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「ほ」


2010年鑑賞作品

ボーイズ・オン・ザ・ラン
2009年 114分 日本 カラー
監督:三浦大輔 脚本:三浦大輔
撮影:木村信也 音楽:桜井芳樹
出演:峯田和伸 黒川芽以 YOU リリー・フランキー でんでん 尾上寛之 渋川清彦 米村亮太朗 大谷英子 遠藤雄弥 岩松了 松田龍平 小林薫


2010/2/13/土 劇場(テアトル新宿)
原作のことは知らないし、その原作のファンである主演の峯田氏がどんな思いでこの主人公に臨んだのかも知る由もないんだけど……もう、これはね!その峯田氏の真の主演作がようやく来たか!という感がまず大きいかなあ!
確かに最初に彼を観た「アイデン&ティティ」も主演ではあったけど、あくまで中村獅童を全面に押し出したという宣伝展開は否めなかったし。
そしてその後、多くの作品で強い印象を残すキーマンを演じての、そう、役者としての膂力を蓄えての満を持してのこの主演。それが彼自身にも思い入れのある原作なのだとしたら、言うことなし!

実際は10巻あるという原作だから、主人公田西の苦悩はこんなもんでは収まらないのだろうし、この後の話も長く続くのかもしれない……うーん、原作も正直気になるところではあるんだけれど、と思ってチラと調べてしまった(しまった……)ら、これはボクシング映画というカテゴリで、むしろこの恋に破れた後から彼の本当の人生は始まるのではないか!!!
としたら、この映画の部分まではあくまで前フリに過ぎず、それならこれって……実は確信犯的な幕切れ?最初からシリーズ2、3と続けることを考えているのかも?ず、ズルイ!

でもね……これが原作の、ひょっとしたら片鱗さえもうかがわせないところまでしか行ってないのかもしれないにしてもよ。でも田西にはホレずにはいられないんだよなあ。
いや、確かに傍目から見たらこんな超ダサダサな男はヤだよ。29歳にもなって実家通いで、お母さんから「今日の夕食はどうする?何が食べたい?」と聞かれ、よれたネクタイを直される、なんてさ。

中途半端なオカッパ頭に時代遅れなデザインのメガネをずりさげて、冒頭シーンなんて、テレクラで好きな女の子からの挨拶的な短いメールを眺めながらシコシコやってるていたらくよ。
そして自分の誕生日にハッピーバースデイを歌ってくれたそのテレクラの相手から「会ってもいいよ」と言われてのぼせ上がり、しかし会ってみたら……案の定というかなんというかドスコイ女子でちっとも勃たない。
しかもそんな雰囲気を感じ取った相手から「誕生日にテレクラから電話してんじゃねーよ!モテないんだろ?なのに人を見下してるんじゃねーよ!」と見事なパンチ&キックをお見舞いされてしまう……。

もう最初からあまりにもダサダサ。そんな彼に、ひっそりと控えめな明朝体で隅っこにタイトルが表示されるあたりも先行きの不安を感じさせる。
でもね……彼がこの後繰り広げる、ひょっとしたら初めての恋だったかもしれないとまで思わせる、超オクテな29歳のまっすぐさは、心を貫かれずにいられないのだ。

ていうかね!峯田氏って、決してこんなダサダサな感じじゃない筈なんだけど!いやあ、よくもまあ、化けたもんだ。
時と場面によっては鼻血どころか青っ洟までずるりと垂らす彼は、身体も華奢だし、ちっともカッコイイとは思えない。実際の峯田氏はとてもステキなのになあ。いやあ、これこそ役者としての彼を印象づけたということだろうか。
彼から愛しのちはるちゃんを奪う、ライバル会社の青山を演じる松田龍平が、これまた楽しそうにヒールであるこのキャラを演じるもんだから……。
松田氏はこれまでほとんどが主役級で、つまりいつでも気負いがあった感があったんだけど、本作は珍しくサブの役柄。準主役とまでもいかず、しかし主人公の動機を決定的にする役柄で、こんな位置の松田龍平は初めて見るんだよね。
でもってこれが意外というかなんというか……今までで一番イキイキとした松田氏を見ることが出来るんだよなあ。彼って意外に、いじめっ子のキャラが似合っているかもしれない(爆)。
最初は結構イイ奴で近づいてきて、最終的にはメチャクチャヒドイヤツ。

まあ、そんな伏線はきっちり敷いてはいた。昼時に営業先で一緒になった田西が食べていたカップ焼きそばを分けてもらってさ、「人が食ってるものって、うまそうに見えるんですよね。……こういうのって、ひと口だけがうまいじゃないですか」もう、決定だよね。
それにダサダサの田西と比べてあからさまに、しゅっとしてるんだもん。細身ダークスーツをスラリと着こなした松田龍平は、ガチャガチャの自販機を売る営業社員とは思えないスタイリッシュなカッコ良さ。
「先輩から引き継いだだけで、キビしいですよ」と口先では言いながら(そのあたり同じ境遇で腐っていた田西を仲間意識で引き入れながら)、実はしたたかなやり手だということが明らかになっていくんである。いやー、松田龍平、メッチャ嬉しそうにやってるよなー。

その青山に、田西以上に利用されたのは、本作のヒロイン、ちはるだろうなあ……。
もうね、彼女は……この映画の中では描ききれないと思うのよ。純粋なのか、計算ずくなのか、あるいは単にバカだったのか、この作品の時点では判んないんだもん。
まあ正直、女子的な視点で言えば……彼女は自信過剰で都合がよくて、男を見る目がないのに、それを男のせいにし、股はゆるいし(爆)、こんなのを女の見本にしないでちょうだいと総スカンを食らうタイプの女の子、なのだよなあ……。

このキャラに、黒川芽以を持ってきたのは、彼女のネームバリューの微妙さから考えても(爆)かなり意外だったけれど、この役で、彼女はその“微妙さ”から脱却出来たかもしれない。
まあ、脱ぐまではいかないにしても(そんな展開もなかったし)、年頃の彼女が、嬉し恥ずかしパンツ姿からむっちりした色白の太ももをあらわにして、アンニュイにベッドに横たわっているだけで結構グッときちゃうもんなあ(爆)。
やはりそのあたりが、女優の旬をいかに上手く使うか、ということなんだろうと思う。いい年をして隠したがるのもダメだし、若いピチピチを出せるもんなら出しまくり、ってのも時には興ざめなこともあるし……まあ、彼女の今後を期待しておこうか?とにかくこの役は、彼女の女優としてのスタンスを考えても実に絶妙だった。

それにしてもこの女、ヤなヤツだよねー。いや、それこそ最初こそはさ、田西がホレこんでいるのもあって、なんか好意的にこっちも見ているんだけれど……まあ、酒の席でゆるい胸元をちっとも気にしてなかったり、エロい話題に食いついたりするのも、そう、酒の席だからこそ別にいいじゃん、とは思うよ。
普段は淡々と仕事してそんな片鱗を見せないのに、酒の席になるとやたら酒豪でやたら下ネタに食いつくのも、まあ、私も覚えがないこともないし(爆)。
でもね……彼女を見ていて、反面教師だと思ったなあ。酒豪と酒好きは違うし(酒に強いか弱いかってこと)、酒の席での話題を現実に持ち込んじゃいけないってこと(これは……仕事関係の飲み会で散々思い知らされたこと。酒の席でのウマイ話は、決して現実には反映されないのだ……)。
でも彼女は、若い故に信じてしまったのか、あるいは相手が忘れてしまっていることぐらい承知で、恋活してたから積極的に出たのか。

田西が忘れていたという酒の席での約束というのは、彼所有のエッチビデオと彼女の少女マンガとを交換し、「未知の世界を広げよう」ということだった。
あまりにもあっけらかんと言う彼女にうろたえ気味の田西だけれど、これはチャンスとばかりに、あまり毒のないセクシーアイドル系のAVを貸そうと、それを貸しっぱなしにしていた同僚の家まで、片道三時間かけて取りにいくんである(爆)。帰る頃には明け方だし(爆爆)。その同僚からは「コイツ、オナニーしたくて、片道三時間かけて自転車で来たんだぜ!」と言われるし(爆爆爆)。

ちなみにこの同僚は渋川清彦。いやー、彼はホント、何とも言い難い、乾いたオーラがあるのに妙に人なつっこいような、独特の魅力があるよね。
中盤、彼の結婚式のシーンがあって。酔っぱらった田西のムチャクチャな祝辞に彼が率先して拍手をするのが、ああ、なんか渋川氏らしいなあ、友達思いだよなあ、と思っちゃったのだ。だけど彼が、アイドルAVのパッケージに獣姦モノを間違えて??入れてたまま返したもんだから、田西を慌てさせるんだけどさ!

エロに興味はあっても、田西と何かありそうな雰囲気だった時にはまだ処女だったちはる。
……このあたりの雰囲気が、微妙なんだよなあ。いや……判る……気はするのよ、確かにね。酒の席では大胆になって、やたら下ネタに反応して、でも自身は経験がなくて、自分から誘いこんだような形なのに、いざ、となるとひるむ、なんてさ。判るような気もする、が……自分がとった行動が道筋をつけちゃっているってことを、自覚してくれないと、そりゃー、男としては困るってなもんで(爆爆)。
そりゃね、その相手がたまたま……これまた素人童貞だった田西だから彼女の拒絶も受け入れてくれたけど、でもそれが良かったのかどうか……。

だってさ、ちはるってば、その道の先輩であるしほさんに、「本当はあのとき、ヤッてほしかった」などと吐露している訳でしょ?田西はちはるが処女だと告白し、だからもう少しお互いを知ってからにしたい、という意向を、ホテルの拘束椅子に四肢を縛り付けてまでおのれを封じて受け入れたのにさあ!(このシーンは可愛かった)
まあ、判るよ、彼女の気持ちは……怖いけど、強引にやってもらうことで突破できるかも、ていう気持ちはさ。
でも、そこで突破せずに女の子の気持ちを大事にしようとするのが、それこそが田西なんであり、だからアンタは彼を好きになったんじゃないの。ちょっとしたアクシデントぐらい、そんな気にするなっての。ある意味アンタが導いたことじゃないの!!

その“ちょっとしたアクシデント”ってのは、ちはるの部屋の隣りに住むソープ嬢、しほが、彼と“未遂事件”を起こしちまったことである。このしほを演じるのはYOU。いやあ……ピタリである。
実はエロいちはるの気質をいち早く見い出してて、だからこそ彼女が恋人を欲しがっていることも判ってて心配してて。しかしそんなちはるを大事に思うがあまりたまっている田西をヌイてあげようとして、コンドームをつけたままの田西がしほの部屋のクローゼットに隠れているところをちはるが目撃してしまう!
ちはるが、田西に好きだと言おうと携帯に電話をしたところに、ううう……お尻を出したままの田西が転がり出してしまうんである!!

別にセックスしようとしていたんじゃないのに。口でやってもらおうとしただけだったのに。いや……そんなことを言ってしまうことすらハズかしいんだけど(爆)。
エロイ気質を持っているくせにケッペキなちはるは、この事件を境に、完全に田西と距離を持ってしまうのだ。

時は経つ。あいかわらず営業先からバカにされている田西。ちはるが会社からクビにされるという話が入ってくる。
それは、ちはるの企画が青山の勤めるライバル会社、マンモスに流れていたことが原因だった。もともと下ネタ(汚物ネタ含む)に執心していたちはるは、それが会社に却下されたことを根に持っていたのか、あるいは単に青山の言うまがままに差し出してしまったのか……セックス48手のフィギュアが入っているガチャガチャはマンモスで大ヒットしてしまう。
ちはるがその責を追って自主退社、しかも彼女のお腹の中に、青山の子供がいることを知った田西は、爆発するのだ。
その中絶に、青山はカネだけを出して、冷たく彼女を捨てた。彼女に付き添って、配偶者に自分の名前をサインした田西は、決意するのだ。
……しっかしさー、彼女から妊娠の事実を告げられて「……俺の子?な、訳ないか……」とつぶやく田西がマヌケながらも可愛過ぎる!一回もセックスしてないのに、アンタの子のワケないじゃん!もおお、どこまで萌え過ぎるの!!

青山に連絡するも、彼はいかにも冷笑、という感じだった。「今、ちはるはヘコンでるから、チャンスですよ。感謝してもらいたいな」「ちはるとのハメ撮り写真送りますよ」なんてヘーキで言う青山に、田西は大爆発。「アンタをぶん殴りに行きますから!覚悟していてください!」と吠える。
この時、それまではぼーっとしていた感しかなかった社長が彼の受話器を取り「田西はクビにはしませんから。存分にやってもらいますよ」と言うのがグッとくるんだよねー!リリー・フランキー演じる社長は、正直やる気は感じられないけど(爆)、さりげなーく社員の気持ちを汲んで後押しする感じがステキなんだよなあ!

