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「さ」


2013年鑑賞作品

桜並木の満開の下に
2012年 119分 日本 カラー
監督:舩橋淳 脚本:舩橋淳 村越繁
撮影:古屋幸一 音楽:ヤニック・ドゥズインスキー
出演:臼田あさ美 三浦貴大 高橋洋 松本まりか 三浦力 小澤雄志 鄭龍進 張天翔 林田麻里 石垣光代 柳憂怜 諏訪太朗


2013/4/26/金 劇場(テアトル新宿)
ベルリンに連続招待される実力派監督さんという触れ込みだが、私は今回が初見。
精緻な画作りと緊張感のある構成に、確かに力を感じる、けれど、ところどころになんとなくツメの甘さを感じるような気がする、のは、うーん、そんな気がするだけかな、などとついつい、実力を認められた才能には弱気になってしまう私(爆)。

まあところどころそう思った、あたりは、おいおい、そのつど述べていくことにして……。
震災後の日立市の物語、というのは、特に震災後だからどうという感じでもないけれど、舞台となる小さな町工場の社長が「もう震災を言い訳には出来ないぞ」という台詞や、しかしその後不況の窮地に追い込まれるあたりは、まあそうなのかなあ。
でもやはり、震災がどうこうというのはない、よね。なくても別にいいんだけど、わざわざ解説で“震災後の日立市”なんて言い方をしてるから……。

主人公は二人。二人と言っていいよね。臼田あさ美主演と言ってもいいかもしれないけど、感覚としては彼女と三浦貴大両主演、といった趣である。
あさ美ちゃん扮する栞(しおり)は新婚早々、最愛の夫を不慮の事故で亡くしてしまう。
その事故を起こした、というか、起こしたというには気の毒というか、情状酌量の余地タップリなのはちょっとズルい気もするが、まあとにかくその“加害者”が貴大君演じる工(たくみ)である。
眉根を寄せた生真面目な風情が、純粋まっすぐ一本やりの工にピッタリである。

工が登場するのは、割と中盤になってからなんだよね。つまりひとつの盛り上がり、栞の夫の研次が死んでしまってからである。
栞側の親は既に亡く、夫の親からは結婚を賛成されていなかった二人。研次の開発した技術が大手の取引先に認められ、大きな受注が入った。
「これで給料もあがる。そしたら子供かな」「子供が出来れば、認めてもらえるかな」そんな会話を交わし、早速とばかりに持ち家を購入した矢先の出来事なんであった。

なんで彼の親に結婚を認められてなかったのか。栞に親がいないから、などという訳でもなかろうし(それに、小さな頃から親なしという訳でもない感じがするし)、彼女に何か特別の欠陥がある訳でもなく、反対されている、というのがピンとこない。
ピンとこないな、と思っているうちに研次があっという間に死んじゃうんで、ええっ、と思ってしまう。
後に研次の親から、姻戚関係をなくす書類を送りつけられ、つまり、言ってしまえば栞はそれによって自由の身になり、タブーを犯すことへの枷もなくなったと言えるのだから、そのための単純な設定のようにも思っちゃう。栞の姉が憤るほどには、ヒドい親たちだとか単純に思えないんである。

研次が死んでしまったのは、取引先の作業場に違法状態に積み上げられたドラム缶を、重機を扱っていた工が崩してしまったからだった。
後にその事故現場を訪れた栞に、作業員が近づいてきて、「上に何度言っても何にもしてくれなかった。いつか崩れると思っていた。俺がやってしまったかもしれない」と言い、だから、花を手向けに訪れ続けるあのあんちゃんが気の毒だ、と付け加える。
……というのは大分後になってからの話なんで大分すっ飛ばしちゃったけれど、まあこんな具合に、情状酌量タップリなんである。

でね、研次の葬儀の時に「事故を起こしたのは彼の同僚らしいよ」とささやかれ、え?あの町工場に貴大君、いたっけなと思ったら、「ずっと出向していた」という。
そんでこの事故を契機に、つまり「ワイヤーカットを出来る人間がいないから」ということで町工場に帰ってくるんだけれど、栞は勿論、同僚たちの誰もが彼のことを知らない。
そこそこ若いし、どうもこの設定に違和感を感じてしまう。優秀な技術者を“殺して”おいて、“出向から帰って”きて、ノウノウと働いている恥知らずな男、というキャラを作りたかっただけのように思えちゃう。

だってさ、後々明らかにされるんだけど、工は研次がこの工場に連れてきた“腕の立つ男”であり、社長によると、「研次と工とオレの三人で、この工場を大きくすると約束した」というまでの人物な訳でしょ。
しかもその約束を工は忘れていなくて、ていうか大事に思っていたからこそ、針の筵状態でもこの工場に帰ってきて、執拗な嫌がらせにもふんばって耐えていた訳でしょ。
それほどまでの人物を、従業員が全く知らないことも解せないし、何より栞が、研次の奥さんである栞が、夫から全く何にも聞いていないってことが、なんとも納得できないんだよなあ……。

工が出向していた、この工場と長いこと付き合いのあった大手の会社から、研次の死により取引を切られて、窮地に陥る。
研次を“殺した”ことで従業員の目は冷たい……ていうか、冷たいのは二人だけ。冷たいつーか、自分のやる気のなさは棚に上げて、「おめー、自分の立場判ってんのかよ」とかイチャモンつけまくり、どつきまくり、しまいにはハンマー振り下ろすまでする。

この、やる気ゼロの従業員、なんか一人はわっかりやすくダラダラの前髪が顔の半分覆ってて、厭世感示してます、みたいな感じで。
なんでこの二人を放置してるのか訳判らん、と思っていたら、途中人員整理で一人脱落。でも最も態度悪い方の前髪ダラダラは残るの。
しかも後々ハンマー振り下ろすのはこっちだし、ええーっ、なんでよ、なんで彼を残すのと思ったら、ハンマー振り下ろされて血ダラダラの工が「あなたは腕がいいと、研次から聞いていました。一緒に頑張りましょう」とか言い、栞も「今あなたに抜けられたら困る」と言う。

いやいや、いやいやいやいや!今まで一度も、彼の“腕のいい場面”なんて示されてなかったんですけど!ただふてくされてサボってた場面しかないんですけど!役に立ってたどころか、足を引っ張ってた印象しかなく、この場面でそんなこと突然言われても、ええっ!って感じだよ。
しかもこれ、頭にハンマー振り下ろすなんて、明らかに傷害事件、どころか殺人未遂でしょ!なんで皆“ボーゼンと見ている”だけで、誰一人仲裁に入らない訳!

あんなん、ヘタしたらホントに死んじゃうよ、てゆーか、あの傷で病院かかったら、通報されかねないよ。それなのになんか、熱出して一日休んだだけでオワリなんて、なんじゃそりゃーっ。
それにさ、工が“腕のいい”コイツのことを研次から聞いてたぐらいなのに、栞が工の存在を研次から全く聞いてないのはやっぱりやっぱり、ヘンだよなあ、と改めて思っちゃう。それとも実は知ってたのかなあ?いや、そうは見えないが……。

……ていう感じにツメの甘さを感じていた訳であった。
で、ちょっと脱線してしまって先走ってしまったけれど、工は栞になんとかして罪を償いたい、と金を差し出したり、手紙を渡そうとしたりする。
そりゃあ栞は怒って、私のために何かしたいってんなら、ここを辞めて目の前から消えてよ!ということになるのは当然である。

なぜ工がそうしないのか。それは先述した、研次と社長と三人で約束したことがあるからなのだが、工の誠実さに徐々に心をとかされていく栞が、あのハンマー事件で休んだ工の家に書類を持って訪れると、そこには足の悪い老いた母親がいるんである。
栞に「息子がトンだことを」と頭を下げ、しかしあの子はまっすぐないい子で、昨夜も布団の上で泣いていたとかなんとか、切々と訴える訳。
まあ泣いていた理由をこのお母ちゃんは取り違えていたけれど、でもとにかく、息子を思うが故、な訳。

