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息を殺して
2014年 85分 日本 カラー
監督:五十嵐耕平 脚本:五十嵐耕平
撮影:高橋航 音楽:Sleepy Lemon + YSD & The Tinker
出演:谷口蘭 稲葉雄介 嶺豪一 足立智充 原田浩二 稲垣雄基 田中里奈 あらい汎 のぼ
てゆーか、なんとゆーか……“東京藝術大学大学院映像研究科”などとゆー、インテリゲンチャなハクがついていることにまず腰が引けていたせいかもしれない、なんか頭のいい人が陥りがちなロジックがイコールタイクツにしか思えなくって、苦手だなって(爆裂)。
ああ、ああ、ああ、そんなことを言ってはいけないのよーっ。だって同じ出自なら「神奈川芸術大学映像学科研究室」はすんごく面白かったんだもの。ヤハリこれは好みと相性の問題、私の頭が悪いだなんて、言わないでーっ。
『無人で稼働する巨大な工場。果てしなく続く廊下を歩き一人ぽつんと佇む。人々の言葉は小さく、意思を失った身体はまるで幽霊のように彷徨う。かつてあったものや、いつか訪れるなにかを息を殺して待ちながら、ここにはいない誰かに思いを馳せること・・・。』
と、思わずまんまコピペ引用してしまったが、それでああなるほどなとは思った訳。思ったけれど、魅力的な映像表現だとは思うけれど、それをまさしく映像というダイレクトな表現で観客に訴えかけるというのは本当に難しいと思う。
こういう、廃工場とか、がらんとした会社とかって、デビューしたての新人さんの作品でよく見がちで、映像の社会派に訴えたいみたいなちょっとしたナルシスを感じてしまったりして、それもまたちょっと苦手なんだよね……。
事務員の女の子、タニちゃんが、すれ違う作業員たちがまるで目に入らないように暗い廃工場や廊下を行きかっているのが、後になってその一部が幽霊さんだったということが判るんだけど、幽霊さんだけじゃなくて従業員もフツーにシカトするんだもん。いや、シカトと言ってしまったら、この“映像表現”がダイナシになるのだが……つまりつまり、そういうこと、なのよ。
どういうことと返されたら返しようがないので許して(涙)。一応ストーリーを示してみようか……ストーリーを示す、ということ自体が無意味なタイプの映画ではあるんだけれど、でも幽霊、というファクターを使っている以上、示さない訳にもいかない。
まず、現在の設定じゃない訳。東京オリンピックを二年後に控えた2017年の大晦日、静まり返った夜半の会社、という設定。
事務員のタニちゃんは不倫に苦しみ、その相手の足立さんは家に入れてもらえず、ケンやゴウは明日のサバイバルゲームに備えて?泊まり込み、テレビゲームにいそしんでいる。年配のヤナさんは新年の飾りつけを一人でやっている。
妊娠した恋人に迫られる人あり、戦争で死んだ友達を想う人あり……。
そう、サバイバルゲームが好きなのは一人だけ。もう一人は、「あいつが戦争で死んでからやってない」と言っていた。
東京オリンピックまであと2年。このあまりに近々な未来に、日本がそういう状況になっている、という示し方は、今しかできない。つまり今の危機をとらえている社会派映画、というスタンスであるから。
あまりにも近々で危険、というかヒヤリとする思いになるし、現在の状況から日本がフツーに戦争に参加している状況だと判断しているということが、社会派としての糾弾だということが判っていても、どこか釈然としない気持ちは残る。今しかできない、つまり、なんかネタとしてでしかないっていうか。
これが、遠い未来の話、として描くのなら判るのだけれども……すぐに結果が出てしまう未来なんだもの。いや、そんな風に思うのは逃げだってことは判ってる。そうならなければいいのだ、そのために糾弾しているんだと。でも何か、どうせそうなるんだ、という体温の低さを感じなくもないというか……。
それは作品全編に流れる基本の温度、のような気がする。幽霊に出会ってもビックリしない、というのが、リアルっていうのはこういうことでしょ、と言っているような冷静さ。冷静さ、だから、どうせ日本はこうなるでしょ、というシニカルな視線。
それに海外的評価では“SF的な未来をミックスさせて”なんて言われているらしいことを考えると、さらに複雑な気分に陥る。
