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2016年鑑賞作品

俳優 亀岡拓次
2015年 123分 日本 カラー
監督:横浜聡子 脚本:横浜聡子
撮影:鎌苅洋一 音楽:大友良英
出演:安田顕 麻生久美子 宇野祥平 新井浩文 染谷将太 浅香航大 杉田かおる 工藤夕貴 三田佳子 山崎努 大森立嗣 野嵜好美 不破万作 戌井昭人 金子清文 平田薫 中沢青六 鈴木晋介 日向丈 メラニー ガルシア・リカルド

2016/2/8/月 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
ヤスケン主演ということで、去年の年末、劇場でチラシを発見し飛び上がる。と同時に、横浜監督かぁ……と飛び下がる(爆)。
デビュー時からとにかく天才との呼び声高いお人だが、私にはそれがいまひとつよく判らない。いや、むしろデビュー作はついて行けなさすぎて、これが天才というものなのかも……好きな人は好きなのかも……と思ったが、本作に関しては原作もあり、その原作は決して奇をてらったものではなくむしろハートフルな部類のものであり、その主人公は、確かにまるでヤスケンにあてがきしたかのようにピタリとくるのだが、それだけになんだかムズムズとするんである。

いや、原作未読なのに判ったようなこと言っているが(爆)、一応筋書きだけ追えば、なんていうか、いい意味でフツー、なんだもの。言ってしまえばこれをあの若手監督あたりが作ったら、私フツーに大好きかもしれないと思ったんだもの(フツーに大好きというのもアレだが……)。
多分ね、あのスペイン監督のオーディションのあたりとか、恋する彼女の元へと大人おむつをはいて(まあこのあたりの事情は後述……するかな……)スクーターを走らせる、恐らく背景だけを飛ばしている撮り方とかが、横浜監督っぽいのだろうと思われるが、まあこれがまた(特にオーディションシーンは)長くて、横浜監督苦手意識の私はかなり、くたびれてしまった。

そうよ、むしろこの人は、こんな一見フツーにイイ話を撮らない方がイイ。だっておかしな話とマッチングする役者、松ケンで撮られた「ウルトラミラクルラブストーリー」はついていけないながらも、今でも不思議と印象に残っているんだもの。前作の「りんごのうかの少女」は年末の忙しさで見逃した、のが悔しいかどうかが微妙なところが、微妙(爆)。

ところによればヤスケン初主演などとも書かれるが、単独主演という意味では二度目、だよね?その最初 は身内映画と言ってもいい作品だったので、そこからの数年、大泉先生の名を借りずとも彼もビッグネームになったし、何より横浜監督からのラブコールという話も聞いていたので、そのあたりは嬉しく思っていたのだが、ラストクレジットでオフィスキューやら北海道テレビががっつり製作陣に関わっているのでちょっとガクリとくる。
いや別にいいんだけど(爆)、大泉先生だってそういう作品はいっぱいあるしさ。でも、二度目の主演の本作は真の主演という意味合いと思っていたから、ちょっと……しかもぐだぐだ言ってきたようになんかピンとこなかったし(爆)。

脇役物語、というのは、魅力的に見えて意外に難しいのかもしれない。脇役が主役、というだけで面白くなりそうだが、これが案外と……などと思うのは、パッと思い浮かんじゃった、そのまんまのテーマの映画があったのだよ、それもそのまま「脇役物語」これがサイアクにつまんなくて、つまんなすぎて忘れられない映画(爆)。
テーマのせいではないと思うけれど、でもそのことによりかかるだけでは面白くならないのが、脇役が主役になる物語なのだと、本作を見てもちょっと、思ったりするんである。

ヤスケンはピタリと思ったけど、やっぱりちょっと違うんだもの。脇役の中でも重要ポストを任されている昨今のヤスケンにピタリというには、このキャラはつましすぎるのだ。かといって、ホントのホントに、このつましい脇役役者にドンピシャの役者を持って来たら、それこそ商業映画にならない(爆)。
いや、そう書いてみたら、むしろそれが観たいような気もした。ホントの意味でのそういう役者って、絶対いるじゃない。ヤスケンは、最初から”ある意味”有名だったし、その”ある意味”を自ら超えて、今がある。やっぱりちょっと、違うんだよなあ。

勿論、横浜監督が惚れこんだ部分はそんなとこじゃなくって、きっときっと、ヤスケン自身の風情というか、風合いというか、独特のヤスケンオーラだと思うんだけれど。
彼自身は早くからの妻子持ちだからこんな寂しい設定がそのままドンピシャという訳ではないが、酒に溺れているイメージは、昔からのファンにとってはそうそう、と思っちゃうんである。

ま、ぐだぐだ言っていてもナンなので、なんとなく本編に行く。冒頭シーンはいわゆるイケメン俳優のこだわりに監督がキレて、亀岡の芝居を見せろ、という撮影シーンから始まる。
亀岡はホームレス役。撃たれてあっさり仰向けになって動かなくなる。鼻白むイケメン俳優。このイケメン君、役名は貝塚トオルは後々、亀岡が大ファンであるスペイン監督のオーディションに見事合格するという展開もあり、この、ただイケメンなだけの男の子はだぁれと思ったら、マッサンの鴨居長男かぁ!と思う。
この役はまさに、ただイケメンなだけの役なので、なかなかにツラいものが本人的にはあったろうなぁ、と思う。それでイヤなヤツとか、特にそういうスパイスが効いている訳でも、ないんだもの。ただ死ぬだけの場面に妙なこだわりを持つ冒頭のシーンはほんのお約束程度という感じだしなあ。

そういうところなのかもしれない。ベタで俗な映画ファンとしては、そういう、ベタベタな対立シーンを見たかったのかもしれない。
ない訳じゃないんだけど、正直さらりと過ぎ行く印象。イケメン俳優は、そんな言うほどイケメン俳優なムードを残さずに過ぎ行き、だからこそ、脇役俳優である亀岡(ならず、その周囲の仲間たちも)、思ったほどその対照が引き立たないのだ。

まあそれこそが横浜監督の持ち味、そんなベタなところに力を注がないというところなんだろうけれど……。
撮影が終われば小体な酒場に直行、家に帰るシーンは皆無という徹底ぶりの亀岡は、ある意味私生活、あるいは生活感がない、という男。生活感がない、という言葉のイメージからは百八十度違う方向に行っているが、そこんところが印象付けられなかったのはもったいなかった気もしている。

そう、自宅のシーンがなかったな、と思ったのは、こうして書いている今、なんだもの。つまり彼には真のプライベート、真のひとりぼっちがないのだ。それが観ている時に判らず、ただただ飲んだくれている男にしか見えなかったことが、もったいない、と思った。
まあただ単にそれに気づかなかった私がアホだったのかもしれんが(爆)、通常、一人暮らしの寂しい酒飲み男を描く時には、一人きりの部屋で、はぁ……とため息でもつくシーンはありがちなんだもの。

つーか、酒飲み描写に関して、私はちょっと、不信があるんだよなあ。亀岡が撮影現場近くの小さな飲み屋に入り浸る。ある時間になると、主人は幼馴染と思しき友人と共に遊びに出て行ってしまう。
その後を切り盛りするのは、主人の娘である、妙齢のさっぱりした美人、安曇(麻生久美子)。毎回すっかり酔いつぶれている亀岡、僕がおごりますヨ、という形で彼女と酒を酌み交わす。

その、安曇の飲み方がね、日本酒よ、それをね、美味しそうに、という肩書をつければいいとでもいうように、ぐーーっと、飲み干す訳。しかも、何度も。
ないよね、それは。日本酒だよ?まるでビールみたいにさ。それはないよ。かといってそれが、さっさと相手の酌を終わらせようというつもりなのかと思いきや、そういう訳でもないの。何度も”おいしそうに”受けては飲み干すんだもの。
こーゆーのが、酒が好きな描写だなんて思ってほしくない。ちょいと美人の女性がおいしそうにくーっと飲み干すのがカワイイ、ということ、なんだろうか??いやいやいや!そうだとしたら、女の酒飲みは認められてないってことじゃん!

……そんなところで怒っていたら、それこそただの酒飲み(爆)。ここは亀岡のオアシス。住んでる近所にも、撮影現場の近くのそこここにも、彼は絶妙にイイ感じの”小体な飲み屋”を見つけ、それは時にスナックだったり、安曇のいるようなちょっとした一杯飲み屋だったり、時にキャバクラ……まではいかないような、地方のカラオケスナックだったりして、常に、酩酊している。
いつもいつも飲んでいて、撮影の時ですらおえっぷとなっている。だって移動はバス、そりゃ余計に酔う(爆)。観ている観客であるこっちが、彼の背中の動きだけでもらいゲロしそうなぐらい(爆爆)。

本当に撮影中、まさに本番に水ゲロ(!!!)をぶっ放し、しかもそれを二日連続ぶっ放し(反省しろよ……)、亀岡は伝説を作っちゃう。
その現場の監督、山崎努が最高。水ゲロぶっ放した亀岡を、それを見越してカメラまで増やし、偶然を必然に変える男、と渋く喝さいを送るんである!
とある巨匠をほうふつとさせるって……もしかして黒澤明??そうかも!!山崎努は生ける奇跡。重厚とアバンギャルドを奇跡のバランスで両立させている奇跡の俳優。だから横浜監督作品にさらりと出られるのだ。

それでいったら、亀岡が初めての舞台で相手役となる三田佳子もそうかもしれない。揶揄されるようなイメージの大女優である彼女が、そのイメージをパロディすることさえなく、そのまんま、望むとおりに、ひとつもひねらずに百パーセントで演じ切ることに衝撃を受ける。
百パーセントの三田佳子。作品中はもちろん、劇中の”大物女優”の役名なのだが、役名も三田佳子にしたって良かったんじゃないかと思うぐらいなのだ。
面白いのは、舞台出身であり、今だって絶対に舞台の方を優先してこだわっている筈のヤスケン(というよりナックスさんたち)が、映像にこだわり舞台を断る俳優、という役どころであるということなのだ。

それでも、三田佳子を相手に初舞台に挑戦するシークエンスがあるのだから、むしろそこが際立っているという点では、舞台こそが芝居の場だという意味合い、そういう注目をしてほしい、ということなのかもしれない。そうだよね、実際、原作者も舞台の人なのだし、そうなのかもしれない。そう思うとちょっとムカッとしなくもないけど(爆)。
だってその視点がそもそもあると、本当の意味での脇役俳優の悲哀は、描けないんじゃないの、という気がしなくもないからさあ……。私は、映画ファンだからだろうけれど、そういう、舞台至上主義、みたいな考え方が本当にキライで(爆)、だから余計に、そんなアラ探ししちゃう(爆爆)。