……まあ判るけど、とてもよく判るけれども、でも相手は夫を“殺された”んであり、こんな風にたまたま訪れてきた場面で、息子を許してやってくだされ、とは、ど、どうなの、と思う。
この時点では栞は色々事情が判ってきていて、むしろ工に惹かれはじめているもんだから、面食らったみたいに恐縮するぐらいなんだけど、だからこそか、なんかこの時点、であることがズルいなあと思っちゃって。

二人が惹かれあっていることは見てとれたけど、それはあさ美ちゃん、貴大君の繊細な芝居ゆえなんだけど、でもそれでも、工が工場を去るに当たって栞に、「あなたを好きになってしまった」とか言っちゃう、言っちゃう!のには、えーっ!!それ言っちゃう!!と思ってしまった……。
まあ言っちゃわなければこの後の展開も望めないのだが、言っちゃう、しかし!と横山やすしのように心の中でツッコんでしまった……。

言うかなあ、言うかなあ、この立場で。思わず態度に出ちゃうとか、そういうアレで展開するんなら判るけど。
いくら生真面目な貴大君の、眉根を寄せた表情で言われても、それこそあの前髪ダラリのヤツのように、「立場判ってンの」とか言いたくなってしまう……。
勿論彼はずっと苦しみ続け、葛藤し、それは判ってるんだけど、でも辞める理由がコレなら、それは普通、ていうか、絶対、言わないだろ……心に秘めとけよ……。

まあ、確かに言っちゃわなければその後の展開はない訳だから。
すっかり胸がざわついてしまった栞は、彼が辞めることになる日、挨拶の場には姿を見せず、外に出たところを見計らって、彼の手を引いて連れ出す。
やけにザ・私服なカッコで、あれ、取引先に見積もり持ってったんでねーの、あの前髪ダラリが「お前の顔なんて見たくないってよ」とか最後まで憎まれ口を叩いてたのに。
このカッコはどー考えても、そんな状況じゃないよな、どこで着替えたのとか、つまんないツッコミが心の中に次々と浮かんじゃう。
それでなくてもこの気持が盛り上がる場面で、飾り房が下がってるような、このチョイとハデ目な私服はどうも気持が入らない。

工の手を引いて駆け出すところを、工場の人たちにも見られてひるんだものの、そのまま二人は逃避行。
栞は工を、夫の研次とそうしていたように、バイクの後ろに乗っけて、海に向かって高速をぶっ飛ばす。
そう、バイクを操るのが、栞の方なんである。フルフェイスのヘルメットの栞の後ろに、かわゆいヘルメットをちょこんと乗っけて、遠慮がちに彼女の肩に手を乗せている工がなんともいい。

一緒に大阪に来てくれないかと言う工に、カン違いしないで、と栞は返す。……この状況でどうカン違いなのか、まあそのあたりは、揺れる女心ということか。
この後二人はしっかり旅館に泊まるし、ついに一線を越えてしまったキスシーンは心震わす繊細さで、あー、なんか久々にドキドキしちゃって、ちっ、悔しい、とか思う訳なんだけど(爆)。
でも、彼女がどこまでの“覚悟”でこんな行動に出て、まあ、言っちゃえば最後までヤッちゃったのか、多少ギモンは残る、かなあ。

だってこれは、その後に彼女が言うように、許されないこと、な訳でしょ。あなたは加害者、私は被害者、と、こういう訳でしょ。
まあだからこそ萌える訳だが(いや、この場合普通に燃える、と言った方がいいかな)、でもここまでに、栞は夫の家族から姻戚関係の解消を迫られて応じ、工はこの地を離れ、ならば、もう、何の足かせもない訳でさ。そこまでお膳立てしといてさあと……。

旅館、二人浴衣姿、目覚めた朝、布団の中に横たわったまま、一足先に起きた彼の足にそっと触れる、なんていうシーンまであるなら、ちょいとカラミの二、三発ぐらい(爆)。
二人の逃避行になってから、やたらストイックにブラックアウトの連続でさあ、いいじゃん、彼らレベルの役者なら、ヤラせちゃいなよ!(ジャニーさん風)と若干、イライラする。
まあ暗示、推測させる日本的慎ましやかな描写なんだろうけど、今はあんまりそれ……作用しないんじゃない?

「駅まで送っていくよ」そしてまたあの二人乗り。でも途中、事故現場に遭遇する。
トラックの荷台から転げ落ちるカラフルなドラム缶、救急車に運び込まれるけが人に、泣きながら付き添う女性。
栞の顔はこわばり、一目散に駆け出す。工が追う。そんで、あの加害者、被害者の問答である。
工は、それを全て背負って、あなたと一緒にいたいんだ、と言う。栞はそんなことムリだと背を向ける。もう二度と会わない、と言う。

ここがどこなのかしらんが、確実に山の中の一本道で、こんなところで放り出される工が不憫で(爆)。
その後、栞は逡巡し続け、結果的には夜深い小さな駅のホームに現われ、彼の手を意味ありげにお祈り握りし、「私はあなたを許す」なあんて言うもんだから、そのまま彼についていくのかと思ったら、そのままホームで切なくお別れ。
……常識的にはそれが妥当だが、常識を打ち破るからこそ映画なんじゃないの。ライトアップされた見事な桜並木を見上げながら歩くあさ美ちゃんは画になるが、この桜がどの程度物語に貢献したのかは、正直疑問。

研次が「桜は潔いように見えるけど、本当は、悩む花だと思うんだ」と自説を展開する冒頭のシークエンス。そもそも“桜が潔い”ということ自体がええっ、て思う。
椿が潔いのは判るが、それと対象にはらはら散る桜を未練がましいという向きの方が普通じゃないの。
一気に咲く時期を見計らう為に“悩む”というのはリクツ的には判らなくもないけど、最初に置かれた前提にそんな具合にピンとこないからどうも、ね。

同僚であり友人の栞を心配して、工から遠ざけようとしてくれる女子社員が、ことあるごとに、「だって栞……」と単純極まりなくって。
女の友人って、そんなバカかなあと思っちゃう。姉にしても友人にしても、栞を支えようとする女性陣が、彼女の気持ちを真に汲み取ることをしなくて、凄く単純な世間一般的立場で、それが皮肉っての描写という訳でもない、となると、女子としては、ちょっとプンと思っちゃう訳よ。

工の味方になってくれる中国人工員の二人が、チャーミングなだけに、彼らをもっと際立たせてほしかったという不満も残る。
あの前髪ダラリプラスワンのやる気ナシ社員たちから、国に帰れと再三イヤガラセされ、でもそれでも、国に帰ったら工場を建てるんだという志がある二人だからこそ、尚更である。
彼らの存在は今の日本に大きく揺さぶりをかける要素だし、こんな風に“今の日本の工場には、よくある風景”程度に収めてしまうのはあまりに惜しいし、不自然にさえ感じる。
……ていう具合に、私の勝手な思い込みだけど、色々ツメの甘さを感じるんだよなあ。★★☆☆☆


桜、ふたたびの加奈子
2013年 105分 日本 カラー
監督:栗村実 脚本:栗村実
撮影:ニホンマツアキヒコ 音楽:佐村河内守
出演:広末涼子 稲垣吾郎 福田麻由子 高田翔 江波杏子 吉岡麻由子 田中里衣 永井秀樹 岸健太朗 戸田みのり 横溝菜帆 吉満蒼 安藤聖 山城秀之 富永凌平 増本庄一郎 岡野謙三 米谷澪 西岡航 太田しずく

2013/4/18/木 劇場(ヒューマントラストシネマ渋谷)
これがあの「飯と乙女」の監督さんだと知って、かなり意外な気がした。あの作品は国際映画祭での評価を受けたものだけれど、それはどちらかというと芸術的な……つまり私にはイマイチよく判らん、そうした先鋭的なセンスがビリビリするような映画だったから、本作のような、いわばベタな映画に抜擢されるというのがなんとも意外で。
抜擢?ではないのかな、彼自身の企画なのだろうか。解説ではそんな感じにも書いてあったけど、このザ・商業映画的キャスティングで、全くもってのそれもないような気がする……なんて思ったりして。

