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「つ」


2017年鑑賞作品

追憶
2017年 99分 日本 カラー
監督:降旗康男 脚本:青島武 瀧本智行
撮影:木村大作 坂上宗義 音楽:千住明
出演:岡田准一 小栗旬 柄本佑 長澤まさみ 木村文乃 太賀 矢島健一 北見敏之 安田顕 三浦貴大 高橋努 渋川清彦 りりィ 西田尚美 安藤サクラ 吉岡秀隆


2017/6/14/水 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
キャストスタッフ共にあまりにも大メジャー感が漂うので、却って腰が引けてしまい観ないままスルーしかけたのだが、渋川清彦の名前を見つけてしまっては、足を運んじまうんである。しかし悲しきかな、彼はあっという間に死んじまうのだが……。
でも言ってしまえば一番のキーマン。彼の死がなければ物語は始まらないのだから。渋川氏は確かに一見コワモテにーちゃんだが、一番の魅力は人懐こくて気のいいあんちゃん、てなところなのになあ、やっぱり判りやすくコワモテで使われちゃう、しかもこんな大メジャーでさ、とついぶつぶつ言いたくもなる。
しかしこの役はどうしたって絶対の悪人でなければダメなのだ。死んで正解、そのために人生を狂わされた人たちが絶対の善人で、罪の意識は殺した相手ではなく、そんな事件を起こしたことによって守りたかった人を苦しめてしまったことこそ。そのことに心を痛めながら四半世紀を生きている三人、という物語なんだから。

と、落ち着いて考えてみると、渋川清彦の立場がまー、ないない。彼の立ち位置は、あれはなんでしょうねえ。いわゆるヒモ?いや、女衒的な?安藤サクラ演じる涼子を大阪から探し当ててきて、「フーゾクの方が儲かるだろ」(実際は大阪弁)とニヤニヤ言い放つ、いかにもなチンピラ。
でも、腐れ縁というか、やはり恋人という部分はあったに違いない。セックスをしているというのはその理由にはならんが、探し当てた、ということは、涼子は彼から逃げたんであり、そして行方をようよう突き止めただけの情熱が彼にはあったんであり、それは他の女に乗り換えず、彼女でなければいけなかった、ということなんじゃないのかしらんと思うのは、私が渋川清彦ラブだからそう思っちゃうのかしらん。

ところで舞台は北陸。もう物語の最初から、寒そうな吹雪がばーばー吹いている。そして時間は25年前にさかのぼるんである。アラ、夫婦共演ネと心躍った安藤サクラと柄本佑だが、時間軸が違うのよね。
喫茶「ゆきわりそう」の店主として登場する涼子が面倒を見る、三人の子供……ネグレクトやらなんやらで行き場をなくした三人の少年の内の一人が、後に哀れ殺されてしまう悟。しかし最後の最後に、今の二人が邂逅する場面が現れる。それはちょっと心じーんとするんである。

でね、そうそう、涼子を追ってきたクズ男を見かねて、少年たちは大胆にも殺人計画を立てちゃうんである。涼子さんを救いたい一心で、子供らしい後先を考えない気持ち。
吉岡秀隆演じる電気屋さんの山形=山ちゃんが、結局優しすぎてさ、彼が何にもできなかったってことも、あると思うよ。吉岡秀隆ならさー、いかにもだもん(爆)。

後に山ちゃんは言うのだ。自分たちのせいで涼子さんたちの人生を狂わせてしまった、と懺悔する篤に、あの事件があったから、僕は彼女と一緒に生きていくことが出来た。すべては運命なんだよ、と。
あの事件のおかげ、とは言わなかった。さすがに、というか、そういうことではないのだと思う。不幸な出来事も幸福な出来事も、その先にどう転がるかは判らない。それがすべて、運命なんだ、そんなことを山ちゃんは言いたかったんだと思う。そして今、涼子さんのそばにいられて僕は幸せなんだ、そう言いたいんだと思う。そこまで直截なことは言わない、日本人ですもの(爆)。

うーむ、なんかいろいろすっ飛ばしてるけど。でもね、この殺人事件のことがどう処理されたのかが明確にならないまま物語が進んでいくんで、ちょっといろいろ勘繰っちゃったんだよね。
涼子さんをチンピラから救い出すために殺人計画を立てた三人の少年だったけど、当然そうは上手くいかなくて、逆襲されて、でもスキを見てナイフを突き立ててしまって、涼子さんが少年たちを守るために自らそのナイフを握って抜いて、返り血を浴びた。
「忘れなさい。もう会わない。これからは他人よ。いい?いい!?」返り血で真っ赤にそまった涼子=安藤サクラの壮絶な表情に息をのむ。この時山ちゃんも飛び込んできたけれど、何も出来なかった。彼女のケンマクに従うばかりで。

でね、「私に任せておきなさい」てのがどーゆー意味だったのか、死体を隠匿したのかなあとか思ってたから、彼女の言うことを守って25年間会わずにいたことが、その秘密を保持することなのかと思って、さあ……。
実際は、涼子さんが自分だけで罪をかぶって刑務所に入り、その時に身ごもってしまっていたそのクズ男の赤ちゃんを産み、その赤ちゃんが後に、三少年の内の一人の嫁さんになるという、結構ビックリなメロドラマに発展……って、そこまで言ったら凄いオチバレやわ!まあいつものことだけどね!!