それこそヒロインよ。まあ出番が少ないこと(爆)。実は子供がいる出戻りの安曇。しかもその事実と共に、元ダンナとヨリを戻すことまでもが明らかになる展開は、恋だけで終わることの方が美しく幸せかもしれない、酔いどれ脇役俳優、亀岡に苦くのしかかる。
ちょっとね、この彼女のキャラ設定は薄いよね。ヨリを戻して今度は妻と母を演じきって見せる、という台詞は良かったけど、それはあくまで、脇役俳優としてどんな役も演じきっている亀岡に寄せた台詞だもの。
亀岡が彼女の元に大人用おむつをはいて花束持って会いに行ったのは、その店でついてたテレビで、宇宙飛行士同士のカップルの痴話げんかから発展した傷害事件が報じられていて、相手を殺そうと思った女性が大人用おむつを装着して、長距離を運転していった、というから。

ほんの、酒の席でのテレビの話題に過ぎなかったのに、ここまで引っ張ってきたというのがコワ面白いというか、おむつの中にジャーと音を立てて用を足しちゃうシーンまで似合っちゃうのは、確かにヤスケンしかいないっつーか。
でもね、このテレビを見ながら会話するシーン、宇宙飛行士はおむつをして飛び立つのかとか、どこかでうっすら聞いたことのあるようなウンチクがところどころにさしはさまれるのが妙に気恥ずかしくて(爆)。ホンキで判った風に言われるからかなあ。それも計算なのかもしれないけど……。

結局は本作は、当たり前かもしれないけど、恋物語ではないんだよね。一般向けに(爆)麻生久美子をプッシュしてそんな風に見せてはいるけれど、違うんだよね。
同じ脇役後輩俳優に慕われまくったり、亀岡が出たカルト映画、猫ゾンビに熱狂するオタクっぽい監督がいたり(新井浩文。熱狂しそう)、テキトーすぎるフィリピン女優に(でも、何ともチャーミング)イライラしつつもしつこくテイクを重ねる、いかにも才気ありそうな若手監督に染谷君なんて、彼、映画撮ってるっていうし、なんかそういうことやってそうとか思って、そんな具合に、映画ファンの心をくすぐるあれこれが凄くあって……。

でもそれは、ある意味当たり前だよね。このテーマ自体がそうだし、それをあの、色んな意味で(爆)陰のあるヤスケンが演じるんだもの。本作の”真の”脇役さんたちこそが、キラキラしている。
ちなみに、猫ゾンビの映像は作ってほしいよね。こーゆーのがベタなのだろうとは思う、横浜監督は作らないだろうとは思うのだが、ヤスケンが猫ゾンビで全裸で木から飛び降りる!見たいだろ、普通に!!

個人的に好きなのは神戸ちゃん。彼こそ真の脇役であり、その真の意味を体現している。むしろ横浜監督が作るなら、神戸ちゃんを主役にするような映画だと思ったり。★★★☆☆


馬喰一代
1963年 104分 日本 モノクロ
監督:瀬川昌治 脚本:田坂啓
撮影:藤井静 音楽:斎藤一郎
出演:三國連太郎 新珠三千代 金子吉延 中尾純夫 西村晃 中村是好 岩崎加根子 藤里まゆみ 多々良純 関山耕司 杉義一 沢彰謙 渡辺篤 桧郁子 大東良 香月三千代 相馬剛三 山本みどり 三條美紀 小笠原慶子 星徹 伊達宏 打越正八 森弦太郎 三重街竜 久地明 最上逸馬 三田耕作 大場健二 中山正男 滝千江子

2016/1/10/日 劇場(神保町シアター)
馬喰という言葉の意味さえ、知らなかった。馬喰町、と打たなければ出てこない。本来はばくろう、と読むのね。
もう今は、この職業は恐らく、ないんじゃなかろうかと思われる。いや、ないということもないか、でもこういう呼び名はないだろうと思う。私が初めて聞いただけかもしれないけど(爆)。
馬を育て、売り買いする。目利きは勿論、旅をしながらいい馬を探し、自分の元で健やかに育てなければいけない。

北見の馬喰は他の馬喰とは違う、男の中の男だという誇りから、時代の波に乗り遅れた男臭い米太郎を、三國連太郎が実に男臭く演じる。
本作はそれより前に一度同じ原作で作られていて、その時の米太郎が三船敏郎だというのがかなり気になる。単純に、このキャラそのもので考えれば、三船氏の方がしっくり似合うような気もする。
でも三國氏演じる米太郎は、荒っぽいけど家族のことを凄く愛しているところとか、頑固だけど正しく指摘されると子供のように首を垂れる素直さとか、何とも言えぬ愛しさが素敵なのよね。
ヒゲヅラの男くささの中にもなんたって三國連太郎だからさぁ、とってもイイ男なので(爆)余計にきゅーんとくるんである。

今回はこの瀬川昌治という監督さんの特集。ひょっとしたら私は初??次の日に観た作品ともども、喜劇の体裁を作りながらも基本真摯で時に重いほどの人間ドラマであり、ものすごく見ごたえがある。
喜劇の体裁、はその次の日に観た方で、本作はヤハリ、人間ドラマ、だよな。北見の馬喰という誇りを、子供の将来のために捨て去る切なさがクライマックス。
いや、捨てたんじゃない。彼の代で終わりにしたのだ。彼の手の中にだけ、その誇りを残して。

まっ、概要から行きますわ。冒頭はね、本当に見事に、彼の人となりや、馬喰の世界を短い時間で行きわたらせるんだわ。
たくさんの馬が闊歩する馬のセリ、米太郎の腕っぷしの噂だけが飛び交い、なかなか本人が登場しないジリジリ感、探し当ててみるとあいまい宿で酌婦に股間蹴られてうめいている三國連太郎!
酌はするけど身体は売らないよ!とぷいと横むく気の強そうな女。笑いさざめく酌婦たち。ああ、もうもうもう、ツカミはOK!噴き出しちゃうし、ワクワクするし、この二人が後々、って判っちゃうし!

でも、この時点では米太郎には女房がいる。どころか、今まさに産気づいたという知らせで仲間が飛び込んできたんである。
喜び勇んで駆けつけるも、難産でまだ産声上げず、親戚仲間は暗い顔。気持ちを静めるために裸になって薪を割る三國連太郎の太マッチョな”馬喰”な体にドキドキする(爆)。
産声が聞こえる。皆が喜色満面になる。男の赤ちゃん、跡継ぎが生まれたと、米太郎はその汗だらけの身体をざんぶと水浴びさせて、その愛しき我が子を抱く。
これ以上の幸せはないと思った。なのに……難産、だったのだ。苦しみぬいた妻は、もうその目はうつろに空を見つめていた。そして、死んでしまったんである。

周囲からは後添えをもらうように勧められるも、米太郎はがんとしてはねつけ、旅の多い馬喰の仕事さえ控えて子育てに専念するんである。
ここがね、まずきゅーんとくるところなんである。勿論ヒロインはもうご登場なさっているんだから、あの気の強い酌婦、新珠三千代とくっつくんだろうと判ってはいるものの、彼は「自分には過ぎた女房」を深く愛し、その後この忘れ形見を慈しみ、時に厳しく育てるにあたって一人頑張ってこられたのは、ずっと彼女への愛と贖罪の念があってこそ、なのだもの。
ならばなぜ、新珠三千代扮するゆきとくっつくことになったかとゆーと、そのあたりも、上手いのだ。この忘れ形見、大平が、出来が良かったからなんである。

その亡き女房の血筋なのかなあ、小学校を三回も落第した(!)米太郎と違って、北見の小さな小学校でも既にその覚えはめでたかった。
大きな仕事を求めて留辺蘂に移り住むことを決意する米太郎は、転校させることになる大平に、1000人の生徒がいる学校でも一番になれるか、と問うた。父と同じく勝ち気な息子は出来る、と答えた。
行ってみると、家庭環境の裕福な寺の息子に抜かされるなどという初めての挫折を味わいながらも、ならば寺の息子になっちまえ!!と父からクリクリ坊主にされるという荒療治をほどこされたりして(笑)、やはり大平はここでも覚えめでたい優等生となるんである。

このランボーな父親に気の強い若い女教師がくってかかって、ついには進学を認めさせる展開がイイの。米太郎は息子に自分の後を継がせて日本一の馬喰にするのが夢だったのに、それとは矛盾する形で、息子の学業を厳しく鍛え上げていたのだもの。
無意識だったかもしれないけれど、自分が出来なかった“勉強を頑張って進学すれば、大臣にだって学者にだってなれる”という、この時代には本当に夢のようなことを、その下準備を、知らず知らず息子にさせていたのだもの。
他人には負けるな、という負けず嫌いさと、学歴のない自分の負い目があいまって。馬喰には、学歴なんて本当は必要なかったのに。

学校の勉強は自分には教えられないから、という口実で、留辺蘂で再会したゆきにプロポーズしたんである。ゆきはもう最初からナゾありきな女でさ。その首に巻いた布がもう、なんか隠してるよね!っていうのがアリアリで。
予想通り。心中しそこなった過去を持つ女だった。まあ、それか、殺されかかったか、どっちかかなと思ってたから、大体当たるわよね(爆)。
冒頭の股間蹴り上げ事件で、おまわりさんの手帳にきれいな字で在所を書いたところからもう、学があるのは判っていたが、米太郎はいつのまにやら、彼女が女学校をちゃんと出ているとゆーことまで突き止めているんである。まあ、ホレちゃってるからネ。

心中の過去があるから、米太郎の突然のプロポーズをその過去を暴露して断るゆき。確かに米太郎は驚くけど、でも、「お前に惚れたからだ!!」ってちゃんと言うの。それまでは大平のためとか色々こねくり回していたんだけど、この言ってほしい一点をズバッと言ってくれたから、もうそれだけでキャー!!となって、こっちは満足しちゃう(爆)。
まあ案の定、米太郎が馬を求めて旅に出ている間に、ゆきは一人残された大平の面倒を見て、もうすっかりラブラブな親子になっちゃってる。

しかし米太郎以上に、ゆきは厳しい指導、なのだよ。ことに、書を教える、そこに重点を置くのが印象的。きれいに書こうとするな、力強く書きなさい、と手を重ねて教える米太郎の書道が時を重ねて描かれ、その力強い筆致は学校の記念行事で大きな書のデモンストレーションを任されるほどになるのだ。
もちろん学業も優等生。父が馬喰になることを望んでいることを知りながらも、進学を夢見る大平。それを知って激怒する米太郎を説き伏せるゆき。でも進学するためのカネがないことを知って大平は悩み、一時は進学を諦めようとするのだけれど……。

