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「き」


2018年鑑賞作品

菊とギロチン
2018年 189分 日本 カラー
監督:瀬々敬久 脚本:瀬々敬久 相澤虎之助
撮影:鍋島淳裕 音楽:安川午朗
出演:木竜麻生 韓英恵 東出昌大 寛一郎 嘉門洋子 前原麻希 仁科あい 田代友紀 持田加奈子 播田美保 山田真歩 大西礼芳 和田光沙 背乃じゅん 原田夏帆 渋川清彦 嶺豪一 荒巻全紀 池田良 木村知貴 飯田芳 小林竜樹 小水たいが 伊島空 東龍之介 小木戸利光 山中崇 井浦新 大西信満 川本三吉 高野春樹 中西謙吾 大森立嗣 篠原篤 菅田俊 川瀬陽太 嶋田久作 渡辺謙作 宇野祥平 中田彩葉 鈴木卓爾 小林節彦 松山カオル 飯島大介 上木椛 村上由規乃 森田晋玄 下元史朗 奈良大介 金城左岸 内堀太郎 中村修人 荒堀舞 和久本あさ美 三村晃傭 松村厚 武田一度 吉岡睦雄 柴田一樹 西村達也 申芳夫 渡辺厚人 松倉智子 海野恭二 辻凪子 白井良治


2018/7/30/月 劇場(テアトル新宿)
うわぁ、長い、長いよ瀬々監督(泣)。「ヘヴンズ・ストーリー」ほどではないが、189分、特別興行2000円と言われた時にはやはりビビッたよ。
コンパクトな60分ピンク映画を撮り続けてきたのに、商業映画に行くとやたら長い尺になるのは、なんで、なんでなのー。基本的に、コンパクトな映画が好き……(根性ナシ)。

まだ製作にさえ入る前、劇場でもばんばんクラウドファンディングでの協力を呼び掛けていた時から、確かに監督の本気度はものすごく伝わってきていた。監督自らのスポンサー呼びかけ、歴史大作、でコケた某・熊楠映画なんぞをふと思い出して不穏な気もしたが、最近はホント、クラウドファンディングでの資金集めが小さなところからこうした大きなプロジェクトまで浸透して、成功しているんだもんなあ。
これは、大きなプロジェクト、いや、結果的になったというか。そもそも舞台にしている時代、そして女相撲という特殊さは、時代考証、相撲の技術、ありとあらゆるお金のかかりそうな(爆)ことが満載だしさ。

実際、ちょっと驚いたのだ。劇中の男たちのように、ナメてかかっていたかもしれない。エロを売り物、というのは実際の女相撲にも当然あっただろうし、劇中の玉岩興行も冒頭はそんな場面があるが、女力士たちは本気で強くなりたいと願い、イロモノにみられることをひどく嫌う。
その相撲シーンは圧巻で、まぁ、一座の中での仲間同士の闘いだからいわばプロレスのような趣はあるんだけれど、ちょっと、本当に、凄いんである。小兵同士も、それこそ大関クラスもすさまじいぶつかり合いで、この女相撲の迫力を見るだけでも、この映画に足を運んだ価値は充分にあると思っちゃう。

それに、興行をかけるための様々な描写、田舎町を相撲甚句を口ずさみながら練り歩く粋な着物姿の力士たちは土俵上とまた違って美しく、大きなテント小屋のような中に土俵を築き、風にはためく大きなのぼりが何本もたち、ああなんか、とてもワクワクとしてしまう。
エロを目当てに集まった男どもを、迫力の相撲で黙らせて、拍手を起こさせて、興奮させちゃう、本当になんとも、臨場感たっぷりで。

その女相撲と、タイトルでも対等なのがギロチン社の青年たち。対等、と書いたが、タイトルでは女相撲は菊、つまり花菊だけに託されていることを思うと、ちょっと、監督の思いはギロチン社の方にあるのかな、とちらりと思ったりもするが、暴力夫から逃げ出し、連れ戻され、しかし力士に戻っていく菊が女相撲の象徴であることは間違いないのだから、そういうわけではないのかな、と思ったり。

でも、ギロチン社っていうのはさ、なんつーか、このお年頃の男子(奥歯にものが挟まったような言い方……)がお好きな感じが凄く、しちゃう。つまり、このお年頃の女子にはちんぷんかんぷんなものだから(爆。頭が悪いだけ……)。
めっちゃくちゃ、デジャヴ感があったのよ。あったあった、ギロチン社を題材にした映画「シュトルム・ウント・ドランクッ」。この時、ギロチン社をめちゃくちゃ検索したよ、だってワケが判らなかったんだもん。
本作で女相撲の親方を演じている川瀬氏が、大杉栄を演じていたんだね……。そう、なんとなくギロチン社さん所属のお方のお名前に聞き覚えがあったのは、この時、ワケが判らないから不安になってひどく検索しまくったから、なのであったのだなぁ。

しかしこれが残念ながら、もう一回同じ状況に陥る(爆)。ギロチン社のみにクロースしたシュトルムは細かい事件まで一つ一つ追っていて、しかしそれが、なぜそんなことをするのか、その思想も、一人一人の考えがギロチン社の中でも全然違うというのもあって、理想というのが突き詰めると細かすぎて難解になるというのもあって、もー私にはハテナ印だらけで、本当に映画を見てしまったことを後悔してしまったぐらいなのだが(爆)、同じ感覚を、本作でも中盤まではちと、持ってしまった(爆)。

つまりそれぐらい、瀬々監督もまた、ギロチン社の事件を丁寧に、ひどく丁寧に追っていく訳。実録物的に、扇情的な筆文字で事件を起こした人物や、その経過をバッ、バッ、と示しはするものの、そもそもアナーキズムというのがいくら聞いてもよく判らないし(爆)、それを信奉する彼らの気持ちはもっと判らないし(爆爆)。
いや、単純に、理想的な公平な社会を作ろうということなんだと理解はできるけれど、同じ思想の筈なのにメンバー内では全く対立し、起こす事件もそれぞれ共有しているようには思えないし、バラバラなのか、つながっているのか、もう、さっぱり、判らーん!!と思っちゃうんである。

もう、だから、見るのをあきらめようかしらんと思ったぐらいなのだが、中盤から、一気に判りやすくなる。それは、女相撲とギロチン社たちが出合い、シンプルな部分での、今の世の中への憤りが、マッチしたから。
もちろんこれはフィクションで、同じ時代に存在はしているし、ギロチン社は実在人物これでもかと投入して、実際の事件もこれでもかと投入してくるが(だから、判りづらいのよね)、女相撲に関しては、もちろんこの時代に隆盛を極めたという事実はあっても、忘れ去られるし、それは男社会の中で生き残れなかったということであって、作劇として作り直されていると、非常に判りやすい。
女としては、これを男性の監督に掘り起こされたのがちょっと悔しい気持ちがあるんだけれど。まぁともかく、忘れ去られていて、有名な実在の女力士とかが登場するわけでもなし、歴史的事実があるとはいえ、こっちはまったき、フィクション、なんだよね。それが不思議なカップリングなのだ。なんとも。

