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恋の正しい方法は本にも設計図にも載っていない
2010年 67分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:正岡謙一郎
撮影:渡辺厚人 音楽:
出演:中川翔子 鈴木裕樹 金子さやか 遠藤要
まあ、内容自体はもう、ものすごーく、語り直すのもちょっとハズかしくなるぐらい、どこかで聞いたような、それも30年ぐらい前に聞いたような(爆)、古き良き時代の少女マンガチックな物語なんである。
まず、最愛の恋人が死んだことで、恋に臆病になっていて「もう恋はしない」とヒロインが心に決めていること。
この設定はじっつによく昔の少女マンガでお目にかかったもので、そんなにぼこぼこ若い子が死ぬもんかねえ、などと今にして思うんである(爆)。
更に言うと、この台詞も何十回、何百回と、目にしたなあ。「決めたの、もう恋なんてしないって」てな感じでね。いやあ、もうこの台詞が出てくるだけでかなりの冷や汗もん。
そんなヒロインを心配した親友が、男の子との出会いの場を設けるというのもめっちゃあるよね。合コンなんていうのが盛んじゃなかった昔なら、親友の彼氏の友達を紹介してもらうとかね。
更に一番冷や汗もんだったのは、“ヒロインを落とせるか否か”で男友達と彼がカケをしているというくだり。
それこそ“親友の彼氏の友達を紹介”てな昔の設定だと、この流れにすんなりとのっかる訳。
「最初は確かに言われて声をかけた。でも本当に君を好きになったんだ」ていうの、あまりにもあまりにも聞き覚えがありすぎて、落ち着かなくなる。
まあ、ある意味王道中の王道とも言えるのだが、もはやくたびれきった大人の私は、そんなつまんない経験値ばかりがジャマしてしまうんだなあ。
しかも、その事実が発覚して親友の泉を案じて、賭けをした男どもに対して「サイッテー!」と怒りをぶつける久美子役の金子さやか嬢が……、
この場面はほぼ彼女の一人語りのようなもんだということもあって、これって、内容も台詞もベタでクサイし、難しいとは思うんだけど、それにしても……正直、ハズかしくて聞いてられないんだよね。
台詞で意味は伝わるもんだけど、それに頼ってばかりはいられないっていうのが、映像作品の難しいところなんだよなあ……。
ことに映画は、テレビのように観客が“ながら状態”で観てないから、余計に観客に逃げ場がなくなってツライんだもの。だからこそ、役者の力量が問われるんだよね。
で、この場面、大人しい女の子に声をかけてみろよ、と男の子同士が賭けをしたというエピソード。ベタすぎだけど、でもそこを、フレッシュな現代の演じ手によって、いつの時代も恋は同じ気持ちなんだ!と思わせるところが青春ラブストーリーの醍醐味ってもんである。
多少のことは目をつぶらなくてはいけない。なんたってしょこたんなのだから。
親友の久美子に合コンに引っ張り出されて、ひたすらうつむいてばかりの泉は、久美子の袖をしょっちゅう引いて「激しく帰りたいんですけど」「読んでる本の続きが読みたい」と訴える。
いかにも合コン慣れしている他のメンバーのノリにいたたまれなくなって席を離れたところに、その中でも最上級にカルそうな男、ネルに声をかけられた。
しょこたんが、ひたすら本の世界に没頭している、ひたすら静の女の子というのは、意外そうで実はしっくりとくる、のは、彼女の中にある相反した片方の要素がまさにそれだからである。
もう片方の、弾けた彼女の弾けっぷりが凄いだけに、本来の、思慮深く、ある種内向的と言ってもいいようなしょこたんの資質が更に深く印象づけられる訳で、本作ではその、いわば表に出ない方の静の彼女がなかなかに魅力的なんである。
別にメイク自体は派手な訳ではなく、ちゃんと泉らしい、図書館の司書らしい楚々としたメイクにヘアスタイルなんだけど、どーにもこーにも、そのまつ毛だけがやたらとフィクションめいてしまっていて気になる……。これじゃ、恋に臆病になっている、本の世界にだけ生きていたい泉、じゃないよな、と思っちゃう。
いやそれは、単に私のヘンケン?だって、私は可愛い女の子は、出来るだけその可愛い素材をいじらない方が可愛いと思ってしまうクチなんだもん。
それって、今の、とにかく可愛い女の子を外側から作ろう!てな風潮と完全に逆行するってのは、判ってるんだけどね……。
で、その、カルい男の子、ネルである。あ、あ!この子の顔、絶対見たことある!この口角の上がった顔!誰だっけ、誰だっけ!そうだ、ゲゲゲの太一君じゃん!とコーフンしているのは世間知らずの私だけだったらしい(爆)。
彼はD−BOYSとして数々のドラマとかにも出てる人気者なのか、そうか、すいません。だって、なかなかドラマ観ないんだもん(爆)。ねーちゃんに怒られそうだなあ……(私のねーちゃんは、超ドラママスターな上に、20代イケメンの超超マスターなのだッ)。
てな訳で、私にとっては彼は太一君でしかないので(爆)“16分の一、ラテンの血が入っている”(つまり、お母さんがスペインのクウォーター)であるネルのカルいノリがどーにも違和感……までは言わないにしても、居心地が悪くて仕方なかったりする(爆)。いやいやそれは、あくまで勝手なイメージなんだけどさ。
そうかあ、彼はホントに東北出身、ゲゲゲのあの訛りはネイティブだったのかあ、って、だからそれはいいんだって。
しかし、思ったより年がいっていることにもちょっと驚く。せいぜい、21、2ぐらいかと思ってた……27かあ。でも、今の27の男の子ってこんなぐらいかな。
ネルの押しにひたすら引きまくる泉に、そうだ、君の職業を当ててみよう!と、ネルは図書館司書を見事当てて、泉は驚く。
君も当ててみてと言われ、本当に、ほんのジョークで「建築家」と言った。彼が驚いた顔をしたのを、彼女は見ることもせず、二次会に行かずに立ち去った。二度と彼に会うなんてこと、ないだろうと思っていたに違いない。
しかしその翌日から、ネルは泉の図書館に日参するんである。
この時、泉は彼の持っている万年筆が、自分の持っているものと同じことに驚く。それは後に、ネルが彼女を“理想の図書館”に連れて行った時、彼もまたそのことを知って驚くんだけれど、泉が「おじいちゃんからもらった」というぐらいだから、相当古い時代の万年筆。
泉がネルのことを、ジョークのつもりとはいえ「建築家」と言ったのは、この万年筆が何らかの理由づけになったのかなと思ったんだけど、そういうことではなかったのかな?
ネルがいかにもカルいノリで、図書館に足を運び続け、泉につきまとう場面でも、実―に懐かしい描写が展開されるんである。
棚の高いところに本を戻そうと四苦八苦している泉を、さりげなく手を添えて手伝うネル。手と手が重なる瞬間……キャー!て、いくらなんでも、超クラシックすぎだろ……。
このシチュエイション、実際これまで、マンガなりドラマなり映画なりで、何度描かれたか、カウントしてみたいと思うほどに、ベタまくりである。「ハッピーエンド」でベタなラブストーリーのエピソードとして揶揄されたことも記憶に新しい。
ま、確かにドキドキするけどね(爆。じゃあいいじゃん……)。
冗談で言った建築家というのがホントで、彼が建築関係の本を漁り、自らのルーツでもあるスペインのガウディを熱く語る。
それでも泉は胡散臭げに彼を避け、しまいには彼のみぞおちに得意のパンチをおみまいするなんてシーンも用意されているんだけれど(こういうのも、往年の少女マンガチックなのよね)、彼女の豊かな本の知識に彼の方が魅了され、ただナンパするような感じから、泉の世界にネルの方が入り込んでいくような感じになるのね。
化学の法則みたいな話にもサラリと応えられる泉に、ネルはさすがと感心しきり。その一方で、子供たちに絵本を読み聞かせている彼女に見惚れていたりする、のは、もうこれぞ、何十年も前から繰り返されてきた少女漫画的横道なシークエンスだよなあ、とやっぱり思っちゃう。
私は、しょこたんが子供たちに読み聞かせをしているってだけで、萌え萌えだったから別にいいんだけど(爆)。
それに、子供たちも本当に、楽しそうな顔をしていたものなあ。こういうの、映画においては、すんごく重要だよね。
この映画のクライマックスはヤハリ、ネルが泉を「自分が知っている限り、最高の図書館」に連れて行く場面、だよね。
その前段階で、建築家の卵だと泉に言っていたネルが、実はフリーター疑惑?てのが親友の久美子からもたらされるんだけれど、それを泉がネルに突きつけると、彼は自らスケッチした画を見せて、その疑惑を晴らすんである。
でもさ、これ……いや、別にネルが建築家ってことに疑いはしないけど……実際、ちゃんと事務所で仕事をしているような場面も用意されているしさ。でもだったら、一体このシークエンスはなぜ用意されていたんだろ?なんて思っちゃうのよね。
そりゃあネルは、見た目で言えばフリーターっていう方がずっと説得力があるのは確かなんだもん。それともこれは、配信ドラマを映画に編集したことで、抜け落ちちゃった部分なんだろうか?
ネルが泉を連れて行った「最高の図書館」てのは実は、実際に図書館が立地している訳ではない。
クネクネと険しい山道を抜けて行った先に開けた、背の高い木々に囲まれた、スコンと抜けた緑の空間、だったのだよね。
「あの木々が本棚、葉は本に見えない?」いやいやいや……いくらなんでも……見えない……(爆)。
ただ、ゆっくりと暮れる夕方の、しょこたんの愛するマジックタイムがそこに現われ、深々と深呼吸する彼女の、その目線を見ていると、まあ、画面にキコキコと現われる描線が図書館をスケッチするように形成していくという手助けはあるものの、ここに図書館があったらいいなあ、と言うぐらいには思わせるんである。
ま、彼と本のやり取りをするマイムは、これまたかなり照れくさいお約束なんだけどね。
暗闇の中、泉は自分の心の闇を告白する。黒に塗りつぶされる。全ての色を足すと黒になる。ここに留まって前に進めない、と。
これもまた、しょこたんならではの価値観と言葉、だよなあ……きっと……などと思う。
その後のネルの「泉が好きだ」というシンプルな告白も、たき火を焚いた中で、お互い距離が近づいて、絵の描きっこをしたりしたりして、ムードが盛り上がってるから、ちょっとドキドキしたりもしちゃうけど、やっぱりやっぱり、超お約束だよね。
でも、シンプルな言葉だけに、どんなにお約束と思っても、ついついドキドキしちゃうのだな(爆)。つまり女は、こーゆーシチュエイションに永遠に憧れちゃうってことだろうなあ。
この時に泉は心揺れるんだけど、先述の、賭けで声をかけたとかどうのこうのがあって、ネルとは一度距離が離れてしまう。
しかしネルは、これまた定石どおりに泉の携帯に何度も電話をかけてきていて、着信はネルだらけなんである。
ついに家まで訪ねてきて、拒否しまくる泉に必死の形相で訴え、自ら描いた絵をおいていった。図書館を設計するのが夢だという彼は、その中に本の妖精の様な泉の姿を描き込んだのだ。
……ここまでいくら書いても、やっぱりやっぱりベタベタなんだけど、でもなんかどんどんキュンキュンしてしまうのは、どうしたことだろう(爆)。
そう、あの一番の盛り上がりどころ、篠原監督大得意の、穏やかな緑の風がそよそよと吹き渡る場所なんだよね。監督が描くこうした場面に、私は何度、心わしづかみにされたことか。
だから、夜になって、ネルが泉に告白する場面でちょっとドキドキさせても、メインはそこじゃないんだよね、やっぱり。
緑の風が吹き渡った、あの時なのだ。泉が大きく、胸いっぱいに息を吸い込んだ、あの時なのだ。
でも、やっぱりキュンキュンしたのは、太一君……じゃなくて(爆)、ネルが泉の部屋を訪れ、彼女に拒絶されながらも、鬼の形相で、泉が閉めようとしたドアをガシッ!と止めたトコだろう。
こーゆーの、弱いの、女子(爆)。どんぐりまなこを見開いた彼の表情もめっちゃ、キたわー。
それでもここでは泉は彼を追い返すしかないんだけど、彼が置いていった画に瞳をウルウルさせるんである。
劇中、泉が描いている、絵日記よろしいスケッチが可愛くてね!あれってひょっとしてしょこたん自身の手によるもの?
ネルが初めて泉の勤める図書館に押しかけてきた日の、「……ユーウツな日」とつぶやくカウンターの向こうの大人しげな猫、その手前で舌をベロリと出している緑色のカエル。
確かにネル、演じる鈴木君は見開いたまん丸な目と口角の上がった愛嬌のある口元が、ちょっとカエルを思わせなくもないのよね。
この時点ではかなりグロテスクなスケッチなんだけど、展開が進むに従って、そう、理想の図書館の森の中や、バルセロナに留学に行く彼を見送る絵や……どんどん、カエル君が最初のグロテスクなタッチから、お伽噺チックにデフォルメされていくのがなんとも可愛くてさあ。
最初は泉を模した猫はまるでカエルに飲まれる直前の震える野うさぎのようだったのに、段々双方近づいて、最後は、ガウディの建築の前で手をつないでいる猫とカエルはすっかりラブラブなんだもの!
スペイン留学が決まったネルが、一緒に来てほしいと泉に言うものの、もっともっと強くならなくちゃいけない、だから行けない、と泉が返すのは、なんか青春モノにはありがちな台詞ながらも、これじゃなんかスッキリしないなあ、と思っていると、ラスト前、出発する彼を見送りに、泉が空港に現われるんである。
サプライズよ、と、彼のお株をとってね。いやーん、いやーん、しょこたんにキスなんかしないでー!!!
てか、出発ゲートで一度行きかけて振り返り、彼女に駆け寄って抱き締め、キスするって段階自体、もうベタもベタもベタベタベタベタだけどッ!
