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小さな恋のうた
2019年 123分 日本 カラー
監督:橋本光二郎 脚本:平田研也
撮影:高木風太 音楽:宮内陽輔
出演:佐野勇斗 森永悠希 山田杏奈 眞栄田郷敦 鈴木仁 トミコクレア 金山一彦 佐藤貢三 中島ひろ子 清水美沙 世良公則 上江洌清作 儀間崇 高里悟
ほんっとに現代音楽に疎いんで、もー私にとっては80年代で止まってるんで、聞いたことはあるけど……という程度でほんっとに知らない訳。本作がMONGOL800の大ヒット曲を出発点にしていることや、彼ら自身が投影された高校生バンドであることさえ、なーんにも知らずに、なんとなくポスターのイイ感じに心惹かれて足を運んだだけなんだから、ほんっとにもう!
でもそれがかえって良かったような気がする。そういう無知だから、そうした背景をちらりとでも耳に入れちゃったら怖気づいて、きっと足を運ぶことはなかっただろう。そーゆー作品、いっぱいあるもの(爆)。
舞台は沖縄。ということに気づくには、最初四人組バンドだった彼らに東京からのデビューの話が来た時に初めて気づく。登場する誰もがめっちゃ標準語だから。ちょっと残念だなあ。
だってこれ、結局は(という言い方もヘンだが)めちゃくちゃ沖縄の話、沖縄じゃなきゃいけない話じゃん。やはりそこは、通じる程度の沖縄訛りを聞きたかった気がする。
でもそういう中途半端がいけないということなんだろうか。そんな中途半端なウチナー口で喋ってないよということなんだろうか。
でもでも、もったいないなあ。ぜんっぜんテイストは違うけど、名作青春バンド映画、「青春デンデケデケデケ」ではしっかり讃岐弁を喋っていたんだもの。
……思わず思い出してしまった。大好きなデンデケを。ぜんっぜんテイストは違うが、学祭のバンドとゆーのがいかに最強の花形かというのは、ホント、時代を経ても変わらないものだとつくづくと思う。
しかしまぁ時代は違うから、バンドを組むのにかの時代ほどの苦労はなく、軽音楽部内での確執があるぐらいにバンド活動なんぞは珍しくない。
しかしその中でも亮多、航太郎、慎司、大輝の四人が組んだバンドは学内でも熱狂的な人気を誇り、たびたび練習と称したゲリラライブを行なって、おカタい学校からお咎めを受けているんである。
この程度で、沖縄のような解放感あるイメージの風土でこんなうるさく言うの??と思わず意外に思うが、そしてどこまで史実??に沿っているかも判らないが、MONGOL800のメンバーの実際の学生時代、を再現している、ということなのかなぁ。あまり時代性を追った感じはしなかったが……だってフツーにスマホだもん。
まあそれはともかく……。その中の慎司、ギター&サブボーカルの彼が、死んでしまうんである。何も情報入れずに行ったから結構ビックリする。最初、死んだと思われたのはメインボーカルの亮多なのかと思われた。慎司が血相変えて病院内を走り回るから。
どー考えても霊安室のフロアだろ、と思われるところでぼんやりベッドに身を起こしている亮多を慎司が見つけた時点でおかしいと思うべきだった。だってあと二人のメンバーは、亮多が記憶をなくしているというのは大問題だとしても、軽傷で済んでいるんだから、あんなに身も世もなく涙をこぼしてるのはおかしいんだもの。
