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「ち」


2013年鑑賞作品

チチを撮りに
2012年 74分 日本 カラー
監督:中野量太 脚本:中野量太
撮影:平野晋吾 音楽:渡邊崇
出演:柳英里紗 松原菜野花 渡辺真起子 滝藤賢一 二階堂智 小林海人 今村有希 星野晶子 関口崇則 宇野祥平 箱木宏美 三浦景虎 木村知貴 小澤雄志 太田正一


2013/2/21/木 劇場(新宿武蔵野館/レイト)
連日のゴーカトークショーでレイト公開ながら大賑わいらしい本作、この日も才能の青田刈りせん、みたいなテレビギョーカイっぽい内容の電話を大声でしている胡散臭いオッサンにイラッとしつつ(ギョーカイ人間な自分を自慢げにアピールしてるところがさー。うるさいっつの、そんな話は階段か外でしやがれよ。それともあれはサクラか??)でもつまり彼はそんな、才能の持ち主なのか、な?
確かにあの胡散臭いオッサンはともあれ、今回連日組まれたやたらゴーカなトーク相手のメンメンを見ると、製作側のプッシュをひしひしと感じるところではあるが。

どんな小さなインディーズや新人さんの作品でも意欲的に出る、渡辺真起子のキャスティングは確かに集客には大きく、彼女の存在がこの映画に落ち着きどころ、というか、重みを持たせているのは間違いないところ。
そういやー、劇中二人の少女が「私たちには、逃げ場があったよね」というその逃げ場というの、どこを示しているのかなとその時は思ったんだけど、このしなやかにたくましいおかあちゃんの存在であったのかと思うと、渡辺真起子だからさ、実にしっくりとくるのよね。

昨今の新人さんにありがちな、やたらしんねりとヒューマン哲学を長々と訴えるでもなく、やたらバイオレンスに走る訳でもなく。これもありがちな、説明過多もない。
……とこう書き出してみると、つまり私、そういう作品にほとほと疲れていたんだなあ、きっと(爆)。笑いとしんみりのバランス良く、押し付けすぎず、いい感じ。

それでいて手練れというほどの老け込みはなく、主演少女二人に体現されるような、上手すぎないフレッシュさも持ち合わせている。……ある意味なんか一歩間違えれば埋没しそうな“良作”で、ちょっとそこらへんは危ういかもしれない。
惹句では「感動の再会の筈が修羅場が待っていた」というから身構えたけど、そんな期待?したほどの修羅場でもないし。いい意味で淡々と、あたたかなオフビートといった感じかなあ。

概略を申しますと、三人家族、母に娘二人。上の娘は昼のサービスタイムのキャバクラ嬢で客を送り出しているところが映し出される。下の娘は高校生だけど、川のコイにパンのかけらなど放りながらのんびりとお弁当を食べ、その後は靴下まで脱いでごろりと昼寝。つまり「ちゃんと単位計算して」サボっている訳である。
姉がそんな妹を見つけて声をかける。妹は通りすがりの釣り人の様子をのんびり眺めて楽しんでいる。「お姉ちゃん!」

その後、この二人によって物語が進行していき、それなりに姉妹喧嘩もするし、……それなりっていうか、けっこうケンツクという感じなんだけど、この最初の一発、そしてオープニングタイトルが出るまでの、自転車の二人乗りのじゃれあい、そのバックに広がる、あぜんとするほどのどかな緑の田園風景が、この姉妹がケンカもするけど姉妹として仲良く暮らしてきたことが、その一発で観客の心に強く根付かされるのは上手い、と思う。

母が集合をかけて、寿司まで用意して告げた重大事項は「お父さん、もうすぐ死ぬんだって」ということだった。まるで業務報告のようにさらりと言う母親に、最後のマグロ一貫をめぐって攻防していた姉妹二人は固まる。
「まったく、あんたたちはいつも寿司をとるとケンカするんだから。ここからはおかあちゃんが仕分けします」イクラやウニなどといったネタを「いらないの?じゃあこれはお母ちゃん」と仕分けられても、姉妹は固まったまま。

