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「う」


2014年鑑賞作品

歌行燈
1943年 93分 日本 モノクロ
監督:成瀬巳喜男 脚本:久保田万太郎
撮影:中井朝一 音楽:深井史郎
出演:花柳章太郎 柳永二郎 大矢市次郎 伊志井寛 山田五十鈴 瀬戸英一 村田正雄 南一郎 吉岡啓太郎 渡辺一郎 山口正夫 中川秀夫 青木喜好 島章 花田皓夫 辰巳鉄之助 松島慶之助 柳戸はる子 明石久子 清川玉枝


2014/9/10/水 劇場(池袋新文芸坐)
またしても使い慣れてるデータベースでは、二回目の映画化作品の方しか出てこなくて困り果てる。
同じ原作なんだから物語に相違はあるまいと追ってみるも、脚本化の際の違いなのか、結構重要な転換点などが違っていたりして、更に困り果てる。いや、自分の記憶を信じて書けばいいんだけれど(爆)。

いや、つーのも私、主演の花柳章太郎を見たことないの。見たことないとか言いながら、ただ覚えていないだけ、というパターンではない、今回は。
フィルモグラフィーは10本にも満たなくて、そのどれも確かに観ていないんだもの。字面は見たことあるような、と探ってみたら、演劇界の大立者。
新派、聞いたこと、ある!しかし聞いたことある、以上は知らない……無知のバカ(爆)。

しかしその数少ないフィルモグラフィーの中から目を引いたのは、「残菊物語」映像の世界ではこれが彼の名を挙げたという。
私!島耕二監督版、長谷川一夫での「残菊物語」を見ているのよ!んでもって、溝口監督版の方が名高いことを知って歯噛みしたのよ。だって長谷川一夫の尾上菊之助はなんとも言えず微妙……いやいや(汗)。

そう思うとなんと因果な、というのは大げさだが、長谷川一夫に遭遇する時はなんだかいつも評価の低い方で、実際私自身の印象もそんな感じで(爆)。
そうして今回も二本立ての一本はそんな長谷川一夫主演作で、もう一本でそんな因果の(だから大げさだってば)花柳氏を初見だなんて、イチ映画ファンの中の因果で、勝手に盛り上がっちゃう。

しかし今回は二本のヒロインが共通している、山田五十鈴の魅力にまずヤラれた二本だったんである。
一本目の時にも書いたが、彼女も恐らく私、今回初見だったもんで、ファーストインパクトの衝撃はかなりのモンなんであった。

可憐なお顔立ちの印象からは、本作の方がそのままのイメージに合ってる。突然、父が非業の死を遂げ、身を売られて芸者になるも芸がなく、しくしく泣いてる可哀想な娘。外見の印象では、まさにピタリである。
いやいや、本作のキャラもそこまで単純ではないんだけれどさ。でも一本目の山田五十鈴が、その可憐なお顔立ちの印象を蹴飛ばすような気の強い女だったもんだから、今回の二本立ては女優特集!と言いたいモンだったんだよなあ。

しかしやはり、やはりやはり主演である。まさに初見の、花柳氏である。
初見だったけど、いやだからこそか、彼は玄人なんだろうと、見ている時から思っていた。つまり、劇中のキャラそのものの、能楽師なのかなと。
実際はそこまでまんまではなかったけれども、やはり伝統芸能方向のお人だった訳だし、「残菊物語」で名を上げたのは、その力量でもあった訳だし!

実際、この喜多八という役柄は、聞かせるノドがなければ意味がない。まさか吹き替えでもあるまい(爆)。
父親であるおっしょさんの後ろで、何人かのうちの謡い手の一人であるのに、もうその実力のほとばしりが、父親の贔屓目ではなく、相棒の鼓打ち(兄弟?)も認める素晴らしさ。

この父親と相棒はお互いねじべえ、やじろべえと呼び合う、掛け合い漫才のような面白さで、さてどっちがねじべえでやじろべえだったかちょいと忘れたが(そこ覚えとくとこ!)。
しくじりをおかした息子、喜多八に勘当という厳しい沙汰を出す父親に、相棒は終始、喜多八に同情的で、何とかとりなそうとする。

まあ、こういうバランスがなければ物語は成立しない。実際、父親だって息子は可愛いし、厳しすぎる沙汰だと思っていただろうけれど、そこは父親だからこそ、引けない部分がある。
しかしこのしくじりは、相棒がとりなそうにも救えないほどのものだったんである。

この物語の始まりはね、旅の始まりなの。舞台で喝采を浴びて、列車に乗り込み、次の土地への移動、まだ熱がさめやらぬ、といった雰囲気で、息子の実力を控えめながらもどうしても他人に言いたい、相棒は兄弟だろうから他人ではないけれど、でも言いたい父親、みたいな雰囲気。
息子本人も勿論自覚していて、若くしてもはや風格さえ漂う。伝統芸能だけれど、勿論車中はさっそうとマントの洋装で、そんなギャップも、自慢の熱を孕ませる小道具になる。

