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「か」


2019年鑑賞作品

解放区
2014年 111分 日本 カラー
監督:太田信吾 脚本:太田信吾
撮影:岸建太朗 音楽:abirdwhale
出演:太田信吾 本山大 SHINGO☆西成 琥珀うた 山口遥 佐藤秋 青山雅史 岸建太朗 KURA 鈴木宏侑 籾山昌徳 本山純子 DJ WACCKY 朝倉太郎 ダンシング義隆


2019/10/19/土 劇場(テアトル新宿/レイト)
絶対初見の監督さんだと思っていたので、友人の自殺を直視したドキュメンタリー「わたしたちに許された特別な時間の終わり」を作った人だと知って、飛び上がる。純然たるドキュメンタリーというよりは、ドキュドラマのような危険な魅力を覚えていたから、その資質が更に絞り出されたような本作に、ああ、あれを作った監督さんならば……と妙に得心する想いなんである。
しかして本作は、かなりの問題作らしい。実に5年もの間のお蔵入り状態。しかも助成金を得て作られたのに助成金を出した側の意向に沿わず修正を求められ、それを拒絶した監督が助成金を返還、独自に公開の道を目指すも、観た人の評価は高いのにタブー視されて、ほとんど幻の作品、と化していたという、まさしく伝説の映画。

本当に、そういうことがあるのか、と思う。助成金を出す側が、いわばお上のかさにきて、クリエイターに修正を求めるだなんて信じられないことが。いや、あるのだろう。
本作がここにきて公開を実現できたのはあのあいちトリエンナーレの事態も含め、表現の自由が本当に守られているのかという議論が沸騰している昨今であるからだろうが、リベラルであるべき受け手の私たちも、こんな過激な表現すべきじゃないとか、常識に反しているとか、非国民的だとか、感じてしまう、のが、それこそが危険信号であることを自覚しなければならない。
完全に自由である筈の私たちの精神はしかし、大なり小なり、どうしても、国家とか政府とかの巧妙な蠕動におびやかされているのだということを。

文部省推薦、とかあるじゃない?あれがつくだけで、なんかつまんなそう、と思うことがあるのは、善男善女のために作られたというか、誰が見ても問題ないとか、つまりそういう、無難な作品を想像してしまうからなのだ。文部省推薦となると、危険な方向に行きそうな作品自体にはそもそもそれは降りないのだろうと予測できるから、尚更である。
今回の助成金がどういう状況で出され、この企画がどういう経緯で通ったのか判らないけれど、少なくとも作品自体は、釜ヶ崎というその場所自体がひとつの問題提起であるところの全面協力によって作られたのだ。そこに住む人々、関わる人々がこんな映画を観てみたいと、思ったのだ。

主人公は監督自身が演じていることもあり、彼の分身ではと思わせる存在である。ぺーぺーのAD青年スヤマ。彼がつく現場の先輩ディレクターは、オレサマ全開で、ドキュメンタリーを撮っているのに、自分の正義を振りかざして被写体にまで説教するほんっとうにイヤなヤツ。
でも、私たちがなんとなく、ドキュメンタリー=真実だと思っているその裏側が、こんな風に撮られているんだろうなとどこかで薄々気づいている、それが赤裸々に(決してオーバーに、とは思わない!)描出されることに戦慄を覚える。

いわゆる引きこもりの男性への取材、なのだが、スヤマがこの男性、モトヤマの心を開かせるために、音楽を糸口にして辛抱強く対話を試みているのを、先輩ディレクターは、何様のつもりだと、ディレクションしているのは自分だと、頭ごなしに叱責する。せっかくモトヤマの心が開きかけていたのに、それを分断したのはオメーなのに、である。
だからこの時点では、このチョー勝手な先輩ディレクターに泣かされたスヤマが気の毒で、彼に加担する気持ちが起きてしまうのだけれど、それこそがワナである。こういう現場にへこたれてしまうスヤマ、という男こそが危険なのだ。

スヤマはカノジョと同居しているのだけれど、もはやカノジョはそんなスヤマの自分勝手さを見抜いている。自己満足な映像や企画しか作れないのに、自分のことばっか考えて、都合のいい時に性欲を処理しようとしてくるこの恋人のことを、もう見限っている。
でもこの時点では観客は、ちょっとツヨめね、このカノジョ、ぐらいにしか思わない。このスヤマがどんだけヘタレか、まだ見抜けないんである。

スヤマは、自分の企画を通したいと、かつて取材した大阪のストリートボーイを訪ねる旅に出る。それが大阪、なんである。象徴的なドヤ街が残るシンボリックな場所、釜ヶ崎である。日雇い、炊き出し、シャブの売人、野宿、が日常の街だ。
スヤマはそこで自らの企画を実現させようとするのだが、先輩ディレクターへのアテツケか、自分が上になりたい気持ちがあったのか、モトヤマを呼び出すんである。モトヤマがそれに応じたのは、スヤマが普段の自分を受け入れてくれたことがあるだろうが、この時点でスヤマが想像以上のヘタレだということを、モトヤマは知る由もない。後で返すからと言いつつ最初からモトヤマにたかりまくり、最終的にはモトヤマの障碍者手帳を当てにして、カネを得ようとするサイテーさ、なんである。

そうしたことがつぶさに見せつけられるのが、衝撃である。人を理解すること、表現の自由を守ること、そういうことが、スヤマのなかで明確な理想になっていなくて、ただ、自分が認められたい、才能もないのに(!!)という自己欺瞞が爆発してゆくんである。無論、それを演じる監督自身は才能あふれる人に違いないのだが、この強烈な自己否定感に打ちのめされるんである。
だって、だってさ、どー考えたってカツアゲの男たちに脅されるようについていった先の飲み屋で、タダで中出しさせてくれる女の子に勃っちゃうなんて、サイアクだよ。タダな訳ないじゃん!ベタに、寝ている間にあっさり財布を持ってかれちゃって一文無し。アホか!!!

