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「む」


2019年鑑賞作品

無限ファンデーション
2018年 102分 日本 カラー
監督:大崎章 脚本:
撮影:猪本雅三 音楽:西山小雨
出演:南沙良 西山小雨 原菜乃華 小野花梨 近藤笑菜 日高七海 池田朱那 佐藤蓮 嶺豪一 片岡礼子


2019/9/17/火 劇場(新宿K's cinema)
ああ、出会ってしまった、神様、ありがとう!MOOSIC LABはとても魅力ある企画で興味はあるんだけど、作品数も多いしなかなか足を運ぶ機会に至らないのだが、こうして秀作が単独上映されるところに、それでもものすごく偶然に見つけて、もう終わっちゃうとか、レイトだとか、思ったんだけど、これはやっぱりさ、直感って、あるんだよ。見つけちゃったんだ、と。

「お盆の弟」の監督さんだというのは後から知った。知っていれば、それだけで躊躇なく足を運んだだろうけれど、でも知らなくて良かったと思う。だって、お盆の弟は脚本からきっちりと作り込まれた魅力があったけれど、これは、これは……!!
やっぱり、やぁっぱり、即興芝居、だったのだ!いやね、言ってしまえば物語自体はいっそ、シンプルなのだ。誤解を恐れずに言えば、これをきちんと脚本にして、台詞通りに彼女たちが芝居したら、陳腐でつまらない作品になったかもしれない、と思うような。

演劇部内の少女たちのひと夏の奮闘、そこに入り込むオーディションと大会のバッティング、確執、未来への夢と不安、そしてそこに入り込む不思議な少女の幽霊……だなんて、さ!
でも、これは、これはこれはこれは、作り手の、監督さんの、彼女たちに対する絶大な信頼がなければ、ぜぇったいに成立しない奇跡だ。いや、もしかしたら、どうなるか判らないまま、賭けのような気持ちで投げたのかもしれない。

そりゃさ、こんなプレッシャーを与えられる女優たちだもの、フィルモグラフィーを見ればここ近年、ああ!と思う女の子たちばかりさ。特にツートップ、南沙良原菜乃華両嬢は、それぞれの単独主演作がそれぞれ意欲作で、大きなインパクトを与えてくれたのは記憶に新しいもの。
でも、それでも、やっぱりやっぱり、ベテランの役者さんたちで固めたって、こんな、ほぼほぼ即興劇で任せられる作品なんて、見たことないよ。だから、だから……、もう本気、真剣、そんな言葉じゃ追いつかないんだもの。

言葉があふれる前に気持ちがあふれる、生身のむき身でぶつかり合う彼女たちに、胸がいっぱいになって、破裂しそう。
この本作の魅力は、もう、見て!!としか言いようがない。複雑な筋立ても、驚きのオチもないけれど、透明でキラキラした少女たちの、肉体も精神も全てをぶつかり合わせる、その奇跡を目撃することが出来るんだもの。

ああ、どう言ったらいいんだろう。まずは、あんまり意味ないけど(爆)、筋立てである。主人公の未来が夏休みの補習を受けているところから始まる。明らかに身が入っておらず、教師をガックリさせている。プリントに落書きしているのは、彼女のひそかな夢であるファッションデザインである。
そこに、部活動のために教室を使うんだと言って、演劇部員たちがなだれ込んでくる。未来のデザイン画を覗き見て、感嘆の声を上げる。

ことに、これぞ!!とつかんで離さなかったのが、一年生ながら演劇大会の演目の主役に抜擢されているナノカであった。
衣装がイマイチだから、ぜひ手伝ってほしい、と半ば強引に先輩たちに引き合わせる。ナノカの親友を自負する女の子(役名忘れた(爆))はナノカの情熱に半ば及び腰で……。

「はらはらなのか。」から続いて、これまた彼女自身を連想させる、女優さんになるために猪突猛進!!のナノカを、またまた彼女自身の名前のまま演じる原菜乃華嬢が、物語を引っ張る。
一年生ながらその実力とやる気と強引さが認められての主役のシンデレラ、衣装係として未来を引っ張ってきて、なのに「こんなチャンスはないから」と一次を通過したオーディションを、最終まで残れば大会にバティングしてしまう、と離脱を宣言する、という、かなりハデな役どころ。

このナノカがいてこそ演劇部に一緒に入ったんであろうと、登場の時点で容易に推測される花梨嬢の、その推測させる絶妙の演技と、その後の嫉妬に駆られた、もう見てられない食ってかかり演技がすさまじく、本当にみんな、すべての役者たちが素晴らしいんだけれど、かき回す役回り、しかも繊細さが求められる、という点で、本当に彼女は素晴らしかったと思う。
うー、役名を忘れた。調べても調べても出てこない(爆)ゴメン!!

