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「は」


2017年鑑賞作品

パーフェクト・レボリューション
2017年 117分 日本 カラー
監督:松本准平 脚本:松本准平
撮影:長野泰隆 音楽:江藤直子
出演:リリー・フランキー 清野菜名 小池栄子 岡山天音 余貴美子 石川恋

2017/10/9/月・祝 劇場(TOHOシネマズ新宿)
企画・原案者自身の物語をベースにしていると言われるとなかなか言いづらいものを感じるんだけれど、正直な印象としては、もう少し落ち着いた、普通の恋愛映画として観たかったなあ、という気がしている。普通、という言葉はこの場合更に使いづらい気持ちもあるのだが、言い換えれば普遍的、とでもいったような……つまり恋の気持ち、セックスしたい気持ちは“普通”“普遍的”そういう意味。
勿論それをテーマにこの映画は描かれているんだけれど、障害者“でも”恋をしたい、セックスしたい、というのがスタートとなっているというか、健常者に理解してもらいたい、そのためにはもう徹底的にエンタメだ!ポップに印象付けるんだ!女の子はハイテンションでキマリだ!!みたいな……。

どこまで企画者自身の体験が反映されているかは、判らない。実際に、これだけ年が離れていたのかとか、彼女の方は精神障害を抱えていたのかとか、なんとなく作劇くさいような気もするが、これが実際の話と言われたらもう何も言えなくなるので……。
言葉遊びではないが、恋に障害はつきもの。まぁ、人生と置き換えても良いが。そういう裏テーマもあったのかもしれない。

女の子に精神障害、ヘルパーさんの夫もキレると我慢がきかなくなる傾向アリ(これも、名前を付ければひとつの障害になるかもしれない)、ヘルパーさんは職業柄理解はあるが、その理解は、障害者は“普通じゃない”という本音の元に成り立っていたり、登場する人物たちそれぞれが、様々な意味での欠陥、そう、言い換えれば障害を抱えている。
誰しもがそうなんだよ、と訴えたいがために人物造形も設定ももりもりに盛り込んでとっても意欲的なのは判るんだけれど、それ故に、二人の恋物語の純粋な部分に浸ることが出来ないっていうか。

障害者同士の、あるいは、片方が障害者の恋というのは、今までもなかった訳じゃないが、ほぼほぼ感動ポルノ系の(という言葉も、近年誕生した、非常に端的に無意識の差別意識を糾弾したものだよね)ものであった。大抵、というか100%、片方が健常者だったしね。
勿論それはそれでいい、つーか、そういうカップルはたくさんいるに違いないのだが、感動ポルノ系は、障害者側がそれを負い目に感じ、健常者側がそれを愛で乗り越える、みたいな、めっちゃ上から目線な物語が大抵で、でかなりの確率で障害を持った方が死ぬとかして涙を誘うパターン(爆)。

そうではない物語をずっと見たいと思っていた。それなりに障害の世界に興味を持っている(そう、それなりでいいと思う。ほんのちょっとの関心で)人たち、そしてもちろん障害者側の人たちならば、あったりまえ、むしろわざわざ言わなければいけないの?という恋やセックスへの欲望。
わざわざ言わなければならないことで、プライベートな部分をさらすことになって、好奇の目で見られて、傷ついて、だから余計聖人君子にされる悪循環。これを突破しなければ、日本は変われないと思った。2020年のパラなんてできないよ!って。

で、本作は、リリー氏演じるまぁまぁ年くった小児まひの障害が残っているクマと、彼の講演に突然乱入してきていきなり一目惚れしちゃって、つきまといまくって、彼をゲットしちゃう(まず即物的な意味で(爆))のミツが主人公である。
先述したが、頭からつま先まで全身カラフルでハイテンションバリバリなミツに、正直言って観客としてはちょっと引いちゃうんである。後にミツが人格障害(かなり強い表現。精神障害の方がまだ優しい気がするが……今は、パーソナリティー障害というんだそうである)であることが発覚、彼女の強い感情の浮き沈みに、クマは何度もマジに死にかける。

なかなかに、どころか、めちゃくちゃハードな恋愛。それはそれでドラマチックなのだが、それだとこれまでの感動ポルノに陥る危険が凄くある。そこを、エンタメで見せ切るんだ!!という強靭なほどの意志によって乗り切っているようにも見えるが、でも……。
障害者“でも”という部分がしこりのように残る。それじゃダメなんだと思う。でも、ってなんだよ、っていう話。もちろん、そういう言葉が出ちゃうっていうのが、日本の無理解を示しているにしても、それを表現する側が陥っちゃダメだと思う。だって、心は普通、いや普遍的、いやいや、ただその心のまま、なんだもの!“普通”の恋物語を見たかったという私の気持ち、わかってもらえるだろうか。

まぁ、つまりね、この年の差カップルが、ちょーっと男の夢を叶えさせるような面もあるように感じたりするんである。障害者の恋や性への欲求を世間に伝える活動に邁進している(というのは、企画・原案者自身の熊篠さんもそうである)クマは、物語の冒頭、本屋で超ミニスカの店員のパンチラを必死に眺めている。そしてとってもらったムック本はソフトオンデマンドのエロエロ誌である。そして車いすに下げたレジ袋の中にはTENGAがめいっぱい。いやー、やりおる、である。
後にミツと恋人同士になった彼が、ネットにアップする動画のためにこのTENGAを使ってオナる場面さえ出てくる。この画期的(らしい……)オナニー道具が近年、障害を持つ人たちにとっての“福祉道具”として検討され始めていることは知っていたが、いやー、凄い宣伝だよなぁ。

色々な出来事があるが、印象的なものから綴っていこうかしら。クマが父親の法事にミツを連れていく。母親は無邪気と言っていいぐらいにクマが恋人を連れてきたことを喜び、うちの子をもらってくれるのかしらねぇ、などと思いっきり先走ってくるもんだから、クマは焦り、ミツは大喜びなんである。
この表現は、絶妙である。母親にとっては、こんな障害を持った息子を、といった意味合いであろう、それ自体にはかなり問題はあるが、いまだに結婚において、女がもらわれる、という表現がなされる日本だということに、シニカルに言及しているように、フェミニズム野郎の私なんかは思っちゃう訳!もらったるわ、こっちがもらったるんだわ、女がそう言いたいシチュエイションはいくらでもある筈!

母親がどこまで意識してこの表現を用いたかはなかなか微妙だが、その後展開される、かなーり予想出来た親族たちの冷たい反応、理解者ヅラして「障害が遺伝したらどうするんだ」「息子のために母親は人生を諦めた」てなクソ台詞を連発する場面は、まー確かにミツの怒りを誘発するのは判るし、障害者VSクソ健常者の図式として避けられないのかもしれんが、ちょーっと、見たことある感じがし過ぎたかなあ。
法事の席、ってのもいかにもで、なんか半世紀前のドラマを見ているような感じがしたよ(いや、それもまた偏見なのだが……)。多分ね、現代の人は、もっと冷たい無関心か、自分たちを守って偏見を外に出さず、何も言わないか、だよ。そしてそれこそが、凄く問題なんだよね。こんな風にわざわざ言ってくれる人って、今はかえっていないんじゃないかなあ。

正直に怒って噴飯やるかたなしという感じで出ていくミツだから、クマは困りながらも彼女への愛を深めていく。でもこのあたりから、ミツの尋常ではないほどのアップダウンがなぜなのか、ということが明らかになってくる。
ミツの母親代わりになっているのが余さん扮する晶子さんである。母子家庭で男を連れ込みまくった家庭で自分を殺して育ったミツ、というのも、まぁそういう事例がよくあるということなのかもしれんが、既視感強すぎて、陳腐な印象は否めない。
そもそもこの晶子さんは、ミツとどういう関係なの?占い師って……判らんなあ。親戚という言い方もしなかったし。

クマに執着するあまり、自分を悲観的に見て自殺未遂しちゃったり、心中未遂しちゃったり、あまりに激しすぎるミツに、長年クマのヘルパーをしてきた恵理さんは、二人の気持ちよりもクマを心配して、ミツを遠ざけようと進言する。いろんな過酷すぎる顛末の末に、ミツと心を通わせて、最後の最後、強引なハッピーエンドに持っていく立役者の一人。
さすがの小池栄子だが、いまだにヘルパーさんであっても、言ってしまえばこういう、“理解者ヅラ”なのかなぁ、と懐疑的な思いを込めて、思う。長年介助をしているからこそ、彼らが“普通じゃない”じゃない(ややこしいが)ことを、本質的な意味で判っているのがヘルパーさんたちじゃないのかなぁ、と思うのはそれこそ、健常者側からの勝手な理想論なのかなぁ。
そういう部分はあるかもしれない、なくはないのかもしれない……だから相模原の事件が起きたりしちゃうのかもしれない、なんて、言いたくないけど。