そんでその間ほったらかしにされたモトヤマは必死に監督の意向に沿って少年探しをしていたのに、やっと連絡がついたスヤマから、もっとちゃんと広範囲に調べたの?とか言われて、そらー、カチンとくるさ。ブチ切れるさ。もう金なんて一文も貸したくないさ。
障害者手帳を利用して金を作ろうなんて言われたら、信頼していた気持ちががらがらと瓦解するに決まってる。なぜスヤマはそれが判らないのか。

てゆーところから、一気にスヤマはディープ釜ヶ崎の世界に突入するんである。だって金がない。同棲していた恋人にヘルプの電話をしても、もはや彼女は彼を見限り、着払いで実家に荷物送ったから、とにべもない。
観客としてはざまーみろ、とかついつい思っちゃうが(爆)、しかしてそこからスヤマが転落する世界は、つまり……助成金をたたっ返した相手が見せたくなかったオオサカの、日本の、リアルな世界、なのだ。

その日暮らし路上生活者がかつかつの暮らしを送る、リアル現場。声をかけるあっせん者について行って、肉体労働、一日いくらの報酬を得て、酒を飲んで終わってしまう。いや、酒だけじゃない、すぐそばにシャブがある。
スヤマはタテマエはクリエイターとしての興味というか取材ということでそこに近づくけれども、甘いことこの上ない。その場では許しを得てカメラを回せたって、それが取り上げられるに決まってる。ひょっとしたらそれ故に命を落としちゃうかも、ということまで考え得ないあまりのあまちゃん加減。

しかしてこのシークエンスは……判ってる、フィクションとして作られているものだということは判ってるけれど、でも作り手の彼が、これならば、というだけの取材を重ねた上での、場面であり、受け手は現状が判らないながらも、ひどくリアリティを感じる、生々しさを、危険を感じる。
つまり、つまりさ。お上は、シャブが簡単に手に入る、それもこういうやり方で、というのを見せてきたことに、そんなことを描写されたら困る。こんなことは事実無根だと、言いたかったけれども、そこまでは言えずに……ただ、“内容の修正”を求め、監督は当然拒絶した、と、そういうことだったんだろうと思うと、ああ、ああ……。

でもね、ここで赤裸々なのは、人間の自分勝手さこそであり、大阪がとか、釜ヶ崎が、とかということではないのだ。だからこれにノーをつきつけたお上は結局、映画、芸術、創造性というもの自体を、判っていない、ということなのだ。
どこが舞台になっていても、生きる人間自体が問題なのだ。それがよりリアルに描ける場所として、監督は大阪、釜ヶ崎を選んだ。それだけのことだ。シャブにイッちゃう迫真の芝居を見せつける監督の姿に、取材に取材を重ねたのであろう矜持を感じ、受け手である私たち市井の観客こそが、それを平らかに受け入れる精神を持っていなければならないと本当に本当に、思う。

しかして、本作が公開にこぎつけたのは、事件だし、いや、それこそがあるべき社会だと思う。そんなん、大したことないよ、と言える社会であるべき。
てゆーか、日本はわりと無頓着というか、なんでもオッケーな社会だと思っていたんだけれど……やはりそこは、地域社会という狭さになってくると急に、違ってくる、のかなあ。

とにかく、凄い映画だった。人間の愚かさ、お金の価値の乱高下、その無意味さ、正義の在り方、公平な価値観を持つことのなんという難しさ……まさにまさに、文部省推薦にしたいぐらい、人間のなんたるかを問う作品だよ、本当に! ★★★★☆


影踏み
2019年 112分 日本 カラー
監督:篠原哲雄 脚本:菅野友恵
撮影:鶴崎直樹 音楽:山崎まさよし
出演:山崎まさよし 田中要次 滝藤賢一 大石吾朗 根岸季衣 尾野真千子 藤野涼子 中村ゆり 大竹しのぶ 北村匠海 真田麻垂美 中尾明慶 竹原ピストル 鶴見辰吾 高田里穂 下絛アトム