群像劇だから、もうたっくさんの人が出てくるから、めんどくさいんだけど(爆)、主要な人物で話を進めた方がいいよねと思う。
女相撲、ギロチン社側のそれぞれの主人公は、まず、貧しい農村で、死んだ姉の代わりに嫁に迎えられたものの、夫の暴力に耐えかねて飛び出し、女相撲に加わった花菊。
ギロチン社の方はリーダーの中濱。口だけは達者で、人好きのするキャラクターは確かに人を集めはするものの、なんか、決定打に欠けている感じ。年若い青年の古田がちょっとしたコバンザメのように彼に付き従っているのだが、むしろ古田だけが残ったという感じもする。

メンバーの起こした様々な事件を事細かに示していくが、目まぐるしくてセリフも早口で多すぎて、何が何だか、人間関係にどう及ぼしたのか、正直よう判らんくて(爆)。
とにかく中濱がこいつらをまとめきれなくて、梅毒になったりして(爆爆)、てなことぐらいしかわからんのだが、でもこの青臭い詩人、中濱はなんつーか、憎めなくて、それが同じように青臭いデクノボー(すみません、背が高いということも含めて、イイ意味でねッ)である東出君が、妙に、妙に、イイんである。

それは相手となる、百戦錬磨っつーか、数々の修羅場を潜り抜けてきた、十津川関が相対するからであろうとも思う。韓英恵。本当に素晴らしい。恐らく監督は、関東大震災時の朝鮮人虐殺のことも、この映画化に際して絶対に外せなかった、描きたかったことだと思われる。それだけの気合を感じた。
実際、確かに耳にしたことはあるけれどその程度で、日本人特有の隠ぺい気質が働いているように思われちゃうことの一つである。もちろん、大戦中にも同じような出来事が起きていることを耳にする。耳にする、程度である。映画人の正義、そしてそれ以上に、男の子の正義、ようやっと、それを自分の力で手掛けられる、という監督の正義を感じるんである。

韓英恵嬢は、それについてはこれ以上の人材はいない。彼女はもっとブレイクすべき女優だと思うが、それこそそんなことが阻んでいるんだとしたらつまらない。でも、こういう場面で、やはりグッと来ずにはいられないんである。
同胞の虐殺を目にし、死ぬ思いで逃げ出し、それでも国に帰ることは選択せず、血のにじむような思いでこの地獄のような場所で、自分の身一つで、生きている。

つまり、彼女は身体を売っていて、それを仲間内から攻撃もされるが、でもでも、いわゆる見世物興行、そう、自分の身一つでそれを売り物にして生きているという点では、女相撲も何ら、変わりないのだ。そういう意味では、思想に逃げているギロチン社の男たちは、甘ちゃんに変わりないのだ。
十津川は中濱と思いを通じ合う。中濱は、自分の理想を砕かれる現実が存在したことに、理想主義青年詩人らしいまっすぐな反応を見せる。夜の海で全裸になったりさ(爆)。

しかしもう一人、つまりはね、ヒロインの花菊の相手となる古田は、もー、お前、ドーテーだろ!!ってな奥ゆかしさ、もう、奥手ですらない、ガツンと行けよ!!という歯がゆさで、ギャーーー!なんである。
うそ、うっそ、佐藤浩市の息子、だとう!似てるの唇の厚さだけやんか(爆)。すごく中性的で、つまり頼りなくて(爆)、いやでも、それは役作りなのかっ??
佐藤浩市も若い頃は三國連太郎にあまり似てなかったけど、どんどん近づいてきた。ことを思うと、この愛すべき青二才も、三代目のセクシーさを受け継ぐのかっ??いやー、想像できない!!

でもこの愛すべき青二才は、花菊との恋物語をバンバン盛り上げてくれる。いかにも書生、という感じなんだよなあ。のちの末路を考えると……つまりは彼はテロリストであり、人も殺した訳なんだけど、20代で死刑執行されて、うーん、凄く劇的な、映画的魅力にあふれた人物で、クリエイターの心をさぞかしくすぐるのだろう。
彼と恋に落ちる花菊、でも何もないの。気持ちを確かめ合うのだって、もう、最後の最後、なんだもの!!!花菊は暴力夫から逃げ出して、この女相撲の世界に飛び込んだ。

同じような境遇の先輩、山田真歩演じるはるが忘れられない。女好きだから気をつけろ、と花菊は仲間たちから面白がって忠告される。それこそピンク映画なら、そのへんのところもしんねりと描いてくれたんじゃないかと思うが、残念ながらふんわりにおわす程度である。
でも、夫から逃げ出した、そして探し当てられて連れ戻される時の、でも、ここに逃げ込んだのは、自分の意志、プライド、連れ戻されるのは本意ではないけれど、私は自分自身を捨ててない!!という気持ちをその目に、身体にみなぎらせて連行される山田真歩が素晴らしいのだ。

花菊もまた似たような感じで、ここは夫自身が現れて連れ戻され、帰路の途中の宿でレイプまでされ(古田、起きろ!!!)、でも彼女は、古田に、助けられたのだった。
古田はもう、背水の陣、すでに重い事件を犯していたし、今捕まればもう戻れないことは判ってて、花菊のダンナに手りゅう弾を投げて、重傷を負わせ、そして、戻れないことは判ってて、彼を病院に連れていくことにした。
花菊に、相撲に戻るよう、言って。もう、会えないだろうけれど、君は、相撲に戻るべきだ、強くなるんだ、と言って。

花菊が戻った時に、親方の姪っ子の勝虎が、下働きの三治と駆け落ちしたものの、決裂して、三治に重傷を負わされ、這う這うの体で帰り着いた時には、もう息絶えていた。それでなくても、女が男の暴力で辛い目にあう描写が散々、散々……。
でも少し、救いなのは、いわば彼目当てもあって足を運んだ、親方役の渋川清彦。勧進元の川瀬陽太氏との、脂の乗ったお年頃男優芝居バトルにもしびれたなぁ。いや、そうでなくて(爆)。

この親方は、なんたって渋川清彦だから、テキトー感は満載なんだけど、何より彼女たちを大事に思ってるんだよね。
勝虎が死んだ時なんて、自分だってすごくつらいと思うのにさ、硬直した彼女の身体を「そうしなきゃ、棺桶に入んねぇだろ!」と、同僚たちがなきむせぶ中、バキバキに足を折り曲げるとことかさ、……たまんなかったなぁ。

ワケアリ女たちが女相撲に駆け込んでくるっての、「駆込み女と駆出し男」をふと思い出したりした。本当に少なかったんだと、女が逃げ込む場所が。働く場所が、ないしねぇ、それこそ十津川のように体を売る場所は、いくらだってあるんだけれど……。
「女は汚すから、横綱の地位はない」「土俵に女が昇ることで、神を怒らせて雨を降らせる」まぁー、今の相撲でも、普通に聞かれるかも……。
あー、もう、尺が長すぎて、大西信満のハマリ役すぎる、こじれまくった超右翼思想在郷軍人とか、沖縄からこれまた身を隠すように流れ着いている、「ミセモノじゃねぇか」とささやかれるトウのたったちょいとシコメの(爆)、与那国関とか、菅田俊とか大森立嗣とか言いきれない人がたくさんいるのよーぅ。だから長尺はキビしいんだってば!!★★★☆☆