ところで、未来は母子家庭である。母親は、成績がイマイチで夏休みに呼び出される補習にも身が入っていないらしい娘に対しても、イマドキの友達親子な風に、判ってるならいいけどねー、ぐらいのスタンスである。
最初はちょっとそれが、い、いいんですかぁ??とも思ったが、つまり母親は未来が没頭している服飾が本気かどうかを、いつ、どう、言い出すのかどうかを、ハラハラしながら見守っていた、ということだということが結果的に判る。

このお母さんも、お母さんになってから、厳しい選考を経ての留学が出来る募集に、夫の許しを得て応募していた、という過去が明らかになる。受からなかったけれど、それはやって良かったのだと。
写真でしか出てこない夫は、おーっと!おっとおっと!!我が愛しの渋川清彦!!監督さんのこと判らずに見始めたから、突然出てくる写真の渋川氏に、えーっ!!と思ったが、ああ、この友情にほっこりしちゃう。

そして、なんといっても、本作の、ウラの主人公とも言うべき、なのは、シンガーソングライター、西山小雨、である!拍手!!!!!幽霊となってリサイクル工場でウクレレを弾きならしている少女、そのまんま小雨としてチャーミングな芝居も披露する彼女に、もういっぺんに恋に落ちてしまう!!
そもそも本作の成り立ちは、監督さんが小雨嬢のMVを作りたい、という想いから始まったんだという。MOOSIC LABは、基本概念、基本理想として、音楽と映画が対等な関係で幸せな化学変化を生みだす、ということが、あると思う。いや、知らんけど、私が勝手に思ってるだけ(爆)。

でもやっぱり、音楽だけでもない、映画だけでもないからこそ、この企画が幸せな関係を続けていけているんだと思う。ほんの数作しか、今まで接する機会がなかったけれど、そのどれも、その化学変化が魅力的だったけれど、もう飛びぬけて、本作は、その幸せな出会いであり、結婚であったと思う。
そもそも、音楽というものは、ナマなインプロビゼーションそのものであり、その音楽に対して芝居のソレをぶつけたっていうのは、まさに映画を作る側としての、音楽に対する尊敬と挑戦であったと思う。

この小雨嬢のチャーミングさに、本当にヤラれる。彼女は、未来が補習を受けている、そして演劇部の顧問である先生と、淡い恋心と音楽でつながっていた女の子、だったんである。最初から、幽霊だろうな……と思っていたし、割と初期から、先生が未来になんとなく語る青春の思い出話が、最後まで語るのを躊躇している感じも相まって、小雨ちゃんがそのお相手なんだろうな、と容易に察せられたからさ……。
でも死んでしまった理由に、ビクビクとしていたのだ。この先生に、同級生だった男の子に、贈る曲が出来ていたのに、まさか自殺??……と思っていたら、小雨ちゃんらしい、一生懸命屋上でリハーサルしてて、熱が入りすぎて「落ちちゃったの」だなんて。

この、小雨ちゃんの、なにげないのに、同世代ドンピシャリのピュアな言葉で射貫くウクレレ弾き語りが、まずその歌声を耳にした未来を彼女に出会わせ、友達や将来への夢や演劇部のことや自分がどうあるべきか……赤裸々に、小雨ちゃんだけには言えて、さ。
もう、ね。芝居だってことは判ってるさ。即興だからこそ興が乗るとか、そういうのはあるんだろうさ。でも、そこここに、そして特に、小雨ちゃんに相対する未来=南沙良嬢の、もうどうしようどうしよう、自信なんてない、うわーん!!みたいな、幼い子供みたいにマジ泣き!を、小雨ちゃんが、やっぱりちょっと、幽霊だし年数キャリアあるし(爆)、実際の年齢的にも彼女たちよりお姉さんな雰囲気があって、ぽんぽん叩く感じが、たまんないんだよなあ。

