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最初の晩餐
2019年 127分 日本 カラー
監督:常盤司郎 脚本:常盤司郎
撮影:山本英夫 音楽:山下宏明
出演:染谷将太 戸田恵梨香 窪塚洋介 斉藤由貴 永瀬正敏 森七菜 楽駆 牧純矢 外川燎 池田成志 菅原大吉 カトウシンスケ 玄理 山本浩司 小野塚勇人 奥野瑛太 諏訪太朗
長いこと温めていた企画らしいが、お葬式、思い出の料理、血のつながらない家族、と、まあよくもまあ、名作映画やらヒット要素やらをベタに寄せ集めたわという印象しかない。
お葬式、なんてね、私の私的感覚で言えば、本当に力のある作り手でなければ手を出してはいけない、画になるだけにとっても難しい題材だと、思う訳。デビュー作で手を出して、収集つかなくするなんて言語道断。デビュー作で挑戦して、その力量をはっきりと示したのは、古くは伊丹十三、新しきは西川美和といったところよ。
再婚同士の夫婦、それぞれの連れ子。染谷君演じる、夫側の連れ子、麟太郎が言う。家族ってなんなのだと。それが自分には本当に判らないんだと。それを意味ありげに最後まで繰り返し問うのだけれど、まぁ正直、何も収束しない訳。
別に、ベタに、コレだ!という言葉が欲しい訳じゃないのよ。マズいのは、監督さん自身に、その答えが出てないのに、こんな物語を作っちゃったんじゃないの、という疑心が出てしまうことなのよ。
家族って何?というのは、確かに永遠のテーマである。ハッキリとした答えなんて出っこないことも判ってる。でも、本作では、その言葉を出せば家族の物語としてのシリアス感が出るってだけの台詞振り回しにしか聞こえない。
だって、麟太郎はお父さんのことは大好きだったし、後から来たお母さんのことも、料理とか無邪気にバクバク食べてたし特に確執もなく、新しくできたお兄ちゃんを憧れのように慕ってたじゃない。
そらまぁ、そのシュン兄が何も理由を言わずに家を出て行ったことにこだわりを持っていたにしても、“家族って何?”と逡巡するほどまでには、カメラマンをやっているその写真が「対象に愛情が感じられない」というほどのトラウマまでには、付き合っている彼女の両親にあいさつに行く勢いが持てないとまでは、そんなにまでのトラウマとまでは、ピンとこないのだ。
そりゃさぁ、私はそんな経験をした覚えはないさ。でもこのきょうだいの中では、麟太郎は、すぐ上のお姉ちゃんや、出て行ったお兄ちゃんより、無邪気に愛情を信じて育っていたのに、突然何なのよ、という感じ。
で、すぐ上のお姉ちゃんはわっかりやすく後から来たお母さんに反発するも、魚の小骨のおまじないなんていう子供だましであっさり陥落してしまう。それだけに甘ったれだったのか、シュン兄が出て行ってから崩壊した家族、その秘密を知った時には号泣して母を責めるのだが……。
この秘密を、めっちゃもったいぶってなかなか出してこない。ほんっとに、イライラする。そんなに自信あるネタなのかと、デビュー作の監督さんの心持に、気恥ずかしくなる。
ネタをバラすと、シュン兄が出て行く直前、お母さんが電話を受けて泣き崩れ、一週間ほど出かけてしまう。その理由を、明かさないまま。それは、彼女の元夫の死であった。しかも、彼女はこの元夫と上手いこと別れられず、自殺未遂のまま植物状態が長く続いた、その末の死であったんである。
かなり疑問符が残る。そんなにモメたんなら、離婚自体、成立出来ていたのかと。自殺までしちゃうぐらいなら、離婚したくなかったマックスに違いないのだ。
彼らが語る物語では、うっかり出会って運命感じちゃって、みたいにしか言われなくって、それで彼女の夫がすんなり離婚届に判押してから自殺未遂したとは、ちょっと考えにくいよ。
