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「は」


2001年鑑賞作品

博徒対テキ屋
1964年 91分 日本 カラー
監督:小沢茂弘 脚本:小沢茂弘
撮影:古谷伸 音楽:斎藤一郎
出演:鶴田浩二 松方弘樹 大木実 島倉千代子 藤純子 近衛十四郎 片岡知恵蔵


2001/3/16/金 劇場(新宿昭和館)
鶴田浩二主演の博徒シリーズは、本作が初見。昭和4年、浅草が舞台の、デパート進出を巡る資本家とテキ屋、それに巻き込まれる博徒の攻防。今の浅草のたたずまいを考えると、ひょーっとして、これってちょっと実話かも?と思わせたりして。テキ屋も博徒も呑み屋じゃなくてモダァンなカフェでいっぱい引っ掛けるという時代の雰囲気や、資本家という、欧米志向のキャラが従来のテキ屋と博徒という中に、しかも訳知り顔して割り込んでくるという図式、新鮮である。

でも私の今ひとつ苦手な鶴田浩二と、とっても苦手な松方弘樹という顔合わせがどうもねえ、と思わせるのだが。しかし若くて甘っちょろい松方弘樹と並ぶと、鶴田浩二も渋くてイキに見えるのだから不思議なものである。タンカバイに慣れていないというちょっとウブな露天商の娘に藤純子。松方弘樹と恋仲になるのだが、ウブい設定とはいえ、松方弘樹と並べるとどう見ても彼女の方が格が上。風格が違う。鶴田浩二の相手だって言うんなら、判るけど。

その鶴田浩二の相手っていうのが、これがビックリ、島倉千代子なんである!いや、キャストの名前の順番と役どころから、彼女なんだろうと推測するってくらい、あまりにも若く世間知らず風で、印象が違うのだけれど、鶴田浩二扮する博徒の竜太郎にほとんど片思い状態のカフェの女給で、はすっぱとウブさが混在しているようなところがなかなかカワイイ。彼のためにテキ屋の陰謀を聞き出そうとして、相手に飲ませているうちに自分がつぶれてしまうというカワユさ。彼の部屋に何度となく押しかけ、その取って置きのネタを持って来た時も、予想通りストイックな彼にすげなく追い返されちゃって、それは判ってるの、みたいな感じでフラフラ去ってゆくいたいけさもヨイ。

竜太郎は、しかしもともとはテキ屋だったのだ。実の叔父を訳もなく殺してしまったことで、その罪は一族によってもみ消されたものの勘当の身になっていた。訳もなく、というのはまあ、訳がないわけはないんであって、その叔父が彼の実の父親であり、それを聞かされた竜太郎が、我を失って気がついたら殺してしまっていた、という寸法なんである。うーん、しかしいくら動転したからって、気がついたら殺してた、なんていくらなんでもムリがある気がするけどさあ。この勘当された兄を、どこかブラザーコンプレックスっぽく松方弘樹扮する弟は慕ってるわけで、しかしどっか甘えたところのあるこの弟に、竜太郎はこの真実を告げて一喝するんである。とたんに目がさめる弟。た、単純んー。

資本家と手を組むフリをしながら、汚い手で金を流用しようとしている新興のテキ屋。竜太郎のオヤジさん率いる菊家はもともと浅草の土地に古くから根を張っている昔かたぎのテキ屋で、この新興のテキ屋と真っ向から対立していたんだけれど、なにせこうした汚い手を使うもんだから、最近の?若いモンはどっちにつこうかと右往左往。しかしこの今や勘当されている身とはいえ、男気な竜太郎の出現で(ま、彼のオヤジさんも実にカリスマ性のあるひとだから、それもあるんだけど)菊家の加勢は多くなる。しかし何たって相手は使う手が汚いわけだから……竜太郎の父親も敵の手に倒れ、そんなこんなで、今や関係のなかった菊家のために、それも身を寄せていた博徒一家の跡目と望まれていたにもかかわらず、竜太郎は敵地へと踊りこんでゆく。クライマックスは悪辣テキ屋、片岡千恵蔵との、屋根の上での(!)一騎打ち!町中の人が固唾を飲んで見守る中、双方相討ちになって屋根から墜落、その命を散らすんである。彼の亡骸にすがりつき泣きじゃくる島倉千代子、そして弟、松方弘樹が「(先に死んだオヤジと)一緒に手をつないで三途の川を渡ってくれ」とか声をかける、そしてカットアウト。

これからの日本の繁栄を担うことになる資本主義、資本家を、複雑な心境ながらもどっちつかずとはいえ一応善玉のところに持ってくるところが、この時代以降の日本を決定付けたんだなあ、という印象。酉の市や、洋傘や怪しげな耐久性のある布を売ったり手相を見たりといった露店の様子が楽しい。ここで出てくるアネゴな京昌子や、名前忘れたけど、当時の漫才コンビ、そして東京知らず、世間知らずの大阪のボンボン、藤山寛美がなんといっても楽しい!もう、藤山寛美、最高である。いわゆる娼家に入って、写真の女の子なんてちっともいないやないか、とケチをつけ、たまたま通りかかった鶴田浩二に助けられるんだけど、すぐさま彼の背の後ろに隠れちゃって、その後ろからもオズオズとしかしポンポンと文句言って、可笑しいったらありゃしない。共演してる人、よく吹き出さないよなあ!★★★☆☆


箱の中の女 処女いけにえ
1985年 82分 日本 カラー
監督:小沼勝 脚本:ガイラ
撮影: 音楽:
出演:木築沙絵子 葵令子 草薙幸二郎

2001/2/27/火 劇場(ユーロスペース:小沼勝監督特集)
なんとまあ、実際の事件を元にしたんだという。で、でもでも、元って、いったいどこまでが!?と思うほど、かなりのアブナさ。この特集上映で観た中で、いや、今まで観たロマンポルノやピンクの中でも一番のアブナさとエロさと衝撃度。“実際の事件を元”にしたならば、余計にホントにヤバいと思うのに、すごい、手加減ナシ!ロマンポルノもピンクも、わりと上手に陰部は隠すんだけど、本作はもうボカシの嵐で、こりゃ、実録風ってヤツ?(「仁義なき戦い」かい!)つまりは、一人の女の子(女子大生と思われる)が夫婦によってさらわれて、散々に陵辱されるという話なんだけど、その子は処女で、次第に体を開発されてって、逃がされた時はこの夫婦に対する訴えを取り下げてしまうというというオチ。誘拐されて死ぬほどの目にあった女の子が、いくらなんでもそれはなかったろうと思われるのだけど、この脚色が、なぜだかしっかり説得力があり、女の私も不思議とイヤな気はせず、興奮度が高いんだからホントにすごい。時代は85年、おニャン子の「セーラー服を脱がさないで」が雑踏のバックと女の子が開放されたラストシーンに象徴的に流れ、しかもラストのラストにはこの子、二人の元に戻ってくるのである!?

