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「く」


2020年鑑賞作品

グッドバイ〜嘘からはじまる人生喜劇〜
2019年 106分 日本 カラー
監督:成島出 脚本:奥寺佐渡子
撮影:相馬大輔 音楽:安川午朗
出演:大泉洋 小池栄子 木村多江 水川あさみ 橋本愛 緒川たまき 松重豊 戸田恵子 田中要次 水澤紳吾 皆川猿時 犬山イヌコ 濱田岳 池谷のぶえ


2020/2/17/月 劇場(渋谷HUMAXシネマ)
予告編で本作の存在を知った時から、飛び上がって喜びたい気持ちで待ち望んでいた。しかも成島監督と大泉先生のタッグとは!嬉しい!!
そして「グッド・バイ」は、太宰大好きの私にとっては、遺作という以上にもう特別の作品で……。ことに映画やらの他の表現方法で太宰が取り上げられると、そのダーク面というか、なんたって心中して死んじゃった人だし、デビュー作が「晩年」、ヒット作が「人間失格」とネガティブ全開のイメージばかりだから。
でも実際は太宰の魅力はその軽やかな文体と、一見した暗さの陰に隠れたユーモアにこそあり、それがひねくれない形でまっすぐに出て、ワクワクさせたのが図らずも未完となってしまった遺作、「グッド・バイ」だったからさ!未完なのにこの作品が一番好きかも、というファンは私だけではないと思う。

改めて読みなおしてみると本当に序盤も序盤で途切れてしまって、展開部にすら至っておらず、しかしてぐいぐい読み進んでしまう魅力はバツグンで、本当にこの先が読みたかった!とジリジリするような快作なのだが、だからこそクリエイターにとってはその続きは俺が引き受けるぜ!!という欲望にそらあ駆られるのだろう。
これがもともとはケラリーノ・サンドロヴィッチ氏の手による舞台作品であったことを今更ながら知り、キヌ子役はその時から当たり役と言われた小池栄子氏が映画版も続投ということを知るのだが、……田島役が誰だったのか知りたいけれど、やめておこう……大泉先生を抜擢してくれたことが大いに嬉しく、そして見事にその期待に応えてくれたと思うもの。

かなり昔の映画で、同じ原作を題材に、その先を創作したモノクロ作品を観ていて。その先をどう創作したか覚えてないほどピンと来なかったのだが(爆)、感覚として覚えているのは、原作を元にした部分は割と忠実に進んでいくのに、創作部分からガラリとカラーが変わってしまった印象があったんであった。
結論から言うと、本作はそのつなぎ目を全く感じなかった。実際に太宰がこう書いたと思わせるほどに。その軽妙な世界観と、強烈な人物描写、そして、そうか、この結末が観たかったんだと思わせるようなハッピーエンドに、……でも太宰作品でハッピーエンドってあったかしらと思いつつ、いや、まさに新境地の予感しかなかったこの未完の遺作こそ、その可能性は充分にあったと思わせる剛腕なのであった。

実際は、原作で描かれている容貌の描写とは大泉先生も小池栄子氏もちょっと違うのだけれど、これがめちゃくちゃピタリで。大泉先生は仕事はできるが、女に弱いダメ男を持ち前のコミカルとシリアスをブレンドできる特異な能力で演じ切るし、小池氏がピタリなのはなんといっても、その声!!原作で語られる「カラスのような声」を見事に体現し、そして彼女自身の持つ押し出しの強さとあいまって、わぁ、キヌ子だ、キヌ子が活字の中から飛び出てきた!!と思ってしまうぐらい。
素晴らしかったなあ。私ね、彼女が「あらあら、おそれいりまめ」と言うシーン、原作の中でもめちゃくちゃ好きで、その後田島がおそれいりまめ女史と評するのも可笑しくてたまらず、この、田島をタジタジとさせる(シャレじゃないのよ)圧倒的な生命力が、小池氏にピッタリで、そのカラス声もお見事で、もう本当に素晴らしかった。

で、先述したとおり、展開部にさえ行かずに終わってしまった原作だから、舞台になり映画にもなった本作には原作には出てこない人物も描かれるのだが、でもその少ない情報を基に、もしかしたらその先書き進められたらそうなったかもしれない、という人物、人間関係の構築の仕方が本当に、見事で。
一番感服したのは、原作では田島にちょっときっかけをもたらしたぐらいの人物であった作家を、最重要人物に仕立て上げたアイディアである。本当にそう思って登場させていたのかもしれないと思っちゃうほどに、見事。