そしてここからは、それまで飲んだくれ社員としてひっそりと存在していた小林薫が、ガゼン存在感を増してくるんである。
どういうバックグランドがあるのかは判らないけれど、彼はボクシング選手としての過去があったらしい。そしてそれを社長も知っているらしい……社長から請われて、田西を指導することになるんである。
技術ではなく、自らの中の狂気を引き出すこと。ちはるから「そんなことしないでください。大嫌いですから」と言い放たれても「ちはるちゃんのためじゃない、ネタををパクられた会社のために闘うんだ」と田西は言う。でも……そんなのウソだよね。
ヤリ捨てられたちはるのために、田西は闘う。ちはるから「そんなことされても大嫌いですから」という言葉を投げられて、逆に奮起したハズだったけれど……まあそりゃー、青山に見事にボコボコにされてしまう。途中、おもらし攻撃(!)なんて奇襲も見せたけれど、完敗もいいところだった。

この戦いのほんの少し前、ちはるの送別会があるんだよね。岡村孝子の「夢を諦めないで」をありえない絶唱で歌い上げる田西に「あいつ、やるよ。前もそういうことあったもん」と同僚たち。
明日、青山の会社に殴り込みに行く、と、必殺技のサラリーマンアッパー(名刺を出して油断させ、アッパーをお見舞いする)を得意げにちはるに見せた田西。まさかそれを、青山にあんなひどい目にあったちはるが彼に告げ口するなんて思いもしなかったから……。

まあつまり……ボコボコにされちゃう訳。見事な返り討ち。原作が、その続きにこそメインテーマがあるなどとは知らないから、田西はある程度満足するぐらいはやりあえて、エンドを迎えるのかと思っていたから衝撃だった。
しかも、青山から、あの青山から「今まで何もしてこなかったくせに」「うすっぺらなんだよ」と散々罵倒されてボコボコにされるなんて。それを青山の同僚たちから薄ら笑いを受けながらという屈辱付きで。
サラリーマンアッパーをかわされた時、青山はちはるからそれを教えてもらったと言った。それを田西がちはるに告げたのは昨日の夜なのだ。
そのほんの短い間に……青山は「あの女、サイテーだよな」と言う。ホンットにサイテーだ……でもそれを、お前の口からは、聞きたくなかった。
田西にトレーニングをつけてくれた酔いどれ小林薫は、一発も返せなかったと涙を流す田西に「おしっこひっかけたじゃないですか」と笑う。

せめてここで終わってくれれば良かった。なのになんで、田西はちはるを見送りになぞ行ってしまうの。
ボコボコの姿の田西に驚いたちはるの口から最初に出たのが「青山さん、大丈夫だった?」ひ、ヒドイよ……。
田西は思わず言うのだ。あのケンカの前に知ってしまったこと。「他の男ともヤッたの?」「どうして俺じゃいけないの。俺とも一回してよ。口だけでもいいから」
どうして、どうしてそんな自分を貶めるようなこと、言うの。どうしてそんなにこの子が好きなんだよ。純情そうな顔して、最後まで田西をいいように振り回したのに!
泣き顔になったちはるは、「口でぐらい、してあげるよ。トイレに行こう!」と言う。バカ!それが田西をどん底に突き落とすことがなぜ判らないのか。拒絶する田西に「どうしてあげればいいの?」更に泣き顔になる。お前に泣く資格なんてないんだ!バカ!バカ!バカ!

ちはるは、田西を傷つけたままの自分でいたくなかったんだろうな……。
田西は更にまとわりつくちはるを、どん、と列車の中に突き飛ばす。ちはるが列車の中にしりもちをついたとたん、プシューとドアが閉まった。

走り出すのだ。田西は、トレーニングをしていた時と同じように。
ボコボコの顔で、走り出すのだ。
そしてもういちど重なるタイトル。ボーイズ・オン・ザ・ラン。

これは……きっと続くよね。だってここまでは確かに前フリに過ぎないんだもん。
峯田氏がメチャクチャ良かったから、この監督さんは映画は初演出だということだけど、とても良かったから期待してしまう。
とりあえず彼の髪が伸びてからだね!★★★★☆


ホームレスが中学生
2008年 75分 日本 カラー
監督:城定秀夫 脚本:城定秀夫 北田瀧
撮影:長谷川卓也 音楽:タルイタカヨシ
出演:うつのみや八郎 蛭子能収 和希沙也 パッション屋良 阿藤快 石崎直 望月美寿々 椿直

2010/7/1/木 劇場(ポレポレ東中野/城定秀夫監督特集/レイト)
本作が実際公開されていた時に、もちろんあの「ホームレス中学生」にぶつけてきていたから、こりゃまた随分直球なキワモノ企画だなあ、と思ったのは否めないところだった。つまりはそれなりに気になってはいたけれど、さすがに直球過ぎる気がして足を運ぶ気にはなれなかったのよね。
城定作品だということは知らなかったけど、知ったとしても観ていたかどうかは……。それはやはり心のどこかで、柳の下のドジョウ狙いにしてはヒドいなあ、などと思っていたからなんだけど、トンでもなかった。

本作の企画が、あの話題作にあやかろうというところからだったのか、単におちょくったギャグ的な気持ちだったのかは判らないけれども、この“が”が、全てを変えた。
まさしくホームレス“が”中学生なのだ。そのことによって、社会派になり、コメディになり、シュールギャグになり、ドキュメントになり、最後にはファンタジーにまで昇華してしまった。
そのありえないラストの画に思わず吹き出しつつも、思わず知らず胸を熱くしてしまったことに、自分自身もビックリした。

そう、あの話題作が、その元となった彼の語りによってバラエティ番組を席巻していた頃、波乱万丈な彼の半生の、その一時期の壮絶さに爆笑しながら驚きながら、でもその一方で、それってホームレスと言ってしまうほどのことでもないよな……と誰しもが胸の中で思っていたんじゃないかと思う。

本作では、突然転校生としてクラスメイトになったホームレス、須崎君のドキュメンタリー映画を撮ろうと奮闘する映画研究会の三人組が彼の住まいを訪れる時、「それでは須崎君の家を突撃したいと思います!」「ホームレスの家って、おかしくね?家がないからホームレスなんだろ」というやりとりに思わず噴き出してしまうんだけれど、でもそこまで根を張ってこその、ホームレス、なんだよね。
それこそホームレスに根を張るという言い方はおかしいのだろうけれど、「ホームレス中学生」は、いわば腰掛けで、ホームレスというよりは、宿無し、ぐらいが適当な表現だったように思う。

須崎君はまさに年季の入った、ヘンな言い方かもしれないけど、誇りを持ってホームレスをやっているホームレス、という感じがする。でも私たちは当然、そんな人たちの暮らしぶりなんぞに興味を持ちはしない。それこそ「ホームレス中学生」のエピソードを聞いて、タイヘンだったねと思う程度なんである。
勿論同じく思っていた中学生たち、仕事をしていない怠け者と思っていた、と映研の一人、八百屋の跡取り息子は言う。その感覚が昨今の若者によるホームレス襲撃につながっているのだろうけれど、普通に社会人している私の目からも、ホームレスの須崎君はずっと勤勉に働いているのだ。

地道なアルミ缶集めを映研の三人はカメラに収め、見ているだけなのが忍びなく、自ら手伝い始める。
その労働時間に比して、たった2千円ちょっとしか与えられないことに、しかも冷ややかな言葉を投げつけられることに呆然とするんだけれど、その二千円ちょっとのうち千円を、手伝ってくれた彼らに差し出した須崎君に、彼らは労働と友情の意味を同時に強く感じる。
「私、働いてお金をもらったの、初めて」映研紅一点の美咲がつぶやけば、男子二人も大いにうなづくんである。

てか、てか!またしてもただただ先走ってしまったけれども!そもそも、この成り立ちよ。ホームレス“が”中学生。一学期の終わり、突然転校生がやってきた。しかもそれは、一見して判るホームレス!
ボロボロのTシャツと綿パンは著しく汚れ、伸び放題の髪と髭に覆われた顔も、いやむき出した腕も足も、垢だか日焼けだか判らないほどに真っ黒になっている。
呆然とする生徒たちに担任の若い女教師は「こんな時期の転校性で驚いたと思うけど……」とトンチンカンなことを言うもんだから「いやいや、驚くポイント、そこじゃねえだろ!」という生徒のツッコミを待たずしても思わず噴き出してしまう。

異様な匂いを撒き散らす須崎君を当然、生徒たちはガタガタガタッ!とあからさまに机ごと遠ざける。この画は、確かに須崎君にとってはヒドいんだけど、「十戒」そのものでさ、なんか笑っちゃう。
中学校の教室にホームレスがいる、という強烈なインパクトに、主人公で映画監督が夢である翔太はコレだ!と感じ、即座にカメラを回し始めるよう、映研のカメラ担当の健夫に指示するのね。
文化祭に出す作品で煮詰まっていた翔太は、須崎君のドキュメンタリー映画を製作することを決意。そのことが、思い悩んでいた彼自身の道を、決定付けることになるんである。

なんたって、須崎君なんである。見終わった後にね、知ったんだけど、本当に、現役のホームレスさんなんだと言うんである!衝撃!!!いやあ、確かにやけにリアルだとは思っていたし、うつのみや八郎って何者?とも思っていたし。リアルどころかホンモノならば、確かに、確かに、なのだわ!
ていうことは、衣装も、そう?あの穴のあき具合は、用意された衣装のようには確かに感じられなかったけれど……てことは、てことは、生徒たちが彼のニオイに思わず机を引いてしまうのもリアルだと思うと、それはなかなかに厳しい気持ちも感じなくもないけど(爆)。

でも凄いなあ、凄いなあ。キワモノ企画がホンモノになったって感じ!結局はホームレスなんかじゃなかった、演じている役者もキレイだった、あの作品に、めっちゃ挑戦状を叩きつけたって感じなんだもん!
うーん、でもでも、更に調べると、彼は、“現役ホームレスの芸人”なのだとか??何それ!?もうなんかパラドックスだらけで訳判らんくなったわー!!

大体なんで突然ホームレスが転校してきたのか、何より彼のニオイを何とかしてほしい、と生徒たちが担任の先生や教頭、学年主任に詰め寄る。
「校長が海外出張中で、私たちも詳しいことは知らない」と逃げ腰の先生たち。この時にはこの“校長が……”というくだりが甘い気もし、後から帰ってきた校長が何だコリャー!と言い出すのかなとも思ったけれど、甘いと思った設定は、見事なファンタジーに昇華されたんであった。

授業はいつも担任の国語の授業、しかも風の又三郎ばかりなのね。まあ、須崎君がやたら難しい漢字をスラスラと解いて皆に尊敬される場面も出てくるけれど、蚤だの虱だのといった「なんか、片寄ってねぇ?」と生徒がつぶやくのに爆笑してしまうしなあ。
で、そう、風の又三郎なのよ。その授業場面に須崎君が転校生として紹介され、そしてラストには、須崎君がいなくなった二学期の教室でもその授業が続行されている。
須崎君がまるで夢のような出来事だったなあ、と翔太が窓の外をみやると、そこには又三郎よろしく、しかしマントは青のビニールシートの須崎君が飛んでいるという!噴き出してしまいつつも、幸福なラストなのよ!

いやいやいや!思いっきり大事なとこすっ飛ばしてラスト行ってどうする!
だからね、須崎君は、謎の存在のまま転校生としてやってきてさ、そのニオイを何とかしてよ、と女子生徒たちから詰め寄られた担任の女教師は「美化委員の仕事でしょ」と、美化委員にとっても理不尽で、須崎君に対しても失礼きわまりない決定を下すんである。美化委員の仕事でしょ、は思わず笑っちゃったなあ……。

美化委員の二人はチャラ男、あと一人はその二人にパシリにされてそうな小デブな男の子。小デブ君がブツブツ言いながら須崎君をたらいに入れ、ホースで水をかけ、床掃除用のデッキブラシでゴシゴシやりだすもんだから、黙ってその通りになっていた須崎君がさすがにキレて三人を追いまわす。
そんな場面がありつつ、なぜかこの美化委員と仲良くなったらしく、ていうか、須崎君のゴミ拾いの素早さを賞賛する三人のVTRが可笑しすぎるんですけど!背後で、まさに背後霊のように(爆)凄まじいスピードでゴミを拾う須崎君(爆笑!)