慎司は病院から亮多を引っ張り出して、自分たちの大事な場所に連れまわす。見てるこっちとしては、いやさぁ、病院から連れ出すとかないよ、記憶喪失だけじゃなくてまだいろいろあるかもしれないじゃん、とか、オトナなツマンナイ意見を心に抱いたりするが、でも一方で、なんかヘンだという不安は持ち続けている。
つまり、これは……実際に連れ出された訳じゃ、なかったってことなんだよね??再び気づいた時ベッドにいるんだもの。すべてを思い出して。思い出したくないほどのショックを受けたから封印したその記憶は……慎司が死んでしまった、ということ。
しかも轢き逃げ。この沖縄という地でもっとも起きてほしくない、その犯人はひょっとしたら米軍基地内の人間で、国際問題やら忖度やらで、ひょっとしたらもみ消されてしまうかもしれないということ。
結局は、明らかにされないんだよね。犯人は、判らないまま。めっちゃ偶然だが、同じ公開時期で、轢き逃げを題材にしている作品があるというのは、ひどく興味深い。一方はその罪からは決して逃れられないことを描き、一方では、ひょっとしたら逃れられちゃうかもしれないことを描く。
後者である本作では、犯人がどうということではなく、日本とアメリカ、基地問題の確執、そしてそれが沖縄以外ではあまり関心がないことや、国同士という問題が沖縄以外と比べて信じられないほど重いということ、人間同士は関係ないじゃん、ということを、気軽に言えない、それを本当の意味で言いたいけれど、ということを、ひどくひどく、痛感させられるんである。
慎司は事故に遭う前、ひょんなことから基地内に住む少女、リサとフェンスを隔てて親しくなっていた。こんなプラトニックって、ない。フェンスの外で会ったことはないのだ。いつも他愛ない会話をフェンスを隔ててかわし、慎司が仲間たちと作ったオリジナル曲をフェンスのあっちとこっちでイヤホンを分け合って聞いていた。
イヤホンの分け合いはセカチュウの時代からのテッパン胸キュンアイテムだが、それが米軍基地のフェンスを隔てているというのは、ついつい、こりゃーアイディアだ!!と無粋なことを言いたくなるほどである。亮多の言うとおり、国境を超えちゃっているんである。
結局、慎司とリサは国境を越えて触れ合うことはないまま、彼は死んでしまう。それだけでなく、慎司の死後も交流を続けた亮多以下のメンバーたちも、リサとフェンスの外で出会うことは結局、ないのだ。
学祭に呼んでいたのに、轢き逃げ事件が解決しないことで県内の抗議運動が激化し、リサは結局、外に出られなかったから。それでなくても籠の鳥のままだったのに。
籠の鳥、なんて言葉がついつい出てしまった。リサの登場シーンが慎司や亮多、慎司の妹とフェンス越しでコミュニケーションする場面ばかりで、学校に行く場面すらない、まるで両親に隔離されているように感じちゃったからさ。勿論、彼女にだって彼女自身の生活はあったに違いないのだが……その辺は、ちょっと歪んだ描写になってしまっていたかな、という気はする。
ただ……本作が、カリスマ的学園バンド、学祭での熱狂パフォーマンス、という、青春バンドモノの王道を一方で描きながらも、大きなテーマは沖縄であり、国の対立ではなく人間同士であり、ということを目指しているという……これは本当に、難しいテーマであると思うからさ。