ミツがどんどん悲観的な部分に落ち込んで、クマとの接触禁止さえ出て、一年後なんていうことにまでなっちゃうから、えーっ、まさかのアンハッピーエンドかよと、身構えてしまった。でもあんな形でハッピーエンドを強引に迎えさせるぐらいなら、アンハッピーエンドでもよかったかも(爆)。
だって充分、1年後の再会と、ラストダンス、ラストキス、それでも、その期間を経ても一緒にいられない切なさにカンドーしたもの(結局私も感動ポルノのとらわれ者か……)。
そもそも接触禁止が出てから、この一年後に至るまで、まるで要人につけられるボディガード並みに、カッコもキザな?オノコたちがやたらわらわらいるのは、……そんなに現実にコストかけられるもんかねなどと思ったりして。

んでもって、晶子さんとヘルパーさん夫婦による、スパイ映画さながらのミツ脱出劇には感動するどころか、アゼン!!そらぁそれまでも、ミツのキャラクターのカラフルハイテンションに引き気味ではあったが、でも一応ベースは、リアルな人間ドラマ、恋愛ドラマではなかったのかよ……一気に非現実的、つーか、言ってしまえば安っぽくなってしまって、かなり残念。
だって追手につかまるだろ、普通。まだガードがついてる状態なんだからさ。車いすで疾走して、段差をジャンプして、飛び越えろ、革命!!とか言われても、うーん、うーん、普通に捕まるその何分後かの想像しか出来ないなあ。

特に序盤の、猪突猛進のミツに迫られて、はいはい、ありがとう、それじゃね、となんとかいなそうとするクマ、という描写が凄く面白かった。リリー氏の困った芝居がサイコーである。あの部分は、いい意味で、障害者と健常者の、世間的なイメージの関係性を壊す、つまりは単なる(これもいい意味でね)人間同士なんだということが、優れたユーモラスによって描かれていたと思う。
そういう、“普遍的”な部分がちらほら見られるだけに、なんかもったいなーい!!と思うんだよ。でもこれが障害者ラブストーリー(などという言い方はイヤだけど)の遅すぎるスタートだと考えれば、肩に力が入るのはしょうがないか(上から目線(爆))。
普通に恋愛して、普通にセックスする、それが難しいということも勿論伝えなければいけないけれど、気持ちや欲求は“普通”であり、“普遍”。それが伝えられる時代になってほしい。健常者に判らせるための映画作りは、してほしくないわけ。

ちょっとね、思い出したのは、障害者のためのデリヘルをテーマにした「暗闇から手をのばせ」。めっちゃ赤裸々で、欲望があるのは当たり前だろ、なんで判んねぇんだよ、ていうふてぶてしい姿勢が強烈な印象だった。
本作は、有名俳優を揃えた時点で、ヤハリ、共感と感動をついつい狙いにいく感覚はどうしても感じてしまった。商業映画は、こういう場合ホント、難しいと思う。勿論、そうでなければ多くの人の目には触れないんだけれど。★★★☆☆


HER MOTHER 娘を殺した死刑囚との対話
2016年 95分 日本 カラー
監督:佐藤慶紀 脚本:佐藤慶紀
撮影:喜多村朋充 音楽:ベンジャミン・ベドゥサック
出演:西山諒 西山由希宏 荒川泰次郎 岩井七世 野沢聡 箱木宏美 木引優子 西田麻耶 福田善晴 上西雄大 石原善暢 田中瑛祐 生山貴博 小峰善子 森屋実 高橋一路 山岸笑子 荻野みかん 村松和輝 楠美聖寿 武井哲郎 川崎美海 生田政信 山村崇子 田中雄策 帆足健志 小高直寛 山川裕也 戸部達樹 亀井英樹 千葉燦 原あさひ

2017/9/18/月・祝 劇場(新宿K’scinema/モーニング)
インディーズで、リスクのあるこんな題材に真正面から挑戦していることを本当に頼もしく感じる。
先進国と言われる中では死刑制度が残っているのは日本だけではないかと言われる昨今、その是非は常々問われ続けてはいるのだが、やはりその価値観の中で生きてきた私たちにとっては、それ以上の罰はない、という意識がどうしてもぬぐえない。それを野蛮だというのなら、殺人に対する、同等の罰は一体何なのだろうかと考えてしまう。

昨今冤罪が次々に発覚することもあって死刑制度に対する懐疑は起こってきてはいるが、そういう考え方とはやはり別だという思いもあるし。罪を憎んで人を憎まず、それは理想だけれど、自分の身に起きたら絶対に無理だ。
被害者の家族なら、加害者を憎むことこそが被害者に出来る最大でたった一つの義務だとさえ、考えてしまうだろう。

本作は、主人公の女性の娘を殺した男、しかもそれは娘の夫であり、だから自分の義理の息子である、というなかなかに挑戦的な設定で挑まれる。
正直タイトルを見た時は、娘というのは幼い娘なのかと思い込んでいた。なぜだろうと後になって思い返すに、そこには被害者に咎などあるべきではない、という先入観というか、こごった考えがあったことに気づくのである。無垢である存在であるべきだと。殺される理由など、誰にもある筈はないのだからと。

結果的に、殺されたみちよに咎があったと、言ってしまえるような展開になっている。浮気をし、夫に黙って中絶をし、浮気相手と保険金殺人の計画さえ立てていたのだということが暗に示される。
正直、ちょっとヒヤリとする。被害者家族と加害者との対話というテーマはとても挑戦的で素晴らしいと思ったが、そこに殺されるだけの理由があったんだという展開を挟むことに、凄く居心地の悪さを感じたのだ。

ただ、それが良くないとか、不謹慎だということではない。つまりは私たちはそういうことにも目を背けていたのは事実なのだ。ただやみくもに、なにもなく殺人が犯される筈はない。いや、そういうケースもあるかもしれないが、私たちは殺人者に対して、ただやみくもに行われた、許すまじ悪鬼、という断定しかしてこなかったんじゃないか。
だってその理由を探ったりすれば、ヘンな言い方だけど、殺人が肯定されてしまう気がして、怖いのだもの。それはつまり、いつだって誰もが殺人者になりうる訳で、そして被害者になりうるということを示しているのだもの。

物語の冒頭は、このみちよが実家に突然帰ってくるところから始まる。もう別れよっかな、と言う割には妙に明るい娘に、勤めに出るところだった母親の晴美は、あなたがわがままなんでしょ、孝司さんいい人じゃないの、と軽く説教するんである。
この会話だけでも、晴美が婿に対して決して悪い印象など持っていなかったことが判るし、一人娘ゆえのわがままさを婿に対して申し訳なく思っているような風もにじみ出ているんである。

みちよは、運命の人は別にいたかもね……とここであっさりと白状するような底の浅さを見せる。結局この後、みちよは孝司に殺されてしまう。
晴美に対して刑事たちが「何か心当たりは……娘さんは何か言ってませんでしたか」と問うのに対し、晴美が呆然と首を振り続けたのが、娘を殺されて茫然自失になったようにも確かに見えるが、でも観客側は、運命の人が他にいるって言ってたじゃん!!と苛立ち続けるんである。

いや、そりゃそうだ、母親だもの、もしかしたらの娘のマイナスを隠し続けるさ。スマホのありかを聞かれて知らないと言った時に、もうこの母親を全面的に信頼する気は当然、失せるのだ。
このスマホはジーンズのポケットから出てくるのだが、これを「もう着ないと思って」と弟の嫁があっさり捨てかけているという流れにあぜんとしてしまう。まあ確かにあんまりうまくいっていない小姑と嫁という感じはするけれども、そうではなくて、ここは思いっきり作劇上の都合でこんな展開にしたように思えてならないのだ。
故意に隠したんじゃない、ポケットに入れてて忘れてて、捨てかけたところを拾い上げた、みたいなさ。それにしても、スマホがポケットに入っている状態に気づかず捨てるってのも、ど、どうなの。ちょっと無理がありすぎない??

