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志乃ちゃんは自分の名前が言えない
2017年 110分 日本 カラー
監督:湯浅弘章 脚本:足立紳
撮影:今村圭佑 音楽:まつきあゆむ
出演:南沙良 蒔田彩珠 萩原利久 小柳まいか 池田朱那 柿本朱里 中田美優 蒼波純 渡辺哲 山田キヌヲ 奥貫薫
志乃ちゃんは自分の名前が言えない、んである。高校に入学するその前日、自己紹介の練習を繰り返している志乃は、問題なくスムースに言えている。母親とも普通に会話できている。
しかし入学の日、彼女は文字通り、“自分の名前が言えない”いわゆる吃音で、つっかえまくって、教室の空気が凍りついてしまう。その時、ツッコミの役割で爆笑した菊地君が、その行為はまさに、救いであったに違いないのだが、この年頃、そしてせっぱつまった彼女の状況では、当然そんな風には思えない。
そこんところが、子供と大人の違いである。菊地君自身がそこまでの意識があったかどうかは判らない。彼もまた自分自身の居場所を見つけるために必死だったから。
でもなだめるようにその場を収める教師より、何倍もいいに決まってる、と思うのは、やはりあくまで、客観的になり、ずぶとくなり、いわゆる忖度なんぞも出来るようになる大人になってからなのだろう。
なんて最初から書いてしまうのは、ヤハリ志乃ちゃんにまだまだ子供ならではの弱さを感じるからなんであろう。
それはもちろん彼女に対してだけではないのだが、いわば嫉妬に近い感情で殻に閉じこもってしまった彼女に、まだまだ自分の可能性を信じてるじゃん、と思ってしまうのだ。
あー、展開も何も言わないままオチに向かってしまっているが(爆)。まぁ、おいおい書いていくので、許して(爆)。
母親に対して、あるいは打ち解けた人に対してはスムーズに言葉が出る。つまりこれは吃音というよりは場面緘黙症ということなのだろうと思う。
しかしこの言葉自体、私自身は最近知ったものだし、吃音というのは以前から知られていることだけれど、それが慣れない場面だけに出る、となると、「まだ、お友達が出来なくて、緊張してるのネ」などという、担任の先生の言うような見当違いな言葉もそりゃぁ、出るのだろう。
一見して優し気な言葉だが、他のみんなは出来ていることが、あなたは出来ていないと言い、勇気を出して!というのは、努力していないからだという意味に等しい。
先生も協力するから、って、どう協力するって言うんだ、とキレたくもなるが、当然志乃ちゃんは、そんな先生に対してだって言葉が出ないのだから。誰も、そして彼女自身も、なぜそうなるのか、判らないのだから!!
このクラスの中には志乃の他にあともう二人、孤立している生徒がいる。一人が先述した、志乃を心あるイジリをした(というのを、本人も志乃も判ってないだろうが)菊地君であり、もう一人は志乃と両主演とも言うべき、相方となる加代である。
菊地君を演じる萩原君が「イノセント15」の彼だと知り、あのささやかながら重い映画を、観て良かったと改めて心から思う。
最初から一匹狼の雰囲気をムンムンに出している加代は、それこそ、“勇気を出す”気もさらさらなく、一人でいる。志乃が教室で一人弁当を食べるのにいたたまれなくて場所を探してさまよい、後者の裏手でこっそりと食べている目の前をイヤホンをしてさっそうと通り過ぎる。
気になった志乃がつけていくと、見た目に寄らない音痴な鼻歌を気持ちよさそうに吹かしていて、思わず志乃はクスリと笑う。
多分ね、この時もう志乃ちゃんは、一目惚れしちゃってたんじゃないかと、思うなぁ。加代はそういうタイプ。女子にモテモテなタイプ。
ただ、彼女も中学生時代はどういう生活を送っていたかは判らない。カラオケ屋の前で遭遇した中学校時代の同級生たちは、いかにも親し気な雰囲気を出すけれども、彼女の音痴っぷりを執拗にイジり、もう一度聞かせてよ、私たちまた入るからさぁ、という残酷っぷりである。
多分……それこそ“いじめというんではない”のかもしれないけれども、彼女もまた、志乃や菊地と同じような中学校時代を過ごしてきたのだろう。
菊地に関しては加代が、「あいつ、いじめられてたんだって。ムリないよね。空気読めないし」と冷たく言い放つが、ある意味それは観客に対する解説に過ぎず、彼の一生懸命さを意外と言えるほどに素直に救って仲間に入れるのだもの。
空気が読めない、というのは、ひとつの言い方に過ぎなくて、志乃も加代も、学校生活というコミュニティの“空気”に入れないまま孤立していたのは同じなのだ。そこで一人でも判り合える誰かが見つかれば、それだけで水面に浮上できる。
それを、加代と志乃はお互いに見つける。志乃は場面緘黙と吃音があっても、歌は不思議にするすると歌える。それを加代が発見するんである。
加代と一緒にいるうち、会話も次第にスムーズに出てくるようになる。私と組んで、秋の文化祭に一緒に出ようよ、と加代が志乃を誘う。志乃となら出来ると思う、と、もう青春真っただ中!
夏休み中、知っている人がいない場所にローカルバスに延々乗ってたどり着き、誰もギャラリーがいない橋の上でこわごわ歌い出す。加代のギターもまるで鳴らなくて、もうこりゃダメだ、帰ろうよ、と志乃が言うのもムリない。
でももう帰れない、ようやく外に出たんだよ、という加代の言葉は胸に染みる。小学生が寄ってくる。だんだんとストリートミュージシャンらしくなる。最初に場所の提供を許してくれた清掃のおっちゃんも目を細めて彼女たちの音楽にリズムをとる。とてもとても、素敵だなと思ったのに。
誤解を恐れずに言えば、菊地君がすべてを乱したのだ。文化祭のための訓練だと、繁華街に練習場所を移したその途端、菊地君に遭遇した。彼はまるで悪気なく、屈託なく、「お前ら、何やってんの??」「俺、ギャラリーになるから、聞かせてよ!!」
それこそ、こんな“観客”に負けていたら、文化祭なんか、出られない。でも、入学の日、彼にいじられたこともあってか、志乃はたまらず逃げ出した。
その後、二学期が始まって、菊地君が無遠慮に二人の“ストリートミュージシャン”を紹介して、加代がたまらずキレて、菊地君をぶん殴っちゃう。
もうこれはダメかと思ったが、菊地君が素直に自分の非を認めて、そして自分もまた仲間に入れてほしい、だってお前ら、カッコ良かったから!!と言い出した時には、これはちょっとカンドーなクライマックスが待っているのかなと、期待した。
しかして、そうは甘くないんである。一度は信頼する加代ちゃんがそういうなら、と菊地君を容認する姿勢を見せた志乃だが、二人が思いがけず音楽の趣味が合って仲良く話しだすと、急激に志乃は態度を硬化させる。
嫉妬、というのは簡単だが、その通りだとも思うが、加代とだってここまで時間をかけてスムーズに話せるようになったのに、それでなくても男子で、苦手意識のある菊地君が、自分より加代と気が合う……ヤハリ、端的に嫉妬だったと、思うなぁ。
だって志乃の加代に対する気持ちって、なんか恋心に近い感じがしたんだもの。時々ある。この年頃の少女の友情モノで、これだけハッキリと男役と女役が分かれていると。