2019/12/6/金 劇場(丸の内TOEIA)
映像化不可能うんぬんというのはもう聞き飽きたので(爆)そこは大して重要視していなかったけど。でもあれかね、ヤハリ双子が二組も出てくるわ、しかも一組は殺し合いをするわ、死んじゃった弟が幻影というには生きてるみたいに出てくるわ(まぁそれは、そう思わせて実は、ということがあるにしても)といった、現実の映像としてはちょっとしたファンタジック要素が大きいことがそうだったのかなぁ。
そもそもミステリが苦手なので本作はスルーする気マンマンだったのだが、どうしても頭の片隅にちりちりと引っかかる、うう……「月とキャベツ」の監督主演コンビが実に14年ぶりのタッグ……しかも私月キャベ大好き。劇場にも三度ほど足を運び、DVDに写真集まで買っちゃったぐらい……あの作品で山崎氏を知って、劇中のミュージシャンの姿にすっかりときめいてしまったあの頃のことを思い出さずにはいられないじゃないのぉ!!(絶叫)月キャベで山崎氏のファンになった人はかなりいると思うなあ。

しかしてあの時、フレッシュな新人ミュージシャンだった山崎氏と、これまたフレッシュな新進監督だった篠原監督が、共に重鎮と言われる立場になったことは、感慨以上の何物でもないんである。月キャベのイメージが私にとっては最大に強いもんだから、篠原監督がミステリかぁ、と思わなくもないが、改めてフィルモグラフィーを観ると、ああやっぱり篠原作品が好きなんだよなぁ。
あっ!真田麻垂美ちゃんも出てたとは!!しかも山崎まさよしが調べものに行った図書館で彼の隣に座っていたあの女性!!気が付かなかったー!!ホンットに月キャベ再結集なんだね!!

……麻垂美ちゃんは本格的に女優復帰してるのかなぁ……まぁそれはともかく。山崎氏演じる真壁修一は泥棒である。しかもプロ中のプロ。泥棒、というあか抜けない言葉を使うのがはばかられるような。
狙うのは富裕でしかも嫌われているヤツの邸宅、本人が気づかないぐらいな盗みでさっと去ってゆく(シャレではない)。

そんな彼が、一生に一度のしくじりを犯したのは、プロ中のプロの彼がガラでもなく、仏心を出したから……と、最初は思うわけ。廊下にまかれた石油を辿って行った先に、この邸宅の妻がブルブル震えながら火をつけようとしていた。修一は躊躇せずにそれを止める。
そう……不思議だったのだ。プロ中のプロの泥棒さんが、そんなことは彼の“仕事”には関係ないやんか、と。確かに仕事には関係なかったが、彼の人生には大いに関係があった。

彼には双子の弟がいて、優秀だった兄の自分に比べてすねた弟はグレて、それがシングルマザーをやっていた教員の母親を追い詰めて、結果母親は弟と焼身心中に至った。
火事で焼かれた弟と母親の遺体を、もう一度焼くのかと荼毘にふす場面で狂いまくる場面が後に出てくる。多分、このあたりで私は混乱から覚めるのだ。

この弟、ってゆーか、若い頃の修一と双子のきょうだいってのが、現在の時間軸で出所した時から子分顔で親し気につきまとう啓二であり、観客側にぜんっぜん、そんな幻影だの幽霊だのなんてことを感じさせなかった。
きっともう一度観なおせば、修一と共に行動していても啓二と会話したりとかいう人物はなかったんだろう。気づかなかった……。

回想シーンになって、双子の二役を演じるのが、犬っころみたいに修二に付きまとっていた啓二=北村匠海君で、ハズかしながら私、凄い混乱しちゃって、え、え、何、どーゆーこと、他人の空似……いや違うよなとか……。ニブすぎる。そのまんまのことじゃないの。
ただ、狂った母親によって心中に巻き込まれた弟、という図式は、まさに幽霊(幻影?)となって現れた啓二によって訂正される。母親は正気に返ったのだと。自分を逃がそうとしたのだと。だけど、母親をそこにおいてはおけない。弟は死ぬとかいうより、母親を守ることを選択した……。

てなことが明かされるのはもちろんラストだから、メインはミステリなんである。はー、ミステリ(爆)。
修一が止めた、火をつけようとしていた大物政治家の妻は、流れ流れてヤクザの愛人になっている。その足取りをたどったりしたもんだから、修一はムダに疑われる。こんな経緯だから当然と言えば当然だが、キナ臭い殺人事件やらなんやらがてんこもりなんである。

まぁ正直、こーゆーミステリな展開はあまり興味がないし(爆)、大抵犯人は最も意外な人物……つまり、陰謀に加担するとかいう玄人くさい人物ではなく、この大物政治家の妻に横恋慕、とゆーか身分違いの恋とゆーか、カン違いの妄想とゆーか、てな感じの、とっぽいワカモンがそれであり。
そのワカモン、誠は修一の盗品をさばいてくれる昔からの仲間であった、というのもまぁちょっと、ありがちな気は、したかなあ。

修一には恋人がいる。しかも、幼なじみ。つまり、弟の啓二もまた、当時彼女に恋していて、……そんなさなかにあの凄惨な心中事件があったもんだから。
この恋人、保育士をしている久子を演じるのは尾野真千子。泥棒になってしまって、しかも捕まってしまった恋人を、いわば20年も待ち続けるという、……男子にとっては夢のよーな女である。このあたりの感覚はまぁ正直、ないない、と思う部分もあるのだが……。

