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楽隊のうさぎ
2013年 97分 日本 カラー
監督:鈴木卓爾 脚本:大石三知子
撮影:戸田義久 音楽:
出演:川崎航星 井手しあん ニキ前川 鶴見紗綾 佐藤菜月 秋口響哉 大原光太郎 野沢美月 塩谷文都 楠雅斗 甲斐萌夢 鈴木早映 佐藤真夕 奥野稚子 百鬼佑斗 湯浅フェリペ啓以知 宮ア将 山田真歩 寺十吾 小梅 徳井優 井浦新 鈴木砂羽
まあ、とにかく、映画、映画は映画として、良くも悪くも別物の筈、と気を取り直し、ともかくもこのうさぎという存在が実際に原作にも登場することを知って、改めて驚くんである。
だってね、このうさぎこそが、鈴木卓爾監督の世界観そのものだなあと思ったもんだから……なんて書いてみて、改めてちょっと驚くんだけど、彼は「私は猫ストーカー」が初長編、なんだね。なんかもうすっかり世界観を作っている中堅監督のような気がしていたのは、俳優としての彼自身の世界観が、まんま監督作品にも投影されていたからなのかもしれない。
土着民族風のダボ衣装を着て、着ぐるみのようなうさぎ頭で、鼻の頭を黒くして、前衛的な動きで主人公を見守り導くうさぎ、というか、うさぎのかっこをしたなにか(人間、ときっぱり言うのもヘンな気がする)。
間合いといい、非現実感といい、なのに日常感がひたひたと満ちている感じといい、まさにまさに、鈴木卓爾、なんだもの。なんだかそれだけで、魅せられてしまった。
実際、中学生の吹奏楽部の成長物語映画としては、そんな風に書いてしまうと、誰もが期待するヒューマニズム、クライマックスへの大盛り上がり、という点では、期待は外れまくりである。
そんな映画じゃないし、きっとそんな原作でもないんだろうと思う。いや、判んないけど……でも原作者は、本作がとても原作のテイストを伝えていると言っていたからさ。
まあ社交辞令半分で割り引くとしても、このうさぎの存在一発で、本当にそうなんじゃないか、って気がしたんだよな……。
そりゃきっと勿論、吹奏楽あるある的な楽しみ方もあるんだろう。勿論私には、そんなことは判らない。
ちょっと憧れはあったけれど、私は、音楽は一人で完結するものとして楽しんでしまって、こんな風に共有する楽しみを持てなかった。
それが今になって、なんともったいなかったことかと思って、だからこそ憧れは子供の頃より増している気がする。
しかしそんな憧れをあおるような作りにさえなっていないところが、さすが鈴木卓爾なんである。
確かにクライマックスには定期演奏会のフル演奏はあるけれども、よくあるこの手の映画にありがちな、そこで涙ボロボロ、ということにはならない。
特別な時間ではあるけれども、中学生の日常の中の一コマで、ああ確かに、そんな風にあの年頃は感じていた、大人になってからやたらドラマチックに過去を改ざんしていたかもしれないと思ったりするのだ。
生徒たちは全員、オーディションで選ばれたという。しかもほとんどが舞台となる浜松在住の子供たちだという。
浜松、そりゃYAMAHA協賛だわ!そうか、浜松か。どうりでねーちゃんの言葉に似てると思った(遠州弁っていうの?)。
ハンパなく音楽の街。そして鈴木卓爾も静岡の人だったんだね!彼は磐田だからどちらかといえばサッカー寄りの土地だが、しかしなんかそういう地元愛を感じると嬉しくなる!
子供たちまでもが、鈴木卓爾世界の住人だから、まあ物静かなことこの上ない。
中学に入学したばかりの男子、同じ小学校からの持ち上がりの子たち同士で、軽いハブや、その対象が反転した形のいじめ(まではいかないかな、仲たがいというか)なんてことも発生する。
でも、壁にガンと押し付けて脅しつけるのも、先輩から胸倉つかまれて突き飛ばされるのも、なんだか物静かな中で行われるんである。
でも、劇的ドラマじゃないんだし、実際日常はこういうもんなのかもしれない、と思う。物静かな中で、物静かな男子たちの胸の中はざわざわとざわついている。
一緒にサッカー部に入るって言ったじゃんかと、可愛らしい理由で食ってかかる友人その一は、結局サッカー部から脱落して不登校になってしまう。
この映画のラストが、その友人が学校に復帰してくるところに主人公の奥田君がおはよう、と声をかける、っていうんだから、吹奏楽よりも大事なテーマだったのかもしれない、と思う。
だってやっぱり、世間的に言われるように、この時期は男の子は女の子に成長を抜かれること甚だしい時期だからさ。学生服に着られているようなちっちゃな男の子が、そんな風につっぱっているところなんか、ホント胸が痛くなっちゃうんだよね。
同じクラスから吹奏楽部に入った女の子は、お父さんがずっとフルートを吹いていたから憧れていた、という明確な理由を持ち、後に演奏家を目指すためにと、これまた明確な理由で吹奏楽部を辞めることになる。
トランペットを吹きたいと一見ミーハーな理由で入ってきた女の子は、コンクールメンバーから脱落し、共に脱落した奥田君はなんとなく手持ち無沙汰な風なのに、彼女は悔しさで、音楽室から出た廊下で一人、涙を流しているんである。
奥田君を指導する三年生の先輩は、「授業が終わったらさっさと家に帰りたい」と思っている奥田君の気持ちを見抜き、でも彼の特性をも見抜き、顧問の先生に進言する。
引退する時、奥田君に自分のスコアを託し、パーカスのリーダーの引導を渡す。
パーカスには他にブラバン経験もある子を含め女子が二人いるんだけど、この女子二人がまた、やっぱ出来上がっているんだよね。物おじしないっていうか。
あの、メンバーから外れて涙を流していたトランペットの女の子に「バーカ、頑張れ」と声をかけたシーンなんか、ホント明確だよなあと思う。
そういう意味ではやっぱり女の子は、早いうちから劇ドラマの世界に生きているってことなのかもしれない、と思う。
物静かな男の子たちがリアルさを感じながらも、やはりまだまだ幼く見えてしまうのはだからなのかなと思う。でもだからこそ、きゅんとくるんだけれど……。
奥田君の両親がまた、良くってね!だって鈴木砂羽とARATA、じゃなかった(まだ言うか!)井浦新氏だもの!あー、なんという素敵な夫婦でしょう。
みんなにからかわれるから地味な弁当を、と所望する息子に「大丈夫、全然地味だよ」と息子の言うことを揶揄することなくぱっぱと送り出す母親。
実際、二色そぼろ弁当なんてちっともハデじゃないのに、それさえパタリと隠してしまう中学生男子って、な、なんなの。黒いのり弁じゃなきゃ、いけないなんて、母親は哀しいじゃないの(涙。いや、私は母親ではないのだが……)。
そしてARATAがまた!この、テレ気味の、でも自然体のお父さんがメッチャいい!
舞台で演奏する時には、仕事を休んで行くからな、とはりきり、実際、息せき切って駈けつけて、客席でネクタイ外す、あー、萌えるー!!
息子とサッカーボールで蹴り合いするシーンが出てくるから、小学校からの同級生とサッカー部に入るという口約束はなるほどなと思ったりもする。
でも、吹奏楽部に入る、しかし前提は「授業が終わったらまっすぐ家に帰りたい」という奥田君の最初の本音は、冒頭に示された、小学校時代の同級生との関係性にあったのかな、という気がするんである。
うさぎに導かれて思いがけず吹奏楽部に入った奥田君と、その同級生たちとは、そこでまさに運命が別れた、ということなんだろうな。
小学校時代の威勢をそのまま中学校にも持ち込もうとして失敗した友人と、思いがけない形で中学校から生き直した奥田君と。
この友人がさ、吹奏楽部に入った奥田君に「運動部に入れって親に言われなかったのかよ」とこれまた可愛い反駁を試みるじゃない?で、当然奥田君は、まあ物静かにだけど、親の言うこと聞くのかよ、と返す訳。そりゃひと言もない訳。これって強烈な一発だよなあ……。
しかしこの「運動部に入れ」って、そんなん、今でもあるのかね?あるのかなあ……文化部劣勢、男子マッチョ主義、つまりは男女非平等(だってやっぱり、吹奏楽部は女子比優勢なんだもん)なんだわねえ、この時代になっても!!
まあだからこそ、いろんなことが見えてくる。この部活を指導する顧問の先生は若く、ベテランの男性教師から、何か揶揄するようなことを言われる。
ゴメン、具体的にどう言われたか忘れちゃったんだけど(爆)、そう、それこそ優劣的な、男子マッチョ主義な言い方だった。
このベテラン英語教師は奥田君の中学校生活の冒頭に、黒板の前で発音を言わせて、全然関係ないのに「お前、アヒルみたいだな」と不躾なことを言ってクラスメイトを爆笑させた。
こーゆー先生、いるよね。心無い不用意な発言が、イヤなあだ名や、ひいてはイジメにつながること、全っ然判ってないっていうさ!
ジャージでさえない、カジュアルなんても言えない、ダルダルな、ザ・中年教師のカッコで、なのに生徒のケンカの仲裁には我が物顔で駆けつける。
お互いの言い分も聞かずにただヤメロヤメロと分かつだけで、それで何の解決にもならないのに。
あー、こういう先生、サイアク!と思っちゃうのは、その一方で、これまた物静かにたたずむ、そう、その吹奏楽顧問の先生が、あまりに素敵だから!なんである!!
宮ア将。もう、この人はほんっとに、出なさすぎる!!んでもって、こういう、普通の役、と言っちゃなんだけれど、暗めの、特殊な役が多かったからさあ、なんか今回、初めて普通の人間の宮ア将に(ヒドい言い方だが……)萌えまくった!!
あー、だって私、そもそも白シャツノータイの男子にヨワすぎるのよー!!
ベンちゃん、と部員たちに呼ばれる、つまり若いから距離が近い、威圧感がない、ということなんだろうけれど、きっとそれ以上に、彼が中学生の彼らの柔らかい感性に近くて、それを尊重しているからこそ、なんだろう。親近感以上に、ベンちゃんは部員たちにリスペクトされているのだ。
後輩指導の率直な相談を持ち掛け、練習の問題点の意見を個々に求められるという信頼に応えるべく真摯に答えようと努め、ベンちゃんの作曲した定期演奏会のスコアにキャアキャアと群がる。
奥田君は、一緒に入ったフルート女子が退部したことを、個人的にベンちゃんから聞かされ、ベンちゃんの演奏者としての挫折をも語ってもらうんである。
こんな柔らかな、言ってしまえば人生経験もない男子に自らの暗部をさらけ出すベンちゃんの、生徒に対する信頼、それは対人間として信頼しているということであって、そりゃあそりゃあ、彼を慕うに決まってるよ!!
何度も言うように奥田君はひたすら物静かだから、明確にそうした気持ちの変化を感じるのはなかなか難しいんだけど、でも、ベンちゃんからティンパニーをやってみないか、と持ち掛けられ、まっすぐな瞳で、奥田に合っていると思うと言われて、ちゃんと悩んで考えて、引き受ける。
ああ、新旧男子同士の萌え萌えよ。ホンットに、宮ア将君、ああ、もう、君なんて言っちゃいけないのか、でもなんか、こんな瑞々しい色気のある彼を初めて見た気がして、もう、身もだえするほど素敵だった!
定期演奏会で指揮するシーンがこれまた、ジャケット着てるとノータイの色っぽさが更に際立って、もうもう、死にそうになったよ、ヤバい!!!
……立て直し、立て直し。しかしホント、宮ア君の素敵さがこの作品の大メインだったと思う。あー、素敵だった(照)。
そうそう、主人公の奥田君、奥田君、よね。彼の成長は本当にゆるゆるとしていてもどかしいぐらいなんだけど、でも、きっと反抗期である彼が、判りやすい反抗期ではなくて、先述したけどせいぜい地味なお弁当を所望するぐらいでさ。
その反抗が、母親の言う、イヤだったらやめちゃえばいいんだから、と、それはまあ、彼女なりに気楽に頑張ればいいんだから、というエールだったんだろうけれど、「そんな簡単にやめられないよ」とこれまた物静かに、しかししっかりと返す、っていうのが、素晴らしい!健全な価値観の上に成り立った、明確な意志よ!
一人っ子で、厳しく育てられた訳じゃなさそうな優しそうな両親だけど、まっすぐな愛情と価値観を持って育てられたんだな、と判る。
不登校になった友人を、殊更に引き上げる訳ではないけど、本屋で偶然出会ったら、定期演奏会に来ないか、と誘う。
受付に招待状を用意しておくから、というあたりが、奥田君のちょっと大人になった感じを匂わせて切なくて。
この友人が実際来たのか来ないのか、カットが替わって登校してきたからきっと来たんだと思うけれど、この、ちょっと大人になっちゃった奥田君と、その奥田君に誘われちゃった友人の、切ない立ち位置の違いがね。
でも友人がそれを乗り越えて、スタートラインから追い越されたけれど、追いつくべく、学校に来だした、というのがラストシーンなのが、やっぱりやっぱり、男子の成長物語、明確!と思ってさあ。
吹奏楽あるあるは、色々あったんだと思う。そうだろうなと思う場面は色々あった。聴く専門とか言いながら奥田君はじめ、吹奏楽部員たちにやたら人懐こい魚屋運ちゃんの徳井優とかさ、いそうじゃん、こういう人!
でもね、私のような門外漢には、そういうのは結構どうでもよくて、勿論、演奏シーン、クライマックスにはワクワクしたけど、そこに重きを置かない鈴木演出が沁みたんだ。
立場的にか、やはり大人の立場に、特に。ベンちゃんは若いからその共感を素直に口に出せない辛さがあるけど(こーゆー卑屈さをなくしたい……)、同世代の鈴木砂羽、ARATA夫妻、先輩世代の徳井さんの優しさ、ああ、こういう大人になりたいと思う。親になれていないから、余計に!!
★★★☆☆
その昔、ディズニーの「ムーラン」で墨絵風の技法で、やられた!と思ったもんだが、本作の技法の素晴らしさはそれを充分凌駕して余りある。
現代のアニメーションのひとつの到達点、カクカク、テラテラに際立った塗り技法に年配者(爆)はどうも拒否反応示してしまうの(爆爆)。
それが内容的にどんなにいいものでもね……。いわゆるジブリの宮崎駿タッチですら、ちょっとそうだからさあ。
かぐや姫、というのは盲点だった、とも思った。そうかそうか、これに手をつけていなかったか、って!
