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モチモチの木
1972年 17分 日本 カラー
監督:岡本忠成 脚本:岡本忠成
撮影:吉岡謙 田村実 音楽:鶴沢清治
声の出演:豊竹呂大夫
とにかく臆病者の男の子が、主人公。彼の死んでしまったお父さんも、一緒に暮らしているお祖父さんも勇気あふれる男なのに、彼だけは夜になると外のモチモチの木を見上げることさえ出来ない怖がりなんである。いつもいつも夜中にお祖父さんを起こして、便所についてきてもらう。でも怖くて小便も出来ない。しかしそのまま寝ると必ず寝小便してしまう。ホント、困った怖がり少年なんである。
こんな困った孫を、しかし慈しみながら育てるお祖父さん。お祖父さんは彼に言う。庭にあるモチモチの木は、神様の祭りの日に、火を点すんだよ。それは勇気のある子供がたった一人でしか、見ることは出来ない。私も、そしてお前のお父さんもそれを見たんだよ、と。でも怖がりの少年には一人で夜、モチモチの木を見上げるなんて、そんなこと怖くてとってもできっこない。見たいけど、見たいけど……出来ない、出来ない!しかしその夜、いきなりお祖父さんに原因不明の腹痛が襲う。七転八倒して苦しむお祖父さん。少年は無我夢中でふもとの村にお医者さんを呼びに飛び出す。夜の外は怖いけど、大好きなお祖父さんが死ぬのはもっと怖い!無我夢中で何時間もかけて、山を越え、谷を越え、必死に駈けてゆく。
……単純なんだけど、こういうのに結構、グッときちゃう、のね。“大好きなお祖父さんが死ぬのはもっと怖い”この、“大好き”っていうのが、もう本当に掛け値なしに、純粋に、まっすぐに、大好き、だっていうのが判るから、さ。全然打算がなくて、それをあんなにも臆病者だった少年を動かすことが出来るっていうのが、ああ、いいなあー、ってちょっと涙が出ちゃいそうになるの。そしてお医者さん(やっぱりおじいさん)が疲れ果てたこの男の子を背負って、えっちらおっちら彼の家まで山を越え谷を越えやってきてくれる。そして、家に着いた時……見るのだ、彼は。モチモチの木に、色とりどりの火が灯っているのを!
モチモチの木の造形は人物の造形が色和紙であるのに対して、筆描きの、絵本っぽい絵柄ではあるんだけど、このシーンは本当にキレイだったなあ……彼と一緒に見とれてしまったりして。一緒にいたお医者さんには見えなくて、月明かりがそう見せてるだけだ、と言われるんだけど、その後回復したお祖父さんは言うわけ。たった一人で夜道をお医者を呼びに駈けて行ってくれた、そんな勇気のある子供だから、それが見えたんだよ、と。お祖父さんはね、ホント、嬉しかったと思う。勿論、これは錯覚などではない、お父さんもお祖父さんも見たというのは本当だと思うし、だから孫にも見てほしいって、真に思っていたと思う。それが叶って本当に良かったねと思いつつも……ラストにはオチがついて、やはり相変わらず少年は、夜の便所のために寝ているお祖父さんを起こすんである。……カワイイね。
和紙の暖かさと計算されたぎこちなさ、そして浄瑠璃調の語り、すっごく良かったなあ。日本人で良かった、って思ってしまう、こういうの、ホントに。★★★★☆
そう、殺人鬼。女性の、シリアルキラー。実際に、死刑執行がなされた実在の人物、アイリーンの物語を、美人女優、シャーリーズ・セロンがなりきりになりきりまくって演じてる。
まあ、その……この基本的な部分でそんなに引いちゃうのも良くないんだけど。みんな、彼女の演技を大絶賛しているわけだし。
ただ、この映画の情報を最初に聞いた時、つまりオスカー受賞の時、“体重増やしたり外見を大きく変えて、しかも娼婦役”という、これまでのオスカーの条件をあまりにも踏まえすぎなことに、「これじゃ、取るよね」的な見方があって……確かにそこまで役作りをしたのは凄いと思うんだけど、そういうことに対してことハリウッドはいつだって弱いんだよなあ……といわざるを得ないのも事実。