でも、ベタだからこそ女の子は好きなの、こういうの(かつての女の子もねッ!)。
その後、ほどなくして、という時間経過を着てる服の季節感で漂わせる感じのベタ感も、い、いいんだわー(もはや、ナゲヤリになってるかも……)。
でもね、自分的には、しょこたんが主演、篠原監督、というのは、ホンットに、嬉しかった。この後、つながってほしいと思ったけど、それはどうかな??★★★☆☆
その某ライターさんも、特に後半における荒唐無稽さは認めている上で、オススメしているらしいけれども、でもそれ以前の問題だと思うのよね、やっぱり。
見ていてツライほどだったのがそのカメラの甘さで、フィルムの手触り云々という以前の、なんかやたら白光りしてて見辛いったらないんだもの。何、これは岩下志麻のハレーション現象じゃないでしょうね?と……。
リンクの白さというんじゃなくて、なんか基本的に色彩感に乏しく、線がぼやけている感じ。なんだろう、これは……。スタッフクレジットを見てみると、カメラマンとしての名前がなくて、“撮影技術”という名目で数名が並んでいるんだよね。なんだろう、これは……。
パンフレットには(なぜか、タダでくれた)映画中の場面がキレイなスチールで散りばめられているけれど、こんな風にくっきりとなんて絶対、見えないんだもの。
後半の荒唐無稽以前に、このストーリー自体になんとなくヘキエキとしたものを感じたのも事実。
いや、40歳のフィギュアコーチがオリンピックを目指す、という大前提の部分は、すんごい惹かれたのよ。フィギュア映画というのだけが、足を運んだ理由ではない。この“大ネタ”こそが、期待をそそった部分だった。これは面白いネタだと思ったし、あり得なくもないところがステキだと思った。
そう、なんたって去年はクルム伊達夫人(こう書くとお蝶夫人みたいだが)の華麗なる復帰が大いに話題になったんだもの。40歳まではいかなかったけど、37歳にして見事に世界と戦える状態で帰ってきた。あの過酷なスポーツであるテニスでそれが可能ならば、フィギュアだってできるだろうと思った。
ことに今は、年齢を感じさせない若々しさと美しさを保つ女性が世の話題をさらっているし、フィギュアという美しさを競うスポーツに、しかも低年齢化が著しいこの競技に、美しい40歳が華麗なる復帰を飾るなんて、なんてスリリングで溜飲が下がる(←これは、美しくないアラフォーが言ってもあまり意味はないのだが……)物語なんだろうと思ったのだ。
うーん、つまりね、その一点で勝負してほしかったんだよなあ。40歳、独身、ときたところでアラ、と思った。大体、既婚か未婚かを条件の一つに入れるのが、いかにもステロタイプでナンセンスだと思った。これって男性ではありえないことだよなと。
だって別に伊達さんは、ミセスであることが重要だった訳じゃないでしょう?それとも子供がいないから復帰できたとでも言いたいのだろうか?……いやいや、そこまで話を広げるのこそナンセンスなのだが。
でもさ……まずこのナンセンスな設定を持ってきて、しかもその“40歳、独身”のフィギュアコーチが後輩たちにやたらつんけんして厳しく、“若返りを図って”解雇を言い渡されているトコで、しかもしかも、過去の恋人の残した子供が彼女の運命を変える、だなんて、何コレ、昼メロですか?とも言いたくなるじゃないの。
まあそりゃあね、確かに、フィギュアを習わせるような親はきっと多くはそうなんだろう、子供可愛さでリンクまでくっついてきて、自分の子供が上手く行かないのはコーチのせいだと、コンパルソリーの指導なんて時代遅れだとか、口うるさく言ってくるんだろう。そして当の子供の方は最初からやる気もハングリー精神もなく、教える気も萎えるような態度をとるんだろう。
そういうリアルさはいいと思う。まあ正直、親御さんのヒステリックさは(で、こーゆー場合、どうしてもそれは母親なんだよね(爆))それこそ昼メロチックでヘキエキしたけど、そういうのを見せるのは意義があると思った。
だけどそれと並行して彼女の、まるで40歳独身だからヒネクレてるみたいに見えるとっつきの悪さを出してくるから、そういうコーチとしての苦悩が素直に受け取れないんだよね。
……そう、後半の荒唐無稽、ブルーローズなる必殺技にも確かにゲンナリしたけど、それ以前の問題だったのだ。なんなの、この陳腐な設定は、って、思っちゃったのだ。こんな陳腐なお膳立てがなければ、女40歳がオリンピックを目指すことは出来ないのか、と。
それに“独身、40歳。一人で生きていく”女が、あんなツンケンしてるのもイヤな設定だと思ったしさ……。
プロスケーターとしても活躍している彼女は、後輩たちがテキトーにこなしているのに対して「何年プロやってるのよ」と、厳しく言い捨てる訳。それに対して後輩たちはコソコソしながらもあざ笑うように「あなたの半分ですけど」と笑い合う。
……あのさ、それこそ女40歳、独身で一人で生きてきていたなら、こんなわざわざ敵を作るような態度、とらないよ。それこそ表面上はニコニコして、波風立てないようにしてさ、だからこそ裏の孤独が深いんじゃないの(いや……なんかこんなこと言ったら、私がすんごいクライみたいだけど(爆))。
なんか凄く、こういう描写が単純に思えちゃったんだよなあ。
そう、過去の恋人の一人娘。このコの謎めいた登場も多少イラッとしたし、最初男の子と思わせるあたりもなんかあざといなとも思ったし、更に言うとかぶっている帽子がやたら新品ぽいのも、この映画自体がこなれていない印象を与えた。
そしてその過去の恋人は、娘を彼女に託して、あっという間に交通事故で死んでしまうんである。
この過去の恋人、陽介を演じるのは金子昇で、この作品で数少ないプロの俳優。なので、正直彼が出て来るとホッとしてしまう自分を感じる(爆)。
だってそりゃ、この作品にはホンモノのスケーターをキャスティングする必要はあるけれども、やっぱり演技シーンは……ヒヤヒヤするもんなあ。
しっかし、このあっという間に死んでしまう恋人の、その役柄がカリスマ料理家っつーのも実にチープである。
料理研究家、それも若い男性のソレがやたらもてはやされるのも昨今のハヤリと言っていいし、つまりこれって……この先に観た時に、その一点だけで古びてしまう可能性があるんだよね。勿論映画はその当時の風俗を伝えるという役割を持ってはいるけれども、でもそれは、映画黄金期に量産された時代に、その役割はほぼ終わっている感もある。
ことにフィギュアスケートという大名目があり、決して時代を代表する作品ではない(爆)という点においても……あらゆる点で、安っぽく見えなくする努力は必要だと思う。
なんでこんな役柄設定にしたのかなあ。まあ彼が有名人であることが、その子供を預かることになった彼女を注目させる前提があるにしても、“カリスマ料理家”はないよなと思うんだけど……。
しかしそんなことは序の口である。彼女……とばかり言っていると疲れるので、役名は実名と同じ美和さん(苗字は変えてるけど)が、この過去の恋人の子供、飛鳥に背中を押されてオリンピックを目指すことになり、そこにまるで運命のように現われたかつての鬼コーチ、平泉成のマンガチックないでたちが……もう、ダメ、と想ってしまった。
いや、これがワザとやってるってことは百も承知なのよ。面白がってやってるってこと、そんなことは百も承知。
でもね、それにだって……限度ってものがあるじゃない。松田優作ばりのサングラスに竹ぼうきを持って、アリアリに意味ありげに現われるカトシュウこと加藤洲なる伝説のオニコーチ(この略し方がまた、安っぽいというのだ)。
彼の伝説の特訓方法……トランポリンで5時間ぶっ通しでやったりというのも、まあそれも言うほど荒唐無稽じゃないのかもしれないけど、コミカルなイラストなんぞで描写するもんだから、いよいよマンガチックになってくる。
……最初からこれは、マンガチックな(いや、そんなことを言ったら逆に、マンガに失礼かもしれない(爆))という、それこそ「俺フィギ」的だと想っていれば、こんなにイライラはしなかったのだろうが……。
ていうか、そんなつもりでは作ってないよね。結構マジで、フィギュアスケートの裏側を見せようと思っている感があるから、逆にムリムリ、と思うのだ。……まあ言っちゃえば、中途半端なんだよなあ。
でもさでもさ、それでも、クライマックスの、オリンピック代表を決める試合のシーンで感動させてくれれば、全てが帳消しになるとも思ったのだ。
でもそこを“荒唐無稽”にしてしまったら……それこそこの映画を作る意義が台無しな気がするのは私だけだろうか。
それとも、現役を退いて10数年が経つ“40歳のフィギュアスケーター”がオリンピックを目指すなんて、荒唐無稽にしなければ試合シーンも成立しないということなんだろうか……?
ていうか、試合シーン以前から、なんだよね。養豚場から持ち出してきたカトシュウの自転車(いかにも業務使用でゴツゴツした)で坂道を登る、というシーン、それは彼女がさっそうと乗っていたベンツに対照させていたんだろう……車のことなどちっとも判らない私は全然気づかなかった(爆)が、この対照もやたらと陳腐だよね。ベンツで既に陳腐なのに、対照とさせるのが豚ってのが更に陳腐。「豚も空を飛べるかもしれない」などとドラマチックな慣用句なんぞ入れても、いや、入れてこそワザとらしくて仕方ない。
そう、正直その時点でイヤな予感は感じていた……特訓に空手を持ち込んできた時、ちょっと待てと思い、いやいやこれはきっと、精神を鍛え上げるという意味合いなんだと思ったら、イヤな予感が当たってしまった(爆)。
“ブルーローズ”なる新ワザを編み出すために、空手の空中キックを利用するんである。いやいやいやいや……いやいや!何コレ、ベストキッドですか!?演技中、一度失敗して後半にもう一度チャレンジ、というところで感動を誘うつもりらしいが、そもそもこのワザ自体でドン引きだって!
まあ、つーか……この試合自体がね……。オリンピック代表を決めるってんだから全日本をモティーフにしているんだろうけれど、“ジャパン・フィギュア・クラシック”(ちょっと違ったかな)とかいう名称がまずなんかをもじっているのがアリアリでお粗末だし、会場の新横は……あそこはせいぜいがアイスショー仕様だからさ、リンクは勿論、客席が狭くて、臨場感に欠けるったらないよね。
いや、やはりそれ以前の問題だ……。試合だというのにショーバリバリの照明を当てまくる時点で気持ちが萎えたが、ヒドいCGを使いまくり(爆)。
いや、そりゃあね、現役選手じゃないし、しかも美和のライバルとなるトップ選手はスケーターではなく、アイドルの時東ぁみが演じているんだからCGはやむをえないとは思うが、観客の目をだます程度とかじゃなくて、もうね、ヒドいんだもん(爆爆)。
いや……ぁみ嬢演じる笠井千夏がリンクに登場したそのコスチュームから、もうやっちまった、ていうか、やっちまう気マンマンはアリアリではあった。
何それ、西城秀樹ですか?モノマネ選手権?てなあり得なさ。もう既に彼女が出てきた時点で、見てるだけでツライ。
彼女の前に登場した、もう一人のライバル、斎藤樹里役の村主千香嬢がほぼCGナシの優雅なスケーティングを見せただけに、かなりイタイんである。そう……美和役の西田美和サンより、千香嬢が一番、マトモにプログラムを見せているんだよね。ヘンな言い方だけど、一番ウソっぽくないというか(爆)。
私、彼女がJスポの解説で聞かせる、ほんわかした声が大好きなので、今回の出演にはかなり喜んでしまった。演技シーンとかは特になく、トップスケーターの一人として破綻してないことにも正直ホッとしたし(爆)、初めて彼女のスケーティングを見られたことも大きな収穫だった。いやー、優雅で美しかったね。
で、そう……その千香嬢の後だけに、時東ぁみがいかに吹き替えかが、当然だとは判っていながらも目につきすぎるんである。思いっきりフィクションにするならば、この辺のバランスは考えた方が良かったんじゃないだろうか……。
それにね、この試合シーンで使われている音楽が、総じてやたらと安っぽいんだよね。いや、作品自体が安っぽく見えることは先に言っちゃいましたけど(爆)、なんだろう……なんか、カラオケで使われている音源みたいな、予算のなさそうな安っぽさ(爆)。これも微妙に士気を低下させるんだよなあ……著作権とかの問題なんだろうか??
で、まあその、ヒロインの美和さんの演技も……。うう、こんなこと、言いたくない、言いたくないけど、特に、スパイラルの背筋の固さが見てられない……全然足が上がってないのに、スパイラルシーンなんて入れない方が良かったんじゃないんだろうか……。あんなにCG入れてるんなら、こんな瑣末なところでガッカリさせないでほしい。
んでもって彼女はわずかな差でトップの笠井千夏に敗れるんだけれども、その千夏は不治の目の病を抱えていて、カトシュウからいい医者を紹介される見返りに美和を中傷するようなあおり方をして本気にさせたこと、そしてこの演技中にはもう目が見えなくなるであろうことが提示される。
……ここに至ってもの昼メロな展開にもウンザリしたが、大体、そんなピンポイントに、この時間には、最後のジャンプには目が見えなくなるなんてないっつーの。何十年前の少女マンガよ。
“伝説のスケーター”という役柄らしいが、ミキティの登場も単に唐突過ぎて、“奇跡的に撮れた”映像をはしゃいで挿入しているだけに感じた。
ちょっとヤダなと思ったのは、飛鳥が父親譲りとはいえ、やたら料理上手なこと。ていうか、美和が料理下手なこと。このあたりにも“40歳、独身女”への陳腐さがミエミエなんだよなあ。
料理が出来ようと出来まいと、それが何の関係があるのか。しかもこの時代にさ。もー、ホント言いたくないけど、こういう価値感、男には絶対付加しないくせに!
しかもこんな幼い女の子にまでそんな“有利な女”としての価値感を押し付けるだなんて!それを付するための、父親のカリスマ料理家の役柄だとしたら、もーホントに……ヤなのよね。
大体、この美和が若き頃挫折したのが、厳格な父親から「女としての幸せか、スケーターとしての成功か」と迫られて、オリンピック出場を蹴って“女としての幸せ”てゆーか、オトコを選んだっていうのがさあ……。ありえない。
てゆーか、その設定自体、スケーターとして血のにじむような努力をしている女子選手たちをバカにしてないだろーか。大体、女の幸せって……いくら昔の話とはいえ、時代錯誤すぎる。しかもしかもその彼が「そんなお前は望んでいなかった」どんだけ得手勝手な話なんですかねえ。
英語のナレーションも何のつもりだったんだか……海外展開でもするとか?正直、この英語ナレーションで最初っから気分がそがれたのも事実。
気取ってると感じさせるのも計算ずくなのだろうか……英語ナレーションだけで、なんかハズかしくて身の置き所がなかった。 ★☆☆☆☆
なあんて、さ。私やたらエラソーだよな(爆)。エラソーついでに言ってしまえば、中村監督が伊坂氏の小説を映像化することにこだわり続けた甲斐があったじゃん、なんてさ。
こんな映画らしい映画、しかも日本映画で久しぶりに観た気がした。それこそ映画らしい映画ってなんだよ、と普段の私なら反発するだろうな。でもそんなことも忘れてしまう程、ハラハラドキドキのエンタテインメントとしての映画の面白さに魅せられちゃったのだ。
予告編が上手く出来ている作品ほど本編ではアタリが少ない、という昨今の法則も気持ちよく裏切ってくれたし。
予告編はホントに良く出来ている。それだけで作品のイメージや魅力をきちんと伝えていたし、本編を観ても裏切られることがなかった。
いや、裏切られるどころか、そのイメージと魅力が全く曲がることなく、100倍に増幅して見せてくれたという感じ!いやー、これって非常に理想的な形なのよ!
