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「か」


2015年鑑賞作品

ガールズ★ステップ
2015年 115分 日本 カラー
監督:川村泰祐 脚本:江頭美智留
撮影:北山善弘 音楽:遠藤浩二
出演:石井杏奈 小芝風花 小野花梨 秋月三佳 上原実矩 磯村勇斗 松浦雅 大東駿介 音月桂 山本裕典 塚本高史


2015/9/28/月 劇場(渋谷TOEI@)
なぜか続けざまに、JKたちの青春物語、という共通のくくりの映画を観ることになったことが面白いなぁと思う。四人と五人の差はあれど、という感じ。
もう一本の方 と比べて本作は、“ネクストブレイクの呼び声高い”ということを確かに感じさせる、そこそこに売り出し中のメンメンが揃っているので、うーむ、メジャー感だわと思う。
メジャー感が漂うと、もう一本の方にはあったリアルなセキララ感はどうしても負けてしまう部分があるものの、それはあくまで、もう一本があったからこそついつい比較してしまうだけで、まあ私は結構あっさりと落涙したんだからうるさいこと言うな(爆)。

んー、でも、ちょっとクサい台詞満載だった気はしたかな。いや、青春にクサい台詞は不可欠で、それを使うことに躊躇があるぐらいなら青春映画なぞ作るべきではない、というのは確かなところなのだが、逆に言えば、いかにクサい台詞を心に響かせるか、というのが腕の見せ所でもあるのだと思う。
この監督さんは「海月姫」でしか遭遇しておらず、あの作品はただただ、能年玲奈の映画、であった部分があり、恐らくそれは、この監督さんのもう一本は剛力彩芽の映画であったであろうことを考えると、ちょっとまだ測りかねる部分がある。

本作に関しては、ちょっと、盛り込みすぎな感じがした。それは別に監督さんの問題ではなく脚本の段階の問題なのだろうが。
ダンスにまい進する女子高生たち五人組、にそれぞれの五人に同じぐらいの重いバックグラウンドを与え、しかもそれを同じぐらい重く等分に描く、というのは、確かにとても公平ではあるけれど、ダンスの部分が薄れてしまう、気がした。

難しいんだよね。確かに女子高生とひとくくりに言ったって、それぞれの人生がある。そして現代社会のそれは色々な枷があり、相当に重い。更に言うと、かつてのアイドル映画黄金期のように、ヒロインだけがキラキラと輝いている映画が作りにくい状況になってる。
その他大勢がまさしくその他大勢としてしか扱われなかった過去は、ある意味では幸福であったように思う。それだけヒロインが際立つというメリットがあったもの。

本作は一応メインの主人公は石井杏奈嬢演じるあずさ。彼女が抱えるバックグラウンドは、小学生の頃いじめにあった苦い経験から、独りぼっちになる恐怖。
それゆえ、クラスのハデ女子グループとの仲を保つために、パシリになり、カラオケでは歌も歌わず注文に徹し、好きでもないファッションの話に盛り上がる。そして幼馴染の男の子に好きと言えない苦しみを抱えている。

後者はともかく、前者の部分は、本作の中でダンス部を立ち上げる中でも相当に大きな影響を示すし、まぁ、私も判らなくもない部分があるので(爆)、その重さは充分に伝わるのだが、次から次へと出てくる他のメンメンの重たいバックグラウンドにだんだんとかき消されるような形になってしまって……。
だってさ、言ってしまえばあずさの悩みは、このダンス部のメンメンに出会ったことで即座に解決できていることなんだもの。確実に心を共有できると確信できた仲間たちと出会ったのに、その後もハデ女子たちに嫌われないようにへこへこしている彼女が、ムカつくというよりはなんか不自然な感じがしちゃってさ。
盛り込み過ぎと思ったのはつまりそういう部分で、現代社会では苦しむ若者をきちんと描かなければダメだ、みたいな足枷をクリエイター側がついつい感じてしまってるんじゃないかという気がして、さ。本作の惹句は王道のガールズエンタテインメントなんだもの、それとは違うよ、ね??

でもまあ、それぞれのキャラの重たいバックグラウンドを紹介していこうか(爆)。
あ、ちなみにこの五人が集められたのは、必修のダンスの試験を受けなかったから。街のイベントでダンスを披露すれば、単位をあげる、という担任の先生の思いやり??だったんであった。
イヤイヤ披露したそのイベントで、一度はすっころんで恥をかきかけたところで、諦めないで踊り続けたことが観客の喝さいを浴びて、思わぬ楽しさを知ってしまった。続けたい!そう思った彼女たちは、担任の先生のアドバイスもあって、ダンス部を設立しちまうんである!!
それにしてもこのイベント、ジャージはないよな……衣装を揃えるまでしなくても、ストリートダンス、というカテゴリなら、せめてTシャツにジーンズとかさ……。逆にジャージでやらせるのが不自然、というか、ネライがベタすぎて。だって胸のゼッケン、っていまだにあるかよ!!

試験を受けなかったのは、体調不良とか、家の事情(後から推察するに)とか、ただ単にタルいからとか(これも後から推察するに)、いろいろ理由はあっただろうけれど、この個性豊かな五人が集まったのは大きな意味があった。
クラスメイトのハデ女子たちからは、ジミーズなどと言って嘲笑されているけれど、ハデ女子たちが総じて同じような、髪型やメイクの、ラブリーな女の子ファッションで固めているのに対して、この五人はてんでバラバラ、なんだから、個性がないのはそっちだろ、と嘲笑すべきだよな、と思うんである。
正直、このクラスメイトのハデ女子たちと、学校の花形であるチアリーディング部のメンメンは、部員はかなりかぶっている筈なのだがそんな具合に同じ感じにしか見えないんで、うーん、これは別に考えるべきなの、それとも??と悩んでしまう情けない私(爆爆)。

でも、そこんところの切り分けも、ちょっと上手くなかったんじゃないかなあ、と思う。キャプテンはクラスのハデ女子グループにもいたと思うけど、それ以外がなんか微妙(爆)。
だって、全国制覇の常連である超実力派のチア部が、あずさをダンス部の練習に行かせないためのイジワルにカラオケに誘ったり、掃除当番を変わってくれないかと言ったり(これって、メッチャ王道、っつーか、懐かしい、つーか、古臭い設定!!)するのは、おかしいよね。だって毎日必死に練習しているからこそ、楽しそうなダンス部に(つまりジミなくせにと!)イラッと来ている訳じゃない??