そもそも修一が、司法試験も目指していたぐらいの優秀な学生だったのが、優秀という点では一致するにしても180度違う泥棒というなりわいに身をやつしたのは、この凄惨な心中事件の理由が、グレた弟の盗癖に端を発していた、というのが、なんかあんまり……とゆーか、決定的に、ピンと来なかったというのがまぁ、あるかなあ。なんでそうなるの??みたいな。
ある意味、泥棒稼業でもそんな完璧なプロになっちゃうアニキを、草葉の陰から弟は余計に嫉妬を募らせるんじゃないかとか思っちゃう(爆)。実際は草葉の陰どころか思いっきり表に出てるけど(爆爆)。

弟君がお兄ちゃんの前に姿を現していたのは、出所後から、だったのだろうか。そうとは思えなかった。いかにも出所を迎える子分然としてそこにいた彼に修一はちっとも驚かなかったし。ずっとずっと、死んだ弟をそばにおいてしか生きられなかったんじゃないか、そんな気がした。

そうでなきゃ、恋人を20年もそのままにしておけない気がする……。修一を捕まえたのは久子や啓二も知っている幼馴染の聡介(竹原ピストル)。修一の自転車にGPSをつけるなんていうコソクな手段で出世のための手柄をあげたが、出世以上にヤクザや政治家とのかかわりでのうまみと、そのために利用した政治家の妻=ヤクザの愛人にのめりこんだことで、あっさりと消されてしまう。
このあたりがミステリのドキドキの展開だが、頭の悪い私には、この理解で大丈夫だよね……??と何度も自信のない場面が訪れるのだが……。

久子はそうした筋からの嫌がらせで、保育園を追われてしまう。いわゆるSNSとゆーやつである。そんなものがない昔から、こーゆー事態に誹謗中傷で理不尽に追われるというのはよくあることだが、誹謗中傷を言っている人たちが目に見えない、というのが、やっぱり冷え冷えとする。
令和どころか平成でもない昭和の時代には、わっかりやすく木のかげとかでヒソヒソ話してたよね(爆)。つまり、中傷する側にもある程度の責任感?はあった訳だ。
抗議したくてもどこにしていいか判らない現代は本当に怖い。そして久子は、園長先生はしばらく休むだけでいいと言ってくれたんだけど、久子はやめる決意をする。それは……誹謗中傷の中に、ひとつ真実があったから。「私の愛している人は、犯罪者です」

久子にプロポーズしていた男がいる。保育園の出入り文具業者の久能である。演じるは滝藤賢一。滝藤氏というだけで、ただではすまないことにはなるとは思っていたが、求婚を断った久子のアパートに指輪を持って現れた時には、さすがにぞっとして……しかしそれは、久能ではなかったのだ。いや、久能だけど、双子の兄。
この時点で久子は気づいていた、というか、少なくとも違和感を覚えていたことを、再度襲撃された時に明らかになるのだが、双子が二組登場し、北村君もまた若い頃の真壁兄弟を二役演じているが、この久能兄弟二役を演じる滝藤氏は圧巻のひとこと。

だって、だってだって……確かに愛憎とか、アンビバレンツとか、そういう言葉はそれなりには共通するさ。でも久能兄弟に関しては、少なくとも弟にとっては、兄貴は自分の人生を力づくで邪魔する、憎むべき存在でしかない。
愛する人にフラれて諦めていたのに、兄貴が金目的で自分に扮して脅したり襲ったりしたことに激怒し、殺してしまう彼の気持ちがたまらない。

それを修一が突き止め、いわば諭すシーンがあるのだけれど……修一はお兄ちゃんとしての立場で、弟に嫉妬される立場で、勿論それを充分知った上で苦しんでいるんだから説得力がない訳じゃないんだけど、……何とも言えないんだなあ……。
合わせ鏡、反面教師、色んな言葉は使える。修一が弟の啓二の気持ちを充分斟酌した上で久能弟を説得する、奪っていったんじゃなくて、勝ちに行ったんだ的な(すんません、うろ覚えで……)つまり、対等に闘っていたんだという言葉は、判るけれど、やっぱりあなたは優秀なお兄ちゃんだったしなあ、と思っちゃう。それだけ滝藤氏の圧倒的な熱演にすべてをさらわれてしまうということなんだけど……。

修一を長いこと追いかけているベテラン警部が鶴見慎吾というのも、ああ、月キャベ!!追い詰められて狂った母親役に大竹しのぶを配するというほどの気合の入れよう。
しかしてこれだけ大物を配置しているが、個人的には北村君の、彼自身に内包するキュートな生意気さを爆発させた、子犬のような啓二君が実は一番、存在感があったような気がするなあ。 ★★★☆☆


火口のふたり
2019年 115分 日本 カラー
監督:荒井晴彦 脚本:荒井晴彦
撮影:川上皓市 音楽:下田逸郎
出演:柄本佑 瀧内公美

2019/9/9/月 劇場(新宿武蔵野館)
裸の男女が隣り合っている感じ、デジャヴだなぁと思ったら「海を感じる時」を思い出してるんだと思い出したから、思いっきり、なるほどなぁと思ってしまう。やはり、この絶対的価値観が得意というか、好きなんだろうなあと思ってしまう。
男と女、セックス、絶対的な二極化。それはほんの四半世紀前ぐらいまではこんな、セックスの多様化が叫ばれる時代になるとは考えにくかった、この現代においては、実はなかなか正面切って描くには勇気のいる世界観なのかもしれないと思う。