ただ、女役の志乃は、恋愛ものの痴話げんかの女の子のようにマシンガントーク出来ない。もうこうなると、それまでスムーズに話せていた加代に対してだって、またしても言葉が詰まりまくってしまう。言ってくれなきゃ判んないよ、と言われたって、言葉が出てこないのだ。
……で、90年代の話だもんだから、携帯も出てこない訳なのね……志乃が学校に出てこなくなっても、家に訪ねるしか方法がなく、そして志乃は部屋から出てこなくて……。
責任を感じた菊地君も、志乃を訪ねてアイスを奢って、なんとか自分の気持ちを伝えたりして説得しようとしても全然ダメ、彼が「お前は卑怯だ!一人で殻に閉じこもって!!」と勇気を振り絞って志乃にぶつけても、志乃は応えることが出来ないのだ。
最終的に加代が家に訪ね、練習を重ねた橋の上までバスで行き、帰りのバスを捕まえられなくて朝を迎えちゃう、そんな長い長い沈黙の中で、志乃は拒否の気持ちを崩すことが出来ず、加代も判ったと言うしかない。しのかよ、と名付け、文化祭に向けてデビューを目指していた日々は崩壊した。
どうなるのかな、と思った。クライマックスのカタルシスは絶対に外せない。でもこの状況で、ギリギリ説得して志乃をステージに上げるのはムリだろうというのはアリアリだった。
志乃に書かせようと思っていた自作の詩を、結局は加代が仕上げた。二人のことを書いた詩。笑っちゃうほど音痴だった加代が、舞台の上で歌うことはないだろうと思っていた。
でも、歌ったのだ。あれだけ笑っちゃうほど音痴だった彼女が、格段に上手くなってた。きっとすごく、練習したのだ。
でもやっぱり微妙に音程は外れて、それでなくてもデュオで出てくるというアナウンスにソロで出てきたことで観客は苦笑気味の戸惑いを見せる。ただ、菊地君だけが熱い拍手を送る。
志乃が、聞いてない訳はないのだ。上手くしゃべれないこと、上手く歌えないこと、それをたった一人で、味方のいない群衆の前で歌った相方に、自分を顧みない訳がないのだ。
志乃ちゃんがうわーっ!!っと駆け込んできて、あっけにとられる群衆の前で、鼻水垂らしながら自分の弱さをさらけ出す激闘モノローグは圧巻である。知らない人ばかりなのに、しかも群衆で、こんな緊張する場面ないのに、今までで一番、スムーズに言葉が出る。てゆーか、もう、それどころじゃないうわーっ!!なんである。ちょっと、加代ちゃんの決死のステージに対してズルい気もするが。
正直、これで三人の絆はガッチリかと思っていた。意外な結末だった。三人は、仲たがいという訳でもないんだろうが、判らない。仲良くつるむことばかりが、友達ではないだろうとは思うが、何か何か、考えさせられる終わり方だった。
10代の学校生活って、凄く難しい。一緒に行動する“友達”がいないと、問題があると、自身も対外的にも思われてしまう。でも、大人になってからの社会を思うと、そんな幼稚なこともないのかもしれないと思う。そもそも加代は菊地に、今回はごめんねと、いつか一緒にやろうと声をかけていた訳だし。
だって、ただ、昼休みの光景だけである。菊地君はかつて志乃が一人でぼそぼそお弁当を食べていた校舎裏で、たった一人でだけど、元気よく弁当をかっ込んでいる。加代は屋上で一人、ギターの練習にいそしんでいる。
そして志乃は、以前は一人で食べることがいたたまれなかった教室で、お弁当を広げている。クラスメイトの女の子が、これあげる、とジュースをとん、と机に置く。
「あ、あああ、あありがとう」
志乃は、母音が苦手。だから、加代と話している時も時に、サンキュー、と言い換えたりしていた。それもありだと思う、全然いいと思うけれど、逃げなんかじゃないと思うけれど、しっくりくる言葉、表現というのはやはり、あるのだろう。
そしてこの女子は、きっと志乃の文化祭の叫びを聞いていたのであろう。一人じゃない。そして一人でもいい。言葉とはなんともどかしく、そして尊いものだろう。!!★★★★☆
森の石松は中村錦之助。はぁー、はぁー、やーもう、可愛い。何つーか、私の中での森の石松のイメージとは違うけど、可愛いからヨシ!!
彼は本当にみんなから愛されているんだよね。正真正銘のバカ、というのは自他ともに認めるところ、自分自身はそれを自戒しつつだが、そんなおごらない石松をみぃんな愛してる。侠客の仲間たちも、親分さんも、町の皆もみぃんな!
石松はばくちも打つし酒も好きだが女だけはからっきしダメ、それはつまり、ホントの恋をしたことがない、なんつーか、中学生みたいなヤツなんである。そんな彼をみんな可愛くていじくりたくて仕方ない。
「俺が惚れるだけの女がいねぇってことよ」と石松はうそぶくが、「石に惚れるだけの女がいねぇってことだな」とまぜっかえされて皆大笑い。てやんでぇ、とぶんむくれて暴れる石松が、錦之助が可愛くて、ああ、本当に彼がホレるのはどんな娘なの!!と胸が焼けちゃう。
ところでこの物語はまず、ひとつの大きな法事から始まるんである。次郎長親分の愛妻、そして抗争に巻き込まれて死んだ子分。町の人たちにも慕われている次郎長だから、各方面の親分衆のみならず市井の人々も多数弔問にやってくる。
素人さんからは香典はもらえねぇ、と断っている中に、まさにそんな素人さん感満載の、薄汚い(爆)爺さんがやってくる。鷹揚に香典を押し付け、ゆうゆうと中に入っていく彼は、誰もが知ってる大物親分、身受山の鎌太郎。
演じる志村喬のあまりの素敵さに心打たれまくる。一応メインは石松が一生一度の恋を見つけた金毘羅参りのロードムービーと思しきなのだが、この最初のシークエンスでかなりの尺を費やし、伏線も大いに張られている。
身の丈に合った生活をし、百姓や漁師仕事をして自らも子分の食い扶持も稼いでいる鎌太郎は、その自分に合った格好と、無理をしない額の香典を持って、しかし背筋を張ってやってくる。
その法事にはちょっとしたハプニングがあって、ヤクザとして男の義理を果たして死んでしまった男の母親が泣いて我が息子を叱責し、そのそばで彼の、嫁になる筈だった娘が人妻のしるしの丸髷を結ってよよと泣き崩れているという……。
あの斜めのくずおれかた、ああ、古き良き時代の日本を見るなあと思う。この後、石松が出会った寂し気な面影の女郎、夕顔も、このくずおれかたを見せてくれる。女、なんだよなあと思う。
今の時代じゃ色んな意味で難しいけど、素直に素敵と思う。男が血気盛んでバカでゴツゴツしてて、女が丸みを帯びて優しくて支えてる、そんな時代が幸せな時代が確かにあったのだよな。
今はもうどっちがどっちか判らないほど寄ってる、それもまた時代の理想なのだけれど。
鎌太郎の香典の額に不審(不信、かな)を持った石松がサバ読んで書付を貼り付けちゃったことで、ひと悶着、っていうか、そこは鎌太郎の懐の深さである。
「お前さんが、私の二十両を立て替えてくれたのかな。すまぬな」ただただこうべを垂れるしかない石松。ああ、志村喬の素晴らしき懐の深さよ!!
皆に慕われている次郎長を心から賞賛し、石松の失態を自らの恥に転化して受け止め、その一方で、無念に死んでいった者たちへの哀惜を示した女たちに比べて自分たち侠客はどうなんだと、貫禄たっぷりに叱りつける。
でも、凄く愛情にあふれてるの。もうー、この時点で中村錦之助のことはスッカリ忘れて(爆)、志村喬のトリコになってしまった。もう優しくて優しくて、たまんないんだもん!!