おっと、残りのキャラを説明するつもりが、ついつい脱線してしまった(爆)。
えーとね、だから、残りの四人よ。まず判り易いのがヤンキー娘の美香(上原実矩)。染めた髪に、彼氏のお迎えのバイクに2ケツ、スカートの下のスウェット、絵にかいたようなヤンキー娘だが、下着や持ち物が妙にラブリーなことをジミーズたちに見抜かれ、そしてその彼氏が「結婚を前提にした」真剣交際であることを知って、俄然彼女を見る目が変わるんである。実際、とてもアツくて繊細な女の子である。

これまた判り易いもう一人、メガネ女子の環(秋月三佳)。ガリベンキャラだが、特に成績がいい訳じゃない、というのが彼女のコンプレックス。
他の家族は総じて出来がいいらしく、彼女だけがみそっかすで三者面談で母親がほえてる場面が出てくる。そこからいきなり、それまでは勉強を理由にハズれていたダンス部に、「私も入れてください!!」と叫ぶ場面に飛ぶのだが、環が母親をどう説得したのか、それとも衝動的に飛び込んだのか。
環に関してはメガネ女子、ガリ勉キャラの割に成績がいい訳ではない、運動音痴、スカート丈長し、他の家族は優秀、となんか自分にやたらリンクする部分が多いので、この説明不足がちょっと、残念なんである。

それに彼女のぎくしゃくした部分がちょっと笑いを誘わせてる感じなのが、真にこの子の苦しみを理解しているようには思えないもんなあ……。
それを感じたのか、コーチのケニーに「ケニーさんは才能があるんだから、続けるべきです!」などとゆー、重要な台詞を言わせてキャラの重要性を高めているような感じもしたりして、……自分に似てるから、点が辛くなっちゃうのかなあ。

この環を演じる子が「風切羽」のあの子だと知って大いに驚く。あの、重く暗い映画で主演という、しかも超絶センシティブな役どころをやってのけた、あの子が!!ああ、こういう時、小さな映画も頑張って足を運んでよかったと、本当に思う!!

そして、愛海役の(小芝風花)と葉月役の(小野花梨)は、後半になって大きく、重い存在感がクローズアップされる。それゆえに、余計にヒロインのあずさ、そして彼女の悩みがちょっとずつ軽いものに思えてきてしまうウラミがある。
愛海は年上彼氏にぼろきれのように捨てられる。彼氏ですらなかった。彼にとってはセフレでしかなかったことが、赤ちゃんを流産した後に発覚するという重さ。

このエピソードの時に、「親に知られたくないから」というSOSをあずさは美香に転送、美香の彼氏を“お兄ちゃん”として手続させるという、なんか一昔前の少女漫画みたいな展開。
身内がいなければ引き渡せないという病院側の主張を、ウソの身内で引き渡させるなんて、そんな簡単にいくもんなんだろうか??だって身分証明書のそもそもの名前とか、保険証とかさ……。そーゆー部分を追究しちゃ、いけない??

葉月はセレブを気取り、今日はピアノ、明日は水泳、とダンス部の練習をちょくちょくパスする。見た目も色白で可愛いし、そのキャラからはジミーズと揶揄されるようには思えないのだが、ハデ女子たちから見たら見抜かれていたということなのだろーか。
実際は母子家庭で、母親の営む定食屋を幼い弟妹達と共に手伝うために、時に抜け出していたんであった。
それが知れたのが、ハデ女子たちに八方美人していた自分に落ち込んでいたあずさがフラフラしていたところに、表でお弁当を売っている葉月に行き合う、という、偶然にしてもあまりにもあまりなシチュエイションだというのが、そりゃねぇだろ!!とか思ってさ……。

とゆー具合に、かなりツッコミどころ満載なんだけれど、それでも本作を突き放しきれないのは、演じる彼女たちの一生懸命さが伝わるから、なんだよね。
まあ、ダンス部の活動自体は、こんな具合にみんな事情がありすぎるから(爆。五人が五人とも事情がありすぎってのが……)、前半はまず環が勉強を理由に入部していないし、中盤は愛海が年上彼氏との泥沼&妊娠&流産で完全脱落。そしてハデ女子たちからハブられるのが怖くてヒロインのあずさが脱落。そのあずさを糾弾していた葉月も、ビンボーな家の事情を知られて、あずさとの対立もあって脱落。

他のメンメンの事情がシリアスなので、ダンス部のキャプテンとして頑張ってたあずさが、仲間が出来たのにエセ仲間のために脱落するのが、先述のようにどうもしっくりこない訳。
でもね、結局は、あの場面のためにすべては用意されていたんじゃないかと思っちゃう。彼女たちが自分の事情を改めて吐露する場面。舞台はわっかりやすく海岸。判り易すぎて、ハズかしい(爆)。だって吐露して理解し合った後、皆でワーーーー!!っつって海に突進するんだもん。超恥ずかしい(爆爆)。
でもさ、それこそもう一本のJKモノでも、同じような場面があった。でも、「(ビデオが)撮れてなかった!」と言って、えー!!とびしょ濡れの仲間たちから糾弾される、という場面で、この恥ずかしさを確実に避けているのが判る。その違いが実に興味深いんだよなあ。

で、どうも核心にいけないけれども(爆)。本作の何よりいいところは、五人がそれぞれの辛い重いバックグラウンドを、吐露する場面。それがこの海岸。シチュエイションはメッチャハズかしいけど、自分の役どころにしっかりと入り込んでいるのが判るからさぁ。
涙を流すぐらいは女優だからね、でも、眉ぽよぽよのすっぴんで、鼻を真っ赤にして、全力で!クサいシチュエイションだけど、彼女たちの気迫を感じて、泣けちゃうんだよ。おかしいなあ、これはダンスに情熱をかける物語じゃなかったの。ダンスで泣けるはずなのに!!

そう、そこが本作の泣き所さあ。だってここまでで、ダンス部のコーチ、本作の数少ない有名どころ俳優がちっとも出てこないんだもの(爆)。
担任のセンセが紹介してくれたケニー長尾なるカルいダンサー、演じるは塚本高史。数少ない有名俳優だが、これがまた、なんつーか……。
彼が悩める彼女たちに指針を与えてあげられれば良かったんだけど、彼女たちそれぞれのバックグラウンドがこんな具合に重さ満点なもんだから、彼に用意された、“ニューヨークで活躍していた実力派ダンサー”つーのが、マンガチックに思えちゃってさぁ……。
だって実際、塚本君はダンサーじゃない訳だし、回想シーンに使われる映像がスタントバレバレだと、現代のJKたちの決死の芝居に勝てないんだもん。

おい、塚本君に対する言及はこれで終わりかい!んー、でも、実際問題、そうかな(爆)。
そもそも彼をコーチとして引っ張り出した担任の先生も、生徒をイベントに引っ張り出した、コーチを紹介した、部活にすることを勧めた、てゆー、キッカケ作りだけで全然関わってこないくせに、妙に理解者な表情を浮かべてあちこち見切れるのが、なんかイラッときちゃう(爆爆)。
めっちゃ対立していたチア部が、“コンテストに向けて一生懸命練習している”ことで練習場所を譲ってくれて、イイ感じに仲直り、って、それまで我が物顔で練習場所を占拠していた相手なのに、こ、こんなアッサリと??あー、もう、いろいろ突っ込みたくなっちゃうけど!!