外国の童話なんかに手を出す前に、原点を見つめ直すべきだったのだ、なあんて思っていたら、監督が語るには、東映動画時代の幻の企画が発端となっていたと知って、そ、そうか、やはりとっくの昔に気づいていたのね、と思う(汗)。
構想何年だの製作費何億(どころか何十億(爆))とかはあまり好きではないが、この積年の思いがついに現代に結実したことに、その時代に居合わせることが出来たことに喜びを感じる。
かぐや姫、ってさあ、思えばSFだよね、と思う。まあ限らず、日本の神話はどれもSFチックではあるけれど、かぐや姫=竹取物語ほどハッキリとSFの要素が盛り込まれた物語は最古であろうと思われる。
なんたって月から来たんだもの。宇宙人だもの。
本作の最後に、地球から見た月のみならず、月から見た地球を、グーグルもかくやと思うほどリアリスティックに描いて見せたことに、ますますその思いを強くした。
だってさ、筆でさらりと描いたような日本画風のアニメーション技法を追求してここまで来たのに、最後の最後でリアルな青く輝く地球を見せるんだもの。
正直、それを目にした時には、マジか……と、違和感ではないけど、何かこう……あれっと思う気持ちがなくはなかったんだけど、これがSFだと思えば、するりと納得がいく。
かぐや姫は月からきて、月へと帰る。当然その行き帰りには、地球を見ているのだ。青く輝く地球を。かぐや姫はSF。アニメーションとなるべくしてなった世界観だったのだ。
とはいえ、私らが知ってる竹取物語に、当然大いに肉付けされている。神話っつーもんは大抵がフシギ要素の魅力だけで筋立てするもんだから、後の世の私らにとっては謎だらけであり、それが多くの研究者に仕事をもたらすんである(爆)。
マジメに探れば数多くの説が出てくるんだろうけれど、これは役得、人気アニメ作家の説が世に出た。
東映動画時代の彼の企画はボツになったというし、その時に書いたプロローグこそが本作の原点にもなっていて、監督自身の頭の中にはそれが常に流れている、らしい。
それもかなり気になるところなのだけれど、監督が、それは本文を語れば必要ないというのなら、そうやって観客は対峙するしかない。
でもやっぱり、ジブリ的、というか、日本アニメ的なヒロインだな、と思う。日本アニメの伝統のヒロイン。男勝りで、裸足で野山を駆け回る。
それこそ、そうだ、高畑監督の原点、ハイジや赤毛のアンに通じるヒロイン像だ。
時代が進むにつれ、それこそジブリが立ちあがってからは様々な、複雑な背景を持つヒロインが登場してきたけれど、この、少年のようなヒロイン像は、まさにまさに、伝統なのだ。
それはやっぱり、男社会だったからだと思う。女の子は男勝りでなければ主人公を勝ち取れず、だけどその男勝りが、女の子だからこそ可愛い、というアンビバレンツ、しかしそのアンビバレンツに気づくことにさえ、時間がかかった。
今、この男勝りのヒロインを描き出すことは、勿論相応の意味がある。だってかぐや姫は、私らのイメージの中では、男勝りから最も程遠いイメージだもの。
それこそ十二単を着てさ、しゃなりと動かないイメージよ。その姿のまま、求婚してきた男たちに無理難題を言いつけてしれりと撃退し、しかし月に帰らなければいけないとなったら老親の前でさめざめと涙を流す。
……こう書いてみると、とんでもねー、同性からメッチャ嫌われるタイプだよな!!と思うが、とんでもねー、ということは、訳が判らない、ということであって……。
そうだよな、それこそ私らのイメージでは、竹から生まれて、翁と媼に大事に育てられて後、なんかいきなりセレブになっちゃって、そうこうしているうちに月に帰る、みたいな、つじつまが合わないところがいっぱいあるんだよな。
竹取の翁と妻の媼が育てた、つまり田舎娘が、いくら美しい娘だからといって、どこをどうめぐって高貴な公達から求婚されるようになったのか、なんて、知らない。
いや、私が知らないだけで、ちゃんとした原典には記されているのかもしれないけど(爆。すいません……日文のくせに、古典は苦手なのよー)。
まあとにかく(汗)、一般的な視点で改めて考えてみると、確かに不思議なのよね。
そりゃまあ、かぐや姫に限らず、神話の魅力的なところはこの不可思議さにあるのはそうなんだけど、作り手の想像力をかき立てる、ってところでもあるんだろうなあ。
で、高畑版のかぐや姫は、竹取の夫婦に育てられたんだから、野山を駆け回るメッチャ活動的な女子である。しかもこの設定だから成長が異常に早く、村の子供たちから「たけのこ」と呼ばれるんである。
その中に思いを抱く青年がいて、それこそ出会った頃は赤ちゃん状態だったのに、どんどん彼の年齢に追いついていく。
それこそ現代ならば怪現象状態だけれど、神話時代ならば、「ヘンなヤツ、たけのこみたいだ」ですんじゃうあたりが、なんとものどかで、でもなんだか、胸が締め付けられる。
それは……やっぱり女子として、女子の気持ちを感じるからだろう、な。
だってただでさえ女子は、男子を早い成長で追い越しちゃうから……。竹から、じゃなくてたけのこから産まれた彼女が、それこそ呼び名のたけのこ並みの成長を見せるのはむべなるかなで。
そう、たけのこから産まれてるんだよね。私らのイメージの、スパッとななめに切った竹からじゃなくて。
スパッと切っちゃったら、かぐや姫もスパッと切れちゃうかもしれないなあ、というブラックなギャグは、桃太郎と共に定番だけれど、それを避けたのかしらん。
そばからにょきにょき生えてきたたけのこから最初、完成形で生まれたかぐや姫。
そんな特別な授かり方だし、後には竹の中から黄金が出てくるし、翁が、これは天上から授かった姫様だ、と思って、彼女のために都に出て本物の高貴な姫にする、と頑張るのは、まさに親心。
なるほど、こういう解釈、かあ。ものすごく納得。実際素直にナゾな部分は、竹取の夫婦に育てられたかぐや姫が、なんで帝の関心まで引く存在になったか、だったんだものね。
そこをまともに描いちゃうと、こんなにエグい筋立てになってしまうのが切ないが、でもそれによって明確になる部分が沢山ある。
男親は、というか男性は、目に見えるもの、形になるものを成功ととらえて、それが子供にとっての幸せになると考えること。
女親、あるいは女性は、そんな男親、男性の気持ちが判るし、嬉しいとも思うから、余計に切なく、思い悩んでしまう、のだよなあ……。
実際、まさに明確、である。翁、そして声を担当した地井さんは、彼自身がそんな愛すべきお父さん、である。
地井さんであることに、ビックリした。いつものように情報を入れてなかったから、ホントに知らなくて、え??地井さん、随分前に亡くなったのに……なんて無粋なことまで思ってしまった。
実際、この事前アフレコによって後に必要となった部分もあって、それを三宅さんが担っているということにも驚いた。えーっ!!!ぜえんぜん、気づかなかった!なんと、なんという奇跡!
……なんか、こういうの、泣いちゃうなあ。地井さんの遺作、それがこの、娘を愛する単純なおじいちゃんで、その息子世代とも言うべき三宅さんが、残った息を吹き込んだなんて、さあ……。
でね、媼が宮本信子でしょ。まったくの偶然なんだけど、その前日に、寅さんに出ていた若き宮本信子を見たのよ。
寅さんに出ていたこと自体全然知らなかったし、まだ乳飲み子を抱えて女一人、途方に暮れている役だった。途方に暮れて、泣きぬれているところを寅さんに助けてもらってた。
それが、翌日の(声だけだけど)宮本信子は、もうおばあさんになってるのに、かぐや姫を授かったらお乳が張ってきて、翁がおい、お前……と驚く前で、豊かなおっぱいをちゅうちょなくこぼれさせて、かぐや姫に吸わせたのだ。なんと、女、母親、いや、女、女、よ!!!
かぐや姫自体が、まさに女になっていく物語だからさ……。その視点で見ると、かなりエロティックに思う。
“たけのこ”のように成長していくかぐや姫は、村にいる時点では明確には言及しなかったけれど、子供たちの親分格である捨丸兄ちゃんが一番、彼女の成長の早さを感じ取っていただろうし、それは勿論、彼自身の男としての気持ちも促していたに違いない。
だって、どんどん成長するたけのこに、自分たちのところからいなくなってしまう気がする、なんて彼は言うんだもの。
そ、それってさ、その台詞ってさ、男親が娘に感じる感情に他ならなく、やっぱり基本、そこなのか、って思う。
女は男を追い抜いていく。その基本は娘が父親の元から好きな男へ巣立っていくところにあって、かぐや姫もまた、大好きな捨丸の元へと最終的には行くけれど、でもそこさえも、“巣立つ”ことを強いられるのだもの……。
好きな男へと行く前に、ていうか、かぐや姫自体が好きな男が誰かを自覚する前に、あるいはかぐや姫、という名前を与えられるまでにさえ、彼女自身のアイデンティティが確立されていない、というあたりに、原作神話の与える女の厳しい歴史を感じる。
かぐや姫は老親に慈しんで育てられたけれど、彼らからさえも名前を与えられてなかったことに気づいて慄然とする。
それを思えば村の男の子たちに、たけのこ、と名付けられたことは、そこに込められた愛情をたっぷりと感じることができるし、それが捨丸兄ちゃんにつながることを思うとなおさらなんである。
彼女の名前はかぐや姫ではなく、たけのこだったと、こと本作に限っては言いたいじゃないの。
それにね、それに……高貴な公達たちに見初められる前に、つまり名付けられるきっかけとして、彼女が“女になる”じゃない。
現代なら、それは処女じゃなくなるってことよ。セックスを経験しちゃうってことよ。でもこの時代は、初潮がくるってことなんだ……。
まあ今だってそのことで「女になった」と言わない訳じゃないけど、大人の身体になった、という意味合いではあるけど、そーゆーこと言う輩(特に男だったら特に)がいたら、超絶軽蔑するね!!
いや、何がそんなにイヤかと言われるとアレだけど……それこそ、さ。昔の時代は特に、生理を女の穢れみたいに言う風潮があったじゃない。
今もかすかにあるような気がするし……それが、女性が社会で正当に認められない一つの要因にもなってる、おおげさじゃなくて、ホントによ、あるよ、ホントに!
だからね、生理の問題には、ちょっと神経質になっちゃうんだ。だってしかも、かぐや姫は、子供を産む訳でもない。次々求婚する高貴な男たちを振りまくって、月へと帰っていく。
感謝するのは、今まで育ててもらった老親たちだけ。だからそれでいいのかもしれないけれども……。
なんかだんだん、作品とは関係ない、フェミニズム論になっているよーな気がする(爆)。でも、それを言いたくなる、つまりそこに深く根ざしてくれてる気がしたんだよなあ。
自分自身がどんな人間か知りもしないで、求婚してくる男たちに拒否反応を示しながらも、無理難題に何年も経ってからでも答えを出してくる男たちに、もしそれが正解だったらどうしようと、彼女はぶるぶる膝の上のこぶしを震わせる。
つまりさ、かぐや姫は彼ら男たちを単純にケーベツしてる訳じゃなくて、自分自身をちゃんと見て好きになってくれる人を望んでて、それはたった一人、捨丸兄ちゃんだけだったんだもの。つまりは純愛、だったんだもの。
捨丸兄ちゃんの声は高良君で、ぱっちりした大きな瞳とか、なんだかちょっと似てる気がする。
かぐや姫は何度か夢の旅をする。夢だよね、と思う。そのたび、非情にも現実に帰ってくるから。
最初の旅は、名づけのお披露目会で、奥の部屋の御簾の奥に閉じ込められて、人間扱いされてなかった。てか、特に“かぐや姫”となってからは、人間扱いされない日々だった。
それこそ、特に、翁に対しては……。媼は最初こそ、白塗りの老雛のような風体で笑わせたけど、その後は元通りの“おかかさま”に戻って、豪華な屋敷の片隅で、村での暮らしのように、小さな庭での畑作りや、機織りといった、質素な営みに戻っていたのだ。
ああ、やはり、男親、女親、男、女、だと思う。高貴な公達の求婚にそのたび心おどらせる翁と、精一杯夫への理解を示しながら、なぜ姫の気持ちが判らないのかと時に憤る媼。でも愛は同じだなんて、なんて切ないの。
かぐや姫の何度かの夢の、その最後でありクライマックスでの、捨丸との再会で、彼女は彼と、セックスをしたと思う。
いや、まさかそれを明確に描写した訳じゃないけど、ここまでそんな風に思って見てきちゃったら、そうとしか思えない、というか、そうでなければ彼女が浮かばれないと思ってしまう。
高貴な公達を蹴散らした後、ああ、せいせいした、と花見に出かける。だけどそこで、かつては同じ立場だった村民に、高貴な人扱いされて、深々と頭を下げられる。
深く傷ついたかぐや姫は、そのまま弁当を広げることもせずに、帰ってきてしまう。
このシークエンスは凄く……さ。だって姫として、高貴な公達を蹴散らした後、だもの。その後、再びアタックしてくる彼らを迎える時に、時に手を震わせ、命を落としたと聞けば打ちのめされるのは、自分が思い上がっていたかもしれない、本当の自分を失っていたかもしれない、というスタンスがあるからだと思うからさ……。
そうでなければ、“かぐや姫”として皆が知るあの大オチの切なさ哀しさを乗り越えられないもの。
なんとなく脱線したけど(爆)、そう、かぐや姫は、捨丸とセックスしたと思う。夢の中だったかもしれない、夢の中だろうけれども、したと思う。
ジブリの名物シーン、飛行シーンに、今回ばかりはその思いを付加することを許してほしいと思う。飛行の高揚感は、アレの絶頂感なんて言っちゃえば、そりゃまあ単純かもしれんのだけどさ……。
でもさ、今までも結構、隠れた意味としてそれを感じていたことはあるんだけれど、やはりそれはアニメ的、乙女的、何よりジブリ的(爆)、そうはハッキリ言えないわよ(てか、それじゃ隠れた、とは言わんわ……)。
かぐや姫はさ、特に都についてからいきなり女、になったよね。予告編でも使われていたからそれこそ明確に突いてると思うけど、目覚めて寝返りをうった、あのななめ横顔、いやそれよりも、あのあらわのワキよ!あれは女だろ!なんかフェチ的だが……あそこまで明確にやられると、言及せざるをえないだろ!!
かぐや姫以外の女が、殊更に、明確に、存在しない、ことも、明らかだよね。そんなこと言っちゃ、宮本信子や高畑淳子や田畑智子嬢に失礼だが(彼女だけに嬢をつけるのも失礼かしらん……)。
でも明らかにデフォルメ造形じゃん。それこそ侍女のデフォルメには、本作の魅力である日本画デッサン技法をハッキリと裏切るものがあって、何とも愛しくて大好きなんだけど、女を否定する、という意味ではまさに明確、だよね。
そうなんだよね……本作の中ではかぐや姫だけが女、なのだ。なんたることだ。
それじゃ彼女は恋もセックスも誰からも教わることが出来ず、初潮に訳も判らずしょげかえって、これはお祝いだと言われると大好きな捨丸兄ちゃんはじめ、仲良しの村の仲間たちを呼べると喜んで、でもそれが却下されて落ち込んで……なんたることなのだ!!
帝にまで所望されて、後ろから抱きすくめられただけで月に救いを求めてしまうなんて、それで帰らなきゃいけないなんて。
と、思ってしまう。現代ならば、思ってしまう。でも抱きすくめられる、なんてことさえ、ないことなのだ。それこそ、それ自体がセックスに通じてしまうのだ。
そしてかぐや姫は、捨丸兄ちゃんの元へ、飛んでしまうのだ。セックスを暗示しているとは思う。でも、やっぱり夢だし、この時、村へと帰ってきた彼は肩車に乗せた赤ちゃんがいて、ふくよかな嫁に乳を含ませているのだ。
その最中の夢なのに、兄ちゃんは“たけのこ”との逃避行を選ぶ。それが男なのだ。夢から覚めれば、それが夢だったから、愛する嫁と我が子の元に戻る。何ごとも、なかったように。
たとえ夢でも、それを女は望み、それを女は許せないと思う。ああもう、どうしたらいいの!!!
この時の嫁の顔が丸に点、なのは、かぐや姫への思いやりなのかもしれないけど、同じ女として、この嫁にシンクロしてしまうとたまらない。そう簡単に、男の気持ちで、描写してしまうと、こーゆーことになるんだよっ!!
……ああ、つまり、古から現在まで、ことほどさように男と女は難しい……。
かぐや姫の雅な世界を、現代の価値観で描写しようとするならば……でもきっと、当時だってそうだと思う。
それがあからさまに出来ないからこんな形で伝えられ、研究者たちを興奮させ、そして現代に通じたのだと思う。
ならばやっぱり、かぐや姫は宇宙人、どころか、未来人??だって雲海はある意味スペースシャトル、飛天はまさにSF天使。打ち鳴らす音楽は、いくら現代版だからといっても、ちょーっとアバンギャルドだったもんなあ。
★★★★☆
それにしてもこれが卒業制作というのなら、本当に衝撃のアイディアである。
勿論、神奈川芸術大学というもの自体は存在しない訳なんだけど、なんたって芸大映像科の卒業制作なんだから、いくら映画はフィクションと言ったって、そりゃーそりゃー、学内への不平不満を“あくまでフィクション”という形でブチまけてるんじゃないかって、思っちゃうじゃない!
そうやって観客を戦慄に叩き落とす、けれどもだからこそ面白く、そして根底には確かに映画愛が満ち満ちている。
なんか、なんかズルい!これがアカデミックな優秀な才能の実力ということなのかっ(まだ言うか!)。
確かに落ち着いて考え直してみれば、これは芸大の映像学科の研究室という舞台を借りて、どこの組織にもある理不尽を描いたという形は明確にある。大きな声では言えないけど、そらー、私の周囲にだってこれと似た話は沢山ある訳だし(爆)。
学科准教授、学科長という上司部下の間の、表向きは尊敬と信頼を打ち出しておきながら、実は軽蔑、軽視にまみれているという、このあるあるな図式!
