。
……いつもの私なら、娘が帰ってこないことに家族が心配しないのはヘンだとか、この食生活に母親がひとこと言う場面があってしかるべきだとか、思うハズなんだけど、思わないんだよね、思わせないというか。
勿論、ファンタジックな設定というのもあるけど、ツブラの食生活自体の非現実的さもあるけど、うーん、なんだろう、そんなツマンナイことを思わせずに見せてしまう力がやっぱり、あると思うんだよね。
そう、やっぱり、やっぱりやっぱり、腐らない身体を作るために、なんて理由、哀しすぎる。いや、40過ぎシングルの私的にはかなりその気持ちは判るけど(爆)、こんなピチピチギャル(死語(爆))にそんなこと言ってほしくないし、言っちゃダメだよ!
ベタだけど、素敵な恋愛して、気持ちいいセックスして、可愛い赤ちゃん産んでほしい。それがどんなに素敵なことかってこと、年を経れば、判るんだもの。
マドカ先生がね、ツブラにムリヤリ的におにぎりを食べさせた、「ちゃんと腐る身体になってみろ」「……ちゃんとした味がする」このシーン、凄くイイんだよね。
エンが盗み見ていて、つまり彼女がマドカ先生に負けたシーンでもあってさ。
イキモンなんだもん、腐ることが、“ちゃんとした”ことなんだもの。それは、生物教師の彼が生徒に伝えるべき、“ちゃんとした”ことなんだと思うんだもの。
彼らの奇妙な“拉致監禁”生活の中で、マドカ先生が大切にしていた昆虫の標本がまた、いいアイテムなんだよな。本棚に丁寧に並べられた図鑑類に、昔から好きなんだね、と微笑むツブラ。その中のあるページのある昆虫に、秘密めいて貼られた引き出しの鍵。
執拗に張り巡らされたピンに、ここまでしなければ安心できなかったんだ、と自嘲する先生。これさえあれば大丈夫と思うか、これがなければダメと思うか、とツブラから究極の質問を投げかけられて答えに窮する先生。
ツブラ自身だって、この質問を投げかけたってことは、自身に対するそれだったと思うよ。ツブラはいつも元気いっぱいで、先生ダイスキ!で、でも何か、どこかに、どんどん、影があったんだもの。
マドカ先生とツブラが、双方それぞれに押入れに閉じこもる場面が凄く、好きなの。メッチャ可愛いんだけど、メッチャ切ない。
マドカ先生は、性器が交換されたことに対するダイレクトな苦悩で、まあ判りやすい。その時にはツブラはまだ、先生を引きずり出そうという活力がある。でもツブラが閉じこもる段になると、深刻度が増してる。
腐らない身体が欲しかったツブラ。死んだ後も忘れられたくなかったツブラ。めっちゃ判るの、その気持ち、オバチャン、めっちゃ判る。
死んでも覚えているから、と相変わらず目を見ないで言ってくれたマドカ先生。そんな相手が欲しいと思う。でもそれは永遠じゃないかもしれない。
ツブラが飛び出す。エンが追いかける。エンはようやくツブラに積年の思いをぶつける。ずっとずっとしたかったであろうキスを繰り返す。
でもね、それ以上はいけないの。それだけなのだ。ただ座り込んで見詰め合うだけの二人が切なくて。
そこにマドカ先生が追いかけてくる。もうこの画一発でドーン!!!と心臓が跳ね上がった。
正直、最初の制服姿の三輪子嬢以降は、結構淡々と見ていて、まあまあかな、なんてテキトーに思ってた(爆)。でもドーン!と来てしまって、自分でうろたえちゃった。
おっと、なんだ、なんだろう。あれ、私、追いかけられたかったのかもしれん、そうかもしれん、ヤバッ。
先生が追いかけてきて、二人座り込んでるところを見て、何やってんだみたいになって、帰ろう、と起こそうとしても、二人ともふにゃふにゃで立てもしない。
なのにツブラは抵抗するように振り切って走り出す。一瞬アゼンとしたマドカ先生だったけど、走り出す。その時、先に追いかけられなかったエンは、この時点で完全に彼に負けたかもしれない。
マドカ先生が、何とか、何とかしてツブラに追いついて、もうもはや、この時に彼らがどんな会話をしたのかすっかり忘れちゃったんだけど(爆)、でもね、とにかく、彼が彼女の手を取った時、再び心臓がハネあがった。
まだかすかに抵抗を見せながらも、マドカ先生に手をつながれて(手をつないで、じゃないトコが重要!)来た道を、はるかな道を戻っていく後姿に、心臓がハネあがりすぎて死にそうだった(爆)。
この時点で、これが恋だと、限られたこの瞬間の恋だと判ったから。
次のシーンで、二人は文字通り、結ばれる。これぞ本当のセックス。
でも、お互いに別の性器を持ってる訳だから、通常のセックスではありえないし、描写的にも、お互い服を脱いで、愛しげに抱き合うだけではあるけど、この時のツブラ、いや三輪子嬢の、恋、いや愛、いや恋と愛がミクスチャーされた、いやいや、どう言ったら適切なのか、とにかくマドカ先生をハダカで抱きしめる笑顔が、カラミを見せるよりドッキドキで、もう、泣きそうだった、てか、泣いたかも(爆)。
うん、でもね、やっぱりこれは決別だったよね。きっとここで、お互いの性器は元に戻ったのだと思う。翌朝ハダカで目覚めたマドカ先生、そばにツブラはいなくって、そして自らの股間をながめやり、くすりと穏やかな笑みをもらした。
もうそれだけで充分判った。それは何か、哀しかった。だってそれはきっと、ツブラとの別れを示していると、判っちゃったから……。
ラストシークエンスで、くせっ毛を押さえ込んだ七三分けのマドカ先生が窓から階下を見下ろした時にね、ファーストシークエンスでは、キャピキャピと手をふってくれてたツブラが、無視というんじゃない、ただ普通に、下校する姿でさらりと歩き去っていく姿に、疑問は持たなかった。
でも、胸がかきむしられる哀切、……切なさと言うには重く、哀しさというにはちょっとだけ軽い、これが青春、なのかなって。
いつもいつも、窓から吹きこんだ風でプリントが飛ばされていたマドカ先生、アタフタとしていたマドカ先生と、イタズラっぽい瞳でちょっかい出しに来たツブラは、もういないんだ。死んだ訳じゃないけど、ある意味、あの時のツブラはもう、死んでしまった、んだ。
メイン四人、ストイックな設定、ポップでキッチュな展開、その中に秘められた重さ、そんな難しいことを言いたくないチャームに満ちてて、私はとにかく好き、とにかく好き!★★★★★
映画のとっかかりがドキュメンタリーだという作り手は多いし、そのままドキュメンタリー作家のまま行く人もいるし。その手段も、自分の身の回りから、あるいはアイデンティティから探っていくことが多いドキュメンタリーで、ろう者である今村監督がその世界を撮ることは当然だし、使命のようにも思っているのかもしれない。
でもこれだけ魅力的に作られた本作を観て、私は彼女がその世界だけに留まらず、ドキュメンタリーというジャンルにも留まらず、劇映画でも何でも撮ったら面白いものが出来る人、才能のある人なんじゃないのかな、とも思ったのね。
そもそも本作はろう者の物語というよりは、太田辰郎という、チェシャ猫のような笑顔がメッチャステキなサーフィンおじさんである。
赤いアロハがやたら良く似あってて、この場所がハワイ……とは言わないまでも沖縄とかじゃなくて、静岡ってのが不思議なぐらいである。
魅力的な人で牽引することが、ドキュメンタリーのみならず劇映画でも基本となることであり、私は本作を、劇映画として見ても、あるいは作り変えたとしたって(その場合、当然本人は本人役ね)面白そうだよな、と思ったから。
その世界だけにとどまらず、などと言ってしまったけれど、ろう者の世界というのは、誤解を恐れずに言えば、魅力的な題材……なのよね。
“誤解を恐れずに言えば”というのは、きっとこの後何度も使ってしまうであろうけれど、それこそ本作のひとつのキーワードになっている“タブー”、健聴者がろう者に対して感じていても、言えないことの数々、である。
あのね……そう、もう物語の経過もなにもすっ飛ばして言っちゃうと、その“タブー”が語られた場面。
太田さんのサーフショップの常連さんであるやけに陽気なおじさんが、その陽気さに紛れさせるように、聞くのだ。手話という“会話”に対する疑問から始まって、我ら聴者が単純に思っているいろんなことを。それを聞くことはタブーだと思っていたから聞けなかったと。
色んな質問があるんだけど、それを聞かれた今村監督の最も端的な答えが、聞こえる人は、聞こえないことを、音を失うと考えるから怖いのかもしれないけれど、最初から聞こえないのが普通だから、そんなことは感じない、と。
なんか本当にスパッとしてて、この陽気なおじさんが思いっきり納得してホッとして、聞いてみて良かったと言うのを見て、聴者である観客の私も、同じ思いを抱いた。
ああ、そうか、凄く納得だ、と。失ったものなど何もない。最初から満たされた世界なのだと。
そう、それこそ、“誤解を恐れずに言えば”、聴者にとってろう者の世界って、ちょっと……憧れというか、興味というか、があると思う。
いやさ、ドラマだのなんだのの影響もまああるとは思うけど、それだけじゃなく、本当に、未知の世界への興味。
こんなこと言っちゃうと、さ。ホントにキチクなんだけど、いわゆる肉体的欠損のような障害だと、想像が出来るというか……ホントヒドイ言い方だけど、可哀想的な(爆)。
勿論それがどんだけおごった、間違った気持ちだかは判ってるさ。本当に“可哀想”なのは時として“健常者”である私らであることぐらい、さ。
ここで臆したら最後まで言えないから、言わせてね。つまり、想像が出来ることと出来ないこと。想像力希薄だからさ(爆)。肉体的欠損ではなく、感覚的欠損は、想像が難しいだけに、無知がゆえの、ヘンな憧れが生じて、それこそ「星の金貨」じゃないけど、私らにはない、純粋無垢な世界があるんじゃないかとかも、思わなくも、なかったりして。
でもホント、そうじゃなくて、そういうことじゃなくて、なんていうのか……手話という、言葉とは違う言語を持つということに対する興味が最も説明しやすいひとつだけど、本当に、興味、好奇心、なの。あまりいい言葉じゃないけど……。
今村監督の言葉を得てそれがどうしてなのか、スッと腑に落ちたんだよね。
「音が失われた世界ではなくて、音がない世界が満ちている」そうか、そういうことか、と。そんな未知の世界に、自分たちには得られない、何か、別の充足感に、憧れや興味を感じてしまう。
それは、劇中、太田さんのサーフショップで開かれるバーベキューパーティーに、部活の先生に連れられてきた女の子たちが、最初はその独特の雰囲気に固まっていたけれど、次第に打ち解ける。
その“独特の雰囲気”っていうのがね、「静かなのに、盛り上がっている感じが不思議で」っていうのが、それだよなー、と思ったのだ。
手話というのもあるけど、今村監督はなんたって本作でナレーションをするほど口話も問題ないし、太田さんもある程度は口話もするし、太田さんの奥さんに至ると、夫の“通訳”が出来るほど、“普通”に喋れる。
……何か、“”ばっかり使っててアレだけど、なんか、あまりにも世の中の一般的なこと、日常的なこと、普通なことってのが、ひどく限られているんだってことに、今更ながら気づいてさ、だからついつい……。
で、なんか話が脱線したけど(爆)、そう、そのね、「静かだけど盛り上がってる感じ」っていうのこそ、ちゃんと見てみたかったと思うのね。
本作は音楽もきちんとつけられていて、だからこそ映画としての完成度も高いから。
聴者もろう者もへだてなくみんなお喋りで(笑)、実にニギヤカである。このバーベキューパーティーも、普通に楽しそうで、その“独特の感じ”があまり感じられないのが、惜しかった気がする、のね。
それこそ、あの陽気な常連おじさんが言っていたように、手話といわゆる口話の会話の違い、へだたり、聴者にとってのそれへの思い込みや違和感といったものを“静かなのに盛り上がってる”と彼女たちが感じるこのパーティーで示すのはもってこいのチャンスだったと思うから。
確かに手話に対する聴者の、それが口話と同じニュアンスを伝えているのか、別のニュアンスなんじゃないのかという単純な疑問もあるし、逆にだからこそ、会話としての手話の世界への興味もまた生まれる訳なんだけど……。
でも、確かに、だからこその本作、なんだよな。珈琲とエンピツ。太田さんは筆談と身ぶりと、時に口話も交えて話をする。
考えてみれば、これだけ考えうる全ての手段を使うのだ。誰とだって、話が出来る。それこそ、言葉の判らない外国人とだって。そう思うと、言葉を使ったコミュニケーションより、ずっとグローバルだ。
思えば手話に対する興味のひとつは、各国の手話が存在はしているけれど、かなり共通する部分があって、異国の手話同士でも割と通じる、という話に衝撃を覚えたからなんであった。
太田さんは手話は使ってない。彼の家族はすべてがろう者だけど、彼が手話を使っている場面はない、よね?