なんつーか、そういうツメがことごとく、甘い気がして仕方ないのだ。結局さ、自殺未遂まで追い込んだ夫を振り捨てて、再婚した、みたいな甘美な背徳ストーリーに耽溺しちゃってるだけじゃんと、思ってしまう。
んでもって、夫側の元伴侶のことは、何か言っていたっけ??スミマセン、私は記憶力が自信ないんでアレなんだけど、死んだのか、ただ単に別れたのか、言ってた記憶がないような……。
「ママの味噌汁の方が良かった」とまー、昭和な台詞言うわ、っつー、夫の連れ子、美也子の台詞は、単なる子供の反発にしか思えないのは、ぜんっぜん、自分の産みの母親のことをそれ以外、口にすることはないから。
……雑すぎない。夫側の、二人のきょうだいの母親、影もない。美也子が新しい母親への反発心でうっかり口に出しちゃったもんだから、余計にその雑さを浮き彫りにしてしまう。
シュン兄に関しても、かなり疑問が残る。新しい家族が出来た時にもういい年齢だったのだから、自分の本当の父親が、今どういう状態にあるのか、知らないって方が不自然だし、知っていたのなら、なぜそうなったのか、当然、知っているべきである。
そもそも、別れたって子供には親に会う権利があるし、特に父親に対する確執を語る訳でもなかったし、親の親、祖父母側が、こんな状態を許しはしないだろう。
シュンが、自分の本当の父親のこの状態を、成人してから知ってショックを受けて家を出る、というのは、あまりにもムリがありすぎる。その上、……これは、それこそ、そんな経験してないからアレなんだけど、そんなことでいい年した男子がショック受けるなよ……母親を支えろよと思っちゃう。
ところで、これはこんな具合に、幼い子供たちが成人していくまでの、かなり長いスパンを描いていくので、子役から、染谷君、恵梨香嬢、窪塚洋介氏に至るまで、かなり代替わりする。……代替わりさせ過ぎのような気がする。特に、最年長のシュン兄は、最初の登場でもはや中学生かな?という雰囲気なので、次の大学生に雰囲気が全くつながらないのは、かなりキツい。下の二人は、コドモはまだまだ顔も固まっていないからイケるんだけど、シュン兄はなぁ……。
で、最後には窪塚君が待っている訳でしょ。ここの時間軸は三人の役者で動かせないんなら、過去の時間軸、シュン兄がつながらないのは、かなりキツいよ。だって、だって、雰囲気も全然違うんだもん!S王子系美少年から、明朗闊達お兄ちゃん系、つながる訳ないじゃん!!
ところで、永瀬氏演じるお父さんはもともと登山家。しかしこの新しい家族を築くためにきっぱりと辞め、地味で堅気な地元企業に就職した。……そこまでの決意があったなら、子供たちに事情をちゃんと説明しろ、と思うのはヤボなのか……。
子供たちの好き嫌いをなくすために、かなりの偏食なのにキライな魚やキノコを美味しそうに食べていたということが、彼の職場の後輩によって明かされる場面でカンドー出来なければ、話にならない。そういう人間の根本的な嗜好を、子供たちの前で芝居するには相当の苦労がある訳で、それを「すっかり騙されていた」というひと言で終わらせるのは、脚本の役割を軽視しているとしか思えないのだ。
んでもってさ、麟太郎の彼女が、結婚とか両親へのあいさつでなんとなくぎくしゃくしているけれども、お手製のおはぎを持って、訪れるでしょ。「これだよ!日登志さん(お父さんね)が好きだったのは!」……おーい、おーいおーいおーい。これは偶然?いくらなんでも麟太郎の彼女が彼の父親の好物を知っていた訳ないよね??だって麟太郎が知らなかったんだし!
そもそも、麟太郎が結婚やら家族を作ることにやら懐疑的だったし、母親ともこの時初対面、ということは、紹介していた風もない。……そんな偶然、あるかーい!!