役者がそこまでしてこういうキャラクターを演じたら、そりゃテンションにしろなんにしろあるレベル程度以上になるのは当然で、かなり手助けされてる感アリだし、もうこの時点で賞賛されるのが確実みたいなのがちょっとねと思ったり。
あー、なんで私こんなぐちゃぐちゃ言ってんのかなあ。まあつまり、あのシャーリーズ・セロンがここまでブスになったということが衝撃とともに、ヘンな言い方だけどちょっと許せないわねと思ったりもしたのだ。
だってー、ブスになるにもほどがあるよー。というか、キレイな人がここまでブスになるのって、何かちょっと腹が立っちゃう。いいじゃん、キレイなんだからさ。
まあ、ここで私の大好きなニコール・キッドマンを引き合いに出すとですね、彼女だったらあそこまで外見は変えないような気がするというか、変えたとこを見たことないからだけど、外見を変える必要なんてないんだもん。演技力で内面を見せることが出来るんなら。
正直、シャーリーズ・セロンがブスだということが、観ている間中ずっとずっと気になっちゃって、どうも集中できないわけ(そんなの、私だけかなあ……)。
何もそんなにブスにする必要もないんでないの?とかも思っちゃう。ここまでブスでデブにする必要って?
実際の犯人に似せたんだろうけれど……それこそ、ここまでやられちゃうと、その“演技力で内面”が薄れちゃう気がする。それに、カワイイクリスティーナ・リッチから誘われるのが説得力がないし。
体重はともかく、顔中のシミや出っ歯とか、殆ど特殊メイク状態の人工メイクまで使ってあそこまでブスにしちゃうのって、元が美人な人だからやっぱり、ちょっと腹立つなあ、と思うのはブスのヒガミなのかっ??
ま、それ以前に彼女自体にどーにも共感できないのが大きいんだけど……えー、BBSの諸氏のように、彼女が可哀想とか仕方ないとか純粋とか思えないよ。哀しい生い立ちは回想ではチラリとだけで、あとは彼女の言葉だけで済まされるせいかなあ……つまり、父親の親友に陵辱され続けた幼少時代で、それを親も信じてくれなくて、兄弟たちを養うために始めた娼婦の仕事を、その兄弟たちからさえも疎まれて、街を出たこと。
このトラウマと、そして仕事でレイプされかけ殺されかけ最初の殺人を犯してしまったトラウマが重なったんだというのは判るけど、その後、殺しこそが目的のように客をとる彼女に共感するのは難しいんである。
確かに、その後、恐ろしいことをしてしまったと思ったリーは、一時娼婦をやめようと思い立つ。そうだよねー、そこでやめてくれてればね、ってそうしたらこの物語自体成立しないけど……でも、セルビーを養うために、セルビーからも懇願されて娼婦を続けることになる。それが連続殺人の始まり。
最初の殺しは、いーよ、そんなヤツ殺しちゃえ!と思う。本当に正当防衛だし、あれに関してだけは、心底彼女がかわいそうだと思ったけど、その後の殺人に正当性がまるでないんだもん。
こここそが重要なわけでしょ、この映画を見せるべき、最も重要なところなんでしょ。彼女が二番目以降の殺人を犯さざるを得なかった、と観客に思わせることが。うー、でもBBSでは皆、その点に納得しているみたいなんだな。私はどうしても納得できなかった……二番目以降の殺人があまりに唐突に感じてしまう。
そう、殺すために客とってるみたい、銃を持つ社会だから、あーいうことが起こるわけでしょ、なんて感じてしまう。
つまり、女も男と同レベルで殺人をおかすことが出来るんだ、という……。
そもそも彼女は自殺しようと思っていたのに……自分の死と他人の死の重みは一体彼女の中でどうなっているの?