かといって先述のように太田さんは決して口話は得意じゃないけど、そのチェシャ猫スマイルとあったかなオーラと美味しい珈琲で全てをとかしてしまう、のだ。
そう、太田さん一家はみんなろう者。ろうの人たちだと、そういう環境は割と珍しくないのかもしれない。
私ら聴者だとさ、ろう者というと耳の聞こえる家族がかわいそがるとか、普通学校に入るとか入らないとか、耳の聞こえる人たちとの衝突とか、なんかそういう方向にばっかり考えるじゃん。
勿論本作の中でもそれはなくはない、というか、大きなファクターではあるんだけど、そもそもの彼の土台が、“音のない世界”(音の失われた世界ではなく)が基本であるということが、本作にも大きく関わってくることだと思うのね。
だってそれは何か……ろう者である家族であるということは、例えば皆大阪弁を喋る一家とか、ムチャクチャな例えだけど(爆)、なんかそんな程度のことのように思えてきちゃうんだもの。
聞こえる、聞こえないというのも程度の差があって、実際今村監督が劇中、サーフィンを習うために補聴器を外し、「全く聞こえなくなるから、合図は身ぶりで」というシーンで、そのことに、まるで初めて気づいたように、はたと、気づく。
口話の程度もだからこそあるんだけど、それこそ、音の全くない世界も想像出来ないけど(だから憧れと興味があるんだけど)、その様々な程度となると、更に想像が難しい。
それを思うとホントに、なんて単純な世界に生きているんだろうと思う。それは視覚の障害においてもそうなんだろうと思うけど、パキッと分けてしか考えられないなんて、ホント、つまんないよね。
だからこそ本作は面白いし、なんかいちいち目からウロコの新鮮さがあるんである。
で、まあ、ここまでかなり長々ときたけど、そう、主人公はなんたって、チェシャキャットスマイルの太田さんである。
一応普通の会社員生活をしていたのが、一度はプロを目指したほどのサーフィン好きとものづくり好き、そして殊更には言及はされなかったけど、やはりここは、アイデンティティ、だろうなあ、後悔しない人生を求めて、サーフボード職人に弟子入りして、ゆくゆくはサーフショップを始めるために仕事を辞めた。
ろう者ゆえになかなか弟子入りを受け入れてくれる人がいなくて、ようやく見つけた親方について1年半、ボード製作、修理を修行。サーフィン用品とハワイアン雑貨を扱うサーフショップを40代前半になってオープン。
ろう者である彼がボード職人に弟子入りしての修行とか、店を開いても最初のうちはお客さんに敬遠されるとか、そうした部分なんて、いかにも掘り下げまくって盛り上がる部分なのに、そこはめっちゃさらりと流されるのね。
勿論、この親方とのエピソードなんて、相手は聴者だから、手話も判んないから、ひとつひとつ、身ぶりと大振りな口話でさ、ちらっと話されるだけでも、何枚かの写真だけでも、充分感動的なんだけど、一瞬といっていいほど、さらり、なんだよね。
ちょっとね、私はそこに、今村監督の意地を感じたし、実際、そんなありがちなところに時間をかけるのはあまりにもったいないほどに、太田さんは魅力的な人だからさ。
タイトルにもなっている、お客さんをまずリラックスさせるハワイアンコーヒーは、太田さんにソックリな息子さんが再三美味い、はぁ、美味い、と言うのを聞いてもいかにも美味しそうである。
ただ、紙コップで、その中身を映さないのは(コーヒーメーカーに作られている様子は出てくるけど)ちょっと、惜しいかなあ。イメージショットでもいいから、カップに満たされるコーヒーの色を見たかった。
お客さんは様々で、観客のある種の期待を満たす、ろう者である太田さんに最初戸惑う家族連れから始まって、一番シャイそうな男の子が、一番に筆談に引き込まれていく様子が実にヴィヴィッド。最後には太田さんに勧められたストロベリーコーヒーも買っちゃうし。
次第に、常連さんや、修理を依頼するプロのサーファーさんなども登場しだし、太田さんの、一度はプロを目指したほどのサーフィンへの情熱(真木蔵人も参加しているアマチュア大会のプログラムとか出してくる!)もつぶさに描かれる。
初対面で、ボードを大切に使っていなかったことを怒られたという、ウェットスーツ「分割で」「一万円ずつ」と拝み倒して注文するイケメン君やら、ランキングを上げるチャンスの試合を太田さんに見に来てもらったのに惨敗し、涙を流す美女プロサーファーやら、長年の付き合いだけど、サーフボードをオーダーメイドするのは初めてだと、デザインからお任せするろう者のサーフィン仲間やら、もう、ね。魅力的な人のところには、魅力的な人たちが集まるんだわね。
海のシーンでの、雲間からいくつも差してくる「天国への梯子」の光をとらえた画も美しく、ドキュメンタリーといえ、いやだからこそとらえられるの映画的魅力に満ち満ちている。
これを劇映画にしても見たいと先述したのはそういうことでさ。なんかホントにもう、人間ドラマとしてとてもドラマチックなんだもの!
やっぱり筆談だね、筆談の“ニギヤカさ”だね。バーベキューパーティーの場面で「静かだけど盛り上がってる感じ」は、やっぱり手話も多く使われていたからで。
手話は身ぶりにも通じるし、筆談のシーンでも併用されるものだけど、本作で最も魅力的なのは、太田さんの笑顔と、饒舌と言いたいほどの筆談、なのよね。
太田さんの笑顔は、そのチェシャキャットスマイルは、笑顔だけで無言でもめちゃめちゃニギヤカだしさ。
で、筆談がエンピツ、しかも手削りのエンピツってのが、いいのよね!ボールペンでもマジックでもない。不思議と一気に距離を縮めちゃう感触がある。
恐らくサーフィンが結びつけた、結婚を決めたカップルが「リングはオーダー出来ますか?」と筆談してくるところとか、良かったなあ。そこからなれそめやら挙式のこととか、紙にいっぱい、方向もメチャクチャバラバラでエンピツの会話でぎっしり埋まっていく感じ、なんかもう、凄く凄く素敵!
今村監督のナレーションに重なる字幕もエンピツ文字。彼女の口話によるナレーションは、やっぱり聞きなれないせいもあって最初、正直緊張したけど、この作品世界には正解だったと思う。
やっぱり私は言葉、活字、日本語が好きだからさ。ひょっとしたら、映画よりも好きだから、だから最終的に映画の中でも日本映画に、自分の国の映画に固執するのかもしれないから。
日本語は小難しいかもしれないけど、でもそれが伝える心の力を信じたいからさ。
だから、このニギヤカな筆談が殊更に嬉しかったのかもしれない。勝手なイメージかもしれんけど、それこそ“誤解を恐れずに言えば”だけど、身ぶりと原始的な文字、象形文字みたいなイメージ、そんな部分を上手く採用した手話と、音だけに頼った会話、いわゆるパフォーマンスとしての双方とは全く違う地平にいながら、これも見事なパフォーマンスとなのね!と思わせる、ニギヤカな筆談のチャーミングな魅力。
その根源にあるのは言葉であり、更に根源は、心。共に、“伝えたい”という形容詞を持つもの。ここぐらいは“”使っても、いいでしょ!
