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轢き逃げ 最高の最悪な日
2019年 127分 日本 カラー
監督:水谷豊 脚本:水谷豊
撮影:会田正裕 音楽:佐藤準
出演:中山麻聖 石田法嗣 小林涼子 毎熊克哉 水谷豊 檀ふみ 岸部一徳
なんつーか……天は二物も三物も与えるっつーことなのね。だってさ、あのどんでん返しがなくったって、充分に重厚な社会派映画として成立するのに、ヘタしたらそれをぶち壊しにしちゃうかもしれないあのどんでん返しは、オリジナル脚本としての矜持だったのかもしれないし、映画とはエンタテインメントであるという自負だったのかもしれないし。
あるいは水谷監督自身はどんでん返しなどとは思っていなくて、むしろ人間の心の複雑さ、闇や光を描くために、あの後半部分からこそが重要だったようにも思う。
主人公は二人、と言うべきだろう。実際にハンドルを握って轢き逃げを起こした方のエリートサラリーマン、イケメン君の方がそらーメインにも見えようが、いわゆる共犯者、助手席に座っていた親友の、風貌からもちょっとうっかり君はなんたって中盤からのカギを握る人物でもあるし、それ以上に……やはりこれは二人の罪なのだ。
そこに至るまでになにがしかのカラクリというか仕組まれたものがあっても、彼らが乗る車によって女性が轢かれ、誰も見ていない、という二人の共通認識により、救護放棄という罪を犯して、彼らは逃げた。そして結果、その女性は死んでしまうという最悪の結果。
もうめんどくさいから早々にネタバレしちゃうけど、親友同士のこの二人、その意識は両想いではなかった、ということなのだ。かたやエリートサラリーマンのイケメン君、秀一(いかにも優秀な名前だ)と、落ちこぼれでバカにされ続けてここまで来たうっかり君、輝。
窮屈な派閥争いの巨大企業の中で、お互い同士だけが味方のように肩を寄せ合って、まるで恋人同士のように過ごしてきた。
でも、輝は、秀一のことを、追いかけて頑張って同じ企業に就職までするほど大好きだけど、でもまた、彼は一歩先に行ってしまう。副社長の娘との結婚を決めてしまう。
そのためにいかにも日本企業的古臭い派閥争いにまともに巻き込まれてしまうのだが、落ちこぼれ社員の輝は蚊帳の外にいて、でも二人の仲の良さは揶揄されてて、結果的に輝は結局はつまり……嫉妬の感情に、支配されてしまったのだ。
秀一の困った顔が見たかった、ただそれだけの、言ってしまえば可愛い理由で、巧妙な仕掛けを思いついた。きっと、ちょっとヒヤリとさせる程度を狙っていたのだろう。
合コンで知り合った女性と待ち合わせの約束をしていた、外で待っているしかない状況にするため、休日の喫茶店を選び、その前で事故を起こすように画策した。それというのもその日は秀一の結婚式の打ち合わせ、輝は親友として司会担当、その打ち合わせの時間に輝はわざと遅れて、秀一の車に乗り込んだんである。
結構危険な、設定だと思う。だって轢き逃げだ。そのまま逃げたこの事態が最低の行為、最悪の罪なのだから。相手が死ぬことまで予想出来なかったのは、動揺もあっただろうが、何よりエリート企業でのエリートコースを約束された結婚直前の出来事で、ヘタするとこの印象一発で観客からそっぽを向けられる危険性は大いにあるのだ。
正直言うと、私はこの部分が最後まで引っかかっていて、勿論秀一は深く深く反省し、なぜあんなことをしたのだろうと悔いて、償いなど出来る筈はない、罰を受けるしかない、と婚約者に向けて心の内を吐露する手紙を書いて、それはとてもとても観客の胸を打つのだが、でもでも、やっぱりかなり危険だったと思う。私は正直……。
やってしまった時の心模様の生々しさ、魔が差した、というのはこういうこと、というリアリティはしっかり描けていて、だからこそ秀一はその直後から後悔し続けているし、何より事故を起こした直後、「もう人生終わった」とつぶやいているんだから、自分がやってしまった罪の重さをよくよく判っていた筈なのだ。
そしてそこから逃げたら更に罪が格段に重くなることも。罪だけじゃなく、人間の良心という点で、自分自身を裏切ったということも、それ以上の比重で彼の今後に重くのしかかるということも。
いかにもな出世コース。副社長の娘との結婚。専務の息子からはあからさまな嫌がらせを受ける。この会社はその二派で分裂している模様である。
しかして輝はそのどちらにも属している様子はない。秀一の親友だからそっち側ということなのだろうが、輝がどこに属していようと周囲は特に関心がないといった風なんである。
……正直言うと、輝が吐露するようにバカにされ続けた人生ならば、こんなエリート企業に就職できたこと自体解せないし、いやその、優秀な秀一と同じ大学ということ自体で、輝のある種の優秀さは約束されていると思うのだけれど……それはヤハリ、そういうレベルに行けなかった人間の想像の及ばない世界ということなのだろーか。
まぁとにかく、輝は秀一を陥れるためだけに、恐らく合コンに参加したのもそれだけのために、だろう……イイ感じになった女の子を使って、秀一を困らせようと思って、そのために証拠が残らないようにするためにその女の子……被害者の望のスマホを盗んでまで、ワナをしかけた。まさか望が日記をつけていたなんて思いもよらずに。
日記、かぁ。確かに証拠を残すには日記しかないが、これもなかなか危険な選択である。スマホを持ってしまえば、それですべてを済ます時代だもの。日記をつけようと思ったって、スマホにつけようと思うのが普通ではないだろうか。
いや、スマホなら落とした時、見られちゃう可能性があると思ってのことか。でも日記には他愛もないことばかり書いていて、そこまでの掘り下げは正直感じられなかったけど……。
轢き逃げなんかして、どんなに見られてないと思ってても絶対に逃げられない。その前に良心の呵責にさいなまれ、苦しい苦しいことになるに決まってる。
でも、そこまでの想像がその場でつかずに、同じく動揺していた輝(は演技だったのか、実際にはねちゃったからやはり動揺していたのか……判らない)にそそのかされる形で逃げてしまう。
結果的に秀一は本当に心の底から後悔し、その後の秀一=中山麻聖君の死にそうな芝居は見るにたえないほどなのだが、正直に言うと、見つかることへの恐怖の尺、というか印象が長すぎて、こんな卑怯なことをしてしまった、という真の苦しみを本当の意味で感じるのは正直、難しいんである。
それを感じそうになった頃……つまり彼が捕まって、現実に直面してからなんだけど、例のどんでん返し、実は仕組まれた事故だったということがスリリングに明らかにされて、観客もだけど、きっと秀一というキャラクター自体も、逡巡してしまったと、思うんだよなぁ。
水谷豊監督、なんだから、そりゃぁ登場もしなければおかしいよね、ということで、被害者の親としての登場である。ちなみに奥さんは檀ふみ。
今は嘱託で働いてるといった雰囲気なのか、事件後は職場に挨拶に行くものの、どうやら毎日出勤している訳ではなさそうだし、ただただ心配されている雰囲気だけだし、奥さんは、この年代ならまぁおかしくはないけど、ザ・専業主婦、って感じ。
夫が一人娘を失って、しかもこんな形で失って、彼女自身も打ちのめされているに違いないのに、哀しみきっている夫を見ていると自分は普段通りにせざるを得ず、というのは、最後の最後に判るのだが。
暴走した夫のいわば活躍で、真相が明らかになった時、今までは穏やかさを何とか保っていた彼女が、号泣するところで、明らかにされるのだが。
夫婦とはなにか、いやそれ以前に男と女とはなにか、それぞれなぜこうして一緒に生活し、子供をもうけ、その関係性に何を思って暮らしているのか。……皮肉な話だけど、こんな残酷なことでもなければ、考えることもない人たちばかりだろう。
それでも幸せに生きていける。でもでも、それこそ子供が何を考え、どんな友達や恋人と付き合ってるかも判っていなかったのに。
水谷豊、檀ふみという夫婦像に若干の古さ弱さを感じつつも、じゃぁどうすればいいのかなぁと考える。考えてみれば割と早く事件は解決し、初七日の後すぐに、真相が明らかになった。
妻は娘の誕生日だからと、小さな誕生日ケーキを用意して、夫を促した。二人してハッピーバースデーを歌った。すんなりしみじみしてもいいシーンだが、死んだ子の年を数えている訳である。しかも、おめでとう、と遺影の娘に語りかけているんである。これはかなり怖いシーンである。
その後母親は滝が流れるかの如くの号泣をするが、それは娘が死んだことを今更ながら実感したのか、改めて犯人に怒りがこみ上げたのか、判らない。ただ……誕生日を祝っちまったということは、彼女の中で今時点で整理されておらず、ヘタしたらこれ毎年やっちまうかも、ということなんである。