娘が殺された現場に晴美がいたことが、夫婦間にも暗い影を落とす。ただならぬ様子の婿を娘の元に通して、こんな結果になったのは確かにその通りだからである。
最初こそひどくしょげかえって、ごめんなさいを連発していた晴美だが、そもそもこの結婚には反対だったんだ、それをお前がとか、男はそーゆーこと言うんだよなーっ!!てことを夫がぐちぐち言いだすから、晴美は私のせいじゃない!!と激昂してしまう。そらそうだわ。しかしそれで夫から暴力受けてしまう。あーサイテー。

婿が言い募っている、自分が殺されそうになっていたという言葉が気になりながらも、なんたって娘が殺されたんだから、ただただ極刑を望んで裁判は進む。そしてその間、夫婦の仲は決定的に壊れる。
夫は娘が殺された家に住み続けることを望まなかった。妻は、娘が殺された家だからこそ、それが自分の目の前で行われたからこそ、ここにとどまることを望み続けた。
晴美の弟夫婦がこの家を売ることを狙っている描写を見ると、夫にとっては妻の親の遺産に住んでいるような居心地の悪さを感じていたのかもしれない。

数年後、再会した夫は、まるでつきものが落ちたようにすっきりとしている。娘が殺された時から時間が止まったかのような晴美とは対照的である。「孝司君に会ったよ。彼は変わった。許してやっていいんじゃないか」と、信じがたいことを口にするんである。
とっさに頭に浮かんだ宗教という考えは確かに間違ってはいなかったが、怪しい宗教とか、新興宗教とか、そういう訳ではないらしい。それこそ罪を憎んで人を憎まず系の、苦しまないで生きていきましょう的な、穏やかな人救い団体って感じである。

……なんか、言い方に棘を含んでしまうのは、いったんはそんな境地に陥った筈の夫がその後やはり、やはりやはり、「お前たちに何が判るんだ!!」とブチ切れちゃう場面があるから、なんである。
罪を憎んで人を憎まず。そんな風に、字面の通りできたらどんなに人生素晴らしいだろう。そんな高尚な人間になれたらとも思うけれど、それはもはや人間じゃないんじゃないか、愛という名の俗にまみれた独占欲を捨て去れない限り、そんな境地に至れる筈がないと思うのは、間違っているのか。

晴美の側にも、そうした理想的思想を持った第三者がいる。孝司の弁護を務める若き女性弁護士である。ただ彼女は、被害者側の想いを想像できるぐらいの俗的思想はちゃんと持っていて、終始控えめに晴美に対して自らの信念と理想を語るんである。
加害者と被害者は対話できる、それが理想だと彼女は言う。勿論それがとても難しいことも判っている。晴美が孝司の死刑ではなく、無期懲役を望んだことに若き理想で感激する。そこに隠された思惑があることを、この時には知らない。

隠したままの娘のスマホのロックが外せない内は、心の中に霞がかかっていても、それでも、娘を気持ちの方が強かったろう。でもそのロックが娘婿に教えられたパスワードで解けた時……家族の誕生日の並びやなんかを散々試して数年、決して開かなかったのが娘を殺した男から教えられたパスワードで解けて、彼の言うとおりの娘のどす黒い計画があらわになったのだ。
晴美はそれを世間にさらすことはできず、娘を殺した婿を許すことも出来ないけれど、ただ、死刑を止めようと、思ったのだ。真実を知りたいと思い続けて、婿を罵倒に近い形で責め立てた結果が、これだとは。

こういう展開……殺意を抱かせる理由がある展開、というのは、先述したけどなかなか難しいと思う。それこそ先述したような、やみくも殺人の場合は、こういう対話自体が成立しないんじゃないかと思っちゃうし。どちらにせよ理由を聞いてはいそうですか、という訳にも行かない。
ただ……理由を明かさなければいけない、真実を明るみにしなくてはいけないというのは、どんなにこの人類の歴史の中で殺人が縷々続いて絶えることが望めないと思っても、その理由を、真実を明らかにすることによって、その同じ理由での惨劇を繰り返すことを一つでも抑えたい、ということに他ならないのは、判っている。
大きな意味でいえば、戦争がいかに無意味なのかを、その歴史や結果を明らかにして、もうヤだよね、とみんなが思うことときっと同じではないかと思う。ただ……一人一人の感情の制御ほど難しいものはないから。どんなに似たようなケースでも、自分たちだけは違うと思っちゃうから。だから……。

晴美が主人公といって間違いないが、もう一人の母親、孝司の母が大きな印象を残す。取り返しのつかないことをした息子のことを、謝罪しても謝罪しきれない。けれども、「あの子があんなことするなんて、どうしても信じられないんです!!」とつい吐露してしまって、上申書を書いてくれないかと迫って、晴美は思わず平手打ちしてしまうんである。
結婚した双方の親同士、それほど年は違わないと思うのに、何かすっかり老け込んでしまったように見えるザ・母親。父親が出てこないのが、尺上の問題なのか、母子家庭なのか……息子と母親というのは、それでなくても特別な関係だから。

みちよのスマホのロックが外れたことで真実を知ってしまった晴美は、孝司の死刑を何とか止めたいと思うが、法務大臣の切り替えのタイミングに不幸にも執行がされてしまう。スマホのことは孝司の弁護士にどうにかならないかと依頼はしていたが、でも、もっとずっと前に、ロックが外れる前に、提出すべきものだったのだ。
晴美は孝司の執行にショックを受けて、彼は死ぬべきではなかった、と孝司の母に思わず声をかけてしまう。それは言っちゃいけない、あなたが慈悲をかける側になっちゃいけない!「だったらなぜ、もっと早く携帯を出してくれなかったの!!」そう言われて当然なのだから。

娘が殺されたことで、無垢な被害者に閉じこもってしまった。ああそうだ、冒頭に思わず私が言ってしまった、あの愚鈍な思い込みである。ただ、ただ……孝司の弁護士が、「事件は加害者側と警察、裁判所とのやり取りになり、被害者は置き去りになる」という問題点を、それは凄く凄く、思い続けていたことだったから。
加害者の権利ばかりを守ろうとして閉ざす傾向に、多くの人が違和感と疑問と嫌悪を持っていると思うから、それは声を上げ続けてほしいと思う。

被害者家族なのに、それにこだわりすぎていると、周囲が迷惑しているんだと吠える弟夫婦、冷たくなる隣人たち、判るけどちょっと単純で断定的断片的すぎる描写かな。
決定的な証拠となりうるみちよのスマホの行方を、明らかにあやしい晴美の言葉をうのみにしてしまう刑事たちや(携帯会社を動かせば、データとかなんとかなりそうなもんだが……)、警察の証拠物件で当然抑えられていると思われる、みちよの浮気相手のスマホが弁護士の手に渡っていたりとか、うーん、なんか甘いかなあと思う部分は散見される気もするけれど……。★★★☆☆


花に嵐
2016年 76分 日本 カラー
監督:岩切一空 脚本:岩切一空
撮影:岩切一空 音楽:有泉慧
出演:岩切一空 りりか 小池ありさ 篠田竜 半田美樹 不破要 吉田憲明

2017/8/7/月 劇場(新宿K’scinema/レイト)
この日、この未見の監督さんの処女作も併映されていたが、翌日の仕事のことを考えてスルーしてしまった、のは、ひょっとして失敗したのか、どうか。
新しい才能の予感は確実に感じ、皆無名の若い俳優たちながら、ひどく達者なその芝居に恐れおののいたのも確か。
……でもまだ、計り知れない、感じ??

花に嵐、というタイトルは、結局何を意味していたんだろうと思う。意味深ではあるが、その意味は、図りかねた。
最初は本当にドキュメンタリーかと思った。監督自身のモノローグかと思った。それまでは一切映画監督になろうだなどと思ったことはなかった平凡な男の子が、大学に入り、美人学生の勧誘に引きずられる形で映画研究部に入り、半ばムリヤリハンディカメラを手にして、自分の記録を撮り始める。

かなりしばらくの間、これは本当に監督さんのセルフドキュメンタリーではないかと思った。それぐらい、スリリングで生々しかった。美人の学生さんの手練手管も、ふとっちょ青年のオドオドとした感じも、そして不自然な角度で止まるカメラも、何もかもが。
その美人の先輩、あやかさんが彼が入部したとたん豹変して、バン!と書類を彼に向って叩きつける段になって、ああこれは、フィクションなんだと突然目が覚めた感じになった。それぐらい、“女優”の変貌は鮮やかだった。

冴えない彼に「名前負けしてるって言われるでしょ」とあざ笑い、「アブラ」という呼び名を付けた彼女は、それはニックネームというほどの愛情はカケラも感じられなかった。
きっとアブラ君は、サークル勧誘で彼女に出会った時にちょっと恋をしたに違いない。それぐらい、きれいな子で、でも彼はやめなかった。罵倒されながらむりやり持たされたハンディカメラに運命を感じた……というほどではなかったにしても、何かを感じたのか。