と、いうのもあれだけ号泣したくせに、このお話って一歩間違うとライトノベル的軽さになりそうな感じがしたから。
この原作者さんは無知な私は存ぜぬのだが、映像化作品もかなりある人気作家さんだというから、そこを掘り下げて本作を考えちゃうと私なんかドツボにはまりそうだがそれは避けるけれど(爆)、印象としてはホント、ライトノベル的だなあと感じたの。

輪廻転生、生まれ変わり。信じるか信じないかというレベルでしか語れないこの設定を、そこを脱して、あるんだというレベルに観客を連れていかなければ、安っぽくなってしまう危惧がアリアリである。
……言いたくないけど「スープ 生まれ変わりの物語」なんてそのわっかりやすい例だった。そう、あれが頭にあったせいかもしれないんだけれど……。

結果的にはそんなことを思っていたことにゴメンナサイなんだけど(爆)。でもそれはヤハリ、主演二人の、特に涼子ちゃんの、いや特にどころか彼女の素晴らしさに尽きる、とまあ昔っから涼子ちゃん贔屓の私は鼻をふくらませて思っちゃうんである。
とは言いつつ序盤はちょっと、ハラハラもしていた。彼女の魅力であるエキセントリックな表情の作り方(特に目の見開き加減とか)や、高めの声が、母親であるという役柄、それも娘を亡くす母親であるという役柄になかなかマッチしない感触があって、ハラハラしていた。
今までの、母親役ではない彼女なら、たとえ人の奥さん役であっても、それは可憐な可愛らしさで“済んでいた”んだよね、いわば。彼女が実際にお母さんであることが判っていても、ついついハラハラしながら見ていた、のは、つまりは私は彼女をみくびっていたのかもしれない。

彼女の夫となる稲垣氏は、もうけ役のような、反対にソンな役回りのような、微妙なトコである。娘を亡くした親という点では彼だって同じ、彼女ばかりが悲しみにくれて立ち直れず、ついには彼には見えない娘を相手に生活しだすということに困惑、離婚を口にするまでに追い込まれる、防戦一方の夫というのは、かなり難しい役どころだろうと思う。
そういう意味でいえばそりゃあ涼子ちゃんの役は、彼女こそがメインだし、もうけ役どころの騒ぎではない訳なんだけど、この受け手になる夫こそが実は大事、なんだよなあ。
……悪くはないんだけど、先述したようにもうけ役なんだかソンなんだかよく判らない感触を与えたままである稲垣氏は、……こんなことは言いたくないけど、やっぱりやっぱり、実際に父親の経験がないから、……いや役者にそんなことは関係ない筈なんだけど!でも、ちょっと、弱かったかなあ。

愛娘である加奈子を、小学校入学式当日に亡くすという悲劇。それも、娘の晴れ姿を映そうと、デジカメを探しているうちに娘が道路に飛び出してしまった。
母親の容子は自分を責め続ける。あの世の娘に会いたくて、自殺未遂さえしてしまう。
だからこそ、彼女が憔悴の結果として“娘の幻影”を見出すのも無理なきことと、夫の信樹は勿論観客も思ってしまう。実際は、見えない娘は本当にそこにいた。娘が可愛がっていた犬が見えない空間にワンワンと吠える描写は、しつこくない程度に挿入され、観客の胸にザワザワとした予感を残す。
こうした予感や伏線が実に上手く残されていて、ラストもラスト、大オチにはまたおおいに泣かされるんである。
こうした伏線をちょっとでも比重を間違うと、何度も言っちゃうけどライトノベル的安っぽさ(いや、ライトノベルがそうだって言ってる訳じゃないんだけど……)になってしまうんだよね。この辺のストイックな上手さは、やはり才能なんだろうなあ。

母親である容子をとりまく、最終的には数々の予感と伏線が大きな感動を呼び起こす若き母親たち、そして彼女たちを愛する人々、プラスアルファがまた素晴らしい。
娘の加奈子の生まれ変わりを宿していると容子が思い込む、たった一人で赤ちゃんを産むことになる高校生の正美、演じているのは、そうかそうか、このお顔は確かに福田麻由子だわ!子供の時の顔のまま大人になったのに、なんだかそれが妙になまめかしく、色っぽい。こんなこと言っちゃアレだが、志田未来にこの役は出来ない(いやまあ、彼女も14歳の母とかやっていたが……)。
実際は、彼女が赤ちゃんを産むまでの決意には、原作的には(爆)色々あったのかもしれないが(爆爆)、映画上においては、子供を産んだ彼女に恋人が冷たくなってもそれでも好きな気持を消し去れず、娘を可愛いと思えず、暴力さえもふるってしまう辛い女の子を、そんな辛い描写を驚くほどの短い尺の中に凝縮して演じる。

正直このテーマだけでも一本の映画が作れるぐらいと思うし、それこそ生まれ変わりなんていう“ライトノベル的な”話に比べたらこっちの方が重いに決まってる。
だからこのバランスは相当難しいと思うんだよな……まずこの生まれ変わりのリアリティに観客を連れて行かなきゃいけないし、若くして子供を産んで、中途半端な気持ってワケじゃなかったけど、全てが女の子に負わされるこうした問題を重く描きつつ、しかしそれに引きずられて彼女に重点が置かれそうになるのをさらりとかわし……。
容子と正美の二人の母親は、双方重いものを抱えているけれど、一方は言ってしまえばファンタジーで、一方はこれから抱え続ける現実で、結果的には正美の赤ちゃんは加奈子ちゃんの生まれ変わりではなかった訳だし、余計にその乖離は大きいんだけど、見事に溶け合うのが見事、なんだよね。

それにはもう一人の母親の存在こそ、というのはある。実はこちらこそが真の加奈子ちゃんの生まれ変わりだったという、いわばミステリのどんでん返しが用意されている。だってこの子は男の子で……なんていう、観客には勿論、当の容子にもあった思い込みを利用しているのが見事なんだよね。
その母親は、正美の小学校時代の担任教師。そりゃまあ考えてみれば、娘を亡くした容子が正美に出会った時には彼女はもう産まれる直前で、後に「いやあ、実はデキちゃった結。」とアカンボを抱えてくる先生、と考えると、リアルに“生まれ変わり”を考えればまさしくそう、なんだよね。
でもさ、それこそ、何度も言って申し訳ないけど、生まれ変わりなんて、リアルに考えないじゃん。お話のレベルじゃん。中盤まではね、涼子ちゃんがどんなに熱演しても、手のひらにほくろがあるのが同じだとか言っても、だからこそ余計に、可愛らしい御伽噺レベルをなかなか越えなかった、というのが正直なところなんだけれども。

「幸せになろうとしない人を、幸せには出来ない」いや、一緒には暮らせないとか、そういう表現だったかな、とにかく、“幸せになろうとしない人”という表現を使って、離婚してくれないかと言う夫は、気持は判るけどショックだった。
容子は、ちょっとだけ待ってくれと言った。加奈子の生まれ変わりだと思う子がいる。あの高校生の赤ちゃん。会ってみてほしい。養子にもらおうと思う、と。
生まれ変わり云々の件には当然夫は困惑を示し、養子縁組になるんなら、新たな子供をさずかったんだと思って育てる。ただし、先方が断ってきたらきっぱり諦めて、加奈子の墓参りに行ってやってくれ、と言い、容子は涙をためた瞳で神妙にうなずいた。

そう、容子はずっと、墓参りはおろか、遺影に線香どころか、手を合わせることもしなかった。そこには加奈子はいないからと言って。
最初こそは、傷ついた妻をいたわる気持だった夫も、初七日、49日、三回忌、と参加しない妻に、彼が背負う周囲からの重圧も相当だったと思うし……てことを、あからさまに描く訳じゃなくって、ただただ、初七日、49日、三回忌……と静かなクレジットと共に、彼女のいないそうした行事を映し出すだけだからさ、そういうの、上手いなあと思って……。