なんたって、処女だっていうんだから、最初に入れられる時は、彼女ホントに痛そうで吐きそうな声出してて、取り押さえる妻の方は「この子、感じてないフリしてるよ!」などとホザくのだが、処女でなくったってこの状況では、ねえ、いくらなんでも……とまあ、この時点では思っていた、んだけど、それが先述のように、このムチャクチャな設定下において彼女の体が変わっていくのがつぶさに、そして圧倒的な説得力を持って迫ってくるのである。彼女、そりゃいつでも逃げ出したいし、怖いし、だけど、体のほうはその意思に反して次第に征服されていき……いや、違うな、ここがロマンポルノ(やピンク)の凄いところだと思うんだけど、一見、男性の征服下に置かれているように見えるのが、実は違う、彼女の体が感じていくうちに、彼女自身で目覚めていくということなのだ。ここを間違うと、ほんとにとんでもない陵辱モノになっちゃうんだけど、それこそ物凄くイヤな気分になっちゃうんだろうけど、一番が、主人公の女の子の自我だから、ナットクしちゃうんだよなあ。

まー、この犯人夫婦というのがまれに見るヘンタイで(笑)。もう正常のセックスじゃガマンできないと。夫がこの女の子に入れてる間に(それこそ前から後ろから……)この妻はそれに興奮して大人のオモチャでイッちゃってると。あるいは、自らの股間にペニスのツクリモノをつけて、この女の子とヤッちゃうとか。あ、そう考えると、正常のセックスじゃガマンできない、と思っているのは、この妻だけかあ!?でも、最後まで行き着いちゃうと、この二人、もうお互いしかいなくって、絶望的に愛し合ってて、二人お互いから離れられなくなるためにこんなことをしたんじゃないかと思われる節もあったりして……。

一度逃げ出した女の子が下水道に追い込まれるところもスゴかった。この男が追いかけてきてるんだけど、でもどこからがこの男自身だったのか……見えざる悪魔のような囁きと影が彼女を追いつめていってて。吐き気をもよおすようなヌルヌルの汚水の中を全裸をドロドロにしながら逃げ続ける少女。「この下水の中には生理の血や堕胎した胎児のかけらや犬や猫の死肉や……」という囁きと共に映し出されるブクブクしている汚水、おええええ。ついには男に追いつかれて「何でも言うことを聞くから、助けて」とへたり込む女の子。この画も……ヤバいんだけど、相当耽美。

箱の中の女、というくらいだから、この女の子、箱に入れられるんである。頭だけ箱だったり(この画って、電波少年の室井滋=箱女にソックリなんだけど……ひょっとして出自はここ!?)頭だけ出して首から下が箱の中(しかもかなり恥ずかしいカッコで縛られてる)だったり、この合わせワザだったりする。なんかどこか文学的というか、哲学的というか、そんな感じすらしてしまう。クライマックスシーンがすごい。この頭出しの箱に入れられた女の子が、海岸に置かれている。男は彼女に逆点滴(?)をとりつけ、彼女の目の前で自らの血が次第にビーカーにたまっていくのを見つめさせるのである。実はこれはウソで、実際にピーカーの中にたまっていくのはトマトジュースなんだけど(!?)、しかしこの耽美的な画は!しかもしかも、その死にゆく(と思い込んでいる)女の子を目の前に彼らは波に洗われながら(何であんな波打ち際でヤんの……海水飲んじゃいそうで苦しいと思うんだけど)、捕まる前のセックスをするのである。思えばこの女の子をさらってから、彼ら二人のセックスは行われてなくって、それこそねっとりと情熱的に絡み合う。「俺たちがあの子にどんなにやらしいことをしたか、世間は知って、みんな俺たちを責めながらもパンツを濡らすんだ。俺たちは犯罪史に名を残すんだ」「ああ、あなた、ゾクゾクするわ!」……ホントにヘンタイである。しかし、この引きの画は、美しいのだよね……。

しかし、この女の子は告訴しない。彼女、陰部にピアスのように穴を開けられ、そこに細い鎖をつながれた、なんて目にさえあっているのに……。んで、この鎖が、その後の展開に大きく作用してくるのだ。その、穴をあける場面は、うっわ、ヤメてー!ってくらいエグいものだったんだけど、華奢な鎖をぶら下げた女の子の姿もまた、耽美的で。警察で彼女は彼らに何をやられたかを包み隠さず話してほしいと言われる。アナルセックス、オーラルセックス、……言葉も知らずに彼女がやらされていたことを、聞き出す警官たちは、彼女の話を生唾飲み込んで聞いている。次第に彼女、興奮してきて、テーブルの上にのっかり、その鎖がつながれた部分をあらわにする。うろたえる警官たち。引っ張ってみて、と請う女の子。三人の警官たちがその上下関係から微妙に右往左往するのが可笑しい。ついに一人の警官が引っ張ってみる。よがる女の子。彼女はそばに立っていた一番若い警官のモノを口に含む。次第に警官たちみんな、我を忘れてきて、さながら4Pの趣!?(そこまではいかないけど)この場面は、ホントに、かなりスゴい上に、最高に笑えるという、なんかもう矛盾なんだかなんなんだか……ああッ!判んないけど面白い!

犯罪史上に名を残すはずだった二人は、だから何のとがめもなく開放されてしまう。警察から出てくる時、報道陣やら野次馬やらがいるはず、と思って興奮していた彼らは拍子抜けし、手記を出すだの写真集を出すだのと言ってすっかりアイドルとなってしまったこの女の子を新宿アルタの大スクリーンでボーゼンと眺めている。しかし次のシーン、ホントのラストでは、この子、自ら箱の中に入って二人を待ち受けている!?それともあれは単なるイメージショットなのかなあ。でも、その姿で「お帰り」って……スゴすぎる!

「サディスティック&マゾヒスティック」で、このヒロインである木築沙絵子が本作を述懐しているんだけど、車の中で陵辱されるシーンはとにかく暑くて、でもサウナみたいだったから、サウナ好きの自分としては全然平気だったとか、地下道のシーンでウジムシにもうイヤだ、と思ったとか、海岸のシーンでは箱を開けられる直前まで眠くて寝てたとか、なんていうか、シーンのイメージに反して、アッケラカンとしてて、凄くイイエピソードなんだよね。彼女の小沼監督のイメージっていうのが、カメ、だと。それもじーっとしている陸ガメ。本心をなかなか見せてくれなくて、すっと首を引っ込めちゃうような、っていう……。なんかそのミョーな表現が、監督に対するふかーい信頼と愛に感じられちゃって。しかし、15年以上経ってるとはいえ、彼女ほんとに印象が違ったなあ。ほんと、当時はおニャン子時代、なんだよね。パール系の口紅と肩までの髪にパーマかけて。純真さを演出しているとはいえ、登場シーンで白のワンピースっていうのもキテるし。