それは、カメラを通したから現れたのか、それとも最初からアブラ君にだけ見えていたのか。うつむき加減のショートボブの女の子。
正直、最初から、あぁ、こりゃ幽霊だな、と判っちゃう。てゆーか、アブラ君のモノローグというか、サイレント映画のように画面に現れる文字が妙におどろおどろしく飾られ、効果音までもがホラー映画のようにがなりたてるもんだから、そりゃそういうことなんだよね、と。
そういう雰囲気がまだ全然出てない時からやたら音で煽り立てるので、ちょっとまだ早いんじゃないの……と妙に焦るぐらい。

アブラ君は新歓コンパに出席する。あの豹変あやか先輩にむりやりビールを飲まされ、「未成年ですから……」とあらがう彼は、本当に今まで酒を飲んだことがないんだろうというところがにじみ出ていて、それだけで、ああなんと純朴な青年か、と思う(爆)。
噂の先輩の話が出る。才能のある先輩。サークル勧誘の上映会でもかかっていたらしいが、アブラ君はあまり覚えていない。

それを後に、はな先輩から責め立てられる。どこがいいと思ったの?そもそも映画を撮りたいんなら撮る、方法が判らないんじゃなくて、やりたいならやる、でしょ!とハッパをかけられる。
アブラ君にそこまでの映画の情熱があるかどうかは、本作の中だけでは判然としない。ただ、豹変したあやか先輩からはな先輩に恋心が鞍替えしたことは確かである。

まったくの、対照的な女の子。後に、この女の子二人が、伝説の男を介していたとは信じられないぐらい、対照的。
ただ、魔性という点では、これが意外に、はな先輩の方だったのかもしれない。と感じるのは、飲まされて路上で吐きまくっていたアブラ君を介抱して……なぜかいきなりチューしちゃう、その引きの画面にえ?え??何が起こったの??と驚き、それ以降はまるで何事もなかったかのようなさらりとした態度をとるはな先輩だもんだから、これはなかなかに手ごわいぞ……と身構えてしまうんである。
だって、もう幽霊は大決定だもん。サークル勧誘の時と同じ服着てた気がするし(多分(汗))何気なく流し撮った映像の片隅に映り込む彼女が気になってしまったのは、怨念が映り込んでいたからなのか、それとも……。

はな先輩はアブラ君に、未完のラストシーンを撮りたいんだと頼む。それには必要な小道具があるから、とってきて、と。それがくだんの伝説のモテモテ男子先輩の家であり、アブラ君が恐る恐る乗り込んだ時にも、ハーレムとばかりに女子たちにかこまれまくっている。
女の子たちをはべらせてるこの感じだと一人暮らしかと思われるが、二階まであって、二階にもシャワールームがあるやけに豪勢な家で、コイツ一体ナニモン??と思う。そもそも彼の映画を賛美するのは瞳キラキラな女子ばかりで、それがこのハーレム状態にもつながっているんだもの。

アブラ君がこの先輩の作品を観た感想は、「恋愛ものが多い」てなぐらいのモンであり、そのどれもにあやか先輩が出演している、つまり二人はそういう関係、というのが簡単な図式。
でも、いつも同じような恋愛映画を撮っていた先輩が、最後の、それを最後に撮れなくなった未完の作品のヒロインは違ったのだ。加えて、脚本も彼の手によるものじゃ、なかった。

大学の映画サークルもの、才能のありなしを本気で議論するワカモンたち、映画が撮りたいなら撮れ!と後輩を鼓舞する先輩……そのどれもがどこか気恥ずかしく、商業映画という世界でメシを食っていける人たちなんて限られていて、そしてそれは、決して、ここで甘やかに議論しているような一派ではないんだと思ってしまう、この哀しさ。
もちろん作り手側はそれを重々承知して、いわば皮肉の視線も込めて、本作を作っている、という感じはしている。でも、はな先輩と同じように伝説の先輩までもが、アブラ君に馬乗りになって、映画を撮りたいのか、ならば何を撮りたいのか、と迫る場面には、ああ、そんな純粋なことを今でも信じてこんな風に言っちゃえるのか、と何かハラハラとしてしまうのだ。
映画という奇跡を信じているからこそ、その中に映り込む幽霊という形の映画への愛を、こんな風に作り出せちゃうのだ。それがなんかもう……甘酸っぱすぎて。

はな先輩からの指示でアブラ君が決死の思いで盗み出した小道具は、はな先輩自身の命を奪った、小道具の筈なのに本物の包丁、であった。そして、アブラ君が忍び込んだ伝説の先輩の秘密の部屋には、はな先輩の写真が大小とりみだれて、所狭しと貼りまくっていたのだ。
こーゆー画は、凄く見た覚えがある。既視感タップリ。大体もう、ストーカー男の部屋の定番が、コレである。だからちょっと、新鮮味は薄れる。ビックリ感はなくて、あー……そーゆーこと……という感じである。
ひっそり映り込む女の子が幽霊だったりするのもそうだけど、新鮮な作劇をしているのに、時々あれっと思うほど古典的になることに意外な感を抱く。でもまあ、アレかな、映画っていうのは、そうやって回っていくものなのかもしれないけど。

ラブというか、エロなシーンもサービスしてくる。アブラ君ははな先輩と結ばれる。ザ・ラブホテルで、である。女の子のおっぱいは巧みに隠されていて残念だったが、明らかに童貞であろうアブラ君の動揺の仕方がひどく初々しく、……なんつーか、処女には神的な力が宿っていて、巫女や口うつしが出来るけど、経験したとたん、その力が失われる、なんて話を思い出したりしちゃう。
いや、彼の場合はその後もフツーにはな先輩に使われているんだからそんなんじゃないけど、でもここらあたりを起点に、はな先輩が現実の存在か否か、という怪しさがあぶりだされてきた気もしたりして、あながちなくもないのかなあと。

ラストシークエンスになると、時間軸というか、現実なのかなんなのか、かなり判りづらくなってくる。未完のラストシーンを撮りなおしたいためにと、はな先輩はアブラ君を利用した筈である。それが時間が巻き戻ったのか、その時の光景が再現される。再現なのか、時間が巻き戻ったのか、判らない。
このあたりに至って、撮影中に事故死が起こったことをまるで何もなかったかのようにふるまっていた女子先輩たちが、血眼になってアブラ君を責め立てだすんである。どうやら死んでしまった筈のはな先輩が幽霊になっているらしい、ならばその最後の撮影場所に行ってみようという。よく判らない理論だけど(爆)。

このあたりから、論理も時間軸も何もかもがおかしくなってくる。いや最初から何もかもがおかしかったのだ、自分の記録を撮ろうだなんて。映画を撮ろうというのが言葉だけの空回りにしか聞こえなかったアブラ君の、セルフドキュメンタリーに対するその動機自体が、おかしかったのだもの。
はな先輩に導かれていたのか。彼女が死んで以来、誰からも貸し出されていなかったカメラに導かれたように。

貸出期間が過ぎて、すべての色々も過ぎて、アブラ君はカメラを返しに来る。その時部室にいるのは、あの豹変あやか先輩ではない、まあ、フツーの女子先輩。引き続き借りておきたい、というアブラ君に書類を書くように彼女は言う。
この先輩は、名前負けしているなんて言わない。こんな名前なの、読めないよ、なんて読むの、と問いかけてくる。アブラ君、すっと息を吸う。そこで、監督の名前がバッと画面に浮かんで……。
うーん、上手い!フィクションなんだけど、フィクションなんだろうけど、本当にあった出来事みたいに!!そして映画監督への道を歩んでゆくのだろう、現在の監督への道につながるように。

ちなみに、これみよがしに映研の部室に貼られている某映画は……私はすんごく、大嫌いなのよねー(汗)。いかにもシネフィルにはウケが良さそうな作品らしいのだが、そこがなんとも苦手なのさ(爆)。あーきっと、監督さんとは趣味合わなさそう……。★★★☆☆


破門 ふたりのヤクビョーガミ
2017年 120分 日本 カラー
監督:小林聖太郎 脚本:真辺克彦 小嶋健作 小林聖太郎
撮影:浜田毅 音楽:後関好宏 會田茂一 きだしゅんすけ
出演:佐々木蔵之介 横山裕 北川景子 濱田崇裕 矢本悠馬 橋本マナミ 中村ゆり 木下ほうか 高川裕也 佐藤佐吉 勝矢 山本竜二 佐藤蛾次郎 月亭可朝 キムラ緑子 宇崎竜童 國村隼 橋爪功