「ホントなの……?」「それでね、あんたたちに行ってきてほしいんだ。そしてあの人の顔を撮ってきてほしいの」
取りいだしたるは、寿司と共に買ってきたんであろう、まだ箱に入ったままのデジカメ。「撮ってきてどうすんの」「決まってんじゃない。その顔見て、ざまあみろって、笑ってやるのよ」

後の展開を見ると、この家族は普通に、ごくごく普通に、幸せに暮らしてきたみたいだし、父親がいないことによる反発とか、そんなことはなさそう、なんだよね。
まあ、父親の話題がのぼることはなかったんだろう……今更父親が死ぬと言われても姉妹二人はポカンとして、あ、そうなの……というぐらいで、悲しみなんていっこうにわいてこない。それは物語の最後に至るまでそうで、それがかなり強い印象というか、驚きを覚えたんであった。

後にオフィシャルサイトを覗いて、監督自身が父親を早くに亡くし、お兄さんと共に母子家庭で育ったということを目にすると、そういう感覚なのか……と更に印象と驚きを強くするんである。まあそれも、色々なパターンがあるのかもしれないけど、でもやっぱり、親を早くに亡くした経験はないと、判んないじゃない。いや、本作の場合は死んじゃったんじゃなくて出て行っちゃったんだけど、でも判らないじゃない。
でも、そうか、監督も、そのパターンについては、判らない筈なのだ。もし、自分のお父さんが死んだ訳じゃなかったならば、大人になって、会う機会があったならば、そう考えたのだろうか。そう考えて、考えきれなくて、瀕死のお父さん、そして着いてしまったらもう死んでしまっていた、なんて設定を考えついたんだろうか……。

幼い頃に、物心がつくかつかない頃に、出て行ってしまったお父さんの記憶はあまりにもおぼろげで、姉は「チョコレートの匂いのついたケシゴムがどうしても欲しくて万引きしたら、凄く怒って殴られた。でもお父さんその時、泣いていたんだ……」それ以来、万引きはしていない、と言う。
……この言い回しはビミョーにヘンだな、とクスリと笑ってしまうのだが、これがラストの“オチ”につながっていたのは見事だったと思う。
まあそれは後述として。妹の方は、本当に本当におぼろげな記憶しかない。だからお姉ちゃんに、お父さんってどんな感じだった、と聞いてみたのだった。でも結局はこの程度の答えで……。

二人、お母さんに言われてお姉ちゃんはグレーのスーツ、妹はきちんと制服を着て出かけるんだけど、お母さんに見送られた途端に着替えてコインロッカーに押し込んじゃって、お姉ちゃんは赤いキャミワンピースに麦藁帽子、妹はデニムのショートパンツといった、カジュアルこの上ないカッコで乗り込む。
しかしその間に、お母さんのところに叔父さんから電話が入ったんである。今朝、亡くなったと。その時、お母さんは米屋の青年に襲い掛かられている最中であった。

このほんのワンシーン、冒頭近く、自転車に乗った米屋のお兄ちゃんが通りがかり、在宅を確かめていたりし、「もう会わないって言ったでしょ!」「なんで冷たくするんですか!」というやりとりで、決してこのお母ちゃんが乾いた生活をしていた訳ではなかったことがさらりと示される。そしてこのお兄ちゃんとのどうこうを特に追わないのもいいと思う。
こうしたひとつひとつのエピソードの潔さが、彼女たちのこれまでの生活をしみじみと感じさせていく。おかあちゃんが出て行ったお父さんのことをどう思っていたかなんて、そんなことは姉妹にだって知る由はないんだけど、でも少なくとも娘たちに父親を恨ませるようなことはさせなかった、そのことがじわじわ、しみじみ、伝わってくるんである。

それはね、決定的に示されるところは、あるのよ。父の死を知らせた叔父さんの奥さんが昼メロよろしく「遺産のことで来たんでしょ。うちはこの家ぐらいしかないから。遺産を分けるっていうんなら、この家を売るしかないの」と悲壮な顔で姉妹に迫る。
あぜんとした二人は、そんなつもりはない、最後に会いに来たんだというと、一瞬はひるんだような顔を見せるこの奥さんだけど、それもどうも……「だったら一筆書いてくれる?」だもの!!指紋押印させるなんて、なんという侮辱をさせるのか!
いくらお姉ちゃんが、遺産なんていらない、放棄します!と、かつて慰謝料を放棄したおかあちゃんのように叩きつけたとしても、あまりにツラすぎる……。