最後にもう一つ、ずーっと頭をかすめていたのは、あずさちゃん、演じる石井嬢は、榮倉奈々ちゃんみたい。いや、そんな背も高くないし、似てる訳じゃないんだけど、雰囲気かなあ。
それとも榮倉嬢が朝ドラでダンス女子を演じていたことが、そう、あの物語は築地と月島だったから珍しく観てて、そのイメージがあったからかもしれない。いやでも、ホント似てるよ!!★★☆☆☆


駆込み女と駆出し男
2015年 143分 日本 カラー
監督:原田眞人 脚本:原田眞人
撮影:柴主高秀 音楽:富貴晴美
出演:大泉洋 戸田恵梨香 満島ひかり 内山理名 陽月華 神野三鈴 宮本裕子 松本若菜 円地晶子 玄里 武田真治 北村有起哉 中村育二 山崎一 麿赤兒 キムラ緑子 木場勝己 高畑淳子 橋本じゅん 井之上隆志 山路和弘 でんでん 中村嘉葎雄 樹木希林 堤真一 山崎努

2015/5/19/火 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
原田作品に、大泉先生が出るというだけで嬉しい。もうそれだけで、足を運ぶ理由である。まあ時代劇は正直苦手だが、このカップリングにはかなわないんである。
いや、やはり原田作品ならば足を運ぶかな。新作を待ち望んでいる監督さんの一人だもの。打ちのめされまくった「クライマーズ・ハイ」を今もまざまざと思い出す。

その時の主演さんもしっかりとイイ役で顔を出している。しかも「きつみと渋みが程よく乗った」イイ男、という言い回しは、「きつみも渋みもないけれども……」と返して形容される軽妙さである。オフィシャルサイトを覗いてまず飛び込んでくる、ひん曲がった口とひん剥いた目で相手を指さす信次郎はまさしくよーちゃんそのもので、思わず笑ってしまうんである。

原作は相変わらず未読だから何とも言えないのだけれど、原作ではなくて原案、という位置づけならばきっと、この信次郎という役は大泉先生に当て書きに近いものがあるんではなかろうかと思う。
いや、原田監督自身が「井上ひさし時代の戯作者を見事に演じきった」と語っているのをつい目にしてしまった。なんだつまらない(爆)。でも、脚本を書いたのは原田監督なのだから、彼が大泉洋という役者を頭においてイメージを膨らませて書いたんではなかろうかなどと、勝手にぐふぐふと想像してしまうんである。

だって、本当に彼そのものなんだもの。宣伝でテレビに出まくっていたよーちゃん、その中で、役者として自分に求められているものは、化ける役者ではなくて、大泉洋というキャラクターが生かされているものなんだと、まあそんなようなことを言っていて、それは私も、そして皆がそうそうとうなずくことだと思ったから、まさに今回の役は、それを100パーセント叶えてくれるものであったと思う。
「探偵はBARにいる」は大好きだけれども、やはりあれは、彼の中での最大のカッコ良さを無理やりのように引き出した部分もあるからなあ(爆)。

まあとにかく、本作である。ああもう、すっかり、原田作品がどういうものか、忘れていたよ。そうだったそうだった、こんな風に、もうどーっと台詞が、聞き取れにくいとかそういうこと全く頓着せず、そんな観客への優しさなどおかまいなしに、たたみかけるに任せるお人なんであった(涙)。
思えば「金融腐蝕列島」も「クライマーズ・ハイ」も同様で、前者はより専門的な用語が多かったせいもあって、尋常ならざる面白さがある雰囲気は満天なのに、聞き取れなくて判らなーい!と、再び足を運んだんであった。

本作も同様だが、多分足は運ばない。なぜって、時代劇あんまり好きじゃないから(爆)。時代劇の任侠映画は好きなくせに(爆爆)。ああ、質素倹約令ね。水野忠邦、鳥居耀蔵、字面は見たことある(爆)。でもそういうのを説明する冒頭の市井の様子も、原田監督ならではの駆け足で進んでいくものだから、良く判らないの(爆爆)。
だって立て看板とか流麗な筆文字を読み上げる人もいなければ、字幕が出る訳でもないんだもの。き、キツい。日本史授業寝てた自分的には大変、き、キツい(爆)。

そして登場するは、「きつみと渋みが程よいイイ男」の堤真一。お妾さんに、おはぐろが見事にあだっぽさを醸し出す満島ひかり嬢。正妻が居る訳でもないのにお囲い者、という奇妙さがイイ。
表向きはまっとうな商人、しかしオチではご禁制ものを多く隠し持っていることが明らかになるこのイイ男が、主人公のよーちゃんをさらっちまいそうになる魅力。そらしょうがないよ、イイ男なんだもん。

なんか流れでキャスト紹介してしまったが、この謎のお妾さん、お吟と駆け込み道中一緒になったのが、もう一人の主人公、じょごを演じる戸田恵梨香嬢。
彼女は素晴らしいコメディエンヌと思うが、本作ではその部分をすっかり大泉先生に譲ってしまって、すっかりしっとりの、苦労しぬいて東慶寺に駆け込んだ、まさにこの寺のシステムを説明するにはうってつけの存在、なんである。
製鉄屋に嫁入りし、顔に火ぶくれを作るほどに働きづめに働いたじょご、しかしダンナは怠け者、別の女を公然と連れ込んで、じょごを人三化七呼ばわり。腕の良さと人柄で職人たちをまとめ上げてきたじょごも堪忍袋の緒が切れて、東慶寺に駆け込むんである。

ちょっとラストに”駆け込”んじゃうと、2年の歳月を経て、離縁状を書かなければいけなくなるじょごのダンナは、もうすっかり人が変ったようになって、じょごに帰ってきてほしい、と懇願するのね。
その時には信次郎と心を通わせているじょごなもんだから、彼女も、信次郎も、そして周囲も、そしてそして観客も、ええっ!と思う訳。だってじょごのダンナを演じているのは武田真治だからさ。酷薄なダンナもハマるけど、改心したダンナとなると、そのイイ男(には、弱いわな、結局はな……)にグッときちゃうんだよ。