んでさ、何よりもう胸を突かれたのは、予想はしてた、してたけど、ナノカが最終選考を待たずに二次で落ちちゃって、みんなの信頼を裏切って、女優さんが夢だから、一生のことだから、とタンカ切って、東京のオーディションに臨んだのに(あ、ここは、かなり田園地帯ののどかな雰囲気)、落ちちゃって……。
ナノカは、未来から話は聞いていたけれど、小雨の姿を見たことはない。実際、この時にも、ナノカの目に小雨の姿が見えていたかどうか、判らないのだ。

会話をする訳じゃない、ナノカの一方的な愚痴、というか、苦しい、血を吐くような胸の内を、小雨が静かに受け止めて、静かにウクレレを片手に、語り描けるように、歌って、それをナノカがほろほろと、声も出さずに涙を流して聞いている、そう見える、だけで、ひょっとしたらナノカは小雨の姿どころか歌声も聞こえていないのかもしれない、とも思わせるし。
だからこそか、この場面は、小雨の存在も歌声もしっかりと見えている未来との場面も勿論大好きだし超泣くんだけど、どこか時空を超えてナノカの心の奥底を、大丈夫だよ、って言っているような小雨の歌声と、それをほろほろほろほろ涙を流しながら、天を仰いでいるナノカが、たまらぬの、たまらぬの!!

大人な年齢とゆーこともあろうが、演劇部の先生、小雨の淡い恋のお相手、の彼のシークエンスもまた、ぐっとくる。まー、つっても、私の子供っつってもいいぐらいの若さなんだから、あー、年は取りたくないと思うが(爆)。
でも10代である彼女たち(10代のまま止まっている小雨ちゃんも含め)とはやっぱり、大人、というカテゴリでは、違うんだもの。

ほんっと、これは、MOOSIC LABならではだと思うんだけれど、先生が、小雨ちゃんの姿を、その高校生時代のままの姿を、中庭を隔てた向こうの音楽室に、ピアノを弾き語ってる彼女を認めて、ああ、ああ!!とベランダから乗り出すようにして、泣き出しそうな顔で見つめているシークエンスは、本当に、ヤバかった。
全編即興の生々しさ、汗水たらす感じ(時に鼻水も(爆))な一生懸命さが素晴らしい本作ではあるんだけれど、これは、こここそは、周到に用意された舞台であって、場面であって、先生が、高校生の時に、小雨ちゃんの才能と魅力に打ちのめされたこともさりげない回想ショットでフィードバックされ、そしてまた、またもう、小雨嬢のパフォーマンスが、素晴らしすぎるんだもの!!

演劇部、あるいは学校、という小さな集合体の中から、その外へと飛び出すために葛藤している彼女たちを、それなりに外が見えている社会人として、自分のできる限り支えたいと、まぁ正直、頼りないけど(爆)、見守っている先生がさ、かつての自分と、彼女を、その音楽の追憶の中に見る。
叫び出したいぐらいの感動。あああ、MOOSIC LABだよ。映画は大好きだけど、時々、音楽にはどーやったってかなわない、と思う時がある。そしてそれがMOOSIC LABで描かれるなんて、こんな幸せなことはないと思う。

オーディションに破れたナノカが、虫のいいのは判っているけど……部活への復帰を申し出る場面。その前段階の離脱だってめっちゃツラかったのに、こんなツラい場面までやらせるの!!と、もうこれはモハヤ、役者たち、特にナノカちゃんをいじめるためじゃないの!!と思っちゃうぐらい。
時に言葉を詰まらせ、時に繰り返して同じことしか言えず、言わなくても判ってるよ、てな残酷な言葉をあえて繰り出すしかなく、嫉妬とわがままと自己満足だと判っていながら湧き出る言葉を抑えきれない、そんな彼女たちの湿度千パーセントのぶつかりあいを、今数々思い出してもマジで泣く!!と思う。
脚本や、優れた言葉選びや、バジェットや、どんでん返しや、そんなものは、心震わすためにはちっとも必要じゃないんだと、思い知る。闘いの記録。ただひとつ、黒一点の男子部員君が、全然喋れてないのが妙に気になっちゃったけど(爆)、女の子に勝てはしないのだよ、そりゃ君!! ★★★★★


向こうの家
2018年 82分 日本 カラー
監督:西川達郎 脚本:川原杏奈
撮影:袮津尚輝 音楽:大橋征人
出演:望月歩 大谷麻衣 生津徹 南久松真奈 円井わん 植田まひる 小日向星一 竹本みき でんでん

