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太陽の坐る場所
2014年 102分 日本 カラー
監督:矢崎仁司 脚本:矢崎仁司
撮影:石井勲 音楽:田中拓人
出演:水川あさみ 木村文乃 三浦貴大 森カンナ 鶴見辰吾 古泉葵 吉田まどか 大石悠馬 山谷花純
だって矢崎監督はヤハリ作家性タイプの、風合いや肌触りや、その中でちくちくと痛いような、そういう世界で見せる作り手だもんなあと思い……でもそれでも彼が演出することになったことになにがしかの感慨を覚えたりする。
なあんて、ね。ここ2、3作は見逃してるみたいだから、いつまでも作家性タイプにとどまらずに、こちら側に歩み寄ってきたのかもしれないのだけれど、でもやはり、矢崎仁司は矢崎仁司。
それともこれは、舞台が山梨だから、彼にお鉢が回ってきたのだろうか?原作は明確に山梨と設定されている訳ではないらしいが、原作者が山梨出身だし、”東京に隣接する田舎”で、その感覚をリアルに描き切るのだから、きっと本当に山梨、なのであろう。
いや、原作は読んでないからアレなのだが、なんたって本作の成り立ちが、山梨放送開局60周年記念作品、だというんだもの。地元の大いなる後押しがある訳で。
でもそれで、半ばその舞台を否定……まではいかないにしても、東京に隣接する田舎、というアンビバレンツを痛烈に感じさせる、こんなに近くに逃げ出せる場所があるのに、という描き方をするってのが、凡百のご当地映画では出来ないことだなあ、と思う。
やっぱり、ご当地映画って、そういうネガを避けるもの。社会派的なネガティブさは世間に訴える力があるから入れ込むけれど(昨今の原発映画とかさ……)、こういう、いわば名誉にかかわる部分って、なかなか見せないよね。
それこそ原作だってF県だったと思えば、根深いものがあると思う。でもそこを山梨放送、そして矢崎監督は切って破って、この不思議な手触りのミステリを作り出したのだ。
ミステリ?なのだろうか……。いや、原作はそもそもそうだというし、本作の謳い文句もミステリ、宣伝に駆け回っている水川あさみ嬢もミステリだと言っていたけれど、果たしてそうだろうか?あさみ嬢は、ちゃんと出来上がった映画を観てそう言っている?(爆。いくらなんでもそれはないか。)
原作が未読だからあくまで推測の話になっちゃうけど、高間、という苗字でしか原作のデータでは記されていなかった彼女が、もう一人の、女王様として君臨していたキョウコその1であったということが、ミステリの部分だったんではないの?いや、ホント、推測だけの話になっちゃうんだけど……。
だってさ、どうなのか知りたくて、アマゾンとかいろいろ探るんだけど、ミステリだからなのか、皆詳細は濁して、感覚的なレビューしか載っかってないんだもん(爆。人のこと言えない。)。
それとも映画はベツモンのセオリー通り、原作ではワキだった高間が、もう一人のキョウコとして映画の主人公として立てられたオリジナルストーリーになってるとか?まさか……。
うー、最近、ダメだな。原作への目くばせばかりしてしまう。だってさ、映画オリジナルがあまりにも減ってしまっているんだもの、原作=小説=文学の地位には勝てないよ!!
……だから、最初からそんなことを気にせず、映画だけの魅力で見ればいいんだ……ぶつぶつぶつ。
そう、私の推測が当たっていようとなかろうと、高間響子がキョウコ1であることが最初から提示されざるを得ない、というのが映像作品としてのそれならば、本作は決してミステリなどではなくって、女の子なら大なり小なり学生時代……多くは本作のように高校時代あたりに経験した、小さなコミュニティの中でのアイデンティティの獲得の葛藤、なんである。
そう、大なり小なり、覚えがあるもんだ……。この場合、どちらの側のグループに属していたかによって、その感覚は大きく異なると思うけれど、そのどちらの側のグループの、トップなのか取り巻きなのかが、更に本作の場合は大きな問題になる。
クラス運営のみならず、学校運営、校風にまで大きく影響する、クラスのトップグループのそのまたトップの女の子、の気持なんて、そりゃー私みたいな下っ端ヤローに判る訳がない、判りたくもない、というのが正直な気持ちだった、当時は(爆)。
でも今こうして、エンタメという形でもその片鱗に触れてみると、下っ端ヤローは幸せだったのかもしれない、と思う。まあ半ば、慰め半分にだが(爆)。
下っ端ヤローは、本作に描かれた女の子たちのように、トップに呼ばれるか否かとか、ハブにされるか否か、などと悩んだりすらしない。下っ端だから(爆)。