今までの、昔ながらの時代劇ならば、ひどい目に合わされまくって、寺に駆け込んで、観客にも充分に同情を感じさせたとしても、改心したダンナの一発で、女は帰っていってしまったと思う。それこそが、夫婦愛、日本の伝統、みたいにされたと思う。
私自身にそんな価値観が刷り込まれているから、本当にハラハラしたんだよ。だって長崎への旅程を焦ってプレゼンするよーちゃん……いやさ信次郎は、いかにも負け戦な気がしたんだもの。

結果的に、信次郎が勝利を収める、という結末は、いかにも現代に作られた映画、という気がする。いい意味でも悪い意味でも。いやさ、武田真治の方が魅力的に見えちゃったんだもん、困ったことに(爆)。
今更ながらの役柄解説になりますけれども(爆)、信次郎は、離縁を求めて女たちが駆け込む、この東慶寺に駆け込む女たちの事情を聴く御用宿の居候。
詳しく言えば、宿の主人、源兵衛の甥。しかし源兵衛が実は叔父さんじゃなくて叔母さんだということを今知ったぐらいの間柄。まあ昔はそんなもんか……。
んでもって、彼のキャラクターは、実質は医者の見習いなんだけど、ホントのところは、戯作者になりたくてたまらない。だから、男女の人間ドラマが豊富にあるこの御用宿に、わざわざ都落ちする形でやってきた訳。

この、「かけだしの医者(つまり見習い)なんだけど、実は戯作者になりたい男」ということこそが、タイトルにもなっている、大泉先生に当て書きされたかのようなキャラなのだが、まあなんだか正直、そのまんまに中途半端だったかなあという印象(爆)。いったい彼は、どちらに真の情熱を注いでいるんだろう……。
いやまさしく、大泉先生そのままのキャラで、マルチな才能を発揮している男、と言えば言えるのかもしれないけれども、患者を治すことも、戯作を書くことへも、情熱だけは示すものの、双方自信のなさも同時に示すという中途半端……いや、ある意味しっかり示してて潔いのか(爆)。

結局、ラストの大オチ、この大オチは素晴らしかったのだが、そこに至るまで、そのもやもやとした気持ちは否めないままだった。
よーちゃんさながらに、どちらも彼自身、どちらも熱意と誠意をもって突き進んでいく!というものが感じられたのなら良かったのだが……。うーむ、でも、それこそそれも、彼そのものなのかな!駆け出し男、だものねえ。

でも、戯作を書く場面は、一度も現れなかったような……。戯作への愛、男女のネタ収集の熱心さ、書いたらさぞかし面白かろう、という、口八丁手八丁でヤクザもんを追い返す創造力、はあるものの……。
この場面は、それでなくても嬉しかったドリさんとよーちゃんの共演、口から出まかせでヤクザもんを追い返した信次郎に、宿の女将のドリさんが「……あんた、戯作者になったほうがいいよ」という、まさにキーポイントとなる場面。でもでも、ここで示されるのは、創造力というよりは、相手をねじ伏せるトーク力の方なのでは……と思ってしまったり……。
医者としての駆け出しの部分でこそ、信次郎はじょごと心を通わすのだもの。火ぶくれに優しく手を当てて、うん、良くなった、などと、そらあ、女心をかき乱すに決まってる!!

それでなくても尼寺である東慶寺に医者(見習いだけど)として訪れる彼は、「若い男の匂いがする」と禁欲生活の女たちの気もそぞろにさせる訳だし……。
この東慶寺は、御用宿と当然ながら雰囲気からまるで違い、浮世離れした禁欲の世界で、この長尺の物語の中で、うっかり分断されそうな危険性はあるんだけれども、そこをそれこそ、見習い医師の信次郎こそが垣根を破っていくんである。

だって想像妊娠を患った女は、なぜそんなことになったかっていうとそりゃあ、ずっと心に秘めていた恋心、そう、尼寺に駆け込むほどの事情があるが故、押し込められた恋心を、隠し文で連絡を取って落ち合って、密会しているじょごと信次郎を見てしまったことでがっつり掘り起こされてしまったからに違いないんである。
そう思うとあまりに切ないではないか。だって彼女は、嫉妬に狂ってリンチしようとした他の女たちとは違う、その姿に胸を射抜かれ、「彼女は畑にいます!」と追手の目をくらましたのだから。

その、想像妊娠を患った女に、はちみつ浣腸をほどこす場面、「見てはいけません!」「こんな小さな穴ですよ!」「わたくしが導きます」「お願いします!」「穴を間違った!」爆笑!下ネタやんか!!でもこれはまさに、内的器官から、粘膜から、女の心をかき乱してしまう。想像妊娠なんてマンガチックな設定に、リアリティを与えてしまう。
彼女が思い詰めた末の想像妊娠だったと追い詰める、遠くから見守る黒衣の駆け込み女たち、審判の場の間には遠くへだたりがあって、日本の寺所の作りの距離感が凄くスリリングに出てて、イイんだよなあ。
こんな粛々とした尼寺でも起こる、女同士の陰湿なドツキあいも、彼のさっぱりさ加減があるからこそ引き立つのだと思う。

労咳で死んでしまう姿を愛するダンナに見せたくなかったお吟にも泣けたが、もう一人、途中から参入の、エンタメ時代劇の楽しさ、凛々しさを体現してくれる、女武芸者、ゆうに扮する内山理名嬢にもキュンときた。
彼女はあんまり見なくなったなあ、などと思っていたが、こうして印象の残る脇キャラにきちんと魅力を発揮すれば、こんなにも素敵な女優さんなのだということを再認識した。
女優さんは難しい。一度主役を張ってしまうと、その後それに執着してつぶれてしまう例がいくらもあるからさ……。

道場破り、ダンナを殺され、凌辱されて嫁にさせられた彼女が2年の寺での生活の末に、ギラギラしたかたき討ちの気持ちを捨て去る。
しかしいまだ狂犬のような凌辱男に、じょごが立ち向かい、股からクワを切り上げるシーンは、女武芸者のゆうのお株を奪ってしまう形になるのだが、これはまあ、女全体の復讐の願望を担っているのだろうから、まあ、いいのかなあ。

ところで結果的に、信次郎は「腕のいい医者がいるなら、どこだって患者はやってくる」というじょごの見立てにならって、彼女の案内する庵にやってくる。
その前に、信次郎は銭湯で、稀代の人気役者、曲亭馬琴に遭遇したエピソードを披露し、それを受ける形で、じょごは馬琴が自分の父親の知己、どころか、馬琴にとって彼女の父親が恩人であることをとつとつと話しだすんである。
この時に信次郎は、銭湯でケンカになった男がクサしていた、馬琴は中国の古い話を元ネタにしていて、オリジナルではない。それもあって、市井のナマな世界を描けていない、という意見に、自分は近い思いがある、と正直に告白している。