涼子さんが自分ですべてをかぶって服役したことぐらいは、当然三人は知っていた筈なのだから、そこんとこは明確に示してほしかったなあ。
25年たって別の殺人事件が起こり、三人がお互い友人同士であることが知られることを恐れる、ってのが、そのことで過去の殺人事件があぶりだされるんじゃないか、という恐れを感じているように観客側としては思っちゃうから、さあ……。なくはないだろうけど、涼子さんが服役までして守り通した秘密、そんな、バレるかなあ??
てか、それを極度に恐れているのは四方のみ。全員が主人公のような映画だけれど、やはりトップに来る主役、岡田准一。過去の記憶を振り払うためのように、刑事になった男、なんである。

四方は、離婚危機にまで至っている嫁さんがいる。これが長澤まさみ嬢だってんだからゴーカである。ハッキリとは示されないけど、あれは流産しちゃった、ってことなんだろうなあ。それ以来すっかり仲がギクシャクしている。
そのせいでか、自分の子供を虐待死させた容疑者に、刑事の立場を忘れて逆上してしまうなんていうシーンが出てくる。うーん、これはかなり、ちょっと安直のような。

で、悟と東京で偶然に再会。こんな偶然、大都会東京であるかいなと思うが、それを言ってしまっては始まらない(爆)。
悟は、婿養子に入った会社が上手くいっておらず、金策のために東京に出てきていた。その会う相手は、他人になる約束だった筈のもう一人、啓太。この時に篤が何とも言えない顔をする時点で、この段階での三人の立場が見え隠れする。

悟は単純に、言ってしまえば純粋に、懐かしい友に会えたことを喜んでいた。啓太と再会したのがいつで、どういうきっかけだったのかは判らないが、こだわりはないように見えた。
今や刑事となった篤は、やはり後ろ暗い過去を気にしている空気を隠し切れない。そして啓太は……どうだったんだろう。先述したような、涼子さんとクズ男の間の子供をヨメさんにもらったなんていう、三人の中では最も複雑な事情と、自分の中だけにしまっておく筈だった秘め事を持っていた彼。
悟から何度となく金を無心され、オチがまだ明かせないというせいもあってか、かなり冷淡な態度に見えた。悟が殺されたという新聞記事を見ても、かすかに眉をよせるぐらいなものだった。

そう、オチが明かせないということはあったけれど……啓太が二人のことをどう思っていたのか、会いたいと思っていたのか、他人でいるべきと思っていたのか、なんかハッキリしなくって……。
ハッキリしているのは、もうすぐ赤ちゃんが生まれる今の嫁さん、その家族を大事にすること。彼女は里子。でもその両親はとてもとてもいい人たちで……。かつての喫茶店、ゆきわりそうの土地を、彼は買っていた。この時には、もしかしてここに死体が埋まっているのかも……などと想像しちゃったりして(爆)。

ちょっとねー、啓太役のおぐりんの芝居が凄くクサくて(爆)、嫁さんラブ!な感じを従業員たちに臆せず示すあたりは、ワザとそうしてんのかなと思って照れくささをこらえていたが、悟と会った(金を貸した)事実を隠しとおす芝居とか、「関係ないって言ってるだろ」あの台詞、おばたのお兄さんに真似されそうー(爆)。
岡田君の筋肉質の体躯に比例するような重厚演技、対照的に軽みのあるペーソスが魅力的な佑君の演技、その間に挟まると……おぐりんって、なんつーかいい意味でも悪い意味でも?ワザとらしい(爆)。なんか見ててドキドキしちゃう。

大金を得ることが判っている、その筋からは貸した相手である啓太が疑われるのは当然とも言えるが、送り出した家族が疑われるのも当然であり、あのオチは、意外そうで意外でもなかったような気がして、少し難しかったかなあ。
過去を暴かれることを恐れて、悟や啓太と昔馴染みだったことを言えないままバレちゃう篤はかなりバカなような。だーって、そりゃ早晩、バレるに決まってるじゃーん!岡田君の芝居が無駄に重厚だから(爆)、先述したように、あの過去の殺人事件は未解決で、その追及を恐れているのかしらんとか思っちゃったわけよ!

そういうこともなくもなかったのかもしれんが、でも涼子さんが一人罪をかぶって、解決?している訳だからさあ……。そういうことを思うと、篤の行動はどーも解せないワケ。
本作は昨今の映画には珍しくオリジナル脚本、しかもこんな大メジャーでオールスター映画では凄く珍しい。とってもそこが嬉しかった部分ではあれど、意外にそこでツメの甘さが出ちゃったんだとしたら、ちょっと本末転倒じゃんとか思っちゃう訳!

で、そう、ちょっと脱線したが、可哀相な悟君は、ヨメと、彼女と出来ていた従業員によって保険金目当てで殺されちゃったわけ。
……殺人も、保険金っておりるのかしらん??殺人事件なんだから、そらー徹底的に犯人をあぶりだそうとする訳で、そこを逃げ切れると思ったのか……とは思えないあっさり加減なのも(爆)。

悟君の女房を演じるのが西田尚美とゆーのが、え、随分年離れてるよね……とまずついつい思っちゃうのは、いけない??そりゃ彼女はとても若々しくてチャーミングで、佑君と合わないということはないが、姉さん女房だということも特に言わず、彼の年齢で中学生の娘がいるっていうのは、なくはないけど、少ぅしムリがあるんじゃないのかしらん??
若い従業員とイケナイ関係に陥るというのはワクワクするけど(爆)。それこそ西田尚美と太賀君となら、親子とまでは言わないまでも、それに近いぐらいの年の差!太賀君ならそーゆーの、確かに似合うかも。

篤はすっかり啓太を疑っていたから、自身の立ち位置がバレて捜査から外れても、啓太を追及する。その篤を当然警察側も追うんである。
啓太の嫁さんがちょっと危なくも無事赤ちゃんを出産する前に、真犯人が発覚し、篤と啓太は関係回復。ヨメさんの出自を始め、篤に隠していたいろんなことを明かして、啓太はヨメさんが無事出産したことに涙をこぼす。この時だけは、おぐりんいい演技だったよ(爆)。

一番のクライマックスは、真犯人がどうこうということではなく、この三人が最も気がかりだった、守りたかったのに逆の立場に追いやってしまった涼子さん、そして山ちゃんの存在であった。篤がいわば逃げ回っていた間に、悟と啓太は、二人に会って、いわば罪滅ぼしをしたってことなんだよね。
交通事故に遭って高次脳機能障害になった涼子さんと、彼女に付き添う山ちゃん。過去回想の形だけれど、もうすっかりうつろになってしまった涼子さんに、一生懸命アクロバティックにアプローチする悟、つまり今夫婦!の二人が、違う年齢と違う人生を生きてここで対峙していることに、台詞も声もないだけにひどくじーんとしてしまうんである。
正直、最後の最後、感動的なクライマックス的に、ジャニーズの演技派大スター、岡田君が涼子さんの胸に顔をうずめる大本命があったにしても、きっと負けちゃったと思うんだよなあ。