でもね、そう、この姉妹が、そんなことを言われたのがあまりに予想外だった、というところに、監督自身が抱えていた、早くに失った父親への正直な思い、があるのかなあ、って。
この叔母さんの描写は、そう、ホント昼メロ、あまりにもわざとらしくって、確かに判りやすくムカッとはくるけど、なんかステロタイプなの。でもそれが、人間というものなのかなあ……。
キャミワンピとミニデニムパンツという場違い極まりないカッコのまま、葬儀に参列することになった二人の居心地の悪さはいかばかりかと思うんだけど、でも不思議とそれ自体は言及されない。

例えば、喪服の群衆の中でお経を聞いてるシーンとか、外されているんだよね。「お経って、なんであんなに長いの」と終わってゾロゾロ出てくる場面になってて。いかにも判りやすく、二人の疎外感を出せると思うのに、これはやっぱり意図的、なのかなあと思う。
多分二人、年若いし、父親側とは疎遠だったし、葬儀、特に身内の葬儀って初めての経験だったんじゃないかと思う。こういう時にどういうあいさつをしたらいいのかと動揺する妹に、ご愁傷様でしたと言えばいいというお姉ちゃんのピントのズレ方で一発で判っちゃう。それがこの二人の場違いなカッコにつながっているってことかもしれない。

でもね、このカッコはそれ以上の意味をもたらす、というか、そう思えて仕方ない。のはね、絶妙に示される彼女たちの幼い頃。
お揃いの赤いワンピースを着て、大人用の大きなビニール傘をもてあまし気味にさして、最初はお父さんと、次にはお母さんと、キャーキャーと遊びまわる。
ホントにね、自然なの。ああ、こういう声、子供が遊びに夢中になってる時、そう、信頼置ける相手と遊んでいる時、それはつまり、大好きなお父さんお母さんと遊んでいる時、出す声だ、と。本作の一番のリアリティは、この回想シーンの姉妹二人につきる、と思った。
いや、ね。現在軸の主役の姉妹二人の初々しさも可愛いし、それこそ子役と言ったら、見事な“プロの子役”を見せ付けた異母弟、つまりお父さんが次の奥さんとの間にもうけた男の子なんて、ホンット、ザ・子役の素晴らしさなのよ。ある意味、ザ・子役のわざとらしさよ(爆)。でもそれが、のどかなバックのせいもあろうか、いい具合に薄まるのよね。

そうそう、この姉妹と弟の出会いは、この幼い子が初めての対面の姉たちを駅まで迎えに来るところである。背伸びをした足元、窓から覗く顔半分、ちょっとありがち描写だけど、いたいけさにオバチャンは胸キュンしちゃうのがクヤしい(爆)。
お母ちゃんが見得張って持たせた重たい果物の盛り合わせ、“お見舞い”の札を慌てて取る姉妹。彼に渡したものの、あまりの重たさに見かねて「電信柱5本ごと、二人交代にしよう」と言ったものの、のどかさ過ぎて、次第に電信柱がなくなる、という微笑ましさがなんとも、いい。

この弟は、今やお母さんさえも、いないのだった。それこそ、彼が物心つくか否やの時に、お母さんは行方をくらました。まあ恐らく……。
“女の人を作って出て行ったお父さん”の構図にいた姉妹は呆然とするけれど、こちらが予想していたほどではない、のは、姉妹が“私たちを捨てたお父さん”という構図をそれほど、というか、ほとんど持ち合わせていなかったから。
それはおかあちゃんがそうさせなかったということなんだけど、だからといって、おかあちゃんが意地でそうさせなかったというんじゃなくて、なんというか……おかあちゃんにはきっと、思いが色々あったんだろうけど、子供である姉妹には判らない色々があったんだろうけど、それを子供たちには感じさせなかったから。きっと、そうだから。
でもそれは、“父の死”になんだかポカンとするしかない二人にとって、本当にいいことだったか、それはひょっとしたら、難しい問題なのかもしれない。

おかあちゃんは、元夫の死の知らせを受けて、途中までは喪服で駆けつける。でも娘から、遺産放棄の啖呵切ってやった、というメールが届くとバカねえ、と言いながら嬉しそうに笑い、病欠の連絡をしていた職場にこれから出ますと電話を入れて、引き返すんである。
お姉ちゃんが叔母さんに「うちの母は金融関係のエリートですから!」と啖呵を切ったその職業は、最後の最後に明かされるんだけど、宝くじ売り場の販売員。
おかあちゃん、エリートだよね、と娘から言われて一瞬ポカンとした彼女だけど、「あったりまえじゃない、トップファイブに入るエリート販売員ですから!」と胸を張る渡辺真起子がカッコイー!