★★★☆☆
いや、ね。これって、確かにそういう側面もある映画だとは思う。教育を受けることの大事さとか、ちょっと変わった子供でもハブにせず、友情を育みましょう、みたいなね。
でも本作のもっともっと重要なところ、魅力であり、胸を打つところは、血のつながりのない、擬似親子から、本当の親子になる、家族になる、絆というものに血のつながりなんてものは関係ないんだ、という大きな大団円を迎えるところでさ。
それは、とかく血筋礼賛、子供は腹をいためて産んだ子でなければならない、血のつながった子供に、親に、なんてことをするんだとか、良きにつけ悪しきにつけ、そういう根強い考えのある日本に一石を投じているように思えるのは、単に私がそういう風に考えたがっているから、なのかな?
でもね、劇中の女先生のように、子供の産めない女性や、あるいは妻を妊娠させられない男性は少なからずいる訳だし、そうした夫婦に対して、日本のこうした風潮って、冷たすぎるよね。
そしてリカのように、血のつながる親から望まれない子供たちだって少なからずいる筈であり……そういう場合、日本って、そんな親を鬼畜だと糾弾するばかりで、まあ確かにそれはそうなんだけど、彼らにとって本当に望むべき環境はなんなのか、きちんとした受け皿がないまま現代にまで持ち越している気がして仕方ないんだよなあ。
確かに確かに、子供は親のことを愛している、のが、前提、だろうけれど、リカのように、全ての子供がそうではない、んではない、かとも思う。
……言いよどんでしまうのは、思いっきり反論が来そうだから。それこそ、どんなヒドイ親でも、本当の親こそが大事だと思わなければ子供として失格、みたいな感じも日本って、あるじゃない?
いや、なんかこんなこと言っちゃうと、私の親がアレみたいだけど(爆)、私の親は大変素敵な両親ですよー(汗)。でも、うん、なんか常々そんなことを思っていたから、その部分こそが凄く重く感じたのだよね。
東北の山深い分校、加藤剛演じる男先生と、栗原小巻演じる女先生(地元の人たち言うところの、オドゴ先生とオナゴ先生)の元に、有名な老作家、星沢とその娘リカがやってくる。
最初は孫かと思ったら、れきとした娘、このスケベジジイが70歳の時、若い恋人に産ませた子なんだという。
その後その女が結婚して、リカの籍もそっちに入れたのに、星沢はそのことにハラを立てて勝手にリカを連れ出し、学校にも入れないまま放浪の旅を続けた。
ゆえにリカは11歳にもなるのに、星沢が自慢げに言うところの“無年生”なんだというから、男先生はこのジジイの身勝手さに憤るんである。
そもそもなぜ星沢とリカがこんな分校を訪ねてきたのか。
男先生が文学の夢捨てきれず、今もほそぼそと小説を書いていて、彼の元にいつも文学雑誌を届けに来てくれる街の書店の店主が気をきかせたんであった。
確かに加藤剛にはそんな文学青年くずれの、都会的な青臭さもあり、その青臭さは教育への情熱にも直結している感じなんである。
このスケベジジイと共に大人としか接してこなかったリカは“こまっちゃくれた”という表現ではあらわしきれない、マナーも知らない、気遣いなど当然知らない、挨拶できない(というか、やったこともなさそう)、塩辛ばっかり食べる(爆)、更に言うと色ボケまで入ったトンでもないガキでね。
男先生が、リカにやりたい放題させている星沢を無責任だと憤るのは確かに判るし、自分がこの子を子供らしい子供にしてやる!と教育者らしい熱に燃えるのも判る。
ただ……女先生が危惧するように、「途中で投げ出すなら、最初からやらない方がいい」というほどの難しい子供であり、でも確かにそうやってリカは、周りの大人たちから見て見ぬフリをされてきた子供なのだろう。
後にリカが“更生”しかけてから、星沢老人と東京の出版社めぐりをした時、「リカちゃん、すっかり変わっちゃったな、僕は以前の自由奔放なキミの方が面白かったけどね」と大人たちが言うのを聞くと、そんなリカが大人たちにチヤホヤとされていたのも判るんである。
それこそ大人の無責任であり、そんな子供がそのまま長じてしまえば、どんな鼻持ちならない大人になるであろうことは火を見るより明らかなんだけど、ただ確かに、この無責任な大人が言うように、自由奔放なリカはちょっと、魅力があるんだよね。
マナーや人の気持ちを思いやることや、そうしたことは確かに大事で、リカが気分次第でお神楽や合奏の練習をかき乱す様子は確かにイラッとくるんだけど、こういうのも、日本的感覚かなあ、と思う。
皆でひとつのことに向っていくことこそが尊い、それをかき乱す子供は教育がなってない、と。
ここんところは難しいところなんだよね。リカが男先生と女先生の辛抱強い教育と、リカの境遇をきちんと理解して受け入れてくれる児童たちによって、徐々に子供らしさを取り戻していく過程は感動的ではあるけど、確かに一方で、リカの奔放な魅力は失われていく。それを星沢老人も、無責任な都会の大人たちも惜しむ。
でも、リカのその気質は、男先生や女先生が言うように、大人たちに迎合するために作り上げられた、彼女なりの武装キャラだと思えば納得も出来るんだけど、何か、日本的個性の埋没にも感じて、ちょっとだけヒヤリとしてしまう。
でもね、このリカは、そうしたこまっちゃくれた女の子の造形から、子供らしさ、何より親の(血がつながってる云々関係なくね)あたたかさに飢えている感じを見事に表現していて、素晴らしかったなあ!
もう登場シーンはほおんとに、ヒドいの。竹馬に乗りたがるのは子供らしいと思ったけど、それをバシャン!と放ったままで、お神楽の練習を、ピアノをジャンジャン鳴らして止めさせて「なかなか上手いじゃないの!アンコール!」おいおいおいおいー!
しかもそのピアノに噛みかけのガムをべちょっとつける無神経さ。もうとにかくムカつくマセガキなんである!
都会っ子らしいすんなりと伸びた長い足に、ミニスカートが良く似合って、竹馬から落っこちるたびにパンツが見えそうになるのが妙になまめかしいし、実際ちらりとスカートを引っ張り上げて男先生に色目を使うことまでする色ボケガキ。
こんな、都会の大人社会に毒された女の子を、教育者の情熱とはいえ子供らしい子供になんて出来るのか。
いや、それだけならいい。この星沢老人が最もクセモンで、マナー知らずは彼の元で育てばそうだろうと思わせる。
「わしはインスタントコーヒーは飲まん!」から始まり、外からのお客さんには評判のいい地酒を出した時も、日本酒なんかという態度をアリアリにして、洋酒しか飲まんというこの色ボケワガママ老人に、女先生の堪忍袋の緒はぶっちりと切れ、理想だけで突っ走る夫と大ゲンカ。
ついに夫に手を上げられて、地元夫婦のところに逃げ込むシーンがイイのね。何も聞かずにお風呂を勧める夫婦、夫の方は「オドゴ先生は今頃探しに出てるべ」と晩酌も切り上げて懐中電灯片手に出てみると案の定。
決まり悪くて何も言わない男先生に「オナゴ先生なら、うちに来てるべ」そのまま何も言わずにきびすを返す男先生。
女先生は泊まらせてもらえたのにも関わらず、夜半、ガマンしきれずに男先生の元に帰ってくる。
ちゃぶ台など片付けようとする彼女に、一緒に寝ればいいじゃないかと半分空ける男先生。
いやーん、いやーん、もう、結局ラブラブじゃん!もぐりこんだ女先生に背中を向けていた男先生が振り返り、そのあとは……何をしたかなんて、追究しませーん!
おっと、ちょっと萌えてしまった(爆)。でもね、この二人には子供はいない、出来ないの。
途中、ここに赴任したばかりの若かりし頃の様子が回想される。教師としての若き情熱、そして新婚さんで子供を授かることへの期待、でも流産した後、その望みは断たれてしまった。
先生たちを心配する児童たちこそが自分の子供だと、そう思ってこの辛い経験を乗り越えてきた。
でもリカが来て、思いがけず「……同い年ね」と女先生が言ったのを男先生はたしなめたけど、そんな思いは隠しきれずあった、のだ。
初めての学校、同じ年頃の子供たちとの集団生活にリカがすぐになじめる訳もなく。
教科書を読むのを自分だけ飛ばされる(ちゃんと読めないからね)のに腹を立て、机をガタガタ鳴らして授業を妨害したり、合奏の木琴パートを上手く出来なくて、ジャラジャラ鳴らして、バカみたい、こんなのつまんないから皆外で遊ぼうよ!とか言ったり。
同級生たちが教室の掃除をしてるのをバカにした目で眺めて、合理的じゃないのよ、こうやって乾くのを待てばいいのよ、とバケツの水をジャーッ!とぶちまけてみたり、もう、ガマンならない傍若無人ぶりなの!