こーゆー、娯楽映画には欠かせぬ悪役が、資本主義!!を謳歌する六太郎。演じるは西村晃。ここでは何度も言っているが、後に水戸黄門になるとは信じられない悪役ヅラ(爆)。
でも現代の視点から見れば、六太郎の実業家ぶりは、ごくごく当たり前のことなんだよね。男の中の男、という価値観だけで馬喰にしがみつく米太郎がそれを彼の代で終わらせることになるのは、当然と言えば当然のことなのだ……。

仲間たちは皆、とうに見限って六太郎の傘下に入っている。ゆきとだって、六太郎が経営しているカフェの女給に転職している彼女と出会ったのだ。
たった一人、古くからの付き合いという義理で米太郎についてきた相棒が、貧しさゆえにムリしたバクチがたたって刺されて死んでしまう始末。当然、その女房からはアンタのせいだと痛烈に責められ、米太郎は身の置き所もないのだ……。

凄く、切ないんだよね。米太郎は馬喰、いや、北見の馬喰であることに誇りを持っていたのに、その価値観が、いられる場所が、もう既にないんだもの……。
一応、六太郎が悪役にはなってる。物語中も、自分の馬を一等賞にするために米太郎を金で釣る。大平の進学資金に困っている米太郎は迷いに迷ってその誘いに乗ってしまう。物語の展開上、やむにやまれぬ、というのが、でも実は、ズルいんだよね、やっぱり。
結果的にはゆきが隠し持っていた由緒ある刀剣を売ったお金で八百長を喝破し、その現場を蹴散らすという溜飲が下がりまくる場面が登場するのだが、個人的にはちょっと六太郎が気の毒な気がしたりして(爆)。

だって、この八百長以外は、六太郎はあくまで、実業家として動いていただけで、悪人ヅラだけど、別に悪人という訳じゃ、なかったんだもの。米太郎やその周辺の馬喰たちにとっては、毛色の違う資本主義のヤカラ、ということで価値観が違ったんだろうけれど……。
今見ると、そんな風に思うんだよね。彼のキャラで今描いたら、これ通りにはいかないと思う。いい馬を選定するための市でワイロを使ってズルをした、ということが、判り易く馬喰のプライドを持った米太郎に迷いと決断と大きな行動を起こさせたということなんだもの。

後妻となり、大平を優秀な子供に育て上げたゆき。なんか、咳をし出すのさ。喀血とかするのさ。えーっ!!と思っているうちに、大平は進学のための旅の支度。観客であるこっちはやきもき。
彼女の喀血そのままスルーかよ、と思っているうちに、なんかカンドーの、息子の出立を馬で追いかけるお父さん、叫び合う親子のカンドー!!てなところで終わっちゃって、ええー!!!みたいな!!

で、衝撃のままデータベースなんぞを見てみたら、米太郎は妻の余命いくばくもないことを知って、息子を馬で追いかけてガンバレと声をかけた、と。
えーーーっ!!そんな場面、なかったでしょ!!……こーゆーところが、データベースが作られた時期が脚本が出来上がった時なのか、映画が出来上がった時なのか、とゆー、難しいところなのさ……。
映画、として見ている限りでは、米太郎が妻の病状に気づいているようには思えなかったけどなあ。だから、観ているこっちとしては、そのままスルーかよ!!と思った訳さ。
終、と出て、ええーっ、おかーさん、どーなるのよ!!と思った訳さ。え?私が気づいてないだけ??★★★★☆


函館珈琲
2016年 90分 日本 カラー
監督:西尾孔志 脚本:いとう菜のは
撮影:上野彰吾 音楽:クスミヒデオ
出演:黄川田将也 片岡礼子 中島トニー Azumi あがた森魚 夏樹陽子

2016/10/2/日 劇場(渋谷ユーロスペース)
タイトルだけで飛んでいけるような魅力があった。サブでアルファベットがついてるけど、漢字の「函館珈琲」だけでたまらなく詩的な魅力があった。
函館映画と言えば、昨今はすっかり佐藤泰志三部作が席巻し、その前は辻仁成であり、共にまあその、すこうし暗めの感じが(爆)。
リアルな函館とかそういう意味ではアプローチとして正解なのかもしれないけど、例えば大林監督があくまで尾道を映画的ロマンとして撮ったように、函館映画もそんな作品が観たいんである。

でも尾道とはやはり、その詩的の意味合いはちょっと違う。劇中、東京からこの函館の地にやってきた桧山君がお定まりに「エキゾチックで異国情緒があって……」と言うと、先輩女史が笑って言う。「それはガイドブックに載ってる言葉でしょ。自分にとっての函館を探しなさい」
そして桧山君がたどり着いた答えは、「流れている時間が違う」こと。それもまた少々お定まりではあるんだけれど……そう、もう一人の住人、相澤君の言う台詞の方がしっくりくる。「函館は、ほっといてくれる」

これはまるで、大都会東京を評したような言葉だけれど、その、無関心のほっとく、ではなくて、見守りながらほっとくというか、触れ合いながらほっとくというか、そういう感じなのではないかなと思う。
そしてそれが桧山君にとっては「流れている時間が違う」ように感じ、彼もまたいい感じにほっとかれて、こごっていた心がさらさら流れるようになったのかもしれない。

などと、つらつら書いていても仕方ないので。そうそう、函館というのもそうだが、これは函館港イルミナシオン映画祭から産まれた映画でもある、というのは特筆しておかなければならない。なんというか、とてもイルミナシオン映画祭らしい、映画である、
だなんていうほど、その映画祭に関わる映画を観ている訳ではないのだが、私が最初に触れた(当時は函館ロープウェイ映画祭、だった)「とどかずの町で」の静謐なモノクロの名作があまりにも素晴らしかったので、もうその印象でズーッと来ているのであった。
思えば「パコダテ人」などとゆーポップなものもあったのだから(あの作品で私はヨーちゃんを初めて知ったのだった)、そんな一辺倒なイメージでとらえるべきではないんだけれど。

主人公は桧山君。演じるは黄川田将也。字面は見たことあるが、ドラマ見ない私にはあまりピンと来てない。全く毒のない青年、という感じ。いい意味でも悪い意味でも。
彼は確かに主人公だが、本作においては様々な人々の触媒になるといった感触も強い。周囲の人々も特に強烈という訳ではない、穏やかな人々ばかりなのだけれど、彼の毒のなさが、周囲の人々の静かな個性こそを引き出す感じ。

桧山君は、小説家。一応。第一作以降、書けない。劇中、「仕事のついでに」訪ねてきたという、編集者と思しきおじさまが「第一作以降、書けない作家なんていくらでもいる」と、はげましてるんだか、くさしているんだかわからないことを言う。
それでも、きっと彼は書けると信じている、数少ないうちの一人なのだろうと思う。いや、もしかしたらたった一人かも。
この函館の地に降り立って出会った人たちは、小説家としての彼と出会った訳じゃない。小説書いてたんだ、そうか、という感じ。それは冷たいんじゃなくて、それこそ「ほっとく」感じなのだ。自分から動きださなければ何も始まらないのは、ここの住人たちが一番よく、知ってる。

ここの、住人たち。桧山君が訪れたのは、いかにも函館っぽい古い洋館。ドアを開けるとオープンスペース、その奥に小さな部屋が、まるで昭和の文化住宅のように連なっている。
つまりは賃貸アパート。オープンスペースは以前どうしていたのか知らないけれど、捨て置かれている。このタイトルを聞いた時、これは絶対喫茶店の物語だと思ったから、なんとなくオチが予測できたような気もしたけど、結構長いことこのオープンスペースは捨て置かれる。その点では予想外だったかなあ。

他の住人たちが、ガラス職人、テディベア職人、ピンホールカメラの写真家、といったいわばクリエイターであるのに反して、桧山君がここでやると言ったのが古本屋であったもんだから、まず応対した大家の時子さん(夏樹静子)も、住人達も意外な顔をする。そもそも桧山君の先輩である家具職人が入居する予定であったから、なおさらである。
その家具職人、藪下がなぜ来られなかったのか、桧山君は誰にも言うことが出来ない。海外に行っている、きっと帰ってこない、と言うけれども、本当は自殺してしまったのだ。その理由は、明らかにされない。
そして桧山君はその事実にも、自身が大きな賞を受賞した第一作以降書けないことにも、向き合えないでいる。先述した編集者は、藪下の死の真相を書けばいいという。キツい言葉だ……でも、書かなければ小説家ではないと。

ガラス職人の一子さんが片岡礼子。柔らかい強さ、といった風情や、こうした地方インディーズ映画にしっくりとなじむ感じが素敵である。ちょっと、桧山君と年の差ロマンティックな感じ?になるのもいい。
桧山君が小説家である自身から目を背けていること、愛している筈の本を、単純に転売という形でビジネスにしていることに、あっさりとした拒否感を示すのが、彼に思いのほかダメージを与えるのが凄くイイ。
ちょっとキスしそうになるけど、そこから先はいかない。そういうことではないんだけど、ちょっとそういうことかもしれない、というのが、なんともイイ感じなのだ。

かなりのお気に入りは、テディベア作家の相澤君。演じる中島トニー君は何とも言えぬ愛しい魅力。えっ?マッサンに出てたって?マイクって誰?ああ、ああ!!エマの結婚相手!そう言ってよ!!そうか、そう言われれば!!
テディベア作家、そしてドアの前のラブリーな看板で、当然女の子かと思いきや、ファッショナブルな細身のシャツにパンツ、それこそエキゾチックな風貌で現れた彼は、ドイツとのハーフなのであった。
その彼が、「函館はほっといてくれる」と言ったのだった。実際の彼、トニー君も、ドイツと函館の母とのハーフなのだという。函館の母とのハーフ!