んでもってそこからは切り離された、いわゆる第三者として中立的な立場の庶務課の課長は、だからこそ自分は聖域、神の目線だと言わんばかりの不遜な態度をとる。
だけど彼もまた、本当の不祥事が起こったとなると、その上の上層部には弱くて、結局は同じ穴のムジナであることが情けなくも明らかになる、と。
非常に明確。実に明確。あるある!と思いつつ、でもそれはやっぱり後から思ったこと。
見ている時は、いいの、いいの、こんな内幕暴露しちゃって!と本当にハラハラしながら見ている。なんかすっかり策に陥っちゃったよ、悔しい!(まだ言うか……)。
その中で、板挟みどころか二重三重の圧死状態になっているのが、助手として雑務に奔走する奥田君である。
あれっ、あれっ、やっぱり見たことあるよね、と思ったら、おお、おおおー!!「ニュータウンの青春」の飯田先輩(名前と役名そのまんま!)。
えーっ、そうか!確かにお顔はそうだけれども、印象が全ッ然違う!そりゃ役者さんなんだから当然そうだろうけれど、凄い!
いやあの飯田先輩が強烈な印象だったからさあ。こんな、もうひたすら底辺の、いろんな上の立場の人たちに対して、呼び出されて叱責されて始末書書き直させられて、もうもう、すっかり虚無感で満たされているような、もう人生ここ止まりみたいな、表情ももう、いつも唖然としているような感じで、喜びも悲しみもないって感じで、そんな青年とあの飯田先輩が同じだなんてさ!ビックリしたー!!
大学で助手として働いている奥田君と、同僚の女の子、安藤さんは共にこの学校の卒業生。
奥田君の学生時代は、どういう感じだったんだろうと思っちゃう。今はすっかり虚無に支配されている彼もまた、きっと情熱に燃える学生だったと思うけれども、ならばなぜ、職員の道を選んだのか。あるいはそれも、クリエイターへの道のひとつだと思ったのか。
でもここに“残っている”教授をはじめとした職員たちは、もうすっかりそんな空気も薄れて、組織の中にうずもれている。
ちょっと面白い、クセのある教授たちも出てくるけれども、この中にいる限りでは、外に出たら適応できないタイプの、この組織の中でしか生きられない、結局は組織人、なんである。
芸大の映像学科を出たならば、普通に考えて、クリエイター、あるいはそれを支えるスタッフになる、なりたいというのが夢だよねと思うけれど、彼らは学校にとどまっている。
まあキレイに言えば、そんな学生たちの夢を支えたい、といったところかもしれないが、ムチャクチャに撮影して放置、もうおたくの学生に撮影はさせませんよと怒鳴りこまれるところから始まるのが顕著で、いわゆる社会人の目から見た学生、ワカモンの無自覚さ、無責任さのしりぬぐいをして歩くのが仕事のようなもん。
いや違うな。最終的に本作は、学生、ワカモンに対してはヤハリ、だって作っているのが学生、ワカモンなんだから(いや、これはいい意味でよ!)、やはり最終的には彼らに対する弁護があり、何より愛がある。
板挟みになっている青年の立場はあれど、その青年もまた元学生、ワカモンであり、やっぱりやっぱり、オトナの理不尽な社会を糾弾してるんだよね。
そう考えると、なんか凄いマトモ、なんかカワイイ、なんて言っちゃうのは、なんとかしてこの優秀な才能の上に立とうとしているのかもしれない(爆爆)。
でもやっぱり、この奥田君の立場は絶妙である。まず最初に、かつての同級生から電話がかかってくるシーン。
起業するつもりだから、手伝わないかと。お前編集できるだろと。大阪に来いよ。このビジネスは大阪ではまだまだチャンスがあるんだからよ、と。
微妙に大阪の人に怒られそうな気もしないでもないけど(爆)、監督自身が大阪芸大の出身だから、そのあたりはちょっと上手いよなあ。なんかズルい(だからまだ言うかって!)
この時からもう奥田君は顔がぼーっとしてて、もう世の中すっかり諦めたみたいな雰囲気すら漂っている。
その後の彼のしりぬぐい人生(人生は言い過ぎだが)を思うと、この同級生からの誘いはまさに光り輝く未来と思え、電話の向こうの彼の口調もまた、キラキラに明るく輝いている。
フツーに考えれば、健全な青年なら、そっちに行くのがまさに健全な選択と思えるのだが、最後の最後、再び誘いの電話がかかってきた時、奥田君は……。
でも明確に断った場面を見せる訳じゃないんだよね。ただ観客にそう思わせるだけで。う、上手いよなー、ズルいっ(しつこい)。
でもホント、奥田君はかわいそうなの。特に大きな出来事は、撮影機材をこっそり盗み出して使おうとした学生をうっかり摘発しちゃって、そのはずみで壊されちゃって。
これは一大事だと学科長やらが色めき立って、とにかく隠蔽だということになって。
でもうわさ好きで自分大好きで危機感のない教授たちの間でその話はモレモレになっちゃって、始末書だの報告だのしなきゃいけない奥田君が板挟みのギュウギュウになっちゃう。
当然学生からも信頼されないし、何をモチベーションに仕事をしたらいいのか、全然判んないよね、これって。
いくら映画が好きで、映画を作る学生たちの夢を応援したいって言ったからって、現実は彼らの傍若無人を方々に謝罪しまくり、立場を守ることだけが大事なお歴々の言うがままにウソの報告を書き直しまくり、だなんて、そりゃあやってられないよ……。
奥田君と、彼の下での事務処理が主で、淡々と仕事をこなす安藤さん、そしてもう一人、いるのね。斎藤君。
ああ、大好きな前野朋哉っ。彼だけが、なんかちょっと理想なのよ。学内上映イベントのサポートをしているんだけど、ホンットに学生たちがやる気なくて、まず全然集まらない。頑張って集めてみても、自分たちの上映順番でモメだす。
でもこのあたりから、青春映画ぁ?ケッ!!お前こそゾンビ撮れば映画だと思ってんだろ!とか、何とも青臭い、純粋、いやもう、純情と言いたいぐらいの若き映画愛がムンムンと充満してて、えーっ、今の子もこんな純粋なの、と思わずおばちゃん、胸が熱くなってしまう(爆)。
それこそソフトも無尽蔵、多チャンネル時代で、情報と知識で頭でっかちになってる世代かと思ってたもんだから(そーゆー考え自体が古臭いんだよな、私……)。
「トム・クルーズの新作見た?めっちゃ面白れーよ」と、先輩から後輩に圧かける場面で発せられるのがこの台詞とは、ああ、何ということ(涙)。
でも、確かに後輩は圧かけられて、いや勿論、トム・クルーズの新作を見てなかったことじゃないけど(そうだったら大変だ……)、飛び降り自殺未遂をしてしまうんである。
あれ?なんか脱線したな。前野朋哉好き好きを書こうと思っていたのに……。という訳でちょっと戻す。
彼演じる斎藤君だけが、そう、ちょっと違う位置にいる。ちょっとビックリなんだけど、彼の熱意が伝わって、上映イベントに学生たちが熱を入れ出して、感謝の花束なんぞが贈られたりする。
えーっ、これってギャグか、なんかワナじゃないのとこんなシンラツな話だから最後まで疑ったが、結局斎藤君は学生たちの信頼を得た幸せな立場のまま、なんである。
えーっ!と思っちゃうのは、ヒネクレすぎだろーか。なんかついつい、最後まで、信じきれないままだった。だって基本テーマはシンラツ極まりないんだもの……。
でもでも、なんたってこれは卒業制作なんだし、勿論学生たちは映画愛に満ちているに違いないし、それを一方で描きたかったに違いないし、実際、ちょいとジンとしたし。
でも奥田君パート、つまりメインとあまりにもギャップがあるから、落とし穴があるんじゃないか、て、最後まで疑っちゃってさ。
いかんなあ、やっぱりどこかで、不幸こそが映画の醍醐味と思ってるかもしれない……いけないいけない。
わっかりやすいボスヅラ、悪人ヅラの学科長は勿論、そのコバンザメの准教授は明確な、組織にくみしたヤツで、彼らを聖域から糾弾する庶務課課長も実情が明らかになると途端にさらに上からの処罰が気になりだす。
その下で翻弄されるしかない奥田君もまた組織にくみしたと見えるもんだから、この中でただ一人、純粋に反駁するのが安藤さん、と一見、見えなくもないんだよね。
いつもは粛々と、報われない残業もいとわず、奥田君から、こんな職場、クズばっかりだし、とか言われても、どこだって同じように大変だから、と淡々と返すのね。
その淡々ぶりは、奥田君のような虚無感とはちょっと違って、冷静で、達観している感じがあるんだけど、でも彼女はまだ手前にいたのかもしれないなあ、と思う。
機材を壊してしまった学生三人が、大人の事情、というか、大人の保身の事情で翻弄されまくっていることに学生以上の純粋な義侠心を示す。奥田君はそんな彼女をいさめる。
……結局安藤さんは、達観しているように見えながらも面倒なことは先輩の奥田君に一任しているし、……まあそれはキャリア上、そうならざるを得ないんだけど……だからこそまだ、判ってない、んだよね。
そういう立場というのを、年若い女の子というキャラに託す、というのが、なあんとなくそれこそありがちでヤだなあ、と思うのは、ついついフェミニズムに傾きがちなおばちゃんが思うこと。
だって私は奥田君の立場、めっちゃ判るんだもん。だって年を取っちゃったから(爆)。
でもまあ、そんな年若い安藤さんのつやつやとした黒髪の中に、くっきりした白髪を数本見つけちゃうシーンは思わず噴き出しちゃったけどね。
そうそう、確かに安藤さんぐらいの年齢と苦悩の時期も、あったあった。と、こうしててのひらを返しまくるのは、それこそ大人のズルさかねえ(恥)。
うん、でもね、やっぱり映画愛だと思ったなあ。このメインの事件は、それこそ安藤さんの若さゆえの?潔癖さがもたらしたものだった。
返却時間ギリギリに機材を返しに来た学生、ほんの数秒遅れただけで、「これを許すと、皆許しちゃうことになっちゃうから」と言う彼女の言葉は正論だけど、まるで遅れるのを待つかのように時計を凝視している安藤さんに、映画愛は感じられなかった。
安藤さんが後からどんなにこの学生たちを擁護しても、その自身の潔癖さに触れなかった、つまりは自覚がなかったということが、返って彼らの映画愛をあぶりだす結果になった。
むしろ、この事実をあれだけテキトーな上層部が知ることになったら、情状酌量がもたらされたであろう、という意味での、逆説的な映画愛。
それをあぶりだすための潔癖キャラに、このマジメ女子キャラが起用されたということに、若干のイタさを感じる。やっぱりまだまだ、女子は映画愛の中に入れてもらえないんだな、って思う。
彼女が決して悪キャラじゃないだけに、余計に思っちゃう。自分が一因であるトラブルだって自覚がない、ってあたりがね。
すいません、フェミニズムおばちゃんなもんで。そーゆーこと言いたがって、ゴメン。
でも、面白かったなあ。とにかくとにかく、面白かった。内幕暴露みたいな体裁がすんごい上手くって、まるでドキュメンタリーを見ているみたいなドキドキがあった。
この組織から飛び出さないっていうのは、青年としては、ワカモンとしては、どうなの、とそれこそ冒頭の時点で結末を知っていたらそう思ったかもしれない。
でも、やっぱ映画ファンだからさ!どんなに叩き上げでも、8ミリ回し続けてても、映画が商業の世界でしか回っていかないことぐらい、判ってる。
劇中にもあった、ラブ前野朋哉が学生たちに吠える、観客に観られて初めて映画なんだという論は、本当にそうだと思う。
数あるゲージュツの中で、最も新しく、社会性から逃れられない映画というものは、こんな理不尽な社会を知らなければ成立さえしないものなのだ。
誰にも見られない芸術、そんな理想の孤高さが唯一ありえないのは映画だけかもしれない。さみしいようで、誇りでもある。
この人間くさい社会が、映画が成り立つ基本なのだということが、誇りでもある。だって、人は人と関わっていなければ生きていけないもん、ね!★★★★★
櫻井君&あおい嬢というキラキラスター主演だというのも理由の一つかも……イヤだな、私、イヤな映画ファンになってる。
だって特にスターとなってからのあおい嬢はなんかいつでも“ヒロイン”というか、チャレンジを感じるものがなくて、まあ本作を見てもやっぱりそう思ったけど、なんかそういう不満足があったんだもおん。
でもまあ、それもこれも言い訳に違いない。シリーズ嫌いの私が2と名の付く本作に足を運んだのは、友人のホンダ先生がコミカライズを手掛けたからなのであった。
映画ファンとしてこんなワクワクすることはない。自慢の友人である♪
そんな訳で、映画本編を観る前にコミカライズの方に目を通してしまった。
普段なら、原作はおろか、どんな内容かといったことにも殊更に情報をシャットアウトして臨むタイプなんである。だってハート弱くて影響されやすいんだもん(爆)。彼女の描く男の子はカッコよく(女の子も勿論可愛いんだけど、カッコイイ男の子を描く人なのよねっ)、うーん、このイメージで見てしまったら、まあそりゃあ櫻井君も藤原君も当然カッコイイんだけど、ちょっと比してしまうなあ、などとどーでもいいことを思いつつ、まだ足を運ぶのをためらっていたりしたんであった。
んでもって、もういい加減足を運ぶぜ、と思って出かけ、まあこれが、結構号泣。単純かな私(爆)。
でも素直にいい映画だった。つまんない小理屈こねまわしてたらいい映画には出会えないわね(爆爆)。
それでも正直、コミカライズを読んでしまっていたことで、最初のうちはその内容と照らし合わせるような気持ちで観てしまうんである。
こーゆーことがイヤだから原作その他は目を通さないようにしている訳なのだが、どっかから吹っ飛んだ。吹っ飛んだことで気づいた。優れた映画は、前情報をいくら入れていたって、それを吹っ飛ばせるものなんだって、気づいた。
深川監督が優れたお人だってのは判っていたのに、ザ・商業映画に目をくらまされて、ついつい足が遠のいてしまっていた自分を恥じる。
だあってなんだかものすごく順調に階段駈けあがってしまったんだもおん、いやいやそれは才能があるからでしょう!
