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ベアーズ・キス/BEAR’S KISS
2002年 98分 カナダ カラー
監督:セルゲイ・ボドロフ 脚本:セルゲイ・ボドロフ
撮影:ハヴィエル・ペレス・グロベ 音楽:ギア・カンチェリ
出演:レベッカ・リリエベリ/セルゲイ・ボドロフJr./マウリツィオ・ドナドーニ/キース・アレン/ヨアヒム・クロール/アリアドナ・ヒル/シルヴィオ・オルランド
ローラはサーカスの少女。どうやら父親は本当の父親ではないらしい……と思っていたら、母親も本当の母親ではなかった。どこか予感して問いかけた少女の言葉にあっさりと答えた母親は、彼女を置いてサーカスを去ってしまった。残されたのは役立たずの父親、マルコと、ローラにとって何かと疎ましいピエロのグロッポ。そして熊のミーシャ。
サーカスの少女。夢の場所、サーカス。外界からさえぎられたテントの中で、夢のような衣裳をまとって観客の喝采を浴びる。そんなきままな旅暮らしに誰もが一度は憧れるけれども、親しい友人も、信頼できる隣人も出来ない孤独な職業だ。一座の仲間だけが人間関係。その中で亀裂が入ればたちまち孤立してしまう。しかも、つぶしがきかない。
それでも人はサーカスに憧れ、サーカスの旅暮らしに憧れてしまう。ここで描かれる彼らの暮らしが決して楽じゃないことは承知しているのに、それでも憧れてしまう。そして天涯孤独という身の上のローラに対しても、不謹慎だと判っていながら、彼女の境遇に憧れを感じてしまう。天涯孤独、ひどく、ロマンティックだ。自分ひとり、誰もつながる人がいないことに対する強烈な憧れ、それは、自分を特別だと思いたい気持ちの裏返し。その気持ちはたまらなく、寂しい気持ち。
いろんなところにおとぎばなしの種がまかれている。
そして人間の感情の核を揺さぶるのは、なぜだかいつだって、こういうおとぎばなしの中になのだ。
ローラ、マルコ、グロッポ、ミーシャの四人(?)は放浪の末、今までのサーカスの世界とは雲泥の差である冴えない大道芸人たちに身を寄せる。ローラの前でだけ青年の姿となるミーシャとローラは愛し合う。ローラはまだ幼さの残る顔立ちの、乳房も可憐なつぼみを思わせる少女。「初めてなの」と言いながらミーシャと激しく愛し合う。
幼い顔立ちながら、厚めの唇がどこかエロティック、少女期特有の、表情を作るのが不器用な感じがなんともいえず魅力的な、ヒロインのレベッカ・リリエベリ。「ショー・ミー・ラヴ」の主役の一翼で既に印象的だった彼女だけれど、ここではピンの主役としてただならぬオーラを発揮する。
ふわふわの妖精の衣裳を着て、大きな熊のミーシャにすっかり身をあずけて踊る夢のようなシーン、熊のミーシャに愛撫さながらに顔から腕からペロペロとなめられるシーン。
そりゃ、トレーニングされた熊なんだろうけれど、これはかなり怖いはずが、彼女はしっかり恍惚の表情を浮かべている。人間の青年の姿であるミーシャと愛し合う時より、熊のミーシャに愛撫されている時の方がよほど官能的なのだ。
そしてミーシャ。目の前で狩人によって母親熊を殺され、まだ足も立たない状態の“小熊のミーシャ”は本当に愛らしかった。しかし大きくなるとやはり獰猛な姿形、そうなるとやはり、ローラとの場面は(先述のように彼女がかなり頑張ってはいるものの)どうしてもカットバックが多くなり、不自然な気持ちは否めないのだけれど、その分、彼女の前でだけ青年の姿になる、監督ジュニアであるセルゲイ・ボドロフJr.の本当に熊を思わせる、しかもハンサムな造形には心惹かれる。
なのに、彼が去年死んでしまっていたなんて……。
この映画とは何ら関係のないことなんだけれど、その重い事実にはさすがにショックを隠せない。
そしてこの“おとぎばなし”が永遠を感じさせることを思うと、更に胸が熱くなるのだ。
そのつもりはないのに、ローラを愛するがゆえに人を傷つけてしまうミーシャ。人間の姿になれはするものの、ローラを愛することに対する苦悩が見え隠れする。
彼はローラに聞いてみる。「人間の僕と、熊の僕とどっちが好き?」ローラはまるで躊躇なく応える。「どっちも好きよ」
ただまっすぐな愛と自信とに満ち溢れているローラ。熊だとか人間だとか、あるいはどっちがどうだとかいうことにまるで悩むことがない。
うらやましい。これは“熊が人間になる”という奇想天外なストーリーでなくっても、愛の難しさとして人間がぶつかる問題と何ら代わりがないから。
若さのせいもあるんだろうなと思いながらも、彼女が、熊のミーシャを愛するという運命を背負った少女であることが大きいのだろうなとも思う。
ラスト、彼に従って熊となるローラが、ミーシャと出逢ったこと自体が運命で、彼女もまたもともと熊、だったのかも、だから彼女はミーシャを見つけ出し、彼を愛し、熊の姿に“戻って”いったのかも、とさえ思うのだ。
マルコ。確かに彼はローラの本当の父親ではなかった。でも家族を持たないローラは彼を父親として尊重しようとし、マルコも彼女の気持ちをひしひしと感じてはいながらもそれに応えることが出来なくて、まるで冗談みたいにいきなり、死んでしまう。
ローラの母親に捨てられた上に、ローラの父親にもなりきれなかったマルコ。自信のなさにいつも縮こまっていたマルコ。
人間の、かなり多くは、きっとこんな風に幸せを充分にまっとう出来ないまま哀しく散っていく。
ローラとミーシャの理解者であったのが、グロッポ。ローラは最初、彼を疎ましがっていた。彼がローラの母親に横恋慕していたから。でもローラを、そしてローラとミーシャのことを唯一理解してくれていたのが彼だったのだ。ローラの母親からも、そしてローラからも疎ましがられていたグロッポは、まさにピエロを体現していて本当に本当に切なく哀しいのだけれど、ローラがここにいることがグロッポから始まったことだということを彼女が知り、そしてローラ自身が恋を、そして愛を知ることとなって、グロッポの気持ちを理解できるようになる。
グロッポはローラを、彼女の不幸な境遇を見かねてさらってきてしまったのだという。それが具体的にどういうことだったのかは、判らない。でもグロッポのおかげでローラはミーシャと出会うことが出来たのだ。ミーシャが人間になったこともグロッポだけは気づいていたのに、見て見ぬふりをして、疑惑の身代わりになってくれもした。ピエロの愛は純粋で、そして無限に切ない。グロッポの手引きで、ローラはミーシャと彼の生まれ故郷の森へと逃避行に出かける。グロッポはこれ以上なく寂しそうな顔で、「さよなら」と二人を見送る……涙が出る。
ミーシャはローラを守るために、人を殺してしまった。人を殺す時は、ミーシャは熊の姿になってしまう。その鋭い爪で、引き裂いてしまう。二人が占いをしてもらったジプシーのおばさんは「私も狼の男に恋をしたことがある」と言い、熊から人間になったミーシャに、このままもう少ししたら、ずっと人間でいられる、と言う。しかしミーシャは故郷の森を恋しがり、そんな中でこの事件が起こる。占い師のおばさんは、「人を殺してしまったら、もう一生熊のままだよ」と言う。
