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「ゆ」


2016年鑑賞作品

夢の女 ユメノヒト
2015年 71分 日本 カラー
監督:坂本礼 脚本:中野太
撮影:鏡早智 音楽:宇波拓
出演:佐野和宏 伊藤清美 和田華子 西山真来 小林節彦 川瀬陽太 吉岡睦雄 櫻井拓也 伊藤猛


2016/4/14/木 劇場(ポレポレ東中野/レイト)
この作品の元ネタだという、やはり佐野氏が出ていたというハートネットTVを見たかった!と思って。そんな番組があったなんて全然知らなかった。やはりそういう時にNHK、ことにEテレは力を発揮するなあと思う。しかも佐野氏が。それは観たかった。
ということは、その時にも既に佐野氏は声を失っていた、ということなんだろう。つまりその時には既に、声を失ったって役者はやれるんだということを、証明してくれていたということなんだろう。本当に、初めてのケースだと思う。突破口を開いてくれた。声を失ったって、役者はやれる。やれない理由なんてないんだ、って。

声を失ったというのもそうだけれど、彼ががんを患ったということを知った時は本当にショックだったけれど、今こうして変わらぬ、いやプラス違う魅力をまとって元気でいてくれている佐野氏を見ると本当に嬉しくなるのだ。
本作の彼は、この間観た佐野氏自身の監督作「バット・オンリー・ラヴ」とはまた違った可愛らしさがあって、なんというかいじらしくって、じーんと心にしみるものがあった。
旅の途中、乗せてくれたトラックの運転手の女性が自分から誘う形で彼と関係を持つんだけれど、それがピンクの流れでよくあるような、男性側の願望描写というか、ちょっとありえないよねと思えるようなものじゃなくって、なんかすんなりと判る気がしたのだ。ああこの人に、何か手を差し伸べてあげたくなる。こういう形でも、って。

その元ネタというのは、まんま本作の設定、震災後に精神病院を出た男、というものだったらしいのだが、その時点で正常だと判った、ただ精神病院に何十年も押し込められていた、という部分もそうだったのだろうか??
確かにEテレでバリバラなんかを見ていると、精神疾患というものは、どこに一線を引き、“普通”とどう違うのだろうかという気がしてくることがある。“普通”の人たちにとって都合の悪いタイプの人間を、精神病扱いにするような。
それは広く言えば知的障害やら身体障害やら、そういったマイナーな人たちにも及ぶこと……ていうか、もはやそれはマイナーですらない数に及んでいるのに。

などという、現代社会に対する警鐘も感じつつ、なんといっても震災、なんである。しかもど真ん中の双葉町から物語はスタートする。震災後に対するアレルギーはここでも何度となく口にしていたけれど、これほどど真ん中にスタートされると、アレルギーを発するヒマがないというか。
そのアレルギー症状が出る時っていうのは、何か遠いところから言葉だけで、それも記号的な、言い当ててるでしょ、みたいなカッコつけた言葉だけで語られる時が最も顕著に出るんであって、本作はもう、ドカンと懐に飛び込んでスタートしたもんだから、なんだかズルいなっていうか……。

ズルいっていうのは、ここが、双葉町っていうのが、もう世界的にもすっかりあの、双葉町、ってことで有名になってしまった場所だというのに、原発がどうのということが、必要以上には語られないこと、なんである。
勿論触れられはする。同級生として出てくるおじさんや、なんといっても物語のスタート、ドキュメンタリーさながらに揺れる車内カメラから映し出される、ゴーストタウンのような静まり返った街並みや、道路わきに立つマスクをした警備員、「ごめんね、暑いけど」といって車の窓を閉める風子、といった描写には、きちんと示されはする。
でもそれは、避けるのもヘンだよね、といった程度というか、勿論ホーシャノーに対するもうすっかり植え付けられた恐ろしさを示す、といった感じで、私が常々アレルギー症状を抱えてきた、したり顔で原発の恐ろしさを語りあげる、ということではないのだ。皮膚感覚というか、誤解を恐れずに言えばしょうがないよねというか。