そんな彼がかたかたミシンをかけるのもカワイイが、お客さんである子供たちとのかかわり方もとても素敵なのだ。
“骨折”したベアを持ってきた女の子に「大丈夫。ちょっと入院させるから、来週迎えに来てね」と言い、いつまでもぬいぐるみと遊ぶな、と怒られたという彼女に、「大人になっても、ずっとベアと友達な人は大勢いるよ。これは僕の家族」と、古ぼけたベアを紹介する。

それこそ大人のお客……大家の時子さんに、思い出の着物の端切れを使って作ったベアの発注を受け、見事な出来で彼女を感嘆させるシーンは出色でさ。
よく、アニメや漫画が諸外国では子供文化で、大人になってもそれに触れ続けている日本を揶揄される時に、それらも共に、大人になっていくんだ、進化していくんだ、成長していくんだ、という、日本文化のそれとなりをテディベアという世界共通のアイテムを使って言ってくれているようにも思えてさあ。

ピンホール写真家の佐和ちゃんは、桧山君とロマンスが産まれるのかなと思ったが、まあなくはない感じだけど、ちょっと微妙である。
まるで失語症かの如く、彼女は他人と喋れず、その日話した言葉を手帳に書き記すのだが、一日二言三言がせいぜいである。それが、桧山君と出会うと……初日二日目ぐらいはそれこそ二言三言だけれど、彼が悩んでいると知ると途端に、まるで普通に喋り出す、のは、彼が特別ということだろうが、ちょっと出来すぎのような感じに思わなくもない。
桧山君は、書けない自分にもだけど、皆に待たれていて、今はいない先輩の呪縛にもがんじがらめになってる。先輩が家具職人という、目に見えるものを作り出すクリエイターだということも大きかったであろう。自分が書く小説というものが、何の役に立つのか、そもそももはや書けないし、みたいな。

ピンホール写真は、15分ほどの時間が必要。だから、動くものは映らない。時間を映す、と言えばカッコイイけれど、佐和ちゃんにとっては人とコミュニケーションをとらなくていい写真技術なのだ。
桧山君は、先輩の遺品である木製の丸椅子を、この函館の地に降り立った時から携えていた。自分の荷物はロストバゲージしちゃったけど、この丸椅子だけは無事で、函館といえばの路面電車に椅子を抱えて乗り、翡翠館にたどり着く。
そして佐和ちゃんとのピンホール撮影の時に、彼はちょっとナーバスになってて、この椅子を海の中に放り込んでしまうんである。そう、動くものは映らないと聞いて、そうした。今の時間が映る、でも動くものは映らない。遺品の丸椅子を放り投げる。……彼のねじれた心が痛い。

その椅子は結局、波打ち際に打ち上げられ、佐和ちゃんがそれを発見するけれど、彼に届けたかどうかまでは明らかにされない。それまでに、桧山君には、心のこごりを流す時間が必要だったということなのだろうと思う。
転売するだけの古本屋稼業を一子さんから「それでビジネスになるんだ」のひとことで話題を変えられたこと。自分の本が、送料差額で稼ぐだけの一円で売られていた悪夢から目覚めたあの一瞬。
何より彼にはとてつもなくおいしい珈琲を淹れる才能が有って、彼自身もそのことを心のよりどころにしていて、一子さんが「珈琲ってこんなにおいしいんだ……」とつぶやいた、あの時からすべては始まった、気がしたのだ。

なぜそんなにも、桧山君が珈琲に精通していたのか。なぜそんなにも、珈琲を愛していたのか。それが明らかにされないのがちょっとした心残りというか、歯がゆさというか。
桧山君は書くことに向き合うために東京に戻る決意をするけれど、時子さんから引き止められる。逃げているのが場所ではないのなら、函館、この翡翠館でだって書けるはず。
そして、翡翠館にとどまるただひとつの約束は、住人たちにいつでも美味しい珈琲を提供すること。住人たちに、ということは、そうではない人たちに対してはビジネスが発生するということでね。

個人的に大好きなのは、相澤君が、仲間たちと独立工房を作るためと思しきスタンスを示して、翡翠館を出て行くシークエンス。特に一子さんとはずっと同志的存在でいたから……。
大きなテディベアの着ぐるみの中身は絶対、相澤君!引っ込み思案の佐和ちゃんは階段の上から発見して慌てて身をひるがえし、一子さんはノックされたドアを開けたら現れた巨大テディベアに思わずドアを閉める(爆笑!)。

でもドアの外には、一子さんの作るトンボ玉を思わせる鮮やかな青のテディベアがちょこんと座っていて、「ありがとう、大事にする!!」と絶叫する一子さんと、着ぐるみを脱いで呆然と座ってる相澤君のカットバックがなんとも、幸福なのだ。
何より何より、あの茶色い巨大テディベアの、宵闇の翡翠館の中をゆっくり歩いて、ドアをノックしたり!なんかもう、たまらん、あの場面だけで、100点つけたいよ!!

例えばさ、一子さんと相澤君と桧山君で、夜の闇の中で缶ビール飲んではしゃいだりとか、そういうのはある程度予測できると思うんだよね。
その中で一子さんの、今は会えない子供とか、相澤君の、どういう事情か知らないけれど死に別れてしまったらしい親御さんとか、そういうエピソードが披露されるけれど、それはとてもメロドラマ的で、言ってしまえばありがちで、重要なのはやっぱりその先なのだ。彼らがそれを胸に抱えてこれからどうするか、なのだ。

最後のシークエンスは、「本の読める珈琲屋」ではなく、「珈琲の飲める本屋」美味しい珈琲を求めてぎっしりのお客さん。一子さんも相澤君も訪れて、住人無料サービスに舌鼓。
珈琲好きで意気投合したマスター、あがた森魚。函館映画といえば彼がいなくては!即興のように歌いだすのが素敵すぎる。
こんなリア充で小説書けんのかいなと思うが、ラストシーンは何かをつかんだかのように原稿用紙にがりがりとペンを走らせる。いまどき原稿用紙かあ。古本転売はネットでやってたのに。こーゆーところにロマンを残しているのかなあ。★★★☆☆


裸の劇団 いきり立つ欲望
2016年 70分 日本 カラー
監督:榊英雄 脚本:三輪江一
撮影:早坂伸 音楽:雷鳥
出演:水城りの 加藤絵莉 蓮実クレア 石川優実 REN 山本宗介 三輪江一 阿部恍沙穂 松浦笑美 齋賀正和 佐藤文吾 羽柴裕吾 檜尾健太 佳那 和田光沙 名無しの千夜子 睡蓮みどり 榊英雄

2016/8/27/土 劇場(テアトル新宿/レイト)
今回の企画特集で、一番最初に目を引いた要素だった。榊英雄がピンク映画を撮っている!知らなかった……情報にホント疎くてゴメン(爆)。この企画のための、ホントのピンク映画じゃないのかしらんと一瞬でも疑ってゴメン(爆爆)。
いや、彼ならやるだろう。さぁすが、気概のある“監督”だよ、彼は!彼自身もおいしいチョイ役でしっかり顔を出しているのも嬉しい。
イイ男だからなー。昨今のイケメンなんていうんじゃなく、野性味のあるホントのイイ男。そして映画に対する気概もある男!時々出てくる役者片手間監督とは違うとは思っていたが、ピンクを撮るとは予想外で、驚き、そして本当に嬉しかった。

と、いう訳でレイトスケジュールは自分的にはキツいが、なんとしても彼の作品だけは観たかった。二本の内の一本の本作が、その片方の続編ということで、いくらひとつひとつ独立している映画作品と言えど、やっぱりちょっと事情が判りづらい前半に少々苦しむ。
劇団の話なので特に、メンバーたちの立ち位置や事情が判らないというのがなかなかに辛い。勿論進んでいくうちに判ってくるんだけれど、本作のヒロインである青空(と書いてそらと読む)がもともとはライバル劇団の看板女優だった、とかも最後の最後になって判るような感じ。

そして一本目のヒロインは、そのタイトルロールでもあった揚羽(アゲハ)である。ヒロインは青空と言ったけれども、言ってみれば本作でも揚羽が一翼を担っており、ダブルヒロインのような趣。
しかしどういう事情があったのやら、かつての看板女優である揚羽は今、演劇の世界から足を洗い、一間だけの小さな集合住宅でダンナと慎ましい生活を送っている。もう二度と芝居はやらない、と固く決心をして。

そもそもが、この劇団のウリが“裸で古典演劇をやる”というコンセプトだった、というのが、そのナイスな設定が、続編である本作になるとはっきりと判りづらいかなあ、というウラミはある。
冒頭から劇団を仕切っているのは、いかにも才能のなさそうな声だけデカイ(顔もデカイ)根岸。演劇への情熱というよりは、自分がリーダーとなって皆を従わせることにやっきになっている感じ。彼が書いてくる脚本はタイトルからして決して古典演劇ではないので、なかなか事情が判りづらいんである。

まるで仲間外れのようにしてその稽古を見守るのが、かつて脚本演出を担っていた瀬田であり、衣装係の張本。かつてはすっ裸劇団だったから、衣装と言ったって前張り。
その面白さが後半、いやクライマックスにならないとなかなか伝わってこないのも、続編だけを見ているともったいないような気がしてくる。結果的に張本が一番切なかったよなあと思う、のはまた後の話で。

この、瀬田を演じるRENっちゅー男の子がなかなか、イイんである。ピンク映画は女優が主役、というのが時にタテマエになり、男優こそが真の主人公である映画が折々(いや、結構)ある。これはその一つだと思う。
太めの唇が情熱を感じさせるが、彼がカラミでその魅力を発揮することはないのだ(照)。いやまあ、クライマックスで揚羽とカラミはするが、それは舞台上(!)であり、うっかり入っちゃった(!!)んであり、やはりそこは彼の愛する演劇の板の上であって、セックスという、愛の表現場では、ないんだよね。

そういう意味では本作は、まさに演劇への愛によって構成されているという点で実にストイックで、セックス場面が愛情や愛憎、あるいはカラミ要員と呼ばれるおざなりではない、という特殊さが、本作のライトな魅力を支えているように思う。
一応、揚羽とダンナのセックスという場面も描かれるが、演劇の魅力に帰るべきかと心迷っている揚羽のそれは、夫婦の情愛のセックスではなく、その魅力から閉ざされ、耳をふさいでいる要塞なのだもの。

で、ちょいと脱線したが、このREN君がなかなか良くて。つまり彼は、演劇への情熱を、乗っ取られたような形で根岸に持っていかれ、彼は女優に手をつけて主演をさせたりして、まあ劇団は分裂状態にある訳。なんかみんなして入り乱れてセックスしてるし(汗)。
その中で新人女優の青空だけは、瀬田に迫る。その誘いには乗らないけれど、青空は瀬田が脚本、演出に戻ることを切望しているんである。
そこに静かに見守っている衣装係の張本も加わる。演劇祭へのエントリーをギリギリに滑り込めたのは、青空がもともといた劇団に戻ることが条件(アンド、当然枕営業)であったのだが、それだけではなく、張本も引き抜かれていたことを、この時にはまだ誰も知らなくて。