養子縁組の話は、思いがけず、正美の父親から拒否された。父子家庭で、こんな世間体の悪い娘に冷たいように見えた父親だったのに、「バカなことを言わないでください。この子は正美の子供ですから」とその冷たさをそのまま容子に向けた。
それが、孫と娘への不器用な、だけど天井知らずの愛情をガツンと示して、ドギモを抜かれた。容子の考えは甘いと、思わざるを得なかった。
生まれ変わりに違いないと思ったその子も、食べ物の好みや、ワンワンは怖い、猫ちゃんがいい、という点までことごとく違った。

当の母親である正美は、その時点でも育てていく自信、どころか、我が子への愛情さえ自信が持てなかったから揺れ動くんだけれど、このことで真剣に見つめなおしたのが良かったのかもしれない。
「ありがとうございます。でもごめんなさい。私、一生この子の手を離しません」と言った。容子はショックを隠しきれず「優しいママになってね」と搾り出すように言うしかなかった。

……あのね、予告編にも使われている、凄く印象的なシーンがあるのだ。それこそ正美が子育てに悩んでいる時、そして容子が正美の娘を生まれ変わりだと信じてて、つまり自分がママだということを思い出してほしいと思っている時。
正美の担任教師の息子、まだ本当にほんの赤ちゃんの彼が、容子に抱かれて「ママ」と言ったのだ。がんぜない瞳をまっすぐに向けて。
あまりの思いがけないことに、「ママなんて呼ばれたの久しぶりだから、嬉しくなっちゃって」と容子は涙をぬぐう。こんな大きな予感と伏線はないんだけれども、なぜ予測できなかったのか。
しかもこの時の涼子ちゃんは素晴らしい芝居で、予告編でも最も印象的な場面で、それこそクライマックスよりも、この場面の涼子ちゃんが、本当に、最も、素晴らしいと思うんだよね!!

つまりこの場面を引っ張ってしまえば、この男の子の赤ちゃん、ケンイチ君の方こそが加奈子ちゃんの生まれ変わりだと、少なくとも観客には推測されちゃっただろうに、ここもストイックにかわしちゃうんだよね。
いや、ストイックどころじゃない、正美の娘ちゃん、つまりこの時点ではこの子こそが加奈子ちゃんの生まれ変わりだと思ってる方の子にもママと呼びかけさせて、そらー容子は感涙してこの子の方を抱きしめちゃって、確信を一層深めちゃう。
でも最初に容子にママ、と呼びかけたのはケンイチ君の方なのだ!と後から思い返せば、実に上手いつくりになってるんだよなあ……。

クライマックスはね、皆でのお花見ピクニックに、担任先生夫婦が飼い犬を連れてくる。それは、容子だけに見えていた娘の“幻影”が消えた日、飼っていた犬のジロウが何かを追いかけるように鎖を切って走り出し、姿を消してしまった、そのジロウ、だったんである!!うおー!!!
いや、何より大きなことは、拾った当初はジョンとか呼んでいたその犬を、「ケンイチがこれはジロウだよ、と言うもんだから」というその経緯。妻が亡き娘の生まれ変わりを語っていた時には哀れみの目でしか見ていなかった夫の顔色も変わる。

ケンイチ君に「前のママだ」とハッキリ言葉をもらって、たまらず連れ去ってしまった容子、その事情を、信じがたい現象を、彼らに真摯に語る夫。
……「デタラメを」とひとこと漏らしたのはケンイチ君の父親で、でもそれだけだった、たったそれだけ。それぐらいで済ませられたってのが、ここまで絶妙のバランスで予感と伏線を重ねてきて見事にリアリティを獲得した結果だった。
全てを察した正美も、そして我が子を連れ去られた担任先生でさえ、容子の母親としての気持を慮って泣いていた。「それであなたはどうしたいの」と容子の夫に問いかける様子さえ、思いやりがこもっていた。
「加奈子は死んだんです。もうこの世にはいない。ケンイチ君は加奈子じゃない。それは容子もよく判っている筈です」。

本当にゴウゴウ泣くのはこの後の、元加奈子、現ケンイチ君との別れのシーンである。加奈子としての記憶が失われるまでケンイチ君とは会わないと容子は決心し、担任先生に頭を下げる。
ケンイチ君は“前のママ”に「うん、大丈夫、車にも轢かれないし、幸せになる、約束する」と無邪気な声を聞かせるもんだから号泣しちゃうんだけど、でもね、でも、やっぱり容子も含めた母親たちの思い、なんだよなあ。
だってこの時、ケンイチ君の声が画面から見切れる形で聞こえ、子役の達者な演技なんぞをあざとく見せはしなかった。愛する娘との再会と決別を同時に決心して背を向ける容子と、そんな妻を見守るしかない夫と、そして信じてくれて、信頼してくれて、何より我が子を愛する担任先生夫婦、正美ちゃん、全てがあいまっての号泣。

本作のかなりのウリであるらしい、“現代のベートーベン”なる肩書きで騒がれている気鋭の音楽家、佐村河内守氏の、この映画のために作られた訳ではないってあたりが、それこそ絶妙のストイックをもたらすキリキリに張り詰めた緊張感の弦楽が素晴らしく、ああ、そういやあ、それこそ「飯と乙女」でもメロドラマな音楽なんか使わず、こんな感じにストイックだったよなあ、と思う。
そもそも「飯と乙女」はシューベルトの「死と乙女」のパロディだってぐらいだもの、栗村監督はクラシック、それもそぎ落とされたストイックなそれが好きなんだろうなあ。

容子の母親が切り盛りし、ラストには容子自身が幼い娘と切り盛りしている古本屋、正美と彼女に恋する後輩青年が出会う場所であり、知恵の輪を介在させた人生を語る場所でもある。
ガラスのドアが、加奈子ちゃんを迎えに来る容子と隔てて、手を合わせてたわむれるんだけど、もう、この時に、見えているのに別れていることを示唆していたのかもしれない、と思う。
ドアを開けなければ入れない古本屋って凄く敷居が高く、その中で出会う若き二人は、それゆえ深い絆を最初から感じさせる。

容子の母親を演じる江波杏子は当然素晴らしく、ある意味彼女が、たたずまいといい、時代錯誤とも言える古本屋から外に出て行く様子など考えられない感覚といい、実に非現実的、御伽噺チックなんだけど、まあそりゃあ江波杏子だから、まだまだオンナを感じさせる現実世界の生々しさと、達観したオバア的な非現実とかこれまた絶妙なバランスなんだよね。 ★★★★☆


さよなら渓谷
2013年 116分 日本 カラー
監督:大森立嗣 脚本:大森立嗣
撮影:大塚亮 音楽:平本正宏
出演:真木よう子 大西信満 鈴木杏 井浦新 新井浩文 木下ほうか 三浦誠己 薬袋いづみ 池内万作 木野花 鶴田真由 大森南朋

2013/7/8/月 劇場(有楽町スバル座)
あー、なんでここまでやって、おっぱい出さないの真木よう子、としつこくもそれがどーしても気になってしまう。ある意味ここまでやっといて、おっぱいだけ死守する、このレベルあたりの女優さんたちが一様にそうなのが、どうにも解せん。
あらわな背中からおっぱいのふくらみは見せといて、ぱんつがズリズリするのだって見せといて、なぜ正面おっぱいだけはあんなに死守するの。単なる点じゃん、乳首なんて(爆。わー、サイアク、私……)。
うー、うー、うー、だってこれじゃなんか、意味なくない。この題材じゃ、余計意味なくない。だってこの役柄の彼女は、だって、だってさあ……。

……そーゆーことばっか言ってっと、ホント下劣になるばかりなんだけど、だって凄く惜しいなあと思ったのだ。
本作は恐らく、賞レースまで残っていくだろうと思う。それだけの力技の作品だし、役者陣すべてが素晴らしい。
中でも、難役である夫婦役の二人、そのうちでも難役中の難役である彼女、かなこ役を、そう、この役を観客に納得、というか、観客を説得できるまでに生きるのは、とんでもない荒業だし、彼女はそれをやってのけたと思うし、まさにかなこを生きたと思う。