悲しみにくれながらも、ローラはミーシャの幸せを願って、彼の故郷であるシベリアの森を目指す。森につき、なかなか彼女のそばを離れようとしないミーシャを叱りつけて涙ながらに行かせる。でも、たまらずローラは彼の後を追いかけ、そのうちに……彼女もまた熊の姿となって、二匹の熊がシベリアの森の奥へと消えてゆく。
なんという、完璧なラストだろう。おとぎばなしとして、ラブストーリーとして、映画として、完璧なラスト。ノーテンキなハッピーエンドではないけれども、でも確実にハッピーエンドなんだと思える、でも不思議に目頭が熱くなってしまうラスト。父親として何にも出来なかったことを歯がゆく思いながら死んでしまったマルコや、自分こそが父親になりたかったのに最後の手助けしか出来なかったグロッポの姿が、熊になってミーシャの後をついてゆくローラの姿にオーヴァーラップしてしまう。寒々しいシベリアの森は、本物の神話が息づいている場所なのだ。★★★☆☆
1996年、突然の逝去に本当に驚いたキェシロフスキ監督。まさにリアルタイムで素晴らしい作品を観ていた時だっただけに、その衝撃は今でも覚えている。しかしまさにリアルタイムで評価されていた時で、名声が確立していたわけではなかったので、その訃報は世間的には実に小さくて、それにかなり失望したことも……。今では名匠、巨匠と迷いもせず言われているけれど。このキェシロフスキ監督が遺した脚本を、「ラン・ローラ・ラン」の気鋭、ティクヴァ監督が手掛けた本作は、あの「ラン・ローラ・ラン」の監督作品とは思えないほど、まさにキェシロフスキ監督の空気がそのままそこにあると感じられる。驚いた。実はティクヴァ監督がキェシロフスキ監督の脚本を映画にする、と聞いた時にはちょっと、えー?と思い、ヤダなあ、と感じてしまったりしたからだ。なのに。ティクヴァ監督はひょっとしたらキェシロフスキ監督の信奉者であったのではないだろうか。それともこれは脚本の力か。人の死は重いし、哀しさに包まれているのに、どこかおとぎ話にも似た慈愛に満ちた救いの美しさがあるのは。
人の死が、これほどこれほど、重く哀しいこと。そのことを映画で感じられるというのは、これも随分と久しぶりのことのような気がする。女は殺人犯で、4人もの無実の人間を殺してしまった。そして最初のターゲットであったひとりの悪人も。しかしそのどの死もひどく重苦しく、あるいは殺人の死ではなく、彼女によって語られる麻薬による死も、ひどくひどく、重苦しい。フィリッパは夫や自分の愛する生徒たちを死に追いやった麻薬の密売人である、夫の旧友の男を激しく憎む。憲兵隊に何度も訴えを起こしたのに、この男はほかならぬこの憲兵隊と癒着関係にあるため、彼女の訴えは無視されてきた。彼女は思いつめ、ついにこの男を殺そうと決め、爆弾を仕掛けた。しかし運命のいたずらが、その爆弾を別の場所に運び、全く関係のない4人を犠牲にしてしまう。逮捕された彼女がそのことを知った時、呆然とし、みるみるその青い目がうす赤く染まり、震え、耐えられなくなって倒れてしまう。そしてそんな彼女を見守っていた、通訳の任についていたひとりの若い憲兵、フィリッポが、恋に落ちてしまう。フィリッパとフィリッポ。この音の似た名前で既に、運命を感じる。
この舞台が、イタリアだというのに驚く。イタリアは陽気で楽天的で、時々はちょっとノスタルジックで、そんなイメージしかなかったから。フィリッパはイタリア語にも堪能な、この地で英語教師をしている英国人。被疑者の権利、として母国語の英語を使って話はするもののイタリア語は判るので、通訳であるフィリッポの仕事は、彼女の英語を上官に伝えること。時にためらいながら、しかし冷静を装って彼女の言葉を訳す彼は、憲兵隊の内部にこの事件の原因があることを知り、生徒思いの彼女の真剣さにうたれる。あの時、倒れた彼女の細い腕を、そのか細い手を握り締めた時、彼はもう引き返しようのない恋に落ちていたのだけれど、彼女が決して悪人ではないこと、それどころか、まっすぐできれいな心を持っている故の悲劇だと判るにつれ、彼女を助けたい、ここから逃がしてやりたいと思うようになる。自分が連れて逃がしてやりたい、と。
多分随分と年上である彼女に一瞬にして運命の恋に落ちるこの若い憲兵の、あまりの純粋な気持ちの美しさに目を見張る。演じるジョヴァンニ・リビージは結構今までもいい脇役で観てて、フィルモグラフィで思い返すと目を引くものもたくさんあったのに、今回ようやくちゃんと名前と顔を一致させて、認識することが出来た(相変わらず、記憶力が頼りない……)。彼は父子家庭のように見え、だからどこか彼女に対する気持ちは、母親への憧れにも似た、思慕の念に通じるようにも思え、だから本当にピュアに感じてしまうのだ。彼の気持ちが細い弦を震わすように伝わるのが感じ取れ、それだけで、涙が出てしまう。健全な家庭に育ち、父親も勤勉な憲兵で、その後を継ぐようにしてこの仕事についた彼。若いのに機転もきき、彼女とのテープのやり取りが憲兵内部の悪玉に盗聴されていたにもかかわらず、見事彼女を脱走させることに成功する。彼の弟が彼女の生徒で、この小さな男の子も正義の家系を受け継いで、立派に協力するのがけなげで、これも涙を誘う。彼女は言う。「私がなぜ、(彼の脱走させようという提案に)同意したか、判る?私は4人の罪のない人を殺した。その罪はちゃんと、つぐなう。でもあの男だけは、どうしても殺したいの。そのために、私は外に出たかった」彼は思わず言葉を失うものの、その彼女の決意に協力する。共犯となってしまう。
誘い出したあの男に撃ち込まれた銃弾。彼女の、まるで取り乱していない、引き絞られた顔のあまりの哀しさ。そして、身を隠す彼女が漏れ聞いた、「あの死体の顔は忘れられない。人間とは思えない……まるで肉屋の肉みたいだった」という掃除婦の言葉。フィリッパは泣き出しそうな顔でフィリッポに訴える。「あなたは(私が殺した)あの死体をどう思った?」「……」死が、本当に、重いのだ。たとえ悪人でも。仇討ちでも。仇を殺しても、彼女の心が晴れることはない。むしろ、ますます引きずりおろされるだけだ。そして、そうして哀しさに深く深く降りていけばいくほど、彼女はたまらなく、美しいのだ。
二人は逃亡の旅に出る。髪を剃り上げて、まるで双子の兄弟のようになって。似た名前を持つ彼と彼女が、本当に運命共同体の、二人で一人になったことを意識させる。なぜ彼がここまで彼女に肩入れするのか、彼女は聞きはしない。でもそんなこと、判っている。言われなくても、判っている。彼は彼女を愛しているからだ。あの日、彼女に出会った日、ひと目で恋に落ちた日、眠りについたシーツを汚してしまった。寝小便をした、と父親には言ったけれど、彼女を思っての夢精だったのではないか。父親に、恋に落ちた、とまっすぐに告白する彼、その少年のようなまっすぐさ。その彼が、生まれて初めて口にするような、「愛している」の言葉は、そう、そんなこと、言わなくても判っているのだ。その言葉に、彼女がこらえ切れない涙で瞳をいっぱいにして応える。「判っているわ、でも…………(この、長い長い沈黙が、胸をかきむしる!)私は終わりを待っているの」 なんて、なんて美しい言葉なんだろう!
