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「せ」


2004年鑑賞作品

世界の中心で、愛をさけぶ
2004年 138分 日本 カラー
監督:行定勲 脚本:行定勲 坂元裕二 伊藤ちひろ
撮影:篠田昇 音楽:めいなCo.
出演:大沢たかお 柴咲コウ 長澤まさみ 森山未來 天海祐希 杉本哲太 宮藤官九郎 津田寛治 高橋一生 菅野莉央 ダンディ坂野 近藤芳正 木内みどり 森田芳光 田中美里 渡辺美里 山崎努


2004/5/23/日 劇場(錦糸町シネマ8楽天地)
久しぶりに号泣できそうな映画、と思いつつも、難病モノで泣くのはちょっと抵抗があるので割と構えて観ていた。……泣きに至るまでが、かなり、長かった。丁寧に作っているといえばそれはそうなんだけど、ちょっと、長かった。
原作には大沢たかお、柴咲コウが演じる大人部分はほとんどないんだという。映画版ではクレジットも彼らが先で、こっちこそが主人公だという趣。実際私が涙を誘われたのも、大沢たかお演じる大人になった朔太郎が、彼の全世界を傾けて恋し、愛したかつての恋人の記憶から逃れられないことに苦しむ姿だった。
……柴咲コウの存在はあまり意味がなかったような気もする(ごめん)。
彼女がこの原作のファンだというのは確かに有名な話だし、映画化にまでつなげたベストセラーになった貢献者の一人だといえるのだろうけれど、だからこそ何となく……彼女のために用意された設定、役のように思えるのだ。
まあ、大人になった朔太郎、大沢たかおはとても良かったから……いいんだけど。

そう、だって、クレジットが先にこようと、予告編で柴咲コウが全面に押し出されていようと(これは違うでしょー、と思っちゃう)やはり長澤まさみちゃんと森山未來君が主人公でしょ、と思うのだ。確かに彼らは過去の時間軸で動いているけれど、あの頃世界は二人のために用意されているほどに、すべてだった、その空気がもう……あふれているのだもの!
アキを演じるまさみちゃん、やはり可愛い。あまりに可愛いだけに……その可愛さが切ない。あきれるほど細く長い手足も、切ない。
「ロボコン」の演技で彼女を抜擢したのだという行定監督。エラい。
サクを演じる森山君は、ちょっと驚くほど、確かに大沢たかおの少年時代だと思うほどに似ていて、しかしそれでいて純粋で朴訥で、好きな女の子のために今彼が出来る全てを捧げるというのが、胸を締め付けられるほどよく判るのだ。
かといって、彼にできることというのは本当にささやかなことなんだけれど、でもそのささやかなことが、アキにとって人生の宝石だった。

どこか、ここではない、遠いところに行けば、この辛い現実から逃げられるような気がしていた。
彼らの気持ちが判る。彼らの住む、光がいっぱいにあふれている四国の田舎はとても美しいけれど、でも、閉じ込められている。二人はこの町から出たことがない。この町以外の世界を知らない。
だから、きっと、ここではない、どこかに行けば、アキの病気さえ、治るような気がした、のかもしれない。
あの、夏休みの秘密の旅行で見つけた、古いカメラの中に閉じ込められたオーストラリアの写真。先住民、アボリジニが“世界の中心”と呼ぶ、美しい土地。
サクは、もう……余命いくばくもないアキを病院から連れ出す。しかしおりしも台風が襲っていて……。

「ないんだってば。この次なんてないんだってば」
東京行きが欠航になって、絶望しながらも何とか「この次」となぐさめるサクに、アキは言う。
この台詞は、辛かった。こんな台詞、言わなければならない場面なんて、想像したくない。
若い頃、それこそティーンエイジャーの頃、死を考えるのはとても怖かった。不思議と今は自分の死とか想像してもそう怖くないんだけど。
考えるだけであんなに怖かったのに、本当に自分が実際死んでしまう境遇って、どんな恐怖だろう、どんな絶望だろう。
自分と同じ年頃の、自分と同じ病気の男の子が死んでしまった時のアキ。朔太郎に駆け寄って、突進して、泣きじゃくった彼女。

東京を経由しなければ行けない“世界の中心”はあまりに遠い。
でも多分、彼らにとっては、二人でいることこそが、世界であり、世界の中心だったと、思うのだ。あの閉じ込められた田舎町だからこそ。

二人が入りびたる、ガンコそうな爺さんがやっている写真館がある。
重爺と呼ばれるこの爺さんを演じているのは山崎努。若者から見た爺さんを体現していて、コレがいいんだ。しかも理想。だって彼は、初恋を貫いているんだもの。
映画の冒頭、サクとアキの通う高校の女性校長が亡くなってしまい、それがこの重爺の初恋の人だったということが判明する。
どうやら、重爺は添い遂げることが出来なかった後も、独身を貫いていた風がある。だって、二人に彼女の遺骨の一片を盗み出してくるように頼み、それを自分の墓に入れようと計画しているんだもの!
初めての大きな恋愛をしている最中の二人にとって、重爺の存在はとても大きかった。