リサの両親は結局、娘を外に出すことを許すことができない、この事件でひどく神経質になっているからであり、沖縄の人たちと仲良くやっていきたい、それはもちろんだ、とは言うけれども、彼らが沖縄の人たちと交流を持っている場面はないし、やはり基地内で守られた米軍勤務、にほかならないんだよね。
その子供たちは、そういうこととは無関係であるわけで、そしてリサは、慎司と出会い、慎司の妹舞と出会い、そしてそして……。
結局犯人は捕まらないし、リサは学祭に行けないし(抗議デモに阻止される)、彼らがフェンスの外で出会うことも出来ない。
何一つ、解決していないのかもしれない。そこは……ただただ大人の社会というか、国際社会というか、生臭い国同士の水面下のやり取りに、水中のあぶく以下に消えてしまうものなのかもしれない。
ただ……。慎司の妹、である。彼女が、死んでしまった兄の代わりに、ギターを持つ。代わり、という言い方は好きではない。誰だって、誰かの代わりにはなれないのだから。
でも、この場合、もうその言い方以外に適当なものが見つからない。彼女は兄のパソコンからタイトルさえ決まっていない、ハミングだけで収録された曲を見つけ、落ち込みきってバラバラになっていたバンドメンバー、あの事故現場にいて一時記憶喪失になっていた亮多の元にまず持ち込む。
これを完成させたいのだと。そして兄の活動を冷ややかに見ていたように思われていた彼女は、すべての曲をギターで完璧にマスターしていたんである。
結局はMONGOL800さんはスリーピースバンドであって、最終的に慎司の妹が兄の代わりにと再結成する形がMONGOL800さんの形になる訳だから、ここがゴールであることは間違いないのだが、実はお兄ちゃんの曲全部マスターしてましたってのは、これはなかなか……うーむ。
それはさ、やっぱり、兄から妹への手ほどきがあったとした思われず、だからかなり辛抱強くその回想シーンを待っていたのだが、現れなかった。
えーっ、だって、兄の部屋にしかギターはない訳だし、兄は常に持ち出してる訳だし、そんなこっそり練習、しかも独学でとか、できねーだろ!ここは兄に教えてもらってたんだというカンドー回想場面があっていいんじゃないの。
だってさだってさ、結局彼女はお兄ちゃんが大好きで、期待していた息子の死と、基地で働いていた仕事を失ったことで真っ暗暗闇の両親とのへだたりがある訳じゃん。このシークエンス重要じゃん。
特に父親が、苛立ちに任せて息子のギターをたたき割ってしまって、妹ちゃんが、彼らがなーんも見てなかったことに憤ってほえる、ここぞとほえる、これ以上ないクライマックスシーンが用意されている訳でさ。
それにしては、生前の兄の妹との関りが全然判らな過ぎだわ……これもまた、もったいないことのひとつだわな。
個人的に好きだったのは、ドラム担当の航太郎役、森永君。勿論売れっ子で活躍している子だし、見覚えはアリアリなのだが、改めてこーゆー役者に私、ヨワいなぁ、と思ったなあ。
ちっちゃくて、人懐っこそうで、メインのメインじゃないけど、物語を大きく動かすきっかけを作るだけの大きなムーブメントを起こせる魅力のある役者。そーゆー子に私はメッチャ弱い(爆)。そーゆー子を見てるだけで、なんか涙が出ちゃう(爆爆)。
だって彼、ほんっとうに嬉しそうにドラムを叩くんだもの。こいつらと一緒にやるのが、幸せでたまんない!!!って顔でさ!!
あーあとね!彼らの才能とやる気に惚れ込んで、時に暴走しちゃうライブハウス店主の世良さんがサイコーにカッコ良かった!!