「探偵はBARにいる」シリーズですっかりコンビ感の整っている松重氏と大泉先生のやりとりはもう、安心して笑って見ていられる。だからこそまさかこの作家先生が田島の奥さんを奪っちゃうなんていう展開には、思い切ったこと考えたー!!と一瞬思ったが、いやいや、太宰がそう考えたかもしれないのはありえなくもない!とか思わせちゃうのが……ケラ氏の手腕なのだろうなあ。
実家に置いたままの本妻がいる、というのは当然、原作でも当然の設定だったけれど、お飾りの設定であり、まさか彼女が実際に出張ってくるとは思わなかった、というのは、女たらしの田島(それは当然、太宰自身につながる。本名とダブらせてる役名からも明らか)の女難コメディという趣であり、そこまではないんじゃないのという気持があったからだが……どっちかだとは、思ったんだよね。

実際にも女難、とゆーか、多情のケがあった太宰が、でも本妻さんのことをやっぱり特別に思っていてほしい、という、なんつーか、女側からの願望っつーかさ……。でも一方で、その多情の中で、本当に本気の相手がいてほしい、それは妻じゃないかもしれないという気持もあって。実際、どっちをとるか、この未完の遺作は作り手側がそんな試される部分もあったんじゃないかと、思ったり。
正直、あまりにも唐突に終わってしまった原作では、キヌ子というキャラクターはただただ強烈で、田島を恐れ入らせるだけの存在で、これを、「一緒にいて楽な、特別な存在」だと結論付けさせるのは、文字上ではアリそうだが、実はかなり勇気のいる創作だったんじゃないかと思って。だからこそ田島を一度死なせちゃうなんていう、思い切ったかじ取りをしたんじゃないかと思ったりして。

そう、暴漢に襲わせて田島は死んでしまったことになる。実際はトラックに顔をつぶされた別の死体と入れ替わっていて、田島自身は殴打されたショックで記憶喪失のまま2年間を肉体労働に費やしていたんである。
この展開を見てる時には、なるほど死なしちゃうのか、それもアリだな、ちょっと悲しいけど、まあ太宰だし、とか思って見ていた。でもそれこそが、太宰ファンの筈なのに、先述したように彼のユーモアの魅力こそ知ってほしいとか語っていたくせに、どこかで世間にはびこる太宰のイメージに安住していたことに気づかされるのだ。まさかそこから一発逆転の多幸感たっぷりのハッピーエンドが待っていようとは!!

原作では娘のことを白痴児と設定しちゃうあたりに、太宰特有の、家族には触れてくれるなみたいな雰囲気も感じなくもない。実際このまま書き進めていたらどうなっていたかは当然永遠に判らないが、キヌ子が本命になるのはアリかもしれないが、妻(と子)は登場していなかったんじゃないかなあ……という気もする。勝手な推測だが。
松重氏扮する作家と田島の妻がデキてしまうというのは最高のアイディアだが、娘への想いこそが愛人たちとの別れを決意させたというのはケラ氏オリジナルであり、原作はただふっと、マトモに立ち返らねばと思ったという、なんか気の迷いのような理由で、それこそが太宰らしいのだから、この点だけは、ヤハリ現代的大衆的な魅力に落とし込んだのだなあと、これは別に否定的な気持ちじゃなく、思ったりするんである。

一人娘だけには、という設定は大泉先生自身のそれを思わせ、まぁその前に舞台版があったんだからアレだけど、なんか大泉さんだったからかなあ……と思ったりもする。
家族愛なんて、子供への愛なんて、照れが大いにあったとは思うが、太宰は決して言わなかった。いや、照れだったのだろう。わざわざ「子供より親が大事」と表現して言うのは、裏返しの照れ隠しの愛情だってことは、判る。でも決して表から言う人じゃなかったから……。

まぁそんなことはどうでもいいのだけれど。しかしてとにかく、まさかのハッピーエンドには心躍る。その前に、田島が死んだと皆が当然思っちゃうんだから、そして2年も経っちゃうんだから、田島をとりまく女たちの集いみたいなのが開かれる場面が秀逸である。
個人的にはそのはかなさを思いっきりコミカルに昇華した、そしてこれはまさに彼女にしか出来ない緒川たまき扮する青木女史が大好きである。新進画家の橋本愛嬢も、か弱そうに見える中に女の意地を見せる強さが良かったなあ。