ケイト・ブランシェット。なんという素晴らしさ。こんな、密度の詰まった演技をする人だったのか。この映画自体が、まるでピンと張られた薄紙のように、繊細で緊張感に満ちていて、彼女はその空気をそのまま、その細い肢体に共鳴させている。彼女を観ているだけで、涙がこぼれてしまう。彼女の美しさは造形のそれではなくて、この全身の共鳴にあるのだ。女優になるために生まれてきたような女性。映画の中の彼女は、いつでもその役のために生まれてきたんではないかと思うぐらい、そこで完璧に生きている。
フィリッポは逃亡中、彼の父親を逃亡先に呼び寄せる。話がしたい、と。彼の恋心がまっさきに父親に告げられたこと、そして何より、同じ職業を選んだ彼にとっての父親は、尊敬し、信頼すべき相手なのだ。息子の連絡に彼は飛んでくる。道路が封鎖され始めていること、そして、今なら自分の車で何とか逃げおおせるチャンスはある、と告げる。フィリッパは若く将来のあるフィリッポを巻き込むわけにはいかない、彼だけを連れて帰ってくれ、と彼の父親に言うのだけれど、フィリッパは彼女とともに行く、と言う。父親は、息子はあなたのことを愛している。あなたはどうか、と問う。彼女はしばらくの間、逡巡する。フィリッポは彼女を見つめる。ひどく長い時間のように思える……彼女は決心したように言う。私も愛しています、と。この彼女の長い迷いの時間は、そのまま彼への真摯な愛。こんな風に、人を愛せたら。この時に新たにこみ上げた涙は、美しさに対するものではない。はっきりと、感情に根差したもの。
息子に金を渡し、彼を信じて送り出すことを決意するこの父親は、「本当に大事な時に役に立ってやれない」とつぶやくのだけれど、そんなこと、そんなこと、ないよ!ああ、確かにフィリッポはこの父親を愛し、尊敬し、信頼し、迷わず父親と同じ職業を選んだであろうと確信できる。麻薬を流しているような汚れた憲兵とは違う、誠実で正義を重んじる憲兵だったんだろう。それをそのまま息子は受け継ぎ、父親もそんな息子を信じ、誇りに思っているから、彼が愛したフィリッパを既に娘のように愛することができるのだ。そして、確かにお金は無粋なものかもしれないけれど、思いのたけが込められたそれは、それがそのまま息子への、そして息子が愛した女性への、紛れもない愛情そのものなのだ。私このお父さん、大好き。凄く凄く、素晴らしいと思う。
フィリッパとフィリッポが結ばれるシーンは、夕景のあかね色に輝く中、シルエットで示される。憲兵隊の建物から脱走する時、密かに乗り込んだ牛乳運搬車の狭い運転席で、運転手の男が恋人?とせつなのセックスをするのを、頭を抱えて息をひそめながら荷台で聞いていた二人。同じセックスという行為が、描き方でこうも違うのかと驚かされる。ちょっとこの対照は技巧的に過ぎるような気もするけれど……でも、何か、「最後」を思わせて、儀式めいた聖なるものを思わせて、やはり全くの別物だと、それを際立たせるためにあの性欲行為そのもののセックスの描写が前提に持ってこられたんだとも、思う。
だって……あのラストは、素直に希望ととって、いいの?追いつめられた二人が、いちかばちか、で憲兵隊のヘリを奪って空高く高く、舞い上がり、小さな点になるまでに舞い上がり、そして空の中に消えてしまう、というのは……。冒頭のシーンで「ヘリコプターはあまり高く昇っては危険だ」と示されていた操縦シュミレーション、そして何よりこの、「ヘヴン」というタイトル。青空の中消えていった二人は、あのまま天国に行ったと思ってしまうではないか……どうしても。だからたまらなく、嗚咽してしまうほど、涙が抑えきれないのだ。だってあの時、彼女は、罪はつぐなう、と言った。自分が脱走に同意したのは、あの男を殺すためだと。彼はそう言う彼女を連れて逃げたけれども、でも彼女は罪をつぐなう、という言葉を撤回してはいない。そして「私は終わりを待っているの」というあの言葉は、悪と癒着している憲兵隊につかまっての罪のつぐないではなく、“終わり”を積極的に迎えること、それをこそ罪のつぐないと思っての言葉ではなかったのか。そして、彼のことを愛していると答えるのにあれほど逡巡したのは、彼をそれに巻き込むことを躊躇してのことだったのではないか。でも、二人が行くとしたら、それは絶対に天国だ。絶対にそうだ。彼女は天国に行き、先に行っている自分が誤って殺してしまった4人に頭をたれる……それこそが、ほんとに罪をつぐなうこと、だったのかもしれない。
それにしてもこのシーンは、「日本黒社会 LEY LINES」のラストにひどく似ていて、もしかしてティクヴァ監督は三池監督ファンだったりして……などと夢想してしまう。本作はともかく、思えば「ラン・ローラ・ラン」の弾け方は何となく、三池風だとも思えるし……勿論脚本のあるものだから、偶然の一致かもしれないけれど。絶望的と希望がないまぜになっている衝撃的な美学が双方にある。★★★★★
冒頭、散髪をする少年の後頭。うなじのあたりをバリカンできれいに刈りそろえられているんだけど、どうもこの子は落ち着かなくて首を動かすものだから、刈ってくれているおじさん、再三この子をたしなめる。と、少年、大声で名前を呼ばれ、「散髪代は父さんが払う!」と叫んで、どんどんと駆けていく。軽やかに駆け抜けて行く古びた町。その弾んだ感じと、生活のにおいが躍動する町と人々にワクワクする。そして到着したところは、今や難産の真っ最中。威勢のいいのを一曲弾いてくれ、と言われて少年はヴァイオリンを構える。凄いテクニックで弾き始める。“威勢のいいのを”だなんて注文に思わず吹き出しそうになったんだけど、少年のヴァイオリンに呆然と耳を澄ませている間にオープニングクレジットが終わり、無事赤ちゃんの産声が聞こえる。このばつぐんの流れの冒頭から心をつかまれてしまうんだよなあ。