だって、今の日本の状況では、これは決してSF的未来ではない。でも私も含め、多くの日本人がどこかSF的なぐらいに切実感がない、そのことこそが問題であることが、本作からは感じられないし、そうして海外に発信されることに、凄く危惧を感じるのだ。
実際に人が死んでしまう戦争を枠の外に追いやり、サバイバルゲームというちょっとだけリアリティを寄せつつ、テレビゲームという完全仮想の殺し合いを持ち込む。
サバイバルゲームで迷彩服を着込み、森の中で走ったり身を隠したり伏せたりしながら銃を撃つ彼らはでも、ちっとも切羽詰まってない。倒れたりするのも当然、シュミレーションゲームに過ぎない。銃も形は本格的だけれども、音は、まあ当然なのか、ゴム鉄砲みたいな軽さ。
実際現代社会の戦争はテレビどころかネット動画の奥にあるという点であまりにも現実味がないけれども、それをまんまの形、まんまの対照で示すのはヤボというかベタというか、自分、上手いこと描写してるでしょ、という感があるというか……いやいや、頭のいい人に私、ひがみすぎ!!
現代人の体温の低さとか、工場が示す近代性とか、不倫や妊娠やらにぼんやりとしか立ち向かえないとか、それは確かにリアルな現代性なのかもしれないけど、それをまんま表現するとしたら、それはちょっと、古い感覚のような気がしたんだよね……。私がニブいのだろーが、つまりは、彼らの気持ちが全然判んない訳(爆)。
戦争に関することも、生まれ来る子供のことも、不倫のことも、そして死んでしまった人たちに対する気持ち、戦争のことも……。問題提起している、んだと思うんだけど、判らない。判らないことこそが、現代人の描写だということなのかもしれないけれど、観ている間中、正直何を言いたいのか判んなくてさあ……。
がらんとした工場や、ひと気のない会社の中を行きかう人たち、突然大音量で鳴り出すiPod、迷い犬、といったことが、魅力ある映像のパッチワーク、といった感があるというか……。
そうそう、正直、なんでヤナさんがiPodを若者社員から借りるのかも判らなかったし、その大音量を制御できないのかも判らん(爆)。いや、映画的面白さだけの設定ってことでいいのかもしれんが、大して面白くない(爆爆)。
んでもって、最終的にラストシークエンスでタニちゃんがその音楽に乗って無心に踊る、皆からネクラとこっそり言われていたタニちゃんが、というところにたどりつくための伏線にしかすぎなかったんじゃないのかなあと思われて仕方ない。
そりゃ無論、死んでしまったお父さんに会った、というクライマックスと、不倫をしていた足立さんとの決別、といったひとつのカタルシスはあるにしても、同じネクラ(という言葉自体懐かしい響きがあるが……今でも言うの?)と呼ばれた過去を持つ女子としては、いまいちしっくりこないものがあるというか……。
そう、そうそうそう、犬がいたの、迷い犬がね。これもまた思わせぶりなキャラクター。幽霊になって現れるタニちゃんのお父さんが、愛しげに撫でまわすこの犬も、幽霊だったんだろうか……判らない。
後から思えば幽霊さんたち(まあ、二人しかいないけど)は、一言も喋らなかった。お父さんは不倫に悩んで泣いている娘の頬にそっと触れるだけ、戦争で死んでしまったという青年に至っては、幽霊というよりゾンビかと思われるほど(爆)、ゆらーっとして、生前の友人の問いかけにも目を合わすこともなく、ぼーっと前を向いているだけ。
うーむ、何なの、幽霊という存在を出してくる意味合いが良く判らん。いや、判らなくもないか、このがらんとした工場、大晦日の夜更けという特別なスタンス、人生に悩んでいる彼らに照射するように現れた存在……判らなくもないけれども、今まさに現実味を帯びている戦争という問題にサバイバルゲームを比してきたりすることを考えても、構成上の上手さ以上の思い入れをイマイチ感じられなくって、だから「何を言いたいのか判らない」というバカみたいな感想がつい口を突いて出ちゃう訳(爆)。
幽霊は、元人間という存在を無視して、この構成上のひとつのコマでしかないんだろうか?ユルいサバイバルゲームと同じ、ひとつの要素にしか見えてこないのは、計算なのだろうか?人が死ねばそういうことだという、これまたシニカルな視点なのだろうか??