実にストイックに、本当に二人しか出てこない。男は賢治、女は直子。
二人がかつての恋人同士だというのは当然すぐに判るが、いとこ同士だというのはニブい私はかなり経ってから気づく。
なぜこんなにも惹かれ合うのか。セックスが気持ちよすぎて、離れられない。それは「やっぱり血が濃いから」だと直子は分析する。きょうだいや親子同士だって、きっとセックスしている人たちは多い筈、とまで言う。

これまたなかなかにリスキーな台詞でハラハラとするが、そう言い切ってしまわなければ、二人の道行を描き切るなんてことは出来ないのだろう。
セックスを愛情の言い訳にしてるくせに、身体の相性を性格の不一致と言い換えて別れていく“他人同士”のあまたの恋人たち、夫婦たちにとって、ひょっとしたらこんなうらやましい二人はないということなのか。

もういい加減慣れればいいのに、震災ネタが出てくるたびにドキドキとする。既に触れない方が不自然なほど、それこそ関東大震災と同じように、歴史的事実としてあることなのは判っているのだけれど、わざわざ原作の舞台から東北に移してまでそれを言ってくるのが、なんだかやるせないというか、なんというか……。
しかし絶妙なのは、秋田だというところなんである。秋田の西馬音内盆踊りをと男女の恋愛を絡めて描きたかった、という監督たっての希望で、秋田を舞台にしたんだという。

秋田も東北だし、大きな揺れを感じたのはそうなのだが、劇中、直子が言う台詞にドキリとする。「被害がなかったことに、負い目を感じる」と。
津波があったかなかったか。原発の被害、その風評被害の有り無し、そんなことを、なにか被害の度合いの物差しのようにしていることは凄く感じていて、頑張れ東北、とか一緒くたにしないでとか、心のどこかで思っていたかもしれなくて……なんとつまらないプライド、いや、プライドですらない。

でもそれが、彼らの関係にどう影を落とすのだろう。確かにあの盆踊り、不勉強ながら知らなかったけど、顔を隠した、男とも女とも判らない、宵闇の中の踊りはエロティックで、とっても映画的と思うけれど、彼らの性愛と、震災と、秋田は、どう結びつくのだろう。
いや、そんな風に思うのはいけないのだ。私自身が言ったじゃないか。もはやこれは歴史的事実として刻まれていて、触れずに通り過ぎる方が不自然なことなのだと。
でも、まるで小心者のようにビクビクとしてしまうのだ。もはやここに触れずに、東北は語れなくなってしまったのかと。そしてその東北の中の亀裂をさえ、一歩踏み込んで描くようになってしまったのかと。

賢治は今、秋田から離れて暮らしている。バツイチだということが後に判明する。今はプータローだということも。
のんびり釣り糸を垂らしている彼の元に、父親から直子の結婚式を知らせる電話がかかってくる。つまりは親戚だから、当然の連絡である。その時にまとめて帰るよ、と彼は返答し、また釣り糸を垂れる。びくだなんて、古風な道具を使って、なんていうか……ザ・隠棲の人、だ。

そして帰省する。実家に一人ごろごろとしている。後から思えば、実家にいるのに親とかが出てこないのが不思議なのだが、そのあたりには複雑な事情があるらしい。直子いわく、賢治の母親の後にすぐ後妻に入った女性がいて、つまりはそれは寝とったと、ウラギリだと。賢治はひょうひょうと、おふくろががんで入院していた頃からの関係だったと思うけどね……と言う。
そんなものだ、男女も、夫婦関係も。むしろそういうことに世慣れている方の女性側の直子が、どこか責め立てるようにそれを言うのが意外だっただけで。つまり直子は、逆説的に、賢治に自分を奪ってほしいと思っていたとか……うがちすぎだろうか。

直子が二十歳、賢治が二十五の時に、溺れるように恋に落ちた。ていうか、直子が賢治を追って、東京に出てきて、それ以来、溺れるようにセックスをした。
今、直子は他の男との結婚を決め、式に出席するために帰って来た賢治を捕まえて部屋に引きずり込み、まずはかつて恋人同士だった二人の、あられもない写真を見せる。

それが、まるでアラーキーが撮ったかのようなモノクロームのアーティスティックな写真で、これを二人の自撮りだと言われてもナァという気持はなくもない(爆)。
最終的にはちょっとしたファンタジーも入ってくる物語だからそこまでいうのはアレだけれど、ここで一気にエロティックが沈められてしまう気がしちゃう。

もっとつまんない、荒々しい、シロート臭い、ボケボケのカラー写真だったら、二人のかつてを想像できたのに、と思っちゃうのは、ここで一足早く、ファンタジーに連れて行ってもらえただけなのかもしれない、と後から思い返す。
最終的に、富士山の噴火という、近いうち起こるかもしれないにしても今はまだ起こっていないことを、劇中の事実として差し出すのだから、これはファンタジーに違いない。
しかもそれを、やはりたった二人、裸で寄り添いながら音声だけのそらぞらしいニュースを眺めているのだから。