この少年が主人公のチュン。若干13歳にして、天才的なヴァイオリンの腕前を持つ父子家庭の少年。少年の散髪シーンはその後も出てきて、彼は散髪をするたびに少しずつ大人になっていく気がする。もともと大人びた顔つきで、切れ長の目と、賢そうな額が、すでに色っぽささえ醸し出している……ということに気づくのは、彼が北京に出て、著名な先生についてからのことであって、ここでの彼はまだ活発な田舎の少年だ。この息子の才能を未来に伸ばしてやりたいと、とにかく積極的な父親。しかしこのお父ちゃんが!もう、大好きよ、このお父ちゃん!彼はね、息子ラブなの。ラブラブ。現代の親でよくあるような、子供に過度に期待して厳しくあたるような、そういうんじゃなくて、もう息子のヴァイオリンの腕前にニッコニコで、いやー、うちの息子は最高だろー?聴いて聴いて!みたいな、そんな感じ。素晴らしい伴奏で難産を助けてくれたお手柄に、主人からお父ちゃんにお礼が手渡されるんだけど、このお父ちゃん、いやいやいや、そんなわけには、と固辞するから、この主人はチュンの方に手渡すと、チュンは素直にニッコリとして受け取る。「父親よりよっぽど物分りがいい」と言う主人に、何だか困った顔を見せるお父ちゃん。このくだりだけで、この父親の好ましさが一発で判って、即大好きになっちゃう。いつでも帽子を手放さないそのファッションセンスはハッキリ言って最悪なんだけど、それを見かねたチュンがスタイリストになっているあたりがイイのよね。
そして、このチュンもお父ちゃんが、大好き。彼がヴァイオリンを弾いているのは、このお父ちゃんのため、なのだ。ということに彼自身今の時点では気づいていないかもしれない。そしてこのことはこの作品の大きなテーマともなっているのだ。音楽が何のためにあるのか。あるいは、人生が何のためにあるのか、といった……。確かに彼自身、音楽に対する喜びを感じてはいるんだけど、お父ちゃんと共に成功への道を歩もうとしている今の時点では、その輝かしい未来に単純に希望を見出しているだけで、ヴァイオリンが、音楽が、そして自分自身が、そこにどう関係してくるかまでは当然、判っていない。
かくしてこの父子は、コンクール参加への切符を手にして、大都会、北京へと向かう。もう何たって、この田舎ではチュンを知らない人はいないほどで、このコンクール参加も町内スピーカー?でお知らせされちゃうぐらいなんだもんね(笑)。目も回る都会の中で、チュンはちっともじっとしてなくて、一方のお父ちゃんはもういかにもおのぼりさんで(あのかついでいる綿は……(笑)布団綿?)ちょっと息子の姿が見えなくなっただけで大慌てで警察を呼んじゃったりするあたりが愛しくてたまらない。チュンはここで、既にこの北京で大きく関わる人と出逢っている。チュンの目が釘付けになったのは一組のカップル。いかにも都会のカップルで、男の方はスマートなビジネスマン風、女の方は頭からつま先まで完璧にファッショナブルな女。人目もはばからずに抱き合っていちゃいちゃするカップルに、もうチュンの目は釘付け(笑)。このハデなお姉ちゃんとはその後また会うことになるのだ。
コンクールでは、5位。しかしトイレで審査員の話を聞いてしまったお父ちゃん(よくトイレで聞くのよ、この人は。どうやらちょっとお腹がゆるいらしい(笑))、このコンクールにはコネが横行してて、優勝者はスポンサーの息子であり、5位のチュンが唯一、褒められていた。このお父ちゃんのステキなところはね、コネでどうこうされたというところを一切聞いてないところなのよ(笑)。息子が褒められた、もうその一点だけで、この褒めてくれた先生を追いかけるのだ。北京に住民票がないチュン親子は、このコンクールに入賞しても音楽学校に入ることも出来ない。だから、この褒めてくれた先生に指導を仰ごう、とこういうわけ。トイレから見えたのはこの先生の足だけ。両足で違う靴下を履いているこの先生を必死に追いかけて、ぬかるみのところで声をかけると、その飛び石の上であわや!とバランスをとって振り返るこの先生の絶妙の間(ま)にもう爆笑。
このチアン先生、もうこの人も、このお父ちゃんと甲乙つけがたいぐらいに大好き!えー?この人、誰?私見たことないよー。凄い上手い役者!なんだろなあ、この人のこの感じは……この間(ま)は本当に天才的よ。そういえば登場シーン、コネで決まるようなコンクールに興味はない、とばかりに椅子にふんぞり返ってひっくり返りそうになりながら居眠りをしているところから、なんかもう、その存在感を放ちまくってるのよ。で、チュンの演奏で目が覚めるわけよね。でも、息子に指導をぜひ、と追いかけてきたこのお父ちゃんをすげなく追い払ってしまう。これがね……いったん部屋に入って、猫を抱いてドアを閉めにまた出てくるのよ。この“猫を抱いて”ってところで、いきなりホレてしまった。え?早すぎる?でも、何かそれだけでこの人の人となりというものが、実に絶妙に表されたような気がしたんだもん。だって、いったん部屋に入って、また出てくるの、すぐだったのに、その間に部屋にいた猫を抱いてくるっていうのが、なあんかたまらなく好きだな、と思っちゃったのだ。
結局、チアン先生はチュンを教えることとなる。このお父ちゃんの攻勢に負けて、というより、やはりチュンの才能にどうしても引っかかりを感じていたこともあって、あるいは唯一教えていたドヘタなガキとうるさいその母親にキレて解雇されたこともあったせいなのか。あ、ところでこのシーンも大爆笑モノなの。ヴァイオリンで音痴、ってのはすでにして笑えるし、どうやらそれに気づいてないらしいこのデブガキに、もうあきらめきってヒラヒラ手を振ってるチアン先生がまた、最高なんだなあ。チアン先生の登場シーンはどれもこれも絶妙だから、もう言っているとキリがないんだけど。何たってそのいでたちがね。あの形容しがたい、スバラシイ髪型といい。ま、とにかく、チュンはこの先生に習うことになり、そのレッスン代をお父ちゃんはこの北京で必死に稼ぐことになる。