でも、”心優しい”トップグループが、こっちにおいでよ、一緒にお弁当食べようよ、とかいう感覚の、”お慈悲の心”にトリハダが立っていた覚えはある。
まさしく本作の中でそれが、下っ端グループじゃなくて、中堅からトップにお声がかかったことで野心を持つ女の子、という形で描かれ、改めて、私、下っ端で良かった……と思ったりするんである。
まあ、だから、私の話はどーでもいいんだけど(爆)。でもキョウコ、女優名はキョウコ、高校生時代は、女王様であった高間響子のサブにつかされた形の今日子は、苗字の鈴原をもじってリンちゃんと呼ばれた。
そう決めたのは、女王様の響子だった。でも、響子はそんな言うほど、女王様だったのだろうか。
確かにみんなが崇めるようにキョウコちゃんと呼び、群れ従い、学校一の人気者の男子と”お似合いだよね”と言われた。
でもすべてがあいまい。この”お似合いだよね”で判るとおり。あいまいでも女王様だったから、由希のようなしたたかな女子に付け込まれることになる。
でも本当に男子に人気があるのは、最初から響子がそう言って由希を招き入れたように、こういうしたたか女子であって、それが10年後にも続いている。
由希に岡惚れしていた、イマイチさえない男子であった島津が同窓会の幹事という名目で、東京組の由希と執拗に連絡を取る。由希は絶対、彼の気持ちが判ってるよな、高校生時代から……。
そして今でも判ってて、「(同窓会)来てほしくないキョウコの方が来ちゃった。本物の女優を呼んで、あの女王様の鼻をへし折ってやりたかったのに」と悪びれずに言うんである。
原作を読んでないからアレなんだけど(とまたしても言うチキンハート(爆))、あくまで中立立場、慈悲をかけられておどおどしている女の子のそばに立つ今日子=リンちゃん=後の女優、キョウコも、完全下っ端ヤローの感覚としては、あんまり好きじゃないのだ。
やはりこれも、トップグループに隣接している女の子の感覚だと思う。いやでも、やはり時代かな。だってほんの10年前の女の子たちなんだもの。
制服のデザイン、スカート丈、靴下の色や履き方、10年前でもはや、全然違うのだもの。
それでもグループ分け、立ち位置の感覚は、いまだに変らないのか、という暗澹たる思いは、私の時代よりもこの10年前、そして今に至ればもっともっと、違うのだろうけれど……。
で、まあ相変らず判らないままの突っ走りよう(爆)。うーむ、でも結果的に、映画化作品ではミステリではない(と私は思うのだが)のだから、ここまでの記述で割と判っちゃうような感じもするけど。
でもアレかな、現代の二人のキョウコと10年前のそれを入れ子のように、交互に示し、時に画面を分割したり、亡霊を見るかのように過去の彼や彼女を振り返って目に止めたりする、という描写の仕方に、ミステリの感覚をとどめているのかもしれない。
キョウコその1、高校時代の女王様のキョウコ、高間響子、現在は地元テレビ局のアナウンサーとしてそれなりの人気と知名度を誇っている。
しかし同級生でもう一人のキョウコ、鈴原今日子、当時は高間響子こそがキョウコちゃんであったから、苗字からとってリンちゃんと呼ばれていた彼女の方が、人気女優、キョウコとなったもんだから、その差は歴然としている。
でも高間響子にも、東京のキー局から誘いが来ている。飛びつくかと思いきや、「私はここで生きていくしかない」と彼女は断るんである。なぜ……。
そんな、影や鬱屈がたっぷりこんとある高間響子に、あのアッケラカン女優、水川あさみが扮するとはオドロキなのだが、ステキである!!そうか、彼女は黙っていれば憂いのあるイイ女……いやいや(爆)。
対するリンちゃん=女優のキョウコは、いつ見ても伊藤歩が若い……と思ってしまうザ・演技派、木村文乃で、彼女がリンちゃん長じてキョウコになった、というのはさくっと納得させられるものがある。
でも先述したように、こういう中立の立場、弱い者に寄り添える立場を保ちながら、学校一の人気男子に思いを寄せられて、女王様のプライドをへし折る女の子、というのは、下っ端ヤローにとっては実は、女王様よりもちょっと苦手と思っちゃうのだ……。
原作は深く書き込まれているのだろうし(あっ、また原作気にしちゃった!)、そうそうカンタンには言えないんだろうけれど、同窓会の幹事ですら知らない、風来坊スターや地味女子の行方をちゃんと知っている。
いい意味で言えば友達思い、意地悪く言っちゃえば要領よく誰からも好かれるスタンスで付き合ってる、という女の子に思えちゃうから。
いやさ、そらー、このキョウコですら嫌っている、告げ口女、由希なんかはさすがに、ヤだとは思うさ(爆)。
でもこの由希は、記号的というか、言ってしまえばコメディリリーフといえるぐらいの存在だよね。いるいる、こういう子、という、イコンに弱い女の子。