揚羽を呼び戻すことが、劇団の再生につながると瀬田は一念発起して、集中してコッペリアの脚本を書きあげ、チラシまで刷り上げて根岸を追い落とし、稽古に入る。
けれども揚羽は稽古に来ないし、根岸が揚羽を乱暴しかかったりして、それで揚羽のダンナは怒り狂い、もう絶体絶命になる訳。でも、判ってる。絶対に揚羽は来る、それはギリギリの、ギリギリギリギリ最後になったとしたって!!……というのは、こーゆー展開ではお決まりよねー、と思うから。

でもそのためには、それまでに揚羽が台詞を覚えてなくちゃいけない。この展開がかなりドキドキである。瀬田は旦那のいない時を見計らって、揚羽の元に日参する。チェーンをかけてはいるけれど、薄くドアを開けて(引き戸!てか、こんな昭和な集合住宅、久々見たわ……)、揚羽は瀬田の口伝えの台詞を繰り返す。
揚羽がいつか稽古に来ることを信じて瀬田はそれを繰り返すけれども、根岸の妨害にあってダンナを激怒させ、夫婦ともども芝居には出ない、ときっぱりと断る。でもぜひ、観客として来てください、と瀬田は一縷の望みを託すけれども……。

演劇祭、というテイだけれども、小屋は超狭いし、観客もパラパラで、なんか見ていて切なくなっちゃう。
一応、審査員であるというエラそうなおっさんは来ている。そして瀬田の元カノらしい、今は出世した女優と思しきコも来ているが、一作目を観てないのでその辺の楽しさが味わえないのも悔しい(爆)。
最初はちゃんと、服を着て芝居してるのね。メッチャまっとうな芝居。でもチラシに刷られた伝説の女優、揚羽が出てこないことに観客たちはヒソヒソと気にし始める。しかし、瀬田が彼女に何か耳打ちすると、次の場面ではすっ裸の揚羽が舞台に!!

……このあたりのぶっ飛びさ加減は、い、いいのかなあ。それ以降、劇団員たちは次々と裸になり(勿論ピッタリサイズの前張り付き)、「これがこの劇団なんですよ!!」と我が意を得たりとうなずく客席の関係者。
実際、こういう劇団って、なくもない気がする。それこそ麿赤児さんとかさ、女性がトップレスで踊っている舞踊団も何かで見た記憶があるもの。ホントに、キワモノじゃなくて、マジに、ありそうな気がするのだ。
裸で古典演劇、という設定はツカミはOK的な可笑しさはあるけれども、古典演劇が、古代文明演劇につながっていくのかもと思えば、あながちなくもないかもしれないじゃない?本作がエロよりも、まるで演劇青年のさわやかさをより感じるのはそのせいかもしれないなあ。

だからなんか一生懸命、カラミシーンを作り上げている感もするし(爆)。芝居小屋をラブホ代わりにする劇団員たち、そのことにキレちゃう芝居小屋の主人が監督の榊氏、ってのがイイじゃないの!部屋代替わりだ、と生脱ぎパンツを放られて思わず鼻をうずめちゃうとか(爆)。
個人的にはレズビアンで相手が見つからないままの女優と、純な年下男優に恋しかけていたのに、ブリブリな嫁がいて失恋しちゃう裏方スタッフ嬢がかなりシンパシィ。

この二人、踏切の前で立ち尽くして、死のうと思っているなんていう結構なシリアス場面があるのよね。このシーンはなんとも、イイのよ。踏切に立ち尽くす裏方嬢。電車が行き過ぎて、彼女の姿を見えなくする。ふと、隣にレズビアン嬢が立っている。
並び立つ二人の、横並びの顔のアップが、素晴らしく迫る。「死ぬ気なら、電話なんか出んなよ」とレズ嬢が裏方嬢を揶揄するが、その電話こそが彼女たち、ひいては劇団の運命を変える電話であった。
彼女たちはずっと待ち続けていた才能が立ち上がったことで、犬猿の仲を、そのケンカはそのままに、ケンカすればするほど劇団が盛り上がるというこれまでどおりに!動き始めるのだッ。

てな、ステキ女子がいるから、私的には青空嬢も揚羽嬢も、少し薄れてしまった感じがしてる。芝居力という点で、完全に彼女たちを抜いていたからさあ(爆)。
特に、かつての看板女優として待ち続けられる揚羽、という存在に至っては、そのハードルが上げられただけにキツいかなぁ、という印象は強かったかも。おっぱいが小さくて妙に生々しい乳輪、とか言っちゃったらアレかな(汗)。

すっ裸劇団、というナイスな設定が、続編では、特に続編だけに接しちゃった観客にとっては上手く作用しなかったのがもったいなかったのかも。
でも、なんかさ、劇団という青臭い情熱の感じこそをきっと、描きたかったのだろう。その情熱は凄く感じた……のは恐らく、男優陣において、だろうなあ。
名声だけが欲しかった根岸にさえ、その哀感を感じ、彼が役者に戻って前張りひとつで飛び出してくるシーンには、なんともジーンとしたんだもの。 ★★★☆☆


バット・オンリー・ラヴ
2015年 89分 日本 カラー
監督:佐野和宏 脚本:佐野和宏
撮影:田宮健彦 音楽:勝啓至 佐藤全太
出演:佐野和宏 円城ひとみ 酒井あずさ 蜷川みほ 芹澤りな 柄本佑 緒方明 川瀬陽太 工藤翔子 吉岡睦雄 飯島洋一

2016/4/6/水 劇場(新宿K's cinema)
18年ぶりの佐野和宏監督作品!というだけで慌てて足を運んだので、上映後あいさつに出てきた監督に本当に驚いてしまった。
こういう時、ホント情報が全然ない自分を蹴り飛ばしたくなる。映画を観るには余計な情報は欲しくない……というのは実は言い訳で、めんどくさがっているだけなんだって!

いや、映画を観ている時からそうなのかもとは思っていた。声の出ない演技、ではないんじゃないかと。いやきっとそうなのだと。
中盤の見せ場、監督自身が演じる主人公が声なき声を絞り出すシーン、一生懸命耳を澄ませてその口の動きに目を凝らしても内容が半分も聞き取れないことに焦りながらも、きっとこれは、それでもいいのだ、というか、それが正解なのだろうということを、感じたから。
声なき声だから、彼自身は叫んでいても寝ている奥さんの耳には届かない。というのはあくまでそういうテイであって、奥さんの目は覚めている。そしてきっと奥さんには、その内容がつぶさに聞こえているんだ……。

そう、監督は、この劇中の主人公の役のとおり、声を失ってしまった。下咽頭ガン。声帯の切除。本当に、知らなかった。それも5年も前に。本当に、知らなかった自分に、もう!!と言いたくなる。
でもその5年間は、確かに以前のように特集上映とかではあってもピンク映画に足を運べていない年数でもあった。そういう企画もなくなっていたし、実際の制作本数が壊滅的に減っていることも耳にしていたし、何より数少ないながらも残っていた成人映画館が次々と壊されて行ったのを目の当たりにしていたから。
佐野監督が最後の砦、といったピンク映画の自由の崩壊は、実質の崩壊でも確かにあったんだろうと思った。
まあそれは観ていない自分への言い訳ではあるんだろうけれども……。

でも、声を失ったことで、佐野監督が実に18年ぶりに映画を撮ろうと、弱体化してしまった映画を、自分の手で取り戻そうと思ってくれたのなら、皮肉なような気はするけど、映画の神様っているのかもしれない、などとキザなことを思ったりした。
だって、変わらず素敵だったんだもの。映画の中のしょぼくれたオッサンも胸に迫ったけど、客の入りが心配だから、と上映後挨拶に出てきてボードで会話していた、ちょっと猫背でサングラスかけて、オシャレな帽子とマフラーしている佐野監督が、その照れ屋な感じもそのまんまで、妙に色っぽくてチャーミングで、なんだか涙が出そうになってしまったんだもの。

映画自体は、私的には佐野作品としてはちょっと意外なぐらいの直球のラブストーリー、のように思う、のは、受け止め方の違いなのかもしれない。これを、直球のラブストーリーだと思うのは、女が基本、ラブストーリー好きだからなのかもしれない。
生きるか死ぬかの淵で、家族やセックスや生命そのものを問うというテーマ性が判らないのか、と言われちゃうかもしれないけれど、それは判りつつ、ラブストーリーだと言いたいんだもの。

奥さんを愛している。放りっぱなしだった愛人さんも、愛していた。娘ちゃんは勿論、愛している。愛人さんに過去形を使ってしまうのはちょっと辛いけど、そして不倫ってのが何か今の時代流行みたいになってしまって、逆に言いづらいけど、病気を得て、愛を他にひそかに育てることが出来なくなってしまったから、恨まれることを承知で、彼はそれを捨てたのだ。
愛は愛だった。捨てるしかない愛もあるのだ。女がこんなことを言うのはヘンかもしれないけど、それは仕方のないことなのだもの。

ああ、何か、何から言っていいのか判らない。胸が苦しくて。でも、声の出ない佐野監督も、それまで抱いていた彼のイメージからさほど遠くなかった。むしろ、なんだかシャイ度が増して、余計にキュンとするぐらい、だなんて言ったら怒られるだろうか??
でも本作の役柄はまさにそんな感じだった。冒頭、奥さんに自分から仕掛けてセックスをする。自分から仕掛ける、けれども、それは男らしく組伏すとかじゃなくって、どこか甘えた感じである。

そして、外出する奥さんを送り出す時も後ろからハグしたりして、キャーッ!!と思う。だってもう、かなりそれなりのお年の夫婦だもの。
後に結婚した娘が登場し、つまりだからこその夫婦水入らずの生活なのだもの。
「手術して、生まれ変わった。二歳だから」「だったらお酒もたばこもやめなきゃね」「二歳の不良だから」
ああー、もう、イイ、イイ!こういうの!女は弱い、こういうの!!

弱い、ってことは、女は男を手の内に収めておきたい、ということなのだろうか……?その点では確かに、中盤出てくる愛人の存在は気になるのだ。過去の愛人、ではあるけれど、それだけに。
だって、それこそピンク映画ならここでひと絡みあってしかるべきなのに、それすらない。奥さんがこの愛人の存在を知っていたかどうかも明らかにされない。奥さんが秘めていた秘密が大きすぎて、この愛人の存在すら薄れてしまうぐらいなのだもの。
でもその秘密が、彼らの愛の深さを証明するものだという結果ならば、この愛人さんはやはりなんだかカワイソウな感じなんだろうか??