しかし向かい合わせに座っていた、これから向かう土地の訛りのある男が言った。宗山先生にはかないまへんわなあ、と。
実際には宗山という男は、単なる趣味人であり、それをかさに威張り散らしている嫌われ者であった。
まあでも、実際、趣味とはいえ玄人はだしと言えるほどの、素人芸とは言えないほどの腕前だったと、相対した喜多八本人が言うのだし、ほめそやす輩も多かったのだろう。まさかこの車中の男がサクラだった訳もないし。

そんなビミョーな存在に、プライドのある若き喜多八は腹を立てる。たかが田舎の趣味人に教えを乞えとは笑止千万、と。勿論、父親と相棒はさらりと受け流していたのに、である。
喜多八はこの宗山を訪ね、合いの手で調子を狂わせ、ヘタに玄人はだしだったもんだから、打ちのめされた宗山は首をくくって死んでしまう。

そうそう、この宗山がね、盲目のあんまだった、ってあたりがまた絶妙な味付けなんだよね。
つるりとそり上げた頭、焦点の定まらない目線、そして、現在よりももっと、障害を持つ人に対する複雑な感覚、優越感や、憐みや、こうであるべきと決めつける思いや……。

後に、自分だけ宗山の亡霊に苦しめられる喜多八は、どこか滑稽で、それはあのあんま特有の風貌の独特の気味悪さ、見えない目で見透かされている恐ろしさ。
当時はバリアフリーなんて言葉も当然ない時代、結構そのまんま、障害者に対する差別感覚があらわになっていて、それがここにもまさに現れているんだけれど、だからこその臨場感、リアルな心理の面白さを感じるんだよね。

地元の人たちは嫌われ者の鼻をへし折ってくれたと同情的だったんだけど、なんたってその結果死んでしまった訳だから、父親は喜多八を勘当、二度と謡を口にするなとまで言い渡す。
可愛い喜多八を路頭に迷わすことに、ネジベエ&ヤジロベエの帰路の掛け合いは哀愁とおかしみに満ちているんである。

喜多八はというと、謡を禁止されたものの、その喉を生かすしか道はなく、三味線を抱えて飲み屋街を流して糊口をしのぐことになる。
ナワバリ争いでおっかない兄やんに脅された……と思いきや、この兄やんがイイヤツで、喜多八のノドにほれ込み、コンビを組んで流しをしてがっぽがっぽ儲けるんである。
この兄やんは、本作の文芸チックな風情の中で、イイ感じに俗世間を感じさせて、なんだかホッとしてしまう。

喜多八は自らのバックグラウンドを語ることはなかったんだけれど、最初から彼は、子供の頃から叩き込まれた技術だと見抜いていた。それはこの兄やんが料理人という、これまた叩き込まれた職人だったから。
そして、宗山の悪夢にうなされるようになって、喜多八はこの兄やんに事情を話すことになる。

そしたらビックリ、宗山の娘のお袖が売り飛ばされた先で過酷な目に遭っているのを見かねた彼が救いだし、自分の姉の元に預けたというんだから!そ、そ、そんな偶然って、ありか!!
……まあそれがなければ物語世界っつーのは成立しないとは思うがしかししかし……(声が小さくなっちゃう……)。

まあ、いいや、てか、忘れてたわ。喜多八はこのお袖と一度、会っている。宗山の鼻をへし折ったその帰り道、追いすがる宗山を振り切った喜多八、宗山は娘を使って止めに走らせた。
町の評判から、この美しい娘を妾だと思い込んだ喜多八は、人のおもちゃになることなく生きるのだと彼女に言った。お袖はその言葉をずっとずっと守り続けていたんである。

その割には再会した時、喜多八の顔を覚えてなかったくせに(爆)。いいのいいの、恋は適当な記憶のまま進行出来るものなの(爆)。
喜多八の方はしかと覚えていて、兄やんと別れた後、そんな苦界に落ちちまったお袖を案じて訪ねていくんである。

芸のないまま芸者になってしまったお袖は、門付に来た喜多八の声の良さに打ちのめされ……って考えてみると、親子そろって喜多八の本物の芸に打ちのめされているんだよなあ……。
宗山に対しては、その鼻をへし折るために使った芸を、この時は、お袖を案じて、つまり愛して、心の声で彼女を連れ出した訳で。

で、芸のない自分を嘆くお袖に、父親に禁じられた謡を解禁することを決意する喜多八。と言っても、謡を教える訳ではなく、その謡に合わせて舞う舞、である。
あ、でも、確かに特訓風景ではお袖さんはただただ舞ってるだけだったけど、それをねじべえ&やじろべえの前で披露する段になったら、自分で歌いながら舞ってたしなあ、歌も教えた??でも歌もトンとダメだから舞、ってことじゃなかったっけ……。

まあいいや(爆)。この特訓シーンの、朝靄けぶる、林の中でのシーンが美しいんだから!
お父さんに禁を破ることをひざまずいて手を合わせて詫び、お袖さんに七日間の特訓を施す。
そしてお袖さんが次の座敷で出会うのが、ねじべえ&やじろべえだってんだから、これまた、この偶然を許していいのかと言いたくなるが、まあいい(許すしかしょうがない……)。

父親の方は何の芸もない、歌も歌えず酌も出来ない(人のおもちゃになるなと言われたから)お袖におかんむりだったんだけど、たった一つ出来ると言って舞い始めた彼女にくぎ付けになる。
当然、それは、息子が教えたに違いないことが、二人には判ったから。

