home! |
風の電話
2020年 139分 日本 カラー
監督:諏訪敦彦 脚本:諏訪敦彦 狗飼恭子
撮影:灰原隆裕 音楽:世武裕子
出演:モトーラ世理奈 西島秀俊 三浦友和 西田敏行 渡辺真起子 山本未來 占部房子 池津祥子 石橋けい 篠原篤 別府康子
正直最近は作品を観ないな、フランスに渡っての「不完全なふたり」以降、少なくとも私の情報網には引っかからなかった。と思ったら、教鞭をとっているんだという。教鞭をとって、作品を撮らなくなる、という監督さんは時々いるけれど、口を糊する方法を得てしまったら、もう意欲が失われてしまうのかしらん、などとついつい思ってしまう。
久しぶりの諏訪作品は、確かにその出会いの時に衝撃を受けたドキュメンタリズム、ドキュドラマの魅力があって、それは同時期に出てきた是枝監督と双璧をなすものであったことを思い出すのだが、その後の二人の監督の道行の違いを改めて思ってしまった。
やはり作り続けなければダメなのではないかと思った。この“かつての手法”に自信満々で、映画として訴える根本的な部分を落っことしているような気がしてならなかった。
諏訪監督の初期の傑作「2/デュオ」「M/OTHER」で私の心を射抜いた役者たちが、まるで義理立てのように顔を出している。三浦友和、渡辺真起子、そして西島秀俊を見出したのが諏訪作品であったことを思い出すと、まさに隔世の感の想いを強くする。
タイトルとなっている風の電話は、岩手県大槌町に実際にある、ガーデンデザイナーが作ったものだと言うのだから、つまりはひとつのアート作品であったのだろう。
物語の最後のシークエンスで満を持して登場するそれが、勝手に想像していた、震災の被害からぽつんと取り残されて、うらさびれた状態で残っている、それまで実際に使われていた電話ボックス、というものではなく、花の子ルンルンあたりに出てきそうな?結婚式のカップルがくぐりそうなロマンチックなベルが下がったのアーチの先に、白く塗られた瀟洒なボックス。
それはふた昔前ぐらいの少女趣味を思わせ、しかもそこに置かれているのが、震災当時ももはや死語ならぬ死物と化した黒電話だというんだから恐れ入る。
正直言って個人的には悪趣味だなあと思っちゃう。なんで黒電話なの。まるで震災が遠い昔に葬り去られたみたいじゃん。あら私、前に進むしかないとか言いながら矛盾したこと言っちゃってるかもしれんけど、でもなんかなあ、と思ってしまった。しかもそれが、人知れぬ山の中、草原の中にあるというのもアナクロな少女趣味と思っちゃう。
ところでここを目指すのは、津波で自分以外の家族を失ってしまった高校生の女の子、ハルである。今は広島の叔母と二人暮らしをしている。船で高校に通うとか、坂道の多い町並みも、広島らしい情緒あるシーンは描かれるのに、ハルがここで生活しているリアリティはまるで描かれない。学校生活も、友達すらも、いる気配がない。てゆーか、そもそもそれを描く気がない、っていう感じ。
ヤだな、と思ったのは、ハルがあの震災から、自分だけが生き残ってしまった、という想いだけにとらわれて、新しい生活も、そう、それこそ自分を引き取ってくれた叔母への感謝もまるで感じられなかったし、心の中に閉じこもったままこの日を迎えた、みたいに思えたから。
別にそういう描写があった訳じゃない。物語自体は彼女が大槌町に向かうヒッチハイクによるロードムービーがメインであって、彼女が震災から今までのこれまでをどう思ってきたか振り返るなんていうところはない。でも作品中、徹頭徹尾、彼女は固く殻の中に閉じこもっていて、自分だけが生き残ってしまった、みんなに会いたいよとただただ暗くて、なんだかやんなっちゃうんである。
ほぼ10年間、アンタはそうやって生きてきたのかと思っちゃうし、同じ立場の人たちがそうやって生きてきたんだと示されているようでイヤな気分になっちゃう。
叔母が倒れてしまったことで何をどう思い立ったのか、ハルは大槌町へのヒッチハイクを思い立つ。おばはその前に、ハルに大槌町に行かないかと誘っていた。復興に向けてきれいになっているよと。かたくなに心をとざす姪っ子に、おもねるように、無理しなくていいよといつもと同じように自然に語りかけていた。
その直後、彼女は倒れた。最初、死んじゃったのかと思ってヒヤリとしたが、意識は戻らないものの一命をとりとめた。でもその叔母を残してヒッチハイクの旅に出ちゃうハルに、ど、どうなのとさすがに思わざるを得ない。どう病状が変化するかも判らないのに、そんなそんな!
ハルのあまりにも無防備で無自覚なヒッチハイクの旅にはハラハラさせられっぱなしである。正直それこそが、私が最もイラッとした要素であった。人の好意に頼りすぎる。てゆーか、いい人が登場するのを無自覚に受け入れすぎる。
彼女を拾ってくれる全ての人が口にするように、ハルの旅はあまりにも無謀で、彼女のような若い女の子が、しかも制服姿で一人ウロウロしていて、危険な目に遭うに違いないことへの自覚がなさすぎなのだ。
実際、夜半一人でパンをかじっていたハルは、目を付けた男たちに連れ去られかける場面がある。そこを救ったのが、キーパーソンである西島秀俊で、しかしてハルがその体験で自分の無自覚さを思い知ったのかどうか、演じるモトーラ世理奈嬢があまりにも淡々とした芝居なので、伝わってこないのだ。全編、彼女の演技の拙さが、かなり響いた。
諏訪作品の演出……手を入れずに、起こる感情を見つめるドキュメンタリズムは、芝居力のある役者だからこそ打って響く反応と化学変化が望めるのだと改めて思い知る。世理奈嬢は雰囲気のある素敵な女の子だとは思うが、この演出法に応えられるだけの経験値はなさすぎる。ただただいい人に助けられてぼんやりしている女の子にしか見えない。
それはそもそもの根本的な問題、故郷大槌町への想い、いまだ見つかっていない両親と幼かった弟への想いが、口先だけで明確に伝わってこない苛立ちにもつながる。
いわば彼女と同じ立場、当時第一原発の作業員で、妻子を失ってしまった西島秀俊演じる森尾、そして彼の父で、誰も帰ってこない故郷で暮らす西田敏行がそれぞれに、原発に関わってしまった自責の念や、故郷への想いをそれぞれに吐露するが、彼らのような熟練の俳優さんたちにやらせても、どこか通り一遍に聞こえてしまうのは……そもそもここに降り立った年若き女の子の想いが、今一つ伝わってこないことも遠因なんじゃなかろうかと思っちゃうんである。
津波に流された、基盤だけが残る場所にハルは降り立つ。会いたいよ、来たのにどうして出てきてくれないの、とここぞとばかりに熱演の涙を流すが、じゃああんたは震災から今までの間、一体どうやって生きてきたんだと言いたくなってしまう。
それが終始見えないし、葛藤というよりただ閉じこもっているだけのようにしか見えないから、突然泣かれてもなあと思ってしまうんである。
途中、森尾が世話になったという、震災のボランティアで来ていたメメットさんという人を探しに、埼玉で降り立つシークエンスがある。メメットさんは管理局に拘束され、解き放たれるめどは何もたっていない。何一つ悪いことはしていない。理由は判らないと、家族らは焦燥の状態である。
この家族と森尾とハルとのひと時の邂逅は、手料理をふるまわれ、ナマな会話を交わし、……確かに魅力的には違いないのだが。
この寄り道の意味がよく判らないんである。ボランティアで助けてくれた人、それは判るけれど、彼らの大きな問題は別にあるし、確かに拘束された理由は判らないのかもしれないけれど、でもどこかに理由がある筈で。
そしてそれが日本社会の、国際社会の問題である筈で、まるでそれが明らかにされないのが、国際問題に目を向けているようで、全くその問題意識が感じられないままであるのが、なんでなんで、本当に意味判らん!!と思ってしまう。
ハルに彼らとの邂逅が影響をもたらしたかどうかも、先述までの彼女のぼんやりさ加減で全く実感できないし……もったいない!!これはこれで、一本の映画を作るべき問題なんじゃないの!!と思ったり。
数々の善意の人たちに世話になって、ただありがとうというだけで、金もあっさり受け取っちゃうし、そらまあ返すつもりはあるのだろうが、でもあまりにも、甘すぎるよな。先述したようにようやくご登場の“風の電話”は正直心に響かず、ハルと同行した少年の吐露の方が聞きたかった気がしちゃう。
ハルの家族への涙涙の交信は、……想像通りだし、芝居力の拙さのまま長回しするから眠くなっちゃうし、……うーん、かつての私ならば、こーゆー場面にあっさり落涙したかもしれんが、なんか年取ってひねくれちゃったのかな??
いやでも、やっぱり、もうこういうのはいらないよ、という想いは凄くある。今更やるのと。ネタになるんだろうとは判るけど、今更これじゃ芸がないよと、思っちゃう。
ハルは本当は、ハルナという名前だったと、森尾との別れで告げる。なんか字の説明してたけど、そこからイメージするヒューマニズムも弱くて、覚えてない(爆)。ハルはハルでいいじゃんと思ったけどなあ。こんな印象に残らないぐらいならさ(爆爆)。★☆☆☆☆
すべての物語の始まりを告げる、回想と現実を一緒に映す、ちょっと見た記憶のないショットは、ヘタしたらメロドラマチックというかマンガチックにもなりそうなのだが、ひらひらとしたカーテンの陰でゆらりゆらりとタバコをくゆらせながら、誰かの死の知らせを受け取っている男が、その頭の中に思い出しているシーンを、トンネルの中のそのシーンを、まるでそのトンネルがそこにぽかりと口を開けているかのように画面の片隅に映し出す。
暗く、影になって、三人の男女の顔は見えないが、女の子に男が土下座して堕胎を懇願し、立ち尽くす女の子の替わりにガラの悪い男がこの土下座男をボッコボコにする、という、まあ言ってしまえばかなりベタなシーンなのだが……。
後で公式サイトでこのシーンの、ハッキリと姿かたち、顔が判る写真を見て、ビックリする。そそそうか、女の子はこれ……高校生だったということなのか。とゆーことは、後に教師だったことが明かされる死にゆく男の教え子だったということなのか……ナニー!!