檀ふみはとてもいい母親像で、後に秀一の婚約者の早苗と会うんだけれど、早苗が自分の婚約者が犯してしまった罪を、いわば自分の待ち合わせだったという意味合いもあってか、結婚もまだしてないのに妻みたいに責任感じてる(爆)彼女にとても優しく接するんだよね。
どうしても許せない父親と、折り合いをつけることが出来た母親の違いなのだろうが、ちょっと、違和感があるかもしれない。
というのも、恐らく水谷監督自身の思い入れもあって、お父さんの、真相が知りたい執着心がイコール、娘への愛につながってて、それは母親とばかり仲良くしていた娘、という、子供っぽいヤキモチもあいまって、そして真相究明のキモになるシークエンスということもあって、お父さんの猪突猛進ぶりはちょっとしたアクション映画かと思われるぐらいの作り込みようで……。
いや、映画はエンタテインメントさ。その意味では大正解なんだけど……刑事さんたちが困惑する以上に、観る側もちょっと……困惑しちゃったかなぁ。
だってよーく考えてみると、こんなムチャをすることを、奥さんに一言も相談してないんだもんね。つまり檀ふみってさ……昭和っていうか、言ってしまえばそれ以前なぐらいの、古い価値観の妻であり母親であり、社会的な立ち位置でいう良き時代の専業主婦、なのよ。
あぁそうか、私がなんかもやもやしていたのはそこんところなのか。娘が三十路キワキワの年齢で、正直ずっと勤め続けるとは思えない、コスチュームプレイと思っちゃうような美術館案内スタッフで、しかもいまだ両親と同居しててさ、ピンクのカバーを付けた日記帳を毎日記しているなんて、……ないよなぁと思っちゃうんだよね。
つまり、この家族の、娘が死んでしまった以前の、仲良かった家族像が言葉ばかりで今一つリアルに見えてこない、ということが、決定的にあったのかもしれない。
お父さんは、娘はお前とばかり仲良くしている、と奥さんに当たるが、まぁ想像は出来る、お母さんと友達みたいにキャッキャする感じは想像できるが、でも結局言葉だけで、お父さんと現状でどんな感じだったのかとか判らず、幼い頃のホームビデオばかり見ているから、つまりその……娘を失った苦しみにシンクロがなかなかできないというか……。
正直、予告編を観た時には、幼い子供を失ったのかと思った。ホームビデオの映像が効果的にインサートされていたからね。それにしては年食ってる、孫なのかな??と思ったり。
意外にこういう細かい部分が評価を分けるようにも思う。面白かったし考えさせられたし、私なんかメッチャ輝側だし、こんなつまんないこと言いたくはないんだけど。
でも力作であり、考えさせられたのはホント。個人的には最後には壊れてしまう芝居ができるオイシさもありながら、全編通してその後の展開を反映する演技を求められる輝役の石田君が素晴らしいと思った。
つーか、そもそも秀一と婚約者の早苗はちゃんと恋愛関係を経ての婚約なのかい??かなーりエリート的な距離を感じたから、彼女がどうあっても彼のことを待つんだと涙を流しても、なんかそこには感動できないんだよなぁ……それこそ、秀一と輝が思いを通じ合って結ばれちゃう方がよほど説得力があるんだもの(爆爆)。 ★★★☆☆
でもでも、世の中には、この世に生を受けたものの、親子の縁に恵まれなかった子供たちも沢山、いる訳で……。ああでも、ここでその議論をしても仕方がないことは判ってるんだけれど、こういう映画が、正面切った映画が出てくるならば、そっちの側も、出てきてほしいと切に願う。
てゆーか、妊活映画、本格的な妊活映画が初、ということ自体、ちょっと意外だった。初??なかったっけ?みたいな。それこそさぁ、ちょっとした社会現象じゃない。妊活、という言葉も最初はいろんな“〜活”の中のひとつで滑り込んできたような趣だったけれど、すっかり定着したし。
男性側に原因がある不妊、というのは、ダイヤモンド?ユカイ氏が公にしたことで世間的に認知されたような感がある。勿論、そういうことがあることは知識としては知ってはいたけれど、ヤハリ日本に根強いウマズメ文化だからさ。
こういう有名人で、妊活してます、までは言っても、じゃあ不妊の原因がどちらにあるのか、までは言わなかったじゃない、今まで。そらま、言う必要なんてない、そもそも妊活してますを言う必要もないけど(爆)。
……なんていうかさ、これは女性の母性本能がどうしようもなく表れるってことなのか判らんが、子供が欲しいと言い出すのは必ず女で、妊活を公言するのも女で、男はどこか傍観者、みたいなイメージが、正直ずっと、あった。頑張ってるね、頑張りすぎることないよ、お金もかかるし、みたいな。責任は半々なのに、まるで他人事、みたいな。
それは、……こう言ってしまうと語弊があるかもしれないけれど、子供が産まれるまで、あるいは産まれてからも今一つ父親の自覚にピンと来てないのに、母親側は授かる前から、授かってからは一心同体だから当然、産まれてしまえば私の子供、みたいな哀しき現象とちょっと……似ている気がしなくも、ないような。
ちょっとね、面白いなと思ったのは、劇中、クリニックでの不妊治療の場面、奥さん側には難しい科学的?化学的?こまごまとした検査や治療が山ほどあるのに、ダンナ側に出来るのは、……シコシコやって、精液を提出することだけ、なんである。
検査の段階でも、人工授精の段階でも、奥さんがその身体に負荷をかけて耐えていくのに比して、男が出来ることが、シコシコやって精液を出すことだけ、なんてそらまぁ……一昔前の描写では、それが相当プライドに触るらしく、そんなことできるか!!みたいな雰囲気が当然のようにあったが、それこそユカイ氏のようなハードロック男子の公言でその垣根はぐっと低くなった、のだ。
そして、本作での夫婦が、夫側がぐっと年かさであるということが、非常に大きな作用を及ぼしている。行きつけのラーメン屋で父と娘に間違われているのか、お父さんお待ちどう!と出されることに不快感を示していたヒキタさんが、妻の妊娠が判った後には、お父さん、という言葉が違う意味を持って受け止められる、というほほえましいエピソードが用意されていたりする。
しかして、つまり、彼には、半ば強制的に与えられてしまう、年長者の余裕、というか、諦め、というものが存在するんである。決して決して、オジイチャンな訳じゃない。松重氏、カッコイイし、年の差婚なんて珍しくないし、設定の49、という年は、……まぁ女はもう子供は望めない年だなと思うけれど、男性はさ、正直、よぼよぼのジジイになっても(爆)女をはらませることはできる、と思っていた訳。
それが故の罪な存在というか(爆)。だっていくらでもそういう事例って聞くし、そのたんびに、不公平だな……こんなことまで男側に有利に出来てるのか……とか思っていたのは事実で。
でも、うーん、これはヤハリ、時代によって生殖に適するカラダの割合というか、食習慣とか、働き方とか、きっといろいろあると思うんだけど、やっぱりやっぱり、年齢のことだけじゃなく、出来にくくなっているのは、絶対にそうだと思われる。
劇中では、「避妊してるのに」と奥さんとの間に三人プラス不倫相手にまで子供が出来ちゃうヒキタさんの担当編集者がめっちゃ対照的に描かれ、不妊治療をしているクリニックで出会った、6年も頑張ってついに諦めたご主人は、「ある意味公平ですよね。欲しくて欲しくてたまらないところにはできない。そうでもないところにはできる……」それが公平だ、と言う彼の言葉のよりどころは判らない。だってちょっと、意味が通らない、これが公平だというだなんて。
でもそうとでも思わなければ、この不条理を彼は、そしてその奥さんも、飲み込めないということだ。結婚したからって、子供が出来なきゃいけない訳じゃない。夫婦二人だけの生活を、どんな過程を経たにせよ選択している人たちも大勢いるし、……このことを言いだすと止まらなくなるが、実子にこだわることを捨て、自分たちの子供として迎え入れた命を慈しんでいる夫婦もいる。
この夫婦に後に、バス停でバスを待っているヒキタさんが、行き会う。奥さんはこの夫婦と話していないので、ヒキタさんだけが気づく。仲良さそうに、恋人同士のように、手をつないで楽しげに歩いている。つまり、こういう夫婦の人生もあるんだと示している公平さは感じる。そうでなきゃいけないとは思う。でも……。
てゆーか、ヒキタさんの話に行かなければ。どーもフェミニズム野郎になって、いけない。
それにしても、この二人はステキである。二人ともとても好きな役者さんだが、それが夫婦役としてカップリングされるイメージはまるでなかった。やたらサウナ好きのヒキタさん=松重氏が、その引き締まった上半身を熱波師の熱風にヤー!!とさらすシーンがやたら好きだ。だってさぁ、サウナの松重氏と言ったら、「探偵はBARにいる」の彼じゃないの!!