そして、ねじべえ&やじろべえは、何里も先まで響くノドと鼓で、宗山の亡霊に悩まされて、なぜか通りがかりのあんまに肩を揉まれてた(笑)、喜多八を呼ぶ訳さ。
いや、呼んだ訳じゃなくて、ただ単に聞こえただけだが(爆)、しかもたまたまこんな近くにいたこと自体、これまたこの偶然を許していいのかだが(爆爆)。

まあとにかく、にっくき仇の筈の喜多八から舞を仕込まれたお袖、どうやらこの若き二人は愛し合っていて、どんな理由で呼び戻そうかと悩んでいたねじべえ&やじろべえはすっかり安堵の円満解決、大団円。
これでいいのだろうかと思わなくもないが、口で言うほどではなく、結構面白がってるのさっ。

今回は伝統芸能の芸人くくりの二本立て、その芸人がホームを追われてドサ回りする二本立て。ヒロイン、山田五十鈴くくりの二本立て。
成瀬巳喜男監督特集という他にも、面白い共通点の二本で、満足満足。!★★★☆☆


WOOD JOB! 神去なあなあ日常
2014年 116分 日本 カラー
監督:矢口史靖 脚本:矢口史靖
撮影:芦澤明子 音楽:野村卓史
出演:染谷将太 長澤まさみ 伊藤英明 優香 西田尚美 マキタスポーツ 有福正志 近藤芳正 光石研 柄本明

2014/5/14/水 劇場(TOHOシネマズ錦糸町)
いやあしっかし、矢口監督はハズさないよね。抜群の安定感。あまりにもハズさないので、むしろそのこと自体を忘れているぐらい??楽しみ、とかいう域をもはや超えて、矢口監督の新作なら当然スケジュールに入れるでしょ、というぐらいに達している。
でも意外、初めてオリジナル以外なんだね!そう思うと、いかにこの人のオリジナル力が凄かったかを改めて思い知る。それでなくても最近、オリジナルで押し切っていく人がどんどん少なくなって、商業映画に呼ばれたらもう、それっきりオリジナルから遠ざかりまくる傾向がありまくりだから。
そうか、あまりの安定感にそのことまでも忘れていたとは。改めて、この人って本当に凄い才能なんだなあ!!

実際、本作が原作モノというのだって本当に意外なのだ。だってすっかり矢口印にしか見えないもん。
初めての原作モノなのに、今までの矢口作品にしか思えない。これも凄い!逆に怖くて原作読めない!!
いやあなんたって最近次々と映画化され、その第二次作品も評価されている三浦氏の作品だから、きっと原作も面白いに違いないのだが、こんだけ映像の魅力や面白さ、スペクタクルさを見せつけられると、もはやホントに原作が、文字だけのものがどうなっているのか想像できないのだ!

それこそもう早まりまくって言っちゃうと、あのクライマックス、大祭の、神木である大木を山肌に滑り落とす、そこに染谷君が乗っかっちゃう、あのしんっじらんない超絶スペクタクル!!
ラストクレジットの“ミニチュア製作”に思わずホッとしたりして。いや、さすがにそうだよなとは思ったし、遠目にちっちゃく大木の上で飛び跳ねている感じがミニチュアならではのコミカルさを感じたけど、えぇ!?まさかホントに染谷君、乗って滑ってる!?と思うほどの臨場感だったから。
……って、まさかだよね??プロダクションノートをちらりと見ても、そのあたり割と濁してるというか、煽ってるというか、ひょっとしてと思わせる??いやまさか!でもそれぐらい、本当に口あんぐりして見ちゃった!

いや、ね、ミニチュア撮影っていうのに、矢口監督の初期作品「ひみつの花園」を懐かしく思い出したもんだから。
と、思い出したところで、その頃は私にとっては実はハズさない監督ではないことも思い出した(笑)。そうだ、あの時は私、ちょっと引き気味だったなあ。この確信犯的チープさ全開のミニチュア撮影含めて(笑)。
そうそう、あの時はミニチュアになったのは西田尚美で、あーああーてな感じで川を流れてった記憶が(遠い記憶だから、間違ってたらゴメン!)。

そうだよな、西田尚美だったのだ。最初からキテレツなコメディエンヌとして登場した西田尚美は、実はその後も矢口作品にはコンスタントに出続けているんだよね。そしていつのまにやらたくましいお母さんなんかも似合うようになっちゃった!
その間がホントにスムーズで、スムーズに年を重ねてスムーズに可愛らしい。「ひみつの花園」で引きまくってゴメン(爆)。今となっては大好きな女優さんの一人だ!!

で、なんか本題からハズれまくってますが(爆)。まあ最初からいきますと……。
おやおやおやー、またしても染谷君、10代の役ですかー。このあたりの年頃の役者は、結構しつこく10代やらされるね。それだけリアル10代の役者に託せないのかという次世代の不安を感じたりもしなくもないが……。
でも染谷君ミーツ矢口監督はヨシ!ついでに?言えば、まさみちゃんミーツ矢口監督は更にヨシ!