てな訳でぐだぐだと言いまするが、いい加減始めますか。
個人的に嬉しかったのは我が愛しのちーちゃんが、きっぷのいいベテランナースとして登場していたのが超絶嬉しいっ。
ホンダ先生のコミカライズを読んでいた時点では、この役にちーちゃんというのはまるで予想もつかなかったが、あの可愛い可愛いちーちゃんはしかし、それこそきっぷのいい女優なのであって、それは可愛い可愛い時代から既にそうで、その可愛い外見からはキャスティングされるのが予想外なようなこんな役柄も、カワイカッコよくキメてくれるのが嬉しいんである。あーやっぱりちーちゃんはサイコーだなーっ。
同じように吉瀬美智子がちょっとカッコいいナース、あ、彼女は師長なのね、見てる限りでは判らなかったけど(爆)が、なんたって吉瀬美智子だから、彼女のイメージ通りのカッコイイ女として出てくるんだけど、正直彼女はいらなかったなあ(爆)。
この役柄としてはちーちゃん一人で充分だった。吉瀬さん、こういうマニッシュな女性っぽく煙草をふかしたりもするんだけど、いかにも口だけでふかして、吸ってない人が吸ってる演技をする、っていうのがまる判りなんだもん。案外こういうのがガクっとくるんだよね、細かいけど。
まあそんなことはどうでもいい。本題本題。
そうか、私は全然知らなかった。本作、つまり原作のテーマは、地域医療。そして前作でも扱ったという、末期医療のことについて。
正直、オフィシャルサイトの解説を見てしまうと、そりゃまあ本作は、前作と切り離して一本として独立しうる作品であり、そうした監督さんの意気込みも感じられるんだけど、でもやっぱりやっぱり、解説を見ちゃうと、そうか、前作では主人公の一止は一人前の医師となる姿が描かれ、そして本作では医師として困難にぶつかり、成長していく姿が描かれる、となると、やっぱりやっぱり、前作を見ずに本作をいきなり見るのはアレなのかなあ、などと心がくじけそうになる(爆)。
でも前作では、宣伝でチラリと見た櫻井君のくるくるヘアスタイルがやっぱりちょっと微妙だったし(爆)、いやそんなことはどうでもいいんだけど。
なんかどうでもいいことばかりで進んでるな。いい加減切り込め、私(爆)。
そう、地域医療、そして末期医療。まあそのう、つまり、メッチャタイミングバッチリだったのさ。わたくしごとではありますが、ついひと月ほど前、父が亡くなりまして、まあそりゃあ、地域医療ですよ。
まず食道がんやって、胃まで全部取っちゃって、脳幹出血やって、鬼のリハビリやって、がんが転移しちゃって、それが作用して脳梗塞を繰り返し繰り返しやって……これが最悪、というのを、何度も更新した。
そのたびに、最悪って、もっと上があるんだなと思った。その時には最悪だと思っていることが、更に更新されると、全然最悪じゃなかった、幸せだったじゃないのと思うこと。
本作が語るメインルートは色々あって、まずもう一人の主人公というべき、藤原竜也君の登場。大学時代の同期、優秀な内科医の辰也が、東京から赴任してきた。
その理由は後に明らかになる。同業の奥さんが、子育ての片手間にと患者から責め立てられてそれ以来、家庭を顧みない鬼の医者になってしまったこと。
「それで立派なお医者さんですねと言われるんだ。狂ってると思わないか」と辰也から言われて、まさにモーレツ医者である一止は一言もない。愛妻の榛名をいつも一人きりにしている自覚があるだけに……。
その榛名は今、お腹に命を宿している。それ自体が前作からの引き続きだと聞くと、ヤハリ、いくら独立しているからといっても本作だけを見てあれこれ言うことにちょっと臆する気持ちを感じてしまう(爆)。あー、ヤダな、ホントに私、ハート弱いんだから(爆爆)。
でもまあ、ね。この赤ちゃんの存在が、辰也、そして末期医療の対象として描かれる彼らの先輩医師、柄本明演じる貫田先生夫妻に投影されるのだから。
辰也は奥さんとの亀裂を修復できず、子供を連れてこの信州に帰ってきた。
そして貫田先生夫妻には子供がいない。その理由は後に明らかにされる……臨月の時の不正出血で、救急搬送された先に婦人科がなかったこと。
そのことをきっかけに、貫田先生は地域医療、この街のともしびである 病院に骨をうずめる決意をするんである。
辰也の奥さん、一止とも淡い三角関係になった千夏を演じるふっきーが、本当にほんの数シーンなのに、とてもいいのね。
まあこれはいわゆるもうけ役といったところなんだけれど、いまだに、いまだに、女性が直面するこの理不尽な問題!子育て云々を揶揄されるのは女性だけだという問題!
その点に関して言えば、正直なところ、突っ込み不足な気もしないでもない。確かに最終的に夫である辰也は「自分が追いつめたのかもしれない。母親なのに、と」と気づいてくれはするけれども、医師が体調を崩して一日休んだ、それが女性医師だったから、“子育ての片手間”と言われることを、あまり明確に示していないような気もしないでもなかった。
つまりこれが、男性医師なら当然、言われないってことをね。それは、産休で1年現場から離れた千夏の焦燥を先に示すことで、余計にぼやけちゃってるってことで、ヘタレフェミニズム野郎としては、やっぱり気になっちゃう。
勿論この問題提起はありがたいんだけど、やっぱりまだまだ甘い気がしちゃう。
おっと、なんかまたまた脱線してしまった。でもでもそういう私のモヤモヤをふっきーは静かな嗚咽で100パー表現してくれるから!
でまあ、私にとっては先述したように、やはりやはり、地域医療の末期医療が、大きく響くのであった。
やっぱりね、言われたよ。在東京人さんたちはさ、無邪気に東京が最上だと思ってるんだもの。東京の病院で診てもらわないの、とフツーに言われてガクゼンとした。
情報化社会で、今はそんなことないじゃない。確かに本作の劇中で描かれるように、大学病院と地域病院の差はあり、そこにこそ焦点を当ててくれたことが嬉しくもあった。その“差”ってのは、最終的には人間の尊厳の差でしかないことを、きちんと示してくれたから。
私の父親も大学病院にもお世話になって、あらゆる可能性や選択肢を示してもらえた。でもやはり、大学病院は安住の地ではないんだよ。
理想の安住の、最後の地は自宅だと思っていたけれど、それも末期医療では難しい、というか、単純に自宅での看取りが最上なのかというのも、今回本当に色々考えさせられたことであった。
勿論、本作においての貫田先生は、この病院に理想を、人生を、命をささげた人なんだから、信頼できる部下たちに引導を渡す形で最期を迎えるのは理想中の理想だよねと思う。そういう意味では、末期医療を描くのにこのモデルはちょっとズルいなとも思うところである。
私ね、本当に……かなりギリギリまで、とーちゃんを自宅に帰してあげられないのかなと思っていたんだ。とーちゃん自身も、自宅に帰りたい意志を事前に示していた。
でも症状とかいろいろあって、やっぱり難しいってなった時に、それでも、100%不可能という訳じゃなかったんだけど、緩和ケア病棟に移って、その時に、自宅にこだわるのは違うのかもしれないと思った。
私ら子供はさ、離れているし、ほんのちょっとしか事情を汲み取れないから、自宅自宅と言うじゃない。
いやそう言ってしまうと、看病する側の大変さがとか、そう誤解されてしまうかもしれない。これはあくまで私のとーちゃんの事情だけだからアレなんだけど、いつの頃からか、とーちゃんは病院が日常になって、ありがたいことにとてもいいスタッフさんたちに恵まれて、その場所が生活になっていたんだよね。
信頼できる人たちに囲まれて、緩和ケア病棟で最後を迎えたことを、今は最上の選択だと思ってる。
貫田先生の描写は、その点ではちょっと微妙な感じがしなくもなかった。先述のように貫田先生はこの病院に命をささげた人であって、ある意味戦場での、戦友に見守られた誇り高き死だ。
ギリギリまで最善の治療を重ねて、いよいよとなったら緩和ケアに切り替える、という辰也先生の台詞に、ああ、緩和ケアだ、と思った。
私の年代のイメージでは、末期に無意味な積極的治療を行わず、心穏やかに暮らす場は、ホスピスだった。でもそれは、正直、浮世離れした感があって、そこまで思いきれる自信はなかった。
緩和ケアというのは、まさに実情に沿っている。私の父親は運よく、地元に新しく出来た緩和ケア病棟にタイミングよく入ることが出来て、本当にゆったりとした居心地の良い場所だった。
最期の最期も、家族だけにしてもらえたのが、大きかった。やっぱりイメージではさ、医者やナースが立ち会って、それこそギリギリまで心臓マッサージをしたりして、ドラマみたいな場面を想像するじゃない。
全然そうじゃなくて、もういよいよという場面では、本当に家族だけだった。とーちゃんに家族だけで声かけて、身体や手や足さすって、その間、家族だけだった。
だから臨終の時間もまあ正確じゃないわけ。そろそろかね、ってあたりで、10分くらいたってからお医者さんやナースさんたちがそろそろと来てくれたから。そういう意味では、ウチは本作より最先端??上行った?よね!やった!!(爆)
貫田先生は、お医者さんだからやっぱり、治療によって意識が混濁することが判ってたから、その前にと、弱った体に鞭をうって、伝えうる担当患者のカルテを一止に託す。それが、神様のカルテ、なんである。
ほんの2、3日だからさ、頼むよ、と担当医師の辰也に貫田先生は言った。
定時にさっさと帰り、連絡がとれない辰也を、最初に擁護したのが貫田先生で、やみくもな熱血医師の一止は後に、友人の窮状を知ることなく糾弾していたことを思い知らされるんであった。
本作の魅力は恐らく、この独特の語り口にあるのであろう。ホンダ先生のコミカライズを読んだ時にも独特だなあと思った、まるで古典文学のよう。
「……のだ」「……たまえ」信州の人がこんな喋り方をする訳でもないだろうが(するのかなあ)。
下宿先の御嶽荘の主人、泰造氏が櫻井君を“ドクトル”と呼びかけたり、いまだに理想の画家を夢見ていたりする浮世離れ感が、魅力的だった。
やりたくないのに押し付けられた研究から、屋久杉君と呼ばれる濱田君は相変わらず年齢も人品も不肖で良い(爆)。
本作号泣ポイントである、24時間点灯している病院の看板を一分間だけ消灯して、貫田夫妻に出会いの思い出の、常念岳で見上げたような満天の星空を見せるキッカケをもたらした人物であり、屋久杉研究を始めるという前フリがあるってことは、3もありそうな予感てことかねー。★★★☆☆
これはきっと、原作とも遜色のない出来だろうと思う。いやいや、読んでもないくせにアレだけど、そういうのって、作品の持つパワーというか、役者の魂の入り方でやっぱり、なんか、判る。
……と、同じ原作者の「八日目の蝉」で思っていたが、ドラマ好きのねーちゃんからは「ものたりない。ドラマの方が良かった」などと言われてしまったから、なんとも言えない。
この辺は、ドラマの尺の生理がしっくりくる人と、映画のそれがしっくりくる人の違いかもしれない。本作もNHKで先にドラマ化されてるんだね。それも「八日目の蝉」と同じ流れ。原田知世と満島真之介君のカップリングも興味があるが……。
何かの番組で、舞台での自分を確立できるまで映像から離れていた、的なことをりえ嬢が言っていた覚えがある。舞台至上主義に対するコンプレックスありありな私のよーなクサレ映画ファンにとっては、なんとも切な哀しい台詞だが、でも戻ってきてくれて嬉しい。
私にとってりえ嬢は「たそがれ清兵衛」ではなく、「父と暮せば」そして何より大好きな、「トニー滝谷」の触れたら壊れそうな美しさなのだ。
皮肉なのかなんなのか、「トニー滝谷」の主人公はこれもまた舞台人のイッセー尾形氏であり、映画の中の彼らを見たいのに、なかなかこっちに来てくれない(涙)。
でもそれもヤハリ、いい作品に出会えてこその話だと思う。
子供ナシの主婦が、契約社員として働き始める銀行。ほんの出来心から顧客の金に手を付け、返せる、返せると思っているうちに、若い恋人を得たこともあって、豪勢な生活から抜け出られなくなって、追い込まれていく。
そんな、本作の梨花という女は(女、という言い方は犯罪者って感じだよなー)、見ている間中ずっと、正直なことを言えば、バカな女だと思ったし、いろんな理由や追い風(この使い方、ヘン?でも突風のような、嵐のような爆風に押されてあれよあれよと行ったように見えるんだもの)を考えても、とても情状酌量とは思えないと思った。同じ女、そして同じ年頃だということを考えてもそう思った。
勿論それは、私が梨花のような、てゆーかりえ嬢のような”きれいなお姉さん”でも、契約社員とはいえ、金融機関に勤められるような優秀さを持ち合わせてもいないからこそかもとは思うが、いやそれが大いなる理由かもしれんが(爆)、でも正直なところは、やっぱりバカな女だと思うのだ。
どんなにダンナがドンカン男でも、どんなに年下の恋人が可愛くても、どんなに贅沢が魅力的でも……やはり梨花には、タガが外れるだけの要素、それだけの生活レベルがあったと思わざるを得ない、からかもしれない。
女が堕ちていく物語はクサるほどあり、それはほとんどが恋愛沙汰だが、まあ本作もそれがらみではあるけれど、やはりキモは、お金が紙切れ、紙切れで好きなことができる。紙切れだからいつでも返せる。そういう、人間社会が金銭社会によって成り立っている、一番弱い部分をついている点にあると思う。
まあだからこそ、恋愛絡みが立ちすぎてくると危うく、本作もその危険はプンプンと感じるんだけれど、池松君とセックスしている時より、証書を偽造している時のりえ嬢の鬼気の迫り方が素晴らしいので、紙一重で乗り越えてしまう。
まあ、りえ嬢ならば大学生の男の子にだってホレられるだろうしよ、という同年代クサレ独女の独り言はある訳だが(爆)、凡百の女優ならば、この濃厚シーンをウリにするだけとも思えるもんなあ。
まあ、それはなくはないけどもね。確かに。でもりえ嬢ほどの肝の坐った女優でも、あれだけのシーンを演じても、その積み重ねが重要であっても、乳首は出さないのね……ちと残念。
こんなところでエリカ様に負けてほしくない(爆)。いや別に、池松君がりえ嬢の乳首吸ってるところを見たかったなんて、言ってない(爆爆)。
そんな若干の残念さを感じつつ、そこでいつものフェミニズム女の私ならガンガン言うところなのだが、仕方ない、りえ嬢は素晴らしいからそこは目をつぶって許してやろう(何様??)
確かに池松君とのエロシーンよりも、本作の、そして梨花の重要なトコは、女として、人間として、この社会の中でどう扱われるか否か、ということだったんだもの。認められたい、感謝されたい、そして……言いたかないけど、愛されたい、と。
物語の冒頭から、何度か挿入される、梨花のティーン時代の描写、ミッション系の、いかにもお嬢様学校といった風情。世界の恵まれない子供たちのために、おこずかいをほんの少し削るだけでいいから、寄付をしましょう。
その活動にのめりこんだ梨花。同級生の誰もが関心を失ったのに憤ったことも手伝って、父の財布に手を付けた。与えることが大事だと、言ったじゃないですか、とシスターにくってかかった、まるで純真そのものの目をした若き日の梨花。
今でもその気持ちを持ち続けているのか。
それを重要項としてしまうと、若い恋人に貢ぐドロドロになってしまうんだけれど、やっぱりちょっと違う、よね。
梨花がこの、まっすぐな瞳を持った光太に溺れてしまった気持ちは、そらー判るさ、梨花以上に妄想しちゃう立場としては(爆)。
ちなみに光太は、独居老人の営業回りをしている梨花の、その顧客の一人の孫である。その顧客、平林を演じるのは石橋蓮司。ピタリすぎる……。
前任のベテラン女性が苦戦した頑固じじいから国債の契約を一発で取り付けたことで、周囲の見る目が変わるのだが、この時点で梨花は、無意識ではあったけど、ちょっとだけカン違いしてしまったのだ。
そう、そのまんまの台詞を平林から言われた。「あんた、ちょっとカン違いしてないか?」切羽詰まった梨花が色仕掛けで次なる契約(自分でチラシを作った架空の)をとろうとした時、そう言ったのだ。「俺は、あんたの提案が、他と違うから面白いと思ったんだよ」と。
石橋蓮司は単なる頑固じじいとして描かれていると思ったし、この場面までは色呆けじじいだとまで思い込んでいた。それは最初に梨花がこの家に訪れたシーンで、梨花の肩に手をかけた平林に孫の光太がとっさに声をかけたから、観客までもそう思わされてしまった。
そして加えて言えば、光太の側についたことによって、光太だって騙すだの、搾り取るだの言った覚えも、そんな気持ちもないのに、梨花側が勝手に、増幅していったのだ。
これでしか、ないのかなあ。これだけ年が離れているというのはあるにしても、年上女が年若い男の子と恋愛するには、これしかないの?