2017/2/5/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
直木賞受賞作の映画化っつーのは、よほど話題になった作品じゃない限りいまやあまり宣伝として有効ではないような気もする……というのは、私が知らないだけだから無責任なことは言えないか。
少なくともこの作品に足を運んだのは、本当に単純に、予告編で面白そうと思ったから。そんな単純な理由をここに記すのもナンだが(汗)、人気アイドルとはいえ、スクリーンでは新鮮な魅力のある横山裕君と、これはスクリーンで見慣れた佐々木蔵之介のコンビというのは、ちょっと思いつかないカップリング。
特に横山君のキャスティングはどのあたりから来たのか興味がわく。原作のイメージに合っていたのかなあ??
だって彼の年頃で映画向きの俳優なんてごろごろいるじゃない。大阪というところがキモだったのか、あるいはこの柔らかそうでヘタレそうなところか。なんて言ったら怒られるかもしれないけど、でもそうか、そう考えてみるとピタリと合っていたかもしれない。

横山君が演じるのは、しがない建築コンサルタント会社の経営者、二宮。とはいえ仕事は暴力団と建築現場のトラブルを取り持つサバキと言われるもののみで、それもヤクザの桑原(佐々木蔵之介)にごそっと持ってかれるから収入なんて雀の涙、アルバイトに金も払えやしない。
つーか、あの事務所でバイトが必要あるかしらんと思うが。バイトとはいえ彼のイトコ。演じるは北川景子で、彼女のネイティブ関西弁というのも初めて聞くので楽しい。

そもそも二宮は自分の父親がヤクザだったことで、ヤクザがらみの仕事でしか生きていけないとこぼしているんである。全く無関係に、生きられないと。わざわざ自分が経営者になってまでそんな仕事をしているんだから、んなことないだろと思うのは、庶民の考え方なのだろーか。
そう言いながら二言目には「自分はカタギだから」と言い募る、二宮のある種の逃げというか卑怯さに、ホントならもっとイラッとさせられても良さそうなもんなのだが、そこは横山君のくらげのような?マシュマロのような??やわらかなのらりくらりと、そんな二宮にすっぽんのようについて回る桑原があまりに真逆のドストレートヤクザの熱さなので、なんかついつい乗せられてしまうのよね。

そもそも、桑原との出会いは、本作では明確に語られないが、サバキの仕事で知り合ったらしい、という解説情報(爆)。でも、桑原の組の若頭の嶋田(國村隼)が二宮の父の舎弟だったというし、その辺のつながりなんじゃないのと観ている時には当然思っちゃう。まあそれでいいのかもしれんが。
で、そこに持ち込まれる、映画への出資話。エサは、サバキの仕事のリアルな情報を知りたいという取材だが、出資者を募っていて、紹介してくれたら二宮の名前をアソシエイトプロデューサーとして載っけてくれると、その小清水というプロデューサーは言った。

二宮自身が乗り気だった訳じゃない。彼を息子のように心配している嶋田こそがその話に乗ってしまったのだ。過去にそういう仕事をしたことがある。役者まがいのこともさせられてな、と照れくさそうに話す嶋田は、バブル期はとまれ、現代映画界、いやさ現代社会がどれだけすさんで詐欺まがい、いや詐欺が横行しているかも知らなかったのだ。
そういう意味では彼は桑原以上に今の世から取り残されたヤクザ、ということだったのかもしれない。いやいや、それだけ二宮のことを心配していた、彼にヤクザと関係ない未来に進んでほしかったということなんだけれど、それにしても優しすぎた。

桑原以上に、とついつい書いてしまうだけあって、やはり桑原も、桑原こそが今の世から取り残されたヤクザ、なんである。なんたって演じるのが佐々木蔵之介だから、細身のスーツにスタイリッシュな眼鏡がキラリと光るその姿は、めちゃくちゃにセクシーである。
「ヨメは昼に電話をかけてきたりしない」とか言いつつ、あの甘めの電話はヨメ(内縁だけど)だったんじゃないのかなあ。だって結局彼にそんなくだらない女の影は最後まで見えなかったし、これまたかなーり時代錯誤に、一歩どころか100歩ぐらい後ろに下がって見守る清楚なヨメ、なんだもの。
まあそこを突っ込んでしまうと……これは原作シリーズのほんのちょっとのところを映画化しただけのものなのだから……でもそういう時に真っ先に切られてしまうのは、女の造形なのよね、と思ったりするのは、フェミニズム野郎だから!!

映画出資を持ちかける小清水、演じる橋爪功がキョーレツである。いわば本作の主人公は彼なんじゃないかと言ってもいいぐらいなんである。
映画への出資、というところに、映画ファンの心はうずく。オリジナルは小説と言えど、本作が映画化されたのは、この点がヤハリ、映画ファンの心に訴えるであろうという部分があったんじゃないかと思っちゃうんである。
そしてそれは、見事に成功しているのだ……ただ、それに二宮はちっとも乗っかってないけど(爆)。これはヤハリ、年代かなあ。國村隼や佐々木蔵之介の役柄がこの話に乗っかる、っていうのがさ。

劇中、このくだりとは関係ないけど、「桑原さんは昭和残侠伝みたいな人」という台詞があって(あったよね!?)、私ホントに心の中で飛びあがった(爆)。
こういうヤクザ映画、じゃなし、任侠映画を心に灯して育っちゃうと、そんな映画を作りましょう、と言われると心動く訳(爆)。でも実際は、任侠映画は死に、ヤクザ映画も死に、暴力団映画なんてものは生み出されるべくもないのだが……。

で、脱線したけど、橋爪サンである。いやー、彼が達者な役者だということは知ってるけど、こういう役柄はなかなか観る機会がないからさ、やっぱりビックリしちゃう。ことごとに、この男に騙されるのよ。
ことに桑原なんて百戦錬磨のヤクザのハズなのに、小清水の痛めつけられっぷりのリアクションが見事だから、ほだされる訳じゃないんだけど、充分に痛めつけるんだけど、小清水はギリギリのところで見事にスルリと逃げおおせ、そして空手形をブッチするくせに、実はちゃんと先々でお金が、お金どころか超大金が、その手にある訳!
後から考えると、小清水の“隠していた”金をどうやっておろすか、手にするか、と奔走している小ヤクザたちがむしろ可愛らしいぐらいで、桑原も含めてね!本当に小清水が、てか橋爪さん、これ助演賞モノだよ!!

小清水の愛人、玲美役は、今愛人と言えばの橋本マナミ嬢だが、私は彼女、あまりピンと来ないので……それこそ今は露出を控えた壇蜜嬢がこれをやったら、彼女はそういう独特の引きが上手いから、グッと来ただろうなあと思ったり。
だってさ、できれば小清水と真にラブな感じを感じたかったのよ。だって結果的には最後の最後まで彼女は彼とともにいる。ラスト、香港映画に出資した小清水の動画が示されて観客の度肝を抜く、そこにはちゃっかり玲美も列席している訳で。
女優の夢があったにしても、小清水のプロデューサーの力をそこまで信じ切っていた訳じゃないんじゃないかとか、フェミニズム野郎の割にはロマンチックを信じたい女子は(爆)、思ったりしちゃう訳。でもやっぱり、基本は主演二人のバディムービーだし、そこまで望むのはムリがあるのかなあ。

私は頭が悪いので、お金の流れっつーか、いわゆるヤクザ間の闘争のタネになるあれこれがよく判んない訳(爆)。小清水は出資詐欺を犯した訳だが、そこにヤクザを絡ませたことで、不渡り手形だの出資契約書だの、それらを取り戻すとか無効にするとか、なんかそーゆーことで、ヤクザの組同士が抗争するのだが、もうよく判んない(爆)。
だってヤクザの組織自体が、同じ本家筋だけど所帯の大きさが違うとか、いわゆるメンツのどーやらとか、まー、女にはキョーミない話で(爆)、キョーミ失うとどんどん判んなくなっちゃう(爆爆)。
まっ、そんな話を理解できなくても全然問題なく話は進んでいくのだが、でも場面場面でいちいち、「そういうことか」みたいに、滝沢組が裏で糸引いて、とか解説してくれちゃうから、こ、これを理解しとかにゃいけんのか!!とかプレッシャー感じちゃって(爆)。

まー、でも、そんなことはやっぱりどーでもいいと思う。マカオに飛んだ小清水を見つけ出すシークエンス、ここは横山君、泡風呂では全裸をお願いしたかったけど(なんで服着て入るねん!)。
隠し金をおろす緊張感、小清水の身柄の拘束、引き渡しで桑原の所属する二蝶会と滝沢組で勃発するクライマックス。
後から考えればすべてが小清水の思惑通りに運んでいて、彼は常に死にそうな風情を醸し出していたくせに、ヤクザどもをソデにして見事に逃げおおせ、成功を収めたのだ。

その裏で、古い因習に縛られた最後のヤクザである桑原が詰め腹を切らされ、“カタギに落ちた”ことなんか知る由もなく。<p> カタギというのはそんなにも魂が抜けてしまうものなのだろうか。二宮が「カタギになった桑原さんを見てみたくて」といかにも郊外のカラオケルーム(ボックスではない)に会いに行く。
ぼんやりと、オハコの洋楽ソングを歌うでもなく眺めている彼は、まるで二宮が来るのを待ち構えていたかのように、小清水の消息を口にし、急に息を吹き返したように、有無を言わさず二宮を香港へといざなうのだ。

……「嫌いになったんじゃなくて、ずっと前から嫌いでしたわ!」と、勇気を振り絞って言ったかのような二宮に桑原はニヤリと笑って、「気が合うな、おれもや」
……うーむ、この台詞、どこかで聞いたような。ブオンと走り去る二人を、その表情も写さずに超引き引きの画面で見送る桑原の奥さん。あーもう、現代の女ではマジあり得ないけど!!