そこまで考えるのはあまりにうがちすぎというものだと思う……。いや、幽霊にまで人の心を求めることこそが、過剰な感情表現を求めがちな映画やドラマに対するアンチテーゼなのだろうか?いやいやいや、それもまたあまりに親切すぎる見方だよな……。
この工場がゴミ処理工場だっていうのも、解説読んで初めて知ったよ(爆)。正直、稼働時間外の工場なり会社を上手く借りられたから撮影した、としか見えない、なんて思っちゃうのはイジワルすぎるのだろうか??
こうして今、ストップモーションの画像を見ると凄く魅力的で、画作りのセンスが尋常じゃないのは判るんだけど、でも映画はそういうことじゃない、って私は思うんだもの。!★★☆☆☆
ただ、こういう言い方はやっぱり優等生チックかな。それこそ安全圏な書き方だ。
普通と言って、彼等とは違うと思っている人たちだって、グラデーションでちょっとずつ違うだけで、皆、”異形”なのだと、そういう言い方は、いかにも優等生で、平凡で、この作品の、あるいは彼らの魅力を、平凡で普通な私たちが返って平らにしてしまうことかもしれない、とも思う。
そんないろんな引き裂かれる感情を、もやもやと心のうちに抱きながら見ていた。
そうなのだ。誤解を恐れずに言えば、やっぱり彼らは違う。それこそ優等生的な言い方をすれば、”普通”で”平凡”な私たちは彼らにはなれないから、妖しい蛾の毒々しい美しさに惹かれるように、目を覆いながらも離さずにはいられないのだ。
なんか、差別的な言い方になっているかもと思って、ドキドキしながら書いてる(汗)。でもやっぱり、正直な気持ちを書かなければ、こんなところに気持ちを残す意味がないもの。
あ、そうそう、あずみさんのことをすんなりと”彼女”と言ってしまったけれど、ヌード写真の彼女の股には、しっかりと男のしるしが残っていて、これもまた予告編の段階でビックリしたところなんである。
本作が主に性的マイノリティを中心に描いていくドキュメンタリーだと、何となくの事前知識はあったけれど、完全に女の人に見えたし、バストはあるし。
そして何より……その異形、なんか医学的な説明をしていたんだけれどちょっと難しくて……とにかくお顔の、……こういう言い方は差別になるのかな、畸形に衝撃を受けてしまって、だから「フリークス」が思い浮かんでしまったんだけれど。
彼女は前半、かなり早い段階で登場し、ツカミはOK的な役回りである。実際、私と同じような興味で足を運んだ人は数多くいると思う。
でも彼女が喋り出すと、異形と思ったそのお顔がまるで気にならなくなるのが本当に不思議なんである。「全然平気。普通に物も食べられるし、キスも出来る」とにんまりと笑う(このにんまりさ加減が素敵!)その口元のめくれ上がる”畸形”が、ひどく生々しくエロティックで、そのキスのエロエロさを触感で想像してしまう。
止まった画、というのは、表現としても誇張としても差別としても、大きく増幅されるものなんだなあ、と思う。止まった画で、彼女の”畸形”、あるいは乳房とペニスが同時にあるお身体を目にすると、ひどく狼狽するほどのショックを受ける。
でも動き、喋り出すと、まるで普通の人なんだよね。普通の人、という言い方も、ここまでの流れではおかしいかもしれないけど……。
でもそれこそが、この作品の本質をついているのかもしれないと思う。登場する人々の大半が表現者である本作は、写真としての表現、あるいはエロティシズムを絵画で表現する人もいるし、静止画、って、こんなにインパクトを増大させるものなのか、と思う。
それゆえに諸刃の剣ということなのかもしれないけれど、それだけに、危なげな魅力にいつだって人は惹かれるのだもの。
すっかりあずみさんに心奪われたけれど、本作には彼女に勝るとも劣らない猛者たちが次々と登場して、息つく暇もないぐらい。基本は性的マイノリティの人たちだけれど、本当にいろいろな個性的過ぎる人たち!!