VTRてのはね、つまり須崎君をドキュメンタリーで撮っているから。日サロに日参しているガングロギャルが須崎に負けてね?と対抗意識から賞賛に移り、「大人の魅力っての?」とまで崇拝するのはまあギャグ的要素ではあるけれど、それでなくてもクラスの皆に須崎君は受け入れられていく。
ていうのもやはり、映研の皆が須崎君に興味を示したからだとは思うけれど。最初、興味本位で彼の住み処を突撃し、失礼な質問をしまくった美咲に須崎君は拒否反応を示した。
それを素直に謝り、改めて被写体になってもらいたい、と三人は頭を下げた。八百屋の息子健夫が「中学生でホームレスって、珍しいんだよ!」と口説くセリフには思わず噴き出してしまうが、そもそも須崎君がここにいることのシュールさ自体が確かに可笑しいんだもの。

事態をよく判っていない担任の女教師が「皆、見た目で判断するのは良くないよ!老けて見えるけど本当は15歳かも知れないじゃない!」と生徒を説得させようにもあんまりな言いようをしたのには爆笑しちゃったけれど、でもこの台詞は意外に深いところをついていたかもしれない、と思う。
そりゃあ当然、須崎君は15歳なんかではないけれど、いや、ないだろうけれど、でもひょっとしてその髭とモジャモジャの髪の毛をスッキリさせて、お風呂にドボンと入れてみたら判らないかも……なんて気分にもさせられるんだよね。
だって、その鎧の中に、彼の表情はなかなか見えてこないんだもの。ひょっとしたら、それがオチかも、なんてね。

でもそれにしてはあまりにホームレスの風貌が堂に入っていたし、何より、中学が義務教育だということ、それを終了していないから学びなおしたい、という設定があったし。
そしてそして須崎君が(片寄っているとはいえ)知識があって、ビニールシートの住み処でも本をめくって勉強にいそしみ、学びたいという意欲がひしひしと感じられることがさ、高校や大学がモティーフならば、そういう設定の作品もなくはなかったけど、そこにさえ到達できない、でも基本の教育を学び、基本の人間になりたい、というのが、とてつもなく切実でさ。
それを当たり前、というか、当たり前以下、めんどくせえぐらいに思っている中学生なり元中学生に、一石どころか一岩石ぐらいを投じたと思うのだ。それは……それこそ、“が”が抜けた、かの作品では論じられないところだったんだよね。

須崎君を撮影することで勉強がおろそかになった翔太は、両親、特に自分の跡を継いで医者になると信じている父親から叱責される。
映画監督の夢を今まで言い出せないでいた翔太は、自分の人生を勝手に決めるなと初めて親に反抗し、家を出て須崎君と一緒に生活を始める決意をする。
そんな翔太に他の二人も、どうせ夏休みだから付き合うよと言いつつも、ビニールシートや木材を調達して家から建て始める彼らは楽しそうである。
須崎君がふるまってくれた残飯鍋の美味しさに「残飯って美味いんだな。俺ら、こんなに美味いのを、捨ててたんだ」とつぶやくあたりはなかなかに社会派だけど、実際、ホントに美味しそうなんだもんなあ。

この残飯鍋は後に、押しかけてきた親たちも口にし、「上品な味ね」と舌鼓を打つ場面も用意されている。親たちは当然、子供たちがホームレスと関わることに拒絶反応を示していて、だから大騒ぎになるんだけど、子供たちが自ら会得した真実にこうべを垂れることになるんだよね。
そう、そもそも親たちこそが、こんなナマケモノという意識を持っていたからこそ、世の少年犯罪が、そうした大人の意識の影響を受けているんだということが明らかにされるということも、本作が社会派作品であることを大いに示していると思われるんだよね。

合宿勉強だというウソがバレてしまって、三人の親たちと先生たちが、須崎君と暮らしている橋の下に押しかけてくる。
須崎君と共に、出来上がった映画作品を見る準備をしていた翔太たち、須崎君に背中を押されて、この作品を観てから判断してほしい、と訴えかける。
どうせ、幼稚な作品なんだろうと最初に座り込んだ翔太のお父さんは、でも、彼が一番、息子のことを信じたかったからこそ、先陣を切ったのかもしれない。まっすぐに息子の思いを受け止めた彼は実にシンプルに涙を流す。
その前の、息子を頭ごなしに叱責した場面からして単純極まりなかったけど、それもまたこうしたキワモノ企画を確信犯的に使っていた気がするんだよなあ。しかもそれが、阿藤快氏だからこそ、成立するっていうかさ!

お伽噺のようだった。息子たちが作ったフィルムに涙を流した親や先生たち。そして、須崎君を交えて酒を酌み交わし、翔太の両親は、たき火を見て若い頃を思い出し、フォークダンスを踊った。
このオクラホマミキサーが、この日同時上映だった「若妻痴漢遊戯 それでも二人は。」とリンクしていて、そして河原でサックスを吹いていたかの作品と、トランペットを吹いている須崎君ともリンクしてさ。
ああ、そう、須崎君、トランペットの名手、彼はこの生活の以前、一体どんな人生を送っていたの?なんて考えちゃう。それを考えると……本作はほおんとに、社会派、だったんだなあ。

そして、又三郎よろしく、須崎君は姿を消す。酔いつぶれた大人たち、達成感の末に眠りこけている子供たち、彼らを見つめて幸福そうに、「ありがとな」と言って、草むらに姿を消した。
その言葉は、ずっと無言のままだった須崎君が初めて発した、最初で最後の言葉、だったんだ……。

須崎君を取材するために三人が行った、ホームレスたちへのインタビューも、あれは本当にリアルなものだったのかなあ?彼らは凄く明るくてさ、これ、テレビに映るの?なんておどけたりして。
夫についてきて一緒にホームレス生活している奥さんがとても可愛らしかったりして、そして彼らが凄く、仲間たちとの絆を大切にしていたりするのも、胸にグッと来た。ああ本当に、社会派だったのだなあ。
須崎君は一匹狼で、まるで夢のようにいなくなってしまったけれども、それもまた、ホームレス者たちのシビアさを、ファンタジーという希望にのせたのだと思うと、彼ら中学生、若者に課せられた課題は大きいのだと、思う。

それでも思い返せば、中学生活を満喫した須崎君はなんだか幸せそうだった。徒競走でゴールに光る50円玉に反応して野生動物のように疾走したりするのは、まだホームレスの本能が働いてるけど、居眠りをしている翔太をえんぴつでつついて起こしたりするの、何とも微笑ましくてさあ……なんかきゅんと切なくなっちゃったな。

翔太が悩んで須崎君に相談した時、15歳って、大人?子供?と問い掛けたのがね。実際の年齢も判らずに突如現われた須崎君に対する戸惑いも含まれながらも、つまり須崎君に対する憧憬も示しつつ、でもこの問いって確かに難しい問題でさ……。
アイデンティティはしっかと確立してるけれど、一人立ち出来てないという思いから、その気持ちを親にハッキリと言えない。どう生きていきたいかを言えないってのがさ……。
かといって須崎君が今、自分が生きたいと思っている生き方をしている訳でもないのは誰もが判っている。
それでも、須崎君は今出来る生き方を懸命に全うしている。こんな状況で中学校に行き直そうというのが、その証拠だもの。★★★★☆


ぼくのエリ 200歳の少女/LAT DEN RATTE KOMMA IN
2008年 115分 スウェーデン カラー
監督:トーマス・アルフレッドソン 脚本:ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト
撮影:ホイテ・ヴァン・ホイテマ 音楽:ヨハン・セーデルクヴィスト
出演:カーレ・ヘーデブラント/リーナ・レアンデション/ペール・ラグナル/ヘンリック・ダール/カーリン・ベリィクイスト/ペーテル・カールベリ/イーカ・ノード/ミカエル・ラーム/カール=ロベルト・リンドグレン/アンダーシュ・テー・ペードゥ/パレ・オロフソン

2010/8/27/金 劇場(銀座テアトルシネマ)
べ、別に、「エリ」だから足を運んだワケじゃないんだけど(爆)。うーん、でもそれも確かに、ちょっとあったかもしれない(爆爆)。
でもそのエリは、私よりはるかに年上で、しかしはるかに年下の……つまり、永遠に12歳をさまよう少女だったんである。

主人公の12歳の少年、オスカーも、実にアブノーマルな妄想をかりたてる、眉毛やまつ毛までもが色の薄いサラサラの金髪の、本当に少年少年した男の子で、まあ言ってしまえばまだまだ子供なのだけれど、同じ(じゃないけど)12歳の女の子っていうのは、もう充分にオンナを感じさせる大人、なんだよね。
ぶっちゃけて言えば生理が始まる頃の女の子は、そういう血なまぐさい官能を身につけ始める年頃。ヴァンパイアであるこのエリはまあ、生理はなかっただろうが(爆)、この年頃の女の子がヴァンパイアっていうのが、今まで確かになかった設定だけれど、そういう、密やかで危険で痛ましくて、切ない血なまぐささが感じられるなあ、と思ったんである。

しかもしかも、そのエリを演じる子は、主人公の少年、オスカーの色素の薄さとは対照的な、漆黒の髪と大きな黒い瞳、浅黒い肌が情熱的な血筋を感じさせる(いやだから……ヴァンパイアだから彼女自身の血はアレだけど)女の子なんである。
余計に、ことセクシュアルにおいては、彼女が彼より200歳年上だということを差し引いても、めっちゃエリの方がセンパイという感覚を覚えさせる。
かといってエリがセックスの経験があるとも思えないけれど、ただ……きっと彼女の長い人生の中で、この大人びた少女の色香に迷った男は数多くいただろうし、今、彼女の父親のようなフリをして夜な夜な彼女のために、殺戮を繰り返しては生き血を採取する、同居紳士もその一人だろう。

この紳士はかなりお年を召しているから、きっと年若い頃からエリのそばにい続けたんだろうけれど、サブタイトルの200歳の少女、を信じるならば、彼がエリのたった一人のしもべではなかっただろうからさ……。
しかしエリが200歳というのは、劇中ではそんなこと言ってなかったような気がするんだけれど?言ってたっけ?

エリはこの初老の紳士と、夜中にひっそりと越してくる。オスカーの隣の部屋である。
オスカーは学校で、思いっきり見た目イジメッ子なコンニをリーダーとした三人組にイジめられている。正直その描写もそれほどキツいものではなく、まあ、イジメそのものをリアルに描写する映画でもないからかな、とも思う。
この三人組のうち、少なくとも一人は、弱気なためにイジメラレる側になるのが怖くて、イヤイヤこのガキ大将に付き合っているのがアリアリだし。
つまり、このコンニの方が実はよっぽど孤独だっていうのが、最初から示されていて、それが見えてしまう大人の観客には、むしろ彼こそが哀れに見えるというカラクリも用意されているんだよね。

友達もいなくて、一人イジメに耐えているオスカーは勿論、かわいそうなんだけれど、彼は孤独の中にアイデンティティを作り出す術を知っている。
今は珍しくもないだろけれど、オスカーは母子家庭で、何かと口うるさい母親と上手く折り合いをつけながら暮らしている。どうしてもストレスがたまる時は、凍てついた夜、外に出て、呪いの言葉を吐きながら、木の幹にナイフを突き立てるんである。

そんな時、エリと出会ったのだ。寒空の中、薄着で平気な顔をしている同年代の少女。開口一番突きつけられたのが「悪いけど、友達にはならない。君が友達になりたそうな顔をしていたから」
オスカーの孤独を見抜いたような言葉だけれど、それはエリもまた孤独だったからに他ならず、それにオスカーは孤独を上手く自立に高めていた子だから、この時の“顔”はむしろ、初恋に落ちてしまったそれじゃないかと思われるのよね。

エリのために生き血を採取しにいった紳士が失敗し、すっかり血に飢えたエリにオスカーが、「君、なんかにおうよ」というシーンはなかなかに衝撃である。
人間の生き血によって生き長らえているエリが、つまりそれが不足するときっと、死臭を……腐肉のにおいを撒き散らしているだろうと思われるからである。
彼女がヴァンパイアだと知った時、オスカーが「君、死んでるの?」というのはそういう意味だよね。

エリはその後、飢えに飢えた結果、トンネルの中で気分の悪いフリをし、心配して声をかけてきた中年男性にかぶりつき、チューチュー吸ったあとで、ゴキリと首をひねって殺してしまった。
慌てた老紳士は、この死体をズルズル凍てついた湖に運んで、投げ捨てた。
……しかし、このエリの凶行を見ていた人物がいたんである。エリに殺された男性の旧年来の友人。
雪に残された血のあとも確かめたけれど、この時には届け出ることが出来なかった。それが後に、さらなる悲劇を引き起こすんである。