ラストは、啓太が自分で買った土地、ゆきわりそうの、その朽ち果てた建物を自ら運転するショベルカーで崩していく。何か、ちょいと、ニューシネマパラダイスを思い出したりするのは、映画バカの感傷過ぎるかしらん。

個人的には同僚刑事、ヤスケンのミステリアスなのにライトな演技に嬉しくなる。彼はかなり展開のカギを握る人物。やー、嬉しいなあ。★★★☆☆


月子
2017年 122分 日本 カラー
監督:越川道夫 脚本:越川道夫
撮影:山崎裕 音楽:宇波拓
出演:三浦透子 井之脇海 奥野瑛太 信太昌之 鈴木晋介 杉山ひこひこ 大地泰仁 信川清順 吉岡睦雄 内田周作 礒部泰宏 岡田陽恵 川瀬陽太

2017/9/6/水 劇場(新宿K’scinema)
「海辺の生と死」で、きっと今注目の監督さんということもあろう。「アレノ」は印象的だったこともあって足を運んだけれど、うーん、うーん、好きになれないなあ。
単なる作劇だからということは判っていても、障害者の人が作業所で虐待を受けている、と、まるで社会批判のように簡単にそんな筋立てをすることに、何とも言えない嫌悪感を感じてしまう。そういう場所もあるのだろう、ニュースでも見たさ、確かに。でも、でも、ほとんどの場所が熱意のあるスタッフによって運営されている筈なのにさ!
障害者を登場人物に据えると、こういう可哀想な物語、けなげに生きてる物語にどうしてもされがち。そういう傾向がホント、イヤだった。

こんなこと言っちゃアレだけど、なぜ知的障害の女の子をヒロインにしたんだろうと、思う。先述の単純な作業所に対するイメージの描写と同じように、単純なドラマチックと社会派に見えるようにするだけに感じてしまう。
どうしてもこの女の子、である必要性より、泣きわめき、暴れ、朗読するように会話するザ・知的障害の描写に対する作家的欲しか感じられないのだ。

月子を演じる三浦透子嬢はものすごく頑張っているとは思うが、見た目が普通に可愛い現代の女の子で、知的障害者はコレ!みたいなお芝居は熱演だが、月子という女の子にしかない個の部分が立ち上がってこないのだ。
だってそりゃそうだ、健常者がそうであるように、障害者も千差万別なのだから。それが、感じられない。表面上描写だけで、心に降りていくリサーチがないように思ってしまう。

てゆーか、そもそも、主人公の男の子、タイチの言動が意味不明である。物語冒頭、彼は無断欠勤を何日も続けたところを先輩に乗り込まれて、父親の死体を発見される。
首を吊ったのだという。そしてそれからゴミ屋敷と化した家で、何もせずに父親の死体と一緒に暮らしていた、とこういうことである。

後に語られるように確かにこの父親はクズだったのだろうが、父親の死に幾日もそこにうずくまっている理由が判らない。そもそも役立たずだったと糾弾されるタイチは、父親と同じクズの血が流れていたのか、いやいや、そんなものは遺伝なんかしない、もしそう思って描写しているならかなり問題アリ。
なんか、この子をどう描写するつもりなのかが判らないんだよね。実はお前が殺したんじゃないかと勤め先の社長に言われ、力なく首を振るタイチだが、万札を三枚渡されて、クビになった。厄介払い。この描写で、世間は冷たいなどと言うつもりには到底、なれない。

父親の骨を持って呆然としているタイチが、月子と出会うんである。いかにもさびれた田舎町の、さびついた橋の上で、月子は鳥に向かって身を乗り出している。
あんなにぼーとして、他人になど興味も何もないように見えたタイチが、なぜ月子に関心を持って、心配して、危ないよ、と声をかけたのか。凡百の解釈でいえば、同じ孤独の魂を感じたから、とでもいうところだろうが、怖がり嫌がる月子を引きずり倒すように連れまわすタイチに、そんな優しい解釈はしたくないなあ。つまりそれが、映画作家の絵心をシゲキする障害者キャラ、ということに見えちゃうから、尚更ね。

自分の生家は、海の見えるところ、そう、歌うように月子は言った。何度となく作業所から逃げ出し、スタッフがほうほうのていで彼女を捕まえ、連れ戻していた。……それにしても、作業所ってのは障害者の収容施設じゃないと思うのだが。
通所、だよね、作業所だったら。月子は親に捨てられたのだとスタッフは言った。ここで生きていくしかないのだと。それだと作業所、じゃないよなあ。作業所、って言ってたと思うんだけど、施設じゃなく。「作業所から勝手に抜け出して!」って言ってたと思うんだけど。施設から作業所に通所していたということかな。でもそーゆー感じには聞こえなかったなあ。

まあそれは、私の勘違いかもしれない(爆)。で、月子の気持ちを勝手に(爆)汲み取ったタイチが、彼女を勝手に連れ出すんである。
いや、その前に、夜の街をさまよう月子と一夜を共にする。いや、エッチじゃなくて(爆)、心配して一緒に過ごし、弁当など買ってあげるが、彼女はちっとも食べない。
その後、生家を探す旅中も、全然食べず、牛乳しか飲まない彼女は、なんだろこの描写、施設での何かイヤな記憶があったとかいうこと??いやいや、そんな優しい解釈をしてやる必要はないか。他人に警戒してたってだけかな。

月子は母子家庭、だったんだろうなあ。作業所(施設?)スタッフは、「親は一度も面会に来ない」という表現にとどまっていたが、月子の口から出る記憶は、お母さん、だけなのだから。
月子といると頭がヘンになる、と言い残して娘を“捨てた”彼女はしかし、娘に大切にしなさいと、指輪を授けた。きれいな色の小さな石のついたその指輪を、まるで恋人からもらったみたいに、左手の薬指につけている月子。母子家庭、これもまた単純な記号のように思えてフェミニズム野郎の私はムズムズするが、キリがないので、先に行く(爆)。