君が君で君だ
2018年 104分 日本 カラー
監督:松居大悟 脚本:松居大悟
撮影:塩谷大樹 音楽:半野喜弘
出演:池松壮亮 キム・コッピ 満島真之介 大倉孝二 高杉真宙 中村映里子 山田真歩 光石研 向井理 YOU

2018/7/15/日 劇場(新宿バルト9)
なぜ韓国の女優さんをヒロインに迎えたのだろう……と思っていたが、「息もできない」のあの彼女!だと後に知って大納得!!てゆーか、彼女はその後結構日本の作品に出てたんだねー、知らなかった。
ヤン・イクチュン氏は「あゝ、荒野」を待たずしても様々な作品に呼ばれていたのは知っていたが、彼女もだとは全然知らなかった。あの映画を観てしまったら、クリエイターたちは、彼らを自分の作品に使いたいとそりゃ思うよねー、判る判る判るー。

劇中で、決して美人じゃない、「あのブス」だなんて彼氏は言うし、それを彼女のことが大好きな筈の三人も否定しないってあたりが(爆)。
普通の発想だと、ストーカーするほど大好きな彼女、しかも三人の男が同時に、となると、もうこれはファムファタル、どんだけの美女を持ってくるかとか思っちゃうのだが、確かに、彼女は決して、美人じゃない。でも、そのいい子なところに彼らはぞっこんほれ込んじゃったのだ。自分の人生を10年間も捨て去るぐらいに。

捨て去る、というのは正確な言い方ではないのだろう。彼女に捧げた10年だったのだから。
捨て去ったのは彼ら自身のアイデンティティ。自分の名前さえも忘れてしまうほどに、姫ことソンの好きな男たち、尾崎豊、ブラッド・ピット、坂本龍馬になり切った。

しかし彼女の前には決して姿を見せず、自分たちは姫を守る兵士、と位置付けて、彼女の部屋が見える真ん前のボロアパートを目張りし、こっそり覗き、盗聴し、同じタイミングで食事をし、トイレに入る。日々撮りまくった彼女のスナップ写真を壁中に貼り、その中からその年のベストを選び、ごみをあさって、飲みかけのペットボトルやらを恭しく宝として拝領する。そんな日々を、とんでもないハイテンションで、自分を失った男三人が転げまわるように過ごしているんである。

まー、随分とムチャな設定だなとは思う。そもそもどうやって生計を立てているのだろう……誰一人働いている描写はなかったが、かわるがわるアルバイトにでも出ていたのか。
少なくとも坂本龍馬は鎖につながれているから外に出ることすらできない。つまり彼はストーカーをやりながら他の二人に軟禁されている状態なのだが、それが自ら望んでやっているようでもあり、三人の立場は完全に対等なので、まぁ、本当に、狂っているんである。
言い忘れたが、尾崎豊が池松壮亮君、ブラピが満島真之介君、坂本龍馬が大倉孝二氏。まぁ、三人とも当然、露ほども似ていないし、それほどなり切っているようにも見えないし(爆)。だって姫を見守ることに必死なんだもん。

見守ってはいたのだろうが、決して守っていた訳ではない。そこを当然、突っ込まれる。突っ込むのはYOU扮する借金取りの女親分である。もう彼女がやるから脱力系の迫力満点である。YOUさんまんま、といった感じである。
子分役の向井氏は、ある意味彼にとっては挑戦的なチンピラ……眉を剃り落として肩パッドをそびやかす、なんていうね、なんだけど、そのまんまYOUの地の迫力にはそりゃあ勝てない。

彼ら三人のやってることは、彼らが言うような愛でもなければ守ってもいないし、それを真顔で突っ込むYOUに、YOUだなぁ……と思うんである。これが意外に、なかなか出来ないことのように思う。
だってストーカーだもん。思い込んでるんだもん。愛、兵士、守る。でもその何一つ当てはまらないことを真顔で指摘するなんて、なかなか出来るこっちゃない。

しかし、集団ストーカーなんて、ありうるのかね。これはまさしく映画的アイディア、これを思いついてのしてやったり!!というところだろうと思うが、自分だけで独り占めしたい、というのがストーカーであり、しかも彼らはストーキングしている相手に気づかれてさえいないんだから、ストーカーとは言えないのでは??

いや、気づかれてはいたのか。どころか、全然バレバレだったのか。それは物語の後半、彼らの行動を彼女側からなぞり返すような形で描かれる。
友人の結婚披露パーティーにウェイターのアルバイトに入っていた三人、いや、この時はまだ建国はしてなかったけど(姫を守るための国、というのが彼らのコンセプトなのだ)。
その後、落ち込んだ彼女を励まそうと彼女の大好きな尾崎の唄を大声で合唱して、彼女が窓を開けてうるさい!!と怒鳴ったり。なんたって一人は元カレなんだから。判っていたのだ、気づいていたのだ。

元カレっつーのは、大倉氏演じる坂本龍馬である。大学の講師とか、そういうことだったのかなぁ、大分年が離れている印象である。しつこくしてフラれたところを、尾崎豊とブラピが目撃している。
尾崎とブラピは、ブラピが失恋して大荒れだったところで、カラオケ屋のバイトをしていた姫と出会っているんである。チンピラに絡まれていた姫を、無謀な勇気で助けに入ってボコボコにされた。
結局、チンピラに立ち向かったのは、東映映画よろしくビール瓶をパーン!と割って、彼らに立ち向かった姫だったんであった。怪我をした二人にハンカチを差し出した彼女の笑顔に、二人は恋に落ちちゃったんである。そして、後に坂本龍馬と仲間になるんである。

つまり、二人と坂本は温度差があるから、坂本が最初、鎖につながれていたというのは、なんとなく説明がされていたような気もしないではないけど、まぁ、つまり、そういうことなのかなぁと。
後に、姫の恋人、というかヒモである男が三人にとっつかまり、坂本の代わりに鎖につながれちゃうことを考えると、姫への愛の形でその立場が変わってくるのか、でもそれは、姫にとっては、逆順位という感じが凄くするんだけど。

だってそもそも、失恋したてのブラピが、姫に惚れ込んだんであった。尾崎の方は、まぁまぁ落ち着け、という感じだった。猪突猛進の真之介君、内に秘めて爆発する怖さのある池松君、という、なんというかそもそものキャラみたいなものを考えると、ものすごく納得いくところはある。
しかし、いつのまにか尾崎は……姫への愛を姫のすべてを受け入れるということにすり替わり、それは当然自己満足に変わるから、これ以上気持ちのいい感情はないから……彼女がヒモ男のために身体を売ろうと、ついには思い詰めて自殺を図ろうとしてさえ、「すべてを受け入れるのが愛」「思い詰めるところが可愛い」と言って、ブラピや坂本やヒモ恋人が助けに行こうとするのを問答無用でシャットアウトするのだ。

池松君、池松君……あなたに似合い過ぎるよ……この不条理な思い。だってあなたは、友人の失恋を心配して、失恋したてだから速攻で落ちちゃった友人の恋心を心配していたのに、いつの間にやら、すっかり尾崎がこの不条理愛、愛じゃないけど、それにぼっとんと落ち込んでしまったんじゃないのぉ。

だからやはり、三人でストーカーはムリだったんである。一人だったら、語弊を承知で言えば、愛とも、言えたのかもしれない。独りよがりの愛には違いないが。
三人で姫を“守る”と思っていられた頃は幸せだった。てゆーか、めちゃくちゃ楽しそうだった。文化祭みたいだった。写真撮りまくって、一位決めて、彼女のいいところを競争みたいに言いまくって、プロレスみたいに転げまわる男子三人は、たまらなく楽しそうだった。
だから、ネタは何でも良かったんじゃないのと、女子から見れば冷めた気持ちにも思えちゃうのだ。姫でなくてもいい、それこそプロレスでも、AVでも、野球でも、釣りでも、パチンコでも、なんだって、なんだって、いいじゃない!!