……いけないいけない、聞き分けイイこと言っといて、ついついフェミニズムになってしまう(爆)。
物語のメインは、夫の病気以上に、奥さんの秘密、なのだ。不妊治療をしていた娘が、血液型を調べなおして発覚した事実を持って、血相変えて駆け込んでくるのだ。お父さんとお母さんの血液型じゃ、私は産まれない、と。
……正直言って、それをこの時点で知るっていうのはあまりに遅すぎるとゆーか、ふつーに学校で両親の血液型と私の、とかで判っちゃう気がするが、そーゆーことを突っ込んでしまうのはまあいけないのかな。

しかししかし、その不備を奥さんは知っていたのだろーか??出産した時、いやそもそも最初に精子バンクから選んだ時……ってことは、物語の終盤で「そんな間違いをするなんて、最初から神様に罰を与えられていたのかも」という言い方でスルーするが、奥さんがこの間違いに気づいていたかどうかが、どうしても気になる……。
劇中の感じでは、「なぜそれを知ったの」と驚いているぐらいだし、気づいていなかった感じなのが、ちょっとさすがに甘いかなあという感もあり……。

赤ちゃんが出来なかった原因が、夫側にあったこと、しかしそれを「プライドの高い」夫には言えなかった、という説明をするんだけれど、この現時点での夫の感じでは、それがイマイチピンとこないんだよね。
無論それは、がんの手術をして生まれ変わった、と彼自身が言い、「二歳の不良」などと言って甘えている様で汲み取るべきなのかもしれないが、やっぱりそれだけじゃ、甘い気がするんだよね。

病気をしたせいなのだろう、夫は日がな一日家にいる雰囲気である。奥さんの方は、外出をする。でも仕事という訳じゃなくって、今日見た映画、良かったわよ、なんて話をする。
一緒に行かないんだ……などと思う。そこに秘密があるのかなとも思ったが、そういうわけでもなさそうである。それとも奥さんは仕事ついでに映画を観ているのだろうか?でも年齢的にそんな感じもなさそうだし……。

奥さんが帰ってきて夕食の準備をする。夫がふらりと外に飲みに行く。もうご飯が出来るのに……と奥さんは不満と不信げである。
夫が飲みに行く場所は行きつけのバー。柄本佑がネームバリュー的ゲスト出演。吉岡睦雄などのピンクの代名詞の役者たちも彩る。
壁にはひっそりと、伊藤猛追悼特集の小さなモノクロのポスターが貼ってある。それ以外、何も貼っていないのが逆に胸を締め付ける。佐野監督は死なない、声が出ないだけだもの、死んだりしない!!と思う。

むしろ、物語が展開するのはこんなオシャレなバーではなくって、ガヤガヤとうるさい、昼間からやっているようなチェーン系居酒屋である。そこで彼はでっぷりと太って健康そうな男、山岡と酒を酌み交わす。健康そうでいて、実は若い内縁の妻に命も魂も吸い取られているんだけれど。
でも彼はそれは承知。娘が自分のタネじゃなかったことに落ち込む宏に同情することに便乗し、彼自身の妻を喜ばせるためにとスワッピングを提案してくる。

このあたりはいかにもピンクという感じだが、温泉旅行に出かける先での展開では、4Pではなく3Pどまり。宏はそれに参加することが出来ないし、奥さんも酩酊状態。
そして朝になり、若い妻の思惑通り、山岡は心臓発作で搬送され、奥さんは姿を消してしまっている。

この若い妻が、宏に罪の意識はないのかと糾弾され、その場は無言で去り、車の中で楽しそうに笑い飛ばすシーンが、果たしてその通り、彼女自身の気持ちだったのかは、佐野監督自身がどう考えていたんだろうと、思うのだ。
雪の山道の途中でキキキキと脇停車し、泣いているように見せかけて爆笑していて、「甘いんだよ」と吐き捨てるのが、逆に何か、そう言うことで自分自身を支えているように見えたのだ。
それこそ、女の甘い見方なのかもしれない、これを佐野監督は、こういう打算な女に男が苦し められると言いたかったのかもしれないけど……。

ラブストーリーだと、何よりのラブストーリーだと思ったのは、無論この、ラストシークエンスに違いない。いや、それより前に、声なき声を、寝入っている奥さんに向かって叫んだ宏、いやさ監督自身のあのシーン、半分どころじゃないぐらい、聞き取れなかったけど、奥さんとのささやかな幸せを感謝している、いたのに、という言葉が切れ切れに聞こえてきた、多分(汗)。
それは、病気をして、声を失って、という過程の先だったように聞こえた、多分(汗汗)。奥さんの浮気を疑っての吐露だったから、結果的には空振りだったわけだけど、だったらあの時、奥さんにはつぶさに聞こえていたように見えたのはそうじゃなかったのかなあ。それとも、奥さんには彼の浮気が判っていたから??いやいや……。

こんなこと言っちゃうとちょっとズルい部分もあるだろうと思うからアレなんだけど、私の父親もがんを患い、声帯じゃなくってがんとミクスチャーした脳梗塞の方で言葉が、コミュニケーションが操れなくなってしまった、のね。発声も出来ないし、手も動かないから筆談すら、出来ない。そして、歩くことも、出来ない。
だから、しばらく探さないで、と姿を消した奥さんを、愛しているから、はっきりと、愛しているから、その旅に出る、出られる、宏=佐野監督が、これ以上なく幸せに思えた。
いやきっと、彼自身にだってそんなことは判っているんだろうと思う。だって彼は生きて、歩けて、コミュニケーションがとれているんだもの。なぜ今まで映画を撮らなかったんだと、映画の神様が彼に怒っている罰だなんて言ったら……怒られるだろうか??★★★☆☆


母の旅路
1958年 92分 日本 モノクロ
監督:清水宏 脚本:笠原良三
撮影:秋野友宏 音楽:斎藤一郎
出演:三益愛子 佐野周二 仁木多鶴子 藤間紫 金田一敦子 鈴木義広 柴田吾郎 伊沢一郎 浜口喜博 伊藤直保 伊達正 南左斗子 紺野ユカ 大山健二 岡村文子 町田博子 西川紀久子

2016/5/16/月 劇場(渋谷シネマヴェーラ)
号泣。清水宏監督、やはり大好き。まだまだ観てないのいっぱいあるのが楽しみでもあり歯がゆくもあり!
母もの、っていうの?これ?母ものって確かに聞いたことあるジャンルだけど、そんなんじゃ済まないよ!切ない切ない切なすぎる。だって母ちゃんもやっちゃんもお互いあんなに思い合ってる親子なのに!!

……思い出すとまた号泣しそうだからもう最初にアウトラインいっとこう。まず舞台はサーカスなのね。サーカス!なんて魅力的な舞台!!……と脱線するとまた時間がかかるからそれは後後。
母ちゃんはタイガーサーカスの花形ブランコ乗り。その婿養子のような形で満州の地で拾われた、というか転がり込んだのが神経痛やら何やらで身体の弱い父ちゃんで、彼が団長。
その一人娘の泰子ことやっちゃんは幼い頃からブランコ乗りが大好きで、舞台に出たくてたまらない。母ちゃんは自分の血を受け継いだ娘を出してやりたいけれど、父ちゃんが許さない。

父ちゃんは実はいいとこの出。勘当された父親の墓参りに出かけると、共同経営していた父の友人の息子の嫁が彼の遺産を預かっていて、ぜひ戻ってきて経営に参画してほしい、と請う。くしくもこの彼女、伊吹夫人と父ちゃんは青春時代恋仲にあったんであった。
やっちゃんは高校に行きたいと願い、そのためには今までのように移動教室という訳にはいかない。父ちゃんと母ちゃんはケンカのようになったけれど、娘のためにサーカスを離れることを決意する。

父ちゃんはすんなり育ちの良さを取り戻して社長になれたけれども、母ちゃんはサーカスで生まれ育った人。あけっぴろげな気性が上流社会にどうしても合わない。娘の学校の保護者間でも白い目で見られ、娘がつらい目に合ってしまう。
思い余って母ちゃんはサーカスに舞い戻る。団員の男と恋仲であるというウソまでついて。でも母ちゃんはずっとずっと娘のことが可愛くて可愛くて、だからこそ家を出たのだ。いやそれ以上に、このサーカス小屋以外に彼女の生きる場所はないのだ。だって、なんて生き生きとしていることだろう!!

……また脱線しそうになってしまった。まあざざっと(でもないな、なんかやっぱり思い入れが(涙))綴るとこういう話。ラストにはもう号泣必至のエピソードが……いやいやまだ早い(爆)。
母ちゃんに扮する三益愛子の素晴らしいことと言ったらないの!まあ当然ブランコ部分は吹き替えだろうけど(そりゃそうか……)なんかホンットにね!このサーカスの花形ブランコ女王、って感じなのよ!ガラッパチな言い様とか、男勝りなんて言葉では追いつかないカッコよさなの!
サーカスの中ではいつも椅子に座ってしんどそうにしている父ちゃんは名ばかりの団長で、実際は彼女が切り盛りしている。ニットにパンツにハッピのような上っ張りを着流しているラフな姿がめちゃめちゃカッコイイ。
でも感情豊かで、愛する娘のことになると途端に涙もろくなる。彼女の流す愛の涙に何度もらい涙がこぼれまくったことか!!