彼自身の音楽に対する愛もすっごく感じたし、時に涙を浮かべるあの表情は演技じゃなくて、まさに音楽に対する愛だと思ったなあ。この役ピタリ過ぎる、ホントに!!★★★★☆
結果的に、とても哀切でひどく美しい女性映画。決して死を感動モノになぞしないのは、やはり田中絹代監督なのだ。実話ということを差し引いたって、難病モノ、死んじゃうモノを感動モノに仕立て上げるのはもう、あまりにも見慣れたケースなのだもの。
でもそう見えそうで、違った。彼女の女としての、若い母親としての、美しさ哀切さ、友人との美しい絆、プラトニックな恋、なんだかもうすべてがあまりにも美しかった。実話を借りて、田中絹代監督が見事な女性映画を作ったと思った。
女性映画、という言い方自体、もう現代では成立しないだろう。それこそ男女平等うんぬんに関わってしまうし、私のようなフェミニズム野郎にとっても格好の攻撃材料である。
でもこの時代は、それがむしろ必要だったのだ。この時代の女性の立場の弱さ、それに時にくじけ、でも立ち向かう彼女たちの弱さと強さ。そしてそれを真の意味で描けるのはやはり女性であり……この場合、乳房を失う、ということのショックを真の意味で理解し、演出できるのはやはり、女性監督に他ならないと思うのだ。
これも、時代があると思う。乳房を失うことの衝撃度合いは、現代では当時ほどではないような気がする。少なくとも私は全摘と言われても、命が助かってラッキーと思っちゃう。
いや、このヒロイン、ふみ子の場合は両乳房をとられてなお、もはや肺に転移しちゃって余命いくばくもないわけだから同等に比較するべきでないのは判っているけれど。
でも、転移を知らなかったとはいえ、ふみ子が真にショックなのはやはり乳房を失うことそのものなのであり、それはこの当時の女性の社会的立場……妻であり母であることこそが重要であった時代において、あまりにも現代と違い過ぎるのだ。
なんてところにばかり拘泥していては、本作の美しい魅力をつかみ損ねてしまう。そもそもこんな伝説的歌人が、しかも北海道にいたなんてことを、私は知らなかった。
美しすぎる月岡夢路。何かで彼女を見たことあっただろうか、思い出せない。冒頭、二人の可愛い子供に恵まれてはいるけれども、彼女の結婚生活は最悪である。
仕事を失っただけでは理由のつかない夫の不機嫌さ。でも後から思えば、もしかしたら彼は、ふみ子がすすめられるまま、愛することもなしに結婚した、心の中に巣くう後悔と不満を感じ取っていたのかもしれない、などと思う。
ふみ子が歌会に出席するのも気に入らない彼だが、まぁそれは、この時代の男性なら、家庭に大人しくとどまっていない女、というのは気に入らないものなのかもしれない、とは思う。
でもやっぱり根本的には……やはり彼女自身の中にある気持ちに気づいていたんじゃないかと思う。めっちゃわっかりやすい浮気現場に遭遇したりする。脱いだ足袋をそのままに、艶っぽい女が逃げていく。開き直る夫にたまりかねたふみ子はついに離婚を決意する。
しかし……この状況なのに男性側の意向が通ってしまうというのがこの時代なのか……長男は、夫側にとられてしまうのだ。仲のいい幼い兄妹が引き裂かれるのがあまりに、辛い。
ふみ子が結果的に幸福だと思われるのは、彼女を理解し愛する友人たちに恵まれていたことである。その最たる存在が、学生時代からじゃれあっているように仲がいい、森夫妻である。
森夫人のきぬ子は、ふみ子が自分の夫を慕っていることを、知っていたのだろうか。知っていたような気がする……。森を演じる森雅之が、そもそも登場から病を得ていていつどうなるか判らない感じで儚い。
ふみ子の想いを穏やかに受け止め、一番の理解者であり、ふみ子の才能を一番に見出した人であり……そして突然、死んでしまうのが、あまりにもあまりにも哀切なのだ。
プラトニック。それは本当にそうだった。この三人は学生時代から本当に仲が良くて、だからふみ子は辛いことがあると森家に、時に子供連れで逃げ込むようなぐらいの仲だったのだ。