という、憤りにも似た思いは、この三人の生活を知った時の姫、いや、ソンちゃん自身の思いにつながると思う。自分の自殺未遂さえ、つまりはネタにされたということなんだもの。
追い詰められた自分を助けることすらできずに、それが愛だなんて、気持ち悪いんだよ!!バカ!!!ということは、当然なのだが、ただ言葉もなく怒りと悲しみをぶつける彼女の気持ちが三人には、てゆーか尾崎には、全然響いていない、判ってないというのが、本当にイタいのだ。

いやー、池松君、ベストキャストだよねと思うが……彼女の髪を食べだした時にはさすがに、さすがに引いたが。
男によってキャラが変わって、髪を染めたりしても、「長い髪がいつも似合っていた」という尾崎に怒り心頭に達したソンちゃんは、キッチンばさみでギザギザに髪の毛を切り落としてしまう、のだ。

もうこれで判っただろ、と思うのに、尾崎は判らない。ブラピも、その前にソンに謝りたくて仕方ない坂本も(尾崎に窓から投げ落とされちゃう!!)も、ヒモ男である彼氏だって彼女に対してすまない思いでいっぱいになっているのに、尾崎だけが、尾崎だけが、彼女のそのままを“見守る”、身を売ろうとしようが、命を断とうとしようが、それが彼女への愛だと信じてはばからないのだ。
そして、その髪の毛を、彼女からの最後の最高のプレゼントのように、お食事で、頂いちゃうのだ!!……うわぁ、これは、なかなかに、なかなかに!!ブラピのオゲオゲいってる描写も必要ないほど、これはナシだろ!!

ソンちゃんはそもそも、大好きなお母さんが日本が好きだから、韓国で日本語教師になりたいという夢を持って、日本に来た。なのに、なぜ……。
ヒモ彼氏との出会いは、交通整理のバイト。車の下に入り込んだ猫を、運転手に罵倒されながら彼が救い出してくれた。
そらー、ホレるわ。しかもミュージシャンが夢だなんて語られたら。しかも真宙君だもん、イケメンだもん。

速攻、ペアルックになっちゃうあたりで、彼女自身のイタさはかなり判りやすく出ちゃうけれども、ラブラブの間は、それでも全然、問題なかった。でも、やっぱり、「私が働くから、音楽に専念して」これはダメだ、うーむ、まるっきりおんなじ台詞を「南瓜とマヨネーズ」で聞いたぞ。
自分の夢は自分で苦労して追わなきゃダメなんだ。アナクロだけど、特にそれを女に出してもらったら男はダメになる一方なのだ。ウソでも、女を養えるぐらいの自分だと思わなければ、男は弱いから、あっという間にダメになってしまう。このヒモ男みたいに。

借金取りはつまり、ヒモ男に対するものだったんだけれど、最終的には、なんか、借金取り側が彼女の方に同情するような形で集結していく。
最後の最後は、なんとゆーか、ファンタジックである。三人、いや、プラス一人の決別はめちゃくちゃ現実的だし、“解散”、その最後のシークエンス、ブラピと尾崎が部屋から荷物を運び出して、ブラピがその荷物を請け負い、尾崎は運転していく彼を笑顔で見送る、とてもとても現実的なのだが。

尾崎はその前後からも、やっぱりなんだか、夢から抜け出ていないんだもの。ひまわり畑の迷路でのプロポーズ、タクシーの運転手を怒鳴りつけて出国する彼女を追いかけていく、空港中の人たちを巻き込んで、ここにいない筈のブラピや坂本も巻き込んでの彼女大捜索。
どこまでが現実なのかと戸惑っていたが、見事の再会を、その歓喜の輪を、外側からももう一人の尾崎が手を叩いて喜んでいる、という結末に、うわー、これはこれはかなり病が深いぞと。

なかなかに怖い映画だった。すべての人にこれからの未来が約束されている訳ではないと思った。
ホント、なかなかに無茶な設定ですけれども!どちらかといえば舞台向きだよね。この気鋭の監督さんは舞台もやっているというし。★★★☆☆


きみの鳥はうたえる
2018年 106分 日本 カラー
監督:三宅唱 脚本:三宅唱
撮影:四宮秀俊 音楽:Hi'Spec
出演:柄本佑 石橋静河 染谷将太 足立智充 山本亜依 柴田貴哉 水間ロン  OMSB Hi'Spec 渡辺真起子 萩原聖人

2018/10/14/日 劇場(渋谷ユーロスペース)
映画のために発見された作家、とでも言いたいようなこの佐藤泰志氏の四本目の映画化作品は、しかしもともとの舞台は東京だったと知り、意外な感を覚える。
彼の映画化作品は当然のように函館を舞台に撮られるが、そして彼自身も函館に強いこだわりを見せて作家活動を続けていたとばかり思っていたが、実はそうでもなかったのだろう、か?原作が気になりつつも今までずっと未読だったので、今更ながらそんなことが気になってしまう。

しかし映画作品を通してみても、その強烈なアンビバレンツな気持ちは充分に感じ取ることが出来る。本作が東京が舞台だった、というのが意外な気がするのは、それが本作にも濃厚に立ち上っているからなのだ。
失礼を承知で言えば、函館は経済も観光も少しずつさびれゆく街である。そのさびれゆく感じが今、映画の舞台として妙に魅力的であるというのは、皮肉な感じである。

劇中の若者三人のうち一人は失業状態で、それはこの函館という街の状況と関係ない訳はない。後の二人は書店でのアルバイトだが、一人は途中でやめてしまうし、一人は、それが主人公である彼、僕という、名を与えられていない彼は、まるでやる気がない。積極的に、やる気がない、と言いたいぐらいで、同僚や上司をイラつかせる、実に共感しづらい人物である。
しかし友人の間で見せる彼のキャラクターはごく普通に明るい青年で、普通に仕事が出来ない、ということが、なんだか不思議で、でも一方で、それがこの街が彼らにもたらすどうしようもない雰囲気、というものなのかと思うと、暗澹たる気持ちにもなる。
冒頭、“僕”は、この夏がいつまでも終わらないような気がした。9月になっても、10月になっても。とモノローグするが、それは未来に開けていかないこの街の、そして若き彼らがそこで生きていくことへの無意識の不安と逃避なのか。

それにしても、名前を与えられていなかっただろうか、と思う。柄本佑君演じる“僕”は、石橋静河嬢演じる佐知子や同居人である友人の静雄に名前で呼ばれていたような気がするのだが、なんだか判然としない。私がぼーっとしているせいもあろうが(爆。それがほとんどかも……)アイデンティティというものが、この“僕”から感じられないからなのかもしれないと思う。
先述したように仕事もいつでもクビにしていいっすよ、という態度だし、つまり、大人に対してとりつくろう、ということをしない。そういう意味では正直なのかもしれないと思う。ずるがしこいガキなら、いくらでもとりつくろえるところを、彼はしない。