最後の客なんてイイ人だったのに。リーにとっては客だったけど、彼女を車に乗せたそのオジサンにとって、そんな気はなかった。路上にフラフラ立ってるリーを車に迎え入れ、彼女の気の毒な身の上を聞いて、自分の空き部屋を提供して人生を立て直すことさえ提案するのだ。妻も判ってくれるだろうと。リーは困惑する。彼女にとって、イイ人は存在しなかったから。
あの時、リーはセルビーに言っていた。あんたにとって世の中は善人ばかりなんでしょ、と。もちろんそれがあんたのいいところだけれど、私にとっては違うんだと。イイ人じゃないから、特に客の男たちなんてみんな下劣なヤツばっかりだから、彼女の中に殺しの正当性が出来た。実際、女を買おうなんて男は、女にとってイイ人であるわけがなく、だからリーが彼女にとってのイイ人に出会えずにいたのも無理からぬことで。
しかし、出会わないはずのイイ人に出会ってしまい、動揺した彼女は、そのイイ人さえ、撃ち殺してしまう。
これは、ここまでくると、やはり心の病気だ。彼女に同情心を持てないのは、彼女が自分で正論だと決めつけて、世の中で自分が一番カワイソって感じで自分を追いつめていくからだ。もちろんそれこそが彼女の哀しさであり、この非情な世間の被害者とも言えなくもない。
でも、だからといって、愛のためとか、純粋な人だからって、そんな単純に言ってしまっていいものなんだろうか……。
うーん、何か違う気がするんだなー!
もちろん、そのガンとなっているのは、恋人のセルビーである。恋人、というより、ヒモ。演じるクリスティーナ・リッチのカワイイこと。そしてこの残酷な恋人を演じる彼女の方が演技的には凄いと思ってしまうのは、いけない?ま、そこは実力派のクリスティーナ・リッチだから(彼女こそ、オスカーに縁がないのは、不条理だな!)
だって、彼女、自身で働く気なんてぜえんぜん、ないんだもん。娼婦から足を洗おうとしたリーを「何で辞めるの」と責め立てたのにはアゼン。女としてそれがどんなに屈辱的な仕事か、同性愛者だから判んないって訳じゃないでしょ。
あわわ、トンでもない差別的なこと言っちゃった……す、すいません。いや……だってさ、セルビーだって自分が同性愛者で、それこそ世間からの冷たい視線にさらされてきたのにさあ……(特に、ガマンして男と結婚する選択をすべきとか言うオバサンは最悪)でもね、ここでのリッチの演技力には、それこそ外見に頼らない内面から放つ演技力にはナットクできるわけ。そりゃ共感は出来ない。だけど、ああ、こういう子なんだよね、いるいる、みたいな。こういうお嬢様然としたコにひっかかっちゃって、というか、まあ、リーは“愛した”と思い込んじゃって(という言い方はイジワルだろうか)で、転落するっていうのは、そりゃもう、このクリスティーナ嬢のキュートでビミョウなフェロモンで、うんうん、判る判る!ま、それは私が彼女のファンだからだろうが……。
中途半端にリーに同情するところなんかに、セルビーの未成熟な人格がよく現れている。で、その中途半端な同情を寄せる時のちょっとしたカワイさに、リーは勿論、観客も思わず彼女に心を動かしてしまうわけ。
だって、もともとリーは同性愛者だったというわけじゃない。彼女は言う。「男も女もキライ。あんたは好き」と。ローラースケート場で気持ちが高まりあって唇を吸いあうシーンは、“愛”に飢えたケモノのようだ。
自分を愛してくれる人を、愛したかったんじゃないのかなあ、リー……。
で、娼婦から足を洗うことに失敗したリーは、再び夜の道路にたたずむことになるわけで……。