2019/10/28/月 劇場(渋谷シアターイメージフォーラム)
天下の東京芸大大学院の、映像研究科修了作品。最近はもうここから、正式な公開を決めてプロの世界に泳ぎだしていく人たちがちらほら。いろんな道があるからこそ競争も激しいが、思わぬ才能に出会えるのも嬉しい。

上映終了後、監督さんの挨拶があり、少年の成長を描きたいんだということであった。
確かに劇中、高校二年生の萩君は見知らぬ大人の世界に触れて、成長した。でも正直な印象としては、萩君は狂言回しで、“向こうの家”に住む瞳子さんのコケティッシュなのに不思議なチャーミングさを併せ持つ魅力に、徹頭徹尾ヤラれる、瞳子さんに観客もホレてしまう、みたいな感じに思えた。それだけ瞳子さん=大谷麻衣嬢に引っ張られてしまうというのは、もちろん作品にとっては幸福な計算外であったと思う。

萩君の家族は、いつも四人そろって母親の作る朝食をにこやかに頂き、父親が帰宅すると母親はにこやかに出迎え、晩酌に付き合いながら今日の出来事を報告し合う。なんでも話し合い、理解し合う、それがモットーだと言ってはばからない。
もちろん、その通りだと思う。一見、理想の家族像に見える。しかし最初から、何かがおかしい雰囲気はマンマンである。何か、わざと棒読みにお芝居している、ヘタな役者を演じている、みたいな感じなんである。

不思議と、本当にヘタなんだなとは思わないのだ。これはなにかあるなと最初から、まぁいわばバレバレなのだ。朝食に家族全員揃ってからいただきます、なんていうこと自体、フツーの家族生活を送っていたら逆に不自然極まりないし、母親が用意する朝食がワンプレートの、カフェみたいな、なんともいえない、現実感のなさなのだ。
そのことに、子供たち二人がイマイチ気づいていない感じが、むしろ信じられない。萩君のお姉ちゃんは、ウチの両親って、ケンカしないよね、と、今更不思議そうに弟に言ったりするけれども、そもそもこの状態がなんともいえず、おかしいのだ。
母親も父親も、仲良さそうだけれど、その笑顔は貼り付けたようにしか見えない、のが、これは本当にヘタな芝居じゃない、ヘタな芝居を演じてるんだと、判っちゃう……のは、いいのか悪いのか。

萩君が突然、学校をサボる(不登校というほど深刻じゃない感じ)気持ちになる、というのは、理不尽な理由で釣り部が廃部になったからというのは直接的な理由ではあるけれど、なんとなく萩君自身に、モヤモヤとした目的のなさみたいなものがあったのかなあと思う。それは、やはりモヤモヤとした家族に心の奥底で違和感を感じていたんじゃないのかなあ、とも思う。
サボタージュしている萩君に両親は厳しく当たることもなく、あいもかわらず理解ある風情で接しているが、突然、父親からSOSが入る。お母さんに見つからないように、洗面所に忘れてきた鍵を持ってきてくれないか……。
もう、ピンときちゃう。そらーあの奥さんに息が詰まって、不倫したんだなと。しかし、まさか、家まで与えて、つまり囲っちゃってるまでとは驚いたが。

うん、そうね、正直、このお父さんが瞳子さんに自身で契約した一軒家を与え、その家に通う、なんていう、まるで江戸時代あたりのお妾さん制度(制度?)なことを、そこまで徹底したことをしているなんてことは、その後の物語の展開的にもいくらなんでも強すぎるかなあという気はする。
ただそれでは、“向こうの家”というステキなアイディアは成り立たない訳でさ。息子を交渉の矢面に立てるだなんてことは、フツーに考えればかなーりドロドロの局面なんだけど、少年の成長物語、ということを考えての設定を考えると、ドロドロにしちゃったら、成長どころかトラウマ、打ちのめされてしまうよなあと。
自分の家族を乱す、敵として乗り込んだ萩君が、逆にちょっと好きになっちゃうぐらいの瞳子さんの魅力は全開で、成長物語なんて肩ひじ張らずとも、これはちょっとしたラブコメディなのだ。お父さんとイイ女を取り合っちゃう、みたいな。