ただ、友達に対しては、どこか臆病に思える。彼女になりそうな女の子に対しても、結局は友達どまりである。いや、友達ですらあったのかどうか……。
同じ職場、どうやら店長の愛人である佐知子とは、唐突に近づいた。無断欠勤を詰問された時、後ろに意味ありげに彼女が立っていた。ふと、“僕”の腕を触って去っていく。予感を感じた彼が、120数えるまでに来るならば、とじりじりと待っていたら、ギリギリに彼女が走って来た。お互いに感じ合った気持ちが運命だと、当然二人は感じたろうし、観客も感じた。
なのに“僕”は、それをのらりくらりと交わし続けるのだ。セックスもする。肩も抱くし、別れを惜しんで何度もキスを交わす。どう見たって恋人同士だと思うのに、彼はそれを避けている。

いや、まず避けていたのが佐知子の方だったからなのか。めんどくさい関係はイヤだと、彼女は言った。ならないよ、と彼は笑った。今から思えば、彼は、最初からシャットアウトされたと感じたんじゃないだろうかという気もする。店長との関係も、殊更に気にしていない風だったけれど、どうだったんだろう。
愛人、と言ってしまったけれど、それはつまり、“僕”が、店長が結婚していることを知っていたからに他ならない(まぁ、萩原聖人だから、いい年だし、知っていた、というより、当然そうだろうと思っていただけかも)のだが、後から聞いてみると、彼は数年前に離婚していた。つまり、フリー同士の何も問題ない恋人同士だったところに、”僕”が割り込んだという訳、なんである。
“僕”との関係が始まり、彼女は店長に別れを告げる。店長は“僕”に佐知子を大事にしてくれ、とまで言う。大人である。でも“僕”にそんな自信も自覚もないのだ。だってそもそも、このあたりから二人の間には亀裂が入り始めていた。

なんか、上手く語れないな。そもそも、メインの重要なもう一人をまだ言ってない。染谷将太君演じる静雄である。“僕”と、ルームシェアしている彼は、ちょっと問題のありそうな母親を抱えている。兄も父親もいるのだが、家族のコミュニケーションがひたすら上手くいっていない模様である。母親は、酒浸りである。……渡辺真起子はこーゆー役が最近多いような気がする……。
静雄がなぜ今失業中なのか、何の仕事をしていたのか(“僕”と一緒にやっていた工場のバイトの話は出るにしても)判らない。“僕”とのルームシェアに、昼日中佐知子がおじゃましてて、もうハッキリセックスしてるもんだから、静雄は苦笑いしてそっと退散する。“僕”は悪びれもなく佐知子を紹介し、佐知子も特にこだわりなく紹介され、まるでそれが自然みたいに、三人一緒に遊びに出かける日々が始まる。

佐知子と“僕”はそれ以降も部屋でセックスはするし、外で会う時は恋人同士のようにイチャイチャはするけれども、静雄の存在は常に意識している。佐知子自体が、“僕”に接する態度とまるで等分に静雄と接するようになり、静雄に相談する形をとって、二人で会うようになり、しかしそれを、“僕”は彼らに逐一報告されて知っており、どうぞどうぞ、だって別に恋人じゃないんだし、みたいな感じで、送り出す。
……むしろ、佐知子のそれに対する反応の方が、結構オールドクラシックな気がした。だって、めんどくさくない関係を望む発言をしたのは彼女の方なのだから。ただ……それはその時点で、店長への気持ちへの傾斜の方が大きかったから、なのか。

そもそも、なぜ、“僕”のような、あいまいで不誠実な男のために、店長と別れようと思ったのか。いや、この時点で佐知子は充分に揺れていた。かなり早い時点で、誠実じゃない、それはまず、仕事の時点から、そして自分と相対することに対しても、ということに、苛立ちを見せていたし。
ちょっと、不思議だった。それこそそういうことを気にしない、それが許されちゃう、この世代を描いているのかなと思ったから。改めて考えてみれば、佐知子は奔放に見えながら案外、スタンダードな常識を踏んでいるのだ。“僕”との交際を優先するため、店長に別れを告げることを選んだ彼女に、どうせ遊びなんだからそんなちゃんとするの、みたいに言った“僕”に、彼女は激怒した。
女としてはすんごく判るんだけど、佐知子がそういうキャラっぽくなかったから、ちょっと意外な気もした。それは、石橋静河嬢の生み出すけだるい雰囲気がそう感じさせていただけなのかもしれないんだけれども。

結局、佐知子と静雄がくっつく。そらそうだろうと、“僕”だってうすうす気づいている。ただ、“僕”が顔を背けていたのは、自分の本当の気持ちに対してである。そう改めて見てみると、案外、意外と、王道な恋愛物語だったのかな、という気もしてくる。
見た目はね、なんてゆーか、玄人にはメッチャ好かれるけど、ハッキリしたエンタメが好きな私のようなベタバカな映画ファンには、わかんねー、みたいな、アート系、みたいな?感じなんだもの。この手の映画に対し……、時々感性にピタッと来ることもあるけれど、基本的には、こういうところに安住している日本映画が多すぎる気がするというか、不遜ですけれども(爆)。
夜の街で怠惰に遊ぶ、ダーツ、カラオケ、DJ、ラッパー、酔って踊る。これはきっと、この時代の文化を後に興味深く眺めることになるんだろうと思う。昭和時代のそれを、そんな風に眺めるように。……なんて思うのは、その場面がかなり冗長な感じがしたから、かなぁ。

“僕”が世の中や自分自身に背を向けている感じがするのに対して、静雄は、判りやすそうで、判りづらいというか。誠実じゃないと、職場でも、佐知子にも言われる“僕”に対し、果たして静雄はならば、誠実なのだろうか。
“僕”の許可も得て行ったカラオケデート、三人で行くはずだったキャンプも“僕”が、キャンプが嫌いだから、二人で行ってきなよ、と送り出した。それをすんなり受けちゃう静雄は、“誠実”なのだろうかとも思った。いや、最初の内はそれに対する葛藤で“僕”と口論にもなった。それこそ“僕”がそれをのらりくらりとかわしたから……でも。

果たして“僕”と静雄は本当の意味での友達なんだろうかと思う。同居人としてお互い干渉しあわないというのは当然のルールだけれど、それは恋人という存在をお互いに意識して介在させてというところまで行ったら、やはりおかしいのだ。気兼ねなく話しているように見えて、何よりも遠い気がする。
そもそも友達って何だろうとも思う。佐知子は、静雄と恋人として付き合うことを“僕”に告げ、つまり別れを告げる。その時にようやく“僕”は、自分の気持ちに向き合うことになり、彼女への想いを自覚するのだが……。

近年、もはやネタのように言われるゆとり世代、というヤツを意識しているようにも思う。それもまたあまりにも形骸化されたイメージなので、何かこう、何かこう、しっくりと来ないのだ。
それこそ、誠実、という言葉をタテに、“僕”と熱烈に対決する(“僕”は後半までまるで相手にしていないが)年かさの同僚の、昭和的判りやすさとわざわざ対照的にするための描写のようにさえ、思えちゃうのだ。