そのヒキタさんに対比する形で、ちんちくりん童顔編集者(ゴメン!でもそのまんまや……)杉浦を演じるのが濱田岳君で、年齢も体形も妊娠させ力?もウワキまで抱える余力までもが全然違うという面白さ。
そうさ……彼に対比する形で、めっちゃくちゃ奥さんを愛しているのに、その奥さんから望まれているのに、自分が原因で子供が出来ないヒキタさんというこのジレンマ。
でもね、そもそも、ヒキタさん夫婦は子供をつくるつもりはなかった。でもそのあたりのすり合わせは、ちょっとアイマイだったかもしれない。
ヒキタさん側は、自分はもう年だし、サチと二人で楽しく過ごせたらいいや、みたいな理由を語ってはいたが、でもいざ妊活になって自分の精子が“老化”していると知るや、途端にショックを受けるんだから、なかなか男のプライドというのもメンドくさい。
サチは一人娘で、伊東四朗扮する父親は大学教授で、ザ・厳格、って感じで、流行作家のヒキタさんを毛嫌いしていることもあって、この夫婦同士の話し合いはいつも逃げ出したいくらいにピリピリしている。
サチのお父さんは、まず妊活、不妊治療、人工授精、すべてに、拒否反応を示す。子供は授かりもの、そんなことまでしてみっともない、そもそも原因はこの年寄りの男であり、子供が欲しいならさっさと別れろ、とまで言い放つ。
……めっちゃハラ立つお父さんなんだけど、古臭いことばっかり言ってると思うんだけど……なんかちょっと、判ると思っちゃうところがズルいというか、なんというか。
だってヒキタさん自身が最初なんの知識もなくて、それこそ人工授精=試験管ベビーというプチSFの世界を想像してたのが、にわか知識を得ると途端にこのお義父さんに強気に出るのがちょっとイラッとしたりして(爆)。
でもね……なんでサチが、こんなにも言い返せないんだろうと、思ったのだ。一人娘として大切に育てられていたから?年の離れた男を伴侶に選んだから?
あれほどまでにヒキタさんとの子供を得ることに対しては前向きだったサチが、お父さんの前では縮こまってしまう。確かに厳格な父親だということは判るけれど、一人娘のことを愛してやまない父親ということも判るので……ちょっと、そのあたりの確執の描写は、欲しかったかもしれない。
まぁ、最後の最後に初めて父親に対して爆発する、という、そのギャップのために設けた設定だったのかもしれないんだけれどね。
とにかく素敵だったのは、ヒキタさんとサチが、徹頭徹尾仲が良く、それは俗っぽく愛し合っている、なんていう言葉ではなく、仲が良い、という言葉、というか価値観に尽きる、ということが、凄くいいなあ……と、思ったのだ。
そらまぁ、愛されたいし、愛し合いたいさ(爆)。でも、愛という言葉は強すぎて、こと日本語にすると、恋愛の愛か人間愛の愛か家族愛の愛か、で、全然熱量が違ってさ、言い訳みたいに定義されちゃう、というか。
ヒキタさんとサチは、勿論ラブラブで、最初はタイミング法で妊娠をネラっていた時には、この日のこの時間ね、と指定されて部屋に入っていく描写もほほえましかったし、クリニックに提出する精液に「手伝おっか」「手伝ってくれる?」と自然に会話するのも、良かった。
そういう、仲の良さ、勿論愛だし、愛し合っているんだけど、そこにプラスされる信頼関係?理解しあってる?なんだろうなあ……凄く、イイんだよね。
そりゃね、こんなシビアな問題に立ち向かってるからケンカだってするんだけど、ただ……お互いの頑張りが見えてるから、可視化されているから。そうか、そういうことなんだな、って思って。
見えなくなると、何もかもが見えなくなる。精液をとろうと、よし!と思ったヒキタさんの部屋にサチはノックもせずに入って、彼からノックしてよ!!と叫ばれる。次はノックするけど、ノック、ガチャン!である。ノックから早すぎるよ!!とさらに悲痛に叫ばれる。
勿論、お互いに個人としての垣根はあり、だからヒキタさんには「仕事してくる」という書斎がある訳なんだけど、その関わり合いが愛と信頼と理解と、何より仲の良さで、すんごく、イイんですよ。
タイトルから、最終的にはご懐妊、ハッピーエンド!だとは判っていても、一度は死産、次こそはの時も思わぬトラップが仕掛けられていて、最後まで気が抜けなかった。
この次のトラップ、というのも、なかなかに繊細な問題なんである。エコー写真で赤ちゃんの頭に空洞がある。染色体異常かもしれない。そのまま消えて何も問題ないかもしれない、と。
……これはね、これは……特に今の時代、かなーり、繊細かつ、重たい問題なのだ。出産する前に、奇形とか、障害とか、判っちゃう。それが判っちゃうと、中絶してしまう夫婦が殆どだという事実がニュースで流れた時、意見を言いたい気持ちはめっちゃあったんだけど、当事者じゃないから、無責任に言えない、というプレッシャーを、ものを言う前に勝手に自身に課してしまって、それが……今の日本社会なんだな、と思った。
ヒキタさん夫婦の赤ちゃんは結果的に、空洞は消えて“健全な赤ちゃん”として出産を待つばかりになる。それが最後の最後の、大号泣のハッピーエンドである。
……二人と共に泣いてしまった自分に、……そりゃまぁ、これまでのいろんなことがあるからさ、とか思いつつも、この問題まで投げて来たかあ、これはそう簡単に良かったねと言えない問題だよね……と何とも言えない気持ちになってしまうのは、正直なところ、なのだ。
すっごくいい映画だと思ったし、夫婦役の二人はもちろん、お父さんの伊東四朗、クリニックの医師である山中崇、みんなみんな素晴らしかったからさあ。ヒキタさんが大好きなサウナやお酒をガマンし、金玉を冷やし(爆)、桃の缶詰を食べまくり、妊娠女子のおにぎりを頬張り、そうして編集部の男子連中をも巻き込んでいくのが楽しすぎたしさ。
でもそう、そうそうそう、これは、一石を投じる映画なんだと思う。夫婦の選択肢として、これが正解ではない。正解のひとつ、であるにすぎない。それが正解であると定めて、信じて、つかみ取るまでの、なんという過酷なことよ。★★★☆☆
この年頃になってあんなにべったり、しょっちゅう呼び出されては飲んでる女友達がいるなんてこと自体、キャリアと責任を重ねた社会人として、なーんかピンと来ないんである。
あー美味しいとか言ってる台詞の勢いと裏腹に全然ビールぐびぐび行ってないし。もー、コーヒー飲んでんじゃねーんだよ!!……いや怒りどころがおかしいが……。
えーと、その、主人公の親友役っていうのが、個人的にかなりお気に入りの、最近では「南瓜とマヨネーズ」がほんっとうに素晴らしかった臼田あさ美嬢で、本作でもぜんっぜん現実が判ってない親友に苛立ちの声を上げる芝居は、本作にもったいないぐらい(爆)素晴らしいのだが、そのキャラ自体、結婚している、というだけで日々の生活が見えない。
どうやら夫とはすれ違いらしいということは判るが、いつ結婚して、どれぐらいそんな期間があって、例えば子供をもうけることとかでのプレッシャーとかがあるのかさえ語られず、何か印象としては、学生時代に友達だった独身女同士で飲んでいるようにしか、見えない。
姑との確執も、彼女の笑いに紛らしたエピソード(正直言うと、漬物を強要される程度)ぐらいだし、田舎の母親から、デリカシーゼロで子供を期待する言葉に激昂する場面はあれど、それは何か……悪いけど、半世紀ぐらい、見慣れた光景、なんである。