……ちょっと、先急いでしまいましたが。で、まあ、なんだっけ。あ、そうそう、本作のクライマックスよ。なんたって、クライマックスさ!
叔母さんから恥辱を受け、お姉ちゃんはこうなったらお父さんの死に顔撮ってやる、堂々と撮ってやる、娘なんだから!と勢い込むも、親族が涙ながらに遺体に花を入れる様子、呼び寄せてくれた叔父さんの号泣、何より、異母弟が、煙草が好きだったお父さんに火のついた煙草を吸わせようとする様子に、とてもそんな場違いなことが出来ずにその場を離れてしまう。
そして出棺。もう私たちは帰りますから……という二人と叔父さんとのやりとりで、「そうだよな、恨んでるよな。でも最後なんだから、見送ってくれたって」なんかそんな食い違いのまま、気まずく別れてしまう、のね。

黙ったまま緑の田園地帯をほとほとと歩く姉妹。いつも、妹が何か言いたそうにしている時には水を向けてあげていたお姉ちゃん、この時には、キレるのね。言いたいんなら自分から言いなさいよ!って。
……これ、結構キツかったなあ。……誰かに水を向けられるのを待ってる、つまり誰かが自分の気持を判ってくれてる、まあ言ってしまえば、カワイソがってくれてるみたいな、メッチャ甘えた気持ち、結構覚えあるからさ(爆)。私も妹だから(爆爆)。
でもこの妹は、そのことを自覚していたかどうかは定かじゃないけど(この時お姉ちゃんから突きつけられて判っただろうけど)、だったらどうして、お姉ちゃん、いつも余計なことまで言っちゃうお姉ちゃん、言ってくれなかったの、って、言うのだ。

私たち、お父さんを恨んでなんかいなかった。そんな風におかあちゃんは私たちを育てなかった。どうしてそう言ってくれなかったんだ、って。これじゃ私たち、お父さんを恨んで育った可哀想な子供じゃん、って。
そしてぽろぽろぽろぽろ涙をこぼす。彼女は決して上手いタイプの芝居をしないから、逆にこの涙が妙にリアリティをもって迫る。お姉ちゃんがそんな妹を抱き寄せて「……ごめんね」というシンプルな収束も、だから胸に迫る。

田んぼに駐車していたトラックのオッチャンに乗せてもらって、急ぎ焼場にたどり着く姉妹。気まずい別れをした叔父が何より喜んで、扉が閉められてしまったのに「顔を見てほしいから出してくれ」と、職員につかみかかってのプチ騒動は、泣き笑い。
「出してももう、焦げてますよ」には苦笑。ところどころに感じる笑わせるキメ台詞が効いてるから、イイんだよなあ。

無事野辺送りも済み、いたいけな弟との別れ。たった一人になった彼は、この後、どうなるのだろう。「もう、ここには来ないの」と思いつめた様子で言う彼に、「もう、来ないかな」と言うと、彼は明らかに落胆する。
「どうしても、逃げ場が欲しくなったら、いつでも連絡して」お姉ちゃんが渡したのは、キャバ嬢の名刺で、彼はぼたぼたと涙を落とす。
そう、逃げ場があると思うからこそ、どんな子供でも頑張れるのだ。彼がこの姉妹に逃げ込むことがあるのか、それは判らないけど、ないんじゃないかとも思うけど、この名刺一枚が彼の支えになってくれることだろう。

姉妹が帰ってきて、おかあちゃんに報告する。顔の写真を撮ってくる筈だったのが、「もう、面影ないけど」と、写したのは骨を壺に拾う場面!爆笑!そりゃ、面影ないわ!!
この場面を「はいチーズ!」と収めた妹の度胸に姉も感嘆したけど、「やっぱり姉妹だね」と姉が笑って手のひらの上に見せたのは、「多分、右手のどっか」の骨の一片!!

