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STOP/
STOP
2017年 82分 韓国・日本 カラー
監督:キム・ギドク 脚本:キム・ギドク
撮影:キム・ギドク 音楽:
出演:中江翼 堀夏子 武田裕光 田代大悟 藤野大輝 合アレン 菅野圭 諸星敦 中野貴生 三ノ輪健太郎 猪股俊明 石松太一 林雄大 島田一斗 香具青汰 加藤蒼渉 宇野正剛
キム・ギドクは“日本に友人が沢山いる”んだという。この映画の製作が可能になったのも、それ故かもしれない。でも、ホントだろうか。ホントに日本に友人が沢山いるの??
ツッコミどころというか……凄く違和感モヤモヤ。こんなの日本じゃないよと言いたくなる。少なくともあの時の日本や日本人じゃないと思ってしまうのは、内側にいるオゴリなのだろうか??
主人公は若い夫婦である。夫は写真家と思しき。福島の原発にほど近い場所で二人暮らし。奇妙なまでにたった二人きりの雰囲気。ご近所さんとか、親兄弟とか、そうした匂いがまるでしない。
もうその最初からそうだったのかもしれない。これはあくまで震災フィクション、原発フィクションなのだと。観ている間中、ずっとそんな感覚がしていた。例えば、そう、近未来SFみたいに、設定を震災や原発事故に借りた、“社会派フィクション”。
地震が起こって、原発方向から煙が出て、彼らは怯えるけれど、その情報源は奇妙なまでに少ない。しばらくは大丈夫大丈夫と言って写真を撮ったり、野菜を採ったり。
するとそこに防護服の人たちが慌てた様子で避難を促してくる。何があったんですか、何か問題があるんですか、と二人は問うものの、明確な答えは得られない。そして彼らは東京へと避難してくるんである。
???
この後、彼らは何度も故郷の福島と東京を列車ですんなりと行ったり来たりするのだが、あの当時そんなことは出来なかった筈なのだ。
勿論、これはドキュメンタリーじゃないんだから、自由に作っていい劇映画なのだからと思うけれど、だからこそ先述した“設定を借りたフィクション”作家性を示すことが出来るエンタテインメント、などといった感覚が何度も頭をかすめてしまう。
正直、この映画にあの震災当時の日本をカケラも感じることはなかった。それはもちろん、私たちが中にいたから。客観的な視点を持ち得なかったからということは判っている。でも、明らかに違う状況や事実を使われると、それは崩れてしまうんじゃない?やっぱり。
東京に避難してきて、あっさり部屋借りて。不動産屋さんが一瞬も出てこないとかも日本の感覚ではあり得ないなあ。
ほどなくして意味ありげな男が接触してくる。妻の妊娠の事実を知って携帯に電話をかけてきた。二人は動揺する。なぜそんなことを知ってるんですか、あなた何者なんですか、政府の人ですか??てな感じで。
一番の違和感は、この二人の異様なまでの取り乱し加減、かなあ。確かに“外”から見れば、こんな未曽有の大災害、そして原発事故という恐怖が起こればこんな風に取り乱すでしょ、と思うのかもしれない。
てゆーか、これってなんとなく韓国人的感情表現のような気がする(爆)。中盤出てくるキーマンとなる、奇形児を産む狂気の女なんか特にそんな感じ。
いや、それも、全くの劇映画、エンタテインメント映画なら、日本人だっていくらだって狂っているが(爆)、特にあの震災の時に感じたのは、それこそちょっと異様なぐらい、日本人って落ち着いているよね、ということだったのだ。そりゃ心の中では様々なことが渦巻いてる。尋常でいられるわけではないけれど、それを表に出せない国民性というのがやっぱりあって。
これがあくまで現実に起こった震災、原発事故をモティーフにした、フィクションと言えど社会派映画というスタンスだと、そういう決定的な、根源的な違和感がどうしても気にならずにはいられない。
だからこそ、これは、作家がこの設定を得てクリエイティブに作り上げた娯楽作品のように思えちゃうのだ。
政府の人間が、放射能を浴びた妊婦に堕胎を迫るだなんて、その最たるもの。そういう発想って確かに映画的というか……まさかそんな事実を取材した訳じゃ、ないでしょ??そう思うのも、情報操作された内側にいる日本人、ということなのかなあ……。
いやいや、これは、やっぱり完全に、韓国だったらそういうことするんじゃないの、という風に見えてしまう。現実的な感覚が、全然、感じられない。
まあそりゃさ、判るよ。原発事故によって奇形児が生まれたら対外的に困る、みたいな発想はさ。でもあの時、原発に関しては国と東電との責任のなすりあいだったし、放射能=奇形児というのはそれこそSF的発想で、奇形児ではなく産まれたその後に生じる障害を案じて、様々に論じられていた訳でさ。
確信も何もなく、政府が秘密裏に堕胎させるなんて、そりゃフィクションとしては面白いかもしれないけど、この実際に起こった災害に対してそんな作劇を簡単にしてほしくない。
ちょっと言いたいのは……やはり日本は広島、長崎があり、きっとその時にもそんな言われ方をして、偏見をされて、でもそれは、決して実際の、事実をちゃんと見ていた訳じゃないでしょ??