有名な映画や、その主演女優の本にかぶれて、友人にその価値観を押し付ける。やばい、私、こんなことしてなかったかな(爆)。
しかも10年後にもそれが消えてなくて、「ティファニーで朝食を」のヘプバーンのカッコで墓参りをする。
「パンツにまで名前を書く」というクセが彼氏から笑われているのも知らない、ちょっとイタい女の子。ただ外見はいつも今風にイケイケな女の子。
この由希に、当時から、10年後の今もホレてるのが、三浦貴大君演じる島津で、彼の、いわば気持ち悪さがセキララに出たならば、面白かったのになー、とも思うが、矢崎作品ではそれは、やはりちょっと、カラーではないかなという気もするし、やはりそこは、二人のキョウコの物語だから……。
学校一のスター、清瀬君とカップルでいれば、自分の地位が保てる、高間響子のそんな些末な思いさえ、彼自身に見抜かれていて、清瀬君はリンちゃん=キョウコその2と付き合い始める。
物語の冒頭は、キョウコその2を女王様のキョウコその1が呼び出す場面であり、キョウコその1は、自分を閉じ込めてくれ、という。
「閉じ込められるのと、閉じこもるのは違うのよ。」タイトルとなる太陽、女王のいる場所はいつでも光り輝いている、そんな意味合いを込めて。
その前に、キョウコその1の高間響子は、悪魔のようにしたたかな由希から吹き込まれて、気の弱い女の子、倫子を体育倉庫に閉じ込めた。
それまでは女王様風を吹かせながらも決定的なコトは起こしていなかった彼女が、初めて犯してしまった罪であり、後から思えば由希が彼女のことを悪しざまに言うのは、そもそもおめーだろ、と言いたくなるという巧みな線引きがあったりもするんである。
まあそれほど単純ではないというのが、更に巧みなところなのだけれど。
10年後にこの体育倉庫室で再会する、二人のキョウコ。そして何より、高校生時代の、そうしたどす黒いいろいろがあったにしても、やっぱり女の子同士がきゃわきゃわと触れ合い、小さなハンカチを敷いて地べたに頭を寄せて寝転がり、ガールズトークを繰り広げる様は、なんとも言えず琴線を震わせるんである。
たとえその中で繰り広げられている会話が、陰謀に満ちた、駆け引きたっぷりのきゃわきゃわであったとしても。
ああ、女の子というのは、なんという悪魔の魅力なのだろう。こんなにもどす黒いものを抱えて、10年後まで持ちこしているのが判っているのに、紺サージのプリーツスカートから覗く象牙色の太ももに天使を感じてしまうなんて!!
暗いところに閉じ込められる、太陽、というキーワードは天岩戸、なんだね。ラジオDJをつとめている高間響子がリスナーからのリクエストに、映画、アマノイワトの主題歌です、とマイクに向かって言うシーンがある。
それ以外はリアル楽曲なのにこれだけんん?と思っていたが、原作にはその映画の主演がキョウコその2で、それでブレイクしたというのが、あったんだね。
天岩戸や光り輝く場所というキーワードは感じられたにしても、このフィクションにんん?と思う気持ちの方が強かったから、やっぱりこーゆー部分が、原作小説を映画にする際の、難しさなのかなあ、と思う。
★★★☆☆
オフィシャルサイトで紹介されている設定が予想以上に細かくて、思わず読みふけってしまった。
劇中ではそこまで明確なバックグラウンドが開示される訳じゃないけれど、これだけこまかな人物設定があるからこその、彼女たちの魅力なんだと思うし、きっと、恐らく、この7人それぞれのバックグラウンドが大いに反映されているに違いないと思うと、ますますワクワクしてくるんである。
それにしても、こういう映画をきっと、クリエイターの誰もが作りたいと思っていると思う。でも一度世に出てしまえば、大きなバジェットの映画を任されてしまえば、ナカナカそこから降りて自分の作り手としての欲望を実現することは出来ないんじゃないかと思う。
いや、逆かな。だからこそ実現できたのかな。いやでも、今まで見たことなかった。こんな風に、人気俳優を配したベストセラー原作の映画化を成功させて、評価ももらって、その次にこんな、作り手として一番ピュアな欲望を実現させた人なんて、見たことなかった。
しかもオリジナル作品。私が彼の才能に参ったのはもういきなり商業映画として成功した「南極料理人」だったから、脚色の才能は判っていても、オリジナル脚本の才能があることまでは知らなかった。
あ、そうか、「キツツキと雨」もそうかそうか。大大大好きなのに、なんで忘れてる(汗)。てことはやはりもともとオリジナルの才能がある人か!でもかの作品が有名スターこそが看板だったことを考えると、やっぱり本作は全然違う。本当の意味でのオリジナル、なんだもの!