でもねえ、このカタギの職探しの描写も、ちょっと共感を阻む材料になってるんだもんな。だって、いきなり秘書だのなんだのと、セレブな職業にばかりチャレンジするのも頭悪いというか常識ないというか、なぜそこまで自信過剰なのかとか思うし。
獣医になりたいとか、夢は大統領だとか語っているシーンでセルビーが(ま、ヒモとはいえ)不安そうに眉をしかめるのもさもありなんである。半分冗談かと思っていたら、なんか本気みたいな感じなんだもん。
あるいは、リーの中に、カタギの仕事に対するボキャブラリーが貧困なのかなとも思う。そういう知識のない哀しさなのかなと。だって、求人案内所の女性のアドヴァイスは正しかったじゃない。冷たいとか怒るリーは逆ギレとしか思えないなあ。だって、工場勤めの何が悪いの。愛する人を養うためにお金が必要、なのにやけにその体裁にこだわるリーにちょっと引けてしまう。お金を稼ぐためなら自分の足元に見合った仕事するでしょ、普通。まあ……彼女がずっとサイアクの仕事をしてきて、愛するセルビーを得たから、ここでひとつ這い上がりたいと思うのも判らなくはないけども。
別れの時にはあんなに切なげな涙を流したセルビーなのに、リーを売り渡したのは他ならぬ、彼女だった。
あの、涙ながらの電話が、ワナだと判った時の衝撃度の方が大きい。リーはセルビーを愛している(と思っている)から、それにうすうす気づきながらも、ついにそこで自供をしてしまう。
相手の方が自分を愛していないことを、いやもはや愛さなくなっていることをこの時点で充分すぎるほど気づいていたのに。そして、決定的、裁判所で、冷たいまなざしで自分を指差すセルビーにむせび泣くリー。
凄かったなあ……あの時のクリスティーナ・リッチの目!殺人者よりずっと怖い目をしてた。
リーにとってのイイ人がいない、なんて言っちゃったけど、ずっとリーを心配している“唯一の友人”のトムは、イイ人だったよね。リーが自分にも真に心配してくれる人がいるんだということ、その幸福に気づけていれば、事態はもちょっと違ったものになっていたのかもしれない。彼女の哀しさは、悲惨な状態でもどこかに小さな幸福があるかもしれない、と探すことをしなかったことなのかもしれない。★★★☆☆
この物語が、中学生が原作者だということに驚きつつも、そういう、現在進行形のナマな体験が反映されていることに胸を痛めつつ、この気持ちのよい収斂もまた、理想ではなく事実であってほしいと思う。この映画の掲示板、映画の感想を語るというよりは自身それぞれのいじめの辛さを告白するような状態になっていて、掲示板上でいじめっぽい発言をしている人とかもいて、ちょっとこれじゃ監督が可哀想だなと思ったりもするんだけれど、それぐらい、彼らには語る場所さえなくて、それを探してさまよっているんだと思うと……辛い。
女子校での話。女の子だけで囲まれている世界。みんなみんな、ごく普通の女子中学生だ。ちょっとグロス系のリップクリームを塗っている程度の、別にハデではなく可愛い女の子たち。皆可愛いだけに……その可愛い笑顔満面で一人の子を小突いたり集団でケリ入れたりする描写が本当に怖い。「精神的にダメージを与えようゲーム」などと言って、言葉でもさんざん痛めつける。ノートにメチャクチャ落書きしたり椅子に画びょうを置くなんてことはまだ軽い方で、なんといってもあのお葬式ごっこの辛さは……それまで気を強く張っていた澪も突発的に自殺を図ろうとするぐらいの、ダメージ。
気の強かった澪。彼女こそが最初のいじめのリーダーだった。「潮崎マリアが私たちに与える不快感への正当防衛」と言って、気の弱そうなマリアをいじめにいじめぬいた。