それが劇中では判らないのは、いや判らなかったのは私だけなのか、あるいは死にゆく男が教師だと明かされた時にそう気づくべきだったのか……そそそうかなー!!
何はともあれ、照明マンさんだったというのが印象的なんである。時々そういう出自のクリエイターさんって、現れるんだよね。そしてその出自は不思議と、映像美よりもその世界観により影響をもたらしているように思うのも共通している気がする。
何より主人公に水橋研二を選んだということが、そんな気がして仕方がない。彼こそまさに、陰影の役者。彼の湿った瞳を見るだけで、なんだか心がかき回されてしまう。そしてなんだかいつの間にか、イイ感じでやさぐれ感をまとって、ああ、こんなクズ男を演じちゃうんだ……などと思ったりする。
元妻のダンナから元ヤクザだと唾棄するように言われるけれど、そしてサイトの解説でもそうは描かれているけれど、いい意味でなんかピンとこないんだよね。確かにやさぐれているし、酔いどれだし、ザ・ヒモって感じだけれど、元ヤクザのしがらみとか、ヘンなプライドとかなくて、むしろ……元ヤクザという風聞をあえて否定せずにそのままにしているような感じがする。
せいぜい元チンピラといった感じ。光貴の本当の父親が自分であるという誤解をあえてとかないあたりも、そんな、優しさと優柔不断さがないまぜになった感じを抱かせる。
貴美の目をなんとか覚まさせるために、呼びかけてほしいと、その依頼をもって光貴は剛太の居候する(って感じだよなー。一応そこで働いているっていうことにはなってるけど)彼の恋人美里の経営するバーにやってくる。
いかにも不似合いである。勿論未成年というのはそうだが、しかも中学生、しかもこんなダサマジメ君今時いるのという、シャツをきちんとインして、古臭いデザインのメガネをかけて、スクールバッグを生真面目に肩にかけて、やってくるんである。
風貌もこんな子今時いるの、というぼっさりした感じで、昭和からタイムスリップしてきたんじゃないの、と思うぐらいなんである。「ミスミソウ」に出てた子なんだ。そうなんだ……内藤監督が好みそうな感じも判る気がする(爆)。
そして彼の友達二人も似たり寄ったりのぼっさりさで、この三人のぎこちない友達会話シーンに毎回ドキドキするのだが、でもそれも当然ネライだったのだろう。ケンカなんて、暴力なんて、そんなこと介在するような子たちじゃなかったのだから。
とゆーのは、ちょっと先走ったけれど、まあつまり、剛太が元ヤクザで、酔いどれで、ヤバい雰囲気を発していて、そして自分が今の父親の子供ではないということを、その独り言を盗み聞きして知ってしまった光貴は、剛太の中に血をムリヤリ見つけ出して、暴力に魅入られてしまう。
……それもちょっと展開先走ってしまったが、まあそのまま行こう。きっとね、光貴はなあんとなく察していたんじゃないかと思われるのだ。きっととってもいい子のままここまで過ごしていたに違いないのだ。お父さんともお母さんとも仲良くしていたであろう感じは伝わってくる。
ただ……お父さんが恐らくこの事態に、息子よりもずっと参ってしまってる。パソコンとスマホでムリヤリ仕事をやっつけ、でもムリがきてイライラして、でもそうまでしてでも、奥さんの元に寄り添い続けているのは無論、愛している妻だからに他ならないが、もうケガはすっかり治っているのにこんこんと眠り続けている彼女に、自分の声が届かないのが、自分ではだめなのかと思っていたに違いないのだ。
だからこそ光貴が剛太を連れてきた時、もしかしたらこの男の声で目覚めるのかと、だって剛太は光貴の父親なのだからと、自分はかりそめの存在なのだと、きっとそれまでも思っていたモヤモヤが爆発してしまったに違いないのだ。
このモヤモヤ父親を演じるのが大西信満とゆーのが、まあこれまた重っ苦しい空気を継続させやがる。
水橋研二と大西信満というとりあわせとゆーのも、恐らく初ではなかろーかと思うのだが、なんつーか、見事なしんねりコンビである。新旧の父親同士に挟まれて苦悩する光貴の想いいかほどか、である。
で、先述のようにぼっさり純粋な中学生なもんだから、この苦悩をどっかトンじゃった目で友達にいきなりぶつける場面とか、それまで牧歌的な友情をはぐくんでいたから突然のバイオレンスで、そうかこのギャップがものすごく怖いわと思っちゃう。
現代風なわちゃわちゃ男の子の友情関係ならばこのギャップは感じなかった。どこか礼節があるというか、本当に昭和みたいな友情関係だったから、光貴の突然の暴走に恐怖すら感じたのだ……。
でも、剛太の息子じゃない。それを光貴の父親も知らないらしいというあたりがナカナカである。こういう事情は観客側にもじわじわと知れてくる感じである。単に剛太が自分が父親であることを明かした場合のコンランを恐れているのかと光貴にも観客にも思わせる部分があるのだけれど、冒頭の回想シーンが確かに、ずっと、観客の頭に引っかかっている。
照明マンだからさー、公式サイトの写真のようにハッキリその姿かたちが見えていたら、こんなコンランはなかったのにと勝手に責任をなすりつけたりして(爆)。
つまり、剛太はまあ……光貴の母親にホレていたということなんだろう。だから父親役を引き受けたけれど、その想いだけでは全うできなかったということだろう。
かつてそんな親子三人が暮らしたであろう粗末なアパートを訪れて、かつての自分の声を聴く剛太に、若さと、でも確かにあった筈の愛を思う。きっと剛太はその時の自分の力不足を思い続けて、今に至っているのだろう。
そう思うと、やはり女は強しである。言ってしまえば剛太に“本当の父親”を押し付けて、夫にも息子にも秘密を貫いてきた光貴の母親なり、剛太の恋人である美里だって、ヒモ男の子供を宿したことを、その先の結婚とかなんとか決して持ち出さずに、「父親になるんだからね」とにっこりしてみせるとは、スバラシ過ぎる。
逆に剛太は、ならば身を固めなければ、とこれまた昭和な考えで中学生の息子に相談するあたりが楽しいんである。ああヤハリ、女は強し、男は弱し、である。
光貴の母親が目覚めるキッカケになるエピソードにしたって、そうである。本当の父親云々のことで荒れた光貴が、友達どころか父親、そして病院の医師までぶん殴って大騒動になる。結局は暴力というのは、弱さの象徴である。剛太だってそのことを判ってるから、むしろそのこぶしを“息子”に浴びせたに違いないのだ。
父親に連れられて病院側に頭を下げ、どこか共に弱者になった感の彼らは、この時本当に親子になったと思う。何かウマいもん食べに行こう、それなら絶対、男の子は焼き肉というのだ。そしてその焼肉臭さでお母さんが目覚めるなんて、素敵ではないか。
剛太が元妻を見舞った時、彼女がよく聞いていたという曲をiPodに入れて光貴に託す。それによって目覚めることはないものの、その曲を光貴も気に入り、父親も懐かしいなと目を細める。まあ、剛太からのiPodだと知って激昂する場面は挟まれるにしても、この男どもが結びつくアイテムではある。
でも、目覚めた彼女は問われても、好きだった曲なんて覚えてないのだ。そんなのあったっけ、というのだ。彼女が引き出しからiPodを見つけ、その曲を聞き、踊り出し、剛太、光貴、彼女の夫と踊り狂う場面は、幸せな画だけれど、彼女の妄想なのか、剛太のなのか、とにかく現実ではないのだ。
過去幸せだった時の曲、思い出、それは美しいけれど、過去に過ぎないのだと。
彼女はきっぱりと、光貴の本当の父親のことはこのまま秘密にし続けると言う。つまり剛太だと思わせておくというんだからナカナカだけど、ガリガリにやせ細って死んでいった“本当の父親”のことを思うと、総じて男たちが女の強さや決意の元に、いかに無力なのかと思ったりする。でも……確かにそれが正解なのかもしれない。
離婚とか再婚とか、本当の親じゃないとか、今は決して珍しい時代じゃないけれど、彼ら子供の親たち、つまり私たち世代からせいぜい10年ぐらい若いぐらいまでは、やっぱりやっぱり、昭和世代だし、そのことに苦悩してきた時代だったんじゃないかと思う。
苦悩しなくてもいい時代なのかもしれない現代は、でもまた別の問題も引き起こしているような気もして……判らないけれど。どんな形でも、子供も親も、秘密を抱えてでも、幸せな家族を誰もがきっと、努力して作って行ってるんだろうと願ってやまない。
★★★☆☆
三つのエピソードが同時進行するのが、これはオムニバス的な話なのか、それにしても全然関係ない人間模様だよな、と不思議に思いながら見進める。
一つは山深い地方都市で繰り広げられる中学生活。執拗ないじめ、友情の破たん、淡い恋のような触れあい、そして別れ……。
一つは妙齢の夫婦、夫は美術教師、妻はパートをしながら切り絵作家。子供を持つか否かの選択、すれ違う心。
一つは激務に忙殺される若き官僚。口先だけで陳情をさばく仕事に疲れた先で、かつての友人が自殺したことを知る。
まるで違う三つの話、だと思っていた。ただ、中学生のシークエンスが昔懐かしきセーラー服と詰襟で、いじめ方も昔懐かしいというか、そんな言い方もヘンなんだけど、多分時代が新しくなればなるほど、もっともっと陰惨になる、という印象だからさ……。