こんな赤裸々なことを言わせるんだから、二人が相対しての議論を戦わせる場面があるのかと思いきや、じょごが二人の新生活の場として案内した場所が、世間から身を潜めている馬琴の居所だったという、いかにも優しげな”大オチ”であるというのが、や、優しいなあ、と。
わざわざそんな意見を言わせるってことは、これは原作、あるいは監督自身のいつわらざる気持ちなんじゃないの。それなのにいつのまにやら信次郎は、なかなか出版されない里見八犬伝を読みたい、と悶え、それが死にゆくお吟に聞かせる、最期の子守歌になる、なんてゆー、なんかイイ話になってるっつーのは、微妙に解せないものを感じるんだよなあ……。

そんないわくありきの曲亭馬琴を演じるのが、最後の名優、山崎努。大オチを任せるのに彼以上の人はいなかった。きちんと年をとった上での、もはやしみついた奇妙さ、いわくつきが体現できるのは彼しかいないもの!。★★★☆☆


風の中の牝鶏
1948年 84分 日本 モノクロ
監督:小津安二郎 脚本:斎藤良輔 小津安二郎
撮影:厚田雄春 音楽:伊藤宣二
出演:佐野周二 田中絹代 村田知英子 笠智衆 坂本武 高松栄子 水上令子 文谷千代子 長尾敏之助 中川健三 岡村文子 清水一郎 三井弘次 千代木国男 谷よしの 泉啓子 中山さかえ 中川秀人 長船フジヨ 青木放屁

2015/8/23/日 劇場(神保町シアター)
最近はもうさすがに、小津作品だからといってビクビクせずに観られるようになっている(爆)。今回は戦後すぐの数年に焦点を当てた特集上映で、いわゆる当時の世相を反映しているというところなのだろう。
……などと妙に固い出だしになってしまったのは、このタイトルが何を意味しているのかなぁとついついウィキなんぞを覗いてしまって、本作が小津にとっては失敗作だの、監督自身もそれを認めているだのとゆーことを目にしてしまったことにひどく後悔してしまったからなんであった。
小津監督は日本のみならず世界的に有名な人だから、こういう批評はもう既に体系的なもの、固まってしまっているんじゃないかと思って……。映画は観た人の数だけ答えがあると思っていても、こーゆーものを目にしてしまうと、弱いからつい左右されちゃう(爆)。ホント、覗かなきゃ良かったなあ。

だって失敗作だとかどうとか言う前に、この特集上映に選ばれた意味がやっぱりあったと思うんだもの。
こんな佐野周二は初めて見たんだもの。私の乏しい経験値の中での彼のイメージは、明るく親しみやすいあんちゃん、という感じ。こんな、妻の不貞にショックを受けてレイプや暴力までふるってしまうような、そのことに自分自身で苛立ってしまうような、そんな暗い影を落としたイメージじゃない。確かに今回の企画解説に、自身復員兵の経験がある彼の憔悴しきった様が……的に書かれてはいたけれど、戦争で憔悴しているというんじゃなくて、妻の不貞に憔悴しているんだもの。
いや、戦争に憔悴した先に妻の不貞で冷静に自分を見つめられなくなったということなのか。でもようやっと復員してきたにしては、割と恰幅がいいしなあ。

どうも脱線しがちなので整えていく。そもそも佐野周二はなかなか登場しない。本作の主人公は正しく田中絹代であり、そもそもそれが、私が足を運んだ正しい理由かもしれない。日本映画における女性監督のパイオニアとして切り開いたこの大女優の、女優としての作品をあまり観る機会がなかったもんだから……。
小さな息子を抱えて老夫婦の二階に間借りしている時子。戦争に行ったっきりの夫はなかなか帰ってこない。その時間の長さは、冒頭、戸籍調査にやってきた警官が「長いですな」ともらす一言でリアルに感じられる。
ひょっとしてもう戻ってはこないんじゃないかと、死んでしまったんじゃないかと思われるが、なんたってしっかりと大スターの佐野周二の名前がキャスティングされているんだから、それはないだろうと思いながら観るのはよくないかな(爆)。

でも、着物を売りに行った先の、すっかり割り切った様子のはすっぱな女は言うのだ。戻ってくるかどうかなんてわかりゃしない。女なんだからいくらだって稼ぎようがあるじゃない。楽しまなくちゃソン、つまらないわよ、と……。
時子自身は、女が一人、どうやって食い扶持を稼ぐのか、と細々と着物を売って、この時も思い出の着物を携えて来た時だったのだった。

この意識の差は大きい。女だから稼げない。女だから稼げる。その一線は、まさに女というセクシャルを利用するか否かであり、現代の価値観から見れば、それをプロフェッショナルとしてとらえることも可能だと思われるけれども、そりゃあこの時代はムリである。
割り切って稼いでいる女は彼女自身の強さはあるにしても、世間からは白い目で見られる。そしてそれ以上に、配偶者に対しての操が立たないって訳なんである。

田中絹代はそりゃあやっぱり、貞淑の妻、って感じである。素敵な女優さんだとは思うけど、私のイメージでは、美人女優という感はない。いやスミマセン、流布しているイメージは知りませんが(爆爆)。
やはり実力ある、職人肌の女優というイメージであるし、劇中でもささやかれる、「きれいだけど地味」の、前半の部分はんん?と思いつつ、後半にはうんうんと納得するこの失礼さ(爆)。
だから彼女が、着物を売りに行った先の女から「時子さんはきれいだから、その気になれば……」と言われた時、んん??と思ってしまったのだった(爆爆)。正直、その女に橋渡しをする友人の秋子の方がムダに(爆)美人。

彼女と会話するバストショットのカットバックはいかにも小津という感じ。下からあおりアングルは言わずもがなだけどね。
でもそのアングルは、こうして見るとちょっとした冷たい印象を与えなくもない。クライマックスで時子が階段から転げ落ちる時も、下アングルから冷徹に見つめている、みたいな。

おっと、ちょっとサワリに触れてしまった。で、そうそう、身体を売っちゃう。それは、幼い息子が病に倒れたから。
正直このシーン、ぐったりと動かなくなった幼い息子の描写にヒヤリと全身が冷たくなる思いがした。この子、死んじゃうんじゃないかって。
夫が帰ってくる前に、彼が会いたがっていた愛息が死んでしまうっていう展開は、それはかなりキビしいように思った……。この当時は、娘よりも跡継ぎ息子の方が大事だろうしさ、いやこの当時のみならずか(爆爆)。