でもその写真と、そしてその骨を見たおかあちゃんが、涙にむせんだのは、それまでの経過を考えたら、ちょっと、意外だったかもしれない。小さな骨に鼻を寄せて「……こんなに小さくなっちゃったのに、あの人に匂いがする」とつぶやいたのには、ちょっとズンと来てしまった。
けど、その後、その骨を川に放り投げたのは、胸がすいた!まあ、ちょっと、予想の範囲内ではあったけど(爆)。「ここでいいから、お墓参りする手間も省けたでしょ」というのもね。
だから正直、大オチみたいに、骨がマグロに食われるというラストは、あんなツマンナイCG使ってまでそんなことやるヤボさもあいまって、そりゃないだろ……ってちょっと、思ったけど(爆)。

父、がチチ、なのは、再三、母親と姉妹とでおっぱいを触る場面があって、「チチを触るな!」というじゃれあいがあるからだと思うんだけど、タイトルにするぐらいだから、チチ=父となんかカブるのかと思いきや、全然なのはガクッときたかなあ。
お姉ちゃんを演じる柳英里紗嬢が、そ、そうか、トキメキまくった「惑星のかけら」の!!育っちゃってて、気付かなかった!お、大人になったのう(涙)。何気にキャリア重ねてる度胸ある彼女が、今後も大成してゆくことを切に望む!! ★★★☆☆


中学生円山
2013年 119分 日本 カラー
監督:宮藤官九郎 脚本:宮藤官九郎
撮影:田中一成 音楽:向井秀徳
出演:草g剛 平岡拓真 遠藤賢司 ヤン・イクチュン 鍋本凪 刈谷友衣子 YOU 原史奈 家納ジュンコ 皆川猿時 三宅弘城 宍戸美和 少路勇介 野波麻帆 田口トモロヲ 岩松了 坂井真紀 仲村トオル

2013/5/30/木 劇場(有楽町スバル座)
メジャー製作、配給で、クドカンで、草g君主演の新作映画が、9位スタートというのは低っ、と思ったが、実際に劇場に足を運んでみると、なんかその低さを実感してしまった。客足もそうだけど、作品の、うーん、この感じだと確かにそうかも……と。
まあ、クドカンだからヒットするという訳ではないけど。もともと彼は、数字の結果よりも確かなファンや評価がついてくるタイプの人なんだろうし。

でも本作に関してはそれも……何か違ったような気がしたなあ。今やもう、そういうことでもないのだろう、クドカンは。期待に応えるべき人物としているのだろう。
ある意味では、クドカンならという、ある方向の高いレベルを要求もされているんだろうと思う。それが本作では……どうたったんだろうという気がしている。

いや、クドカンの魅力の一つが、予想のつかない、破天荒さにあるのならば、確かにそれはあるんだとは思う。まさしくテーマとなっている中学生男子の妄想、それが映像として再現される、そのキッチュさはそうなのだろう。
遊び心タップリに、ヘタウマなパラパラ漫画、特撮ヒーローを思いっきりチープ&ポップに仕立て上げてみたり、何より中学生男子の妄想のお下劣エロは満載。笑えない訳じゃない、んだけど。

クドカンにしてみりゃ普通、普通という訳じゃないんだけど、うーん、なんて言ったらいいんだろう。
今まで彼の作品に感じてきた(いや、私、ドラマとか見てないし、ホント少ない経験とイメージ先行でなんだけど)、一見泥臭かったり懐かしかったりするんだけど、メチャメチャ洒落た世界観、思いもかけない方向から飛んでくる台詞のセンス……上手く言えないけど、そんなところにあったような気がする。

彼が手がけた映画二作品よりも、ひょっとしたらドラマ作品の方にそうした手腕は発揮されていたのかもしれない。
それでも映画二作品も、思いっきり弾け飛んでて、ああ、ようやく、私もウワサのクドカンの世界に入れた、と思った。でも、ひょっとしたら、どこかで、本作につながるような無理というか、破たんを、感じていなくもなかったかもしれない。