高校に上がりたいという娘のために、慣れない社長夫人に収まった彼女の、その収まりの悪さと来たらないの。まず料理が出来ない。家政婦さんたちに教わって玉ねぎが何グラム……とか言って必死に勉強している姿がほほえましくも痛々しいのだ。
そんなこと、必要なかったのだ、サーカスの世界で彼女はスターで、実質の団長で、つまりはバリバリの女だったのに。娘のためとはいえこんな世界に放り込まれて肩身の狭い思いをしているのがたまらないのだ。
そう、現代社会から見ればそう見えちゃう訳なの。いや、当時もそういう視点だったのかな?判らない。現代社会の、私のようなフェミニズム野郎から見ればそう見えちゃうの。女が女らしくたるべき、という日本社会はなんて古臭い、彼女のような素敵な女性を閉じ込めちゃうんだから、と思っちゃうの!
いや、本当にそれを言っていたのかもしれない、でもだからこそ、当時だからこそ、それがあまりにも切ないことになってしまうのだ。

お着物を着なくちゃいけない訳よ。来客とかあるとね。でも胸元のだらしないあき加減とか、ほんのちょっとの差なんだけど、それだけで、イヤないい方だけど、お里が知れちゃうのよ。下品とか、はすっぱとか、そんな陰口が耳に聞こえてくるよう。
お着物にネックレスをするとか、今だったらアリなんだろうけれど、つまり決まりなんて気にしないセンスの持ち主なんだけど、それもこの時代にはひどく作法が知らない、みたいに見えてしまう。
だって母ちゃんにはお着物なんて似合わない。ブランコ乗りなんだもの。華麗なブランコで拍手喝さいを浴びるのが彼女の舞台なんだもの。それなのになぜ、こんなカッコをしなくちゃいけないのかっ。

娘のやっちゃんはね、母ちゃんのことが大好き。でも凄く、心配しているし、母ちゃんのために自分がつらい思いをしても、大好きだから言えずに黙ってる。
そもそも、彼女はとても明朗闊達な女子中学生、サーカスが大好きで、ブランコの技も文句なしで、こんなセレブリティの世界に入るなんてタイプじゃないように思った。
でもいい意味で彼女はフレキシブルで、どんな場所に行ったって彼女自身の明朗闊達さを失わないんだよね。

そしていい意味で、順応性もある。今までの生活では考えられないようなお嬢様学校だと思うんだけれど、彼女は勉強の出来もいいし、友人たちの間でも人気者である。後に、テレビ放送される合唱大会のフロントマンに選出されているあたりでそれは明らかである。
それは確かに母ちゃんの娘……スターの血を、それも皆に愛されているスターの血を引き継いでいるのだ。

何より泣かせるのは、そんなやっちゃんの友達たちが、セレブ風を吹かせる自分たちの親によってお誕生会への欠席を強制されても、それに対して必死に戦おうとし、彼女が学校に出なくなると無邪気に心配してくれるところ、なんである。
無邪気に、ってところがいい意味でも悪い意味でもミソで、やっちゃんが傷ついたのは彼女たちがお誕生会に来なかったこと、が引き金になって母ちゃんがつまはじきにされていることを知ったこと、なのだが、そのあたりのことをちゃんと判っているのかしらん、という朗らかさが、まあそのお、この時代、ということなのかなあ。

母ちゃん、父ちゃん、と書いているけれど、セレブ生活になると、パパママ、なんである。母ちゃんだけがずっと慣れなくて、父ちゃん……パパ、と何度も呼び替えるんである。
つまりはそれは、慣れない社長夫人の席でなんである。やっちゃんもじきにパパママが定着するが、正直、やっちゃんには、せめて、最後だけでも、母ちゃんに戻ってほしかったと思う。だってパパはともかく、ママじゃないもの。母ちゃんだもの。

でもそのあたりが、哀しさなのかもしれないなあ。母ちゃんはさ、娘の授業参観で拍手したりとか、PTAの役員に「パパが寄付をするから」と立候補したりとかして、すっかりつまはじきにされちゃうんである。
後者に関してはちょっと誤解があって、というか、母ちゃんの言う「忙しい人は役員になれないでしょう」というのは、忙しい、という部分がどうかという点はあるがとにかく皆が渋るのはその通りで、だからこそ皆尻込みしているのに、ヒマだから、とあっけらかんと手をあげる母ちゃんに白い目を向けるっていうのが、現代社会でもきっと変わらないのだ。
この作品が作られた時にはまさかウン十年後にも変わらぬ現実だとは思わなかっただろうに……。娘たちを友達のお誕生会に行かせないなんていう、それを当人に「お母様に聞いてごらんなさい」と冷たく言い放つという!!ああ、きっときっと、現代でもあるだろう、あるに違いない。想像が出来るから……お前ら死ね!!

父ちゃんの友人の息子の嫁、伊吹夫人を演じるのが藤間紫。めっちゃ聞いたことのある名前。絶世の美女という訳ではないんだけど、三益愛子氏と対照するともうなんというか……きちっとお着物を着ているしっかりとしたご夫人、というのが、当たり前だけどアリアリで、だから凄く、切なくなっちゃうの!!
彼女と父ちゃんの間に今でもそういう感情が多少なりともあるのかどうかまでは判らない、判らないけど、母ちゃんが彼女に、娘のことを託すのが切なくてさあ!
それもすっごい口ごもりまくるの。あの子のお母さんになってほしい、という決定的な台詞さえ、口にするけど、フェイドアウトしてうつむいてしまうの。それはつまり、父ちゃんとあなたこそがふさわしいという意味であり……。
バカ、バカバカ!やっちゃんにとって母ちゃんが母ちゃんしかいないのと同じで、父ちゃんにとってだってそうなのに!!

でもさ、父ちゃんを演じる佐野周二は娘も妻も愛しているのは判るんだけど、なんか頼りなくて。何か勃発しても、しばらくはそっと見ておいてやろう、と言うだけなんだもの。やっちゃんのお誕生会事件にしても母ちゃんの家出事件にしてもよ。
そしてそれは何一つ実を結ばなかったのだ。母ちゃんは一人苦しみ、後ろ指を指されて、自分らしく生きられないことと、何より娘のためを思って、家を出た。彼女が生きる場所は、ここではなかった。少なくともすんなり社長になった父ちゃんとは決定的に違った。でもやっちゃんは??

子はかすがい、とはよく言ったものだと思う。やっちゃんは高校に上がったばかりでまだ若く、父ちゃん母ちゃんからパパママと言い換えるのもすんなりといったし、何よりそのことで彼女自身の素直さ、天真爛漫さは何一つ失われなかった。
出来のいい女子高校生と、サーカスの技を持つプロフェッショナルとは、何の矛盾もなく彼女の中にあるのだ。つまり、母ちゃんが待つ、「学校を卒業して、立派な大人になったら母ちゃんに会いにおいで」というその時に彼女がどんな未来を選択するのか、本作は明示していないのだ……。

友人たちとピクニック中、やっちゃんはタイガーサーカスの興行ポスターを見かけてやもたてもたまらず列を離れた。友人たちもそれに気づいて心配し、後を追いかけた。
娘の姿を見て動揺した母ちゃんは落下事故を起こす。地元公民館主催の資金集めのための大事な興行。困っている団員たちを見て、やっちゃんは立ち上がる。稽古もしてなくて無謀だと言われても、ずっとここで育ってきたんだと胸を張る。そして見事目隠しブランコまでも成功させるのだ。

その前の、やっちゃんの出場した合唱大会テレビ中継を、母ちゃんが興行先で走り回り、テレビ放送をしているラーメン屋を見つけてムリヤリチャンネルを替えてもらって見守り、滂沱の涙を流すあたりから、もうこっちの涙腺もすっかり抑えが効かなくなってくる。
この道は、いつか来た道。このシーンだけでもヤバかったのに、その後団員たちがラジオで聞いてたよ、やっちゃん良かったねと声をかけ、更に、事故を起こした母ちゃんのもとに駆けつけたやっちゃんに、あの時からずっと私たち、あの歌を歌っているんだよ、と団員たちが優しく言い募るのには、もう号泣を抑えられない!!

つーか、もう、父ちゃん、あんた、ダメ!!いや、判ってるんだ……母ちゃんだって、父ちゃんのことも思って、離れたことは。でも私はね、現代社会の女性の立場から見て、やはり母ちゃんは、自分自身が自分自身として生きるために、ここに戻ったと思いたいんだよ。だってやっぱりここでこそ、母ちゃんは光り輝いているんだもの。素敵なんだもの。
娘のやっちゃんは当然、彼女を心配して追いかけてきた友達たちも、やっちゃんの雄姿に拍手喝さい、そして母ちゃんのことだって凄くカッコイイと思っている風!というあたりは!
今の時代から見ればちょっと甘い部分はあるかもしれない。でも逆に、今の時代なら、あんなお母さん、という時点で、母親たちと共に見放していたかもしれないと思う。どちらの時代が古いのか、判らない。

やっちゃんは、どんな未来を選ぶのだろう。でもどうでも構わない。学校を卒業して、やっちゃんはそのことを報告しに、会いたくてたまらなかった母ちゃんに会いに行くだろう。そこには父ちゃんもいるかも知れない。
また次の興行地に出かける母ちゃんと別れるのどかな田園地帯のシーン、やっちゃんを理解してくれている友人たちに囲まれて、切なく哀しいけれど、幸せなシーンなのかもしれないと思う。少なくとも若者たちの笑顔はとても嬉しいことがあったみたいに、光り輝いていた。★★★★★


パンツの穴
1984年 113分 日本 カラー
監督:鈴木則文 脚本:中本博通 茜ちゃん
撮影:出先哲也 音楽:惣領泰則
出演:山本陽一 菊池桃子 クリフ・ラニング 矢野有美 岩本宗規 笠原潔 山中康仁 河合宏 豊原功補 服部真湖 清水章吾 小島三児 出光元 井川比佐志 春川ますみ ハナ肇 土田早苗 高沢順子 白木万理 あいだすみよ 島田洋七 かわいのどか マリアン たこ八郎 武田久美子 上田馬之助 武田鉄矢

2016/9/22/木・祝 劇場(シネマヴェーラ渋谷)
もちろんこの作品のこと知ってはいたが、ちらとも観る気はおこらなかったままここまで来てしまった、のは、やはりたかがアイドル映画、とタカをくくっていたからに他ならない。きっと私のよーな人たちは数多くいると思われる。観ろ、観るんだ、いますぐ観やがれこの野郎!もうそう叫びたいぐらいの大怪作!
確かにアイドル映画には違いない。なんたってあの菊池桃子、私もだーいすきな桃ちゃんのデビュー作(当時私は彼女のラジオのコアなリスナー、あのマシュマロボイスに耳をくっつけて聴くのが大好きだったのよー)。そして主役の山本陽一……山本陽一!いたいた!ホンットにザ・アイドルと言いたいキラキラの男の子!
ジャニーズでもない俳優アイドルというのは、あまり思いつかない。彼は引退してしまったんだね。実際、本作の主要キャストたちはほとんどが今、残ってないんだもの。豊原功補には飛び上がったが……。

で、そう。アイドル映画であり、天使、菊池桃子がヒロインとしてデビュー、という映画であるのに、これは中学生男子のモンモン性欲大爆発、そしてクライマックスはウンコまみれの大決闘という、もう、こんなんに桃ちゃんが、ああそんな!というトンデモ怪作だったのであった。後にいくつもの映画シリーズが作られたのを見ても人気だったのはうかがえるが、まさかそれがコンナこととは思いもしなかった。
タイトルの意味するところは不明だが、これ、てっきり漫画原作とかかと思っていたので、雑誌の読者投稿から作られたオリジナルだということにも衝撃を受ける。そらー、ナマな中学生のモンモンや、ウンコに面白がるあたりの男子のガキっぽさのリアルが出る訳だわ。

ウンコまみれにも唖然とするが、序盤でドギモを抜かれるのは、博多からの転校生として乗り込んできたムキンポ(主人公、木村一郎のあだ名。なんという……)が、何も知らない同級生たちにマスターベーションの四十八手(かどーかは知らんが、なんかそんなようなことを言ってた気が)をデモンストレーションする(いや、出さないよ、形だけだけど!!(汗))シーン。
アイスクリームを運んできた同級生のお姉さんがやたら色っぽい女子大生というのも中学生男子の妄想の世界という気もするが(爆)、ノリノリでアイドル笑顔満開で様々なアクロバティックなポーズを決めながらシコシコ動作をやりまくる山本陽一にはもうアゼン!大体、ムキンポて!信じられないニックネーム!!