で、この最初のシークエンスで、石松がこの抗争で斬った相手方から恨まれているから気を付けるように、との耳打ちを受ける。
だって斬らなきゃおいらが死んじゃうんだもん、という……まぁ、もっともなんだけど、石松のこのリアクションが、この時点ではまだ彼は、鎌太郎が示した死者への哀惜、義理で死ぬということ(あるいは殺すということ)の無意味さをまだまだ、判っていなかったということ、なんだよなあ。
そう思うとそれを判った上での石松の最期がますます……おっとっと先走っちゃ、いけねぇよ。
で、石松は、もう人は斬らないと決心した次郎長親分の刀を奉納するために金毘羅参りに出向く。
最初は酒もバクチもダメだと言われて、てやんでぇ、と断った石松だが、女だけはイイと言われた……のも、自分は女嫌いだから意味ないと言っていたのが、先述のように皆にやいやい持ち上げられ、讃岐の女は情が深いから、と実況実演で見せられ(関西弁の兄貴分の実演が最高に可笑しい!)、なんかもう、その気になっちゃう。
そして船に乗るまでの大騒ぎは、皆に愛されてる石松をこれでもかと見せつけてさ、石ちゃんに惚れる娘さんに出会えればいいね、のろけ話を待ってるよ、なんてみんなが囃し立ててさ。
もうミュージカルもかくやという楽しさで送り出される様は、後から思えば……石松の切ない最期を思えば……ああ、また先走っちゃった!!でもでも、なんか逆に、かえって、切ないんだよー!!
旅の道中、いかにもデキる剣客、小政と出会う。これがツートップとして錦ちゃんと共に名前を連ねる東千代之介である。俺が一人前のヤクザになるまで待ってる女がいる。だから俺は死なねぇんだ、と言い放つ小政。
冗談半分やっかみ半分で勝負を挑む石松に、真剣に立ち会い、そしていなし、女にマジでホレるということはホレられるということはどういうことなのか、照れもせずにまっすぐに語るのだ。
もうすっかり、石松は小政に脱帽、惚れ込んじゃう。そして、お藤という名の恋人を思って頭上に咲いていた藤の花を鮮やかに斬り落とし、愛し気に川面に植える小政に、しみじみ自分のその先を思ったり、しちゃうんである。
いかにもおぼこ男(なんて言葉があるならだが)な石松が惚れる女、惚れられる女、なんているのかと思ったのだが……。
無事金毘羅さんに到着し、もう早速聞いていた色町へ。なかなか心を決めて店に入れない石松にやりて婆はうんざりしながら、「またかね、ダンナさん。残り物には福っていうよ」「福は福でも、お多福じゃぁなぁ」
なぁんてナマイキなことを言ってのぞき込んだら、それまでひっそりと後ろを向いていた娘が、夕闇の影のような、寂し気な絶世の美女!!
もう石松はスッカリ心奪われてしまう……のは、小政の恋人が「泣いてる訳じゃないのに、泣いてるような濡れた目をして、俺をいつも叱ってくれる」と言う言葉が焼き付いていたからに違いない。
その美女、夕顔の母親もまた女郎で、客であった恋人の男は迎えに来ると固く約束をしながら来なかった。やはり侠客であった。迎えに来れなかった、ということだろう。
夕顔は、石松にイロがいるのかと問われ、お客さん皆がイロですと答えた。つまり、人を好きになる、恋をするということを、私は知らないのだと。
それは……石松もここに至るまでそうで。石松が皆からのカンパでもらった大量の小銭を、この経緯まで説明して夕顔の前に積み上げた時、彼女は彼の誠意を感じただろうし、やりて婆も安堵しただろうし(爆)。
そして何日か逗留するうちに、その明るく愛しい性格は女郎たちの間にもあっという間に広まって歌を歌って猿真似をする石松に拍手喝さい!!場所が変わっても、どこでも、石松は人の(特に女の心を!)つかんでしまうのだよね。
夕顔はさ、石松と、何もなかったと思う。いや、なかった。結局石松は童貞のまま死んじまったということ、なんだろうなあ……。何もしなくていいんだと、俺が仲間たちにのろけ話をしたいだけなんだからと、それには自分がホレてればいいんだからと、泣けること言う石松は、夕顔には手を出さなかっただろう。
そして帰らなければいけない時が来る。まるで長年の恋人同士が別れる時みたいに、もう別れがたくて別れがたくて、指一本も触れてなかったのに、ふと抱擁を交わすのが切ない。懐に手紙を忍ばせて、これが今生の別れになる筈だった。いや実際……。
鎌太郎の元に、石松は出向くのね。あの法事ですっかりホレ込んでしまった親分さんに挨拶に。そこで、自分たちの侠客生活とは全く違う、土地に根差した労働生活で口を糊し、その慎ましい生活で子分たち、地元の人たちに信頼を得ている鎌太郎親分に、石松はいたく感動する。
石松が“気を利かせて”立て替えた二十両を、子分たちがかき集めて来て用意したものを、受け取れる訳もない。石松のために小銭をかき集めてうずたかく山盛りにする、それは、町の人たちが石松が運命の女に出会うためにカンパを集めたあの金とそっくりそのまま重なるのだ。心の金なのだ。もうそれは金ではないじゃないの。
そこにぽろりとこぼれた夕顔の手紙。こんな真摯な女の心をお前は無下にするのかと、またまた一触即発になるのが可笑しくも愛しい。鎌太郎親分、いやさ志村喬がさ、もうもうもう、優しい、優しいのよー(涙涙)。父親をなだめるおきゃんな一人娘もまた素敵だし。
彼の後押しを得て、夕顔を身請けする決心をつけた石松は、その帰り道、仲の良い七五郎のところに足を向ける。
てか、その前にいきなりシーンが替わり、威勢のいい女が借金の取り立てにやって来たむくつけきヤクザたちを槍を構えて見事に追っ払うシーンを胸のすく爽快さで見せるので、あれれれれ?映画が変わった??と思っちゃうぐらい……。
この夫婦は、てか奥さんがホントに素敵でね、そらあこの七五郎という男はヘタなくせにバクチが好きで、腕一本斬り落とす度胸もないくせに借金を重ねて、奥さんの影に隠れてブルブルしてるよーなヤツなのさ。それもこの奥さんが強いからだろうけれど(爆)。
「こんな男だけど、私にとっちゃぁ、たった一人の男だから」「コイツは俺にベタ惚れだからさぁ」「バカ言ってんじゃないよ」石松が思わず頬を緩めるのもわかる、こんな、何があっても、いつまでたっても、惚れ合ってる夫婦でいたい。素敵素敵!!石松はそう思った。なのに……。
小政との再会があるからさ、彼が助太刀してくれると思ったのに、一体あの再登場は何だったんだ(爆)。
逆恨みの闇討ちに来るヤツらのことを冒頭の法事の時に耳打ちされていたし、そのヤツらが盆踊りの雑踏に紛れて面をつけて用意しているのが示され、その後に小政がまさしく面をつけて真剣勝負よろしく石松の前に現れたから、彼に危機を知らせに来て、後から助太刀とかそーゆーことかと思ったら、ホントの危機の時にはノンビリ七五郎一家の家にいて何にも気づいてないってどーゆーこと(爆爆)。
劇的な土砂降りの後、無数の敵に次から次に襲い掛かられ、「(運命の女がいるから)俺は死なねぇよ」とあの時の小政のように言ったとしても、無理なの、さすがに、無理なの。なんてことだよ。
石松はさ、隻眼なんだよね。片目が何かの抗争のためでか、つぶれている。だから、「本当の一目惚れだ」なんていう洒落た台詞も出たりする。
石松を送り出す時、奥さん衆の一人が戯れのように、「本当の恋に出会ったら、石さんの片目がきっと開くよ」だなんてさ。それこそてやんでぇだった。
でも、この斬り合いの途中……いや、もうなんだか現実味が薄れてからだった。森閑として、色を失ったようだった。髷が切られてざんばら髪になった石松、相手に斬りつけているのに、まるで相手を見ていないの。どこか宙空を、でもひどくまっすぐに見つめている。両目が開いている。まるで鈴を張ったような、美しい中村錦之助の両目が開くと、それまでも充分美青年だったけれど、ハッとするほど、この世のものとも思えないほどの美貌になる。
彼の脳裏になのか、嫁入りの行進が浮かぶ。あれは彼の妄想なのかと思ったが、後に解説など見ると、鎌太郎が迎え入れた夕顔の行進、ということなのか。開くはずのない両目で、彼はそれを受け止めているのか。なんてこと!!★★★★★
でも昨今の、20代後半の俳優が高校生を演じるような訳には、本作はいかないのだと思う。