つまりもうオチバレで言っちゃうと、まずここで最初にいじめられているひ弱な印象の裕翔が25歳の若き官僚となっている彼である。
裕翔を助けた幼馴染の須羽は彼の代わりにいじめの対象となり、その後遺症を抱えたまま大人になって自殺した。
須羽と心の触れ合いをした女の子、翠が須羽の死から12年後、切り絵作家として独り立ちするか否か、子供を持つか否か、夫婦生活の岐路に立っている訳である。
つまり、時間も空間も、グンと異なっている三つの時空間の物語なのだ。次第にこの三つのシークエンスの人間関係が重なってくることが判るにつれて、でも、中学生時代だけが過去で、官僚となった裕翔と切り絵作家の翠の時間軸は一緒なのかな、と思っていたらそれも実に12年もの隔たりがある。
裕翔が官僚となった時代こそが、原案となった歌人があがいていた、非正規雇用の問題がクローズアップされてきた時だったかと思う。
そして須羽と心触れ合わせた翠がまさに今の、現代の時間軸で直面している、子供を持つべきか否か、夫婦の力関係、生活の術と生きがい、という問題は、……これももう、ね、まだこんなところでくねくねしているのという気持が個人的にはしている。
でもようやく、女の力量が男のそれに匹敵するようになって、別に打ち負かそうと思っている訳じゃないけど、お互い対等にぶつかり合って、愛し合って、生きて行きたいと思うのに、まだまだ男の側がそれに腰引け状態で。
2020年になってもまだこんなんだ、というのを示す、このシークエンスが、ヤハリフェミニズム野郎としては一番心に刺さるんである。
この三つの時間軸はオチバレになるからデータベースもオフィシャルサイトもヒミツ状態なので、私のうろ覚えで彼の苗字は須羽(すわ)、だったと思う(字が合っていたかも自信ない)……下の名前が思い出せない(爆)。
彼が幼馴染の裕翔を助けて、でも身代わりの標的になり、裕翔は引きこもってしまい、という、負のスパイラルに落ち込み、ついに迎える負のクライマックスにはもう辛くて辛くて仕方がない。
本当に悪いのはいじめっ子たちなのに、裕翔は「僕は耐えられた、余計なことをして」と吠える。須羽は裕翔を助けたことを後悔してないし、正しかったと思う、前を向いて進んでいこうと呼びかけるけど、その須羽の強さこそが、引きこもるしかなかった裕翔にはあまりにも重圧なんである。
判ってる。判ってる彼にだって。助けてくれた幼馴染は何にも悪いことはしていない。自分の身代わりにいじめの対象になったことを申し訳なく思っている。それが、自分だけが苦しんでればよかった。何も頼んでない。正義ヅラするな、という逆ギレというかなんというか……。
ああおもう、どうすればいいのという感じである。個人的に言えば、ここでは散々語ってきたけれども、正義が通じない理不尽な現実なら、逃げるが勝ちだと思ってる。それが最も有効な身の守り方だと。
でもこんな風に、強いハートの友人に助けられちゃって、彼が身代わりになっちゃって、しかもその後闘い続けちゃって、一緒に前を向こうぜ、なんて言われたら……それは辛い、辛すぎる。
須羽はシングルマザーの母親との二人暮らし。離婚なのか死別なのか判らないが、こんなイイ息子いる?て感じである。須羽は勉強もよくできる。授業中教科書に落書きをしていても、当てられた連立方程式をすらすらと解いちゃうから先生も何も言えない、みたいな優秀な学級委員長だ。
働く母親を助けて、夕食当番もこなす。「焦がすなんて珍しいじゃん」と母親から言われるぐらいのソツなさである。
母親役は坂井真紀。息子の死の後、裕翔が懺悔の気持ちを込めて訪ねてくる場面の、ザ・母親の凛としたたたずまいにヤラれる。本当に素晴らしい女優さん。
イジメられっ子の代役を引き受けた形になった須羽を救ったのが翠で、絵を掲示されるぐらいの才能の持ち主。中学生とは思えない、前衛的なセンスを持った絵に見入っていたところで二人は出会う。
須羽のかばんがプールに投げ込まれたのを、彼女が飛び込んで救い出して、これ、と差し出したという、まるで少女漫画のような出会い。きっと翠は元から彼のことが好きだったんだろう。
いじめっ子たちのつまんない脅しに屈して、掲示されていた彼女の絵をズタズタにしちゃう、なんていう事件も起こる。でも翠は判っている。何が起こったのかを。
でもそれを、ちゃんと謝ってほしいと思う。だって、最後の日だから。親の仕事の都合で、翠はこの地を離れる手前だったのだ。そのことは告げずに、彼女は彼に会いに行く。下の名前で呼んでほしいという。遥かなる田舎町の遥かまで見渡させる道で。みどり!と彼はよびかけ、ありがとう、と彼女は言った。
その翠、恐らくまさしく現在の時間軸で彼女が直面している問題。翠はこの、大事な記憶をいつしか忘れたまま大人になっている。それなりに幸せな生活をしていると思っていた。対等な立場で生活を共にしている夫との生活は、一見して私のようなフェミニズム野郎には理想的な生活に思えた。
でも、なんだか最近おかしい。いや、もともとそうだったのかもしれんが、翠が問いかけても二言目には、「翠がしたいようにすればいいよ」と言う。一見して理解あるように聞こえる台詞だが、その後に続く台詞を踏まえれば、確実に判っちゃう。「俺はどっちでもいい」
無責任、以上に、何も考えてない、あるいは怖がってる。相手を尊重しているように見せているのが卑怯な、サイテーの立ち位置なんである。
時代のせいか、選択教科であった美術が削られ、彼は職を追われる。でもその前から、才能ある芸術家である妻と比して、油絵を描いてはいるものの、美術教師という職に“甘んじ”苦しんでいる彼の苦悩は、……もしかしたら自分自身にさえ、判っていなかったのかもしれない。
一見して、この夫婦の生活は本当に理想だ。子供がいなくったってお互いを認め合い、家事も分担し合い、ゆったりと生活している。でも……。子供、というアイテムが入り込んできたからあぶりだされちゃったのか、いずれはあぶりだされちゃうものだったのか。
夫は妻の才能に嫉妬していた。自分が金を入れている立場だというのがかろうじての支えだったのか、今度からは私が支えるから、と妻に言われて爆発した時から、愛しているのに、それは確かなのに、二人の仲は修復不可能になってしまった。
そして何より、大事なシークエンスである。官僚となって、非正規雇用者たちの実態を訴えて来たNPO団体の陳情に向き合う裕翔、渡された資料にはあまたの、自ら死を選んだ若き非正規雇用者たちのリストが並んでいる。
政治家のトップたちが動くことはない。ただ引き延ばすばかりである。実情にストレートに接する裕翔たち末端がいくら憤ったって、訴えて来た現場の彼らに何一つ確約ができない。
うっかり“甘い”言い方をした彼を、上司が叱責する。厚労省として答えたんだぞと言われる。裕翔の同僚はたまりかねて、辞めていった。裕翔が“辞める勇気もない”というのは、かつて、いじめから救われたのに引きこもるしかなかった彼自身を思い出させる。
同じ25歳だということでピンときただけ、だったのだろうか。目を隠された写真で、彼だと気づいたんじゃないんだろうか。
非正規雇用で働いて、それだけの苦しみとは考え難かった。自殺の直前、別れを告げた看護師の彼女ともうまく行っていた。彼女は突然別れを告げられ、今まで彼の死のことも知らず、「おかしいと思っていたんです」と涙を流した。
結局、彼の自殺の真相が明らかになることはない、のは、言いたくないけど、原案となっている作者の死の真相が明らかになっていないから、だろう。
長年続いたいじめのトラウマ、非正規雇用の先行きの不安、書けば書くほど、判ったような言い方になってしまう。むしろ、原案の人間関係からちょっと離れた、更に時間が遠く離れ、かつて淡い恋のような感情を触れ合わせた翠のシークエンスが愛しい人生かと、思う。
翠の夫を演じる水橋研二は、なんかもう、彼は常に、こんな風に、哀しい重さを引きずりまくっている人物を演じることが多くて、それがめっちゃ似合っちゃうっていうか、もうたまには明るく幸せな人生を送ってほしいっつーか、って感じなんだけど(爆)。
だからこそ、彼に演じさせれば、こーゆー、たまらない重苦しさがバッチリなんだもんなあ。自分で責任を負いきれず、「翠がやりたいようにすればいいよ」と一見優しさのように見えながら、ただ逃げてるだけの無責任さが決定的な結末を迎える男を演じさせたら天下一品!!と言っちゃったら、失礼だろうか……。
でもこんな、哀しい目をしている男優さんは他に思いつかない。彼がこの哀しい目をたたえて出てくるだけで、ああ、もう幸せな結末はないなと思っちゃう。
翠は夫の子をはらんだ。でも、「あなたの子だから、堕ろしたの」といった。
その直前のシークエンスで、一度は決心した中絶から逃げ出した風だったから、あれ?あれれ?と思っていたら、数年後、彼女の個展、すっかり成功した彼女の元に、“元夫”の彼が現れ、穏やかに握手をし、別れた。そしてママー、と駆け寄ってきた幼い男の子を翠は抱きしめたのだ。