本作は、大筋は、それこそ惹句そのまま、7人のおばちゃんが山で迷うだけ、それだけ。まさかのワンロケーション。いや、山をワンと片づければだけど(爆)。
でも製作費用が大きくかかる理由が、撮影場所や環境の困難さであることを考えれば、こんなコンパクトにリーズナブルなロケハンはないんである。
ワンロケーションの中でのサバイバル、そして人間関係。言ってしまえばそれだけの物語を、まさに7人の魅力で描き切るだなんて。そーか、そーか。やはりやはりこの才能は本物だったのだ。判っていたけどさ!!
紅葉の中の滝を見に行き、その後温泉旅館に宿泊、という、かなりありがちなバスツアー。しかし参加人数が7人のおばちゃんたちだけというのは、ありがち度が人気のなさにつながっている感アリアリ。
しかもツアーガイドは手にしたアンチョコを読み上げるだけの、見るからに頼りなさそうな青二才で、後に、その滝を見たこともないのに、マイナスイオンの魅力を恍惚と語っていたことが判明するんである。
そして彼が、滝へと向かう山の中で迷ってしまうところから本格的に物語は始まる。
ここで待っていてください、と山の途中でおばちゃんたちを置いて、先の道を見にいったきり帰ってこない。そういう場合は動かないのが鉄則だが、まあ確かに随分後になってガイドさんは戻ってきたけれど、その彼もまたおばちゃんたちとは別ルートで迷いまくった……つまり救出も呼べずにみんなして迷っていたことを考えると、おばちゃんたちの行動をおいそれと責める訳にもいかない。
ここから物語が始まる、などと言ったけれど、もうバスの中から既に、それぞれのキャラクターが見事に描写されているんである。
病気の話ばかり楽しそうにしている二人組に「聞いているだけでこっちが病気になりそう」と席を移ってくる”ユーミン”(あ、これらは彼女たちに自然とついたニックネームね)もまた、タバコと虫除けスプレーでこの二人組にイヤがられる。
二人組といえばもうひと組いて、写真愛好家だというのがまる判りの、初老の”師匠”と”スミス”のコンビに、ユーミンはこれまた嫌悪感を示すんである。
あとから設定を見るとヤハリこのユーミンだけが独り者なので、彼女自身のキャラクターも生き方も、私とはベクトル真逆なんだけど、やっぱりなんだか、シンパシイを感じてしまう(爆)。「女は40過ぎたら同い年じゃー!!」最高!もうっ。
おっと、脱線してしまった。まだ全然7人にたどり着けない。”病気の話ばかりしている二人組”は、クワマンとクミ。クワマンというのは、桑田という苗字だからだろうけれど、どことなくクワマン的な雰囲気(?)が漂い、「クワマンていうの、ヤメてよ」と彼女がイヤがるのが妙に可笑しい。
病気の話ばかりしている、というのはダテ?ではなく、彼女の持病の腰痛が勃発することでこの遭難物語に展開を与える訳で。
クミはなんといっても演じる彼女自身の特技、というか仕事だよね、オペラをいかした展開が最高。ガイドさんを探しに行くホイッスル代わりにと、ハイ!と手を挙げてアアアア〜〜〜!!♪「オペラ、やってました」爆笑!
野宿することになって、怖いからとおばちゃんたちに歌を催促されて歌うのは、オペラじゃなくてなぜか「恋の奴隷」なのだ!噴き出す!そして大合唱に、おばちゃんたちと共に爆笑しちゃう!
キャラ紹介の筈なのに、なんかいろいろ先走っちゃうなあ。
7人はそれぞれ等分ではあるけれど、その中でも主人公的色合いを持つ、"ジュンジュン"定年退職したダンナが家でゴロゴロしているのがストレス、かといってここに参加した理由は娘からのプレゼントという一見”美談”だけど、正直、気は乗らなかった、という、割かしありそうな、割かし典型的に見えそうな主婦。
でもどんなに平凡に見える人でも、掘り下げてみれば誰一人平凡ではない、というのを見事に描写し、見事に彼女がその描写に応える魅力でね!
そして、それこそ演技経験ゼロ、そう、完全にゼロ、幼い頃の発表会程度、というのは、彼女だけ、なんだよね!
いわば、本作の裏方スタッフとして参加していた筋からの、監督推薦からの、オーディションを経ての、合格!
後から彼女たちの経歴を色々見てみればさ、そりゃ演技経験の程度はさまざまで、それこそチョイぐらいの経験の人もいるけれど、まったく素人!てのは彼女だけ、なんだよね!!
しかもこのバックグラウンド設定も、ちょっと手先が器用で手芸が趣味で、ぐらいな”専業主婦”よ。そのかすかな憂鬱よ。それがこの中でこんなに輝くなんて。
決して押せ押せに出てくるとか、明確に展開の中で成長を遂げる、っていうんじゃないの。でもやっぱり、彼女の存在が確実に7人を引っ張っていくんだよなあ!