それだけになぜそこを死守するの……と。うーん、大森監督も、そこは見せない方がキレイと思ったとか?
……思いにくいなあ。だって不自然だもん。あんなにレロレロチューはするのに、なぜ……もういいか、疲れた。

そう、観客を、納得させる、説得できるのか。この役を、と。結果的に納得させられ、説得させられてしまった訳だけど、終わった後も、果たしてそれで良かったんだろうかと、女としての立場で納得させられてしまって、説得させられてしまって良かったんだろうかと、ずっと逡巡してしまう、そんな難役だった。
もう言っちゃえばね、この夫婦(というか、事実婚夫婦)はレイプした側とされた側なのだ。ありえない。その設定を聞いただけならそう思うし、見終ったあとに改めて思い返してもそう思う。

回想シーンも巧みに織り交ぜられていて、何かこう……青春の若者の集団の、その中でもこの二人は個人的にイチャイチャしていたのに、ひやかしや成り行きでそうなってしまったような、なんていうか、モヤモヤした断じきれない感じに描写されてて、若干のズルさは感じなくもなかった。
けど……全く見知らぬ、本当に最初からそれ目的のレイプ犯だったら、この展開はとか考えて、いやいやいや……と思い直し、どんな状況だって、レイプされた相手と夫婦になったりなんて……と、もう、頭の中でぐるぐるぐる。

レイプのシチュエイションに興奮するとか、SとかMとか、そういうところに陥ったらどうしようという不安もあったりして。
だってそれと現実の線引きは、女としてはあいまいにしてほしくない。レイプなんて、考えたくない、本当に考えたくない鬼畜な犯罪だもの。
だから、この設定に、その加害者を愛するようになることに、加害者も彼女を愛するようになることに、納得させられ、説得させられてしまうのが、……それが演出の力であり、役者の力量だと判っていても、見終った後まで、迷い続けていた。

しかもこれ、原作者が男性でしょ。そうなると余計に難しいよね、と思う。実際に原作を読んでいたらどう思ったか判らない、と確かに読んでないからエラソーなことを言う訳だけれど(爆)。
ただ、映画化作品も多いこの売れっ子作家さんの、ラインナップを見ると、硬軟とりまぜた、それこそ“納得させられ、説得されてしまう”剛力っぷりが凄くて、こりゃ勝てないな、と思う。

愛の形は十人十色、千差万別、それが判っていても、判っているからこそ、本人同士が苦い苦い蜜を噛み続けた。
この関係は、お互い不幸になるためのものなんだと言って、お互い愛していることをつかみかけた途端、その縛りから離れるからと、彼女が手を離した。失踪した。
彼は彼女を探す、必ず見つけ出すと言った。……これは、いつかどこかでハッピーエンドが待っていると思っていいんだろうか……。

……相変わらずのすっ飛ばしで。もうあらかた言っちゃった感じなんだけど、どうしよう(爆)。
最初はね、彼らの物語じゃないというか、なんか世間をにぎわしている息子殺しの母親をマスコミが追っかけてる。良く見る、加熱したワイドショーの画づら。
その隣人として彼ら夫婦がいて、長屋っぽい小さな集合住宅、その蒸し暑そうな薄暗い中で、タオルケットを蹴散らしながら濃厚なセックスを繰り返してる……おっぱいは出さないけど(しつこい)。

妙齢の二人だけど、子供がいる雰囲気ではなく、セックスを繰り返している割にはお互い淡々としていて、新婚さんラブラブという雰囲気でもない。
かといって冷淡というんでもなくて、なんていうか……新婚の熱があるのに、それが氷で急速に冷やされているような、言い様の難しい違和感があるんである。
この時には彼らの秘密を知らないから、一体オチはどこにあるんだろうと必死に考え続けながら注視している。

そこに入り込んでくるのが、とある週刊誌の記者。もういい年をしているんだけど、どうやらこの仕事はまだまだ新米らしい渡辺。
というのも社会人ラグビーをやっていたんだけれど怪我して引退、という経歴も後に徐々に明らかになる、というジワジワ感は、この夫婦の場合と同じで、観客をジリジリさせてくれるんである。

渡辺を演じるのは、そりゃこの監督の作品には出るに決まってる(いつか、彼主演で撮ってほしい)、弟君である大森南朋。
彼が陰毛ギリギリの身体を大鏡にさらし、その身体は予想外にハラが出てて、えーっ、あの色っぽい大森南朋が、こんな中年ッパラ!とショックを受ける。
でも、この身体が渡辺の経歴と悲哀と、そしてまだそこまでいかない、まだひとまわりは若い夫婦の夫、尾崎俊介に重なっていく訳でさ、凄く重要なんだよね。大森南朋がここまでハラくくったんだから、真木よう子もさあ……(もういいって)。

尾崎俊介は、大学野球で頭角を現した選手だった。しかしレイプ事件を起こして退部、後輩のコネで入社した金融会社をある日突然辞めてしまう。
渡辺は俊介の足跡をたどっていく。「共犯にされたんスよ」とわるびれない、輪姦したうちの一人の新井浩文が、新井浩文そのまんまのニュートラルさでこのゲスト的キャラを演じるもんだから、ヒヤリとしてしまう。
まさにこれが、恐るべきリアリティ。まったく参っちゃいますよねえ、共犯にされてさあ、みたいな雰囲気をリアルに出すもんだから戦慄してしまう。

その“主犯”である俊介。後に被害者である彼女と再会して、その不幸なその後に責任を感じ、ストーカーよろしく追い続けて、その失踪につきあって、当然拒絶されるんだけど、飼い主についていく犬よろしく首を垂れて後ろを歩き続ける。
判りやすく冬とかじゃないんだけど、絶妙な肌寒い季節を演出してて、上着を着せるだの、拒否するだの、石油ストーブのともる待合室だの、そしてこれまた判りやすい、複雑に交差した歩道橋の上とかさ、心と身体の攻防戦が続いて、スクリーンの中の彼らはまさにヘトヘトなんだけど、観客もつられてヘトヘトになっちゃう。
だから……だからなんか、納得させられ、説得されちゃう、のが、若干悔しい気持ちもあるんだけど。レイプなんて、どうあったって、許されるべき筈はないんだけど。でも……。

こんなに社会が荒廃する前は、いや、というより、いろんなヒドい犯罪を目にしたりしなければ、単純な概念や、理想だけで生きていられた間は、罪を犯しても、それを許さないなんて、それじゃ救いがないと、思っていたのね。
それは冷静な人間のままでいられれば、大人になったって、そう思っていられた筈だと思う。そう思っていなきゃいけなかったと思う。
でも……とてもそう割り切れるにはいかないほど、ヘドが出るような事件が次から次へと起こるし、自分が女であり、女として男から犯される許すことのできないこと、ということが判る年頃になってからは、“反省すれば許される”なんてとてもとても、単純には思えなくなった。

いや、ていうか、私の場合は、ザ・思春期の頃に起きた、女子校生コンクリ詰め殺人事件が、その心理を決定づける大きなことだった。
事件名だけでは計り知れない、監禁、輪姦、暴行の果てに死んだ女の子のことを新聞で知った時の、同年代だった自分の受けたショックはもうもう……今思い出しても吐きそうになるぐらい。

ちょっと脱線してしまった。いや、脱線、とは言いたくない。やっぱり、そういうことだと思う。
あれからそれなりに大人になり、自分でも計り知れない心理や精神状態があるのが人間の不思議なんだと判るようになったから、本作のストーリーテリング、演出の力、役者の力に、彼らの間に生まれたのは愛だと、でもそれを認める訳にはいかないとか、いやでも……みたいな、永遠に片付かない堂々巡りを感じてしまう。