いや……そんな偶然もあっていいんだよ。でもそんな偶然があったなら、彼女なり、母親なり、周囲なり、そして何より麟太郎なりが、その偶然に驚かないというのはあまりにも不自然。それはつまり、あまりにも都合よく、キャラ設定を展開に利用しているということが、なぜ判らないのか。
通夜ぶるまいを、仕出し屋を断って、お母ちゃんが自ら作って出す、というのが、この物語の大メインであり、それは「お父さんの遺言」であるという。末期のガンを告げられて、ムチャを承知で一人出かけた冬山登山。そこで書き残した、家族の思い出レシピ。
悪くないアイディアだけれど、“ムチャを承知で出かけた冬山登山”でノートに書きなぐったのが思い出の料理、というのが説得力を持たせられるほどの、物語の展開がなかったことが、最大の問題、なんである。
先述したとおり、家族の問題自体の設定があまりにも雑で、食事シーンをいかにも子供たちの思春期やら反発心を描くようなもったいぶった描き方にしたとしたって、家族間のつながりを感じられないまま、年代の役者のつながりも感じられないまま(爆)展開してきてしまうと、思い出の料理と言われても、まぁそうね、出てきてたね、そういえば、みたいな。
しかもこの、料理の出し方も、これぞやりたかったこと!みたいに、やたら間をおいて、いろんなエピソード挟んで……例えば美也子がウワキした同級生と彼女の夫との騒動やら、やたら仕切りたがる親戚のおっちゃんと麟太郎が取っ組み合いのケンカやら、台風の暴風雨から飼い犬を室内に救い入れたり、ゆくえ知れずだったシュン兄が訪ねてきたりやら……。
まず最初から行くと、美也子の家庭崩壊寸前のエピソードは、これが一番、雑過ぎる。そもそも彼女が自分の結婚生活をどう思っているのかが全然判んないのに、軽い気持ちでウワキした同級生がやってきて不穏な空気になり、美也子は弟やら母親やらに対して自分を正当化しているのかどうかもよく判らないまま、あんたらには判んない!的に当たり散らすので、その時点で、もうどうしていいやら判らない。
のに、である。その時点でもうどうしていいやら判らないのに、美也子は、私はすべてを飲み込んで、寂しかったんだ!!みたいな雰囲気満点に、母親に詰め寄るのだが、いやいや……。フツーに再婚しただけだろ。
なんつーか、美也子が、あるいはシュンもかもしれないけど、ショックを受ける感じが、昭和か……と思っちゃうのは、運命の出会いだの、元夫の自殺未遂だの、そんなベタな要素を入れちゃうんだもん。子供にとってはただ単に、両親の離婚、再婚だけなんじゃないのと思うのは、経験がないからと言われればそれまでだが、でもね、なんか……そこここに時代遅れ感を感じずにはいられない。★★☆☆☆
でも、なんだろう……息詰まる、というよりなんかだんだんタイクツに思えてきちゃうのは、なんでだったんだろう。
ハルレオの二人とローディ(なんていう役割を初めて知った)のシマの三人だけが、ほぼほぼ画面に出ずっぱり、彼らに関わってくる人間が全くいない、というのが、息詰まる、というよりは、この三人だけではなんかもたなくなってくる気がして。
勿論とても魅力ある役者三人だし、実力もあるし、なんだけど、人間ドラマはたった三人ではやっぱり……作り切れない気がする。
勿論、ちょこちょことした脇役は登場するけれど、彼らと本気のかかわりというか、意味ある会話をするキャストが結局は一人もいなかったことに思い至り、……やっぱりそれは、ムリがあったんじゃないかなあという気がする。
ざっくり物語を追うとこんな感じ。ハルがハルレオのすべての原点。作詞も作曲もこなす、彼女がハルレオの世界。レオを誘ったのはバイト先のクリーニング屋で。ピンときた、という感じの雑な誘い方で、観客としてはえーっと思ったが、まぁつまりは、ハルはレオに恋に落ちたということなのだろう。
思いがけずレオはギターも歌も才能を発揮し、路上演奏から始まったデュオは、ライブハウスを満杯にするまでになる。
しかし冒頭でもう、二人はケンアクである。解散を決めた最後の全国ライブハウスツアーに出かけるところから始まるんである。
ローディ兼マネージャーのシマと三人でここまで駆け抜けたハルレオは崩壊寸前。お約束で、時間が何度か巻き戻され、そんな事態に至るまでの経緯が説明されるんである。