染谷君は今がガチで旬な若手役者だから、次々話題作にキャスティングされるのは予想の範囲内だけど、まさみちゃんミーツ矢口監督は、かなり嬉しいものがある。
それもやっぱり「モテキ」があったからかなあ。一時期シリアス系にばかりチョイスされてて人気とヒットがイマイチ合致しなかった彼女が、本来の陽の部分を再発見されたのが「モテキ」であり、それがなければきっと、矢口作品ミーツはなかったように思う。
監督が言うように、まさみちゃんはそのラブリーな見た目とは違って、男気のある子だからさ!もっともっとコメディをやってほしいんだよなあ!!

それでいえば、意外&バッチリだったのが、これまた初ミーツ矢口監督だった伊藤英明で、私はドラマが全然未チェックなので、彼に抱いているイメージはうっすらとしたものでしかないんだけど、硬派、って感じなんだよね。
「悪の教典」はその意味でもイメージを裏切ってビックリはしたけど、それ以上にコメディのイメージはなかった。
こういう硬派&肉体派の、しかも生真面目な役者さんがコメディをがっつりやると、異常にハマるってことは確かに、多々あるのだ……西島秀俊とかもね!

そしてその意外さに直面すると、彼が本当にやりたいことは、こっちなんではないか、今までそれを汲み取ってくれるクリエイターがいなかったんではないか、などと勝手に推測しちゃったりするんである。
実際、このヨキが伊藤英明だからこそ、であった。完璧ボディに男気アツ過ぎるキャラは、今まで彼が培ってきたもの。そのままに矢口作品に入り込むと、マジなだけに、こんなに最高に可笑しい(笑)。
染谷君たち緑の研修生にレクチャーする場面の、荒っぽい冷たさは予想の範囲内だったが、次の登場シーン、染谷君扮する平野勇気が就職する林業会社の先輩、そして下宿先として現れ、荒っぽく軽トラを運転し、はねられたシカを荷台にぶち込み、まあそこまではいい。

何より笑ったのは、親方(愛する光石研♪)から軽トラ運転しながら呼ばれ、バーッと走ってあっという間に追いついて荷台に飛び乗るあのシーン。
あぜん!あれ、リアルに自走だろ!恐るべき伊藤英明、そして本気がコメディになっちゃうってことが、本当に喜劇向きだってこと!
苛立って片方の鼻の穴からブシュッ!と吐き出す場面とか、まさにまさに本気がコメディ、なんだもの!アツく、シリアスな男でなければ、真のコメディアンにはなれないのかもしれない!!

うーん、だから、なんか上手く本筋にいかないな(爆)。いやでもね、ある意味では、この話って予測の範囲内だよね。
都会のワカモンがパンフレットの美女に惹かれて軽い気持ちでド田舎に来て、携帯も通じないし、コンビニもないし、荒っぽい山の男はコワいし。
もうあっという間に辞める気になるんだけど、その都度タイミングよく邪魔されて、なんといってもその美女に会っちゃったことで、カツ入れられちゃったことで、研修を無事終了。
一年間の就業でも同じように、もうあっという間に辞めようと思うんだけど、同じように邪魔されて、その美女とも再会しちゃって、そしてその間に人々や、土地や、山や、何より林業の奥深さ、神聖さに触れていく。

何よりここに来たのは大学に落ちちゃったからで、ちゃらちゃらした大学生活を送りたかった筈なのに、高校の同級生が「スローライフ研究部」なるちゃらちゃら系サークルを引っ提げて見学に来ると、最初こそそのちゃらちゃらに乗っかるんだけど、結局はこの生活、林業の世界を見下しているちゃらちゃら学生たちに激怒して、追い返してしまうまでになる。
神隠しになりそうだった子供を助けだしたことも手伝って、村人たちの信頼を勝ち取り、神聖な祭りに参加、そしてあのすっばらしいクライマックス、と。

……予測の範囲内っつって軽くまとめるつもりが、結局思い入れたっぷりじゃん、ダメだな私(爆)。
うん、でもここで軽くまとめてみると(遅いっ)、都会のワカモンが素直に目覚めていく感じは、ホント素直に予測の範囲内だよね。
だからこそカタルシスが素直に訪れて気持ちいいんだけど、この素直な予測の範囲内を、そんな気分を観客の側に常に感じさせながらも、だからこそ安心してカタルシスに導けるのって、凄いと思うんだ……。

だってさ、染谷君の芝居だってさ、ある意味思いっきりそれを判った上での、型にはめまくった現代のワカモンじゃん。
そう、彼だったらもっとそれなりの、というか、繊細な演技は出来たと思う。これは監督の演出であり、勿論染谷君自身の演技の選択であると思う。
結構節目でホロリとさせる割には、彼自身がそうさせるような演技はしてない。多分、意識的に本当にそれを避けているように思うほどに、現代のワカモン、チャラ男を通してる。

それは、その勇気の面倒を見るアツい男、ヨキ=伊藤英明が、「こいつはちゃんと山の男ですよ!」と寄り合いできっぱりと言う場面ですら、勇気は嬉しさや感動というよりは、ぽかんとしたような軽い驚きの表情で済ませているのだもの。
こういう、メッチャシリアスにさせないあたりは矢口監督の持ち味だと思うけど、それを確信を持ってやっているのか、自然とそうなっちゃうのかが判らないあたりが魅力なのかも、ってホメてる?いやー(笑)。