ロマンポルノ、ひいては成人映画が、まぎれもなく女性上位の映画だということを改めて感じさせる快作!★★★★☆


パズルNADIE CONOCE A NADIE
1999年 108分 スペイン カラー
監督:マテオ・ヒル 脚本:マテオ・ヒル
撮影:ハビエル・サルモネス 音楽:アレハンドロ・アメナーバル
出演:エドゥアルド・ノリエガ/ジョルディ・モリャ/ナタリア・ベルベケ/パス・ベガ

2001/7/27/金 劇場(有楽町シネ・ラ・セット/レイト)
「オープン・ユア・アイズ」の……というのを聞いていたから、同監督の新作かと思ったら、違った。そのアレハンドロ・アメナーバル監督、本作の監督で「オープン……」の共同脚本家であるマテオ・ヒル、そして主演であり映画制作のスタッフの一員でもあるというエドゥアルド・ノリエガの三人がセットになったチームとしての新作で、マテオ・ヒル監督にとってのデビュー作。監督と脚本家という間柄はままあるものの、それに俳優も加えたチームというのも珍しく、しかもこのノリエガは役者としてはもちろんのこと、映画制作そのものに多大なコダワリがあるらしいので、それだけで好感をもってしまう。それだけで、っつーか、……このおにいちゃんが、やたらイイ男なんでねー、あはは。スペインの濃い血を感じさせながらも、さらっと知性が感じられて、そして色気があって、スッテッキ!「オープン……」の時にはキャラがイヤな奴だったせいか、気づかなかったらしい……単純ね、私。

それに「オープン……」は確かに面白かったけど、一方で、でもなあ……と思う節もあった。そしてこの若すぎるほどに若い才能に全幅の信頼を置けなかったこともあり(なーんていって、最近の私は若い才能にすっかりヨワいのにさ。年とったかしらね)、だから素直に彼の、彼らの才能を認められなかったのかもしれない。しかし、本作であっさりと趣旨変え。「オープン・ユア・アイズ」の監督のアメナーバルが、本作で音楽のみを担当しているという部分にも興味を引かれる。いわば映画全体に才能の触手を動かすチームなのだな。

どこか奇想天外だった「オープン・ユア・アイズ」と比すると、原作があるせいなのか、破天荒ながらも妙にリアリティのある展開である。スペイン、セビリアの聖週間、厳かさと華やかさが同居するカトリックの一大イベントにのせて繰り広げられる言葉や絵画を引っ掛けた知的な、そして恐ろしいゲーム。主人公のシモンは小説家志望のクロスワード作家。同居人はカエルと呼ばれているちょっとカワリモノの英語教師の男。美貌の(マジ美人)記者マリア。ゲームのスタッフはオタクというにはやけに専門家すぎるプロフェッショナル集団。“東京の事件で使われた有毒ガス”サリンを作れるなんていう人物まで出てきて、いささかショック。こんな具合にキャラ設定も妙にリアルで逸脱しないんである。この逸脱していない部分が冷めたコワさである。シモンのクロスワードを使ってゲームを仕掛けてくる犯人。それによっておこる聖なる教会での殺人。次々に寄せられる謎のメッセージ。殺人場面も生々しく描かれることなく、その死体の異様さや宗教的に見せるシニカルな美学などに目を奪われる。死そのものをゲームの1つとして演出しているしたたかさである。ナマナマしい残酷さよりも、さらに猟奇的な残酷さを感じさせる不思議さ。

同居人のカエルと美貌の記者マリアは、そっりゃ第一に疑わなければならない人物だったのに、昔っからあっさりだまされてしまう私は、すっかり物語の展開どおりに彼らを信用したり疑ったり、もう一度信用したりと、終わって思い返してみると、何という単純極まりない観客なのかと……(素直だと思いたい)。だってさー、確かに見るからに性格俳優のこのカエル役のジョルディ・モリャだけど、だから本当に上手くってだまされちゃうんだもん。しかも本作を見ているときの私は、ノリエガのイイ男っぷりとマリアのいい女っぷりにすっかり見とれてるもんだからさあ(アホかこいつは……)。

しかしこのモリャは本当に上手かった。つまりは、いかにもカワリモノで、疑わしくて、疑わせて、で、展開していくとカワリモノだというだけで単純に疑うのはおかしいということでそれもまた信用させて(友情を絡めちゃうのがテクニックなのよねええ、くっそう)そしてまた、という……。彼はセビリアの街全体を巨大なゲーム板に見立て、このゲームに賛同する各方面の専門家を集め、人の命をも賭したゲームを……いや賭すという表現はこの場合当たらない。だって彼らはそれによって楽しんでいるんだから。ゲームを単純にワルモノにするのはいかがかしらとは思いつつ、やっぱりこれってゲーム世代の弊害なんだろうか、などと思う。昨今の映画は世間の若い犯罪者の起こす事件と同調するかのように、わりとこういう意識の感じられるものが多い。ゲームと殺戮は同意義のものとして語られているかのような。まあ、新しい文化が現れるとその過渡期っていうのは確かにあるものだけど、でもこんなに恐ろしい過渡期というのもちょっとなかったんじゃないかって気がする。怖い。

しかしカエルはやっぱりシモンにホレてたんかねー。と、こういうふうに男2人が出てくるとすぐそう思っちゃうのが私のクセなんである。でもさ、カエルがシモンと2人きりで対峙した時に、まるで彼に見せつけるように他のスタッフのいるアジトを大爆発させちゃって、殺しちゃって、で、あの時の彼の表情って、お前と一対一でヤレるんなら(もちろん対決するということなんだけど、そーゆーセクシャルな意志を感じてしまった)他のヤツなんかどうなったって構わない、結局はあいつらもただのゲームの駒で、お前だけが俺の正義のヒーローだ、とでもいうようなさあ……きゃあああ。

路地の向こうに黒づくめの、聖週間のコスチュームをした敵が立ってたり、その敵とピコピコ光線が出るだけの銃で撃ち合ったり、それなのに本当に撃たれているかのような恐怖を味わったり、なんかその不条理さでシモンでなくとも段々頭がおかしくなってきそう。その白眉はクライマックスの、カエルとの一騎打ち。けばけばしいのか厳かなのか判んない、アバンギャルドなマリア像の中に潜んで時限爆弾を抱えているカエルを、シモンが何も知らない警官に威嚇されながらも撃ちぬく場面。

男同士の殺し合いは2人のセックスと同じだといったのは誰だったか、この場面でもその誘いをかけているようなカエルの気配にゾクゾクし、宗教のお祭という、しかもガチガチの禁欲的なカトリックのそれのなかで、そうした性的、感情的な鬱屈が解放された象徴としての血を流す男2人(というか、この場合はカエルのみかしら)という図式はホントにキャーである。しかもカエルは、永遠の処女であるマリアの中に潜み(自分の恋人の名前もマリアというのはちょいと出来過ぎだわ)、そのマリアが撃ちぬかれてそうした態をさらすことになったわけであり、処女性が壊されたというその暗示で、あながちそうした想像が外れてもいないんじゃないかな、なんて勝手に思ってしまうのだ。