結果的に月子がたどり着くのは震災で津波の被害のあったいわきであり、月子の持ち物から住所を探り出してタイチが何度電話をかけても通じないのは、そりゃそうなのであり。
でもさでもさ、それは住所見たらそら判るんじゃないの……。駅に着き、電車もバスも通ってないと言われ、心優しい住人に近所まで送ってもらい、傾いた家屋や、家屋の基礎しか残っていないだだっ広い空き地や、フォークリフトが淡々と作業する場面を見ても、イマイチ判ってない風って、どーゆーことなの。

だってさ、訪ね歩いて工事現場作業者っぽい男(川瀬陽太。彼、出まくりだなー。ちょっとインディーズかかってると、必ず出ている。働き者……)が案内してくれて、「大きな地震があって、津波で全部さらわれた」なんて、そんな説明、普通日本人にやらねーだろ。
えぇ、マジでここに来るまでそれが判ってなかったの、いや、百歩譲って月子の方は、……こういう言い方はヤだけど、そういう知識の吸収は出来なかったのかもしれない。でもタイチがそれを判ってなかったっていうのは、さすがにないんじゃないの。何これ、おとぎ話??

そもそも、こんなバッチリ被災地なんだったら、当然被害に遭っていることは想定できる訳で、「親はずっと面会にも来てない」ってスタッフの台詞はちょっとおかしくない??被災して、ひょっとしたら、どころか、多分確実に、亡くなってしまった確率が高いことは判る筈じゃない??
なぁんかね、最初に言及した作業所のところから始まって、ツメが甘いというにはあまりにあまりな部分が多すぎると思うんだよなあ。

旅の途中、お金の乏しい二人は野宿が多いんだけれど、警官から職質されて仕方なくラブホに泊まったりもする。そこでタイチの手を自分の乳房にいざなう月子にショックを受け、「そういうことをさせられていたんだ……」と彼はつぶやくんである。
母子家庭と思しき、と思うと、これもまた作業所(か、施設か)のことなんだよね。なんて単純な発想、てゆーか、これで社会派デス、みたいに出してくるのが凄く、イヤ!
……なんて思っちゃう私の方が偽善者かも?でもさぁ……これって、頭が弱い女の子を意味も判らず虐げてた、っていう感覚が働いてて、凄くヤだなあと思うんだもの。

そういやあ、「頭を強く打って、バカになった」なんていう台詞が月子からこぼれる。頭を打って知的障害……なくはないのかもしれないけれど、その設定にしたことで理解が浅い気がしてしまうのは、気にしすぎ??つまり、不幸だったのだと、運が悪かったのだと。知的障害は、障害であり、それを芝居させ、その人自身のアイデンティティが見えてこないのはそのせいのように思えてさ……。
いや、いいよ、頭を打っての障害っていうのなら、でもそういう設定にするならば、そうなってしまった経過がある筈。それこそ親が絡んできて、罪悪感にさいなまれていたけれど、自分では対応しきれなくて投げ出した、とかさ……。
そういうのもなくて、“頭を打ってバカになった”はないんじゃないのかなあ。じゃあなぜ、先天性の障害の女の子ではいけなかったのか、何かそこに差別を感じてしまう、のは、考え過ぎなのだろうか??

なんか後半いきなり、タイチと月子は判りあうようになる、っていうか、親密になる、っていうか。それまで散々、嫌がり座り込んで動かなくなる月子に手を焼いてタイチがキレる場面があるのに、特に何のきっかけもなくそうならなくなる。きっかけもなく……生家が流されていたことを知ってからかなぁ。
あ、そうそう、ひとつ、基本的な疑問があるんだよね。生家の場所が判らないにしても、なぜ二人は渋谷に出たのだろう。どー考えても、海の見える場所ではない渋谷に出た意味が、判らない。そこで散々、タイチは座り込んで動かなくなる月子に手を焼く訳で。
つまりね、あの有名なスクランブル交差点でね。その画のためだけに渋谷を選んだとしか思えない。そしてその選択は、あまりにベタ過ぎる。

それになー、娘を“捨てる”にしても、行政の問題的に、自治体を超えてのそれは非現実的なんじゃなかろーか……。つまりさ、二人の道行つーか、これをロードムービーにするためにそうした無理な設定をかましたんじゃないか、って思ってさ。
しかも行く先はいわきでしょ。二人は震災の存在を知らない。あり得ない。ファンタジーだよなあ。そして、あの震災をファンタジーにしてほしくなんてないから、凄く重たい気持ちになっちゃうんだ。

夜の場面がやたら多くて、目を凝らさなければ二人の姿が見えなかったり、かなりの疲労を感じる。最後の最後、行き場がないまま歩いていく二人は海に着き、波間に歩いてゆき、そこでエンドとなる。
うー、うー、うー、なんてありがちなラスト。海の中に入っていったカップル二人、っていう画って、古今東西の映画で散々見つくしてきたよ。一応社会派ってことなら、こんなファンタジーで締めないでほしい……って、そうか、さっき私、ファンタジー、って言ったわ。二人がこれからどうなるかなんてリアルに心配する方がアホだということなのか。★☆☆☆☆


月と雷
2017年 120分 日本 カラー
監督:安藤尋 脚本:本調有香
撮影:鈴木一博 音楽:大友良英
出演:初音映莉子 高良健吾 藤井武美 黒田大輔 市川由衣 村上淳 木場勝己 草刈民代

2017/10/23/月 劇場(テアトル新宿)
初音映莉子嬢は「ノルウェイの森」でティーンの記憶から10年ぶりぐらいに急に浮上してきた時にビックリしたけど、それ以来不思議な魅力でコンスタントに出続けてくれているのが嬉しい。
今回は、清冽なヌードも見せてくれる。この泰子、浮遊する女の子、もう30も越えた大人の女性なのに、現代社会に生きていくのに定まらないどこか幼い感じ、コミュニケーション能力に欠けている感じの“泰子ちゃん”がもう見ていて……たまらなく不安定で、しっかりせい!と言いたくなって、でもたった一人で足元を見つめて生きている彼女がいとおしくて、抱きしめたくなる。