薬物中毒の経験があるカウンセラーをしつつの詩人でありパフォーマー。単純に考えれば完全に男性拒絶、攻撃の”放送禁止歌手”のキケンなブルースライブ。ドラァグクイーンの先駆けのシモ―ヌ深雪。日本で緊縛に運命の出会いをしてしまい、弟子入りしたvivienne。ゴム手袋のフェティシズムを表現にしていったアーティストと「濡れたり汚したりするのが好き」というウェット&メッシーのアートがコラボしたりもする。
表現としてのクライマックスは、身体改造……私は「蛇にピアス」で初めて知った、スプリットタン、ああ、やっぱり正視できない(泣)。
それはもう基本として施している青年をはじめとして、釣針みたいなもので身体のあちこちを突き刺して、天井から吊るすという、驚愕のパフォーマンス!うわうわうわうわ、乳首にまでぐっさり刺してるよーっ(涙涙涙)。
……とてもとても正視出来ないが、ここまでのしっかりとした流れで、自分が一人の人間として何を求めているのか、何が真の喜びなのか、それが、乳首にもぐっさり突き刺されている彼女から確かに判るから……メッチャ笑顔だし。でも、凄いディープでついていくのにへとへと!!
あまりの衝撃で、あっという間にクライマックスまで言ってしまった。いけないいけない。沢山の、素晴らしい人たちが登場するんだから!
そもそも本作は一人のナビゲータとも言うべき、かなりのイケメンさんから始まるんである。ほどなくして彼はゲイだと知る。ああ、イイ男がおっちゃんとベロベロチューしてる(涙)。
ゲイ文化は当たり前だけど老若男男。でもそのことがイマイチ、”普通”の我らには判っていなかったように思う。
ゲイのおじいちゃんたちがイチャイチャするハッテンバで育った彼、大黒堂ミロ氏は、そのドキュメントを漫画で描く。そしてイベントやバー経営もこなし、冒頭、彼が主催するバーベキューパーティーには多くのLGBT(レズ、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー)たちが集まる。
いや、そんな性的マイノリティだけではなく、服の下にこっそりと緊縛をかくしている、一見してまるで”普通”の女性もいる。縛られることで、縛られていたことから解放されたんだと。
この時にはまだ、そんなまでものディープな世界が待っているとは思わないから、その言葉を言葉以上には受け止められない。
表現、パフォーマンスという点では、その人自身がLGBTでもSやMでもなく、エロティシズムを主題にした写真や、女性性器をモティーフにした繊細な鉛筆画を発表するアーティストも登場する。
特に後者の画家は、日本では発表すれば捕まるからと、パリに移住して活動を続けているんである。なんとタイムリーと思う。だってつい最近じゃないの、「ろくでなし子」さんが女性性器をモティーフにした作品によって再三逮捕されたのって。
彼がもう何十年も前から、日本ではダメだとパリで活動を続け、そして今現代の日本でいまだにこの状態だという遅れの取り方に半ば呆然とする。
ちょっと、日本ってヘンな国だよね。それこそこの映画だって普通に公開出来てるし、エグイ、グロイ、いろんな表現に対して割と寛容に垂れ流しなのに、性器があからさまになったとたん、目くじら立てるんだもの。
基準、というものに対するバカ正直さが、本当にバカに思える。「ぼくのエリ」の時とか、ホント唖然としたもんなあ。
寛容、ではなく、無関心、ということなのかもしれない。それぞれの表現を、……それは自己表現、アイデンティティに他ならない……認める土壌はその前段階での闘いがある訳で、基準の線引き以前のものは見ようともしないで通すから、なのかもしれない。
でもだからこそ、日本のカルチャーは、いろんな場面で花開き、こうした(誤解を恐れずに言えば)フリークス的表現も花開くことが出来たのかもしれない、と思う。
いや、それ以前にね。これ、大阪なんだよね。東京は、一切出てこなかった、よね?やっぱり、そうなんだなあ、と思った。
私、「バリバラ」が大好きなんだけど、あの番組は障害者というテーマであって本作とはまた違うとは思うんだけど、でも(これも誤解を恐れずに言えば)マイノリティという点ではやはり共通していると思う。
バリバラは本当に衝撃で、カルチャーショックで、自分がいかに狭い世界で生きているか、狭い世界しか見ていないか、つまり、ツマラナイ世界しか見ていないかを思い知らされた。
本作にもほぼほぼ同じことを感じたからさ、そしてそれが、日本一人が集まっている筈の東京は一切出てこなくって、大阪、なんだもの。
「バリバラ」の製作も大阪放送局。アンダーグラウンド(これまた誤解を恐れずに言えば(……私、小心者過ぎる……))が真の意味で存在しているのは、大阪、大阪しかないのかもしれないと!