でも当然、先述のように必死に理想の家族像を築き上げてきた(のは主に、お母さんだったんだろうな)のだから、後には修羅場が待っているのは仕方ないが、まーそれは置いといて、まず魅力的なのは、瞳子さんともども、彼女が暮らす、海辺街の小高い場所にひっそりと建つ一軒家、なんである。
ご近所の釣り好きのおじさんが、釣った魚を瞳子さんに届けるほどのご近所づきあいの仲の良さと言うのは微笑ましいが、本当に瞳子さんは囲われ者、どうやらホステス時代に萩君のお父さんと知り合ったらしいんだから、そのあたりは筋金入りの、だから、働くでもなく、植木鉢にのんびり水でもやりながら、本でも読みながら、日々を暮らしているのだから、このおじさんだって思うところがあったんじゃないのと思うが、そういう感じが全然ないので、どうなのかなあ……とか思っちゃう。

演じる超ベテラン、でんでん氏は、そのあたりはさらりと上手くて、最初は萩君を、瞳子さんを困らせる少年として追い出したりして、でもその後は特にこだわりもなく、接してくる。でんでん氏の芝居の上手さに騙されちゃうけど、絶対に事情は判ってる筈だし、なのにこの何事もない感じは、うーん……と思っちゃうんである。
彼は瞳子さん、あるいは萩君、更に言うと、これまたこだわりなく仲良くしていたらしい萩君のお父さんに対してどういう思いでいたのか、いくらなんでも捨て置けないんじゃないのかなあという気がどうしても、しちゃって。

萩君は高校二年生だということだけれど、もっと幼く見える。いや、ひょろひょろ背は高いし、体格的には相応、なのだとは思うけれど、なんていうのかな……。
萩君には一応、彼女がいる。一応、なんて言ってしまうのは、彼は彼女がいること、というか、付き合うとは、というか、そもそも恋愛感情、というか、本当にこの子のことが好きで付き合ってるんだろうか、という疑問が生じるからなんである。

彼女ちゃんの方は、突然学校に来なくなった萩君を当然心配するし、最終的には瞳子さんの“向こうの家”にまで押しかけてくる。彼女の方には相応の恋愛的情熱を感じる。でも萩君は……なぁんかね、中学生、いやそこまでさえ到達していない、小学生レベルの幼さを感じちゃうのだ。
そもそも自転車が乗れないっていう設定にもえっと思ったしね。いや判ってる。“お父さんの恋人”に自転車の乗り方を教わる、っていうのは、たまらなく蠱惑的なエピソードに違いないもの。そのために用意された、という感はマンマンで、判るけど、正直絶対乗れてる役者としての望月君が、乗れない芝居を一生懸命しているのもキツかったしなあ。そもそも自転車の練習をあんな狭い庭でやること自体がムリがありすぎる。直線距離がなきゃダメだろ。

最終的には、絵に描いたような修羅場が訪れる。お母さんにもお姉ちゃんにもすべてがバレる。そうなると、ヘタを演じていた役者たちが急に息を吹き返したように、修羅場の家族をイキイキと演じるんである。
そして瞳子さんの住む家にも乗り込む。そこは、長距離バスに乗ってやっと着く、彼らの家族生活から離れたところにあり、萩君家族がそこに乗り込むこと自体で既に現実感を失っているんだけれども、既に萩君パパから別れを告げられた瞳子さんは立ち去った後である……と思いきや、二階に潜んでいて、奥さんときちんと対峙し、愛しています、でもお返しします、という段まで二人の女はやり取りし合う。

……このあたりは、理想だけど、理想だから、大学の作品という気がしないでもない。別に修羅場が見たい訳じゃないけど、上手く言えないけど……。
観客もみぃんな、瞳子さんが好きになっちゃってるじゃん。いわば、お母さんだけが貧乏くじ引いてる。勿論、お母さんが悪い訳じゃない。悪いところもあったような気はするが(爆)。

お母さんが学校に行かなくなった息子を心配して交換日記を仕掛けたり、何より家族とコミュニケーションを密にとろうと必死になったり、何も彼女に悪いところがある訳じゃない、でもその必死さが、全然相手に伝わっていない痛ましさが、彼女自身のキャラ設定の薄さではないかと跳ね返ってしまう危険性を感じてしまう。
お母さん以外のキャラは、その痛みや葛藤がそれなりに伝わるんだけれど、お母さんは……独りよがりにしか感じられないのだ。彼女が一番苦しんでいるのに、こんなに哀しいことはない。家庭の主婦という、軽んじられる設定も気になるし。

ヤボばかり言ってしまって、ほんとヤボ(爆)。“向こうの家”の女、瞳子さんの、幽玄ともいえる魅力の一本だと思う。現実の女だったの?みたいな。本当に、それだけでいいぐらいに。★★★☆☆


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