そう、私だったら、もうコイツ、ハブにするわ!とついつい大人気ないこと思っちゃうの(爆)。
でも、先生二人が対処した前二例より、三例目の掃除のシーン、「床下にしみて腐っちゃうよ!」と慌てて児童たちが雑巾で水気をふき取り、「しょうがないよね、リカちゃんは学校に行ったことがないんだから」と言う子供たちに、えーっ、こんなに子供って、そこまで判ってる?と一瞬思い……判ってるかもしれない、って思う。
実際、すぐに、こんなワガママなガキ、どうしようもないわ!と放り出してしまうのは大人の方かもしれない、と思う……。
正直ね、リカが“更生”していく過程は、時として唐突にも見えるのね。
木琴の居残り練習を途中で、ばかばかしい、と吐き捨てて投げ出しそうになるリカに「皆と合奏したいんでしょ!」と女先生から言われたら急に大人しく従ったり、他にも色々……ちょっとパッと出てこないけど(爆)。
んー、でも、リカが自分の本当の気持ちを表に出すことや、謝ることや、感謝の気持ち自体を今まで知らなかったことを考えると、唐突に見えながら少しずつ獲得していく子供らしさ、いや、それ以上に人間らしさというものがあったのかもしれないなあ。
当然、星沢老人は面白くない。可愛いリカのためにこんなイナカに足止めされて、おかんむりである……いや、この星沢老人、確かにかつては文壇の寵児であったんだろうけれど、今は重鎮……も通り越してお荷物、厄介者であることは、最初から薄々感じられるんである。
それがハッキリと示されたのは、リカのことを相談しに行った男先生が、出版社との電話に出ている星沢老人、空気の入れ替えをするために開けた窓から入ってきた風で、さっき自慢げに書き上げたことを喋っていたその原稿が部屋中に散乱して……白紙なのよ、タイトルがしたためられた一枚目だけで、あとは一字も書いてないのだ。何とも言えない顔で老人を見やる男先生。
後に、リカを連れて東京の出版者をめぐる星沢老人は態度は尊大だし、応対する出版社の担当者たちも下には置かぬ歓待ぶりを示すけど、でもそれが、表面上だけだってことは、もうここまでくれば、判っちゃうのだ。今は、ただ、何も書けない、ただの老人、だってことが、判っちゃうのだ。
もうすっかり分校の生活になじみ、星沢老人とはいたがらないリカを、つまらない教育を刷り込んだと怒り、元の放浪生活にリカを伴おうとするんだけど、ダメなの。
老人からすれば、あんなつまらない田舎にリカは帰りたがって、力づくなら言うこと聞かせも出来ただろうに、星沢老人が、この傍若無人の原点である星沢老人が、それが出来ないのが、切なくてさあ……。
子供の前でもスケベジジイっぷりはあけっぴろげ、今でも“現役”だと言い募り、キミはどうだと男先生に向って股間を叩いてみせる無神経さ。
まあそりゃ、老人は彼ら夫婦の事情なんて判ってないだろうけどさ……。
でも老人の唯一のよりどころがリカであり、それが自慢の絶倫の故だというんなら、そしてそのリカが、彼がどんなにそばにいてほしいと請うても、あの分校に、男先生と女先生の元に帰りたがるのが、確かにちょっと、可哀想で。
リカの“こまっちゃくれ”が、大人の間で育ってきた彼女なりの武装だというのなら、実の父親に対するこの残酷な態度、残酷な仕打ちが、最大の子供らしさ、彼女の本音だというのが、なんとも皮肉で、いたたまれない。
でも、子供は子供の幸せを、彼、彼女にとっての幸せを素直に追求すべきであり、それは、最初に散々言い散らかしちゃった(爆)、血のつながりなんてこととは別の領域にある場合もあるってことを、そのことこそを、本作は主張しているんだと、思いたいのね。
男先生はね、先述したようにあまりにも純粋な教育者だから、そして青臭い文学青年から脱し切れてないから、女先生が危惧したように諦めかけるのよ。自分には手におえないと。リカを更生しきれないと。
……でもねでもね、女先生は、同じ女だということもあるだろう、そして母親になりたいのになれなかった、母性を持て余したまま10年以上も過ぎたことが爆発したこともあるかもしれない。
男先生の厳しさと女先生の慈悲は、男親と女親のそれとはまた違ってね、夫婦の間でも衝突するし、二人とも、教育者としてなのか、親心としてなのか、凄く逡巡して、リカのことを愛しく思っている筈なのに、なかなかそう、思い切れないのだ。
星沢老人の元で冬休みを過ごしたまま、帰ってこないリカを二人ともメッチャ心配していたところに、リカは「タクシーを使うなんて、もったいないでしょ」と6キロもの道のりを歩いて帰ってきた。
のは、リカと一緒にいたい星沢老人との決別があったからなんてことは、この時の二人には知る由もなかった。
星沢老人の元にいる間にも、きちんと休みの宿題をこなしていたリカに目を細める二人。
星沢老人が、そんなことしなくていい、とリカを出版社めぐりに連れ出す回想が示され、リカは時にはそれを突っぱねて真面目に宿題を仕上げている。
このあたりはそれこそ文部省が喜びそうな描写だけど、男先生と女先生への愛、なんだよね。
星沢老人が亡くなり、リカが戻ってくる。しかしそれは、お金持ちへの養子のクチが決まっている、という“一時帰宅”である。
星沢老人が引き離したリカの母親は、引き離された時は狂ったように探したけれども、いざ娘が手元に戻ってくると、「……可愛くないことはないんですけれど……」と口ごもる。実感がないんだと、ピンとこないんだと。
私ね、こういうことって、それこそ今の時代でもたくさんあるんじゃないか、って気がした。血のつながりばかりを重視して、子供を、そして親も追い詰めて、良くない結果になるのこそ、最も避けるべきことだと、思った。
星沢老人は確かに、リカを愛していたと思う。でもそれは、親として慈しんでいたというより、それこそ血のつながりにしがみついて、彼女より他に自分をつなぎとめる絆がないと、リカを授かった時からもう、判ってたんじゃないだろうか、って……。
老人はリカがいさえすれば書けるんだと言っていたけど、多分、それはウソだ。放浪を気取って、その時から大して書けなかったんじゃなかろうかと思う。
その言い訳のためにリカは爛れた文壇社会につなぎとめられ、子供らしい子供であることを奪われた。
11になるまで母親と引き離されれば、もう自我も生まれ、その自我が男先生と女先生の元にあるならば、母親だってそりゃあ……。
一人山奥の分校に訪れた、和服姿がばしっと決まっている母親が、自分の子供としてピンと来ないこと、リカを養女にもらってくれないかと申し出たことを、どうして責められるの。むしろ、母親として子供を思いやった最大の愛情じゃないの。
男先生は、リカが星沢老人の葬儀で泣かなかったのと、ガマンしたんじゃなく、泣けなかったことを聞いて、憤慨した。
でも、リカは本当に……憎んでいたんだ、と、言えなかったことをぽつりと言ってしまう。これって結構、衝撃だと思う。実子至上主義だからさ、ホント。
教育者ゆえに、リカに対してなかなか素直な愛情を自覚できない男先生は、「僕も疲れるんです」と母親からの養子の申し出を断ってしまう。
それを物陰で聞いていた(ちょーっとベタやなー)リカは雷雨の中駆け出してしまう。
確かにこの時まではね、男先生は教育者としての自我にとらわれすぎていたところがあったの。
女先生の方は、失われた我が子に重ね合わせてしまうということもあって、確かにそれは男先生が危惧するようにあまり良くないことなんだろうけれど、“こまっちゃくれた”リカが見せる無邪気な寝顔に一発で陥落しちゃうわけ。
ていうか、見抜いたと言った方がいいかも。リカも一人の、子供なんだ、って。
何度か示される、女先生とリカが一緒にお風呂に入るシーン、そして、男先生に二人ともどもちょっと上手くいかなくて、一緒に寝るシーン。
女親と娘の、男親には入っていけない、言葉では言い表せない親密さが、しみじみと積み重なっていくのが、なんともジーンとするのよ!
確かにこの時には、男先生はおいてかれていると思う。でもね、女先生が、リカを、この“両親”につなぎとめているのよ!
母親、それがお腹をいためてなくても、やっぱり、母親、お母さん、なんだよ。
なんかね、そういうの、いいな、と思った。母性って、あるよね。なんかね、年をとると、めっちゃ思っちゃう。あー、年とったね(爆)。
男先生の言葉を聞いて、雨の中駆け出したリカ、そのうち帰ってくるだろ、と男先生は言うけれど、女先生は「炭焼き小屋に行ってるかも……あの子、死ぬならあそこでなんて……」
そ、そんなこと言ってたの?それこそこまっちゃくれているが、それ以上にこの展開ではあまりのベタだが……。
こういう前提があればこそ、大団円があまりにも予想されてしまうが、しかし、その大団円の前に、男先生に発見されたリカが、自分で施設に入る手続きをしたい、と言い出すのにはさすがに落涙!もうこれが、男先生を決断させたでしょ!
「これからは、自分をお父さん、女先生をお母さんと呼ぶんだ」足を怪我して男先生におぶわれていたリカは、ハッと目を見張り、涙をこらえきれずに男先生の肩に顔をうずめる。
駆けつけた女先生も事情を知り、あなた……と声を詰まらせる。おいー、おいー、おいーーーー、いいよ、ベタな大団円でも。めっちゃ泣かせるやん!
ちょこちょこと言ったようにね、ちょーっと、日本的な、子供の個性を押さえ込むような感は受けるよね。その点は、無責任な大人である星沢老人の“主義”も判らなくはない、んだよね。
登場シーンのリカは確かにちょいと、魅力的だった。そこんところが、難しいんだけど。で、これが色々教育機関的な推薦を受けているのは、リカが“更生”していく部分だと思うと、うーんと思う部分もなきにしもあらずというか。
まあ、いいか、泣かせるんだから。男先生、女先生共にとても良かったけど、こんなメッチャ美人なのに、地味な母性満点の栗原小巻の素敵さときたら!ああ、私も栗原小巻とお風呂入りたい!いや、別の目的じゃなくて!(爆)。でもちらりと乳房も見せる。ヘタに隠さないのも好ましいの。
大きな黒ぶち眼鏡が良く似あってて、女先生!オナゴ先生!って感じなのよねー。特に冒頭、加藤剛とラブラブ雰囲気で、チュー寸前を児童たちに見られてるとか、超萌える!素敵素敵!
★★★★☆
正直、ポスターで本作を知った時には、えーっと思ったりもしたりして(爆)。モト冬樹氏を中心にずらりと若い男女が取り囲んだポスターはやけにベタな構図で、しかも惹句が「モト冬樹生誕60周年記念作品」である。何か、彼のこれまでの人生を振り返るような、おとぼけ、ズッコケ系映画のような見た目であった。
「終わってる」一作しか知らなかったし、確かにあの映画にはなんともいえない妙味のユーモアがあったから、喜劇を撮れる人だとは思ったけど、どうもしっくり来なかった。ポスターからイメージされる作風が、どうにもこうにもベタすぎて。
あのポスターはだから、なんかイメージを落としているような(爆)。ど、どうなんだろう。でも、例えばストーリーだけを言えば、そんな風に見えなくもない、でも全然、そんな雰囲気と違うの!