きぬ子が用事で外出し、森とふみ子が二人きりになる。何が起こる訳ではない。だって森はこれ以上ない紳士なのだから……でも、ふみ子は想いを吐露しちゃうし、きぬ子の帰宅を待たずにふみ子を送っていくそぼふる雨の場面は、本当に忘れられない印象を残す。
その後、森が死んでしまうから余計そうではあるんだけれど、この場面に、親友であるきぬ子の存在と想いもきちんと浸潤している美しさがあるように思えてならないのだ。
森の葬儀はキリスト教式に行われていた。それを思っても、この三人のプラトニックな信頼関係が素直に愛と言いたい気持ちになってくるのだ。
その後、病床のふみ子に見舞いと称する取材の形で訪れる、美青年の新聞記者、大月との感情は、恋まで行っていたのかどうか。でも死の間際だからこそ、あまりにも純粋に昇華されて美しいシークエンスが用意されている。
それにしてもふみ子!!なぜあんなに我慢に我慢を重ねていたの。もっと早く病院にかかっていれば、転移前に防げていたかもしれないのに!!何度も、自分の胸のしこりを気にする場面があるのに、彼女はその痛みに倒れるまで放置してしまうのだ。
……現代の感覚からすれば信じられず、なんてこと!と思うが、彼女だって聡明な女性だから、胸のしこりがどういうことを意味するか、判っていなかった筈はないのだ……やはり、女であることを失われることが、そんなにも、怖かったのだろうか……。
いや、どうだろう。事態の深刻さに気づいていたかどうかは……だって、隣のベッドの老婦人、その世話をしている老夫が、東京の倅が送ってきてくれた荷物を包んでいた東京の新聞、そこにあけすけに書かれていたふみ子の記事、つまり、肺にも転移していて余命いくばくもないという記事に愕然とするシークエンスが用意されていたからなあ。
乳房を失ったことはショックだったが、それ以外のことは告知されていなかったんだろう、ふみ子は激しいショックを受ける。訪ねて来た若い美丈夫に、いわば仕事の相手なのに、会いたくないと駄々をこねる。
ここから彼女の最後の恋が始まるのだが、とてもロマンチックではあるのだが、でもやっぱりすべてを包み込んだ森とのそれにはかなわないと思う。役者的にもね(爆)。
しかしヤハリ、稀代の美青年、葉山良二だから、そこは彼女の最後の恋を彩るのにふさわしいことは確かなんだけど。
ふみ子の弟が、姉は病を得てから子供のようになった、とぽろりと吐露した。見てる限りではそんなまでには感じられなかったけれど、大月に対する意地やわがままは、彼女が妻でもなく母でもなく友達の夫でもない、何のしがらみもなく対せられる相手に対するわがままだったのかもしれない。
きっとそれまでは世間的社会的女というものを演じてきたふみ子こそが弟にとっての姉の姿であり、それを捨て去った姉が子供の様に見えた、というのは……哀しいような、ほほえましいような、弟君が真の意味で姉の、人間としての本当の姿を判ってくれていればいいのだけれど、と思う。
同じ女性の目から見て、病を得てから様々に葛藤するふみ子こそ、とても魅力的で、美しかった。乳がんの病状に関しても、とても丁寧に描写されている。大月と対面する時、ブラジャーの中に乳首まで再現したパットを入れる場面にはどきりとしたし。
なんといっても、病院からきぬ子の元に抜け出して、風呂に入っているところを、きぬ子がつい見てしまって、その無残な手術跡に思わず顔を背け、ごめんなさい!!と絶叫する場面は壮絶だった。
そらー、実際に月岡夢路がそうだった訳はないんだから、カメラから見切れるそれは想像の産物にしかならない。でも、痛々しい放射線治療の跡が肌を焼いている様が無残に描写された、その下の部分がどうなっているか、想像せずにはいられないのだ……。
でも、なぜだろう、この時の月岡夢路ときたら、本当に本当に美しく、そんなことはまるで超越したマリア様みたいだったのだ。子供のよう、というのは、天使に近づいていたのかもしれないと思うほど。