特異な人生を送ってきた。いや、今やこんな人生も、そうそう珍しいものではないのかもしれない。最初に示される記憶は幼い頃、同じ年頃の男の子と家の中でキャッキャキャッキャ遊んでいる風景、縁側でタバコをふかしている女性に二人して甘えかかる。
当然、きょうだいと母親と思いかけるが、でもこの時点でちょっと違うかもしれない……という雰囲気は既に漂い始めている。どうしてだろう。この二人がきょうだいにしてはぴったりと年が近い感じがするからか、男と女のきょうだいにしてはぴったりと仲が良すぎるからか、そして……タバコをくゆらす女が、母親の空気をまとってなかったからか。

母親の空気、なんて。そんなものは既に今の現実、幻想だってことは薄々判っているつもり。そして幼い頃にぴったりと仲が良かった幼い男の子と女の子が20年の時を経て再会した時、「子供の頃みたいにやって」と大事なところを触りあいセックスに至るのを見ると、衝撃を覚えつつ、ああ、あの時感じた“ちょっと違う”感覚はそういうことだったのか、と思う。
そして幼い頃の記憶は、このただれた感じの“母親”が女の子の前から突然姿を消すところでぷつりと途絶える。思えば、“母親”がいなくなったということが大きくて、この時男の子も連れられていった、という感覚はあまり、ない。
雨の中、女の子の父親がやってくる。あんな奴は忘れてしまえ、という。母親が勝手に出て行ってしまった、という描写かな、とこの時には思いつつ、やはりもやもやとしたものが残り続けた、のが事情が判ったのが、その男の子が突然泰子の前に現れたから。僕だよ、智だよ、と言って。

高良健吾。現実離れした美しい男の子。原作は未読だが、霞から立ち現れるように現れるこの青年がいずれは結局消えてしまうのが、登場早々予測できてしまうような智にピッタリなのではないかと思う。早々にオチバレで申し訳ないが、あのラストシーンはやはりそういうことなのだろうと思う。違うかな?
あの“母親”は智の母親。ずっとずっと“世話してくれる”男の間を渡り歩いてきた。ある期間暮らした後、特にきっかけもないような感じでふらりといなくなる。そしてまた違う男の世話になる。そんな人生。

その中の半年間に、泰子の父親がその相手だった。演じる草刈民代に衝撃を受ける。まさにそんなただれた女を体現している。染め続けてつやがなくなってしまったような赤い髪、重たくはれぼったいまぶた、それでもいつも女くさいひらひらと安っぽいワンピースを着て、しどけなくタバコをくゆらせている。
りりィさんかと思った。でもりりィさんはもういないし、もっと年をとっていたし、などと思って……。これが草刈民代だということに、本当に衝撃を受けた。
彼女もまさに、直子さんなのだ。息子からお母さんではなく、直子と呼ばれるような頼りない女。でもその息子もやはり、そんな根無し草の人生を母親から引き継いでしまったのだろうか。

この直子さんに去られてから、泰子とその父親の人生もまたなかなかに厳しいものだったことが後に明かされる。直子さんの登場がきっかけで母親は既に家を出てそれ以来音信不通、直子さんが出て行った後父親が連れてきた女性に泰子はなじめず、後にその女性は鉄道自殺を遂げてしまう。
後に直子さん、智、そして泰子の異父妹と奇妙な疑似家族を形成した時に泰子は、その中から取り残されたように感じたのか、私の家族はお父さんだけだ、出ていけ、出ていけ!!と取り乱す。その父親に対してだって、あの人は家政婦が欲しかっただけ、連れてきた女の人はそうだったのだ、などと言い募るのに。
ああ、そうだ。あんなただれた直子さんでも、泰子にとってはなぜか、なぜだか母親だったのだ。実の母親の記憶はほとんどない。でも入れ替わりに来た直子さんだって半年ほどしかいなかったのに。出て行った母親より、置いて行った直子さんの方が、彼女のトラウマになったのだろうか??

その後酒におぼれて死んでしまった父親、その古い一軒家に泰子は今一人。スーパーのレジ打ちの仕事をつまらなそうにしている生活。それでも恋人がいて、結婚を間近に控えている。
何か、しっくりと来ない。だって全然、幸せそうじゃないから。恋人とも、全然それらしくないから。レジを打ちながら商品を収めにでも来たようなその男性と目が合って目配せをされた時、恋人のそれというよりは、はた迷惑な感じの仏頂面で返す泰子にそう感じたのだ。

いやでもそれは、突然現れた智に対しても大して変わらない。その後「子供の頃みたいにして」と言ってセックスしたって、そのつまらなさげな感じは変わらないのだ。心の中は、きっと、行かないで、もう置いていかないでと叫んでいるかもしれないのに。
いや、でも、どうなんだろう……判らない。泰子はそもそも、この恋人のことも好きだったのか、それとも結婚という平凡な幸せが欲しかったのか、そこまで強い思いじゃなく、とりあえずそんなところだろうと、思ったのか。

久しぶりに会った泰子と躊躇なくセックスもするし、子供が出来たことを聞かされても、多少は驚くもののすんなりと受け止めてそのまま屈託なく泰子のそばに居続ける智は、だからと言って泰子に対して好きだとか愛してるとか、結婚しようとか一緒にいようとか、言う訳じゃない。
ああ、こうして並べてみると、私が想像する、つまり女が想像する、期待する、愛、ではなく責任、の言葉は、なんと薄っぺらく、なんの確証もないものなのだろう、と思う。

この時点で、既に智と二人きりの生活ですらない。様相はもっと複雑を呈している。泰子の実の母親との再会を、テレビの再会番組を智が手配して実現させちゃうという、突然の展開にビックリしたりする。
涙ながらに登場した母親は有名フードコーディネーターで、その涙はウソっこ満点で、控室に戻ってくると、「あの再現ドラマはウソがあるわ。私は出て行く時、泣いたりしなかった」「女の人が来たのはいいきっかけだと思ったの」「私は連れていくつもりだった。でもあなたが行きたくないと言ったのよ」としれり、しれりと言葉を重ねる。