二人はこの写真館で結婚写真を撮る。アキは言った。「忘れられるのが怖い」と。
アキの髪の毛がすっかり抜け落ちた時、サクは必死の思いを傾けて、婚姻届をもって彼女の元に行く。「結婚しよう」と。
結婚。それが愛の証だと信じていたあの頃。幼顔に着るタキシードとウェディングドレス。でも、その気持ちこそが、純粋だったあの頃。
死ぬことよりも、忘れられるのが怖いと言ったアキの気持ちが、……これまたあまり想像したくないことだけれど、想像できてしまって。
人間には二度の死があるという。まず自己の死。そしてもうひとつは……そう、親しい人に忘れられることによる死。
萩尾望都の「トーマの心臓」の、トーマの遺書にそう、書かれていたことを思い出す。

そして大人になった朔太郎は、他の女性との結婚をひかえて、突然自分の中に、アキが存在し続けていたことに気付くのだ。
気付く、いや、彼は気付かないフリをしていただけで、きっとひと時も忘れることなんてなかった。ごっそり出てきたアキとの交換日記ならぬ、交換カセットテープ。それを10数年の時を経てもう一度聞きながら、彼は過去への旅に出る。
光まばゆい世界。バイクの二人乗り。夏の制服から感じとれる素肌。秘密の旅行。夜を明かしてのおしゃべり。白いワンピース。
誰もいない体育館。きゅっ、きゅっと鳴る床。ステージの上のグランドピアノ。目を閉じ、耳を済ませて感じることが出来る彼女の存在……。
そして、彼は重爺の店に行く。彼は……大人なのに、大人なのに、あの頃の、少年の頃と同じように泣きじゃくる。アキを忘れられないんだと。
重爺は、残された者に出来るのは、後片付けしかないんだと、朔太郎に説く。
その言葉は……自身初恋の彼女をずっと忘れずにいた重爺のその言葉は、どういう意図があったんだろう。
自分を反面教師にして、お前たちはきちんと生きていけと、そういう意味だったのかも、しれない。
重爺の生き方は美しいけれど、でも反面、亡霊のような哀しさもあった。でも朔太郎はそんな重爺に理想を見ていたから、そしてあの頃アキを全身全霊で恋し、愛していたから、そのアキの記憶に苦しめられている、なんて感じている自分が許せなかったのかもしれない。

でもね、違うと思うんだ。
自分がアキを忘れられないことで律子にすまないと思っているのならそれは違う。だって、人を愛するということは、その相手が生きてきた記憶全てがその人を形作っているんだから、その全てを愛するということなんだもの。今の朔太郎だからこそ、律子は愛した。律子、彼女は実は、二人の交換カセットテープの配達人の女の子だった。それは不思議な運命ではあったけれど……。
律子は最後のテープを朔太郎に渡せず、事故にあい、片足が不自由になってしまった。今こうして朔太郎と結婚することになって、思いがけずその最後のテープが出てきた。律子は苦悩する。大好きだったおねえさん、アキが死んでしまったことさえ知らずに、私は彼を奪ってしまったと。
奪ったなんて、ことじゃないんだよ。朔太郎の中にいるアキ、律子の中にいるアキ、それは消えていないし、消えない。思い出とか忘れるとかじゃなく、そこに彼女はいるのだ。

確かに人はいつか、忘れてしまうのかもしれない。どんなに愛した人でも、今愛している人と共に暮らす生活の中で、ひと時も忘れることがなかった人でも、忘れてしまうのかもしれない。
アキもそれを恐れたし、重爺はずっと一人で暮らして、忘れるなんてことはなかった。でもそれはそんなに哀しいことなんだろうか。
そう、こんな風に、今の彼らを形作っている、その要素として細胞として、その中にアキは必ずいるのだし、それは記憶とか思い出とかそんなはかないものよりもずっと、信じられる、確固としたものじゃないんだろうか。

あの時の二人はまだ気付いていなかったかもしれないけれど、あの写真に映っていた“世界の中心”だって、古いカメラの中にずっとずっと忘れられていた記憶でしかないんだと思うのだ。
アキがその、封じ込められていた、忘れられていた記憶の中に閉じ込められた“世界の中心”に自分の遺灰をまいてほしい、と願う。そして大人になってその願いをかなえてやる朔太郎と律子。若くして死んでしまったアキは、そこまで気づけなかったかもしれないけれど、これは解放、なのだ。忘れられたくない、忘れられない、そのことによって苦しんでしまうことからの。
記憶を、思い出を、残酷な存在にしてはいけない。
重爺だってきっとそれが判ってたと思う。