原作がコミックスで実在の人物をモデルにしているといい、物語の最後には、この親友さんが「またマンガ描き始めたんだ。あんたがモデルの」というんだから、クリエイターの苦しみから結婚という安住に逃げ込んでしまった、という図式なのだろうかと勝手に想像してしまう。
が、が!!その友達が「あんたみたいな美人には判んないよ!!」と言うぐらいなら、その言ってる本人の臼田あさ美氏はくっそ美人過ぎる。むしろ、あさ美嬢の方がコケティッシュ美人である。
ここは思い切って、女芸人さんとか、思い切った外見のキャスティングをしてほしかったところである。イモトとかさ。それでめちゃくちゃシリアス演技したら、めっちゃリアリティあったのに。
だって……美人美人と言われ続けるヒロイン役の黒川芽以嬢だが、……スミマセン……そんなに美人??(爆爆。スミマセン!!)いや確かにザ・女優さん、整った顔立ちだが、整った=女優的平均、というか、言ってしまえば平凡というか(爆)、うわぁ、美人!!というタイプではない、よね??(こーゆーこと言うと、自分のことはどーなんだとか言われそうだが、そこはそのぅ……カンベンしてください(汗))。
いや別にね、よくこの役を引き受けたね、とか言うつもりはないのよ(わざわざ前置きするあたりが……)。でも……美人、美人、と言われるだけのインパクトが、……なかったんだよね、正直。
ちょっと今思い出したんだけど、「おんなのこきらい」で森川葵嬢が、やっぱり自他ともに認める美少女という役柄で、それは、本当に、強烈にこちらに刺さって来たんだよね。
勿論、森川葵嬢もまたくっそ美少女である。黒川芽以嬢と何が違うのかなぁと考えた時……イヤなヤツになり切れていないのかなぁ、という気がした。
いや違うな、上手く言えない……黒川芽以嬢演じるタカコも、親友のケイコから「(美人って言われて)否定しなよ!」と言われるような、自覚系ではあるのだけれど、正直それが台詞上だけで、自分は美人と言われて当然、という、いい意味でのイヤミが全然感じられなくて。
正直言ってその辺の街歩いている感じの女の子って感じで(爆)、それを糾弾するあさ美嬢の方がめっちゃ目を引く美しさだと思って(爆爆)。
これはそのぅ、彼女自身の問題というより、演出の問題??(うっわ、シロートのナマイキ入っちゃった!!)でも、彼女以外のキャストは面白いんだよね。
今一番のイケイケ田中圭が、独女たちがむらがる医者婚活で、結婚には興味ないけど、暇つぶしに女とは出会いたい、「俺のこと、好きになっちゃった?」なんて下から顔を覗き込んで聞いちゃうような、フェロモンデンティストで、こらー、昨今激増した彼のファンを取り込み、悶絶させるためのキャスティングが成功しているだろうと思わせる。
もう一人、こっちはかなり本命として進行していく、女性経験なさげな、ちょっとたよりないけど美人のタカコに一目見た時からゾッコン君の、これまた旬の俳優、中村倫也。これ以上ないぐらい、揃えたね!というキャスティング。
このゾッコン君、園木はかなりタカコも有頂天になってしまって、それというのも今までその美貌ゆえに受け身の恋愛ばかりだった結果、不倫を三回繰り返したという過去を持つタカコは、自分が相手にとって一番、ということに有頂天になった、ということだろう。
でも結局は同じ。受け身は同じ。相手が独身だったというだけ。色っぽい歯医者にくらりとくるのも、結局は似たような理由だろう。
タカコの婚活を、多少イジりながらも心配している親友のケイコが爆発するのだって、そらまぁ自分自身の結婚生活のおぼつかなさを八つ当たり気味に大喧嘩に発展したという図式であったにしても、やはり根底は、タカコに自分自身がまるでないことこそが、大きな原因だったことを、示唆しているのだろうと思う。
何となく、うすぼんやりした印象を覚えたのは、そこに根本的原因があったのかもしれない。
漫画をまた描き始めたというんだから、きっとケイコは原作者自身だと思われることを考えると……本当に友人なのだろうが、“美人が婚活”というフォーカスで描いていく時、……スミマセン、失礼な言い方なんだけど、あくまでこの映画化作品を観た印象でだけ、なんだけど、美人の友人の本当の部分を、果たして親友のケイコさんは、その真の苦しみを判っていたんだろうか、という気持になってしまうのだ。
だって、自分が美人と言われ慣れている、という描写だけとってもうすぼんやりしてるのに(爆)。いやまぁ……判りやすさをついつい求めてしまうこっちがいけないのかもしれない。鼻につく感じが、柔らか系の美女である黒川芽以嬢からは全く感じられないし、先述したけどそれだけの圧倒的美人オーラがないもんだから(爆爆)。
本作はさ、そこでつまづいたら正直、もうダメだと思うんだよね……それこそわっかりやすくさ、北川景子とかさ、もうそれぐらいの人を持ってきてよと思っちゃう(今、思いついて言ったけど、彼女ならピッタリだなー。コメディエンヌとしても)。
田中圭演じるフェロモン医者にくらっときて、一夜を共にしちゃう場面なんぞが出てくる。レロレロキッスにはそれなりにドキドキするが、まーこの程度の映画じゃー、おっぱいは死守か……仕方ないのかね。どの程度の映画でも臆しない女優が私は好きだけどねー。
で、「私はセックスがしたかっただけなのか」と反芻して落ち込むタカコ。この台詞にはドキッとするが、結局はこれ一回だけだし、正直言うと、ちょっとこの感じってデジャブがあるというか。
いや、そう言っちゃうのはさすがに、違うかな。だって思い出したのは、それこそ先述した「南瓜とマヨネーズ」。あさ美嬢演じるヒロインが、元カレと再会してナニしちゃう場面の、その台詞とカブったんであった。「私は、何をしているんだろう」と。その台詞の方向性も深さも、全然、違ったね。
つまり、タカコは今までも、今も、受け身のままだから、本当の恋愛、ってゆーか、自分から、誰かを、好きになったことが、ないんだよ。恐らくそれを、美人ゆえの、一般人には共有できかねる哀しさ、という展開にしているのが本作なのだろーが、先述しまくるとおり、そんなに美人かなぁ……というところでつまづいちゃっているからさ(爆爆)。
それでも、彼女が、思いがけぬ誰かをモーレツに好きになってしまって、苦悩しまくる展開になったのだとしたら、そらー印象はぜんっぜん違っただろうと思う。
もう、先述しまくりなんだけど、結局は親友サイド、原作者サイドが美人の友人の、本当の意味での内側まで降りていけなかったことが物足りなさの原因じゃないかと、思わずにはいられない。
それならそれで、ケイコの方をヒロインにした方が良かったよ(爆)。劇中では本音をぶつかり合わせているように見えるが、女の友情って結局この程度かと言われても仕方がないではないの。
まぁでも最後、そうした観客側のモヤモヤを解消するように、私は恋がしたかったんだ、と泣きじゃくりながら答えに至るんだから、いいのかなぁ。
セックスがしたいだけだったのか、と自問自答して苦しんでいたのを浄化するには、キレイ過ぎる着地な気がするけどね。セックスがしたいのも一方でいいじゃんと思っちゃうけどね(爆)。そんな具合に、なんかいろんなところでうすぼんやりしちゃうんだもん。
★★☆☆☆
隣人の美少女は殺人鬼。しかしそんな彼女に恋に落ちてしまう、人生に絶望して自殺未遂までしていた浪人生。なるほどこれは、キテレツで魅力的な題材だ。一体この恋が成就するのか、成就するとしたらどういう落としどころなのか。