やはりそういう感覚は、こうして時代を経なければ判らないものだと思われる。そういう受け取り方の違いは、あると思う。
手紙でも息子のことばかり気にしていた、という述懐についついそう受け取るのは、その当時は跡継ぎ息子に対する当然の感覚としてとらえられていたのが、今は私みたいなフェミニズム野郎がいるからさ(爆)。
だから映画は面白いのだ。固まった批評じゃ語れないことが、時代を経て現れる。だから臆しない、頑張る(爆)。

まあ、でね、問題は妻の不貞、な訳だから、その理由が必要な訳。幼い息子は一命をとりとめた。
「お母ちゃん、ダメだね。あんこ玉なんか食べさせて。だってひろちゃんがあんまり欲しがるもんだから」こういう台詞にも、当時の衛生事情なんかが反映されているんだろう。
配給の少なさや物価高に苦労して、「りんごが三個で100円」という具体例を出したりする。こーゆーあたりが今回の特集上映の条件にも引っかかった部分かもしれない。

でもこの「今晩がヤマ」という場面は、判り易くドキドキしてしまった。当時の子役だからそんなキリキリの芝居をする訳じゃないだけに、突然元気をなくして四肢をだらんとさせる様が妙に不安をあおってくる。こーゆーのを見ると、子役、のみならず、芝居とは何ぞやとか思ってしまう。
お父ちゃんが復員してきた後、当然物心なんてついてなかったこの子は、見知らぬおじちゃんといった態度を示すんだけど、「お父ちゃんが帰ってきたんだよ、嬉しいでしょ」と言われるともうあっという間にお父ちゃんべったりになる。

これもまた逆の説得力を感じる。記憶にないお父ちゃんでも、いつか帰ってくると言い聞かされていたお父ちゃん、そして男の子にとって、確かにお母ちゃんは大好きだけど、切望してやまないのが大人の男としてもあこがれの存在であるお父ちゃん。
それが数少ない描写で一発で判っちゃう。芝居そのものよりも映画としての演出や構成こそにきちんと価値を置いたゆえだと思う。

ところで、時子が入院費に切羽詰まって身体を売りに行く場面もまた、非常に当時らしい、見せずに想像させる演出が際立っている。
まあ、当時は女優にそうそう濡れ場を演じさせるのも難しかったのかもしれないし、小津監督だし、そういうカラーの作品じゃない、というのもあるだろうけれど、でもやっぱり、きりきりと切ないものを感じるのだ。
白黒の中でも、人目を忍んでの宵闇の中だと判る。それは、後に妻の不貞をさぐりにこの曖昧宿に偵察に来た夫が、昼日中から商売している若い娘がいることを知る場面で、対照として際立つんである。

客は、自分がダメだったという。つまり、勃たなかったと。「役に立たなかった」とかいう表現だったと思うが、どうやら彼もまた復員兵らしい風情があって、トラウマとかいろんな事情があるんだと思われる。
それが証拠に、割と真面目そうなこの客は、相手に文句をつけることはなく、「また(同じ人に)お願いできるかな」と言うんである。お堅い人だから、アンタは、今日たまたまラッキーだったんだよ、と、マージャンをジャラジャラかき混ぜながら女主人はニカリと笑う。
一切カラミの描写はなく、意味深な枕もとの照明をともした部屋に、ちょっとだけ乱れた布団がそのままになった様子がさらりと描かれるだけ。

このシークエンスの後、夫が復員してきて、ウソのつけない時子さんは、全てを打ち明けてしまう。そして友人の秋子さんは、なぜ言ってしまったのよ!となじる訳。
という前に、相談もせずに身体を売ったことに激怒するこの友人とのヤマ場があり、お互い貧乏同士で金を貸してくれと言えなかった、たとえ何もできなくても話してほしかった、とお互いに吐露して、バカなことをしたと時子は後悔して泣き伏す。

そして次のシークエンスでは二人、ヒロちゃんを伴ってのどかに土手かなんかでのんびりしてて、時子がダンナにプロポーズされたことを思い出話してたりするのだ。
あんたの欲しがってたファックスマクター、違うわよ、マックスファクターよ、なんていうちょっとしたギャグをかますことに大いに驚く。当時からあこがれの化粧品としてマックスファクターがあったことにまず驚いたり!いやぁ、確かに当時を知るために、映画というのは必要だわよねえ!

ウソのつけない時子からすべて聞かされ、ダンナは悩み倒す。帰ってきて、幸せな家族生活がおくれる筈だったのに。人手不足だった新聞社に復職するのも望まれまくりという恵まれた環境。なのに彼の顔色はさえない。
だって、レイプまでしちゃうんだもん。本当にそれは、驚いた。まあ当時だから仕切りの影に隠すけどさ、そしてカットが変われば、ボタンが外れ、乱れた髪でうなだれる時子、という程度ではあるけどさ。
でも、壁の向こうに隠された時子、いやさ田中絹代の、これは喘ぎ声と言ってもいいよね!という、歓喜と諦めのないまぜになったような何とも言えない声が聞こえてくるのが衝撃でさあ……。この当時の通常なら、その前にカットして、乱れた様子の妻で戻ってくる感じだよねえ!

しかもクライマックスのクライマックスでは、階段から転げ落ちちゃうし!これ、スタントなのか……残念(いったい私は、何を求めてるのだ……)。
正直このシーンでは、いくらこの時代の男子でも、大丈夫か!と声をかけた後は駆け寄って抱き上げてほしかったが、やはりそこがリアルな時代情勢というものなのだろうか……。抱き上げちゃダメか、男子は女子を……ああ、なんてこと!打ち所が悪くて死んじゃうかもしれないのに!!!

旦那は妻が身体を売った曖昧宿に向かい、若い娘が家庭の事情で商売していることを知る。不憫に思い、仕事をあっせんすることを約束する。なのに、妻のことは許せない。いや、許していると言いつつ、優しく接することが出来ないのだ。
自分の女、だという所有欲かねえ、などと言いだしたら、またフェミニズム野郎になっちゃうから(爆爆)。
なんたってここは、笠智衆である。一足先に復員してきた先輩の立場として、若い娘の仕事のあっせんも引き受けるし。
そして、「その子は許せて、なぜ奥さんは許せないんだ」とズバリ。「いや、許しているんですよ。だけど……」男の身勝手さを喝破し、なおかつ本当の気持ちを引き出す、こりゃ若すぎてビックリの笠智衆に衝撃!!