ああ、血のつながりなんてーのは、所詮こんなものなのだ。だからといって直子さんが、実の母親以上の存在だった訳じゃない。もしかしたら、世間一般的に言えば、「私をしつけようとした」という、直子さんのあとに来た、泰子言うところの「ひょろりさん」こそが、一般常識的にはそれに値していたのかもしれない。
でもひょろりさんは、言ってしまえば泰子になつかれず、もっと言ってしまえば泰子のその態度に苛め抜かれて自殺を遂げた。子供は残酷なものだ。自分の欲望のためなら、偽りの愛も正当化し、武装することもいとわない。泰子にとっての欲望は、偽りの愛は、その後酒におぼれた父と、そしてなぜか……直子さんだったということなのか。

で、実の母親が判明して、タネ違いの妹の存在も判明する。この妹、亜里砂は礼儀正しい好感の持てる女の子で、いい関係を保てそうな予感がしていた。
でもそのあたりで泰子の妊娠が発覚し、それは智の子供であり、泰子はそれをただただ放置して、恋人にも報告せず周りから伝わっちゃうという最悪の事態に陥っちゃう。

ちょっとこの泰子の考えのなさは理解できないっつーか、かなりぼーぜんとしてしまう。歴然とつわりに悩まされ、職場でもバレバレなのに病院にも行かず、そのまま。で、当然恋人にバレて修羅場になると、突然自分が被害者みたいな顔をして逃げ出す。なんなんだ、こいつ全然共感出来ねぇ、と思うが、そんなもんなのかな、判らない。
まぁ、正直、この泰子の造形は、その深いところが、想像して!気持ちを汲んで!みたいな雰囲気がじわじわ伝わってくる感じが、あんまり好きじゃないなあ、というのが正直なところで、でもそれが、その弱さが、泰子の、そして女のそれということなのかもしれないと思ったり。

で、つわりに苦しんでいるあたりで、亜里砂、直子さん、智との奇妙な疑似家族生活が進行しているんである。常に世話してくれる男の元に身を寄せている直子が、なぜ突然、ここに来たのか。マズいカレーを作り、朝からパック酒を飲み、何も楽しそうじゃないのに、なぜここに来たのか。
直子さんに陥落させられた男たちは、彼女が姿を消すと一様に取り乱し、その後の人生を狂わせられる。なのに直子さんは、いるべき時と去るべきタイミングを、自分にとっての最適なそれを、図っていつも漂っている。そんな直子さんが、最後、の直前、のこの時に、今はいない昔の恋人の家にふらりと戻ってくるのが、何か、何か……。

直子さんは、とても寂しい人。そんな気がする。渡り歩いてきた男たちからは間違いなくホレられていたに違いないのに、彼女自身は「みんないい人だった」というにとどまるんだもの。
誰も、誰一人、彼女が愛した人はいない、生きるために、ただその寄る辺なさの漂着場を、本能のままかぎつけているだけなんだもの。

それはとてもカンタンなのだ。ケンカした訳でもない、嫌いになった訳でもない、ただ潮時とフラリと出てきた直子さんが、広場のベンチでつまらなさげにタバコをくゆらしている。2時間もそこにいる、ことを、ずっと見ているおじさんがいる。声をかけてくる。どこでも送ってってあげるよ。そぅお。そして次の場面では、そのおじさんの家の縁側で、いつものようにタバコをふかしている。そんな感じ。
このおじさん、石材店のおじさんとカラオケスナックに興じている場面がある。ふと店を出て行ってしまうおじさん。階段のところでむせび泣いている。「こんな女が俺のところにいつまでもいる訳ない」「あんた可愛いこと言うのね」チュッとやる草刈民代のただれた色気にゾクリとする。
そう、このおじさんの直感は当たっていたのだ。どうして愛してくれる人のところにいないのか。その幸せが永遠でないことを知っているから、なのか。

「泰子ちゃんとなら、普通の生活ができると思う」智が言ったその言葉は、後から考えても、決して愛の言葉じゃなかった。なのになぜ、信じたいと思っちゃったんだろう。
時間が飛び、すっかりお腹を大きくした泰子が、新婚生活さながらの智との暮らしを営んでいる。直子が野垂れ死んだという知らせが入ってくる。そうなの……割と近くにいたんだね、と泰子と智はしみじみと言い合う。

そして、そして……智はいなくなってしまう、のだよね、あれは。翌日なのか、何日か後なのか、買い物かなにかから帰ってきた泰子が、家の中にいくら呼び掛けても智はいない。どの部屋にもいない。不安げマックスな泰子。
でも縁側を開け放って外を見た時、笑顔を見せたのは、そこに彼をみつけたんじゃなくて、やっぱり、「やっぱり」って、思ったんじゃないかって、そう見えた。私はそう、思ったんだけど。

もう一度、直子に置いて行かれることになる泰子が、あの頃と同じように子供の様に泣きじゃくる。田園風景の中、無防備なパジャマ姿で直子を追いかけてくる大人になれない女の子の姿。
そして直子の死を息子の智はあっさりと受け入れ、残されたバッグも手帳も火の中に投げ入れられるのに、泰子はそれが出来ないこと……でも、子供を産んだら、泰子は変わるのだろうか。直子さん、死んだお父さん、自分を置いていったお母さん……泰子の親の記憶を、彼女は越えられるのだろうか。 ★★★☆☆


妻という名の女たち
1963年 91分 日本 カラー
監督:筧正典 脚本:沢村勉
撮影:内海正治 音楽:団伊玖磨
出演:小泉博 司葉子 田中伸司 藤原釜足 北村和夫 東恵美子 八代美紀 左幸子 団令子 児玉清 当銀長太郎 小栗一也 三條利喜江 佐々蓉子 中村美代子 坂下文夫 長岡輝子 清水元 山田彰 一の宮あつ子 内山みどり 村松恵子 林光子 桜井巨郎 石黒達也 東郷晴子 桐野洋雄 向井淳一郎 古田俊彦 久野征四郎

2017/2/22/水 劇場(シネマヴェーラ渋谷)
司葉子も小泉博も私ひょっとして初??少なくともメインで見るのは初じゃないかなあ、ということもあって、ちょっと新規開拓ぐらいの気持ちで足を運んだのだが、小泉博にアゼン!いや、正確に言うと小泉博が演じる浩三という男にアゼン、なのだが。
なになになに、もー、信じられない、何あの終始真顔で口では自分が悪いとか絶対全然そう思ってなくて、言い訳というならまだいい、完全に自己正当化、つーか、本当に正論を言っているんだとでもいうようなあのしれっとした真顔!あの真顔!あーもう、ぶん殴りたいマジで!!!