やはりリアルな、その年代の、大学生なら大学生の年齢の、大人ぶってるけどやっぱり全然、社会経験もなくて、他人をもてあそぶことに快感を覚えているようでそれが自分自身に返ってくるなんて思いもしないような、綱渡りのような危うさ。
これは今の年齢の虹郎君にしか出来ないのだと思う。彼の持っているすさまじいオーラは、松田龍平が出てきた時の衝撃以来のものを思わせる。芝居が上手いとか、イケメンだとか、そんな枠にとらわれない危うさであり、今までの作品でもその魅力は充分に発揮されていたとは思うが、でも高校生だった、やはり、今までは。
大学生の役は、初めてだよね?少なくとも私は初めて見た。一人暮らしして、友達のヤリてーって話にテキトーに付き合って、合コンで興味のない女と簡単に寝ちゃう。なんていうか……こっちが気恥ずかしくなるほどの、ある意味での自信満々さ。
私は女子だから、だったらこの女子側がどういう風に思っているかとか考えちゃうと、男子の、何も知らないのに女子を下に見ている幼さに、ハラハラしてしまう。いや、これはそういう物語ではないのだけれど。
虹郎君演じるトオルは銃を拾うんである。雨の降りしきる、画面には映らなかったと思うけど、血まみれの死体のそばに落ちていた銃。映らなかった?……最後のクライマックスまでずっとモノクロなので、時々何が映っているのか判らなくなる(爆)。いや……それは決して私がバカなだけではないと思うのだけど(爆爆)。
例えば中盤、恐らく隣の虐待されている子供がそのはけ口を向けた瀕死の猫の感じとかさ、カラーでリアルに映したら、そうじゃないことが判っちゃうもん(わざわざラストクレジット後に、一切動物虐待おこなってないと記さなくたって、今の時代、それぐらい判るし)。
銃を拾い、その冷たく光る銀の小さな殺人器具に彼は魅了される。手の中にすんなりと納まり、美しい。まるで子供が宝箱に秘密のオモチャをしまうように、ちょっとイイ感じの空き箱に布を敷いて、彼はその銃を収める。
そして、取り出しては眺める。きちんと磨くための布を買ってきて磨いては、眺める。鏡の前で銃を構えてみる。
安っぽいコーポラス的な集合住宅だから壁が薄く、隣の部屋からは、虐待している母親に泣き叫ぶ子供の声が聞こえてくる。死んだ方がいい人間がいる、と彼は次第に思ってくる。
それには彼自身、捨てられた記憶があるからでもある。唐突に挟まれる、施設に連れてこられた記憶、さっさと踵を返した母親はウェーブのかかった髪が美しい、そう、美しい女だった。捨てられたのに、ヒドい目にあったのに、もしかしたら彼は、マザコンだったのかもしれないと思う。
いや、私はね、虐待を受けても子供はお母さんのことが大好きなんだとか言いたがる、善人ぶった評論家な意見が大嫌いなのだ。嫌いな筈、憎んでいる筈。まるでそれをやっちゃいけないみたいな。ヘンね、私は幸福な家庭に育ってそんな目にも遭ってないのに(爆)。
トオルの描写は、どうかなぁ、どっちとも言えない気がしたが、隣の虐待母親が、寸詰まりのダルダルのカッコした、決して美しいとは言えない女だったから、なんか妙に、対比させている気がしたのだ。
て、て!!その“決して美しいとは言えない女”がまさかのガキさん!!うっそ、全然気づかなかった!!!ラストクレジットで彼女の名前を見て、え、え、まさかと思ったら、本当にあの母親役!!女優!!!!
あんなに可愛い子なのにー、ビックリ!今回はなんでこの抜擢なの??ちょっとこれから映画界で活躍するかもなのが楽しみなんですけど!!
……かつてのモーオタなのでちょっと興奮してしまいました……。ところでね、うっかり拾ってしまった銃を偏愛し、狂気にとらわれ、身を滅ぼしていく、っていうのは、銃が身近じゃないからこそ成立する話なんだよね、とやっぱり思っちゃうんだよね。
本作は、いい意味でリアリティからは薄れている。いや、とてもヴィヴィッドで、生々しくはあるんだけれど、銃に魅せられる、というのは、いい意味で、男の子の夢の形、のように思う。
ただそれが、チャンバラごっこに無邪気に興じるのと明らかに違うのは、その一発で人が死んでしまう、つまり一対ゼロの、虚無的な凶器だからなのだと思う。それが今一人、大人になった気分で一人暮らしをしているトオルにマッチしてしまう。
これは銃が普通に所持され、それがリアルに社会問題を引き起こしちゃう国においては決して成立しない世界感である。つまり、平和だから、成立しちゃう萌え感たっぷりの偏愛世界。
しかもトオルにはめんどくさいバックグラウンドがある。先述したように親に捨てられ、施設で育った。ただしその後、養子にもらわれ、どうやらその義理の両親たちはいい人らしく、だから今、大学生活をラフに謳歌しているのだ。
やたら女とヤリたがるくだんの友人に聞こえよがしに、“本当の父親が危篤”の連絡を聞かせてやるあたり、それまでのクールなトオルを見るにつけ、一体大人なんだか子供なんだか判らなくなる。
ていうか、今の“育ての両親”にはそつなく受け答えはしているが、実際はどう思っているのか。
実の父親の危篤の病室に会いに行くけれど、それもちっとも浪花節じゃなくて、何か仕掛けてやる気マンマンで、でも結局、その死の匂いに若干の恐怖と何より嫌悪感をあらわにして、手についたゴミを振り落とすように、過去を振り落とすように、彼は許しを請う実父に背を向けて去って行ってしまうのだ。
これが母親だったなら。彼が捨てられたと思っているのは恐らく、母親の方であり、それが過去回想に如実に表れている。産むという避けようのない事実により、親であることから逃げられない母親が、圧倒的にこうした場合の“ヒドい親”から逃れられないことを、フェミニズム野郎の私はやはり思わずにはいられない。
だからこその対比なのだと。一見してクールなフィルムノワールのように見えて、トオルの生活に、人生に、影響を与えるのは、ただただ女ばかりなり、なのだ。実際の母親、隣の若い母親、セフレだと思って気楽に付き合っている女、そして……自分が手玉に取っていると思っていた、大学の同級生のユウコ。
広瀬アリス、である。虹郎君に相対すると、その肉感的なザ・女が、むしろ虹郎君は太刀打ちできないと思っちゃう。最初から、勝負はついていたのだ。なのに虹郎君、いやさトオルは、ユウコを時間をかけてじらして、大切に思っているように思いこませて、付き合うまでもっていかせるゲームなんだと、楽し気にモノローグする。
でもそれは、悪友のケイスケが指摘するように、ただ単にホレてるだけではないのか。セフレ女とのバランスを器用にとっているんだと自分自身に納得させているようなトオルに、段々そのヤバさに気づいてくる。
そして、刑事がやってくる。その唐突感といい、それでなくても何となく現実味がなかった本作が、リアルなのかどうか、判らなくなってくる。だってその刑事が、リリー氏なんだもの。リアルそうで、妙にウソくさい。そんな人物を軽―く演じられるのは、彼しかいないと思う。
実際、本当に本当だったのか。そもそもトオルの妄想と現実が、彼自身の自意識によってスイッチしたりオフになったりという構成だから、判らなくなる。
リリー氏の登場から、途端にトオルは理性を失い始めるしさ……まるで、催眠術にかかったみたいだ。それまでは、確かに狂気を帯びつつはあったけど、“持ち歩いてみることによるスリリング”なんて、まだまだギリギリ、男の子っぽい夢想、と押し切ることも、できなくはなかったのに。
自分の分身、いや、銃なんて、よく言われるように、男性自身のような、エゴイスティックでエロティックで、……そして何よりミジメなものに過ぎないんだ。
ひん死の猫を、助けてやるんだと言い訳してぶっ放す。思いもよらない反動の大きさもあって興奮して深夜の街中を駆ける。義理の両親に送ろうとしたプレゼントが店員の不注意で壊されても怒りもしなかった彼が、興奮した笑顔で疾走していたから、留学生と思しきバイト青年がその姿を見とがめて、覚えちゃってたんである。
刑事に追い詰められる。なのに。この刑事はすべてを知っているようなのに、強引に物証を探し求めたりしない。トオルが拒否すると大人しく部屋にも入らないのだ。一体一体、本当にこの刑事は存在していたのか。トオルが思い込んでいた妄想ではなかったのか??