確かにあんな美人のマリアが現れたらくらっと来ちゃうのも判るけど、恋人であるバールのお姉ちゃん、アリがいるんだから、だめだよー、シモン。本当の味方、本当に愛してくれる人をちゃんと見極める目を持たなくっちゃね。ということがひょっとして本作のテーマ?だとしたら……案外まともね。★★★☆☆


バトル・ロワイアル 特別篇
2001年 121分 日本 カラー
監督:深作欣二 脚本:深作健太
撮影:柳島克己 音楽:天野正道
出演:藤原竜也 前田亜季 ビートたけし 山本太郎 安藤政信 柴咲コウ 栗山千明 宮村優子 塚本高史 高岡蒼佑 小谷幸弘 石川絵里 三村恭代 島田豊 松沢蓮 池田早矢加 永田杏奈 金澤佑香利 加藤操 本田博仁 日向瞳 石井里弥 神谷涼 金井愛砂美 花村怜美 柴田陽亮 郷志郎 増田裕生 広川茂樹 三原珠紀 嶋木智実 佐野泰臣 日下慎 西村豪起 新田亮 山口森広 大西修 横道智 内藤淳一 木下統耶子 関口まい 馬場喬子 野見山晴可 井上亜紀 前田愛 美波 岩村愛 深浦加奈子 山村美智子 谷口高史 竜川剛 中井出鍵

2001/4/24/火 劇場(渋谷東映)
正式公開時に2回観てしまっているので、今回ようやく落ち着いた精神状態で見る事ができた。過去二回、特に二回目はとにかく泣きに泣いて、胸をかきむしられて大変だったから……。今回はだいぶいろんな意味での感じが違っていた。今回の特別バージョン公開は、前回観られなかった層の中から見られるようになった(つまり新高校一年生)をターゲットとしてて、割引も行っている。でもホントに興味を持って観たいと思った子達だったら、はっきりいって映画館のチェックなんて有名無実だし、あっちだって商売だし、ましてや法律とかそんなんじゃないんだから、結構簡単に観ることができただろうと思う。だから逆に今回観にきているような子達は、なんかあんまり信用できないといったら言い方がおかしいんだけど、観た場所が渋谷だし、……なんていうのかなあ、ホントにこの子達わかってんのかしらん、と思ってしまったのだ。

チケット売り場でダラダラしている時から私はずいぶんとイライラしてたんだけど、本編が始まる前、ビデオとDVD発売の宣伝が出てて、「なんだよ、俺ら何のために来たんだよ」みたいな言い方をしてたのにもかなりムッとしたけど、映画の最中ずっと喋りながら、笑いながらで、果てに出た感想は「まあ、確かに面白かったけどさあ……」なんだから、本当にゲンナリしてしまった。深作監督は今の若い子たちだって、充分に判断能力や感じ取る能力があるって言っていたけど、なんかこういうのを見ちゃうとねえ……。東京の、ことに渋谷の、だからなのかもしれないけど。私、渋谷の若い人ってほんとダメ。というより以前に渋谷自体がものすごく苦手なのだけど。ここの若い子達には恐怖を感じてしまう。若い人に対して「近頃の若い人は……」的な気持ちはスタンダードなものだしいつの時代もあるけれど、なんかそういうのすら突き抜けちゃって、怖いのだ。自分より下の世代を怖いと思う時代って、今までなかったんじゃないかなあ……。

だいぶ話がずれました。あの子たちがもらした感想は、ちょっと判らなくもなかったんだけど。というのも、今回は数分の追加カットがなされてて、たったそれだけでこんなにも作品の印象が変わるかな、という……。もちろん最初のバージョンでもそうだったのだけど、より一層彼らの感情の部分がクローズアップされてて、感傷的な仕上がりになっている。私は、最初の公開バージョンの方が好み。実を言うと最初のバージョンでも、回想シーン、例えば秋也が親友とのことを回想するシーンなんかは、いっそいらないんじゃないか、と思ったくらい。父親が自殺するシーンとかは必要だけれど。本バージョンは球技大会、バスケの試合の回想シーンをはじめ、ラストクレジットの後のレクイエム三部作に至るまで、回想シーン追加がずいぶん多い。それによって、前のバージョンでもいささか気分が途切れる思いがした、エヴァンゲリオンチックな字幕や、ことにラストの赤い文字、「走れ」などが、より一層感情のタメを感じさせて、ちょっと気恥ずかしいというか、凄く、なんていうのかなあ、指南されてるっていうか、諭されているような気分がしたのだ。でもそれはショッキングな映像に対する免疫がようやく出来上がったから感じることであって、あの子たちが本作を初鑑賞したのならば(ま、あんな感想もらすんだから、当然初めてでしょうな)最初から作品内容や映像に対してあんなふうにリラックスして構えられるのは、やっぱり、あーあ、って思っちゃうんだけど。

前バージョンは、だからそれだけとても緊密で、緊張を(いい意味で)強いられて、ものすごく感情を揺さぶられたから……。ビデオ化するとしたら、前バージョンでやってほしいところだけど。幼少時の光子のシーンの追加も、両親役の片岡礼子と諏訪太郎という強力メンツが嬉しかったけど、あれで彼女のインパクトがかなり引き下げられてしまった感じがする。気持ちは判るんだけどね……。桐山役の安藤政信が、彼がこんなんなってしまったことに対する説明(つまり光子的な過去のトラウマ)をしようという提案を、それはいらない、と退けたと聞いたけど、だからこそあの桐山は素晴らしかったのだもの。光子のシーンでいえば、彼女が男子生徒二人を食い物にして惨殺して去るシーン、前バージョンではそれを引きのワンカットで見せて、大いに震えさせられたものだけど、本バージョンは、その前にこの男の子二人の血まみれの死体をそれぞれクローズアップで見せていて、不思議なものでそれだけで、一段、緊張感や恐怖感、頭にこびりつくインパクトがなくなってしまう。残念。

なんかこんなこと言ってると、登場人物に対して残酷な部分だけを求めている感じがして、我ながら恐ろしいやっちゃ、と思わなくもないんだけど。でも本作に関しては、掘り下げるのはメインの3人(それとキタノか)で充分だと思うのだもの。私みたいな馬鹿にとって、それ以上は頭の処理能力を超えてしまう。それにだからこそ感情が濃密に感じられるのだ、と思うんだけどなあ。

前バージョンを観た時に、今の子供たちや大人社会に対してもらした感想と矛盾することは判ってても、それでもどうしても思ってしまう。今の若い子にはほんとに伝わっているのだろうか、と。今日の観客の子たちなんか観てると、ほんとに……作品に対して何かを感じ取ることのトレーニングができてない気がする。この子たちが大人になってこの国を形成していく、んだよなあ……不安。★★★★☆