ああ、そうだよね、ほっとしたのと同時に、あの時元夫に言った台詞を思い出し、彼はこの子の存在を知っているのかなと思ったり、これはかなり残酷な話だよなと思ったり……。
原案があって、原案者の自死という事実があって、つまり本作はその時点でセンセーショナルなんだけど、そうじゃない、そうじゃないんだ。自分自身が、どう自分自身として生きて行くかという物語であり。
つまりね、死んじゃいけんのだよ。めっちゃ辛い時に死ぬ選択をダメだと言う資格は,ノンビリさんの私にはないけれども、でも、やっぱり死んじゃいけんのだよ。
こんな風に、自分は何に価値を置き、自分以外に命を捧げられる人がいるのか、その上で、何のために生きて行くのか。それをね、それを……言いたいよ。すべての人に。すべての人に。★★★☆☆
河童伝説、というのも、彼女ではなく彼の方にトラウマとして描かれる。ダブル主演とでも言うべき彼、民宿で働く浩二。働くというか、ここの息子。しかし“跡取り息子”ではないあたりが後々ややこしくなる。
社長の父親が突然、ボインな色年増と駆け落ちするという。フツー駆け落ちは宣言してやるものではないが、どうやらこの色年増が、私、駆け落ちしたーい!ということで一応息子に断って、ということだったらしい。
取り残された浩二は呆然とし、パートのおばちゃん、屋島さんはどうやら社長を心ひそかに思っていたらしく、ショックを受けて辞めてしまう。浩二はとたんににっちもさっちもいかなくなっちゃうんである。
ENBUゼミナールのほとんどの作品がそうであるように、本作もまたワークショップで選ばれたという、少なくとも私にとっては初見の役者さんばかりである。世の中には知られてなくてもこんなに達者な役者さんがあふれているんだということに毎回驚き、その競争の世界にため息が出るばかりなのである。それだけ活躍の場も広がっているということなのだろうけれど……。
浩二を演じる青野竜平氏は、ちょっと野間口徹を思わせるとぼけた魅力で、後に明かされる幼い頃の罪の意識から逃れられない、気が弱く優しい男をまさに体現している。ヘンな言い方だけど、ここまで童貞できたんじゃないかと思うような雰囲気を漂わせる。
その罪の意識の事件、河童を探しに行こうと“仲のいい女子”と夜中の待ち合わせに遅刻して、溺れている彼女を暗闇でよく見えなくて河童だと思って怖くて逃げだしてしまった。そしてその女の子はおぼれ死んでしまった、という壮絶な過去。
恐らく、いや絶対に、当時の浩二少年はその子のことをただ単に仲のいい女子ではなく、好きだったに違いないと想像される。
そして、きっと、そのことを誰にも言えずにここまで来たと思うのに、東京から家出してきたという美穂につい、という感じで打ち明けてしまったのが、……そうなのよね。確かになんとなく裏打ちされるものがあるのよね。
彼女がどこか天から舞い降りて来た、彼にとってすべてをゆだねられるような、浮世離れしたといったらちょっと表現が違うんだけど、こんな、誰にも言えなかったことを言っちゃうみたいな。
それを浩二は、彼女に惹かれたせいだと思っただろうし、観客もそう思ったし、それは間違いではないとは思うのだけれど……。
この閉じられた、生まれ育った土地を、決して忌み嫌ってはいない。美穂から、「本当にここが好きなんですね」と言われるぐらい、嬉しそうに景観のいい場所を自慢げに披露する浩二は、確かにここが大好きなんだと思わせる。でもそれと、過去の記憶はまた別……いや、別なのだろうか??
浩二には兄がいるんである。見るからにザ・どーしよーもない浮世草男。そもそもなんでこのお兄ちゃんに、父親の駆け落ちを連絡しちゃったかなあと思う。
そりゃあ人手が足りなくて困ってたにしても、後から登場するお兄ちゃんを見れば、こんなヤツが手助けになる訳ないじゃんというのはあまりにも明らかで、いくら金を無心に来たのがアリアリであっても、自分から連絡したお兄ちゃんに浩二が手伝わせる気もないのが矛盾してるなあと思ったりして。
お兄ちゃんは判りやすくこの田舎町を嫌っていて、判りやすく東京に出ていって、判りやすく失敗している男である。そういう意味では美穂は入れ替わりの立場である。
ただ美穂はそういう家族的しがらみが、良くも悪くも皆無で、まず言うのが「家族はいない」そして次には「夫は死んだ」と言うのだが、彼女にとって“殺してしまった”夫だけが家族だという描写がまた、浮世離れしていて、河童、とまでは思わないまでも、この時点でかなり違和感を感じるんだよね。
美穂は相当神経的に参ってしまっていて、まずこの地に訪れた時に乗っていたタクシーで人を轢いたんじゃないかと言いだし、浩二の民宿を手伝うようになっても、自身が運転した車で何度も、人を轢いたんじゃないかと思い込み、果ては橋の上でちょっとぶつかった釣り人がそのまま川に転落したんじゃないかと思い込むという重症ぶりである。
いくらなんでもおかしい、これは精神的に追い詰められて神経を病んでいるんだと浩二が断定するのは無理からぬことで。しかもどんどん引きこもっていく美穂が、がんで死んだ母親も自分が殺したとか、その前のおばあちゃんも自分が殺したとか言い出したら、そりゃそう思うよね。
浩二がこっそり彼女の言う、夫を突き落とした事件を検索してもちっともヒットしないこともあって、旦那さんに電話してみなよ。きっとケロッと出るよ、と言うのだけれど、コールするだけで出ない。まさかこの時点では、あんなラストが待っているとは思ってなかったのだが……。
緑深い、魅力的なロケーションで、浩二が自慢するような素晴らしいところである。具体的に披露されるのが赤い可愛い橋だけなのが惜しいぐらい。正直、この民宿に集う人々は、誰もかれもがテンション高すぎて、いや、あの、音量をちょこっと下げてくれるだけで大分違うんじゃないかと思うんだけど……というぐらいの、耳をつんざく会話劇である。
冒頭の、社長にカラオケの話題を振るパートの屋島さんの、80年代カラオケで盛り上がる話の勢いでかなりぐったりしたが、これは一人だけだった。この民宿のお得意さんである役所の、名目は町おこしのための打ち合わせと言う名の宴会が、毎回毎回耳をつんざくうるささで、うーむ、これは単に音量の問題のような気がする……とか思っちゃって。
緑深き舞台、河童伝説、正体不明のミステリアスな女子、ちょっと恋心、というあたりにしんみりとしたものを私が勝手に期待したのがいけなかったのかもしれんが。
なんかいかにもな、都会からのユーチューバーが現れるのね。河童伝説を追っている彼らを、町おこしのネタに困っていた役所の酔いどれ連中が目をつけて、浩二の民宿に引き入れちゃう。河童伝説は浩二の重い記憶であり、口ごもる彼にドーン!とばかりにカメラを止めさせたのが美穂だった。
確かにここには一種の愛があり、二人の絆を深めた瞬間だったのだが、このユーチューバーとの関係性はその後もナアナアで続き、そもそも3人のチームの内女の子はまだ話が判るような感じなのだが、それぞれのキャラと深く接するでもなく、あくまで外部の人間として取り置き続けてしまうのが、解せないというか、もったいないなと思っちゃったんだよね。
あの核心の質問にフリーズし、その無神経な取材に美穂が憤ってぶち壊すという決定的な事件があったのに、何事もなかったかのようにユーチューバーチームがその後役場のプロジェクトに入り込み、あれだけ怒っていた美穂もにこやかに対応しているというのが、なんだかな、なんだかなー!!とか思って……。
このユーチューバーチームに関しては、なんか冷たい扱いというか、ヨソモノとして扱う前提というか、一人一人のキャラが全然見えてこないし、ここだけ急にお客様扱い、なんだよね。
翻って考えて、じゃあ美穂に関してはどうだったのか、と思わせる材料には確かになる。美穂に対して、秘密を抱えてトーキョーから来たお客様、という感覚を消す気もないまま接していた感は確かにあった気はする。でもこのユーチューバーチームは、ただうっとうしいだけだったけどなあ……。
そういう意味ではお兄ちゃんは地元民であり、外に出ていったヤツであり、家族以外には冷たくあしらわれる、最も哀しき人物であった。
本当に判りやすくクズ。大きな口を叩いて都会に出ていってもプラプラしたまま何もなせず、そもそもこの地を出ていった時に元カノに借りた金も返せぬまま、また無心しようとして、元カノの今カレにボッコボコにされる情けなさ。
父親が出ていったならと、民宿を売ろうと算段して弟に持ちかけるも、思いがけず美穂さんから反駁されて、最終的に事務所中の有り金と通帳を盗んで逃げるという、本当にクズ……。
だからもうさ、こんな状況に至るからさ、もうダメだと思ったの。美穂にも警察の手が伸びるし、単なる神経症の妄想だと思っていたのが、本当に夫を突き落として殺しちゃったらしいことが明らかになると、もうダメだと思ったの。
どう決着をつけるんだろうと思っていたら……もう最後は、長回しの、アクションの、川の中でのびっちゃびちゃ立ち回りの、駆け落ちしたお父さんと持ち逃げしたお兄ちゃんが帰ってきて、悪かったー!!と叫ぶの、もうぐっちゃぐちゃの、ハッピーエンドだか、ファンタジーだか、ありえない、ぐっちゃぐちゃの、ラストよ!!