何故だろう、何故なんだろう。私ね、北国育ち、東日本にしかほぼ住んでない、正直西南方向の生活文化にはどうもなじめず、苦手な意識がある。
でもそれは、特に東京は、転々と暮らしてきた自分をほっておいてくれる、いい意味で介入してこない、いい意味で見ないでいてくれる居心地の良さがある、ってところがあって、その価値観は本作では完全に意味のないこと、なんだよね。
確かに彼らはマイノリティ。彼ら自身もそう言ってる。そして、自分たちをマイノリティだと言うことこそが、マイノリティに押し込めているんじゃないか、という次元の論争にまで至ってる。
その議論にまで至る土壌が、この大阪という不思議な土地にはあって、めちゃくちゃ彼らは”普通”に生きてるし、見ないフリなんかされないでめちゃめちゃ見られてるし、喋って、えーっ!て言われたりして、でもそれは面白がられてて。
大阪は、ああ、オオサカ、とカタカナで言いたくなる、オオサカは、面白くなければ意味がないのだ。それが大阪をオオサカというグローバルなものにしている。
だからこそ、マンコもペニスもお尻からブリブリ排泄も、目を背けることではないのだ。だって女性性器を描き続けている画家さんは言っていた。男にとって女性の排泄は見たいもの、興奮するものなのだと。そんなこと、知らなかった。本当に?それはみんなそうなの?だとしたら、隠され過ぎているよ!
……なんかヘンなところで止まっちゃったな。だからだから、だーかーらー、素敵な人たちがいっぱいいるんだってば。えーとえーと、どこからいこうか。
あ、そうだ……本作にはドラァグクイーンの肩書の人たちが何人か登場するんだけれど、その中で最も印象的だったのは、Diedrichさん。これはやはりディートリッヒ、なんだよね。やっぱりやっぱり、マレーネ・ディートリッヒなんだんろうなあ。男装の麗人……。
男でも女でもない。性的欲望をどちらにも感じない。Diedrichとして生きていきたい。そんな風に彼(彼、というのも違うのかもしれないけれど……)は言う。
それって凄く、女性的感覚に近い、と思うのは、私がフェミニズム野郎だからなのだろうか??男と女の天秤があったとしたら、セクシュアリティの重さは女の方に振れると、それは単なる感覚的なものなんだけど、どうしてもそう思っちゃう。
それは、女がより中性的……もっと言ってしまえば男の部分も持ち合わせているのに対して、男は男でしかない、ようなあくまで感覚だけど、そう感じるから。それこそ本能的に子孫を残すようにインプットされているのが男、みたいな??ホント勝手な感覚なんだけどさ。
SとMの感覚、そこから派生する緊縛や身体改造の問題もあったじゃない。この物語の最後には、大黒堂ミロ氏の経営する”変態バー”で知り合って結婚した、マゾヒズムの女性とサディズムの男性の夫婦の結婚10周年が祝われるんである。
身体的SMだけではなく、精神的SMの関係が心地よい、心地よいどころか、そうでなければアイデンティティが確立されない、束縛され、支配されることが愛の証なのだ。
つまりはその運命の相手を見つけたのが、この”変態バー”で出会った夫婦であり、「変態サイコー!」と叫んで大団円。
離婚の原因として取りざたされる事由が、彼らにとっては得難い愛する理由であり、だったら私たち”普通”の人たちにとって、得難い愛する理由ってなんなの、そんなものがあるの、と思ってしまう。
それこそ優等生的な〆方になりそうでアレだけど(爆)、離婚自由にあっさりと束縛、支配という言葉が躍る、ゲーノー界なんぞ、まあよく聞くわ、と思う、それこそが、得難い愛し、愛される理由だなんて!