原作では腕っぷしが強いという設定しか付されない彼女の兄に、キョーレツそのものの皆川猿時氏を配し、田島にフラれた青木女史を支える後釜という立ち位置を付す。彼も勿論そうだが、田島の愛人たちが、ただただ彼にフラれるか弱き立場の女たちのまま筆が折られてしまったのを、見事なしぶとさずぶとさで生きながらえさせ、田島を震撼とさせるのが何より素晴らしいのだ。
無論、太宰自身がこの先どう筆を進めたのかは判らないが、その可能性は大いにアリだと思っちゃう、のは、女に弱い優男とゆーのは逆説的に、女にやり込められたいマゾヒスティックなイメージも、確かにあるからさ。そこには、か弱き女を愛しながら、その女が実は男よりずっと強いんだということを、当然彼自身知っていて、そのねじれた劣等感と優越感の間で恋愛していた感というのが、いかにも太宰的な気がしてさ。

田島の妻であり、田島が編集長を務めていた文芸誌のお抱え作家とそーゆー仲になってしまったのが、木村多江。薄幸、はかなさ、でも彼女は実はコメディエンヌの才能が素晴らしいと言うのは、それを見抜いたからこそのウッチャンのヒロインもあった訳だし。はかなさをむしろ武器というか仮面というか、騙しのテクニックにして、こんな強い女はいないんだと。
津軽の女、その訛り、ラッセラーとはじけて踊る場面さえ用意されるのは当然、太宰へのリスペクトであるキャラ設定であるだろうけれど、対照的に一見強い女にしか見えない(実際強いんだけど)キヌ子が、実はとても情に厚くて、ひそかに愛していた田島の墓を、借金までして、めちゃくちゃ巨大なのを(笑っちゃうぐらいデカい)建てるとか、妙にけなげで、そういう女の強さ弱さのギャップというか、見せ方の緩急が見事で。

本当に切れ目なく、太宰が書いたまんまのように楽しめて、あらためて彼はどういう結末を用意していたんだろうと、思ってしまった。
これからだって、なんたって未完の遺作なんだから、違うバージョンのものが作られたっていい訳なのだが、なんかこれ、成功しちゃったかもと思っちゃったから……判らないよ、判らないけど、この後は作りづらいだろうなあと思っちゃったから。★★★★☆


クローゼット
2020年 95分 日本 カラー
監督:進藤丈広 脚本:澤田文
撮影:田島茂 音楽:桃井聖司
出演:三濃川陽介 栗林藍希 新井郁 尾関伸次 永嶋柊吾 篠田諒 宮下かな子 中込佐知子 渡部遼介 青柳尊哉 中村祐美子 水島麻理奈 碓井玲菜 門下秀太郎 工藤孝生 安野澄 枝川吉範 飛磨 井上賢嗣 白畑真逸 正木佐和 草村礼子 渡辺いっけい

2020/11/6/金 劇場(テアトル新宿)
実際あった「私の人生、もう詰んだ。」と言い残して歌舞伎町のビルから飛び降り自殺した、という事実をテーマの一つに選んでいるんだという。
それを考えると、そうなりかけて、実際は生きづらさを抱えているもう一方の主人公の青年と共に、解決方法は見つからないままであっても、死なずに、自動販売機にもたれかかって朝を迎えた結末は、きっと希望をもたらしているんだと、思いたい。

しかも孤独の夜から朝を迎えている。ベタな言い方かもしれんが、明けない夜はない、という言葉を思い出すのだ。時には、死を選ぶほど辛い思いをしている人たちに対して、それを阻止する権利は誰にもなく、死を選ぶ自由さえ与えられないのかという議論も頭をかすめるし、自分自身が踏み込んだことのない領域だからこそ、はっきりとした結論を持つことは本当に難しいのだけれど……。

これは二人の主人公がいる、と言ってしまっていいのだと思う。一人はジンという“キャスト”名で添い寝屋として働いている青年、佑。もうひとりは新潟から出て来た女子大生でホストとの関係を恋愛と思い込んでしまっている七海。
いや一応、キャストの並びでは佑がワントップで主人公扱いなのかな。七海は彼の客の一人であるわけだし。でもラストが特に、そこまでの展開を思っても、やはり彼女を主人公の一人に数えたくなる。