しかし突然、そのターゲットが替わる。転校生の麻綺。見るからに可愛くて明るい彼女はあっという間にクラスの人気を得る。そのことが面白くない澪はマリアから麻綺にターゲットを移したはずが……それはほんの一瞬で、麻綺はそのリーダーシップを握り返し、澪をそのターゲットに突き落とした。
自分がいじめられることで初めてその辛さを理解する澪。しかしその澪に手を差し伸べたのが、今まで澪にいじめられ続けていたマリアだったのだ。
このマリアという女の子。マリアという名前が象徴しているような気がする。彼女は弱そうに見えて、実は最も強い人物なのだ。他人の痛みを自分のものとして受け取ることが出来る、そういう女の子。
それは彼女自身がいじめられ続けてきたということは勿論なのだけれど、そのターゲットが移った時、ああ助かったとか、あるいは自分がいじめられないためにいじめグループに加わるとか、そういうことを一切しない。ただ、いじめられている人の苦しみ、悲しみに胸を痛める。一緒に苦しんであげられる、そういう女の子。
人の痛みを判ること。それは言葉で言うより本当に難しい。
それは本当に……実際にその身に起こらなければ判らないのかもしれない。
これは、確かに理想に過ぎるのかもしれない。本当にこんな、マリアみたいな女の子がいるの?と。
掲示板で、今までいじめられていた子が、いじめかえして判らせてやったという書き込みがいくつか見られた。それへの賛同意見もあった。そうしなければ、いじめている子にはその苦しみが判らないんだと。
哀しくなる。たまらなくたまらなく、哀しくなる。この映画の掲示板なのに、って。それはつまり……このマリアのような女の子などいないということなのか。マリアを、映画を完全否定しているということなのか。
確かにここでも澪は自分がそういう立場にならなければ判らなかったけれども……。
でも、そんな風に、いじめられて、いじめかえして「そうしなければ、相手は自分の気持が判らないから」っていうのって……そういう立場になったことのない私が言えることじゃないけど、でもそれって、今の戦争の大義名分と一緒だよ。そう考えると、人間が起こしてしまうことの怖さを思う。後悔しても、反省しても、取り返しのつかないことってある。マリアはそうじゃなかった。彼女の存在がこの作品に大きな意味をもたらしていることを判ってほしい。
澪が何とか踏みとどまれたのは、マリアという本当の友達が出来たから。自分の苦しみを吐き出せる相手がいたから。
いじめなければ、いじめられる。今はそういう風潮。昔はいじめるといえば、いじめる子といじめらる子は一対一だったのに、いまではいじめといえば集団いじめを指すようになってしまった。
まだ前者の方がマシだったのは、それこそ“自殺する前にはむかえる勇気”を持ち得るから。
でも集団いじめではそれは出来ないのだ。はむかう隙を与えられない。
その中で、いじめられる側の味方になるマリアは、本当に強い女の子なのだ。そりゃ、たった一人ではいじめを止めることは出来ない。そういう強さも確かに頼りになるけれども、でもただそばにいてあげられることが、どんなに力になることか、ということなのだ。
こういう風に助けてやれるんだよという提示を、本作はしているんだろうと思う。だからきっと、この物語は説得力があるのだ。
ある時またも、いじめのターゲットは替わった。澪の幼なじみのコ。彼女は麻綺が主導権を握るようになってアッサリと澪をいじめる側に回ったのだけれど、その彼女がまるで唐突に次のターゲットとなった。麻綺は狡猾にもその入れ替わる瞬間を澪に見せ付ける。澪に心から謝る態度を見せつつ、その代わりの生贄だとでもいうように、そのコを小突き回して澪に泣きながら謝らせるのだ。
澪は呆然として駆け出す。