舞台は原作者が在住する仙台。そこで起きた首相暗殺事件。その暗殺の仕方も超ハデで、街頭パレードという衆人環視の中、オープンカーから立ち上がって手を振る首相を、その車ごと爆破するという、まさに“劇場犯罪”。
勿論テレビカメラも回っていて、その生々しい映像は衝撃を持って列島を駆け巡った。一人の男性を犯人に仕立て上げて。
その男性というのが我らが堺雅人。予告編で“首相暗殺犯に仕立て上げられた男”として、往年のハリウッドサスペンス映画さながらに顔を泥だらけにして逃げ回る彼の姿は、“微笑みの貴公子”であり、癒し系のキャラがピッタリな彼には予想もつかないアクティブなものだった。
あ、それはそれこそ私が、中村監督を敬遠するばかりに話題作の「ジェネラルルージュの凱旋」なども観ていなかったせいかもしれないなあ。中村監督は既に、この癒し系俳優のイメージをぶっ壊すことを得意としていたんだもの。
それでもやっぱり、彼が演じるこの青柳雅春の人の良さ、純粋さは、堺雅人そのもののイメージなんである。そんな人でも首相暗殺犯に仕立て上げられれば、人はカンタンに「そんな風にも見えていた」などと言う。
青柳は2年前に、帰省していたアイドルが強盗に入られたところを助けていた。そのことで、殊に仙台では有名人。そのキャラを狙われた。彼は“オズワルド”に仕立て上げられたのだ。
大学時代の友人、森田から久しぶりに連絡があって釣りに行こうと誘われた青柳は、何の疑うこともなく待ち合わせ場所に向かった。森田がスーツ姿なのも「なんだよ、釣りに行くのに」と言うぐらいで疑いもしなかった。
しかも路肩に車を止め、ファストフードで買ったドリンクをぶちまけてしまい、森田が勧めるままに車の中にあったミネラルウォーターを飲んで眠くなって寝てしまっても、そして起きて「お前、何かこれに入れたろう」と冗談交じりに言って「うん。注射器で眠り薬を入れた」と言われても、冗談として受け取ったのか、冗談の行為として受け取ったのか「やっぱりなぁ」などと笑って、ぜんっぜん、疑うことなど考えもしなかったのだ。
森田を演じるのは吉岡秀隆。大学時代のサークルの思い出を懐かしそうに語り、そして……ワナにかかっていることをあまりにも正直に告げる彼は、少ない登場場面ながらもあまりに鮮烈である。
なんか……吉岡秀隆らしさを久しぶりに感じた気がする。大学時代の無造作に伸びた髪と無精ひげ、そしてビートルズを愛する彼の姿は、一番“あの頃”にムリがなかった。
いや、堺雅人も竹内結子も劇団ひとりも意外に?ムリは感じなかったけれど、吉岡秀隆が一番、切ないほどに“あの頃”が似合っていたのだ。
故郷へと帰る道、大人のための子守唄、バラバラになったメンバーをつなぎとめようとするかのようなビートルズの「ゴールデンスランバー」を愛した彼の姿は、“あの頃”から既に“あの頃”であり、それこそ“あの頃”から10年後のこの運命につながっていた気がするのだ。
パチンコ中毒の嫁さんの借金苦から、ウラ仕事を依頼されたんだという森田、それは「青柳をこの時間、この場所に連れてくること」だった。
そして背後で大爆発があった。パレード中の首相が暗殺されたのは明らかだった。うろたえもせず森田は言う。「な」と。
……そしてその車の下には「俺でも判るような、これは爆弾だよな、ていう爆弾」が」仕掛けられていると言った。
そして家族に危害が及ぶことを恐れた森田は青柳に逃げろと言った。「なんだかんだ言っても、結局は生きてなんぼだ」そう、泣き笑いのような顔で言った。
そして青柳は逃げ出した。
だって、ためらいもせずまっすぐに近寄ってくる警官が、発砲してきたのだもの。
説明すれば判る。そんな状況じゃなかった。
そのことは逃げ続けるうちに更にハッキリしてきた。
無実をいくら訴えても、ムダだということを。“イメージ”を利用されて全国民に犯人だと思われた彼は、“正義”の元に殺されてしまうのだということを。
警察の記者会見で「警視庁の介入が早すぎる」と指摘したマスコミはいたんだよね。映画では「早いことに何か問題がありますか」という自信タップリな佐々木警視の一言で終わってしまうんだけれど、ひょっとしたら原作では、この部分にもう少し補足があったのかもしれない。
この佐々木警視を演じる香川照之の、闇の貫禄タップリな恐ろしさがコワ過ぎる。
青柳がね、アイドルを助けた時にインタビューを受けた映像が、その当時も繰り返し流されて彼は有名人になったんだけど、その映像を不自然に止めて「いかにも好青年という感じですけど、そういえば時々、人を見下すような表情をしていたのが気になりました」などと証言するレポーターがいるんだよね。
それは勿論、こんな事態になったからこそいきなり言い出したコトに過ぎず、それこそ“イメージ”に操作されているに過ぎない。人の表情なんてホント複雑で、しかもテレビカメラが向けられているというのに100パーセントその人となりや感情が示される訳もない。そう……“イメージ”の恐ろしさなのだ。
でも、その“イメージ”からは真に無縁の、全ての計略をその胸に抱えている佐々木警視=香川照之はもう、この任務をカンペキに遂行する悪の化身、そのものでさ……もう、コワイったらないの。漆黒のスーツもビタリと似合ってて、一分の隙もない。
そのコワさとはちょっと違うけど、スナイパーとして同行している小鳩沢に扮する永島敏行も超コワかったなあ!
彼はある意味、確信犯的なマンガチックなキャラ。日本じゃありえないような銃身の長いやたら殺戮性の高そうな銃をニヤリと構えて、ご丁寧に耳当てまでしてさ。
いや……“日本じゃありえない”と考えることこそ、平和ボケというヤツなのかもしれない。確かに永島氏の役作りは笑っちゃうほどマンガチックだと思ったけど……でもそれを向けられる青柳にとっては笑う状況じゃない訳で、そして、このマンガチックな状況はもしかしたら、日本のそこここに潜んでいるかもしれないのだ。
“イメージ”という言葉は、本作で最も重要と思われる。アイドルを助けた彼は、その人の良い“イメージ”もあいまって、一躍有名人になった。
それは“イメージ”ではなく、彼は本当に好青年だったのだけれど、その後についた、というかつかされた“イメージ”はそのギャップもあって、逆に余計に強烈に人々にインプットされてしまった。
「狙い撃ちじゃないですか。正義の味方が暗殺犯。人はそういうギャップを喜びますからね」ひょんなことで青柳を助けてくれることになった青年はそう言った。
青柳はこの時点では……というか、最後まで“容疑者”にすぎないなのに、途中実家にインタビューに行った記者は彼の父親に「息子さんが犯人なのに……」と言うんだよね。
これもまさに“イメージ”そのものだと思う。容疑者であって、犯人ではない。昔はもう捕まえた時点、あるいは指名手配された時点で犯人と報道されたもんだけれど、それが確定されるまでは容疑者である、とされてからもうかなりの時間が経つのに、既に私たちはそのことを忘れてしまっている。
容疑者であって、犯人ではないのだ。容疑、は、ある偏った人の見方、あるいはこんな風にワナにかけられて容疑をかけられているかもしれないのに。
だけどね、そんな青柳を助けようと、逃がそうとする人たちがどんどん、現われるのだ。
そもそも彼を犯人に仕立て上げるワナに、うすうす感じながらあの場所に連れて行き、罪滅ぼしのように爆死してしまった森田がまずそうであっただろうと思う。「生きてナンボだ」それは最終的に“死んだ”ことになる青柳が辿る人生が、まさにそのものなのだもの。
サークル仲間、仕事仲間が次々と青柳の逃走劇に力を貸す。そもそもこの報道がなされても、彼を知る者は誰一人、仕立て上げられた“イメージ”を信じることはなかったというのが、この世知辛い世の中においてはあまりに御伽噺チックとも思えるんだけれども、でもそれを信じたい気持ちもあるのだ。
だってそれを信じなければ、一体何を信じて生きていけばいいのか。そりゃあ青柳は堺雅人が演じるだけあって、友人も同僚も両親も、かつてのバイト先の親方やその時には一緒に働いていなかったその親方の息子までも彼を信じるってこと、そりゃあ、堺雅人だもんネと思えるってのはある。
でも……堺雅人だからっていうんじゃなくて、真摯に生きていれば、たとえこんな理不尽な目に遭っても、信頼してくれる人たちに助けてもらえるという希望を与えてくれる気がするんだよね。……まあ、この例は極端にしてもさ。
それどころか、ちっとも面識のない人まで、青柳を助けてくれるんである。その一番は、ここ最近この地域を騒がせていた通り魔の青年である。
この青年は、ひょっとしたら堺雅人さえも食ってしまいそうな勢いの強烈なキャラで、そしてかなり、難しいキャラでもあると思う。
だって無差別に人を刺しているような、“善良な市民”には理解し難い(これこそが“イメージ”なのだが……大雑把にとらえる“市民”というモノは、決して善良などではないのだ)犯罪者。正直、青柳も怯えているんだけれど、でも彼は何を思ってか、青柳の逃走を最初に助けてくれる人物であり、闇のカラクリを探し当ててくれたりもし、その結果、命までも落としてしまうんである……。
影武者を仕立て上げる腕利きの整形外科医と知り合いだったり、秘密の隠れ家を持っていたり、青柳がピンチの時にはサラリと現われて敵をぶっ殺してくれたり(!)と、彼の行動には、恐らく映画では語りきれないウラがたくさんありそうなんだけれど、青柳の人柄に触れて、ガラにもなく助けてやろうとか思っちゃった、と、息絶える彼の姿には、青柳ならずとも落涙せずにはいられない。
そう、イメージなのだ。彼は当然、“善良な市民”には理解し難い愉快犯罪者なんだけれども……だからといって、心の隅々まで真っ黒ではないのだ。でもそれを受け入れるほどの心の余裕が私たちにあるのか。いや……。
このナゾの通り魔殺人者、キルオを演じるのが濱田岳。中村監督が非常に信頼を寄せているのが判る役者さんで、近年いろんな映画でちょくちょく見かける彼の上手さをしみじみ感じているところなのだが……。
今更ながらビックリ!すごい若い!ええ!ホントに、まだ21なの!?その年齢じゃ絶対ない設定の役も絶対あったよねえ!?
ていうか、そんな年には絶対見えな……くもない、確かに年相応にも見えるか……でもビックリ!もう相当に揉まれた個性派俳優ぐらいに思ってたから……。
いや実際、子役時代から活躍していたみたいだし、確かにキャリアは長いのだろうが……しかしビックリ!(ビックリしすぎ……)
それまでも印象に残る役柄はあったものの、彼の外見上のイメージからおずおずとした役柄が多かった気がする(のは、単に私がそういう作品しか見ていないせいだろうが(爆))けど、本作は見るからにキーマンだし、彼の上手さを存分に発揮してて、スゴイ!
彼の絶妙な?背の低さも、なんともそんな、キーマンっぷりを現わすのに最適なんだよね。いやあ、今更ながら……彼は今後ますますスゴイ役者に成長していきそうだよなあ。
おっと、ここまで、ヒロインのことを言及しないまま来てしまったが(爆)。
ヒロイン、という役柄設定という訳ではない気がする……青柳を助けるメンバーの中で、女性一番手、ということだろうなあ、それだけ、女性ということを感じさせないオットコマエな竹内結子。
彼女はこんなにキレイなのに、そのサッパリさ加減がホンットにオットコマエで、ステキなのよね!それこそ、死を持って青柳に詫びた森田を演じる吉岡秀隆のジメジメさ加減(いや、その湿度が彼の良さなんだけど(爆))と比べても、なんとゆー、オトコマエっぷりよ!あー、カレシになってほしい!
彼女はキャラ的には青柳の逃走を手助けする一員に過ぎないのかもしれないけど、やはりそこはヒロイン、この物語を牽引する役柄をも担っているのよね。
冒頭場面が実はラスト場面に通じていた、というのは、昨今よくある手法だけれど、それが当のラストになってから初めて気づく、っていうのがヤラれた!(クヤシイ!ぐらいな)って感じで、そこで物語を始めるのが、竹内結子扮する樋口晴子なのだ。
本作は女の子でも苗字で呼ばれているのがなんとなく嬉しい♪女性キャラは下の名前で呼ばれることが慣例のようになっているのが、なんかバカにされているように感じることがよくあったからさあ。
そう、彼女は樋口、であり、樋口さん、なのよね。最後まで、名前で呼ばれることなんてない。実際、ここで書くまで、彼女の下の名前、知らなかったもん。
かつての仲間は勿論、恋人同士だった青柳でさえ、彼女を下の名前で呼ぶ場面はなく、告白場面でも樋口、と呼びかけているし。その樋口さんも、最後まで青柳君、で、それもまたいかにも竹内結子っぽいんだけどね。
青柳が巻き込まれたのは、国家とか権力とか、つまり抗ってもムダなあまりにも大きな力によるものだとキルオは言った。
確かに最初からそれは明らかだった。森田の言葉がまず、そうだったし、警察は早く動きすぎだし、しかも接触してきた警察は“自首する機会を与えてやる”などと、不可解な極まりなかったんだもの。
青柳を手助けする仲間たちも、まず彼を信じてくれたのは前提としても、“抗ってもムダ”であるということさえも、信じてくれたんである。
平和そのものである日本人にはそんな価値感考えられないのだけれど……それが、彼を信じるが故だったのだとしたら、彼ほどに人に信頼される人物になれるかは、かなり自信ない……。
でも、青柳が人を信頼することを前提にしていることがその結果を導き出したことが、あらゆる場面で泣かせるんだよなあ!
実はその言葉を言ったのは、青柳に「生きろ」と言い渡して爆死した森田。人間が人間たるってことは、習慣と信頼であると彼は言った。
習慣とはまさにラスト、嬉し涙を誘う幕切れを誘発するのだが、信頼という価値感がこの作品を、青柳を、支え続けるのだ。森田から言われたってこともそうだけど、そもそも森田は青柳がそういう男だと知ってるからこそ、その言葉を託したに違いないんだもの。
学生時代、サークル仲間のカズがラブホ替わりに友人に提供していた車が青柳の逃走を手助けする。バッテリーが切れてしまっているその車に一縷の望みを託して「俺は犯人じゃない」と青柳はメモを記した。
思いがけずその応えがあった。彼はその応えに最初、気付かなかった。キルオから「青柳さんの知り合いがバッテリーを交換していた」と知らされて、エンジンをかけて涙した。
「カズ、人って車のエンジンがかかっただけで、泣くのかよ」そう言って見上げた青柳は、日除けに挟まれたメモに気付いた。自分が書き残したメモに「だと思った」と書き足されていた。その字にも見覚えがあったに違いない……彼はさらにむせび泣く。
……こういうのって、日本人的、浪花節かもしれないんだけど、ホント、泣いちゃう。そして、この後も散々号泣しまくっちゃうのよね。
思いがけない助っ人のまず一人目が、カズと同じ病院に入院している、自称「ウラ稼業の男」。演じるのは柄本明。
そう名乗るとおり、両足にギプスをして車椅子に乗っているのに、サッと両足で歩いちゃったりする。
自分の影武者を追って病院に紛れ込んだ青柳と運命の邂逅を果たし、クライマックスの逃亡劇に決定的な手助けをする。ニセモノの軽いマンホールの蓋が、ドギモを抜く、そしてカンドーのクライマックスを演出するんである!!
そしてもう一人……というか、二人。それに半分は、青柳の知り合い、とも言えるだろうなあ。
麻酔銃を携えるという予想外の警察の動きに、急ぎ急行する樋口をサポートに現われる青年は、樋口はもとより観客も全く見たことのなかった顔なので???
しかし、……一見して、この人は味方だ、と判ってしまうというか……そういうのって甘いのかもしれないけど、でも判っちゃうんだもん!