何よりも、このハルレオの音楽がさして魅力あるものに思えなかったのが一番、イタかった。見た目はすんごく、魅力ある。なんたって門脇麦と小松菜奈なんだもの。ぶーたれた表情のまままっすぐ前を見て歌う姿も、それが髪型からコスチュームから肩から掛けたアコギまでソックリ相似形だというのがひどく魅力的なのは確かなんである。
だけど、だけどだけどだけど、彼女たちの歌に心震わせられたかといえば……これは、難しい。これはもう、個人的な感覚の問題になっちゃうから、それこそハルレオを熱狂的に支持する劇中のティーンエイジャーたちの心には響いたのかもしれない。ただ……彼女たちの、てゆーかハルの作り出す歌の世界に感極まる女の子たちの造形が、うーむ、昔っぽいつーか、それこそ私ら昭和世代にはあったような、みたいな、ちょっと見ててハズかしいというか、いたたまれない思いがあった。
いや、そらー、いつの時代にも、自分の気持ちを代弁してくれる表現者に対して、恋にも近い憧れの気持ちを持つ、特に年若い女の子というのは存在し、私だってかつてはそういううちの一人だった自覚はあるのだが、このワザとらしさはなんとしたことなのだろう……。
それこそ青臭い言い方だけど、ハルレオの二人が心を通わせないままステージに立ってるのに、観客の心を震わせることがどうしてできるの、などと思う気持がどこかにあるのかもしれない。
いや、判ってる。表面上はケンアクでも、実は心の奥底でつながってて、だから普段はケンアクでも、ろくにリハーサルもしなくても、ステージ上ではピタリと息が合い、観客を熱狂させるのだって。そういう“テイ”であるというのは、判っているんだけれど。
本当に、ついこないだめちゃくちゃ心振るわせられた音楽青春映画「小さな恋のうた」を見ちまってたことが、キビしかった。……こういうのは、ホント感覚の問題だからアレなんだけど、「小さな……」の彼らは、物語の性質上のものもあるだろうけれど、音楽に対する渇望と、夢中と、真剣さがあふれてた。
本作のハルレオは……音楽よりも、二人の崩壊しかけた関係性で物語が進んでいくから、いくら、どんなケンアクでもステージ上では息ピッタリ、素晴らしい名演奏、とか言われても、結局はブータレ顔のままの演奏を、この尺で最初から最後まで通しちゃう訳だし、そらー……音楽をやる喜びなんて、感じられる訳がないよ。
全国ライブハウスツアーを追っていくけれど、毎回三曲ぐらい同じ曲を繰り返し(爆)、しかも二人いるのにユニゾン(爆爆)。
タイトル曲のさよならくちびるはハーモニーを聞かせたけど、それこそ「小さな……」がレパートリーが多く、どの曲も素晴らしく見事な多重ハーモニーを聞かせたから、うーむ、ホントにタイミングが悪かったかなあ。
ハルレオの二人にも、音楽に対する喜びを、感じられるべきというか、そのチャンスはなくはなかった。二人が結成した当初、路上での演奏をしていた頃ならば、その必死さ、夢中さが感じられたはずだった。
でも結局、路上ライブの場面も回想でチラリと振り返られるだけなんだけど、ホームレスさんの存在で自分たちの在り方を振り返るってなだけに過ぎず、結局結局……二人の音楽に対する愛は、私は……感じられなかったんだよなあ。
つまりはこれは、音楽に主軸を置いてなくて、それはもう、言ってしまえば彼女たちを彩るワキ役で、この若き魅力ある役者三人が、スリリングな三角関係を演じる、というところであり、音楽も、ハルレオも、外見の魅力で彩っただけだったのかもしれない。
あー、なんか、イジワルな言い方しちゃうが、でも、その“三角関係”にしたって、さっぱりピンとこなかったんだもの。
今の時代的なこともあるが、ヤハリ簡単に百合的設定を入れてほしくないというのは、まずある。ハルがつまりはレズビアンで、レオのことが好きなんだけど、レズビアン、などと書いてしまうのがハルに対しての描写としては強すぎるというか生々しすぎるというか、つまりハルに感じるのは、まさに、淡い百合的キャラ設定なんだよな、ということなんである。切実じゃない。
一応、想いを伝えられなかったままだった幼なじみの女の子が初恋、みたいなエピソードを、ご丁寧にハルの父親の法事にシマをつきあわせた、なんていう展開で語らせるが、その初恋オンリーないし、いや、オンリーだったということで押すなら、LGBTを少女趣味的ファンタジーとしか見てないと思うし。