この二人にとっては、世間ではあっさりと離婚事由になる程度の束縛や支配なんて、ほんの物足りないことなのかもしれないのだ。愛し、愛されるということは、それだけ重く、運命的で、ただ一人の相手ということなのだ!!
あれれ、なんか女子的にイイ感じに愛の定義で終わっちゃった(爆)。劇中どなたかが言っていたけれど、こうした嗜好の複雑さは人間だけの、人間であるが故の進化の形というのは、きっとそうそう、そうだそうだと共感しつつ……。
でもやはり、フェミニズム野郎としては、”異形”の人たちは、皆どこか、フィメールの要素が消し難くあると思う。不思議と逆は感じないのに、と思うのは、私が女だからなのかな?
あるいは社会、少なくとも日本社会が基本、男性社会であるがゆえに、そこからどんなカテゴリでも少しでも外れると、フィメールの感じがするんである。
フィメール。女でもなくwomanでもなくなんでだか、フィメール。萩尾望都あたりの影響かな(爆)。私の中ではめしべ的なイメージ。生々しい女ではなく、優しく美しいけれど、生物学的、遺伝子的には強くその力を発揮するイメージなのさ!★★★★☆
なんてことは、普段ほっとんど外国映画を観る機会がない、無知な女のウロウロ話(爆)。本作に足を運んだきっかけは、友人が良かったと言っていたから。そういう機会を捕まえでもしないと、本当になかなか観る機会がない。そしてその機会を得ると、欧米の映画(爆)とゆーものはヤハリ、うまくできているモンだなあ、と思うんである。
いや私、現在の時間軸(とゆーか、一番手前の時間軸とゆーか)で、チューニングが警察とひと悶着おこして尋問されているトコもメインの時間軸に混ざっているとカン違いして、ホントミステリを見慣れていないアホさを痛感するのだが(爆爆)。
まあ、そんなことも置いといて(相変わらず前置きが長い……)。今回もちょいと、終映後の観客のつぶやきをこの耳が拾ってしまうところから始めてみたり。
「マシンにクリストファーって名前を付けて、彼のことが忘れられなかったんだね」と、妙齢カップルの、しかも男子の方がそう感想をもらしたのを、ふと耳が拾ったのであった。
なるほどなるほど、そここそがまずなのね、と思い、確かにそここそ、そこしかないかもしれないと思い、そうなると、すごくオーソドックスというか、本作の中でキーワードのように使われる“普通”という価値観に落ち着いてしまうかもしれないと思った。
それが悪いというんじゃない、決して。映画というもの、観客の共感を得なければ成立しない。他の多くの芸術……たった一人で作り上げることが多い他の芸術ジャンルと大きく異なるのはそこんところだと思われる。
本作は一見、風変わりな主人公の風変わりなテーマのように見える、んだよね。天才的数学者は自らを天才と悪びれもせずに言い、暗号を偏愛し、他人の気持ちを解さない。
数字だけが裏切らない、なんて表現は凡人の思いつくそれかもしれないと思うほど、彼の信念……信念というのも、また凡人の思いつく表現だろう……は、通常の価値観、なんである。
こんな人がこんな、世界大戦うずまく時代に生まれてしまったことは幸か不幸か。
同じく数の天才たちである同僚たちは“人間らしく”、兄弟や友人たちは戦地で戦っているのにと、数字をこねくりまわして何の役にも経っていない自分たちを恥じ、かつ焦る。
こんな台詞は日本での朝ドラか、夏休み映画で2,3本は必ず作られるユルい戦争映画あたりで散々聞いた覚えがある。つまりはこれが、“普通”なんだよね。