奇形児が産まれるとかも、そりゃ判るけどさ、そんな風に思うのは。でもあまりに単純な思い込みであり、生まれ来る赤ちゃん、そして育っていく子供たちを支えるのが我ら大人たちの仕事じゃないの……ということを、ラストには示しているのかもしれないけど……。
チェルノブイリが再三引き合いに出されるのにも、判るけど、仕方ないけど、かなりの違和感を感じるんである。
それもね、夫の方に「チェルノブイリとは違う。ここは日本なんだから。日本は安全なんだから」と何度も言わせる。凄く、皮肉を感じるし、確かにそれは、私たち日本人が盲信していたところではあると思う。
フクシマの原発事故は、確かに、確かに、時を経て忘れていいことではない未曽有の大事故であり、今後注意深く環境への影響を見守っていかなければいけないことは確かである。
でも、チェルノブイリとは違う。それは、日本の技術だから安全とかじゃなくって、そうじゃなくて、広島や長崎、東海の事故、それぞれが状況や規模やその後の対応や、全て千差万別だということなのだ。
凄くね、イヤな気持ちがしたのだ。チェルノブイリとは違う、日本なんだから、と日本人が差別的に思っている、みたいに聞こえちゃってさ。キム・ギドク、私たちは広島、長崎を経験した国なんだよ。確かにそれを経験したのに原発を安全だとか思っちゃったのは、それこそ政府の意識誘導だったかもしれない。でもそれこそあの事故一発で、私たちはそのことに気づいた、ようやくかもしれないけど。
原発再稼働に信じられない!とかいうラストに、フクシマは廃炉決定してるし、その他もいくつもその予定だし、国民みんなが原発NOと言っている。決して時を経て忘れてなんかいない。そんな事実を確認しないうちに勝手に言わないでほしいとホントに思っちゃう。
“汚染肉”を東京の串焼き屋に売りさばいている男のエピソードとか、いやいやないだろ、交通費だけで赤字じゃん、だからそもそも震災直後は交通網も遮断されてたのに、となんともモヤモヤが満載。
妻は奇形児が生まれ来ることに怯え、堕胎をしたがるところを夫がムリヤリ押さえつける。しかしその後、狂気の妊婦が実際に奇形児を産んだところをフクシマで目撃した夫はすっかり怖気づき妻に堕胎を迫るも、なぜか逆に根性が座ってしまった妻は、私はすべてを受け入れる!と宣言してフクシマへ帰っていくんである。
……夫が妻を縛り上げてフクシマへ写真を撮りに行くシークエンスにしても、妻が帰るそれにしても、先述したようにあっさりと列車に乗るし、立ち入り禁止の制止をムリヤリ乗り越えちゃうのがそのまま通っちゃうとか、あ、ありえないんですけど、という描写が満載で、なんか困っちゃう。
大体、電気や水道も断たれたままでしょ、庭の野菜サラダだけでどうすんの、火を起こしている訳でもないしさ……(まさか!)。そーゆーあれこれが、“震災フィクション”と思ってしまうゆえんなのよ。まるで現実味がない。そしてその最たるものが……。
妻に去られた夫、今度は彼が狂気に陥る。こんなことになったのは、電気のせいだと吠えまくる。東京のムダな電気を消すべきだ、消してやる、送電線を断ち切ってやる!!とまで行っちゃう。