青柳は一か八かの勝負に出ていた。自分が知る限りの真実をぶちまけ、自分は犯人ではないと訴えること。独占生中継を条件にその機会をとりつけたものの、その放送局も警察に押さえられてしまう。そして……機動隊が囲み、絶体絶命のピンチ!全ての国民が極悪人と信じる彼が“やむをえず”撃たれて死んでしまっても、世の中は騒がない。しかしそこで!
花火が、あがるのだ。
まったく予想外の花火。
青柳が逃げるためのところだけじゃなく、あちこちに設置されたダミーの軽いマンホールの蓋から花火が吹き出す。
それは、青柳たちサークルのメンバーが、学生時代アルバイトしていた花火工場のおやっさんたちの好意なのだ。
んでもって、樋口をサポートしにきた見知らぬ青年は(とか思っていたら、入院患者として登場していたのを私が気付いてなかった(恥))、彼らがバイトしていた時「息子さんが東京に就職決めちゃったんだって」とおやっさんが肩を落としていた、しかし今は後を継ぐことを決意した、その息子だったのだ!!!
もおおお、メッチャ、浪花節じゃん!
でもね、それが明かされるのが、青柳が“死んだ”後なんだもん。この件で事情を聞かれた花火工場の親子は、受け答えの内容は神妙ながら、その表情はあまりにもウラハラに満面の笑みである。
知らなかった、青柳に脅されていただけだった、そう言いながら、超嬉しそうなんである。
つまりこの問答は、お互い絶対判っててやっている訳でさ……だからこそ、それでもしつこい刑事に工場のおやっさんは言うのだ。
「あなたは、本当に青柳が犯人だと思っているんですか?」と。「そりゃ勿論……」というところで言いよどんだ刑事に間髪要れずに「勿論?なんですか?」と突っ込んで、刑事が目を白黒させるのがさあ!
ああ、もう!そのほかにも超超、イイ場面がたくさんあるのよ!
そうそう、大好きだったのは、ウッカリ青柳を見つけてしまった巡査が、彼にさるぐつわを噛ませられながらも、青柳の父親が、押し寄せるマスコミに息子への愛溢れる毅然とした態度を見て(ワンセグでね)、青柳と共に、というか、青柳より号泣していた場面だなあ!
この青柳の父親役の伊東四朗がまず素晴らしいんだけどさ!「息子さんを信じたい気持ちは判りますけれども」などと判ったような口をきくマスコミに「信じているんじゃない。私は息子を知っているんだ」とまっすぐに言い「雅春、俺も母さんもそれなりに元気だ。大丈夫だからちゃちゃっと逃げろ」などと言っちゃう絶妙の軽さと、そして重さに、もう耐え切れずに泣いてしまう!
そして、後部座席に拘束されたおまわりさんの児島さんも泣いてしまう!ていうか、大号泣!……彼はこの時点で、青柳が犯人ではないと、確信したんだろうなあ……イイ人の周りにはイイ人が集まるのよ!
そして、電話をかける時には30秒以内、というアドバイスを伝授してくれる。この人が最も関係なく、助ける義理も最もなかった人なんだけど……もー、泣かせるんだよなあ!!!
結局ね、結局……青柳は、自身の名誉を回復することは出来ず“死んで”しまう。
私ね……人間の人間たるものの一つが、この、誇り、プライドであると、思ってたんだよね。他人から誤解や言われなき中傷を受けたままでいるなんて、そのまま“死んで”しまうなんて、耐えられないと、思っていたんだよね……。
でも、結局は、“他人”からなのだ。所詮。他人からの評価がどれほどのものなのか。自分を信じてくれる人がいることが、例え自分が“死んで”も、どれほどの支えになることか。
彼は、死なない。あの、彼が助けたアイドルが、まさに満を持して現われてくれた。
「あのアイドルとヤッたのか」と誰からも散々聞かれて閉口していた青柳だけれど、口先だけじゃなく彼女は本当に彼に感謝していたし、ヤッてはいなくとも、呼び出したホテルでゲームに興じた彼に救世主以上の思い入れを感じていたに違いない。
「キミ、整形したんでしょ」「私はやってない!」という彼女だけれど……この流れとムキになりようは……やったんだろうなあ。
そう、そして彼もヤるんである。“青柳雅春”の遺体が海岸で収容され、事件は収束を得た。いや、強引に得られた。
そして数年後、両親の元に、青柳が子供の頃書かされた「痴漢はしね」の書き初めが送られ……そして……あの、時間軸のままかと思われた冒頭のシーンがラストに再現される。
ああいう男が通り魔殺人者かもしれない、と旧樋口のダンナが言っていたエレベーターの中の帽子をかぶった男は、青柳。そしてエレベーターのボタンを親指で押す仕草で、もう樋口は彼だと気づいていたのだ!
彼女の子供に託して、そのコトを伝える。もうこれは……本編を見ていたら判る感涙の伝え方。手の甲に「よく出来ました」のハンコを彼女の娘に押された“旧青柳”は、これからも生きていくのだろう。
あ!!!脇役の中でメッチャイイ奴、もう、青柳よりイイ奴かもしれないキャラを忘れてた!!
仕事先の先輩である岩崎。演じる渋川清彦の超ナイスキャラが癒されまくるの!
何より、誰よりも先に「お前、やってないんだろ?」とアッサリ言い放って青柳を涙させる、彼が愛するロック以上に、彼自身が「ロックだな」ってヤツ!
もしかしたら途中裏切るかも?というスリリングを感じさせつつ、いや、青柳を信じている人は、ていうか、知っている人は、最後まで彼を支えるってことを、最初に教えてくれた人!
豊田監督作品以外で彼のナイスキャラぶりを観たのは、初めてだったかも。★★★★★
しかし本作は記録的な大ヒットとなったことで、混雑が落ち着いてから行こうと決めると、原作が気になる気持ちが抑えられなくなってしまった。
そして手にとった。それぞれの当事者の、それぞれにひどく主観的な立場からのモノローグのみで組み立てて行く、ラショーモナイズな魅力たっぷりの多面的な構成は、作者の巧みな演出力をうかがわせ、だからこそこれを、映画の演出という、一人の神の手を持つ視点からどうやってまとめあげるのだろうと見当もつかなかった。
物語の大筋自体は、決して複雑なものではない、と思う。事件だけを並べ立ててしまえば、単純だとさえ言える。
幼い娘を殺されてしまった女教師。その殺しに関わった13歳の男子中学生二人。その二人はそれぞれに破滅的な道を辿る。一人は引きこもりの末に母親を殺し、もう一人は交際していた同級生の女の子を殺して、離婚して長らく会っていない母親の勤務する大学に爆弾を仕掛けて爆発させた。
そう、事件だけを眺めてみれば、これだけなのだ。しかし……この世の中で一番面白い、と言っていけないのなら、興味深い“物語”は、人間の心なのだということを改めて、まざまざと見せつけられたのが本作だった。
凝った筋立ての、ストーリーテリングの巧みな物語がもてはやされる傾向がある一方で、ああ、そうだ、こういうことに飢えていたのだと思った。
ああ、なるほど!と感心するような、パズルみたいな物語にはない、どんと心に重く、綾のように複雑に折り重なる、やっかいきわまりない百人百様の人間の心模様。
それぞれが自分の心に至上の王国を持っていて、それ以外はみんな愚かな民なんである。
それが一番顕著なのが、この中で最も罪深い(というのも、単純な括りだけれど)、幼い女の子愛美にはっきりとした殺意を持って実行犯の一人となり、カノジョを殺し、母とその他大勢の関係ない人たちを爆死させた修哉である。
そう、愛美に関しては、本当は彼は決定的な実行犯になりたがっていた。しかし結果的には、なれなかった。
その時点で彼の自尊心ばかりが膨れ上がっている幼さは露呈されていたのに、幼いからこそ彼はそれに向き合えなかった。
もし、もしあの時彼が本当の実行犯となりえていたら、ひょっとしたら事態はまだマシな方向に向かっていたのだろうか?
彼は優秀な母親の血を引く自分、というか、母親を何より愛していて、同世代の同級生たちは勿論、大人でさえも、バカばっかりだと言っていた。
それは本当に……子供っぽい論理なのに、字面でみると、彼があまりに、それこそ論理的にその理屈を並べ立てているから、ウッカリすると本当にそうかも……と思いそうになってしまった。
でも、そこが文学と映画が別物である点なんである。私は原作を読んだ時、衝撃的な森口先生のモノローグから始まるこの物語が、どんなにその後、あらゆる当事者が現われて、それぞれに切実で壮絶なモノローグを繰り広げても、森口先生のそれが刷り込みになって、彼女の前提が頭から離れることはなかった。
映画になってもそれは基本的には同じなんだけれど、森口先生が、この頭がいいだけに扱いにくい修哉を論理で喝破していく感じとはちょっと違っていた。
論理、というのはやはり、活字の方が映像よりも大きな威圧感を持つせいだと思う。だけど、それだけじゃない。原作に置いては、やっぱり文字だけだと、顔が見えないと、修哉は勿論、直樹も修哉に殺される美月も……大人には理解出来ない、何を考えているか判らない、恐るべき13歳の子供、なのだ。
彼らのモノローグは、森口先生や直樹の母親と何が変わる訳ではない。それぞれに、都合のいいことしか言わないし、ただ自身を正当化しているだけだから。
でも……そうだ、なんか、ちょっと判ってしまったかもしれない。私が原作を読んで彼らを恐ろしいと思ったのは、彼らの顔が見えないことだったのだ。
ならばなぜ、森口先生や直樹の母親に対してそれを感じなかったのかといえば、立場も職業も環境も違うとはいえ、年齢的に近いからだったのだ。性別的にも、ではあるけれど、この場合、やはり年齢的なものが大きいと思う。
そして本作が大きな衝撃を与えるのは、だからこそだもの。私は、この小説を中学生が読んだらどんな感覚を持つのか、聞いてみたいと思った。森口先生よりも、修哉や直樹や美月に共感する気持ちが出てくるんじゃないかと思った。
そしてそれは多分、中学生時代の私に聞いてみれば、同じなんじゃないかと思った。顔が、想像出来るのだ。同じ世代だから。多かれ少なかれ、共通する悩みを抱えているから。
勿論子供たちだって100人100様だけど、でも大人が判ってあげられるものとは違うんだもの。
だから、映画として、つまり実写として、生身の人間が演じているそれを目にした時、ことに、原作どおり森口先生によって事件の大筋が語られた後からは、いい意味で原作との乖離を感じたんだよね。
そうなのだ……私は、原作を読んでいる時には、美月はともかく、修哉や直樹に対して、のっぺらぼうな印象だった。顔の見えない、恐るべき殺人者。
幼いという事実は、柔らかく、愛しく、慈しむべき存在、という、本来の意味がすっぱりと頭から素通りして、それと残虐な殺人とのギャップの大きさ、その恐ろしさばかりに身震いしていた。すっぽりと、お面をかぶせられた状態、みたいなさ。
でも、それを、映画だから当然、生身の人間で、柔らかで、愛しくて、慈しむべき存在、として映像で提示されてしまうと、やっぱりうろたえてしまう。
監督は、クランクイン前に子供たちに原作を読ませて、彼らがそこに書かれている言葉を信じ、つまり他人を信じる、優しい心を持っている子供たちだと語っているんだけれど、実にそれがよく出てるんだよね。
つまり、監督は大人だからさ、イジワルで、これは使えるわ、と思ってるに違いなくて(爆)。
そう、モノローグなんだもの。本当のことを言っているなんて保障はない。ていうか、ほぼウソだと言ったっていいぐらい。
でも……自分にとって都合がいいという自覚はあるにしても、でも彼らそれぞれにとってはやっぱりそれらが……真実なんだよね。
そしてそれは、自分の王国以外はクズだと思ってる。つまり他の王国を知らないからこその不幸、いや、幸福かもしれないけれど……な子供たちにとってはより顕著で。残酷なまでに純粋な“王国”なのだ。
修哉が、自分以外はバカばっかりだと、自分の才能が理解されないのは周囲がバカだからと、どうやら本気で考えていることが、あまりに痛ましい、けれど、そんな風に考えることが出来ていた年代が一番幸福だったと思う。
今はネットやらブログやらで、そうした自己顕示欲が満たされてしまう場があるから、判りやすく提示されてしまうだけで、こういう気持ちはさまざまな形の違いこそあれ、いつの時代も子供たちが持っていて全然おかしくない、むしろしかるべき、健全な形だと思う。
子供の頃から、自分はダメだ、上には上がある、自分の才能なんか発揮できる場などなく、明るい未来なんてある訳ない、と思っている子供の方が不健康じゃないの。
うーん、でもまあ、じゃあどうすればいいのよって話になるけれども……ただね、本作が映画化された意義があるとすれば……このことを言うまでかなり遠回りしちゃったけれど、彼の、中学生の、13歳の男の子としての、顔が見えた、ことだと思うんだよね。
大人になっていくに従って、ことに私のように子供が日常的に周囲にいなくなる環境に置かれると、子供はたちまちモンスターとなってしまう。
そして、彼らが起こす事件が頻発すると、余計にその感覚は増幅する。近頃の子供は、ってヤツである。
でも……事件が頻発するのは、事件が起こり易くなるのは、子供のせいではなく、時代や環境のせいであって、薬品だ、電気部品だと、実に判りやすく、“現代なら手に入れやすい武器”が提示されているからなのだ。
そしてそれは、まぎれもなく、私たち大人が作ったのであるということ……だって、私たちが子供の時には、そんなものは容易に手に入れられなかった。だからこそ、事件がこんなに多発することはなかったのだ。
で、ね。またしてもかなり話が脱線したけれど……そう、うろたえたのは、柔らかで、愛しくて、慈しむべき存在としての、リアルな13歳の彼らが、目に見える形で現われたから。
判っていた筈なのに。これが、たった13歳の子供が起こした物語だって、判っていた筈なのに。だからこそ恐ろしいんだって思っていた筈なのに。
声変わりしたかどうか微妙なぐらいの、半音あがった程度のメゾソプラノに、心かき乱されてしまったのだ。
勿論それだけじゃなく、触ったらふわんと柔らかく返ってきそうな、毛穴などないんじゃないかってな頬や、ちょっと気取って長めに顔を縁取っている今風のヘアスタイルでさえ、ひどくいとおしかったのだ。
13歳男子といえば、身体もまだまだ華奢で、理数系方向にバツグンに頭が良くて、周囲を冷たく眺めているような修哉でさえも、彼の唯一の理解者である美月と比べれば、子供の男の子そのものなんだもの。