ヒロインたるまさみちゃんは、でもまあ、改めて考えてみればそんなに見せ場がある訳じゃない。
それにこの林業の世界、山の男の世界では、どんなに男勝りでも、それこそ都会の物語のように、男と対等に張り合える訳でもない。
こういう物語に接する時、男世界のカッコ良さ、神聖さの魅力に打たれるけれども、女が入り込めないところが、やっぱりあるんだなあと思う。

ここでは女はまず、林業自体に携わることも出来ないし、何より神聖な大祭、ふんどし姿の男たちが、神木を切り出しに行く祭りに参加することも出来ない。
この土地にずっとずっと住み続けているまさみちゃん=直紀ですらできないのに、一年の研修就業を終えたら離れてしまう勇気は、その男気が認められたら参加できちゃうのだ。
でも勿論、直紀はこの土地に生まれ育った女だから、そのことに文句を言うようなヤボはしない。朝日が昇るまでに頂上の神木までたどり着かなきゃいけない勇気をバイクの後ろに乗せて、ふんどし姿の行列を蹴散らして送り届ける“大胆”がギリギリってトコなのだ。

でもね、別に見ている時にそんな、ヤボヤボなフェミニズム思想を思っていた訳じゃないの。後から思い出して、ただ単純にうらやましいと思っただけさ(爆)。
まあそれに対するエクスキューズというか、思いを沈めてくれる要素は色々あるしね!なんかなだめられている気もするけれども(爆)。
この神木が急勾配の山肌を滑り落ちてきて突入する藁のわっかは当然、女陰の象徴。ゴールは女であり、そこに子宝、あるいは恋愛も含むかな。
直紀も親方の奥さん(これが西田尚美!)にうながされて、そのご利益、いやそれ以上に、神木につかまって滑り降りてきた勇気の“ご利益”に触れるのだから。

それ以上に、フェミニズム思想を静めてくれたのは、神隠しにあいそうになった子供を勇気が救い出すシークエンス。
就業した当初は道祖神に手を合わせる親方やヨキに怪訝な顔を見せるだけの勇気だったけど、途中、直紀と一緒に山の中の渓流のそばで弁当を食べるシーン、それまでは、川からくんだ水に葉っぱが浮いてるだけで眉をひそめてた勇気が、自ら水を汲みに行き、そこにひっそりとたたずむ素朴な手掘りのお地蔵さんに、くわえていたおにぎりをはんぶんこしてそなえる。
ホントに、ちょっとしたシーンなのに、それまでのことも、これからのことも、見事に含まれていて本当に素晴らしい!

そう、そう、で、このお地蔵さん、その日は山の中に入っちゃいけない日なのに入っちゃった男の子を、捜索に入った男たち。その中で勇気だけを導いてくれたのが、このお地蔵さんな訳!!
靄の中、白い袖口から延びる白い手でがっしと掴まれて勇気が導かれるのは、ほぼ頂上近く。勇気がその手の感触で感じたように、この男の子が語ったように、神様っつーのはヤハリ、女性であり、そこに向かってペニスは突撃するのだっ。おっと、いきなりまた飛躍しちゃったかな(爆)。

この救い出されるちょっと生意気な男の子も可愛かったけど、親方の息子、つまり我が愛しの光石研と西田尚美の息子、とにかく大声で主張するもんだからお母さんから叱られてばかりの坊主頭のこの子が可愛すぎて(涙)。
勇気に懐きまくっちゃってさ、ヒルと一緒に寝る!と言い張って、お母さんから叱られ、おやすみ!をしつこく、声が遠くなってもくりかえし、ヒル=勇気=染谷君も、おやすみ!!を繰り返す。か、可愛すぎる(涙)。

あ、ヒルってのは、初めて山に入った勇気がお尻も股もヒルに食いつかれて、山の男寄ってたかって群がってライターで対峙する引きの場面が可笑しすぎる前半のちょっとしたクライマックス。
それ以来、子供たちからヒルと呼ばれてすっかりおなじみ(笑)。それにしたってこの坊の懐きっぷりはハンパなく、もうそれだけで泣けちゃうぐらい(爆)。
だってだって、研修就業の一年が過ぎて、勇気を見送る場面でも、この子はもうゴウゴウに泣きっぱなしで、この子のためだけに残りたくなるぐらい、もうたまらなく愛しいんだもの!!
直球なのよ、全然繊細じゃないんだけど(爆)、それがたまらないんだよなあ!!