支配下に置いていたと思い込んでいたセフレ女から拒否され、ユウコもまるで憐れみを与えるような顔で、何かあったのね、と言う。表面上はトオルはクールでデキた男を演じ続けているが、それだって現実かどうか。
電車に乗る。きわめて非常識な男が、乗り込んでくる。携帯で声高に喋るその男の挑発を冷静に受け止めたつもりで……結局は乗ってしまって、ぶっ放す。
急にカラーになる。おびただしい生々しい血の色、逃げ惑う乗客。トオルは取り乱して、呆然として、自殺しようとしたのに銃弾が残ってなくて、相手の流血の中に落っこちたのを見つけて、慌てて拾おうとして、失敗して……カラー、カラー、カラー!!目にまぶしい日の光。そして彼は、彼は……!?
人を殺すものなのに、銃で人を殺したら犯罪になるんですねとトオルは言った。思わずうなずきかけてしまう、気がした。それが怖かった。★★★☆☆
3人の中年女のかしまし井戸端会議から始まり、それがある意味物語の主軸になっている。このかしまし井戸端会議がとにかくサイコーである。「この着物、地味かしら」「これで地味って、あんたいくつのつもりよ」てな応酬からその遠慮のなさがあらわになる。
「ちょっとお腹がすいちゃったわ。ビスケット?何それ。うな丼?丼はダメよ。お重がいいわね。足りなかったらビスケット食べるわ。」ず、ずうずうしー!
「しわが出来るからね、こうやって笑うの」ほほほほほ、と真顔で口に手を当てるマダム千代子が最高!この三人の中では一番のコメディエンヌ、飯田潮子の表情七変化に抱腹絶倒である。ほほほて!その後うっかり笑顔になるも、あ、いけないいけないと目じりのしわを伸ばすようにしてほほほと笑う彼女に噴き出してしまう。
そもそも中年女なぞと言ってしまったが、外に小学生の息子を待たせているマダム千代子だから、そんな年という訳じゃない筈なのよね。
そして彼女を招いているこの家の女主人、時子に関しては大学教授の夫との間にはどうやら子供はいない様子。この時子を演じるのが栗島すみ子で、これが引退作品だという。お名前は知っているけれど、あまりガッツリ見た記憶がない。
神経質そうなメガネをかけて、かかあ天下とはこれぞとばかり、弱腰の夫にガミガミ言うおかみさん。イメージとしては細面で清楚でちょっと病弱っぽいような、守ってあげたくなる銀幕スターな感じだったから、これもちょっと意外だったなあ。
この大学教授、ドクトル小宮を演じる斎藤達雄。うーん、ダンディ。えーっ、私この人、知らなーい!いや、きっと観たことはきっときっとあるに違いないのだが……。
登場シーンは電話を受けながら顕微鏡を覗いて「うん、今見てる。いやこれは子供は出来んよ」なぞという台詞が凄く気になる。結局この夫婦の間には子供はいないし、最後の最後、マダム千代子がどうやらこのお年での懐妊を果たしたことを女友達にニヤニヤ顔で(爆笑!)報告したりもするし、そしてそれに感化されたのか、ラストシーンは時子が夫にちょっとモーションかけたりもするし、うーん、これは誰の検査結果を言っていたのか、気になる気になるー!!
でもつまり、そんなことも気になるお年頃、なんである。勿論古い映画だし、男と女の立ち位置や価値観も今とは全然違うんだけれど、時々、ビビッと共感できちゃうところがある。
それをバッサリと切り開くのが、大阪から遊びに来ている小宮の姪の節子である。演じる桑野通子の、ガサツな男気質でありながらさっそうとしたスタイルの良さと洗練されたファッションセンス、何よりガンガン食ってかかる大阪弁の威勢の良さが最高!
ソフト帽を片目を隠す形であみだにかぶったりしてさ、それで強い酒をクーッ!とあけちゃう、おじさんに無理くり案内させて、東京の芸者遊びを満喫。すっかり腰が引けたおじさんは、部屋の隅で体育座り(爆笑!)。当然、神経質な妻、時子からこの奔放な姪っ子は叱責されるのだが、本人は平気の平左、その飛び火は妻にヒミツを持ってしまった夫に降りかかってしまうのだが……。
大したヒミツじゃないのよ。土曜日はいつもゴルフ、妻はそう思ってるから、ぐずぐずしている夫を急き立てるように追い払う。つまりは自分が夫を追い出して、あの友達二人と芝居見物に行きたいからなんである。
その芝居小屋で「あら、あれ、ちょっとイイ男ね」「知らないの?大船の上原じゃないの」上原謙ー!!!キャストクレジットで名前は出てきていたけど、顔もロクに映らないこんなチョイゲスト出演て!!豪華すぎる!!!
その間、夫の小宮はゴルフには行きたくないもんだから、大学の助手の岡田のところにゴルフバッグを預けに行っている。この岡田というのが佐野周二。後に酔いつぶれた節子を送って行って時子から誤解を受けて迷惑千万となるカワイソーなヤツなのだが、だからといって節子とアッサリと恋仲になる訳じゃないあたりが粋なんである。
劇中ではそこまで節子とかかわりがある訳じゃない。どちらかといえば、あのかしましオバチャン三人組との関り。マダム千代子の息子の家庭教師を任されるんである。
そうそう、息子から硬貨の枚数と金額から割り出す算術の問題を聞かれて、「ねぇ、これあんた解ける?」「ダメよ、がまぐち出しちゃ」「こんなの、中学の試験じゃ出ないわよ」などとやりとりするオバチャンたちが、もう最高!
大学の助手ということで岡田に家庭教師のクチが回ってくるも、結局岡田もこのオバチャンたちと五十歩百歩で、遊びに来た友達(突貫小僧♪)がむじゃきな口吻でスラスラ解いちゃうのに岡田がアゼンとするのがまたサイコーなんである。
「お兄さん、中学出てるの?大学?じゃあいいや、僕たちも大学行けるね」いやいやいや!!……でも日本の教育システムって、結局こういう結果を産むのかも……結局……。
ゴルフ場から出したハガキに上天気です、と書いてしまった小宮、岡田のところに泊まって翌日は雨、雨どころか本降り、ザーザー降り。すっかり困った小宮は、朝帰りで時子からすっかり叱られてしまった節子を取り込んで、とりなす代わりにそのハガキが届いたら妻の目に触れる前に回収してほしい、と依頼する。
この時の、時子の見ている時だけこんこんと節子を叱責する猿芝居がサイコーに可笑しい!しかも節子はあっさり、「凄い速さやわ。ハガキ、見られてしもうた」とケロリである。
一緒に行った友達の夫が雨ですっかり風邪を引いていることを知った時子は、これはどういうことなのかと激昂も激昂、節子は「お客様が帰られますよ」とウソをついて、そのすきにおじ様を連れ出しちゃう。
時子が友達たちに「もう帰っちゃうの??もっといてよ」と懇願するのを聞いて、どうやら何かを察知したらしい友達二人が顔を見合わせ、うな重をタカるつもりだったのに大人しく帰っちゃうのには思わず噴き出す!!こういう小さなあれこれがほんっとうに効いているんだよなあ!!