佐野氏演じる、精神病院を何十年ぶりかに出た男、永野は、東京を目指す。そこに会いたい人がいるからである。中学時代の同級生の幸子。彼は立石さん、と呼んでいる。その呼び方がいかにも、中学生というか、あくまでその関係性で今、すっかり初老という年まで来てしまった二人、っていう感じがするんである。
オチバレでさっそく言ってしまうと、彼自身は立石さんによって童貞を卒業したと思っているのだが、実際は先にフライングしちゃって、二発目はお金がなくって手コキで終わってしまったというのが真実だったんである。
でも何度となく挿入される回想(妄想?)で、彼は確かに立石さんの中に入れたと思っていた。その思いで、病院を出た後彼女に会いに行った。なぜ私に?と言う立石さんに永野は筆談でこう答えたのだ。「立石さんしか思いつかなかった」と。

筆談でコミュニケーションをとる永野だけど、その字を映し出す場面は不思議なほどに現れないのだ。それは「バット・オンリー・ラヴ」でもそうだったけど、これが不思議にフラストレーションはなくって、だってそれを読み取った相手のリアクションで、充分にそれが伝わるから、むしろ字面を映し出すのはヤボだろうと思っちゃうんである。
でも映し出さないからこそ、ここぞという時にそれが現れると、なんか胸に迫るのだ。立石さんしか思いつかなかった。それは、彼が本当にたった一人、まるでパジャマ姿みたいな無防備なカッコでスクリーンに登場し、そう、本当に、迷子になった中学生みたいな風情でいるから、その言葉が本当に胸に迫るのだ。

だって、家族が全然、出てこなかった。その影もなかった。立石さん側は、息子夫婦のいる東京に避難してきて、夫婦が旅行中の今、孫娘と一緒にスナックを切り盛りしていて、みたいな、そういう形をズバッと示しているからこそ、永野の側のその希薄さ、というより皆無さがより鮮明に立ち上るのだ。

今はもう、かつての骨格のしっかりしたシナリオで作られる映画、という感じではなくなってきてるから、恋人同士の話ならその二人だけしか出てこないとか、キャラの強烈さだけに頼ってその人のバックグラウンドが全く描かれないとか、いうことは、もうそのことに違和感を感じることすら時代遅れなのかもというぐらい普通になってきちゃっているんだけれど、やはり、描かないのならこういうやり方で意味づけをするのが重要だよね、と、これまでちょくちょく感じていたフラストレーションが解消されたような気がした。
精神病のレッテルを貼られた彼には、震災を経てすら家族の影さえ現れない。それが精神病者たちが抱える現実なのだと。

そう、最初に遭遇する同級生が、立石さんの情報を持ってきてくれて、その時に当時の同級生たちのその後を一人語りのように教えてくれるのよね。
震災を経てしまったから、津波で亡くなった人だって当然いる訳なのだ。離婚を余儀なくされた人もいる。そんなあれこれを同級生はさらりと語るのだが、そんなことさえも、ある意味永野にとってはうらやましい、と言ってしまったら語弊があるかもしれないが、そうした人生のドラマから完全に取り残されてしまっていたのだ。震災からさえも。
でも、そう……震災のおかげで、彼は病院から出られた。本作のテーマとなる言葉、震災のおかげで、私たち再会できたんだね。それぐらいの大きなことがなければ、精神疾患というレッテルを貼られた人たちは、社会から隔離されているのだということ。
私たちには全く見えないところにいる。その存在さえも明らかにされていないから、探しに行くことすらできない。いないものに、されていたのだということ。

本当だったら、そのテーマ自体が凄く重くって、震災がらみにすべきじゃないものなのかもしれない。でも、震災もこのバリアフリー問題も、それを単体で語ると、逆に人間そのものを描写することが途端に難しくなるのだ。人間が関わっていることなのに。人間そのものの問題になのに、震災とか障害とかの社会問題になってしまう。
佐野氏は声を失って、声以上のものを持って戻ってきた。声が出ないことで、たどたどしい筆談でのコミュニケーションで、どこかいじらしく可愛らしい印象を付加されたのは、彼自身にとってはどういう感覚なのかなあとも思うが、先日の「バット・オンリー・ラヴ」であいさつに来ていた彼は、逆にその照れ屋さんな感じが寡黙でいっそう増して、今まで以上にとても色っぽく感じたのだ。

永野が軽トラの運転手の風子と出会って、自転車で東京を目指そうとしていたのが電車の乗り方を教えてもらう。その途中、立ち寄ったスナックで、手当をもらってぶらぶらしている、と被災者を糾弾する、“汗水たらして働いている”男二人が、その揶揄した相手とケンカになる。
この場面にはすこうし、私がアレルギー症状を起こしやすい、判り易い社会の図式が見え隠れしてヒヤリとしたが、その判りやすさを乗り越える形で、男たちが永野の旅ゆきにシンパシーを感じてケンカを収めるのが、まあ逃げのように感じなくもないけど、なにかホッとさせられるのだ。
童貞を捨てた相手に会いたいって、なんか判る。俺はフーゾクでだった、俺の相手は津波で死んじゃった……ってあたりはまたゾワゾワしたが、でも男たちの青春が切なく甘く沈殿するこの場面は、普遍的に魅力的だった。