花と蛇
1974年 74分 日本 カラー
監督:小沼勝 脚本:田中陽三
撮影: 音楽:
出演:谷ナオミ 藤ひろ子 あべ聖

2001/2/28/水 劇場(ユーロスペース:小沼勝監督特集)
次々と傑作に遭遇して、息切れしてしまう。これは、同じく縛り、スカトロのSMでも、「生贄(いけにえ)夫人」とはまた全く違っていて驚いてしまう。なんと言っても、爆笑モノなんである。しかも、やはり谷ナオミは素晴らしく美しい。肉体というものをこれほどに感じさせる女優を、私は他に思いつかない。それはただ単に裸身をさらすというのではなく、肉体が言葉を持ち、意味を持つのだということ。「生贄(いけにえ)夫人」よりも、ポジティブであり、明るさに満ち、そのラストは男性との立場を完全に逆転している。いや、違う。最初から彼女がはるか上位だったのだ。縛られ、陵辱されていても、男たちはその美しさにふるえ、その中でイき、離れられなくなる。飼育していると思っていたのが、最初から飼育されているのは男たちの方なのだ。しかも彼女はそれをかなり早い段階から自覚している。こんな優越感に浸れる面白いゲームを彼女が手放すはずもなく、男の手の内にあると思い込ませて、実は彼女が完全に手綱を握っている。そしてラストは、バラの花の刺をもてあそびながら、「男ってカワイイわ」のキメ台詞、カッコよすぎ!

団鬼六原作の名作の誉れ高い本作は、にっかつロマンポルノにあまり詳しくない私にも聞こえていた。原作は未読なので映画の展開で話をすすめると、幼い頃、母親とセックスをしていた黒人を撃ち殺したトラウマを持つ、マザコンの男、その家は大人のオモチャの店をカクレミノにSMプレイの映像販売も手がけていて、地下室で日夜緊縛の宴が行われている。この男は30も越えようというのにいまだロクに女の経験がなく、SM写真で自ら果てている。ぬぐったちり紙(ティッシュじゃないところが、時代ね)をカーテンの陰にこんもり隠しておいて(キタネーな……)無事、女とのセックスに成功した暁に、荼毘にふすがごとく感慨深く焚き火をするのである(フシギそうに見ている子供が笑える)。インポの過去よ、さようなら、てなわけで。その女が誰かと言うと……。

彼のSM趣味に目をつけた勤務先の社長が、自分の妻を男の言いなりになるように飼育してほしい、と命じるのである。それが、その女。言うまでもなく、それが、谷ナオミである。何が原因でなのか、この妻は夫であるこの社長をここ最近拒絶するのだという。離婚すらも口にする。それは、この妻の余りの官能的美しさのゆえにこの社長が倒錯的に執着しすぎなのか、その辺はハッキリとは明かされないのだけれど、つまりは、この時点ではこの妻、その身体が目覚めていないのである。もったいない……と思わず思ってしまうほど、登場シーンから谷ナオミの肉体は輝いている。つややかな長い黒髪を真白い身体にたらして和式の浴室で入浴しているシーンから、ガウン一枚羽織った姿で庭に飛び出し、咲きほこるバラの花で社長の顔を傷つける、片方のおっぱいボロリのシーンまで、豊満で官能的ながらもまだこの時点では清らかな美しさの裸身に釘付けである。

男は、社長命令ということもあるものの、この妻の美しさに打たれて、飼育係を承知する。眠り薬で眠らせて、彼の部屋まで運び込まれた彼女を、縛り上げる。あ、その前に、彼がダッチワイフ相手に緊縛の練習をしているシーンはかなり笑える。雑誌を見ながら懸命に練習した甲斐あって見事な縛り具合である。女が目を覚ます。その気高い態度に男は気後れするものの、部屋に様子を見に来た彼の母親はいきり立ち、彼女に浣腸をするように息子に指示する。「どんなに気取っていたって、オシッコもクソもたれるただの女だってことを判らせておやり!」てなわけで、まあ、実に200cc(!!)もの浣腸液がうやうやしく用意され、女の尻に突き刺される。「すごいね、まだ入っていくよ」って、そんなことで感心するか、母親!かくして、彼女はブルブル震えてその場で……になるわけだけど、息子は母親を締め出して、その排泄物を自らビニール袋で受け取ってやる。そして興奮を覚え、そのまま女に挿入する。「できた、できたよ!」狂喜する息子。この後、あの焚き火シーンと相成るわけである。

不思議なことに、この陵辱としか思えない最初の段階から、谷ナオミ扮するこの社長夫人はなぜだか痛々しい感覚を起こさせないのだ。さすがにこの時点から彼女もまた快感にうち震えている、とまでは言わないけど、ここですでに、男は彼女の虜になっていて、息子を取られるという嫉妬心からSMイジメに走ろうとする母親を息子は押しとどめるのだ。それでいて、縛っている、監禁しているという事実だけで彼女が自分の手の内にあると思い込んでいる彼は、彼女のあえぎ声のテープや、かの排泄物の一部を普段母親が作ってくれている弁当箱の中に入れて(!)自慢げに社長に提出したりするのである。しかも「飼育は、終わりません」と彼女の引渡しを拒否する。「妙に嬉しそうだな」といぶかしげな社長。

自分の魅力に参っていると見て取った彼女がしむけたワナにまんまとはまりこんで、彼女に心底ホレこんでしまった男は母親に「彼女と結婚する!」と告げるんである。その台詞と共に唐突に切り込む結婚行進曲!母親は呆然としながらも冷静に後ろのラジカセのスイッチを切り(爆笑!)お前はあの女にからかわれているんだよ、とたしなめる。その母親の言うことなど聞きもせずに、男は決然と会社へ出かける。切なく息子の後姿を見つめる母親の姿のバックに流れるのは、もの悲しい男性コーラスの「かあさんのうた」!?しかも一番フルコーラス!可笑しすぎる!

男は女を縛ったまま散歩に出かけ、外国ポルノ映画を観る。そこではトラウマである母親と黒人のセックスを思い出させるような、白人の女と黒人の男のセックスが映し出されている。トラウマの幻影に苦しむ男。しかし、その時唐突に真実を思い出すのだ。撃ったのは彼ではなく、母親の方。罪から逃げるために、母親が息子に罪をなすりつけたのだ。快哉を叫ぶ男。男は電話で母親に決別を告げる。その電話ボックスで二人は絡み合う。それが!カメラが引くんである。望遠で撮ってるう!彼らの絡み合いに野次馬の人だかりが出来る!ひええええ。

なんてことがなんだかんだありながらも、結局彼女は社長のもとへ帰ってゆく。すっかり女性の身体の喜びを知ってしまった彼女にとって、あのイヤラしい社長もまた、格好の標的なのだ。彼女に絡めとられた男もまた、母親の制止を振り切って彼女についてゆく。その時の彼女の台詞が振るっている。「私は悪魔なのよ。それでもついて来るの?」かくしてこの豪奢なお屋敷で退廃的な3Pが繰り広げられ、縛られた社長夫人は、二人の男に愛撫されて最も性的快感を享受し、実家から連れて来た、どこか同性愛的な関係のメイドにこう言うのだ。「あなたも苛められてみる?」メイド、うろたえて「そんな……奥様(ややあって、決心したように)……はい」そして、あの、谷ナオミにしか言えないキメ台詞である!!!