佑の現在と過去はジグザグに交錯する。最初のうち、彼に何が起こったのかはなかなか判らない。ただ、現在の時間軸で彼は、たった一人東京の片隅に、何の目的もなく、ガヤガヤとした居酒屋に身を潜めていて、その彼を学生時代の先輩である高木が見つけ出したこと自体が奇跡のように思える。
高木は終始一貫、明るく前向きなキャラクターで押し進めているし、産まれたばかりの子供の写真を待ち受けにして親バカ丸出しを隠そうともしないのだが、そもそも添い寝屋として起業している、そしてオーラを消し去っていた後輩の佑を見つけ出したという点だけでも、きっとこの彼にこそ、なにがしかの孤独の展開があったんじゃないかと勝手に想像してしまう。

オチバレで言ってしまうが、佑がまるで死んだようにこの大都会の片隅に身を潜めているのは、愛する彼女との結婚目前にバイク事故を起こし、男性機能不全の障害を負ってしまって、つまり、セックスも出来ず子供も作れない、結婚話が白紙になってしまったんであった。
……正直フェニミズム野郎の私としては、いまだにこんな理由で壊れてしまう日本という貧弱な社会なんだよなと思うし、そんな価値観というか、教育という名の洗脳をされているんだと思う。

彼女の方はショックを受けながらも佑と別れたくない雰囲気だったのに、彼の方こそが……これはそれこそ、悪しき日本的、いや全世界的かな、男が勃起できなくなったらおしまいだ、みたいなさ、そーゆーマッチョな思想がやっぱりいまだにあって……彼はもう壊れちゃって、別れを一方的に押し付けて、東京に、出て来たんであった。

これまたかなりオチバレで言っちゃうと、そんな佑が出会う様々な客の中に、男性機能はあるだろうけれど子供を成すことなど出来る筈もない、ゲイの男性がいて、しかも彼は愛するパートナーを失ったばかりである。
しかもこんな日本社会だから、その存在すら、伴侶という意識だけれど公的な意味でのそれとして認められてなかったパートナーは、まるで最初からこの世に存在しなかったかのように、二人の関係が誰にも知られず、この世を去ったと、言うんである。

この問題はまさに、遅れに遅れた今の日本社会においてようやく叫ばれ始めている問題であり、子供を成す能力がなければ結婚、家族というパートナーシップさえ認められないという残酷な社会を痛烈に批判する。生産性がない、と発言した政治家さえいた。
佑は自分だけが不運に遭って、“こんな目に”遭ったと思っていたけれど、最初からその“不運”に見舞われている、それでも誰かを愛したいし、生きて行こうとする人間に出会う訳なんである。

殊更に語る訳ではないんだけど、この男性が、実は有名なデザイナーさんなんだけれど、ぐっと年下の、こんどこそクローゼットではない恋人を、生涯の伴侶として“公開結婚式”という思い切ったやり方で“この世に存在している”パートナーシップとして紹介しているテレビ番組を、佑は感慨深げに見上げるのだ。あの、いつも入り浸っている喧騒たっぷりの居酒屋で。

そして、佑の客の一人である七海である。新宿でホストのマサトに言葉巧みに声をかけられた時から危なっかしさ満載だった。同じ新潟の長岡出身だなんて、口から出まかせに決まってる。いつか一緒に帰ろうね、だなんて、本気で彼女はそれを信じていたんだろうか。
ネット社会の今や、トーキョーのホスト事情なんて簡単に手に入る。七海がそれを知らないほどのおぼこ娘とも思えない。それなりにあか抜けた女子大生スタイルだし。でも……これも寂しさ、なのだろうか。そんな単純なことで??マサトと会うことが出来るのは店だけなのに、そこがデート場所だとでも思っていたのか。まさか。
マサトにつぎ込んだ数百万を、マサト自身が彼女に言わなかったのは、まさか、判ってるだろ、ということだったのか。でも……明らかに恋愛相手みたいな振る舞い、それがホストの手だということは判っているけれど……。

判りやすく、七海はおっこちる。フーゾクを紹介される。七海はそれを、マサトのためだと思って励む。
思ってというか、自分に言い聞かせていたのか、ホントに判ってなかったとしたら、そんな世間知らず、今どきいるのかと思う。いるのかもしれないけど……。しかしもうどうしようもなくなって、ヤバい仕事をマサトから提示され、躊躇するとキレられ、ようやく現実に向き合うことになるのだが……。

その間、佑にも様々な客との出会いがある。すっかり冷めきった夫婦関係、世間体だけで保っている冷たい夫に見せつけるように佑を呼んだマダム、ぐっと年下の後輩に恋心を打ち明けられない三十路(若い若い!)の派遣OL、冒頭の、「私、セックスしたいんです!!」とドーン!!と抱き着いてきた重量級の女の子のせっぱつまり感も印象的だった。
そして……何より心に刻まれたのは、名優、草村礼子、なんである。