……特にね、今の時代、ようやく追いついた今の時代、こういう部分は凄く、厳しく見られると思う。これがそれこそティーンエイジャーならちょっと違ってくるが、もう20代も半ばを超えたセクシュアリティの話なら、当然性的欲求の話は避けられなくなってくる。
レオはなんか男好きのするタイプなのか、それともハルからの想いを受け止められないけどハルのことは憧れているし、一方でハルのことを好きなシマに恋しているし、という状態で、ツアー中も道行く男たちに身をゆだね、ライブにぎりぎりに飛び込んだり、そん時にボコボコに殴られて青たん作ってたりと、問題児な訳。
レオのキャラ設定が本来ならば最も複雑で、キーポイントで、彼女がかき回す存在だったんじゃないかなーと思うし、まさに設定は、設定だけは……魅力的なのだが……。
ハルからの想いに気づいている。そしてシマがハルのことを好きだということにも気づいている。そして自分は、シマが好きである。その板挟みの中で、どーでもいい行きずりの男とトラブルを起こしてる。
ハルからの想いに気づいたのが先なのか、ハルがレズビアンであることに気づいたのが先なのか、そこは結構、気になる。セクシュアリティという点ではなく、レオはクサってた自分に声をかけてくれたハルに対して感謝と、その才能に憧憬の念を抱いているし、そんなハルがどうやら自分のことをそーゆー意味で好きでいてくれているらしい、と気づく。
自分がただ拾われた、クリエイティブな才能がない存在で、ハルに対する憧憬の念より、自分が置いてかれる恐怖の方が大きかったんじゃないかなと思うし、そーゆー描写をわっかりやすく、なんかネット番組みたいなシークエンスで見せたりもするのだが、……これもまた、めっちゃ、ベタな上に、さらーっと、めちゃくちゃ、スルーするよね。
ベタだけど、これってすんごく重要なファクターなのにさ、レオが苦しんでいるのはとっても伝わってくるけど、ハルは……戸惑いの表情を浮かべるだけ、みたいなさ。
才能のある人はそれを持ってない人の気持ちが判らないまま……せめて、その苦しみをレオからぶつけられてギャー!!みたいな場面があったらと思ったけど、それもなし。ああ……セクシュアリティにしても才能の有無にしても、結局ハルとレオはぶつかり合ってないじゃん、と思って……。
だから、ラストに納得がいかないのだ。いやさ、ちょっと予測はついていた。最初から、解散解散と、本当に解散するんだなと、シマから念を押されて、過去回想含めて進んでいくから、こらー、どっかの時点で解散はナシということなんだろうな、とそら読めたさ。
先述したとおり、ずーっとぶーたれた表情のまま3曲程度を大したハモりもなく使いまわし、そーいやー、ラストの函館公演以外はろくに客席のファンの表情も映さず(ラストも大して映してなかったけど)、ハルレオがインディーズのカリスマデュオだなんて、……なかなか厳しいな、と思って。
観客の顔が見えないというのは、本当にキビしい。ハルレオがインディーズの世界でだけど、いやだからこそ、人気があるというのを映しだすのは、ライブでのファンの表情でしか出来ないことなんだもの。
これがメジャーで人気のスターの物語なら、違うよ。でもこれは……。コアなファンとか、そのファンからの言葉とか、やっぱり欲しかったよ。ほんの三曲ぐらいを使いまわしにして、解散をほのめかしているインディーズ人気ガールズデュオ、だなんて、本当にその言葉だけで終わってしまう。熱が、感じられない。
ハルとレオがさ、出会って間もない頃、レオがハルの作ったカレーライスに涙する場面があるでしょ。あーゆー、なんかわっかりやすくカンドー的なシークエンスって、ホントキライなんだよ。そもそもなぜレオが涙したのか、例えば彼女が家族の愛に恵まれてなかったのかもとかも思うが、そーゆー後フォローもないしさ。
しかもあのカレー、ごはんがめちゃめちゃ固まってて、冷めてるさー!さぁさぁとばかりに食卓の用意をして、てゆー芝居が一気にウソになる。こういうのってね……意外に観客は見ているんだよ。昔の映画ならいざ知らず、なんでもツッこまれる今の時代に、こーゆー隙を見せてほしくない。
でさ、最後、あれだけ深刻になって、解散ということのラストライブになったのに、バーン!と右と左に分かれた二人が結局戻ってきて、まるで何事もなかったようにふるまって、戸惑ったシマを叱咤して、走り出す。なんだそりゃ!!!!だよ!!