そう、いじめられる側に責任も原因も、ないのだ。ただ、いじめる側といじめられる側が存在するだけ。いじめる側にとって、いじめられるターゲットがあるだけでいい。
くるくると替わるいじめのゲーム。それはこれまでのいじめ映画ではなかったことで……これもまたやけに生々しいリアルを感じる。
誰にでも被害者になる可能性はあるし、そして加害者になる可能性もあると。「友達だよね」という防御の言葉は……あまりにもむなしく空回りする。
しかし、この事態をピタリと止めた澪のカッコ良さったら、なかった。澪は楽しそうにいじめを繰り返す麻綺にキレて殴り倒す。その瞬間からまた振り出しに戻る。麻綺がいじめのターゲットとなったのだ。
かたわらで心配そうに見ているマリア。澪が麻綺を屋上に呼び出し、その周りを女の子たちで固めるとマリアは必死で止める。ここで澪が手を出してしまったら、また同じことの繰り返しなんだよ、と。
澪はマリアのすがる手を振り切って麻綺に近づく……しかし殴るかと思った寸前でその手を止める。
もう私はいじめには参加しない。やるなら勝手にやれば、と。
拍子抜けした女の子たちは澪に口々に非難を浴びさせる。そんなの無責任だと。集まった私たちの面目は?と。
澪はニッコリ笑って、言うのだ。一体何を期待していたのかと。何でも私のせいにするのはやめてよ、と。たまには自分で決めてやりなよ、と。
その流れをびくびくと見守って、いじめる側に回っていればとりあえず大丈夫と思っていたであろう女の子たちが、その台詞に黙りこくったのは言うまでもなく……。
カッコいいなあー、澪。震えがきたよ、最高に!
麻綺もね、確かに悪い人間なんかじゃないんだ。彼女、さすがここまで事態を引っ掻き回した女の子だから、この場面でも腹がすわってて、それだけ歯ごたえのあるコだったわけだけど……でも悪、じゃない。物語の最後まで彼女は小悪魔的な魅力は発揮しているけれども、後半はかなり頼もしい人物となっているし。
悪い人間というのはいないって、私は思ってるし思いたいと思ってる。性善説、という奴。ここにいるのはみんなみんな、弱い人間たち。
だって、まだ中学生なんだもの。
思えば中学生にそこまでの強さを強要すること自体が、酷なことなんじゃないかって、思う。集団生活って、凄く大変なことなんだもの。
友達。グループ。クラス全員。個人。中学生の時点では……個人はまだまだ認められない。それを発揮するだけの力もない。後年、どんなに個性を発揮する人でも。
大人になってみれば、こういう性格(自分のことじゃ)でも全然問題ない、逆に一人でいろんなこと楽しめる自分で良かったと思えるけれど、子供の時には自分は引っ込み思案で溶け込めなくて、人間としての資質に欠陥があるんじゃないかと思ってた。学生時代って、そういう辛さがある。
単に気づいていなかっただけかもしれないけれど、私にはここまでのいじめが学校にあった経験はない。
だけど、クラスでリーダーシップをとる人、あるいはそうしたグループに従う、まではいかなくても、その下に何となくつかなければいけないことに対する嫌悪感は、あった。孤立することが怖いというよりも……そうするだけの理由も見つからなかったから。個性を言うほど、それが確立してもいなかった。
過酷な修行時代なのだ……中学生っていうのは。
いじめに関しては大人の無力さもよく指摘される。本作でも先生は気づいていたのに見て見ぬふりをしていた。
でも、こういう場合、大人は何が出来るんだろう……という失望感にもまた打ちのめされる。子供の世界はそこだけで完結されていて、大人の入る隙がない。
いじめを知ってしまって、何が出来るんだろうか。大人は子供のために何をしてやれるんだろう?