衝撃の階段落ち、イライラしたままのダンナが突き飛ばした奥さんが、鎌田行進曲張りの階段落ち!ここだけはスタントだと聞いてちょっとガッカリした勝手な私(爆)。希望としてはここで抱き上げてほしかったけど、そこが当時の日本人ということなのかなあ。
足を引きずりながら階段を上ってダンナの元までたどり着き、過去を見ずに手を取り合って生きて行こう、それが夫婦なのだとかなんとか、なんか口当たりのいいことをダンナが言って、縋り付くように抱き合う奥さん、田中絹代が切なくて。
だってダンナに階段の上から突き飛ばされたのに!時子!時子!と呼ぶだけで抱き起しもしないんじゃ、ちょっと許せないなあ!

ああでもそれが、世相というものなのかもしれない。年若いとはいえ夫婦がしっかと抱き合い、田中絹代がお祈り式の手の組み方でダンナの背中をぎゅっと抱きしめるクローズアップは、ちょっと頬が赤くなるようなラブ、確かに新しい時代を感じさせた。 ★★★☆☆


カニを喰べる。
2015年 84分 日本 カラー
監督:毛利安孝 脚本:毛利安孝
撮影:西村博光 音楽:
出演:染谷俊之 赤澤燈 東亜優 水澤紳吾 中里ひろみ 谷口千明

2015/3/25/水 劇場(新宿K's cinema )
あの、「おのぼり物語」の監督さんの新作と知って、スケジュールにばっちし組み込んでわくわくと観に行く。単館の午後一回の公開っつーのはツラいが(涙)、それでもそれでも、コレ!と思った監督さんの新作がなかなか出てこない現状はツラいものだからさあ。
いやあ、待たされた、待たされた。しかも今回は、オリジナル脚本、でしょ?それも凄く嬉しい!まあ……バジェット的にはかなり抑えられた感あれど(爆)、それでもつながるものがなければ、つながってはいかないんだもの。

バジェット的には、などと思ったのはヤハリ、この主人公の男の子二人、だよなあ(爆)。知らん顔だし、同じような長髪の茶髪の濃淡だけって感じだし(爆爆)。
まあ正直最後まで、その基本的感覚が崩れることはなかったんだけれども、それは勿論、この二人がお互い同じレベルのヘタレ男子であり、だからこその友情のようなライバルのような、どれだけ時が経って再会してもその時の男子の気持ちが変わらない、っていうツインズみたいな可愛らしさが生じてくる、ってあたりのネライなんだけれども。背格好、肉の付き具合、足の速さまでソックリなんだもんなあ。

足の速さまで、というのは劇中この二人が、女の子からのチューをゲットするために(いや、違ったかな。なんかそんな条件を言っていたような)必死こいてグラウンド2週する場面で発揮されるんである。
なるほど、テニプリミュージカル出身だけある、二人とも、って意味わかんないか。テニプリとその周辺の?舞台を行きつ戻りつしているキャリアのこの男の子二人が、これからどれだけ活躍していくのかは、正直判らない。彼らはいい意味でも悪い意味でも、本作の中ではどちらかが突出することなく、違いが際立つこともなく、同じようにヘタレの道を進んできた男子二人、という印象から抜け出ることはない。
でもそれが、最後には可愛らしい印象に変っていくのだから正解なのだろうけれど、役者としての彼らを思うとふと、そんなことが気になったりもするんである。

てか、カニを喰べる、喰べに行く話なんだってば。まあ、このタイトルを目にした時から、そしてその誘いをヘタレ男子その1がした時から、こらーたどり着けねーなと確信したけれどもね。
ヘタレ男子その1が、その2をこの旅に誘うところから話は始まる。その2は日雇いのバイトの連絡をパチンコ屋のだだっ広い駐車場で受けたところ。
そのだだっ広い駐車場にせせこましく寄せられたボロ椅子に座って寄っかかったら、あーああーと、背もたれバキッといってひっくりかえる。このタイミングを二度繰り返す絶妙さで、ツカミはOK!このあたりは「おのぼり物語」で見せてくれたほのぼのとしたユーモラスが確かに健在、という感じで嬉しくなるんである。

ヘタレその2は軽トラを駆ってやってくる。スマホで話している二人が、目に見える距離まで近づいているのに、そのままスマホで話し続ける、というのはベタではあるけど、妙に可笑しい。
しかも、カニを喰べに行く旅に了承したその2男子をちゃんと軽トラを止めて乗せてやらずに、必死こいて窓から頭を突っ込んで乗り込むのも、これもベタなんだけど、ほのぼのと可笑しい。
ベタ、というのは、それだけなかなかやらない描写ということなんだよね。こんなの今時やらないだろ、って。だから懐かしく、改めて、笑えるんだよね。なんか落語みたいにさ。

富山にいる先輩に、カニ喰べ放題と温泉の約束をとりつけたとか言ってるくせに、改めて電話で確認すると、全然話が通ってない。しかも二人ともお金がなくて高速に乗れなくなるし、そうなると当然ガソリンもヤバくなるし。
途中、中学の野球部時代の、二人にとっては「万年補欠」のダメダメな大滝君を拾い上げて、一緒に旅に誘うという名目で、金を出させる計画を立てる。
しかし大滝君は、もう年相応にすっかり大人になって、スーツ着て、仕事でもそれなりの地位につき、家庭を持って、「これから息子を保育園に迎えに行かなきゃいけない」と言う。

「二人とも、いい加減大人になれよ。」“あの大滝”からそんな説教を受けて、二人は荒れまくる。そこはとある廃校と思しき、その体育館。野球部だったというのに、バスケ対決する彼らはそれもソツなくこなし、荒れまくるという描写で、ボールをぶつけ合うスローイングもお見事である。
体育会系がシッカリ出来ていた男子は、そんなヘタレじゃない筈なんだよね、と思うのは、古い考えなのだろーか。今はそれを受け入れてくれるような社会ではないのかもしれない……。

そんな二人が出会うヒロイン。登場からして摩訶不思議。ケンカしてふてくされて体育館の床に寝ていたヘタレ2が、寝返りを打ったら目の前で寝ている女の子。
なぜか跳び箱の中に頭突っ込んで犬神家の一族になってるヘタレ1をズルズル引き出して真相を聞くと、飲み屋で意気投合して、一緒にカニを喰べにいくことになった、という。
そして二人とも一致した意見が、中学野球部のマネージャー、二人ともに岡惚れしていた女の子にソックリだということ、なんである。