シマは何度も、繰り返し、これだけお膳立てして解散になったんだから、それがナシとかありえないぞと言っていたのにこのていたらくであり、しかもそのきっかけも理由も何も判らず、てかそもそもハルとレオのセクシュアリティと感情の問題が全く詰められておらず、半世紀前の少女漫画の方が深刻だったよと思ったりする歯がゆさ。
なんだろうなぁ……なんじゃこりゃ、と、松田優作のように呟いてしまったよ。★★☆☆☆
あー、なんて私はバカだったのだろう。名作。まぎれない。きっと当時の私がまだ田中絹代に出会ってなかったせいもあるのだろう。彼女の名前を見たらそれだけですっとんでいったに違いないのに。
この原作、ウチに文庫本があったような気がしたが、探しても出てこなかった。気のせいだろうか……。しかして安寿と厨子王の話であることすら覚えていなかったとはなんなんだっ。てか、安寿と厨子王、その名前(というかタイトル)は耳に覚えがあっても、どんなお話かも全然知らなかった私はなんなんだっ。
かなり、壮絶な話、なんである。平安時代のお話で、安寿と厨子王のきょうだいもそのお母さんもお父さんも高貴なお人なので、最初こそはみやびやかな格好で登場なさるが、既に冒頭から過酷な運命にさいなまれている。
お父さんは民を思うあまりお上にたてつき、島流し(島じゃなかったかもしれんが)の憂き目にあう。それを嘆く民たちが押し寄せる冒頭の場面が、後から考えると全てを示唆していたように思う。
お父さんは、まだ幼い嫡子の厨子王に、まだ理解できないかもしれないが、覚えておくように、と人への慈悲の心の大切さを説く。
覚えてはいられまいと思うほど幼かった厨子王なのに、彼はちゃんとそれを胸に抱え続け、ラスト、まさにお父さんと同じように、自分を犠牲にして民たちを助けるのだもの。
親子は離れ離れ、後にお父さんのところに行こうとしていた母子(+召使の老女)は人さらいにあって引き裂かれる。この場面の悲惨なことといったら、ない。
野宿していたところを親切に泊めてくれた尼僧が黒幕だったというショックも大きいが(でも登場シーン、いかにも腹にイチモツありそうな顔してたからなぁ)、船で渡るシーンで引き裂かれるあの悲惨さは……。
先に船に乗せられた母と召使、子供たちはその手前で引き止められ、容赦なく船は出て行く。叫び合う親子も悲惨だが、この事態を何とかしようとしたのか、あるいは責任を感じてしまったのか、召使の老女が船から転落してしまって哀れぶくぶくと水没してしまう。
母が悲鳴を上げてその名を叫び続ける、あの場面は、もうなんか……ついついあのラチとかを想起させてしまって何とも言い難い。
伝説として語り継がれてきたこの物語、当時は実際にこうした人さらいなんてことが普通にあったのだろうと思われる。ところで原作(あるいはもともととなる伝承)では、姉と弟、なんだよね。確かに私のイメージもそっちだった気がする。
でも本作は兄と妹。原作を未読なのでアレだけれど、人さらいの元で一時は父の教えを忘れ(というか絶望して捨て去り)、鬼の手下に成り下がってしまった兄、という図式こそが本作が、そして作り手が、示したかった人の心のアヤというものなのかもしれない。
そりゃあ仏のようにずっと正しい心を持ち続けて、諦めず、いつかここを出て、この民たちを助けようなんて、そんな訳にはいくまいよ。そんな聖人がいたら、もはや人間ではない。人間、それをこそ描きたかったのだろうかと思う。
そう思うと彼以外は意外とその点、単純なキャラクターづくりにも見える。それこそ妹の安寿は仏の心を持ち続け、いつか父上と母上に会えることを信じ続け、兄の心変わりを心から嘆くといったあり得ないぐらいのイイ子だし。
彼らをさらってこき使う、成金大臣の山椒大夫はザ・悪役で、人を人とも思っていないくせに逃げ出そうとするとナマイキなとばかりにリンチ三昧。