ああ、「終わってる」もそうだったかなあ、こんなに静謐だったかなあ。そうだったかもしれない。静謐なユーモアという、唯一無二の世界観こそが、この監督さんの妙味なのかもしれない。
静謐さには美しさと共に悲哀がある。人間の悲哀は時に、というか常にどこかユーモラスが漂う。それは、その悲哀は彼、あるいは彼女自身だけにしかリアルに判らない、つまり独りよがりなものだから。
どこか自虐、どこか自己満足、でもそんな人間の愛しさを丁寧にすくいとる、そんな、妙味。
てゆーかさ。この惹句をそのまんま信じていいんだろうか。この映画が作られた経緯、監督が抜擢された経緯、抜擢?そもそもがモト氏が原案なり何なりに関わっているのなら判るけれども、監督、脚本、ずっぱりと今泉監督であり、モト氏の還暦祝いとなるべくどんな要素も見当たらない。
しかも彼は、確かに主演だけれど、狂言回し、というか、振り回され役と言うべき立ち位置で、彼以外は皆無名の、しかも総じて若い役者たちに存分に振り回されて、若い役者たちの(その中には、素人の大学生も混じっているという!)チャームを引き立てているんだから、驚くべき、である。
新鋭の監督が、国民の知らぬ人はいない超有名、好感度高しのタレントを、いわばコマのひとつ以下に扱うなんて(いや、ちょっとこの言い方は適当じゃないけど(爆)、でもそんな感じ)シンジラレナイ!
そう、モト氏が演じる、妻の亡き後書けなくなってしまった作家、高田の周りを固める10数人もの男女は皆若くて、総じて20代から30代。
正直、高田の亡くなった妻と、安藤という高田を慕っている27歳の作家がデキていたと疑うのは、不可能じゃないけど、ちょっとムリを感じたりもする。男女が逆なら、まああるかもと思うけどね(ってあたりが、クヤシイッ)。
でもそれも計算かもしれない。だってその疑いは当たってなくて、驚くべき真実がラストに用意されているんだもの!
10数人の男女は、皆きっちりとリンクしている。実はね、つい最近、「私の悲しみ」で、狭い世界でリンクしていく多人数の物語、その脚本力と押せ押せの演出力に驚嘆したばかりだったんだよね。そちらもやはり、若い作家さんだった。
ひとつの三角関係をじっくりと描いた一作しか観ていなかった今泉監督が、こんな腕を持っていることに、実に失礼ながら感嘆し、今の若いクリエイターさんは総じて凄い、あったまイイ!と思い(私が頭悪いだけかも(爆))……。
でも、そうした人間関係がリンクしていく上手さは共通していても、こんなにも印象が違う、まあ当たり前っちゃ当たり前だけど、それが凄く、面白かったんだよね。
本作に関しては、軸にモト氏=高田がいるというのは確かに大きなファクターかもしれない。彼を中心に扇状に関係が広がっている。
それをじりじりと観客に感じさせながら、全ての登場人物が集う場面でバチッとはまった!と思ったら、更に次のシークエンス、真のラストで驚くべき根本的真実が待っている。
そしてそれが、全ての人間関係の中で、一番切なく、ユーモラスで、愛しいんだよね。
しかもしかも、冒頭は、この人間関係にリンクしない、関係ないと言ってもいいところから始まるんだからオドロキである。いや、“関係ないと言ってもいい”と判るのは、物語も終盤になってからなんだから、更に恐るべしである。
しかも、その中心人物を演じているのは監督自身で!ガチで頭をバリカンで剃りあげてるし!
それは、彼が余命いくばくもないから。彼の頭を剃っている奥さんは嗚咽を漏らし、彼は泣くなよ、と声をかける。
ずっと三人で仲良くやってきた、その三人目の男も頭を剃りあげてやってくる。余命いくばくもない彼はこの三人目の男に、自分が死んだ後、彼女と一緒になってくれ、と言う。彼女も、その彼がいいのなら、と言う。
もうバッチリオチバレで言うけど、余命いくばくもなかった筈の彼は誤診で、ただの腸炎で、しかしここまでスッカリ盛り上がってしまった三人、いや、残り二人は、彼が死のうが生きようが、もう一緒になるラブラブ満々なのであった。
余命いくばくもなかった筈の、監督自身が演じていた男が読んでいたのが、高田の代表作「その無垢な猫」であり、その中に書かれているという設定のフレーズが印象的に物語を引っ張るんである。
「体裁とか不謹慎とか。友情とか家族とか。生活とか夢とか。社会とか身分とか。そういう類のものは「好き」という気持ちの前では無力だ」と。
それってさ、まさに恋、なんだよね。好きの種類には色々あるけど、この一文が示しているのはまさに、恋であり、そして、登場人物の誰もが、そんな思いを示す相手がいるのに、誰一人として、それが成就しないのだ。
そう考えると、静謐なユーモラスという魅力に彩られた本作は、実はメチャクチャ、シニカルな、でも、その中であがいている人間に対する讃歌、なのかもしれない。
つまりさ、そんな風に言えるほどに好きな相手っていうのは、誰しもが持ってるんだけど、それが双方結びつくなんてことは、まさに奇跡、まあほぼありえないことで(爆)。
高田が娘に「お母さんが今までつき合ったりした人の中で、一番好きだった?」と問われて「どうかな……」と口ごもる場面がまさに象徴しているんだよね。
妻に浮気されて、でも別れたくなくて、直接対決を避けた情けない過去を娘に告白する高田だけど、それでも、お母さんが一番ではなかった。
ショックを受けた表情をする娘に「そんなもんだよ。だから、気にすることない。別れたければ、別れればいい。お前の好きにすればいいんだ」と、まあ上手い具合に、娘の問題にすりかえた、ようにも、見えた。
いや……それはこの時点で出会ってしまった若く神秘的なファムファタル、小夜の存在があったから、そう言っちゃったのかもなあ。
でも確かに、“そんなもん”なのかもしれない。柏原芳恵の歌じゃないけど、実際一緒になるのは「二番目に好きな人、三番目好きな人」なんである(古いっ)。
でも、というか、だからこそか、娘も、そんな父さんの思いを受け入れる。てのは、彼女自身、夫に浮気されていて、その悔しさはあるんだけど、実は自身も忘れられないほどに恋していたのは、父親の弟子的存在の、今や売れっ子小説家、安藤だから。
彼女の弟が出来ちゃった結婚を決めていて、でも弟君もまた、忘れられない相手がいて、それがまあ、小夜という、メッチャ狭いリンクの中で展開していくんだけど、弟君が言う台詞もまた、父親と同様、ふるってるんだよね。
「だって、付き合ってもないのに、嫌いになんてなれないじゃん」
弟君は、デキ婚を決めた彼女から、今でも小夜を好きなんでしょとやいやいせっつかれてた。この、ザ・痴話げんかが、普通ならこんなん見せられるのカンベンなんだけど、しかも長回しワンカットでやる気マンマンだしさ(爆)、でも、すっごい面白いんだよね。
でっかいメガネの細身の弟君と、女子プロ系風貌(爆)の彼女さんの画的な面白さもあるし、この彼女さんが、キツいんだけど、可愛らしくて、だったらここでキスしてよ、とかいうの、メッチャ可愛くて、女子の共感を得るキャラなんだよな。
あ!彼女だけは、一番好きな人とゴールインをゲットしたんだな。まあそれだけ、苦労も大きい訳だが……。
ところで小夜ってのは、高田が常連である小さなスナックで働き始めた女の子なんである。“働き始めた”ってあたりがミソで、彼女の目当てが実は安藤であったことが、クライマックスで明かされることになる。
んだけど、この時点での彼女はそんな風情は微塵も見せず、男運が悪いから相談に乗ってほしい、と高田を無防備に自分の部屋に誘うなんてことまでする。
まあ自覚はあって、シャワーを浴びて髪を拭きながら「してもいいですよ」と言うんだけど、つまりそれだけ、そういうことに慣れてるっつーか、そういう自分を“仕方ない”と思っている女の子。
普通ならこういうキャラ、特に女子から見たらもうシンジランナイ、大嫌いなキャラなんだけど、実際、彼女に夫を寝取られてる高田の娘だって、彼女にずっと恋し続けている高田の息子のカノジョだって、小夜のことは大ッ嫌いだろうさ。
でもね……上手いんだよなあ、そうは見せないの。こんな関係はもうイヤだと小夜が拒否しても「俺と別れられんの?俺は来るからな」と自信満々な高田の娘の夫、カノジョより先に動物園デートに小夜を誘う高田の息子、つまり、男たちこそがアホなんだもん。
でもやっぱり、小夜はマズいよなあ。親子ほど年の離れた高田をメロメロにして、彼女も彼のことを好きだと思い込ませて(まあ客観的に見たら、高田こそが確かにバカなんだけどさ(爆))、クライマックスでどんでん返し、なんだもの。
でもねでもね、動物園のシーンはなんか、妙に、魅力的なの。でか、シマウマぐらいしか映してないけど(爆)、でもこのシマウマのしんねりとした映し方が、妙にねっとりとしてて、シマウマの瞳の純粋さと対照的に、くっきりとしたシマの模様と、締まった筋肉の色っぽさと、なんか、なんとも……。
いや、これは、白黒つけろよとかいう、ベタなアレですか?いやいや、まさかねえ……。そんなことはどうでもいいけど、シマウマ、なんか、妙に、妙―に、こびりついたなあ。
そりゃまあ、小夜はムチャさ。高田に流し目で「私の好きな人、バレバレですよね」あなたの会話を聞いて、どこをどうバレバレなのだ……。安藤の話なんてひとっつも出てこなかったじゃん。
安藤には恋人がいて、その子もまた同じスナックで働いている、彼曰く「俺のカノジョなら、小説ぐらい読めよ」っていうタイプの女の子。
この子と安藤とスナックのママとの愁嘆場は、安藤が好きな相手が判明してみれば、構成要素として作られたひとつに過ぎないんだけど、でもまさかだったから!