ピンクの制作陣、役者陣が揃っている割には15Rでとどまってるんだなあ、と思ったら、いわゆるカラミは皆無で、若手のおっぱいと、その先にカラミがあるのだろうと思わせる示唆のみだというのはちょっと拍子抜けしたが、多くの人に見てもらいたいという思いがあったのかもしれない。
立石さんの孫娘が、回想シーンの立石さんの若い頃も兼任し、最も積極的に見せてはくれるものの、立ちんぼとして永野を上野駅でひっかけてホテルに連れこんでも、彼がシャワーを浴びている間にトンズラしちゃうし、やはりこれは、ピンク映画ではない、という自負のもとに作られているのかもしれない、と思う。

ベテラン女優の伊藤氏が脱がないことにもかなり意外を感じたが、それこそこの初老同士のカラミを見せてしまえばあっという間に18Rに転落?してしまう。あの時と同じように手コキのみで、二人抱き合うシーンでフェイドアウトしてしまい、その先に「朝帰り」と孫娘にからかわれるのだから、今度こそ、数十年の時を経て最後までいったのかとも思わせるが、いかなかったのかもしれない、とも思わせる。
美しい思い出にしっかりと照準を合わせて、そこから踏み外すことがない。震災や原発や、家族の不在などの社会的問題をちりばめながらも、どこかファンタジーのように美しい。

本作は冒頭で、「猛さんへ」と伊藤猛氏へ捧げられていて、劇中のカラオケ映像に在りし日の彼が映し出されている。「バット・オンリー・ラヴ」でもバーの壁に追悼ポスターが貼られていたし、……伊藤氏は本当に、死にざまというか生き様というか、痩せこけていく様をそのままスクリーンに刻み続けて、そして旅立っていったからさあ、凄く強烈だったから……。
だから佐野氏ががんだったって知った時、即座に伊藤氏を思い出してしまったけど、声を失って、それ以上のものを神様からもらって、彼は戻ってきてくれたのだ。★★★☆☆


湯を沸かすほどの熱い愛
2016年 125分 日本 カラー
監督:中野量太 脚本:中野量太
撮影:池内義浩 音楽:渡邊崇
出演:宮沢りえ 杉咲花 オダギリジョー 松坂桃李 伊東蒼 篠原ゆき子 駿河太郎

2016/11/3/木 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
もちろん、宮沢りえ嬢主演ならそれだけで足を運ぶ充分な理由にはなるのだが、「チチを撮りに」の監督さんの“商業デビュー作”ということに飛び上がったんであった。
観てる観てる、私、「チチを撮りに」観てるよ!!あー、こーゆー時、青田買い頑張ってて良かった。なかなか短編までは手は出ないけどさぁ……んん?つーか、「チチを撮りに」は“商業映画”ではなかったのか。どうも線引きが判らんが。

かといって、「チチを撮りに」に対してもろ手を挙げてスバラシーッ!とか思ってた訳ではなかった。当時の感想を振り返ると、ヘタすると埋没しかねない“良作”というタイプ、みたいな印象を抱いてた。
そーゆー映画はともすると私、本気で忘れるから、よく覚えていたなあと思ったのは、後付けみたいでアレだけど、やはり何かがあったからなのか。

いや正直、渡辺真起子が出てさえすれば私見ちゃうしきっと覚えてるし、何より私イチオシの女優、柳英里紗嬢に“再会”したという点で、忘れられないということもあった。
うん、でも、何かがあった、んだろうなあ。人の死をモチーフにした時にクリエイターが陥りやすい、泣かせ、人生哲学、愛の押しつけ、がなかった。
意識的に避けているようにも思えなくもなかったけれど、優しいオフビートの台詞にクスリとさせられる魅力があって、その優しさが、埋没しそうな良作と思わせたのかもしれないけど、でも今こうして思い出せる魅力は確かにあったのだ。あー、後付けだけど(爆)。いつものよーに、結構クサしてたりもするんだけどさ(爆爆)。

で、本格デビューでこんなゴーカキャスト陣を集めることに成功したのだから、こりゃーてっきりベストセラー小説かなんかがあって、それに運よく抜擢されたのかとかスカして思ってたら、違った。オリジナル脚本!そのホンの力に、これだけのキャストが、デビューのオリジナル脚本に、集まったのであった!!
昨今のエーガ界事情を見るにつけ、これがどれだけ奇跡的なことかは想像するに余りある。なんかそれだけでカンドーしてしまう。このタイトルを検索すると、やはり原作があると思って検索している人たちの跡があって、そうだよな、と思って。これはさ、かなり強い印象を残すデビューなんじゃないだろうか!!