彼が大都会のど真ん中で、照明がギラギラしているまさにザ・東京、というところで、電気を消せー!!とか叫び、明らかにムダムダなパチンコ屋の照明を消せと食ってかかる。街ゆく人々はまるで震災なんてなかったもんだという顔で歩いているのも彼のカンに触るのだろう、大それた行為を決行してしまうのは。
でも、この物語の進行具合、時間の展開を考えると、東京や近郊で強制停電や節電が行われた時期で、いつもはキンキラキンに明るい大都会が、まるで異世界のように不思議な暗闇に落ちた。
今でもあの時のことを思い出すと、フクシマの電気を使わせてもらってこんな事故になって、今少しでもこの事態に協力しなきゃという東京近辺全体の想いが充満していた。鎮魂の想いがあった。
こんな風に、まるで気にしてない、カネ払ってるんだから文句ねえだろ、という意識は、少なくともこの原発事故の後の東京には、絶対になかったのだ。だから本当に、この描写は悲しく悔しく、いくらフィクションとして自由だからって、そりゃないよと言いたくなるのだ。
んで、彼は汚染肉を売っていた男と共に、東京に電気を送っている鉄塔を電ノコで切り倒すという所業に出る。マジか、ギャグじゃないの?ギャグにしか見えない……途中疲れてビールとか飲みだすし(爆)。
彼はさ、凄く単純に、大都会の照明のハデさに憤って、こんな電気はいらねえだろと言い、男にたしなめられる。照明じゃなく、一番使っているのはあのひっきりなしに走っている電車だと。
……それだけかよ。しかも君たちその電車に乗って福島に何度も行ってるじゃねえかよ。まあそれだけじゃなく、今の日本の発展は電気を使った様々な輸出品にもあり、みたいなもっともらしい話もされ、しかし男はそんなことは原発事故の恐怖に変えられないといい、東京の電気を遮断する決意を固める訳。
あほか、と思う。こんなことをキム・ギドクがいくら作劇のためとはいえ決行してしまうことを本当に悲しく思う。24時間呼吸器を外せない人や、緊急手術をしている人や、そんな切羽詰まった人たちだけでなくても、どんな状況でも必死に仕事をして、その誰もが、震災に遭った人たちに鎮魂の祈りを捧げているんじゃない。こんなのないよ、こんなやり方ない。
正直、東京の電気を遮断するというシークエンスに至って、電気のせいだ、電気のせいだという台詞自体が教科書通りって感じでリアルに迫った感じが感じられなくて、なんか聞いてられなかったのも、痛かった。
あれだけ産む産まないでもめてたのに、いきなり7年後に飛んで、無事可愛い男の子が育っている。しかし彼は通常の何千倍の大きさで音が聞こえるバリアを抱えていて、耳栓にテープに耳当てにヘッドフォンという何重もの処置をして学校に通っている。
しかし心無い同級生たちが、ヘッドフォンをとりあげ、大きな声や甲高い縦笛を鳴らしてイジメる。そこに両親が駆けつけてくる。我が息子を抱き寄せる。耳をきっちり閉じさせて、守る。
これは、どういう暗示なのだろう。子供たちのイジメは確かにヒドイが、そのことじゃないだろう。外の騒音を、聞いてしまってはいけないということなのか。
正直、こんな映画は作ってほしくなかった。確かに未曽有の事態だった。でもその設定を映画の舞台にして、誰も助けられない狂気の世界にするなんて。
そうならないように必死に必死に、あの時の日本は頑張ってきたのにさあ!もちろん心無い人たちもいたけど、それに対しても闘ってきたのにさあ!