実際、この年頃は、女の子の方が体格も思考も男の子よりずっとしっかりしていて、そのギャップが最も如実に感じられる世代だと思われる。
そう考えると、15歳以下の子供たちが犯罪を犯した時に適用される、少年法という格好の設定があったとはいえ、この年頃の子供たちにキャラ設定したのはやはり、大きな意図があったと思われるんである。
そしてそれは、映像にすると更に顕著に感じる。美月だって勿論悩ましい年頃だから、そのモヤモヤをちょっと背伸びしたファッションで表現して修哉に会いに行くと……そうすると余計に、幼い彼との対比が鮮明になるんだよね。
優等生で頼りになる美月ではない、修哉と密会する時の彼女は、黒づくめで、レースのミニスカートから生足がなまめかしく伸びていて。
いくら修哉が頭が良くて、あんなとんでもないことをしでかして、それでも冷静(を装って)で、美月のことも心の底ではバカにしているとしても、一見して明らかになっちゃうんだもん。修哉の方がよっぽど子供だって。
そして、それが更に明らかになる。直截にマザコンじゃんと美月から言われて、修哉はカッとなって彼女を殺してしまった……。
ついつい修哉の話ばかりになっちゃうけれど、勿論直樹も大きなファクターを占めている。ベクトルこそ違えど、修哉も直も同じく母親に大きく手綱を握られていること、それが自尊心やアイデンティティをプラスとマイナスに大きく揺り動かされていることが共通していることを思うと、ますますこの年頃の男の子の脆弱さと、対照的な女の子のたくましさを感じるんである。
いや、それはもちろん、繊細な女の子も、たくましい男の子もいるだろうから単なる偏見に過ぎないんだけれど、少なくともこの原作者は、ハッキリとした意図を持ってそうしたキャラ分けをしているし。
その結果犠牲になるのが女の子の方(幼い愛美ちゃんも、直樹に殺される彼の母親も含めてね)で、男の子に一生重い十字架を背負わせる結果にしているのが、かえってその方が残酷っつーか、重い意図にこそ身震いする思いを感じて……さ。
語り部であり、勿論主人公であり、悪魔のような女であり、逆に彼女の子供への愛を思うと女神のようとも言えるかもしれない森口先生。
彼女がやろうとして結局は未遂に終わった、HIVに感染した元夫の血を牛乳に混ぜて飲ませる、というのも、それこそちょっと知識を得た大人なら、そんなんで感染するかよ、というような、脅しにもならないもので、つまり、大前提から、彼女はやっぱり狂言回しに過ぎなかったんだよなあ。
本作に関してはね、それまでの中島監督作品の、どぎついカラフルな描写が非常に印象的だったから……そして予告編の段階では、それを匂わせるような宣伝展開だったから(ミュージカルかと思わせるような画を持ってきたり、劇中では全くイメージにもないピンクをつかったりさ)、それこそがまさに、イメージを植え付けてつき落とす、本作そのものの魅力を示していて、ヤラれた!って感じだったんだよね。
きっと人生の中で、最も繊細で鋭敏な感覚を持っているであろう子供たちが、痛々しいまでに自分が傷つくことから自身を守ろうとする……大多数の子供たちはイジメに加担し、それが正義だと信じ、その価値感を固めるためにことさらにはしゃいで笑顔を貼りつかせて。
そして少数派の子供たち、イジめられる側に回る修哉や美月もまた、一見正反対な立場に見えるけれど、同じなのだ。自分が傷つくことから自身を守ろうとする、自分以上に大切な、自分のプライドが傷つくことから守ろうとする、それだけの違い。
そして大人になると判ってしまうのだ。あんなに大切だと思っていた、他の“バカ”な“ガキ”には判らないだろと思っていたプライドという奴が、大人になってみればクソの役にも立たないってことが。
映画化作品になると、やはり原作とどこが違うのか、というのが気になる。きっとそこに、映画の作り手の、この物語を汲み上げた時に感じた、彼なりの決着のつけ方があると感じるからである。
本作の原作は特に、放り出されるような結末を迎えるから、そこのところは非常に気になっていた。電話の向こうで冷笑するように、衝撃の復讐を告げて、打ちのめされる修哉をただ突き放して終わるだけだったのが、映画では彼の目の前に現われて、同じく冷たく突き放す言葉を浴びせながらも、しかし森口先生のその目には、ひとことでは形容しがたい涙があふれていた。
当然、母親を爆死させてしまったという事実を突きつけられて、狂わんばかりになった修哉の目にも涙はあふれていたが、彼の耳に森口先生の言葉が届いていたかどうかさえ、怪しい。
森口先生の涙も、修哉の涙も、原作にはない、中島監督の創作であり、そして彼なりの答えなのだと思う。
その伏線だったのだろう。基本的には非常に原作に忠実だった(あくまで展開上は、だが。印象は映画の方がシュールで無機質で、だからこそ狂気が際立って感じた)のが、修哉の母親への愛を知った森口先生が、それを申告してきた美月の前ではバカにしたように高笑いをしたものの、一人帰途につく真っ暗な道路で、突然慟哭し、膝をつくシーンは、原作にはもちろんないし、ありそうですらない。
つまり、映画の作り手の創作をハッキリ感じさせるシーンで、……なんか、優しいなあ、と思ったんだよね。
原作では正直、森口先生は冷たく、悪魔のような女、という印象の方が強い。こんなシーンなど、想像もつかないほど。
そういやあ、映画ではちゃんと愛美の葬儀のシーンも用意されていて、そこでも当然、森口先生は身も世もなく慟哭していた。
勿論、愛する娘を幼稚な考えのもとに殺された、しかもその罪を償うことさえさせられないなんて、という憤りは無論なんだけれども、ならば私が復讐しましょうという彼女のやり口はアゼンとするほど正確で、冷酷無比である。
ちょっとここでは書ききれなかった、KY(空気読めない、てのもそろそろ使われなくなってきてるが……)なエセ熱血教師、ウェルテルに関しても、彼女が彼を操っていたという事実が、原作でも映画でも同じ描写が描かれているのに、原作は画が見えない分なのか、彼が単にバカだったのだと思うぐらいで、操った彼女の非情さは映画ほどには感じないんだよね……。
これもまた、生身の人間が演じるが故に、顔が見えるという“弊害”なのかなあ、と思ってくる。そして、その“弊害”をまさに伏線として、森口先生は最後の最後、まるで責任を果たすかのようにきちんと修哉の前に現われ、これが私の復讐です。あなたの更生はここから始まると思いませんか?と告げるんである。
映画的な画だからと言われればそれまでだけれど、電話の向こうで顔が見えないまま終わった原作とのこの違いは、監督の優しさのように思えて仕方なかった。
勿論、その先生の前で修哉が、この世の地獄を味わっているさまをきちんと画で示すことも。
このラストシークエンスは原作では当然それまでどおり森口先生のモノローグのみで、修哉がどんな心持ちでいたか、どんな行動をとったかなんて全く示されないんだもの。
このテーマとはほっとんど関係ないけど、本作がヒットすることで、エイズへの偏見や誤解が、ちょっとでもとけるかなあ、と思った。私も誤解してたこと、沢山あった。★★★★☆
などとゴネゴネと思っていた自分がハズかしくなってしまうのだった。だって、だってね、これ……凄くイイんだもの。物語自体が凝っている訳では決してないんだけど、これはヤハリ……これこそがセンス、という奴としか思えないなあ。
私はそう、彼がPVなどの演出経験があったということを知らなかったので、本当に“挑戦”程度のことだと思っていたのだ。本作に関して、どういういきさつでの制作となったのかは判らないけれど、彼が一からこの作品に感性を注ぎ込んでいるのが凄く良く判る気がした。
まずロケーションが素晴らしい。本当に、厳しい寒さの冬の北海道。ヒロインが勤めているのは牧場だけれど、そこの娘という訳ではなく、あくまで勤務しているだけで、父親は薬局に勤めている。
仕事として接している馬は好きそうだけれど、特にそれに執着しているという訳でもなさそうである……てな距離感も、いかにもな“北海道を舞台にした映画”からは確信犯的に切り離している感じがするのが、なんか凄くイイと思った。
いや、そういう映画だって、北海道でしか撮れないならイイと思うけど、……なんかね、それこそこういうことが、ミスターが目指していたものだったんじゃないかなあという気がした。ちょっとミスターは最近迷走している感じがしなくもないもんだから(爆)。
しかし、渡部氏はこんな物語をどうやって思いついたんだろう?そしてそれは最初から、この厳しい冬の北海道のロケーションがあったんだろうか?彼って北海道と接点、あったっけ?だって東京の、しかも新宿出身だし。ああ、北の国からには出ていた……そうだっけ?
でもそんな風に驚いてしまう程、この冬の北海道の厳しさが、気取らずに、飾らずに、リアルに活写される。
その中でヒロインは「寒いよ、お父さん、今日あったかくなるって言ったから私、こんな薄いコートで来ちゃったよ」と粉雪がびゅうびゅうと吹きまくる中、永遠に来ないと思われるバスをひたすら待ち続ける。
その画はなんだか……ただただ白く寒くて、現実味がないぐらいなのだ。
そう……現実味がない。こんなリアルな手触りがありながら、フシギとファンタジーのような甘やかさもある。それは雪の中に半分埋もれたように出現する観覧車の非現実さが、この作品の何よりのキーアイテムだからこそなんである。
この観覧車ありきで、つまりそこからこの作品が生まれたんじゃないかと思うほどなんである。それほどに、車がぽつぽつとしか通らない寂しい道路の途中に、かげろうのように出現する観覧車には、インパクトがあった。
でも、そう言われてみれば、雪に閉ざされた間、遊園地に行くっていう発想は、なかった気がする。
でもその間、その遊園地がどうなっているかなんてことも考えたことがなかった。
こんな風に、死んだように、いやそれが言いすぎならば、冬の間を洞窟の中でひっそりと暮らす熊のように、息をひそめているのだ。現実社会から隔離されて。つまりそれは、現実社会ではない、非現実なのだ。
そこで出会った二人が、その通い合わせた記憶さえ、非現実の、冬の幻の時間に消えてしまうってこと、この雪に閉ざされた北海道のお伽噺のような一空間でなら、確かにあり得るのかもしれないと思ってしまうのだ。
そしてそれは、胸をかきむしられるほどに、切ない。
なぜそんなことになってしまったかというと、つまりヒロインが落馬して彼と出会った期間だけを、ソックリ喪失してしまったという、これだけ書くと少女マンガもビックリな展開による。
そう、ホントにファンタジックでロマンチックでめちゃめちゃ切ないんだけど、これが、この寒さの中でキリキリに冷やされて、甘さや臭さが全く寄り付かなくて、ただ……キリリと胸に痛いばかりなんだよね。
ていうか、いつものようになんかアイマイなばかりでぐたぐた続けちゃったけど(爆)。つまりどういう話かっていうと……でも、どういう話ってほどでも、ないんだよね、考えてみると。それこそここまでぐだぐだ話してきただけのことかもしれないと思うと、それって凄いかもしれない。
まず、久しぶりに女優、高岡早紀の凄さを思い知らされた。なんて言ったらほおんとに、ナマイキで不遜きわまりないことは判ってるんだけど(爆)。
私にとって彼女は「東海道四谷怪談」のイメージで止まっているのだ。ただあの時は、惜しげなくおっぱいを出せる女優さん、ていうことで特別な存在感があった。
このサイトで何度も言っているけれど、それが必要とされる作品で、おっぱいも出せない女優さんはダメでしょ、ぐらいの思いが私にはある。だから彼女には凄いインパクトがあった。
ただそれ以降、私がドラマを見ないせいもあると思うけれど、あまり女優としての彼女に印象を受ける機会がなかったし、それ以外でのイメージがつきすぎてしまった。
だもんで本作にも何となく足を運ぶのが鈍っていたんだけれど……私は本当に、そんな俗な情報に流されていた自分を恥じたよ(爆)。ただただ、女優としての、役者としての、彼女だけでいいではないか。
本当に、久しぶりに、ああ、高岡早紀はやっぱりいい女優だと思った。そして彼女をヒロインに抜擢したのは、渡部氏が彼女とドラマで共演した縁ということがやっぱりあるんだよね?
知識不足でなかなか判らないけれど、本作は恐らく、一から十まで彼の強い仲間意識によってキャストもスタッフも集められ、作り上げられているのだということは、見てるだけでもひしひしと感じるもの。
高岡早紀が演じる冬沙子は、馬を飼育する牧場で働いている。東京で雑誌のファッションモデルとして働いている妹が帰ってくる。父親は薬局で働いている。
母親は数年前に亡くなっている、ていうことは、この状況と、のちに冬沙子が出会うことになる青年に問わずがたりに語ることによって明らかになる。この状況じゃ出会いもないし、別にそんな願望もないし、都会への憧れもないから、とさらりと話している冬沙子だけれど、時おり携帯を開いては眺めている。
その原因も特に隠されることもなく、友人や妹の台詞で、遠距離恋愛の恋人がいるらしいことが明かされる。しかしその関係がどうなっているかもどうもアイマイで、長らく連絡をとってもいないようだし、確たる約束がある訳でもないらしい。
ただそのことで彼女が焦っているとか、この土地が好きだから恋人の元に行けないとか、明確にする訳ではないんだよね。
実際、そんな単純なことではないと思う。ラスト、冬沙子はその長年の恋人、繁のプロポーズによって札幌へと出て行くけれども、それまでの彼女がじゃあ不幸だったとか、ただただ繁を待ち続けていたかと言えば、そんなこともない気がする。
それは、冬沙子があの青年と出会ったことを、どうにか運命にしたいとロマンチック志向の私がついつい思ってしまうからなのだろうか。
でも、そうかもしれない。長い間ほっておいて、その彼女が怪我をしてようやく駆けつけるだなんて都会の男より、絶対彼の方がいいに決まっているじゃないか。
でも、どうだろ、どうなんだろう。そもそももし記憶を失わなかったら、冬沙子は青年を選んでいた?