節子は怒るのね。私は姪だから判るけれど、おじ様は旦那様でしょう、と。ガツンと言ってやらなきゃダメよと。これほどまでにさっそうとしたマニッシュな節子でも、やはりこのあたりは時代かなとも思うが、彼女の言うべきところは、男女対等であるべき、ということなのかもしれない。
おじ様はすっかり妻の尻に敷かれている様が、だから歯がゆいのだろう。決して、男の方が強くあるべき、という訳じゃなくって。
その姪っ子に感化されたのか、ガミガミ噛みつく奥さんに一発平手打ちをくらわしちゃう小宮!えー!!マジで!!すっごく驚いたが、その一発で、あれだけうるさかった時子が黙っちゃう。てか、乙女になっちゃう。その後は、節子のとりなしの猿芝居(爆)がなくったって、恐らくこの二人はさらりと仲直りしたであろう。
しおらしくなった奥さんの姿を思い出して、ニヤニヤしまくる小宮のあの顔!!可笑しすぎる!!「なに、おじさん、その顔」と節子が呆れて突っ込むのを待たずしてもさ、結局この旦那さんはうるさいおかみさんの尻に敷かれているのはそうだとしても、愛しているんだよね。それが判るから……キュンとくるの!!
あっさり仲直りしちゃったおじさんに憤慨する姪っ子に「これは逆手だよ。女の人には花を持たせなくてはいけない。男を押さえつけているという風に思わせる方がいいんだ。せっちゃんにはまだ判らないだろうけれどね」と、その言い様は論理的ではあるが、要に可愛くなった奥さんにすっかり骨抜きにされちゃったことが判るニンマリぶりで、もう、なんか、嬉しくなっちゃうんである!!
節子は感心して、「なるほど、逆手ね。うちもそれ使うわ」とアッサリ引き下がるが、彼女の受け取り方はおじさんのそれとは全然違うに違いない。節子は新時代を生きていくたくましい新女性。その“逆手”をどんな風に使うかを、見てみたいものである。
ラストは、先述したけれどホホホのマダムが女友達たちに思いがけぬ懐妊を耳打ちし、節子はいつも弱腰だった夫から一発殴られたことを頬が上気した様子で打ち明けてもうすっかり乙女だし、一人未亡人の光子は浮かれてネクタイなぞ選んでいる女友達二人をやや呆れ顔で眺めてはいるが、もう本当に、もうなんだか、楽しそうである。
そして大阪に帰る節子は岡田と楽し気に談笑している。またすぐに来るわ、と。しょっちゅう、来るだろうなー。
節子がいなくなってだだっ広い家に夫婦二人、なんだか寂しくなっちゃったな、まだすぐに来ますよ、それがいいな、と話し合う夫婦は、特に時子は、あれだけ奔放な姪っ子を毛嫌いしていたのにウソみたい。
夫が読んでいる新聞をすらりと取り上げて、「珈琲でも入れましょうか」膝に手を置く!!お手伝いさんは、もう休んでる!!!照明をぱちり、ぱちりと落として、その中を夫がうろうろ、コーヒーを運んでくる妻がふと隠れて……キャー!!何何、このつつましやかな色っぽさ!!可愛いし!最高に好きだなあ!!
★★★★★
でも、それを知ったのは映画を観た後なのだし、多分にファンタジックな色合いもあるのだから、あくまで下敷きにされた物語だということなのだろうけれど。
だって、なのだとしたら、監督さん自身を投影されたと思しきヒロインの片方、ミユリは結果的にはひどく残酷な仕打ちを親友にしてしまうのだもの。でもその親友、紬こそがファンタジックな色合いを帯びた存在なのだけれど。
紬、蚕。養蚕の町。監督自身が群馬高崎の出身だというのだから、自身を投影している以上に、大きな思い入れを感じずにはいられない。そして蚕というはかない生き物が、あんな美しい絹を生みだす生き物が、人に忌み嫌われるような芋虫状で、そして人間のために働き続けた後は、静かに繭の中で眠っている間にぐつぐつゆでられて、死んでしまう。
「虫には痛点がないんだ。その必要がないから」短い生。痛さに対応するだけの意味も時間もないからだというのは、あくまで人間がつけた理屈に過ぎない。
でも、それこそ初めて知るこの事実は、少なからず観客に動揺にも似た強い印象を与える。だって片方の主人公はその名前がそのまま紬。孤独なミユリが唯一の友達としてひそかに飼っていた蚕の幼虫が、いじめっこたちに投げ捨てられた直後に、彼女がつけたその名前のままに、転校生として現れたのだ。
転校生。もうこれは古今東西、いや、日本だけかもしれないが、もうザワザワなんである。もうそれだけで、ファンタジー、未知との遭遇、宇宙人ぐらいの勢い。未来人、それは時をかける少女だったか。
人間関係に折れて場面緘黙症になってしまったというのが、監督さん自身の14歳の過去である。それがこんな風にイジメを受けたせいかどうかまでは明言してはいないものの、いつだってイジメの描写は見るのがつらいんである。
てゆーか、なんか最近、ティーンエイジャーものは、それが当然、なきゃおかしいぐらいに入れ込んでくるので、若干絶望的な気持ちになったりもする。クラス内格差ぐらいは当然あるにしても、イジメがないクラスなり学校はまるでないぐらいの勢いで、当然のごとく入れ込まれてくるんだもの。
ただ、ミユリは、紬の登場によって見事にそこから脱出することができるんである。立ち枯れた林の中に連れ込まれて、カバンの中身をぶちまけられて、小突かれ、スカートをチューリップ結びにされる、そんなイジメの日々。
ちょっと、幼稚な感じもする。持ち物をやーいやーいととり上げて、スカートをめくって、だなんて、それこそ幼稚園児みたいな。なんかそんなこと言うと、物足りないみたいに言ってるみたいだけど、違う違う(爆)。
ただね、ミユリはあっさりとそこから脱出するんだもの。紬がまさに、助け出した。ミステリアスな転校生はそれだけでクラスの注目を浴びる。
紬はいわゆるスターグループを選ばなかった。つまり、ミユリをいじめていたメンメンだ。第二、いや、第三グループかなという感じの、庶民的な好感のある女子グループ、
そこにミユリも招き入れられる。しかも紬によってポニーテイルに仕立て上げられただけで、やぼったかったミユリは一気に可愛らしい女子になっちゃうんである。そのことが大きなきっかけとなって、一気に平和、どころか輝かしい高校生活が開けるんである。
……なんというか、皮肉というか。なんだろう。ミユリ自身は、そこで自分を発揮できているのかな。彼女が本当に見せたい自分は、ポニーテイルにして色付きリップを塗って、カワイイ!と言われることなのかな。判らない。
ただ、紬は、橋渡しをした紬は、彼女こそが“東京から来た転校生”としてもてはやされていた筈なのに、次第に遠巻きにクラスメイトたちを見ているような感じになる。
そしてこれは本当に不思議なんだけれど……ミユリが一つのグループに受け入れられた途端に、あれだけイジメ倒していたトップグループはミユリに手を出せなくなる。手を出せなくなるというか……アッサリとそういう描写がなくなるんである。つまり、それほどの執着がなかったということなのか。
ただ……そのいじめっ子グループに、どうやらミユリと過去には仲が良かったらしい、しかもトップの中のトップ、といった雰囲気の女の子がいて、ミユリにとっては恩人の紬のことをしんねりとミユリに進言したり、するんである。
こういう図式は、特に近年、ちらほらと見かける。いじめている中に、かつての友達、どころか親友がいるという図式。ミユリもまた、似たような図式で紬を陥れることになることを思うと、愛憎と簡単に言えないこの少女の季節の図式に、ゾッとするものを感じるんである。