正直言うと、横山君の芝居にはちょっとハラハラしたかなあ。滝沢組にもたくさん素晴らしき役者陣(宇崎竜童、木下ほうか!!)がいたが、先述の金の流れの複雑さにワレついていけず、触れられなかった(爆)ゴメン……。★★★☆☆


はらはらなのか。
2017年 100分 日本 カラー
監督:酒井麻衣 脚本:酒井麻衣
撮影:伊集守忠 音楽:チャラン・ポ・ランタン
出演:原菜乃華 松井玲奈 吉田凜音凜 松本まりか 川瀬陽太 水橋研二 micci the mistake 広瀬斗史輝 上野優華 粟島瑞丸 もも 小春

2017/4/2/日 劇場(新宿武蔵野館)
ヒロインの名前と実際の主演の彼女の名前が同じだったので、あらこれは、彼女のために書かれた作品なのかと思っていたら、劇中舞台がもともと実際にあって、そこで主演していたのがこの原菜乃華嬢だということを知る。
舞台を映画化ではなく、彼女をそのまま持ってきて、まるでフェイクドキュメンタリーのような趣??本人そのままの役名ということと、子役と言えない年齢に差しかかってきた苦悩のモノローグがもんのすご赤裸々で、ポップなミュージカル仕立てになっていなければ、マジに重い物語になりそうな気さえする。

彼女だけではなく、ナノカの死んでしまった母親や、かつてナノカの役をやっていた、今回は母親役を担う元女優や、劇団員のメンメンに至るまで、同じ名前、あるいは想起させる名前になっているのが、なんかリアルにこすってくるようでドキドキとする。実際に劇中に出てくる同名劇団を主宰し、劇中舞台を作・演出している粟島氏なんて、カタカナで逃げたりせず、ほんっとうに本名そのまま!!
劇中では、「こんな田舎の劇団、スカウトなんて来ないぞ」とナノカの父親に言われるような小さな劇団なのだが、実際はどうなのだろうか。しかし劇団事情というのは多かれ少なかれこんな感じ……夢だけを糧に手弁当でやっているところが殆どで、やっぱり一般社会の感覚からは離れているんだよなあ。

と、いうところが、ナノカのお父さんが心配するところなのであろう。彼は役名が反映されていない、まさに役者として参加している川瀬陽太氏。なんか最近太ったイメージがあったが(爆)、ここでの彼はいい意味でフツーのお父さんという感じが嬉しい。でもあの無精ひげにカジュアルなファッションのまま通している彼が、どんな仕事をしているお父さんなのか皆目見当つかないけどね(爆)。
だからこそ彼が、女優にこだわるナノカに対して「ほかの生き方もある」となかば強引に女優の道からの方向転換をさせようとするのが、あんまりピンと来なかったんだよなあ。亡き妻、マリカが芝居にのめり込んでいたことが原因??
でも過去回想で、そんな私が好きだと言ってくれた的なことを、妻のマリカは語っていたのになあ。まさか女優にこだわっていたからナノカを産んですぐに死んでしまったわけでもあるまいに。

ナノカは子役から活動している、いわばベテラン。彼女がベッドの中でネガティブにモノローグする、「天才子役にはなれなかった。天才じゃなきゃいけないの?16歳から出てきた子が、子役あがりと違って純粋だと言われる。」などとつらつら並べる言葉が、まー……確かにそんな無責任な形容詞をウチら一般人は言うよな、と思って胸が痛くなる。
それだけ、子役たちがごろごろ出てくる時代というのも、実に時代は変わったなと思い、オーディション一つとっても、小さな劇団のそれでも事務所にお伺いを立てなきゃいけない彼女たちの生活に、うっわ、何それ、子供の頃からサラリーマン状態かよ……と思っちゃう。

そして親という枷もある。ナノカのお父さんは理解あると思うし、逆にいわゆるステージママとかいうことになると、違う苦しみがあるのだろう。ナノカは芝居がしたい。したくてたまらない。それは女優だった母親に憧れてということもあるが、単純に血は争えないなんていうことは言いたくない、そういう星の元に生まれてしまったのだ。
子役として勝ち負けの世界で勝負してきた彼女は、まだ年齢的には子供だから親の承諾とゆーものがつきまとうけれど、言ってしまえばそのキャリアの点では父親に口を出される筋合いはないのだ。そういう年頃になってきた。親にとってはまだまだ子供でも。

今はネット社会。引っ越して転校した学校で、“ゲーノー人”であるナノカは同級生たちから羨望のまなざしで見られる。ちょっとそんな噂が流れれば、ネットでちゃちゃっと検索すれば、ナノカの過去の経歴は出てきちゃう訳だから。
今はオーディションに落ちまくりだということは、ナノカは言えない。しかもそこに、全校生徒の視線をくぎ付けにする、圧倒的なカリスマ性を持つ生徒会長、凛が現れる。学校を変えようゼイ!と突然ミュージカルで生徒たちを巻き込んで学校中を歌って踊るこの生徒会長はシンガーソングライターを目指していて、ナノカは同じ芸能という目指す道が一緒なことで、親密になる。
てゆーか、ナノカが彼女のオーラに引き寄せられた感。自分を表現したい!事務所なんて必要ない!自分で発信していけばいいんだ!!という彼女にすっかり魅了されてしまう。

ナノカには“透明な友達”という、つまりはもう一人の自分、分身がいて、それは年齢的に徐々に遠のいているのだけれど(てゆーか、子供の頃には誰でもいるでしょと言われても、いないし……)、その分身から「良かったね、同い年じゃなくて。だって勝てないじゃん」とサクッと言われちゃう。
この台詞は結構、重いと思う。子役というくくりでは、1、2歳の差は関係なかったと思うんだけれど、学生時代、ことに中学、高校あたりの年の差は、たった一歳がものすごく大きい。先輩であり、後輩である。

生徒会長としての凛に、たった一歳差なのにナノカは無条件に憧れることが出来る。勝てるとか負けるとかそんなことすら頭に浮かばずに。
だから正直、分身がこの台詞を言って、その後ナノカが苦悩するのかなと思ったがそういうこともなかったよね。それにクラスメイトからゲーノー人だとキャーキャー言われることも、つまり友達とかいう以前に壁を作られたことにも、葛藤があるんじゃないかなと思ったが、なかったよね。
うーん、ちょっともったいなかった気がするが、劇中舞台という大きな出来事があるから、そんなに欲張れないっていうのは、あるのかなあ。

母親がかつて出ていた舞台のオーディションを受けることを父親に反対されて、ナイショで受けて怒られ、ナノカはリナさんの喫茶店に転がり込む。
そもそもリナさんと出会ったのは、きっと分身はもとから知っていたのだ、ナノカが何度も見ていた母親の舞台、その主役をしていたのがリナさん、彼女が切り回している喫茶店に分身は誘った。

その時から二人は共犯関係。ナノカの父親にとっては、リナさんは当然、旧知の仲。後にナノカを心配して訪れた父親が「マリカもお前も、芝居にとりつかれていたもんな」と、ちょっと表現違ったかな、でもとにかく、芝居に魅せられた、もうどうしようもない、周りがどう言おうと、という雰囲気で言ったのに対して、リナさんは、「きっと、ナノカもそうよ」と返した。
母親と同じで、とか、血だから、なんていうヤボなことは言わなかった。ただ、ナノカも同じ。芝居に魅せられた同じ仲間なんだと。そしてそんなマリカに彼は恋して、娘が産まれたのだと。

ナノカは途中、ちょっと悩んじゃう。なぜ芝居をするのか、したいのか。結局それってウソじゃないかと。
SNSを始めて、自称有名カメラマンから接触がある。凛は、未成年に親経由じゃない接触をしてくることを心配し、忠告するのに舞い上がったナノカは聞かない。
突然悩みだした芝居がウソじゃないかということや、ずっと悩んできた、子役からの脱却、成功したいという気持ちが働いたのか、このアヤしいカメラマンに一人で接触してしまう。
水橋研二かあ!!彼の思い詰めた目はそれだけでヤバいし、この絶妙な年齢感……もういい大人なんだけど、芸術家を自称してやまない幼さが危ない感じが、やっべ、やっべ!ナノカ、彼と二人っきりになってはだめだよ!!と心の中で絶叫(水橋君、ゴメン!!)。

彼が言ったのだ。女優とはそういう仕事だろう。騙してみろ、俺をホレさせてみろと。……うー、うーうー、中学生の女の子に、その台詞か、ああ、でもそれが女優ということなのかっ。
妙齢のモデルに対してのようにいいね、いいねとやたら近い圧をかけて撮っている時点でヤバい感じがしたが、裾をめくってみて、と言い始めて観客も、そしてナノカもハタと立ち止まる。
それでも彼の剣幕に気おされて、女優の顔、大人の女の顔を作って続けるナノカだが、ついに彼のカメラを床にたたきつけて、裸足で走り出てしまう。黒い雨が降ってくる。あれは……あれは、ナノカが、自分が汚れてしまった、と思ったということなの??