焼き鏝を当てるシーンは、画面から見切れていても、実際にそうではないと判っていても(当たり前だ)、本当に目を背けずにはいられないのだ……。そして一時はそちら側に、厨子王も回ってしまっていた。
山椒大夫の屋敷で使われている奴隷たちは、ものすごい数である。無給であるのは当然(だからそれで私腹を肥やして、お上に覚えめでたいのだから)だが、それにしてもこんなに数いて何をするのかしらんと思うほど(爆)。
山椒大夫の息子、太郎はマトモな心の持ち主で、だからこそたまらず、ここを出て行った。この地獄で、安寿と厨子王に心をかけてくれた最初の人物。彼も最初は、この事態を何とかしたいと思って出たのだろうが叶わぬまま10年が経った。
彼は僧侶になっていた。安寿はどこから、太郎が中山国分寺の僧侶になっていると知っていたのだろう。厨子王にそこに逃げ込みさえすれば、と逃亡の手引きをした安寿。それとも奴隷たちの間では周知のことだったのだろうか。でも少なくとも厨子王は知らない風だったし……判らない。
ただ、この時点で、安寿はもう死ぬ覚悟が出来ていたのは明らかだ。ひん死の病人の女を山に捨ててこいと命じられ、納得出来ぬまま兄と共に山へ向かったあの時には、頭の中で出来上がっていたに違いない。
今更ながら、安寿は香川京子だったのねと思う。そう言われてみれば、メッチャそうだ!!(そりゃそうだが……)。
妹の覚悟の最たるところに気づかないあたりが、バカ、バカな兄なのだよ!!なんていうかね……ちょっと、萌え萌えなところがあるのよね、このきょうだいは。幼い頃を思い出す、枝を二人で折って倒れ込むシーンとか、勝手に心の中でキャーキャー言っちゃう(爆)。
でもさ、やっぱりやっぱり……男の子は、幼いんだよなぁ。たとえ弟から兄に設定変更されても、やっぱり、そうなんだよなぁ。
番人を騙して兄を逃がして、その安寿に同じ奴隷の老婆が、どうするんだ、と問いかける。行き先を問われて死ぬほどの責めを受けるぞと。安寿は悲しげだけれどもこともなげに、どんなに責められても死人に口なしでしょうと答える。
老婆もきっと、そんな答えを予想していたに違いない。同じ女だから、というのはたやすいが……でもそこまでの覚悟があるかどうかということなのだ。
この時の厨子王には、まだこの時には、充分覚悟のいる行動だったにしても、そこまでの覚悟は、やはりなかっただろうと言わざるを得ない。父親にも、妹にも、彼はまだまだ……。
正直言うとね、予想していたよりも案外あっさりと、都の関白に事の次第を判ってもらえて、なんかあっという間に国守になっちゃったなぁ、と思ったのね。それこそ、その奇跡のランクアップの姿を悪徳山椒大夫に見せる段に至ってもあっさりいきなりすぎて、山椒大夫も大して驚いてないんじゃないかと思うぐらいのスピード感(爆)。
尺の問題もあろうが、でも当時で124分なら結構な長尺だけれども、ヤハリ作り手が描きたかったのは、同じ人間同士なのに、一方は搾取する側、そしてされる側のあまりに理不尽な仕打ち、それこそをメインに描きたいがために、半ば執拗に、描いたんだろうかと思ったりする。むしろ厨子王が逃げ出してからはサクサクッと、上手くいくんだもの(爆)。
ただ、ただただ……厨子王が安寿の死を知らないままだし、母親の消息も判らないままだし、父親のこともまた……という状態だったから、イヤーな予感はしていた。
佐渡で遊女に売られたという母親の消息、というほどではないが、手掛かり程度のことを、きょうだいは得ていた。山椒大夫の元に佐渡から売られてきた少女が口ずさむ、佐渡で流行ったという歌が、子供達を恋いる歌だったのだ。
これは……なかなかの衝撃である。だって、遊女が口ずさんだ歌が、佐渡中に流行るほどってことは、よほどに、よほどに、と、考えられるじゃない??