確かにウォークマンって、あの時代のステイタスだったな、なんて思い出す。そして深夜のラジオ。佐野元春の「SOME DAY」。あの頃も名曲だと思っていたけれど、今聞くと、もっとずっと深いことを思わせる。あのイントロ、あのメロディ、あの声を聞くだけでウッと泣きそうになってしまう。……監督とあんまり年違わないから、こういう感覚判っちゃうんだなあ。
それは同じく80年代を扱っていた「1980」よりもずっとずっと、琴線に触れまくる。心の、体のどこかに眠っていた共通の甘酸っぱい、そしてちょっとほろ苦い感覚を揺り起こしてくれて、それが何より気持ちよかった。★★★☆☆


ゼブラーマン
2004年 115分 日本 カラー
監督:三池崇史 脚本:宮藤官九郎
撮影:田中一成 音楽:遠藤浩二
出演:哀川翔 鈴木京香 大杉漣 渡部篤郎 内村光良 市川由衣 近藤公園 安河内ナオキ 渡辺真起子 古田新太 麻生久美子 袴田吉彦 柄本明 岩松了

2004/3/4/木 劇場(丸の内東映)
ビミョウに、辛い。冒頭の「あごひげアザラシ一万匹」でもう辛い。この時代設定の中途半端な近未来も、面白さとつまらなさの境界線で、危ない。決して面白くないというわけではないんだけど。哀川翔があまりにも宣伝露出しまくりで、内容もバンバン出まくりで、じゃあ、あとはどこ観るの?というぐらいにまで広まってしまったせいかもしれない。こういうのって、三池監督作品では珍しいこと。「着信アリ」あたりからなんかそんな感じになってきているけれど、従来は、売れっ子監督ではあるものの、売れっ子だけにいちいち作品ごとに宣伝しまくるようなことはあまりなかったし、まるで予測できずに行って、ガン!と衝撃を受ける、そんなタイプの監督さんだったから……どちらかというと。

そして、こちらも仕事しすぎのクドカン。彼の脚本は渋いヒネりが加えてあって、それでいて基本はとても若々しくて、そして陽気なオタクである。つまり、これだけ売れていて、これだけ名が知られていながら、彼の本質っていうのは100パーセント日の当たるところに出ているタイプじゃないんじゃないかと、何だかそんな風に思えるのだ。哀川翔に執着しているのもそうだし、この映画のテーマでもある“低視聴率のため7回で打ち切られた特撮番組”なんていう要素に愛情を注ぐのも、いかにも彼らしい重箱隅つつき、なのだ。レトロな画像と水木一郎主題歌歌唱!もう、完璧。それは三池監督とリンクしそうで微妙にすれ違う。三池監督の場合、決して明るくはない。しかしまるで節操がなくてオタクの正反対である。似ているようで似ていないこの二人のコラボレーションは、化学変化を起こせばかなり面白いものが出来そうと、それこそ哀川翔主演、「ゼブラーマン」と聞いた時には思ったものだけれど、中和されて真ん中らへんに来てしまった、のかなあ。このムチャクチャさ加減は「DEAD OR ALIVE」シリーズに似てるかなとも思ったんだけど……。

一応、近未来である。微妙に。2010年なんて、ほんの6年後。あっというまに来てしまう近未来。こういうあたりの時代設定は陽気なヒネクレ、クドカンらしいものが出ている。それがどれだけ功を奏しているかは判らないけど。主人公の市川新市は小学校の教師。暗くて子供たちからは嫌われている。そのため、同じ小学校に通う下の息子はイジメにあっており、上の娘は夜中ふらふら遊びまわって援助交際しており(相手が柄本明っつーのが……しかも彼、カニ男になっちゃうし!)、きわめつけは、妻は不倫にふけっているんである。そんな家庭崩壊の中、新市は子供の頃夢中になった、たった7回しか放映されなかった特撮番組、「ゼブラーマン」のコスプレにハマッている。記憶を頼りに夜な夜なミシンをかけて、「白と黒のエクスタシー!ゼブラーマン!」とポーズを作る彼。

哀川翔は、確かに明るいイメージではないんだよね。気さくでアニキの男気、ではあるけれど、やっぱり今までのヤクザ系の役柄のイメージからか、どちらかといえば、ネガ。だから小学校の教師、というのは意外そうでいて、暗くてヒマをもてあましている学年主任という設定はハマっているのだ。だって哀川翔はメガネが似合うんだもん。
それに、私が一番好きな哀川翔のキャラって、「蛇の道」の数学の(予備校?)教師だったんだ。教師役の哀川翔って、ヤクザ役の時とはまた違った、ちょっとしたダンディズムがあるのよ。