えーと、いくつもリンクしていく三角関係があるからな、落としてるの、ないかな。まあいいや、とにかく進む。
冒頭の余命いくばくもない青年らの三角関係のことを忘れかけていた頃に、再登場する。高田氏の「その無垢な猫」をキッカケに、三角関係から一歩進んでヨメを得たという青年は医者から誤診を告げられ、その場でヨメはその親友と共に去り、突然カメラ目線よろしく、高田はそれ以降どうなったのでしょうか、と語りだす。
ちょっとここはさすがにハラハラしたけど(爆)、でもあの恋の定義、社会も体裁も何もかも、好きという気持ちの前では関係ない、そのことが、余命いくばくもない、いやなかった筈の彼の背中を押したから、彼もまた、高田の背中を押すんである。
ある意味、この青年も、高田も、誰しもが、その想いの成就に、破れる。さっき、高田の息子のカノジョだけは、紆余曲折の末にでも叶えたと言ったけど、でもそれだって、判らない。
実はカノジョだって、何かがあるかもしれない。本当に好きな相手同士の成就なんて、夢であり、その夢が叶っても幸せかどうかさえ、判らない。
叶わないからこそ、いいのかもしれない。「付き合ってもないのに、嫌いになんてならない」という、弟君の台詞がよみがえる。それってつまり、付き合ってしまえば、大なり小なり嫌いな部分が生じてしまう。
生涯で一番好きな人を嫌いになってしまうことほど、不幸なことはないのかもしれない。その“恋”の感情のまま、二番目、三番目に好きな人と一緒になることの方が幸せなのかもしれない。
あー、もう。私なんてもう、そんなことなんて判っていい年なのにさ、こんなお若いクリエイターに感心させられてどうすんだ……。
でもやっぱりやっぱり、切ないのは安藤である。まさかの、安藤。還暦祝いのパーティーに赤いちゃんちゃんこならぬ赤いベストを着せられて、それまでは上機嫌で、小夜への思いを皆に披露する筈だった高田。
小夜の好きな相手が安藤だと知って、彼女の思いをナマキスシーンで見せ付けられるキツさ。アゼンを通り越して逆上しちゃった高田、若い人たち、高田を尊敬し、尊重し、仲良くしてくれてきた人たちを、一人ずつ丁寧に罵倒する。
もう、ヒドイの、ババアだの魅力がないだの、妊娠した息子のカノジョになんか、「妊娠したから結婚じゃないだろ。妊娠したら、産む、だよ!」……正論だけど、でも男が、しかも舅がそれを言うなー!!ああ、でも、でも……そうなんだけど!!そうなんだけど……。
安藤は、高田が好きだったから、だから、高田の妻が浮気をした時、彼に代わって浮気相手をボコボコにしたのだ。それを高田は、安藤もまた妻の浮気相手の一人だと、疑った。
あの、還暦パーティーの場で、全てが赤裸々に明らかになった場で、そう告白した。まあそりゃ当然だよなとは思うけど、実は本当の真実を、高田も判ってたんじゃないのという気もする。気というか、皆が判ってたような気さえする!
だって還暦パーティーで告白しそこなった安藤、高田が小夜に失恋して、皆に罵倒しまくって、飛び出して帰ってしまって、それを一人追いかけた。
高田は猛然と自室に入り、原稿用紙を目の前にする。そのちょっと前に小夜との思い出からウキウキとした執筆意欲がわいていた高田、それをビリビリに破いて、書き直している。タイトルは「こっぴどい猫」
次々に書いては散らす高田に恐る恐る声をかけて、告白の続きをしようとしたら、高田は何の前触れもなく安藤にキス!観客アゼンで噴き出す!
高田はその理由さえ触れず、よし!とそのまま書き始める……って、なんでー!!かいがいしく高田の原稿を拾い集める安藤の姿に、彼こそ、一番好きな人に対する玉砕は勿論、二番や三番などもはや意味のないことなのだという、究極のプラトニックラブの切なさをじんじんと痛感する。なんとまあ、なんとまあ!
それまではね、振り回され役とは言え、やっぱり主演のモト氏、そしてその振り回し役の小夜、電子ピアノでさらりと弾くバッハの清冽さ(ピアノの椅子らしからぬあたりの、いい意味での真剣さのなさが妙味)その運命的な美しさに心奪われていたのだ。女子が嫌いなタイプだよなー、と、うすうす思っていながらも、高田同様、彼女の危うさに惹かれずにはいられなかった。
しかも、何度も嫌がりながらも弾きだしたピアノの見事な腕前、その演奏に高田、いやさモト氏が本気を出してギターを抱え、双方洒落たアドリブでセッションする素敵さときたら、もう、ステキすぎて、死にそうなの!!
この作品自体のオリジナルな音楽はない中、彼女の奏でる、バッハ、つながりつながるバロック特有の終わりのない感じ、人生の焦燥感、あるいは虚無感、そして何より、美しく心を満たされる感じ、凄く素敵で、そしてやるせない。
だってとにかくとにかく静謐なの。びっくりするぐらい。こんだけ人が出てくるのにさ!そしてこんだけ、ププッと噴き出し、クスクスと笑うのにさ!
高田が書き出した、何年ぶりかの小説は、「こっぴどい猫」彼の代表作が、「無垢な猫」であることを考えれば随分な格下げ。
でも、こっぴどい猫の方がチャーミングだし、そして猫は無垢よりもこっぴどいの方が似合ってる。ていうか、正解である。
ふりまわされるモト氏、その相手が猫だと思えば、まさに納得なんである。だって、猫は、猫の人間にとっての存在意義は、人間を振り回す、ただその一点の魅力なんだもの。★★★★☆
それが……。
えっ、ていうか、本当に、何でCoccoだったの?原案が彼女だという、そこから関わってくると当然、塚本監督と共同の企画者として、そして勿論主演として、音楽担当として、しかも美術担当にまで名を連ね……。
そう、今まで塚本作品が、その全てのスタッフの名前に塚本晋也の名前を連ねていたのが、彼とCoccoと交互に連ねられるようなスタッフクレジットに、驚きを覚える。
今まで塚本監督はいい意味での独裁者、自分で全てを采配するクリエイターとして、唯一無二の世界観を作ってきた。それが、こんながっつり共同作業が目に見えるようなスタッフクレジット、本当に、驚いた。
いや勿論、驚いたのは作品自体なのだが……ていうか勿論、塚本作品に驚かされないことなどないのだが……。
だけど、やっぱり、塚本作品、塚本カラーとしての展開はひょっとしてひょっとしたら、そろそろ限界に来ていたのかな、なんて本作の驚きに触れて、勝手なことを思ってしまった。
いや、勿論、本作がなければそんなことは思わなかったかもしれない。塚本ワールドの独自の世界は、他の追随を許さない。
でもね、長年の企画であった鉄男の海外版を作って、悪夢探偵のようなシリーズもありつつ、モノクロ、あるいはブルーグレー、カラーであってもメタルチックない色合いを崩さなかったパッケージとしての塚本作品は、その内容や、物語や、人物の心情等々に至ってもやはりその中に埋没……とまでは言わないにしても、やはり飲まれてしまって、そのパッケージが評価されるような感じが、ひょっとしたら昨今はあったかもしれない、と思う。
一巡なんて単純なことは言いたくないけど、でも一巡だって、ここまでかかるんだから、やはり塚本ワールドの強大さは相当だったのだ。
そんなことを思ったのはね、本作のファーストインプレッションは、あ、見た目、普通の映画だ……だったから、なのね。最終的には全然普通の映画なんかじゃないんだけど(爆)、普通に鮮やかなカラー映画。
日常の色彩、Cocco演じる琴子は精神を病んでいるにしても美人だし、ファッションも素敵だし、息子を溺愛するカラフルな部屋の様子も、それが次第に病んで病んで病んでいって収拾がつかなくなるにしても、でもやっぱり今までのメタリックな塚本ワールドとは違って、フェミニンで。
彼女の実際の故郷でもあって琴子の故郷として登場する沖縄もまた、わさわさと茂る緑も、信じられないほどのマリンブルーの海も、あまりにもカラフルなのだもの。
あるいはそれは、それまでの塚本ワールドと両極にあるという、その極端さにおいて、やはりどこか非現実的な色合いはあったのかもしれない。
いや、本作を非現実的などととらえていいかどうかも判らない。ひどく現実的だとも思うし、ところどころはひどく非現実的だとも思う……のは彼女の精神病みによって、なのだけれど。
正直言って、壊れゆく女を映画に描かれるのは、好きじゃない。
だってそれだけで画になっちゃうし、それだけで美しいし、壊れゆく女を映画で見かけるたびに、ケッ、女はこんなに弱くないよ、と思ってしまう。
男は女のことを、弱い生き物に当てはめたいんじゃないの、と。
でも、本作では、そんなこと、ちらとも思い浮かばなかった。ていうか、今こうして書いていて、壊れゆく女を描く映画を私は嫌いな筈だったのに、と思った。
なぜなのか、と自分に疑問を投げかけるまでもなく、答えは簡単だった。彼女は、壊れゆく=弱い生き物としての女ではないから、なのだった。
正直なことを言うと、ね。それは子供がいるから、全身全霊を傾けて愛する子供の存在があるから、という結論に本作をしてしまったら、それもまた私は、ヤなのだ。
私自身が子供を持っていないからかもしれないけど(爆)、でも、子供によって女のアイデンティティが変わってしまうことに、無性に拒否反応が、あった。
それは確かにあるんだけど、本作もそういう結論にしてしまえるのかもしれないけど、でも、なんだろう……上手く言えないけど、やっぱりなんか、違う気がした。
琴子は女一人、息子の大二郎を育てている。父親の姿はない。それについて特に事情が示される訳でもないし、後に琴子に想いを寄せる小説家、田中が現れて、息子を預けている姉夫婦のいる沖縄を訪ねる描写があっても、特に家族関係が強調される訳でもない。
しかも田中は、琴子の相当なやっかいさを辛抱強く乗り越えて一緒にい続けたのに、彼の愛をようやく彼女が信じた途端に、夢のように消えてしまう。
この田中を演じているのが、自作には必ずメイン級で出る塚本監督なのだけれど、今までの塚本作品の流れをほうふつとさせる、ナゾで、怪しげな存在で。
殴られて顔ボコボコで血だらけとかはいかにも塚本ワールド全開でさ、こういう顔の塚本監督、何度見たかな、ってぐらい……「東京フィスト」を思い出すぐらいの、壮絶なボコボコ。
そう、殴る相手は当然、Cocco演じる琴子。言い寄る男の手にフォークをぶっ刺す伏線は前半で既に示されていて、そのカルいナンパ男は「女はさっさと子供産んで丸くなれっての」的な聞き捨てならねーつぶやきを発したもんだから、琴子はざっくりフォークを刺して、仕事しな、と不適な笑顔で囁いたんであった。
なのに、田中はめげないの。名高い文学賞を受賞するぐらいの有名作家が、琴子のボロアパートに日参する。
フォークを二本ぶっ刺されてもめげない。それも一発目は見事に彼女の手首を押さえても、二発目で刺されたりとかしてるのに。
田中が琴子を見初めたのは、彼女が息子に会いに行く空港へのリムジンバスの中だった。最初にCoccoの歌声がナチュラルに、印象的に流れる場面。
田中が姿を消すのが、琴子が全身全霊を込めて歌う場面の後であることを考えると、……琴子にとって、歌っている間は世界はひとつであるというモノローグを思うと、それって一体、それって一体……。
なんかね、田中自体が、彼女の妄想だったのかもしれない、なんて思ってしまう。
優しげに話しかける人と、ソックリの容貌の、暴力をふるってくる人、全てが両極端の二つに見える。
田中との出会いもそうだった。優しげに話しかける田中と、三白眼で唐突に理不尽に暴力をふるってくる田中。だからこそ、琴子はどんなに日参されても拒否してた。
でも、ほだされてしまう。そりゃそうだよね、と思う。でも、それこそが、あまりに塚本カラーと離れているので、しかも尺的にも中盤だし、見ててひどくハラハラする。このまま幸せに終わる訳がないと思う。
そう思ってしまうと、琴子に血だらけボコボコに殴られた田中の描写さえ、スウィートなラブに思えてしまう。いや、実際、そうだったの、だろう。
習慣的なリストカットを田中に再三発見され、うろたえた彼に介抱されるシークエンスの繰り返しは、ちょっと引いたカメラで、風呂場から血だらけの手を出して、うろたえまくる田中にタオルの場所などを指示するという、壮絶なのにふとクスリとさせて。
……絶対このままハッピーエンドでなんか終わる訳ないと、思っちゃうから、壮絶とコミカルの間で不安になるばかりで。
本当に、田中は本当に、琴子の前にいた現実の人物だったんだろうか。
そんなことは、いくら考えても、詮無いこと、なのだろうか。
田中と共に大二郎に会いに行った時、特に田中と言葉を交わした琴子以外の人はいなかったように思う。田中が大二郎の傍らに添い寝している画は微笑ましかったけど……。
琴子が「私、幸せになる。これまでの人たちを見返すぐらい」と宣言した時、お姉さんが涙をぬぐったのは、それどおりにとって良かったんだろうか??