結果的にミユリは、美少女だったしさ。抜け出せる要素は充分にあった。家庭環境は微妙な感じがしたけれど……。たった一人出てくるのが母親で、てんこ盛りにしたコロッケを取り分けてくれる……まではいいが、ソースまでかけて渡す。なんでか、この描写にザワザワとしたものを感じた。
味付けってさ、もうこの年になれば、てゆーか、子供の頃から、既にもう個々人の好みがあるもんで、ソースをかけられて出されるなんて、小学生だってないんじゃないかと思っちゃう。それを黙って受け取るミユリ、そして母親との対峙しか出てこないことに、なんだかひどく閉塞した異常性を感じたんだよね。
だから、紬の方にそれを受け取れなかった自分に、そうか、そりゃあるよ、そういう対照ということなんだ!!と結末を示されてから地団駄を踏む思いがしたのだ。
紬の方は、父親しか出てこない。こっちは判りやすく仲良さげ。判りやすく仲良さげ、というのが、そうじゃないミユリの方との対照で、それこそ怪しげだったということに、なぜ気づかなかったのか。
オチバレで言っちゃうけれども、紬は父親に性的虐待をされ、ミユリにも裏切られ、自ら栄養を取ることすら拒否して、餓死してしまった。人間のために糸を吐いて吐いて、ゆでられる蚕に、過剰反応をしていた紬を思い出した。
本当に彼女は、蚕の分身だったのではないか。ミユリがいじめっ子たちに投げ捨てられてしまった、あの蚕だったんではないのか。
蚕のことを生徒たち、そして観客たちに説明よろしく授業で教える若い男性教師が、しかしなかなかに危ない存在なんである。松澤匠。そこここで見かける若き売れっ子バイプレーヤーだが、こんなに、ちょっと女子がドキドキするような役はあったかなぁ、などと失礼なことを思ったりする(爆)。
高校の若い男子教師、というのは、ハードルが下がるというか(爆)、いつの時代もときめくものである(爆)。しかも理系で白衣なんか着られた日にゃ(照)。
虫には痛点がないことを、ミユリは紬から教えられた。しかしそれを、この男性教師から聞かされた時、ミユリは恐らく、いや絶対に、ハッキリと、紬への嫉妬を感じたに違いないのだ。
この好ましい男性教師に、自分より先に親密な関係を抱いていたこと。それは決して、ヤボな、エロいことじゃない。ただ単に、「そういうことを言ったのは君が初めてだな。……いや、もう一人いたか」つまり、先を越されたのだ。ただ一人の親友に。
紬とミユリは沖縄旅行を計画していた。言い出しっぺはミユリだったけれど、その時にはそれこそ、紬へのそんな複雑な思いは抱いていなかった。紬が外側へ後退してく中で、ミユリは友人たちとの親密度を深め、まるで偶然に、夏休みの沖縄旅行という話題が持ち上がる。
紬との約束があるから、しかもそれはナイショの話だから、ミユリは冷や汗かいてその話を回避するけれども、正直その時には既に、二人の間にも、そして紬とこの高校生活、高校社会の間にも、完全に溝が産まれていた。
試験をサボって、沖縄旅行に行こうと、紬は計画を立ててミユリをいざなった。もうこの時から、ヤバイ感じはしていた。絶対に、二人で青い透き通る海ではしゃぐ場面なんか、訪れないという確信があった。
でもそれがこんな形で訪れるとは思わなかった。途中までちゃんと列車に乗って行ったのに、乗り換えのところで、い眠ってしまった紬を置き去りにして、ミユリは帰ってきてしまったのだ。しかも紬は行方不明者として強引に保護されてしまう。なんという、なんという絶望!!!
それっきり、である。ミユリが東京への大学進学にまい進し、見事それを達成してこの小さな町から出て行くその日、かつてのいじめっ子、過去は親友だったかもしれない女の子が、ホームにたたずむミユリにひっそりと近づく。
「あの子、死んだよ。餓死だって。」父親に性的虐待を受けていたことも、観客にはこの時初めて知らされるけれど、果たして、ミユリは、本当は知っていたんじゃないのか。
自分は紬に助けてもらったのに。紬は本当に、あの蚕の分身だったのだとしたら、助けてもらって、箱の中で大事に飼っていた筈のミユリに、二度までも、投げ捨てられてしまったということなのか。ミユリからの、信頼と友情という“エサ”を与えられずに、彼女は死んでしまったのか。
紬が蚕の分身だというのは、思いっきりファンタジックではあるんだけれど、それを、リストカットの傷口や、……ひょっとしたら虐待の傷口から、まるでテグス糸のようにするすると糸を手繰り寄せる描写が、何度となく示されるもんで、そのファンタジックさと、最終的に彼女が受ける残酷な結末がなかなか難しい乖離で……。そのギャップもまた、少女の純粋さと残酷さのそれと似た、魅力ではあるのだけれど。
二人とも素敵な美少女だったけれど、個人的好みではそばかずの散った、ちょっと目の離れたファニーな美少女、紬役のモトーラ世理奈嬢の不思議な魅力になんとも言えず心惹かれた。★★★☆☆
「愛の渦」を撮ってしまったら、もうこの監督には怖いものはなかろうと思われる。
あの時は門脇麦嬢と心中するつもりで、という言葉が出るほどの覚悟を感じたが(勿論それだけ彼女に惚れ込んだということだろうが)、それを経ると本作は、原作が持つメッセージを正しく伝え、この内容だからこそ映画でしか出来ないことを誇りをもって構築しているような、そんな冷静さを感じる。
正直にいうと、どんなに生々しくてもいくらでもカットで逃げることができる映画よりも、ヤハリ舞台の方がずっとセンセーショナルだっただろうという嫉妬にも似た気持ちを感じはするのだが。
映画がその一度きりの芝居であるのに対し、勿論だからこその奇跡なのだが、何度も繰り返される舞台において裸の役者同士が疑似とはいえ性愛でぶつかり合うというセンセーショナルには、どんなエロ映画も勝てないだろうという嫉妬。
タイトルは娼年=少年をもじってはいるけれど、トーリ君演じる主人公のリョウは大学生、少年というより青年という年頃である。
実際、彼もショウフという言葉を自らに使っている。勿論、娼婦、ではなく娼夫、といった字をあてがうのだろうが、やはり頭に浮かぶのは娼婦、という文字とみだらで貶められたイメージである。
彼を心配する健全なる大学の同級生、恵はコールボーイという言葉を使う。なるほど、コールガールの男版か、と思う。実際、それがしっくりとくるほど、日本にはそうしたイメージがないのだと思う。
せいぜいホスト程度。実際、劇中、リョウの中学時代の同級生としてホストの男の子が出てくる。やってることはさして変わらないと思うのだが、彼もまたリョウの仕事を知って口をゆがめて非難するんである。「お前は、昼の仕事が出来るやつなんだ。俺とは違うんだよ」と。
ホストの仕事とさして変わらない、などと言ったら、それこそリョウに怒られるだろうか。リョウは結果的には娼夫という仕事の中に、女性という海の広さを見、それを受け止められる技量を磨き、自分自身も成長し、セックス(のみならず、だけれど。挿入がセックスということならば)が人に与える素晴らしさを知る。
人からは汚い仕事、と言われても、そうではないと上手く説明することが出来なくても、彼はその素晴らしさを知ってしまった。愛ではないセックスにも、ある意味での愛があると。でもそれを、“健全な人間”たちは、汚いこと、と顔をしかめる。