そんな筈はない。光太は最後まで、贅沢をしたいと言った覚えはないし、贅沢に対してはムジャキに喜んでた。でも梨花を金持ちの奥さんと思い込んでからは、「安い居酒屋に連れてっちゃったりして……」と恥じ、つまりその時点から、二人は対等な関係ではなくなったのだ。
金持ちと思い込ませたのは、頑固じじいが金を貸してくれないために、学費が払えずサラ金地獄、大学中退を考えていた光太を救いたいと思った一心だった。それだけだったのに。
ホント、光太のセリフが忘れられないんだよ。「安い居酒屋に連れてっちゃったりして……」いくらそれに対して梨花が「美味しかったよ。また一緒に行こ?」と言ったって、彼は二度と、梨花を連れてはいかないだろう。
その後は高そうなレストランや豪華なホテルでのはしゃいだデートが重ねられ、当然彼は金を出す当てもない。学費のためにと貸してもらった金を細々と返す、それだけで梨花はキュンとくるんだし、実際、光太にそれ以上のことが出来る筈はないんだもの。
……いや、冷静に考えれば、梨花こそが出来ないことを架空で、エアーでやっている訳なんだけどさ。
光太のためにと、見るからに高そうなマンションを借りて、ワインセーバーに高そうなワインパンパンに詰めて、それでも光太は、手料理を作る梨花に感激し、「やっぱ肉じゃがでしょ」とありがちな台詞を吐いた。
そう、ありがち……それは本作のキーワードなんだよね。ここまでついつい危険ラブについてばかり書いちゃったけど(爆。うーむ、欲望まみれか??)梨花が働く銀行こそに、そして梨花が生活する家庭こそに、問題の種はうずまっているんである。
梨花が契約社員として入ってくる銀行支店の、ベテラン女子社員、隅役に小林聡美。久方ぶりに素敵な彼女を見られた気がする、なんて、不遜ですけど(爆)。
「かもめ食堂」は大好きだけど、その後、柳の下のドジョウ状態が続いたのは、ツラかった。
本作の小林聡美を見て、同じくベストセラー作家の作品を挑戦的に映画に仕立てた「理由」の彼女をも思い出した。こんなにワクワクする小林聡美は久しぶり!と思うぐらいだった。
本当は彼女は、怖い女優なのかもしれないと思った。りえ嬢とさして年の差がある訳じゃない。でも女の年の差は厳然としてあるのだ。
日本社会においては確実にそうだということを、いまだにそうだということを、この対照的に凄い二人の女優が、対照的に鬼気迫る演技で演じる、それを見られるなんて、なんて幸福なんだろう。
梨花のダンナ役の田辺誠一も、ねー……。彼はまさに冒頭、梨花の、そしてこの単体夫婦の関係性を決定づける言動を穏やかな顔でやってのける。
梨花が記念にと買ってきたペア時計に「……うん。こういう気軽な感じの、欲しかったから嬉しいよ」その後に、上海出張のお土産としてカルティエのホンキ時計をプレゼントして、「そろそろこのぐらいのをしてもいいと思うよ」と言うことが、どんなに無神経か判ってないサイアクさ!
そのペア時計のくだりの台詞もアゼンとしたが、「梨花が自分で稼いだんだから、好きに使えばいいよ」この台詞がどんなに彼女を傷つけているのかみじんも判っていない、無知の罪である。
……この描き方、もちろん受ける梨花=りえ嬢の表情で説明してはいるけれど、その程度で世の男はちゃんと判ってくれるのか。あるいは、その説明がなければ判らないのか、というべきか、ヤハリ。
田辺誠一が、まったく邪気のない、悪意のない、理解のある旦那さんといった風情がピタリすぎるので、彼自身がそんなアホ男なんじゃないかとどつきたくなるぐらいなんであるが、いやいやいや、お互い切磋琢磨しあう役者同士の夫婦なんだからそんなことを言ってしまっては!
でもホント、この理解ある穏やかな夫、の風情がハマリすぎて、ホンットに凍り付いたんだもの。
結婚して女が働くことは、こずかい程度にしか思ってない、転勤したらついてくるのが当然、加えて「子供が欲しくなかった訳じゃない。今は医療も進歩しているんだから(作ろうか)」さ、サイアク!!
おだやかな、ヤギみたいな顔で言うから更にサイアク!DV夫よりサイアクかもしれない。だって全力でぶつかり合うことさえ出来ないんだもの!!
……こう書いても、男性諸君は、どこがなぜダメなのか、判らないのかも、しれないんだなあ……。見ている時も、本当に男性観客が、このダンナのヒドさを判ってくれるのか不安だったし、今も不安。
だからといって梨花の暴走は常軌を逸していると思うけれど、この調子で長い二人きりの夫婦生活をやってこられたと思ったら、判らない気はしないでもない……という気になっちゃう。
子供がいない夫婦生活。いや、子供がいたとしても、男女関係は対等であるべきだけど、やはりそこんところは、今の日本社会ではなかなか難しい。
でも子供ナシならせめてもう少し理解があっても……と思うのは、そうした前提を肯定してしまっている時点で、女は負けなんだろうか??
なかなか言いそびれているんだけれど、梨花の同僚で正社員、いかにも現代っ子(この言葉自体、死語だけど)の窓口女子社員、大島優子嬢はキーマンであり、それを任せられるだけのなかなかの達者ぶりで、女優としての彼女を私は初めて見たので、大いに驚いたのね。
なるほど、りえ嬢が「さすがセンターを張っていただけある」と、リップサービスにしても言うだけのことはあるという、したたかさをいやらしいぐらいに出していた。
この子の言う「ありがちな」上司との不倫関係、そこには梨花の行動を正当化する、「誰でもやってますよ」的な、後に帳尻を合わせる水増し伝票の共犯者、ってな要素があって梨花の行動に大きな影響を与える訳だし、さすがに目端が聞いていて、梨花の変化……ファッションやカルティエの時計……なんかにいち早く気づくんだよね。
その点で言えば対照的なのが小林聡美演じる隅であり、詳しいバックグラウンドは語られないけれど、お局様的な雰囲気と、異動を暗に示唆されてもガンとして応じない感じとか、シングルとして女1人生き抜いてきた様が感じられて、この女子三人は、皆人生が全然違う訳だけど……。
上司と不倫して、それなりに貯金をためて、地元の公務員と結婚した若い子が、ちゃっかりといい選択をしたかどうかなんて、これから先の十何年を見なけりゃわからない。だって、梨花だって、そんな風に見られていたかもしれないんだもの。
やっぱり少しやせすぎなりえ嬢が、それでもやっぱり、「キレイ……」と、ピチピチの若い女の子からも見とれられるほどの、どこか切羽詰まった、どこかもう、死んでしまいそうな美しさなのが、こういう美しさは、やっぱ、”女優”でなけりゃ出せないと思った。
それにしても池松君はアダルト担当の年だったね。てゆーか、アダルト担当デビューで任され過ぎな年(爆)。それぐらい、他に出来る男子がいないのか??という不安を感じなくもないが……。★★★★☆
腹違いの兄弟、という設定で、小林旭はもはや有力な組の親分さんとして、りゅうとしたスーツ姿もサマになっている男。一方の弟、渡瀬恒彦は田舎から出て来たばかりで、チンピラにさえ届いていないような勢いばかりの垢抜けない男。
兄は弟との再会を素直に喜び、自分は顔がきくからと、高そうなクラブやらなんやら連れてって下へも置かない歓待をするけれど、弟の方はずっとぶんむくれて、冷ややか。
そして、兄から、大物の所有物だから手を出しちゃいけないと言い含められていた高級ホステスに手を出したことがキッカケで、決裂。弟は自分の力で組を作り、東京と大阪のヤクザ抗争に火をつけて、兄と血で血を洗う対決をするんである。
いやー、こう書いてみると、コテコテのヤクザもの!だが、しかし、これがなかなかにヒューマニズム。お兄ちゃんが最初、弟にあたたかな対応をしたのは、弟もまた、あの冷たい故郷を捨ててきたと思ったから、なのかもしれない。
弟は、自分がお前の母親のシモの世話までしたんだと吐き捨て、二人の父親が海岸でのたれ死んだ時、二人の母親が泣き叫ぶ中、村のみんなが憐れむどころか、指を差して笑っていた光景を思い出すんである。
それは二人の共通の苦い思い出なのだけれど、この回想シーンが、粗い目のモノクロ映像で、劣化したドキュメントフィルムのようで、幼い兄弟の頭に焼き付いている映像としては、何か、なんとも、もの悲しいものがあるのだ。
そして、まあちっとオチバレになるが、そのシーンがまるでデジャヴのように作用して、哀しきラストシーンにつながっていくのだもの……。
小林旭の押し出しの強さはまあ、予想の範囲内だけれど、渡瀬恒彦の荒々しさっぷりは、それこそなかなか彼の若い頃の作品を観る機会がなかったこちとらにとって、実に新鮮なオドロキなんである。すいません、ホント勉強不足で……。
このテのジャンルには酒と女とバクチは、ベタベタのお約束で、まさに本作にもそれがお手本のように出てくる。しかももうヤクザの親分さんとして押しも押されもせぬ兄=小林旭ではなく、まだヤクザの世界を外から見ている未熟者、弟の渡瀬恒彦が、それらをガンガン駆使してくるんである。
兄を訪ねた最初は肩ひじ張っていたこともあろうが、まるでヤクザ映画のお手本のように賭場をみせてくれて、客に貸す金が億単位で戸棚にドーンと用意されていることに目をむく弟。
そして、いかにも高そうなクラブで最初に手を出すのは、金髪碧眼のストリップダンサー。英語……じゃなさそう、フランス語?判らない言葉にキレて組み伏しバッコバッコやっつける、白ブリーフいっちょにみなぎる筋肉の渡瀬恒彦に、た、倒れそう……。
最初がこんな具合だったから、この日の一本目で、いかにもな安っぽい扱いをされた女たちのことをちらと思い出して不安に思ったが、本作ではなかなかに純愛が用意されているのよね。
最初にこんな具合に、突っ走った行動をしていたのは、もうすっかりりゅうとした風情の兄に対する焦りだったのかもしれない。
本当に偶然に、こんな偶然あるのかよ、といった感じで、再会した故郷の同級生。集
団就職で大阪に出てきたはずがなぜ東京へ?と問うと、男についてきて、着いたとたんに捨てられた、もうこれで何度目か、と幸薄い、というか惚れっぽい、というか、ちょっと頭悪そうな(爆)、女。
弟……そろそろ役名言うか(爆)、拓も単なる本能ムラムラで早速襲いかかるんだけど、その後はねんごろになって、でもまさに純愛なの。
拓は兄の直人に勝つためにと、イキのいい若者たちを自ら探し出して、着々と組を作っていく。画面に名前のクレジットが増える形で、ケンカやらデモやらの場面を実にエネルギッシュに、スリリングに重ねていく。
こーゆーこと言っちゃったら身もふたもないが、でもやっぱり、今の役者じゃこういう画は作れないなと、まあ、そーゆーことをついついここでは何度も言っちゃうけど、でも思っちゃうよな。
まあそれは逆もまたしかりで、この当時は今作られているような映画は作れない、そういうことなんだろうとは思うんだけれども。
この女、キヨ、賀川雪絵?し、知らない……かも……いや見ているのかもしれない、きっと見ているのだろうが、認識してない名前!
でも、拓との純愛がとにかくイイの。いや、チョメチョメしてるんだから(爆。古い表現……)純愛とゆーのもアレなんだが、でも純愛と言いたい!自分ひとりの力で作り上げた組の、その姐さんとして遇するあたりが泣けるじゃないの!!
その”事務所”は、最初は彼女の狭いアパートで、舎弟のパンツをつまみあげて、脱ぎ捨てたの誰よ!なんて言ったりして、なんか、語弊があるかもしれないけどヤクザごっこみたいな可愛らしさがあって、ほのぼのするの!
勿論、拓が、そして彼が作った組がどんどんのし上がってくると、ちゃんと事務所も別に借りるし、キヨに小料理屋なんぞを持たせて、しゃんと和服を着こなしたキヨはもう、”坂下のブス”(故郷でのあだ名ね)なんぞじゃなくて、イイ女なの!
そう、この言い回しが、哀しき、そしてピュアラブな二人の別れに実に切なく作用するのだが!!ああ!そこでこれを言っちゃダメーッ!!(涙)
腹違いとはいえ、やっぱりこの兄弟は、やはり兄弟なのよ。自分ひとりの力でのし上がる力が、あるのよ。
兄の直人は、幼くして別れたせいもあってか、そして猪突猛進型の弟を目の前に見ていたせいもあってか、やっぱりナメていた部分はあったと思う。まだまだ子供、だと。
自分にたてつく形になって、幹部から命じられる形で、ブイブイいってる弟に会いに行く、この小料理屋でのシーンは実に、それを明確に表してる。
めっちゃ二人がどアップなのさ。なんか恋人同士のキス前のシーンでも撮ってるかのような接写なのさ。スリリングで、二人の心をカメラが覗き見ているようで、ドキドキするのさ。
小林旭なんて、スクリーンの手前でアップになっているせいなのか、元々顔がデカいのか(爆)、顔の面積に比してパーツが小さいせいなのか、座布団みたいにデカい顔に圧倒される(爆爆)。
こうしてみると、なるほど、渡瀬恒彦の若さと荒々しさに隠れた、端正な男ぶりがよく判るってなもんなんである。
ヤクザ映画には欠かせない、すぐ割れるビール瓶アクションも堪能でき、いやーいやー、満足とか思うが、すぐに切ない別れが待っている。
男の意地、いや、自分自身、人間としての意地をかけた、破滅を覚悟した拓が、キヨを事務所に呼び出して、二人きり、ギュッと抱きしめてキスして、もう熱烈キスで、思いがこもったキスで、いや接吻で。
キスというより、接吻と言いたいのはなぜだろう。時代もあるけど、重みが違う、思いの、重みが。ああもうー(涙)。
てか、結構いろいろすっ飛ばしてるけど(爆)。だって成り上がりのチンピラ、それに毛が生えた程度の小さな組が、老舗の組を本気で怒らせ、血を分けた兄弟を戦わせる事態にまで陥ったのは、それ相応の展開があった訳でさ。
東京と大阪のヤクザが、一歩踏み外せば戦争になる状態の、いわば冷戦に、その一歩を踏み外させるために、大阪方に拓が着いたのが始まり。
てか、そうなれるほどに、愚連隊では済まないまでの組として成長させた、拓の意地の力。
彼が盃を受けた大阪の三友会幹部、栗原役の安藤昇はさすが、ホンモノの迫力!やっぱり、なんか違うよ、フィクションのヤクザとは何かが違うの!!
結局は、裏で大物たちが動いて手打ちが行われ、拓が血のにじむ努力で築いたシマが奪われ、こともあろうに拓の身柄が兄の直人預かりとして、”穏便”な決着がみられるという、そらー、今まで男の意地で必死に動いてきた拓の心情が推し量られようというものさ。
栗原はそんな、拓の男気を買っていたように見えていたけど、結果的には、浅はかなワカモンの野望を最初から見抜いて近づいたと思えなくもない……っていうのは、ヤハリ、安藤昇の、ヘビのように冷たい眼光は、やっぱりやっぱり、ホンモノなんだものーっ!!
そう、この安藤昇のモノホンの恐ろしさがあるからこそ、そのギャップで、ラストシークエンスの、兄弟の殺し合いが、冷たさよりも、どこか兄弟愛の末に、という浪花節のあたたかさに感じる、この不思議さよね。
あっ、殺し合い、って、思いっきりオチバレじゃん!……まあいいや。なんつーかね、この兄弟にこういう、アツい殺し合いをさせるために、このラストの哀しい美しさのために、それを逆算して作られた展開なんじゃないかと思える位。
つまり、弟の拓を殺すぐらいの展開にするためには、兄の直人がそれぐらい激怒、あるいは追い詰められることをしでかさなきゃいけない。
この栗原、そして、直人の直系の親分さんとも言うべき上田組組長が、拓によってブチ殺されちゃって、もうにっちもさっちも、引くに引けない状態になっちゃった訳。
上田組組長は、この物語のかなり最初の方から登場していて、その上には東京の組を仕切る大成会の会長、志村喬が君臨してる訳。
なんたって志村喬だから、その下のヤクザさんたちの殺気立った風味とは違って、茶でもたてそうな穏やかな御仁であり、だからこそ直人も慕っている訳でさ。
もし、この殺しの一方が、志村喬であったならどうだっただろうと思いもし、そう想像すると、こんな穏やかで、手打ちを進める平和を推進するような会長でも、実はもっともっと、蛇の目をした栗原以上にことを見抜いていて、決して殺される立場なんぞにはいないのかと、そういうことなのかと、思ったりもして、ゾッとしちゃうんである。
勝手に想像しすぎ……??でもさ、あんなコワそうな安藤昇だって、拓は信用したじゃない。自分を買ってくれた人だと、そう思ってさ。それが志村喬だったら……下の者たちに同士討ちをさせて、すげ替えられればいいことなのだ。なんということ!!
……まあ、そんな勝手な妄想よりも、本作の大事なトコ、というか、魅力、いや哀しすぎる魅力だけど、それは別のところにあるのだよ。
兄弟が、殺し合うために、故郷に向かうという、哀しすぎるけど、フィクションとしては耽美すぎるこの展開!