ヘンな言い方だが、ドローン撮影技術が発達して、ひと昔、ふた昔前ではあり得なかったスペクタクル長回しがインディーズ映画でも実現できる時代になって、スケール感においてはインディーズも金かけた商業映画もマジで差がない時代になったなあとしみじみと思う。
お互いの気持ちを確かめ合ってもいないのに、浩二と美穂(は結局偽名だったんだけど)は、「誰も知らないところへ二人で行きます!!」と手を取り合って川を上っていく。
いわゆる精神疾患の描写に関して、ちょっと安易に過ぎたような気がしてそれは気になるが、ムリヤリでもハッピーエンドだったから、まあいいのかな。★★☆☆☆
勿論、きっと現代の弁士さんは作品そのものを最大限に伝えるやり方をしているんじゃないかと思われるが、本作の中の、映画の人気よりも弁士の人気であった時代には、観客がタイクツしてると思えば、シリアス映画をコメディにさえしちゃうというハチャメチャさ。映画とは何かという凝り固まった考えを一気に取っ払われたような気がした。
ヤハリ映画ファンとなると映画は監督のものみたいな、通ぶった、あるいは腰引けた考えにとらわれがちになる。いくら、観客に届いてナンボだと思っても、私らの口から映画は観客のものだなんて、なかなか言いにくいのだ。
なのに、なのになのになのに!本作はそれを高らかに宣言しているのだもの!!勿論その間に挟まる弁士という魅力的な職業はあるにしてもである。
本作に関しては監督自身がほんっとうに丁寧に宣伝に回ってて、一人でも多くの人に観てほしいという並々ならぬ気持が伝わってきた。それは、自分の下でずっと働いてきてくれていた助監督(だったよね)の脚本が突き動かしたのだと、彼の功績を引き上げたいという思いもあっただろう。
それもまた胸アツな話なのだが、なんていうか周防監督っていうのは……寡作なんだけどだからこそか、一作に対する愛が深いというか、充分ヒットメーカーなんだけど職人感覚というよりは愛、というか……。本当に興味が向いたテーマにしか向き合わない、そしてそれが映画に関わるものだという本作は、そりゃあ力こぶが入ったに違いなく……。
私もね、監督と同じく、サイレントはサイレントで観て、監督の意図が伝わるとちょっと思っていた。でもそのサイレントっつーのは、音楽ぐらいはついてるヤツで、ほんっとうに、音楽もナシのを、しかも結構な観客が入ったところでシーンとしたまま2時間強いられるという経験があって、うっわ、こりゃたまらんと思った記憶があったんだよね……。
ただ、弁士さんがついた上映を観たことがなかったから、音楽さえついてれば字幕カットでよくない?と思っていたのは事実なのだが、まさか、まさかこんなにも、弁士さんが、ある意味、作り手の意図を無視、どころか最初から考えもせずに、エンタテインメントに仕立てていたとは!!
クライマックスの、端切れカットをつなぐシークエンスは、ムリヤリだけれど、やはりちょっと、ニューシネマパラダイスのキスシーンつなぎを思い出しちゃうよね。
弁士もそうだが当時のもう一つの重要な職業……映写技師といえばヤハリ「ニューシネマパラダイス」だからさ!そして「ニューシネマパラダイス」の老技師は火事で視覚を失い、その後は耳元に説明を囁いてもらって映画を楽しんでいた。それってそれって……弁士じゃないのと!火事がクライマックスにくるのだってそうだしさ!
……ムリヤリつなげちゃうけど。てゆーか、全然本題に入れない(爆)。活動弁士に憧れて憧れて、憧れのスター弁士のモノマネをした少年時代を経て、一時はエセ弁士として詐欺集団に丸め込まれたという経過が描かれる、俊太郎という青年が主人公。演じるは今もっとも旬な俳優と言っていいだろう、成田凌君。草食系というのも死語になりつつある昨今だが、久々にそんな言葉を引っ張り出したくなるひょろり系の彼は、彼自身がそれを充分に自覚している奇妙な面白さがあるように思う。
そして……勿論彼自身の努力のたまものだったというのは当然そうだろうが、七色の声と言いたい、いや、声色だけじゃない、抑揚、男女やキャラクター別の口調、次々出てくる引き出しがあまりにも見事で、いやぁこれは……勿論彼の才能もあるだろうが、相当の努力が想像されて、何か目頭が熱くなる気持ちがあるんである。
俊太郎が憧れるかつてのスター弁士が永瀬正敏で、今やのんだくれの役立たずで、俊太郎の才能を認め、助ける場面がありそうでないような、なんていうか……永瀬氏が持つどうしようもない重さがコメディにもならない哀しさがホント、残酷だなと思って……。
だってそれ以外のキャストは、鼻持ちならない自信満々の二枚目弁士、高良君演じる茂木にだって、ライバル館との攻防でスラップスティックなギャグアクションが用意されているのに、永瀬氏だけが、残酷なまでに、彼はつまり、彼が演じる、もう時代から忘れられたかつてのスター弁士は、そんななごやかな輪にさえ入れてもらえないということなのかなあ……。
で、そうそう。そもそも俊太郎は映画そのものというよりも、永瀬氏演じる弁士、山岡秋聲に憧れるところから始まった。少年時代の俊太郎と、彼と淡い感情を行き来させる女の子、梅子とのシーンがかなり丁寧に描かれる。ちょっと長いなと思うぐらい(爆)。勿論、二人の関係やお互いの映画に対する想いを思えば重要なのだということは判るんだけれど……。
二人とも映画が好き。それは間違いない。でも俊太郎が弁士に憧れ、梅子が女優に憧れ、その当時の映画のありようをこうして見させられると、弁士によっていかようにも塗り替えられる、いい意味では自由、でも作り手や演者の意図が一方ではないがしろにされているともいえる世界。
無論、エンタテインメントとして極端に描いているとしても、でもそれは、俊太郎や梅子の映画に対する考え方というか、自分が生きる場所として同じなのに、こんなにも違うのかというのが、実は少年少女時代の冒頭から描いていたんだと、結果的に思い知らされるってことなのか、と思って……。
二人は劇的な再会に喜び、しかし俊太郎がかつて巻き込まれていた詐欺集団がいて、カネにものを言わせて新しい劇場をたてた富豪とつながっていく。
女優志望だったのに妾のような立場に堕ちてしまう梅子の悔しさや、モノマネではない、自分だけの力で客を呼べる弁士になりたいと奮闘する俊太郎の奮闘があって……。
詐欺集団を追う警察も巻き込み、スラップスティックコメディの楽しさは満載なれど、でも実は実は、その中で、映画に対するそれぞれの身の置き方が、全然違って、映画が好きというのは一緒なのに、それがこんなに切ないのかって!!
劇場を経営する青木富夫(マキノ監督以外で、唯一、判る名前だった。他にもたくさんオマージュ名前があるのだろうが……)はまさに映画丸ごと、好きなのであろう。それは演じる竹中直人にまさしくピッタリである(あ、すいません、これまで竹中氏は周防作品で何度も同じ役名だったのだそうな……今更(爆))。コミカルにすればするほど、照れ屋さんの彼の愛が伝わってくる。
そういう意味では真逆なシニカル愛が永瀬氏だろうと思う。役者としての彼のスタンスというかプライドが、ちょっと自虐的に投影されているように思う。
自分の解説に客がつくんだと豪語する鼻持ちならない茂木だって、汗っかきで全裸になっちゃう内藤だって、みんなみんな、自分自身も酔い、自分自身によって酔わされている観客を観て、エクスタシーを感じちゃっているんだ。
そこに、カネの問題が絡んでくると一気に夢から覚めるようになるのはいつの時代も同じことだが、それはまぁ、お約束の要素として、ヒロインの監禁、ライバルの色仕掛け、ペダルのない自転車(!)を必死にこぎながらのおっかけっこと、なんか、懐かしい感じのスペクタクルで(この言葉自体が懐かしいかも)、まぁいっか、と。
詐欺集団から思いがけずかすめ取ってしまっていた大金が、火事で全焼した中から、フィルムケースから!出てくるという、もうこれはファンタジア。その金の出所を警察が追及しないというあたりもファンタジア(爆)。映画館を再建できるだけの大金がヘソクリで処理されるのはなかなか難しいと思うけどねえ……。
このテーマだから、歴史的、記録的、価値のあるサイレント映像が惜しげもなく投入されるが、一方で当時の映像に模して撮られたものも、女優、梅子の映画のシーンなんぞもあるし、俊太郎と梅子の少年少女時代の撮影に紛れ込んじゃったのもあったりするから、たくさんあるんだけど、マジで見分けつかない……凄い!!
発見されたフィルムとして話題になった「雄呂血」とかは記憶にあったので、うわーっ!と思ったが、もうそれ以外はどれがホンモノ?でどれがニセモノ??か本当に判らない。いいのか悪いのか、よう判らんけどねー。
★★★☆☆
空手バカというより、単純にバカと言いたくなるシークエンスが満載で、大マジなんだろうがやたら楽しい。大山(千葉ちゃん)は暴力団の用心棒をしている空手道の道からはハズれてしまった男なのだが、腕に覚えがあるし、空手に対する欲望が抑えきれなくてちょくちょく道場破りをせずにはいられないらしい、んである。
らしい、というのはその口ぶりからだけで劇中では道場破りは一回のみだからなのだが。玄武館、という実際にも由緒正しきらしい道場にたのもーっとやってくる。
百人斬り(斬りじゃないけど)をあっという間にやってのける。しかし明らかに当たってねー!!とついつい笑ってしまう、が、それは最初だけで、ヤハリ若き日のホンモノのアクションスター、千葉ちゃんの素晴らしき肉体とその軽やかかつ力強い動きにホレボレしてしまう。
彼がこの由緒正しき道場の空手猛者たちに、お前たちのは空手ダンスか、と挑発するのもさもありなんの実践派。
床に油を流されるという卑怯な手を使われても(敵は足を砂にまぶして滑り止め。てゆーか、油と砂の用意がしてあるあたり……)滑って転びながらも相手を投げ飛ばし、蹴り倒し、倒れたヤツらを並べてその上を踏んづけて足場にし、倒れた相手の帯を奪って足に巻いて滑り止めにし(これを、次々と襲い掛かってくる敵の動きをかわしながら!)、ついには大将をぶっ倒すという無敵さ。目まで潰すとは……ムゴい……。
てな感じでストイックというよりもハチャメチャな空手道を突き進んでいくのかと思いきや、いきなりショービジネスの世界に放り込まれる。大山の空手、もう一人柔道の使い手を、アメリカのプロレスラーと手合わせるというムチャクチャさ、なんである。
“空手バカ一代”というタイトルから想像される空手道へのストイック一直線からはハズれまくる、のは、まあ冒頭、既に彼自身がその道から転落していることをわざわざナレーション解説してるところから明らかだがそれにしても……。
チンピラたちを従えて、今日もツケで飲もうとしていた飲み屋でスカウトされるんである。片言の日本語がいかにもアヤしいプロモーターは札束をちらつかせて、酒までふるまう(合成酒ってあたりがセコい。)。
あっさり乗り気になるあたりが、バカである。しかも日本の男の強さを思い知らせてやれとかおだてられていたのに、実際は米兵たちを満足させるための、まさに“ショー”、負けることが条件の契約だったんである。
てゆーか、「ちゃんと契約書を読まなかった俺たちがバカだった」と柔道担当の藤田は言うが、そんな話は全然なくて、おだてにおだてて、やってやれ!!ぐらいに送り出してたじゃないのぉ。
もう一人、これは多分、そーゆー格闘技はちっとも出来ないのであろう、グレート山下ってのが、キーマンの一人である。そうか、室田日出男氏か!!