そして、この中からはうっかりこぼれ落ちているように見える7人目のセッキーこそが、私は一番好きだった。
一人きりでこのツアーに参加している、というのなら、ジュンジュンもユーミンもそうだし、だから最初、この三人が何となく一緒に行動するんだけど、なんとも最初から、柔らかな雰囲気だった。
つい最近、ダンナが死んだと告白すると他の二人が思わず沈黙、それに慌てて、もう大丈夫なんです、と明るく言い、彼女自身もそのつもりなんだろうけれど、判っちゃうの。セッキーがダンナをもんのすごく愛してて、今その寂寥感でいっぱいになっていることに、自分自身が気づいてない、ってことが。
劇中で明確に示される訳ではないのに、やっぱり判るんだよね、子供がいない、二人きりの夫婦だったってことがさ……。不思議だなあ。なんでだろう。子供がいたらこんなにラブラブになれないという訳でもないだろうが(爆)。
彼女の、お帽子や大きなストール、そしてその眼鏡さえも、何か、どこか魔法使いのようなファンタジックなファッションで、それが凄く似合ってるし。
おばちゃんたち楽しい遭難の途中、ふと居眠ってしまうセッキー。朝もやなのか、霧の中、背の高い枯れ草の中を、仲睦まじく鳥観測をしているダンナと歩いている。
でもセッキーの方は、この状況そのまんまのカッコと、ほっぺたにドロをつけた状態である。
穏やかな笑みを浮かべたまま、ダンナは枯れ草の中へ中へと消えて行ってしまう。置いて行かないでよ、とセッキーは泣きながら追いかけ、泣きながら……目を覚ますのだ。「さあ、行くわよ」と頼もしい仲間たちに声をかけられて!
……ああ、ああ。どう話を進めていいのか判らない。先走っているし、言いきれないし、どうしよう。
と、とにかく、7人は迷い、師匠の磁石は狂い、スミスがヘンゼルとグレーテルよろしく、とんがりコーンを道に置いていく……のは小鳥には食べられなかったけど、後から道を戻る時には誰も気にしてないから、同じこと(爆)。
夜が迫り、ついに7人は野宿を決意。それまでは嫌がり怖がりするメンメン(大体、クワマンとクミ)もいたけれど、ハラを据えてしまえばやはり女たちは強い。
「ねえ、見て!クルミがいっぱい落ちてるの!」とはしゃぎだすところから始まり、”あっさり塩味”のとんがりコーンを調味料代わりに使うナイスな発想!
果てはジュンジュンが蛇を平気で掴んで皆を追いかけまわし(い、意外過ぎる、ジュンジュン……)、しかもそれを焼いて食べる!……のは予想はしてたけど、やはり衝撃!
草の茎は誰が強いかゲーム、草のつるで作ったのか、長縄でおはいんなさい、とばかりに縄跳び、誰がつっかかったの!とキャアキャア言い、やはり一番は、皆の秘密を言い合う夜のひととき。
見事に火を起こした時からきっとこんな場面があるだろうとは思ったけど、最年長、穏やかそうに見える師匠のまさかの「教え子と禁断の恋に落ちて、卒業を待って結婚」!!におばちゃん、もとい、元乙女たちはキャーキャー!!だけどここには熟年離婚の果てに来てるんだけどね(爆)。
先述した、ただ一人の独り者でついついシンパシィを覚えてしまうユーミンが、”いい年こいて失恋”してこのツアーに参加したことを、ジュンジュンに吐露するシーンには思わずもらい泣き。同じ独り者でもそんなドラマチックな経験、ないくせに(爆)。
いやさ、やはりジュンジュンがいいんだよね。これまた先述したように、この中では一番平凡そうな風味のジュンジュン。でも彼女が山道の中でつるや花を使って作ったリースがとても可憐で、かわるがわるみんなが頭にかぶっているのが何とも微笑ましい。
最初は話の接ぎ穂でしかなかった”手作りのブローチ”を、ジュンジュンからプレゼントされたユーミンが、そのシンプルな思いやりの心に思わずくしゃりと号泣しちゃうの、なんか判るんだよ。ジュンジュンにしがみついておいおい泣いちゃうの。なんか判るんだもの……。
煙草を毛嫌いしていたクワマンが実はスモーカーで、ケンツクしていたユーミンとひそやかに仲直りをしたりするのもいいし。
スミスは師匠の写真仲間というスタンス以上にそれほど大きな役割を与えられないんだけど、妙にイイ感じの存在感で、なんとも言えなく、イイの!
ケンカが始まると、「すいません、それ言ったの、私……」とすまなそうにしてみせるのに、写真に関しては師匠に負けたくなくて、滝を見にいく!そう、まさにタイトルに導いていく、及び腰のクワマンとクミもね!