このヒロインを演じるのが、彼女に遭遇するたび、あの初子がねえ……と感慨にふけってしまう東亜優嬢。本作の彼女は二人の男をいわば手玉に取るような役柄だけれど、その二人の男にとっては青春時代のマドンナに重ね合わされているから、清純な雰囲気は勿論、崩れることはないんである。
でも、なんか、不思議な雰囲気が最後まで漂っているんだよね……。彼女は自分が二人の青春のマドンナにソックリだということを知って、「実はホントにそうなんだよ!!」とか言って惑わすんだけど、「ウッソだよ、バーカ!」とどん底に突き落とす。
でもそんなウソを言った理由が、二人がいきなりテンション上がったことにブンむくれたというのは確かにカワイイ理由なんだけど、後々の展開も鑑みると、なんともこの女の子の存在は不思議で、本当にいたのか、生きていたのか、などと思っちゃうんだよね……。

それは、二人がこの旅で色々あって、なにか、決着をつけるために、そのマドンナ、中学野球部のマネージャーをやってた子に会いに行こう!と行ってみたら、ほんの半年前に亡くなっていた、というシークエンスがね、あるからなんだよね。
憧れのマネージャの存在があって、その子にソックリの子が現れた、という時点で、なあんとなく予測された展開ではあり、仏壇に飾られた写真は当然、東亜優嬢その人であり……。

旅の途中に現れたその不思議な女の子は、「(自分たちと同じように)プラプラしてる」という認識で彼らはいたけれども、ヘタレ2がガソリンを買いに行って帰り道に迷って、怪しげなイタコのばーちゃんが坐っている森閑とした路地のシャッターかなんかに、ぺらりと尋ね人の貼り紙が貼られてて、それがまさしく、その女の子、でさ。
確かに彼女が名乗った通りの名前だし、後に死んでしまっていたことが判明するマネージャーの子とは違うことは明確にされているんだけれど、なんかちょっと、ゾクリとしたんだよね……。

だってその貼り紙は、そのシーンだけ。そこらじゅうに貼られていた訳じゃない。はがれかけてぺらぺらしてて、もうそれを貼った家族も諦めかけているような雰囲気が漂ってた。そう、もう死んでしまっているんじゃないかって、家族すら心のどこかで思っているようなさ……。
いきなり突拍子もなくかなり以前の映画を、突然思い出しちゃった。「死びとの恋わずらい」こんな風に、尋ね人の貼り紙でゾクリとした記憶があった、多分(爆)。

結果的にはこの子は死んでなぞいなくて、その生きている彼女に、ヘタレ二人組は改めて会いに行くんだから、明るい展開の筈なんだけどね、どうも……。
二人憧れてたマネージャーの実家に行ってみたら亡くなっていたことが発覚して、悄然とした二人は、あの怪しげなイタコばーちゃんになけなしの有り金を払うことにする。マイケル・ジャクソンだって呼べるよ、とあっさりと言い放つ時点ですっかり怪しいと確信しつつも、それでも二人は、あの憧れのマネージャーをまず呼び出す。でもこれが、二人の名前もまず間違えて、あっという間に終わっちゃうアヤしさで、二人は当然、あーあ、やっぱりインチキだったとガッカリするんだよね。

でも、次にその不思議少女、マネージャー女子にそっくりだった子を呼び出してほしい、というと、ひらがなのファーストネームだけだったのに、イタコばーちゃんは目を吊り上げて「バカにしてるのか。この子はちゃんと生きてるじゃないか」と言い、ヘタレ男子それぞれへの彼女の印象をピタリと言い当てるんである。
特に、ヘタレ1に「一緒にどっか行っちゃおうよ」とカマかけたのに、ヘタレ友情を優先したコイツに対する「いくじなし」は決定的であり、それをヘタレ2がどういう意味か判っていないあたりが、なんともセツナ可愛い訳で。
でも彼女もホントにヘタレ1を気に入って誘いをかけた訳じゃなかったと思うなあ。まあどちらかといえば確かにヘタレ1の方がカワイイ顔してるけど(爆)。

彼女がヘタレ1にカマかける、ヘタレ2がガソリンを買いに行ってる間に、ヘタレ1と彼女が廃校に残されるシーンが、これまたベタな青春を再現してくれてなんともイイ訳。
カーテンの陰に誘い込んで、シルエットでキスを見せるなんて、うううぅむ、私世代は萌え萌えだけれども!!だからこそ、彼女の生存確認?がどうにもアヤしくなるなあ、てトコなんだけどさっ。
結局そのダイレクトな誘いにも乗らず、ヒミツの待ち合わせの場所にヘタレ男子二人して迎えに行っちゃうという、まさに中坊そのままか!!というシーンに、彼女が特に表情を明確に変えずに乗り込むのが、その時はあれっと思ったんだけど、その後を考えると……。

その後、とゆーのは、このなけなしの軽トラを彼女が乗っ取って、二人を置き去りにしちゃうとゆー展開さ。ヘタレ友情に嫉妬したのか、自分自身の生き方を考え直して出発のために乗っ取ったのか、それとも……。
でもね、でもでも、ここまで来ても、思っちゃう。本当にあの子は存在していたの??って。だって、男二人を手玉に取って、車を奪って去っていく、なんて完璧じゃん。実は存在してなかった。死んでたマネージャーの姿だったんじゃないかって、マネージャの死の事実を知るにつけ、余計にそう思っちゃって、どうしようもない訳。
なんだろう、この不思議感覚……。確かにラスト、この男子二人は、秋田で元気に暮らしているという彼女に会いに行くのに、希望的未来のラストなのに。

それは、あのイタコばーちゃんがホンモノだと確信した二人が、もう一度憧れのマネージャーを呼び出して、楽しげに思い出話をする、そのシークエンスを音声オフで見せる、それこそがハッピーエンドのように見せる、それがあったからかもしれないと思う。
ヘタレ男子が、秋田に行く費用をねん出するのもヘタレ手段、ころりと落ちてた一粒のパチンコ玉で見事費用をゲットし、レンタカーを借りて、一路秋田に向かうんである。本当に出会えるのかなあ……「→秋田」の看板がテキトー過ぎたしなあ……。

イタコばーちゃんと言ってしまったが、水晶玉を持っているんだから、占い師??でも降臨させる場面では、水晶玉はすっかりそっちのけにのけてたしなあ。
ついでに、一緒にいたひよこちゃんものけられてた。妙に従順なひよこちゃんが可愛くて、こーゆー細かな描写がなんともいい印象を与えるのよね。

そしてそのばーちゃんが、「私、アレルギーで食べられないからさ!」と貰い物だというカニを、二人に持ってきてくれるからさ!!
いやー正直、タイトルは物語の起動にしかならないのかと思ったよ。こうしてしっかりと着地させる、いわばオチをしっかりとさせるのは、もしかしたら優等生な構成の生真面目さなのかもしれないと思うけど、実際、やり投げな作品も多いからさあ、嬉しい安心感だった。★★★☆☆


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