憎からず思っていた女の子だった筈なのに、レイプ、しかも輪姦の主犯になってしまった尾崎と、その心の傷はもちろん、その後の人生不幸続きのその彼女。
結婚話は破談(こういう古い考えが確かに今の日本にもあるんだということに慄然とする)、新しく出来た恋人には打ち明けたものの、「大勢でヤラれるのがイイんだろ!」とねじれた嫉妬による暴力を受けることになる(これも……。そういう風に考えることが信じられないけど、だからこそ結婚も破談になるのか……)。

追い詰められて自殺未遂を繰り返した彼女は失踪、このあたりから彼女の消息をつかんでいた尾崎は、入院していた彼女に接触。
もちろん避けられるものの、失踪した彼女から連絡を受け、今にも死にそうな彼女を見守る形で、会社もほっぽって、行き当たりばったりの鈍行列車の旅に出る。その行き着いた先が、この小さな町だったんである。

彼らの隣人の女が、息子殺しの騒ぎを起こすでしょ。尾崎がこの女の愛人だったんじゃないかとか、ありがちなでっちあげを受けて、彼もまたマスコミの標的になり、警察の事情聴取まで受けるハメになる。
愛人うんぬんの話はないなと思ったけど(こーゆーあたりの短落さって、まさに今のアレコレもホント、まんまだよなーっ)、ひょっとして、もしかして、かなこが、この隣人の息子を殺しちまった真犯人なんじゃないかって、勘ぐっちゃって、それこそありがちそのものなんだけど、なんかずっと、ハラハラしてしまった。

だって……この“夫婦”の事情がだんだんと判ってくるにつけ、子供を作るとか、そんな風にはとてもなりそうにないじゃない。
冷静に避妊しているようにも見えないけど(爆)、でも彼らが、というかかなこが、週刊誌記者の渡辺に語るように、自分たちは幸せになるために一緒にいる訳じゃないんだと。
だからこそ幸せが見えた途端……愛と安住が見えた途端、彼女は姿を消したし、その象徴となるような子供を望む筈もなかった。
だからこそ、子供殺しのこの事件が、単なる隣人の事件で終わるように思えなくて、彼は野球なんていう、いかにも男の子が好きなものの玄人だし、実際少年野球をぼんやり見ているシーンもあるし、なんか、なんとも、ハラハラしちゃったのだ。

それが杞憂で終わった時、ホッともしたけど、何となく肩すかしをくったような気もした。
レイプの根本にはセックスがあり、彼らがお互い同士でその壁をぶち破った回想シーンは、彼の方が死んでもいいと口にしたほどの激流があり、悔しいけどすんごくドキドキしたけど、でも、セックスの先には当然、授かるものがあるのだ……。
彼らの関係があぶりだされる事件が子殺しにあるということが、当然必然性があると思ったから、……まあ単なるフライングだったのかあ。

大森南朋演じる記者、渡辺は冷え切った夫婦関係にあり、それは妻側が、「社会人プレイヤーなんて、ケガしたら終わりって判ってたでしょ」と、コイツと結婚して失敗、てな態度をアリアリと示してるからなんであって。
当然(と言うべきか、何と言うべきか)子供もいなくて、もういい年超えた夫婦二人暮らし。
こりゃ先が見えてるなと思ったら、物語の最後の最後、「私、あなたと別れる気、ないから」と聞かれてもないのに突然言い、彼は思いがけない妻の言葉に戸惑いながらも、彼女を静かに抱きしめ、お互い照れたような、充足したような表情で出かける妻を見送り、妻は見送られる。

……まあ、大森南朋は素敵だし、いいんだけど、この夫婦関係の描写はあまりに女側の感情が見えないんでアレかなあ。
彼がレイプさながらに寝ている彼女に襲いかかり、拒否した彼女がむせび泣くシーンは、そうよ、夫婦間でもレイプは成立するしさ。
「夫婦だからいいだろ」て台詞もサイアクだし、いくら彼女が夫に理不尽に冷淡でも(しかもこの理不尽さの理由が単純すぎて納得しきれないしね)、夫側に加担する気にはなれないし……。
このお話が男女間、そして夫婦間の心と身体の複雑怪奇な絡み具合を描いていることを思えば、難しい、よね。この渡辺夫婦の描写は……。
でもここにウェイトを置いちゃうとバランスが悪くなっちゃうし、難しいところなのかもしれないけれども。

でもね、やっぱりポイントは、男子なんじゃないかと思う。ダンナが隣人の愛人だったというウソの証言に、マスコミは色めきたち、刑事は定石通りの横柄な取り調べをし、彼は否定し続けるけれど、妻がそう証言したと言われて、それに従ってしまう。
じきに妻も、その隣人である容疑者も否定し、釈放されても、彼は妻を責めることもなく、見るからにじりじりと暑い夏の日差しの中、彼女の勤めている温泉施設に向かい、時間を待ち合わせて、休憩所でビールを飲みかわす。

帰り道の、ささやかな川にかかる、ささやかな橋の上での彼らのやりとりのスリリングさ、なぜ何も言わないのかと、まるで夕食の希望メニューを聞くように彼女が言う。彼は黙ったまま。
あの記者さんに、全部喋っちゃったよ。私たちは幸せになるために一緒にいるんじゃないんだと言った、と、この印象的で、決定的な台詞は、そう、この時に言った、のだ。

この“記者さんに全部喋った”というのは、渡辺を演じる大森南朋のみならず、彼よりずっと若いけれど、キャリアのある有能記者である鈴木杏ちゃん(相変わらず顔デカイ……いやスンマセン(爆)。それもあって、彼女が仮眠シーンで顔面パックしてるシーン、必要以上にウケてしまった(爆爆))こそが、このレイプ事件の加害者と被害者であるというヒントを渡辺に与え、女性記者だからこそ、この場に居合わせる意味がさまざまあってさ……。
先述した女としての思いも当然汲み取りつつ(そもそも、かなこの過去を洗い出したのは彼女だった)、レイプ犯と一緒に暮らしている心理にいぶかしりながらも、「でも、彼には過去がバレる恐れはないんですものね」この台詞は、射抜いてしまった。

レイプされた側には何の咎もないのに、なぜか、本当になぜか、された側の方がより冷ややかに見られるこの日本社会は一体なんなの。
なんなのと思っても、それを覆すことも出来ず、ならばそれを隠す必要もなく、それどころか……な相手こそが理想??
……ああ、なんということなのか。でも、愛に転じてしまった、かもしれない二人を、納得させられ、説得させられてしまったことにギリギリ歯ぎしりをしつつ、愛と幸せに変わりそうになった直前、こつ然と彼の前から姿を消したかなこにボーゼンとする。
再び尾崎の元を訪れた渡辺に、また取材ですかと皮肉りながらも、必ず彼女を探し出しますよ、と、それまでと変わらぬポーカーフェイスで言った彼の決意を信じたい。

彼、尾崎俊介を演じた大西氏だって、そろそろ正当に評価されたく思う。なんか売れっ子女優の(てゆーか、今までは寺島しのぶ姐さんの)相手方て位置づけのまま来てる気がして。
ちょっとクラシックな二枚目。そういう意味でも若干ソンかもしれないけど、本作、男の退廃した色気ムンムン。
あのアネゴ、真木よう子を存分にこねくり回し、大森南朋のある程度年齢行った諦念と張り合う、艱難辛苦なめまくった若き諦念でバチバチに対抗していて、見ごたえアリアリだった。

本作ね、クライマックスの夫婦二人のシーン、彼女の方が意味ありげにサンダルを落としたりする橋の上、なんか「ゆれる」の緊迫感を思い出すなあと思ったら、そーいやー、「ゆれる」で、ミステリの核、橋から落ちて(突き落とされて?)死んでしまったのが真木よう子、だったんだよね!
……いやー、忘れてた訳じゃ……いや、忘れてた(爆)。だってあの作品では、女よりも男、兄と弟が、その二人にギリギリに焦点が当てられてたからさあ、ホント私バカで、そうなると、この二人の顔しか覚えてないの。サイアク(爆)。