直子は賢治に未練たっぷりで、彼のこと、というか、彼の身体を忘れたことはないと言い募るけれど、実際賢治はどうだったんだろう。のらりくらりと交わし、忘れていた訳じゃないけど、ぐらいの言い様だったけれど、それはやっぱり、言い訳だったのか。ずっと忘れられないでいたのか。
二人が別れたのは、賢治の浮気相手に子供が出来て、結婚を迫られたからだったことが後に明らかになるけれど、いとこである直子とは妊娠しないように気を付けていたのにその相手とは、ということなのか、それともついうっかりなのか。

直子は、今の結婚相手を決めたのは、子供が欲しかったからだと、言った。そんなことで結婚を決めるのかよと、賢治はなじった。……難しい問題だ。女には産める年齢のタイムリミットがある。それを理解して、あらゆる年齢の結婚したい女性たちは、それを理解してくれる男性を探し求める。男性が、その条件はほぼフリーであるのと、大きな違いだ。
でも、直子にとって賢治は、そもそもいとこ同士だということがお互いブレーキがかかってて、やっぱりどこかタブーを感じてて、子供が出来ないようにしていたのか、そう明確には言ってなかったけど……。結婚は、出来るんだけどね。でも地方に生きる土地柄もあってか、忌む気持ちがあったのか……。

直子が、賢治の亡くなった母親が、賢治と直子が一緒になれば良かったのに、と言っていたと聞いて、悶絶する場面で、そんな風にも思ったけど、でも、どうなんだろう……。肉体と血の因縁が色濃く結びついている二人に、俗世間の結婚という縛りは、まったくもって似合わない。
直子が賢治との子供を望んでいたかどうかも怪しい。セックスを愛情の言い訳とするフツーのカップルからは、二人はあまりにも遠いところにいる。あまりにも気持ちよくて、セックスがやめられなくて、それを愛情と言っていいのか、そんな気持ちさえも産まれもしないほど溺れる、その先に二人の赤ちゃんなんて、どうなんだろう。

セックスと食事と酒。二人の刹那の数日間はただそれだけに終始する。いかにもな、男女の営みである。食事を、料理上手な賢治がやたらオシャレな、アクアパッツァですか?あれは、なんていうもんを作っちまうあたりがヤラしいが、そして酒で、そしてセックス。生活の匂いは周到に排除される。
賢治が一応は嫉妬してみせる、直子の夫となる“自衛隊”は、修羅場にすら引っ張り出されない。富士山の噴火に伴う秘密任務で結婚式が延期され、それをかぎつけて糾弾した直子とケンカになり、もう直子はこの“自衛隊”を捨てる決意になる。
賢治はそんな直子のそばに寄り添い、いつまでも二人はこれから、一緒にいる、ということなのだろうか。

タイトルの火口のふたり、というのは、かつて恋人同士だった賢治と直子が、大きくぱっくりと口を開けた富士山の火口のモノクローム写真の巨大ポスターに、裸で、賢治が直子を後ろから抱きすくめる形で、火口に吸い込まれるような角度で写真を撮った、その時のエピソードによるものであり、子供が出来てしまった浮気相手にプロポーズした日であったのだという。
それを直子が知っていたことに賢治は驚愕するのだけれど、なぜ知っていたのか、あるいは女のカンなのか。その元妻との離婚も浮気がバレてというんだから懲りないが、つまりは賢治は、……おそらく直子以外の女を本当に愛せないまま、ここまで来てしまった、のだ。いや、そもそも愛するとはどういうことなのか、すら。

セックスと愛情のバランスが、二人それぞれ、そして二人の間には、著しく欠けている。そしてそれは、二人にとっては、お互い同士をセックスで結び付け合った以上、どうしようもなくバカバカしいことなのかもしれないと思う。
……だから、危険だと思っちゃうのだ。こんな関係を、自分の身にも起こるかもと想像できる人が100%だと思える時代では、なくなった。ものすごく閉じられた濃密な世界観は世界だけれど、それがすべての人が想像できて、共感できるんだと思える時代では、なくなった。

勿論、ピンク映画とかAV作品でも、そういう葛藤はあるとは思うんだけれど、ちょっと、違和感というか、もうこういう作品は作れないんじゃないかという気はしたんだよね。
それは本作が、本当の生々しさ、リアルさを追及せずに、起こるかもしれないけどまだ起こってはいない富士山の噴火をオチに設定し、まるで世界から隔絶された二人、という、いわば幸福なエンドに持って行ったから。

それを心地よいものとして受け取るべきなのか、私はよく、判らなくて……。正直言うと、もうこう言っちゃおしまいなんだけど、覚悟もないのに元カレと一夜を共にし、それで元カレに火をつけちゃって、しょうがないなあ、みたいな感じでやけぼっくいボーボーになる女とか、最悪キライと思っちゃうから(爆)。
まーこれは、単純な女の感覚に過ぎないのは判ってるけどね。女たるもの潔く、自分の人生決めたなら、こんな展開が予測つくことするなと。いやいや、それを言ったら、物語自体が成立しないのだが……。

結果的には、あれだけセックスしまくってるのに、なんか全然エロく感じなかったのはどうしてなのか、そして良かったのか、悪かったのか。アートだったのね、きっと。 ★★☆☆☆


風たちの午後
1980年 105分 日本 モノクロ(パートカラー)
監督:矢崎仁司 脚本:矢崎仁司 長崎俊一
撮影:石井勲 小松原淳 音楽:信田和雄 阿部雅志 内田龍男 矢野博司 BOOZY
出演:綾せつこ 伊藤奈穂美 阿竹真理 杉田陽志