そんなこんながあって、舞台の稽古も上手くいかなくて、リナさんにも心配かけて、ナノカは凛の元に行く。
目指すジャンルが違うし、相談に乗ってもらうという訳ではない。そういう意味ではリナさんや劇団の仲間たちの方が適任なのだが、近すぎて、そしてナノカの思い悩むことはそこに到達する以前の問題……もっともやもやとした、アイデンティティの部分だから。

凛は聞く。芝居をしたいと思ったきっかけって何?と。いや、そういう聞き方じゃなかったかな、とにかく、そのきっかけを聞いた。それをナノカが見失っている感じだったのを、敏感に察知したのかもしれない。お母さんにとらわれていることも、詳しく聞いている訳じゃないのに、同じ芸術の道を目指す鋭敏な感覚が、気づかせたのかもしれない。
そううながされてナノカが思い出しながら話す、お父さんが“透明になったお母さんが作った”テイで作ってくれた、ラズベリージャムとたっぷりのホイップクリームが添えられたワッフル、そしてハーブティのエピソード、それを騙されたフリしておいしそうに食べた自分、実際、本当に美味しかったこと、そう語るナノカを見て凛が「本当に食べてるみたいに見えた!」と言ったことが、呼び水になったのか、ナノカは、「あれが初めて芝居した時かもしれない」と言う。

ちょっと、そう言うのは当たらないかもしれない。芝居というと、それこそナノカが気にしていたウソの気配が漂う。そうじゃなくて、お父さんが作ったことは判ってて、お母さんが作ってくれた、という気持ちで食べた美味しさ。
芝居をウソだというのはカンタンだし、所詮ウソだと苦悩するというのは、一度は通る壁なのだろう。リナさんがナノカを諭す、舞台の上でぐらい夢を見たいじゃない、なんていう言葉は、正直使い古されているし。ナノカはそれ以外、それ以上のところで、芝居をしたい気持ちのその初めをつかんで、戻ってきた。

それでも舞台に立つ直前は、ひどい緊張にさいなまれる。スカウトやらプロデューサーが来ていると沸き立っている団員達の言葉に左右された訳ではないだろうと思う。お父さんは来ていますか、とおもてに出てしまって、観客たちに取り囲まれる。過呼吸になる。本番はもう目の前!!

お父さんが、川瀬陽太が、静かに来てくれるのが、ホンットにイイんだよね。お前はどうしたいんだと、そういう感じで聞いたと思う。ゴメン、明確な言い回しを覚えてないんだけど(爆)。
初めて、ナノカの気持ちを聞いてくれたと思って。親の心配という強力な武器でナノカの気持ちを封じてきたことを、やっと判ってくれたと思って。だってずっとナノカは、私の気持ちを聞いて!!って、訴え続けてきたんだから。

そして、幕が上がる。

この原菜乃華嬢が、先日観た「3月のライオン」の零のお姉ちゃんの幼い頃の役だと知ってかなーりビックリする。全然印象違う!女優!!
本作の彼女はその受け口気味なトコがチャーミングな、フツーな感じが魅力的な女の子。こんなこと言っちゃアレだけど、もっとキレイとかカワイイ子はいそうだけど(爆)、子役、いやさ女優、いやいや役者の魅力はそーゆーところじゃない訳よね。

でもそうした確立された組織にいた彼女が、ただ芝居がしたい、客前に立ちたいと雑多に集まってくる、個人のアツい思いだけで立ち上げられた劇団に飛び込む、っていうのがね、本作にとって凄く大事な部分だと思う。
ギャップの化学変化が、根本に持っている共通の思いをあぶりだす感じがさ!★★★☆☆


ハローグッバイ
2016年 80分 日本 カラー
監督:菊地健雄 脚本:加藤綾子
撮影:佐々木靖之 音楽:渡辺シュンスケ
出演:萩原みのり 久保田紗友 もたいまさこ 渡辺シュンスケ 渡辺真起子 木野花 小笠原海 岡本夏美 松永ミチル 望月瑠菜 桐生コウジ 池田良 川瀬陽太

2017/8/21/月 劇場(渋谷ユーロスペース)
「ディアーディアー」の監督さんの新作ということで、あの作品はとっても記憶に残っていたので迷わず足を運ぶ。
「ディアーディア」ーに関してはとにかく作劇が、上手い!!という強い印象があったので、本作の普遍的な、いわばベタな今時の女子高生の心模様、というチョイスが意外な気がした。でもそれって逆に、凄く難しいことなんだろうとも思う。旬の若手女優を使えば画面は華やかになるが、“イマドキ”はすぐに古びるし、表面上を巧みにとりつくろう彼女たちの心模様をスクリーンに焼きつかせるのは容易ではないのだから。

そこに触媒として現れるのがもたいまさこ氏ということなのだろう。もたいさんといえばたとえシリアスな作品に出ていたとしても、そこにほっこりにんまり可笑しみを加えてしまう、生来の喜劇女優といった存在なのだが、本作では、確かに彼女自身のそうした独特の可笑しみの風情は出ているにしても、でも徹頭徹尾、シリアスの中にいる。
それが新鮮であった。触れればやけどしそうなとんがった女の子二人にぶつかり合うには、もたいさんなれどもシリアスにいかねばならぬのか、なんて。

触れればやけどしそう、なのは、それこそその心模様がじわじわと明らかになってから。イマドキではなく、今も昔もかもしれない、女子高生たちが鎧をまとって本音なんぞを口に出さず、表面上はやけに楽し気に過ごしているのは。
はづきは崩した制服の着こなしといい、おにんぎょさんのような顔つきといい、そしてにぎにぎしく集っている仲良しグループの面々の中でもちょっと従えてる感がある風情といい、いつの時代にもいるよね、こういう、クラスで目立つ女子、ていう女の子である。

そのコケティッシュな魅力と鮮やかな表情の変化や何より芝居力が、若き頃の沢尻エリカ嬢をほうふつとさせた。そう、あの、ちょっと忘れられない佳作、「問題のない私たち」をだ。
グループ内女子の関係性、本音を言えない女の子たち、そんな部分が、ハッキリとしたイジメをテーマにした「問題のない……」とは違うけれども、かなり思い起こされてしまった。それ位、はづきを演じる萩原みのり嬢のインパクトは大きかった。

両主演となるもう一人の方が、メイン度としては大きいかもしれない。クラス委員長の葵。はづきたちグループに、それこそイジメとまでは言わないけれども……というあたりが微妙で。
イジメという感覚に線引きをもたらすこと自体が危険だということは重々承知なのだが、そのあたりが実に上手いというか、学級日誌を職員室に届ける程度、のことだけが示されるにしても、きっとそんな些細な事でも、委員長、ありがとう、いつもごめーん、みたいな、パシリに使って楽しんでいるみたいな雰囲気が常に行われていることを感じさせるのだ。
委員長、という呼びかけ自体が、バカにしているというか、マジメちゃん、いつも一人で可哀想ね、私たちがかまってあげるからね、みたいな。

葵の心はでも、病んでいる。いや、病んでいるなんて簡単に言っちゃいけないが……とにかく、寂しさに吠えている。優等生なのは間違いないが、はづきたちグループのカバンをあさって小物を盗んで花壇に埋めたり、雑貨店で万引きを繰り返したり、している。
花壇に埋めている時に、はづきと元カレの会話を偶然聞いてしまう。黒いカーテンを閉め切った化学実験室かどっか、だから葵の姿は二人からは見えていないし、この黒いカーテンを閉め切った、というあたりがなんともドキドキとする。
でも、黒いカーテンを閉め切っていなくたって、葵の姿は二人からは見えていなかったんじゃないか、なんて皮肉なことを思うほど、この時点で葵は本当に一人きり、だったのだ。