イジメラレっ子にヤラれているオスカーをエリは、やられたらやりかえせ、とけしかける。オスカーは見るからに文科系少年なんだけど一念発起、クラブ活動に入って体を鍛え始めるのね。
それでもなまっちろい身体をさらすオスカーには、やはり危険な妄想をしてしまうアラフォー女子(爆)。
彼が大好きな父親に会いに行った時、イケメンの父親にまず危険な香りを感じてしまい(爆。も、もちろん、そんなことはありはしないのよ(汗))、更に、父親と楽しく遊んでいる時に、彼のヒゲヅラの友人が訪ねてきて、無遠慮にオスカーをジロジロ見るに至っては、こ、こいつか!?などと思ってしまったり(爆爆。私、何考えてんだ……)。
勿論、そんなことはないんだけど、だってオスカー、なんか危なっかしいんだもん……。
それにこの場面、父親だけは僕を判ってくれている筈、という少年らしい信頼をあっさりと打ち砕くのが、なんとも痛ましいんだよなあ……。
この年頃の男の子って、皆そんな感じかなあ?息子を持つお母さんがベッタリになる気持ちも判るような気がする……。

いや、オスカーの母親は、その点は意外にドライかもしれない。大体、オスカーがいじめられている事実自体、知らなかったみたいだし……。
というのも、オスカーが学校のスケート授業で、凍った湖の上でコンニに決死の一撃を加えてケガさせた時、コンニにオスカーがどういう目に合わされていたか、全然知らなかったみたいだもんなあ……。
だからこそオスカーは、男同士判ってくれる父親の元に行ったのだが、先述のとおりで……もはやオスカーにはエリしか理解してくれる存在はいなくなってしまった、のだ。

思えば、オスカーが父親の元に行っていた時、エリはどう思っていたのかなあ、とも思う。実際は、エリはエリで、ソーゼツな状況が次々と起こっていたからそれどころじゃなかっただろうけれど……。
エリのためにムリをして生き血を採取しようとしたあの老紳士が、しかし結局はそのターゲットの連れに見つかってしまって失敗。
彼は正直失敗ばかりで、物語の冒頭、林の中で殺した相手を滑車で逆さづりに吊るして生き血を採取しているところを、犬を散歩していた、その犬に見つけられたりしてさ。

またその犬が、白くてフワフワの、いかにもヌーボーとしていそうな天然っぽい犬で、逃げ出したその犬を追いかけている飼い主が「やっぱりバカ犬ね!」と罵倒しているのが遠くから聞こえてきて、そんな“バカ犬”に殺人現場を発見されるというのもマヌケでさあ。
まあ、そんなギャグっぽい雰囲気を出している訳でもないんだけど、こんな殺伐とした場面なのに、なんかこう、和んじゃうというか……。
彼はね、一番同情すべきというか、なんともシンクロしちゃう人物なんである。恐らくエリに、これまでもこんな風に、ドジなところを罵倒され続けてきたんだろうと推測されてしまう。
流れ流れてこの地にやってきて、オスカーに恋してしまったエリが、彼から「なんかにおう」と言われたことが最大の引き金だろう、自ら人を手にかけてしまい、事態が厳しくなってしまう。

そしていよいよ警察の手が迫った時、彼は身元をゴマかすために、自分の顔に酸をかけてしまうのね。ニュースで事件を知ったエリが「ここに私の父が入院している筈なんですけど」と訪ねてくるシーンは、エリのために足跡を消そうとした彼のことを思うと、なんともグッとくるシーンである。
しかもしかも、ホラー映画さながらに顔がグチャグチャにただれ落ちて、声を発することさえできなくなった彼から、きっと、恐らく、彼が切望してやまなかった、エリに自分の血を捧げることを……エリがそれを最後の最後に叶えてやったことが、オスカーとの初恋の切なさよりも、大人の観客にはこっちの方がずっとずっと、胸をしめつけると思うんだよなあ。

そして、エリは非情に、いや、第三者的には非情に見えるけれど、彼にとっては最大の幸福に他ならない、エリが必要な血を接種したあとは、病院の窓から飛び降りた格好で、つき落とし、彼は死んでしまうんである……。

エリが襲って殺し、この紳士が凍った川の底に沈めた男の仲間たちのエピソードも、なかなか強力なんである。
この男の旧年来の友人は、あんないい奴が死んでしまったなんて……誰も俺の気持ちは判らない、とイイ仲の恋人(もういい年なのだが)に冷たく当たる。ブンむくれた彼女はぷいと外に出ていってしまう。
そしてその時、彼女もまたエリのえじきにあってしまうんである。かじられかけたところを救い出した、と彼は思っていたんだけれど、実はしっかり“感染”しちゃってて、彼女が何匹もの猫達にガルガルと襲われる場面は衝撃である。
CGなんだろうけれど、猫があんなコワい顔して次々に襲い掛かるなんて、猫好きとしては見てられない(爆)。ていうか、猫って、吸血鬼がそんなキライなの?そうだっけ……。

彼女は自分の運命を悟り、ブザマをさらす前に死にたいと、この愛する彼に打ち明ける。
翌朝彼女の様子を見に来た医者に、カーテンを開けてほしいと言った彼女がどうなったのか、彼は判ってた。待合室でただ一人、うなだれていた。
朝日を浴びた彼女はブワッと発火し、火柱が天井まで燃え上がった。す、スゲー……吸血鬼の最期って、あんな風になるのか……。

その、愛する彼女が非業の死を遂げたことで、この彼はエリに復讐にくるんである。
その直前に、オスカーはエリの正体を知った。少年らしく、血の契りをしようなどと言って、自分の手をナイフで傷つけて血を垂らしたオスカーに、思いがけずエリはガルルと飢えて、床に滴った血にくらいついたのだ。

このあたりはね、あられもないカッコのエリがオスカーの部屋を訪ねて、ハダカのまま彼の後ろからベッドにもぐりこんだり、オスカーが彼女のために供したママの服に着替えるエリを覗き見したら、あらわな××××を間近で見ちゃったり(スクリーンに大アップだったけど……日本だから、ボカシどころか砂嵐かけられた(爆))、青春の青臭さどころか、第二次性長期の生々しさ大全開なんである。

とか思っていたら、なんとこれは実際は、エリは去勢された少年であるという、驚きの事実が日本の映倫によってこんな風にカン違いされるに違いない、こんな処理が施されたことをのちに知ってボーゼンとなる。なんということ。ひどい、許せん映倫!
それなら、少年愛じゃん。オスカーとも老紳士とも、関係性の意味合いが全然違うじゃん!こんなの作品に対する冒涜じゃん!ヒデェ!

もうしょうがないから、少女として話を進めるけど(泣)。

そして、エリに復讐しに来たあの男に、オスカーの方がまず気付いて、浴槽に蓋をして眠っているエリに襲い掛かった彼に隠し持っていたナイフを向けるんだけど、そこはエリの方が何倍も経験豊富で……。
ついでに飢えを満たすってな具合に、凄惨な場面が繰り広げられるのを、オスカーはさすがに見ていられなくて、風呂場の戸を閉めるんである。
血がドバドバと飛び散って、そして静かになり、口中血だらけになったエリが静かに出てくる。
もうここにはいられないと言う。そして、静かにオスカーにキスをする。
たった今、無残に殺した男の生き血を滴らせながらの、キス。

これまで見ながらも、ずっとなんか思ってたんだけど、吸血鬼映画って、暑い国じゃあ、成立しないよなあ、って。だって、吸血鬼の凄惨な美しさ、なんてものの前に、血なまぐささがそのまんまうえーって感じだし、死体もすぐ腐っちゃいそう(爆)。
エリが殺した男たちが、凍った湖の底からカチカチに固まって発見されたり、窓から転落して真っ白い雪の上に鮮血がほとばしる様子も……やっぱりだからこその、禁断の美しさ、なんだよね。
血なまぐささはちゃんとあるんだけど、どこかお伽噺めいているのはそのせいでさ。
まあそのせいでか、オスカーが寒さのあまりに、外のシーンではフツーに鼻水垂らしてるのはちょっと残念って感じだったが(爆)。

ここで終わりじゃんと思っていたら、まだ続くんである。エリが去って、オスカーはあのいじめっ子グループの一人に呼び出される。コンニをやっつけた君は正しかったよ、てな態で。クラブ活動に顔を出さない君を先生が心配しているよ、と。
まんまと顔を出してしまったオスカー、コンニのコワイお兄ちゃんのワナにかかってしまう。プールにオスカーとこのお兄ちゃんとコンニたち三人のいじめっ子グループだけ。
プールの中に頭を押し込められて、すわ、これまでか、と思った時、音を無くした水の中にザワッと何かが通り過ぎた。
プールの奥に、ぼとりとおちたのは、生首だった。そして、オスカーを水の中に押さえつけていた腕も、力を無くして、もぎりとられた断面から鮮血を滴らせて水の中に沈んできた。

エリ。エリが、オスカーの腕を掴んで引き上げた。プールサイドにはコンニとお兄ちゃんと、若干の疑問を持ちながらいじめに加わり続けた男の子の、あちこちもぎられてピクリとも動かなくなっている凄惨な死体。
そして……弱々しくもイジメから脱退を図りたがっていた男の子が一人、頭を抱えてブルブルと震えていた。
あまりにもあまりにも、静かな静かな場面で、彼らが腕を、頭を、もぎ取られたときにはこれ以上なく凄惨だったに違いないのに、まるで雪が降りしきる時みたいにしんとして静かで、なんかそれが、ひどく、恐ろしく、そして、……美しかったのだ。

ラストシーンが、何よりポエティックである。こんなん、現実味がないけれど、ないだけに、ひどく美しいんである。
列車が行く。レトロな客車である。映し出されるのは、一人座席に座っているオスカー。足元には大きめの旅行カバン。
部屋の薄い壁を通してモールス信号でやりとりしていた、あの甘酸っぱい記憶をそのままに、彼は旅行カバンに愛しげに指をはわせる。
ツー、トン、ツー、トン。長いツーの時の指の動きが、なんだか妙に官能的に思える。
思えば、最初のオスカーの登場シーン、ブリーフいっちょの華奢な白い身体を横たえる幼い感じから、スクリーンの中で彼は目に見えて判るほど、大人になっていった。
でも、あの最初のシーンの子供っぽさも、今思えばその生っちろい身体が妙になまめかしかった。

オスカーは、エリを今まで庇護してきたあの初老の紳士に代わって、これから彼女と共に生きていくのだろう。
あの初老の男性も、最初はこんなに幼かったのかもしれない。突然消えた彼を、神隠しにあったのだと思ったかもしれない。
ことにオスカーは、こんな凄惨な足跡を残し、ただ一人の目撃者の、あの弱々しい男の子が証言するだろうし……。
そしてオスカーもいつか、何十年後かに、エリによって幸福な最期を遂げるのかもしれないと思うと、今この、一瞬の対等な時間の、見た目だけは小さな恋のメロディのような初恋の甘酸っぱさが、苦く、でも幸福に心に落ちる。

またハリウッドでリメイクかよ……なんか、ただただ買いあさっている感じがして、ヤだなあ。
そんでもって、リメイクしてしまえば、この映画はアメリカで作ったんだって顔するんだもん。もとの、オリジナルのことなんて、尊重しないんだよね。
恐らく、それを見る観客、つまりアメリカ国民のほとんどが、元にオリジナルがあるなんてこと、知らないと思うもん。
ハリウッドリメイクが誇らしいみたいな風潮は絶対間違ってると思うんだけどなあ。 ★★★☆☆


ボックス!
2010年 125分 日本 カラー
監督:李闘士男 脚本:鈴木謙一
撮影:佐光朗 音楽:澤野弘之
出演:市原隼人 高良健吾 谷村美月 清水美沙 宝生舞 山崎真実 香椎由宇 筧利夫 諏訪雅士

2010/6/4/金 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
「ルーキーズ」ですっかり名を売った市原君なので、TBSお抱えの映画である本作はいかにも彼で客を引っ張るという感じだけど、しかしやはり高良くんなんである。
彼はほおんとに最近、人気俳優の主演映画の、その二番手にきっちりつける、という役どころが続いていて、そのオイシイ位置をキープしつつ、その一番手を食うというまでえげつないことはせず、しかし結果、観た人の心には、あの男の子良かったよね、誰?と思わせる印象をしっかと与えるという、実ぅーに営業活動の上手い仕事っぷりなんである。