異例の48時間。二日間タップリ。イヤがった同僚から代わって受けた仕事だった。そもそも佑は他の同僚たちのホスト感覚と違って、この仕事の性格上セクシャルなことがご法度だということが、かえって彼のコンプレックスを慰めてくれたことも大きかった。
おばあちゃん、といった感じの山村さんは、添い寝ではなく、看取りをしてほしい、と言ったのだ。おっと、自分を看取ってほしいのかとビクリとするが、それもまた巧妙だったよね、と思う。

彼女がタオルにくるんで差し出したのは、あれは、イグアナ……?違うかな、かなり茶系だったから、とにかくトカゲ系の爬虫類。引きめで映すのでしばらく何を差し出しているのか判らず、なんかペニスみたいに見えて(爆)、やっば、アベサダ、いやいやだって、佑が男性機能不全で苦悩してたりしたからさ!!

夫に先立たれて、その夫が拾って?きたのだという。最近元気がなくて、死んでしまうかもしれない。一人で看取るのが怖いから、というのが佑が呼ばれた理由であった。
爬虫類はそれでなくても動きがニブいので、元気がなくなった、というのがピンとこず、てゆーか、そのあたりがまさにミソなんであった。

山村さんは、自身判っていたのか、本当にこのコが死にそうだから一緒にいてほしいと思っていたのか。翌朝、冷たくなっていたのは山村さんの方、だったのだ。
その前夜、まるで久しぶりに帰ってきた息子を歓待するかのように家庭料理をふるまい、佑もまるで実家に帰って来たかのようにリラックスしておいしいご飯を頂き、“死にそう”な爬虫類君を挟んで川の字になって、眠りについたのだった。
なのに翌朝、爬虫類君はごそごそ動き回って、めっちゃ元気。あれっと思って佑が山村さんの頬に触ってみると、冷たかった、のだろうなあ……。

佑は同僚から共同独立の話なぞも持ち掛けられていたけれど、そんな野心はなかった。ただ、山村さんの件がかなりのきっかけとなったのか、添い寝屋から“卒業”することにした。この先は、判らない。ただかなり、スッキリとした表情をしていた。
その先に遭遇する、スッキリ出来てないのが七海。いわば彼女は添い寝屋としての佑を育ててくれた女の子。本来ならキャスト名だけでビジネスとしての関係性なのを、あっけらかんと本名を聞き出し、佑自身の心のシールドをとっぱらう。

だけど、この添い寝のキャストと客の関係でしか、なかった。深い部分で突き詰めていたのに、それが不思議だった。
最初にこうやってぐっと近づいた後は、それぞれになかなかにキビしい展開が待っている。それぞれにもうどうしようもなくなってから……佑の方はそれなりに清算を見てからだけど、七海の方は、もう生きるか死ぬかの状態で、佑と再会した。

私は基本的には、男より女、いや違うな、男の子より女の子の方が強いと思ってる。それを描くクリエイター側の心持をだから、ついつい図ってしまう。はあ、コイツは女の方がか弱いと思ってるな、とか。
本作に関してはそんなフェミニズム野郎な気持ちをついつい感じてしまう場面が多かったし、このクライマックス、てゆーか、七海のキャラ設定そのものにそれは感じてしまったかな、という感じはする。

ただ……先述したように、死なない選択にしてくれたことが本当に良かったと、思って……。ホストに貢いだ金が300万。でもそれは、300枚の万札に過ぎないのだ。物理的な紙の印刷物。それで死ぬとか、バカらしい。
歌舞伎町で同じような運命に沈んでいる女の子、同僚でもなく、単なる通りすがりの子が声をかける。「ウリもやってるんでしょ?可愛いんだし、すぐに返せるよ」
余計なことは言わなかった。自分も苦労してるとか、こんなことで死ぬことないとか。それがグッときたのだ。このシークエンスでこそ、七海が目覚めてくれたら良かったのにと思ったが。

自殺寸前を佑が止めて、てゆーか、七海がすわ、自殺するという映像を佑が目に焼き付けて、でもその次のカットでは、二人、自販機にもたれかかって居眠りをしている。
冬の寒さをしのいだ、新潟時代の七海が家出した時のエピソード。二人、先行きは何にもない、決まってない、ただ漕ぎ出しただけだけど、でも、死んでない。漕ぎ出していくのだろう。★★★☆☆


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