うーむ、うーむ、上手く展開を誘導していけないよ……。最初に言ったように、ホントに大筋はシンプルなの。おばちゃんたちが山で迷う、ただそれだけなんだもの。
でもこれが、同じ年齢層の男性ならば、やはり成立しないだろうと思う。あまりにも違うメンメンだし、冗談で「このままここで暮らそうか」的なジャブにはそりゃあ、これも冗談めいた形で強烈拒否を示したとしても、そんなやりとりが出来るのは、やっぱり女たちだからだと思うんだよね……。
でもそれを、そんな女の強さや可愛さを引き出したのが、こんな若い男性監督だってのがクヤしいけど、でも同時に嬉しくもある!
今後、このおばちゃんたちは、ひょっとしたらもう一堂に会することはないかもしれない。あるいは、これをきっかけに集まったりするかもしれない。判らない。
そこはそれこそ、女ならではの、その場では仲良くなれる、そのまま一生仲良くなれることもあるかもしれない、という、一長一短併せ持つ、不思議不可思議な性質なんだもの。
それがイヤだと思ったり、それこそ女のイイところだと思ったり、色々思うけど、それをこんなにすっくり判ってくれるのが、若い男性監督だなんて、なんか悔しいんだもの!
ホンットに、ワンロケーションだったんだよね。ついに滝にたどり着いて、それまでに彼女たちが披露した、オペラや太極拳や写真や、もうさまざまに没頭して、マイナスイオンに癒されている。
そこへ、ぽんこつガイドさんがよれよれに合流、クワマン、しっかとケリを入れ、その後、地元の農家のおじさんの、超遅い農機具カー?に7人がひしめきあって乗って、ゆるゆると山道を下っていく。
そう、ガイドさんは当然、手を振ってそれを見送るんである。でもあのスピードじゃ、普通に歩いてついていけそうだけどね。実際、ラストのラストで、遠慮がちに後を追っていたし。
顔面泥だらけの7人のおば……いや、女性たちが、輝くような笑顔で乗り合わせて紅葉の山道を下っていく。なんて幸福なんだろう!!★★★★★
いやさ、何度も脱獄を繰り返し、しかし出てからはワキの甘さですぐ捕まっちゃって、そのたびに画面にドーン!と白明朝で加算された懲役年数が示されるもんだから、あまりに繰り返されるもんだから、次第に劇場からも笑いが起こっちゃって、お前、アホかと(笑)。
だあって、さあ。脱獄するぐらいだから凄く綿密に計画立てて、まんまと包囲網を破って突破するのに、捕まる理由が、拳銃持ってるのは刑事だから、みたいなフリしてごまかそうとしたり、女郎屋で女にしつこく乗っかってイヤがられてけんか騒ぎになったり、なんてことで警察の御用になっちゃってアウト、なんだもん。アホか!てなもんよ。
特に前者は、呑気に片岡千恵蔵の映画なんぞ見て、千恵蔵が拳銃構えたパネルにソックリ真似て、悦に入ってるんだから、更にアホよ!
……このあたりはコミカルをネラっているのかなと、いやそうだったとは思うんだけど、段々マジにアホかと思ってきて、「新聞で、現代のジャンバルジャンだと評判でっせ(ちょっと訛りあやふや)」と言われる時には思わず噴き出す!いやいやいや!ジャンバルジャンに悪いって!こんなアホじゃないって!!