本作はね、途中まではちょっと、彼の方がイケイケなんじゃないのというぐらいの物語展開だったから、市原ファンにドツかれるかも……などといらん心配なぞもしたのだが、しかしそこはやはり市原隼人ありきの映画。
市原君は男気をしっかと発揮し、何度も挫折しながらも、クライマックスではきちんと主演としてのカリスマ性を発揮して、乙女心のみならず、きっと男心もわしづかみにしたんであった。

しっかし、ほおんとにね、市原君を見る度、私同じことばかり繰り返し言っちゃうけど、あの「リリイ・シュシュのすべて」の繊細な男の子がねーって。
もうそんなこと言わなくても市原君は、日本中の誰もが知る、押しも押されもせぬ人気役者になったけれども、でもまさかこんなヤンキー風味に(爆)、もっといっちゃえばチンピラが似合うぐらいに(爆爆)、なるとは思わなかった。
まあ、男っぽくなったといえばそうなんだけど(確かにそれ自体、14歳の彼が強印象だったからオドロキだった!)ある意味こんな、昭和めいた(爆)男気キャラだとは……。

本作はね、高良君との男同士の友情物語、ってのが一番にあって、つまりは、萌えなのよ。だってさ、彼らには女の子との恋愛なんてことが範疇に入ってきてないんだもん。
てこと自体、なんか昭和だなあとも思うのだが、しかし意外にそんなオクテの男の子の方が、世の中には多いのかもしれない、とススんでいるティーンエイジャーを憂えるオバサンの私は希望的観測を持ってしまうんである。

一応ね、そういう匂いもなくはない。ボクシング部にキャピキャピと入部してくる、カブ君(市原君ね)のファンであるという女子マネージャーは彼に対してイケイケドンドン。
女子に免疫のない彼から「誰がお前みたいなブタとデートするか!」とヒッドイことを言われても「じゃあ、勝ったら動物園ね。ブーブー♪」とめげない。そして彼はそんなこと言われて、それに向けて結局はがんばっちゃう(笑)。
でも結局、照れ屋の彼は彼女とデートすることもなく、ていうか実は病弱だった彼女は入院してしまって、彼女のために勝とうとした試合で空回りして惨敗した彼は部を一度離れたりして。
そうこうしているうちに、実は重篤な病状だった彼女が死んでしまった、だなんて展開になる。

そもそもスポーツ部に入ってくる女子マネってだけでベタだし、しかもその紅一点が「生まれつき心臓が弱くて……生きる希望を失っていたんです」で、「でもカブ君に会って、生きる希望を取り戻した」でさ。
だけど死んじゃって、彼女のお母さんが「あの子が、もし私が死んだらカブ君を守る天使になる、て言っていたんです。だから彼に会えばあの子に会えるかと……」なんてところまで、もうベタもベタ、大ベタベタでさ!いつの少女マンガよ!って。
いや、いつの少女マンガっていうか、実は少年マンガかもしれない……こういうのを欲しているのは。
まあ今の時代だからレモンのハチミツ漬けまでは出ないが、しかし「ハチミツ入りグアバ茶」は出てくるではないか!
こうなるといわば確信犯的かなー。うーん、そんなに病弱な女の子って魅力なのかね??

てか、なんか思うままに書いてたけど、これがボクシング部の話だって私、書いたっけ?(爆)
そもそも市原君演じる鏑矢(カブ)と、高良君演じる木樽(ユウキ)がもともと幼なじみでさ、真面目で勉強がよく出来るけどイジめられっ子だったユウキを、カブがいつもかばってやっているという、そんな少年時代。でも二人の間では対等で、無二の親友だった。
いつでもオレが助けに行ってやるから!とカブは、ユウキが東京に転校することになった時言った。

そして高校生になり、大阪に戻ってきたユウキとカブは再会した。生真面目なユウキと、ケンカっぱやいカブ、お互い全然変わってないね、と肩を叩きあった。
カブはユウキをボクシング部に誘う。ボクシングは自分の人生を変えたんだと、だから一緒にやろうぜと。
カブのアツさに引きずられる形で入部したユウキだけれど、「さすが特進(特別進学コース)」と指導する沢木先生(筧利夫)が舌を巻くほど、ひとつひとつの練習メニューを逸脱することなく黙々とこなし、結果、着実に力をつけ、カブさえも圧倒するほどになるんである。

この「さすが特進」てのは、ちょっと笑っちゃった。沢木先生から「オレが合図したらジャブを繰り出せ」としか教わっていないユウキは「先生、ツーは習ってません」……ワン・ツーの、ツーを習っていない、と言うのだ。
四ヶ月もジャブだけをやっていたのか、とそのバカ正直さに「さすが特進」って言葉が出て、「ならば、ワン・ツーを教えます!」と敬礼せんばかりに、先生はキチンと練習メニューを宣言するのね。
感性でボクシングをモノにしたのがカブならば、生来のマジメさでモノにしたのがユウキ。双方ともに、ある種の天才であったと思われる。
後に沢木先生は「オレはメガネを変えなきゃいかん。ユウキの才能を見抜けなかったのと、カブがこれほどの男だと見抜けなかったこと」と吐露するんである。

これほどの男、ていうのは、自分こそが一番だと思っていたカブが、稲村に敗れて一旦ボクシングから離れるものの、女子マネが死んでしまったこともあって、色々考えて心を入れ替えるのね。
で、ユウキのために、彼が怪物高校生ボクサー、稲村に勝てるように、サウスポーの選手の型さえも身につけてユウキをサポートすることなんである。
それによってカブもまためきめきと力をあげていく……まあ、こうなると、最終的なクライマックスは結構ミエミエになるので(爆)この話は一旦おいとくとしても。

そう、おいとくとしても!やはりこの映画の最大の魅力は、異性との恋愛にはまだまだオクテのこの男子二人。つまり、まだまだヤローとつるんで遊んでいる方が楽しい男子二人が、その“ヤロー”はお互い同士しかいないという、これは恋愛以上の友情ではないかと思われるヤローども二人のじゃれあいの、萌え加減にあるのは否めない。
大体がさー、ユウキ役の高良君がネコっぷりを発揮していて、とにかくカブ君ありきなんだと。そのカブ君を倒せるんだとなった時も、そしてそのカブ君がすっかりチンピラになっちゃって、そんな彼を冷たく突き放す時でさえ、彼のことが好きだから、だから冷たくするんだ、というのがもう丸判りでさ、もうもう、ツンデレったらないのよねー!

一番好きだったのは、あの場面だな。いつもケンカとなるとカブ君に助けてもらっていたユウキが、ヤンキーたちに絡まれた時、ちょうどボクシングで自信を得始めていた頃だったから「ここは僕にやらせて」と手をあげるものの苦もなくやられちゃってさ(ケンカとボクシングは違うからねえ……)。
たまらず彼を助けに入ってヤンキーたちをボコボコにしたカブがさ、血だらけのユウキを抱いて、大丈夫だ、大丈夫だ、って言うの……もうザワザワザワーッ!て鳥肌が立つ程萌えたわー!!
なんか思わず「昭和残侠伝」の高倉健と池部良の、あの鼻血が出んばかりの名シーンを思い出しちゃったぐらいさあ!
もうだから、この場面から、私の中では、この映画は二人の萌え萌え映画とケテイしちゃったんである。そしてそれは、きっと間違ってなかったと思うのよね。

でもね、二人はほおんとに、ボクシングは本気で特訓したと思うよ!まあ映画だからカッティングで上手く逃げて、それなりのファイトシーンに見せることは出来てたと思うけど、顧問の高津先生(香椎由宇)がホームビデオで撮っていた映像とか、割とベタ撮りのシーンもあったし、それもそれなりに魅せていたもの。
二人の肉体も見事に作り上げられていたし、フットワークも繰り出す拳も、素人目から見ても、きっと相当トレーニングしたんだなと思わせた。
特に、ヤサ男のように見える高良君が、役柄上も、幼い頃から学業優秀、いじめられっこで、高校に入っても特進コースの学年トップクラスでさ。
その白い肌が美しい筋肉で盛り上がる、ふとTシャツを脱ぎ捨てたセクシーな背中には思わずゾクゾク!市原君でさえ、ヌードシーン(てほどじゃないけど)はなかったのに、かなりこれはサービスシーンじゃない??

そうなのよねー、結局は男子の物語。
一年生の頃から圧倒的な実力を持つカブは、三年間一度も勝てないまま来ている部長を歯がゆく思って、沢木先生に、防御ばかり教えて勝てる方法を教えないからだ!と吠える。それに対して部長が、オレが弱いからだ、とヘコむのね。
でも部長は最後の試合で惨敗はするんだけれど、勝ちたいがためのパンチを繰り出す。しかししたたかに試合を引き伸ばしていた稲村に苦もなくやられてしまう。
そこでカブが卑怯な試合展開に怒って会場で暴れ、全国大会への切符を逃がしてしまう……。カブにすまなく思う部長は、だけど最後に後悔のない試合が出来たことを「ありがとうな」と感謝する。

いやー、いやー……男子な世界だわ!実はさ、この年頃には男以上に上下関係にプライドを持つ女子ではあり得ない世界、なのよね!いや男子にしたって、これはかなりあり得ない世界なのだが……。
でも男子の、こういうのもアリかもしれないと思わせる純粋さは、やっぱり女子的には羨望と憧憬の的、なのよねー。
女子が男子に感じる“萌え”は、つまりこういうことなのだと思う。それはつまり、世間ずれしてしまっている女子にはもう手に入れられない、理想を追う男子の初々しさ。
男子が女子に感じる“萌え”との感覚の違いを思うと、なあんかそここそに男子と女子の溝を深く感じちゃう。

だってさ、それこそ女子マネの話に戻るけど、あんな女子マネ、あり得ないもん(爆)。まあそれを言っちゃえば、こんな男子二人の友情もあり得ねーよ、と男子側から言われるのかもしれないが。
市原君とは「神様のパズル」でもがっつり組んだのが記憶に新しい、谷村美月。あの時は、作品的には確かにかなり微妙だったにしても、少年のような中性的な魅力ながらも、やたら強調した生々しい胸の谷間に、どちらかといえばストイックなタイプの女優さんだった彼女が新境地を開いたかとも思ったけれど、本作ではメッチャ保守的になってしまった(爆)。
まあでも、このあり得ないほどの保守的が、いわば新境地の一つなのかもしれないけど。

でもさ、彼女、なんかほっぺたがかなりパツパツのような……とても病弱な女の子には見えない(爆)。うーん、うーん……まあ年頃ということもあるのかもしれないが……。
まあ、ね。やたらスレンダーをよしとする風潮は好きじゃないけれどもさ、でもあのほっぺたは不自然なほどのフクラミに見えたんだよなあ……。ヤバいよ、女の子はちょっと油断するとイッちゃうんだから!!

で、まあ、なんの話だっけ(爆)。彼女の死によってそれまでの自分の弱さに向き会ったカブは、ボクシング部に帰ってくる。
彼女のために稲村に勝とうとして負けちゃって、そして彼女も死んじゃって、つまりボコボコにヤラてた状態だったんだけど、帰ってくるのだ。
そして自分より強くなったユウキを、じゃああの稲村に勝たせようと、自らトレーナー役を買って出る。
稲村はね、もうカブは眼中になかったのだ。ユウキと闘いたいと思っていた。それゆえに、一度階級を変えてすれ違ってしまった。

ユウキを勝たせるために、自分が最初に当たって疲れさせてやる、とカブは同じフェザー級に出るものの、その思惑がかなわず、ユウキがいきなり稲村と当たってしまう。
そして……ボコボコにやられた。決勝に進んだカブは、ユウキの弔い合戦(死んでないけど)となったこの試合に全てをかける。
卒業後はプロになることが囁かれているスター選手、ご丁寧にもこれまたTBSお抱えの亀田興毅なんぞをゲストに迎えて盛り上げる。これはまさに、討ち死に試合かと思われたのだが……。

途中、試合もかなりクライマックスになって、一度時間軸をズラすのは、なあんかあざといかなあ、とも思ったんだよね。
もうカブがフラフラで、ダメかって思われたところでブラックアウトして、時間軸がぽん、と飛ぶ。そうすると、カブの実家のお好み焼き屋の開店何周年かの祝いで(この店ならこういうイベント、毎年やってそう……)社会人になったユウキが訪ねてくるのだ。
常連でにぎわったその店で、ユウキが大学までやっていたボクシングを社会人になったことを機にやめたこと、そしてカブも「続けていれば、カブちゃんならオリンピックの日本代表になれましたよ」というユウキの台詞から、カブもまたやめたこと、いまそのカブは「ハワイなんて暑いトコでお好み焼きもないよな」つまりつまり、ハワイに実家の二号店を出して、今はそっちに没頭、そこそこ繁盛しているらしいことが伝えられるんである。

そして、時間軸はまた戻る。かなりダメージを与えられたカブ、稲村はこのまま逃げ切れば勝てる試合だったのが「先生、ここからは好きにやらせてください」
カブ相手に、あのしたたかな栄養ドリンク(カブがつけたあだ名……栄養ドリンクのCMみたいにカッコつけてたからか)が本気になっちゃったんである。
そしてそして……ユウキの練習相手になるために稲村を研究していたカブは、いつもとは違う冷静さを持ち、あの怪物に勝ってしまった!