閑散とした漁村を、拳銃を持った二人が追いかけ合う。ノンキに歩いているワンちゃんが、二匹、三匹、犬種も違って現れるのどかさに、そんな余裕ぶっこく演出に、ズルい!と思っちゃう。
弾が尽き、懐からドスを取り出す兄に、用意良すぎ……とついツッコみそうになったが、焦って逃げる弟が、飛び込んだどっかの家からちゃんと包丁を調達する段に至っては、……ここでツッコんでは、ヤボかな、と思い返す。
だって愛憎深い兄弟が殺し合うには、飛び道具じゃ淋しすぎるもの。刺し違える二人の、温かい血が流れるのが重要なんだもの。
でもさ、お兄ちゃんは、弟に、故郷を捨てたんだと、縛られているお前らも捨てたんだと、言い放った。もう二度と、故郷には帰らないという気持ちはゆるぎなかったはず。
でも、弟を、殺す、ためなら、来たんだよね。そしてそれは同時に、弟に殺されて、自分も死ぬためならここに、来たんだよね……。
弟は、ヘタレのくせに女を囲って後ろ指をさされたオヤジと同じように、デジャブのようにまったく同じ形で、同じ海岸で、兄に刺された傷を押さえてもんどりうって、死ぬ。笑われはしないまでも、冷ややかな人々の視線を同じように浴びながら。
お兄ちゃんの方は、意地でもそれから逃れるように、故郷で、オヤジと同じように死んでたまるか、とでもいうように、……だってここに帰ってくること自体、本意じゃなかったんだから……、瀕死の状態で車に乗り込み、血だらけになりながら急カーブを走らせる。
血でぬるぬるの手ではハンドルを持てなくなって、ハンドルに噛みついて運転するのには、……さすがにこの展開では笑う訳にもいかないが、ちょっと微妙(爆)。
この当時の映画ではかなり見覚えのある感じで、カーブ下の崖に車が転がり落ちていく。そしてラスト。
こういう、美学アリアリのヤクザ映画を見ると、男はカッコ良く死にたいために、生きてるんじゃないかと、思っちゃう。長生きとか、恥だとかさ。いや、さすがに今の時代ではないとは思うけど。
ところでこれってなんで、唐獅子警察、なんだろ?意味が……。★★★★☆
本作に足を運んだのは、新藤兼人脚本!に負うところが大きい。今更ながらに、新藤兼人は脚本の人だった、と思う。脚本脚本、まず脚本、監督になっても仕事としての脚本を書きまくる。
この、不幸がざんざん押し寄せる女の物語を、メロドラマとして面白く、女の強さ弱さとしてメリハリ良く、恋の切なさ、家族の愛と非情、すべてを100%にして、この尺に収める脚本を今書ける人がいるだろうかと思っちゃう。
しかもその時の彼のお年を考えると!!やはり当時は本数で鍛え上げられる、厳しくも幸福な映画の黄金時代だったんだなあ。
ところで私、五所平之助監督の作品を観たことあったかしら、というのも本作への興味のひとつであった。日本映画創成期の高名なお名前だけは耳にしたことがあったけれども。本作は若き日の新藤兼人と伝説の監督のコラボレーションという意味でもかなりワクワクする。
といっても10しか変わらないのか。新藤監督はリアルタイムで大好きな監督だったから、なんか時代の感覚が判らなくなる。
んでもって、ヒロインの高千穂ひづるというお名前も!いや、きっとどこかでお目にかかってはいるのだろうが、ヒロインとして見るのは初、だよなあ!おきれいな人で、不幸どんぞこ、二号続きの人生を、まあ見事に駆け抜けていく。
宝塚の娘役出身だって??なるほど!!でもって、今もご存命ということにも驚く。引退はしているけれど、そうなんだ!一度見てみたい!!
なんか外側の情報ばかりだけれど、もうひとつだけ。このタイトル、なんか聞いたことあるなあと思ったら、そうかそうか、島倉千代子先生の!
彼女自身も本作に出演していて、三番目のクレジットなもんだから、かなりメイン、でもヒロインのつるが幼いころから物語はスタートするから、どの時間軸でのメインなのか判らず、当たり前だけどとんでもなく若い頃だからお顔も明確でなく、結局コレと断定できなかった。
まあ、あとからキャストクレジットを調べたら、良かった、予想は当たってたけど(爆)。でも三番目のクレジットの割には出番自体は凄く少なかったかなあ。確かに重要なキャラだけど。
つるの初めての恋、そして最愛の人の妹さん。二号さんの彼女を決して責め立てることなく、「兄が深くお慕い申し上げている人」として認めるしかないからこそ苦悩する純粋な妹。そうかそうか、この時島倉先生、二十歳かあ!
まあ確かに出番の尺は短いが、バックには細く常に、大ヒット曲、「からたち日記」が流れている。
今回の企画特集は昭和の歌謡史を映画でたどるというスタンスで、しかし私は歌謡映画特集みたいなカン違いを犯していたので、新藤脚本で歌謡映画!?という興味も働いていたので、結果的に、あれ、どこが歌謡映画だったんだろう……などと見当違いな戸惑いを起こすんである。
でも、このヒット曲とこの映画って結びつく……のかな?曲の方が当然最初で、そこからのインスパイアの映画かと思いきや、原作もあるし、歌詞の内容を見ても、恋に破れたあたりがかするぐらいで、とてもこんな不幸が次々押し寄せる女の物語って訳じゃない。
うーむ、このあたりが当時のショービズ事情ということなのだろうか??
そうなの、これを、「からたち日記」に付随する映画ととらえられてはあまりにももったいないの。本当にぎゅぎゅっと凝縮された稀に見る不幸物語なんだもん!……いやそんなことを言ったら、不幸を見たいだけみたいだけれど(爆)、まあ人間、そーゆーもんだから(爆爆)。
冒頭は、幼いつるが子守の奉公をしている場面である。ふと「おしん」が頭をよぎるが、つるは大根めしに落胆するヒマもなく、残りめしと汁をざざっと盛られるだけ。
しかも物心ついた時からここにいて、母の面影さえなく、ただただ、ひもじいは辛いもの、人間とは恐ろしいものだという、大人になったつるのセルフモノローグが流れるだけ。
つるというのは名前ではなく、裸足で子守をしていた足の冷たさから、足を交互に太ももにくっつけてしのいだ姿を子供たちにあだ名されたから。
そう考えると、つるは本当の名前が最後まで、ないのか!……うっ、今気づいた。なんということ……。
おじだという男が現れて、母さんに会わせてくれるという。このお母さん、菅井きん、だよね??彼女の名前をオープニングのキャストクレジットで見て、判るかなと思ったが、若くてもさすが菅井きんそのまま、一発で判った!!
貧しい農家に嫁いで、子供もわらわらいて、お母さん、産み落としただけのつると言葉を交わさないの。迷惑そう……というのは言い過ぎか、戸惑い気味に背中の赤ん坊をあやすばかり。
つるに興味を示す幼い男の子に笑いかけるつるだけれど、結局そのまま……。この男の子が、後の、何度目かの不幸どん底人生のキーパーソンになってくるんだなあ。
つるはおじに連れ出される道中、氷砂糖をもらうのね。こんな美味いものがこの世にあったんだ……という表情で、何度も口からつまみ出して眺めては含み直す幼いつる。
この当時の子役さんだけれど、その素朴な貧しさ慎ましさが、ぐんと胸に迫るんである。んでもってこの氷砂糖ってのが、後々、ずうーっと後、再会した弟と暮らす、戦後直後の貧しい生活の中、勝ち取ってきた角砂糖につながるの。これがまた、たまらん話でさあ……。
というところにたどりつくまで、どれだけかかるのだろーか(爆)。でね、つるがおじに連れて行かれた先は置屋なの。置屋、ってゆーと、最近観た「舞妓はレディ」の、伝統に飛び込むチャーミングな女の子の世界を思い出すが、違うの。
ホントに、オミズな意味での置屋。芸者と遊女の境目はなんとなくあいまい。
つるは、こまねずみのように働くとはまさにこのこと!という具合に、女将さん、おねえさんたちにこき使われてくるくると働くが、そんなことは小さな頃から苦労してきた彼女にとってはお茶の子さいさいってなもんだったのかもしれない。
だって、女将さんは確かに因業ババア(爆)だったけど、この因業ババアがいたせいで、芸者である姐さんたちは、つるをこき使いながらも、こき使える力量があると認めてのことだったし、それは病床についていて死んでしまう竹実ねえさんが言ってくれたことだったんだけれど……。
「舞妓はレディ」では及びもつかない、辛辣な置屋の現実。腹膜炎を起こして寝たきりになってしまった竹実ねえさんは、「飲んでばかりいるからだよ。稼ぎもしないのに、医者なんか呼べるか」という因業ババアのせいで放置され、死んでしまう。
竹実ねえさんはでも、その運命を受け入れていて、一日でも早く死にたい、その方が楽になれるから、とつぶやくんである。
凡百の芸者物語では、梅毒だのなんだのにかかって、はかなく死んでいく女たちは確かに描かれていたけれど、男ではなく、同じ女に見放され、だけれど仲間たちからはなんとか助けてあげたいと思われ、自分の中の哲学を貫いて死んでいった、なんてこんな美しいゲイシャは、私は見た覚えがなかった。
竹実ねえさんは、ただただ布団に寝たきりで、一度だって美しい芸者姿をスクリーンに披露することはなかったんだよ!骨になって、田舎の父親が引き取りに来て、まだまだ借金は残ってるけど、まあ死んじゃったからねえ、と棒引きを恩着せがましく因業ババアから言われて、貧しい父親はうなだれるしかないのよ。こんなのって、こんなのって!!
……うううう。これから不幸が目白押しなのに、こんなところで立ち止まってたら、どうするの!しかもつるの不幸ではないのに!!
そう、つるの不幸ではない。ある意味では、これから不幸目白押しのつるの人生を、そのたびごとに何とか持ち上げてくれたすべての要素がここに詰まっているように思う。pr>
姐さん達は真面目なつるをこき使えるだけの力量があると可愛がってくれたし、同輩も自分のとっておきの場所……大きな木に木登りして、諏訪の町を一望できる場所を案内してくれたのだった。
竹実ねえさんが哀れな死に方をしたことに憤って、因業ババアに反抗してバケツの水をくらわせ、独り立ちして出て行ったかるた姐さん、つるを木登りに連れだし、「ここからおしっこしちゃおうか」なんて茶目っ気たっぷりだった天満里ちゃんは、後に二人とも、行くところがなくなったつるをこころよく迎え入れてくれる訳。
つまり、つるは不幸の連続なんだけど、いつだって彼女のまっすぐで正直な気質を買って、信じて、受け入れてくれる人がいるんだから、……ハスに見ればこれって、かなり道徳的な物語なのかもしれんのよなあ。
いやいや、そんなことを言ってしまっては、不幸の連続のつるに申し訳ない!
半玉になったつるは、さっそく因業ババアに水揚げの話を持ち掛けられる。後に、つるを気に入って二号ならぬ三号にすえた成金、ロンパリ(これまた因業ジジイ!)がどこから聞き込んだか、「五回目の水揚げらしいじゃないか」というのがホントかウソか、少なくともロンパリとの一夜がつるの処女喪失であったことは、天満里ちゃんと上った大木にのぼって、獣のように泣き叫ぶつるの、痛烈な引きのショットで知れるんである……。
まあこの時代だから、それそのものの場面は見せないものの、スクリーンの外まで酒臭さが漏れ出るようなロンパリの、たるんだ腹も含めて、翌朝、ぼんやりと座り込んで外を眺めているつるが痛ましくて仕方ない(涙)。
度胸のあるお前が気に入った、とロンパリは彼女をまた乳繰ろうとしだすんだけど、それを封じるように、彼に抱きつくつるは、後姿で顔を見せないの。ロンパリは喜んで彼女を抱きしめるんだけど、絶対絶対、そんな意味じゃないじゃん!!
成金ロンパリに、表面上はしぶしぶながらつるを売り飛ばした因業ババア、つるが出向する先の料理屋の女将さんは、とても可愛がってくれていたから心配するんだけど、結局三号さんにおさまってしまう。
でも幼い頃から働きづめだったつるは、何もしないでいいお妾さんの暮らしに、タイクツで死にそうになってしまう。エラすぎる。私だったら……という前提自体成り立たないから言うのやめる(爆)。
時は戦時中、ロンパリは戦争景気でばんばん稼いでいる。そんな中、軍需工場で働き始めるつる。
元芸者で、お妾さん。周囲の女たちの目は当然冷たい。悔しいつるは、彼女たちのあこがれの的である、病気のために一時戦線離脱している美しい将校さんにベタな手で近づくんである。
アッ、手をケガしちゃった、イターイ!みたいな!雨が降ってるのに傘がないの、みたいな!!べ、べ、ベタベター!!
でもミイラ取りがミイラになっちゃった。それじゃしょうがないじゃないの、と言ったのは、ロンパリの二号さん。つるは二号さん人生だと思ったが、考えてみればここでは三号さんなのだった。
ロンパリが鼻持ちならない成金男だということもあろうが、二号さんもつるに対して好意的だから、やっぱりつるは、周囲の人間に恵まれているんだよね……もちろんそれは、彼女の人柄によるんだけど。
でも、この三号さん時代、軍需工場に勤めている頃のつるは、ちょっと別人!と思うほど、女としてのしたたかさを出すんだよね。
勿論、先述のように陰口を叩かれたこともあるけれど、そんな女たちの鼻を明かしてやりたいと思うこと自体、今までの、そしてそれ以降のつるにはなかったことだし、芸者、妾経験をフルにいかしてハンサムな将校さんに近づくつるは、まさに魔性の女なの!!
出た出た出た、キャストクレジットに名前を見た時から、イイ男が出てきたら彼だよねと思っていた田村高廣!いやさ、やっぱり若すぎるから、それしか確実な情報がないから(爆)。
でもやっぱり、当然、当たってたさ!つるを演じる高千穂ひづると目と目を合わせてたっぷり間を取っての、がっぷりキス、キス!場面を違えて三回はあったよね!!
イヤー、こーゆー時代でこんな濃厚キッスが見られるとは思わなんだ。美男美女で、タメにタメてでしょ、メッチャドキドキする!!
……思えばこのイイ男と出会ったことが運の尽きだったような気もしてならない……。いやそんなことを言ったらいろいろアレだけれど。
どうしてもこの愛しい人の出兵を見送りたいと、ソワソワのつる。大体最初から「お前、今日はきれいだな」とロンパリに言われるぐらいなんだから、バレバレも生々しすぎる!
隠しようもなく時間を気にして、ロンパリと大格闘(シリアスなんだけど、なんか笑えるのが救い)の末、ようやく踏切に間に合うのみ。
それじゃ意味ないよ……。結局、「ロンパリにしくじったらこの地にはいられない」と追われるつる。
故郷に帰るも、母はまた遁走、残っているのは、もう一人で生きていけるからという言い訳か、左官屋に預けられた弟のみ。きっとあの時、母に初めて会いに行ったつるを、興味深げに眺めに出てきたあの男の子に違いない。
おじも死に、老いたおばが言葉少なに、疲れたつるにぼろぼろの布団をかけてくれる。目覚めたつるに、弟の忠夫が少しずつためたという米で飯を炊いてくれている。
この弟と共に、自分を可愛がってくれたかるた姐さんのいる千葉に行こうと決心するつる。諏訪に戻り、世話になった料理屋の女将に、身体を売って旅費を作りたいと言う。
カンパ金と、新しい足袋をさしだしてくれる女将。な、な、泣けるーっ!そっか、この女将、浦辺さんなのか!判ると更にカンドーッ!
こうした泣き所がいっぱいあるのに、サクサク進んじゃうから、ゆっくり泣けない!つまりこーゆーところが、時代感覚と違うってことなのかなあ。
だってだって、まだまだ不幸が続くんだもん!!信じらんない、これ2時間の映画の話じゃないでしょ!!ワンクールのドラマ、いや、半年の朝ドラで出来るよ、マジで!
千葉のかるた姐さんの元を訪ねて、和やかに夕食を囲んだ途端に、空襲よ。かるた姐さん、爆撃死!!えーっ!!かるた姐さんが久しぶりねーっ!と迎えてから2分も経ってないよ!!
で、もう次のシーンでは、今まで使ったことがないようなガサツな、朝鮮訛りを真似たような言葉で、闇市で石鹸を売りさばくつる。
世話になっているのが、朝鮮人夫婦だから。そのダンナが殿山泰司なの。なんかカンドーッ。だってやっぱり、新藤監督といえばさ、「三文役者」の殿山泰司さ!