このチアン先生は教える気があるんだかないんだか。というより以前に、もう部屋がメチャクチャで、ベッドの下にはいつのものだかわかんない靴下とか転がってて(靴下がちんばなのは、そのせいね)、で猫は5匹ぐらいいるし、とても音楽家の部屋とは思えない。お父ちゃんはレッスン代を必死に稼いでいるのに、と、チュンはチアン先生と衝突したりもするんだけど、チアン先生がチュンに教えようとしているのはそういう部分じゃないんだよね。チアン先生はまずチュンに言う。一生懸命に、楽しんで弾け、と。そしてチュンに自分の恋物語などを“うっかり”聞かせたりするのも、そういうことを知っていないと本当の音楽は奏でられないことを知っているからなんだよね。この後にチュンが出逢うことになる二番目の先生は、そういう点でチアン先生と本当に対照的なわけで……チアン先生にまず出逢っていなかったら、チュンのヴァイオリンは潰されていたかもしれない、と思う。チアン先生はいわゆる演奏家としての成功へ導くだけの社会的力がなかったために、お父ちゃんは申し訳ないと思いながらチアン先生をやめさせて、いわゆる地位も名誉もある二番目の先生につかせる。で、この先生も演奏に心が入っているかどうか、などともっともらしいことは言うんだけど、どこか、そう聴こえるかどうか、という点にしか興味がないんじゃないかと、つまりは、自分の指導者としてのキャリアのために、チュンの才能を買ってたんじゃないかと思える節があって、やっぱり本当の指導者は、チアン先生だったよね、と思うのだ。
汚い部屋で、猫のにおいの中などでは弾けない、とつっぱねたチュンにチアン先生がとても怒ったのは、そんなことで出来なくなる音楽などホンモノじゃない、ということなんだろうな。この猫ちゃんたち、捨て猫だったのをほっとけなくて連れて帰ったというチアン先生、好きだなあ、もお!チュンに楽譜の整理をさせ、その楽譜に目を通すことでイメージトレーニング?をさせたりもする。弾くだけではなく、その楽譜から、その行間から何かをつかめ、ということだろうか。この時のチュンの、楽譜を見ながら指を動かしている、そのイッちゃってる表情が凄いのだ。あ、確かにこの子は凄いかもしれない、と思う。だって瞬時に入っちゃうんだもん。その集中力が凄い。
で、結局。先生を替えることになって、チュンは名残惜しくてチアン先生の元を訪ねると、何と!チアン先生ときたら、いつもいつも同じ服を着ていたのに、なにかこざっぱりとした白いシャツなんか着て、な、なんかハンサムになっちゃってるのだ!物置と化していた木目のグランドピアノの天蓋も初めて少し開いていて、いつも暗い部屋だったのに、明るい光が満ち満ちていて。そしてはじめて聴くチアン先生のピアノ。それに合わせて弾くチュンの感情豊かなヴァイオリン。お前の父親は正しい。確かに私は成功へとは導いてやれないから……そう言ってチュンを送り出してくれるチアン先生。ああ、もう、ホレるよー。
こんなことをやっている間に、チュンはまた一方で別の出逢いもしている。というのは、冒頭のあのハデなお姉ちゃん、リリ。あの時抱き合っていた男は実はくえないヤツなんだけど、リリは惚れきっているから、なかなかそれに気づかない。彼の誕生日にヴァイオリンを弾きにきてほしい、とチュンを呼び、その日の勝負服までチュンに選ばせるんだけど、彼は来ない。彼女が作ったご馳走の前で空しく時が過ぎ、チュンはヴァイオリンを手にとる。彼女は悄然とケーキを崩し始め、チュンが演奏を止めると「……聴いてるわよ」と。チュン、この時、音楽で人を振り向かせることの難しさと、でも一方でやっぱり音楽は人のなぐさめになるんだということを、とても強く学んだんじゃないかと思う。このリリはいわば、チアン先生と並んで、ヴァイオリンに魂を込めることを教えてくれた先生なのだ。ラスト、チアン先生の隣にいるリリに、あ、ちょっとイイ感じになったらいいな、と思う。だって二人とも女運、男運、なさすぎだもん(笑)。
大量に髪に巻きつけたカーラーをバラバラと無造作に落としたり、恋人の写真を特大パネルにして部屋に貼ってたり、このリリも天然なところで笑わせてくれる。チュンはこのリリにやっぱりちょっと、憧れも含めて初めての恋、みたいな感じがあったんだろうな。リリが恋人の裏切りに遭遇した場面、こんなコドモのチュンに向かってまで、「男なんて大嫌い!」とひとりズンズン歩いて行ってしまう。まあそれも一時だけで、すぐにチュンを呼び戻すんだけど、でもあの時、チュンの中に、自分もまた一人の男である、ということをめばえさせたんじゃないかと思って……。
そんなこんながあり、チュンはお父ちゃんがチアン先生を辞めさせたことに対する反発もあって、大事な大事な母親の形見であるヴァイオリンを売って、このリリへのプレゼントに高価なコートを買ってしまうのだ!せっかく著名な先生に指導してもらえることになったのに、とお父ちゃんは大激怒。リリはといえば、最初このコートは恋人からの謝罪のプレゼントだとばかり思ってて、つまりはこのクソ男に騙されたわけで、チュンが買ったと知って、しかもヴァイオリンを売って買ったと知って呆然、必死に買い戻す金をかき集める。
チュン、やりやがるなあ!女のためにコートを買うだなんて、13の子供のすることじゃないっすよ!しかも母親の形見までも売って……と思っていたんだけど、この時に意外な事実が。でもね、私はてっきりこの話は、著名な先生に教えてもらうための作り話だと思ってたのよ。おいおい、お父ちゃんてば、何話したんだよ!とか突っ込もうと思ってたのに、よもや本当だったとは……つまり、チュンはこのお父ちゃんの実の息子ではなくて、駅にヴァイオリンと共に捨てられていた赤ちゃん。きっとチュンの両親は音楽家で、その才能をチュンはついでいるんだ、と。それを知ると例えばこんなシーンなども胸にズンとくるものがあるのだ。お父ちゃん、有名な先生に息子が教えてもらうのはとても嬉しいんだけど、何か、寂しい……とリリに漏らす。すると彼女、何言ってんのよ、実の息子でしょ、血は水より濃いって言うじゃない、と返す。うわ、これって、事情を知ってみるとあまりにあまりなことだよね。勿論リリに悪気があったはずもなく、リリはむしろこのお父ちゃんとどこか同志みたいな感じになってて、支えてくれててとてもいい感じなんだけど、だって彼女はそのことは知らなかったんだもの。でも……あまりに残酷な台詞。でも、でもね。チュンとこのお父ちゃんはまさしく親子だから。ホンモノの親子以上に親子だから。リリだってもし本当のことを知っていたとしても、何言ってんの、あんたら親子でしょ!って言ったんじゃないかと思う。