全世界の問題だというスタンスならいいけれど、実際監督自身もそう発言はしているけれど、そんな雰囲気は感じられない。
日本が大変なことを犯して、その深刻さに気付いていないだろバーカみたいに感じる。それはその通りなのかもしれないけれども……。★☆☆☆☆
物語としては、たった一日なのだ。いや、正確に言うと二日か。それも時を隔てた二日。
物語の冒頭、璃子は東京のアパートに引っ越してくる。大学入学のために、はるばる広島から上京してきたんである。その一日をまず押さえてさあっと時間がさかのぼり、その部屋を探すために歩き回る父と娘の一日を追うことになる。
その冒頭で、引っ越し業者の青年に「まぁ、あの広島の女の子が本当に来てくれることになったのね!」と喜ぶ、いかにも気のいい、そして話の長い(笑)、アメちゃんくれる(大笑)大家のおばあちゃん。もう胸がほっこりあたたかくなってくるんである。
いやしかし、胸がほっこりあたたかくなるのは、もうこの人の存在しかないであろう。主演、いや娘とのダブル主演と言うべきだろうか、娘の方が一人称っぽいから彼女の主演と言っても良さそうだが、でもでも、観客の心をつかむのはヤハリ、父親役の柳家喬太郎氏である。落語には疎いので知らなくてゴメンなんだけれど、このなんとも可愛く愛しい父親に、最後はすっかり泣かされるハメになる。
広島弁まるだしの、いかにも田舎者の父親は、父ひとり子ひとりだから娘べったりかと思いきや、いやそれを自覚、というか、恐れているからこそ、彼が自ら娘を地元から“追い”出したのであった。
いやー、最近はやたら落語関係が多いような。しかもそろいもそろって名演である。こないだの「ねぼけ」の渋い師匠も素晴らしかったが、それと正反対の、実に親しみやすい、親近感タップリの喬太郎氏にすっかりヤラれてしまう。しかも落語家役でもなく!
タクシー運転手として朝から晩まであくせく働く、この部屋探しの上京も、お金がないから娘と共に12時間の地獄の夜行バスでやって来たんである。
なぜシングルファーザーなのか。離婚して母親が引き取るってのは珍しくないけど、と思ったら、母親は死んでいる。しかも、璃子を産んだ翌日に。つまり、産褥ってヤツ。
最初に東京案内をしてくれる璃子の叔母(つまり、璃子の母の妹)の真希子に肇(璃子のお父さんの名前ね)はすっかり心を許しているのか、彼は、「そういうことは全然話さないけど、いわば自分のせいでお母さんが死んでしまった、とか思っているのかな……」とこっそり相談を持ち掛ける。
というのも、璃子は、肇曰く、「反抗期もなく、凄くいい子。いい子すぎる」から。物語全編を通しても二人の親子の生活はおしてはかるべしという感じなのだが、確かにお互い、特に璃子は、自分の気持ちを父親に話していない、感じなのだ。
そらー、ムリはないさ。娘が父親に素直に心情を話すなんて、ムリムリ!!……でも、この璃子ちゃんに関しては、そういうことではない感じもして……。
真希子おばちゃんと肇は、璃子にとっては未知の存在である自分の母の思い出話で盛り上がる。真希子おばちゃんは璃子に、「ビックリした、お姉ちゃんソックリ」と言うんである。
……死んだ母親に、いわば自分のせいで死んだ母親にソックリと言われるなんて、それこそなかなかしんどいと思うのだが、璃子はそんな未知なる若かりし頃の両親のことを知りたいと思う。て、いうあたりが、いかにこの父子がいたわりあって暮らしてきたかと思えるのだ。
真希子おばちゃんを演じる朴?美(表示されん……)氏は、「あかぼし」主演で衝撃を受けたお方。声優で有名だというけれど、このきっぷのいい、東京のキャリアウーマンバリバリ!「妻子ある上司と不倫してるのヨ、ナイショね」なんてささやくかっちょいいおばちゃんが素敵で、もっともっと映像で活躍していいのに!!と思う。
ちょっとね、余貴美子氏みたいな雰囲気があって、そういう女優さんってなかなかいないからさ、凄く素敵なのよね。
なんたって一人娘の暮らす部屋を探すのだから、自ら娘を追い出した形になる父親だって、そら神経質になる。このあたりはちょっとしたコミカルのほっこり感である。