でもその直後、琴子と大二郎が一緒に暮らしていいという許可が出たんだから、考えすぎか……。
あ、なんか言ってなかった気がするけど(爆)、その情緒不安定で幼児虐待を疑われた琴子は、ずっと大二郎と引き離されていたんであった。
一人で都会で暮らしていてもなかなか改善の兆しは得られなかったんだけど、田中との出会いで、今まで二つに見えていたものが、二つに分裂していた世界が、一つになりはじめ、つまり良くなってきていたように思っていたのだが……。
そう、言ってなかった気がするけど(爆)、最初のシークエンスでの、赤ちゃんの大二郎を抱えて、情緒不安定にもほどがある琴子の描写は、塚本カメラと言いたい暴力的なカッティングもあいまって、もう、キツくて。
泣き叫ぶ大二郎を抱きかかえながら中華なべで野菜炒めなんかを作ってて、皆どうやってるの、私にはちゃんと出来ない!とヒステリックに中華なべを投げつけるシーンは、後から思えばあまりにあまりすぎて……。
つまり、いくら泣き叫んでいるからって、赤ちゃん抱えて中華なべ振るとか、なんで中華なべで野菜炒めなのかとか、煮物でもいいじゃんとか、ひょっとしてこの場面はインパクト以上にちょっとコミカルネラってる?なんても思って……。
でもあまりにCoccoのキリキリさと、勿論塚本カメラ&カッティングのエッジ効きすぎで、そんなことは思いもしない(爆)。
ただただ、身を硬くして成り行きを見守るばかりなのだ……。
最終的にはね(またいきなりトンじゃうけど)、琴子は精神病院に入れられ、そこに中学生ぐらいに育ったと思しき、なかなか美少年な大二郎が訪ねてくる訳。
この時が一番、大二郎の成長が飛ぶ場面なんだけど、クライマックスまでだって、乳児の大二郎から引き離されて次に会う時にはもうめちゃめちゃ歩いてるし喋るし、一体ここまで何年かかってるの??と思う訳。
見せられてる琴子の時間感覚、そして彼女が感じている時間感覚も全然違ってて、もう、どんどんどんどん、進んでるのだ。
何かそれが、非現実的で。彼女の痛みはメッチャ現実的なのに、なのに。
そう、痛み、なんだよな。琴子はリストカット常習者。殴られてボコボコは塚本映画の定番で、だから監督が血だらけボコボコの描写はある意味落ち着くぐらいなのだが(爆)、琴子のリストカットは、今の映像が上手く出来ていると判ってても、キツかったなあ……。
死ぬつもりな訳ではなく、血がしたたる様を見て、身体が、生きろと言っている、それを実感したいために、琴子は自傷行為を繰り返す。
身体よりも、神様とか、もっと高みの、自然の仕組み的なところから、そう言ってもらってる、もらいたい感覚のように思う。
物語が進行するほどに、彼女は天に、あるいはこの現実ではないどこかに、答えを求めようとあがき、歌い、捧げるから。
映画的クライマックスであり、何より衝撃なのは勿論、琴子が大二郎を殺そうと(ていうか、殺したんだとばかり思ってたから、ラストに超絶ホッとしたよ!)する場面。
……あのね、あるじゃない。子殺しの事件って。父親の場合よりも母親の場合ってなんか……込み入ってる、じゃない。
決して決して、肩を持つ訳じゃない。でも……母親が、それもシングルマザーが子供を殺してしまう事件に、表面上に見える要素以外に、なんだかなんだか、哀しさがにじみ出ている気がして仕方ない、そんな、勝手な“妄想”に、優しい答えを出してくれた、気がして。
勿論勿論、許されることじゃない。でも、本作が、その最初から、琴子の苦しみを、今から思えば女としてとか、人間としてとかじゃなく、大二郎の母親としてどうなのかという苦しみを、見つめ続けてきたから。
妄想が進んで進んで、何か、ゲリラ兵に大二郎を殺されるとか、非現実にも程がある展開に進んで、自分の手が届かない場所で、自分が救えない場所で無残に殺されるぐらいなら、とぶるぶる震えながら、鼻水ぶったらしながら、もうホントに鼻水のぶったらし度なんて尋常じゃない訳で(爆)、そうして大二郎の首を……。
うっそ、うっそお、本当に、本当にやるの?ウソでしょ!誰かが割って入るとか、ハッと我に帰るとか、してよ!と思っているうちに、なんかファンタジーな展開になるし、そのまま精神病院だし、雨の中歌い踊ったりするし、もう完全に大二郎は彼女の手にかけられて死んだと思ってたの!
で、そう。なんかもう判んなくなっちゃったけど(爆)、許されないことだけど、子供を手にかける母親の追い詰められっぷりが、愛している、本当に愛しているのに、っていうのが……。
どう言えば、いいんだろう。そう、彼女を、彼女たちを救えればいいのだ。でも、でも……。
だから、ファンタジーにごまかしたと言っちゃうにしても、ラストの救いには心を打たれた、のだ。
琴子は殺したと思った息子が訪ねてきたことに驚くけれど、あの様子では恐らく、彼は何度も訪ねてきている。
日常を報告し、また来るね、ママと言い、千羽鶴を残し、窓の外から、そう、琴子が沖縄に預けた幼い彼に会いに行った最初の時、顔は泣きながら、後姿で、木陰から手を振った、あれを真似て、美少年に成長した大二郎君は、後姿ながらも笑顔の顔を振り向けながら、手を後ろ向きに振った。
まだ呆然としている感じの琴子が、面会室の窓から静かにそれを見つめて、すっと見切れる。本当に、Coccoが素晴らしかった。
なんかね、やっぱり、母親は、絶対で、父親なんて存在は、いらないのかもね、と。アーティスティックな塚本作品にそんなヤボなことは言いたくないけど、それほどヤボじゃない気持ちで、そう、思った。
いや、役者としての、田中としての塚本監督素晴らしかったし、それは、この価値観をポジティブに肯定する意味で存在していたと、思いたい。母親は、それだけで、恒久の存在なのだと。
やっぱり時期的に、震災に絡めた母子や家族の価値観なんて言わなきゃいけない雰囲気アリアリだけど、確かにこの時期の作品にはどうしてもそれを感じたけど、本作は、そんなこと、言われるまで気づかなかった。だから、ただただ、作品の力を、信じたい。
★★★★☆
そう、後から客観的に眺めれば。相変わらず大林監督というお人はあんな柔らかな笑顔をして、有無を言わさぬ強引な映画にまとめあげちゃう人だ。皮肉じゃなくて、本当にそう思う。
これだけぶれない人を、私はちょいと知らない。普通の映画の尺で考えればありえないほどの要素を一個も削らず、一見してみれば駆け足のような凄まじいカッティングで紡いでいくのに、見せちゃう、巻き込んじゃう。
正直言ってその凄まじさに、時々聞き取れなかったり、咀嚼しきれなかったりするところはままあり……まあそれは、私が歴史が苦手だってことが往々にしてあるあたりなんだけど(爆)、それでも見せちゃう。
松雪泰子が彼女らしいしっとり演技を披露しているのもお構いナシに、ぶったぎってっちゃう。
そんな風に思ったのは、同じように3.11だけではなく、他の要素も入れ込んで空中分解してしまった(と、私は感じてしまった)作品があったり、あるいはとにかくそのロケーションを収めることに腐心している(と、私はやはり感じてしまった)作品があったり。
今年は3.11をテレビの即時性から遅れて映画がその後を追うような年で、いち早く傑作を作り出した「ヒミズ」があっただけに、なんかその後は……言い方は悪いけど、3.11を食い物にしているような……言いすぎだけど……なんかそんな感じが、しなくも、なかった。
でもどうしたらいいのかは、判らない。どんな形でも作り、残し、伝えることが重要なのは判っているだけに、なんだか釈然としない気持ちが、こと映画作品では残り続けていた。
本作に関してだって、それはまあ、なくはない。先述したように、これは大きな意味で言えば戦争映画、戦争の悲惨さを伝える映画と言っちゃったっていい訳で、そこに3.11はそう入り込めない。
長岡中越地震の経験からいち早く被災市民を受け入れたといっても、それを詳細に描写する訳じゃないし、それどころかそれに重きをおいている訳でもない。
でも、そのことに、釈然としない気持ちが不思議とわかなかったのが……どうしてか、私も明確には判んないんだけど、先述したような、めまぐるしい展開に巻き込まれちゃったのかもしれないし、あるいは……。
一番大きいのは、これが“戦争映画”で、戦争の悲惨さを語り継ぐ映画であるとしたら、あまたある“戦争映画”の、戦争の悲惨さを映画が伝える手段としての、血なまぐさい描写を一切、とらないことであると思われる。言ってしまえばまるで小説か、絵本か、それこそ紙芝居のようである。
“それこそ”というのは、最も重要なキーマンである戦争の語り部である元木リリ子さんが、子供たちに紙芝居を使って自分の体験を語るんである。それに呼応するように、資料館では市民たちの記憶を絵にして展示してある。
時に絵の方が残酷で、トラウマのように心に刻み込まれるというのは、ああ、そうだ、私、思い出した。子供の頃、読書感想文の課題図書だった、丸木夫妻の絵本がまさしくこの世界だったのだ。
戦争から3.11に入れ込んでいくのは、その点において決してムリのある話じゃない。原子爆弾。
大林監督といえば、尾道という、特異なノスタルジックプレイスなもんだから、尾道が広島であるということを、うっかり忘れてしまっていた。
そしてヒロインは長崎の天草からやってくる。原爆、原発、つながっていくんである。
3.11と戦争がそんな風につながること、判っていた筈なのに認めたくなかったのかなあ。ずっとずっと責められている気がする。原発のことを。
でも原発が戦争に結びつくことを、私は、ちゃんと判っていなかったのだと思う。……なんかそんな話ばかりつらつらして、本題に行けてないなあ。
本題、でもこの作品はそんな単純にはいかなくて。いわゆる人物間のアウトラインとしては、松雪さん演じる玲子が、かつての恋人、片山の手紙に引き寄せられるようにして、長岡にやってくる。
高校教師の片山は、元木花という女生徒が突然持ち込んだ脚本に魅せられ、長岡の花火大会の日に上演するから是非見に来てくれと玲子に手紙を書いた。
片山を演じる高嶋政宏、彼を観る機会がなかなかなかったせいもあるんだろうけれど、なんだかやけに枯れた色気を漂わせていて、しばらく彼だと判らなかった。上川さん?いや違うよなあ、とか思って(爆)。
弟の政伸氏もそうだけど、なんかこの兄弟、いい年になったらいい感じになったなあというか(爆)。凄く、素敵だった。彼、大林作品初、だよねえ?ちょっと今後を期待しちゃうなあ!