……アホアホ言い過ぎかしら。でもいかにも頭も筋肉って感じなんだもん(爆)。いや……一応、憎めないキャラ的な風味づけは、あるのかしらん。
罪を反省する気なんて毛頭ない(殺人罪なのに、オイ!)、冒頭から、シャブを横取りするために一緒に寝ていた、ハダカでブルブル震えていた女まで容赦なく殺した時点でちっとも同情する気は起らんし、脱獄一発目でまず奥さんのところに行く……のはいいが、はようせい、とスカートめくっていきなりのバック責めには、更に同情する気はみじんも起こらんが、まあ、まあまあ、男というもんはそーいうもんだというのを、真っ正直に描けた時代は、いわば平和だったのかもしれん……。
本作にはこの奥さんと、彼の妹が出てきて、どちらも、植田(松方弘樹ね)のことを結局はかばって、逃がしちゃうんだもんなあ……。妹なんて、長いこと生き別れていて、都合のいい時だけ身を隠すために訪ねて来て、と恨み言も言うのに、やっぱりお兄ちゃんだから、ということなのか。
あ、あまーい!今だったらちょっと描きにくい世界かも……。極道、任侠、ヤクザ映画全盛期は、女はなんだかんだ言いつつ、男に都合のいい存在だったからなあ。
あ、でも、この植田は、極道でも任侠でもヤクザでもないんだよね。チンピラにすらなれないような、ただのクズよ。
彼がね、刑務所の中で若さもあって暴れ叫び、つまりは自分の首をしめるようなことばかりするのを、所内で一目置かれているヤクザの親分さんが、最初は柔和に、そして一瞬の閃光がはじけるように叱責して、一気に植田は黙り込む。モノローグで「凄い迫力や」と怖気づく。
若山富三郎だからね、確かに迫力ではあるけど、それでもねえ。ここにはちょっと、植田ってばカワイイかも、と笑ってしまったが、まあ最終的にはただのバカなんだけど(爆)、でも、つまりその程度の男、なんだよね。
何度目かの脱獄から舞い戻ってきた時、脱獄仲間をいじめていた、これまた親分さんにいちゃもんつけて、それどころかブスリ!と殺してしまう。
これにもあぜんとしたが、その舎弟から「あんたを放っておくことは、極道として出来ない」と実にまっとうな勝負を挑まれたのに、卑怯な不意打ちで、このヤクザさんもぶっ殺してしまう。
このシーンは、映画の中で様々に刑務所内の日常を映す中でも印象的な、横一列に並んでの入浴場面であり、この舎弟さんは見事な全身入れ墨を施しているんであり。
まっさらな身体の、つまり青臭い植田が、こんなザ・丸腰の相手に卑怯にも刃物を隠し持って躍りかかるんだから、もうもう、この時点では、アホか、バカか、という気も失せてきちゃってる訳。
だって、「ここでは看守たちには勝てん。腹の中で赤い舌をぺろっと出してればええやないか」と眼力鋭く諭す若山富三郎や、極道の矜持をきちんと持っている吉原(伊吹吾郎。そ、そうか!めっちゃハードボイルド、カッコイイ!!)に比して、ヘタレすぎるんだもの。
確かに脱獄までの情熱、その仲間との絆は強いけど、その他のワキが甘すぎる……。ホンモノの男たちに比して情けなさすぎるんだけど、そんなホンモノの男たちを、ジャマだとばかりに次々殺しちゃうんだもの。
んでもって、脱獄の罪プラス、所内の殺人罪も次々加算されて、最初は懲役20年ぐらいで、奥さんも、それぐらい待ってるから、と瞳を潤ませていたが、後半になるともう出てきもしない(爆)。もうこうなっちゃ、恩赦の望みもある訳ないもの。足され足されて40数年!
もう後半になってくるとね、ほとんどギャグかと思っちゃうぐらいな訳。
だって最初のうちは、まあ当然だけど、脱獄するための道具……鉄格子を切る金鋸とかをさ、舎弟にてんぷら弁当の、海老天の中にしのばせたりさ、こういう刑務所、脱獄モノのスリリングを感じさせもするんだけど、アホさバカさで脱獄先から捕まっちゃうことが繰り返されてくると、所内での殺人のために使われる刃物とか、フツーに持ってるんだもの。
それまでなら、どこから調達したのかとか、どう隠してたのかとか、いう話になる筈なのに、もう段々、そのあたりフリーパスになっちゃう。
それは確かに可笑しい、笑えるんだけど、容赦なく人殺したりとかいう描写が畳みかけられるんで、これで笑っていいのか、ただ設定がテキトーになってるだけなんじゃないか、と悩んじゃう訳。
……素直に笑えたら良かったんだけど、まあでも、素直に笑える内容でもないけどね、確かに……。
でもまあ、やはり計算の上なのかもしれない。最初は脱獄するまでの綿密さ、そのドキドキで見せる。刑期の長い仲間たちだけを引き込み、短い仲間たちは巻き込まずに黙って見のがしてくれるように頼む場面なぞは、男気を感じてホロリとさせるし。
前述の若山富三郎親分が、すんでのところで看守たちの目をそらせてくれるシークエンスなんてドキドキだもの!!一緒に脱獄する三人のうち、年かさの西村晃が、いかにもおっさんで、もうなかなかロープを登れないんだもの!!