そもそもこの青年……というより、冬沙子が「遊園地のお兄さん、おじさん?」と語る彼は、名前さえも与えられないのだ。
どこから来たのかさえ、知れない。彼にスノーモービルの整備を頼んでいる女性だって、ただメカに強いということしか知らない。彼の声が出ないことも、その原因を探ることは悪いから、とでもいうように、全く触れられない。
ただ……本当に声が出ないだけなのに。普通に音は聞こえているし、声が出ないだけのことなのに、まるで彼のことを幼く無垢な男の子みたいに扱っている、ていうか、そんな風に見えてしまうことにちょっとした恐ろしさを感じてしまうのだ。
ただそれは、この作品がアドリヴかと思うようなスリリングな会話を、一発撮りの様に提示している魅力も大きく影響していると思う。
実際どうなんだろう……どの程度脚本が出来上がっているんだろうかと思うほど、特に冬沙子とその妹に食堂のおばちゃんである渡辺えりが加わるガールズトーク?の果てしなさは、割って入れない父親の北見敏之の可笑しさもあいまって、やけにリアルなんである。
渡辺えりが痩せたら八頭身になるかも?という一点に笑い転げる女子三人の可笑しさ!その会話の鮮烈さが、つまりそれこそが人間の定義の前提だ、みたいに感じられてしまって。
渡辺えりが渡部篤郎扮する青年に出会う場面もあるんだけれど、彼女は彼が喋れないと知ると、もう即座に耳も聞こえないんだと思って、やたら恐縮し、ごめんね、ごめんねと繰り返す……それがね、なんか……凄い、キツいんだよね。
だって彼はただ声が出ないだけで、それだけで、全然、普通なのに。
でもね……私も、そんなイメージで彼を見ていたかもしれない。と思ったのは、誰と一緒でもない場面、彼が一人、タバコに火をつけ、ふうと吐き出すそれが、それまでどこかおどおどと、こちらが勝手に無垢な、言ってしまえばカワイソウなイメージに見えていた彼が、凄く普通な、というか、普通以上な、色っぽい大人の男そのものだったから、すっごい……ドキリとしちゃったんだよね。
そして、自分のヘンケンにも目の当たりにされることになった。彼は一人の青年であり、ただ、冬沙子に恋をしたのだ。ただそれだけだったのに。
なのに、彼には、そう、名前を与えられていない。
冬沙子が父親に頼まれて夕張のおばあちゃんに薬を届けに行った日、二人は出会った。いつまで経っても来ないバスを待っていた彼女を、冬の期間閉まっている遊園地の事務所で待たせてくれた。
それから以降、冬沙子は車で通りかかると、彼に声をかけた。一緒に牧場に行ったり、スノーモービルを楽しんだりした。
筆談も交えたコミュニケーションだけれど、不思議ともどかしさは全然なかった。それどころか、「あなたといると落ち着く。コトバなんて必要ないんだね」という冬沙子のモノローグさえ用意されている。
そして……幼い頃メリーゴーラウンドが大好きだったという冬沙子を、整備中のメリーゴーラウンドの中に彼は導き、そっとその手を握り、キスをした。
その時が、最後だった。確かに二人、思いを通じ合ったのに、なのに。
その直後、冬沙子は記憶を失ってしまう。しかも彼も彼女も、お互いだけで、他の人にこの関係を話していないのだ。だから……冬沙子が記憶を失った途端、もうそれを知るのは彼だけになり、つまり……まるでまぼろしのような記憶になってしまうのだ。
彼には名前を与えられていないとは言ったけど、実際は冬沙子は彼の名前を知っていた筈。彼女は声に出して自己紹介したけれど、彼はノートに書いて示していたんだもの。ただそれを観客に示していないだけ。彼にスノーモービルの修理を頼んでいた女性だって知っていた筈だし。
ただそれが……それこそが、すごい残酷っていうかさ。でもね、それこそフツーの映画なら、彼がノートに記した名前なり経歴なりを、映画を観ている観客にも示すだろう。
でもそういうことは一切ないのだ。言ってしまえば、そんな“ヤボなこと”は一切、ない。客観的な恋人同士の様子を見せるだけで進んでいき、その結果として、観客は、彼女は知っているであろう彼の名前を知らないまま行き過ぎる。
でも……それが確信犯的行為だということが後に明らかになる。冬沙子がほんの十日間の記憶を失い、心配して駆けつけた遠距離恋愛の恋人からのプロポーズを受けてしまえば、もう彼の存在は最初からなかったぐらいになっちゃうんだもの。
でもそれぐらい、係累もいないのにこんな寂しい場所に一人ぽつんと働いている彼の経歴は明らかにされないのだ。だからこそ、あまりにあまりに、寒々しく、胸かきむしられるほどに切ない。女たちのかしましいほどの会話がアドリブよろしく展開されるだけに、余計に切ない。
それにさ、「段々に思い出しますよ」という医者の言葉どおり、恐らく冬沙子は段々に思い出していたから。
その“段々に”の演技こそが、女優、高岡早紀の真骨頂だった。それまでは遠距離恋愛の恋人からの連絡を待ち続けて携帯を開くのがクセになっていたような日々だけれど、記憶を失い、恋人からのプロポーズを受け、そして……彼女の携帯が鳴っても、彼女はそれを眺めるばかりで出ようとせず、無常にも切ってしまった。
最初のうちはその番号に覚えがなく、フシギそうな表情にも見えた。でも段々と、表情が変わってきたように見えた。切るまでにも、時間がかかった。
そして……恋人の暮らす札幌に引っ越すために車を走らせた彼女が、ある場所でふと車を止めた。そしてあの観覧車を遠く眺めやり、あの表情は、あの表情は……なんともいえない、などというカンタンな言葉で説明できるものではなかった。まさにこの時、女優、高岡早紀の真骨頂を見た。
そして何より、そのカットのすぐ後、ラストクレジットの直前、携帯など持っていなかったのか、公衆電話から冬沙子の携帯にかけているであろう彼の姿、また切られたのであろう彼が、嗚咽を抑えるかのようにぐうと開いてしまう口をかろうじて閉じて、を繰り返す横顔に、非常なるやるせなさをつきつけられて、心が爆発した。
この二人の類い稀なる役者の、“コトバのない”表情に完璧にヤラれてしまった。なんてなんて、なんてなんて、切ないんだ、切ないなんて言葉は弱すぎる。なぜ二人は……だって、これ以上なく、結ばれていたのに。
冬沙子の恋人が、華やかな音楽関係の仕事をしているってことと、彼女に長らく連絡をとらないまま、ケガをした時になって突然現われるってあたりがほおんと……なんともいえなかった。
それにさ、冬沙子が、短期間の記憶を失ったことを周囲の心配にむしろポカンとして「日常生活には別に支障はないんですよね?」とやたら繰り返すのも……それに対して医者も、段々と記憶は帰って来ますよ、とこちらも繰り返すのがね……。
医者を始めとしての周囲の杞憂に反し、彼女が、ほんの十日かそこらの記憶を失っていたからってどうだっていうの、と思っているらしいことが、それは確かに彼女の考え方の方がよほどポジティブである意味正しいんだけど……やりきれないのだ。
だってこの時点では、冬沙子との運命の出会いの記憶を知っているのは、あの彼しかいない。おそらく最後には冬沙子も思い出していたとしても、この短い期間の忘却は、まさかその間に運命的な出会いがあったとも知らず、「家族や、大切な遠方の恋人を忘れていないんだから」という理由で、冬沙子にとってはどうでもいいことになってしまったのだ……。
そしてそれは、彼との出会いを冬沙子が誰にも言っていなかったこと(それは彼もそうなんだけど)が裏目に出て、いや……この結末が運命なんだとしたら、それもまた必然だったのか。
本当にね、凄く静謐で、ストイックで、美しくて、やりきれなくて、胸をかきむしられるほどに切なくて……愛の切なさ、人生の無常さ、そしてその非常なまでの美しさを、見せ付けられた。
ブラックアウトのクレジットが出た時、ほおんとに心がジュンとしたなあ……。
そうそう、言い忘れたけれど、年のいった娘がようやく嫁に行くという段になって、一人になるお父さんが亡き妻との出会いを思い出しつつむせび泣き、「こんなお父さん初めて見た」と姉妹二人がやめてよ、と言いながらあたたかく父親を見守っていいるシーンもグッと来た。
こういう細かなシーンの繊細な気持ちの行き届きが、なんとも渡部氏のそれを現わしている気がしたんだなあ。★★★★☆
だけど、その新しさを手放すことを恐れたかのように、彼女と上手く行っちゃった有頂天ぶりを突然の街頭ミュージカルに仕立て上げてみたり、彼の“理想”と“現実”を二分割の画面で同時進行させてみたり、色々なことを試みてみたりする。
だからこそちょっと一貫していない印象も与えるんだよね。それにこういうの、これまでポップな映画によく使われていた手法でもあったし……。
そして最終的には、“実はあの場面、彼女はあんな反応をしていた、あんな表情をしていた”というのを提示し、彼との、いわば恋人ゴッコのなかで楽しそうにしていた彼女というのは、実は彼がそう思いたがっていた、というか、そういう目でしか見ていなかっただけで、決して彼女は楽しいばかりじゃなかったし、彼にアイソをつかす場面も多くあったことが観客に判るしくみになってる。
これってさ、なんかラショーモナイズだよね。ホント、映画の王道中の王道。でもそれを登場人物の主観で分けるのではなく、主人公の視点と、誰と特定しない客観的な視点とで分けているのが面白かったかもしれない。
そう、彼女の視点って感じじゃなくて、ハタから見たらそう見える、という視点なんだよね。それってさ、より彼にとってはキツイ現実なんだけど……でもそれが彼に突きつけられる訳ではなく、あくまで観客に提示されるだけ、というのも面白かったかもしれない。
もう一人の主人公、タイトルロールとなっているサマーが紹介されるくだりも、なかなかオシャレな感じに工夫されている。
オールドムービーの雰囲気で、モノクロのカクカクした映像で綴っていく手法は、一瞬、本当に古い映画なのかと錯覚しそうな上手い出来である。
そして中盤、彼、トムが映画館で妄想するサマーとの劇中映画の方が更に見事な出来で、劇中映画の形をとっているだけに、ホントにこんなオールドムービーあったかしらと思ってしまうぐらいなんである。
モノクロで紹介されるサマーは、まさに奇蹟の女の子なんである。彼女が口にしたものは大ヒットし、彼女がバイトした店は大繁盛。バスに乗り込めば誰もが振り返る。
確かに彼女はキュートな女の子ではあるけれど、絶世の美女という訳ではないのに、と、その現象は不思議なパワーのように言われている感じなんである。
モノクロ映像、しかもこんな浮き世離れしたエピソードで紹介される女の子、っていうのは、つまりはなんか……結局は彼にとっては現実の女の子ではなかったという含みがあるのかもしれないなあ、と思う。
現実ではないというのは適切じゃないだろうか……うーん、つまり……最初から運命の恋に固執するあまり、現実のサマーを見ようとしなかった、っていうかさ。
つまりこの物語はその一点に尽きるのであって、もしトムが彼女にゾッコンながらも彼女そのものをきちんと見ようとしていたら、本当に運命の恋になったかもしれない。
いや、でもサマーは運命の恋を信じていない女の子だったから。
いやいや、そうそう、ここが面白いところなんだけど、その価値感が最後に逆転するんだよね。
サマーは本当の愛なんか信じていなかった。運命の恋人なんてまさに笑止。でもそんなクールなサマーにトムは、酔った勢いも手伝って、まさに恋する男の潤んだ瞳で、君は間違っている、と言い募った。本当の愛に出会えば判ると。
トムが恋愛経験豊富とはとても思えないし(爆)、つまりこの時点で彼は、本当の愛に出会ったと思っちゃったんだろう。そんなトムにサマーは「あなた、面白いわね。私が好きなの?なら友達になりましょう」と言う。
そんな感じで付き合い始め、まあさまざまあり、トムは結局サマーに捨てられることになるんだけど、それがビックリ、サマーがほかの男と結婚することで、なんだよね。
あれほど運命の恋だの本当の愛だのを否定しまくっていたサマーが、一年も付き合って(彼女に言わせれば友達としてとはいえ)、それなりに深い仲になったトムではなく、その後出会った相手と“運命の恋”に落ちてしまうのだ。
そしてサマーにフラれて廃人のようになったトムは転職を決意、その面接会場で出会った女の子との出会いに「運命の恋なんてない。あるのは偶然だけだ」と、その偶然をガッチリ掴みにかかるんで有る。
……おっとっと、あっという間にラストまで突っ走っちゃったけど(爆)。
でもさ、この価値感の変遷が、つまりはこの物語のキモだったように思うなあ。
あのね、彼らが出会う職場ってのがまた、なかなかに効いてるんだよね。サマーは秘書として途中からの入社(なんとなく、バイト的)だったんだけど、トムはもうこの会社ではそれなりの地位を築いている訳。
その会社ってのが、グリーティングカードを作る会社。その設定自体かなりオリジナリティがあるというか……なんとなく、日本じゃ考え付かない気がする(いや、あるのかもしれないけど……ゴメン)。なんか、記念日好きのアメリカならではって気がするのよね。
トムはもともと建築関係に進みたかったのだけれど挫折して、この会社に就職した。しかし意外に文才があって(いや、意外じゃないかも……だってあれだけロマンチストなんだもん)、彼の作ったカードは売れ線で会社からも重宝されていた。
でも彼は最終的に、そんな着飾った言葉が“本当の愛”には何の役にも立たないことを実感することになるんである。
そうなんだよねー。恐らくトムは、カードの言葉で表現出来るような、甘くロマンティックな恋を夢見ていたに違いない。そんなんだから、サマーの見せていた本当の表情にだって気付いていなかったに違いない。
ザ・スミスが好きな同志だと知ってから、彼のそんな、恋は盲目ぶりはスタートしてしまった。
サマーがビートルズの中ではリンゴが好きだということを、「リンゴは人気がないから好きなの」という彼女の言葉を、その深い心理まで探ろうとせずに、むしろ、ほーら、キミの好きなリンゴだよ、という態度に示した。
それはレコード店をめぐるデートシーン、彼の中では恋人同士の甘いたわむれに過ぎなかったんだけど、後に示される“客観的視点”で、サマーはリンゴのレコードをからかい気味に掲げる彼にあからさまに顔をそむけ、店を出た後「今日はもう帰るわ」と言ったのだ。
彼の視点で綴られたエピソードでは、顔をそむける彼女は勿論、この台詞の場面もバッサリと切られている。
つまり……彼女にとっては重要な転機点であったこのエピソードが、彼の中ではほんの一シーンに過ぎなかったのだ。それが運命の恋に昇格できない決定的なコトだった。
とはいえね。サマーは割と、トムに深い心の内を見せたりもしているのだ。
自分の部屋に招き、ベッドに横になりながら、「こんな話をするのは初めて」とつぶやいた。それは恐らくウソじゃなかったと思う。
トムはそのことで、彼女との間の壁が低くなったと喜んだけれども……こういう話を出来るのが心を許した恋人とは限らない。夫となった暁にはそういう話もするかもしれないけど、むしろ恋人の時点ではしない気がする……彼のことは、“親友”だと思ったからじゃないの?
それはむしろ、恋人よりハイレベルな位置のようにも思うけど、そりゃあ、彼女に恋している彼にとっちゃたまらないわな……。
これはあくまで基本的に、トムの視点による物語。サマーにゾッコンだった時には、彼女の全てがステキに思えていたトムだけれど、彼女にソデにされてからは、愛らしいと思っていた胸元のハートのアザでさえ、ゴキブリみたいな形だと思っちゃう有り様(爆)。
しかもホントかウソか判らないけれども、恋人という形に縛られないサマーはジムで出会った“顔はブラピで身体はジーザス”な男とのファックを楽しんでいるというウワサで、トムはますます苦悩しちゃうんである。
サマーと一番上手くいっていた時、そう、あの、通行人を巻き込んで、皆とハグしてハイタッチした街頭ミュージカルの時には、鏡に映る自分がリチャード・ギアなぐらいアゲアゲだったのに(これには爆笑!)、もはや廃人同様なのだ。
トムが最後のチャンスを賭けた、サマーのアパートの屋上で催されたパーティー。ここで理想と現実の二分割画面が使われるんである。
で、そこでトムは彼女の左手の薬指に指輪を発見……完全に打ちのめされる。
このシーンでね、トムは……あれは理想と現実とどっちの場面だったか忘れたけど、こんな台詞を吐くのだ。
「建築は使い捨てられるけれど、カードは永遠に残る」と。
え、ええ?それって逆じゃないの……と思い、いや、カードをカードの言葉と置き換えれば、確かにそうかもとも思い……。
でもそれって、半永久的な建築を作れる自信のない自分を露呈しているんであり、ロマンチックな言葉に頼っている自分をも露呈しているんであり……もう弱り目にたたり目(爆)。
どっちの場面で言ってたんだっけ……どっちで言ってたとしてもキツイかもしれないなあ(爆)。
でもね、そんなトムも、ラストには運命の恋かもしれない相手と出会う。
でも彼はそれを、運命なんてない、偶然があるだけだ、と定義するんだけどね。
一方「あなたとは運命じゃなかった」ということを言うためだけに、思い出の場所でトムを待ち構えていたサマーは、つまり私は運命の相手と出会っちゃったのヨ、ということを言いたかった。
デリで「ドリアン・グレイの肖像」を読んでいた時声をかけてきて、その本の感想を聞いて来たのが今のダンナなのだと。つまりその10分前後ずれても、私は彼に出会わなかったと。
えー、でも判んないじゃん。このダンナはその時をネラってつけまわしていたのかもしれないし(爆)。
とか思うと……運命の恋など信じていなかったサマーこそが、実は究極にロマンチストだったのかもなあ、とも思うのよね。
そしてトムが出会う“偶然の相手”は、彼が大好きな、ニューヨークを見渡せる高台の場所で「見かけた覚えがある」という女性であり、しかしサマーとデート中であったであろう彼が、彼女が目に入っていた訳もなく(爆)。
まさにこの就職面接の場で顔を合わせたのは偶然に他ならないんだけど、この純粋な偶然こそが、まさに運命なのに、トムは「世の中に運命などない。偶然があるだけだ」と定義する。
でも、その偶然を運命にするために、彼女をお茶に誘うのだ。そして彼女の名は……「オータムよ」!!!