……えーとね、まぁありていに言えば、妻と夫とその愛人の物語よ。今も昔も変わらぬこのありがちな三角関係よ。
特にまだこの時代は妻は専業主婦で貞淑で、夫は亭主関白で仕事優先で家族を顧みず、家族は顧みないのにオミズな女には手を出して本気でもない愛の言葉を垂れ流し、オミズな女はしたたかながらもその言葉を本気にして愛を信じて待ち続ける、みたいな。ああ懐かしの、みたいな。

それこそある時代まではホントこの形が見事な基本形であったが、まぁ今は愛人はオミズなんてーのは単純すぎて、どんな女も愛人になりうるが、つまりはそれだけ男に選択肢を与えてしまっただけで、基本女が泣くことになるのは半世紀も経った今でも変わらないというこのゼツボー的な事実。
いや、結果的に、オチとしては、男が泣いたのか。女たちは自ら生きる道を手に入れたのか。と早々にオチバレするのもナンだが、確かにあの結末には快哉を叫びたくなった、いや、叫んだ。でもそこまでに、まーそこまでガマンしなきゃいけないのっ、ていうさ……。

冒頭は、展開の中盤に現れる、浩三の上司の娘の結婚式に出席する夫婦二人、なんである。
妻、雪子が「私たち夫婦はなぜこうなってしまったんだろう……」とモノローグし、時間がさかのぼる。つまりこの場面に帰ってくるまでにはかなーりのひと悶着があるという、ま、王道っちゃ王道の手法である。

朝、牛乳と新聞をとって朝食の支度に戻る雪子。幼い一人息子を叱りつけつつ、夫に朝食の用意が出来たことを告げる。
もう食べる時間なんかないよ、ローションがないじゃないか、買っておけよ、と自分勝手なことばかり言う。
実際は彼女は買ってあったのに、無視して妻の化粧水をつける!!しかも鏡台の花瓶を倒す。もういいよ、とむくれて出て行く夫、こぼれた花瓶の水をふいてため息をつく妻。ベッドの上にはエロ記事の新聞。ゆがんだ顔でくしゃくしゃと丸める妻。

まぁ、エロ記事を見るぐらいはね、男性としては健全なんじゃないのと思うが、愛人とズルズルしていたという以外の理由で、最後の最後で妻の心にずっとオリのようにこごっていた過去があったのだから、なかなかの伏線なんである。
てゆーか、もうこの冒頭だけで、さー別れろ、こんな男とはさっさと別れちまえ!!と現代の目から見れば思うけどね(爆)。

専業主婦、そして女がまだまだ社会的立場の弱い時代、幼い子供を抱えた状態では、おいそれとそんな決断はできない。
しかし本作の面白いところは、単純にこーゆー、家に閉じ込められているザ・専業主婦の悲哀だけではなく、いろんな女たちが登場し、現代的なそれも多く、だったらホント、さっさとこんなダンナとは別れちゃえ!と思うものの、……色んな打算やしがらみや、何より愛情というやっかいなものが絡んでくる、っていうのが、なんとも上手いな、と思うところで。

そう、いろんな女が登場するのよ。そもそも愛人からしてそうよ。典型的愛人、バーのマダム、妻とは別れるという言葉を信じて待ち続ける日陰の女、という一面を保ちながら、充分にしたたか。なんたって一等地のバーでママを張っているぐらいなんだもの。
でもやはり一人の女、常連客達の間では、夏代と浩三の仲は有名なんである。展開が佳境になると、別れる慰謝料代わりに土地と家を妻に譲ろうとするところを、「借金があるの。家を売ってその分だけ差し引いてもらえないかしら」などと言いだすしたたかさにはアゼン!あれだけ、あなたが好きで待って待って待って、とか言いながら、凄い計算働いてる!
でも、確かに男への愛情は、……ひょっとしたら妻より上かもしれないの。愛情をお金で換算する気持ちもあってのこういう駆け引きだったのかもしれない。

雪子の友人、洋装店をバリバリ切り盛りする靖子(団令子)が最も現代的な女として印象的である。彼女は結婚していて、その夫(児玉清!!)は「あなたの手取りは私の5分の1」とか言われ、「かなわないなあ」と笑いながら、妻と友人とその子供に紅茶を入れてくれるような夫なんである。
めっちゃ理想的!!とか思ってしまったが、それこそ女の傲慢だったのかもしれない。彼は後に酔った勢いで「妻の尻に敷かれて喜んでいる夫を演じているんですよ。その方がラクだから。」と雪子に吐露する。

そして……酔った勢いで雪子に迫るんである。「あなたみたいな人だったらな。ダンナさんが浮気する気持ちが判らない」と。逃げ出す雪子。
このシークエンスは、なかなかに感慨深いというか、考えさせられるというか、実際雪子自身がどう感じていたのか、この当時の女子的心模様はなかなかに測れないからさ……。だって児玉清だから、それなりに美青年だし、キスされそうになるんだもん、ドキドキしちゃうよ!!
でも、「あなたみたいな人だったらな」つまり、ダンナをたててくれる人だったらいいということ。日陰になれということ。雪子にとって靖子は頼りになる相談相手で、「見込みないから別れちゃった方がいい。土地と家はもらっちゃうのよ」なんて、実際にもしっかり手配してくれちゃうバリバリキャリアウーマンは憧れなのだ。だからこそ、「別れて、仕事しながら子供を育てようかな」などと言うのだ。