実際、一年の就業が過ぎて、あっさり帰ることを選択する勇気に、ちょっと意外な感じがした。一度帰って考える、みたいな含みさえ持たせず、ただ帰るシーンだけを示したからうっそお、と思った。
あんな神聖な大祭に参加してまで!?と思って、このままエンドクレジットになったらマジにどうしようと本気でハラハラ(爆)。
地元の都会に帰り、最初出発する時と同様、彼自身にカメラをつけた映像、出発の時にはマックのポテトなんぞ頬張りながら、途中居眠りしながらあの深い深い山の中にたどり着いた。

帰りは、人込みに目を白黒させながら、あちこち人にぶつかりながら到着。
実家の集合団地のドアを開けようとする前に、何か香りを感じる。鼻をひくひくさせながらさまよう先には、鳶の男たちが新築の住宅を建て込んでいて、その前に、新婚と思しきカップルが幸せそうにその様子を眺めていた。
思わず勇気が笑みをこぼしたその次のカットでは、いや、次の次のカットでは、もう勇気は戻る列車に乗っている。“次のカット”は実家のドア前に置いた、おばあちゃんからもらったまむし酒にビックリしている両親の図、だ。

山の上で親方がこだわって淹れてくれたコーヒーが凄く美味しかったり、現場から帰るトラックの荷台にすし詰めに乗り込んだ山男たちの木遣り歌がメチャクチャカッコ良かったり。
この木遣り歌を、最後には勇気が先導して歌う感動。この時点でもう、彼がここに戻ってくることは判るでしょ、そうさ判るでしょ!!

いやそれよりも。ヨキが、伊藤英明が、一年の就業を終えた勇気を送り出すホームで、男泣きどころじゃなく泣いて、それに勇気が驚いて、ヨキ、なんたって伊藤英明だから、がっしと勇気を抱きしめると、痛い痛い痛い!てぐらいで、あの時点で、そらー勇気、帰ってくるだろ!と思った。
思いっきりすぎて、コミカルなんだけど、そう、シリアスがやれる肉体派男優は、思いっきりが最高の喜劇、そして感動になるという、まさにそれを示した場面!
笑いながら、めっちゃ胸を突かれて、ああ、この時点で、その後にバイクで追いかけてくるまさみちゃん、負けちゃったよと思った。
はあ、やっぱり男はズルいわ。マジメになるほどに、最高に笑わせちゃって、そして当然、最高に感動させもできるんだから!

最後の最後の最後、大オチが、パンフレットに出るのを嫌がりまくっていた直紀(研修生との大恋愛の末に、捨てられたから……)の替わりに、まさに次代のホープ、勇気がどーんとモデルになっている。
思わず噴き出し、そして感動!隙間なく、痛快、爽快、なんでこう、矢口監督はやりやがるのか!★★★★☆


海を感じる時
2014年 118分 日本 カラー
監督:安藤尋 脚本:荒井晴彦
撮影:鈴木一博 音楽:
出演:市川由衣 池松壮亮 阪井まどか 高尾祥子 三浦誠己 中村久美

2014/9/29/月 劇場(テアトル新宿)
「blue」が今も忘れられない、凄く好きな作品だったので(私にとって最高、最上の少女映画!)、安藤監督の名前を「僕妹」 以降ぱたりと名前を聞かなくなったことが少々気になってた。
まあ、それは私のチェック不足だろうけど、某俳優さんだかそのマネージャーだかが絡んだゲスな噂話などを、ネットでちらと読んでいたりしたから、そんなことでチャンスを与えられていないんだったら、もしほんとだったりしたらヤだよな……とシロートの勝手な心配(爆)。

でもだからこそ、久しぶりに見たお名前に凄く嬉しかった。ポスタービジュアルに若干のデジャヴ感は感じたが……。
ついこないだ、やはり池松君が女の子とハダカで並んでくっついてる宣材写真の映画を観たばかりだ……。

うーむ、成人男子となってからいきなり池松君は、アダルティーな役柄ばかりが続いてなんなんだろう。いや、別にいいのだが。
子役からスタートしている、しかも男子役者ではそういうのホント珍しいよね。確かにいきなり胸板厚く、もともと寡黙なタイプの役者さんだから、いいのよね、繊細なエロがしっくりくるのよね。

って、いきなり脱線してるが……。で、そう、監督さんの話だったが、しかしこの企画はどこからどーゆー形で出てきたもんなんだろう……。
いや、ね。本作を見た後に、この脚本自体は原作が世に出て間もない30年前には書かれていた、と知ったからさ……。
映画を観ている間に感じていたかすかな違和感……ともちょっと違う、台詞の感覚と役者さんの肉体の間の空気のすれ違いのようなもの、がそこから来ていたのかなあ、なんて考えるのは単純すぎるかもしれないんだけれど。

そもそもこの、78年に出された原作が今、このタイミングで製作された経過や意図はなんだったのか。
ベストセラーで名作なんだから、別にタイミングも何も、関係ないんだろうけれど、脚本までもがその当時のものと聞いてしまうと、ふっと気になってしまった。

当時の時代なんだから、当時書かれた脚本でその時代を映し出す、勿論正解なんだろうとは思うんだけれど、過去の映画を観る時、あるいは現在の映画だって当然、その時のリアルタイムの脚本と役者のコラボレーション、化学反応が、個人的には、私の中では、自然な流れのように思えたから……。
それを言ったら、じゃあ原作はどうなんだと言われそうだが(爆)、原作ってのは言ってしまえばアイディアのようなもんだからさ。映画という製作物になれば、やっぱりそれ自体のアイデンティティになると思うからさ……。

まあそれはおいといて。ところでその問題の原作の中沢けい氏。うー、私、著作、読んだことない。相変らず無知で無勉強な自分がハズかしい(爆)さっそく次なる読書リストにあげておかなければ……。
あ、「楽隊のうさぎ」の原作者さんなのか。それで名前を聞いた覚えがあったんだ。

ところでこの原作の経過にも、なにがしかのデジャヴを感じる。現役女子高生の時の衝撃のデビュー作。最近見た「思春期ごっこ」の中の、現役女子中学生の……てな設定に似ている、のは、ひょっとしてこのあたりにアイディアをいただいていたりして?