この、奥様にホレきっているメイドがなかなかイイ味を出してるんだよなあ。もしかしたらレズ的関係もあったかも、と思わせるのは、社長を徹底的に拒んでいた奥様がすっかりセックスの女神になっちゃって、「奥様が苛められてるんですもの」とスネたり、そのあと「あなたも、苛められてみる?」と問われて、戸惑いながらも首肯してしまうのは、男とナニしたいというんじゃなくって、この魅力的な奥様と×××したい、というんだろうから。だって、この愛する奥様を奪還するために、男に身体をさらして「……奥様」とつぶやくくらいだもん。でもさあ、なんかさあ、そう考えると、このメイドにしても、社長にしても、この男にしても、彼女に心底参ってて、愛してて、でも、彼女は、そういう感情を誰かに対して持っているかと言えば……だから思うよりも女性上位な映画じゃないのかなあ。確かに彼女は一番主導権を握ってて、トップに君臨したけれど、じゃあ、誰かを愛しているのかといえば……セックスの、ひいては快楽の主導権を握る女神となっただけなのだ。……そう考えると、ちょっと哀しいのかなあ。でもそれって、愛情を第一義に考えた場合だから、だけど……愛情もひとりよがりなものだしなあ。

縛りやスカトロの究極の美学と、女が男を征服する爽快さ、そしてコメディの要素に重点が置かれていて、意外とエロ度は低いんだけど、だからこそ、その破天荒な傑作ぶりが否応なく発揮されている。タイトルも成人映画っぽくないし、もっと積極的に流布されてほしい作品だなあ。★★★★★


はなればなれにBANDE A PART
1964年 96分 フランス モノクロ
監督:ジャン=リュック・ゴダール 脚本:ジャン=リュック・ゴダール
撮影:ラウル・クタール 音楽:ミシェル・ルグラン
出演:アンナ・カリーナ/サミー・フレイ/クロード・ブラッスール/ルイザ・コルペイン/エルネスト・メンゼル/ジャン=リュック・ゴダール(ナレーション)

2001/3/21/水 劇場(銀座テアトルシネマ)
今まで特集上映など、ゴダールの映画を観る機会は何度もあったのだから、観て置けばよかったのだけれど。本当に、数えるほどしか観ていない。映画を観はじめたころに「気狂いピエロ」を観た。今思えば、もっと映画を判るようになってから(今だって、判ってないけど)観ればよかったなと思い、もしかしてあの時の??の印象で、知らず知らずゴダールを遠ざけてたのかもしれないな、とも思う。しかし、本作を観て、例えばチラシに寄稿しているはなさんのように、無邪気にそのチャーミングさだけに熱狂したりは、何故だか出来ない。もしかしたらとてつもなく残酷作品のようにも、思えるから。そのチャーミングなカクレミノの下では……いやいやいや、そんなふうに思いがちなのは私の悪いクセなのだけれど。うー、それに、ゴダール!ファンが多くてうかつに語るのが、コワい……。

物語は、一人の女プラス二人の男、が、彼女のおばの家に隠された大金を強奪する、というお話。この三人の組み合わせにちょっとだけ「突然炎のごとく」なんぞを思い出したが……この組み合わせ、女優が美しければ美しいほど、逆(女二人プラス男一人)は、ありえないのね。映画の中の女の人口密度は、だからいつの時代も少ない。アンナ・カリーナは確かに美しくて見とれるけど、これも一種の女性差別ね。彼女は厳然たるヒロインなのに、彼女の視線から語られることは、ほとんどないのだから。女の視点なんて、いらないってわけ。まあ、かといってこの男たち二人の視線から、というわけでもないんだけど。

そんな視点や、お話は、結局用意されたものに過ぎないらしい。冒頭、スタッフクレジットで、ゴダールは自分の名前の真ん中に“シネマ”と置いている。ジャン=リュック“シネマ”ゴダール。これから映画を語りますよ、と言っているのか、はたまた自分自身が映画そのもの、と言っているのかは、判らないけれど、本作は(というより、彼の映画はひょっとしてみんなそうなのかな、観てないからなあ)映画が語ることのできる表現方法を、実に自由闊達に試している。しかしそれはどこか、文学のそれに似ている。文学で使われている手法を、というより、文学そのものを映画で置き換えることが出来るのか、といった興味を感じる。文学は読み手が時間を自由に操作できる。映画は、出来ない。一分間の沈黙の長さや、ルーブル美術館を数分で駆けぬけたり(この場面は、相当好き)など、画面に与える時間の印象が面白い。また、一人称?三人称?その揺れ。特に三人がカフェでマディソン・ダンスを踊る場面で、それぞれの心象を説明するくだり(ご丁寧にも音楽を消して)など、文学的であり、そして、文学を映画にした時に、失われてしまうことがそれだったのだ、と、気付いたりもする。映画はとても自由なように見えて、実は一番不自由な芸術なのかもしれない、と、こんなに自由な映画を観て気付くというのも、面白い。

それは俳優たちが、それぞれの役どころが、“物語”に貢献すべきなのか、こうした表現としての“映画”に貢献すべきなのか、どこか戸惑った表情を見せているように感じるのが。中盤までは、それこそ表情豊かな顔のアップがめまぐるしく現れるオープニングから始まって、こうした表現としての映画の面白さに注視されているのだけれど、このままでは映画が崩壊してしまう一歩手前の後半以降は、物語としての映画に立て直しが図られているから。裏切りや愛情や、さまざまな感情が交錯しているスリリングな展開で収束に向かい、そのギャップがことさらに感じられはしないものの、やはりどこか融合し切れていない印象は残る。しかしそれこそがこの映画のチャーミングな面白さなのだけれど。

それにしても、オディール(アンナ・カリーナ)は、なんだってアルチュール(クロード・ブラッスール)なんぞにホレるんだ、まったく。フランツをクラい、なんぞと言いやがって。アルチュール、手練手管でオディールを落としておきながら、強奪が上手くいかないのを彼女に向かって理不尽に逆上したりして、それみろ、案の定じゃないか。ま、ラストはフランツと上手くいったから、いいけどさあ。でも、そう考えるとオディールも結構調子いいよな。フランツだけが愛しいわ、もう。