2019/4/1/月 劇場(新宿K's cinema)
寡作な監督だよなとは思っていたが、本作の次の作品「三月のライオン」まで実に12年もかかっていたと今更ながら知って、驚く。
恐らく「三月のライオン」はリアルタイムに近い状態で観ることが出来ていた記憶がある。地方から出てきて、いわゆる商業映画ではないスタイルの映画に触れた最初の作品のひとつで、強烈な印象を抱いた覚えがある。

それ以来、ホント撮らないなこの人、と思いながらぽつぽつと追いかけて来た。本作の存在はもちろん知っていたけれど、観る機会がここまでなかった。
その理由が音楽著作権にあるとは知らなかった。そりゃあこんな伝説的監督の伝説的作品ならば、何度だってリバイバル上映してておかしくなかったのに、それができない理由があったのだ。
今回それをクリアしたのは、音楽を作り直したんだろうか……だとしたらオリジナルとそれは違うんだろうか……少々気になるところ、なのだけれど。

そう思うのは、本作が非常に音響にこだわりを持っていると、素人の私でも判るから。後にオフィシャルサイトを覗いて、オリジナル公開当時は監督自らが各上映劇場に出向いて調節を行うほどであったと語っていて、やはり、と深く首肯する。
聞こえるか、聞こえないかのギリギリのような会話。正直、聞き取れない台詞も沢山あった。でも、焦る気持ちがわかない、なぜか。その囁くような声に、しんみりと耳を傾けながら、彼らの心を見たいと思う。

映像重視ということではなくて、なんていうのかな……ここに芝居がかった台詞なんぞを大音量でやられたら、違うんだよねと思うのだ。
言葉に表せるほど、彼らの心ははっきりしてない。ことに主人公の女の子は、親友の美津のことが好きだという自覚を覚えたのは、ひょっとしたら「もう一緒にいられない」と突き放され、自分の行動が彼女の拒絶反応を招いたことに気づいてからだったかもしれないのだ。

当然、LGBTなんて言葉もない。ゲイ、という言葉さえ、あったかどうか。ホモなんて言われて、オカマと言われて、それが差別だということにさえ、気づいていないヒドい時代。
矢崎監督自身が、いわゆる同性愛について問題意識をもって本作を作った訳では、ないと思う。そういう時代ではなかったということもあるけれど、監督が語るとおり、「愛が動機ならやっちゃいけないことは何一つない」ということなのだ。

まぁ語弊があるというか……殺人とかはやっちゃいけないとは思うけど(昨今、自分勝手な愛の名のもとに、そういう事件はあるからなぁ……)、でも、この時代に、LGBTという言葉も、そうだ、ストーカーという概念さえもなかった時代に、矢崎監督が、愛を信じてこの物語を紡ぎ出したことに、感動を覚えるのだ。

脚本に長崎俊一が入っていることにも感動を覚える。矢崎監督ほどじゃないけど、彼も寡作作家、だよなぁ。「ドッグス」が大好きで、それを思うと矢崎監督との親和性を強く感じるんである。単純にモノクロームというのもそうなんだけれど……。

モノクロは、画面を、注意深く、何も見逃さないように、見つめてしまう、ある種の効果があると思う。
それに加えて、もう最初の場面、夏子が美津の誕生日プレゼントのために宝石店で乙女座のネックレスを買い求める場面から、彼女の声のあまりのひそやかさに、ただただ、耳をスクリーンの側に向けて、息をつめて彼女たちの声に耳を澄ませる。

もう最初から、取り込まれている。夏子がバラの花束まで抱えて帰ってきたのに、窓には白いハンカチがぶら下がっている。それは美津が男とセックスしているという合図である。
夏子にもチェックのハンカチが用意されているけれど、彼女はまだそれを使ったことがない。使うつもりもない……だって、美津のことが、好きなんだもの。

夏子が、美津に渡すはずだったバラの花束を手持無沙汰のようにぽつり、ぽつりと食み、男が帰った後、部屋へと戻った後に、嘔吐すると、和式便所に鮮やかな赤いバラが浮いているんである。
本作はこの最初と最後だけがカラー。既に耽美的な雰囲気がありありと浮かぶ。赤いバラを嘔吐して、そして最後には……ハッキリと予感した訳じゃなかったけれど、何か破滅的なものが待っている気は、していた。

なぜこの二人が友人で、一緒に住むに至ったのかと思われるほど、対照的な二人である。美津は美容師、バリバリのキャリアウーマンといった感じ。夏子はどこかぼんやりと、保育士をしている感がある。
細い眉が時代を感じさせるとともに、流行の最先端を風切って歩いているという感じの自信満々の美津は、ネクタイをするファッションもあいまってマニッシュで、でも逆にひどく女っぽくて、確かにこんな女になりたいと同性に思わせる魅力がある。

美津の男は化粧品の営業マンで、営業成績を上げたい彼の思惑を利用する形で、夏子はイヤイヤながら(その気持ちがホント、ミエミエなのだ……)近づくんである。
出会いを欲しがっている同僚をエサにして、この男が女好きであるのを察知して、引き合わせる。でも結局、そのことは、この男が不誠実であることを証明したに過ぎないんである。

ヤレる女が増えれば、彼はそれでいいのだ。パンチパーマが時代を感じさせるこの男は、決してイイ男ではないと思うのだが、なんていうか……いつの時代にもこーゆー男いる!!という、女に対する根拠のない自信をふりかざして、俺は何でも判ってるんだという態度で、夏子の美津への気持ちを踏みにじる、みたいなさ……!!