つると共にこの戦況を潜り抜け、玉音放送を聞き、生き抜いた弟がまっとうに学んで行けるためにと、顔真っ黒にして、ヤクザまがいの男と渡り歩いて働き続けるつる。
このシークエンスが一番スゴかったなあ……。まあね、本当はね、生々しいところはね、女が一人、こんな状況で生きていくためには、ってところはあるんだろうさ。実際、アメリカ兵にぶらさがる女たちは判り易く示されてるし、つる自身だって、そういう経験をしてきた訳だしさ。
でも、弟のためにパンパンにはならずに頑張ってるんですよ、と地元のちんけなやくざに訴えるだけで、あっさり通っちゃう、のは、それだけ今までのカンロクがあったからかなあ……。
でもこのシークエンスはね、その重要性はね、ちょこっと先述しちゃったけど、弟の自殺の痛ましさにあって、もうそれは、本作の中の最も痛ましい事件と言いたいほどであって、これで立ち直るのはムリだろうと思われるほどであって。
だって。この弟君、つると何年振りかで再会した時からジャガイモ風貌で、もう、なんか、最初から哀愁が漂いまくってて、最初から悲劇的な結末が見えてるんだもん……。
……思い出すのよ。冒頭近く、置屋に住み込み始めたつるが見た、腹膜炎の末死んでしまった姐さんの骨が、寂しく引き取られていく様が……。
まさに、その小さな骨箱を抱えて、つるは諏訪に戻るんだけど、でも違うもの。殿山泰司演じる朝鮮のオジサンもその妻も、とてもとても心配してくれて、涙があふれるんだもの。
奥さんが着ているチョゴリ、そのカッコで見舞いしてくれる正装の気持ちが、グッとくるんだもの。
今は色々あるし、当時も、劇中で言われているように、色々どころじゃなくあっただろうけど、こういうの、グッとくるんだもの!!
つるが最終的に落ち着いたのは、木登りを教えてくれた同僚のいる村。もういっきなり酒浸りになってるんだもん、ビックリしちゃう。
いやいやその前だった!その前よ!一度諏訪に戻って、本山(田村高廣演じる将校さんね!)と再会して、まあ当然、時間が空きすぎたから、相手は妻もいて……うっ、妾人生再び、よ。
二号さん人生、と書きかけたが、以前は三号さんだったんだから(爆爆)。二号さん体質かとも思うが、男と女の性質は違うもんだからさあ、つるがうっかり肯定しちゃう、それでもいいの、的な感覚が、……メンメンと、言いたかないが伝統的に、日本には息づいているのさあ。
で、メッチャ時間かかったけど、ここでようやく島倉千代子登場。な、長かった……。
まあ結局、この妹の真心に逆にほだされる感じで、つるは本山との関係を切るために、かつての同僚のいる町に身を寄せる。んでもって、酒浸りになる。
通りがかりの百姓からジャマだ!目を覚ませ!と頬を二、三発張られる。この場面は、それまでさくさく進んで、どんなにどん底に至っても、カットが替わるとさっくり立ち直る中でも、かなりインパクトのあるシーン。
尺がまだまだ短いこともあり、この野太い百姓と恋に落ちるとか??と期待するが、まあさわやかなラストシーンを俗っぽく、ひたすらゾクにゲスに掘り下げればなくはないのかもしれんが、フェミニズム野郎としては、否の方をとりたいなあ。
だって、寝込んじゃったつるを訪ねてくる、なんていう、ヤボなことこの上ない!!ことをする本山との再会シーンこそが、最後の最後だけど、一番のクライマックスだと思うもの……。
コイツ、この年になってもサワヤカな美中年だけどさ、控えめながら言うことはヒドいよ。
今までのようにはいかないまでも、君の力になりたい、的な。しかも妹も心配してるとか、余計なことまで言いやがる!!
前半の言葉は単なる言い訳でしょ。アンタがそーゆー立場に追い込んだのに!!今や政治家になったオメーが役立つのはカネだけだ!!
……と思うのに、つるはそれは望まないの。ただただ、もう私は自分だけで大丈夫だからと。
峠をこえた次の駅まで見送るわ、と言うつる。その道行きは実になごやかである。でも分岐点に来た時……。彼にコートを着せかけて、今度は君を見送るよ、という彼に見せつけるように、曲がりくねった下り坂を全速力で駆け抜ける!
その意外性だけでオオッと思うが、もう自分は見えなくなっただろう、という地点で、つるがハアハア言いながら見上げる、その高い高い丘の、山の地点に、背の高い姿にコートのシルエットが似合う本山、いやさ、田村高廣が立ってるの!
もう彼女が見えなくなったか、と覗き込むようなしぐさをして、きびすを返すようなしぐさをして……。
こんな様々な、過酷すぎるエピソードの中で、このシークエンスはほんのささやかに過ぎないのかもしれないんだけど、これをたった一人の最愛の人、そういう純愛ストーリーと思うと、もう胸がギューン!となるんだよなあ!!
あーもう、ムカシのエーガとか思ってると、ホント油断しちゃう!!終戦前後のリアリティ、玉音放送は勿論、昭和天皇、皇后の写真を自然に掲げる生々しさとか、なんか、なんとも言えなかったもんなあ。★★★★★
でも仕方ない。そういうスタンスで見ちゃったんだから。それはそれで、この映画の出会い方としての運命だったんだから、だなんて大げさだけど。
しかし、賛否両論、と言われると、どの点において、ということを考えてしまう。単純に考えれば、このキチクなまでの暴力描写だろうかとも思えるし、確かにこれは悪趣味だよな……と最後まで思い続けながら見ていたけれど、そんな映画を作る監督は他にもいるしな、などとも思う。
でも他にもいるし、なんて考えることこそ、見栄っ張りの映画ファンそのものの考え方でイヤになるんだけれど。
確かに悪趣味でイヤな気持ちはしたけれど、“ヒドイ暴力描写”を、ある意味どこまでも続けていくので、なんか段々と、タイクツ、じゃないけど、まだ続くのか……というどこか俯瞰のような気持ちで見ていたことは事実かもしれない。
組み合わせが変るだけで、そしてその中心に役所広司がいるのは同じ暴力描写が延々。
いくら殴られても撃たれても血だらけになって顔腫れても、ビックリするぐらいタフに生き残っていく役所広司に半ばギャグか……と最後の方になると思いながら見ていたかもしれない。
ちょっとね、やっぱりこういうの、こういう暴力映画、一回は作りたがるのかなあ、なんて思った。タイトルクレジットのアルファベットのアニメーション、そのキッチュでポップな作りに思わずこそばゆくなり、うわ、こーゆーの今どきやるの、と、キッチュでポップだけど逆に懐かしいっつーか、古びた感じがして、ちょっと首をすくめて見ていた。
そりゃー、CMディレクターとしてセンスを見せつけた中島監督だし、「下妻物語」からその映像センスは本当に瞠目すべきもので、しかも作品ごとにその映像センスのスタイルを変えていくという才能の豊かさで、舌を巻いてはいたんだけれど。
そして本作でもその点で充分チャレンジングではあると思うんだけど、キチクな暴力描写の連続、ということでドギモを抜かせるやり方かあ、と、男子監督なら誰もが一度はやりたがる感じと思ってしまったのはあくまで、“否”に傾きがちな見栄っ張り映画好きだからだろーなー。
賛否両論は、そんな単純なところではないのかもしれない。本作はなんたって話題の原作があるってことだし。
原作との差異とか言われちゃうと、私のよーな常に未読人間は困っちゃうんだけど。あるいは倫理観なんていうもんは更にあまりに単純な方向だしなあ。てか、唯野未歩子が脚本に名を連ねてる!ビックリ!
とりあえずどんな話かを言っとかないとどうにも始まらないから……。暴力描写にこだわっているけど、物語は結構、かなり、複雑、カラクリ、どんでん返しが効いている。
この天使のように美しいヒロイン、加奈子が実は悪魔のような女の子だったというのはもう宣伝、予告の最初から提示されているし、実際の展開上でもかなり早い段階で、ポーチの中からシャブや注射器が出てきたりして、判るようになっている。
ヒロインであるのに、現時点で加奈子は最後まで失踪中、ナマの声が聞けず、最後には意外な人物に殺されていたことが明らかになるという徹底ぶりで、つまり彼女の本当の姿は実は判らない、というあたりがミソ、だったのかどうか……。
みんなが欲しがる言葉をささやき、惹きつけ、夢中にさせ、その後ヒドい仕打ちを仕掛けるのにそれでもみんな加奈子から離れられない。
「どうしてみんな加奈子に夢中になるの?」と吐き捨てたのは二階堂ふみ嬢であり、「加奈子の何を知ってるの、加奈子なんか死んじゃえばいい!」と獣のように叫んだのは橋本愛嬢であった。
やたらと売れ線どころの女優でワキを固めとる。まあ橋本愛嬢は中島監督の作品で名を挙げた子ではあるけれどさ。
でね、だから正直、私的には加奈子の気持ち、というか加奈子像というのがイマイチつかめなかった。それは私がバカだからかもしれんが(爆)。
加奈子はいじめられっ子だった緒方という男の子が好きだった。緒方君はいじめっ子たちの差し向けでオヤジにヤラれまくって、自殺した。
その責任を、加奈子は一人で抱え込んでいた……というのが中盤までの加奈子像であり、そんな加奈子に、やはりいじめられっ子である少年(あれ、役名なかったっけ?)は惹かれるんである。壁一面に彼女の写真を貼り、オナっちゃうほど恋してるんである。
私のことが好きなの、緒方みたいになりたいのと加奈子は天使のような笑顔で近づき、緒方のようにしたんであった。
その時点ではこの少年は知らなかった。緒方君が自殺した理由。でも私にもイマイチよく判らなかった。
緒方君をヤラしたのは加奈子だった訳?結局?「大好きだったから殺したの」的な台詞(ゴメン、詳細忘れた)を蠱惑的に彼の耳元でささやいた加奈子は、彼女が悪魔だから、というんならまあ単純に片づけられるんだけど……。
そこまでに彼女の悪魔ぶりが刻々と明らかになってはいくんだけれど、そもそもの根源的なもの、きっかけとか理由とかがなんかピンと来ないし、常に彼女は回想の彼女だから、余計ピンとこない。それが魅力的なのは判ってるんだけどさ、それだけに難しいよね。
つまり、この加奈子という人物造形は難しい、ということなんだろうと思う。
確かにこういう物語構成はよくある。今ここにいない人物を中心にして、その人物に振り回される形で物語が展開していく。
その最も究極な作品が「桐島、部活やめるってよ」であったと思うけど、私はあの作品もピンとこなかったから、つまり私がバカだということなのだろう(爆)。
今ここにいないのにファムファタル、凄く、難しい。この加奈子という女の子は確かに、CMディレクターの手にかかったという感じで、パーティー場面、プリクラ画像、写真の数々で、一瞬一瞬の表情が鮮やかに切り取られていく。でもそれがまた、なんか懐かしい手法な気がしちゃうんである(爆)。
失踪した娘を追う父親が次々に目の当たりにする、娘の実像を、そんな具合の、今風な感じに仕立てあげ、接触するかつての同級生たちは、「ヤバくない?」「ウケるー」などとゆー、実にありがちな若者言葉(この表現自体がハズかしい(爆))を連発。
つまりそれだけで清純な娘の実像が崩れるという手法というのが、なんだか見ててこそばゆくなるんだよなあ。
でもここにもカラクリがあるのだから、勿論そんなことは監督自身、判っていることなんだろうとは思うけど。
この時点では観客は、娘の行方を追う父親は、仕事ばかりで娘のことなど何も知らなかったというし、まさかこんなクズに育っているなんて思いもしなかった、と彼が感じていると思わされている訳で。
実際は、もしかしたら加奈子の転落のきっかけは父親にあったかもしれない、と思わせる種明かしが後に示される。
酒浸りのクズ父親に反抗的な視線を送った娘に逆上し、ドアを蹴り飛ばし、娘に暴力をふるった。
最初にその事実が語られた時は、「暴行を受けた」なんていうから、うわ、レイプしたのかよと思ったら純粋に、暴力だった。
ただ、首を絞められるなんて事態にまで陥ったんだから、そりゃ大変なことには違いないんだけれど、もうこの時点で加奈子は父親にしゃなりと近寄ってキスするようなファムファタルで、彼は」それに逆上したのだ。
……んだけど、私がバカなのだろーが、なんで加奈子がそーゆー態度に出たのかもよく判らないし、レイプされたのならまだしも(うっわ、ヒドい言い方だな!)、この出来事で悪魔に変貌するのもよく判らない。
あれ、私、なんか見落しているのか……も知れない……自信ない……。加奈子が悪魔になった根拠がつかめない。
まそりゃ、もともと悪魔だったと言っちまえばそれまでなのだが(爆)、こういう風に過去回想をしたりして、きっかけめいた風があるからさあ。
加奈子は悪童グループのパーティーから始まり、ヤクザやウラ社会、実業家たちにまでその触手を伸ばし、同級生の男の子女の子をウリ飛ばす。
でもって、「みんな加奈子に夢中になって、メチャクチャにされる」んである。
緒方君や、役名を与えられていなかった少年のように男の子で加奈子に恋するのは勿論、女の子でもそんな存在がいた。そして誰もが無残に自殺したり、殺されたり、しちゃうんである。
加奈子に恋した女の子、長野はちょっと魅力的である。回想ではボブカットのごく普通の女の子だけれど、現在軸では金髪のベリーショート。
橋本愛嬢扮する森下がかばっている、小動物みたいにプルプルした小柄な女の子。
展開が進むほどに、加奈子も彼女があっせんしたローティーンの女の子も、ハダカのオジサンの隣で楽しげに笑っている写真が登場して、彼女たちの親たちを震え上がらせる。
しかしオジサンに突っ込まれる男の子や、そしてこの長野嬢は実に苦しげな表情で、その瞬間をとらえられている。まさにレイプの屈辱の写真で観客を震え上がらせるんである。
甘いとすればここだったのかもしれない、と思う。愛する娘がジジイとセックスしている事実を突きつけられる証拠写真が、ハダカのジジイの傍らでシーツにくるまって笑っているだけでは、正直、証拠にすらならないと思ってしまう。
それこそこんなことを考えるのはキチクだけれど、ローティーンの女の子の幼いふくらみをもみあげられている写真ぐらい出ての衝撃なんである。
そりゃまあ、いくらR指定を積み上げても、メジャー系商業映画ではそれはさすがに出来ない相談なんである。
そうなると……だからこそ暴力の衝撃の方でR指定を積み上げたと言われても仕方ない部分じゃないかと思っちゃう。
うーん、なんか自分のキチク度にイヤになるが(爆)、ローティーンはムリでもハイティーンの女の子にはそれぐらい頑張らせてほしかったとか思ったら、それもキチクだろうか(爆爆)。
でもアレかな、女の子は強いということなのかな。男の子たちはジジイに突っ込まれて絶望して一方は自殺し、一方は復讐を試みたけれども、抗争に巻き込まれて殺された。
しかし女たちは、加奈子も、彼女がスカウトした担任女教師の幼い女の子も、ジジイとのセックスに欲得ずくで満足してニッコリと笑っているのだ。
加奈子はこの女教師に、「晶子ちゃんが自分で決めたことだよ。ママは何にも判ってくれない、って言ってたよ。知ってる?ふくらみとか穴とか」などとゆーことを天使の微笑みで言い、女教師を逆上させるんである。
……ここも判んないトコなんだよね。加奈子がここまで皆を翻弄させる、つまりは頭のイイ子なのなら、なぜこんな、相手が逆上するという結果が判り切ったことを言うのか。
ザクザクと刺されて血だらけになって「ウケるー」と言ってこと切れるなんて、全然ウケないわ、と思っちゃう。
ここまで、どこかに隠匿されているという含みのままきたのが、実はこんな意外な人物に殺されていた(女教師の娘との接点は示されてなかったからね)というどんでん返しではあるんだけれど、先述のように加奈子のキッカケや動機がバカな私には今一つピンとこないままだったからなあ……。
更にピンと来ない人物はまだまだいる。てか、本作って、きっと原作がそうなんだろうけど、結構な数の人物が登場するし、きっとそれぞれに濃ゆいんだろうなとは思わせるのだが、やっぱり映画の尺では、そして本作では特に、難しいなと思わせるんである。
その点で言えば、監督さん自身は割り切って、割り振っているのかもしれないと思うのは、相変らず肌荒れが気になる(お前が言うな)役所さんの妻役、黒沢あすかが、色々ピンとこなさが気になる登場人物たちの中で稀なる、納得のいく丁寧さで描かれているからである。
まあ彼女も、自身の不倫で娘をほったらかしにしたことがこの事態の多少の原因にはなっているとはいえ、こんなクズ夫の元では他にイイ男も探したくなるであろうと思っちゃうし(爆)、年頃の娘の交友関係が「全然判らなかった」というのは、それほど責められるものでもないと思うし。
だってそもそも世間的に男親はその辺無頓着だし、役所さん扮するこのクズ夫、クズ父親はますますそうだし(爆)。
でも嫉妬深いんだよね。妻の不倫現場に車で突っ込んで、刑事の彼は依願退職になった。
警備員として働く今も酒浸りで、元妻から娘の失踪を知らされ動き出すも、冷たい態度の妻に元サヤを求めて拒まれ逆上、ぶん殴りまくってレイプするサイテーのキチクヤローなんである。
役所さんと黒沢女史のキャラ設定は、こんな具合に涙が出るほどきっちりしまくってる。共感は出来ないけど、仕方ないな、って感じで。
最終的にキーマンとして現れるオダジョーは、ヤクザのシャブさばきと思われていたのが実は汚職警察官、てか汚職警察団体であったことが明らかになって、その中のヒットマンなのがオダジョー。
たんまりカネをもらってCMに出てくるような、まんま劇中、そういう妄想を役所さんがする、そんな幸せな家庭を築いている訳。
で、その事実を知った役所さん、蛇のように執念深く、ブルース・リーのようにタフに生き残った役所さんが、彼の妻をレイプし、妻子を拉致って彼と対峙する。
オダジョー、妻に、俺が許せるか、と尋ね、妻がペッと唾を吐き出すと、容赦なく射殺!連射!えーっ!!!