劇中、チューリングと婚約にまで至るこれまた数学の天才、ジョーンが、普通なんて望まない、と言い、チューリングの魅力はそここそにあったのに、ミステリの中のヒューマンドラマとしては、彼はどんどん、普通を獲得していってしまい、その最終地点が、人生の中でただ一人本当に愛する人だったと思われる、クリストファーの存在だった、となると……。
えーとね。ダメじゃないの、相変わらずコレでは(爆)。クリストファーって誰!って話になっちゃうじゃないの!!そもそもチューリングって何者!!ってゆーね。
ざっと紐解きますと、アラン・チューリング、かなり変人入ってる天才数学者。過去を回想する形の現在の時間軸で、怪しげな人物として警察からマークされている。軍歴が何もない、消されたのだという、ナゾの人物。
第二次世界大戦で恐るべき存在であったドイツ、その基盤となる難解きわまるエニグマ暗号。その解読に駆り出された、というか自らメッチャ売り込んだのがチューリング、そして彼よりは劣るのかもしれないが、優秀な人物たち。
一日でリセットされてしまう暗号の設定の解読は難航を極め、他人を認めない変人、チューリングに同僚たちは反発する。
しかしそこに、これまた数学の天才美女、ジョーンが参戦、彼女のアドヴァイスでチューリングは仲間たちとうまくやっていく術も得て、ついにエニグマの暗号設定を解読するんである……。
ううむ、こうして概要書いちゃうと、ホント“普通”って感じ!!しかもクリストファー、出てこないし(爆)。
クリストファーってのは、チューリングの、初恋の相手、だろうなあ。初恋の相手は永遠の相手。厳格そうな学校で、頭が良すぎてヘンクツなチューリングは当然、イジめられ、それを救ってくれたのがクリストファー。チューリングが“変わってる”こともそのまま受け止めてくれた。
友情ではなく初恋だったことぐらい、見てれば判っちゃう。暗号の魅力を教えてくれたのも彼だった。君に合ってる、とまでお見通しだった。
こりゃ、恋しちゃうじゃないの。暗号を使って授業中手紙のやり取り。暗号じゃなければまるでカレカノ状態だもの。
でもクリストファーは死んじゃう。休暇中に、結核で。君は仲が良かったんだから知っていたんだろう、と学長は言う。仲が良くもなかったし、知りませんと、ハタから見てもバレバレの動揺を必死に抑え込んでチューリングは言う。
仲が良かったことを隠そうとしたのは、それが友情ではなくて、恋だったからなのか。それが違法であり、激しく迫害されることを恐れたからなのか。
いや……大切な想いだったから、大切な相手だったから隠したかった、などと言っちゃうと、それこそ“普通”のヒューマンドラマに成り果ててしまうのか。
チューリングが開発した、今のコンピューターの基礎となったとは信じられないぐらい、巨大な、ぶっといケーブルが何十本も怪物のように張り巡らされて、チャップリンの映画の歯車みたいな無数の計器がぐるぐると回る、その“マシン”をクリストファーと名付けた。
後に門外漢の警察官から、その電脳は人間のように考えることが出来るのか、とまっすぐに問いかけられた時の、もうこの時にはかなりくたびれたチューリングが肯定したあの表情は、このクリストファーと会話し、心を通わせていたに違いない。
ああ、もう、そんなところに結論を持って行ってしまったら、それこそ“普通”の映画に成り果ててしまうのに!!