澪が仕切ったここでいじめのループはストップし、あれ?まだ時間あるんじゃないの、と思ったら、またまたヘビーな話がもうひと盛り上がりあったのだった。
それは、そう、子供と大人との、関係である。
それより前に、父子家庭だった澪が父親の再婚話に揺れる展開が出てくる。でもそこでは予期していたような継母とのトラブルは案外ない。それなりには反発するものの、澪はぎこちないながらもその優しい義理のお母さんにおそるおそる愛情を示そうと努力している。
お母さんというものを写真でしか知らなかった澪にとって、料理が上手な彼女に、そして控えめながらも自分の味方であるらしい彼女に好感を抱くのだ。
少し、微笑ましいエピソード。それは一方で、別の大人との非情なる戦いが繰り広げられるから、ここには少し、安息の場を持たせたのかもしれない。
澪は偶然、担任の若い女性教師の万引きを見てしまった。
マズいものを見てしまった、と澪は思う。バラそうとかそんなことは考えてなかった。
しかし見られた女性教師はそのことを恐れ、先手を打ってくる。澪がイジメのリーダーだったことは知っていたとか、素行が悪いとか、目つきが悪いとか。果てはこれだから片親の子は……と、信じられないことを口走る。
頭に血がのぼった澪は、あの万引きをついバラしてしまうのだ。
その女性教師にクラス全員(いや学校の全生徒)が反発するのだけれど、その女性教師はさらに狡猾な手を使って澪を陥れようとする。澪を怒らせた場面を盗み撮りし、自分の都合のいいように編集して校長に見せたり、果てはテスト問題のフロッピーを澪の机に入れたり。
うっわ、なんて卑怯なの、と思う。でも逆にそのことが彼女の首をしめることになって……それは弱気になった澪に、麻綺を筆頭にクラス全員が味方についたからなんだけれど、辞職寸前に追い込まれた彼女は手負いのウサギのように弱々しくなってしまった。
先生は、確かに自分が大人だという立場を利用した。本当に卑怯な、汚い手を使った。
でもそれは彼女が悪い人間だからじゃなくて、弱い人間だからなのだ。
生徒に見られたことに怯えて、先手を打った。この時点では彼女自身もそれが大人が子供に対する力の強さだと思っていたのかもしれない。でも、それは彼女自身の弱さなのだ。
マリアはそれに気づいていた。たとえ大人でも、同じ人間、哀しい感情は同じ筈だと。
全校生徒に「辞めろ」コールをされる女性教師。澪は満足そうな笑みを浮かべる。だけどマリアはこの時……いや、思えばその最初からとても哀しそうな顔をして、そして澪に必死に訴えかけるのだ。澪がかつてやられたことと同じじゃないかと。澪はうろたえ、「それとこれとは違うよ。だって向こうは大人じゃない」と反駁してみるんだけれど、マリアの、「違わないよ。あそこにいるのが澪だって想像してみて」という言葉に、ふと我に返る。
マリア、本当に偉いなあ……確かに理想に過ぎるけれど、凄く理想の、女の子。
想像力なんだよね、つまりは。成長するに従ってその想像力が豊かになって、いじめのやり方もより凝った、ヒドいものになるけれど、ならばその想像力を逆に使って、こんな風に他人を思いやれるようにもなる。諸刃の剣だけれど、それが大人になっていくということ。いい方向に使えることが、大人としての自我。
澪はマリアによって目を覚めさせられ、その場を一人で止めに入る。女性教師はどこかキレ気味になって自分の万引きを自ら告白する。どこかどころか完全にキレてる野波麻帆……彼女が教師役やるようになったんだ……ちょっと、感慨。
大人と子供でも、対等な人間として相対できるんだ。友達にだってなれる。
「クラヤミノレクイエム」の時にはどーもノレなかった森岡監督だけど、今回はその時気になったいじくりまわす感じが全くなくて素直に見られる。そのクラレクで“やんなるくらい可愛い”メイちゃんとして目を奪われたのが今回の主役の黒川芽衣。いやー、成長しちゃって……ちょっとふてぶてしくなったか?でも演技力は確実にステップアップ。将来が楽しみな女優さんになった!★★★★☆