……まさに人生の絶頂。これを味わってしまうと、人は、特に男子は、ここから落ちて行ってしまうこともある訳だが……ここを頂点と割り切ってすっぱりと辞め、ハワイでお好み焼き屋を開くというエンドは、ある意味女子以上のしたたかさだったかもしれないなあ。
だけどツメが甘かったのは……その支店の名前は「マルブタ」“ブーブー”マネージャーが描いたブタのイラストがロゴとは、最後まで男子の純情貫きすぎだよなあ!

でもね、いいよいいよ!割と素直に楽しめたもん。
市原君はこんな男気イメージがあまりに固まっちゃって、これからどうすんのという気もしないでもないけどさあ(爆)。もうボーズから髪のばせないんじゃないのとか(爆爆)。

顧問には美人過ぎる香椎由宇、彼女とやたら二人っきりになる場面が多く「絶対勝ちます!」と宣言するユウキ=高良君のツーショットがやけに似合ってて、これは色っぽい展開になるか??と勝手に期待してしまった私は俗まみれ(爆)。

だって、香椎由宇が美人過ぎるからいけないのよねー!これは。ワルガキのカブにあしらわれて「……クソガキ……」とつぶやくシーンはふっと笑わせたりするけれども、でも超美人だから、単なる顧問ってだけじゃ、あまりにもったいないんだもん!
でも、結局単なる顧問で終わっちゃったけどさあ(爆)。でもやっぱりユウキは彼女が好きだったのか??そのあたりの掘り下げもなんかあいまい……。

本当の意味での顧問、つまり指導者の沢木を演じる筧さんは、え?筧さん??と判らなかった。ウェービーヘアに色眼鏡で、一瞬アベチャンかと思わせる作りだけど、いや、身長も低いし、何より足が尋常じゃなく短いと(爆)。
でも、良かったなあ。ボクサー時代に片目を失明したトラウマを抱えてさ、だからとにかく防御のボクシングを生徒たちに教えるんだけど、でもユウキやカブの熱意に押されて、彼もまた変わっていく。

でもね「オレはお前のまっすぐなボクシングが大好きだ。でもそれでは越えられない壁がある」
あの台詞は、怪物稲村を倒せないという意味だったと思ってたんだけど……でもカブは稲村を倒したし、実際はそういう意味ではなく、まさに彼はその先を見越していたのかもしれないと思う。
プロになるとかそういうんじゃなくって、その後はすっぱりとボクシングを止めて別の道に歩んでいく二人を見越していたのかもしれない、と思う。

まあ、なんだかんだ言って、かなり萌えたし!市原君が役者としてどういう方向に行き、高良君がどう成長するのか、とても楽しみ、ホントに。 ★★★☆☆


BOX 袴田事件 命とは
2010年 117分 日本 カラー
監督:高橋伴明 脚本:高橋伴明 夏井辰徳
撮影:林淳一郎 音楽:林祐介
出演:萩原聖人 新井浩文 葉月里緒奈 村野武範 保阪尚希 ダンカン 須賀貴匡 中村優子 雛形あきこ 大杉漣 國村隼 志村東吾 吉村実子 岸部一徳 塩見三省 石橋凌

2010/7/8/木 劇場(銀座シネパトス)
これを観るのはやっぱりちょっと、怖かった。映画作品としてより、この事件そのものに対する感慨を持ちそうな気がして。
いや、それこそがこの映画の目指すところだと思ったし、それでいいとも思ったけれど、とかく人の強い意見に流されがちな私は、なんかそれが罪悪のような気がしてしまっていた。

やはり、予想通り鳥肌が立ちまくりながら見終わり、袴田氏が釈放されるのをこの目で見たいと願いつつ、映画情報やらを漁っていると、ちょっと意外な監督の言葉を耳にした。
彼は裁判員制度という、素人が人を裁くことへの疑問を抱いて、この作品を通じて一石を投じたんだと。

意外に思った。いや、裁判員制度は、私だってちょっと単純で危険だなとは思ってる。ことにメディアが仕掛ける風や世論という名の催眠術に弱いシロートの人間たちが、本当に公平に人を裁けるのかと。

でもね、私、本作を作ったのはこの袴田氏が冤罪だと信じ、それなのに長い間閉じ込められていることへの憤りを強く作品に込めて作ったんだと思ってたんだよね。
無論、それもあるだろうと思う。何かキッカケなり出会いなりはあっただろうと思う。

でも、この事件だけのことじゃないのだ。ていうか、映画に示されている、袴田氏が無罪であるためのあらゆる矛盾や実験結果や証拠は、ちょっと調べればざらざらと情報が手に入る。
つまり映画をわざわざ作らずとも、この情報化社会の中では誰もが得ることが出来る、周知の事実と言っていいほどのものなんだよね。
だからこそ袴田事件、ああ、あの冤罪かもって言われてるアレね、と誰かに聞けばそんな風に即座に返ってくるぐらいのものでさ。

この作品で袴田氏以上にメインを張る、つまりは彼の視点からの主人公、袴田氏の死刑判決の主文を“書かざるを得なかった”当時の主任判事、熊本氏も、メディアに積極的に出て袴田氏の無罪を訴えていると言うし、ついこの間、国会議員の間で袴田氏を救う連盟が設立されたばかりだという。

つまりはそうした情報に疎い私が知らなかっただけで、作り手が、よし俺が立ち上がって世に知らしめよう!というほどの義侠心を持って作らなくても、充分に有名なことだったんだよね。

でも、それが私が知らないだけのことだったとしても、やっぱり映画、映像の力は圧倒的に、その“周知の事実”を、こんな理不尽なことが許されるのか、と即座に観客に思わせるだけの力を持っていることを思い知らされる。
この場合、一回こっきりのスペシャルドラマなんかよりも、やはりじわじわと浸透し、世界にも打って出られる映画こそが力があると思う。
今まで全くピンとこなかったけれども、死刑がいまだに存在する日本が、先進国の中でも唯一の人権後進国だと言われれば今は頷かざるを得ない。

ホントにね、全然、ピンと来ていなかったのだ。誰もが認める悪人であれば、死んで当然でしょ、みたいに思ってた。でも、誰もが認める悪人って、こんなに簡単にでっち上げられるものなんだよね。
特にこの情報化社会では、ちょっと悪知恵のある人がメディアに働きかければ、世の中の人全てが、あいつはとんでもない極悪人だ。物証がないって?そんなの状況証拠がこれだけそろっていれば十分じゃないか、殺してしまえ!と思ってしまうものなんだってことぐらい、うすうす判っていた筈なのに。

これが、私が生まれる前の、本当に昔の話だから、昔はこんな理不尽でテキトーなことが行われていたんだ、野蛮だなあ、と思うことも可能だったんだけど。
でも、ちょっと冤罪関係の情報をさらってみると、私にも充分記憶のある凄惨な事件、世間の人誰もが、逮捕された人が犯人だと疑わなかった事件。
あれだって、そういやあ改めて考えてみれば物証はひとつもなく、動機すら推測も出来ず、連日の演出過多のワイドショーが洪水のようにあふれかえり、その人となりをテレビのこちら側の人間である私たちが知りもしないのに、コイツが犯人に違いないと皆が思い込まされてしまったことに今更ながら気付いたりするのだ。

でも、それでも、いまだに私はその時のイメージが鮮烈過ぎて、冤罪かもしれないと言われても、うっそだー、アイツが犯人としか思えないよ、としか思えず……。
だから、まだまだそれほどメディア報道が過熱ではなかったとはいえ、報道による世間の目が全て、犯人に違いないと断定されてしまった袴田氏が、冤罪なんだという“イメージ”だけでも勝ち取るためには、40年近い歳月が必要なのは、確かに……頷けることなのだよね。

死刑制度が他の先進国から人権侵害だと言われることに、それこそ内政干渉だぐらいに思ってたんだけどさ、でも冷静な視点からひとつの事件を描いていく“だけ”の、こんな物語を見てしまうだけで、そんな口を閉ざさざるを得なくなる。
なんかね、日本人が死刑制度に寛容なのは、罪人は死罪か島送りで平和な日々が戻ってきてオッケーみたいな、時代劇でフツーに描かれる勧善懲悪が、文化としてビッチリ根付いちゃっているからのような気がするんだよなあ。

そしてその時代劇の世界、つまり昔は、悪人を吐かせるためには拷問も当たり前で、拷問道具が時代劇の“文化”として、今も皆がフツーに知っているぐらいでさ。
まさか自分が、しかも覚えのないことでそんな目に遭うなんていう想像が出来てないと、この勧善懲悪にこそ皆が爽快感を覚えてしまう“文化”が日本には否定しがたく残ってしまっているんだもの。
むしろ、悪人を拷問の末、参りましたと吐かせることにさえ、爽快感を覚えているぐらいで。

本作の、閉ざされた中での、長時間、長期間にわたる、恫喝、暴力、何でもアリの末に容疑者に自白させる、というか、こっちが期待する答えを誘導尋問、いや、催眠術まがいに引き出す場面は、実は映像作品としてはそんなに目新しいものじゃ、ないんだよね。
冤罪をテーマにした映像作品は勿論これが初めてじゃないし、こんな場面を私たちは結構見た覚えがあるんだけど……それでもどこかでピンと来てなかったのは、やはり画一発のインパクトだけで終わっていたからだと思う。

本作は、膨大な資料から得られた事実を元に、画自体は一発だけれど、データを子守唄のように聞かせながら、粛々と描いてゆく。
調書を調べる判事である熊本氏が、この日は17時間23分、この日は20時間……と、ページをめくってゆく。絶え間ない恫喝と暴力が、20数日にも渡って行われた様が、データと映像によって、しかし冷静に綴られてゆく。

……映像だけを過信するものだったら、こんなに身震いはしなかったと思う。勿論、残されたデータだけでも袴田氏が自白を強要されたと誰もが思う筈なのに、字面はやっぱりなかなか……多くの人に訴えかけるだけの力がこんなにもないのか、と思う。
私みたいなバカは、この職人技の手法、映像だけでもなく、字面だけでもない、このリアリティ溢れる畳みかける手法でようやく、なんて理不尽なんだ!とようやく思えたんだもの。

本当にね、こんなにまるで物証がなくって、状況証拠だけで、つまり犯人を決め打ちしてしまうことがあり得るんだ、と思う。
本当に、物証なんてまるでない。証拠がなければ自白を強要されたって、無実が証明されるとノンキに考えている泰平な私たちを打ちのめしてしまう。
実際、そんな誘導尋問もなされる。ここではとりあえずやったと言っとけ。裁判でやってないと言えばいいんだからと。
……警察だって、こんなことがなければそれなりに正義の味方だと信じていられた。それがダメなだけで打ちひしがれたけれど、司法の場こそは何からも切り離されて公正な裁判をしてくれると、うちらだって信じているんじゃないのか。

そうなんだよね、物証がない、状況証拠も動悸すら推測も出来ないのに、メディアの操作による世論のいっせいの傾きによって、死刑にまでなってしまった先述の、記憶に残る事件があったから、それを思い出しちゃったら、確かにこれって……もんのすごい、説得力があるんだよな。
色々調べている中でも出てこなかったけれど、劇中で、主任判事である熊本氏以外の、あと二人の判事が私的に結びついていて、しかもその年若い方が「国立出だからって」みたいに熊本氏に対して敵意と蔑みをあらわにしててさ。

正しいことを判断するなんてことより、警察や検察や、それらが報道機関まで巻き込んで導いた世論の方を優先して、ていうか、それほどまでに考えていたのかどうか……難しい言葉をこね繰り回すのはお手の物で、それで、死刑に値する、なんてしちゃってさ。
まあ後半部分は私程度のバカな人間が単純に怒っちゃってるって感じだけど(爆)、でも、そんな、プロである筈の裁判官同士が、こんな私的な、昼メロみたいなしがらみを重視して、一人の人間をアッサり死刑に追いやるなんてこと、本当にあったんだろうか??