という流れで真木よう子のディスコグラフィーを眺めてたら、私が彼女を最初に認識した(それ以前にも見てはいる筈なんだけど、覚えてない(爆))「ベロニカは死ぬことにした」(これつまんなかったな……)で“バストトップをあらわ”にしてるというじゃないの(この表現もどうかと思うが)。
出してんじゃないの(そうだっけ……)。なのに今は何でかたくなに死守するの……?? ★★★★☆


さよならドビュッシー
2013年 131分 日本 カラー
監督:利重剛 脚本:牧野圭祐 利重剛
撮影:音楽:小野川浩幸
出演:橋本愛 清塚信也 ミッキー・カーチス 柳憂怜 相築あきこ 山本剛史 清水紘治 熊谷真実 サエキけんぞう 相楽樹 戸田恵子 三ツ矢雄二 吉沢悠 堤幸彦

2013/1/30/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
いつもなら“ピアノもの”という理由と言うだろうに、今回ばかりは利重監督の名前に慌てて足を運んだんである。
えーっ利重監督ってば、一体何年撮ってなかったの!えーっ10年!マジすか!なんでそんなに撮ってなかったの……ていうか、今回いきなりなんでコレなの。
……いや何かクサしているみたいな言い方だがそうじゃなくて(爆)、それまでは彼の内的世界を繊細に表現するような方向だったからさあ。いや、彼が順調に発表するチャンスがあったならば、こういう商業作品も徐々に手がけるようになったとは思うが、なんかいきなり、って感じだったから。

しかし、私の中では超イイ人のイメージである利重監督(いや別に、人となりを知ってる訳じゃないけど、なんともイイ人オーラが出てるじゃない?)、そのものの感じだなーっ。
本作の原作がミステリー作品として高く評価され、加えて人気シリーズの一作だというのは、彼が手がける作品としてはやはり何とも意外と思うのだが、でもそれでも、その人懐こさ、優しい手触り、優しすぎて哀しくなるような感じは、ああ、なんか彼らしいかもしれないなあ、と思って。
原作がどんな感じかは判らないけど、最終的なオチも含め、設定、人間関係、展開、なんか甘美な少女マンガチックじゃない?いい意味でね、なんかそんな懐かしい感じがした。ピアノというのももちろんそうだし……。

ピアノ、かあ。奥さんがキーボーディストというのもちょっと頭に浮かんだりして(照)。今回も彼女が音楽を担当しているのかと思ったら、そうではなかった……何となく残念だったりして。

いや、つーか、本作はヤハリ、気鋭のピアニスト、清塚氏が俳優デビューし、しかもめちゃめちゃメインであり、もちろん吹き替え演奏は彼自身であり……てことこそがウリというか、大きな吸引力であるからさ。
清塚信也、何となく見たことある名前だなーっと思ったら、そうかそうか「神童」の。それ以来松ケンとは親友であるというあなたでしたか。
こんなに若かったんだね、今更ながらビックリ。繊細な雰囲気だけど人懐こい感触もあって、若きピアニストというイメージからくる神経質さがない。
と、いうのは監督自身が彼につけたキャラ設定かもしれないけれど、なんかまるで利重監督自身のような照れ屋さんぽい感じがあって、何とも微笑ましい。利重監督自身を投影しているのかもしれない、などとなんかニコニコ思っちゃう。

とはいえ、ミステリなんである。少女マンガチックなどと言っちゃったけど、マジに展開を追えば、これがリアルなことならかなりシリアスなんである。
ヒロイン、遙は家の火事でおじいちゃんと大の仲良しのいとこ、ルシアを失った。
ルシアは両親が志のある人たちで、そのために危険地域で命を落とし、遙の家に引き取られたんである。
車椅子生活のおじいちゃんは、この双子のような仲良し従姉妹の良き理解者であった。

遙とルシアはまさに姉妹のように成長し、姉妹以上、親友以上の仲だった。
二人の夢はピアニストだったけど、ルシアは世話になっている引け目もあってか、いやそれ以上に、両親の思いを引き継ぐ、人のためになりたいということだろう、看護士を目指すと告げた。
遙はルシアの願いを引き受け、いつかピアニストになった時、ルシアのために「月の光」を弾く、と心に刻んだ。

その直後の、火事だった。

目覚めた時、遙はノドまで熱傷にさらされ、声も出せなかった。腕のいい整形外科医が写真を元に完璧に元通りにしてくれた。
「おじいさんとルシアは炭化していてどうしようもなかった。着ていたTシャツをお母さんが覚えていて、君だと判ったんだよ」

……ミステリを読み慣れてる人なら、きっとここで判っちゃったんじゃないかと、思う。後々、私だって、なぜあそこで判らなかったのかと、歯噛みする。
いくつもの伏線があった、散りばめまくられてた。なのに判らなかったなんて……と、ミステリ映画を観るたび悔しいんである(爆)。

もういつもどおりオチを言っちゃうと、この時生き残ったのは遙ではなくルシアだったんである。Tシャツを寝る前にとっかえたんである。うわー、こういうのも何とも女の子チック、マンガチック。
目覚めた時、もう既に遙の顔ソックリに形成手術を施されていたルシアは、ノドの熱傷と術後の激痛のためそれを伝える術さえ持たず、ていうか、心情的にもとても伝えられず、遙として生きていくこととなる。

ルシアはこの家庭にとても良くしてもらっていたし、正式にウチの子にならないかと打診されてもいた。
「そうしてしまったら、お父さんとお母さんが死んでしまったことを認めてしまう気がする」と、ルシアはその申し出をありがたく思うも断り続けていた。遙は、ウチのお母さん、無神経でゴメンネ、と謝ってさえ、いたのだ。
でも遙が生き残った……んじゃなかったんだけど、そういうことになってしまった事態になって、お母さんは、まあ当然といえば当然、言ったのだ。
「遙が生き残ってくれて、良かった」

これは、キツい。実は私はルシアなの、なんて、言えっこないし、それ以上に……「ルシアじゃなくて、遙が生き残ってくれて良かった」という意味なんだもの。
家のそこかしこに、“死んでしまった”ルシアの写真がにっこりと微笑んでいるのを、後から思えば当の“ルシア”がどう思って眺めていたのか、考えるだにゾッとする。
そう、こんな展開がマンガチックと思っても、リアルに考えると、本当にゾッとしてしまう。

しかし、ホント、なんで気付かなかったのかなあ。後から思えばあからさまな伏線が数々、あったのに、
ルシアが遙の家に引き取られた時、二人は同い年で、同じように髪が長くて、背格好も良く似ていて、そしてまるで小さな恋人たちのように仲が良くて、ちょっと遠目にはどちらがどちらか見分けがつかないような感じだった。

もちろんお顔は全然違う。寄ってくれれば判るんだけど、コロコロとじゃれあうように仲がいい様を引きのショットで見せると、見分けがつかない。
二人、ピアノのレッスンを受けているシーンもあって、どちらかが先生に褒められて、どちらかはまだまだねと言われる。それがどっちがどっちだったか、判らないの。私だけかもしれないけど(爆)。

だからこの少女シーンを見ている時、ちょっと焦ってね(恥)、つまりこの二人が見分けられないことは、本作を見ていくのに重大なエラーになるだろうということは、直感的に気付いては、いたんだな。
でもそこまで気付いていたのに、なんでそのカラクリに気付かない私(爆)。

まあ、基本は生き残った遙(本当はルシアだけど、めんどくさいからこの後は遙で行っちゃう)の遺産を狙っているのか、彼女の命を狙っているかのような仕掛けが施され、さあ犯人は誰だ、という部分に観客の興味を引きつけるからなんだけど。
そういうところが上手い、ということなんだろうなあ。アッサリそっちにホンローされちゃったもん(爆)。
だから、その犯人がお手伝いさんと、おじいさんの片腕で、その後会社を引き継いだ社長(サエキケンゾウ氏だったか!なんかふっくらしちゃってて、判んなかった(爆))と断定されるも、なんかそれって予想の範囲内(いや、それすら予想出来てなかったけど(爆))で、これで解決する感じって、ピンと来ないなあ、と、なんかウズウズというか、落ち着かない気分が続いてて、さ。