そしてそう思うと、「チチを撮りに」でもそうだった、人の、いや、親の死をモチーフにしているということと、それを感動寄りではなく、その死によって何がもたらされるか、ということに腐心したという点でも共通していることが、かなり興味深く思われるんである。
いや、確かに宣伝的には、余命モノをこんな風に描くのか!!みたいな煽りをしていて、決してそのことで泣かせる作品ではない、とは謳っていたけど、でも充分そのことで泣かせちゃうもんなー、とも思い……。

でもでも、思い返してみると、超号泣してしまったのは、お母ちゃんが死ぬって部分ではなくて、その余命の間にお母ちゃんが奔走することで起こる、周囲の人々のドラマティックな変化に置いてなのだよなと気づかされる訳で。個々人のエピソードで一本の映画が出来そうなぐらい。
つまり、そこにお母ちゃんの余命いくばくもないってエピソードがなくってもいいってことなんだけど、その余命いくばくもないことで、数あるエピソードをガーッ!!と引き寄せて、人生の様々を見せちゃう、なんかもったいない!みたいな。お母ちゃんの“余命”は、触媒にすぎないんだと。

舞台は懐かしの銭湯。でも冒頭では閉まってる。「主人が蒸発したので、しばらく湯は沸かせません」的な絶妙な貼り紙で、まずツカミはオッケーというところである。
りえ嬢扮するお母ちゃん、杉咲花嬢扮する娘の安澄の二人暮らし状態。花嬢は、世間的には朝ドラということなのだろーが、すみません、見てなかったので、本作の彼女を見てハッとした。「トイレのピエタ」のあの子かと!!すみません、しかも私、あの作品の彼女の怒ってばかりのキャラにかなりイライラしていたのでアレだったんだけど(爆)、でもそれだけ、確かに強烈に印象には残っていたのだった。
しかも思い返せばあの作品で、主人公の青年の母親役がりえ嬢だったのではないですか!!不思議につながるこのえにしにドキドキとする。

そうかそうか、「トイレのピエタ」の。あの理不尽なまでに怒ってばかりのあの少女が。本作の、あるいはきっと、世間的なイメージとはかなり、全然、違うであろう。
お母ちゃんが大好きで、学校でいじめられてて苦しんでて、お父ちゃんが腹違いの妹連れて帰ってきて、大好きなお母ちゃんは実は本当のお母ちゃんじゃなくて、大好きなお母ちゃんはもうすぐ死んじゃう、みたいな、この少女とあの子が同じ子だなんて!!!

いじめられている安澄を、厳しく学校に追いやって、逃げてちゃダメだと指導するお母ちゃんの描写に、個人的には、そう簡単に言わないでよ……という思いがあった。
現代のいじめは(いや、明らかにされていないだけで、昔からかもしれないけど)、あまりに残酷で陰湿で、立ち向かわなければいけない、逃げてちゃダメだというのは正解ではないと、私は思ってて。
なぜいじめられる側が闘うという負荷を負わなきゃいけないのだと。それによってボロボロになってしまうぐらいなら、逃げてしまえと。逃げることは決して悪いことじゃないと、思っているもんだから。

なんて思いながらも、制服を隠された安澄が「今は体育の時間じゃないんですけど〜」とからかういじめっ子に対して、初めてのブラジャーとおそろいのショーツという、お母ちゃんが用意してくれた勝負下着いっちょで立ち向かうシーンには号泣し、そうやって闘って勝ち取った制服を着て帰ってきた安澄をお母ちゃんが抱きしめるシーンにさらに号泣してるんだから、世話ないんだけどさ(爆)。
でも、ホント、安澄、演じる花嬢の覚悟の下着姿、ああ思わず頬が赤らむぱつぱつに膨らんだあの肢体(爆)。やべ、お宝やんかー(犯罪者……)。