去年、突然現れた石橋静河嬢は、まさにそのもんやりとしたものをクールに体現する女優さんだとは思うが、昭和世代だからなのか、なんだかまだよく判らないのだ。
もうひとつ欲を言えば、こういう展開のある役柄ならば、すっぱり脱いでほしかったと思う。若いから、というんじゃない。もうここを逃したら、脱げなくなるのよ、女優さんて。すべてをさらけ出せる人は、最初からそれがさらりとできる。出来そうな人はいっぱいいるんだけれど、意外と、なかなか、いないんだよなあ。★★☆☆☆


ギャングース
2018年 120分 日本 カラー
監督:入江悠 脚本:入江悠 和田清人
撮影:大塚亮 音楽:海田庄吾
出演:高杉真宙 加藤諒 渡辺大知 林遣都 伊東蒼 山本舞香 芦那すみれ 勝矢 般若 菅原健 斉藤祥太 斉藤慶太 金子ノブアキ 篠田麻里子 MIYAVI

2018/11/25/日 劇場(楽天地シネマズ錦糸町)
凄かった。もうね、入江監督が素晴らしいというのは判ってるんだけど、前作「ビジランテ」ではもう屈服、という感じだったし、間違いないのは判ってたんだけど、凄かった。
タイトルの感じや、コミックス原作ということだったら、足を運ばなかったかもしれない。でも入江監督なら、と思わせた。あーあ、今更ながら出世作サイタマノラッパーをひとつも観てないことが悔やまれるのだがっ(劇場再映のチャンスをうかがっているのだが……)。

普段は原作者のコメントとかは、あまり見ない。だってたとえ気に入らなくったってそうあからさまには言えないじゃないと思うから。原作は未読ではあるけれど、きっとこの作品には胸が熱くなったんじゃないかと思ったから、それを読みたくなった。
そしたらコミックスの前に原作本があって、それは緻密な取材を元にしたルポルタージュだというのを知って、……劇中の犯罪組織の内情やらやり口やらなんつーかやたらとリアリスティックだなとは思ってて、フィクションで考え出すにはムリがあるよなーと思ってたら、マジでホントのことがベースになっていると知り、衝撃を受ける。

そしてそれをそのままド直球で受け止めて、つまり元の元の、ルポルタージュの、それを書いた著者の、少年たちへの思いまでも丸ごと受け止めて本作を作り上げた監督に本当に胸が熱くなった。
当然、コミックスの描き手である肥谷氏も絶賛のコメントを短く寄せているが、そもそもの原作者である鈴木氏のコメントの長さ熱さは、この作品への、入江監督への、キャストたちへの、まごうことなき深い感動感激が感じられて、なんかそれを読んでいるだけで涙が出るぐらいだった。
それを期待してコメント読みに行ったのだが、想像以上だった。そして改めて、人気コミックスというパッケージを映画化に際しては課されるだろうしそれが客寄せにもなるんだろうけれど、改めて改めて、本当に凄い映画だと、思ったのだ。

三人が主役、というのも演出手腕がなければなかなか出来ないことである。そのうち一人は今が旬のイケメン君で(イケメンはやたら量産されるが、高杉君はまごうことない真のイケメン君だ)、彼がひとり突出してもおかしくない気がするけれど、ちょっとだけ突出しているような気もするけれど(爆)、でもほぼほぼ当分の、三人の主役である。それぞれに、その意外さに驚きを隠し得ない。

それこそ高杉君だって、まだ若いし、私も何作か見てるだけだけれど、やっぱりまだまだ、若く美しい男の子、というところでとどまっていた。本作のサイケの、確かにめちゃめちゃ美しいのだが、この最底辺の危険な生活にあえいでいる男の子が、そのギリギリだが、うわ、めっちゃ美しい……。
長髪はいかにも漫画原作のキャラクターという感じもするのだが、それがまた、無造作と美しさの絶妙なバランスをとって異常に似合う。

そう、今までは少年の彼しか見ていなかった。青年、いや少年にまだ片足突っ込んだままのこのサイケ、年少あがりで身分証さえ作れず、住む場所もないという、社会から強制的に大人になることさえ否定されている彼の、言い様のない美しさと色気に打たれる。
その色気はどこにも行きようがないのだ。この三人にはそんな色っぽい話題は一ミリも出てこない。そんな余裕は0.1ミリもないから。なのにこの壮絶な色気はどうしたことだろう!!

これまた売れっ子である渡辺大知君も、私は金髪になっただけで彼と判らないバカモノ(爆)。でもそれだけ彼も、化けていたと思ったなぁ。タケオは気弱で、いつも二人の後ろに隠れているような印象なんだけど、車の運転にかけては天才。てゆーか、狂気(爆)。
彼の思い切った、どころじゃない、狂った突破で、あらゆる危機を打開してしまう。このあたりが、いわばコミックスエンタテインメントの部分かなと思う。

ただ、彼が年少送りになったのは、友達に陥れられ、自分が主犯にされたから、という経緯があって、それはもはや友達ではないだろと思うのだが、それでも彼は「友達にもう一度会って、なんでそんなことをしたのか聞きたい」と言う。
他の二人が、自分を捨てた親や、生き別れになった妹に会いたいという、逃れられない血の運命なのに対して、そんなヤツ、友達なんかじゃないよと外野は思うのに彼は、その“友達”に会って聞きたいというのだ。それまでは死ねないと。

そして最も驚いたのは、カズキを演じる加藤諒君である。バラエティでも人気の彼が、つまりまぁ、私が彼の芝居を見たことがないからこんなに驚いちゃうのかもしれないのだが、本当に、驚いた。
この三人の中では確かに彼らしくコメディリリーフの部分はあるのだけれど、母親がシャブ中、彼女の愛人が幼い妹をレイプした場面に遭遇してその愛人をぶっ殺してしまったという、壮絶な過去を持つ。そしてその背中には、愛人から命じられて母親が泣きながら刻印した、根性焼きが、ヒドイ言葉で背中全面に、焼きただれているのだ……。

他の二人も大人や友人に陥れられた壮絶な過去があって年少送りになっているのだけれど、過去回想も入れて仔細にその描写をしているのは彼だけなので、入江監督自身の思い入れがあったのかもしれない。
小太りでいつもお腹を空かせていて、いかにもオチどころのキャラなのだけれど、いつだって彼が後の二人を奮い立たせる。ムリなことなんてない。今までそれ以上にひどいことがあったじゃない。やるんだ、やるんだ!!って……。
一番、心を震わされたのは加藤君だったかもしれない。イメージとのギャップがあったせいもあるだろうけれど、本当に素晴らしかった。

そしてそして、ワキキャラではあるけれど、なんか最近いつも驚いてしまうのが林遣都君である。もーう、いつになったら私は、「バッテリー」の彼から抜け出せるのーっ。何とも言い難いホコリ臭さ、三人のタタキ(強盗or窃盗)のアガリを容赦なくさっぴいていく彼は、そんなに年変わらないじゃん……と言いそうになって、いやいや、もう彼もいつのまにやらアラサー……イヤー!!マジで!!
ビジネスには冷酷だし、ムチャな方向に走り出す彼らにクギを指しつつも最低限の情報は入れてくれる彼は、なんかちょっと愛情を感じるんだよな。そしてそれが、うーむ、遣都君、上手い、上手いじゃないのぉ。いつのまにそんな絶妙な役者になったんだっ。