その小学校に転校してきた、浅野晋平という車椅子の少年が、新市の人生を大きく変える。父親が目の前で自殺したのを目撃して以来、原因不明の病気で歩けなくなってしまったこの少年は、情報化社会の申し子的なコで、インターネットで知ったゼブラーマンにハマり、その知識は新市をしのぐものだった。新市はすっかり彼に心酔し「浅野さんって呼んでいいですか」(おいおい(笑))とほとんど子分状態。自分のバッチリ決まったコスプレを「ヤバい……浅野さんに見せたい」とつぶやくあたり(響きがリアルすぎる(笑))、もうほっんとに、師匠と師弟。しかしこの浅野クンが現われたことも、そして新市がゼブラーマンのコスプレにハマっていたことも、全ては偶然ではなく、必然だったのだ。

そのカギを握るのが、教頭先生。演じるは、大杉漣(もはや御大)である。彼らの住む横浜市八千代区は危機にさらされている……そのことを、もう何十年も前から彼だけが知っているのだ。地球外生命体によって侵食され始めた八千代区。しかしその現象はずっとずっと前から始まっていた。教頭先生こそが、実はエイリアン。地球人たちに危機を知らせるべく、「ゼブラーマン」の脚本家となって未来を予知したのだ。しかし番組は低視聴率で打ち切られた。そのため彼は、小学校の教師となってこの八千代区を見守ることとする。しかし彼自身もまた……その後には、最終回まで書かれた「ゼブラーマン」のシナリオが残された。
シナリオに書かれた最終回は、絶望的なものだった。ゼブラーマンが空が飛べないばかりに、地球は滅亡してしまうのだ。
今や、ゼブラーマンの能力を身に付けた新市は、そんなことにしてたまるかと空飛ぶ練習をはじめるのだけれど……。

だんだんと宇宙人に寄生されはじめる八千代区の人々は、緑色の目をキラリと光らせる。特に子供たちが集団でその状態になった時には「光る目」じゃん、と(なーんて、実は未見なんだけど……予告編でそのまんまの場面があったからさ)思ったりもして。このあたりは確信犯的?寄生された人間によって次々と犯罪が犯されるのを、ゼブラーマンはピピッとたてがみが反応して駆けつけるんだな。後ろの髪の毛が逆立って「ちょっと寝ぐせが……」とわたわたする哀川翔がカワイイ〜。
しかしこの時にはあくまでも、お手製のコスチューム、だったのだ。
空を飛ぶ練習のためにこのコスチュームもボロボロになっちゃって、「正義のヒーローはバイクだろ」と貯金をおろして(笑)バイクを買ったりするものの、まだまだ新市ゼブラーマンは危なっかしい。でも、何か、天の力が降りてきたかのように、ホンモノのゼブラーマンへと変身する新市は、その衣装のいでたちも何もかも、やたらとカッコイイのだ。そして、当然!地球を救うのだ。

液体人間みたいな、思いっきりCG、な地球外生命体、はホント思いっきり、なので何だか妙にキュートだったりするんである。液体が人型(?)になり、くっついてどんどん大型化し……ていうのも、その頭デッカチの造形のせいか、笑えるキュートさ。
浅野クンの母親で、実に気丈な女性を演じる鈴木京香はまさに、次世代の強い日本の母でカッコいい。あの哀川翔が憧れる、という設定も納得できるカッコよさ。彼女はそう、意外にカッコいいのよね。「木曜組曲」でもカッコよかったし。しかし、新市の夢の中に出てくる“ゼブラーナース”は……彼女自身なの?やけに凄いオッパイだったけど!!
実は最も楽しみにしていたかもしれない(笑)ウッチャンの出演シーンはちょっとだったけど、映画スターである哀川翔とのつながりの“友情出演”はちょっと、嬉しいかもしれない。「恋人はスナイパー」劇場版もあるし、今後を期待しちゃうなあ。
八千代区の現象を調査する防衛庁特殊機密部の及川を演じる渡部篤郎はメインの一方、なんだけど、まぁ彼は……仕事はきっちりした、って感じかな。

実は、この自分で着替えるヒーローものって……ついつい思い出しちゃったのが「ご存知!ふんどし頭巾」だった。“自分で着替える”“マヌケなコスチューム”ってところが妙に共通していて。まあ……でもあれも地味な作品だったから覚えている人も少ないのかもしれないけど……私にはやけに強烈な印象で残っているのだ。だって「ふんどし頭巾」だもん。「ゼブラーマン」も凄いけど、その凄さ、妙さは結構いい勝負でしょ?

シリーズ化……されるなんて話、出てるの?されても多分、観に行かない……わ。★★★☆☆


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