大山が大暴れしちゃったことでただ一人事情を呑み込んでいた山下はワリを食い、逃げ遅れて殺されかけるのに、なんかイイ奴というかお人好しというかマヌケというかバカというか(爆)この時も、その後も、彼ら、特に大山を目にかけちゃって「ユーは本気の試合しか出来ない男。それでいいのよ」とか言って、結局このバカのために死んじゃうしさ!!
……おっと、ちょいと先走ってしまった。その間に濃厚な人間関係やら展開が待ち受けている。
なんたって沖縄まで飛んでいるんである。当時の沖縄は返還前、つまり外国なのだ。大山がヘマをするたびに、日本へ帰れ、ゴーホーム!!と躊躇なく言われることに、その想いを強くする。
そんな中出会う薄幸の女、米兵たちの慰み者になって結核も患ってボロボロになっている麗子(夏樹陽子(新人!))。
その前に、大山は不良な子供たちのチームプレイでバッグを奪われており、途中まで必死に追いかけているのだけれど、いきなりそんなこと忘れたように、麗子を見つめている。男たちに乱暴にされている、そして自殺しかけている彼女を気にかけて助けるんである。
あれ?あのバッグ、そして子供たちはどうなったんだっけ……とキツネにつままれたようにさえ思うほど、何にも気にしていない感じである。しかし往来に急に子供の姿を認め、また猛然と追いかける。いやいやいや!
実はこれに似た展開はクライマックスにもあって、そこはかなり重要というか、なぜそれを忘れてる、気にしてないのか!!とアゼンとするところで、それがここで布石のように示されているのか(つまり、バカだということが(爆爆))。
大山は、この子供たちと仲良くなる。大山の空手のワザを路上で見せて金をとる“仕事”を子供たちに与える。犯罪に手を染めてその日暮らしをし、地元のヤクザたちにもにらまれていた子供たちを救い出した訳である。
そんな折、藤田や山下とも合流する。いずれアメリカに渡り、本当にその腕をヤツらに見せつけてやろうぜ!!という夢を語り合う。もーこの時点で、そんなことが実現する訳がない、実現しないっつーことは、死ぬな、少なくとも人のいい山下は死ぬな……と予感されてしまう。
「あんたヤマトンチュだろ」と憎々し気に言い放った麗子は、大山が出会った子供たちのリーダー格、カズオの姉であった。そんな偶然あるか(爆)。
血を吐いて気を失った麗子をかくまう大山は、彼女の結核を直すための金を稼ぐために、今度こそは八百長に徹すると、山下を通して殺されかけた前回の相手方に頭を下げる。
むーりーだーねー。もうこの時点で判っちゃう。ぜえったいコイツ、我慢しきれないに決まっとるわね!!判ってたのに、ホントに我慢しきれない展開になった時に、あーほーかー、と思う。
かわいそうに、人のいい、良すぎる山下は、彼の決意を信じたために今度こそ死んでしまい、しかしその虫の息の下で、「お前はそういう男だからいいんだ」とか、お人好しすぎるだろ!!
しかもこのトラブルで大山と藤田が追われる立場になったにしても、麗子のことをきれーさっぱり忘れてるってのはどーゆー訳よ!!大山を探しに来て当然、敵方は麗子の元に乗り込む訳で、それでなくても結核で死にかけている麗子は哀れ宙づりにされて電気ショックを何度も何度も……うーわー……その果てに、荒野の中に車から放り出され……うーわー。
結局助けることも出来ないんなら、生半可な優しさなんぞ見せるんじゃねーよ!!とフェミニズム野郎としてはかなーり憤るのだが、この時代のこーゆー映画に関しては、女子は薄幸であればあるほど意味を持つ時代だから、泣き寝入りをするしかない(涙)。でもあんまりじゃないの(涙涙)。何がヒドいって、忘れられてることだよーう(涙涙涙)。
しかも、そもそも前借りまでしてたのに約束をほごにした大山が悪いのに、なぜか相手方に敵討ちに行くというナゾの展開。なーぜーだー。麗子が殺されたからという理由はあるにしても、アンタ彼女のことマジで忘れてたやんか(爆)。カズオそこんとこ、責めろよなー……。
だってだって、カズオはすんごく大山を慕ってたんだもの。彼はお姉ちゃんが米兵に泥だらけになりながらレイプされたのを目撃していた。そこから彼女は転落していった。むごすぎる。でも子供だから、力がないから、お姉ちゃんを守れないことを恥じていた。
そんな彼を大山は張り倒し、悔しかったら向かってこい!!という。むしゃぶりつくように何度も何度も体当たりをするカズオを、容赦なく、本当に子ども相手に容赦なくぶった押しまくる千葉ちゃん。
容赦ないからこそ、次第に観てるこっちの胸も熱くなって、カズオがついにむしゃぶりつく、そのままに泣き出すその頭をかき抱く大山に、落涙必至なんである。それでいい、正義には力が必要だ、正義がなければただの暴力だ、大山が言うこの台詞は、良かったなあ。
なのにいわば、麗子を見殺しにしちゃったのは大山なんだもんな(爆)。なのに、ちょっとサカウラミみたいに敵方の陣地に乗り込むんだもんな(爆爆)。
とはいうものの、このラストシークエンスは見ごたえタップリ。その前に、死んでしまった麗子をお姫様抱っこして、彼女の故郷の海岸をしずしずと歩き、手ずから埋葬する美しきシーンに心打たれる。
そっから相棒の藤田と合流して、敵地討ち入り。正面から行った藤田がヤラれそうになるところを、後ろ手から忍び込んだ大山が打ち取るとか、なんとまあヌケた警備だこと(笑)。
次々に中華風(中華系のプロモーターつーか、ヤクザさんだったんだな)ないでたちのやり手が、中華風の武器を手に立ち向かうも、藤田も大山も超強いんで、次々に打破していく。大山がついにトップのハゲ頭のじーさんを追い詰める場面が、様式美全開でかなり面白い。
鏡部屋なんである。いくつもの折り重なった鏡が、敵方はわざわざ誘い込んだんだから勿論周知の上なんであろうが、4つも5つも重なり合う自分の姿、相手の姿で、膠着状態になる。緊張感みなぎる千葉ちゃんのフィジカルも相まって、美しい芸術品のようである。
タアーッ!とこのじーちゃんを倒し、じーちゃん頭で鏡をブチ割ってしまうシーンも、鏡をブチわったじーちゃんの周りを、殺気立った千葉ちゃんが四人も五人もすり足で歩いている。ゾクゾクする!!
そして驚くべきことに、ラストもラスト、現れる人物はオープニングで大山にボッコボコにされた玄武館のマスター。沖縄まで探し当てたって、そんなムチャクチャな!!
つーか、彼は理不尽に道場破りされて目まで潰されてカワイソーなだけだったのに、ラストの大山との死闘で断崖絶壁からあーらーと海の藻屑と消えてしまう。大山、それはヒドすぎないか……。
なーんかもう、ツッコミどころ満載だったが、それがたまらなく面白く、時代性も感じさせ、なんたって千葉ちゃんのハァーッ!!が観られてめっちゃ感激。 ★★★☆☆
でもそうかそうだよ、だって主人公の太、松本作品の少年キャラクター、いやハッキリ言ってしまえば星野鉄郎にソックリだもん。
演じる山口洋司氏は他に見覚えがなく、調べてみても本作ともう一本ぐらいしか出てこない。まさにこの太のために産まれてきたような特異なキャラクター。
19歳の設定で、確かに成年男子なんだろうが小学生と見間違えられるぐらいの小柄さに、お顔も童顔、この当時でさえも時代遅れだったんじゃないかというような大きなメガネに女の子みたいなうっそうとした髪、劇中8割はランニングに縦じまのトランクスという、貧乏と夏の暑さをこれ以上なく象徴するカッコで、しかも4割はインキンタムシで苦しんでいる。
おまたが赤く腫れあがっている様を見せもする。うわー……それでなくてもこのじめじめした下宿の四畳半、キノコが生えそうな畳(そういや、ラストにマジでキノコ生えていたような)夏の暑さ、風呂に入っている様子がまったくない究極の不衛生さで、そらーインキンタムシもひどくなる一方だわ。ぞぞぞ。
まあとにかく、太は九州から上京してきたんである。働きながら予備校に通い、大学を目指す、という、後から思えば奇跡みたいな夢の計画である。着いた下宿が先述のような具合で、切り盛りする老夫婦はやたら元気でかくしゃくとしたおばあちゃんと、わしゃ知らん何も知らんぞとしか言わないおじいちゃんの組み合わせ。もう最初から怪しげな匂いがぷんぷんする。
お隣さんはいかにもいわくありげなカップル。凄い美人とどう見てもヤクザモンの男。なんとまあ、篠ひろ子と前川清という組み合わせである。篠ひろ子は影のある美女で、なんかいつもロングスリップみたいな色っぽいカッコで、薄幸の色気がダダ漏れである。
前川清というのは驚いたなあ。当たり前だけどめっちゃ若くて、当時のアイドルみたいなパーマヘアが妙に似合う可愛らしさで、単純ですぐに手が出るけどなぜか憎めないのは、彼自身のキャラクターがイイ感じに反映されている。
ヤクザモンというか、落ちこぼれのヤクザという感じで、役立たずの彼はクビ寸前、なんか頭がヨワイのかなあ、網走に収監されるしかない、と思い詰めてジュン(篠ひろ子)に別れを告げて自首するも、「あの人のやったことは、罪にはならないんですって」……なんだそりゃ。一体何をやって思い詰めたんだ……。ちなみに名前はジュリー。ジュリーって顔か!!