てか、大事な展開すっ飛ばし過ぎて話進めてるだろ(爆)。パート先のパン屋でめまいで倒れたお母ちゃんは、搬送先の病院で思いがけない宣告を受ける。もう全身にガンが転移してて、手術も抗がん剤も放射線治療も意味がない。余命2ヶ月ってとこだと。この先進医療が発達した時代と国で、こんな豪快な設定もアレだと思うけれど、これはそれ、名女優宮沢りえ嬢の演技で納得させられちゃう。
まず彼女が行動に出たのは、失踪したままの夫を探すこと。「探偵さんに頼んだら、こんなに簡単に見つかっちゃうんですね……」と嘆息するほど簡単に、隣町にいた夫は見つかった。女と一緒かと思いきや、幼い女の子を残してその女は消えており、自分の娘だと言われて呼び寄せられた夫、オダジョーはその“娘”をほっぽっとく訳にもいかなかった、という訳なんである。

この探偵さん、幼い娘を連れた“子連れ探偵”が駿河太郎氏で、イイ感じで最後まで関わってくる。いきなりいろいろネタバレだけど、お母ちゃんもまた実母に捨てられた経験があり、彼女が育てている安澄もまた同様であり、そこにまた、同じ運命の女の子がやってくるという、考えてみれば奇跡的偶然の不幸スパイラル(爆)。
いや、結果的には彼女たちにとっては幸福スパイラルというところだろうが、ここで示されるのは、たとえ自分を捨てた親でも、大好きで、憎むことが出来ないということ。
正直、私見ではちょっとその点についても言いたいことはあるが、私自身は平凡に恵まれた家庭環境に育っているので、あまり大きなことは言えない(爆)。そこんところは、「チチを撮りに」でも印象に残っていたが、監督さん自身のパーソナリティーが反映される部分でもあるとは思うんだけれど。

ちょっと、騙しというか、マジックがかかってるんだよね。オダジョーが浮気して作った子供、鮎子(でもこれも、女がそう言ってるだけで、タネがホントに彼のものかどうかアヤしいけど)に、「いつか必ず迎えに来るから」と言い聞かせて母親が男の元に去っていく回想シーンが、そのままお母ちゃん自身の過去の記憶にすり替わる。
いや、最初からそうだったのかもしれない。鮎子ちゃんだと思わせておいて(いや実際、映像もそうなのだが)、あの回想自体は、お母ちゃんのものだったのかもしれない。
鮎子ちゃんは、お母さんが残した置手紙の文面を信じて、次の自分の誕生日までにはきっと迎えに来てくれると信じて、そのための電車賃を番台から盗んだりして、……それを見つけちゃうお母ちゃん、そしてお父ちゃん(オダジョー)が苦悩して、さあ……。

安澄の本当の母親は、ろう者の女性である。そういう伏線かぁ、と思う。序盤のシークエンスで、健常者に助けを求めているんだけれど話が通じていないろう者の女性の手話を見て、おずおずと通訳をしてみせる安澄である。
毎年りちぎにタカアシガニを送ってくる酒巻さんという女性のことを、親戚の人ぐらいに安澄は思っていたのだろうか。お母ちゃんが安澄と鮎子を連れ出して一泊旅行に出かけた時、お父ちゃんに「全部話してくるね」と言ったのはてっきり、病気のこと、余命のことだとばかり思っていたのが、そうじゃなかった。
いや、最終的にはそれも話すつもりだったのかもしれないが、その前に力尽きて倒れてしまったというところだったのかもしれないけれど……。

あの場面はズルイよねー、と思う。なぜ手話ができるのかと驚く酒巻さんに安澄が「お母ちゃんが、いつか必ず役に立つから、勉強しておきなさいって」と手話で伝える。酒巻さん、号泣。そりゃ観客も号泣。安澄を演じる花嬢の鼻水たらす号泣にもさらに観客の号泣拍車かけられちゃう。
酒巻さんは、生まれた赤ちゃんの声も、その気持ちも聞こえなかったことで、若かったこともあってか逃げ出してしまったのだという、そういうバックボーンが記されている。
あまり明確にはされていないけれど、この流れだとお父ちゃんがその赤ちゃん、つまり安澄をつれた状態でお母ちゃんと出会い、再婚したということなのだろうと思う。