ケチなタタキを繰り返していた三人だけど、振り込め詐欺のアガリが収められる場所をかぎつけてしまい、これで人生が変わるかも、いや、変える!と決心してしまう。
そしてその時に拾ってしまったのが、ヒカリという少女。カズキが、自分と同じように傷を持っているのを見て、ほっておけなくなったのだ。正直言うとこのヒカリという女の子は期待するほどには物語に関与する訳でもなく、勝負のタタキに出る時に養護施設に送り届ける場面は涙涙の別れではあるのだが、ちょっとその涙はムリヤリだったかなぁ、と思う。
でもこれは、仕方ない、それこそ尺の問題ということだと思う。ヒカリを入れない訳には行かない。三人の、それも特にカズキの過去と想いをあぶりだし託す存在だから。後の二人にとっても、大人によって生きる道を断たれたという、かつての自分を繰り返している存在だから。少し、もったいなかった気もする。三人のこの少女とのかかわりをもっと、見たかった。

いや、それをやってしまったら、この作品の凄さが、削られてしまったかもしれない。容赦ない犯罪描写、暴力、殺戮。誰も手が出せないと恐れられている六龍天なる犯罪集団をタタくと決めた三人のクライマックスは、リアリスティックプラスすさまじいエンタテインメントで、もうそこに行くしか、ないんだもの!!
六龍天とか、そのリーダーのいつも寝間着着てるようなヘビのような優男、安達とか、それこそすっごいマンガっぽいと思うのだが、でも本当に、実際、こういう男がいるのかもしれない。そう……この安達を演じるMIYAVI氏も凄かった。多分初見。誰誰誰!?と心の中で叫び続ける。ギタリストでハリウッドにも出てる。はー、知らない……世の中は知らないことでいっぱい。
コワモテを傘下に従えながら彼自身はまるで青二才のように見えるのに、みんなが彼を恐れ、従い、そんな不気味な男で……。

サイケたちが大バクチを仕掛けてついに安達を陥れ、振り込め詐欺最大の犯罪グループ崩壊として最後、ニュースとして報道される。安達は幼少期、親から性的虐待を受けていた、それがこの犯罪組織を束ねるに至るのにどういう経過をたどったのか、みたいなニュースが流れている。
どう、思うのかと思った。サイケたちはそれを、すべてが終わって、カネがある時にしか行けない牛丼屋で聞いている。後ろのサラリーマンが、そういう境遇の奴がみんな犯罪者になるのかよ、要するにやる気だよ、気合いだよ、と話している。

サイケたちは、借金まみれにさせた女たちを人身売買さえする(この場面は凄かった……おっぱい丸出しの女子たち横たわりまくり……うわぁ!)安達の非情さを見て来たし、嫌悪感だけを持っていたと思っていたから。
やる気や気合いでこの冷たい社会に彼らが受け入れられることがなかったこと、そのものに対して憤ったんだとは思うけれど、なんだか、何とも言えず、複雑だった。

サイケたちは、安達に、許せない筈の非道な安達に、でも断じきれない思いを抱えているということなのか。やはり、そうなのか。単純に、自分たちもそうなるかもしれなかった、なんて、よくある甘い言葉を使いたくない。
憤然と立ち上がりかけるサイケを制して、カズキがいつものように変顔をした。そう、いつものようにだ……。「三人でいれて、嬉しいの顔」
カズキが、三人こそが財産だと言った時、クライマックスのあの言葉は本当に涙が出た。それを彼はいつでも、常に、いわば臆面もなく言えちゃうイイ奴なのだ。
笑いだすサイケ、笑いが止まらなくなる三人。リーマンは不思議そうな迷惑そうな顔をして三人を見ている。あんたらにも、そんな単純にはいかない人生の、……素晴らしさを、教えてあげたい。

クライムサスペンスアクションとしての素晴らしさに言及しきれない。六龍天の番頭格、金子ノブアキ氏のカッコ良すぎ、その愛人、篠田麻里子嬢はもはや入江組のミューズ、そろそろ脱いでほしい(爆)。
子供のような三人に手を貸す、安達に妹をなぶり殺された勝矢氏の男気にもしびれたなぁ。 ★★★★★


きらきら眼鏡
2018年 121分 日本 カラー
監督:犬童一利 脚本:守口悠介
撮影:根岸憲一 音楽:神村紗希
出演:金井浩人 池脇千鶴 古畑星夏 杉野遥亮 片山萌美 志田彩良 安藤政信 鈴木卓爾 大津尋葵 成嶋瞳子 菅野莉央 大西礼芳 長内映里香 山本浩司 モロ師岡

2018/10/14/日 劇場(シネマート新宿)
原作者さん自身が指名したというこの若き監督さんのこと私、知らなくて、初見で。でもさぁ、犬童だなんて!同じ映画監督で犬童だなんて苗字が同じだなんて!そしてちーちゃんがその監督さんの元でメインを張るなんて。あぁ、なんかなんか、なんともうずくものを感じてしまうーっ。
池脇千鶴。相変わらず可愛い。今もまだまだちーちゃんと呼びたくなってしまう。あのふくよかな二の腕がよろし。ふっくらキュートがいつまで経っても似合ってる。

確かにもう、大人の女性になったし、死にゆく恋人との別れに気丈に立ち向かう様が心痛くも冴え冴えと強いし、年下の男の子との微妙絶妙な心の触れ合いに際しては、やはりやはり、年上のお姉さん然としているのだが、なのだが、なんでこんなに可愛いのっ。
相手となる金井君はぽよぽよの可愛らしい男の子なのだが、そしてちーちゃんの方が相当に年上(10ぐらい上かなという感じ)なのだが、そんな彼でも好きになっちゃうだろうなぁと思える奇跡の可愛らしさ。

しかして、テーマは重い。正直、タイトルからはそれこそちょっと可愛らしいモノを想像していたのだが、トンでもなかった。
きらきら眼鏡、っていうのは、ちーちゃん演じるあかねが、心にかける眼鏡だと、金井君演じる明海に語る。あかねが勤めているのは産廃処理場。人間が日々垂れ流し続ける膨大なゴミさえも、彼女はきらきら眼鏡を心にかけて、いとおしそうに眺めるのだ。

それには、今彼女が直面している壮絶な現状があった。最愛の恋人が余命宣告を受けている。「全然、元気なんだけどね」と後に明海君に引き合わせる彼、裕二(安藤政信)は、いやいや、全然元気なんかじゃない。息も絶え絶えにベッドに横になっている。
元気だとか、じきに仕事に復帰するとかいうのは、彼らが……現実から目を背けているとまでは言わないけど、とにかく信じたくて、もしかしたらを信じたくて、必死に言っていることなのかもしれなくて。

そして明海君は、その経験を先にしていた。恋人を事故によって失うという経験。突然失うことと、徐々に(というのもヘンだが)失うことと、その違いが、年齢の違いも相まって、案外この物語に重要な影響というか、陰を落としているようにも思う。
あかねは、明海君のその話を聞いた時から、「明海君を使って、愛する人を失っても時間が経ったら平気になれるのかどうか、試していた」のだと言った。そんな自分をひどく悔いるのだけれど、でもわざわざそんなこと言わなくてもいい、そんなこと誰もがやってるって!!と思うのだ。
きっとそれは、明海君を信頼したから。気が合ったから。何か……同じ経験をしている(これからする)同志という以前から、何か響き合うものを感じたから。