そもそも彼女の罪はどうなるのか、と乗り越えるべき要素はてんこ盛りでかなりの期待を抱かせる。そういう点では、その期待は見事な設定のアイディアによってどんどんと展開していく面白さはある。
殺人鬼美少女、宮市(福原遥)はナチュラルボーンキラーズであるんだろう、殺人をしなければいられないという、いわば異常者なのだが、そこに受け皿があるのが面白いのだ。彼女が自分の部屋で華麗に殺人を犯すと、彼女から事前に依頼を受けていた謎の始末屋集団がスピーディーに片付けていく。
そのリーダーである延命寺(江口のりこ)曰く、新鮮な状態のいい死体の需要は常にあるんだと。……移植とかそういう闇取引なのかなあ……と推測されるが、それを明確にすることはない。
どっちにしろ死体は闇から闇に葬られてこの世にまさに存在しなくなるから、家族やなんかが警察に相談しても、事件沙汰にすらならない。ただの失踪事件として処理されるだけ。
なるほどなぁと思う。成立しちゃう、気がする。日本じゃない国なら、ありそうな気がしないでもない。そういう意味では社会派に振れる可能性もあるが、これはあくまで男の子と女の子のラブコメディ、なんである。
その宮市に恋してしまう隣人の浪人生は、黒須(杉野遥亮)である。水道、電気といったライフラインも断たれ、ゴミだらけの部屋の中で絶望した彼は、首つり自殺を試みるも、臆病風と安普請の部屋のせいで、壁に穴をこしらえて終わってしまう。
が、その穴は隣室が丸見えになって、しかもそこには信じられないような美少女が生息!ここで一目惚れ、だったのか、単にスケベ心で覗き見生活が始まったのか、そこんところは重要なのだが、ちょっと判然としない。
宮市の凄惨な殺人シーンを目撃してもなお、彼女への執着心を失わなかったということは一目惚れだったのかもしれないけれど、殺人シーンを目撃したからこそ、ある種のなんというか……ねじれた嗜好性が産まれたのかもしれないし。
と、いうような深い洞察を受け付けない、なんというか、二人のさわやかさ、なんである。これはいいのか悪いのか……このことこそが、どう解釈していいのか、というか、なんとも物足りない気がして、歯がゆいばかりだったのは、正直なところ、なんである。
宮市はレベルの高い大学、しかもどうやら理系に通っており、その美貌で当然、男子学生たちの間のマドンナであるが、彼女自身はそんなことにまるで頓着していなかった、らしい。黒須から思いを寄せられて「私、付き合うのって、初めて」というぐらいだから、彼女の興味嗜好はもっぱら、殺人に向けられていたということなんだろう。
しかして宮市はなぜ、黒須に興味を持ったのか。黒須に自分の正体がバレていることを知らない内から、知り合った彼を無邪気に自分の部屋へ招いて手料理をふるまうというトンでもない無防備さ。そんなヤツ、いるか!!というツッコミも意味がなくなるほどのファンタジーである。
後に黒須も当然、この問いを持つ。なぜ自分にそんな風にしてくれるのかと。付き合うことになった時も同様である。なぜ自分と付き合ってくれるのかと。殺人嗜好の彼女にいつか殺されるかもしれない恐怖を抱えながらなぜ付き合えるのかの方が、観客側としては不思議だけど。
そこなんだよねー。つまりそれだけ黒須はぞっこん宮市にまいっちゃったということなのだが、そこまでの情熱は……いや、判る、判るよ、台本上というか台詞上というか(爆)ではね。でも、うーん……。
だってさ、これってめちゃくちゃ深い、運命の恋じゃない。殺されるかもしれない相手に心底恋に落ちちゃって、死んでもいいから彼女と付き合いたい、って話じゃない。黒須……演じる杉野君がこぎれいすぎて、なんか切実感がないというか(爆)。
だってさ、彼、ライフライン断たれてるんだよ??公園に洗濯に行かなきゃいけないような状態であるんだから、当然風呂だって入れてないに違いないのに、あのこぎれいさは、……ないよなぁ。フツーに若手イケメン俳優のまんまなんだもん(爆)。
そのあたりは少女漫画的テイストなのかもしれんが、これってさ、これって……描き方によっちゃトンでもないディープなラブストーリーだし、てゆーか、そもそもの設定がそうだと思うし、なのに彼、こぎれいすぎるんだもんなあ……。
その意味では、宮市もそうかもしれない。めっちゃ美少女。ちょっとビックリするぐらい。あれ?私彼女初見だろうか。ホントにハッとするような美しさで、こんな子が隣にいて、しかも穴から覗けて、しかもしかも突然華麗な殺人シーンなんか見ちゃったら、ある意味でのノックアウトかもしれない、と思わせるほどの。
しかして、うーん、なんつーか……いわば彼女ってファムファタル、だよね?それぐらいの、強烈な立ち位置だよね??ちょっと弱いかなあ……と思っちゃうのだ。
殺人をせずにはいられない。そのためには周到な用意が必要。なのだが、彼女が用意するのは自分への返り血を防ぐ透明なオシャレレインコートのみ。部屋が汚れるのはかまわず、それは始末屋集団にゆだねるんである。
……まぁ確かに、最初から部屋を養生してたら、甘い誘惑につられてやってきたターゲットは警戒するだろうが、最初から縛り上げて放り込んだヤツに対してもそのレインコートのみの防御だし、結構外でもバンバン殺しちゃうし、……その場合の清掃とかメッチャ大変そうだし。
てゆーか、特に部屋に誘い入れての殺人なら、レインコートより養生の方が大事じゃねーかとか思っちゃうし。そんなに汚れたら困るような服を着てる訳でもないし、シャワー浴びたらすむ話なんじゃないのかなあ……。
うやうやしく始末屋たちが部屋の後片付けをする描写が繰り返されるので、ついついツッコミたくなっちゃう。つまり、やっぱり彼女はただ単に、欲望のまま殺人をしてるのね、と思っちゃう。まぁその通りなんだけど(爆)、ただ、江口のりこ率いる始末屋集団によって、宮市はあくまでプロフェッショナル殺人鬼として成り立ってる訳だから、さぁ。
でも、そこだったのかな。宮市の泣き所は。あくまで受け皿がプロフェッショナルだっただけで、宮市は欲望のままに殺人を重ねていたということなのかな。
今まで(バレてなかったんだから)それに異を唱える人なんて、いなかった。バレた、ということが、宮市の心のバリヤーをといてしまった。いや、バレていると知る前から黒須に接触していたのだから、本当に何か、運命的な気持ちが働いていたのかもしれない。それこそ「殺したいほど恋に落ちる」っていうほどの。
それがクライマックスに用意されているんだから、つまり二人の恋は、めちゃめちゃ濃厚な筈、なんである。黒須は彼女が殺人鬼だと知ってもその恋心を止められないし、なんとかしてその罪から足を洗わせたいと思う。
しかし、お互いを深く理解することが恋にとっては大事、という、一見まっとうな考え方が双方にとって相手への失望さえも生み出す。殺人鬼としての自分を理解してほしい、だなんて、こんな究極の恋の条件はない。それだけ、これは究極のラブストーリーになり得る素材だったのだ。それでもどうしようもなく、別れたくないとお互い想い合うという。
……そこまでは難しかったかなあ。表層上はそんな具合に描いていたとは思う。宮市をアンダーグラウンドビジネスに利用しようとして近づいた、うわー、めっちゃ判りやすいザ・シャブ製造半グレ集団、みんなタトゥー入れてるとか、爆音で音楽かかってるとか、薄暗いとか、定型通り(爆)。
黒須はこれ以上彼女に殺人を犯させたくて、この集団に命をも顧みず、立ち向かっていくのだが……。