菊池桃子は役名も桃子。近藤桃子。オープニングクレジットの段階で既に、ムキンポに一目惚れされている。しかし彼女は物語に積極的に関わる訳ではなく、あくまでこの映画はムキンポとその友人たち、学校のボス的存在も含めた、男子中学生の青臭い、実に青臭い青春物語なのだ。まさに、桃子はマドンナに過ぎず、彼らのザーメンに汚されることもない(爆)。
とはいえ、桃ちゃんファンとしては結構きわどいシーンもある。彼女の家は産婦人科。ムキンポが妹の一大事に休診のドアをどんどんと叩いて開けさせる、その医院なんである。

このシーン、まだ小学校の中学年程度と思しき幼い妹が、泣きながらお兄ちゃんを呼びに来る。お兄ちゃん、無数のエロ本を慌てて隠す。無数過ぎて、時間がかかる(笑)。
妹のお尻が真っ赤に染まっている!!……という……なんという生々しいシーン、当然そうだと思って婦人科医院に駆け込むのに、泣きながら妹が言うには「切れ痔やって」ズコーン!!

きわどいのは、それじゃなくって、桃子の弟、まだ小学校にも上がっていないほどの幼い弟、なんである。お父さんとお母さんがパンツはかないで寝てた。大人はパンツはかなくていいの?それにティッシュの丸めたのがいっぱい散らかってたんだよ、いつも片付けろって言うくせにさ!みたいな、おいおいおいおいー!!桃ちゃんに向かってなんてことを!
風邪をひいてたんだ、パンツはかないで寝たから、とかなんとか言いくるめてこのシークエンスは終わるが、次に登場すると弟さらにパワーアップ!全裸で出てきて、いや、幼い男の子とはいえ、絶対今じゃあのカワイイおちんちんもそのまま映せないよなー!
しかも、そのカワイイおちんちんを股に挟んで「ほら、オンナ」さらに、海苔をはっつけて「お姉ちゃん!」桃ちゃんボーゼン!私もボーゼン!なんてこと言うの、桃ちゃんは天使なんだからそんなものないのじゃー!!(いやその!)

……桃ちゃんファンなもんだから、かなり取り乱してしまった……。てな面白エピソードはあるものの、やはり女子は割とワキに置かれてる。
ちなみに桃子の友達二人はともに眼鏡ブス女子でしかも図々しくて、男子にうんざりされるというコメディキャラなのだが、仕方ないとはいえ、私的には結構、いやかなり、笑えない(爆)。桃子が彼女たちを友達として親密にしているという感じがほとんどしないのも、まあこの手の映画では仕方ないのかもしれんが……。

ムキンポはもう一人の女子も気になっている。たまたま道端で出会った、自家製たい肥(つまり家族の糞尿)で畑の作物を育てているおっさん(ハナ肇)と仲良くなり、その娘が同級生の麻衣だったんである。まあでも、見ている限りでは麻衣とは仲良くはなるけど同級生に譲って、彼自身は桃子一筋のように見えたけどね。
キャストクレジットの中には武田久美子の名前があり、メイン級のどれかが彼女なのかしらと凄くいっしょうけんめい見たが、どうも違う……後から調べたら、ムキンポが時間つぶしのために訪れたハンバーガー屋の、しつこくお勧めを繰り返す店員だった。判らんっちゅーの。
でも、この場面で魔夜峰央先生が出てきたのにはちょっと興奮。オープニングクレジットで何人かのゲスト的出演者が記されている中で、一番ワクワクした。まさに魔夜先生、そのもの!

ムキンポには強力なライバルが二人いる。一人は見るからに秀才の小山英介、もう一人はめったに学校には出てこない番長的存在の堂園健太郎。
英介からワープロ(!!……もはや涙が出るほど懐かしい……あの、左右に動きながら印字していく感じ!)の手ほどきを受け、ビニ本(死語だわー)を買っていた教師に脅迫文を送り、娘の“使用中のパンツ”をゲットするエピソードは、いかにもリアル中学生の妄想だわー、と思う。そのパンツが、実は奥さんのだってあたりのオチは安心できるお約束(笑)。

だから、やっぱり堂園、なんだよね。彼だけが、名字で呼ぶのにふさわしい、なんていうか、威厳がある。
めったに学校に出てこないのに成績がいい。なぜかムキンポを気に入って、トローリングに誘ってくれる。どうやらそこには堂園の“ガールフレンド”が来るらしい。
勝手に童貞喪失を予想してた友人たちにノセられて新しいパンツを仕入れてファッションショーするムキンポを、隣の家から覗き見ているセクシーお姉さん二人。ああ、なんて、少年の夢そのものなんでしょう!!

トローリングに来たのは、堂園の義理の母親(ただし無駄に若い)、そして英語教師(マリアンだから、無駄に色っぽい)な訳で、そんな妄想はついえる訳だが、でもやっぱり、堂園はムキンポを気に入っていたんだろうなあ。その後の騒動で真っ先に彼を助けようとしてくれるんだもの。
騒動ってのは、ムキンポと友人たちがデパートで遭遇した高校生ヤンキーたちとのトラブル。ここで登場するその中心人物が、豊原功補!
オープニングクレジットで名前を見つけてから、目を皿のよーにして彼を探し続けたよ!!面影あるかな、判るかなと不安で、……実際女の子だと全然判んなかったりするし(武田久美子は判んなかったなあ……)、なかなか出てこないから、見逃したかと思ったら、ウンコまみれのモップを顔にこすりつけられての登場!サイコー!!

このコワそうな高校生集団からのインネンに、ムキンポはすっかり震えあがって学校に行けない。原因を作った友人たちよりも矢面に立ってくれたのが堂園だった。ただしその前にちょっとした事件があって……。
実は心ひそかに桃子に恋していた堂園、大事にしていたロケットペンダントをクラスメイトたちに見られてしまって、それと知れてしまった。普段学校に行っていない堂園が、ペンダントの紛失に気付いて慌てて駆けつける、もうその事実を知ってしまって集まっていたクラスメイトが一斉に振り向く。桃子の左目から一筋流れる涙……。

この、堂園を演じる、あるデータベースではクリフ・ラニング、あるデータベースでは田中浩二、一体何者!?どっちがホント?英語名前も納得できるようなバタくさい(死語(爆))、なんか加藤雅也と川崎麻世を顔のパーツちっちゃくしたような。
イケイケの裏実力者のように見えて、じつはすんごい純愛男、というのが、何より女心をグリグリするのよねー!!だってさ、基本的にはムキンポとそのゆかいな仲間たちの性欲まみれの展開がメインじゃん(爆)。

そうそう、桃子が所属する新体操部(これも!タッチの南ちゃんかよ!……男子は水着とかレオタードとか好きだよな……テニススコートからのチラ見えとか(爆))の、セクシー先生をクロロフォルムで気絶させて襲うとかいうキチクエピソードまでも(爆)。いや、未遂に終わったからこそカワイイのだが、これはなかなかにヤバイのでは(爆爆)。
でも、化学室からクロロフォルムを盗み出すとかゆーあたりに、角川映画的ファンタジックを感じて、こーゆーあたりが男子妄想のかわゆさなのかもしれんと思ったり。実際はシュミレーションしてるうちに男子三人クロロフォルムですっかり爆睡(爆)。あのきったない床運動用マットが懐かしすぎて(涙)。

で、クライマックスである。ウンコまみれの(爆)。高校生と中学生の対決、中学生側の決死の勇気、舞台となるのが西部劇かとさえ思わせる広大な荒地で、イージーライダーみたいなでっかいバイクで乗り付けた高校生たちは、数倍の人数に膨れ上がってる!!
そこに待ったー!!と駆けつけてくるのがムキンポ。麻衣ちゃんのお父さんから調達したと思しきクッサそうな肥溜め桶を携えて。これをかぶるからカンベンしてくれ!と足元フラフラになりながら桶を担ぐもんだから、結局相手にドバー!ああもう!お約束過ぎ!!キッタナーイ!そして皆がくんずほぐれつウンコまみれ!!!キッタネー!!もう!!!
その決闘を収拾するのがなんとUFOで(爆)声は武田鉄矢で(爆爆)、ああもう、妄想だらけの大バカ青春映画だからまあいーや!

堂園と恋人同士になった桃子から「親友だから」と打ち明けられ、想いを伝えることもなく玉砕、麻衣も秀才、英介とイイ感じになり二重に玉砕……。
おーっと、待ったー!!そういや英介も凄まじいエピソードが……男子の欲望のままに女子の更衣室に忍び込んでブラジャーに鼻突っ込んじゃって、とっさに姿を隠した麻衣のロッカーの中で、ゲリが止まらず、「えー、なんかクサーい」そして発見、無残な醜態。こ、これは自害しても責められないほど仕方ない辱め(爆死)。
ああでも、信じられない、彼はこれで、麻衣ちゃんというカワイコちゃんをカノジョに迎えられるのだ。そしてすっきりとした笑顔で、そんな事件さえ笑い飛ばすのだ。ちょっと、ねえ、現代じゃ考えられないよね!ここから立ち直るのは相当……。いい時代というべきなのか、そんな単純に解決してる訳ないというべきなのか。

なんにせよ、なんとも愛すべき中学男子妄想エロ映画。その後何作も作られたものがどうだったのか……未見で言うべきではないけれども、きっときっと、これ以上のものはないと思う。
このオリジナルの野生のようなガッツキ感、アイドル映画というイメージに押し込められているのがあまりにももったいない、というか、規格外。やたらソフトなイージーリスニング(これも死語かなあ)ミュージックに彩られているのも妙にツボで、なにもかもがギャグなんじゃないかと思っちゃう!★★★★★


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