そして現在軸で、お父ちゃんは同じような感じで女が捨てた子供を引き取っている。まぁ、今までの価値観自体が古いのかもしれない。子供が出来て怖気づいて逃げるのは男、女は母性で子供と離れられないのが当然、みたいな。
前者の男性像は糾弾されて当然だが、後者の女性像が当たり前に言われて、実際苦しめられてきたのは事実で。だから溜飲が下がってもいいぐらいなのだが、でもここでは、血のつながりがなくてもお母ちゃんであるりえ嬢の存在がだからこそ高尚なものになり、逃げだした女たちが結局は糾弾されている風にも思えて、少し息苦しい気持ちにも、なるんである。
血のつながり云々の話はキライだが、血のつながりがなくてもお母ちゃんであることを賛辞されるんだなあ……と思って。

お母ちゃんを捨てたお母ちゃんのお母ちゃんは、「私にはそんな娘はいません」と言い切り、今の家族の中で幸福そうに暮らしている。お母ちゃんは、もう余命いくばくもないフラフラの状態でその様子を見に行き、置物を投げつけて窓ガラスを割って逃げてくる。
ヒドい母親だから当然の逆襲とも思うが、本当の娘を捨てても、長年暮らしてきた家族、孫を大事に思って優先した彼女はその意味では誠実なのかもしれないと思う。責められること、憎まれることは覚悟の上なのだと。

なんかこの流れだと、すっかりトーリ君を忘れてしまいそうになるんだけれど(爆)。お母ちゃんが娘たちに本当のことを告げるために連れ出した箱根への旅の途中でヒッチハイクしていた青年。
お母ちゃんから見れば充分に恵まれた甘えたちゃん。北海道出身だとウソをついていた彼に「北海道最北端のゴール」という目標を与え、再会を約束する。ただ黙って、背伸びをするように彼の頭をかき抱いて抱きしめてやる。ただそれだけが、なぜ人の心を溶かすのか。

彼が無事その目標を達成して彼女たちに会いに来た時、もうお母ちゃんは深刻な事態になっている。彼が戻ってきた物語的理由は、本作のあっと驚くラストに関わっている。
夫のオダジョーがお母ちゃんに連れ戻されて(お玉の“丸くない部分”でぶん殴られて流血するこのシーン、サイコー!!)銭湯を再開した時、ええっ、現代の銭湯も薪でやってるの、うっそ!と思った。実際、それはないだろうと思う……トーリ君扮する拓海君が住み込みで弟子入りし、薪で湯を沸かす技術を伝達される。

そしてお母ちゃんが安らかにこの世を去る。銭湯でお葬式を催すのには感動したがそれには理由があったんである。最後のお別れと称して、身内以外はご遠慮願った。しかし、拓海君と探偵さんは身内じゃないのに残った。つまり、共犯者だから。
霊柩車を運転するのは探偵さん。もうこの時点でアヤしい。明らかに火葬場には向かってない。のどかなノッパラで弁当なんぞ食っている。時間稼ぎである。
こんなことしちゃダメですよね、ダメですよ。でもあの人のためなら何でもしてあげたい、って思っちゃうんですよね。ああ、判った、判った!!つまりこれは、お母ちゃんの遺言だったのだ。絶対にそうだ。

次のシーン、家族みんなが幸せそうに湯につかっている。あったかいね、と言う。拓海君がせっせと薪をくべている。ゴウゴウと燃える薪。その奥をのぞき込むようにするカメラ。
さすがにその奥に何が燃えているのかは見えないけれど、劇中何度も言及された、お母ちゃんのイメージカラー、赤い煙が、赤い煙なんてありえないんだけれど!赤い煙が、あの銭湯の高い高い煙突からもくもくと漂い出るのだ!!

エジプトに行きたかったのに、と冗談めかして言っていたお母ちゃん。口ばっかりのお父ちゃんがいっしょうけんめいお母ちゃんのために考えた結果の、ショボい手作り木製ピラミッド、ショボい人間ピラミッドに、しょうがねぇなーと思いながらも、泣いてしまう。それを見て死にたくない、生きたいよ!!と号泣するお母ちゃん、っていうのは、かなり商業向きだとは思ったが……。
この後、表情を作ることもできないぐらいの状態に陥った、能面のようなお母ちゃんと安澄との場面、入院した時から怖気づいて見舞いに行けないお父ちゃん、死にゆくお母ちゃんの様子は残酷なぐらいリアルで、でも死ぬ場面を示して泣かせをあおることはしなかったあたりが、監督さんの矜持だったんじゃないかと思う。
タイトルが、そうだ、出てなかったんだっけ。このオチがあるから、気になるタイトルだなーと思わせながらもとっておいたのか、上手い!!★★★★☆


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