目の前が墓地、というベタな環境を真希子おばちゃんにあっさり見抜かれて残念至極の肇ちゃんがカワイイ(照)。東京にはありがちのエピソードさ。
隣に住んでるのが男だというだけで却下するのはいかにも男親だけど、ベランダで顔を合わせ、「ちょっと待って、ピーンカシャーン(リサーチしているらしい)どこの大学か当てるから!!」とか言うチャライ男が隣なら、確かにここはダメ!!となるかなあ。
璃子を演じる石井杏奈嬢もとてもいい。名前の字面に見覚えがあるなと思ったら、「ガール★ステップ」あの子ね、そうか確かにそーゆー顔だわとも思ったが、これは演出の力かなあ、広島から出てきた、父親とずっと二人暮らしで、その父親を置いて出てくることに心配と不安と戸惑いを感じているしっかり者の、自分の気持ちをなかなか出せない、っていうか、出さない女の子、璃子、を見事に体現していて、とっても良かった。
なんか、榮倉奈々嬢みたいだと思ったなあ。お顔立ちもそうなんだけど、控えめな、人を思いやるばかりに自分を出し切れない歯がゆい優しさみたいな感じがさ。
そしていよいよ、運命のアパートに遭遇する。その前に、オシャレ系女子専用マンションが親子とも気に入ったんだけれど、店頭に来ていたイチャイチャ系ワケアリカップル(ラサール石井!!)に抑えられてしまってやむなく。
親子を案内している不動産屋の営業マンがイイ味。東京03の角田氏。冒頭の引っ越し業者役にもアルコ&ピースの平子氏が好演しているし落語さん抜擢といい、監督さんはお笑い好きなのかなあ??
この営業マンが、璃子が入ることになる古ぼけたアパートの大家さんのおばあちゃんと仲良しで。もちろん営業トークもあるだろうけれど、結構つっこんだジョークも交わし合う感じが、本当にこの営業マンが気のいいおばあちゃん大家さんをいたわってるのが伝わってくるんだよね。
璃子は懐かしい感じ、ということもあってこの部屋に決めたけれど、この営業マンとのやり取りも勿論、その根底にあったと思う。父親の肇もこのアットホームな感じがすっかり気に入り、もうここに決めた、と、周辺を散策して帰ることにする。
喜んだ大家さんが、案内役を買って出てくれる。地元の美容院(というよりパーマ屋さん)、人懐こい野良猫、突然現れる大きな公園、まるで彼ら親子が住んでいる広島とそう変わらないのどかさなのだ。
ふと二人きりになった時、大家さんのおばあちゃんにぽろりと家庭環境のことを話してしまう肇。その時に、「自分のことを心配して、地元の短大に行こうとしていたから、追い出したんです」と、彼は言ったのであった。
おばあちゃん、強がってない??とからかい気味に心配しながら、「今のうちに、話しておかなきゃ。でも、大切なことって、話せないのよね」としみじみと言う。
大切なこと。この父と娘にとって、大切なこと……。
それは、勿論、絶対に、彼の妻であり、娘の母親である、一人の女性のことに違いないのだ。
私はね、時々現れる、自分の命を犠牲にして子供を産む母性、ってヤツは大嫌いさ。太宰治の言う、「子供より親が大事」よ。まだ自我もない、どうなるかも判らないものに命を捧げて死ぬ母親物語をお涙ちょうだいにするのは大嫌い。
信じられないことに、現代でもそーゆー話をカンタンに感動モノに仕立て上げる。それがどんだけ女にとってブジョクなのか、女に、子供を産んで死ねばいいと思っているのかと。
若干、そういう危険性は感じなくもなかったが、ただ、「身体が弱かったから」と。死ぬつもりはなかったとゆーことで許してやろう(爆)。
とにかく、璃子にとっては自分の存在が母を殺したと言ってもよく、逆に言えば母によって生かされていると言ってもよく……相当父親といい関係を築いていなければ、反抗期もなく(恐らく抑えて)ここまで来れないと思われ。
途中、とっても楽しいエピソードがある。サスペンスドラマの撮影現場に遭遇するんである。なんとまあ、特別ゲスト、本人役の山村紅葉!お祭り好きのデカというシュールな役をノリノリで劇中熱演!