……まあそりゃあね、ここまでキチクな暴力描写にハイハイと付き合ってきたけれども、ここんところはいくらなんでももうちょい納得できる積み重ねが欲しい……。
その流れで幼き子供も容赦なくだったらどうしようと本気で怯えたが、そこはさすがにR指定内に収めてくれた。いやー、ドキドキしたよ……。
でもホント、この役所さんとオダジョーの、なんでこれで双方死なねーのかい!というタフ対決が、一番フィクション味たっぷりの血みどろ合戦だったから、本気でギャグだったのかも……。
それでいえば、“実は警察こそがクロ”のどんでん返しに結構ビックリする、のは、いつもニコニコ天真爛漫なイメージが手伝ってのつまぶっきー扮する浅井刑事の存在。
それはいいんだけど、いつもいつもチュッパチャップスをくわえているのが、まあ最初のうちはいいんだけど、なんか段々、そのマンガチックなキャラ設定にイラッとしてきちゃう。
マンガチックは全編そうなんだから仕方ないんだけど(爆)。だって、いつもいつもチュパチュパと(それこそチュッパチャップスだから(爆))ナメナメしてるのに、その大きさがいつもいつも変わらない、いつもいつも包み紙から出したてみたいな大きさ。
あーうー、そんな些末なことが気になっちゃうのは、ここまでに容赦なく持ってってくれなかったから!(と責任転嫁っ)。
でも、ラストは美しかったなあ。辛かったけど。雪山をあてどなく掘り続ける中谷美紀サマと役所さんのキリキリ合戦は、その白き美しさ、寒々しさ、お互いのギリギリのせめぎ合い、ああ役者、映画だと思ったなあ。
それまでのキッチュさと血みどろに疲れ気味のタイクツを感じていたから、ああ、やっと映画が現れた、と思った。美しかった。救いも何もないけど、それでもそれでいいと思った。
雪山に埋められていてもわが娘が生きていると言い張るクズ男も、娘の純粋さをバカ正直に信じるが故に殺人を犯したヨワ母も、この雪山の中で清冽な映画となって終わった。もうなんか、それで良かったと思ったなあ。★★★☆☆
「川島さんと坂本と三人、集まれば酒ばかり飲んでいた」坂本とは、トークイベントにも顔を出しているのだから当然、坂本礼監督であって、てことは、この川下さん=実際は川島さんという人は、恐らくピンク映画の人であり、いまおか監督と坂本監督と、ならば監督さんであったかもしれず、ひょっとしてひょっとして私、その作品とか観ているのだろうか……などと思ったら、笑いながら観ていた本作が、急に違ったものに見えてきたような、気がした。
そういやー、確かにナンセンスコメディだし、可笑しいし、笑えるんだけど、この主人公、川下さんは、死んでるんだよね。確かに死んでるのだよね。
何度もそれを確かめるように、周囲の人間が、死んでるんでしょ?死んでるの?と言うぐらい、生命力にあふれてて、酒も飲むし、なんたってセックスもするんだからさ。
それぐらい、当時のいまおか監督にとって、その死は現実感がなく、信じきれないものだったかもしれない。こんな風に、セックスしたいよ、うひゃーひゃっひゃっひゃと笑いながら、生きている時と同じように、現れるんじゃないかと思ったのかもしれない。
そういやあ、ラスト、三回忌によみがえってきた川下さんが、じゃあまた!とふっと姿を消した時、きっとまた現れるという思いと、彼は死んでいるのだという寂寥感とが同時に、同比率で立ち上って来て、可笑しさの中に切な哀しいような気持ちが満たされていったのは、そういうことだったのか……。
観ている時ずっと、カワシモさんが、カワシマさんに聞こえて仕方なかったしさ。うーん、上司の名前だとか思いながら(爆)。まさかそこにそういう含みがあったとは。
それに、いまおか監督が投影されているであろう、棺桶から生き返るその瞬間に腰を抜かした男はしんちゃん、と呼ばれているし。
このしんちゃん(役名は今西、って言われてたっけかな?)を演じるのは水澤紳吾氏で、つい最近
の映画で見かけて、あれ、「ぼっちゃん」の主役だった人!とショーゲキをあらたにしたお人。なんかこの人なら、グリコ事件のキツネ目の男とかできそう(爆)。
こういう役者さんが出てくるのは嬉しいなあ。いや、男優だとあらゆるタイプが出てくる可能性ってあるんだよね。なんか女優はその幅が狭められてる気がしなくもない(爆)。
キャストクレジットの順番だと、このしんちゃんが主人公になるのかなあ?確かに語り部ではあるし、監督の分身ではあるけれど、やはり主人公はなんたって、タイトルロールである川下さん=佐藤宏氏に間違いないと思う!
え?この人は素人だっていうのをどっかのページでかすめたが、ホント??確かに芝居(というかキャラ)はメチャクチャ、キャホー!ともヒャッホー!!ともつかぬ、笑い声とも奇声ともつかぬ声を発し、笑いと共にごろごろと転がるそのお身体は、とっぷりとずんぐりむっくり。
どす黒く焼けた肌につつまれ、スウェットからはだらしなくお腹がはみだし、矯正を勧めたくなるような乱杭歯を大口開けて、キャッホー!ヒャッホー!と笑うこの川下さん。
劇中では明確には言ってなかったと思うけど、モデルになった川島さんによると、素人童貞のまま死んでしまった。まあ多分、川下さんもきっとそのまま……。
川島さんの自殺の理由が判らなかったように、川下さんの自殺の理由も、友人二人は判らなかったんだけれど、いまおか監督はそれをこそ聞きたかった、知りたかったに違いなくて本作を作ったに違いないんだけれど、当然、誰も判らないその理由は、川下さんにも判らない。
聞かれても、自分自身なんでだろうなあ、みたいな雰囲気で、女とやりたい、セックスしたいよ、しんちゃん!!と無邪気に繰り返すんである。
そう、友人二人。二度目に生き返った時にはもう一人友人が加わる。ふと気づくと、この二人は川下さんに対して敬語を使っていて、このもう一人の友人に対して、しんちゃんは敬語を使っているという間柄。
川下さんは二人に、映画作れよ。俺、お前たちの映画好きだよ、と言い、二人は殊勝な顔をして頷くのだけれど、二年経った三回忌では、まだ二人はいい年をしてバイト生活のままである。
川下さん……ていうか川島さんの自殺の理由は不明だし、素人童貞の哀しさだけが残ったような感じもあるけど、いまおか監督はどこかで、その思いを受け止めたんじゃないかという気がしなくもない。
この台詞以外で、彼らが映画を志している同志だということは示されない、本当に、かするだけなんだけど、本作が実話ベースであると知ると、余計にグッとくるのだ……。
女とヤリたい、セックスしたいよ、と言われて、困惑しながらも、その苦笑はなぜか楽しそうに、この困った成仏しきれない先輩に協力する。
最初のシークエンスで登場したナース、李梨姐さんが「セックスはアレだけど、口だけならいいかと思って」と、元ヤン自慢のエンジンのうるさい改造車で駆けつけてくれるだけでこの場面は終わるから、えー、うっそお、リリ姐さんがここだけで終わる筈ないよ!と思ったら、当然ラストにリリカルなセックスを用意してくれるんであった。それはまた後述。
正直ね、あらま、青春Hシリーズなのに、ベテラン、いまおか監督なのに、李梨姐さんが登場してまでもカラミが少ないわねえ、と心配していたの(爆)。
でも次のシークエンスで登場した爆乳女の子が、一気に払拭!ここで二人目の友人登場、こっちが幽霊かってぐらい色白でひょろりとしていて倒れそうな青年。白シャツに羽織ったニットのカーディガン、なんか女の子みたいな組み合わせだな(爆)。
そもそもこのシークエンスの始まりは一体何なの(爆爆)。赤いアヤしげなキノコを採取して、これはぶっ飛びますよ、と二度目のよみがえりを突然果たした川下さんに勧めるしんちゃん。
白ワイン、いいね!とがぶ飲みし、すっかりヘベレケ。見覚えあるわ、この白ワインは私もよく飲む。コルクじゃないスクリューキャップ、つまりはワンコイン以下以下のコンビニエントな安ワインてこと(爆)。
その勢いで夜の街からナンパしてきた女の子は、ビックリするぐらいあっさりと、「いいよー」シャワーがないのかと問うたから、その点で文句をつけるのかと思ったら、後から考えれば家出してきた彼女は、そんな用事も足せればラッキーと思っていたのかもしれない。
巨乳を見事に揺らし、ソーローだという川下さんが彼女の上であっという間に果てた後、息をのんで見守っていた二人を、あっさりとした顔でくるりと振り向き、「次はどっち?」
そのあまりのあっさりさ加減に、い、いいんですか、とうろたえる後輩二人にも噴き出してしまうが、終了後、恍惚とした三人の男が狭いベッドに仲良くあおむけに横たわり、いい子だったな……と噛みしめるのにも更に爆笑!
これは最後のシークエンスで、温泉旅館……とはどうしても思えない狭いバスルームの浴槽に、川下さんとしんちゃんがぎちぎちに入って、もう一人はシャワーを浴びながら、それでも、極楽極楽、みたいな満足度100パーセントな評定する場面でも、なんともなごなご、笑ってしまうのだ!
ところでさ、こういう女の子を”いい子”と形容することに、年若い頃の私だったら何お!と反発したかもしれないが、確かにこの子はいい子(爆)。
しかもここだけで終わらない、ていうか、その次のシークエンスの彼女こそが、いいの!
もう一度ヤリたい!ときかない川下さんに根負けして、ダメモトで彼女を拾った場所に三人で赴くと、思いがけず彼女はそこにいる。
あれ、どうしたの?うーん、私これから用事あるんだよね、と言うその彼女の用事を手伝って、と言われて何かと思ったら、カットが替わったら突然、全員白塗り!
私の後についてマネしてくれればいいから、とアヴァンギャルドな舞!「田中泯って知らない?私、感動して、家を出てきちゃったの」一人でやるよりみんなでやれて楽しかったと屈託なく笑う彼女に、男三人のみならず、ていうか観客の方がドギモを抜かれる!
まさにこーゆーあたりがいまおか節なんだよなあ……。でも判らない。なんたって実話ベースなんだから、彼はこういう女性に心当たりがあるのかもしれない!
もう一度ヤリたくて再び彼女を探し当てたのに、男三人はすっかり満足しちゃって、さわやかな朝、別れを告げるのだ。そして川下さんも……。
そして三度目のよみがえりは、三回忌。直前にコンビニで買ったと思しき香典袋に車の中で適当な連名書いてお金を詰めて、二人は川下さんの自宅を訪れ、線香をあげる。
ここで気づいたんだけど、ファーストシークエンスで既に、「朝までに帰ればいいだろ」とか、「早くしないと(棺桶に戻らないと)親が起きちゃうから」とか言いつつ、この男三人と、セックスしてくれる女二人以外、人物は出てこないんだよね。
見事だと思う。だってこの企画はとにかく低予算ってことがまず前提なんだもの。それでエロを入れればヨシ。縛りはそれだけで自由。それでどれだけ面白く出来るか。
それは本当に、ピンクの縛りそのままで、だからこそベテラン、いまおか監督は信頼度が高い訳なんだけど、だからこそ、先述したように、青田買いの中には失敗も多い訳なんだけど(爆)。
それにしてもいまおか監督は昔も今も自由度がメッチャ高いからハラハラするけど、やっぱり、やっぱり面白いんだよなあ。
白塗りシークエンスで自由度爆発させて、それも充分面白くさせた後、最終シークエンスは、まるで松竹のメロドラマかと思うぐらい、充分にホロリとさせるんだもの。
李梨姐さんがあれだけで終わる筈はないと思ったから、偶然にも程があるという、デリヘル嬢として温泉旅館に泊まっている彼らの前に現れる超絶ご都合主義にも、低予算、低予算!と手を叩いて喜んじゃうぐらいで(爆)。
だあって、やっぱり李梨姐さんは安定感抜群だもん。元ヤンだと言われなくたって、あせた茶髪にスッピンにピタTにテキトーに合わせたカジュアルさは、彼女の年輪(爆)を含めて、迫力満点だもん(爆爆)。
だから、ほう、ナースとか思って(汗)、でもその姿もある意味見てみたいと思ったけど、残念ながらそれは叶わず、二年が経ってシングルマザーとなった彼女は、融通と稼ぎのことからか、デリヘルに転身していたんであった。
タカちゃんに会いたいよ、と思い出したように……いやいや、抑えてた思いを吐き出すように(爆)、言った川下さんの思いを汲んで、ファーストシークエンスで訪ねた彼女のアパートに行ってみたものの、表札も変わってて、インターフォンにも出ない。
だから李梨姐さんはもう出ないと思ったんだけど、こんな偶然、低予算にしてもヒドいな、というシチュエイションで登場(爆)。
しかも、温泉旅行に出かけたというのに、浴衣姿の彼らが先のアパート訪問というのも(爆爆)。温泉旅館の近くなのか……。うーむ。
でも、どれもこれも、いいの。いいのよ。シングルマザーの彼女は、生きている(爆)二人には、それほど、というかほとんど面識もなく信頼もないのに、彼らに赤ちゃんを託して仕事に出かける。
この赤ちゃんが、三人の男をとろかしちゃう。こーゆーエロ企画って、時々さらりと赤ちゃんとか小さな子供とか登場して、それはきっと、作り手がそういう子供を持つ年頃だったり、今回の場合は当時を思い出したのかもしれないけど、そういうのって、凄くいいと思う!
おむつなのか、ミルクが欲しいのか、手を焼きながら右往左往して、でもその赤ちゃんをぎこちなく抱きながら、川下さんと李梨姐さんのセックスの間、外に出ている後輩二人。ようやく思い人とのセックスを実現した川下さん、そのセックスのあたたかさ。
三回忌に合わせて、自分の自殺現場に線香をあげてくれた二人の記念写真に、心霊写真というには明るすぎる、ピースサインで割り込んできた川下さんには噴き出しちゃったんだけど、彼がじゃあまた!と言って消えてしまうその最後は、思い人とのセックスを果たしただけに、だからかな、後から思うと明るくも切な哀しい感じがしたのは。
女の子が見つからないままなだれ込むカラオケボックスで、メロディは完全にスニーカーブルースなのに、歌詞をヘタレ気味に変えて音楽もチープ、ってあたりが、著作権にしっかり目くばせするあくまで商業映画であるピンクっぽい!
ピンク映画でこーゆーの、結構過去に見覚えある!なんか懐かしい気がしたなあ。
観終わった時より、なんだかずいぶん印象が変っちゃった!でもそれこそが、人の思いの詰まった映画の面白さ!★★★★☆