恋にウブなトムを支える、昔からの友人たちがイイ味。とはいってもヤローどもは、たった一人のステディと長―く付き合い続けていたり、フーゾクぐらいしかキョーミがなかったり、恋愛経験なんて全然なんすけど(爆)。
その中で一番頼りになるのが、たった小学生ぐらいの女の子だっていうのが(爆)。
しかしその子は、女の子がませているという以上のしっかりさ加減でさ、取り乱すトムに「まず話を聞かせて」と促し、「判るわ。私の元カレと一緒」と頷き、「そんなに落ち込まないで。私の友達たちは、みんなトムが好きよ」と励ます。
マセた女の子たちの色目に苦笑するトムに、そうよね、と同情の眼差しのアンタは大人すぎる!ていうか、いやー、女の子だよなー!
劇中、トムがサマーと好きなものの話で盛り上がる中に「バナナフィッシュ」という単語が出てきて、思わず吉田秋生のあの傑作コミックス??と思った私はやはりダメなヤツ。
サリンジャーの短篇にあって、そもそもがそれが吉田秋生の作品にもつながるってことで……そうか……。
いやあ、だってさ、サマーの部屋には折り鶴がぶら下がっていたり、お香チックな感じとか、さりげなく日本テイストが感じられる気がしたからさあ。
それもまたサリンジャーの嗜好からくるのか。しかも彼女の芸名はサリンジャーの作品にちなんでいるんだという。
サマー役のズーイー・デシャネルは正直、ちょっと濃い目な感じで、そんなミラクルな女の子っていうのが許容できない気がしたんだけど(爆)。
トム役のジョセフ・ゴードン=レヴィットはちょーっと萌えたなあ!超華奢で、もう信じられないほどのなで肩で(笑)、垂れ目で、草食系男子とはまさに彼のことだと(爆)。
だけどその彼が、立ち直れないぐらいの失恋の後、つまりサマーに鍛えられて、本当に目指したかった建築の道に進むべくスーツをビシッと着こなし(前の会社は学生みたいなラフな感じだったのよ)髪もオールバックにすると、……お、おおお!カッコイイではないか!こういうギャップはねー、ズルいよねー、ヤラレちゃうもん! ★★★☆☆
しかしそう、昆虫探偵……一体どっからこういう発想が出てくるんだろう……凄い。
昆虫の声が聞こえてしまう男が生業としている職業、それが昆虫探偵。つまり、顧客は昆虫たち。
彼ら?はワンルームのアパートのドアにあけてある小さな穴から彼、ヨシダヨシミに依頼しにくる。
「交尾したあとメスに食われるのがイヤだからメスに性転換したい」んだという、性欲マックスでもうギリギリのカマキリだの「初めての交尾で失敗したくないから」と恥ずかしげにモゾモゾと動き回り「テントウムシ専門の風俗ってないでしょうか」とムチャなこと言うテントウムシやら、ムリな依頼ばかりで、アシスタントのインコのピータンと犬のムギにはメイワクのかけっぱなしである。
本作は、昆虫たちはもちろん、このインコや犬のふかふかアップのかわゆさや、そこに当てられるクールな声のギャップの魅力があるよねー。でもそれってなんかソフトバンクのCMっぽいかも??(汗)。
個人的にはインコのピータン可愛さにやられてしまった。まさに駕籠の中の鳥で、その中から彼女は外に出ることはないんだけれど、頼りない主人とオシッコばっかりしている犬、ムギをビシッと監督しているのが彼女って感じ。
勿論、こんなカネにもならない依頼ばかりではなくて、ヨシダヨシミ探偵の登場シーンではちゃんとした?仕事も披露している。
夫の浮気現場をおさえるよう依頼したカブトムシのメス、その浮気現場、つまりは交尾の様子、メスに後ろからのしかかるアテレコが、バカバカしいほどにリアルに生々しいのが(汗)。
超接写にする部分がホントにソノ部分なのかすら素人には判断しかねるが、その超接写がやけにグロテスクで、それで「あ、やっぱりもうダメ、勃たない……」「サイテー!テクニックがいいからこんなオヤジと付き合ってやったのに!」という台詞が、だからこそ可笑しくて噴き出しちゃうんだよなー。
でもね、かわいそうなの、そのカブトムシの奥さんは。その現場を目の当たりにし、ヨシダヨシミの手の中で「心臓に持病があって」ということもあって哀れ寿命が尽きてしまう……。
コロリと動かなくなってしまったカブトムシに「奥さーん!……最期に見たのがダンナの浮気場面なんて哀しすぎるじゃないですか……」と悲しみにくれる哀川翔(笑)。奥さーん!て(大笑)。
しかしこれ……ホントに動物の、というか勿論タイトル通り、特に昆虫の細密な撮影が素晴らしいんだよなあ!てかちょっと、いや、ちょっとどころじゃない、かなーりグロテスクなほどに(爆)。
だってコオロギとかクワガタとか黒系の昆虫は、もう即座にゴキブリを思い出さずにはいられないもん(ヤダヤダ!)。
あ、そうそう、いきなり笑ったのは机に立ててある「現金不要のクワガタ払い」という立て札。何それ!クワガタ払いて!壁一面に書かれた「虫だもの」はちょっと相田みつを狙いすぎだと思ったけど、このクワガタ払いには笑ったなあ。
実際、冒頭の浮気現場を発見したシーンで、奥さんの情報提供によって供されてしまった何も知らぬ哀れなクワガタは、「悪いな、これはオレの報酬なんだ」とニンマリと笑ったヨシダヨシミによって昆虫ショップに売り飛ばされてしまうのであった。
なあるほど、こうやって現金を得ているってワケ!でもそれじゃ……クワガタの相談には乗れないのでは……だって、同胞を売ることになっちゃうじゃん(爆)。
ていうか、そもそもの始まりはこのヨシダヨシミじゃないのよね。いや、顔はソックリ、途中までは同一人物だと観客にも思わせていた田中刑事。
ヨシダヨシミが時々見上げる、青い空の中にぽっかりと浮かんだ、まるでガウディの作りかけの大聖堂のような、ぐしゃぐしゃに焼け焦げて鉄骨がむきだしになった新宿都庁。
冒頭は、ヨシダヨシミにソックリな田中刑事が、拳銃を持って知事室に押し入った男をとらえようと突撃した場面。
いや、更にさかのぼると……虫の声が聞こえてしまう田中刑事が、トイレの中で執拗に話しかけるタマムシにキレている場面。
そのタマムシは、どうやら世界を救うのは虫の声が聞こえる彼だけだと訴えているらしいのだが、勿論そんなことを信じるはずもない田中刑事は、極悪カブトムシによって精神をのっとられた知事を抑えることが出来ず、都庁のみならず新宿一体が大爆発、30万人もの人間が犠牲になったのであった。
田中刑事は一目散に逃げてロッカーに閉じこもり、難を逃れた(あれだけで助かるっつーのも……)。
そして「お前のせいだ」と言い募るタマムシに、「俺のせいじゃねーっ!!」と絶叫する。これがねー、この「ねーっ!」ていう発音のマヌケさがなんともさ、事態の深刻さとのギャップが可笑しくてつい笑っちゃうのだ。いや、笑い事じゃないんだけど……。
そして、この時、もうこんな具合に大否定した田中刑事、しかも虫の声が聞こえるという信じられない共通点まであって顔かたちがソックリだったら、そりゃー、ヨシダヨシミがこんなヒドイことがあって自ら記憶を封印してしまった田中刑事だと周囲が思い込んでもムリはないわな。
それも鋭い感覚を持つハズの虫であるタマムシまでもが、スッカリ人違いしちゃったんだから。
までもが、てことは、つまり人間側にもいるのね、人違いした人が。田中刑事の婚約者だった女刑事、小名浜マリ。
演じるは小山田サユリ。いやー……彼女、メッチャ久しぶりに見た!え?映画作品出てた?ホントに?私が観る機会がなかっただけかなあ……。ちょっと頬はこけたけど、顔立ちもトレードマークであるサラサラのショートボブもそのまま!
ヨシダ探偵社を訪ねてきた最初、白の半袖シャツにネクタイ、ミニのチェックのプリーツにニーハイという、どー見ても女子高生だろ、って姿で現われたので、いやいやいや、見えなくはないけどさすがにさ!と思ったら、制服風に見えただけで、ただの私服だったんですか(爆)。や、ややこし……。
素性を明かさずにヨシダ探偵社に乗り込み、テキトーに書いたカメムシみたいな絵で「こんな顔の人を探してほしいんです。いや、人の顔をした虫です」とまくしたてる。
勿論、彼女が探していたのはカメムシなんぞではなく、こんなヒドイ言い方をしたってことはつまり……それだけ愛憎深い相手、恋人の田中刑事だったんであった。
ヨシダヨシミが依頼コオロギの恋したコオロギを探して他人様の庭に入り込み、コオロギと鳴き落とし競争をしているところを警察に通報され、そこでこの彼女と再会した。
まー、ミニスカポリスの女刑事版っすか?(いや、ただ単に、ミニスカの女刑事でいいだろ……)、黒のミニスカスーツにビシッと身を包んで、自分のことをちっとも思い出してくれない田中刑事に(そりゃ別人だから)、足を組かえ、机の上に仁王立ちになり、もったいのうほどに美脚を披露してくれる小山田サユリに久しぶりに萌え萌え。
しかし彼女……ホント見なかったよなあ。一時は出まくりで、日本映画界をしょって立つ映画女優ぐらいの勢いがあったのに、ピタリと止まった気がする。「オー・ド・ヴィ」でヌードを出したのが辛かったという話も聞いたが……。
まあそれはそれで。勿論彼女は、虫の声が聞こえるなんて話を信じてないし、何より愛する恋人の田中刑事だと信じて疑わない訳。だから、キョトンとするばかりの、しかも人がニガテで目を合わせられないヨシダヨシミに「私がイヤになったのね!」とただただがなりたてるばかりなんである。
当のヨシダヨシミの方も、彼女の勢いと、しかもあのタマムシまで登場して「お前は田中刑事だ」と断定され、爆発事件のフラッシュバックなぞ見せられるもんだから、その中にいる自分ソックリな田中刑事を自分自身だと思い込むところまで追いつめられてしまう。
でも、やはりそこは、この一途な女刑事にクラリときてしまったところもあるだろうなあ。自分は田中刑事と妄想して、彼女のことをマリと呼び捨てにしちゃうぐらいだし。
それにさ……ヨシダヨシミはタマムシから今度は世界が滅びると脅されて、クワガタを売り飛ばすなじみの昆虫ショップのオヤジさんから拳銃を入手するんだよね。
この昆虫ショップのオヤジさん、「今はカタギなんだから、こんなことさせるなよ」みたいなこと言ってさ、つまり、元は非カタギだったってことでしょ!そんなつながりまであったらそりゃあ、ヨシダヨシミはきっと田中刑事に違いない!と思うじゃん。
でも、そうじゃなかった。それにそれは、判りやすく中盤で示されている。
“最近流行りの”虫を食べる(!!)男をヨシダヨシミは見かけて、声をかけた。帽子を深くかぶってサングラスのその男は、彼を見て驚愕したように即座に逃げ去ってしまった。
この時点で、ああこりゃあ、ソックリさんがいるんだなと思ったけれど、あんな結構、シリアスな展開になるとは思わなかったなあ……。
世界の滅亡を企てる悪クワガタが、近々総裁の座につきそうな若き政治家を狙っていると、タマムシがヨシダヨシミに進言してきたんであった。彼を殺さなければ、世界が滅びると。
なぜクワガタの方を殺さず、人間を殺すんだとヨシダヨシミが問うと、クワガタを狙い撃ちするのは難しいからな、とタマムシ。人間の命を随分軽視しているんだなと揶揄するとタマムシはアッサリ、人間の方が虫の命を軽視している、と返す。
まあそりゃ、まあそりゃ、そうだ……。これってね、極端な話に見えそうにはなるけど、でも結局、そういうことかも……って思わされちゃう。ヨシダヨシミが救う“レイプされて身籠ったトンボ”だの、“寄生虫にとりつかれて、運悪ければ死んでしまうセミ”だのいるんだけど、まずその寄生虫は、フンフンと話を聞いていたヨシダヨシミのアシスタントの犬、ムギの鼻息に吸い込まれちゃうし(!)、トンボもセミもヨシダヨシミはそのアイデンティティを尊重して助けながらも「一生忘れませんっていっても、せいぜい2週間だから」などとごちたりして、そう、結構クールなんだよなあ……。
しっかしトンボに「私、レイプされたんです。こんな誰の子とも判らない子供……」とつぶやかれるのは結構衝撃だったなあ……。コミックスの画で再現された“レイプ”(ま、つまり交尾)の「ええではないか、ええではないか」が、生々しくてさあ……。いや、それは勿論、昆虫的グロテスク的、生々しさなのよ(あー、なんか、言い辛いっ!)。
最終的にはその田中刑事が、世界を滅ぼすつもりだった悪クワガタと、そいつと戦ったヘラクレスカブトムシと彼?を雇ったあのタマムシがお腹の中に入った、総理大臣候補の若き政治家を撃ち殺し、その前になんかムツゴロウさんみたいな研究者にとりついていたもんだからこっちも死んじゃったりして、なんかホントに、最終的にはかなり人が死んじゃったなと。
だって政治家(てか悪クワガタ)と相打ちになって田中刑事も死んじゃったんだもの……。ここでようやく(まあ、ムリないけど)、マリは自分の愛する田中刑事はヨシダヨシミではなかったことを知る。
マリは涙にくれ、ヨシダヨシミはようやく作り上げた妄想の自分をアッサリ突き崩されて呆然とする。しかし、つまりは元の自分に戻るだけである。そう、悩める昆虫たちを失望させた閉室を撤回し、また探偵社は復活した。
なんたってソックリだったんだから、ちょっとは擬似感情もあったかもしれない……と思わせる、公園で子供用の回転遊具に興じるヨシダヨシミとマリは、ちょっと切なかった。
ヨシダヨシミが自分は田中刑事かもしれないと思い込まされて、彼女に言った「愛していた」という台詞を、彼女は確認しようとするけれども、彼はさえぎる。仕事がありますからと。
「罪を憎んで虫を憎まず」って台詞が、良かったなあ(笑)。いや、(笑)じゃなくさ、本質をついてるよ、実際!