その前に、てゆーか、二人の関係性、とゆーか、黒須側の覚悟を試すような事件が発生する。同じボロアパートに住んでいた、猫好きの男性を宮市が殺した。それも、わざわざ黒須に予告して、ちゃんと覗いていてネ、と披露されたパフォーマンス。
宮市は最前から、私のルールで殺している、と言っていた。つまり無差別殺人ではないのだと。これは決して許されない、人間が神の視点で、選民思想で殺しを正当化するということであり、独裁者や独裁政権に散見される主義主張だから、本当にゾクリとする。
結果的にこの彼女の思想をそれほど追及することはないのは、あくまで少女漫画のラブコメだということなのだろうが、ただそもそもにこういう思想がある以上、もっと覚悟を持って臨んでほしかったという気持は、どうしても否めない。
殺人は悪いこと。法律によって禁止されていること。宮市さんのことが好きだから、罪を犯してほしくない。黒須の主張はその点であまりに表層的で幼稚で、彼女が殺人をやめてくれればそれでオッケーであり、それこそが日本的想像力の欠如のように思えてならないのだが。
いや、そんなつまんないことばかり言っていては、本当につまらないのだ。これはあくまでラブコメ、つまりラブストーリーであり、ことに恋愛経験がなかった宮市が、黒須に近づく女の子に嫉妬したりするスタンスが面白かったりするのだ。
その女の子とは、猫好きの仮面をかぶって、実は惨殺して自室にコレクションしていたという同じアパートの住人の妹。彼女は当然、そんな兄の鬼の所業を知らないし、突然行方不明になったことで大層心配して、顔見知りの黒須に助けを求める。
これまたカワイイ子で、そらまぁ宮市が嫉妬するのも否めないのだが、ただ、彼女の舌足らずさを「舌が絶滅してるんじゃないの??」と言い放つのには、いやいやいや……あなたもたいがい、カワイイ声してるし、大して変わらんて、とか思っちゃう。
クライマックスは、黒須が宮市に殺され(かけて、というのは後に判明)、宮市さんになら殺されてもいい、それぐらい好きだと、そして宮市もそのことに、後述するところでは、一番興奮したと。つまり究極の愛の形、なのだが、そこまでの究極の愛の気持ちの交換を、あっさり演技の若手二人からは到底感じられなかったことがあまりにももったいなく。
そして黒須が生き残っちゃったことにも、まぁ「だってもったいなかったもの」という宮市の台詞には笑っちゃったにしても、ハッピーエンドにしても、なんだかなぁ……という気分は正直、否めないんである。究極のラブストーリーを見せられる設定だっただけに、惜しい、惜しい気がしてならない。
お互い苗字しか知らず、物語のラストに改めて自己紹介し合うというのは、ちょっと好きだったかな。女の子が苗字で語られるのは、妙に好きなのだ。 ★★☆☆☆
関係ない感慨に浸ってしまった(爆)。これは厳しい現実にさらされた家族の物語。まだ幼い子供たち三人を、理不尽に殴る蹴るのクズ父親。母親はタクシー会社の運転手をしていて、父親は……働いている様子すら見受けられない本当にクズ男。
もう、物語の冒頭で、母親はこのクズ夫を、豪雨の中タクシーから降りて怒鳴り散らしながら家に入って行こうとしたこの夫を、バックでひき殺した。完全なる殺意。それはもう一目で判る、子供たちをボコボコにしまくるこの地獄の日常から、抜け出すためだった。子供たちに自由を与えるためだった。完全なる殺意。それが必要だったのだ。
だってちょっとずる賢く考えれば、事故に見せかけることだって、ちょっとハンドル操作を誤ったんだとかいうことだって、出来た筈だ。そうすれば、後に次男の雄二が恨み言を募らせるように、人殺しの子供、とそこまで糾弾されることはなかっただろう。でもそうしてしまったら、彼女、こはるの母親としての信念と愛情、そしてかつて愛していた夫への引導は果たされないのだ。
刑に服してほとぼりが冷めるまで待って、15年後に戻ってくるという約束をきっちり果たして帰ってきた彼女は、雄二から冷たく糾弾されても、ぐっと頭をあげて揺らがない。「お母さんのしたことは、間違っていない」
殺意を持って殺人を犯し、刑にも服したんだから、この台詞は微妙におかしい。でも、社会のルールに照らし合わせてそこから逸脱することと、彼女の中で正しいと思ってやったこととは違うのだということを誇り高く宣言していて、胸を打たれる。……かなり展開飛ばして話しちゃってるけど、でも順を追って話したって結局は同じというか。
いわばね、ちょっと、予測できる物語だからさ。どんな事情があるにせよ、殺人を犯したその身内が受ける、いわれない中傷、理不尽な仕打ちというのは、いわばかなり判りやすい形で、スプレーでの落書き、タクシー車全部のパンク、中傷記事をコピーしたものを無数に貼り付けられたりさ。
ちょっとベタというか、令和の時代になってもこんなんあるのと思うが……当事者になったことないから判らないが……でもこのベタさは確信犯的だったように思い。
雄二を演じる佐藤健君が、この物語をけん引する、主人公と言ったら一応この人であるが、そこはそれ、あとふたりのきょうだいも、勿論母親のこはるも、主人公足る人物なんである。いわば、雄二だけがこの地元を出て、東京のしょーもないエロ雑誌の編集部に勤めている、という立場というか、視点の違いが、狂言回し的役割を担わせているというか。
雄二は妙に冷めた目で事態を把握して、くだんの中傷記事も雄二によって書かれたものであることを知って、妹の園子なんぞはわっかりやすく激怒するんだけれど、多分、一番お母さんを愛してて、だけどそれを一番表現できてなくて、自分たちのためにお母さんが罪を犯して15年も去って行ってしまったことが、彼が一番、ショックを受けたことなんだろうと、観終わってみれば、判るのだ。
園子は女の子だから、というよりは、不器用な兄二人がいればそりゃあ、彼女自身だって大変な思いをしてきたのは想像に難くない(し、雄二が殊更に説明してくれるしね)。
でも、兄二人の対応の不器用さゆえか、お母さんが帰ってきたことに対して、最初こそちょっとだけ戸惑うけど、なんか……女の子の優しさ全開で、本当にホッとしてしまう。
でも、不思議なことに、すんなりと受け入れるのは子供たちよりも、会社のスタッフたち、なんである。事件があってその後を引き受けた甥の丸井(音尾さん!)、古くからの事務員、弓(筒井真理子)、まだ若いドライバー(浅利陽介、韓英恵)のメンメンである。
弓はこはると年も近く、そして認知症の姑を抱えているという事情もあって、憎んでしまう身内と立ち向かうという難題について、この物語にもう一つの陰影を投げかける。
勿論、こはるがキチク夫を殺したことと全然事情は違うが、弓が抱えてしまった殺意に、天が答えてしまったかのように、失踪した姑が死んでしまうのは、勿論事故であるけれども、それを意志を持ってなしとげたこはると、心の中の欲望を神様がかなえてしまった弓と、どちらが幸福であったろうと、思ってしまうのだ。「私が殺した……」と打ちのめされる弓に、周囲は当然、何も言葉をかけられないが、こはるは真実、どう思っていたのだろう。
かなり、気になる人物が入り込んでくる。新入社員としてマジメ然として勤め始める堂下、これが、しかし佐々木蔵之介なのだから、このままで済む筈はないんである。