あったんだろうな……まさかそんなところを安易にフィクションにするとも思えない。
全てが実名での、ドキュメンタリーもかくやというほどの覚悟を持った作品で、こんな安っぽいところでドラマを作るとも思えない。
それこそ熊本氏の著書とかで明らかなのかもしれないが、未読なのですいません(爆)。
でも本当に、本当にそうだとしたら、こんなことって、こんなことって。
それこそね、この二人の判事が有罪に手をあげて、つまり多数決なんていう子供じみた結論で袴田氏の死刑が決まってしまう場面、でもそれこそ……全会一致でなければいけないのに、多数決で決まったことは確かな事実なんだもの。人権後進国と言われても仕方ないではないか。

深い失意を抱いて裁判官を辞めた熊本氏はその後、袴田氏の無実を証明するための実験を日夜繰り返しては、彼の担当弁護士に匿名で送る日々が続く。
袴田氏の弁護士は当初おざなりにつけられたに過ぎず、それこそが彼を簡単に死刑に追いやった原因でもあるのだけれど、何人目の弁護士か、塩見さん演じる弁護士は重要な証拠を送ってくれたのが熊本氏だと見抜き、感謝するとともに今後の手助けを請う。
物語はここで終わっており、その後は熊本氏の苦悩の心理描写に移っていく。その後はというより、全編そうなのだけれどね。

でね、ちょっと話が戻るけど……この作品を見るのが怖かった、っていうことね。私はこういう題材、しかも冤罪“ではないか”という状況で、結論が出ていない作品を、全て実名とはいえ、ドキュメンタリーというあり方ではなく、劇映画にするのはどうなんだろう……と思ったんだよね。
私は単純な映画ファンだし、どんなテーマであれ、劇映画ならばエンタテインメントを期待して観に行く。エンタメっていうのは別に冒険や恋愛や、時にホラーやスリラーなどもそうだと思うけど、そんな、判りやすい娯楽映画にだけ特化するもんじゃないんだということを、判っていたつもりだったのに、今更ながら、思い知ったんだよね。

誤解を恐れずに言えば、本作は見事にエンタテインメントとして成り立っている。それは、この理不尽な現実がエンタメになるほどに、つまり虚構性があるからこそエンタメになり得ているという皮肉もあるけれども、だからこそ素晴らしいのだよね。
高橋監督は、映画監督なんだもの。映画の作り手なんだもの。私は、高橋監督の「火火」に衝撃を受けて、骨髄バンクに登録しちゃったぐらい、彼の人を動かす力にすんごい自覚と畏怖があったからこそ本作を観るのが怖かったんだけれど、実際ヤラれちゃったんだけど、彼の映画クリエイターとしての揺るぎなさにも改めて感服してしまったんだもの。

押収された袴田氏のパジャマの胸もとに付着した、ほんのかすった程度の血のしみ、しかもそれは消火活動中に指にケガをしたからってことは、フツーにその状態を見れば明らかなのに、次の日新聞には「血染めのパジャマ押収」と大々的な見出しが躍る。

そして、事件から一年も経って、袴田氏が働いていた味噌工場の味噌樽から発見された、これは逆にワザとらしいまで血液のしみが大きい5点の衣類が、ズボンから浸透した筈の血液の型とブリーフのそれが違ったり、もう明らかに捏造アリアリな事実が証明されているのに!
しかもしかも、一年前の大捜索には発見されず、なぜかあらたに味噌を仕込んだ中から発見され、しかもしかも、一年味噌漬になったという状態では明らかになくて、更に決定的なことには、そのズボンを袴田氏は小さくってはけなくて、それなのにそれなのに「味噌で縮んだからだ」「あるいは、袴田が獄中で太ったからだ」なんて……事件当時彼がはいていたズボンはフツーにはけてるのに、後者はないじゃん。

いやー……逆にここまでくると、良く出来た犯罪ミステリの謎解きぐらいな程だよなと思ってしまう。
そうなの、エンタメになっちゃってるんだよね、見事に。理不尽だ、理不尽だ、と鳥肌を立てまくりながら、憤りながら観ているのに、この見事なエンタメにすっかり引き込まれている。
つまりそう見せるだけ作り手が冷静なんだよね。こんな事実があるのに、彼が犯人な訳ないでしょう!という肩に力が入った感じがない。憎たらしいぐらいない。
冷静にエンタメに徹して、しっかり観客をとりこにしながら、こんなに考えさせちゃうんだもん。

ここまで言ってきて、役者のことに一切触れてなかったってことが、いかに作品力に持ってかれちゃったってことを示してるかも(爆)。
当然、主人公の熊本氏を演じる萩原聖人、袴田氏を演じる新井浩文はそれぞれ素晴らしい。新井浩文は、その不器用で一見コワイ感じが、つまり一見して人々のイメージを固定してしまう、カンタンに誤解されてしまう感じが失礼ながらもピッタリでさ(爆)。

彼は、尊敬する永瀬正敏や浅野忠信が影響を受けた相米監督とは、もう仕事をすることが出来ないんだったら、ならば、ベテランの、カリスマの監督と仕事をするチャンスを逃がしたくない、と語ってた。まさにこの作品はそういう現場だった。
役者じゃない素人でも、映画ファンならば、彼の言うことって切実に判るなあ、と思う。実際、彼のこの役は、役者人生の中でもエポックメイキングであり、ひとつの転機にさえなったと思う。

それは熊本氏を演じた萩原氏にしてもそうでさ。彼は高橋監督とは非常に印象強烈だった「光の雨」で仕事をしてるけど、あれも相当凄かったけど、本作は……本当に本当に、大きな意味を持ったと思う。
新井浩文とは結構年が違うけれど、それぞれに軸になる年齢をずらして、見事に同じ年の、なのにこんなに人生が違い、なのに運命がガツンとぶつかり合う人物を二人見事に見事に演じてて……本当に鳥肌が立った。

冒頭ね、それぞれが生まれる場面と、そして上京する時に列車で隣同士になる場面がモノクロで提示されててさ、特に上京場面なんて明らかにフィクションなんだけど、でもあり得ないかと言われれば、100パーセントそうだとは言えないんだもの。
だってこの映画自体が、どれほど真実を元にして真摯に作られていたって、役者が演じる劇映画という体裁を崩していないんだもの。
さすが、だと思う。哀しいことだけれど、真実だと信じて声高に叫ぶだけでは、人は冷ややかな目を向けるだけなのだ。ヤクザか右翼か、金儲けの手段か、そんな目で見るだけなのだ。私も含めて……そうなのだ。

そこには、手段がなくてはならない。どんなしたたかで、汚くても、確実に届く手段がなくてはならない。
劇中、袴田氏を拷問の上に自白させた刑事、私利私欲を優先して“疑わしきを罰した”判事、それらにも息を飲むほどの錚々たる名優たちが配置されている。
彼らは監督のそんな意向をしっかと組んだからこそ、普通に考えれば二番手三番手が名を売るために演じてもおかしくないような役を誇りを持って引き受け、演じきった。
エンタメ、なのだ。その仕事をするのが監督であり役者であり、そしてその先には、エンタメの先には、それ以上の何かがあると、自分たちの力を信じているからこそ、出来ることなんだよね。

もうひとつ、本作に大きく共鳴したのは、袴田氏が私の父親とそう変わらない年であることだった。ということは、彼が「チャンは決して人殺しではない」と愛情溢れる手紙をしたためた(もちろん実際の手紙……)一人息子は、私と同じぐらいの年齢かもしれないんだもの。
もし、私の父親がそうなったら、そんな父親を持っていたら、考えざるを得ないではないか。遠い、昔々の物語だと思っていたのが、一気に近寄ってきて、ゾッとする気持ちがこみあげた。

私が生きている、それなりに幸せに生きている、私の“人生”の間、好きなことや嫌いなことや、好きな人や嫌いな人や、死ぬぐらいの悩みや苦しみも経験したと思っていたのに。
その生やさしい“人生”の間、ずっとずっと、狭い狭い空間に閉ざされ、ドアの外の死刑執行を継げる足音に毎日怯え続け、ついには精神をおかしくしてしまう父親かもしれない人……そう考えたら、たまらなかった。

全く同じ時期に同じくボクシングで、BOXというタイトルが刻まれたスター作品があったから、どうなのと思ったけれど、今やそんな偶然さえも、いい意味での強烈な対照になったとさえ思う。
そう、袴田氏は、「あいつはボクサー崩れだから」という、なんだその理由?という、あまりに理不尽な一点で疑われ、逮捕され、自白させられ、死刑を言い渡された。

しかも、もしかしたら一番問題だったのは、理不尽にしか見えない刑事たちもまた、悪人を自分たちが落とすんだという、揺るぎない“正義感”に突き動かされていたかもしれない、ということなのだ。 故意に無実の人物を陥れたという自覚があったのかどうかさえ……、卑怯な手でさえ、世間から悪人を駆逐する正義なのだと、本当に思っていたんじゃないかということこそが問題なのだ。
私利私欲がハッキリ示されていたのは、司法の側だった。熊本氏が自ら吐露したことが原作だから当然といえば当然だけれど……刑事側のそんなヤッカイな正義感がもしあったならば、それを正さなければ、決して前には勧めない。

袴田氏が、その足で、拘置所から、拍手の渦に囲まれて出てくる姿を、どうしても、どうしても、見たいと思う。見れるよね、と思う。★★★★★


ボローニャの夕暮れ/IL PAPA DI GIOVANNA
2008年 104分 イタリア カラー
監督:プピ・アヴァティ 脚本:プピ・アヴァティ アントニオ・アヴァティ
撮影:パスクァーレ・ラキーニ 音楽:リズ・オルトラーニ
出演:シルヴィオ・オルランド/フランチェスカ・ネリ/エッジオ・グレッジオ/アルバ・ロルヴァケル

2010/7/13/火 劇場(渋谷ユーロスペース)
ギャーッ!久々にやっちまったーあ(涙)。電車で乗り過ごして、必死に走ったが冒頭のオープニングクレジットの途中で入場(涙涙)。
キャストクレジットが流れる中でヒロイン、ジョヴァンナのモノローグが流れていて、焦って足元つんのめりながら見ていた画面で彼女は、こんな両親のもとで私はボーイフレンドもないまま育った……的につぶやいていた。

そんなネガティブな色そのままに物語は突入し、教師である父親のミケーレは落第学生にこのままでは進級させられないと話す一方で、娘が彼に好意を持っていることをほのめかす。
決して娘と付き合ってやったら進級させるとか、直截なことを言うわけじゃない。ただ「君の努力次第だ」とほのめかすだけなんだけど、一方で娘にもアプローチするように尻を叩いたらしく、このひっこみじあんなジョヴァンナと落第生だけどイケメンで人気のある彼は付き合うようになった。
……と、ジョヴァンナの父親も思っていたけれど、これが悲劇の始まりだったんである。

あのね、実は予告編の時から妙な違和感を感じてたんだよね。それは、この娘ベッタリの父親がこんな卑怯な手を使うのも、それに母親がおかんむりなのも、まるでほのぼのとしたホームドラマみたいに見せていたから。
いや、これが本当にほのぼのとしたホームドラマなんだったらいいんだけど、予告編で既に、それでカン違いしてしまったジョヴァンナが逆恨みして、彼と本当に付き合っていた友人の女子生徒を殺してしまったことが示唆され、予告編の中で既に暗い色合いに彩られているんだもの。

一体この作品はどっちに重きを置いているの?と思った。そして実際に作品を観てみると……重きどころかコミカルな要素などひとつもない、もう全編、暗かった。
ジョヴァンナの“繊細で優しい子”という父親の評が、甘々な彼にしてもどこか奥歯にものが挟まったような言い方だという印象は間違っていなくって、彼女のことを赤ちゃんの頃から見てきた、隣の部屋に住む老警察官が「あの子は問題を抱えている。そうだろう?」と言えば、ミケーレは黙ってうつむくしかないのだ。

ジョヴァンナは、今の時代で言えば相応の診断が下されるであろう、先天的な精神(というか、知的というか)疾患を持っていたと思われるんである。彼女が殺人を犯したその理由が、ただただ自分を被害者だと主張し、他人に責任転嫁することしか考えていない、と、彼女の近しい者でさえ認めざるを得なくなってきて、彼女自身も傍目から見ても目に見えて狂気に陥っていくんである。

なのに、宣伝展開はひたすら、温かなヒューマンドラマの様相を外さないままなんだよね。それがとても混乱した。私がこのスクリーンから受けている印象は、その受け取り方は間違っているんだろうか?って。
“平凡な家族から人間の機微を救い上げた、愛と優しさの物語”?“市井の家族の愛憎を通して、人の弱さやいとおしさを描き出す上質な人間ドラマ”?“私たちを限りなく温かな気持ちで満たしてくれる”??