色々、考えるのよ。これを脚本だけで、演出を他に託したらどうだったのかなあ、とか、彼がキャスティングを考えたのならば、そうじゃない、外注だったらどうだったのかなあ、とか。
例えば「舞妓Haaaan!!!」みたいに、脚本のみの参加だった時、えー、なんでクドカンが監督しないの、と思ったりはしたのだ。でも今から思えば、「舞妓Haaaan!!!」も「なくもんか」も、演出が外注だったから、成功していたのかもしれない、などと思う。
本作は最終的には「なくもんか」みたいなシリアスなテーマ性やクライマックスが用意されてるんだけど、そこでなかなかグッとこれないのは……いろいろな原因があるんだとは思うんだけど。

ていうか正直、ね。クドカンが、ある意味こんな、さっきもちょっと言っちゃったけど、普通の題材を持ってくるとは、とも思ったの。
中学生男子の妄想世界。まあそりゃ、映画作品になったものがあるかと言われれば(あったかもしれんが)、その点については新鮮な目の付け所だったかもしれない。でも、つまりこれって、監督自身のニキビくさい青春が大いに入ってる訳でしょ。

いや、判るよ、中学生男子なんて、多分恐らく、百パーセント、今も昔も変わらないだろう、ってことなんだろう。それは確かに真実なんだろう。
でもあのクドカンが、思いもつかないところから変化球を剛速球のように投げてきたクドカンが、そこ??と思わなくもなかった、のは、事実。

監督の期待を一身に浴びて登壇した主演の平岡拓真君は、確かにそんな、普遍的な中学生を好演しているが、普遍的な中学生ということは、クドカン時代の、つまり私時代の中学生男子をほうふつとさせるということなんだよね。

まあ、今だって、特に男の子は案外変わってないもんだけれど。それは確かだけれど。
でもね、本作って、団地が舞台でしょ。ちょっとここんところ、まるでブームなのかと思うぐらい、“団地映画”とくくっちゃいたくなるぐらい、団地が舞台の映画がそろい踏みなんだよね。
すべてを見ている訳じゃないけど、その団地、ということが、本作においてはあんまり……ピンと来ないというか。

あくまで中学生男子の妄想の面白さが主眼で、団地という舞台設定は、何号館の何号室がごっちゃになるクスリとした場面とか、妄想が現実となって、アクションとなった時に上の階と下の階でバタバタやるとか、ゴミ捨てのルールやらでぶつかったりもするけれど、まあその程度で、この団地で育ってきた、団地文化みたいなものには物足りない感じがするんである。
のは、本作の前に、そうした点で優れた“団地映画”が登場しちゃってたから、分が悪いんだよなあ。本作の予告編に触れた時に、あ、また団地映画、しかもクドカン!!などと期待しちゃったからさあ。

主人公の中学生男子、円山君がそのたくましい妄想によって「子連れ狼の殺し屋」と設定するのが、実質的な主人公はこっちであると思われる草g君である。突然、この団地に現れた謎の男。
円山君の想像はあまりに破天荒だったのに、驚くべきことにそれが現実となるんである。この団地の中で浮世離れしているほどに正義感が強く人の信頼が篤いこの子連れ狼は、本当に(ある意味)殺し屋だった上に、円山君の想像を超えたバックグラウンドを持っていた。
円山君の妄想にただ一人、笑わずに付き合ってくれた人。まさに笑わずに、特に面白がっている風もなく、むしろ怒りをもって、円山君に接していた。中学生である彼が、世間なんて、大人なんてそんなもんさと言う無責任さに対して、本気で怒った。

草g君はね、良かったとは思うんだけど、でも草g君じゃない方が良かった気がする(爆)。なんかね、マジメにギャップを演じてる感じがして、クドカン的ギャップの幅が感じられなかった気がしてる。
お芝居的には合格点だと思うんだけど、なんだろう……。この役を、盟友、阿部サダヲや、例えば池田鉄洋が演じたら、などと考えていた。
草g君だと、最終的にシリアスになる予感は最初から満ち満ちているし、別にその予感が当たったからといって予想通りとガッカリする訳でもないんだけど、ただギャップの振り幅は、なんとなく狭まってしまったように思う。