太は就職先のあてもなくなるし、前金の家賃ですっからかんになるし、ジュンたちの食べ残しを施してもらって生き延びるような塩梅である。
ジュリー、てか、前川清氏の風体がまた、寅さんファッションのスッキリアレンジというか、白の上下に赤い腹巻っていう……。時折ジュンをトシヨリの温泉旅行の同伴に出かけさせるなんていう小遣い稼ぎをさせなければ、生活が立ち行かない。組にぶら下がっているけれど、ヤクザになれるだけの器がないんである。
ついにはジュンを使ってエロ映画を作って稼がす、なんてことにまで発展し、フィルムに引火して火事騒ぎにまでなっちゃう。
太はこの時、ジュンが必死の顔で、なんでもないの、映画を撮ってるだけだから、とふすまを閉める寸前に顔をのぞかせたその表情を何度も何度も思い返して、なぜかジュリーが許せないと思い詰める。それは何だったのか……何でもない、と言い張る彼女の表情に逆のものを感じたのか……。
一見して悲惨で貧乏な生活だけれど、太にハッキリと言い寄る女性もいるんである。電気屋でバイトした先の、お嬢さんである。何が気に入ったのか……非力な太はそれ以上のドジもかまして早々にクビになってしまうんだけれど、お嬢さんは後々、なんとシャンパンを携えて訪ねてくるんである。
ジュンが気を利かせて、お布団セットを貸し与えるのが笑える。しかも、「汚れないように、シーツの上にこのタオルをかぶせて」汚れる、の意味が判らず問い返す太。
いやいやいや、オメー、ジュリーにジュンの世話を頼まれた時にしっかりヤッたやんか!!……ああそうか、その“初体験”の時は、大人の彼女がしっかり後始末をしてくれたから、その意味が判らんのか、そうか……。
翌朝、お嬢さんは置手紙をして帰っていく。義兄と結婚することになったと(どういう意味だろう……結婚していた自分の姉が死んだとか離婚したとか?)。そまま嫁いで最初にセックスする相手が義兄なのは、不潔な気がしてでどうしてもイヤだ。適当な相手は太しか思いつかなかった。ごめんなさい、と。
……それって、さ。彼女は、太が童貞だと思っていたってことじゃないのかなあ。そしてそれ以上に、あんな書き方はしているにしても、憎からず思っていなければその相手には選ばないよ。
太はこの手紙に相当に傷ついてクサるけれど、後に花嫁姿でこの汚い下宿にやってくる彼女を思うと……やっぱりやっぱり、好きだったんだろうと思う。
その時にはもー、タイヘンなことになってるんだけどね!!どうしようもないジュリーにアイソをつかす形で、ジュンが刃物を振り回して、そしてガスを充満させて、大爆発!!どっひゃー!!みたいな!!
ジュリーは、やっぱどこか、タカをくくっていたんだろう。惚れられてるからね、みたいな。そういうフシは確かに折々感じられた。あんなイイ女なのに。おめー、鏡見ろやと言いたくなるが、ジュンがジュリーにどうしようもなくホレているんだから、本当にどうしようもないんだろうなあ……。
この下宿にはオネエ様方の集団が大挙して入居して大パーティーを繰り広げたりするにぎやかさもあったりして、そうした感慨にふけることに結構なジャマが入るのよね(爆)。いやー、びっくりびっくり、ラビット関根名義時代の関根さんが、まさにラビット関根そのもののフェミニンであやしげなキャラで登場するんだもの!!
彼が率いるオネエさま軍団は、キャストクレジットから察するに、当時の現役の売れっ子オネエ様たちだろうと推測され、当時の風俗をリアルに感じたりしちゃうなあ。この当時からさらに昔の設定だけれど、多分ここだけは、リアルな80年じゃないかって思っちゃうから。
ジュリーには秘密があった。ジュンと出会った頃、組を訪れた彼女が手籠めに合った。その時の写真が、彼の手元に残されていたんである。
組から盗み出したのか、とにかく太の手元に預けられたんだけれど、その重要性をきちんと伝えなかったもんだから、太はその写真に大いにコーフンし、なんかジュンさんに似てるなあぐらいに思い、こともあろうにジュンさんに見せちゃって、彼女がそれを買い取る、と言い張る意味を汲み取りもせず、ジュリーさんに預かったからなあ、なんて言っちゃうんである。
バカ!バカか、お前!!そしてジュンのジュリー殺人未遂、ガス自殺するつもりだったところにタバコの火をつけちゃって大爆発、という、もー、笑っていいのかどうなのよl、という経緯があって、下宿は大崩壊。
警察も介入しちゃうし、その中に例の写真が、まだ隠してあったやつがはらはらと桜吹雪みたいに舞っちゃって、わいせつ物保持だかわいせつ場所提供やらでジュリーにジュン、老夫婦まで引っ立てられてしまう。
そんな騒ぎの中、あのお嬢さんが花嫁姿で現れる訳なんである。ジュンが言うように、彼女はきっと、太のことが本当に好きだったんだろう。結ばれることがないから、処女を捧げたかったんだろう。
でも太は後を追えない。太は、太はさ……周囲のスゴい人生経験に振り回されて、彼自身は何にもできないまま、右往左往してる。そして苛立って、ジュリーを殺してやると本気で立ち向かったりもしたけれど、でも、まだ彼は、何者でもないのだ。それが当時の、松本零士だったのか。
しかしまあ、なんとまあ……。昭和生まれであることを幸福に思うのは、こういう、不自由な幸福の場面を垣間見る時。あがいてあがいて、もう本当にこれ以上上に行けないと思う絶望の中に、ヘンなおかしみや優しさがふいと顔を出して、救い出してくれる。
パソコンもエアコンも携帯電話も何にもないけど、殴り飛ばされ、セックスし、殺しかけ殺されかけ、インキンタムシを移し移され、薬を買う金もなく、パトカーとタクシーがぐるぐる追い掛け回されていつのまに立場が逆転したりし、じいさんは何も知らぬと言いながらエロ写真を一枚こっそりかくしてばあさんに糾弾される。
ばあさんの、「私がすべての給仕をしているんだ。いつだって毒殺できる。」この台詞はシビれた。女が奴隷のように男のために家事をする、でもそれは、男の息の根をいつでも止められるカギを持っているんだ。
フェミニズム野郎の私は、ことに昭和のこの家父長思想に激しい反発心を覚えていたのだが、本当に胸がスッとした。いつでも毒殺できる。しかも、証拠なんて残さずに、頭のイイ女なら出来るだろう。ああ、爽快。いや、やらないしやる技術もないしやる相手もいないけどさ(ああこわ)。
星野鉄郎ソックリの、若き日の松本零士少年は、この後どうなっていくのだろう。あまりにも豊かな人生経験をしたけれども、一体……。★★★☆☆
後から彼が客人として萩原組にわらじを脱いでいたことを知り、なるほどだからこそのフラリと登場なのね、と思う。着流しで剣道はさぞかしやりにくそうだが、この一分の隙も無い大谷清次郎という男の前に三五郎はまるで歯が立たない。
すっかり面目をつぶされたとサカウラミした三五郎は、勝利の美酒に酔いしれていた清次郎と萩原組の若衆たちを闇討ちにしようとするも、そもそも清次郎は浮かれる若衆たちをしり目に全然飲んでなかったし、つまりそういうストイックな男な訳で、訳なく三五郎をのしてしまう。
駆けつける警察、「社会安寧を乱した罪は同罪」などといって、双方を引っ張って行ってしまう。「ヤクザものの分際でナマイキに剣道なんぞかじるから」とまで言われる。ひでー言い様である。
でもこの両方の台詞がなんというか効いていて、逆に良かったのだ。高島組の親分さんが若いながら実にさばけて話の分かる男で、演じるのがなんと、村田英雄!!私の知るあの村田英雄先生をそのまんまつるんつるんに若くしたら確かにああ、村田英雄!!なんかカンドー!!なんかちょっと、三山たけしみたい(爆)。
村田英雄と共に大きくクレジットされていた北島三郎氏はもうちょっと登場を後に待つことになる。剣道大会でちらっと顔は見えていたけどね。
で、ちょっと話は脱線したが、なんたって三五郎が逆恨みしたことがいけないってんで、高島の親分さんが自ら出向いて清次郎を出所させる手はずを整えると、清次郎は、自分だけが出るのはおかしい。「社会安寧を乱した罪は同罪」だといって双方が捕らえられたんだと静かな口調でしかし、強く主張する。この男気に高島の親分さんは感激し、警察のオエラさんも参った参った!と高笑いして清次郎の言うとおりにするんである。
もーこの時点で展開は見えているよね。あのケンカ殺法から三五郎の単純っぷりは一目瞭然だし、逆恨みで襲撃してさえもねじ伏せられて、更に粋な計らいで罪を解かれて、もうスッカリこのにーさんの男気に感服しちゃうだろう、そらあね!というのが判っちゃう。
判っちゃうだけに……多分彼は、そのまま突っ走って、にーさんに迷惑をかけて、悲劇の結末にまで突っ走るんだろーなーということまで、なーんとなく予想出来てしまう、のは、それがこうした任侠映画のある種の様式美でもあるからなんだけれど。