このことをチュンが知ってしまって、大ショックを受けるのも、チュンは本当に本当にお父ちゃんが大好きで、お父ちゃんのためにヴァイオリンを弾いていたから。というのをこの段になって観客も、そしてきっとチュンも判ることになるのだ。この著名な先生、チュンに「観衆を征服しろ」と言った。でもそれは、チュンにとって意味を成さないことだったんだ。つまりは、一般的な意味での、成功。チュンは、お父ちゃんのために弾く。奏でられる音楽は、誰か愛する人のためのもの、なのかもしれない、と思う。そしてそれを聴く私たちは、その愛のおこぼれをもらって、幸せな気持ちになる。それが音楽なのかもしれない、と。お父ちゃんはチュンを愛しているがゆえに、そういう一般的な意味での成功に導いてやりたいと思ったんだけど、それはチュンにとって本当に必要なことだったんだろうか。チュンが本当の親から受け継いだ才能を伸ばしてやりたいと思ったお父ちゃんだけど、お父ちゃんだけが本当の親だと思っているチュンにとって、それは、それこそが意味のないことだった。だってチュンが聴かせたいのは、このお父ちゃんだけだったんだもの。
それにね。このお父ちゃんだって。確かに彼はヴァイオリンも弾けないし、演奏のいい悪いなんて判らないのかもしれない。でも息子の演奏に心を躍らせ、コンサートのヴァイオリニストに拍手を贈る彼は、ちゃんと音楽を愛している人だって、思う。“チュンの父親である才能”をちゃんと持っているって、思う。
それに、演奏家になるばかりが、音楽家として幸せなことじゃない、ってことなんだ。その音楽を届けたい誰かがいるっていうことが、幸せなことなんだって。そのことをチアン先生だって、教えようとしていたんじゃないかって、思う。チュンの代わりに舞台に立った女の子は、チュンのおかげで、自分がいかに音楽を愛しているか判った、と言う。彼女は、観衆に音楽を届ける人なんだ。それも幸せのひとつ。チュンとは違っても。チュンはこの子のこと、ちょっと好きだったんじゃないのかな……リリに対する憧れのような恋とは違う、本当の意味での異性に対する恋心。チュンをライバルとして見ている彼女は、かなりキツい子ではあったんだけど、でも同じ道を懸命に進む、初めての仲間だった。でも二人は、音楽を目指す、その進む道が、こんな風に違うのだ。
ラストシーンは、もう本当に本当に心が震える。国際コンクールを蹴って、田舎へ帰る父親を追って、片手に弓、片手にヴァイオリン本体をむき出しのままつかんで、走って走って走るチュン。そこからこれぞ映画のマジックと言いたい、映像のコラボレーションで胸を揺すぶられる。お父ちゃんが回想する、置き去りにされていたチュンを拾った駅での、モノクロの回想がまず何度かカットインされる。そして今度はチュンの方が駅でお父ちゃんを見つけ、コンクールで弾くはずだった曲を弾き始めると、あの女の子のステージとオーヴァーラップされ、一人で弾いているはずのチュンにも見事なオーケストラがバックにつき、まさに奇跡のコラボレーションを見せてくれる。しかも……しかも!このチュンの、ものすごい“愛の集中力”!涙を流しながらとり憑かれたように弾きまくるチュンの、悲壮にさえ思えるほどの研ぎ澄まされた顔!遠く離れた彼女とも心を通わせているとしっかり思わせてくれるこの子の、何度も言っちゃうけどまさしく奇跡のコラボレーションに、しかしやはりお父ちゃんのためだけに奏でているこのシーンに、開けっ放しの口を閉じることが出来ず、そして涙も止めることが出来ず、ひたすら呆然と感動し続ける。このチュンの、いやチュン役のタン・ユンの、何という素晴らしさ。カットは細かく割られていたけど、この子の演奏の流れを感じることができる、凄いシーン。
やっぱり、本当に音楽をやっている人には、かなわないね。指先まで、完全に音楽しているんだもの。そこまで気持ちが満タンに行き届いているんだもの。思わず「カルテット」のヒドさなどを、思い出してしまった。あの(ピー)監督は自分が音楽家のくせに、そんなことも判らなかったのだ。ヴァイオリン映画といえば、「レッド・バイオリン」も印象に残っているけど、演奏そのもの、音楽そのものに魂が、気持ちが、感情がこもっているのは、断然こっちって気がする。
やっぱりお父ちゃんが忘れられない。編み直ししたト音記号が編みこまれたセーター(だって編物が出来るという時点で凄いもん!)に込められたチュンへの愛情。チュンが売ってしまったヴァイオリンを探しに入った店で、演奏者でもないお父ちゃんが、たくさんのヴァイオリンの中でひと目でそれと判るのも泣かせるし。北京に出てきたばかりの時に、安い宿に泊まってコワいお兄さん方に囲まれる風呂のシーンとかも、もう愛しくて愛しくてたまんない。それでいて、このお父ちゃんは実に優れた料理人で、田舎ではそれで名を馳せていたくらいだったのに、北京では、それこそインチキにトマトケチャップなんか使っているようなところでさえ料理人として雇ってもらえない。なんか……やっぱり都会って傲慢なのかな。ちょっと滅入る。
ううん、でもでも、もう幸せで笑顔でニコニコで、そして涙で、たまんない映画だった。ホント、心をとことん洗濯して、ピカピカの太陽でまっさらに乾かせてもらった、ってぐらい。★★★★★
で、驚く。本当に、言ったとおり。もう嫉妬してしまうこの才能。新人監督が出ると、まあそれなりにその斬新さや新鮮さや勢い、個性などなどに惹かれることはあるんだけれど、この人の、このいい意味での、めっちゃいい意味での老成の仕方は一体なんなの!?と叫びたいほど。ドライでパンクなラップに乗せて運ばれるあたりは意表をつかれるオフビートではあるんだけど(この音楽の選択もまた素晴らしいのだ。カリフラワーズのCD、買っちゃいそう)、黄金期の松竹映画を観ているような安心感と何よりバツグンの面白さは、こんないわゆるアート系劇場に閉じ込めておくのがもったいないと感じるぐらい。もう最初からマリオンの大劇場でかけてみたいと思うぐらい。そういう大劇場は今やアクションとかスペクタクルとか、とりあえずハリウッドものとか、そういうものをかける場所、みたいに思われているようなところがあるけれど、日本のお家芸、ドラマを、役者を見せるそれっていうのは、大劇場でも全然見劣りしないものなのだから。何十年も前、映画が娯楽の王様だった時代に生み出された、強烈な個性でしかも上手い役者たちがスペクタクル並みのドラマの面白さを見せつけていたあの頃と遜色ないほどのこの映画に、嫉妬も忘れてすっかり引き込まれてしまった。