彼女が実際に歌った歌ももちろん、ふんだんに使われてはいるんだけれど、田中監督が実際そういうつもりだったかどうかは判らないんだけれど……それほど、歌自体に重きを置いているようには感じられないのだ。
彼女を愛した人たちとの関り。それは、それがなしえなかった夫との関係から始まったから余計にそう感じるのかもしれない。
禁じられた想いを受け止めてくれた森、それを知りつつ、そのことに愛情と友情以外何も付与せず、親友としてふみ子を支え続けたきみ子、死にゆく娘にただただ無償の愛情を注ぎ続けた母、ふみ子の才能にまずは打たれ、彼女の女としての強さと魅力に打たれ、“最後の男”となった大月。
そして何より……ここで何より、と言ってしまうしかないのが、フェミニズム野郎としては悔しいのだが……ただ母を思慕する子供たち。
ふみ子と同室の老婦人と、彼女をかいがいしく世話している老夫がすごく、ふみ子のそうした、彼女自身がイマイチ気づいていない、築いてきた素晴らしい人間関係を、気づかせてくれる、あぶりだしてくれるのだ。
左卜全にしみじみ泣かされるなんて、思ってもいなかった。老いた妻をかいがいしく世話する左卜全に胸が熱くならずにいられない。
この老婦人は“引っ越し”をする。病室を移る、ということだろうが、どうやら最終病棟らしいここからの移動はやはり……という感じがする。
ふみ子が自身の死期を間近に感じ、霊安室へと運ばれていく野辺行きを、まるで夢のように、悪夢のように見送るシーンがある。それは、あの老婦人だったのか、判らない。目の前でがしゃん!と鉄格子が下ろされる。そしてそれは……自身が運ばれて行き、愛する幼い子供たちの前で同じ光景が繰り返されるのだ。
乳がんの恐ろしさが、きっとまだまだ広まってなかった時代の意欲作だと思う。結構、男子には乳がんなんてそんな死ぬほどのこともない、と思われていたような時代があったと思う。
本作が画期的なのは、無残な手術跡を生々しく想像させるのは当然として、「男の人も乳がんになるんですよ」「ホントに??」なんていう会話が繰り広げられる画期的さにもあるのだ。これはさ、現代だって知らない人は多いだろうと思うもの。
★★★★☆
シングルマザーが、他人の手を借りて共同保育をする。そのシングルマザーが監督さんのお母さんであり、この作品が上映された東中野で、その実験的子育てを立ち上げた、凄い人である。
凄い、と思う。私は独女だけど、このスタイルにはひどく共感する。こうあるべき、とすら思う。ここでも散々言い散らしているけれど、まず日本の実子至上主義が大嫌い。母親の方にだけ子育ての責任があるかのような(そうは言っていないというかもしれんが、そう言っているような社会体系なのだっ)世間の視線。
その結果がどうだ。子育てに疲れて子供を殺してしまったり、子供を虐待する夫を止められなかったり、外からの目線がまるで届かない閉塞子育て社会になってしまったではないか。
このお母さん、穂子さん、好きだなーっと思う。めんどくさいから、と突然坊主頭になるところとか、そもそも母親が子供を育てるべきとかいう日本的因習にとらわれず、困ったんなら助けを求めりゃいいじゃん、という行動力と、それをまとめ上げるアネさんっぷりがたまらなく魅力的だ。
私にはこんな行動力はないけど、なんか価値観というか、考え方が似ている気がする。そんな自分は親になんかなれないと思っていたけれど(いや、そもそも独女だからなれないけど(爆))、穂子さんを見ていると、どんな形でだって子育ては出来るもんなんだと、嬉しくなる。
結果として、この、いわゆるコミュニティで育った監督さんが、まさしく、スクスクと育った、ことが何よりの証拠である。いや、これはホントに凄いと思う。
もうこのあたりの年代なら親が離婚とかシングルマザーとか(シングルファザーがほとんどいないのは問題だが)そんなに珍しい話じゃなくなっているとはいえ、なんていうかさ、意地悪な見方をする人なら、ヒッピーみたいとか、共産主義みたいとか??批判するかもしれないじゃない。