そりゃ、そうじゃない、と言い切ることは出来ないけど、そんな使い古された、曖昧で生ぬるい宣伝文句で本作を解説するって、どうなの?
だってひたすら重苦しい、華やかさが失われた時代のあせたセピア色で描き続けるのひとつとったって、宣材の解説では“色香漂う映像。セピア色の甘美な郷愁”なんだもん。違うよ、違うよなー!!

だってこれって、時代が時代、第二次世界大戦、しかもイタリアが舞台でファシスト政権に翻弄されて、時代の強い人につこうと民衆が右往左往してさ、物語の最後には、悩みながらもファシストを支持し続けた民衆がそれだけで戦犯扱いされてあっけなく銃殺されてしまうなんていう、目も覆う凄惨な場面も生々しく描写されるんである。
しかもそれが、ミケーレたち一家を、ジョヴァンナの事件が明るみに出た後も何くれと世話してくれた老警察官でさ。

私はね、観ている時にはこの老警察官がミケーレの美しい妻と心を通わせているなんてぜんっぜん気付かなかった(爆)。
それこそ解説を読むと(私、解説気にし過ぎ……)そんなの一見して判るだろ、ぐらいに書かれてるんだけれど(こういうの、結構傷つく……)観てる時には母親のデリアが娘を心配しながらも、どちらかというと「私がそんなヒドい母親と見られるじゃない」みたいな、距離感があって、それに彼女自身も気付いてて苦悩しているみたいな、そんな家族間の問題の方こそを強く感じていたからさ。

だからむしろ……娘が“普通ではない”ことを、客観的に早くから気付いていたのはむしろ母親のデリアの方で、ミケーレは心の奥底では判っていながらも、娘を溺愛するが故に、“引っ込みじあんだけれど、繊細で優しくて、特別な子”とひたすらポジティブに受け止めていた。
ただ……“特別な子”っていう意識は、そこに込められたものは、やはり彼が、判っていたって証拠だったんじゃないかって思う。

私が飛び込んだ時に、ジョヴァンナのモノローグから始まったことが、ずっと気になりながら、ラストも彼女のモノローグだったから、やはり彼女の思い一つが映画を左右していたんだなと思いつつも、ただ観ている時にひたすら気になっていた、彼女自身は自分の疾患に気づいていたんだろうか?という点については、恐らく否であろうと思った。
のは、気付いていたのならば、あそこまでまっすぐに狂えはしないだろうから……。彼女の犯した殺人はあまりに愚かで哀しすぎるけれども、なんか、判らないでもない気がしちゃったからさ……。

それは、ここまでハッキリ疾患を持っていると規定しなくても、学生時代、特に女子が、社交的で人気者か、内気で地味めか、ある程度どちらかに分類されてしまうことから……私は決定的に後者だったから、判る気が、しちゃうんだよなあ。
ことに、ジョヴァンナが殺してしまった“親友”のマルチェッラが、彼女の母親が言うに「マルチェッラは優しい子で、弱者や孤独者を放っておけなかった」と涙ながらに証言する段に至っては正直、ケッと思っちゃうわけよね(爆)。
そういう哀れみが、“弱者や孤独者”にとって一番残酷だってことが判らないのかと。しかも親友のような顔をしてジョヴァンナに接していたんでしょう?と。

いや……親友、というくだりは、ジョヴァンナがそう思い込んでいたんだろうな。彼に対しても、マルチェッラから進級のダシにさせられていたという真実を告げられても、彼は私を愛していた、私に嫉妬したマルチェッラに誘惑されて仕方なしに言うことを聞いていたんだ、とあの涙をためた思いっきり思い込んでいる瞳で父親に訴えていたんだもんなあ。

でもね、弱者に優しい顔を見せて、学内でも人気を誇る美少女学生、マルチェッラをジョヴァンナのような子が手にかけたっていうのは、なんか気持ちが判っちゃって、私なんかは胸が痛いのよ。
まあ、それこそジョヴァンナほどに“純粋”じゃない私は、自分の身を守るために、そんなスター学生に対する愛憎を胸に封じ込めて、他に散らす努力をして今に至る訳だけど……でもなんか、判っちゃうんだもん。
そして、ジョヴァンナの母親は、マルチェッラのような位置にいる華やかな人だから、ジョヴァンナの気持ちが判らなかったんだろう、なあ……。

それは後に母親が回想する、今から思えばあの子はヘンだった……てなエピソード(この設定自体、キツいが)。
母親が夫と娘の前で、彼らの存在をスッカリ忘れて華やかなパーティーに夢中になって、次々とパートナーを替えて踊る。見かねた父親がジョヴァンナの手をとって踊り出すもすぐに気まずくなって席に戻り、ジョヴァンナが突然床に倒れ、足をバタバタさせるという……。
これを母親は“発作”と表現するけれども、私がこの立場にいたら、ここまで出来ないけれど、出来るもんならしたいだろうなと思ったよ。だから……ジョヴァンナは私なんだという気持ちを強く持ちながらみていた、のだ。

でも勿論、だからこそ、見ていてキツかった。私なら奥底にしまっているだろう気持ちをジョヴァンナはどんどん出してくるから。
いや、ジョヴァンナだって、今まではしまい続けていたであろう気持ち。それが、タガが外れて“親友”を手にかけてしまい、それだって、誘惑女から愛しい彼を救ったぐらいに思ってた。
なのに裁判の証言で彼は自分を避けた。最後に会えるかもしれない場面で、父親の計らいもあって、思い出のドレスにキレイに化粧して(このあたりがほおんとベタベタな父親なのだよね……)法廷に臨んだのに。

精神鑑定がクロと出て重刑は免れ、精神病院への収監になったジョヴァンナに、母親は一向に会いに来ないし、見るからにオカシな入院患者と暮らす中で、それでなくてもかなりの思い込み系でどんどん目がヤバくなってきていたジョヴァンナ。黒の手袋がなければ何も出来ないとか、その穴だらけの手袋をはめて汚い他人のあだ名を吐きながら子供のようにはしゃいだりする。
父親のミケーレは病院の広場と道路の間の金網を隔てて、そんな娘の様子を見に足しげく通う。もちろん学校は辞めなければいけなくなったし、戦火も激しくなって、娘の暮らす病院に通えなくなることを恐れて、ミケーレはそれまで暮らしていたアパートメントに妻だけを残して家を出た。妻が親友の警察官と心を通わせているのを知っていたから……。

というのも、私にとっては唐突だったんだけど(爆)。いや、確かに彼は常にミケーレ一家に親切だったけれど、ミケーレへの親友としての思いだと思っていたのになあ(爆)。私、超ドンカン??(爆爆)。
しかも彼にだって、彼同様にミケーレ一家に同情して、何くれと世話を焼いてくれるカワイイ奥さん(?それにしては若かったような……ひょっとして娘?)がいたのにさあ。
でも彼女はこの戦争で、都市への爆撃に巻き込まれて死んでしまう。それゆえにミケーレは妻をよろしくと言ったんだろうけれど……。

でもその後、戦火はさらに激しくなり、ミケーレの妻、デリアもまた行方不明になってしまう。デリアの目の前で、この警察官がファシスト支持者だと断罪され連行される場面が描かれ、彼は必死に逃走するも、右胸を貫いた銃弾が致命傷となって、路面電車の中で息絶えてしまう。
……こういう部分こそ、こういう場面こそ、監督が描きたかったことなんだろうと思う。ジョヴァンナと、彼女が起こした事件のセンセーショナルさの、いわば個人的なそれと、一気に何千人もの命を奪ってしまう戦火のそれと。

しかしそれらは、……決してジョヴァンナのそれが軽いというものじゃないのだ。偏ったジョヴァンナに対してこれほどまでに厳しい目を向けて断罪したのは、それを戦争に重ね合わせたこともあったんじゃないかと、思った。
そんな描き方はすんごく危険だけれど……だってジョヴァンナはつまりは、障害者なんだから……。
でもね、つまり、戦争を起こした権力者たちもそうなんだ、ぐらいの主張を感じたんだよね。つまり、それぐらい自分勝手だし、そうして他人を巻き込んでしまうって。

それはこの生ぬるい日本ではとうていここまで厳しい主張は出来ないと思うけれど……。でもね、それは誰もが持っているもので、そしてそれ自体がいけないことではないことは、ようやくそれなりに余裕を持った世界でなら判ってきたことじゃない?
それ自体を個性と尊重出来たり、あるいはそれが負けるもんかの気持ちを煽って成長できたり、それこそが健康的な世界なんだけれど、そんな世界がこれほど“奇跡”であることこそが、人間の愚かさだってことなんじゃないの??

だからこそ、リスクを承知でこうした物語も描けるのだろうし……。ジョヴァンナが、犯罪を犯したからこそ戦火を逃れて、彼女を忌み嫌った人々が犠牲になった街に戻ってきたという描写は確かに皮肉かもしれない。
……そう、確かに皮肉、なのだ。憎まれっ子、世に憚る、かもしれないのだ。でも、とにかく生き抜かなきゃいけないのは、それだけは本当なのだ。
私はね……同じく“生き抜いた”マルチェッラの母親に、ジョヴァンナが何を話そうとしていたのか、それがとても興味があった。聞きたいと思った。

止める父親を振り切って、自分ひとりで話がしたいとジョヴァンナは言って相対したけれど、案の定、彼女は門前払いをくらった。
ジョヴァンナが「聞いてくれなかった。私の話を聞いてくれなかった……」と父親につぶやき続けるのが強く印象に残るんだよね。
だってさ、いわばジョヴァンナが裁判の時までにはひたすら主張していた、愛しい彼のためにあの女を成敗したんだ、という論理は、ここまでにひたすら繰り返されていた訳じゃない?でも、その上で改めて話がしたいっていうのがね、それ以上の何かを抱えているのか、何かを超越したのかな、と思って……。

退院してきたジョヴァンナは、正直、そこまで進んだ狂気をそのままはらんでいる感じで、それをかろうじて押さえ込んでいたであろう学生時代とはやっぱり全然違うんだけれど、なんか逆にそれが……彼女が今こそ本来の自分でいられているんだなあという気がしたのだ。
そしてそれを、彼女を含めて弱い人間たちを全て否定したファシストに弾圧されたこの地が、戦争を終え、受け入れられる体制に出来つつあるという含みならばいいんだけれども……。

ラスト、父親と映画を観に行ったジョヴァンナは、美しく着飾った母親をいち早く見つける。父親は、ジョヴァンナの目から遠ざけようとするけれども、彼女の目は釘付けである。
ずっとずっと、一度も面会に来なかった母親。出口で声をかけたジョヴァンナに母親は薄く笑みを浮かべる。ジョヴァンナも父親も笑みを浮かべる。

……正直、ジョヴァンナのラストのモノローグ、三人また一緒に暮らすようになった。長年離れていた母親との関係を築きなおすのは大変だったが、大丈夫だった、などというつぶやきは、そのまますんなりと受け入れるのは難しいものを感じもするのだけれど……。
でもこれが新時代の幕開けと考えればいいのだろうか。弱い者が排斥されていった時代の終焉と考えていいのだろうか。

いやそれは……やはり、あまりに楽観的にすぎると思うのは、ジョヴァンナが起こしたような事件が、今の日本にも頻発しているから。
そしてそれはジョヴァンナのように、わざわざ“疾患がある”と規定しなくてもそうなのだ。もしかしたら私も……と。
戦争をからめて壮大なドラマに仕立て、宣伝がヒューマンチックに彩ったとしても、これってそれほど、あっさりと解決できる問題とは、やっぱりとても思えないんである。

ジョヴァンナを演じるアルバ・ロルヴァケルの重苦しい演技が凄い。それは決して解説で言うような“瑞々しく表現”などではない(私もしつこいが)。
彼女が、両親や友人や、“心優しく見守っている隣人”にさえ、私のことを本当に判ってないくせに、という思いがじわじわと伝わるからこそ、これは決してヒューマンドラマでもないし、単なる戦中ドラマでもなくなった。
あの、思いつめた涙目に、これはひょっとしなくても私だと、思ってしまったから。★★★☆☆


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