ところで、そのオープニングクレジットで音楽のミシェル・ルグランに対して“最後の?映画音楽”と付されてたのは、別に特に意味はないのかなあ。★★★☆☆


ハムレットHAMLET
2000年 112分 アメリカ カラー
監督:マイケル・アルメレイダ 脚本:マイケル・アルメレイダ
撮影:ジョン・デ・ボーマン 音楽:カーター・バーウェル
出演:イーサン・ホーク/ジュリア・スタイルズ/カイル・マクラクラン/サム・シェパード/ダイアン・ヴェノーラ/ビル・マレー/リーヴ・シュライバー

2001/2/4/日 劇場(恵比寿ガーデンシネマ)
ひょっとしたら、恐ろしいことに、「ハムレット」の映画化作品を観るのって、初めてかもしれない。しかも、むかーし一度くらいしか読んでない「ハムレット」の記憶を取り戻すのに苦労してしまった。……ああ、こんなに基本の物語なのに、情けない。今回の「ハムレット」は2000年のニューヨークという、完全に現代に話を移してはいるものの、かなり原作に忠実に進行してゆく。舞台は巨大マルチメディア企業であり、王ならぬそこの会長が弟によって殺され、未亡人ガートルードと即結婚する。息子、ハムレットは映画監督志望の若者で、父の亡霊に出会い、弟、クローディアスに殺されたことを告白される。彼はその殺人を示唆するアヴァンギャルドな作品を撮り、クローディアスの狼狽した姿を見て、父の殺人が事実であったことを確信する……。

字幕がほんとにハムレットを読む時に出てくる大仰な言葉づかいだったので、ほんとにこんななんかいなと思って一緒に観ていた英語に堪能な小鍛冶さんに尋ねると、確かにシェイクスピア原作そのままの古い英語を使っているのだという。……うーむ、それって、この場合の映画化に有効なのだろうか?この字幕で観ていても、かなりの違和感を感じたんだけど……いくら大企業の御曹司とはいえ、親友にまで「ハムレット様」と言われるのってなんかヘンだし。まあ、それで言っちゃったら、ほんとに原作そのままに苦悩を詩のように独白するハムレットの姿も、どうもなあ、なんだけどね。まあ、それでも、なんかいつでも悩んでいる感じがするイーサン・ホークが演じてると、まあ、いっか、という気もするけど。今回が初めて本来の歳相応の(撮影時は20代)ハムレットなんだそうで、ああ、そういえばある程度中年の俳優ばかり演じていたっけか。悩めるハムレットは、悩める青年時代が良く似合う。それにオフィーリアという恋人もいることだしね。

そのオフィーリアを演じるジュリア・スタイルズ、私は一瞬クレア・デーンズかと思っちまったが、違った。彼女は本当に若い。10代、お肌のつやが違うんである。この悲劇のヒロインにしては結構さらっとした印象なんだけど、戸惑っている時の、かすかな表情の動きと、父、ポローニアスをハムレットに殺された時の哀しみが爆発した時の緩急が、なかなかに素敵である。若さゆえの瞬発力としなやかさ。うーん、それになんたって、ちょっとカワイイんだよね、この娘。髪をきゅっとふたつのお団子にまとめて、そのいたいけな白いうなじに金色のおくれ毛が……ああッ、そそられるわー!どこか日本人っぽいケナゲ系美少女の顔立ちも好みだもんね。

それにしてもキャストはかなり面白い。「クレイドル・ウィル・ロック」ですっかり見直してしまったビル・マレーはここでもおしゃべりでおせっかいなポローニアスがドンピシャだし、どっか爬虫類系の気味の悪さを感じさせるカイル・マクラクランは、野心から謀殺を働いた弟、クローディアスがこれまたピッタリ。それにしても義父とはいえ、イーサン・ホークの父親役となるなんて……彼そんなに年じゃないよね?そして父の亡霊役でうわー、サム・シェパードが!スゴい、ペプシの自販機から出てきて、ペプシの自販機に戻ってく(笑)。さすが現代版!?(ペプシってとこが、いいわよね。)常に額にたてじわを刻んだ、もうこの世に思い残すことタップリのうらめしやがこれまた似合うんだなー。威厳のあるかつての会長という風情も充分に感じさせる貫禄。し、渋いわー。

現代版、を象徴することで、ハムレットを映画監督志望にし、もうやたらとデジタルな小道具と、映画の中の映像のコラージュ(やたらと編集してるんですな)が氾濫して、しかも当然のことかもしれないけど、彼はビデオ屋に入りびたりで、店員もあきれるほど一気に何本も借りてったりする。しかしこうしたあからさまな現代のアイテムで構成しているから余計に、シェイクスピア原作そのままの台詞がどーにもこーにも気になっちゃうのよね。多分、そうした何百年も前の台詞でも、こうして現代にピッタリマッチするじゃないか、というネライだとは思うんだけど、少なくともこの字幕じゃあ、そうは感じない。でも、英語だと違うのかなあ、古い英語でも、こんな違和感は感じないんだろうか。それに、映像で表現する映画監督志望のハムレットが、その設定をクローディアスの犯罪を明かすためだけに使ってて、自分の苦悩はもっぱらシェイクスピアの台詞そのまんましゃべりどおしというのもどうかと思うんだけど。この設定を、文学と映像芸術の差異を見せることが出来る、と思って観ていたもんだから、……勝手な期待なんだけどさ。

ハムレットが行くビデオ屋にずらりと並んでる「ブロックバスター」とだけ大書されたビデオ、後に彼はその「ブロックバスター」を山積みにして借りてくのだけど、あれって……。ブロックバスターって、いわゆるあれでしょ、お金をかけた娯楽大作映画のことでしょ。まあ、こうしたアート系映画でああいう見せ方をするのって、そうした娯楽大作を大いに皮肉ってるとも言えるし、結構ニヤリともさせられるんだけど、そのハムレットが作るクローディアスの罪を暴く前衛映画も、前衛的過ぎてこの皮肉を説得力あるものにまではしてないし、先述したとおり、ハムレットはそれ以外じゃ、もっぱら言葉に頼ってて、自分の感情を映像の力にたくす、なんてことはないわけだし。だから、あんまりこれって、効いてないような気がするんだけどなあ……面白いけどね。

ラスト、屋上でオフィーリアの兄、レアティーズとハムレットのフェンシングの試合が行われ、その場で、そこまで生き残ってたキャストがあらいざらい死んでしまう。ハムレットの親友、ホレイショーだけを残して。まあ、いっそすっきりするわ、と思うくらい、一気に次々と死んでしまうこのクライマックス、イーサン・ホークはついにここまで全く笑顔を見せず(偽りの笑顔はあったけど)、苦悩する青年を完璧に演じきった。流血にまみれて疲れた顔でホレイショーに最後の言葉を残す彼は、いやいやなかなか美しいんでないの。★★★☆☆