花壇に埋めた小物、手鏡が教室内に光を反射して、はづきがそれを見つけ出すというスリリングな展開にドキドキする。凄く、映画的。かといってそのことで葵の“犯行”に気づく訳ではない。
はづきがバッグの中に忍ばせていた妊娠検査薬も盗み出されていたけれど、葵はそれをそのまま隠し持っていたから、盗み出された、てことに気づくのはもう少し後になってから、なんである。大体、はづきと葵は決して交わることのないタイプの人間。特にこういう、学校という、ランク付けのハッキリした場所では余計に、だ。

そこに登場するのが、もたいさんなのだ。いわば、ボケ老人として現れるのだ。急勾配な階段の途中で荷物をぶちまかして立ち往生しているところに、まず葵、そしてはづきが後から加わる形でかかわった。
あの急な石階段は、ホンット映画でよく見かけるね。多分同じ場所だと思う。町が一望できる、印象的な場所。どこなのかなあ、一度行ってみたい。

はづきはこのおばあちゃん、悦子さんが持っていた通帳の膨大な金額に目を輝かせて、なんとか金を引き出させようとするも、すっかり自失の悦子さんは暗証番号も出てくる気配がないんである。
葵の方は、すっかり悦子さんと仲良くなってゲームセンターではしゃぐほどなんである。いや、葵は途中、諦めて帰ろうとしたはづきにつきまとう形で悦子さんと時を過ごした。はづきと元カレの会話を聞いて気にしていたこともあるにしても、何か、を感じていたに違いない。

その何か、を、友情などという言葉で説明してしまうのは、そりゃカンタンだし、それでもいいのかもしれないけれども、何かちょっと、違うかもしれないと思う。こっからが物語が展開していくんでここで決着を言うような感じもアレなんだけど、二人は……彼女たちがお互い確認したように、「安心して、明日から学校で声かけないから」みたいな、この出来事で“トモダチ”になったから、なれ合うような、そんなことじゃないのだ。
いわばお互い、それこそ“表面上”は、仮面をかぶった女子高生生活に戻る、まるで今までと変わらずに。二人が腹を割って思い出話なぞする時があったとしても、それはきっと何年も、ひょっとしたら何十年も先なのだ、なんて思える、この不可思議な感覚。

それはこの共有した出来事の中で、二人が真に、魂をぶつけ合ったからこそ、平凡な友達同士になんてならないだろうということなのだと思う。
恍惚の人になってしまった悦子さんが、どうやら初恋の人か、とにかく若き日に愛した人に渡したい手紙があることを知った二人、葵が特に入れ込んじゃって、はづきを巻き込んで、その人を探して渡してあげよう、という。それも、はづきの弱みを握って、お金が必要なんでしょ、10万あげるから、というんである。

つまり、元カレの赤ちゃんを妊娠してしまったかもしれないという状況のはづき、しかもグループ内に元カレと付き合っている友達がいる。LINEで常に親密につながっているように見えていた友達たちも、いや、もうこの時点で既に、“友達”なぞではないことが明らかになっちゃってた。
秘密にしたかったことなのに、元カレから現カノにあっさりバラされ、グループ内に瞬時に伝わったその“ネタ”は、友達だと思っていた現カノにとっては「私たち、友達だよね」という脅しそのものの文句で牽制され、その他メンバーたちは、他の人には知られたくなかったというはづきの気持ちを、きっと判っている上でネタばらしして優位に立ち、どっちについたら自分たちにとって得策かをしたたかに計算している。

まるで政治の派閥争い、まるでどころかそのまんまそう、ゾッとする“友情”なのだ。立場が違えば恐らくはづきも同じような行動をとっただろう。
自分が当事者にならなければ判らなかったこと。SNSなんていう、しょっちゅうつながることが出来るツールがあっても、ちっともつながっていない、つながっていると思い込んでいるからこそ、恐ろしいのだ。

葵はそういう意味では本当に対照的。後に悦子さんに吐露する、「私、悦子さんと同じだと思っていたの。ごめんなさい。私もひとりぼっちだから」という台詞が実に端的に示している。
忙しい両親は常に不在、学校の中でも、はづきのような仮面友情さえ築けず、でも優等生だから先生の覚えめでたし、それで立ち位置がある、みたいな。
でもはづきと抱えている根本的な寂寞感は同じだと気づいて……いや、きっと、ね、はづきと同じグループ内の女子だちだって、同じだったと思う。ただ、気づかないでいられれば、それで幸運なのだもの。それなりに、生きていけるから。

結局、悦子さんが手紙を渡したかった相手は、亡くなっていた。そもそも、その相手、コウジロウさんは悦子さんと仲の良かった友達と結婚してしまっていたのだった。悦子さんの家に入り込んで手がかりを探しまくって、写真に写った仲良し三人組の一人を訪ねて、それが判明したのだった。
その一人、そば屋の和枝さんを演じる木野花氏がまた素晴らしいのだ。悦子ちゃん、久しぶりね、と問いかけても、和枝さんのことが悦子さんは判らず、どうもご丁寧に、なんて。そうね、悦子ちゃんも元気で、なんて涙をこらえて手を握って。ああ、こんな出来事がいつか私にも起こるんだろうか。その時私は、手を握る方なのか、握られる方なのか。

コウジロウさんも、彼と結婚した悦子さんの友人ももう亡くなっている。手紙の行き場がなくなってしまった、でもそれでも届けようと、行こうと、はづきこそが言う。
この段に至るまで、はづきと葵は正面きってぶつかった。お互いが一人の寂しさから逃げていること、万引きのこと、妊娠のこと、思いっきりぶつかり合ってケンカする場面は、それまでも水と油のような二人だったからついにやった!という感じだった。
でも、妊娠はしていなかったことが判明してはづきが安心して泣きじゃくるそばに葵が優しく寄り添うのには……それまでのギャップもあって、あれれれ、まあなんかすげー、あっちゅーまの和解ね、と思ったりもしたけど(爆)。

クライマックスはなんつったって、コウジロウさんの足跡を訪ねる旅である。住所を訪ねて行った先には、ピアノ教室を営んでいるイケメン息子がいるんである。コウジロウさんに当てられたと思っていた手紙は実は、コウジロウさんと悦子さんの親友であった友人に当てられたものであった。長年二人を許せずにいたけれど、今、私は夫と子供たちに囲まれて幸せですと。それを伝えるのがこんなに遅くなってごめんなさいと。
つまりこの手紙が書かれたのは、きっとずっと前だったんだろうなあと思われる。コウジロウさんの息子はムダにイケメン(爆)、この映画のメインテーマ、そして悦子さんのために作られたコウジロウさんのピアノ曲を作曲、劇中演奏する役割を担ったお方なんである。

個人的に、大好きなピアニスト村松健氏の作風というか、ピアノのクセみたいなものに凄く似ていて、え??ひょっとして村松さん??でもそんな話聞いてないし!!とか思って、凄くドキドキしてしまった。
里心を揺り動かされるような和風のメロディラインと、何よりフレーズの最初に印象的に付与される独特の装飾音が凄く良く似てるんだもの。えー、全然関係ないんだよね??ちょっとビックリ!!

この出来事の後、葵は万引きしていた店に自首しに行く。でも常習犯だったから親を呼ばれて学校にも知らされちゃって、しかし停学を貼り出されるなんて、そんなん、アリー??なんと無慈悲な……。
何事もなく元に戻ったかのようなはづきたちグループ。停学後戻ってきた葵をからかうように、学級日誌を届けるのを頼んだ時と同じトーンで、欲しい服やアクセサリーを頼んじゃおうか、なんていう。はづきも同じように笑い合う。

いつも、それを葵に言い渡すのははづきの役割。立ち上がり、葵に近づく。ワクワクしながら見ているグループ女子。でもはづきはその前を通り過ぎ、教室を出て行き、校門さえも出て行った。
それをベランダから薄く笑みを浮かべて見送る葵は悦子さんの思い出の曲を口ずさむ。聞こえるはずない距離なのに、はづきは振り向いた。葵と目が合った、のかさえ判らない。そんなベタなカメラワークはしないから。

はづきと葵を演じた二人の女子、萩原みのり嬢と久保田紗友嬢がが素晴らしかった。女子高生の匂いがしてきそうだった(ヘンな意味じゃなくてね!!)★★★★☆


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