意外にも、いや、この現実社会でバリバリ働いているからこそ見えている靖子は、「女一人子供を育てながら働くなんて、そんな甘いもんじゃない。相手が悪いんだから土地と家をぶんどって別れちゃえばいい」とサバサバと言う。
彼女の夫は「自分が尻に敷かれている演技をしていることを妻は気づいていない」と言うけれども、そうかもしれないけど、そうじゃないかもしれないし、そうであってもやはりこの場合、男の方が負けだと思う。
だってそれは、彼の中だけでの勝負の勝ちなんだもの。それを雪子にもらしたのは、彼もまた男、愛人という心のよりどころを作りたかったから。確かにこんな、ざっくばらんに話を聞いてくれる好青年に迫られたらクラッときちゃうけど(爆)。

靖子の店で働いている、浩三の妹の千花はいかにも現代的。ジャズマンの恋人との結婚話を頭の固い男家族に強引に押し進める中で、「だってお兄さんは家出して、バーのママと同棲してるのよ……あっ、言っちゃった!」オイー!あまりに無邪気なわざとらしさで(わざとじゃないんだろうが)、思わず噴き出す!!
千花はもう一人の兄、健一(うおおお、北村和夫ですかぁ!若い!!!!)の貞淑すぎてもはや奴隷のような妻、信子にイライラしている。てゆーか、多分、ケーベツしている。それは後に信子自身が雪子に、どこか楽しそうに、若いっていいわネ、という感じで言うんである。

信子は“妻という名の女たち”の中で、最も古風で、それこそ最も現代娘の千花から見れば過去の遺物のようで、女が男社会から侮蔑されているのを無頓着に受け入れているようで、ガマンならないのだろう。
その気持ちはよーく判るし、私もそっち側の意見。でも信子は言うんである。腹の中では舌を出している。スミマセンとハイしか言わない。夫は可哀想なヤツ、庇護してやらねばならないヤツだと思っているだろうと。

この図式は、男と女は逆転しているけれど、靖子たち夫婦とソックリであり、男女が逆転しているというところが、ようやくこの時代あたりから、そういう権利を女も持ち始めたということなのだろうと興味深い。
でもどちらも、私は哀しいと思う。現代でもいまだにきっとあるこういう芝居合戦が、悲しいと思う。
そこには対人間ではなく、男と女、それも社会の中に位置づけられた、人ひとりのなんたるかではない杓子定規なそれが厳然と横たわっているから。本当の本当に、対等にならなければ、人を愛すことなんてできないと、究極には思ったりするのよ。

だからかな、「夫を愛しているから、どうしても別れたくない」と家庭裁判所の調停にまで持ち込まれても頑張る雪子が痛ましく感じちゃうのは。
最終的に愛が冷めたと夫を捨て去る溜飲の下がるラストが待っているものの、夫を愛しているというのは、そもそもかなり前から妄想だったんじゃないかという気がしてならないんだもの。

そう、もう一人“妻という名の女”がいる。何かとお世話になっている大家のおばちゃん。バツイチで一人息子を育てているが、ある日突然、再婚した元夫夫婦に息子をとられてしまうんである。
「私にナイショで息子に会って、こづかいなんかやってたらしいのよ」と大家のオバチャンは悔しさにむせび泣く。つまり、金ずくでとられたと。それを聞いた雪子は自分がまさに同じ立場になっていることで、夫と別れることに不安を感じたであろうことは否めない。

正直、女は他人の男より血のつながった男の方を愛するもんである。いや、私は経験ないので、周囲の息子溺愛の数々を見てそう思う訳(爆)。
愛人に溺れ、「これは自分の意思じゃなく、意思の中の意思が働いた」みたいな、霞に責任転嫁するようなダンナを愛し続けるなんて、そりゃ、ムリだわさ。
だって冒頭からヒエヒエだったもん。で、家庭裁判所に持ち込まれて、妊娠中にウワキした上にビョーキまでもらったなんて過去が暴かれ、「まだそのことにこだわってるのか」と、妻に冷たくされたことこそを主張するバカ夫(怒)。
でもこの離婚調停のシーンは面白かったなあ。オバチャン調停員が、イイ感じのコメディリリーフながら、しっかと女の気持ちを言ってくれるの!フェミニズム野郎としてはめっちゃ溜飲下がっちゃう訳!!

なんかこんな風に書き進めてると、正妻サイドについてるみたいだけど、魅力的なのは愛人の方かも。左幸子、めちゃくちゃコケティッシュ!小泉博とがっつりブッチューキスにもドキドキするし、なんつーか、肉感的で、したたかさと純情さがマーブル模様になっている感じ。
だって、最終的には彼女は浩三のことが好きなのに別れるんだもの。でも、そこには、自分のプライドを保持するためという気持ちも働いているんだもの。

で、そんなライバルの行動でようやく、ダンナへの愛情が冷めていることに気づいた雪子は彼を捨てる。一見して、調子こいてた彼が妻と愛人、二人から捨て去られるという溜飲下がりまくりのラストに見えるけど、ホント、ダンナってばマヌケだけど、でも、二人の女の感情は、愛情は、ちょっと、いや、かなり違うんだよねと思う。
愛人であった夏代の方が強い感じがするし、別れる際の条件とかしたたかな部分も見せるけど、惚れた弱み、っていうのはこーゆーことって、感じだった。
一方雪子は、口では夫を愛しているから、絶対に別れないと言いながら、実際は子供を取られることや、働きながら子供を育てることへの踏ん切りがつかなかったんではないのか。ズルいのは、この妻の方で、結局愛人に先を越されただけじゃないのか、という気がするのだ。

本作の印象は、真顔正当化サイテー男のダンナ、でも彼はつまりは狂言回し、妻たち、いや女たちの生きていく姿、現代に充分通じる、ああこんな昔から女の苦しみは全然変わらないのよ!!!★★★★☆


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