結構な長さがあって、しかも役者たちは皆一定のトーンではない。特に一人シリアスパートをまかされているメインのつみきみほと、その他の役者たちのどこかオトしたトーンとははっきりと違う。これだけのギャップがありながら、しかも彼女の視点でのシリアスとその他のオトしとが割と交互に現われながら、まるで停滞したり、迷ったり、違和感を感じたりということがないのに驚嘆した。これだけの上手い役者を使っていながら、根底を監督がしっかり、どころかギッチリつかんでいるのが判る。いや、上手い役者は確かにそうだけれど、例えば宮迫博之がここまで上手いというのは実際オドロキだったし、大谷直子のクルクル代わるテンションの可笑しさときたら絶品だし、最初から最後まで一人シリアスなつみきみほのせっぱつまったマジメさは張り詰めていて痛々しくって涙が出そうなぐらいだし……つまり、その誰もが、今まで観客側が認識していたレヴェルから格段に上の演技を披露しているのだ。これぞ、引き出される、ということなのだ。その意味でもこの新人女性監督、恐るべし!なのだ。
平凡な家族。穏やかな家族。そのはずだった。少なくとも娘の倫子は恋人にそう強調し、誠実で優しい父親と、シッカリモノの母親を賛美する。ボケちゃったおじいちゃんだって、お互いを必要とする、大切な家族の一員。それを聞いて恋人の鎌田も彼女のことがますます好きになる……はずだった。
この鎌田が彼女の家に初めて挨拶に来た日の、食事会の気まずさといったらなかった。でもそれも幸せな気まずさだった。最後の、幸せな。でもしずしずとその影は迫り始めている。おぼっちゃまの鎌田はこのあったかい家庭にすこぶる感激していたけれど、彼を送り出した後、倫子の両親、特に父親の方はさんざん毒づく。「お上品でござい、って感じのおぼっちゃま」だと……そこには娘を嫁にやることに対する戸惑いがあるのだと、その時は思っていた。でも、違う。
お互いがお互いを思いやる家族。それは裏返せば、こう。お互いを思いやることで自己満足に陥っていた家族だったのだ。隠し通してきた兄の存在がそこに影を落としていたのだけれど、すべてが崩壊した時、このおぼっちゃまの恋人、鎌田が言ったことも、あながち間違ってはいないことが判る。僕は騙されていた、と彼は言い、婉曲ながら倫子に別れを言い渡す。サイテー!とは思うし、倫子は何も知らなかった、何も悪くなかったとも思うけれど、“お互いを思いやることで自己満足に陥っていた家族”であることは本当だったのだ。ボケてしまって手のつけられないおじいちゃんのことも恋人の鎌田に包み隠さず話す倫子は「別に恥ずかしいことじゃないし」と言い、とても感じが良かった。でもそのことがスケープゴートになって隠されたのが、一家の恥である兄の存在。おじいちゃんのことを話すことによって、その自己満足が完結されたのだ。邪魔者を、排除するために。
この鎌田を演じる手塚とおる、とても見る顔ではあるんだけれど、ちゃんと認識するのは初めてのような気がする。いいとこ育ちのおぼっちゃまが、憎たらしいほど上手い。彼の戸惑いがはっきり悪じゃないのが、戸惑いが判るのが、憎たらしい。……ホント、判っちゃうから。
倫子が忌み嫌ういいかげんでウソばかりつく兄、周治は、妹の倫子と正反対の性格。倫子はこの兄が家族の中の鬼っ子だと思っていた。しかし父親が内緒にしていた多額の借金がバレた時、母親は言う。「お父さんは、お兄ちゃんが自分とソックリだから、薄気味悪くてあんなに嫌っていたんだ」と。
そんな母親は、周治が帰ってきた時手放しで喜ぶ。「倫子はいい子なんだけど、いい子すぎて息が詰まるのよ。周ちゃんがいた時、メチャクチャだったけど、面白かった」それを物陰で聞いてしまった倫子。
どうやらドロボウを重ねて追われているらしい兄が帰ってきたことで、ただでさえ苦境に立たされている家族がますますボロボロになることを恐れた倫子は、両親に正論を重ねて、兄に出て行ってもらおうと言う。母親は言う。「コワイ子ね。あんたのお兄ちゃんでしょう。」
この時点では、倫子にひたすら共感していた。倫子を演じるつみきみほだけがひたすら真摯でマジメで、この深刻な状況の中で兄を演じる宮迫博之も両親の平泉成、大谷直子 もどこか自虐的なんだけど噴き出してしまうようなユーモラスな演技を展開していたせいもあって。でも人間、正しさや常識の中だけにしか真実があるわけじゃないということ、正しさや常識が思い込みを生んでしまうということが、ラストのワンカット、ひざをかくんとさせられるのだ。
周治は、全くのウソツキではなかったこと。
倫子は小学校の先生をしている。恋人であった鎌田も同僚の先生。ここでも彼女はまじめでまっすぐで正論を子供たちに教えている。母親が病気だとウソをついた、とクラスメイトの女の子から言われた男の子に、ウソはいけないこと、と諭す。しかし、そのことによって迷惑をこうむっていたはずの女の子がぽつり、と言う。「先生、○○君のお母さんは本当に病気じゃなかったんですか」
この女の子のことを、倫子は鎌田に、苦手、ちょっと怖い、ともらす。この小さなシークエンスが、倫子と兄の周治の関係を実に上手く暗示している事に後で気づき、その上手さに、唸る。ここだけに限らず、語り方に実に隙がなく、役者の演技ともども上手いなあ、と何度も唸ってしまう。お経にあっけらかんとドラミングのリズムが重なっていく乾いたユーモラスさには噴き出してしまうし、葬式での取立て屋との攻防や、そこに周治が割って入る痛快さなんかも。父親のリストラをここまで生々しく描けるのも。しかもその上手さにイヤミがない。こんなに若いのに(私もしつこいけど)。凄い。