……若い頃の西村晃を見るたび思うが、悪相すぎて、とても後年、水戸黄門を演じたとは信じがたい(爆)。でもここでの、”おっさんすぎてなかなかロープを登れない”そして、"米軍トラックに調子よくヒッチハイクして轢き殺されてしまう"(!!)というあたりは、水戸黄門につながる、どこかとぼけた、人好きのする感じは出ているかなあ、と思う。
水戸黄門はこんなヌケてはないと思うけどね……。この作品自体、男のヌケてる哀しさを描いているのかもしれない。
そうか、そう思うと、女に対する横暴や、あまりのアホさ加減も、許せる……のかもしれないなあ。それは、極道、任侠、ヤクザ映画に処方できる共通認識かもしれない。
そうそう、この脱獄三人組のうちの一人が梅宮辰夫でさ、もう若すぎて、顔が出来上がってないの(爆)。松方弘樹も充分若いんだけど、主人公であり、度重なる脱獄と殺人の繰り返しでどんどんやつれていく設定、そう、あくまで設定なんだけど、まあ一応設定、だから、ヨレてくからさ、辰ちゃんの若さが際立つのよねえ。
西村晃の存在もあってさ。ほっぺたとかぱんぱんで、いかにも生意気そう。脱獄チームにスカウトされたのは、プロ野球の実況放送の、皆で賭けてたクライマックスのいいところを、くだらない所内放送にさえぎられて、ブチ切れて、所員を人質にして所長を呼び出し、カンカン踊り(身体検査をするために、裸になり、口を大きく開けて前、後ろと見せる様)までさせる騒ぎを起こした、その度胸を買われたから。
最後まで彼は若々しいままなんだよね。若々しく、生意気なまま。ある意味今の彼のまんまの気もするけど(爆)。
で、ちょっと脱線したけど、松方弘樹は、主人公だし、追い詰められてやつれていく、という、まあ設定な訳。
でも、あの目の下のくまとか、額や目の周りのしわとか、明らかに描いてるよね、ってアリアリで、コントか、ってぐらいで、でもかなりマジだから、そうか、これギャグじゃないのか、みたいな(爆)。
む、難しいなあー。だってさ、何回目かの脱獄の、その中でも目玉的な、クライマックスエピソードで、いきなり旧家的な、伝統ある日本家屋に飛び込んで、えっ、なんでいきなり、しかも誰もいないのかよ、みたいなところに、ハッとしてちゃんと靴脱いで上がる松方弘樹(笑)。
飾られていた甲冑を着て息をひそめてやり過ごして、そこまではなかなかにスリリングだったのに、ふわーあ、と油断した途端に、第二段の追手の警官たちと目が合う、って!ま、マヌケすぎ!!
もうこうなると、先述したような、これってギャグちゃうの、っと思っちゃう設定のユルさに、ついつい確信を得てしまうじゃないのおー。
でも実際、ラストを思えばホントにそうだったんちゃうのん、と思ってしまう。所内での殺人を、しかも二度も重ねてしまって、裁判となる。つまり刑務所から、外に連れ出される訳である。
きちんとスーツを着せてもらって、ふとガラス窓から外=社会が見えてしまう。諦めかけていた社会、そう彼はモノローグして、全てを振り切って逃げ出してしまう。
おいおいおいおいおいー!!!脱獄、脱走が、回を経るごとに簡単に突破できちゃうというのは、皮肉な描写ってことなのか??
妹の元に身を寄せた時に捕まった先からの脱走で、「田舎の手錠なんてチョロい」みたいなこと言ってさ、まあそんな具合で、彼にとっての脱走、あるいは重ねられる罪さえも、容易になっていくのは、皮肉な描写、なの??
そう思えば最後の最後は本当に皮肉だ。本当に、簡単だったもの。ただ、ただただ、不意を突いて逃げ出した。刑務所じゃないから、本当にカンタンだった。
スーツ姿だから、着替えさえ必要ない。とはいえ、大量の警察官、警察犬に追われ、川を渡る鉄ロープ?で逃げていくシーンはいかにも映画的で圧巻、追い込まれてそのまま川に飛び込むのは予想通りと言えどもドキドキ。
ラストシーンは、どこからちょろまかしたのか、大根をかじっては吐き捨てながら、線路をたどって歩いていく植田。
彼はこのまま逃げ延びるのか、あるいはまた捕まっては罪が加算される人生を繰り返すのか。実際の人物がどうであったかは知らないけれども、どこまでも続く線路を、大根をかじりながら、吐き捨てながら歩いていくふてぶてしい植田=松方弘樹は、このまま誰も知らぬどこかで生きていくような気がする。
身を寄せた妹のもとでの、ヤミの牛の屠殺場面、ちらりとだけだけど、これは必要!とばかりに挿入された、刑務所内の同性愛ネタ。両極端だわね、実に。そんな、今はなかなか出来ない生々しいシークエンスも凄いんである。
ことに後ネタは……。美少年からのラブレターに困惑するザ・おじさん囚人はカワイイもんで。性欲を処理するためだけに同室の男のカマ掘って、掘られた彼が泣きながら便器にまたがるなんて場面はソーゼツ!うわあ……こっちの方が恐らく真実のリアリティだろうなあ……。
てか、まあ、とにかく広島よ。広島ってやっぱりヤクザのイメージ、ある??ヤクザではなく、刑務所のフューチャリングではあったけど……。
受刑者たちが着ている制服の背中に、廣刑、とわざわざ旧字体でロゴが書かれているあたりの生々しさがね……まあ、戦後すぐという時代設定もあるだろうけど、やっぱり現代とは迫力が違うの!!★★★☆☆