そういう言葉が出てくるかと思ったんだよね、観てる間……勿論、この試みはただただ成功でしかなかったし、なんの問題もなかったし、むしろこれが全国に広まらないことが日本の根強い閉鎖性を示しているよなぁと改めて思ったんだけど。
穂子さんは、写真の専門学校に通っている時に、同級生だった相手との間に子供を身ごもった。一緒に暮らした期間はあれど、結局は入籍もしなかった。
監督さんは、お父さんとは一番仲のいい大人、というスタンスで、ずっと会ってるし、関わり続けている。それは穂子さんの意地でもあったろうが、監督さんにとっての超えなければいけない起点であったことは間違いなかろうと思う。
クリエイターとしての資質は、この両親から得ていたのだろうか。結局入籍もしないまま、穂子さんの方はかなり彼を嫌いぬいての別離だったらしいからアレなのだが……。
お父さんは、愛ありあまる写真を多数、無数、残してて、写真技術の良さのせいもあるけれど、やっぱりちょっと、穂子さんや監督さんに対する愛の目線をまざまざと感じて、グッとくるからさ……。
お父さんは、後半かなりの尺で監督さんとのケンカみたいな対話をし、まぁちょっと、大人げないというか、そんな感じのおっちゃんで、そりゃ穂子さんもアイソつかしたよなとか思っちゃって(爆)、その有様がまざまざと出ているからさ、よくぞこれで劇場公開許したなと思うんだけど、でも……。
この歯っかけお父ちゃん(爆)を後から思い返すに、こんなに正直に、愚かなほどに、いわば嫉妬心を丸出しにして、穂子さんや彼女が立ち上げて成功した保育スタイルに歯向かうのがさ、……もう、たまんないんだ。
確かに考えてみれば彼の言うとおりだ。共同保育には、厳密な責任はない。いわばボランティアで参加しているのだし、単純に子供と遊びたい、子育てを体験してみたい、という“善意”に頼っている訳なのだ。
お父ちゃんが「沈没みたいに出たり入ったり出来ないんだよ。俺は土と一生関わっていくんだから」というのは、……この人も言い方ヘタだなと思うんだけど、関わりたくないっていうんじゃなくて、むしろ関わり続けたいからこそ、歯がゆいんだと、悔しいんだと。
穂子さんにはかなわないという思いもあるかもしれない。この歯っ欠けお父ちゃんが沈没ハウスで穂子さんとガチケンカを、いわば公でする写真が残されている。ボクシングの試合みたいに映してて、ちょっとしたおふざけ感を出しつつ、でも本気だったのだろう。
……なんていうかね、このお父ちゃんのこと、憎めないのだ。監督さんも、一番仲のいい大人だと、子供の頃も、今も思っている。でもそれも切ないのだ。親という感覚が、ないんだもの。でもそれは穂子さんに対してもそうなんだけど……。
と、監督さんは語っていたが、幼き頃の監督さんを語る当時の保育メンバーは一様に、でもやっぱり、ママは特別なんだよね、と言うんである。それはなかなかに興味深い事象である。
大人になった本人に当時のその感覚がなかった、という記憶なのに、口ではそう言っていた、というのが。それこそが、アイデンティティというものなのだろうか。自分自身を確立させるための、なんというか、意地みたいな。
凄く意外だったのは、共同保育のチラシをまいて集まってきたメンバーのほとんどが、若い男性だったということ。なぜだろう?凄く不思議!それは観終わった今も、なぜなのか答えが出ない。子育てをしてみたいという積極的深層意識が、こんなにも若い男の子にあるなんて。
ふと、お父ちゃんのことを思ったりする。彼は実際に父親だった訳だけど、彼もまた似たような気持ちだったのかもしれないと思う。
女は、結果的に母親になることがなくても、どこかでシュミレーションしているというか、まぁ私のようにフェミニズム野郎だったとしても(爆)、やっぱり母親が子育てしないといけないんだろ、というような、あきらめにも似た?気持ちがあると思う。
だから、男子に対して私は目線が厳しいのだが(爆)、そう言われてみれば、こと男子の側の、そうした意識に対して考えたことがなかったな……と思う。