まあ二作は別に何の関係もないんだけど、実際、現役女子高生が書いたという付加価値が、ある程度はベストセラーとなった要因にもなったのかしらん、などとゲスの勘繰りをしてみたりもし、ますます未読の中沢けい氏の著作に興味がわくんである。うむ、読まなければ。
実際はどうなのかなあ。これは確かに、私のような不毛な10代を過ごしたヤツには書けないよね(爆)。経験値だよね(爆爆)。まあそんなことは、映画自体には全然関係ないことなんだけれども……。

いや、関係は、あるかもしれない。それがプロの大人の手によって脚本がなされ、30年以上も経って現代の役者で映画化された。しかもしかも、実際の年齢からはかなり離れた役者によって(爆)。
いや、今更リアル年齢がどうのというのもヤボだと判っちゃいるが、こういう繊細青春ストーリーなら、むしろそこにこだわってほしいという気持ちは正直、残る。
いや、市川由衣嬢は素晴らしかった。いまどき初脱ぎのことばかりが取りざたされるのもつまらないことだし、彼女は恵美子を生きていたと思ったし。

でも28歳の彼女に18歳を演じられると、やはり少し、うーんと思ってしまう。いや見えなくはない、きちんと見える。なんたって70年代なんだから、今の年齢と見た目の感覚も違うし。
でも脱いじゃうと、やはり、大人の女のカラダなんだもん。おっぱいの張り方が、違うんだもん(爆)。うーむ、私、最低かも……。

いや、ね。物語の中では、二つの時間軸が交錯していて、高校生の時代と、東京に出てきてもう成人している時代があるから、後の時代に合わせればまあ合わなくも……。
でも、メインであり、最も繊細に描くべき時代はやはり前者の時代だからさ、そしてこの時代は男女の雰囲気の差がかなり出ちゃうんだもん。
実際年齢を知っているということ以上に、池松君、彼女より年下だよな……ということがずーっと気になってしまって、とても先輩には見えなくて、最後まで(爆)。
いやそれはね、彼が幼いというんじゃない。彼はいい意味で年齢相応であり、彼女もまた、そう。
そうなると、実年齢以上に差が出ちゃう。女の子の方が大人っぽくなるからね。特に身体つきは凄く……判っちゃうんだよなあ。

見方がエロ方面すぎる(爆)。大事なところはそんなところではない筈なのだが、どうもダメな私(爆)。
やはり、自分自身のティーン時代にそういう体験も感覚もなかったからなのか(爆爆)。もうなんだかこれだとよく判らないので、とりあえず概要説明。

二人は高校の新聞部の先輩後輩。先輩の洋が後輩の恵美子に、ちょいと立ってくれ、キスがしてみたいから。別にあんたが好きな訳じゃない、女体に興味があるだけさ、って、こんなアホみたいな言い方した訳じゃないけど(爆)、まあつまり、そんな具合(どんな具合だ……)。
共に授業をさぼって二人きりという、少女漫画のようなドキドキの設定。そうか、こういうところは現役女子高生が書き手の感覚なのかしらん、などとムリクリ自分の経験値に近づけようとしているかも……。

恵美子の方は元からこの先輩が好きで、だからこんな突然の、ヒドい理由のリクエストにも応じた訳。
この最初のキスシーンは、唇がくっつくまでのドキドキと、スカートをたくし上げるエロドキ、これまた少女漫画っぽくタイミングよく鳴るチャイムに、そんなこんなでキャーッと思い、そんなことが自分の10代にあったならば……と不毛なたらればを思ってついついつーんといろんなところが痛熱くなった(爆)。
人によってホント人生って、違うもんだよね。いやいいんだけど……(落)。

その後、この10代の時代と、二人が東京に出て、すったもんだとやり合う時代が交互に現れる。
恐らくほんの数年、まあせいぜい4、5年かな、という時代の行ったり来たりだから、彼ら二人の外観が大きく変わる訳ではないんで、同じ役者の、同じ感覚でいいとは思う……のだが。

彼女の髪の長さが変ったかな。それで大分印象は変わったかな。彼はあまり印象が変らない。それは、彼女から見る彼の変わらなさなのかもしれないと思う。
後半の時間軸で、彼が何をしているのかイマイチ判らないんだけれど、まだ大学生のままなのだろうか。
彼女の方はすっかり社会人になって、後輩の女の子と居酒屋で飲んだりしている。

学生時代は女の身体に興味があるだけだと言い続けていて、彼女の妊娠したかもしれない事件にも動揺しながらもそうした反応を見せた洋。
先に進学のために上京した彼を追いかけてきた恵美子にも、一貫してその論を貫き続ける。
一方の彼女の方は、それでもいい、あなたが肉体だけでも私を必要としてくれているのなら、それでいい、と言い続け、彼を追いかけ続け、二人きりとなるシーンでは必ず、その痛々しいほどに清廉な乳房をさらすんである。