そもそもリョウ自体が、セックスは手順を踏む面倒な運動だと言うような男の子だった。有名大学の学生とヤレたんだ、やった!と無邪気に喜ぶ女の子を冷ややかに見つめる彼にとって、セックスは排泄行為のようなものだったのかもしれない。
ヤッていたのだから、殊更拒否していた訳ではないのだろう、溜まっていたものを出す、そういう意味では性欲はあったのだろう。でも満たされなかった。
様々な女性が出てくる。等しく、リョウよりもずっと年上である。大体、40代近辺をうろうろ、といったところである。一人、江波杏子扮する上品な老女がいるが、それは、どんな年齢の女性でもそうした欲求があるという特別枠のようにも感じる。
40代近辺をうろうろ、私もその年代だから……なんつーか、色んな意味でドキドキしてしまう。判る、とか共感する、とダイレクトに言ってしまうのもハズかしいというか(爆)。
ただまぁ、なんだかんだとキレイめの女優さんばかりなので、まぁこういう高級クラブを使えるっていうのはそれなりに身なりに気を使えるだけの金銭的余裕のある女性たちということなんだろうが、個人的な希望を言えば、えっ??と思っちゃうような女性も出してきてほしかったとは、思っちゃう。
普通の女の人、で驚くんじゃ普通以下の女は救われないのだ。なんつーかさ、あき竹城みたいなさ(あきさん、ゴメン!)、そういう女性さえも包容力のある知的なリョウ君が受け入れてくれたら、そんな描写があったら、もう本当にドキドキしたんだけどなあ。
セックスで満たされる女性ばかりじゃない。子供の頃のトラウマ的経験で、男性の前でたまりにたまった尿意を放出することで絶頂を迎える、という女性も登場する。
こういうことを、性癖、と言うべきではないんだろうと思う。性癖という言葉はカンタンに使われてしまうけれど、これ以上なく軽蔑的な言葉だ。彼女はそれを受け入れてくれる男性を求めていて、それこそがセックスなのであり、セックスがイコール挿入ということではないという、象徴的なエピソードなんである。
とはいえ、それを演じるのが馬渕英里何、ギリまでエロ出来るのに、おっぱいは絶対出せない、やっぱホリプロだから??というミョーな見方をしたくなる(爆)。
こういう作品では、ヤハリ脱げるか脱げないかが重要になってくる。男優の場合はほとんどそれは問題ないというか、それでもカラミが出来ない、つまりお尻も出せない男優はごまんといるが、それは自分のイメージなんですかね。まぁ確かにピストン運動しているトーリ君のお尻の筋肉の動きにはキュンと来たが(爆)。
でもなんでおっぱい出すことがそんなにも、いまだに、女優にとってのハードルになっているんだろう……日本はいまだに凄く保守的で、おっぱい出しただけで大騒ぎ、もうそういうのはなくしたい。
ところで、珍しく原作を読んでいたと言いつつ、ハッキリと覚えているのはリョウ君にひそかにホレているだろうことがバレバレの、めっちゃ健全な同級生、恵ちゃんがリョウ君の客として現れるクライマックスだけなんであった。
汚い仕事、と蔑みながらつまりは激しく嫉妬していた恵ちゃんが、プロとしてのリョウ君の、イカせ続けるテクに完敗して、「リョウ君は、別の世界の人なんだね」という台詞は、原作でもあった記憶があった。覚えているシークエンスがそれだけだったせいか、そこに妙に期待していた感じがあった。
自分のイメージを膨らませていたせいだったと思うんだけれど、原作よりもずっとずっと、リョウ君は恵ちゃんに対して優しかったような気がした。もっと冷徹に、冷酷に、娼夫としてのテクニックで彼女を打ちのめさせることをどこかで期待していた、ってのは、私が純粋な女の子がそうなるのを見たいという、S的な欲望があったからなのだろーか(爆)。
しかし潮吹きというのは映像的パフォーマンスとしてはインパクトあるけど、ホントに気持ちいいのかね、いやその(汗)。本作が、性的嗜好、エクスタシーの個人的差異を描いていながら、なんかアッサリ指突っ込んでガシャガシャやるような、これ、よく見るけど好きな人あんまりいないんじゃないのかなーっていう個人的な思いを描いていたヤツだったんで、まぁ、個人的意見ですけど(恥)。
男と女は友達にはなれないという説がある。かなり信ぴょう性のある形で、横行している。お友達です、というのは付き合っているということなのだという、ベタな芸能ニュースのような。でも私はそうとは思わないし、本作もそう言っていると思う。
リョウ君にとって恵ちゃんは友達だった。リョウ君のバイト先のバーに講義のノートを届けてくれる彼女。恵ちゃんの気持ちは当然知っていたに違いない。それでも友達以上になれなかった。いや、その言い方は正しくない。それでは、友達は恋人の下ということになってしまう。正しく、彼女は友達だったのだ。
恵とは出来ない、というのは、友達にしかなれないのではなく、友達だからなのだ。でもそういう場合、大抵逆の片方は恋をしている。なんとまぁ、めんどくさいのだ。
だから、恵ちゃんが、ある意味リョウ君を正そうとして、彼の仕事場に踊り込んでいってしまった時、その大事な貴重な宝石のような友達の資格を彼女は自ら放棄してしまったのだ。ゴミ箱に投げ入れてしまったのだ。
彼女の言うとおり、仕事としてのセックスを見出した彼のことが理解できない彼女は、違う世界の人として認識するしかないのだろう。でも彼に恋をしていなければ、友達ならば、それを理解し受け入れることが出来たかもしれないのだ。
違う世界、っていうのは、誰もが違う世界の筈なのに、それを嘆くのは、自分だけのものにしたいという、傲慢の気持ちがあるからなのだ……。
リョウ君は、自分をスカウトしてくれたクラブのオーナーに恋をする。子供の頃から大人の女の人にこそ彼は性的嗜好があったから。
彼もまた、彼の客と同じように、言えない欲求を抱えていたということなんである。しかし彼女はエイズキャリアで彼の欲求に応えられない。
彼女の娘である咲良が印象的である。クラブ所属のテスト相手として登場した彼女は、見た目はまるで中学生かと思うほどの、化粧っ気のない、伸ばしっぱなしの黒髪の、幼い容姿。脱いだって、ぽんよりとした身体つきで、これでトーリ君とセックスするんだ……と、ヘンな親心みたいな気持ちでハラハラするぐらい。
ろう者である彼女が母親に通訳をしてもらいながら寡黙な手話で(あまり言葉数が少ない感じ)心を必死に伝えようとするのが、グサリグサリとくる。クライマックスは、オーナーとはセックス出来ない、代わりに、って訳じゃないけど、咲良とセックスするかたわらにオーナーがいて、なんかもうイッちゃって、みたいな、映像がクロスオーバーして、車酔いするかのようにクラクラする。
クラブは一度摘発されるも、数年後、復活している。なんか言うヒマなかったけど、リョウ君とトップをあらそう、自傷だらけの東君もまた、その復活の場に残っている。
東君を演じる猪塚君も忘れられない。彼がトーリ君をイカせるシーンは思い出してもゾクゾクとする。なんと挑戦的な映画だっただろうと思う。あのアイドル的イケメン俳優のトーリ君が。
彼はきっと、その殻を破りたかったんだろう。そして見た目以上に芝居に対する欲望と野心があるんだろう。それだけでもとてもワクワクするし、嬉しい。★★★★☆