共同保育メンバーの中には、そこで出会って結婚して今子育てしているカップルもいるけれども、いまだ独身で、禿げ散らかしちゃったおっちゃんもいる。彼らのうちの一人が言う、他人の子供だから接することが出来た、自分の子供なんて想像できない、怖い、と言ったのが凄く凄く印象的で……なんか判る気がするな、って思って。
言ってしまえば自分自身の中にある無責任さを自覚して、自己嫌悪に苦しんでいるという点では、自分の子供なのに他人のようにしか関われない、歯っ欠けお父ちゃんと本質的な部分では同じなのかもしれない、と思ったりして……。
監督さんは、ずっとずっと共同保育の中で育っていた訳ではない。小学校半ばの時、穂子さんは息子を連れて八丈島に居を移す。これもまた穂子さんらしいというか、いつかはこの状態を抜け出る時が来るにしても、いきなりの離島である。
そこんところの事情は特に突っ込んでなかったのは惜しいが、現在の穂子さんが、やぎやらなんやらと一緒に、実に土臭い暮らしをしているのが、めちゃめちゃ、いいんである。小さなバンにやぎさん二頭詰め込んで、運転席からめっちゃ近い位置にいるのが、やたら笑える。放牧している時に、背中に乗っかかられたりするのもサイコーである。
監督自身は転校してきたこの地でイジメに遭ったりして、必ずしも故郷として純粋に思える場所ではないのかもしれない。でも穂子さんはこの地でもあっという間に溶け込み、今や地域社会を仕切る立場にあるぐらいのアネさんっぷりである。
……やっぱり、そういう血、なんだよなぁ。息子である監督さんも、歯っ欠けお父ちゃんも、かなわないのはもう、しょうがない。
この共同保育の中で育った子供は監督さんだけじゃ、ないんだよね。何人かいたのかもしれないが、接触するのはお互い“戦友”という年上の女の子一人。監督さんが転居したこともあって、他の共同保育メンバーたちともそうだし、彼女とも長年、会っていなかった。まさにこの卒業制作がなければ、再び会うことはなかったのかもしれない。
お互い、緊張しているのが伝わってきて、ドキドキの対面である。いや、緊張しているのは監督さんの方だけだったかもしれない。彼女の方は、凄く楽しみにしていた、という。実際のきょうだいでもなく、でも一緒に育って、十数年会っていない間柄なんて、そりゃあ、こちとら想像できる訳もない。
でも本当に、いいなぁと思ったんだよね。何より、価値観の共有。この沈没ハウスという実験的試み、お互いに「人体実験だったよね」と笑い合うような子育てスタイルに、「かなり成功じゃない?」とお互い笑い合える。これは……きょうだいも越えるぐらいの絆だと思う。なんだかうらやましいと思っちゃうほど。
その他にも育てられた子供はいたみたいだし、もしかしたら彼らのように思っていない子供もいたかもしれない。それはそうだけれど……ただ、このスタイルをもし糾弾する人がいるとしたら、肯定している彼らの言葉を聞いてほしいと思う。
あーなんで、当時注目されたといい、マスメディアにも何度も取り上げられたというのに、このスタイルが、ただ珍しいだけで終わってしまったのだろう!!結果、こんな息苦しい日本社会のままなのにさ!!
沈没ハウスは東中野にあり、この作品がポレポレ東中野で劇場公開されたというのは、監督さんが感慨深げにいうのはもっともである。監督さんの生まれた年にポレポレの前身(つーか、名前が変わっただけ)のBOX東中野が開館したというのも、運命的なものを感じる。
BOX時代から挑戦的なプログラムに惹かれて足を運んでいたこちとらとしては、じゃああの時に監督さん家族、保育スタッフとすれ違っていたのかも!!と思って、こちらも感慨深い。
なぜ沈没ハウスという名前なのかと思ったら、「当時の政治家が「男女共同参画が進むと日本が沈没する」と発言したのを聞いて腹を立てた穂子が命名」
マジ、最高っす。やっぱり穂子さん、好きだなぁ、めっちゃ価値観似てると思っちゃう!!★★★★☆