案の定、済まなかった。堂下は足を洗った元ヤクザで、かつての“子分”からブツの運び係を要求される。一度だけだと凄んだにも関わらず、こともあろうにその運び屋として彼のタクシーに乗り込んできたのは、ついこの間、離婚して母親の方につき、久方ぶりに会いたいと連絡してきて楽しい時を過ごした、愛息子、だったんである。
そこはどうしようもなくやり過ごしたんであろう堂下だがその後荒れに荒れまくり、こはるを拉致して酒をがぶ飲みして死への道行を疾走するんである。
つまり、彼に言わせれば、子供のことをどんなに思っても、罪を犯したのが子供のためであっても、子供は自分のことしか考えてない。自分の境遇を親のせいにして、これじゃ何をやってもやりきれない。一緒に死のうじゃないの、という自暴自棄である。
それだけの土台を、つまり堂下がこはるにねじれたシンパシィを抱かせるだけの土台を作ったのは、やっぱ雄二よね、と思う。
長男の大樹もまた、現在離婚の危機にさらされて、生来の吃音もあいまって奥さんと一触即発の状態。夫婦間も、きょうだいたちとも、彼自身の素直な気持ちというか、本当はどう思っているのか、どうしたいのか、彼自身がそれを伝えきれない苛立ちに時に暴力的になり、自身の父親の血ではないかと怯えている、というシリアスな状況にはある。
でも、大樹は一貫して、まるで信念のように、唱えるように、言い続けてきたのだ。母さんは、母さんだから。そこに余計な修飾語はなかった。どんなことがあっても、とか、周りから何を言われても、とか、何一つ。
それを妹の園子は判りやすく解説する。母さんは私たちのために父さんを殺したんだと。あまりにも判りやすく解説するからこそ、シニカルな雄二は切り返す。そのために俺たちはどうなったんだと。中傷されて、思う道に進めなくて。それなら殴られ続けている方がましだったと。
よーく考えれば雄二の言い様もおかしいのだが、母親への愛情と、自分の人生が上手くいかない苛立ちを、現実的に整理してしまう皮肉を身につけた彼の言葉は妙に説得力を持ち、だからこそ余計に、きょうだいたちを苛立たせる。
大樹の奥さんがヒステリックに叫ぶ、人殺しの孫、という言葉は、彼らきょうだいたちが言われ続けてきた人殺しの子供、という記憶に引っかかって、大樹を暴れさせてしまう。しかして、大樹は奥さんに何も言っていなかった、彼が奥さんを信頼していない、心を閉ざしていることこそを奥さんは怒っているんだということを、自身の境遇や母親へのアンビバレンツもあいまって、この不器用なお兄ちゃんはなんにも言えてなくて、このザマだった訳である。
人殺しの子供、であることが、理由ではなかったのだ。それを理由にしたがっていただけだったのだ。強い強いお母ちゃんが、私のしたことは間違っていない!とおとがいをあげた時、きっと彼は判ったのだと思う。自分が立ち向かっていなかっただけなのだと。
この物語はこはるが夫を殺めるシーンから始まっていて、当然この時も田中裕子が演じているのだが、だから不自然に真っ黒の髪にお顔はそのままで、着せ替え人形みたいに不格好にタクシーの制服着てて、うーむ、もうちょっとどうにかならなかったかしら、と正直思っちゃう(爆)。
ある年齢の役者さんが、どこまでプラスマイナス演じられるか、リアリティをもって、というのは、なかなかに重要な問題で、ただたんに髪を黒くすればいいというもんでもなく、むしろ、黒くしただけで、こういう悲惨な状況になっちまったりする、んである。
ことに本作の場合、園子が美容師崩れで、家族の髪を切るシーンがあって、ラストシーンで、今は白髪になった母親の髪を切る準備をしている、そこで余韻を残したラストになるだけに、この、黒髪だけで若さを表現しようとする違和感は、かなりつきまとってしまうのが惜しかったかなあ。昨今はCGで役者を若返らせちゃう技術がハリウッドあたりではあるらしいが……。
個人的には、メッチャ男前!と作品に出会うたびにホレなおす韓英恵嬢、そしてもちろん、監督のお抱え役者、音尾さんが見るたびにイイ感じに老けてくこと(爆)、そしてこれも、今後のタッグを期待してしまう、筒井真理子氏が、メインの若い役者たちの奮闘を、まさにワキで重層的に支えてて、見ごたえ充分だった。★★★★☆
それでなくてもフィギュアスケートというと女子シングルのイメージがまだまだ強く、カップル競技は正式なオリンピック種目じゃないと思っている人がそばにいたことにボーゼンとしたぐらいで、男子シングルにおいてはそれこそ……「男たるものがヒラヒラした衣装でちゃらちゃらしてる」てなイメージが、この日本においてだってつい最近まであったであろう。
男子シングルがマトモに放送されるようになったのは、スター選手であった高橋君の頃でさえまだまだで、やはりオリンピック金メダリスト、羽生君の登場を待たなければいけなかったのだ。それだけ、オリンピック金メダルというのは、大きいのだ。
しかし本当に知らなかった。ジョン・カリー。イギリスの男子シングル選手。金メダルの功績より同性愛をすっぱ抜かれて、最終的にはエイズにかかって44歳で亡くなってしまった人、なんていう書き方をしたら、当時の愚かなジャーナリズムと同じになってしまう。
でも、その単純な事実だけでもやはり、衝撃だった。そんな選手がいたんだ、と思った。こんな豊かな時代になって、全く無知の新しい病気が出てくるなんて、という恐怖があったエイズがなぜ最初、同性愛者ばかりに発症してしまったのか。
現代でだって、ゲイの病気というイメージは拭い去れていない。エイズは彼らへの差別を決定づけてしまった。神様というものがいるのなら、彼こそが差別主義者に違いない。
と、いうところに至るには当然、時間がかかる。これはドキュメンタリー。無粋に今の役者に再現映像など演じさせたりしない。だからこそ、だからこそ……本物の、氷上のヌレエフと呼ばれたジョン・カリーの演技を見て……驚嘆した。
大抵、アスリートの過去映像というのは、現代は当然技術が進歩しているのだから、この時代はこれで凄かったのよネ、ということになりがちなんである。ことに男子は、一本飛べるだけで凄かったクワドが複数が必須になるなんていう、フィギュアを見始めた頃にはSFかと思われるような時代が現実になってしまった。
けれども、フィギュアは半分が芸術点なのだ。そしてジョン・カリーの時代には、芸術点が、きっと男子は特に、そんなに重要視されていなかったんだろう。ジョン・カリーがいなければ、今の時代から過去を眺めて、頑張ってるけどネ、ぐらいに思ったかもしれない。
勿論、ジョン・カリーは身体能力も素晴らしく、今見てもほれぼれするようなトリプルを流れるように完璧に決める。今みたいにコンビネーションはないにしても……っていうところが、そういうところなの!……とにかく、今見ても、衝撃、こんな選手、見たことないと思うほどの美しさ。
まさに、氷上でバレエを踊っているのだ。いや、滑っているのだ。そこが重要だと、彼はずっとこだわり続けていたんだろう。
彼はもともとバレエをやりたかった。でも、それこそ男たるもの!!という父親はそれを許さなかった。フィギュアスケートはスポーツだから、と許された。その当時は“フィギュア”といえども、スポーツとしてのスケートのイメージの方が強かったんだろう。
でも彼が凄いのは、スポーツとしてのスケート、ジャンプも見事に決めている点である。きっと、それをクリアしなければ、自分の本当にやりたいことを極められないと思っていたんじゃないかと思う。