インコのピータンにバカにされっぱなしの犬のムギが、ワンワンと吠える声に台詞をアテレコしている場面、思いっきり机にムギのよだれが飛んだのが、これ、突っ込むかと思ったらそのままだったのね(爆)。
いやあ……実はさ、この監督さん、「東京ゾンビ」があまりにもダメだったので、今回このクレジットを見てちょっと躊躇したのは否めなかったんだけれど……。このワンちゃんのよだれをスルーした以外は(爆)、なんか素直に楽しめたかも。
ところでさ……哀川翔、妙にカツゼツがいつも以上に悪い感じがして気になっちゃったけど……どっか体の調子が悪い訳じゃないよね??
エンディングクレジットでアニキが自ら歌うテーマソングがいい歌。欲しい(爆)。久々に彼の歌声を聞いたけど、台詞言う時より明瞭でステキかも(爆爆)。
ていうかさ!やっぱり“もう一人の哀川翔”つまり田中刑事、つまり虫食い男、は、別人だったんだね!水元氏、イヤー、微妙にソックリで、微妙に全然違う!
え?それともあの虫食ってる場面だけじゃないよね?いや、違う!?判んないーい!スチール写真でも哀川翔と絶妙にかぶってるんだもん!★★★☆☆
確かに、その期待に応えるだけの布陣ではある。豊川悦司に薬師丸ひろ子。恐らく初顔合わせだと思うけれど、キャリアも実力もオーラも充分の二人が、平凡な一夫婦に扮して、夫婦の愛とはなんぞや、を問い掛ける、というのも、彼らにとってもチャレンジだったのかもしれない。
ことに薬師丸氏は、ここのところお母さん役として、滋味溢れる存在感は発揮しつつもバイプレーヤーに徹しつつあったから、久しぶりの彼女メイン(両翼の一つとはいえ)なのがなんだか嬉しく、長らくメインを張ってきた彼女は、やはり見応えがある女優さんだなあと思うんである。
その点、ぐーたら夫を演じるトヨエツは、コレまでも柔らかな役柄はあったにしても、見た目イイ男の彼がここまでダメ男に落ちているのは初めて見る気がするなあ、と思う。
彼は、特に前半、奥さんに見限られるのには十分な、ほんっとうに腹がたつ、無神経な、男なんだよね。後半、彼はそれを本当に悔いることになるんだけど……でも、ほんっとうに、こんな男とはさっさと別れた方がイイ!って思う男なんだよね。
トヨエツ氏がそんな、まあ言ってみれば、女に理解のない男を演じているのは初めて観たから……彼に対して拒否反応を示すなんていうのも初めてだったから、それもまた新鮮だったかなあと思う。
でもね、それこそ前半は……なんか結構私、ウンザリしていたかもしれない(爆)。なんか……すんごい古めかしい、ドタバタ喜劇の一幕モノでも見せられている感じがしたんだもの。
奥さんが旅行に出る日、すわこれはチャンスだと、若い女の子をウワキせんと引き入れて「去年、奥さんが死んだ」などという“見え透いた”ウソをついて同情を誘って押し倒す。そんなことしなくても、有名カメラマンの彼に撮ってもらいたくて自分から身をすりよせてきたコだったのにさ、「やっぱりムードが大事だよな」なんて言っちゃって。
しかしそこへ出かけた筈の奥さんが何度も戻ってきて、サイフを忘れたっていうのはまだしも、「爪を切り忘れた」なんて有り得ない理由で悠長に足の爪など切っちゃって、「あのセンスのない靴をはいている女、ダレよ!。この10年、あなた10人とウワキしてるのよ!」と見るに耐えない夫婦ゲンカ。
……そう、殊更にコミカルに展開させる前半戦、私はウンザリしちゃったんだけど……あとから考えると、これはホントに、ワザとらしいほどのウンザリさ加減、なんだよね。ていうか、ワザと、なんだよね。
まさに、ヘタな演出をワザとしてみせた、ぐらいにさえ思っちゃう。前半に散々ウンザリさせておいて、しかしその中には、一から十まで計算された伏線がびっしりと張られていたのだった。
彼が冗談ぽく言う、というか冗談にしか聞こえない(だってこの時点ではさすがに、奥さんがホントに死んでるなんて思わないから)「一年前、妻が死んだ」という台詞、女の子を口説くために出してきたという呈を完璧に成立させているから、まさかそれがホントとは思わない。
そしてこの時点で奥さんが着ている服、その後出ていっては戻ってくるを繰り返しする彼女が、いつもそのカッコでいることに、この時点で気づくハズもなく……。しかし気をつけていれば微妙におかしいと思う部分はあったんだよね。
それはゴミ溜めのようなリビングを、旅行に出かける前の彼女が「少しは片付けなよ」と呆れ気味に言った場面。
彼の「お前が片付ければいいだろ」という台詞に、彼女ならずともカチンときてしまい(いや、それこそ後から考えれば、彼女がカチンときたのは……違う理由なんだけど)、自分で散らかしたくせに、男ってヤツは、などと思ってしまうんだけど、ここが彼の仕事部屋とかだったらいざ知らず、リビングなんだし、しかもこの散らかりようが一日やそこらのものではないことが明らかなのを考えると、彼の言い様がいかに理不尽とはいえ、家庭の主婦であった彼女がここまでほったらかしにしているのはおかしいんだよね。
でも、ホント、そんな疑問を持ちそうになると、ひらりと違う感情に誘導されてしまう、のは、確かに上手いんだよなあ。
でもやっぱり正直、このシークエンスでは拒否反応が続いていた。引き入れたモデルの女の子に対する軽薄な態度や、そのコのヒステリックな態度(は、割と最後まで……)にヘキエキしていた。
そうそう、彼は有名カメラマン、なのよね。でも一年も仕事をしていない。
それを彼は女の子の口説き文句に冗談めかして、奥さんが死んで以来仕事が手につかないんだと言った。
よもやそれが本当とは受け取れない観客にとっては、彼が単にぐーたらな気質で、ぐーたらなクセに仕事を選んで、それが奥さんにアイソをつかされた原因だと、見事に思い込まされていた、のだ。
でも、彼が奥さんと永の別れを言い渡された時、示されていたのは別の理由だった。
そのぐーたらぶりと並行して示されていた奥さんに対する彼の態度は……そう、女なら、ぐーたらな男でもそれだけなら、愛しているなら、私が支えてあげると思える。でも、彼の言動は「そんなつもりはなかった」では済まされないものだったのだ。
旅行先で一緒に出掛けようと言っても渋り、星がキレイだよと言ってチューして起こそうとするとベッドから突き落とされ、……いや、そんなことはそれこそ、コント的な、他愛ないことだったのかもしれない。
私的に一番グサッときたのは、身体にいいからと彼のために用意した料理を「オレは健康に興味ないから。お前にオレの健康、関係ないじゃん」と言われ「私、関係ないんだ……」と涙ぐむシーン。
でもね、このシーンは……似たようなやりとりは、それこそ前半のシーンで行われていたんだけど、この決定的な台詞は、彼が彼女に死なれたことを観客も認識した時点で披露されるんだよね。
それってつまり……「彼女はそれぐらい傷ついていた」っていう出し方なんだけど、そんなの前半でとっくに女はイラッと来てて、こんなダンナとはさっさと別れろ!って心の中で叫んでたっての。
でもさ、多分世間的には、こんな理由で離婚なんかするのか、と思われるんだろうし、恐らく男の方はこんな風に殊更にご説明申し上げなければ、女がどんなに傷ついているかなんてことも判らないのだろう。それこそ“こんな理由”としか思っていないのだ。
正直ね、後半、もうオチもすっかり披露されて、彼女の一周忌を迎えて、彼が心底悔いて、後はただただ奥さんへの思慕を言い募るようになるとさ、なんかそれで薄められちゃった気が強くしちゃうんだよなあ。
だってさそれこそ「もっと優しくすればよかった」の一点で済まされちゃたまらないって思うんだもん。
まあそこは……「俊ちゃん、私がそんなに好きだったんだ。生きているうちに言ってほしかった」と泣き笑いの顔で彼と抱き締め合う薬師丸氏の圧倒的な演技で、すっかり押し流されちゃうんだけどさあ……。
なんかね、これで泣く訳にはいかない、泣くもんかと、まぶたの奥にあったかもしれない涙を一滴も漏らさずにいられたのは、その強い疑念が拭い去れなかったからだと思う。この涙腺ユルユルの女が(爆)。
それにね、もう一つ、ちょっとしたオチである、彼につきまとっている老オカマさんが、実は彼女のお父さんだったというのも、……「自分の意思を貫くために家族を傷つけた男」同士の……言っちゃ悪いけど、傷の舐めあい、みたいに感じちゃったんだもの。
それにかなり納得いかなかったのは、女の気持ちを持っているハズのこのオカマさんが、中絶費用のない蘭子にお金を用立てた、ことなんである。
いや……女にも色々あるにしても、結局は蘭子は赤ちゃんを殺すことが出来ずにそのままこのお金を彼?に返した訳だし。
それに、女として生きることを決意して、しかも人の親ならば、赤ちゃんを殺す費用をすんなり蘭子に渡すなんてあんまりだと思っちゃったんだもん……。
彼?はつまり、蘭子が夢を叶える生き方の方を推したということで、それはつまり……女として生きる人生を選択した彼自身を正当化する行為だったんじゃないの?家族を傷つけるどころじゃない、一つの命を吹き消してしまうことなのに……。
勿論、実際に命がお腹に宿るという点で、女は夢ややりたいことを諦めなければいけない度数は男と比べ物にならないほどで、その点ほおんとに不公平だと思うけど……でもそれと、赤ちゃんの命は別だもの。
いくらそれが、もう別れた元カレとの子だとしても……しかも今の蘭子には、それも全部承知で受け止めてくれる誠がいるじゃないか!
……まあね、正直、この誠の存在こそ、かなりのご都合主義だとも感じたんだけれど。
しかも蘭子のキャラが、もう私は凄い……ヒステリックな声が耳につんざいちゃってダメだったのよね。水川あさみ嬢は結構好きな女優さんだけに……。いくら文さん(奥さんの父親であるあのオカマさんね)が彼女とケンケンゴウゴウやりながらも、私あのコ、結構好きヨと言ったって、えー?どのへんがですかア?などと思っちゃって……。
でも、そうそう、誠を演じる濱田氏がね、中村義洋監督作品でよく見る彼だったけど、その中村作品がずっとアレだったもんだから(爆)、ようやくイイと思ったのがこの間の「鴨川ホルモー」で、本作でようやくホンットに、イイじゃん、と思った。
すらりと背の高い水川嬢に比して、ちんまりと小柄なのがまた可愛くて、北見(あ、トヨエツね)の家族写真に憧れて彼の元にずっとついて見守っているというのも、彼の写真への、そして生来気質の純粋さを感じてキュンとくるんであった。
実は蘭子と初めての時にイッてなかったのに、彼女から子供が出来たから金を貸してくれと言われて真摯に受け止めちゃう彼は……いーや!こんな、それこそ女にとって都合のいい良き男子はいないって!……都合のいい女、都合のいい男が跋扈しすぎだよ、もう……。
観客に、妻さくらが実はもう死んでいるんだということが示されるのは、彼女が夫に「好きな人が出来た」と離婚を突きつけ、出て行く日、だった。
離婚記念に写真を撮ってよ。前はよく撮ってくれたじゃない。被写体に興味があればあるほど、沢山撮りたくなるんだって、と彼女はイタズラっぽく微笑んで彼にカメラを差し出した。
「いいよ、その笑顔だ」「もっとオレを見つめて」そして彼女の頬にそっと手を触れた……。
でもその写真は、ひとつも彼女の姿を映していなかった。彼の手が虚しく空間に伸びているだけ。ただ……そのカメラの中に残されていた一枚の写真、それが彼女を捕らえた最後の写真だったんである。
沖縄旅行。その中で切り出された別れ。冒頭、サイレント映画のようにコミカルに差し出された、彼女に対してあまりにつれない彼の仕打ちは、彼の想像以上に彼女の心をえぐり、別れを決意させた。
「離婚記念に最後に写真を撮ってよ」というところまでは同じだった。そんな台詞を言っているとは思えない明るい彼女の表情も同じだった。
でも……実際にその写真を撮ることは出来なかった。彼が何か暗示を感じたのか、指輪を忘れたとホテルに走り戻る彼女の後ろ姿にシャッターを切った、それが最後だったのだ。
一周忌を迎えたクリスマス、奥さんの死に触れようとせず、殊更にクリスマスをはしゃごうとする北見に、誠と文さんはさすがに激昂、そこに蘭子が乱入し、辛い時に辛い表情をしてなければいけないの?とやり返し、さらに事態をまぜっかえす。
誠が文さんに頼まれて、北見を見守る役目を月20万で引き受けていたことを知り、「お前は雇われていたのか……」と更に泥沼状態に。
そりゃそうだ、仕事をしないカメラマンの助手になってたって、北見は勿論、誠ちゃんだって食えやしない。それでなくたってスーパーのチラシ写真の仕事などをこなしていたのに……。
誠と蘭子はなんとか収束を迎えたけれど、北見は文さんに「お前が孤独なんだろ!妻と子供を傷つけて……」云々と(メロドラマっぽすぎて忘れた(爆))叩きつけて頬をはたかれ、ついに一人になってしまった。
そこへ、いつも彼の目には見えていた妻のさくらが、今度こそ最後の登場とあいなる。そしてあの「もっと優しくすれば良かった」という台詞が吐かれ、彼女ときつい抱擁を交わし……そして彼女とついに永遠の別れを告げる。
文さんが買ってきてくれたクリスマスケーキに「あの子、いつもやっていたでしょ。誕生日でもないのに」とローソクに火をともす。
文さんは先に、三人が引き合わされた居酒屋に足を運んでいる。北見は、今度はきっとまぼろしの、うっすらと透けた愛する妻が、ローソクを吹き消す彼をいとおしげに眺めている姿を目にしている。そして……ローソクが吹き消されると、彼女の姿も、今度こそ永遠に消えた。
この場面、ローソクの火を点すとぼおっと現われる彼女の姿が、かなり怖かったんですけど(爆)。
なんか、そんなこんなで、いろんな意味で、好きになりきれない映画だった、かも。やっぱり結婚ってすべきかどうかなんてことを、考えちゃうなあ。
なんかホント最近、考えちゃうのよ。ウチの店の常連さんの若旦那がさ、奥さんと別れて、それ以来もうヨレヨレで、頬とかもこけちゃって、それでも「洗濯も炊事も頑張ってやってますよ」なんて殊勝に言ってさ。
一瞬、カワイソウなどとも思ったけど、その一瞬後には、じゃあ奥さんって、洗濯や炊事をやるための存在なのかなあ、それって女中じゃん、結婚って何のためにするのかなあ、とか思っちゃったりしてさ……。
うっ、なんか私、フェミニストみたいじゃん!ヤだヤだ! ★★★☆☆