ちょっと面白いなと思ったのは、萩原組に対して高島組が博奕打ちの分際で!!とまず吠えるのね。あれ、双方ヤクザさんじゃないの、ヤクザさんということは、博奕打ち同士じゃないの、と思うのだが、これは時代の変わり目ということなんであろう。
高島組はこの水戸という土地で“水戸鉄道の請負業”を営んでおり、つまりは土建屋さんだよね。なんかしっくりくる。今は違うだろうけれど、土建屋さん=昔ながらのヤクザ屋さんみたいなイメージの時代って、あったよね。
それはつまり、博奕打ち、つまり違法な風俗家業で庶民に恐れられながら肩で風切って歩く、ヤクザから暴力団に移行しようとているところで、そうじゃない道を模索した、仕事としての、人の役に立つ立場としての組という組織っていうことの時代だったのかなあと思うと、かなーり、興味深いのだよね。
実際、高島組の親分さんから、三五郎を弟分にしてほしいことと同時に、これからの時代は交通がバンバン通っていく、その工事を請け負っていく仕事が日本を発展させていく、そういう仕事をしていくべきだと熱く語られて、古いタイプの渡世人だった清次郎はちょっと、雷に打たれたようになるのね。
それというのも、彼自身はもともと結構いいとこのぼっちゃんだったものの、いいとこならではの、民衆を搾取する自分の家の立場、それを当たり前のように横暴にふるまう兄、おろおろする母……みたいなところから、飛び出してきたっていう経緯があったから。
恋人もいたのに、清次郎がそうやってやくざ者になってしまったことで、その話も破談になり、清次郎は流れ者となってこの水戸にたどり着いていたという訳で。
そこでその恋人と再会するっていうのも偶然に過ぎるし、その恋人が今、三五郎と恋仲であるっていうのもあまりにもあまりな偶然である。まー、偶然が物語を進めるんだから仕方ないが(爆)。
剣道大会で優勝した宴の場面で早々に清次郎はそのかつての恋人、お繁さんと再会している。しかして同じ場面で三五郎がなじみの客以上の存在として、彼女と逢瀬をしているんである。お繁さん、小山明子様ですかあ!大島渚監督夫人ですよね??女優としての彼女に出くわす機会はなかなかなかったのでカンドーする。
清次郎と再会したことで動揺したお繁さんは、次に清次郎が訪ねていくと既に行方をくらましている。三五郎を弟分にして土建屋としての第一歩を目指す先を、お繁が向かったと聞いた栃木にし、その途上で久々に生家を訪れる清次郎。
なんでそんなにムダに怒ってるの、ていう兄貴に観客もまたヘキエキしながらも、母親はヤハリ次男坊が可愛いから、こっそりとまとまった金と、その指からきらきら光るダイヤの指輪までも「いつかお嫁さんに」と渡してくれる。
その話の流れで、あの子は可哀想だったねえ、米相場に手を出したんだよ、あんなにかたく商売をやっていたのに、夜逃げ同然で、今は今市に……と聞いて顔色を変える清次郎。駆けつけてみると既にお繁の父親はこときれていた。
危篤の電報を受け取ってこちらに向かっているというお繁と三五郎が偶然辻馬車で遭遇するという、これまたあり得ない偶然を挟み、つまりはお繁さんは過去の男と現在の男の間で揺れる訳だが、そこは鶴田浩二の何ごともぐっと飲み込む男気で、三五郎との仲をしっかと取り持つんである。
で、栃木で工事請負業者として旗揚げする清次郎たちである。しかして一筋縄じゃ行かない地元の組との攻防が何より本作のメインである。
この地元の平山一家とぶつかる前に、まず親分さんの一人娘とインパクトのある出会いをする。まー若くてピチピチとカワイイ藤純子なんである。街頭で勇ましく二の腕をあらわに突き上げて、女性の権利を主張する“婦人矯正会”なる団体の演説を行っているんである。
今の目から見ると彼女の必死さに群がる男たちの軽蔑しきった、野卑な視線と野次がもう見てられなくて、……もしかしたら今もあんまり意識は変わってないのかもしれないとか思いだすと、フェミニズム野郎はキーッ!!……落ち着け落ち着け。
とにかく藤純子のこの登場はインパクト大である。ぺこんとへこむえくぼといい可愛すぎる。純情すぎる。世間を知らなすぎる。
いや……平山親分の、しかも妾の子、妾も数人いたけれど授かったのは彼女一人、という複雑な状況、しかも女の子、というのは、ああフェミニズム野郎、いろいろ想像してしまって、彼女が今、実家から飛び出してこんな運動に参加している気持ちが痛いほど判るーう!!
野卑な聴衆の暴挙から彼女を救ったのが清次郎であった。まさにその時、三五郎がお繁さんの身請けの件で平山組ともめているところに、このお嬢さん、サトの一喝で事が収まる。
しかしてこれはなかなか微妙な立ち位置である。サトは飛び出したとはいえこの土地の絶対的権力を持つ組のお嬢さん、清次郎たちはこの土地で新参者として入り込もうとしている。
サトがこんな運動をしていたのは、父親が遊郭にも関わっていたこともあってのことだった。妾の子ということもあろう……父親は、このキャピキャピサトちゃんに比してはかなりの老齢である。
それなのに可愛い一人娘だから、彼女が懇願する遊郭からの撤退には応じた。しかして、一度、清次郎たちの入札を「談合で決まったから」(そんなハッキリ言うか!)と退け、明らかな不正でヨソモン排除したところから抗争が勃発、てゆーか、三五郎だけで勃発(爆)。
三五郎は確かに従順な素直な子分なんだけど、自分だけで突っ走っちゃって、ダイナマイト抱えて、平山組の工事現場にバンバン発破かけちゃうというムチャクチャさ。それを清次郎が自分の責として、しかし平山の横暴は摘発する形で犠牲になってムショ入りする。
三五郎はそらあ恐縮し、清次郎の過去の女であったことが明らかになったお繁さんとの婚礼も躊躇するんだけれど、清次郎さんの男気でそれもきちんとなされてね。
清次郎さんの仮出所の条件は関東からのところ払いだったし、所帯を持って三五郎に独り立ちしてほしいと願った清次郎は、彼にこの土地を任せて自分は修行の身だと言って東北に身を投じるのね。
その後清次郎さんはしばらく出てこない。三五郎はもうイケイケドンドンで、平山組に忖度することなく仕事をとりまくる。まあそりゃ……平等な入札での仕事の取り合いであり、まさにこれが現代民主主義であり、それを防いで踏みにじられたからこそ三五郎はもう負けるもんかと思い、そして段々……意気揚々というか、慢心に陥っていったというか……。
あのね、劇中では決して、そんな三五郎に対して否定的な描写をする訳じゃないのよ。あくまで三五郎は忠実でまっすぐな男、愛する女房のお腹にも赤ちゃんが宿り幸せ絶頂、でも、平山組との入札に勝ち続ける、つまり地元の組に恥をかかせ続けるというのは、それこそ剣道大会で敵の客人の清次郎に負かされて悔しい思いをした三五郎だったら予想がつきそうなもんなのに……。
忖度、というのは、今の日本ではただただ否定的な響きでしかないけど、ここでの三五郎のあまりの忖度のなさには、そらー、自分を殺せと言ってるようなもんじゃないの、と思っちゃう。日本人、人情、侠客モノならなおさら、お前アホかと言いたくなっちゃう。
その板挟みになるのが女たちである。お繁さんは身重の身体で襲撃に遭い、多分お腹の子供は……。自分の父親のせいでと打ちひしがれるサトは、想いを寄せている清次郎にこんな状況で告白せざるを得ない。「父はどうなってもいいけれど、あなたは死なないで!!」
でもこれは、覆されるんだけれどね。これは、悲しかったなあ。清次郎はすべてのしがらみを自分に恥をかぶる形で断ち切って、たった一人、平山一家に乗り込み、平山の親分と一対一で対峙した時に、サトが、可憐な娘が、バーッ!!と駆けつけて、二人の間に駆け込んで、父親を殺さないでくれと、こんな父親だけど、私のたった一人の父親なんだと、泣いて泣いて、清次郎に懇願するのだ。
おみゃー、言ってることとちがーう!!と思いながら、この可憐な娘の引き裂かれる心中を思うと、辛い辛い、たまらない。
こうやって、いつだって、男の渡世で苦しむのは女なんだ。愛する男、愛する家族、どちらかを捨てろと言われるなんて。その場では決心しても、そんなん、決められる訳ないもの。
サブちゃんのことを言い忘れた(爆)。中盤、清次郎の元に大事なことづけを届けてくる若衆の役だが、もう目がキラッキラで、ああサブちゃん!!ゆっくり浸かったお風呂の中でいい声で一節、みんなが聞きほれ、役目は終わったかなと思ったら、そこに平山一家の襲撃とは!!
サブちゃん、さらしにふんどし姿の、見事なプリプリおけつ姿で敵とくんずほぐれつ、ああ、ぷりぷりおけつばかり見ちゃうーっ。刺されて死亡。それで終わりかよ……。★★★★☆