反則王
2000年 112分 韓国 カラー
監督:キム・ジウン 脚本:キム・ジウン
撮影:ホン・ギョンピョ 音楽:
出演:ソン・ガンホ/チャン・ジニョン/パク・サンミョン/チャン・ハンソン/イ・ウォンジョン/チョン・ウンイン

2001/9/7/金 劇場(有楽町シネ・ラ・セット)
プロレスというとねー、私は全然判んないんだけど、私の姉が好きで、大学時代にプロレス研究会とか、何かそんなのに入ってて、コミックプロレスとかいうのだったかなあ、そういうのを、姉の大学の学園祭に観に行った覚えがあったりする。それで、なぜかそこでレスラーの人に花束を渡す役をおおせつかったりとかという思い出が……。そういう記憶もあいまって、そしていろんな自分の中のイメージとして、プロレスというと、どこか可笑しく、どこか哀しく、哀愁のある……というイメージがある。もちろん激しさにうわーっと思う部分もあるんだけど、それがあるから余計に哀愁を感じるというか……。そういう感覚にストッとツボにはまっちゃったんだなー、本作は。

それに、ソン・ガンホ主演というのもツボだった。最初こそ韓国で人気のある男優陣というのは、日本とは違うなあという違和感(女優はめちゃくちゃ美しいけど)があったんだけど、最近はそうしたヒューマンな魅力にすっかりトリコである。そういう意味では、韓国の女の子は実に奥の深い目を持っているのね。日本の女の子は男性に対してかなりメンクイの気が多いんだなあ……。ま、それはともかく、ソン・ガンホ。「シュリ」では、私がハン・ソッキュ大好き人間なので、正直あまり印象がなかった(笑)。やはり何といっても瞠目したのは、「JSA」の彼。うなるほどに素晴らしかった。そして素敵だった。思わず、ああ、何でこんな顔の大きい人に(って、実際は判んないけど……大きそうに見えるのよね)見とれちゃうのかしらん、と思うほどに素敵だった。それが一転、このダメダメサラリーマンであり、レスラーといっても、かなりマヌケな反則王、実に実に味わい深い。ああ、味わい深いという言葉はこの人のためにあるのではないかと思われるほど!?

会社の朝礼に遅刻してコソコソ入ってきたり、プロレスジム(これが、感動的なほどにボロなんだ!)の前を行きつ戻りつして、中の人に見つかると慌てて携帯電話をかけるフリしてたら着メロが鳴っちゃったり、館長の前で嬉しそうにジェスチャーたっぷりに、ウルトラタイガーマスクの話をしてたり、練習の時からピチピチのレスリングスーツを着てみたり(きゃー、目のやり場に困るうう)電車の中で筋肉痛の足を支えるためにターザンのように吊り輪にぶらさがったり……とにかく言い出したらキリがないほどの、そうしたコミカルでユーモラスで人間的な可笑しさの場面が、本当に上手い。うー、この人って、上手い!フットワークがいいのかなあ。そういやあ、最初こそプロレスもダメダメレスラーだったけど、最終的には、本当なら八百長試合だった(っつーか、プロレスだからねー)試合で正統派レスラー、ユ・ビホ(演じているあんちゃんが、ちょっとイイ男ね)と熱戦を繰り広げるほどになる、そのシーンでも、まあ、吹き替えはそれなりにあるけれど、それでもちょっと驚くほどのファイトを見せてくれるんだもんねえ。

最初、プロレスジムに押しかけた時には、ヘラヘラしている態度のせいか、相手にしてもらえなかったイム・デホが、ジムの窮地を救うために、反則レスラーとして育てられることになる。そのマヌケな反則技の数々(特に胸に取り付けた丸い缶から……という時点で既に可笑しいのに、そこからパウダーを取り出して相手に浴びせ掛けるというバカバカしさが最高)をマスターし……といいつつ、反則技用のツクリモノと間違えて本物の フォークで相手(仲間の腰抜けレスラー)をぶっ刺しちゃって、血がフォークで刺した三本の穴からビューッ!なんていうこともありつつ(笑)、華のあるレスラーに成長していく。かつてのアコガレのレスラー、ウルトラタイガーマスクのマスクをかぶり、スターレスラー、ユ・ビホとの決戦に挑む彼は、八百長のはずが、そのマスクを引きちぎられてしまったことで鬼神と化す!あの時、息子の顔をテレビの中に見つけてしまったお父さんはどう思ったかなあ……。

ソン・ガンホが演じるイム・デホが思いを寄せる同僚、ウニもこってりした美しさだけど、やはり、最後まで色恋一切交えずに同志として彼と、そしてジムの仲間たちと頑張る館長の娘、ミニョンの清涼感溢れる美しさがいい。そう、あんなにちゃんと?美人なのに、劇中ではまさに微塵も色恋の方向に発展しない。そうした予感すらないのが、素晴らしいんだよなー。イム・デホが彼女に花をプレゼントしたり(この場面も、まさしく雑草のごとくむしり取るのが可笑しい)、自分のプロレスへの熱い思いを語ったりと、そうした雰囲気になりそうなお膳立てはあるにもかかわらず、そうならない。ま、このお話が終わったあとにはどうなるか判らないかな、と思わせるぐらいのところがいいのね。彼はここではあくまで恋愛に関してはウニに対してまさに玉砕し、それをプロレスに向けることが出来るんだもん。

実はかなり気に入っているのが、イム・デホの同僚で、同じ落ちこぼれのドゥシク。演じるチョン・ウンイン、彼は本当にイイ男だよね?その笑顔の、ちょっと意地悪そうな影がさすところが、役どころとは全然関係ないけど、凄くストライクゾーンだったりするのって、ちょっとヤバいかしらん?自分の同じオチコボレだったイム・デホが、他に夢中になれるものを見つけたことで、本当に置いてきぼりにされ、キレて会社を辞めてしまうんだけど、ユ・ビホとの一戦で負傷し、病院に入院しているイム・デホをひそかに見舞いに来る(そんな彼を凝視する仲間の腰抜けレスラー二人組のオマヌケさが好きだわー)、やっぱり友達なんだよね、というあたりがいいではないですか。

ほほお、監督は「クワイエット・ファミリー」のキム・ジウンだったのか!監督の個性というか、アクの強さでいえば、「クワイエット・ファミリー」の方なのだろうが、本作はイイ意味で一般的、大衆的なエンタテインメントの秀作に仕上がっている。この2作で、キム・ジウン監督がムラのない才能をもつ人だということを証明するのに充分。この人の個性なのかな、どことなく画がマンガチックだったりするのは……あのボロのプロレスジムの登場シーンなんか特に、枯葉や新聞が舞っているという描写もあいまって、凄くそんな気がしたんだけど。あ、ところで、やっぱり、あのイム・デホに道で絡む若い男の子たちと一緒にいる、座り込んで、冷めた視線でながめている美少女は、「クワイエット・ファミリー」のコ・ホギョンなんだよね?★★★★☆


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