これはだって、暗号を解読して、それをあのヒトラー率いる恐ろしいドイツ軍に知られずに、じりじりと戦況を覆していった、戦地に行かずに戦勝をあげた、ずっと機密事項だった陰の立役者、そんな“普通じゃない”物語なんだもの。
暗号を解読して敵の攻撃を阻止する、なんて単純なことでは戦争は終わらない。敵に真偽取り混ぜた情報を流すことも必要で、チューリングのチームには二重スパイさえ紛れ込んでいるのだ。
それも、「一番思いがけない人物」のセオリー通り、肉まんでも頬張ってそうな、人情味豊かな男。チューリングがゲイだってことも、すぐに見抜いた人物、ってあたりは二重スパイらしい鋭さがあったのかもしれんが、結局は上層部にもバレバレで、都合のいい情報を流させるためのコマであったことが明らかになる。
つまり、上層部こそがひどくキナくさいことにチューリングは戦慄するんである。だってこの時、チューリングは婚約していた。難解なクロスワードを瞬時に解く数学の天才女史、ジョーンと。
彼女もまた、チューリングがゲイだってことを見抜いていたんだから、やっぱりあの肉まん青年(爆)はマヌケだったってことなのかなあ。
私はね、ジョーンとチューリングの関係こそが、“普通”ではないことが、一番重要な気がしていた。
だってジューンは知っていたんだもの。でもそんなことは問題じゃない、って言ったんだもの。チューリングだって、彼女を手放したくないという混じりけのない気持ちで、プロポーズしたに違いないんだもの。セックスするとか、出来るとか、そんなことは問題じゃないのだと。お互いに好きだと、大切に思っていると、それこそが大事なのだと。
私ね、実はこれが子供の頃……は言い過ぎかもしれない、10代の頃から、これって理想だった。まあ、セックスに対する潔癖っていうか、若い頃ならではの嫌悪があったからかもしれない。
でもすっかりオバサンになった今も、その気持ちはちょっと、残ってる。だってこれって純愛じゃん、プラトニック超絶じゃん、って思うんだもの。何がいけないの、問題なの、って。
チューリングは彼女を問題に巻き込みたくないがために、ゲイであることを告白して、君を好きなんかじゃないと言って、遠ざけた。バカ!あんたはバカよ!!
ああ、結局、私は、数学的、歴史的、ミステリ的面白さより、“普通”のこんなラブストーリーをとってしまうんだ。ハズかしいけれども!!
チューリングのユニークさ、天才にありがちっぽい風変わり、つまり空気が読めない的な感じ、アスペルガーみたい……と思ってふとウィキを覗いたら、そういう説がやはりあったみたい。
真偽のほどは明らかではないけれど、発達障害(障害、という言い方は、好きではないが)の人たちの示す天才的頭脳はまぎれもなく明確で、それを現代でも、いや現代だからこそ見出し、評価し、生かすべきだと思うのだが、なされてない、よね。
チューリングの才能が“KY”だったとしても生かされたのは、世界大戦下という異常事態であった訳で、平和な時代ならば……むしろ……また彼は排除されてしまうのだろうか。表面上は理解されているように繕われながら、やわやわと世間から押し出されてしまうのだろうか。
ひどく巨大なマシン=コンピューターがね……。そう不思議とマシンという懐かしい響きより、コンピューターという方がなぜかなぜか、知能や感情を得てくれそうな気がして。なぜだろう、なぜだろう。
マシンはやはり、マシンなのよ。考えない。工場の機械。それこそ歯車。コンピューターは……。
思いつく限り最善の設定を施したら、あとはそのコンピューターを信じるしかない。信じるってことは、信頼が前提にある、一つの存在として認めているってことだもの。きっとやってくれる、たどり着いてくれるんだと。
ひどく古いんだけど、「2001年宇宙の旅」なんぞを思い出す。コンピューターが人間の意識を超える、そこにはまだコンピューターに対する畏怖の強さがあった。
本当は、本当はというか……理想は、その初めを作ったチューリングの想いそのもの、コンピューターがいつかは、近い将来か遠い未来か、信頼しあう人間同士になるということなんだと思う。
その間には決して、キューブリックのような、コンピューターへの不信ははさまれないんだと思う。だって人間が作ったものを、人間が信頼しないでどうするの。それが出来ないからこそ、不幸な時代が続いたんじゃないの。
チューリングは生身の人間、つまりはクリストファーと、コンピューターと、それぞれ運命の出会いがあってさ、そして彼の性癖(あえてそういう表現を使うけど)からはハズれるジョーンとの出会いがあって……もう、コンランする!!
現実にはジョーンのような女性との出会いがあったのかどうかは……今の時代向けの、フィクションのような匂いがどうしてもしてしまうのが、ちょっと哀しいんだよなあ……。★★★☆☆