そもそもこの年の離れた二人がなぜ知り合ったかというのが、不思議なんである。運命なんである。明海君は鉄道マン。激務の彼を慰めるのは本。ロッカーにも本が積み上げてある根っからの本の虫と思われる。
ただ、それを楽しんでいるというよりは……何か日々を、歯を食いしばって過ごしているような感じである。家に帰っても、しんとした部屋の中、呆然としている感じである。時間をつぶすことが出来ずに、公園に行って本を読んだりしている。

恋人を事故で失った、それも自分の誕生日の日に、仕事で一緒にいられずに、最後のLINEの返信もしなかった、という様々な積み重ねが、数年経った今も、彼を苦しめている。ただ普通の生活を楽しむことさえ、同僚と心やすい会話をすることさえ、出来ていない感じ。

彼の行きつけの古本屋のワゴンセールにふと目を止めた、かなりシビアなタイトルの本、死生観を問いかけるタイトルの、ハードカバーの本に彼の手が伸びたのは当然、失った恋人への想いがあったからに違いなく。
その中に名刺が挟まっていて、しかもその箇所に傍線が引かれていた。自分の人生を愛せないならば、愛せるようにするしかない、的な文章に、彼は強く惹かれる。そして挟まっていた名刺の相手に、連絡を取るんである。

なぜ、そこまでしたのか。結果的にあかねは気に入っていた本なのに間違って売ってしまったと言い、明海君に感謝感激な訳だが、名刺が挟まっていただけでは、そこまで推測できる訳もない。やはりそれは……運命と言ってしまったら安っぽいだろうか。
あかねはこの文章が、本当にそうだと、心に響いたから傍線を引いたわけだが、明海君も同じように心が引っかかる言葉だったけれど、「そうは出来ないから」(ちょっと表現違ったかもしれない)だから引っかかったのだとあかねに告げる。あかねは心底驚いたような顔で、「どうして??」と問いかけた。

それが、もう経験してしまった彼と、これから経験する彼女の違いだったのかもしれないと、後になって思った。あかねはとても気丈な女性だし、この標語みたいな言葉にマジメに反応したのはむべなるかなだが、でもやっぱり、これから起こることの想像もつかない過酷さに、たった一文がなぐさめにすらならないことは、まだ判っていないのだ。
いや、そんなことを言ってしまったら、この素晴らしい重みのある名文にケチをつけるだけの話になってしまうのかもしれない。でもまわりまわって、二人がもっともっと時間をかけてすべてを受け入れられた時、この文章は真の意味を持つような気がする。今はまだ。

だってさ、だって、今まさに、恋人が死にゆく、なんだもの。安藤政信の強烈な色気を発散させながら瀕死の状態にある裕二に、打たれる。明海君とあかねの関係を敏感に察して、いや、二人とも、特にあかねはあっけらかんと明海君のことを話し、紹介もし、だけど、やっぱり敏感に察して、あかねのことを託そうとする。
でもそれは、それはそれは、明海君が言うように、やはりやはり、ズルい、そんな権利ない、ってことなのだ。そしてそれは、明海君でしか、それは言えないのだ。愛する人を失う残酷さを知っているから、明海君は裕二に厳しいことを言えるのだ。でもでも、涙を流しながら、だけど。

やはりそれは、裕二が察してしまったように、あかねにホレているから、だろうけれど。でもそんな、単純じゃない。明海君の中にはずっと、死んでしまった恋人がいる。きっと、死ぬまでいるだろう。あかねにとって、裕二がずっとずっと、消えないように。
裕二が、息も絶え絶えになって、あかねへの想いを吐露して、ずっと彼女の一番で居続ける、と言うのには心打たれまくり、そうなのだ、そういうことなのだ、それでいいのだ、そして、一方で生きていくってことなんだ、と思うんである。

託すとか、そういうんじゃない。そんなことは、決められることじゃない。実際、あかねと明海君が今後、どうなるかなんて、全然判らない。ソウルメイトだったとは思う。恋の予感も、あったと思う。
でも、それを外から言われて、心揺れ動くにしても、収まっちゃうほど、人生も心も単純じゃないのだ。ただ……二人が合うべくしてあった二人であったのは確かに、確か。だから切ないのかもしれない。

明海君が勤めている駅のスタッフメンメン、そしてそのエピソードが、なんともいえず、イイ。日々、得手勝手な乗客たちにヘトヘトな彼らの激務を見ると、思わず自分を顧みて、ああ、駅員さんに迷惑かけないようにしよう!!と心に誓ったり(爆)。
毎日のように自分が落としたという新聞が届いてないかと訴えてくる、彼らにとってはクレーマーか頭おかしい人ぐらいにしか思えない男のエピソードが、この映画の最初から最後まで貫いていて、むしろこれが、裏テーマだったんじゃないかと、思うんである。

というのも、みんながヘキエキしている彼に対して(山本浩司。絶妙すぎる)、たまたま居合わせたあかねが、親身になって声をかけた、というところからこのエピソードが真に動き出すから。
きらきら眼鏡をかけているあかねには、彼はクレーマーに見えないし、何より、やはり、哀しみを心に持っている彼女にとって、同じものを、感じたのだろう。明海君もうっすらそういう感じはあったけれど、あかねが相対するまでは、まだ自分では判ってない感じだったし、その後、駅員の女の子の心無い言葉に暴れ出してちょっとした騒動になった時、ようやく判ったかな、という感じだった。

この駅員の女の子、ちょいと可愛くて、明海君に心惹かれてる感じで、モーションもかけたりするんだけど、でもまだ、彼女には他人の心の痛みが判ってなかった。でもそんな彼女が、明海君とのあれこれも含めて、考えたのだろう。頭おかしいとしか思ってなかったこの男性に、なぜそんなにその新聞が大切なのか、と問いかけただけで、世界が変わった。
コミュニケーション。単純かつ、簡単に言われる言葉だが、それはきっと、相手の心を考えて、推測して、あるいは知りたいと願って、交わす言葉から始まるのだと思って、それはこの物語の裏テーマのようにも思って、心に染みたのだ。

最終的に、あかねと明海君がどうなるかなんて、どうでもいいような気がする。恋愛映画、なのだろうか、あるいはそもそも、恋愛小説、だったのだろうか。それも違う気がする。
人に、恋にも似た感情で心惹かれることはある。いろんな状況で、こんな状況も含め。でもそれはただただ、大切な結びつきというだけで、必ずしも恋人になるとか、愛してるとか、そういう結末にならなくてもいいんじゃないかという気がする。

世の中の人間関係が、友達、恋人、家族、知人、仕事仲間……そんな振り分けしかないこと自体がおかしい気がする。人間の感情って、そんなイチ、ニ、サン、で振り分けられるものじゃないもの。
明海君が裕二に今答えたくないと言ったのは、そんな意味であるような気がし……いや、単にホレてると言えなかっただけなのかもしれんが(爆)、そういう深い部分に根差して作られている気がするんだよなあ。★★★★☆


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