得体の知れない男、シングルファザーとして生活してて、仕事をしている様子もなく、部屋の中は水族館のような装飾、世間やモラルに反した人たちを(妄想の中で裸踊りをしていた円山君含め)撮影してDVDに落とし、当人に送り付けてくるようなクレイジーな男。
でも実は、奥さんを鬼畜な少年犯罪で亡くしてて、この世に生きているべきではない人間をぶっ殺しまくっているという、元警察官。

……この、“この世に生きているべきではない人間”とかね、人を殺すのがなぜいけないの、というのを、特に人を憎んでいる訳でもない女子中学生に投げかけさせたりね、深いテーマ性を持たせながらも、それを観客に納得させられたかは、……どうかなあ、と思う。
確かにこの疑問は、ちょっと、判る。もちろん、即座に、そんなこと当たり前じゃないかと、人が人の命を奪うなんてと、したり顔で言うことはできる。

円山君のように、どんな人にも悲しむ家族がいるから、ということも出来るだろう。でもそれを「じゃあ、悲しむ人がいないなら、殺してもいいの」と可愛い女の子からまっすぐに問いかけられると答えに窮してしまう。
実際問題、本作の中でこの答えは解決に至らず、いや、至らないのはいいのよ。至るような簡単な問答じゃないんだもの。

でも、なんか、議論も苦悩もされず、この子連れ狼がそれを肯定しようと思ったらバチが当たったかのように死んじゃった、みたいに終わってしまうのは……。
いやそれが、そのテーマで悩みつくされ、でも結論が出ない、みたいな虚しさを感じるとかだったら判るけど、そうじゃないでしょ。本作のテーマはあくまで、中学生男子のエロな妄想にある訳だからさあ。

円山君は、自分で自分のチンコをなめたいがために、身体を柔らかくすべく、日々自主トレに励んでいる。この妄想中学生を、妹はウザがってるけど、両親、特にエロ動画を見ることが趣味の父親はあたたかく見守っている。
年齢を経ていい感じにハジけた仲村トオルがイイ。ブカブカのパジャマの下に綿の下着を着てるダサさとか、たまんない。食後のフルーツに生きがいを感じてるとかいうあたりが、いかにもクドカンテイスト。

正直、主人公の円山君や、子連れ狼の草g君よりも、円山君の家族たち、特に女家族たちの方が面白いのよ。
まだ小学生の妹は、イケてる友人が二股かけてるぐらいなのに自分に彼氏どころか、好きな男の子もいない、と嘆き、こともあろうにこの友人のボケたおじいちゃんを彼氏にしちゃう。
しかし実は過去にロックミュージシャン、ギターをパンクにかき鳴らす、演じるは遠藤賢司。恐らくクドカンにとってのスターミュージシャンなのであろう。

確かにボケ老人なのに突然パンクな彼はカッコイイし、ご近所の女の子とカレカノ同士になって仲良く散歩やあやとりなんぞをする様子は素敵だけれど、描写がちょっと冗長な気もする。
なんかね、クドカンの思い入れたっぷり感が出まくりなんだよね。街中でイベントライブやって、たいかにも草食系バンドに飛び入り、つーか襲い掛かって、一人ギターをかき鳴らして歌いまくる場面とか、彼のカッコ良さを示したいんだろうけれど、長いし、クドい(爆)。

個人的に最も好きだったのは、円山君のお母さん、坂井真紀が韓流ドラマにはまってて、その主演スターが団地の御用聞きに回ってる電気修理屋さんとして登場!
その設定自体、さすがクドカン的斬新さで、むしろこの方面で押して押して、ひと作品作ってほしかったぐらいなんだけど!

だってその韓流スターがなんとまあ、ヤン・イクチュン!!「かぞくのくに」から本作って、日本映画に呼ばれる振り幅が極端すぎるだろ!!そもそも「かぞくのくに」に呼ばれたのは当然、大傑作「息もできない」があったからであって、しかしそこから見るたびに順調に太って(爆)、でもその太り加減、茶髪のテキトーさ加減が本作の、落ちぶれた韓流スターにピッタリなのよねーっ。

クドカンが確信犯的に作る安っぽい韓流ドラマ、タイトルまで確信犯的、愛してチャンジャとかなんとか(安っぽすぎて、うろ覚え(爆))。
それを坂井真紀扮する円山君のお母さんが熱心に見ていて、繰り返し見ていて誤作動を繰り返すもんだからディスクが取り出せなくなっちゃって、太り気味のヤン・イクチュンがキメ顔で振り向きざまのまま小刻み再生のフリーズになっているのがたまらなく可笑しい!