二人がなぜ別れたのか、決定的な理由は今ひとつ判らなかったけど、そろそろ母親になったら、とプロポーズだろう若き二人の場面がやはり、そうだったんだろう。
その途端、玲子は態度を硬化させた。被爆二世であることが、彼女を躊躇させた。
そのことは、3.11の福島県民に生々しく降りかかることであるし、実際、地元紙の記者である玲子は、そうした記事を詳細に読んでいる。
作品の結末として、彼女が、片山とヨリを戻すなんてことはなかったにしても、「母親になる。相手は探さなくちゃいけないけど」という結論に達したのは、被爆県の民である大林監督だからこそ、言ってくれて嬉しい言葉だったと思う。
まあその、女性の出産可能年齢的な部分としては、玲子はなかなか微妙なところではあるけど(爆)、そこを突いちゃうと、また違う話になっちゃうけどさ(爆爆)。
片山に「まだ戦争には間に合う」という印象的なタイトルの脚本を持ち込んだ女学生は、実は原爆の模擬爆弾で亡くなった赤ちゃんであった、という、残酷とファンタジックが融合したような設定。
そもそも原爆の模擬爆弾なんてものがあったこと自体、劇中で言われているように近年判明しつつあること、という、聞いたことないもの。
それ自体がかなり衝撃で、尾道、広島を愛する大林監督としては捨て置けないことなんだろうな。
そしてそう、その女学生、花。そもそもこの学校の制服が今時ないぐらいのクラシックなセーラー服。だからこそ成立するこのファンタジック。
彼女が一輪車を乗り回していて、彼女を筆頭にしてあらゆる場面で夢のように一輪車の列が横切ってくファンタジックは、ほんっと、大林監督好きそう、って感じである。
日本のみならず世界でも名を残している一輪車のスペシャリストであるという、花役の猪俣南嬢は、それでなくてもいかにも大林監督が好きそうな風貌で、整えてない眉毛とかドキドキするぐらいピュアで(爆)、時をかける、じゃない、時を飛び越えてきた少女、なんだよなあ。
それで言えば、松雪さん、南嬢と共に三人目のヒロインとも言うべき、長岡地元新聞の新進記者、原田夏希嬢もまた、いかにも大林監督が好きそうな女の子。
キャリアの長い彼女が今まで大林作品に呼ばれてなかったのが不思議なぐらい、大林作品の匂いがする。というのも私、あれ?石田ひかり、まだこんなに若かったっけ、おかしいなあ、としばらく思いながら見てた(爆)。
顔立ちというより雰囲気が凄く似てて、ああ、大林監督が好きな女優って感じ、と思った。彼女主演の大林作品とか、見てみたい。
夏希嬢扮する井上和歌子が玲子をいろんなところに案内し、いろんな人に引き合わせ、あるいは自分自身もいろんな人に会い、話し、いわばこの映画のアウトラインを紹介する訳だから、語り部とまでは言わないまでも、実に重要な役どころをまかされているのを思えば、ヤハリ、である。
タイトルにもなっている長岡の花火をあげる老花火師、野瀬清治郎氏や、幼い娘を亡くした元木リリ子氏、それぞれ柄本明、富司純子という重鎮が演じ、ちょっと老け役すぎて可哀想と一瞬思うが(野瀬氏の奥さん役の根岸季衣なんて、ワザとらしいまでの白髪ヅラだもんなあ)監督が信頼する役者に託すムチャぶりというヤツなんだろう。
同程度の年齢でもいい役者はいらっしゃるけど、そのあたり案外シビアだなと思ったり。
野瀬氏や元木氏はご本人も登場するから、さらにそのあたりは重要度が大きいのだろうと思う。そう、作品の紹介でも出ているけれど、セミドキュメンタリーの趣、なんだよね。
セミドキュメンタリーと言い切ってしまうには、大林監督の押しの強いカラーがインパクトありすぎて、そんな大人しいモンではないよな、などと思ってしまうが(爆)少なくとも後半は、その要素が強く出てくる。
中盤までは、あったとは思うんだけど、あんまり(爆)。うーん、でも、新聞記事とか多用して、先述したようなパールハーバーとの交流とか、追悼、絆の花火とか、事実をそのまままっすぐに織り交ぜてはいたんだけど、何度も言うように、とにかく詰め込み、詰め込み、だからさあ(爆)。
だからきっと、観客によって感じる基点、重要点は違うと思うんだけど……。
あ、私は、福島から避難してきた高校生、高橋君が印象的だったなあ、妙に。妙に、って、なんだ(爆)。んー、でもつまり、これもまた先述したようにさ、展開上、言葉の上では原発近くの被災者の受け入れ、その施設での活動とか言われるんだけどさ。
本作がセミドキュという形をとってしまったことが、この場合は逆にアダになってしまった……とは言い過ぎかもしれないけど、同時代性という点ではそこに突っ込めなかったのは、やっぱりちょっと、イタかった気は、するんだよね。
そりゃ仕方ない部分はあると思うけど、言っちゃえば、言っちゃえば、戦争を語る人への根回しなら、いくらでも時間かけて、出来るんだもの。3.11を巻き込んだ映画を、しかもセミドキュで撮るなら……と思っちゃうんだもの。
そういう意味ではちょいとした皮肉という側面もあるけど、フィクションとしてでも、避難してきた高校生を演じる森田君は、うん、彼は上手いからさ、ナチュラルに、上手いから。
つまり彼は、時をかける、じゃなくて、時を飛んできた少女を受け止める少年であって、そういう意味では経験値が高い(爆)。
大林監督のファンタジックを受け止める土壌がある上に、今のリアルなワカモンの感じもあって、この不思議な一輪車少女にニュートラルに戸惑う感じが良くてね。
クライマックスとなる、野外上演される演劇は、まさにこれぞ、真夏の夜の夢、だった。
あまたある、血なまぐささの度合いを争うような、CGまで使ってリアルさを競うまでになってしまった、哀しき“戦争映画”の実態を、人の心の中にしまわれている画として差し出す。黒焦げになった死体も、ぐりぐりとクレヨンで塗られた絵として差し出される、ような。
次々に落下してくる焼夷弾も、着弾する時はそれこそ紙芝居に描かれる炎そのもの、そしてパッと本当の炎に切り替わる。
映像処理としては、その方が相当大変だろうと思う。いわゆる、ある種の、映像としてのウソくささを示す方が。
でもそれでも、大林監督は、それを、そっちを選択したのだ。いくら今の技術で、当時の残酷さを再現できても、それを実際に見て、その目で見て、逃げ惑い、愛する人の死を目の当たりにし、生き延びてもその幸運を喜ぶだけなんてこと、到底出来ないのだから。
そうか、ああそうか、だからか、そうか……。数ある3.11後の、その様子を生々しくフィルムに収めた今年の映画たちと本作が違うのは、そういうことだった、のかもしれない。
今なら、まさに、チャンスだ。過去の戦争をわざわざCGで再現しなくても、ホンモノを収めることが出来る。でも大林監督はそうしなかったし、過去の戦争をリアルに再現することもしなかった。
全ての真実は、それを経験した人の心の中にある。紙芝居や絵にギリギリに示された、一見稚拙に見えてもその中にこそ真実がある。
思えば、彼がずっとファンタジーを愛してきたのも、同じ理由だったかもしれない。甘ったるいように見えて、そう糾弾されても、その中にこそ、彼の、彼女の、思いがあるのだと。
花火は原爆と似たような構造、そのことに玲子はショックを受けた。そしてだからこそ、山下清は、世界中の爆弾が花火に変わったら、と言った。
そんな基本的で、単純なことを、世界中が判ってないから、世界中に、世界中に、言いたいんだ。
★★★☆☆