周治は確かにいいかげんでウソツキ、だったんだろうけれど、すべてがウソではなかった。いや、あるいはすべてウソではなかったのかもしれないとも思う。ごまかしや言い逃れ、そんな風にいいかえられる程度の、罪の意識のないもの。罪の意識がないからといって罪にならないという訳では無論ないのだけれど、彼自身に自分がいいかげんな人間だという自覚があるというのが、大きいのだと思う。あるいは、この家に戻ってきてから、もしかしたら周治はウソやいいかげんを封じ込め、本当に家族を助けるために、一計を案じてくれたのではないかと、すべてが終わってみると思ったりもするのだ。でも今までのことがあるから、倫子は、お兄ちゃんはこの家のすべてを奪うつもりなのだ、としか思えない。倫子はまじめで正しくて、周治から「そういえばお前がデタラメ言ったのって聞いたことがない」と言われるぐらいなのだけれど、彼女自身に、それが時に歪んだメガネになるのだということに自覚がない。
お互いが似ている同士だからこそ薄気味悪かったのね、と父親と周治の関係を断じた母親だったけれど、彼女が「いい子過ぎて息が詰まる」と言った倫子だって、自身とソックリなのだ。おじいちゃんを介護するシッカリモノの母親。イライラを必死に抑えて一人その労苦を背負い込む彼女に、しかしその介護の、ある何気ない場面に対して父親が「猜疑心が強い」と批判する。
この介護の苦労も判っていないのに何を言うのか、と観客もまた腹を立てるのだけれど、でもそれこそが彼女と倫子の共通点だったのだ。自分の一生懸命、自分の正しさ、それを信じていることが、たまーに、本当に稀なぐらい時たまなんだけれど、相手の方が間違っているんだ、という直結になってしまうということを。知らず知らず、相手を傷つけてしまっていることを。
その結果、母親は気付いていないふりをして(鏡に映った疲弊した顔!)、発作を起こしたおじいちゃんを見殺しにし、そして倫子は兄を警察に売ってしまった。
この兄、周治を演じる宮迫氏にはホント、驚いてしまう。こういう、実に複雑な内面を演じるのもとても的確で、どちらともとれる表情といい、小憎らしい台詞回しといい、役柄のせいもあるけれど彼一人ですっかり、この映画をさらいまくっているのだ。あの怪しい目とまゆげがたまらない。テレビドラマを見る機会がないのもあって、私はこの人がこんなにいい役者だなんて全く、知らなかった。いや、きっとこの映画で彼はかなりの飛躍を遂げていると思う。とにかくこの周治という役の内面の複雑さときたらちょっと、ないんだもの。とんとんと小気味よい展開とコミカルさでそれをうまくくるんでいるけれど、本当に難しい役だと思う、のに、完璧といっていいほど制御し、完成された演技。
そしてつみきみほ。彼女はもともと素晴らしいんだけど、この倫子役でまさに花開いたと思う。ここ近年非常に目覚しい活躍で、「コンセント」の素晴らしさなんかも思い出されるけれど、本作での彼女は際立っている。ただ一人シリアスをまかされるという、しかもまっすぐな中に戸惑いがあり、でもそのまっすぐを性格的に崩すことが出来ない彼女の痛ましさが、これまた完璧なのだ。しかも劇中、兄から言われるように、喪服の彼女はとても美しい。特に疲れきって乗り込んだタクシーの中、ほつれた髪に顔を半分かくしているところなんかちょっとオッと思ってしまう色っぽさ。この独特の喋り口はやっぱり好きだし。
おじいちゃんのお葬式、そして父親の借金の発覚、鎌田との別れ、取立て屋との攻防……もんのすごい嵐の中でふっと夜半、一息つき、兄と妹がひとつのテーブルを挟む。イイカゲンな兄に対して警戒をとかない妹と、そのことが判っていながらやはり妹として彼女のことが可愛い兄。
このシーンで、兄のウソに初めて騙された時の思い出を持ち出す倫子。兄に教えられた、美味しい蛇イチゴのありかが見つけられなくて、迷子になって大騒ぎになった時のこと。蛇イチゴなんてなかったんでしょう、あれもウソだったんでしょう、と、お兄ちゃんはウソしか言わないから、とつめよる妹に、違うよ、あれは……と目を泳がせる兄。絶対あったんだって、なんなら今から連れていってやる、と立ち上がる兄に、半ば意地でついていく妹。この時点ではやっぱり周治の方がウソをついているんだと、その戸惑った表情からそう思っていた。なのに……。
薄暗い森の中、途中周治の姿を見失い、しかし川の向こうから手を差しのべる兄に怖くなってきびすを返してしまう倫子。そういえば森に入った時から兄に、震えてんじゃないか、やっぱり怖いんだろう、とからかわれる彼女は、子供の時も、そして今も怖さから蛇イチゴのありかを見つけられなかったのかもしれない。見つけられなかったのは、この川を渡らなかったからだよ、と手を差しのべる兄に後ずさりする彼女が恐怖したのは、その川なのか、自分が間違っていたことを突きつけられることなのか。
怖くなったら、相手を、あるいは対面している事実を、ウソなんだと断罪すれば、自分が救われるんじゃないかと。そんなこと、考えてみもしなかった。いや、どこかで判ってはいたんだけれど、気づかないフリをしていた。母親も、倫子も、そういう性格の持ち主で。だからこそ父親はきっと借金のことが言えなかったし、本当は手元に置きたかった周治も勘当してしまった、のかもと思う。正しさが、誠実さが相手を傷つけてしまうこと。……それってやっぱり、あるのだ。
兄に背を向けて駆け出していった直後、警察に電話をしてしまった倫子が、疲れ切った表情で家に着いた時、ハンガーが揺れていた。まるで幽霊を見たような表情でハッとする彼女。しかし部屋に入ってみると誰もおらず、窓からの風が揺らしていたのだ。そしてテーブルの上にキラキラと光っていたのは……一面の蛇イチゴ。
へたりこむ倫子。そしてへたりこむ気持ちの観客である私。ウソじゃなかったんだ、周治はウソをついていなかったんだ……グサリとくるラストなのに、なぜかハッピーエンドをさえ感じさせる切ないあたたかさが、一体なんなの!?と思うぐらい、ヤラれた、って思う。蛇イチゴというタイトル、何なんだろうとか思っていたのが、ここでビシッと決められちゃって、本当に、ヤラれた、参りました!と座り込みたい気分(って、座ってるけど)。
面白い以上に深い、底なし沼のように深い。★★★★★