時代が70年代ということもあって、当時の雰囲気のスリップをブラジャーの上に合わせてつけているガードの固い感覚、そして何よりこの純白のナイロンのスリップが何とも昭和で!何かそれだけでもの悲しくて、女の子の弱さを象徴しているような気がして、泣きそうになってしまう。
なんだろうなあ、この感覚。スリップ姿はホント、この恵美子を象徴している感じがして、ラストシーン、たった一人、故郷の海に、自宅に隣接するほどに近い海に素裸足で、スリップ姿で歩いていく姿も象徴的なんだよね。
恐らくそのラストシーンが、タイトルとリンクする部分なんだろうけれど……。

本作の冒頭は、ポスタービジュアルにつながるエピソードであり、いきなり、まあつまり、本作のツカミはOKてなところであろうと思われる。いきなり二人素っ裸だし、いきなりカラミだし。
でもまあ、そんなことはどうでもいいのだ。ここで二人、いきなり繊細な心理描写を、役者魂をぶつけ合う。
まだ何も観客にとっては始まっていないのに、二人静かに涙を流して、そして静かに絡み合う。

彼女は遠い昔、死んだお父さんの、その冷たくなった身体の記憶を語り、彼はそんな彼女に「いつものあなたと違うよ」と言いながら、彼もまた伝染したように涙を流す。
その後も何度か身体を重ねるシーンは出てくるけれど、最初に示されたこの場面が基本、基準となるかのように、いつもいつもなんだか静かで、湿度が高くて、哀切なのだよ。なぜかなぜか……。

てか、ホントの冒頭は、二人が秋も深まった小路を歩いているシーンなんだよね。動物園に行こうと。
幼い娘を肩車している若い父親とすれ違う。それを何とはなしにやり過ごす二人。
「熊が見たいの。熊がみたい」まるで童女のように洋に向かって繰り返す恵美子。その親子とすれ違った後は余計にそれを繰り返し、でも動物園に熊はいない。

このシーンの後は高校生時代の回想めいた展開に突入するし、ちょっと忘れてるんだよね。でもある程度物語が進み、二人の関係性、周りの関係性も現れてくると、この時間軸に戻ってくる二人に、冒頭を思い出させるんである。
色々、色々あって二人で暮らすようになった、その洋に、恵美子の手料理を頬張る洋に、幼児言葉で「あたち、食べれない」みたいに、しかし顔は大人の女の真顔なままで言う恵美子は、冒頭に帰ってくる、もう大人の成熟した女の身体を持った、洋以外の男の肉体も知ってしまった、恵美子なんだよね。

そう、洋以外の……。それは完全にゆきずりの、居酒屋でのみつぶれたところで行きあった男で、恵美子の方からガードを外したようなところがあったんだけれど。
その前に、洋が自分の姉に恵美子との関係を、その肉体の変化までを詳細に話していたことに恵美子が激怒し、弟に言われたからと、姉が慇懃無礼に謝りに訪れる、なんていうエピソードが用意されている訳で。

女の気持を理解しているていで、いかにもベッタリな姉弟関係を示すこのシークエンスは出色だけれど、恵美子の方が息苦しい母子家庭をきっちりと示している反面、姉弟ベッタリに至る家庭環境が見えてこない洋側に不満が残ったりもしなくもない。
でもまあ、姉弟というのは、どんな家庭環境でもこんなもんなのかもしれんが……いや……。

私は女きょうだいだから余計に、まあ判んない訳よ。男の子の生理は、いまだに判んない。定義されたもので考えるのもシャクだけれど、それしか出来ない。
その意味でいえば、本作の中でそれが定義通りにきっちりと現れているのは、恋心と性欲の順序であろうかと思われる。
恋心の先に、相手の男の子に触れたいという形で肉体的本能が方程式の答えのようにあらわれる女の子と、性欲というストレートな肉体的本能の先に、男子本来の征服欲もあいまって、独占欲という形での好意の感情が現れる男の子と。

……完全にこの書き方、フェミニズム野郎だよな、私。あー。やだやだ。
でも女の子、いや女は、いつだって、いつの時代だって、だからこそ相手の気持ちが信じられなくて苦悩するんだよ。
だって女の子は好きな相手にしか触られたくないもの、基本的には(あくまで基本的には(爆))。だから苦悩するんだもの。

母子家庭で恵美子を育てた母親は、“ふしだらな娘”になってしまった娘と、そうさせた相手の洋に冷たく当たる。
それに反発する形で二人は一緒に暮らし始めるんだけれど、別に言わなくてもいいウワキを恵美子が告白しちゃったことで、洋は激怒、レイプめいたバックの交わりの後に、恵美子は一人、故郷の家にいるんである。
母親は寮母の職を得て住み込みで働いていて、ここにはいない。がらんとした家で、毛布をかぶって煙草をふかす。
朝になり、スリップ一枚で海に出て行く。寄せては返す波。足の下で動く砂の感覚。海を感じる時、なのだよね、これが……。

あの結末はつまりは、どういう収まりにしたんだろうと考え込んでしまう。彼女は彼から離れて、別れて、自立を図ったの?そうとも言い切れない感じもするしなあ……。★★★☆☆


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