犯人探しについては、夢見がちで頼りないが故、祖父から遺産を簡単に渡してもらえない仕組みにされてしまった遙の叔父とか、いかにも怪しいセッティングだったし、まあ家政婦さんもその範疇に入っていたけれど、とにかく、なんかしっくりと来なかった。
と、いうのは、私、このピアニストさん、遙をレッスンしている若き先生こそが最も怪しい位置関係だよな、と思って見ていたからさぁ。
でもそんな重大さを背負わせるには清塚氏は先述のとおり、まるで利重監督の分身のように人懐こく、影がなく。
でもそれこそが、なのかも!と心に言い聞かせてもどうしてもそうは思えず、だから犯人が一応断定されても、どっちつかず、落ち着かず、だったのが、オチは犯人探しでは、なかったのだもの。

それにしても形成手術で別人だなんて、そらま今の医療技術なら可能だろうけれど、それにしてもそれにしても、……あまりにロマンティックだよな、と思う。
あー、でもクヤしい!なぜ気付けなかったの!何より大きな伏線、火傷の形成に、身体の方は色の違う皮膚を使うしかなく、つぎはぎのようになっている、だなんて、まさにブラックジャックじゃないの!
そこに気付いてしまえば、写真を頼りに顔を復元する形成手術、つまり他人ソックリに変えてしまう天才外科医の存在、じゃないの!って!!

このBJばりの天才外科医役には吉沢悠。これがまた、なんというか、ズルいのよーっ。
いや確かに彼は自信満々に、形成手術の完璧さを自負している。でも何たって吉沢悠、だからさ。人の良さ、柔らかい雰囲気。これもやっぱり利重族だと思う。
リハビリにも有用なピアノで見事な演奏を聴かせる遙に目を見張り、「岬先生(ピアノの先生の清塚氏ね。)は魔法使いなんです。……新条先生(吉沢氏)もですよ」と彼女から言われて、照れ笑いを浮かべる。遙のコンクールの晴れ舞台にもちゃんと駆けつけるし、ホント、いい人。
だから、ブラックジャックとか頭をかすめても、忘れちゃう訳。これがネライ通りだとしたら、利重監督、イイ人どころかメッチャしたたかやん!

過去回想、というよりは、前半のメインとなる遙とルシアの、少女、というより童女時代は、本当にキラキラと美しく可憐で、哀しいまでの優しさに満ちていて、見とれるばかりである。
その一方で、先述した二人の相似形、双子のような見せ方、着ている物も良く似ていて、それも乙女チックなそれで、そしてあのおにんぎょさんみたいな毛先にウェーブのかかったラブリーなヘアスタイルといい、その時には、なんで、こんなん、頭に浮かぶんだろうと思いながら、どうしても頭に浮かんで仕方なかった、あのコワイコワイ「シャイニング」の双子の幽霊。

……ひょっとしたら、それも計算のうちだったのかなあ、と思う。
成長した、つまりあの火事の前の、女子高生である遙とルシアは、決して似ていない。もちろん、顔の整形で判らなくなるぐらいだから、背格好は似ていたんだろう。
そして手の大きさの違いで当然、岬先生は気付き、小さな頃から二人を見てきた家政婦さんも気付く、のだけれど。

そう、手の大きさで気付く。家政婦さんは二人を見続けてきたからだけど、岬先生は二人が写った写真で気付いてしまうというのはさすがである。
彼によると、大きな手を持っていて、楽にオクターブ届いてしまったのは、死んでしまった遙の方だった。ルシアがピアニストの夢を諦めたのは、そういう先天的な不利にも当然気付いていたこともあったと思う……。

ピアニストになってどうしても弾きたい曲がある、と、遙、ていうか中身はルシアは、岬先生に訴えた。
それはルシア自身が、遥がピアニストになった時、自分のために弾いてほしいと言った曲だった。ドビュッシーの「月の光」

学校の宣伝、ミセモノ、周りの冷ややかな視線に遥(中身はルシア……結局こうなっちゃう(爆))は耐えきれなくなってくる。
でも岬先生は、どうしても弾きたい曲があるんだという彼女の思いを尊重する。というかちょっとビックリするぐらい後押しする。

手術後間もないこともあって、彼女の指は数分しか耐えられない。練習で少しずつその時間を延ばしてはいるけれど、限界がある。
「月の光」は尺の長い曲。自由曲で選んだこの曲にたどり着きたいために、課題曲を早く終わらせようとする遥に岬先生が、音楽に対する罵倒だ、と怒り、本当に「月の光」を弾きたいのなら、それを今回は諦めて、課題曲だけで壇上から下りる勇気も必要だ、と説く。

この台詞は、まさに、ピアノを、音楽を愛する岬先生の、清塚氏の、そして利重氏の、気持だと、思う。
それでもやっぱりヒロインだから、「月の光」を弾くしかなく、それには、観客を感動させるには、多くの仕掛けが必要になってくる訳で。
本当は私はルシアなのだと、この時点では当然、明らかになっていて、それがゆえに、ショックを受けて事故に遭い、意識不明になっている母親、なんていう、これまた、うーむ……な展開があったりするんである。

遥……いや、もうこの時点ではルシアと言った方がいいよな!は、指が動かないパニックに襲われ、そのことによって岬先生に全てを打ち明け、もうとにかくとにかく、壇上に上がる。
「先生、キスしてください。もう私は捕まって、先生に会えないかもしれないから……」と泣きそうに切羽詰ったルシアと、そんな彼女の台詞にあわてふためく岬先生の様子は確かに少女マンガチックに萌え萌えだが、私的にはもっと萌え萌えな人物が(爆)。

一時は犯人かと疑ってしまった(爆爆)、あの頼りない叔父さん。確かに頼りないけど、憎めない人物。
一方で彼を叱責する遥のお父さんはさ、柳憂怜氏が演じてるんだけど、ザ・日本のぎこちないお父さんでさ。
柳氏がそんな人物を、キャラを、完璧に出してくることこそがビックリしたんだけど(爆。だって私ら世代はやっぱり……そりゃ彼がいい役者だってことは、判ってるけどさあ)。

でまあ、脱線したけど、この叔父さんは皆から、フラフラしてるだの、居候してて自立心がないだの、絵を描いてはいるけど、才能なんてあるわけないとか、まあそこまで直裁に言ってはいないけど、まあそういう、感じなのさ。
だから彼の立ち位置は微妙で、ホントに才能があるかどうかって明らかにされないまま、結局最後までいっちゃうからさ、そうなると、どっちにも転べるじゃん。
でも、この叔父さんは、良かった、最後まで、姪っ子たちを純粋に愛し、慈しんでくれた。本当にそれが、嬉しかったんだなあ!

学園の先生役、戸田氏、三ツ矢氏の声優コンビ、これはぜーーったい、ワザとらし芝居をつけられたんだろうなあ、笑っちゃうぐらい、嬉しくなっちゃうぐらい、ワザとらしーっ。戸田氏であり三ツ矢氏のワザとらしさ。
この人物造形は、遥=ルシアにとってメッチャイヤな存在じゃん、だからいくらでも悪人に出来たと思うのに、やっぱりここにも、利重監督の分身を感じちゃうんだよなあ……。

それこそ結句悪役、加納役のサエキけんぞう氏だって、ね。しかし、ホント判んなかった……なんか縮んで、膨らんだような(爆)。なんかなんか、ビックリしたわ、ホントに(汗)。

ヒロインの橋本愛嬢は恐らく今最もときめく、注目度ナンバーワンの女優。端正な容姿はもちろんだが、その目力(強いばかりじゃない、くっきりと印象的な)がひきつける。
彼女はもちろん良かったけど、影の主人公と言うべきルシアを演じる相楽樹嬢の繊細さ、リリカルさにときめく。こういう、普通そうなのに琴線震わせる女の子にメッチャヨワいの(爆)。 ★★★☆☆


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