正直、厨子王は母親に再会出来ないんじゃないかと思った。これほどまでの濃いエピソードが用意されていたらもう彼女は……と思った。最後の最後の瞬間までそう思っていたのだが。
厨子王は国守になった途端、まるで生き急ぐかのように、民を(というか、山椒大夫屋敷の奴隷たちを)解放するための性急なお触れを出して、自らも乗り込み、自分はたっぷりの付け届けで覚えめでたいとふんぞり返る山椒大夫を問答無用でふんづかまえる。
勿論、その代償は、上り詰めたこの立場の返上である。彼にとって、そんなものはヘでもないのだ。父親に教えられたことを全うすること、たった一人残ってしまった同士の母親を迎えに行くこと、それだけなのだ。あぁ、なんたることだ。
なんつーか、今でも、ある意味では世の中大して変わってないのだ。搾取する側、される側、カネに左右される政治。
たった一念で飛び込む人なんていやしない、それにそれで変わるのだとしてもたった一瞬なのだ。でもその一瞬がその先をつないでいけるのなら。そういう人が出ると出ないとでは全然、違う。
やっぱりね、田中絹代なんですよ。正直、物語の展開的には再び彼女に相まみえることはないかもしれないと、恐れていた。はやり歌で自身の存在を示したとしたって、そこで終わりかもしれないと、思っていた。
厨子王はすべてをやりとげ、すべてを捨てて、母を探しに佐渡に渡る。遊里では、もう彼女は死んだと、言われた。でもその死んだと言われた村に渡った。
大津波で死んだのだと言われてドキリとする。渡った村では、村人が一人黙々と海藻を干していた。十中九が死んだと、遺体が戻らないのも沢山いる、と淡々と語った。更に動悸が高まる。
20年前、私が観た時ならば、そこに引っかかったりは、しないだろう。日本は繰り返し繰り返し、津波の悲劇があったに違いないのに。やはりある一定の間、惨事がないと、人間は忘れてしまうものなのだ。
厨子王は、老女が静かに日干し作業を行っているところに出くわす。ドキドキする。田中絹代だ。いや、お母さんだ。いや……だってさ、彼が探しているのは、45、6の女なのだ。別れてから10年、単純計算で。
なのに目の前にいるのはどー考えても60過ぎと思われるほど年老いた……髪が白いだけじゃなく、本当に、なんていうか、しぼんでしまって、目が見えなくなっているということもあるけれど、それ以上に、もう、さあ!ああ、素晴らしき田中絹代!!!
なかなかね、自分が息子だということを判ってもらえない。お守りに持っていた観音様を手で探らせてようやく認識するんだけれど、その会話の中で彼女の愛する夫も娘も、もうこの世にいないことが判るくだりは、厨子王が血を吐くようにそれを伝えるくだりは、苦しすぎる。
それでも、親子が再会の抱擁をし、そしてカメラがパンして、最初に声をかけた漁師が淡々と海藻を日干ししている場面になり、カメラが引き、エンドとなるのが……なに、この哀しいようなちょっと幸福なような、やりきれないような、この余韻はなに!!
観直せて、本当に良かったです。私はアホでした、と20年前の私に言ってやりたい(爆)。 ★★★★☆