えーっ、いいの、こんなの、それこそ韓国にバッシングされない??いやさ、彼が坂井真紀に吐露する、日本で売れると叩かれる。家族も友人も恋人も去った。もう俳優はやめた。そっとしておいてほしい、としんみりと語るからさあ。
でもそれを、韓国語をそれこそ“自主トレ”したての彼女は「あなたのファンです」って決まった台詞しか繰り返せなくて、全ッ然判ってないのが、可笑しいんだけど!
厳しいイメージしかなかったヤン・イクチュンが、上唇の端をピクピク震わせて唖然とした表情作るのには爆笑!

最終的にはおっぱいの谷間を放り出して、メイクもばっちり、アンニュイに迫るこの人妻とイイ感じになっちゃう彼が、「国に帰る」ために挨拶に訪れ、粗品をどっさり渡してきびすをかえす、しかも今までの作業服姿じゃなく、スーツ姿!てのが、妙に泣かせてさあ。
このシークエンスは、チープな韓流ドラマとか、結構危ない橋渡ってるのに、最終的にはさすが、坂井真紀姐さんと、ヤン・イクチュン、この二人のシークエンスだけ取り出して一本にしたのを見たいと思うほど!

で、まあ、ね。どう〆ればいいのか(爆)。愛する妻を殺され、その相手は少年だったもんだから出所してきちゃって、死んでいい人間は殺していいんだ、みたいな極端な思想を持ってしまった子連れ狼の草g君は、団地生活をしながら“死んでいい人間”をぶっ殺しまくってきた。
そして円山君と出会って、この結末を迎えた。彼が命を落としたのは、追われたヤクザや、かつての同僚の警察官ではなく、水鉄砲で遊ぶのが好きなわが子が、ヤクザが落とした拳銃を拾い、無邪気に父親に向かって引き金をひいたからであった。

死んでいい人間は殺していいんだ、という極端な価値観を持ってここまで来た子連れ狼が、わが子に殺される。
それはまさしく、彼自身が……という皮肉な含みを持たせる訳だが、ちょっとしたファンタジックな物語だからまあいいんだろうけれど、うっかりでも、親を殺してしまった子供の、その後の人生をふと思ってしまう。
今までのクドカン作品なら、いわばそんなヤボなこと、思ったりしなかったんじゃないかと思う。幼い子供によって親がウッカリ殺されてしまう、その描写がこんな風に、善悪の理念に結びついているのなら、ここだけの展開だから、という訳にもいかない気がしてしまう。

うーむ、面白いシーンはたくさんあるんだけど、それこそチンコをなめたい円山君が、レスリング部のストイックな練習の末に、皆に励まされて(!!!)達成して拍手喝采とかさ!
……あの光モードモザイク再現では、完全に勃ってたよな……てゆーか、基本あの身体の硬さでは、勃ってないとなめるのは難しい……しかも運動部女子も沢山見守る中で……。

ならばその、“勃ってるからナメられた”てエロヤバな笑いも押さえといてほしかったなーっ。なんか、メジャー製作だと、判り切ってることも、観客サイドに任せます、みたいにしれっとスルーされるの、つまんなーい!
そんなところをスマート?にスルーしないで、もうベタベタにコテコテに、エロエロに攻めてくんなきゃ、つまんないっ!!!

若くて才能のある、というだけでは、段々いかなくなってくるのかもしれないなあ。まあ、今や朝ドラ脚本家として、押しも押されぬ存在なのだから、それでいいんだろうけれど。
あ!そうそう、それこそどーでもいい話だが、せっかくあのヤン・イクチュン、そして草g君、円山君が妄想する中で、ヤン・イクチュンに特撮スターをやらせたりもしてるんだからさ、草g君の韓国語で彼と会話するシーンとか、当然観客は期待するでしょ!
えーっ!!なんでなかったの!!もったいなーい!二人ががっぷり組むエピソードを用意するぐらいアリだと思ったのに!もうそれだけで、転倒による?マイナス1だよ!! ★★☆☆☆


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