ヤハリ、時代的に知識があるないでは、全然違うと思う。これが恋愛感情、独占欲だと気づくまでに、いや、夏子は最後まで気づいてなかったかも、しれないんだもの。そしてその気持ちを受け止めかねる美津も。
夏子は休日、鼻歌を歌いながら美津の洗濯物も洗濯機にほうりこむ。こっそり、彼女の下着を取り出して、自分の下着をスカートの中から脱いではいちゃう、なんていうシーンが用意されている。

あれは多分……未洗濯のものだったと思う。そしてそもそも、美津は「私のを一緒に洗濯しないでくれる?」と遠慮がちではあるけれど、きっぱりと言う。彼女が夏子の行為に潜んだ気持ちを察知していたのか、ただ単にちょっとした潔癖があったのかは判らないんだけれど、ただ……この時、さ。
夏子が気づいていたんだかいないんだかが微妙で、なんていうか、段々と、砂が崩れるように、きっと夏子は気づいていたんだろうと思うのだけれど。自分の気持ちがどこに向かっているのかと、それが決して報われないということを。

夏子は美津を思うあまり、美津の男に処女を差し出してまで、別れてほしいと願う。それは成功しかけたんだけれど、なんたってこの男はそんな乙女心のヒミツを守ってくれるようなヤツじゃないし、それ以前から「アイツ、レズだろ。夏子のことが好きなんだ」とデリカシーもなく言い放つようなヤツだからさ。
ヒミツをあっさりと夏子に白状して、「アイツ、処女だったよ」なんてこともなげに言う、鬼畜!!

このシーン、初めて夏子はチェックのハンカチを窓先にぶら下げたのだ。帰宅した美津は、親友の幸福に微笑し、踵を返したのだ。
それが、自分を愛するがゆえに、憎むべき男に処女膜を破らせるためだったなんて。でも彼女はそれを、痛ましいとも思わない、むしろ、気持ちが悪いと思った……ぐらいなんだろう。なんてこと!!

こんなヤツに処女を捧げてしまって、そして、その血に指先を浸して、夏子はシーツに文字を書く。ミツ、ナツコ。うわ、うわうわうわ、これってこれって……アベサダじゃないのぉ!!もう、もう、この時点で、彼女の想いが報われないのは、だからこそ決定的というか。
同僚をあてがったこともバレて、既に仕事をする気も失っていた夏子は、美津から「もう一緒にいられない」と決定的な別離の言葉を浴びせられ、身一つで放り出されてしまう。しかもそれに決定的なことには、あの鬼畜男の子供をそのお腹に宿してしまったんである。

これ以降は、壮絶なストーカー描写で、息をのむ。正直、ふんわりとした同性愛感情を予想していたから。最初は確かに、そんな感じだったから。
でも美津から強烈な拒絶反応を突き付けられて、叩きだされた後の夏子は、もう仕事もなくて、しがない内職をほそぼそとやって、あとの時間はひたすら美津をストーカーする日々。

果ては美津の捨てたごみをこっそり持ち帰って、そのごみの中で恍惚と横たわる、彼女の食べかけのりんごの芯をかじりながら……!!というシーンには本当に震撼とする。
だって夏子はちょっと歯並びがガタガタしているところがほっとけないチャーミングさを醸し出すような、それこそ当時の流行を無邪気に追ってる聖子ちゃんカットとかさ。単純に、乙女に見えたから。冒頭、乙女座のネックレスにバラの花束だもん!!

でも、夏子は、報われぬ愛に狂ってしまったのだ。そのひそやかな囁きは、それまでの耳に心地いいものではなくて、何か、何か、何か……もう何にも相容れぬ、絶望に替わってしまった。
大体、妊娠が判ってから、叩きだされたのだ。当然、その相手はあのクソ男だ。なのに夏子はその赤ちゃんを堕ろすことをしない。何を思ったのか、美津が愛した男だから産みたいと思ったのか。

マタニティドレス姿でストーキングを続ける、しかもその哀し気な表情の夏子に本当に震撼とする。そしてついに、夏子は子供を産む。画面の外から助けを求めるような、せっぱつまった赤ちゃんの泣き声が聞こえているのに、あおむけに横たわった夏子に、その声は聞こえているのか、いないのか。
てか、画面いっぱい、バラである。茎も葉もついた、無造作なバラの切り花の上に、死んだように、夏子は横たわっている。死んだように……??画面の外から、赤ちゃんの泣き声が執拗に聞こえ続ける。彼女は、彼女は、彼女は……死んでしまった、の???

今はストレートとLGBTを、まるで別の恋愛形態みたいに描いているけど、その価値観すらなかった当時は、むしろ今より公平な気持ちで描けたのかもしれないと思う。
それだけに、理解されず、報われない愛は悲しく、しかしひどく、美しい。★★★★☆


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