そしてそれだけの身体能力も彼には備わっていた。……エイズにかからせた神様はヒドいけど、フィギュアスケートの神様は、彼に使命を与えたのだ。
なんという、美しさだろうと思う。まさに、氷上のバレエ。フィギュアスケートにおいて、基本はバレエから始まる、というのはよく言われるところだが、こんなに、しっかりと、美しい姿勢、美しい背中、指先、腕のしなり、すべてがまさに、バレエダンサーであるスケーターを見たのは初めて。つまり、後にも先にも初めて。
今は当然、バレエが基本に取り入れられているだろうが、ヤハリ、その他の様々なトレーニングをバランスよく取り入れて、で、その中でその選手の得意分野……アクロバティックなり、モダンなり、クラシックなり、いろいろ、探っていくんだろうと思う。
ジョン・カリーの時代は、男子フィギュアスケーターは男らしくジャンプをばんばん飛ぶ、という時代であり、まぁそれは、いつの時代もあるのだが、とにかく、彼は、勝てなかった。時はソビエト連邦がそびえてる時代さ(シャレだが、まさにその通り)。
そしてジョン・カリーが、東の審判員を、屈服させたのだ。東のジャッジが過半を超えていたら、もう勝つのは無理だと、諦められていた時代。
現代から思えば考えられないけれども、印象点が左右するフィギュアスケート、しかも6点満点という、現代の、技に細かく基本の点数が決まっている時代からは考えらない曖昧さ。
われらが伊藤みどりも、そしていまでさえ珍しい黒人スケーター、スルヤ・ボナリーも、そのあいまいな採点方式に納得がいかなくて涙をのんだ試合がいくつもあったのだ。
それだけは、乏しい知識であった私にも、判る。そしてついに、オリンピックの舞台でペアのジャッジで不正があって、今の採点方式に改められたのは、記憶に新しいが、もう15年以上にもなるのだった。
ついついアツくなって、脱線してしまったが、そんな時代のジョン・カリーは、決して、競技にこだわっていた訳ではなかったんだよね。幼少のみぎり、本当はバレエを習いたかったのが許されたのがスケートというところから始まっていた彼は、表現したかった、のだ。
でもスケートという運命に導かれたから、そのことに対する執着は消さなかった。現役を引退して、念願のカンパニーを立ち上げた時、ダンサーになる気はないのかと聞かれて、即座に否定した。私はスケーターなのだと。
バレエを基本には勿論しながらも、スケートでしか出来ない表現、具体例を一つ上げるとすれば、ポーズを決めたまま移動できるという表現の優雅さは、確かにスケートにしか出来ないことだ。
最初ね、ジョン・カリーが、いわば今のアイスショーの元を作り上げた、ぐらいな感じで、フィギュアスケートの芸術面を押し上げたと。でももともと、いちおうは彼の時代から芸術点はあった訳だし、アイスショーっつったって、そんな革新的っつったって、エキシビションとグループ演技を見せる、今の形のそれぐらいっしょ??と思っていたら、衝撃!!
見慣れたアイスリンクじゃないの、その周りを観客が取り込んでいるあのスタイルじゃないの。まさに、舞台!!その最たるものは、クラシックの殿堂、METで、舞台に氷を敷き詰めて、つまりは、スケーターとしてはあまりに狭い、狭すぎるあの四角いステージで、まさにバレエなスケートを、見せるのだ。
……衝撃、だった。滑走のスピードが一つの魅力であるフィギュアスケートで、それを完全に封印しつつ、でもスケートの魅力をバレエの中に見事に落とし込んで、神話的、官能的、奇跡の舞台を作り上げていることに、本当に……驚嘆した。
物語の中では、日本に招かれたシーンもあったりする。あの当時の舌足らずな日本語のインタビューにヒヤヒヤする。ジョン・カリーは、日本のリンクが広告にまみれていたことに気分を害し、一時は公演を中止する事態にまで行きかけた。
今だったらアイスショーでだって、リンクの広告なんてフツーだけど、でも考えてみれば……ジョン・カリーが目指すようなバレエの舞台に、広告なんてありえないし、なんか、いかにも広告って日本的で、恥ずかしくて。スケートという芸術に、すべてを捧げたジョン・カリーの想いが凄い、凄い、凄すぎて。
ジョン・カリーの、人生。ゲイである彼の個人的人生。彼が素晴らしいスケーターであるということだけでいいんじゃないのと思う一方、いや、それではいけない、実際、ジョニー・ウィアーが同じくゲイを公言したスケーターとして、ジョン・カリーがいなければ僕はいなかったとまで言わしめるだけのことなのだから、ここはスルーするべきではないのだ。
時代や状況によって違うのかもしれないけれども、抑圧されているからこそ、ゲイコミュニティが水面下で発展していた感のあるジョン・カリーのいた時は、彼は、そりゃあモテたということもあるだろうが、恋人をとっかえひっかえ、という印象を与える。
ただひとり、ずっと彼を見守り続けた人がいる。最初の恋人として紹介され、まぁ決して美しくない(爆)小太りスキンヘッドの元カレが、最後までジョン・カリーの人生を見届ける。
最初に付き合っていた時に、好きな人が出来たけど、君とは友達でいたいとかありえないことを言われ、なのにそれを彼は受け入れ……ジョンが惚れっぽいことが判ってたから、というんだけど、それってつまり、彼はさ、自分は最初から、ジョンの最後までの恋人、いや、恋人の座は奪われちゃったけど、とにかくとにかく、彼のそばに最後までいる、彼にずっと頼りにされる自信、というか、それこそ運命だと思う……が、確信的に、あったんじゃないの。
あぁ、これぞ、プラトニック・ラブ!いや、ヤッてただろうけど(爆爆)、でもさ、彼がいたからこそ、いろんな場面でジョンは、踏みとどまれたんだと思う。
この時代だからかもしれないんけど、ゲイコミュニティが発達しているところだからかもしれないんだけど、ジョンはゲイコミュニティに積極的に出入りしては遊びまわり、惚れっぽくて、しかも危険な男にホレて、暴力受けてボロボロになるなんていう……昼ドラの女子か!!みたいな目に遭いまくるのだ。
それでウツになり、自身のカンパニーでも当たり散らし、……実際はカンパニーの女子スケーターがみんな彼に恋していたような状態だったのに、彼の傍若無人、それは心の弱さからくる……に誰も対応できなくて、経済的にも負担を抱えて、カンパニーを解散してしまう。
HIVも発症して……。本作はね、徹頭徹尾、生涯の恋人(と、言ってもいいよね?)の彼への手紙をナレーションして構成しており、つまり、彼の存在があってこそのジョン、という形をとっているのだが、……それは間違いないんじゃないのかなぁ。
HIVが席巻した初期に、同性愛者として罹患した彼が、競技としてのスケート、自身の夢だったダンススケートカンパニーの設立、追求するが故の苦悩、恋愛の苦悩……の中で、常に連絡をとっていたのが、結果的には……どうカテゴライズするべきなのだろう。親友というにも軽すぎるぐらいの、最初の恋人の彼の存在。
とにかくね……本当に美しすぎる、衝撃的に官能的すぎる、無知な私を打ちのめしたジョン・カリーなのだ。むしろ、同性愛を看破されたシークエンスはあっさりしてて、あれ??こんなもんなの?と思っていたら、彼の苦悩は自身の芸術を追求する、その上にあったのだった。
ああ、人間って、なんて無粋で愚かなんだろう彼のプライドと美しさに圧倒され……そして、愛の意味を、しみじみ、強く、考えた。★★★★☆