「東京って、本当に芸能人に遭えるんやねえ……」と感心しきりの璃子、そして肇、大家さん、通りすがりの女性で、即席家族としてエキストラ出演するんである!!声に出さず喋らず、小道具もないのにピクニックに来たようにとムチャ振りされる彼らの“熱演”は本作のハイライト。
なんていうかね……。璃子と肇は確かに血のつながった親子だし、別に何の問題もないんだけど、例えば大家さん、たまたま居合わせたエキストラ共演した女性、疑似家族の疑似が本物になることだってあるよねと思ったり。
私はね、血のつながり神話が大嫌いだから。他人としてのホンモノだとしても、家族のそれと何が違うのかなあと思うんだよね。
インドレストランの結婚式お祭りに巻き込まれるのも、凄くほっこりエピソード。これが冒頭の引っ越し業者の後輩君が言っていた、「本格的なカレーが食べられそう」な店だったのね!
全然知らない街なのに、道に迷って困っていたインド人夫婦を連れていったらめっちゃ感謝されて、もう離されない(笑)。奇しくも娘を手放す父親同士のやりとりがじーんと胸に迫る。肇が数か月前に購入して、娘曰く「子供みたい」に肌身離さず撮りまくる一眼レフの存在が、ここで最もじんわりと染みるんである。
確かに今まで話し合うことが出来なかった、それは彼も自覚していたんだろう。同時に写真もそうそう撮ることが出来てなかった。だからもう、娘を、後ろ姿だろうとなんだろうと、ばしばし撮りまくる。
ここまではね、ほっこり気分で観ているだけだったのさ。別に泣くつもり??なんてなかった。インドレストランを出て、すっかりいい気持(なのはお父ちゃんだけだけど(笑))で、夜行バスに間に合うように駅に向かう二人。
誰も見ていないであろう路地で、おんぶしてやる、と言いだす父親。恥ずかしさと戸惑いで拒否する娘。しかし酔っぱらった父親のしつこさに、なだめる気持ちでその背におぶさる。
……後から思えば、肇の語った妻とのなれそめエピソードは、そんなドラマチックという訳ではなかったのかもしれない。
酔っぱらった彼女をおぶって送り届ける途中に遭遇した、眠るように死んでしまっている子猫。埋めてあげようと言った彼女に従って、深夜の公園で二人、ひそかに埋葬した。ふと彼が気づくと、彼女は子猫が可哀相だとぽろぽろと涙をこぼしていた。「その時、絶対にこの人と結婚しよう、って決めたんだ」
なぜ、こんな本当に、何気ないエピソード、その先にある何気ない言葉が、なぜこんなに、胸に迫るのだろう。猫が伏線になっていたってだけじゃないさ!!
勿論、それまでの、このお父さんのあたたかさの印象の積み重ねもあっただろうとは思う。でもあの一言、きっと多分、実際のプロポーズの言葉よりもぐっと来ちゃうんじゃないかと思った。
それが証拠のように、その母を想起させるかのように父の背におぶわれた娘は、たまらず涙をこぼし、ただただ黙って、父の背をこぶしで叩いた。
「璃子の肩たたきはやっぱり上手いな」ああ!!(号泣)そしてね、「もっとわがままを言っていいんだよ(言ってほしい、だったかな)」(大号泣)でも璃子は言わないよね!!!
そして、彼女はたった一人、東京にやってくるのだ。たった一人だけど、百万の味方をつけた勢いで。
冒頭に登場する「自分も東京から出てきた」と勝手に(爆)シンパシィを感じてくる引っ越し業者の青年と、璃子の隣の部屋に住んでいる、路上パフォーマンスもやっている、音楽をやっている同じ大学の女の子(登場もしない!!)とのその後のエピソードにかなーり期待しちゃったんだけどなあ。★★★★★